メビウスの輪

星 陽月

妻の浮気を知った中沢は、妻の殺害を決意しする。そして、中沢はそれを実行し、妻の首を絞めて殺害した。だが翌日、山林に埋めたはずの妻が、生きていた!その日から、妻を毎日殺すことになる中沢だった! 

     メビウスの輪

                               星 陽月


 殺してやる――
 中沢はそのとき、胸の中でそう呟いた。
 それは、妻の礼子と夕食を摂っているときのことだった。
「ねえ、知ってる?」
 食卓につくなり妻はそう切り出すと、ワイドショーで話題にされたという芸能人のスキャンダルを話しはじめた。
 妻は決して、そんな話題に興味があって話しはじめたわけではない。
 むろんそれは、夫婦のコミュニケーションを図ろうとしているわけでもなく、妻がそうするのは、ただたんにうしろめたいことがあるからに他ならない。
 特別な日でもないのというのにステーキを焼き、デカンタに移し替えた赤ワインが用意されているのも、そのうしろめたさを隠そうとする心の現われだ。
 テーブルの上には、花瓶に挿した花までが飾られている。
 そうまでして妻が隠そうとしていることとは何なのか。
 中沢はそれを知っている。
 知っていながら、だが、いままで一度として問いただしたことはなかった。
 そうしなかったのは、何も問いただす勇気がなかったからではない。妻を、心から愛していたからだ。
 そう、愛していた。狂おしいほどに。
 だから今日も、中沢はいつもと変わらない態度で注がれたワインを手に取り、妻とグラスを重ねた。
 そこまでは、いつもと何も変わらなかった。
 だがワインを口にしつつ、興味もない話を饒舌にしゃべりつづける妻の唇を見ていて、ふいに中沢の中に狂気が走った。
 それはまぎれもなく、殺意だった。
(殺してやる!)
 呪を唱えるように、もう一度その言葉を胸に刻むと、中沢は異様なほど血が沸き立つのを感じた。
 それと同時に、悦びともつかぬ感情がこみ上げてきて、思わず口端がつり上がった。
 それを悟られぬように顔をわずかに伏せ、殺意を胸の裡にそっと潜めながら、妻の唇からこぼれ出る話に聞き耳を立てているふりをした。
 そんなことなど知る由もない妻は、ふと、しゃべるのを途切れさせると、肉を口へと運んで咀嚼した。
 赤く蠢くその唇に猛烈な嫌悪感と怒りをいだき、それでも中沢は視線をそらすことができなかった。
 だが、かえってそれが、胸に潜めた殺意を燃え上がらせた。
 妻は咀嚼した肉を呑みこむと、話題を変えてまたもしゃべりはじめた。
 肉の脂でてらてらと光る唇は、まるで醜い生き物のようだ。
 その唇を見つめている中沢の耳には、もはや妻の声は聴こえていない。
 彼は想像していた。妻の唇がその動きを止め、血の色を失いつつ干からびて、しだいに腐乱しながら爛れていくさまを。
 口にしたグラスを置くと、中沢は肉にナイフを入れた。
一瞬、そのナイフを妻の喉に突き刺す光景が脳裡に浮かんで、肉を切る手が止まった。
とたんに、殺意が手へと流れていくのがわかった。
「あなた、どうかした?」
 妻のその声は、中沢には聴こえていない。
「ちょっと、あなた」
 すっと伸びてきた妻の手が、ナイフを持つ腕に触れてきたとき、中沢はやっと我に返った。
「なんだ、どうかしたか」 
 狼狽に揺れる眼を妻に向ける。
「それはこっちの台詞よ。あなた、大丈夫?」
「大丈夫って?」
「だって、とつぜん笑ったりするから」
「笑った? 僕が?」
「そうよ。それも、ナイフをジッと見つめたまま」
「――そうか……」
 自分では抑えていたつもりが、気づかぬうちに殺意への狂気が表面にまで溢れ出していたらしい。
 ナイフを持つ手がかすかに震えている。
 中沢はナイフを置き、その手でグラスを取るとワインを飲み干した。
「なにかあったの?」
 妻が心配そうに訊く。
「いや、なんでもない。ちょっと疲れてるだけだろう」
 動揺を隠し、中沢はそう言い繕った。
「それなら、少し休んだほうがいいんじゃない?」
「平気だよ。それに、せっかくのステーキが冷めるじゃないか」
 中沢は改めてナイフとフォークを手にした。
「でも、無理はしないほうがいいわ」
「ほんとに大丈夫だから」
「そう。ならいいけど。だったら、もう少しワインを飲んだら? リラックスできるわ」
 見え透いた気遣いだ。そう思いながら中沢は、妻が注ぎ足したワインを口にした。
 妻は、それでほっとしたのか、何事もなかったかのようにおしゃべりを再開した。
(それにしても、よくしゃべる女だ……)
 中沢は辟易とした。
 それほど、うしろめたいことを隠すのに必死というわけか。僕がそのことを知っているとも知らずに。
 妻の唇は忙しなく動いている。
 これが、僕の愛した女――
 美しい妻がそこにいる。
 僕はこの女だけを愛してきた。狂おしいほどに愛し、そしてすべてを捧げてきた。
それなのに――
 僕の心はのたうち、傷ついて、愛は憎悪に変わった。この女の裏切りとともに。
 そうだ。この女は僕の愛を、想いを、いともたやすく踏みにじったのだ。
 それでも、中沢はずっと耐えつづけてきた。憎悪をいだきながらも愛を傾けてきたのだ。そうすればきっと、以前のように自分を愛してくれると信じて。
 その妻に、男の影を感じるようになったのは半年ほど前だ。
 それを意識させたのは、ベッドの中で伸ばした中沢の手を、さりげなく拒んだ妻の手だった。
 いや、それだけではない。そのとき、妻の首すじからは、かすかながらに男の匂いがした。中沢はそれを確かに嗅ぎとった。
 男の影は、彼の中でどす黒いしこりとなって蔓延(はびこ)り、だからなのか、それからというもの、妻が日に日に変わっていくのがわかった。
口紅の色が変わり、メイクが映えるようになり、ヘアスタイルが優雅になっていった。
 そして何よりも、妻は艶かしい美しさをその身に纏うようになった。
 それは間違いなく妻の裏切りに違いなかった。
 心から愛し、信じていた妻の裏切りは、中沢に堪え難き屈辱と哀しみを植えつけた。それでも彼は平静を装い、それまでと何ら変わらず妻に接した。
 とはいえ、妻が裏切っているという確証はなかった。それはあくまで中沢の直感がそう言っているのであり、その現場を目撃したわけでも証拠を摑んだわけでもなかったのだ。それだけに、ただの思いすごしであってほしいという気持ちも少なくはなく、彼は事実を確かめようともした。
 興信所に依頼しようと考えたことも、一度や二度ではない。実際に足を運んだことさえあった。それでも、いざ興信所の前まで来ると、その先へ踏み出すことができなかった。事実を知りたいと思いながらも、それを知るのが恐かった。だから中沢は、事実を確かめる決断がつかないまま、興信所をあとにするしかなかった。
 中沢は妻を信じようとした。愛するがゆえに、妻が裏切ったりするわけがないと信じたかった。
 だが、そんな中沢の想いが届くわけもなく、妻は日ごとに美しくいき、そしてその美しさは彼のためのものではなかった。
 中沢はひとり苦しんだ。問いただすこともできずに月日だけが流れ、妻が美しくなっていくほどに、彼の心は憎しみに囚われていった。
 その苦しみを、妻は知る由もない。
(この女はだれだ……)
 時おり、妻は微笑みを向けてくる。その微笑みが、偽りだということもわかっている。なぜなら、身ぶり手ぶりを交えながら話す妻の眼は、僕を見つめていながら見ておらず、その瞳に僕の姿は映っていなかった。
 何もかもが偽りだった。妻のやさしさも、この生活も、すべてが偽りの中にある。その偽りの生活の中で、半年ものあいだ耐えてきた。
 だが、もう、そんなことはどうでもいい。この美しい妻の顔も、これで見納めなのだから。
 中沢は決意していた。今夜のうちに妻を殺害することを。
 いまのうちに微笑むがいいさ。思う存分、しゃべりたいだけしゃべればいい。明日からは、微笑むこともしゃべることもできないのだ。ただ永遠に、眠りつづけるだけだ。ゆっくりと爛れ、腐乱し、朽ち果ててゆきながら。
 中沢は妻に微笑み返そうとした。だがそれは上手くいかず、頬を引きつらせただけだった。
 と、そのとき、
妻の顔がふいにゆがんだ。そう思うそばから視界が揺れた。
(な、なんだ……)
 瞼を閉じ、指先で目頭を押さえた。
(酔ったのか……)
 細めた眼をデカンタに向ける。ワインは、デカンタの底にわずかに残っているだけだ。妻のグラスは、最初に注いだときからいくらも減っていない。飲んだのは、ほとんど中沢ひとりだった。
(こんな、いつの間に……)
 知らず知らずのうちにこれほど飲んだということは、よほど神経が昂っていたのだろう。それもそうだ。人ひとりを殺害する決意をしたのだ。神経が昂るのも当然のことだ。
 中沢は立ち上がろうとし、視界が揺れるとともに身体までが揺れた。かなり酔ったらしい。
「あなた!」
 妻が慌てて中沢を支えた。
「酔ったみたいだ」
「そうね。あなた、疲れているのよ。それに、私も勧めすぎたみたい。さ、寝室に行きましょう」
 中沢は妻に支えられながら二階の寝室に向かった。
 寝室に入ると、中沢は崩れるようにベッドへ倒れこんだ。
 仰向けになると天井がぐるりと回った。
(あのくらいのワインで、これほど酔うとは……)
 そう思ったのもつかの間、中沢は眼を閉じたとたん、急速に闇へと引きこまれていった。

(ここは……)
 中沢は無意識の淵から眼を醒ました。眼の前には闇が、広がっている。そこが寝室だと気づくのに数秒を要した。
 ゆっくりと身体を起こす。
どれだけ眠っていたのだろうか。ベッドに妻の姿はない。
 闇に眼が慣れてくると、少しずつ記憶が甦ってきた。
(僕は、あいつを殺すつもりだったのか……)
 まるで他人事のようにそう思うと、中沢はベッドサイドの灯りを点けた。
目覚まし時計の針は一〇時を回っている。
 夕食を摂りはじめたのが七時ごろだったから、三時間ほど眠っていたらしい。
 それにしては、酔いがすっかり醒めている。そのうえ、酔っていたことが嘘のように頭もすっきりとしている。心は平静とし、狂気の中で覚えた妻への殺意もいまはない。
 一眠りしたことで、狂気の昂りが治まったのだろう。
 中沢は内心ほっとした。狂気に我を失い、もしあのとき妻が腕に触れていなかったら、どうなっていたことだろう。こみ上げる衝動のままに、手にしていたステーキナイフを、妻の喉もとに突き刺していたかもしれない。
 いまになって冷静に考えてみれば、なんともゾッとする。
自分の中に、あんな狂気があったのかと思うと恐ろしかった。
(どうかしていたんだ……)
 ふいに殺意を覚えたのは、何も妻の裏切りばかりではない。妻には話していないが、二ヶ月前、中沢は会社からとつぜんの解雇通達を受けた。
 不況による人員削減という、お決まりの理由を突きつけられては成すすべもなく、そして今日、十二年勤めた会社を退職した。それだけに、ぶつけどころのなかった会社への不満と憤りが、殺意の引き金になったといってもおかしくなかった。
 中沢は両手で顔を被い、殺意を現実にしなかった自分に胸をなで下ろした。
 酔いが醒めているとはいってもさすがに喉が渇いて、中沢は立ち上がると寝室を出た。
 階下に降りると、リビングの灯りがついている。TVでも観ているのだろうと中に入ると、ソファに坐る妻の背があった。
 中沢は声をかけようとし、だがすぐにそうするのをやめた。
 妻はスマートフォンでだれかと話している。
 中沢は気づかれぬようにキッチンへと身を隠した。
それはとっさのことだった。盗み聞きしてやろうという思いよりも、身体が勝手に動いていた。
 中沢は息を潜めて、神経を耳に集中した。
 妻が相手の話にうなずいている。
「――え? 憶えていてくれたの? うれしい」
 妻の声は、歓びに歓喜していた。
「――だって、なかなか会えないし、奥さんにも悪いじゃない。子供だって、まだ手のかかるときでしょう?」
 男だ――
 中沢の胸はざわついた。
「――そうしてくれるなら、うん、任せるわ。それよりも、ねえ、旅行にでも行かない? いまパンフレットを見ていたんだけど、金沢なんてどうかしら」
 パンフレットを眺めながら話す妻の声は、中沢と話すときと明らかに違っていた。
(男と旅行へ行くつもりなのか!)
 言葉にできないほどの怒りと屈辱感に、中沢はこぶしを握り締めた。とたんに激しい嫉妬の炎がうねりとなって湧き上がってきた。
(許せない!)
 中沢の顔は怒りに高潮し、その眼は宙を睨んでいた。
 これで妻の裏切りは明白となった。いまのいままで、中沢の心の奥底には妻を信じたいという想いがずっとあった。妻の裏切りが思いすごしであってほしいと望んでもいた。その一縷の望みが、いま絶たれた。
 許せない――
 またも、中沢の中に狂気が芽生えた。
 キッチンを出ると、妻の背後に立った。妻はそれに気づかないほど電話に夢中になっている。中沢の怒りが増していく。
(この女は、僕をワインで酔いつぶらせて眠らせ、そのあいだにこうして男と……)
 殺してやる――
 嫉妬の炎が燃え上がる。抑えきれぬほどの怒りと憎悪が、中沢の理性を断ち切った。
「――あ、うん、わかった。じゃあね。お休みなさい」
 妻はスマートフォンを切り、そのときになって背後の殺気に気づいたのか、すっとふり返った。
「あ、あなた。いつからそこに……」
 その眼には、驚きの色がある。明らかにうろたえている。
 中沢は答えず、妻を睨みつけている。
「もう、酔いは醒めたの?」
 中沢はそれにも答えない。
「どうしたのよ、恐い顔をして。まさか、いまの電話、勘違いしているんじゃないでしょうね。いまのは弟よ。だから――」
 妻はその先の言葉をつなぐことができなかった。その刹那に、中沢が妻に飛びつき、首を絞めていた。
「ぐッ、く、苦し、い……」
 首を絞める夫の手から逃れようと、妻はもがいた。だが、中沢はそれを許さない。
「弟だって? よくもそんな――愛していたのに。君だけを愛しつづけていたのに。それなのに君は、僕を裏切ったんだ。クソッ!」
 怒りを爆発させたその手は、妻の首をさらに強く絞めていた。
 中沢の眼は血走り、その身を狂気が支配していた。
「うぐ、くッ……」
 苦しさのあまり、妻は夫の手の甲を爪で掻きむしった。
 手の甲にはいくつもの爪の痕がすじを作り、そこに血が滲んだ。
 それにも構わず、中沢は手に力をこめた。
 抵抗し、もがき苦しむ妻の動きがしだいに弱まっていく。夫の手を引き離そうとする指先にも、もうその力はない。そしてついに、妻の動きが止まり、両腕が力なくソファの上にぱたりと落ちた。
 それでも中沢は、妻の首を絞めつづけた。狂気の声が、吐き出す息に絡んでいた。
 しばらくしてからようやく手の力を緩めて、中沢はその手をそっと離した。
 光りを失くした妻の眼が、夫を見つめている。生きているときには見ていなかったというのに、生を失ったいまになって、その瞳は夫の顔をしっかりと捉えていた。
 中沢はふらりと立ち上がり、自分の手のひらを見つめた。
(こ、殺した。殺してしまった……)
 自分のしたことの恐ろしさが、じわりとこみ上げてきた。その恐怖に叫びそうになる。
 心を落ち着かせようとし、だがどうすることもできず、中沢はリビングを歩き回った。
(どうすればいいんだ)
 頭の中はただ混乱するばかりで、焦燥に苛立ち、鼓動が激しく胸を打った。
 しばらく歩き回っていた中沢だったが、とつぜん何かに駆られたように二階へ上がっていった。そうしてすぐにもどってきたその手には、白いシーツとガムテープがあった。
 テーブルを動かし、床にシーツを敷く。そこへ死体となった妻を横たえて、衣服を脱がせていった。
 妻の身体はまだ温かく、肌はほのかに赤みを帯びている。しなやかな肢体は、美しさを少しもそこなっていない。その肢体を見つめる中沢のほうが、まるで死体であるかのように蒼ざめ、かすかに揺れている眼だけが生を宿しているかのようだった。
「礼子……」
 妻の名を呼び、いとおしむように、中沢は彼女の豊かな乳房に指先を滑らせ、腹部へと這わせた。
「愛してる――」
 そう呟くと、焦点のない妻の眼に手をやり、瞼を閉じさせた。そして胸の上に両腕を重ね合わせ、身体をシーツで包むと、最後にガムテープを巻いていった。
 中沢は何も考えずに行動していた。そうでもしなければ、自分の犯した罪への恐怖に圧し潰されてしまいそうだった。
 ガムテープを巻き終え、妻の死体を引きずるように外へ運び出すと、中沢は近隣に眼をやった。
 どの家もまだ灯りは点いているが、窓のカーテンは閉められている。
中沢は、注意深く眼を配りながら妻の死体を車のトランクに担ぎ入れると、車に乗り、闇の中に沈む山林へとアクセルを踏んだ。

         *

 午後一時――
 中沢は西新宿のオフィス街にある喫茶店に入った。
 ランチの時間は二時までだが、客の姿はまばらだった。
 窓際の空いている席に腰を下ろすと、中沢は窓の外を眺めるでもなく眼を投げた。
 解雇によって退職したにもかかわらず、気づくと中沢は会社のあるオフィスビルの前まで来てしまっていた。
 しばらくのあいだ、彼はビルを見上げて立ち尽くしていた。
 それからは行くあてもなくただ新宿の街を彷徨い、西口公園まで足を運ぶとベンチに坐り、いまの時間まで園内を眺めていた。
 席に着いてから五分ほどは過ぎたというのに、ふたりいる店員は注文を取りにくるどころか、水さえも持ってこようとしなかった。
 視線を向けてもまったく気づかずにいる。いや、というより、無視されているといったほうが正しいだろう。
 中沢は腹立たしさを覚えて声をかけようとし、だが、上げかけた手を止めた。
(まあ、いいさ……)
 こんなことで腹を立てるのも馬鹿らしい。無視するならそれでいい。どうせ食欲もない。いまは珈琲でさえ喉を通りはしないだろう。
 テーブルの上に置いた手が、小刻みに震えている。
 妻を殺した恐怖は、時間が過ぎていくほどに増幅していくようだった。
 恐くてしかたがなかった。いまこうしているあいだにも妻の死体が発見され、捜査の手が迫ってきているのではないかと思えてならない。
 それだけに、店の自動ドアが開いて客が入って来るたびに、ビクンと身体を強張らせ、息をつまらながらその客へと眼を走らせた。
 背中にはいやな汗が貼りついている。
 恐怖をまぎらわそうと、中沢は煙草を喫おうとした。
 上着の内ポケットに手をやり、そこで、ランチタイムの二時までは喫煙席でも禁煙であることを思い出す。
「クソッ!」
 ふいに苛立って、中沢はまたも店員へと眼を向けた。
 ふたりはやはり、中沢の存在に気づかない様子だ。
(まったく、どういうつもりなんだ!)
 苛立ちがさらなる苛立ちを呼んで、中沢は舌打ちした。
 だが、その程度の苛立ちくらいでは、恐怖をまぎらわすこともできなかった。
 手のひらを見つめる。手の震えは一向に治まらない。指の一本一本には、妻の首を絞めたときの感触がまだ生々しく残っている。
 この手で妻を殺した――
 いまさら再確認することではないが、いまさらだからこそ、それを信じたくないという思いがあった。あれは夢だったのだと、悪い夢を見ていたのだと。しかし、現実を否定すればするほど、それはかえって指に残る感触をまざまざと甦らせ、それどころか、妻に掻きむしられた手の甲の傷さえも疼かせるのだった。
 中沢は絆創膏を貼った手の甲をなでた。
(僕はなんてことを。愛する妻を殺してしまうなんて……)
 どうすることもできない後悔が襲いかかる。
 逃れることのできない罪への恐怖が、蔦のように胸に絡みついてくる。脳裡に浮かぶのは、苦しさにもがく妻の顔よりも、息絶えて光りを失った眼で見つめてくるその死顔だった。
(すまない、礼子……)
 震える手を組んで、中沢は懺悔をするように詫びた。
 どんなに詫びようとも、自分の犯した罪を償うことなどできはしないが、そうでもしないと、その罪の意識に正気を失ってしまいそうだった。それでも、恐怖を拭い去ることができず、心は着実に蝕まれていった。どんなに抵抗しようと、その侵食を止めることができない。
 中沢の顔は悲痛にゆがみ、呻きのような声が唇から洩れていた。
 そのときだった。
とつぜん、その唇の両端がつり上がった。
 悲痛にゆがんでいた顔が、別のものに変わっていく。
 笑っていた。
 それは、精神を病んだ者のように、狂気に満ちた笑みだった。
(礼子。君は朽ちていくんだよ)
 中沢は想像していたのだ。地中深くに埋められた妻の肉体が、おぞましく蠢く幾匹もの蛆に喰われ、ゆっくりと腐乱しながら腐敗していくさまを。
(そうさ、礼子。君のその瞳は、唇は、美しい肢体は、蝕まれ、喰われて、腐臭を放ちながら朽ちていくんだ……)
 笑っている眼が異様な光りを放つ。我を忘れているのか、その眼は焦点が定まっていなかった。そんな状態のまま、何かに引きつけられるように中沢は窓の外へと眼を向けた。
 ぶれていた焦点が一点へ絞られていく。視線のその先には、ひとりの女性の姿があった。
 通りの向こう側に、水色のワンピースを着た女性がオフィスビルを背にして立っている。
 だれかを待っているのだろうか、その女性はわずかに眼を伏せていた。その顔は覗うことができない。
 中沢は我に返ってその女性を見つめた。見つめずにはいられなかった。女性の着ているワンピースに見覚えがあったからだ。
 妻と結婚する前、初めてのデートのときに彼女が着ていたものにそれは似ていた。デザインまでは憶えていないが、その色合いはおなじだった。
 あの日、中沢が待ち合わせの場所に立っていると、彼女は笑顔をうかべて小走りになって駆け寄ってきた。水色のそのワンピースがよく似合っていた。そのときの彼女の美しさを、いまでも忘れはしない。そしてこれからも忘れはしないだろう。
(礼子……)
 胸の中で妻の名を呼んだ。
 すると、その声が届いたかのように女性が顔を上げた。
 中沢は驚愕に眼を見開いた。見間違いではない。その女性はまぎれもなく、妻の礼子だった。
「礼子――」
 思わず声になっていた。
 と、またもその声が聴こえたかのように、妻の視線が中沢を捉えた。
 視線と視線が絡み合う。妻の眼が妖しく光り、赤い唇の端に笑みが浮かんだ。たまらず中沢は顔をそむけ、テーブルに視線を落とした。
「馬鹿な――」
 強く眼を瞑った。
鼓動が激しく胸を打つ。
(ありえない。礼子は確かに……)
 そう、確かに妻は死んだ。この手で首を絞め、殺したのだから。そして死体となった妻を、山林の奥深くへと運んでいき、一メートルほど掘った穴の中に埋めた。もどした土はしっかりと踏みならして、枯れ枝や枯葉で隠した。だから、妻が眼の前にいるはずがなかった。
 中沢はもう一度、恐る恐る女性へと眼を向け、だが、視線をやったその先にワンピースの女性の姿はなかった。
 身を乗り出すようにして周辺に眼を配ってみても、その女性の姿を見つけることはできなかった。
(どういうことだ……)
 中沢はうろたえた。
 いまの女性は妻に違いなかった。視線を合わせた妻の顔を、見間違うわけがない。
(まさか、生きていたというのか……)
 だがすぐに、中沢は胸の中で首をふった。
 妻は死んだのだ。生きているわけがない。
 中沢は湧き上がる怒りと憎悪に我を忘れ、狂気に駆られた手で妻の首を絞めたのだから。
 ならば、いま眼にした女性はいったい――
 見間違いでないとするなら、この昼日中に亡霊を見たとでもいうのか。
 いや、違う。きっと、妻を殺したという罪の意識が、ストレスとなって幻を見せたのだろう。
 中沢は指先で瞼を揉んだ。
「幻だ……」
 自分に言い聞かせるようにそう呟くと、窓の外へ眼を馳せた。

 新宿の街を、中沢はあてもなく徘徊した。
 自宅にはどうしても帰る気になれずに、気づくと夕刻になっていた。さすがに歩き疲れた中沢は、駅へ向かうと京王線の急行に乗った。
 自宅のある駅で下車する。自宅に近づいていくごとに足取りは重くなった。
 妻は死んだのだと思いながらも、もし生きていたらという思いを拭いきれなかった。それだけに、心のどこかで、自宅へもどることを拒絶しているのかもしれなかった。
 駅前通りから街道を渡り、路地を曲がってしばらく行くと中沢の自宅がある。
 門の手前まで来たところで、中沢の足が止まった。
 リビングの灯りが点いている。カーテンは引かれているが、そのカーテンの明るさでそれがわかった。
 一瞬、心臓を鋭利な刃物で貫かれたような思いがした。それは実際に痛みをともない、中沢は顔をゆがめた。
「嘘だ……」
 そう声にしたつもりが、口からは何も発せられなかった。
 言葉は鉛のように喉で絡みついている。
 オフィス街で見た、妻の顔が甦る。
(あれは、やはり幻じゃなかったのか……)
 中沢は凍りついたように立ち竦み、灯りの点いたリビングを見つめていた。
 妻が生きている。それが中へ入ることを拒んでいる。
 そのとき、背後から靴音が聴こえてきて、ふり返ってみると近隣に住む住人のひとりだった。
「こんばんは」
 そう声をかけたつもりが、それはやはり喉に絡みついて声にならず、中沢は軽く会釈をし、引きつった微笑でごまかした。
 そんな中沢に、近隣の住人は会釈するどころか、ほんの一瞥さえも向けずに通りすぎていった。
(相変わらず愛想のない人だな。会釈も返せないのか……)
 その住人の愛想のなさは、近隣のあいだでは有名なことだった。
 中沢は自宅に入るかどうか迷ったが、その場にいつまでも立っていたら変に思われるだけだと、門に手をかけて敷地へと入っていった。
 玄関に立ち、インターフォンを押そうとしたが、思い直して鍵でドアをそっと開けた。
 息を潜めて中の様子を窺う。
 家の中は静まり返っていて、物音ひとつしなかった。耳を打つのは自分の胸の鼓動ばかりだ。
 中沢は廊下に上がると、リビングのドアの前に立った。
ドアノブに手を伸ばし、だが、その手は宙で止まった。
 もし、妻がいたら――
 それを考えると、恐くてドアを開けることができなかった。鼓動が激しく胸を打つ。首すじにいやな汗がつたった。それは妻を殺してしまった罪への恐怖とは別の、さらなる恐怖だった。
(ばかな。なにを考えてる。礼子が生きているなんて、そんなことがあるわけない……)
 中沢は首をふり、恐怖をふり払ってリビングへと入っていった。リビングとキッチンに視線を走らせる。
 やはりそこには。妻の姿などなかった。
 肩の力がふいに抜けて、中沢はふうと息を吐くと、ネクタイを緩めながらリビングのソファに坐った。そこでやっと、今朝リビングの灯りを消し忘れて自宅を出たことを思い出した。
(そうか……)
 ふいに笑いがこみ上げる。
 午後のあいだずっと、ありえないことに気を揉んでいた自分が可笑しかった。
 ソファに背をあずけ、瞼を閉じる。
「生きているわけがないじゃないか」
 そう声に出して呟いてみると、新たに生じた恐怖が嘘のように消えていった。
 だが、安堵したのもつかの間、テーブルの上に何も置かれていないことに気づいた。
 テーブルの上には、昨夜、妻が見ていた金沢の旅行パンフレットがあったはずだった。それが、いまはない。テーブルの下を覗き見てみても、どこにもなかった。どこかへ片づけたという記憶もない。きっと、片づけたというより破り棄てたのだろうが、やはり精神に異常をきたしていただけに、記憶に留めていないのだろう。
 と――そのときだった。
 背後で、リビングが開く音がした。
 中沢は眼を見開き、鼓動が「ドクン」と音を立てた。
 戦慄に身体が凍りつく。
「あら、あなた、おかえりなさい」
 それはまぎれもなく、妻の声だった。
「お腹空いてる? すぐに夕食の支度をするから、もう少し待っていてね」
 いつもと何も変わらぬ妻のその声に、中沢はふり返ることができなかった。
 底知れぬ恐怖が、おぞおぞと背すじを這い上がってくる。そのあまり、叫び声を上げそうになる。中沢はたまらず、両手で口許を押さえこんでいた。
(どういうことだ、どういうことだ、どういうことだ!)
 そればかりが脳裡を駆け巡った。パニックに陥った中沢には、思考を働かす余裕もなかった。
 と、背後に気配を感じた。
 中沢は、ビクリとして立ち上がろうとした。だが、身体は逆に硬直してしまい動けなかった。
 妻が中沢の前に回りこんでくる。
 逃げ出したいほどの恐怖を抑えこんで、中沢は顔を上げた。
 美しいままの妻がそこにいた。
「どうして……」
 思わずそう訊いていた。
「どうしてって、夕食ができるまでビールでもと思って」
 妻は手にしているトレーから、缶ビールと小鉢をテーブルの上に置いた。
 君はどうして生きているんだ、などとはとても訊くことができず、
「そうか……」
 そう言っただけで口を噤んだ。
 そんな夫を、妻は心配そうに見つめると、
「あなた大丈夫? 顔が真っ青よ」
 指先を伸ばしてきて、頬に触れようとした。
 その触れようとする指先を、中沢はとっさに弾いていた。
 妻は傷ついた眼で中沢を見つめ、だが、すぐに驚いた表情になって眉根を寄せた。
「あなた、怯えてるの?」
 その言葉に、今度は中沢のほうが驚いて、自分の腕を抱えた。
 腕が震えている。いや、腕だけでなく身体までもが小刻みに震えていた。
「どうしたのよ。なにをそんなに怯えているの? 会社でなにかあったの? それとも、なにか事件にでもまきこまれた? ねえ、なにか言ってよ。あなた」
 矢継ぎ早に言ってくる妻に、
「そうさ、僕は怯えてるよ。だってそうだろう? 僕は君の首をこの手で絞めて殺したんだ。それなのに君はこうして生きて、いま僕の前にいる。怯えるのも当然じゃないか」
 思わずそう言ってやりたいのを何とか咽元で止め、
「いや、なんでもない。心配することはないんだ。ちょっと疲れているだけだよ」
 中沢はテーブルの缶ビールを手に取った。
「そう。それならいいんだけど。だったら、食事ができるまでビールを飲んで待っていて」
 妻はそう言うと、まだ心配そうな表情をわずかに崩して笑みをつくり、キッチンへともどっていった。
 中沢は手にした缶ビールを咽を鳴らして半分ほど飲むと、ゆっくりと息を吐き出した。すると、胸に巣食っていた恐怖が和らいでいくような気がした。
 缶ビールをテーブルに置き、小鉢に眼を落とす。
 小鉢には、もうすでに作っておいたのでだろう、芋の煮つけが入っていた。
 箸と小鉢を手にし、中沢は芋の煮つけを口に運んだ。
 芋の甘みが口の中に広がる。その味は確かに、いままでなんどとなく口にした妻の味だった。
 洋食の翌日は必ずといっていいほど、和食にするのが妻の夕食のメニューだ。それを証拠に、キッチンからは魚を焼く匂いがかすかに漂ってきている。
 中沢は残りのビールを飲み干すと、キッチンへとふり返った。
 キッチンの中で立ち働く妻の姿がある。そこには、それまでの日常と何ら変わらぬ光景があった。
(どういうことなんだ!)
 殺したはずの妻がそこにいる。
中沢は妻を見つめずにはいられなかった。
 妻が生きている――
 彼にとって、それは信じがたい現実だった。それだけに、日中に見た幻を、いまも見ているのだとしか思えなかった。
 だが妻は確かに、息をし、生きている。
 その瞳には光りが宿り、唇は息づいている。あのとき、妻は死んでいなかったのだ。
 そう、あのとき、中沢を狂わせた嫉妬の炎は、胸の淵で膨れ上がった怒りと憎悪に引火して手へと流れた。だが、正気を失っていた彼は、妻の死を確認するまでにはいたらなかった。どれほどの力で人が死ぬのかなど知るよしもなく、それだけに、彼は気を失っていただけの妻を、死んだと思いこんでしまったのではないか。
 衣服から下着まですべて脱がせたにもかかわらず、呼吸をする胸の動きを見すごしてしまったのだ。
 そうとしか考えられない。
 妻は、埋められた地中で意識を取りもどし、そこから必死の思いで命からがら生還した。
 だがどうやって、妻は自宅にもどることができたのか。一糸纏わぬその姿で、だれにも出会わずに自宅までもどれるわけがない。
 考えられるとすれば、山林から迷い出た妻を、山間の舗道を通りかかった車が送り届けてくれたということだ。
 車の持ち主は、よほど驚いたことだろう。裸の上に土にまみれた女がとつぜん山林の中から現れたのだ。驚かないわけがない。
 だれしもが思うようにこれは事件だと判断し、何があったのかを訊き出そうとしたに違いない。
 そんな車の持ち主に妻はどうにか言い繕い、自宅まで送り届けてもらったのではないか。
 あくまでそれは推測でしかないが、といって、自宅までだれにも会わずにひとりでもどってきたとはとても考えられない。
 だが、たとえどんな方法でもどってきたとしても、妻はなぜ、自分を殺そうとした夫を警察に突き出そうとしないのか。それどころか、なぜに、いつもと変わらぬ態度で接することができるのか。
 その夫のために料理まで作ってもいる。
 いったい、どんな心積もりでいるのだろうか。
 もしかすると妻は、夫に殺されそうになったことを、もうすでに警察に届け出ていて、いまこうしているあいだにも僕を逮捕するために捜査官が向かっているのではないか。妻は、ただその時間を稼いでいるだけで、そうまでするのは、自分を死へと追いやろうとした夫の逮捕の瞬間を見届けたいがためなのではないか。
 考えるほどに、そう思えてならない。
 いまにもインターフォンが鳴り、数人の捜査官が姿を現すのではないか、とさえ思えてくる。
 中沢は何かに駆られるように立ち上がると窓辺に行き、指先でカーテンをわずかに開いて外の様子を窺った。
 街灯が夜の闇を払っている。周囲に眼を凝らしてみたが、人影の動く気配はなかった。
 人の気配がないことにひとまずほっとし、中沢はカーテンから指先を離すと、また妻へと眼を向けた。
 真剣な眼差しで妻は料理と格闘している。
中沢はキッチンで立ち働く、そんな妻の姿を眺めるのが好きだった。
 妻に男の影を感じた、半年前のあのときまでは――
 それ以来、キッチンに立つ妻の姿に眼を向けることさえなくなってしまった。それが、こうして久しぶりに妻の姿を眺めていると、自分はこの女を愛したのだという想いがこみ上げてくる。そして、いまも変わらず、そのすべてを愛しているということも。
それなのに僕は、心から愛した美しい妻を、愛するがゆえに嫉妬の炎に我を失い、この手に憎悪を爆発させて、首を絞めた――
 中沢は自分の手のひらを見つめた。
 罪悪感が刃となって胸を突き刺してくる。
 それでも心は、妻が生きていたことに安堵していた。生きていてくれてほんとうによかったと、心からそう思った。
 拭い去れずにあった恐怖も、いつの間にか消えてしまっている。
 いまはただ、自分の犯した罪を償わなければならないという思いがだけが胸の中にあった。
 中沢は見つめていた手のひらを握り、明日には警察に出頭しようと心に決めると、改めて妻へ眼を向けた。
 その視線に気づいたかのように、妻は顔を上げると微笑みを浮かべた。
 その微笑みに、つい見惚れてしまう。
(僕は、この女を愛した……)
 美しい妻がそこにいる。煌く瞳で天使のように愛してくれた、あのころのままの微笑みで。
 あのころの?
 ふと、そのとき、中沢は違和感を覚えた。妻のその微笑みにだ。
 この半年のあいだ、妻が浮かべた微笑みには偽りがあった。それは夫への裏切りを被い隠すために創られた、うわべだけのものだった。
 だが、妻がいま見せた微笑みには偽りがなかった。そう、あのころのままの、偽りのない心からのものだった。
 それはなぜなのか。中沢の胸に疑問が生じた。
 自分を殺そうとした夫に、なぜ、そんな微笑みを向けることができるのか。怒りや憎しみを覚えるのが当然ではないのか。いや、それ以前に怯えというものがあってもいいはずだ。なのに妻には、怯えの色がどこにもない。
 なぜ――
 妻は許すつもりなのか。命を奪おうとした夫を、それを口にしようともせず、何事もなかったように許そうというのか。
 違う。そうではない。
 中沢が感じた違和感。それは、別にあった。妻が見せた微笑みも確かにそうだが、それを拭い去ってしまうほどの違和感。
 中沢は妻を見据えている。その視線は、身体の一部へと注がれている。
 それは、首筋だった。白く細く滑らかなその首筋には、傷ひとつなかった。
 どうして傷ひとつないのか。そこには、なくてはならないものがあるはずだ。
 中沢が首を絞めたときにつけた指の痕。痣だ。
 昨夜、妻が死んだと思いこみ、衣服を脱がせてシーツにその身を包みこんだそのとき、中沢は確かに見たのだ。赤くくっきりと指の形をした痕が妻の首筋にあるのを。
 それがいまはないのだ。その部分にファンデーションを塗ったような形跡もない。
(なぜだ。あの痣が一日で消えてしまったとでもいうのか……)
 それを確かめようと、中沢は妻に声をかけようとし、だがそのとき、視界がぐらりと揺れた。
(なんだ……?)
 そう思ったとたん、身体までが傾いだ。
「あなた!」
 妻がキッチンからあわてて出てきて、中沢の身体を支えた。
「大丈夫だよ。ちょっと眩暈がしただけだから」
 中沢はそう口にしたものの、ひとりではとても立っていられそうになかった。
「ほんとに疲れてるのね。ベッドで横になったほうがいいわ」
 妻に支えられながら二階の寝室に入ると、中沢はベッドへ横になった。
「食事ができたら、声をかけるわね」
 妻はそう言うと、階下へ下りていった。
 闇が寝室を被っている。中沢は瞼を閉じた。
 頭の中で、風に似た音がうるさいほどに騒いでいる。それでいながら、意識が闇の中へと引きずりこまれていきそうだった。
 酔ったのか。いや、そんなはずはない。昨夜はワイン一本だが、いまは缶ビール一本だ。それで酔うわけがない。
 やはり、妻を殺してしまったという罪への意識が妄想を作り、その恐怖に一日中苛まれつづけて、精神が疲れきってしまっていたからだろう。
 意識が急速に闇へと落ちていこうとしている。それを堪えようと瞼を開く。それでも瞼はすぐに閉じてしまう。しだいに意識は混濁していき、妻に感じた疑問を考える間もなく中沢は深い闇へと落ちていった。

 夢を観ている。
 それが夢であるということは、中沢にはわからない。
 そこに闇がある。
 瞼を開けても閉じても何も変わらず、ただ闇があるだけだ。右を見ても左を見ても、それはおなじだった。そして息苦しい。
 苦しさに身体を動かそうとするが、何かに拘束されているかのように身動きがとれない。
 中沢は声を出す。だがそれは、声にならない。
 静寂がすべてを満たしている。
(どうなってるんだ……)
 聴こえるのは、頭の中で釣り鐘のように残響する自分の声。そして胸を叩く鼓動の音。
 それだけだ。他の音は何も聴こえない。
「ここはどこだ。だれか、だれかいないのか!」
 その言葉は声にならず、頭の中で響くだけだった。
(クソッ、どうなってるんだよ!)
 無理に身体を動かそうとしても、指先を少しだけ動かすのがやっとだった。
(このまま僕は、どうなってしまうんだ……)
 自分の身体が蝕まれ、ただれ、腐乱し、朽ちていく姿が脳裡に浮かぶ。中沢は恐くてしかたがなかった。
 とつぜん何かが、ぞわぞわと背すじを這い上がってくる。
 その何かが、あっという間に全身へと広がる。
 それは蟲だ。恐怖をまとった寄生する蟲。
「うわあああああッ!」
 中沢は叫び声を上げる。
「だ、だれか、たすけてくれッ!」
 叫び声も、助けを呼ぶ声も、その行為自体が無駄だった。
 それでも中沢は助けを呼びつづけた。
 と、彼の耳は、ふいに音を拾った。
 彼は助けを呼ぶのをやめ、耳に神経を集中した。
 その音は小さく、だが確かに聴こえてくる。
 それは音ではなく、人の声だ。それも女の声。
 その声には聞き覚えがあった。
 小さく、くぐもってはいるが、間違いなくそれは妻の礼子の声だった。
「礼子、そこにいるのか。頼む、助けてくれ。動けないんだ!」
 声にならぬ声を上げる。
 そんな中沢に、妻は気づかずに話している。
 話をしている?
 いったい、だれと――?
 中沢はさらに神経を耳に集中させる。
 すると妻の声にもうひとつ、別の声が交ざってきた。
 その声もくぐもっているが、男だということがわかる。
(だれだ……?)
 男の顔を見ようと身体をよじるが、それは叶わない。
「礼子、おい! そこにいるのはだれだ。だれとしゃべっているんだ。なんとか言ってくれ!」 
 その声はやはり、頭の中だけで虚しくこだました。
 それでも構わず声なき声を上げる。
「そいつなのか!」
 嫉妬の炎がふつふつと燃え上がる。
「その男が、君の浮気相手なのか!」
 胸の淵から湧き上がる怒りと憎悪が手へと流れ、爆発するのを待っている。だが、それに反して、手は動いてくれない。
 男が何かを囁く。
 それに応えて、妻が笑う声がする。
 男はなおも囁きかける。
 妻はそれに、今度は応え返さない。
 男の腕が妻の身体へと伸びる。それが気配でわかる。
 その腕を妻が受け入れる。
 肌と肌が触れ合う音。
 ふたりは唇を交し合っている。
 妻の唇から吐息が洩れる。
 やがてそれは、喘ぎに変わる。
「やめろ……やめろよ、やめてくれッ!」
 懇願する声も、ふたりには届かない。
 胸を打つ鼓動が早くなる。
 肌が擦れ合う音。
 ふたりの動きが烈しくなっていく。
 妻が悦びの声を洩らす。
 男は獣に似た声を吐き出している。
 ふたりの動きが烈しさを増す。
 それとともに、妻は歓喜の声を上げる。
 烈しさの中で、ふたりは高みへと昇っていく。
「やめろ、やめてくれー!」

 中沢は夢から逃れるように半身を起し、そこで眼を醒ました。
 周囲に眼を巡らす。そこには闇が広がっている。
 すぐには思考が働かず、中沢はまだ、いま観た夢の中にいるような気がしていた。
それでも眼が慣れてくると、そこが寝室であることがわかり、大きく息を吐き出した。
 額から汗がつたい落ち、手の甲でそれを拭った。身体も水を浴びたかのように汗を掻いていて、シャツが背に貼りついていた。
 鼓動が、忙しないノックのように胸を叩いている。
(嫌な夢だ……)
 脳裡には、夢の断片が粘りついる。それを払拭するために頭をふり、中沢はベッドを降りて灯りを点けた。
 目覚まし時計に眼を向けると、一〇時を回ったところだった。
 昨夜、ワインを飲みすぎて眠りにつき、そして眼を醒ましたときとおなじ時刻である。だが中沢は、それをわずかに気に止めただけで、そういうこともあるだろうと、汗に濡れたシャツを着替えるために箪笥を開けた。
 箪笥には洗濯されたシャツが、きれいにたたまれて重ねられている。少しのずれもなくきちんと重ねられているのは、妻の潔癖な性格の表れだ。
 中沢は箪笥を開けるたびに、その重ねられたシャツを無茶苦茶にしてやりたいという衝動が起きる。いまもまたその衝動に駆られ、だが、いつものように何もできぬまま、シャツを一枚取っただけだった。
 食事ができたら声をかけると言っていたが、下着で寝ているところをみると、妻が衣服を脱がせ、疲れて眠る夫をそのままにしておいたのだろう。
 寝室を出て階下に下りる。
 リビングに入っていくと、そこに妻はいなかった。キッチンへと眼を向けるが、やはり妻の姿はない。
 浴室だろうか、そう思いながらソファに近づいていき、中沢はそこで、はたと足を止めた。
 ソファの先の床に、何やら白く大きな物体がある。
(これは……)
 中沢の顔がみるみる驚愕の色に染まった。その物体は、全体をシーツに包みこまれている。
 それはまぎれもなく、昨夜、中沢がシーツに包みこんだ妻の死体だった。
(どういうことだ!)
 理解しがたい状況に、中沢は立ち竦んだ。
 なぜ、山林の地中に埋めたはずの死体がここにあるのか。
 いや、違う。これは妻の死体ではない。妻は生きていたではないか。そして、夫のために料理を作っていた。
 ならば、この死体はいったいなんだ。妻がだれかを殺したとでもいうのか。
 いや、それも違う。妻が人を殺すわけがない。夫に殺されかけ、山林の地中から妻は命からがら生還したのだ。そんな妻が殺人を犯すなどありえない。
 ではやはり、この死体は妻なのか。
(ばかな……)
 中沢はかぶりをふった。
 なぜ死体だと決めつめる。そう思うから混乱するんだ。これは罠だ。自分を殺そうとした夫への、妻の報復なのだ。
 その思いに中沢は、その死体らしき物体の傍らに膝をつき、シーツの上から巻かれたガムテープを剥がしていった。
 ガムテープをすべて取り去り、ためらいながら指先を伸ばしてシーツを外す。
(そ、そんな……)
 中沢は呻いた。
 外したシーツから姿を現したのは、裸の胸の上に置かれた腕、そして瞼を閉じた顔。
 それは、やはり死体だった。
「礼子……」
 中沢は愕然と、その妻の死顔を見つめた。
 血の気のない顔は蒼白く、艶を失っている。なぜか唇だけが赤く潤いを保って息づいて見える。いまにもその唇が動いて、何かを呟くのではないかとさえ思える。
 中沢は恐ろしくなってシーツで妻の顔を被おうとした。
 そのときだった。閉じていた瞼が、かっと開き、見開かれた眼がぎょろりと中沢に向けられた。
「どうしたのよ、あなた」
 唇が動く。
「うわあああああッ!」
 一瞬のその戦慄に、中沢は尻餅をついて後ずさった。
「どうしたのよ、あなた」
 死体の妻がなおも言う。
「やめろ、やめてくれッ!」
 中沢は頭を抱え、眼をきつく瞑った。
「どうしたのよ、あなた」
 その声は、耳にはっきりと聴こえてくる。中沢は耳を塞いだ。
「許してくれ、礼子。僕が悪かった」
 恐怖の慄きにそう呟いたとき、だれかに肩を揺すられた。
「うわあああああッ!」
 全身が総毛立つほどの怯え、中沢はまたも声を上げた。
「どうしたのよ、あなた」
 妻の声はまだつづく。だがその声は死体からではなく耳元のすぐ近くで聴こえた。
「あなた!」
 また肩を強く揺すられ、中沢はハッとしてその声に顔を向けた。
 そこには、屈みこんで心配そうに見つめる妻の顔があった。
「礼子……」
 わけがわからず妻の名を呟くと、すぐに死体へと眼を向けた。
 だが、あったはずの死体がそこにはなかった。
「いまここに、君の、し、死体が……」
 気が動転している中沢は、思わずそう口にしていた。
「え? 私の死体?」
 妻は訝るように夫を見つめる。
「あ、いや、そうじゃない。違うんだ。僕は、その……」
 言い繕うこともできずに、中沢は両手で顔を拭った。
「あなた、ほんとうにどうしたのよ。私、心配よ。疲れてるだけだとしても、明日、病院へ行きましょう」
「いや、僕は大丈夫だから。病院だなんて、そんな大げさにすることはないよ」
 中沢は目許に薄い笑みを浮かべて、そう答え返した。
「大丈夫じゃないわ。いまだって、私に許してくれだとか、僕が悪かったとか言っていたのよ。大丈夫だって言うんだったら、それがどういうことか説明して」
 妻は引き下がろうとしない。
「わかった、わかったよ。そんなに心配なら、行くよ。明日、病院に」
 仕方なくそう答えるしかなかった。
「そう、よかった。だったら、私も一緒に行く」
 安心したのか、妻は立ち上がってソファに坐り直した。
「いいよ、そんな。子供じゃないんだから、ひとりで行くよ」
「あら、私と一緒じゃ恥ずかしい?」
 妻は悪戯っぽい表情を浮かべる。
「そんなことはないよ」
 苦笑しつつ、中沢は自分の中にあった恐怖と混乱が治まっていることに気づいた。それどころか、妻とのちょっとした会話で、心が癒されていることにも気づく。
 こんな日々があったと、中沢はそんなことを思った。
 妻の礼子とは、三年前に共通の友人の紹介で知り合い、交際はすぐにはじまった。
 人より秀でたところもなく、それでいて負けん気だけは強い中沢は、偏屈で扱いにくい男として通っていた。それだけに友人も少なく、親友と呼べる人間は皆無といってもよかった。
 そんな中沢だけに、女性とのつき合いも少なかった。だが、礼子と初めてのデートのとき、なぜなのか素直な自分になっていた。
 ふたりで映画を観た帰りにカフェへと入り、
「僕は偏屈だから嫌われているんだ。だから、人とのつき合いが苦手で……」
 珈琲を口にした中沢はそう言った。それまで、観てきた映画の話をしていたのに、どうしてそんなことを言い出したのか、中沢自身にもわからなかった。
 そんな中沢を礼子はジッと見つめ、
「気にすることないですよ」
 真面目な顔でそう返してきた。
「偏屈というのも個性のひとつじゃないですか。それに、言い換えれば、偏屈とは頑なであるってことでしょ? それって頑固な人ってことですよね。人がなにを言っても、頑固な人は自分を曲げないじゃないですか。プラスな頑固さなら、私はいいと思います。言いたい人には言わせておけばいいんです。ただ、卑屈になってはだめですけどね。すべてがマイナスになってしまいますから」
 そう言う礼子を、中沢は驚きの表情で見つめた。
「あ、ごめんなさい。こんなこと。私、生意気ですよね」
 礼子は恥ずかしさを隠すようにうつむいた。
「いや、違うんだ。いままで、そんなふうに言う人はいなかったから、少し驚いてしまって」
 それまで出会ってきた人間は、男も女も中沢の偏屈ぶりを毛嫌いするばかりだった。いまは確かに、礼子との初めてのデートで中沢も偏屈なところを見せてはいないが、それでも自分という人間が受け入れられた気がして、彼はいっぺんに礼子に惹かれた。
 だからこそ、
「よかったら、また会ってくれないかな」
 別れ際にそう誘いかけ、それに礼子は快く承諾したのだった。
 それから一年が経ち、ふたりは結婚した。
 結婚してからの一年ほどは、冗談を言い合っては笑い、会話が絶えることはなかった。だが、新婚と呼べる時期は過ぎ去り、さらに二年が過ぎたころには、馴れ合いになったというよりそれが結婚の安定期に入ったということなのか、会話や笑うことも日々の生活の中に忘れていくようになった。
 子供がいれば、まだ少しは違っていたのかもしれない。
 中沢も礼子も子供が欲しいと思っていた。そしてそれを望んだ。しかし、そう望む気持ちに反して子供は授からず、お互い病院で検査も受けたが、ふたりに肉体的な欠陥はなかった。
 子供が授かるならばと、できうることはなんでもやった。だからこそ、愛は結晶すると信じていた。
 しかし、愛は結晶へと結びつくことはなかった――
 中沢は妻の顔を改めて見つめた。
 思ったとおり、妻は浴室に入っていたらしい。洗い髪にバスタオルを巻き、白いシルクのパジャマを着ている。
 湯上りの素顔は少女のような幼さを残し、仄かに赤みを帯びて艶やかだった。
 中沢は妻のその素顔がいちばん美しいと思った。
 首筋に眼をやってみれば、やはり痣がない。だが、そのときの中沢には、もうそのことを疑問に思うことはなかった。
(あれは夢だったんだ……)
 妻の首を絞めて殺害し、その死体を山林の地中に埋めたそれ自体が夢だったのだと、中沢はそう思うことにした。そしてその夢が、幻を見せていたのだと。
 そう、だから死体は消えたのではなく、初めからそこになかったのだ。
 すべては、半年前のあの夜からはじまったのだ。中沢が伸ばした手を妻がさりげなく拒んだあのときから。
 そのときから中沢は妻の裏切りを疑い、そうなるともう、それまでのように妻を見ることができなくなった。髪型が変わり、美しさを増していく妻の姿を視界の端でしか捉えることができず、そのぶん意識の中では、男の影がしっかりとその存在を大きくしていた。
 妻の行動のすべてに疑念をいだき、疑念はさらなる疑念を呼んで疑心暗鬼となり、心は嫉妬に狂っていった。
 それだけに、妻が向けてくる微笑みややさしさは偽りなのだと思っていた。生活のすべてが偽りの中にあるのだと。
 だがそれは、ただの思いこみにすぎなかったのだと、いまになって中沢はやっと気づいた。妻の首筋から嗅ぎ取った男の匂いさえも、過剰すぎた思いこみがそこにない匂いを拾ったのだろう。
 妻は裏切ってなどいなかった。嫉妬という激情が中沢を狂わせ、そんな妄想を見せたていたのだ。
 妻の眼は、ずっと夫を見ていた。見ていなかったのは中沢のほうだった。
(僕が馬鹿だった……)
 見つめている中沢の視線に気づいて、妻が見つめ返してくる。
 その瞳の中には、中沢の顔が映っている。
「そんなに見つめたりして、私の顔になにかついてる?」
「いや……」
 中沢は苦笑して首をふり、視線を首筋へ、そして胸元へと移した。
 パジャマの一番目のボタンが外れている。その胸元から、豊かな乳房の膨らみがわずかに覗く。息づくその膨らみに、中沢は急激な欲情を覚えた。
 欲情に駆られるまま、妻の胸元へと手を伸ばす。
 妻は愕いて夫の顔を見る。
 中沢はパジャマの隙間から手を差しこみ、乳房に触れた。
「あなた――」
 何か言おうとする妻の唇を、中沢は自分の唇で塞いだ。妻は抗おうとし、それでもすぐに夫の唇に身を任せた。
 豊かな乳房を弄ぶように揉みしだく。妻の息が荒くなり、唇を離すとくぐもった声がこぼれ出た。
 中沢は首筋へと唇を這わせていき、パジャマのボタンを外していった。彼の唇が乳房に触れ、すると妻は夫の顔を両手で引き上げた。
「あなた、お腹空いたでしょう? この先は、あとでゆっくり」
 思わせぶりにそう言うと、妻はパジャマのボタンを留めて立ち上がり、キッチンに向かった。
中沢は肩透しを食ったような気持ちになり、苦笑した。立ち上がると、食卓にいき椅子に坐った。
「あなたがよく眠っていたから起さずにいたのよ。まだ起きてこないようだったら、先に食べようと思ってたけど、よかったわ」
 キッチンから微笑みを向ける妻に、中沢は素直な笑みを返した。
 美しい妻がそこにいる。
僕の愛した妻が、そこに――
 やはり夢だった。こんなにも美しい妻を殺すことなどできるわけがない。悪夢を観ていたのだ。そして、その悪夢から、ようやくいま目醒めた。
 妻は、手早く料理を温め直すと食卓へと並べると、
「さあ、食べましょう。私、もうお腹ぺこぺこ」
 席に着くなり、さっそく箸を手にして合掌した。
 中沢もつられるように料理を口にした。気づけば、今日一日、何も口にしていなかった。
料理を口にしたとたん、それまで感じなかった空腹がどっと押しよせてきた。
 幸福感がゆっくりと心を満たしていく。それとともに温かいものが胸にこみ上げてきて、なぜだか涙が溢れてきた。それをごまかそうと、喉が詰まったふりをして大げさに胸を叩いた。
「大丈夫?」
 妻が心配そうにそう言って、グラスに水を注いで差し出してくれた。
 どんな些細なことでも気遣ってくれるやさしい妻がいる。なんと幸せなことだろうか。
 そんな妻を疑っていた自分が恥ずかしくてならない。
 中沢はそのとき、胸に誓った。
 これからもずっと、妻を愛しつづけていく、と。この妻を、何があっても信じつづける、と。
 幸福に包まれながら食事を終えると、中沢は浴室に向かった。
 湯船にゆったりと浸かる。すると、心身ともに疲れきっていたことがよくわかった。わずかに眠ったとはいえ、夢にうなされたことで、疲れが取れるどころか余計に蓄積していた。それだけになおさらだった。
 それにしても、先ほどのあの欲情はどうしたことだろうか。
 伸ばした手を拒まれたあの日から、妻の身体には一切触れず、欲情を覚えたりもしなかった。むろん自分自身で慰めることも、風俗のたぐいの店に足を運んだりすることもなかった。
 もう妻を抱くことはないだろう、そう思ってもいたほどだ。
だから、衝動的に起きた性的欲求に中沢は愕いていた。
 きっと、恐怖に凍りついた心が解放され、安堵したことで、吐き出されることなく溜まっていた本能が、出口を求めてこみ上げてきたのかもしれない。いや、もしくは、迫りくる恐怖に晒されて逃げ場を失ったことで、肉体の奥底に眠る獣が眼を醒まし、張りつめた緊張が解かれたとたんに牙を剥きだそうとしたのだろうか。
 そしてまたいまも、妻から肩透しを食ったことで一度は治まっていた欲情が、肉体を痺れさせながら一点へと集まってきている。
 獣の本能ともいえる欲情は、塊となって膨張し、力を漲らせていく。
 中沢は湯船の中に眼を落とした。
 欲情の塊は、力強く脈動しながら湯の中で揺れている。すぐにでもその力を吐き出そうと猛っている。
(いますぐ抱きたい……)
 その欲情のままに中沢は湯船を上がり、脱衣場に置かれたパジャマに着替えると二階へと上がっていった。
 寝室を開けると、ベッドサイドの灯りだけが点いている。その灯りだけでは部屋にこもった闇を払いきれず、ベッドが淡く浮かんでいる。
 そのベッドの上に、横向きで横たわる妻の姿があった。
 妻は何も身につけていなかった。裸身のままで横たわり、夫を妖艶な眼差しで見つめている。そのしなやかな裸身のシルエットに中沢は見惚れた。
 すると、妻がベッドから降りてきて、夫のパジャマのボタンを外していった。
 あらわになった夫の胸から腹部に唇を這わせていく。そうしながら股間へと手を伸ばす。
「もう、こんなに……」
 妻は夫の顔を見上げると、妖艶な笑みを浮かべた。
 なぞるように指先が動く。
その刺激に、中沢の口から吐息が洩れる。
 欲情の塊がさらに力を漲らせる。
 指先にそれを感じた妻は、夫の下着に指をかけるとパジャマとともに下ろしていった。
 張りつめた塊が勢いよくそそり立ち、天を仰いで脈打った。
 脈動する塊を両手で包みこんだ妻は、もう耐えられないとでも言うように、跪いて顔を近づけるとその塊を咥えこんだ。
 唇を欲情の塊に滑らせる。
「ううッ……」
 中沢が苦しげな声を洩らす。
 そんな夫をもっと苦しめようとでもいうのか、妻は、唇で、舌で、指先で、ときには歯で、膨張し硬さを増した塊をもてあそんだ。
「ああ、うッ……」
 たまらず中沢は喘いだ。
 妻は何かに憑かれたように夫を責め立てる。
 肉体が溶けていくのではないかと思えるほどの快楽の裡で、中沢は淫靡に責め立てる妻に愕いていた。
 過去なんどとなく妻を抱いたが、一度として自分から責めてくることなどなかった。いつも中沢のほうから手を伸ばし、妻はそれに応え、夫の愛を受けながら高みへと昇っていくのだ。といってされるがままというわけではなく、夫が求める要求にも応えた。
 だが、いまのように妖しく乱れた妻は初めてである。まさしく、何かに憑かれたとしか思えないほどの淫乱さだった。
(やはり、なにかが……)
 そこでまた中沢は違和感を覚えたが、それは一瞬のことで、襲いくる快楽の波に押し流されてしまった。
 妻は執拗に夫を責めつづける。
 このままでは高みへと昇りつめてしまいそうで、中沢は耐えきれずに妻の腕を引くとベッドへ押し倒した。
 豊かな乳房を両手で乱暴に包みこみ、先端を唇で吸った。
 妻は吐息ともつかない声を洩らす。
 中沢の唇はしなやかな曲線にそって落ちていき、軌道を太腿へと移していく。
 妻の息が徐々に荒くなる。
 中沢は唇を離すと、Mの字に開いた両の足先から中心へと指先を滑らせていった。
 小高い丘に生えた陰草は、細く淡く燃える黒き炎のようだった。
 その下方には、闇を抱え持つ秘窟がある。中沢はその秘窟へと顔を落としていった。
 妻が喘ぐ。
 声は掠れ、泣いているようにも思える。
その声に触発されたかのように、中沢は秘窟の門を唇と舌で責めたてた。
「あなた、もう、おねがい……」
 妻が切なく哀願する。
 中沢はそれに応えて顔を上げると、猛々しく脈打つ熱き欲情の塊を、妻の中へと沈めていった。
「あ、うッ……」
 妻は苦痛に耐えるように眉根をよせ、中沢の背に腕を回した。
 中沢の腰が動く。
 深く浅く、ときに烈しく、ときに緩慢に。
 妻は喘ぐ。その声が大きくなっていく。
「つッ」
 とつぜん、背中に痛みを覚えて中沢は声を吐き出した。背中には幾つものすじが流れ、血が滲んでいる。
 妻が爪を立てたのだ。
 と、そのとき、中沢の脳裡に閃光が走り、甦ってくるものがあった。
 それは、痛みそのものの残滓。
 その痛みを憶えている。
 やはりそれは、妻の爪によって刻まれた傷の痛みだ。
 手の甲の傷――
 それがいま、記憶が甦るとともに疼いた。
 忘れるはずがない手の甲の傷を、だがなぜか、いまのいままで忘れ去ってしまっていた。
 中沢は腰をふりつづけながら、手の甲の絆創膏を歯で剥がした。
 そこには、すじを引いた幾つもの傷の痕がある。
(夢じゃなかったのか!) 
 中沢は驚愕の中で烈しく腰をふりつづけた。
 妻がまた爪を立てる。
 背中に痛みが走る。それにともなって、手の甲の傷痕が疼く。
「礼子……」
 妻の名を呼ぶ。その声は悲痛に震えている。
 手の甲の傷痕に血が滲みはじめる。
(あれが夢でないというのなら……)
 妻の乳房を鷲づかみにし、揉みあげた。
(これが夢だとでもいうのか――そんなばかなことが……)
 何もかもがわからなかった。
 快感が渦となって脳髄へと湧き上がってくる。
 妻の体内の中で、欲情の塊はさらに膨張する。
 心と身体が溶けていく。
 烈しくなる息に妻の息が呼応する。
 絡み合い、高みへと昇っていく中で、妻の両手が中沢の首に伸びてきた。
 首を絞めるつもりなのか。中沢はそう思った。
 それならそれでかまわない。そうも思った。だが、一度は首を絞めるような形で両手を当てたが、妻はその手で夫の手を取り、自分の首へといざなった。
 中沢は愕いて妻を見た。
 妻は夫を見つめている。そうしながら夫の手に手のひらを重ね、力をこめる。
 絞めて――
 妻の眼がそう言っていた。
 中沢は妻の手を払いのけるようにして、首から手を離した。
 妻は何も言わず、今度は夫の手首を取って、もう一度自分の首へと持っていった。
 その一瞬、中沢は妻の首筋を眼にしていた。そして見てしまった。その首筋にある指の形を残した蒼黒い痣を。
「どういうことだ、これは!」
 戦慄に思わず口走る。中沢は摑まれた手を引こうとした。だが、それを妻は許さない。
 中沢は抗うが、妻の力には及ばない。どんなに力をこめても、引くどころか押すことも払うことすらできなかった。
 なんという力だろうか。か細い妻の腕のどこに、これほどの力があるというのか。
 妻の眼が見つめている。その視線には、さきほどまでの柔らかなやさしさはない。ただ冷たく、蔑むような冷めた視線だ。
「あなたにはわかる?」
 ふと、妻がそう言った。いや、違う。実際には、妻は何も言ってない。
 あなたにはわかる?
 これは、夢?――
 唇でそう発しなくても、見つめくるその双眸からその声が聴こえてくる。
 それを証拠に、妻は唇の両端を上げて笑った。夫の愚かさを嘲笑うかのように。
 絞めて――
 双眸がまた言った。
 中沢は動けない。
 どうしたのよ――
(嘘だ、こんなこと……)
 中沢はかぶりをふった。
 さあ、早く――
 声が頭の中に響いてくる。
「うわあああああッ!」
 中沢は正気を失い、妻の首にある手に力をこめた。
 妻の眼が見開かれる。
「あなた、なに、を……く、くるし、い……」
 声にしたその声のほうが、中沢には聴こえていなかった。
 中沢は眼を瞑り、我を忘れて、妻の細い首を絞めた。
 己を失っていながらも腰をふりつづける。
 首を強く絞めれば絞めるほど、妻の秘窟が膨張した塊を絞めつけてくる。
 言葉にはできないほどのその快悦に、中沢は支配されていた。
 妻は悶え苦しみながら、夫の腕を外そうとする。だが、それは叶わず、手の甲を掻きむしることしかできなかった。
「あなた、やめ、て……たす、け……」
 苦しさの中で救いを求める。
 その声は夫の耳には届かず、妻はついに力尽きて両手がぱたりとベッドに落ちた。
 中沢はそれに気づかず、忘我の淵で妻の首を絞めつづけた。
「礼子、礼子、愛してる、愛してる。あ、あ、うッ!」
 頂点へと達した中沢は、身体の裡に渦巻くどろどろと白濁した毒を吐き出した。
 身体をひくつかせて果てた彼は、そのまま妻の胸へと倒れこんでいた。
 しばらくしてから我に返り、妻から身体を起す。そこでやっと妻の異変に気づいた。
「礼子、おい、礼子!」
 動かぬ妻の身体を、中沢は揺する。だが、すぐにその手が止まった。思わず仰け反るように身を引く。その顔が驚愕にゆがんだ。
(し、死んでる……)
 その状況を、すぐに理解することができなかった。それでも、次の一瞬にそれを理解した。
 妻の首筋を見てみれば、蒼黒い痣とはべつの痣がある。ほとんどの部分は蒼黒い痣に重なってしまっているが、それは確かに、いまできたばかりといえる赤い痣だった。
(僕が殺したのか……)
 中沢は呆然と己の手のひらを見つめた。
 この手で妻の首を絞め、殺してしまった。
 今度こそ、確実に。
 眼を剥いたまま動くことのない妻は、何もかもを投げ出してしまったかのように仰向いて横たわっている。
 淡い灯りに浮かぶその肉体は、もう命の炎を消してしまっているというのに、小高い丘に生えた陰草だけは、残り火のように燃えている。
 剥き出しになったままの秘窟からは、中沢の吐き出した白く濁った毒が流れ出して鈍く光っていた。
 あなたにはわかる? これは、夢?――
 その声が脳裡に響いてくる。
 それは、横たわった妻の死体から聴こえてくるようにも思え、見開いた眼が、またもぎょろりと動くのではないかという気がしてくる。
 中沢は怖気を覚えて指先で妻の瞼を閉じさせると、彼女の身体に頭からシーツをかけた。
 ともかく、その場から離れたかった。中沢はベッドを降り、下着とパジャマを身につけ寝室を出ようとした。
 そのときだった。静寂を破って、とつぜん室内のどこからか電子音のメロディが流れ出した。
 中沢は一瞬びくりとして、眼と耳でその音のありかを探した。
 そのメロディは何かに遮られているのか、小さくこもって流れている。
 それが妻の携帯電話の着信メロディの音だということに、中沢はようやく気づいた。
 耳で音を探っていくと、そのメロディ音はドレッサーの上に置かれている妻のバッグの中から聴こえてきていた。
(男からだ……)
 その思いに、バッグからスマートフォンを取り出すと、中沢は相手の確認もせずに出てしまった。
「あ、姉さん」
 相手の声は妻の弟の直也だった。そのときになって、妻のスマートフォンだというのに出てしまったことを後悔した。
「直也だけどさ」
「――――」
 中沢は返答をすべきかどうか迷った。
 ほんのわずかな間が生じる。
「もしもし――あれ? 聴こえてる? もしもーし」
 一瞬の迷いが、声を出すタイミングを失わせてしまった。義弟は当然、何も返答がないことをおかしいと思うだろう。だが、といっていまさらここで返答を返すというわけにもいかない。
 中沢は身を硬くし、息を潜めた。
「姉さん、聴こえてる? あ、もしかして、電話に出ておいて、また寝ちゃったってやつ? もしもーし――なんだよ、やっぱり寝てるのか。まったく、しかたないな。それじゃ、メールを送っておくよ」
 何のことはなく、義弟は最後に独りごちるとように言うと通話は切られた。
 どうやら妻は、眠っているときスマートフォンに着信があると、出るには出るが、そのままにしてまた眠ってしまうことが過去になんどもあったようだ。
 中沢はひとまずほっとした。
 しかし、妻のスマートフォンに掛かってきた着信が男だと思い、確認もせずに出てしまったのはまずかった。
 義弟が何の疑いも持たずに通話を切ったからよかったものの、もし姉からの応答がないことで何かあったのではないかと心配し、疑念をいだくようなことがあったなら、事態は急変していたに違いない。
 すぐに警察へ通報するようなことはないにしても、車を飛ばして様子を見にくることはあっただろう。
 もしそうだとしても、「もう寝ているから」とごまかすこともできるだろうが、義弟が疑念を深めるようなことになれば、そのときこそ警察へと通報するはずだ。となれば、それほど日が立たぬうちに妻の殺害が発覚してしまうだろう。いや、もしかすると、スマートフォンを切ったあとでやはり心配になり、もうすでに義弟は車を走らせてこちらへと向かっているのではないだろうか。
 そんな考えに一瞬、妻の死体を隠さなければと眼を走らせたが、自分がおなじ立場ならばもう一度電話を入れる、そう思い直して手の中にある妻のスマートフォンに眼を落とした。
 すると、思い直したことが正解だと言わんばかりにスマートフォンが鳴った。
 だが、今度はメロディ音が違った。ディスプレイの表示を確認すると、それは義弟からのメールだった。
『姉さん、電話に出たのにそのまま寝ちゃうっていうの、いいかげん直そうよ。ま、その話は置いといて、昨日話しに出た旅行の件だけど、清美も金沢に行きたいってさ。日程は姉さんに合わせるので、友明さんと相談してください。姉さんたちと一緒に旅行へ行くなんて初めてのことだから、清美もいまから楽しみにしてる。では、詳しいことはまた後日』
 メールはそんな文面で終わっていた。
 ディスプレイを見つめたままでいる中沢の眼が、哀しみの色へと変わっていった。
(そんな……)
 妻は嘘をついていたわけではなかった。昨夜の電話の相手は男などではなく、ほんとうに弟だったのだ。
 携帯電話を持つ中沢の手が慄えている。
 妻は、夫と旅行をしようとしていた。それはきっと、ふたりの歯車がいつの間にか合わなくなり、ぎくしゃくとしてしまった生活の中で何とか夫婦の絆をとり戻そうと計画を立てたのだろう。
 そのために、ふたりきりの旅行ではやはりぎくしゃくするだけだろうからと、弟夫婦を誘ったに違いない。
 その弟の返答を待って、夫には話すつもりだったのではないだろうか。
 夫と、そして弟夫婦とともに行く旅行先の金沢の情景を、妻は想像していたのかもしれない。それなのに、弟の返答を待つこともできずに、妻は命を奪われてしまった。
夫の伸ばした手によって。
(僕は、なんてことをしてしまったんだ……)
 いまさらに、中沢はそう思った。
 涙があふれてくる。
 妻は夫婦の絆を取りもどそうとし、夫のために美しくなる努力をした。なのに夫は、そんな妻に男がいると疑い、美しくなっていくのはその男のためだと思いこんだ。思いこみはやがて苦しみとなって増大し、それは激情の炎となって燃え上がった。
そして夫は、妻を――
(すまない礼子。ほんとにすまない……)
 涙がとめどなくあふれてくる。唇を震わせながら、中沢はベッドの妻へと歩み寄った。
 シーツをめくり上げ、妻の死顔を見つめる。
 瞼を閉じている妻は眠っているようにも見え、唇に口づけをすれば眼を醒ますのではないかとさえ思えてくる。その思いに中沢は、妻に顔を寄せると唇を重ねた。
 唇はかすかにまだ温もりを残している。
彼はそっと唇を離した。だがやはり、そんなことで妻が眼を醒ますはずもなかった。
 首すじに眼を移してみれば、青い痣と赤い痣が重なり合うようにして残っている。
 どちらも、中沢の手によって残された痣。
 昨夜の出来事は夢ではなかった。
 そう、昨夜、妻は確かに死んだのだ。
 そしていま、妻はもう一度死んだ。
 起こりえない現実。
それが起きた。
 いや、すべてが夢なのだ。
悪夢を見つづけている。
 そうとしか思えなかった。そうでなければ、一度殺した人間を二度も殺すことなどありえない。
(夢なら、早く醒めてくれ!)
 中沢は頭を抱え、胸の中でなんどもおなじ言葉を叫んだ。 
 だがしかし、それは悪夢のはじまりにすぎなかった。
 その翌日、妻は平然と中沢の前に現れたのだ。何事もなかったかのように。
 その妻をまた、中沢は殺した。
 そうして、妻を殺す日々がつづいたのだった。
 そして今日もまた――
 中沢は寝室のドアを乱暴に開け放つと、階下のリビングに向かった。
 酒が欲しかった。飲まずにはいられなかった。
ずっとそうだ。飲むことで、精神が崩壊するのをかろうじて防いでいる。
 リビングに入り、棚からバーボンのボトルを取ると食卓の椅子に坐った。
 グラスにあふれんばかりにバーボンを注ぎ、水のように一息に呷った。
「クソッ! いつまでつづくんだ」
 醒めることない悪夢。
だがそれは、とても夢とは思えないリアルさがあった。その生々しさは、これは現実なのだと思わせるほどに。
 いや、現実なのかもしれない。まるで時間と時間の狭間に入りこんでしまったかのような、おなじ時間をただくり返すだけの現実。
(ばかな。そんな現実があるわけない……)
 中沢は苦笑し、バーボンをグラスに注ぐと、また一息に呷った。
(これは、呪われた夢だ……)

 あなたにはわかる? これは、夢?――

 妻の声が脳裡に響く。
その声を払拭するようにまたもバーボンを呷る。
それでも声は消えようとはしない。
「もう、やめてくれッ!」
 中沢は叫び、さらに今度は、バーボンをボトルごと口へ運び喉に流しこんだ。
 とたんにむせて咳きこむ。
 酔いが急激に襲いかかり、それとともに視界が揺れ、焦点は定まらずに意識がどんよりとした濃霧の中を漂った。
 だが、

 あなたにはわかる? これは、夢?――

 どんなに意識が混濁しようとも、その声だけは脳裡に粘りつくように反響した。
「やめろ、やめろ、やめろッ!」
 怒りがふつふつと沸騰しはじめる。
「これは夢か、だって? あたり前だ! こんな現実、あるわけがない!」
 その怒りは手へと流れて、中沢はグラスを棚に向かって投げつけていた。
 凄まじい音を立てて、ガラスの扉が粉砕し床に砕け散った。
 ガラスの破片に眼を向ける。それはまるで、崩壊した自分自身のように思えた。
「クソッ」
 呪われた夢なんかじゃない。これは罠だ。得体の知れない何もかによって仕組まれた、狡猾な罠。そしてこれは実験なのだ。人間ひとりが崩壊していく姿を眺めているだけの、ただそれだけの実験。
 いや――
 中沢はかぶりをふった。
(わからない。なにもかもが……)
 もう何も考えられなかった。いや、考えたくなかった。だからこそ酒を欲し、バーボンを呷ったというのに。だが、混乱はさらに増すばかりだった。
「もう、どうだっていい」
 自棄になり、そして思った。自分を罠に陥れている何者かが存在するというのなら、とことん抗ってやると。
 そこでふいに中沢は立ち上がった。
「そうさ……」
 酔って濁った眼の奥に、ぎらりと光るものがある。
 それは何かを決意したような、それでいて狂気を孕んだ光りだった。
 中沢は食卓を離れると、酔っているとは思えないほどの足取りで二階へと上がっていった。
 寝室のドアを力任せに開け放つ。とたんに廊下の灯りがベッドサイドの灯りを呑みこんで、闇と一緒に斜めに切った。
 ベッドの横に立つと、死体となった妻にかけたシーツを剥ぎ取った。
 妻を見下ろし、一瞬、哀しげな色をその眼に浮かべたが、すぐに彼女を抱き上げると寝室を出て階下の浴室へと向かった。
 浴室の床に妻をそっと横たえる。そして中沢は浴室を出ていき、しばらくしてからもどってきた。
 右手に何か握っている。黒く鈍い光りを放つもの。それは俗に鉄鋸といわれるタイプののこぎりだった。
 細かくびっしると並ぶ刃の鋭さは、獰猛で残忍な鮫の歯を思わせる。何もかもを、ズタズタに切り裂いてばらばらにする容赦のない非常な刃に。
その刃をいま、中沢は妻の身体に突き立てようとしている。もう動くことのないただの肉塊となった身体を、鮫の刃でばらばらにしようとしている。
そうしなければ、妻は生き返ってくる。なんどでも。
 そしてまた、その妻を殺すことになるのだ。そんな日々がこの先もつづいたなら、自分の精神のほうがばらばらになってしまう。
 もうごめんだ。こんな茶番は自分の手で終わらせなければならない。
 中沢はふらりと妻の傍らに膝をついた。
「礼子、ごめんな……」
 そう声をかけると妻の右腕を取り、床に押さえた。
「もう、こうするしかないんだよ……」
 のこぎりの刃を、手首の関節にあてた。
 だが、中沢の手は固まったように動かない。
 意思とは裏腹に身体が拒絶しているのだ。よほど精神に以上をきたしているか、氷のような冷酷さで心を乱すこともない人間でないかぎり、死体をばらばらに切断するなど恐ろしくてとてもできるものではない。
 酒を呷り、わずかに狂気を孕んだ程度ではそれも当然のことだった。それを証拠に、中沢はいっぺんに酔いから醒め、恐ろしさに慄いている。
 それでもなお、のこぎりを持つ手に力をこめようとする。
 だがやはり、その手は動かない。まるで自分の中のべつの自分に抑えつけられているかのようだった。
 時間だけが過ぎていく。浴室の窓には朝の気配が訪れていた。
 手のひらがじっとりと汗を掻いている。恐ろしさに慄き揺れる眼は真っ赤に充血し、額からも汗が噴き出している。粒となって噴き出した汗は、重力に負けて重なり合いながら頬につたい落ちた。
 中沢は額と手のひらの汗を拭い、改めるように妻の右腕を押さえると、手首の関節にもう一度のこぎりをあてた。
 烈しく胸を叩く鼓動が、うるさく耳で鳴っている。
気を落ち着かせようと大きく息を吸い、手に意識を集中させた。
力をこめる。
 鮫の刃が妻の手首に沈みこむ。
血が滲み出して、刃先を赤く染める。
「うわあああああッ!」
 血を見たとたん、中沢は声をあげていた。のこぎりを持つ手を離し、襲いかかる戦慄に思わず後ずさった。
(無理だ。こんなこと、僕にはできない……)
 慄える手で頭を抱える。
(どうして、こんなことをしなければならないんだ!)
 中沢は胸の中で叫んだ。これがほんとうに得体の知れない何者かによる罠であり実験だとするなら、その理由を教えてほしかった。それが無理ならせめて、なぜに自分なのかを。
 たとえこれが、ただのゲームだとしても、いや、ゲームならばこそ、それなりの説明があって然るべきではないのか。これではまるでモルモットだ。人に対しての尊厳や尊重というものがまったく損なわれている。
 尊厳と尊重?
 いや、そんなものは初めからないのだ。その者たちには、人間に対しての尊厳や尊重などはなから持ち合わせていないのだろう。その者たちにとって人間は所詮モルモットにすぎず、その程度の存在でしかないのだ。
「僕がいったいなにをしたっていうんだ……」
 苦痛を吐き出すように中沢は言った。
 もうなんども、おなじ人間を殺している。それは苦痛となって当然のことだろう。
(このままじゃ、ほんとにモルモットだ。抵抗しなきゃだめだ。実験材料になんてなるものか!)
 しかし、そのすべは――
 妻の死体をばらばらにすれば、もう生き返ってくることはないだろう。その思いにのこぎりを手にしたが、それはとてもできることではなかった。
 なら、どうすればいい。
 そのとき、ある考えが脳裡をかすめた。
 それは、この家ごと妻の死体を焼いてしまうということだった。
 だがすぐに、中沢はその考えを改めた。そんなことをすれば、妻を殺したうえで家に火を放った犯人としての逃亡生活を余儀なくされ、それこそ罠を仕組んだ者たちの思う壺になる。
(いっそのこと、妻を殺したと警察に……)
 妻の死体をこのままにしておけば、また生き返ってくるだろう。ならばいますぐに警察へと出頭し、妻が死体であるうちに現場検証させてしまえばいい。そうすれば妻の遺体は司法解剖される。それなら、もう甦ることはできないのではないか。
 その思いに矢も盾もたまらず浴室を出ると、中沢は二階へと上がっていった。
 着替えをすませて玄関へ向かう。
 一度浴室を覗き、妻が死体であることを確認すると自宅をあとにした。
 警察署までの道程を歩く。車を使ってもよかったのだが、徒歩でもそれほどの距離ではないし、出頭するのに車で乗り入れるという気にはなれなかった。
 道すがら、どうしてもっと早くにこうしなかったのかと考えた。
だが、そんなことを考えられる心の隙間などわずかながらもなかった。いや、考えたところでそうする勇気もなかっただろう。
 やはりなんども生き返ってくる妻を殺すことの苦痛に精神が疲れきり、その日々から逃れたい一心で、それならばいっそのこと、そう思ったのだ。
あまりにも現実からかけ離れた日々の中で、これは夢なのか、それとも現実ではありえない現実なのか、という問いに囚われ、精神を病み、実はとうに自分は狂ってしまっているのではないかと思いはじめていた。
「得体の知れない何者か」の存在を信じること自体がすでに正気ではない証拠なのだが、そんなものが存在しないことは中沢自身、心のどこかではわかっていた。わかっていながら、その者たちの仕組んだ罠と思いこむことで自分を保ってきたのも事実だった。
 けれどそれも、もう終わる。
 妻を殺しつづけるという呪縛から解放されるのだ。そしてそれとともに自分の人生も終わるだろう。
 これからは、刑務所での長い生活が待っている。だが、それでいいと、中沢はほっとする思いだった。
 罪を償い、そして残りの人生を、殺人犯という十字架を背負って生きていけばいい。愛し妻を殺した事実を胸に刻み、愛し愛されたころの思い出とともに生きていけばいいんだと。
「それでいい……」
 中沢は息を吐くように呟いた。
 町並みはすっかり朝の色に染まっている。小鳥たちの囀る声がそこかしこからふり落ちてくる。
 こんなときに、清々しい朝を感じるとはなんと皮肉なことだろうか。
 街道を左に折れてわずかに行くと、前方に警察署の建物が見えてきた。
 まだ夜の闇を残した建物はどこか冷たく、近寄るものを威圧し、威厳を誇示するような圧迫感を与えてくる。そんなふうに思うのは、やはり罪の意識があるからかもしれない。
 とたんに中沢の足取りは重くなった。
 決意を固めたつもりでいたのに、やはり臆してしまう。
 緊張からか息苦しさを覚えて、中沢は警察署の前まで来ると足をとめた。
 玄関右横には警官がひとり長い警棒を携え、正面に視線を向けたまま直立不動に立っている。立ち止まっている中沢に、ちらりと一瞥を向けることもない。その姿を見て、さすがに足が竦んでしまった。とはいえ、ここまで来てしまったからにはあともどりもできない。中沢は意を決して警察署の敷地へと足を踏み入れた。
 玄関前の階段を上がる。中沢が横を通りすぎても、警官は彼の存在を無視するかのように正面を向いたまま見向きもしなかった。
 自動ドアが開き、中から四十代半ばと見える眼つきの鋭い刑事らしき男が出てきてすれ違っていった。
 中沢はドアが閉まる前に署内へと入った。
 早朝のせいか署内は閑散としている。受付には人はおらず、その隣の生活安全課に警官がふたりおり、それぞれ離れたデスクに坐っていた。
 こんな早朝から人が訪れてくることが少ないからなのか、ふたりは中沢に気づきもせずパソコンのディスプレイに見入ったままでいる。
 中沢は声をかけようとし、だが、声を出すことができなかった。
 恐れはないはずなのに、なぜかまた臆してしまう。
 二の足を踏み、それでも、
「あの、すみません……」
 なんとか喉許に引っかかった声を絞り出したが、そう言うのが精一杯だった。
 声が小さかったのだろうか、警官はパソコンから顔を上げようとしない。
 そうなるともう声をかけるきっかけを失ってしまい、するととつぜんのように、罪を犯した人間特有の逃走しようとする本能が胸を突き上げた。
(いまなら、まだ大丈夫だ……)
 一刻も早く立ち去りたいという思いに鼓動が激しくなる。それとは裏腹に、緊張のためか焦るばかりで立ち去るタイミングがつかめない。
 中沢は落ち着きなくそわそわとした。
 これではどうみても挙動不審人物だ。ここで気づかれて、怪しまれたうえに詰問されるのはごめんだ。
 いやな汗が額からつたい落ちる。中沢のいまの精神状態は、犯罪者のそれだった。とにかく、この警察署から逃れたい。
 ふたりの警官を交互に見やりながら、中沢は足をするように後ずさり、ゆっくりとその場を離れた。
 警官のひとりがふいに顔を上げ、玄関のドアへと眼を向けたが、顔色一つ変えずにまたパソコンへと顔をもどした。
 玄関を出ると、走りだしたい衝動を抑えながら警察署の敷地を出た。街道をもと来た路地へと折れたところでようやく緊張を解き、大きく息を吐いた。
 結局、自首することはできなかった。あの署内に漂う独特の空気に触れたとたんにどうしても臆してしまい、そのうえ警官にかけた声が届かなかったことで、たかだかの決意など一瞬に崩れ去ってしまった。
 それにしても、早朝で人の出入りが少ないからとはいえ、署内に訪れた人間に気づかないとはどういうことだろうか。
 明らかに挙動不審といえる人物に気づきもせず署内から出してしまったのだから、早朝とはいえ問題だ。ましてや、また今日も必ず殺人を犯す男をだ。
 警官の職務の怠慢にわずかな憤りを覚え、だがすぐに、中沢はそんな自分に苦笑した。
 その殺人犯がまさに自分自身であるというのに、まるで他人事のように考えている自分が可笑しくてならなかった。そしてなぜか、警察署に来るまでは出頭することがいちばんの救いだと思っていたのに、そうしなかったことにほっとしている自分がいた。
 やはり決意を固めたとはいえ、一度その覚悟が失せてしまえば、殺人犯になってしまうことの恐れが湧き上がり、心と身体はその場から逃げることを選択した。
 だがしかし、これでまた、妻を殺す日々がつづくのだ。
(この手で僕はまた、妻の首を……)
 中沢は両の手のひらを見つめた。
「どうして僕は……どうすればいいんだ……」
 苦痛を言葉にして吐き出した。
 と、そのときだった。
 いいじゃないか――
 とつぜん、そう言う声が聴こえた。
 中沢は思わず周囲に眼をやった。
 だが、辺りには人の気配さえない。
〈いいじゃないか――〉
 また、その声がした。それは脳裡に直接響いてきた。
「この声は、いったい……」
 中沢は頭を抱えた。
〈なんどだって、殺せばいい――〉
 なおも声は響く。
「なんだこれは。幻聴なのか」
〈幻聴ではない〉
「やめろ! 僕の頭から消えてくれ!」
 声を消し去ろうと、中沢はかぶりをふった。
〈なんだ。ずいぶん冷たいじゃないか。まあ、俺もそうしたいところだが、そうもいかないのさ〉
「どういうことだ!」
〈そんなことは、どうだっていいじゃないか。それより、おまえはなぜ、自分を偽る〉
「偽る? 僕がなにを偽っていると言うんだ」
〈フン、とぼけるつもりか〉
「とぼけてなどいない。わからないから訊いているんだ」
〈ならば教えてやろう。おまえはな、妻を殺したいんだよ。そうすることが、おまえの望みなのさ。そうだろう?〉
「な、なにを言ってる。ふざけたことを言うな!」
〈ふざけてなどいないさ。キサマだってわかっているはずだ。おまえ自身がそれを望んでいることを。なのにおまえは、そう望む自分を偽っているのさ〉
「でたらめだ! 僕はそんなことを望んでやしない!」
〈でたらめなものか。俺は知っているぞ。おまえのことなら、なにもかもな〉
「ふざけるな!」
〈だからなんども言わせるな。俺はふざけてなどいない。真実を言っている〉
「馬鹿な。僕のなにを知っていると言うんだ」
〈おまえが妻を殺すたびになにを思っているのか、なにを考えているのかをだよ〉
「なんだと! おまえはいったい、何者なんだ!」
〈俺が何者かだって? 知りたいなら教えてやる。俺はおまえだよ。正確に言うならば、おまえの心の淵に追いやられた、おまえの本性といったところか〉
「フン、なにを言い出すかと思えば、おまえが、僕の本性だと? やはりおまえはふざけているじゃないか。そうか、わかったぞ。おまえは、僕を罠に陥れてただ眺めている者たちのひとりだな」
〈なんだそれは。面白いやつだ〉
 声は、可笑しいとばかりに笑った。
「なにが可笑しい」
〈ククク、これが笑わずにいられるか。なぜ俺が、キサマを罠に陥れなければならない。俺はおまえだというのに〉
「それを信じろというほうが、よほど可笑しい」
〈信じるも信じないも、それはおまえの勝手だ。だがな、こうしておまえと会話を交わしているのはどうだ。これも信じないというのか?〉
「信じろというほうが無理だ。おまえはただの幻聴でしかない」
〈どうしても幻聴にしたいらしいな。そんなだからおまえは、真実がわからないのだ。いや、自ら避けているといってもいい。自分を偽っているのも、その現われだ〉
「おまえこそ、妻を殺すことを望んでいると、僕に思わせたいんじゃないのか」
〈それが事実なのだからしかたがない〉
「違う! 僕はほんとうに……」
〈ほんとうに、のあとはなんだ? 殺すつもりなどない、とでも言いたいのか? ならば、なぜ殺す。なぜ殺す必要があるんだ。それなのにおまえは、なんども妻を殺した。それを何者かによって罠に陥れられたなどと。なんとも救いがたいやつよ〉
「違う。違うんだ……」
〈なにも違わないさ。おまえは、良心の呵責に苛まされているだけだ。それはおまえの弱さだ。そんなものは、路地裏にでも棄ててしまえ。どうせおまえは、また妻を殺すのだからな〉
「いやだ! 僕はもう妻を殺したくない!」
〈そうだな。おまえは、妻を殺すたびにそう思う。もう殺したくない、と。だが結局は殺してしまう。そしておまえは苦しむのだ。なぜだ、なぜなんだ、とな〉
「違う、違う、違う!)
 中沢はかぶりをふった。
〈なにが違うと言うんだ。言い訳がましくうじうじするのはよせ。よく思い出してみろ。妻を殺すときの自分自身を。おまえは笑ってさえいるのだぞ。それこそが、おまえが妻を殺すことを望んでいる証拠だ〉
(ほんとうにそうなのか。僕は、妻を殺すことを望んでいるのか……)
 中沢は自問するように胸で呟いた。
〈そうさ。おまえはな、望んでいながらそれを受け入れず、偽ることで自分をごまかしている。なぜなら、妻を愛しているからだ〉
「ああ、そうだよ。僕は礼子を愛している。だからこそ殺したくない。なのになぜ、その礼子を、殺すことを望んでいるというんだ」
〈それは、おまえがいちばんわかっているはずだ〉
「そんなこと、わかるわけがない。教えてくれ。どうしてなんだ」
〈だから言ったはずだ。よく思い出してみろと〉
「なにを思い出せばいいんだ」
〈それも言ったはずだ〉
「礼子を殺すときの自分自身……」
〈そうだ。そのときのおまえの中には、なにがある〉
「僕の中にあるもの……」
〈思い出せ。妻を殺すときの、おまえの心の奥底を〉
 そこで中沢は眼を瞑り考えた。
「狂気……」
〈その調子だ〉
「憎しみと怒り」
〈そうだ、いいぞ〉
「失望と哀しみ」
〈それから〉
「絶望と苦悩」
〈まだあるはずだ。思い出せ〉
 中沢は考えながら、辛そうに眉根をよせた。
「これ以上は、もうわからない」
〈クク、まったくおまえというやつは、肝心なことはなにも思い出せないのだな〉
 声がまた笑っているのが脳裡に響く。
「そのとおりだよ。なにも思い出せない。いや、そうじゃない。僕はそのとき、意識を失っている。だからいま言ったことは、いまだからこそ言えるんだ。そう感じたと。だから教えてくれ! なぜ僕は、妻を殺すことを望む。なぜ妻を殺してしまうんだ。この僕の中には、いったいなにがあるというんだ」
〈それを知りたいか〉
「知りたい」
〈それを知れば、おまえがおまえでなくなってしまってもか〉
「僕が僕でなくなる? どういうことだ。おまえはそれを思い出せと言ったじゃないか」
〈自分自身で思い出すならば、まだ救われるということもある。だが、おまえの場合はさほど大差はないかもしれないがな〉
「なんだっていい。教えてくれ」
〈ではこうしよう。まずキサマに質問をする〉
「質問? それに答えれば、教えてくれるのか」
〈それはどうかな。それに答えようが答えまいが、それはおまえの自由だ〉
「どうやら、いいようにあしらわれているみたいだな。どうせ最後には、答えは自分の中にある、とでも言うんだろう」
 中沢がそう言うのを無視し、
〈さあ、どうする〉
 声は答えを求めた。
「クソッ、わかった。答えるよ」
〈では訊くが、おまえはいま、現実の中にいるのか? それとも夢の中か?〉
「その質問はやめてくれ。答えようがない。なにがどうなっているのかも、僕にはわからないんだ」
〈そうか。現実と夢の区別がつかなくなっているのか〉
「区別とかそういうことじゃない。いま僕に起きていることは、現実ではありえないことだ。だけど、夢の中にいるとは、とても思えない。夢はいつだって、なにもかもがぼんやりとした不確かなものだ。しかしここは、礼子が生き返ってくる以外は現実そのものだ。不確かなものはない。それに僕は眠るし、夢だって観る。そして夢なら必ず目醒める。はっきりと言えるのは、いま僕は、目醒めている」
〈なるほど、現実か夢かがわからず、それでおまえは、自分を罠に陥れている何者かの存在がいると妄想したのだな〉
「なんとでも言え」
〈なんだ。怒ったのか?〉
「いや、いまの僕には怒る気力もない。僕はきっと、狂ってしまったんだな。そうとしか思えない。わけのわからぬおまえと、こうして会話をしていること自体がその証拠だ」
〈クク、俺は幻聴ではなかったのか?〉
「幻聴も妄想とおなじようなものだ。僕が正気なら、おまえなど存在しない」
〈フン、まあいいだろう。ならばもうひとつ訊こう。おまえがいまいるのが、夢の中の現実だとしたらどうする。醒めることない夢なのだとしたら〉
「なに? 夢の中の現実? 醒めることのない夢だと? そんなこと信じられるか」
〈またも信じられぬか〉
「当然じゃないか」
〈それも、おまえの自由だ〉
「自由? さっきもおまえはそう言ったが、この僕のどこに自由があるんだ」
〈選択の自由〉
「そんなもの、なんの役にもたちやしない。いや、なにもわからない僕に、選択の余地さえあるものか」
〈おまえはいったいなにを聞いているんだ。俺はおまえの知りたいことを話したばかりだぞ〉
「ああ、確かに聞いたよ。いま僕がいるのは夢の中の現実で、それも醒めることのない夢だって言うんだろ? そうだな。どうやら僕は、ぐっすりと眠りすぎていて、目覚まし時計が鳴っているのに起きないのかもしれないな」
〈それは冗談か? それとも厭味か〉
「その両方だよ」
〈おまえは混乱しているようだな〉
「混乱しないほうがおかしいだろう。とにかく、おまえの言うことがもしほんとうだとするなら、僕はどうすれば、醒めることのない夢から醒めることができるんだ」
〈ほう、初めてまともなことを言ったな〉
「そんなことはどうだっていい。この夢から目醒める方法を知っているのか、知らないのか」
〈知っているとも言えるが、知らないとも言える〉
「いったい、どっちなんだよ!」
〈そう怒鳴り立てるな。怒鳴らなくとも、おまえの声はよく聴こえる。少し冷静になったらどうだ〉
「冷静になれだって? よくもそんなことが言えたものだ。僕の身にもなってみろ」
〈なっているさ。俺はおまえだからな〉
「そうか、すっかり忘れていたよ。だったら、この夢から目醒める方法なんて知っているはずもないよな。なんたって、おまえは僕なんだから」
 中沢は投げやりに言い棄てた。
〈また厭味か〉
「そうさ。厭味だよ。僕が僕自身に厭味を言ってなにが悪い。どうせなにも変わらないんだ……おまえは、いったいなんのために現れたんだ」
〈起きたことには何事にも意味がある。いまおまえに起きていることにも、そして俺が現れたことにもな〉
「だったら、おまえが現れたのは、夢から目醒める方法を教えるためじゃないのか。そうでなければ、おまえが現れた意味がない」
〈どうやらキサマは勘違いしているようだな〉
「勘違い?」
〈そうだ。俺が現れたのはそんなことのためではない〉
「他にどんな理由があるというんだ」
〈そうだな。ただのひまつぶしとでも言っておこうか〉
「なんだとッ!」
 中沢は憤りをあらわにした。
〈クク、怒る気力もないと言っていたが、気力はじゅうぶんにあるじゃないか〉
「これが怒らずにいられるか!」
〈そう怒るな。おまえの厭味に、少しばかり仕返しをしただけだ。実のところ、俺にもわからないのだ。ふとすると、おまえの声が聴こえてきて、俺はそれに反応していた〉
「それだけか。まったく。結局、おまえが現れたことには、なんの意味のないってことじゃないか」
 ため息をつくように、中沢は呼気を吐いた。
〈一見そう見えるものにも、必ず意味はあるものだ〉
「そんなんじゃ、埒があかない」
〈まあ聞けよ。おまえの声に反応したときだ。俺はその一瞬におまえのすべてが見えた。そして同時にわかったのだ。おまえが俺であり、俺がおまえであるいうことがな〉
「そんなことがわかったからといってなんになる。僕にはなんの意味も持たない」
〈そんなことはない。意味はあるのだ。おまえの思うことは俺の思うところでもあるのだからな。利害は一致するのだ〉
「なら、おまえもこの夢から目醒めたいということなんだな」
〈目醒めるのはおまえだが、まあ、そういうことになるな〉
「だったら、目醒めるために協力してくれ」
〈それはできない。だがひとつ教えてやる。この夢から目醒めたいのなら、さきほどおまえが妻にしようとしていたことをもう一度、今度は着実に実行するのだ〉
「なに! それは――」
〈そうだよ。妻の死体を切断するのさ。そうすれば、さすがにおまえの妻も生き返りはしないだろう。断定はできないがな〉
「しかし、僕にはとても……」
〈できないか。できないのならそれもいいさ。だが、この夢からは永遠に目醒めることはない。それでいいのであればな〉
「だからといって、礼子の身体を切断するなんて……」
〈なにを言う。一度はそうしようと、のこぎりを手にしたのだろうが。ならばもう一度その手に握ればいいのだ。死体となった女の身体に、のこぎりの刃を突き立て、血飛沫を浴びながらばらばらにするのだ。どうだ。想像するだけでゾクゾクしないか? 思わずイってしまいそうだよ〉
「ふざけるな。礼子は僕の妻だぞ!」
〈おう。そうだったな。女はおまえの妻だった。忘れていたよ。死者には敬意を払わなければな〉
「とぼけたことを言うな」
〈フン。だがおまえは、その妻を殺したのだぞ。なんども、なんどもな〉
「言うな。しかたがなかったんだ……」
〈人ひとりを殺して、しかたがなかっただと? ずいぶんと勝手なものだ〉
「おまえになにがわかる!」
〈俺はおまえなのだ。わからぬことなどあるものか。おまえは妻の裏切りに耐え切れずに殺したのだ〉
「違う! 僕は……」
〈ああ、わかっているさ。それも愛するがゆえ、と言いたいのだろう? しかし、いまはどうだ。殺しても殺しても生き返ってくる人間を、妻として愛せるのか?〉
「なんど生き返ろうとも、礼子は僕の妻だ」
 その言葉を、中沢は胸の中で噛みしめた。
〈なるほどな。おまえは、ほんとうに妻を愛しているのだな。ならばどうだ。いっそ殺すのをやめて、この夢の中で暮らしていけばいいじゃないか〉
(僕もそうしたいと思ったよ。だがいつも、気づくと礼子を殺しているんだ。だから僕は……)
〈妻をばらばらにしようとして失敗し、警察に自首するつもりだったのだな〉
(――――)
 中沢は眼を伏せた。
〈だが、警察に行ったことは褒められたことではない。どうせ妻は生き返るのだ〉
「事件の場合は、司法解剖される」
〈そうか。なるほど。おまえは自分にできないことを、警察の手に委ねるつもりでいたのか〉
「確かにそうも思ったよ。でも、ほんとうに罪を償おうとしていたんだ」
〈なのに、罪人になることが恐くなって逃げ出してきた〉
「――――」
 中沢には、返す言葉もなかった。
〈しかし、司法解剖されるとしても、今日の今日というわけではあるまい。とすれば、妻はやはり生き返ってくる。生きていれば殺人罪は成立しない。殺人未遂にしても、妻が認めなければやはり成立はしないだろう。自首したとしても無駄骨に終わっていたということだ〉
「だったら、どうしろと言うんだ!」
〈おまえというやつは、どうしてそうもおなじことを問うのだ〉
「わかってるさ。礼子の身体を切断しろと言うんだろう?」
〈そうだ。ほんとうに目醒めたいのならばそれしかない。生き返る前にな。よく考えてみろ。なんどもおまえに殺される妻のことを。その記憶を、生き返るたびに失ってしまうのかどうかは知らんが、しかし、そんな日々は地獄だぞ。妻を解放してやれ。愛しているのならばこそやるのだ〉
「他に方法はないのか」
〈俺はその答えを持っていない〉
「どうしてもやらなきゃだめなのか」
〈やるのだ〉
「そうすれば、目醒めることができるんだな」
〈それはわからない。だがやるのだ〉
「もし、それでも目醒めることができなければどうする」
〈それはそれでしかたがない。だが、なにかが変わるはずだ。これまでとは違うなにかがな。そして思い出すのだ。おまえの中にあるものを。それこそが真実なのだ〉
「なに? 真実?」
〈そうだ。思い出せ〉
 そう言う声が、そのとき、わずかばかり小さくなった。
「それを思い出せないから、訊いているんじゃないか」
〈答えは――おま――中に――る――〉
 その声は切れ切れになり、しかもかすかに聴こえてくる程度になった。
「おい。なにを言っているのか聞き取れない」
 それに声は答えない。
「どうした。なんとか言えよ」
 やはりそれにも声は答えない。
「なんだよ、おい」
 それからなんども呼びかけてみたが、脳裡にはもう声が響いてくることはなかった。
 中沢は放心したように、その場に立ちつくしていた。
(あの声は、いったいなんだったんだ……)
 しばらくして、中沢はようやく歩き出した。
 まだ人通りも少ないが、それでもちらりほらりと出勤のために駅へと向かっていくサラリーマンの姿がうかがえた。
 どの顔にも朝の清々しさはない。かといってこれから会社という戦場へ向かう気概も凛々しさも見受けられない。あるのは、前方へと馳せるどんよりとした眼差しと、老兵のように疲れきった足取りだけだった。
 すれ違っていくサラリーマンの姿に、自分もあんな姿だったのだろうかと、中沢はそんな思いに浸った。
 皆、人生を生きていくために自己を削っている。それを思えば、納得のいかない解雇ではあったが、それもそれほど悪くはなかったのかもしれない。
 ふと、そんな感慨めいたことまで考えている自分に、中沢は首をふった。
(なにを考えてる。僕はそれどころではないじゃないか……)
 とつぜん脳裡に聴こえてきたあの声は、ここは夢の中の現実なのだと言った。醒めることのない夢なのだと。だが、中沢にはどうしても、自分がいま夢を観ているとは思えなかった。眼の前にある町並みはすべて鮮明であるし、鳥たちの囀りや朝の新鮮な空気も、なにもかもが現実的なのだ。有り得ないものが存在するとか、信じられない現象が起きるとか、そういった不確かなものはなにひとつとしてない。
 そう、なんど殺そうとも生き返ってくる妻の存在を除いては。
 もうなんど妻を殺したことだろう。そのたびに妻は生き返ってくる。
 なぜ、そんなことが起きてしまったのか。
 その問いでさえ、なんど考えたことだろうか。そしてなんど、妻を殺したくないと思ったことだろう。今日は殺すまい 今日こそは殺すまいと、呪を唱えるかのように。
 なのにまた、かならず殺してしまうのだ。なんどもなんどもおなじように首を絞めて。
 殺したくない、そう思っても、中沢の手は意思に反して妻の首に伸びている。
いや、そうではない。そのとき、彼には意思がないのだ。
 意識が途絶えてしまっているのだ。
 妻の首を、中沢はいつも無意識のうちに絞めている。
 だから彼には、妻の首を絞めている認識はなく、ただあるのは忘我の中で味わう悦楽感だった。
 それは、ベッドへといざなう妻の眼を、その肢体を見たときからはじまる。
 いや、違う。それはもっと前だ。妻と会話を交わしながら食事をし、言葉に触れ、声に触れ、微笑みに触れ、やさしさに触れ、そのしなやかな指先が頬に触れてきたときから、すでにはじまっているのだった。
 中沢の意識はしだいに薄れはじめて、身体の芯が痺れ、その奥底で何かが殻を破り、弾けて、本能の赴くまま欲情の塊へと化していく。そしてそれは、強く烈しく交わることを求め、溶けて、螺旋を描きながら高みへと昇っていくのだ。すべてを吐きつくして果てるまで。
 意識を取りもどしたとき、傍らの妻は死に絶えている。
 いつもそうだ。
 なぜそうなるのか。それがあの声が言っていた、「自分の中にあるもの」によって引き起こされることなのだろうか。
 わからない。
 どんなに思い出そうと試みても、頭に浮かんできそうでいて、それは靄のかかった闇へとすぐに消えていってしまう。
 それを思い出せ、と声は言った。それこそが真実なのだ、と。
 その真実とはいったい何なのか。それをどうやって思い出せばいいのか。
 わからない。
 だが、どうにかしてでも、思い出さなければならない。そうしなければ、このまま永遠に妻を殺しつづけなければならないのだ。
 その思いを胸にいだき、気づくと自宅の前に着いていた。
 玄関のドアを開け、中沢は中の様子を窺った。リビングには灯りは点いていない。まだ薄い闇を残した自宅の中は、静寂に包まれて物音ひとつしなかった。
 廊下へ上がり、浴室の前に立つ。
中沢はためらいがちに、手を伸ばして扉を開けた。
 浴室の床には、全裸の妻の死体が横たわっている。右腕の手首からは血が流れ出していて、床を赤く染めている。その傍らには、やはり血の付着したのこぎりが投げ出されたままである。
 死体の妻には、まだ生き返る気配はない。いや、妻の死体はいつもいつの間にか消え去り、そして夕刻になると姿を現す。
 だから、死体であるいま――
(やるしかない……)
 中沢はリビングに向かい、食卓に置いたままだったバーボンのボトルを手に取ると、また浴室へともどった。
 仁王立ちで妻の死体を見下ろす。
(やるしかないんだ……)
 あの声が言ったように、この夢から目醒めるためには、妻の死体が消える前に肉体をばらばらに切断してしまわなければならない。
 その思いに、中沢は妻の傍らに跪き、のこぎりを手にした。
血の付着した鮫の刃は、まだ血を欲しているかのように鈍い光りを放っている。
 中沢はバーボンをボトルのまま口にした。
 酒を飲んだくらいで、肉体を切断する恐ろしさが払拭できるわけがない。そんなことは、一度の失敗でわかっている。だが、飲まずにはいられなかった。
 むせかえるのもかまわずに、喉を鳴らして飲んだ。半分ほどあったボトルは、あっという間に殻になった。それでも、酔いがまったく回ってこない。
 中沢は苦しまぎれに妻の右腕を押さえた。
 腕が冷たくなっている。血の流れはもう止まっているのに、腕を強く押さえているからなのか、傷口からは血がどくどくとあふれ出してきた。
 それを眼にし、思わず怯んでしまう。
 瞼を強く瞑る。
(こんなことで怯んでなんていられない。やらなければならないんだ!)
 中沢は血があふれ出してくる傷にのこぎりの刃をあてた。
 手に渾身の力をこめてのこぎりを挽く。

 ぐちゅ――

 血が飛沫をあげ、肉を切る嫌な感触がつたわってくる。刃先はすぐに骨にあたり、更に今度は耐え難いほどのおぞましい音を立てはじめた。

  ごり、
  ごり、
  ごり、

 その音と手に伝わってくる感触に、悪寒のような怖気がぞわぞわと首筋にまとわりつくように這い上がってきた。
「うぐぐぐッ……」
 堪えきれず、のこぎりを投げ出したくなる。その衝動をぎりぎりのところで抑え、何とか妻の腕から手首を切り離した。
 強烈な痛みが胃袋を襲う。それとともにみぞおちが痙攣を起して収縮をくり返して、中沢はなんども嘔吐したが、吐き出されるのは苦い胃液ばかりだった。それでものこぎりを手から放さず、刃先を今度は肘の関節にあてて、力をこめて挽いた。
 ぐちゅう――
「ぐぐぐぐ……」
 迸る血を顔に浴び、全身総毛立ちながらも、中沢はのこぎりを挽きつづける。

  ぐちゅり、
  ぐちゅう、
  ごり、
  ごり、
  ごり、

 血に染まった中沢の顔がしだいに狂気を帯びてくる。つり上がった眼は真っ赤に充血し、その形相は人とは思えないほどの狂乱を見せていた。
 浴びつづける血が目尻にたまり、やがてそれは赤いすじとなって伝い落ちる。それはあたかも血の涙を流しているように思えた。
 いや、中沢はじっさいに哭いていた。ぎりぎりと奥歯を噛みしめて、叫びたいほどの苦痛に耐えながら哭いているのだった。
 我を忘れて妻の肉体を切断していく。そうして切断した四肢は、浴槽の中へと落としていった。
 赤く彩られていく浴室は、粘りつく血の臭気で充満した。
 美しかった妻の肉体からは四肢のすべてが切り放され、そして中沢は、血の滴るのこぎりを、今度は首ではなく腹部へとあてた。
 どれほど狂気に身をゆだねようとも、首を切り落とすとなればさすがにためらいが生じてしまう。少しでもためらってしまえばもうそこからは、ほんのわずかものこぎりを挽くことはできなくなってしまうだろう。
 腹部にあてたのこぎりを挽く。
 
  ぐちゅ、
  ぐちゅ、
  ぐちゅり、

 鮫の刃が腹部の肉を、そしてはらわたを喰い破っていく。

  ぐちゅり、
  ぐちゅる、
  ぐちゅ、

 はらわたが刃に粘りつき、動きを阻むかのようにまとわりついてくる。
「しゅう、しゅう、しゅう」
 狂鬼と化した中沢の口許からは、声ともつかない息づかいが洩れていた。
 と、そのとき、その息づかいに絡みついて声が聴こえてきた。
 中沢はのこぎりを持つ手を止め、耳をすませた。
 その声はわずかな間をおいて、また聴こえてくる。
「痛い……」
 かすかだが、声はそう言っていた。
 中沢はハッとして妻の顔へと眼をやった。
「痛い……痛い……」
 確かにその声は、妻の口からこぼれ出ている声だった。
「痛い……どうして……」
 とつぜん、眼を剥いた妻の眼が、ぎろん、と動いて中沢を睨んだ。
「ひッ!」
 中沢は慄きに凍りついた。
「あなた、痛いわ……腕も足も動かないのよ……私、どうなってしまったの?」
 妻は頭を上げて自分の身体を見た。
「え、私の腕と足がないわ! あなた、これはどういうこと? お腹からもすごく血が出てる。どうして?」
 驚愕に中沢の顔が蒼ざめていく。
「あなた、どういうことなのよ! ねえ、答えてよ!」
 中沢は眼を瞑り、かぶりをふった。
 と、
「おい、答えろよ!」
 妻の口調がとつぜん変わった。
「私の腕と足はどうしたんだよ、このやろう! おい、なんとか言え!」
 その声までが野太くしわがれたものへと変わり、腕と足のない身体をばたばたとばたつかせた。
「痛えよ、痛えんだよ、ちきしょう。腹から腸が飛び出してるじゃねえかよ。なんとかしろよ、このブタやろう!」
 切断された箇所から血を噴き出させながら、妻は罵声した。
「痛えよう、痛えんだよう。どうにかしやがれ、腐れやろうが!」
 中沢はどうすることもできずに、のこぎりを床に落として後ずさった。
「痛いよう、苦しいよう、うーん、うーん」
 妻は悶絶の声を上げる。
 たまらず中沢は両手で耳を塞ぐ。
「許してくれ、礼子。僕が悪かった。だから許してくれ……」
 懇願するように呟いた。
 悶絶の声はしばらくつづき、そしてふいに静かになった。
中沢はそろりと顔を上げると、妻の様子を窺い見た。
「礼子……」
 声をかけてみたが返事はない。
「礼子」
 もう一度声をかけると、
「あなた……」
 小さいが妻自身の声が返ってきた。
「こっちへ来て……」
 そう呼ぶ。
 中沢は恐る恐る近づいていく。
 顔が見えるあたりで動きを止める。
「もう少しそばに……」
 言われるまま中沢は、妻の顔の間近にまで近づく。その顔も、声とおなじようにいつもの妻にもどっている。
「キスして。とても痛いのよ。だからおねがい……」
 妻が瞼を閉じる。目尻から涙が流れ落ちた。眉根をよせ顔をしかめて痛みをこらえているのがわかる。
「礼子、ほんとにごめんな。だけどしかたがないんだ。こうでもしなかったら、君は……わかってくれ」
 中沢は辛くなって、思わず涙があふれてきた。
妻を支えながらゆっくりと抱き上げる。顔を近づけていき口づけをしようとする。
 と、そのときだった。
妻の眼が突如、かっ、と見開かれた。と思う間もなく、妻は中沢の首に咬みついていた。
「うぐッ!」
 とっさのことに愕き、それでもなんとか引き放そうとする。しかし、妻の咬みついた歯が首に食いこんで放れない。力任せに引き放そうとすれば、肉を咬み切られてしまいそうだった。
「礼子……やめるんだ!」
 妻は一向に離れようとしない。それどころか、
「ぐわッ!」
 歯がさらに肉に食いこんできて、このままではほんとうに咬み切られてしまいかねなかった。
「くそッ!」
 中沢は苦しまぎれに、妻の腕の切断面に親指をずぶりと挿入させた。
「ぎいえぇぇぇぇぇ!」
 とたんに妻は断末魔の声を上げ、かぶりをふって悶え苦しんだ。
 中沢はその妻を腕から放して身を引いた。
「ちきしょう、なにしやがる、このクソったれがァ! おまえの喉を咬み切ってやるう!」
 妻の声がまたも野太くなり、そしてさらに、かつかつかつ、と歯を鳴らした。
 そう思うとまた、
「あなた、おねがい……たすけて……」
 いつもの妻の顔と声で助けを求めてきた。
 中沢はわけがわからなくなって、顔をゆがませて妻を見ていた。
 すると、
「このやろう、早くたすけろよう! その喉を咬みきらせてくれよう」
 妻は変貌をくり返した。
「やめろ……」
 ゆらりと中沢は妻に近づいていく。妻は中沢を睨みながら歯を、かつかつかつ、とやっている。
「礼子……たのむ、もうやめてくれ……」
 中沢は両手で妻の髪を鷲づかみにすると、後頭部を浴室の床に打ちつけた。

  ごん!

 鈍い音が浴室に響く。
「もう、耐えられない……」
 腕に力がこもり、後頭部を打ちつづける速さが増して強くなっていく。
「うああああああ!」

  ごんごんごんごんごん!

 狂乱の中で妻の後頭部打ちつづける。後頭部がぐちゃりと嫌な音を立てて潰れ、血があふれ出した。それでも中沢は、後頭部を打ちつづけるのをやめなかった。
 浴室の床は、妻の身体から流れる血で埋めつくされた。
 中沢の顔や身体も、鮮血で真っ赤に染まっている。彼はようやく妻の頭を打ちつづけるのをやめ、肩で息をした。
 妻は眼を剥いたまま絶命していた。口からもどろりとした血があふれ出している。
 中沢は荒い息を吐きながらのこぎりを手にし、躊躇することなく妻の喉元にあてた。

  ぐじゅり、
  ごり、
  ごり、
  ごり、

 無心でのこぎりを挽く。そのときの中沢は、感情のないまったく無表情の顔になっていた。

  ごり、
  ごり、
  ごり、
  ごりん、

 首が切り放された。
 中沢は無造作に髪の毛を摑むと、その首を浴槽へ落とした。
 浴槽に転がり落ちた妻の首は、見開かれたままの眼で天井を睨みつけていた。
 すぐさま胴体も切断していく。いくつかに分けて切断する姿はまれで、死体ではなく牛か豚の肉を解体作業をしているかのように見えた。
 切断が終わると、中沢はのこぎりを置いてふらりと立ち上がり、浴室を出て行くと大型のビニール袋を手にもどってきた。
 中沢はまずシャワーを水のまま出して、血の海と化した浴室を流しはじめた。
 浴室を真っ赤に染めあげていた血は、水に押し流されて排水溝へと追いやられていく。
 あらかた流し終えると、今度は切断してばらばらの肉塊になった妻にも水をかけていった。
 しばらくすると、切断面からはほとんど血が出なくなった。
 中沢はシャワーを止め、肉塊をビニール袋の中に入れていった。
 肉塊はふたつの袋に分けられた。それを脱衣所に置き、浴室の床や壁、そして浴室に液体洗剤を撒いていった。
 丹念に洗っていくその顔は、能面のように無表情のままだ。
 それは、人から感情を奪ったなら、きっとこういう顔になるのではないかと思えるほどの無機質なものだった。
 浴室を隅々まで洗い流し終えたころには、昼近くになっていた。
 中沢は肉塊のつまったビニール袋を持ってリビングへ向かうと、キッチンの冷蔵庫の前でそれを下ろした。
 冷蔵庫を開け、棚にあるものをすべて取り出し、最後には棚さえも取り外すと、空となったそこへビニール袋を重ねるようにして入れて扉を閉めた。
 そのとたん、中沢は崩れるようにその場に倒れ、そのまま眠りに落ちていった。

 若草の萌ゆる草原に、彼はひとり佇んでいる。
 どうしてそこにいるのか。
 彼はそんなことを考えることもなく、辺りを見渡している。
 清涼な風が草原の上を渡り来て、彼の頬をなでていく。
 とてもいい気分だ。
 ふと見上げれば蒼穹の空がどこまでも高く広がっていて、眼を閉じて耳をすますと、小鳥の囀る声が聴こえてくる。
 そこに存在するすべてが息づき、鮮明に彩られている。
 心は穏やかに満たされていた。
 不安や恐れは微塵もない。
 自分が自由なのだということが実感できる。
 大きく息を吸ってみると、なんとも清々しい空気が肺の中に浸透していった。
 彼は草原の中を歩き出す。
 どうして歩くのか。
 そんなことも彼は考えたりしない。
 歩きたいから歩く。
 ただそれだけだ。
 しばらく行くと、前方に小さく人影が見えた。
 彼は陽の光りに眼を細めて、人影に向かって歩いていく。
 その人影も、彼のほうに向かって歩いてきているようだ。
 歩みゆくごとに人影の姿がはっきりとしてくる。
 どうやら、その人影は女性のようだった。
 長い黒髪をした彼女は、水色のワンピースを着ている。
 彼はその彼女を知っていると感じている。だが、それはあくまでそう感じるというだけで、彼女に見覚えなどなかった。
 美しい黒髪を風になびかせ、彼女は微笑みを浮かべた。
 彼も微笑みを返す。
 彼女は三メートルほど手前まで歩いてくると、
「ごきげんよう」
 足を止めてそう声をかけてきた。微笑みは崩さない。
 彼は返事を返そうか迷い、それでも、
「こんにちは」
 照れくさそうにそう返した。
「とてもいい日和だわ」
 風になびく黒髪を掻き揚げながら、彼女は空を見上げた。
「そうだね」
 彼もおなじように空を見上げる。
「あなたは、どちらからいらしたの?」
 彼女が問う。
「それが、僕にもわからないんだ」
 彼は、ほんとうにわからなかった。
 彼女が小首を傾げ、
「自分がどこから来たのかがわからないなんて、おかしな人だわ」
 不思議そうに彼を見つめた。
「確かにそうかもしれないね。なら、君はどこから来たの?」
 彼もおなじ問いを投げかけた。
「わたしはどこからも来ていないわ。ずっとここにいたんですもの」
「ずっとここに?」
「そう。ここでずっと、あなたを待っていたの」
「僕を待っていた? 君は僕を知っているの?」
「知っているわ。あなたのことを」
「でも君は、僕がどこから来たのかを訊ねたじゃないか」
「そのときはあなたを知らなかったの。でもいまは知っているわ。そしてわたしは、あなたを待っていたの」
「ちょっと待ってくれ。君はいままで僕のことを知らなかったというのに、どうしていまは知っているのかな」
「それは、あなたがあなたであるからだわ。あなた以外のあなたなら、わたしはあなたを知らないはずだもの」
「僕にはよくわからないよ。もう少しわかりやすく教えてくれないか」
「ほんとにおかしな人ね。それを知ったとしても、なんの意味もないのに」
「意味があるかどうかは僕が決めるよ。だから、どういうことなのか教えてほしいんだ」
 それに彼女は、どうしてそんなことを訊くのかわからない、といった表情を浮かべ、
「わたしが教えるまでもないはずよ。あなたがあなたである以上、あなたはすべてを知っているはずだもの」
 そう答えた。
「僕がすべてを知っている?」
「そうよ。だって、ここはあなたの世界なんですもの。そしてわたしはこの世界のたったひとりの住人。だからあなたに会ってはじめて、あなたがあなたであることがわかったのよ」
「ここが僕の世界って、どういうことなんだ。理解ができない」
「理解する必要なんてないわ。あなたはあなたであって、そしてここはあなたの世界。だから、それ以外はなんの意味もないのよ」
「なにがなんだか、さっぱりだ。だったら訊くけど、君は僕を待っていたと言ったね。それはどういうことなんだ? それには、理由とその意味があるだろう?」
「あなたを待っていた理由とその意味……そんなこと考えてもみなかったわ」
「それだけじゃない。君はこの世界のたったひとりの住人だと言ったけれど、自分がどうしてひとりなのかって、いままで考えたことはないのかい?」
「あなたはいったいどうしてしまったの? あなたがあなたであるように、わたしはこの世界の住人なの。たったひとりでいることも、初めからそうであるからなのよ。だから、あなたを待っていたことに理由とその意味があるとするなら、ここであなたに会ったことがそのすべてだと思うわ」
「だったら君は、僕にただ会うためだけに待っていたというのか」
「そうよ。それ以外になにもないもの」
「どのくらい君はここにいるんだ」
「それにどんな意味があるというの」
「君には疑問を持つということがないのか」
「疑問? ほうとうにあなたは、おかしな人ね。ここはあなたの世界よ。あなたそのものと言ってもいいわ。それなのに、どうしてそんな愚問を投げかけてくるのかしら。わたしには、それ自体が疑問だわ」
「わかった。わかったよ。ここが僕の世界だというのなら、君は僕の創造だとでもいうのか!」
 彼はさすがに苛立った。
「わたしを幻滅させないでほしいわ。もしかすると、あなたはあなたであって、あなたではないのかしら」
 彼女のほうも苛立っているのか、口調が険しくなった。
「僕は僕だよ。他のなにものでもない」
「そう。だったら、わたしはそれを信じるわ。ただ、もう問うのはやめにしてほしいの。意味のないことを問うのは、あなたをあなたでなくしてしまうことだから。もしかするとあなたは、忘れてしまったのか、それとも失ってしまったのかもしれないわ。あなたの中の大切なものを」
「僕の中の大切なもの……」
 その言葉に彼は、胸に中に引っかかるものを覚えた。
 どこかでそれとおなじような言葉を聞いた気がする。それがいったいいつで、どこでだったのか。だかそれを、思い出すことはできそうにない。
 すると、そのとき、
 思い出すのだ――
 とつぜん、その声が脳裡に響いた。
〈――思い出すのだ。おまえの中にあるものを。それこそが真実なのだ〉
「なんだ、これは……」
 彼はこめかみを指先で押さえた。
「どうかしたの?」
「いま声が聴こえなかった?」
「声? わたしには、あなたの声だけしか聴こえていないわ。どうして?」
「いや、いいんだ。なんでもない」
 彼は上辺の笑みを頬に貼りつけた。
「そんな嘘をついてもだめだわ。あなたのその顔は、なにかを思い出したっていう表情よ」
「その逆だよ。ヒントが舞いこんできたっていうのに、なにも思い出せやしない」
彼は眉根をよせ、視線を斜めに伏せた。
「いいじゃないの。なにも思い出すことなんてないのよ。ここはあなたの世界。そしてわたしがいる。なのに、なにを思い出す必要があるの? 空は蒼々と広がっていて、草原にはやさしい風が吹いているのよ」
 彼女は彼に近づいていくと、頬に口づけをした。
「さあ、来て」
 彼の手を引く。
「どこへ行くの?」
 彼女はそれに答えず、彼の手を引いて歩いていく。
 彼もそれ以上は何も問わずに、彼女に引かれるままについていった。
 しばらく歩いていくと、草原の中に色鮮やかな花々が広がりはじめた。
 蝶がそこかしこに舞っている。
 ふと気づけば、ふたりは一糸纏わぬ姿で歩いていた。
 彼女が足を止め、彼の手を放すと花々の中に裸身を横たえた。
 美しい肢体がそこにある。
 陽の光りを浴びたその肢体は耀いていた。
 思わず彼は眼を細める。
 知らず知らずのうちに欲望が一点に集まっていき、彼の本能が膨張しはじめていく。
 膨張し、塊となった本能は天を仰いで脈動する。
 彼女が半身を起し、脈動する彼の本能の塊に手を伸ばした。
 白く細い指先が滑らかに動く。
「うッ!」
 とたんに、彼の口から悦楽の声が洩れる。
 刺激が脳を痺れさせる。
 彼女は妖しい眼で彼を見上げ、本能の塊に唇を近づけた。
「ああッ……」
 彼女の唇が、舌が、本能の塊を深く浅く、そして緩慢に滑る。
「う、ううッ……」
 波となって迫りくる快悦に、彼は耐えられなくなって彼女を花々の中へと押しやった。
 唇を吸い、舌を絡ませ合う。
 ふたりの息が呼応する。
 豊かな乳房を手のひらに包みこみ、彼は唇を、耳へ、首すじへ、肩へ、乳房へと滑らせていく。
 彼女は吐息を吐く。
 彼は乳房の先端を吸い、歯を立てる。
「あ、あッ……」
 悲痛にも似た声を彼女が洩らす。
 彼はさらに下方へと唇を滑らせていく。
 淡く燃える炎のような頼りない陰草を舌先で掬う。
 その陰草の下には、陽光を浴びて息づく花がある。それは、周囲を埋め尽くすどの花よりも美しい一輪の花だった。
 その花へと、彼は唇をよせる。
「ああッ……」
 彼が執拗に責め立てると、彼女の声は切ないものへと変わっていった。
「あなた……」
 そう呼ばれて、一瞬、彼は動きを止めた。
 その声に、聴き覚えがあった。
 彼女との会話の中では気がつかなかったのに、いま呼ばれたことで初めてそれに気づいた。
 いつかどこかで、そう呼ばれたことがあった。
 それは、心から愛した女ではなかったか。
 愛しい声。
 だがそれを、どんなに思い出そうとしても、思い出すことができない。
「あなた……」
 もう一度、彼女はそう呼ぶと、両手を伸ばし、彼の顔を引き上げた。
 彼は膨張しきった本能の塊を、蜜であふれた彼女の花びらの中へと沈めていった。
「あ、ああッ!」
 その声が合図とでもいうように、彼は腰を動かしはじめた。
 早く、そしてゆっくりと。
 浅く、深く、さらに深く。
 彼女は喘ぎ、その声が大きくなっていく。
 烈しい息が絡み合い、ふたりは高みへと昇っていく。
 そんな中、彼女が彼の手を取り、自分の首へといざなった。
 なんだ。なにをしている――
 彼女の顔を見る。
 絞めて――
 彼女の眼がそう言っている。
 彼は思わず手を引く。
 すると彼女は、彼の手首を摑んでまたも首へと持っていく。
「なにをしてる。やめるんだ!」
 彼はそれに抗おうとするが、彼女の力には敵わない。
 絞めて――
 彼女の眼から、その声が聴こえてくる。
 そのとたん、彼女の顔が別人のものに変わった。
 彼はそこでやっと思い出す。
 その顔を憶えている。
「礼子……」
 そして自分がだれなのかも思い出す。
 さあ、絞めて――
「やめろ、やめろ、やめろ!」
 あなた、なにをしているの。さあ、早く――
「うわあああああッ!」

 中沢は飛び上がるようにして眼を醒ました。
 肩で息をし、何が起きたのかわからずに後ずさりした。
 キッチンの収納に背があたると、それだけで身体をビクつかせて怯えた。
 烈しい胸の鼓動が耳にこだましている。手にこびりついた血にハッと気づいて両手を見た。
「なんだ、これは!」
 どこか怪我をしているのではないかと身体に眼をやり、シャツにべったりとついた血を見て、中沢はまたも声を上げた。
 怯えきった顔で宙に眼を泳がせ、自分の置かれた現状を思い出すのにしばらくの時間を要した。
「そうか……僕は礼子を……」
 妻を切断したときの光景が脳裡にまざまざと甦った。
 のこぎりを挽き、肉を切り、骨を切った感触が血のこびりついた手に残っている。
 中沢はゆらりと立ち上がり、冷蔵庫の前に立った。
 扉に手をかけ、だが、開けることなく浴室へと向かった。
 熱めのシャワーを浴びると、妻に咬みつかれた首の傷が沁みた。
 備えつけの鏡で見てみると、血が滲んでいる程度ではあるが歯型の痕がくっきりと残っている。
 なんどもボディソープを手に取り、身体を洗った。それでも、まるで自分の体内から流れ出しているかのように、排水溝へと流れていくシャワーの湯には血が滲んでいた。
 ようやく血を洗い流し、浴室を出てキッチンへ行くと、中沢はグラスを取って水道の水を入れた。
 冷蔵庫にはミネラルウォーターが入っているが、扉を開ける気にはなれなかった。
 グラスの水をたてつづけに二杯飲んだ。喉が渇き切っていた。三杯目を口にしたところで、やっと喉の渇きを癒すことができた。
 リビングに行き、ソファに腰を下ろす。
 少しでも精神を休めようと思うが、とてもそれどころではない。
 これでほんとうによかったのか。
 そんな思いが脳裡をかすめて、心を縛りつけてくる。その思いを払拭しようと、これでよかったんだ、これでやっと解放されるのだと言い聞かせるのだが、そうするそばから、とんでもないことをしてしまったという意識が、触手のように心を絡めとるのだった。
 神経が剥き出しになってしまったような感覚にどうにも落ち着かず、中沢はまた立ち上がると、TVの横のサイドボードから煙草と灰皿を取り出しソファにもどった。
 苛立つように煙草に火を点け、忙しなく喫っては吐く。そうしながらなんどもうしろをふり返った。
 妻がいまにも、冷蔵庫の中から這い出してくるのではないか、という思いが脳裡をよぎるのだ。
 そんな中で、冷蔵庫は静かに沈黙を守っている。
 それがかえって不気味でならない。
 ばらばらになった死体が、よもや生き返ってくることはないだろう。
そう思っては見るが、心は一向に落ち着かない。妻は身体を切断しているその最中に生き返ってきたのだ。ばらばらになっても、また生き返ってくるのではないか。そんな気がしてならなかった。
 妻の変貌した顔が甦る。
あれはもう妻ではなかった。口調や声色が変わり、罵詈雑言を浴びせ、かつかつかつ、と歯を鳴らして咬みつこうとするその顔は、般若そのものだった。
 その妻の首を、その身体を、のこぎりでばらばらに切断した中沢もまた、鬼と化していたのだろう。
 人であるなら、あんな残忍なことができるわけがない。あれはまさに鬼の所業だった。
 それでも中沢はやるしかなかった。醒めることのない夢から目醒めるにはそうするしかなかった。まるでおなじところを彷徨いつづけるメビウスの輪のごとき世界から逃れるためには、鬼にならざるを得なかったのだ。
 だがしかし、もしもまた平然と妻が生き返ってきたなら、もう二度とあの残忍な鬼の所業はできはしないだろう。
 中沢はため息のように煙を吐くと、煙草の火を消した。
(これでほんとうによかったのか……)
 思いはまたそこにもどる。
 これでは堂々巡りだ。
 脳裡に聴こえてきたあの声は、何かが変わると言っていた。これまでとは違う何かに。だが、これといって何かが変わったという変化は起こらない。
 いったい何が変わるというのだろうか。
 いや、じつはすでに変わっていて、それに気づかないだけなのかもしれない。
 しかし、何かが変わったというだけではだめだ。このメビウスの輪から抜け出さなければなんの意味もない。醒めることのないこの夢から目醒めることができなければ。
 と、そのときだった。
 
ごとり、

 背後で物音がした。
 
  ごとごと、

 中沢は一瞬に身体が硬直した。ふり返ることができずに、意識だけで背後の気配をさぐった。

ごとり、
ごと、
ごと、

(そんな、まさかほんとうに……)
 その音はまぎれもなく冷蔵庫の中でしていた。

寒い、寒い、ここから出せえ――

 しわがれた声が聴こえてくる。扉が閉まっているために、その声はくぐもっている。

ごとん、
ごとん、
ごとごと、
ごとん、

 音が烈しくなる。
 そしてまた、

出せえ、出せよう、寒い、寒い――

 その声が聴こえてくる。ビニール袋の中でばらばらになっているはずの妻が暴れている。
(ばらばらに切断してもだめなのか!)
 もう成すすべはない。
 結局、何も変わりはしなかった。妻は肉塊となってまでも生き返ったのだ。

どさり、

 床に重みのあるものが落ちる音。
 かさかさ、とビニール袋が蠢く音がする。
 それでも中沢は、うしろをふり返ることができなかった。
 戦慄が背中に貼りつく。
「おのれェ。わたしの身体をこんなにしやがってえ」
 怨めしげなその声は、首を切り落とされているからか、風が抜けるような音が混じっている。
「どうしてくれようか、どうしてくれようかァ」
 一瞬の静寂。
 と、
 
かり、
かりかり、
かりかりかり、

 床を鋭利なもので掻くような音が聴こえてきた。

かりかり、
かりかりかり、
かりかり、

 その音が近づいてくる。
 怖気がぞわりと背すじを這い上がる。
 中沢はたまらなくなってうしろをふり返った。
「うわあああああッ!」
 驚愕に思わず立ち上がり、後ずりしようとテーブルに足をとられて床へと倒れこんだ。

かりかり、
かりかり、
かりかりかり、

 音がソファを回りこんでくる。
 姿を現したそれは、妻の生首だった。
 両の手首の上に生首が載っている。と言っても、手首の上に生首がただ載っているというわけではない。生首と手首の切断面が接着しているのだ。いや、その部分をよく見てみれば、初めからつながっていたかのように切断面がなかった。
 それは、首の下に手首が生えているといってよかった。そして指が脚の役割を果たしており、鋭く伸びた爪を立て、まるで蜘蛛のように床を掻きながら迫ってくる。
 己の血で赤く染まった眼を見開く。その眼には黒目がなかった。白眼の中に瞳孔だけがある。両端が大きく避けた口からは獣の牙らしきものが覗いている。
 異形と化したその貌は妖鬼といえた。妻の面影はどこにもない。
「来るな、来るな、来るなッ!」
 見るにおぞましいその姿に、中沢は尻餅をついたまま後ずさっていった。
「憎いィ。こんな姿にしたおまえが憎いィ。身体をよこせェ。よこさぬなら、その首を喰いちぎってくれるう」

かりかり、
かりかり、
かりかりかり、

 妖鬼は蛇のごとき避けた口を開いて迫ってくる。
「やめろ。来るな、来るな!」
 中沢は壁に背があたり、逃げ場を失って両腕で頭を被った。

  かりかりかり……

 床を掻く音が途切れた。
 そう思ったとたん、片足を摑まれた。
「うわあ!」
 足をふって払おうとするが、妖鬼の手は放れない。それどころかその手の圧力が増していき、足に爪先が喰いこむ。
「放れろ! この化け物!」
 中沢はたまらずもう片方の足で妖鬼の貌を蹴った。
「ごえッ!」
 妖鬼の鼻がへしゃげる。それでも手を放さない。
「放れろ、放れろ、放れろー!」
 なんども中沢は強く蹴りつける。
 と、蹴りつけていた足にとつぜん激痛が走った。
「ぐわッ!」
 中沢の足先が妖鬼の口の中に入りこんでいる。蹴ってくる足に妖鬼が咬みついたのだった。
 牙が足の皮膚を貫き、血が滲み出している。引き抜くにも引き抜けない。
 中沢は周囲に眼をやり、妖鬼を殴りつけるものはないか探した。だが、手が届くところには何もない。そうしながらも、妖鬼の牙はさらに足の肉へと喰いこんでいく。その激痛に耐えながら、中沢はキッチンへと眼を向けた。キッチンに行けば、殴るつけるものが何かしらあるはずだ。いや、それよりも包丁がある。それを手にすることができれば、形勢は逆転する。
 その思いに、中沢は肘を使ってキッチンへと這うように進んでいった。
 キッチンまでの距離が、とても長く感じる。
 それでも、何とかキッチンの入口に手が届くところまできた。
 そのときだった。
 足を咬んでいた妖鬼の牙が、ふいに緩んだ。と思うと、その貌が小刻みに揺れはじめた。
「うげ、ごえ、ごが!」
 口をあんぐりと開き、白目を剥いた。そのすき中沢は足を引き抜くことができた。
 妖鬼は髪をふり乱し、苦しげになにやらぶつぶつと言っている。
「なぜ……おまえ……出て……る。やめ、ろ。出て……る……」
 やっと聞き取れるほどのその声は、意味不明のことを口走っていた。
 と、瞼が閉じた。しだいにその貌からおぞましさがなくなっていき、妻の顔にもどっていった。
「礼子……」
 思わず中沢は声をかける。その声に応えるように、妻にもどった顔は瞼をゆっくりと開いた。
「あなた……」
 声も妻のものだ。
「礼子……」
 もう一度、妻の名を呼ぶ。だが、それ以上の言葉が出てこない。
 妻が苦悶に耐えるように口を開く。
「おねがい。私を殺して……私が私であるうちに……もう、耐えられ、ない……だか、ら、おねがい。あなた、早く、私を、早、く、殺し、て……」
 そう言うと、その顔がまた白目を剥き、妖鬼へと変貌しはじめた。
 その間、シンクまでたどり着いていた中沢は、シンクの下の扉を開き、包丁を手にした。
「かかか。そんなものを手にして、どうするつもりだあ」
 妖鬼は、怨敵とばかりに中沢を睨みつけ、にたりと笑った。
 と思ったとたん、
「かかッ!」
 中沢の顔に向かって跳んだ。
「うわあッ!」
 とっさに中沢は、手にした包丁を妖鬼に向かってふり下ろした。

  がつッ!

 包丁の刃が、妖鬼の額を割った。
「ぐえッ!」
 妖鬼は床に叩きつけられ、転がった。額からは血が滴っている。
「おのれェ、よくもやってくれたなァ」
 蜘蛛の脚と化している指で体勢を立て直すと、妖鬼はなおも向かってくる。

  かりかりかり、

 中沢は包丁を握り締め、眼を瞑って向かってくる妖鬼に刃先を突き出した。
「いげええええ……」
 包丁の刃先は、妖鬼の左の眼球に深く突き刺さっていた。
 思わず包丁を引く。すると、瞼を押し広げて眼球が包丁に刺さったまま飛び出してきた。
 眼球からは神経線維が伸び、それが伸びきったところで、眼球がぬるりと包丁から抜けて顎のあたりに垂れ下がった。
「痛えよう。痛えよう。ちくしょう、なにしやがるんだァ。わたしはおまえの妻だろうがよう」
 妖気が右眼だけで睨む。
「違う! おまえなんて妻じゃない!」
「なんだとう。なんでそんなことを言うんだァ。わたしを愛していただろう? いまだって愛しているんだろう? だったら、おまえのその首を咬み切らせてくれよう」
 語尾を言い切る前に、またも妖鬼は、中沢の顔に向かって跳躍していた。
「もう、やめろッ!」
 その妖鬼に、中沢は包丁をふり下ろす。
「うわあああああッ!」
 今度は一度ならず二度、そして三度、いや、狂乱した中沢は、なんどもなんども包丁をふり下ろしていた。
「ぐえ、うげお、ぐえェ!」
 妖鬼の頭から血が噴き出す。頭蓋が割れる音がする。

ぐちゃ、
ぐちゃ、
ぐちゃり、

 頭蓋がめちゃめちゃに割れ、潰れ、血に混じった脳漿が飛び散った。
 どれだけ包丁をふり下ろしつづけただろうか。
 息が上がり、ようやく中沢は手を止めた。
 妖鬼はピクリとも動かない。頭部が見るも無残にぐちゃぐちゃになっている。どす黒い血の中には、髪の毛が絡みついた脳髄が見えていた。
 中沢は放心して床へ倒れこみ、包丁を放した。
 肩で息をする。
 呼吸が落ち着くと、中沢は顔をゆがませた。
 唇がわななく。涙があふれだしてくる。
「どうして、どうしてなんだよ……」
 おなじ言葉をくり返し、あふれる涙を拭うことも忘れて泣きつづけた。
 身も心も疲れ切ってしまった。抗うことにも疲れ果て、これ以上は何もできそうになかった。いや、もう何も考えたくなかった。
 中沢はふらりと立ち上がり、魂が抜け落ちたかのようにゆらゆらとリビングを出ると、玄関に向かった。
 返り血を浴びたそのままの姿で自宅を出る。
 そんな姿で近隣のだれかに目撃されでもしたら、すぐに通報されてしまうだろう。だが、いまの中沢にはそんなことはどうでもよかった。
 通報され、捕らわれたとしても、それで構わない。捕らわれたところで、どうせなんの意味もない。
 ここは醒めることのない夢の中だ。きっと妻はまた、生き返ってくるのだろう。あれで終わりではないのだ。これからもずっと、妻を殺す日々がつづいていく。
 だから、そう、もう捕らわれているのもおなじなのだ。どんなに抗おうと、永久に逃れることはできないのだから。
 だが、不思議なもので、そんなときに限ってだれに遭うこともなく、中沢は知らず知らずのうちに公園へと来ていた。
 神社に隣接しているその公園は、緑が多く敷地は広い。
 中沢はゆらゆらと園内に入っていった。
 休日とは違い、人の姿はまばらだ。
 そんな中、中沢は空いているベンチに坐った。
 子供たちや母親たちの姿が少ないのは昼時だからだろうか。
 他のベンチには、老人の姿と見るからに行き場を失った浮浪者の姿があった。
 浮浪者は前方のベンチに坐っていて、身体を丸めて何やらぶつぶつ言っている。
 中沢は虚ろな眼で園内を眺めた。
 樹々の隙間から落ちる木洩れ日が、風に揺れている。
 小さな砂場では、三歳と思える女の子が玩具のシャベルを使ってあそんでいる。
「さっちゃん。なにを作っているの?」
 母親が微笑みを浮かべながら訊く。
「さっちゃんねえ、おうちをつくってるの」
「どんなおうちなの?」
「うんとね、おっきなおうち」
「すごいのねえ。だれが住んでいるのかな?」
「パパとママと、さっちゃんとマーくん」
「そう。でも、パパとママとさっちゃんはわかるけど、マーくんはだれなの?」
「マーくんはねえ、さっちゃんのおとうとなの。さっちゃんは、おとうとがほしいの」
「あら、さっちゃん。弟が欲しいの?」
「うん。かわいいから、マーくんのこと、いつもいいコいいコしてあげるの」
 母娘のそんなやりとりと、その微笑ましい光景を眼にして中沢は目頭が熱くなった。
 涙があふれてくる。
 眼の前の母娘が、妻と授かることのなかった子供のように思えてくる。
 中沢は子供が欲しかった。それは妻もおなじだった。
 もしも子供が授かっていてくれたなら、いままでなんどそう思ったことだろうか。
 子供さえいてくれたら、こんなことにはならなかったはずだ。
そうすればきっと、家族での幸福な生活を送れたはずなのだ。
子供が授かっていさえすれば――
 涙が止まらない。
 母娘の姿がその涙で揺れる。
 思わず中沢はうつむいてしまった。
 切なくて、悔しくて、虚しくて、どうしようもない哀しみに、彼は咽ぶようにして哭いた。
 ぽつり、ぽつりと涙が地に落ちていく。
「消えてしまえばいい……」
 中沢はうつむいたまま呟いた。
 それは心からの言葉だった。
 子供が欲しいと願い、幸せな家族を求め、だがその想いはついぞ叶うことはなかった。
 それなのにいま、私たちは幸せなのよ、とばかりに見せつけられたその光景は、中沢にとって残酷としか言いえず、その母娘に憎悪をいだかせるほどだった。
 その幸福を壊し、奪い去ってやりたいと思うほどに。
(どうせここは、現実の世界じゃないんだ。だったら、なにもかも消えてなくなってしまえばいい……)
「消えちまえよ!」
 中沢は声を荒げて言い放った。
 いや――違う。
 それは中沢の声ではなかった。中沢自身、心の呟きを声に出してしまったのかと思ったがそうではない。
 足もとのすぐ先に、人の気配を感じて中沢は顔を上げた。
 眼の前に立っていたのは、前方のベンチに坐っていた浮浪者だった。
「消えちまえよ!」
 浮浪者は中沢に向かってそう言った。どうやらあの声は、この男が発したものだったらしい。
「おまえよ、どこから来やがった。これはおれ様のベンチなのよ。とっととどきな。でもよ、煙草を一本くれるなら話はべつだぜ。けひひ」
 笑った男の顔は、もう何ヶ月も風呂に入っていないということがわかるほどに垢や埃で汚れている。だらしなく開いた口から覗く歯はほとんどが欠けていて黒ずんでいた。
「煙草は持ってないんだ。自宅に置いてきてしまって」
「なに? 自宅に置いてきただと。しみったれたやつだな。なら、おまえに用はねえ。そこをどきな」
 前歯がないせいか、口を開くたびに唾が跳ぶ。
「おやあ? おまえ、泣いてるのかあ? 独りぼっちで淋しくて、おっかちゃん、って泣いてたのかよ」
そう言われて、中沢はあわてて頬の涙を手のひらで拭った。
「泣き虫なんだな、おまえ。けひひひひッ」
 下卑た男の笑いに、中沢は眉をひそめる。
「それによ。おまえ血だらけだな。どっか怪我でもしてんのか?」
 男には、心配している様子もなくニヤニヤとしながら脇腹をわさわさと掻き、そのとたんに鼻をつく異臭が漂った。たまらず中沢はベンチを立ってその場を離れた。
 男は、「これはおれ様のベンチなのよ」と言っておきながらそこには坐らず、今度は老人の坐るベンチへ行くと、そこでもやはり中沢に言ったこととおなじことをその老人に向かって口走っていた。
 だが老人は意に介さずといった態度で、男を無視している。
 おそらくその男は、いつもあの調子でベンチに坐る人間に嫌がらせをして煙草をせがみ、それを心得た人間はかかわるのを避けるように無視を決めこんでいるのだろう。
 と、そのとき、
「まったく困った男です」
 ふいに今度は、すぐ横合いで声がした。
 中沢は愕いて声の主に顔を向けた。
 そこには黒の三つ揃えの背広を着た老人が坐っていた。園内にいる他の老人とは違い、その居住まいにはどこか場違いな老紳士といった雰囲気があった。
「あ、すみません。あなたがいらっしゃることに気がつかなくて」 
 すぐに中沢は謝罪した。
「いえ、どうぞ、お気を遣わずに」
 軽く会釈を返してきた老紳士は、浮浪者へと眼を向けた。
 中沢はふいに、怪訝な思いがこみ上げた。
 その老紳士に気づかなかったわけがなかったからだ。中沢がベンチを移ろうとしたとき、このベンチにはだれも坐っていなかった。それは確かだ。だとすれば、中沢が浮浪者の男に気を取られているすきに老紳士が隣に坐ったということになる。だが、そんな気配はまったくなかった。なのに老紳士は、気づかぬうちに隣に坐っていたのだ。それはいったい、どういうことなのだろうか。
「彼はいつもあのように、嫌がらせをしながら楽しんでいるのですよ」
 物静かに語る老紳士は、鼻から息を抜くようにため息をついた。その眼は浮浪者の男に向けられたままだ。
「この公園には、よくいらっしゃるのですか」
 謎めいた老紳士に中沢は訊いた。
「ええ。彼を連れて行かなければならないものですから。ですが、彼がその気になってくれません。それでしかたなくわたしは、彼がその気になるときを待っているのです」
 その返答も謎めいている。
 この老紳士は、あの浮浪者の男とどんな関係があるのか。
 身内であるならばいまのような言い方はしないであろうし、かといって男を保護しようとする区の職員にはとても思えない。
 浮浪者の男との関係性が気になるが、それを問うのも失礼というものだろう。
 そんなことを考えていると、老紳士が口を開いた。
「正直なところ、わたしも困り果てているのです。彼はもう何年もあんなことをつづけているのですから」
 そう言いながらも、老紳士の顔からは困ったという表情は覗えなかった。
「それは、どういうことです?」
 中沢はたまらずに訊いていた。
「彼を連れて行かなければならないと言っていましたけど、まさかあなたは、ここで何年ものあいだ、彼がその気になるのをただ待っていたと言うんですか」
「いけませんか」
「――――」
 中沢は思わず絶句した。
(なんだ、この人は……)
 その老紳士が益々わからなくなった。
「あなたからすれば、納得のいきかねることなのでしょうね。ただこうして見守りながら待っていることに、なんの意味があるのか、と」
「いえ、僕は――」
 取り繕うとする中沢を制して、
「いいのです。確かにそのとおりなのですから。けれど、しかたがありません。そうすることがわたしの役割なのです。それでも彼には、なんども説明をしたのですよ。どうしてここから立ち去らなければならないのかという理由を、順を追って。でも彼は、それを受け入れようとはしませんでした。そうなってしまうと、あとは彼の気が変わるのを待つしかありません。すべては、彼自身の意思に委ねるしかないのです」
 抑揚がなく、それでいて丁寧に話す老紳士の声は、謎を深めさせた。
「あの、失礼を承知でお訊ねしますが、あなたとあの人とはどういった関係なのですか?」
 中沢はどうしてもふたりの関係が知りたくなった。
「関係ですか」
 老紳士はわずかに眼を伏せて押し黙った。
「あ、すみません。やはり立ち入った話をお訊きするのは失礼でした。忘れてください」
「いや、なにも謝罪することはありませんよ。しかしながら、関係を知ったからといって、なんになるのです?」
「それは……」
「ただの好奇心、というわけですか」
「…………」
 中沢は返す言葉もなかった。
「とはいえ、好奇心を持たれるのも当然のことでしょう。ですが、お話するわけにはいかないのです。それをお話してしまえば、一定の法則と申しますか、秩序が乱れてしまいます」
 老紳士は、申し訳ない、とでも言うように頭を下げると、また浮浪者の男へと視線をもどした。 
(一定の法則? 秩序が乱れる? いったいなにを言っているんだ……)
 もしかすると、この老紳士は、ただ頭がおかしいだけなのかもしれない。きっと、あの浮浪者の男と関係などあろうはずもなく、話を創っているだけなのではないか。
 どう考えてみても、何年ものあいだ、ここでこうして浮浪者の男の気が変わるのを待っているなんてことが、信じられるものではない。ましてや、公園に三つ揃えの背広を着てくること自体がそもそも変なのだ。
 よくよく見てみれば、ワイシャツ、ネクタイ、靴下、そして履いている革靴も含めて、それらすべてが黒で統一されている。葬儀の帰りならばまだわかる。いや、葬儀であったなら、黒のワイシャツなど着たりはしないだろう。
 ここまでくると、場違いどころの話ではない。
 老紳士にいだいた好奇心は、いっぺんに得たいの知れないものに対する訝しいものへと変わった。
 これ以上かかわるのは避けようと、中沢はベンチを立とうとした。
 すると、
「あなたは、なにか誤解をなさっているようですね」
 心を見透かしたように老紳士が言った。
「いや、なにも僕は……」
 中沢は立つに立てなくなってしまった。
「隠さなくてもいいのですよ。あなたの発するオーラの色の変化でわかるのですから」
「オーラ……?」
「はい。色の変化は口ほどにものを言うのです」
「あなたには、それが見えると」
「ええ、はっきりと」
 これも口からのでまかせだろうか。
「あなたはどうやら、わたしのことを訝しんでおいでのようだ」
 だが、心を見抜かれている。
「わたしは、頭がおかしいわけでも、話を創っているわけでもありません。事実をお話しているだけです」
 中沢は思わずぎょっとした。老紳士は、心を見抜いているどころか心で呟いた声が聴こえているようだった。そうとしか思えない。
「とは申しましても、事実をお話できないのですから、そう思われてもしかたがありません。あなたからすれば、確信を得られずに歯痒い心持でありましょう。しかし、頭がおかしいと思われているわたしからすれば、いささか心外というものです」
 心外と言いながらもべつだん怒った様子もなく、だが、何か思慮深げに瞼を閉じると眉根をよせた。
「あの、とにかく謝ります。ですから、もう気にしないでください。では、僕はこれで」
 中沢はもう一度立ち上がりかけ、するとまた、
「お待ちなさい」
 老紳士が制した。
「このまま去られてしまっては、わたしはあなたにとって頭のおかしい男のままということになってしまう。それでは、わたしの自尊心が許さない。わかりました。いいでしょう。わたしの役割の範疇を外れてしまうことですが、ある程度のことならば修正も利きますし、お話してもよろしいでしょう。ただし、ある程度というからには、お話しできないこともあるということをご理解ください」
「あ、ああ、ええ。わかりました」
 中沢は話の流れでうなずいていた。とりあえずこれで、謎めいた事実を聞くことができる。
「言うなれば、わたしは彼の守護天使といったところでしょうか」
「は? 守護天使? それじゃ、あなたは天使だというんですか」
「ですから、あくまでも言うなれば、です。本来わたしのような存在には、形容する言葉などないのです」
 中沢は呆れて言葉を失った。そんな話をどうしたらまともに聞けるというのか。謎でも何でもない。やはりこの老紳士は頭がおかしいのだ。それとも、ただ担がれているだけなのか。
 いや、違う。すっかり忘れていた。ここが現実の世界ではないということを。夢の中ならば、どんなことも現実なのだ。
「信用できないのも無理はありません。しかしこれは、創り話でも偽りでもないのです」
 中沢は無言で立ち上がった。もう何を話そうとも、聞く耳を持つ気にはなれない。
 だが、中沢が立ち去ろうと足を踏み出したとき、
「彼も、あなたとおなじなのですよ」
 老紳士がそう言った。
 その言葉に中沢の足はぴたりと止まった。すぐにうしろをふり返る。
「それは、どういうことですか」
 思わず訊いていた。
「あなたとおなじように、彼もまた、囚われているのです」
「だから、それはどういうことなんですか。いや、それより、どうして僕が囚われていると……あなたはいったい、何者なのですか」
 中沢は立ち尽くしたまま、老紳士を見つめた。
「ですから、わたしの存在を形容する言葉はないのです。あなたからするならば、『得体の知れない何者か』とでも申しておきましょうか」
「ま、まさか、そんな……」
 中沢は驚愕した。実際にそんなものが実在していたというのか。
「なら、この醒めぬ夢に僕を閉じこめたのは、あなたということなんですか。見てください。この顔や衣服に付着した血を。これは僕の妻の血なんです。僕はこの手で妻を殺し、そして……」
 血の付着した手のひらを見つめる。
「あなたがその何者かだとするなら、どうして僕をこんな目に遭わせるんですか。僕がいったいなにをしたというんですか!」
 声を荒げると、老紳士を睨みつけた。
 老紳士はうろたえることもなく、その視線を受けとめた。
「あなたを捕らえているもの、それはわたしではありません。わたしが、『得体の知れない何者か』と申したのは、あなたの心にその形容された言葉を見つけたからです。あなたを捕らえている要となるものは、ある者の業なのです。その業にあなたは翻弄されつづけている。そしてあなたは大切ことに気づいていない。いや、失ってしまったと言ったほうがいいのかもしれない」
「ある者の業? それはだれのことなんですか」
 中沢はベンチにもどり、訊いた。
「それをお教えすることはできません」
「では、大切なことに気づいていないとは、失ってしまったとは、いったいなんのことなんですか」
「それも、お教えすることはできないのです」
「なぜですか。あなたは知っているのでしょう? 知っているなら教えてくれてもいいじゃないですか。僕がこんなに苦しんでいるというのに……妻を殺す日々がこれからもつづいていくなんて、僕にはもう耐えられない……」
 苦悶の表情で中沢は訴えた。
「できることであれば、あなたをその苦から解放させてあげたい。ですが、わたしにはそうすることができない」
「だから、なぜですか」
 中沢の口調がまた荒くなる。
「そうすることは、わたしの役割ではないからです。わたしの役割は、彼を連れていくこと、それだけなのです」
「役割以外はなにもできない、というわけですか。冷たいですね」
「申し訳わけありません」
 老紳士は頭を下げた。
「頭なんて下げないでください」
 中沢は肩を落としてうなだれた。
「そうですか……それなら僕は、ここから永久に出られないということなんですね」
「一瞬も永久も、それは同質なものです」
「同質なわけがないでしょう。僕はずっと苦しみつづけなければならないんですよ。僕からしてみれば、彼のほうがよほど楽でいい」
 中沢は浮浪者の男に眼を投げた。
 男は、相変わらずベンチに坐る人間に煙草をせがんでいる。
だが、男に煙草を渡す人間はひとりとしていなかった。
「苦も楽もまた同質です」
「よくもそんなことが……あなたには僕の苦しみがわからないから、そんなことが言えるんですよ」
「確かにそうです。当人の苦しみはその当人にしかわかりません。しかし、苦しんでいることはよくわかります」
「ならば、あなたは、その苦しんでいる人間をただ黙って見ているだけなんですか。どうして、助けようともしないんです? なんて人なんだ……あ、そうか。そういえば、あなたは彼のことも、ただここでこうして見守っているだけでしたね。訊くだけ野暮でした」
 中沢は嘲笑するように鼻で笑った。
 憤っていた。そしてその憤りを老紳士にぶつけている自分にも腹が立っていた。
 そんなとき、浮浪者の男がまたやってきた。
「消えちまえよ!」
 その台詞は先ほどとおなじだった。
「おまえよ、どこから来やがった――」
 だが、おなじ台詞を吐いたのはそこまでで、男は中沢の隣に老紳士が坐っていることに気づくと、「ひッ!」と小さく悲鳴めいた声を上げ、そそくさと逃げていった。
「彼はいま、あなたを見て逃げていった。あなたも形無しですね」
 中沢は皮肉めいて言った。
「言葉もありません。彼はわたしを嫌っているのです。連れていかれるということが、よほど嫌なのでしょう。執着が強いのか、わたしの話を一向に聞こうとしない。それほど、ここから離れたくないようです」
「それなら彼は、自ら囚われの身になっているようなものじゃないですか」
「そのとおりです」
「おなじ日々をくり返す、こんな世界にいたいというのか……」
 中沢は独りごちるように呟き、そこでまた、これが現実ではないということを思い出した。
(そうだ、これは夢なんだ。あの浮浪者の男もこの老紳士も、ここにあるものすべてが、現実には存在しないんだ……)
 中沢は思わず首をふり、苦笑した。
 あまりにも現実的すぎる夢だけに、それをすぐに忘れてしまい、救いを求めてしまった自分が可笑しくてならなかった。
「あなたのような方は、ほんとうに気の毒でなりません」
 老紳士のその言葉に怒りさえ覚え、だが中沢は、黙ってベンチを立つと、その場を離れた。
「あなたを救い出せるのは、あなた自身しかいないのです。思い出すのです。あなたの中にあるものを」
 背に向けて言う老紳士の言葉を聞きながら、中沢は歩き去った。
 公園を離れ、ふらりふらりと歩いていく。
 自宅にはもどりたくない。そう思いながらも、足先は自然に自宅へと向かっている。足が、身体が、自分の意思に逆らっているかのようだった。
 何かが変わる。あの声の言葉を信じて妻の身体を切断したが、これといった変化は何も起こらなかった。妻がばらばらになりながらも異形の姿となって生き返った以外は。
 それも変化のひとつのなのだろうか。
 あの妖鬼と化した形相で襲いかかってきた妻の貌を思い出せば、背すじから首すじにかけて、幾匹もの蟲がぞわぞわと這い上がってくるような怖気を覚える。
 あんな思いは、もう二度としたくない。妻をばらばらに切断することもだ。
 なら、妻を殺さなければいい――
 そんな思いが脳裡に貼りつく。
(なんどおなじことを……)
 またもそんなことを思う自分に、中沢は嘲笑うように唇をゆがめた。
 それができていれば、何を苦しむことがあるだろう。それができないからこそ、苦しみつづけているのだ。しかし、それができないとわかっていながらも、考えに考えた末に導き出されるのは、
 妻を殺さなければいい――
 いつもおなじ言葉だった。
 それでも、と中沢は思う。
それでも今度こそ、と。
 だが、それには覚悟が必要だった。
 そう、だからこそ中沢はいま、ある覚悟をしていた。その覚悟こそが妻をもう二度と殺さずにすむ手段であり、そしてそれは中沢自身をもきっと、いや間違いなく、この醒めることのない夢から解放される手段でもあった。
 それを胸に秘め、中沢は家路を歩いていく。
 自宅に着き、中沢はためらうことなく玄関のドアを開けた。
 廊下に上がりリビングに向かう。
 室内に入るとそこには、妖鬼の頭部はなかった。
 頭蓋が潰れ、血と脳漿を撒き散らしたはずだが、その痕跡どころか髪の毛の一本も落ちてはいない。
 血に染まった包丁もなかった。
 キッチンに行き冷蔵庫を開ける。そこにもやはり、ビニール袋に入れたばらばらの妻の肉塊がない。それどころか、冷蔵庫の中は、それまで入れられていたものが整理されて並んでいた。
 ふと、自分の手や衣服に眼をやれば、返り血さえもきれいに消えているのだった。
(また生き返るのか。礼子……)
 もう、これで妻は、生き返ってくることはない。
 心の片隅で、わずかながらにそう思う自分がいたが、それはいつものように甘い考えだった。
 身体がばらばらになってまでも生き返ってくるのだ。だから、左の眼球を失い、頭蓋がぐちゃぐちゃになって血と脳漿を撒き散らそうとも、また生き返ってくるのは当然なのだ。
 中沢は、身体の中に溜まった毒を吐き出すかのような、長いため息をついた。
 このまま、妻が姿を見せずにいてくれたら、どれだけ救われるだろう。
 そう思うこともまた、いつものことだった。
 こうして日中のあいだに、いつの間にか妻の死体は跡形もなくその場から消え去っている。そして夕刻になると、買い物袋を手に帰宅するのだ。夫に首を絞められて殺害されたことなど忘れ、何事もなかったような顔で。
 いや、実際に何も憶えていないのかもしれない。
そうでなければ、自分を殺した相手のために夕食を作り、微笑みなど向けられるわけがない。
 妻の死体が消えるのは、いつも正午を過ぎてからだ。
 その瞬間を見届けようと死体の傍らから離れずにいるのだが、中沢はついうとうとしながら眠りこんでしまう。ハッとして眼を醒ますと、死体はもうそこにはない。どんなに眠らないようにしようとしても睡魔はかならず襲ってきて、中沢もまた必ず眠ってしまうのだった。
 だからまさか、肉体を切断しているそのさなかに、息を吹き返すとは思いもしなかった。そしてさらに、ばらばらの肉塊となってまでも、異形と化して生き返るなどとは。
 どうしてあんな姿で、妻は生き返ってきたのか。
 もしかすると、肉体を切断されたことで身体の形態構造のバランスがゆがみ、それによって異形へと変化させてしまったのかもしれない。
 いや――
 中沢は苦笑しながら首をふった。
 ばかばかしい。そんなことを考えたところで、何の意味もない。
 日々、殺しても殺しても生き返ってくること自体、妻はすでに異形であるのだから。
 そしてまた今日も、肉体がばらばらになり、左の眼球を貫かれ、頭蓋を砕かれ脳漿を撒き散らそうとも、妻はいつものように微笑みを浮かべてリビングに姿を見せるだろう。いつもと何もかわらない美しい姿で。
 その妻を今日もまた、僕は殺すのだ。
 妻を殺す日々。
 いったい、どれほどの日が経ったのか。
 一週間か、二週間か。すでに一ヶ月は過ぎているのか。
 わからない。時間の感覚はあるのだが、過ぎていく日々の感覚がつかめない。まるで、今日という一日をくり返しているような、そんな感覚。それは、計ったかのように正確にくり返されてきた。
 まただ――
 中沢はそこでまた、首をふった。
 またも忘れてしまっていた。ここが夢の中だということを。
 そう、夢だからこそ、現実では起こりえないことが起こり得るのだ。すべては、夢の中で起きている現実。ならば、月日の経過などあるわけがない。
 いまは何も考えまい。心を乱すだけだ。覚悟はできているのだから。
 中沢はサイドボードの置時計に眼をやった。時刻は、夕刻の五時半を回ったところだ。五時になれば妻が帰宅する。
 中沢は食卓に坐り、妻を待つことにした。
 静寂に包まれたリビング。時計の針が、正確に時を刻んでいく音が頭の中に聴こえている。
 それなのに、なぜか時の流れが緩行しているように思える。
 覚悟を決めたことで心に何らかの変化が生じ、時の流れを遅く感じさせるのだろうか。
 急いているわけでもないのにどこか落ち着かず、中沢はリビングのテーブルから煙草と灰皿を持ってくると、忙しなく煙草に火を点けた。
 煙を深く吸い込み、肺にじゅうぶん吸収させてから、ゆっくりと吐き出す。心を落ち着かせるために。
 それでも思ったほど、心に乱れはない。
「覚悟はできている」
 自分に言い聞かせるように呟く。
 中沢のその覚悟とは何か。
 それは、自分自身を殺すこと――だった。
 この永久につづく悪夢を終わらせるには、自分自身の死で幕を下ろすしかない。
 それが中沢の出した結論だった。
 愛する妻を殺しつづけて生きながらえる命なら、いっそ棄ててしまえばいい。この命さえ尽きてしまえば、もう妻を二度と殺さなくてすむのだから。
 しかし――
 と、中沢は眼を伏せた。
 ここは夢の中だ。当然のことだが、夢の中では死んだからといって実際に死ぬということはない。ただ眼を醒ますだけだ。
 中沢にとって、それはいちばんの望みでもある。目醒めることができれば、この悪夢から解放されるのだ。だが、この夢はただの夢ではない。醒めることのない夢。ほんとうに目醒めることができるのかどうかはわからない。目醒めることなく、妻のように生き返ってしまっては、この夢からはやはり、永久に醒めることはできないということになってしまう。
 それを思うと愕然としてしまうが、だからといって、他に取るべき手段などない。たとえあったにせよ、中沢には別の手段を取るつもりもなかった。
 やることをやり、それでだめならそれまでだ。
(それでいい……)
 中沢はまた、時計に眼を向けた。
時間はまだ五分ほどしか経っていない。
 煙草の火を消し、瞼を閉じた。
 何も考えずに心を無にする。そうしようとしながら無になりきれず、いつの間にか幸せだったころの日を思い出していた。
 妻の微笑みが、風になびく髪が、仕草が、次から次へと瞼に甦ってくる。
「あなた」
 妻の声が聴こえる。
「愛してるわ」
「僕だって、君に負けないくらい、君を愛してる」
「あなたを心から、愛しているのよ」
「僕だってそうさ。君を全身全霊で愛してる」
「ずっと一緒にいてほしいの」
「ずっと一緒だよ」
「私を離さないで」
 妻がしなやかな指を伸ばす。
「君を離したりしない」
 中沢はその手を摑もうとする。だが、その手を摑むことができずに、彼の手は妻の手をすり抜けてしまう。
なんど試みてもそれはおなじだった。
 すると妻が、少しずつ離れはじめた。
「礼子、どこへ行くんだ」
 見る間に妻は離れていく。
「待ってくれ、礼子!」
 中沢は叫ぶ。
 そこでふいに闇が落ちた。
 意識がもどってきて、中沢は瞼を開くと視線を彷徨わせた。気づかぬうちに眠ってしまったらしい。自然に眼が時計に向く。
 あれから二十分が過ぎていた。
 リビングを見渡すが、妻の姿はない。
(もうすぐだ。もうすぐ、姿を現す……)
 そう思うや否や、玄関の開く音が聴こえた。
 ドクン――
 鼓動がひときわ大きく胸で跳ねた。
 廊下を歩く音。
 そしてすぐに、リビングのドアが開く。
「あら、あなた、お帰りなさい。早かったのね」
 いつものように、妻が微笑みを向ける。
 やはり妻は生き返ってきた。美しい姿にもどって。首や腕の関節や手首には、切断した傷痕も残っていない
 その妻の微笑みに中沢も笑みで応える。
「お腹空いてる? すぐに夕食の用意をするから、もう少し待っててね」
 この台詞をなんど聞いたことだろう。
 そうして、またいつものように、ビールと芋の煮つけ小鉢をトレーに用意するのだ。
「ビールでも飲んでて」
 日毎くり返されるおなじシチュエーションの中で、唯一幸福だと感じることができるのがこのひとときだ。
 だがそれも、今日、いや、今回で終わりだ。
 中沢はキッチンに立つ妻を見つめた。
 美しい妻がそこにいる。愛してやまない妻がそこに。
 どうしてこの妻を殺してしまうのだろうか。
 中沢もまた、いつもとおなじことを思う。
 このまま妻を殺さずにいられたなら、くり返される今日という一日を幸せに送ることができるだろう。
 愛する妻に愛されているという実感が持てるなら、おなじことをくり返す今日が、ただつづくとしても構わない。妻を殺さずにすむのであれば、むしろ今日という一日が永遠につづくことを望むくらいだ。
 それなのに、どうしても妻を殺してしまう。
 中沢はいつも、無意識のうちに妻の首を絞めている。忘我の裡で味わう悦楽感の中で。
 だが、果たしてほんとうにそうなのか。
 あの声は言っていた。妻の首を絞めているとき、中沢は笑ってさえいると。それは妻を殺すことを望んでいるからなのだ、と。望んでいながらそれを信じたくないのは、妻を愛しているからだとも。
 そしてこうも言った。
 自分の中にあるものを思い出せと。それこそが真実なのだと。
 だから中沢は考えつづけた。自分の中にあるものとは何か。真実とはいったい何なのかを。
 その答えは見つからなかった。どれほど考えようとも、その片鱗さえ見つけることができなかった。いや、何かがあるということはわかる。だがそれはいつも、靄のかかった闇へとまるで逃げるかのように消えていってしまうのだった。
(どうやって思い出せばいいんだ……)
 中沢は瞼を閉じた。
 そこでふと、公園で出合った老紳士の言葉が脳裡に甦った。
『――思い出すのです。あなたの中にあるものを』
 その言葉は、あの声が言っていたこととおなじだった。
 それはどういうことなのか。
 老紳士。そして脳裡に響いてきたあの声。
 いったい何が、自分の中にあるというのか。
 いや――
 中沢は苦笑気味に首をふった。
 考えるべきことは、そんなことではない。考えなければならないのは、
 いや――
 中沢はまた首をふった。
 もういい。何も考える必要はない。もう何も、思い出す必要もないのだ。すべては終わるのだから。すべてを終わりにするための覚悟をしたのだから。
「さあ、あなた、食べましょう」
 その声に瞼を開くと、食卓には料理が並んでいた。この料理をずっと口にしてきた。だがそれも、これで最後となる。
「これは美味そうだ。いただきます」
 中沢は合掌をし、箸を手にした。
「どう? 美味しい?」
「美味いよ。とっても」
「ほんと?」
「うん、僕は幸せものだ」
 妻はうれしそうに微笑むと、中沢の前に置かれた缶ビールが手をつけられていないことに気づき、
「あら、あなた。飲んでないじゃないの」
 その缶ビールを手に取ると、中沢のグラスに注いだ。
「今日はいいんだ」
 中沢は妻の勧めを断った。
 飲みたくはなかった。いや、飲むわけにはいかなかった。おなじことをくり返すわけにはいかない。飲んでしまえば、なぜかすぐに酔ってしまい、甘美な世界へと陶酔してしまう。
 そうした中で、妻の言葉に触れ、声に触れ、微笑みに触れ、やさしさに触れ、そのしなやかな指先に触れられてしまうと、中沢の意識は徐々に薄れていくのだ。そしていつの間にか、忘我の裡に身を委ねて漂いはじめている。そうなってしまうとあとは、悦楽の渦に呑みこまれていき、ふと我に返ったときには妻の死体が横たわっている。
 そうなってしまってはいけない。
「どうしたの? 飲まないなんて、どこか具合でも悪い?」
 妻が心配そうに夫の顔を見つめる。
「いや、そういうわけじゃないけど、飲みたくないんだ」
「そう……」
 妻は落胆したような顔でグラスに眼を落とし、だがすぐにその表情は消え、
「じゃあ、これどうしようかしら」
 無表情でそう言った。
「君は飲まないのかい?」
 そう訊くと、妻はグラスに眼を向けたまま動かず、
「違うわ。こうじゃない」
 唇だけを動かし、そう呟いている。
「礼子」
 中沢が呼びかけると、無表情の眼だけを上げた。
「君こそ、どうした」
 その問いかけにも、どうしてそんなことを訊くの? とでも言いたげに小首を傾げ、しかし次の瞬間には、その無表情は微笑みに塗り替えられて、
「さあ、あなた」
 注いだばかりのグラスへさらにビールを注ぎはじめた。
「礼子!」
 中沢は止める間もなく、ビールはグラスからあふれ出した。
「あふれてるよ」
 妻は注ぐことをやめようとしない。
「礼子、やめろ!」
 その言葉より、中沢に手首を摑まれたことでやっと、妻はビールを注ぐことをやめた。
「さあ、あなた」
 また、おなじ言葉をくり返す。
「礼子……」
「どうしたの? 飲まないなんて、どこか具合でも悪い?」
 妻の眼が異様なほど左右に動き出した。
「じゃあ、これどうしようかしら」
 妻は壊れはじめていた。
「どうしたんだ、礼子」
 妻の耳にはもはや、中沢の声は届いていない。
「さあ、あな、あなた……どどどどど、どうし、飲ま、ののののの……これ、こここここ……かし、かし、かかかかか」
 妻の頭が上下に揺れ出す。その揺れはしだいに烈しくなり、髪をふり乱し、身体までが痙攣を起し、口からは泡を吹いていた。そしてふいに、ガクンとこうべを垂れ、その動きが止まった。
 うなだれたまま動かない。
「礼子!」
 その声に反応して、妻の頭がビクンと動いた。
 と、勢いよく顔を上げた。妻は眼を閉じている。その眼が、かっと見開かれた。
白眼に瞳孔だけの眼。妻の顔は、あの妖鬼に変貌していた。
「おまえ、なぜ飲まないんだァ」
 喉を潰したようなしわがれた声。
 妖鬼は立ち上がるとグラスを手に取り、中沢に突き出した。
「飲め、さあ、飲むんだ」
 中沢は首を強くふって拒絶した。
「なぜだ、なぜ飲まないんだよう」
 妖鬼は執拗にグラスを突き出す。そのためにグラスの中のビールは半分ほどがこぼれ出していた。
「どうして、そんなに飲ませたいんだ」
 中沢は怯まずに訊いた。
「かかか。なにを言い出す。いつも飲んでいるではないか。わたしの注いだビールを上手そうに。だから飲め。おまえが飲まなければ、変化してしまうんだぞ」
「変化だと? どういうことだ。それを飲まないとどうなると言うんだ」
「気づかないのか。わたしが現れたのも、その変化のひとつだということを。おまえがいままでと違うことをすれば、この世界は変化しつづけていくんだよ」
「なに!」
 あの声が言っていた、「なにかが変わる」とはそういうことだったのか。
「変化しつづけたら、この世界はどうなる」
「知れたことさ。かかかッ」
 そう言うや否や、妖鬼は裂けた口を大きく開き、中沢へと跳びかかった。
 中沢は逃げようとはしなかった。
 逃げようと思えば逃げられたはずなのに、彼は妖鬼が跳びかかってくる瞬間に瞼を閉じただけだった。
 妖鬼は中沢の首に喰らいついていた。
 牙が肉に喰いこみ、血が滴り落ちていく。
 それでも中沢は瞼を閉じたまま、声も立てず、身動きひとつしなかった。
「おまえの肉を喰ろうてやる。おまえの血を飲み干してくれるう」
 妖鬼はさらに牙を首に喰いこませる。
 中沢は痛みを堪えながら眉根をゆがませた。
「い、いいさ……おまえの望むままに……肉を喰らい、血を飲み干せばいい……」
「かかかかッ!」
 妖鬼が首の肉を強引に喰いちぎった。
 とたんにその箇所から鮮血が飛沫をあげ、床にざざっと飛び散った。

ぐちゃり、
ぐちゃり、
ぐちゃり、

 妖鬼は喰いちぎった肉を音を立てて咀嚼した。
「おまえの肉は美味いなァ」
 似たりと嗤うと咀嚼した肉を、妖鬼はごくりと呑みこむ。するとまた、喰いちぎった箇所に喰らいつき、今度は血を飲みはじめた。

ずちゅ、
ずちゅ、

 中沢はされるがままになっていた。
(これでいい。これですべてが終わる……)
 中沢は口許で薄く笑った。
 意識が朦朧としていく。
 遠のいていく意識の中を、妻との幸福だった日々がフラッシュバックのように次々と流れていった。
 と――突然闇が落ちた。
 何とあっけないことだろうか。妻との幸福だった日々は、こんなものだったのか。
 次の瞬間、中沢はその闇の中にいた。眼を開けても闇はそこにあった。
 身体が自由に動かない。それは手や足もおなじで、指先だけがわずかに動くだけだ。
 そして息苦しい。顔を薄布のようなものに被われているようで、呼吸をするのがままならなかった。どうやら全身をシーツで包みこまれ、その表面を何かで巻かれているようだった。
 背にかすかな振動がつたわってくる。ときにその振動は上下に強く揺れたりした。それによって、いまいる場所が移動しているのがわかった。
(ここは車の中なのか。僕はどこかへ運ばれているのか)
 中沢は身体をばたつかせて、声を出す。
「おい! 僕をどこへ連れていくつもりだ!」
 だがそれは、声にならなかった。
 中沢の口は粘着質なもので塞がれていた。
(クソッ、いったいどうなってる!)
 そのとき、ほんのわずかだが人の声が聴こえた。
 中沢は耳をすませた。
 それは聞き覚えのある声。妻の声だった。
「礼子、そこにいるのか。礼子!」
 しかし、やはりそれは声にならない。
 礼子は何か話している。とはいえ、声がくぐもっていて何を言っているのかわからない。そして、礼子のその声に応える男の声が交じる。
 そこで中沢は思い出した。それは夢だ。正確には、この醒めることのない夢の中で観た夢である。中沢はその夢の中で、いまの状態とまったくおなじ状況下にあった。
(なんだ、僕はまた夢を観ているのか!)
 中沢は何とか身体を拘束しているものから逃れることはできないかと、また全身をばたつかせた。だが、身体をどんなに動かそうと試みても、拘束はまったく緩みもしなかった。
 中沢はあきらめて、この先の事の成り行きを待つことにした。しばらくすると、背につたわってくる振動が小刻みに揺れるようになり、そしてまたしばらくすると、車は停車した。
 車のドアが開く。閉まる音が二度。そして、トランクが開かれる音がした。
 中沢はトランクの中に入れられていた。
 足と二の腕を摑まれる感触があって、身体がふいに浮き上がるのを感じた。
 枯れ枝や枯葉を踏む音がする。
 どこか山林の中へと運ばれているらしい。
「この辺でいいわ」
 礼子の声が聴こえ、中沢は地に下ろされた。
「礼子さァん、美味いものを食べさせすぎじゃないですかァ? この人、見た目よりも重いですよォ」
 男の声が聴こえた。
 その間延びした話し方には聞き覚えがある。
 そしてその声にも。
(前島、まさかおまえが……)
 その男は、中沢の勤務していた会社の後輩、前島だった。
(おまえが、礼子の浮気相手だったのか!)
 怒りがふつふつと胸の奥底から湧き上がった。
「確かにそうね。解雇されるって知ってたら、贅沢なんかさせなかったわ。お陰で退職金もほんのわずかだったわ」
「だけどさ、これでやっと、礼子さんと一緒になれるじゃないですかァ」
 前島が礼子に近づく。ふたりが口づけを交わすのがわかる。
「やめろ! やめろ、やめろ、やめろーッ!」
 口を塞がれているためにそれは言葉にならず、唸り声にしかならなかった。
「あらら? 礼子さん。この人、眼を醒ましちゃいましたよ。薬が足らなかったんじゃないですかァ」
「そんなことないわよ。目醒めることなく確実に死ぬって言ってたもの」 
「だったらこの人は、ゴリラ並ってことですか? でも、こんなときのことを想定して、僕はちゃんと用意してきているんですよ」
 前島は車まで行くと後部ドアを開け、リアシートに置いてあるバックから何かを取り出してもどってきた。
「それってサバイバルナイフじゃないの? あなた危ない人ね。そんな危険なものをいつも持ち歩いてるの?」
「ふだんから持ち歩いているわけないじゃないですかァ。そんなことしたら、銃刀法違反で捕まっちゃいますよォ。だから言ったでしょ? 用意してきたって。これって、抜群に切れるんですよォ」
 そう言うと前島は、笑みを浮かべながら中沢に馬乗りになり、彼の顔の部分を被ったシーツをナイフで切り裂いた。
 前島の笑っている顔が見えた。
「先輩、あなたが悪いんですよォ。眼を醒ましたりしなければ、痛い思いをせずに楽に死ねたのにィ」
 中沢は前島の下でもがいた。
「ねえ、それで刺すつもり?」
 礼子が言う。その声はわずかにうわずっていた。
「あれ? 怖気づいちゃたんですかァ」
「そうじゃないけど、血を見るのが嫌なだけよ。このまま生き埋めにすればいいじゃない」
「ダメですよ、そんなのはァ。万が一ってことがあるんですから、ちゃんと息の根は止めておかないとォ」
「でも……」
「血を見るのが恐いなら、穴を掘っていてくださいよ。トランクの奥にシャベルが二本ありますから」
 礼子は言われるまま車に向かった。
「先輩、なるべく痛みを感じないで死ねるように心がけますけど、痛かったら許してくださいね」
「うーッ、うーッ」
 中沢は何か言おうとしている。だが、塞がれた口では言葉にならない。
「え? なにを言っているかさっぱりですよォ。あ、そうか、礼子さんのことが心配なんですね。それなら、心配は無用ですよ。僕に任せておいてください。幸せにしますから。先輩の退職金を使い果たすまでは、ですけどね」
 前島はサバイバルナイフのサックを外した。
「先輩、さよならです」
 前島は笑みを浮かべながら、中沢に向かってナイフを突き下ろしていく。
 鋭利なナイフの先端は、滑るように中沢の喉深くに入りこんでいった。
 と、そこでまた闇が落ちた。
 中沢は瞼を開けた。
 そこはリビングの中だった。
灯りがやけに眩しかった。
その光景がぼやけている。
意識が薄く、焦点が定まらない。首に違和感がある。
(そうか……)
 妖鬼が血を吸いつづけている。だが、痛みはない。
 中沢は薄い意識の中で、すべてを思い出していた。
何もかもを。

 そうだったのか――

 僕は、一度も、妻の礼子を殺してなどいなかった……
 この僕が、殺されていたんだ……
 だから、ここは醒めることのない夢の中ではなかった……
 ここは現実の世界……
 その現実の中で僕だけが現実ではなかった……

 だから――

 どこにいても、無視されているように感じられていた……
 例をあげればきりがないほどに、僕は無視されつづけた……
 自分だけが孤立しているような感覚……
 それは、しかたのないことだった……
 彼らには、僕が見えていなかった……
 そう、あの喫茶店でも、そして早朝の警察署でも……
 いや、僕は存在していなかった……
 僕は、いつ殺されたのだろう……
 きっとあのときだ……
 妻を殺そうと思い立ったあのとき……
 それなのに僕は、ワインで急激に酔ってしまい、眠ってしまった……

 僕は、薬を飲まされた――

 ワインの中に、薬は混入されていたのだろう……
 僕は意識を取りもどしながらも、覚醒することができなかった……
 半覚醒のまま漂っていた……
 そして僕は、殺されたことも知らずに死んだ……
 殺された記憶はあったのか、それともなかったのか……
 それでも、僕の深層意識にはそれが刻みこまれていた……
 だから、その深層意識の記憶が幻を創りあげた……
 そして、その幻の中で、礼子を殺すというおなじ日がくり返されることとなった……

 そう、すべては幻だった――

 僕が創りあげた幻影……
 礼子も、いま僕の血を吸いつづけているこの妖鬼も……
 現実の中にあって、だれともかかわり合うことのない僕だけの世界……
 だとすれば、公園のあの浮浪者も幻影だったのか……
 いや、違う……
 あの浮浪者もきっと、ぼくとおなじ現実では存在しない者……
 だから彼も、無視されつづけてきたのだろう……
 ならば、老紳士はどうだ……
 浮浪者の守護天使だと言っていたが、ほんとうだろうか……
 彼の意思に委ねるしかないと老紳士は言っていた……
 それは天国へ導くためになのか……
 僕の守護天使もいるのだろうか……
 いるならば、どこに……
 まさか、脳裡に響いてきたあの声……
 いや……
 もういい……
 考えることにも疲れた……

 意識が薄れていく――

 僕の愛した妻、礼子……
 君はほんとうに、僕を裏切っていたんだね……
 その相手が、後輩の前島だったなんて……
 だけどそれも、もうどうでもいい……
 僕は君を許すよ……

 僕は死んだ――

 山林の奥深くの地中の中で、僕は眠っている……
 永遠にその眠りから醒めることはない……
 ただひとり、きっと、だれに気づかれることもなく……
 ゆっくりと爛れてながら、蛆に喰われ、腐乱し、朽ち果てていく……
 そして最後には、僕は土塊と化すだろう……
 それでいい……
 僕は死んだ……
 そして、僕の創り出したこの幻影の中で……
 妖鬼と化した礼子に、もう一度殺されるのだ……
 それでいい、それで……
 僕はもう疲れた……

 意識が遠のいていく――

 闇が近づいてきている……
 何ものも存在しない、真の闇が……
 とても静かに、僕を包みこんでいく……
 僕は闇に溶けていく……
 僕が消えていく……
 僕という存在が失われ、もうどこにもいなくなる……

 そこには闇だけが――


 そこに光りがあった。
 その眩しさから逃れようと、彼は顔を背けた。
 眉根をよせて、ゆっくりと瞼を開けた。
 見覚えのある光景。
 そこは寝室だった。
 眩い光りは、閉じられたカーテンの隙間から差しこむ朝の訪れだった。
 彼はベッドを降りて寝室を出ると、階下のリビングに向かった。
 リビングのドアを開ける。
 すると、空腹を刺激する匂いが鼻腔をかすめた。
「あなた」
 聞き覚えのある声。
 それは愛する人。
 キッチンに眼を向ける。
 そこには、微笑みを向けてくる、美しい妻の姿があった。

                             (了)     
        

メビウスの輪

メビウスの輪

  • 小説
  • 長編
  • ホラー
  • 青年向け
更新日
登録日
2016-03-18

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