レスリト・オミホール
レスリト・オミホール
ヤバン市の帰国童子として並びない名声を誇った有名人。その生涯の大部分を『大脱出運動』に捧げる。これは、オミホールの母体社会であるエーチンカ民族のアラユカ大陸からの脱獄を意味する。エーチンカ民族およびオミホールが目指した楽園こそが、新血界だったことは良く知られているが、たどり着いたものが、3割に満たないと言われている。
だが、アラユカ大陸でのエーチンカ法(正式名 分離民族放棄法)によって、まさにエーチンカの血が絶えようとしていたので、今なおアラユカに同化した旧エーチンカの子孫からは、英雄視されているオミホールである。
彼の一番有名な言葉は決して民族的でない響きだ。
『新血界に未来を見るものは、単純な美学を追究するものではない。生の極限を可能とするものたちだ。人生を賭けるように、ニューブラッドワールドにかけるのだ』
この言葉は、オミホールの立体文書に残されている。立体文書集第6巻『ガーリック・テドリア』に、この言葉が書いてある。それをトラニキア人の指導者バブレア・マッキーシーが引用したことから一気に有名になった。
当時の帰国童子が立体文書を創るのは、かなり金銭が要求されたらしいが、オミホールには、巨大な財界パトロンがいた。マルコーゼ派インジニア教主ジンデク・パラノール。当時パラノールが自由に動かせるお金は、1ガランほどであったというから、桁違いに大きな額だ。アラユカの1州ガーニリアの年間予算に匹敵する。そのパラノールのお金によって、オミホールは立体文書を自由につくり続けた。
アラユカには3人の帰国童子がいたが、オミホール以外の帰国童子は、二人とも自殺している。ジョニク・ラザリーナとプルニック・シャルキーの二人。二人は周囲の過剰な期待に押しつぶされるようにして、亡くなった。正確にいうと、ラザリーナは薬の飲み過ぎが原因といわれているが、実際は自殺だったと残された日記からもうかがえる。
二人と当然のように親交があったオミホールにとって243才のときにシャルキー、420才のときにラザリーナを亡くして、ヤバン市から一時的に消息不明になっている。このことが、バザル・クー(浮遊新聞)で空から届けられ、人々の大きな噂の種になったといわれている。オミホールの支持者は、二人の墓参りに行ったといい。オミホールを嫌いな人は、ただの偶然だ、と強く主張した。
結局、オミホールは、墓参りを最後まで認めなかった(というのも、墓と生の分離を目指していた生美原始運動を2世紀才頃からはじめていたので)。
オミホールの伴侶は、32人公式にはいる。立体文書6巻の題名になったガーリック・テドリアもその1人である。オミホールは当時、ゲイだったが、3世紀才のあたりで、ヘテロに変化したという記事もある。だが、多くの人間は彼をバイセクシャルと認めていた。
そして、その一方で、ついに新血界の場所を明かさなかったという理由で、3度裁判にかけられている。その一つが有名なバランナ夫人が子供とともに新血界に移り住んだ後に、元夫が子供の親権を求めて争った事件である。
当時、新血界は、多くの人が知っていたが、まだ場所も行き方もわからないままだった。当時の最高捜査機関とうたわれた『ATR』も、公式に何度も新血界は存在しないと発表するくらいだった。
オミホールの死後、123年目に新エーチンカ人の冒険家、シャリア・クリムナルトが新血界を見つけた。
『そこは、確かに楽園だった。他の大陸の人間が失ったものが全てあった』とシャリアはインタビューで述べている。
新血界というのはオミホールが独自に築き上げた完全な一個の亜空間だった。それは、オミホールの書斎跡にある1本のバルタザールペンの中にあるカドウゾという液体に触れることによって進入できる世界だった。
だが、新血界の人間は、シャリア・クリムナルトが入ってから、さらに鍵という防衛システムを強化したために、誰も入れなくなって300年がたった。上席研究機関において、カドウゾの研究は進められているが、未だに解明にいたっていない。
この液体は、オミホールが発明したのか、もともと存在した物質なのか明らかでない。オミホールの死後、エーチンカ人の復興運動がおこったが、すでに純粋なエーチンカ人は、いなくなっていた。
レスリト・オミホール