よると窓辺

 私がはじめその病室に通された時、弟には似つかわしくない部屋だと的外れなことばかり考えていた。ピンとはった白いシーツから控えめに覗く弟の白い腕には、さも当たり前かのようにゴムの管が取り付けられていた。病院に備え付けられているベッドというものはパイプベッドが常なのだと思っていたが、存外どっしりとしたものである。
「立派な部屋だね」
 朝彦の発音するりっぱ、という言葉を頭の中で反芻する。
 ちがうの、この子は小さい頃からあまり広い場所が、どちらかと言ったらこぢんまりとした場所がすきで、と口を開きかけてゆっくりと閉じた。頼んだところで弟はどのように新しいベッドに運ばれるのだろうか。抱えられた弟の、宙ぶらりんになる腕の白さが脳裏にいつまでも残った。
「・・・うん」
 弟の複雑な病名を聞いたとき、嗚咽を漏らす母の肩を抱きながらひどく安堵した。ちいさい頃からよく眠る弟だった。母親も父親もそのことをよいことだと優しい顔をしていたけれど、私は弟がいつぱたりと目覚めなくなるかをずっと考えていた。そんな風に目覚めなくなるのはもしかして世界中で私の弟たった一人なのではないかと小さな傷がじゅくじゅくと膿み広がるばかりだった。
 おねえちゃん、こわいゆめみた、と目をこする弟の手を握るたびにまだ私はこの小さな男の子の姉でいられるのだと、ただそれは今日限りなのかもしれないと、心臓が紙の毬のようにくしゃりとつぶれそうだった。
「眠ることは怖いことだから、あんまり眠ってはだめよ」
 まくり上げた布団を固く握りながら、隣で眠っている両親に聞こえないように小さく告げる。弟の柔らかい手を握っている手にも自然に力が入った。唇をきゅっと噛む。ぽろぽろと静かに泣く弟はこくこくと頷いた。

「今、何て」
「弟の、病気の名前」
 朝彦が深刻そうな面持ちでゆっくりと時間をためてから私の顔を覗き込んだ。おそらく朝彦は弟の名前も知らない。
「弟さん、早くよくなるといいな」
 弟のことを何一つ知らない人にとってその病名は弟を支配する弟そのものであった。コイビトのビョーキの弟。けれど、それでも良いと思った。前例がありません、とさ、最善は、と医者が吃り、ベッドを何度も白い腕が行き来することはなく、お任せ下さい、とマニュアル通りの処置が施されていくのだ。弟の代わりの病名があってよかった。
 朝彦にもお兄さんがいたはずだ。朝彦の兄弟に、例えば欠けた部分があったとして、そうしたときに果たして私は名前も知らないコイビトの兄を愛せるだろうか。片足を失った朝彦の、兄。失われた足の形をつま先から太ももの付け根までを時間をかけて想像した。
 ふ、と体を入念に洗った日のことを思い出す。
 私は裸足のままとおくとおくの海まで歩いていく。やがて息が続く限り沖に泳いでいったあと、上下する胸をずいぶん時間をかけてなぐさめながらぷかぷかと水平線の上で仰向けになる。そうして心許なくまたたく星を飽きるほど数えていると、海水をたっぷり含んですっかり重くなった服がするすると私からはぐれていく。私もそれに続くように、ゆるやかな浮上を何度かくりかえしながら海の底へと向かっていく。
 しだいに耳や口や鼻のなかに夜の海水がぐんぐん流れ込んで、私のぶよぶよとした内臓ややわらかい脳は夜で満たされる。しまいに血液までもが満たされた時、私はきっと、すでに海底に背中をゆったりとうちつけゆらゆらと、とおくとおくの海面をじっとながめる。
 そのうち、静かな夜の海で私はちいさな生き物に痛みもないままゆっくりと、たしかに分解されてゆく。つま先から頭のてっぺんまでじっくりばらばらになって、さいごはひそやかな海の中で私の鼓動の音だけがとくとくと息づくのだ。
 あるいは、静かな雨が降った次の日のことを思い出す。
 雨にさらされて心なしかしっとりと濡れた外履きをひっかけて、みずみずしい芝生を無遠慮に踏みつける。その先にある収穫を終えたやせっぽちのトマトときゅうりの苗木のとなりで私はずぶずぶと豊かな土のなかに沈んでいくのだ。ちいさく角ばった砂利が爪に入り込んで、ざらざらとした感覚がかたく閉じたくちびるをこじ開ける。睫毛の間がびっしりと細やかな土で満ちた時、てのひらの下でひっそりと眠る幼虫とともに呼吸をとめる。
 呼吸がとまると、心臓が止まって体中の血液がとどこおる。そうやっているあいだに、てのひらの中にはいりこんできた幼虫が私のやわらかな皮膚を食み始める。ぷつり、と皮膚が裂けて私の組織がそこからあふれだす。組織が私からすべてこぼれてしまうと、あとはしっかりとした骨だけが私のかたちをとどめたまま残る。それも何日かの摩耗に小さくとがった白いかけらとなって土の粒子のなかに紛れ込むのだ。あとはもう、地面のふかくふかくのやさしい振動と、それにともなう音にしずかに耳をすませるだけだ。
 どちらにせよ、もう水の中や土の中に完璧に溶け込んだ私を見つけることの出来る人などただのひとりも居ない。おそらく弟はそうやってじっくり確実に水や土の中に溶け込んだのだ。
 朝彦にそれを話せばきっとぱちぱちと瞬きをしながら、そっかあ、と笑ってくれるだろう。私だってそれが目を瞑っている間に起きてしまえば弟のようにどっしりとしたベッドに抱えられて難解な病名を付けられるのかもしれないけれど。彼はそれをどう受け止めるのだろう。
 弟の眠っている病室から離れていくのを助手席の揺れで感じる。FMラジオの軽快な音楽がトンネルに入ってぶちりと途切れる。瞼の重さに耐えられない。
「ねえ、なんだかすごくねむくて。ごめんね、少しだけ眠ってもいい」
 出口まで後100mを切った頃、朝彦の声が遠ざかり瞬間人肌程のあたたかい茫漠がふくらんだ。

 私はアパートの、重くて白い金属の扉の前に立っていた。インターフォンは壊れて音が出ない。ドアノブは私の指先と同じ温度をしている。
 ごく自然な動作でゆっくりとドアノブを回して、その隙間にするりと体を差し込む。蝶番はひどく大きい音をあげたが扉が閉まり切るときは驚くほど静かだった。すこしくたびれているパンプスとつま先が細く伸びたぴかぴかの革靴、つちぼこりに塗れた外履、底が木でできた突っ掛けがかかとを合わせてきっちりとならんでいる黴臭い玄関。突っ掛けの隣に24.0cmのウエッジソールを控えめに並べる。
 足裏のストッキングに多少の引っ掛かりを感じながら足を進めるとすぐ台所に行き着いた。
 火のついていないガスコンロには表面のくすんだ鍋がぽつりと置いてあった。ガスコンロは黒い油がべっとりと張り付き固くなっている。壁に新品のティファールのフライパンが掛けてある。台所の片隅では萎びた人参が買ってきたまま薄いビニールに入っていた。点々と錆の浮いたシンクの淵をゆっくりとなぞった。北欧調のキッチンマットの柔らかさが優しく足裏をなでる。
 丁寧に研がれた包丁で茄子に初めて刃を入れた時の感触が残ったままの掌に優しく触れる。ここがどこかは初めからわかっていた。
 私がこういったものたちをきちんと捨てることができたなら、今度はうまく伝えられるだろうか。
 きちんと、と声に出してみる。
 朝彦が怖かった。
 彼の、ひたむきな言葉を喘ぎ喘ぎひとつずつ飲み込む。
 私の中に生まれた感情はべつのいきもののようであった。そのあかんぼうはいつまでも私の内側から出ていくことはなく、そのままじくじくと静かに腐っていく。白く重い扉を開けずともその内側のものを整理できるあの人たちの目に、この赤ん坊はどう写っているだろうか。 
 ほとんど力の入っていない腕でも隣の部屋に続く扉は簡単に開いた。どっしりと構えた勉強机で圧迫された部屋の隙間に夜が来る直前の赤い光が充満していた。咄嗟に手の甲を目にかざす。
 指の隙間から覗く弟の形をした影と向き合う。
 その影は何も言わずに指を柔らかく握った状態で手をこちらに差し出した。私は何の疑問を持つこともなくその手のうちがわにあるものを受け取る。それは弟が指を開いた瞬間、溢れてしまいそうで私はいそいで指を閉じた。
 くしゃりとした感触が掌に伝わる。
「もみじ」
 顔の中心にぼんやりともやの掛かった弟がぽつりと、つたない口調のまま声をあげる。アイロンのかけられた白い白いYシャツの袖から伸びる腕には管は見当たらない。まだ糊がかかったままの襟元をぼんやりと見つめる。
 迷いを帯びた指先が手を開くことをゆるやかに拒んだ。私の中でいま、ただひたすらにうつくしい赤が彩を放っているのだろうか。私は指を開ききる瞬間、たまらずに目を固く瞑った。部屋に差し込む西日がまぶたをとろりと溶かす。
 薄いまぶたの向こうで猫が鳴いた。
 にゃあ、という声を聞くたびに腐ったあかんぼうがしくしくと泣いて、下腹部がきつく痛む。
 弟から受け取ったものが、紅葉でなければ良いと思った。
 私はこの狭い部屋からでられるだろうか。
「おねえちゃん」
「うん」
 猫が私の足元をするりと撫でる。
  帰っておいで、という言葉は嗚咽に飲み込まれた。
 きっとこの猫をにがすために窓を開けられないうちは、私はずっとこの場所でえいえんにつづく部屋の扉に手をかけることしかできない。
 本当は、こんな滲んだ世界では青い鳥なんていらなかった。たったそれだけのことを濡らそうとするから、手汗で冷えた指先を解く羽目になったのだ。
 どうか覚えていられるように、これからは覚えていけるように部屋の輪郭をどうにかつかもうと小さく弟の名前を呼んだ。

よると窓辺

タイトルはまだずるずるなやんでいます
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よると窓辺

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-03-19

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