本音を暴かないで 6

 兄が仕事に出かけていくのを見届けてシャワーを浴び、里山へ折り返しの電話を入れた。
 コール音を右耳に、ソファーへと深く腰掛ける。視界の左側にあの写真が映った。伏せられてはいるが、そこに浮かぶ両親の幸福な笑顔が脳内にちらついた。それをかき消すように頭を振る。
 少し開いたカーテンの隙間から日差しが差し込んでいる。それに目を向けた。
 コール音が途切れ、留守番電話サービスに繋がる。
「長井です。昨日はすみません。帰ってすぐに寝てしまいました。今日でもよろしければ連絡ください」
 そうメッセージを残した。正直、里山の話は頼んでも聞きたいくらいに興味がある。父の消息が知りたいとか思っているわけではない。そうではないけれど、里山が伝えたいと思ったことを知りたいのだ。
 私はそうやって言い聞かせた。兄は父のことを気にしていないように見える。兄妹として私自身もそのようにあらなければならないと思っている。普通に考えれば誰もがそんなことはないと言うだろう。しかし私にとって兄はたった一人の家族。彼の理解者でありたい。
 スマホが通知を告げる。開くと恵梨からだった。こんな早い時間に珍しいなと、メッセージを読む。
「今日掃除の日だよ。中井から彩知が来てないって聞いてどうしたのかと」
 心臓が跳ね上がった。まさか、と台所のカレンダーを見る。そのまさかであった。
「あ、ごめん。遅れるって伝えておいてくれる?」
 そう返信して、すぐに自室へと飛び込み、ハンガーに掛けてある制服を引っ剥がして着込んだ。最悪だ。こんな失態は初めてだ。他のことに気を取られて自分のすべき事を忘れるなんて。穴があったら入りたい。
 スカートのホックがうまく合わない。かちゃかちゃと乱暴にはめて、ふうっと息を吐いた。冷や汗が全身を覆っているような感覚だ。しっかりしないと、と気を引き締める。壁に掛かっている時計は九時十分を示している。今から学校に急いでも掃除には間に合わないだろう。着いた頃には終わっているはずだ。しかし講習には参加したい。それに、直接謝らなければ私の気が済まない。

 汗だくになるのも構わずに、とにかく駅まで走った。重たい湿度が体に張り付いて、私の足を緩めさせようとしている。太陽がアスファルトに熱を放出して地面に張り付く生物たちを蒸し焼きにした。
 そんなこんなで学校に着く頃にはへとへとになっていた。着いてから思うのだが、何も走ることはなかったのではないかと。どうせ間に合わないのだから、早くても遅くても関係ないような気がする。
 腕時計は九時半を示している。さすがに今日はあの不良二人も来ているだろうし……。
(微妙だなあ。終わってるかな)
 もしやまだ掃除の最中かもしれない、と淡い期待を胸に下駄箱で靴を履き替える。そんな思いを打ち砕くかのように、階段の方から高坂が降りてきた。一歩遅かった。
「おはよう。遅かったね」
 彼の口調には責める気配がなかった。どことなく面白がっている風にも感じられる。
「遅れてごめん。掃除は……」
 気まずさと申し訳なさで、彼の目を直視できない。
 彼が近づいてくる気配がした。今は汗だらけなので近寄ってほしくない。私は数歩下がって、彼から遠ざかる。
「もちろん終わったよ。今日は佐藤さんも山根さんも来たから楽だったよ」
 彼の表情は見なくてもわかった。彼お得意の笑顔がぴったりと顔に張り付いているという事がね。
「本当にごめん」
「いや、怒ってないから。礼司は喧しかったけどね。それよりも、どうして遅れたの? 昨日の今日で疲れたとか?」
「う、うん。そんな感じ」
 視線が泳ぐのが自分でもわかった。
「大丈夫? 講習は出れる?」
「うん。出るつもり」
「そっか」
 それを聞いて高坂はやっと私を解放してくれた。スタスタと階段を上がっていく。
 彼が見えなくなると、ほっと肩の力が抜けた。彼の空気は疲れる。近くにいるだけで緊張の糸で縛られたような気分になるのだから、堪らない。
 鞄を背負いなおして、一歩階段の方へと踏み出すと、それを呼び止めるように声がかけられた。
「あ、彩知!」
「恵梨? どうして」
 恵梨は講習を受けにきたのだろうが、いくらなんでも早すぎる。掃除当番でもないのに早く登校する意味がない。
「心配でねえ。彩知が遅刻するとか今まで無かったし、昨日もどことなく無理してる感じがあったから」
 恵梨は照れくさそうに笑った。胸が暖かくなるのを感じる。
「大丈夫だよ。昨日は楽しかった。今日の花火だって行こうと思えば行けるよ」
「本当に? それなら信乃誘って行こうよ。夜からになるけど」
 彼女の表情が緩み、楽しげな雰囲気になる。
「うん。いいよ」
 実を言うと私は花火をあまり知らない。人混み嫌いのせいか行こうと思ったことは生まれてこの方一度もない。
 私にとって祭りとは、兄と二人で行くものであった。父と母は毎日仕事で忙しく――そもそも一緒に祭りへ行くような家庭ではなかった。それに私も無理に強請るほど祭りが好きではなかった。兄はそんな私を無理矢理引きずって祭りへと連れて行った。
 最初に食べたのは綿飴だった。あれはとても美味しかった。
 兄が就職した後は友達と行った。しかしあまり楽しくなかった。
「ラインで聞いてみたら信乃行けるって」
「そっか。何時に集合する? 花火は八時からだよね」
「六時! 昨日と同じところで」
「わかった」

 選択教室では、既に昼ご飯を食べている生徒がいた。さすがに早すぎではないかと思ったが、恵梨も鞄から弁当を取り出したので黙っておく。
 相変わらず高坂の周囲には女子がいっぱいいた。
「食べたら予習しますか!」
 恵梨は手早く包みを解き、ぱんっと合掌する。
「いただきます」
 彼女はおいしそうに焼き色のついた卵焼きをかじった。私も自前弁当――兄の弁当のついでに自分のも毎日作っている――を取り出した。
「いただきます」
 今日のメニューは、ポテトサラダにちくわの磯部揚げ、だし巻きとウインナー、それに兄が嫌いなトマトを二つもつっこんでやった。そのときの兄の表情を思い出すと、思わず頬が緩んでしまう。
「どしたの、にやにやして」
「え? いや、何でもない」
 トマトを一つ口に放り込む。うん、おいしい。
「彩知の弁当って……自作だよね」
「そうだけど。どうして?」
「ふと思っただけ」
 彼女はパクパクと弁当を消費していく。本当になんとなく思っただけらしい。
「あ、高坂に机使っても良いか聞いてくるわ」
 恵梨は弁当を食べ終わると、思い出したようにそう言った。高坂付近には依然、女子が固まっている。彼女はそこに躊躇無く割って入り、女子どもに嫌がられるのも気にしない。
 すぐにそこから出て来て、オッケーサインを私に送ってきた。
「いやあ、あいつの人気すっごいねえ」
 弁当を鞄にしまいながら相槌を打つ。いつものことだけれど、リアルで女子に囲まれる男子は彼だけだ。
「彩知、見た? 女子の視線。あいつにそこまでご執心するなんて、高坂のどこがいいんだろうね。やっぱり顔?」
 そう聞かれると、答えにくい。私も少しだけ彼に惹かれるものを感じたからだ。彼の纏う独特のオーラ、と言えばいいのだろうか。しかしそんなことは口に出来ない。
 私はまだ曖昧な感情の答えに気づいていない。恵梨に最終判断を任せると言っておきながら。
「顔と外面じゃないかな」
 とりあえずそう言った。この二つは絶対だ。
「やっぱりそこだよねえ。しっかしあんなに女って怖くなるものかな? あたしも女だけど……高坂の人気には驚かされるよ」
 恵梨がわざとらしく身を竦めた。
「実際ああなってるんだから、そういうものなのかも。今まで漫画かアニメくらいでしか見たことのない光景だけど」
 何気なく呟くと、恵梨があっと目を見開いた。女子の固まりに視線を走らせて、やっぱりと口が動いた。
「何?」
「高坂の周りにいる女子、皆あいつと同じ中学出身なのよ。今気づいたけど、高一のときもそうだった。でもそれは、まだ新規のファンがいないからだって思ってたけど……他にも何かありそうね」
 彼女の目がきらきらと輝く。
(高坂くんの人気の秘密? どうでもいいや)
 英語のノートと教科書、筆記用具を抱え持ち、さっさと選択教室を出ようとする。
「ちょっと! 彩知!」
 すかさず恵梨が置いていくな、と鞄を背負う。
「こんな謎、気になってしかるべきじゃない?」
「謎にもなってないって。ただの思い込みかもしれないし」
 席についてなお、恵梨の妄想は止まらない。
「中学の時に何か事件があったに違いない! それで女子たちからの人気がアップしたとか」
 女という者はこの手の話が大好物だ。口を開けば色恋沙汰。誰が誰を好きだとか、あの二人がつきあっているだとか、恵梨も例外なくそれがおいしいのだ。
「どんな事件よ……」
「んー、高坂が死にそうになって、女子の母性本能擽られて、みたいな」
「あり得ないと思う」
 呆れて頭を抱えていたとき、先週と同じ席に高坂が座った。恵梨が聞かれたかな? と苦笑する。彼の表情を見る限りその心配はないだろう。
「人気者の高坂くん、今日の調子はどう?」
「良い方かな。原田さんは?」
 高坂はちゃかす言い方を気にもせずに笑った。
「あたしはもちろん絶好調よ。なんたって、彩知と今日花火行く約束が出来たからねえ」
「長井さん花火行くんだ! 好きなの?」
 彼にとって私が花火に行くのは予想外のことだったのか、大げさに驚いている。身を乗り出し、机に上半身を乗せる形で問われる。
(こんなに驚かれるとは……)
 少々困惑した。人間、花火を見に行くかと聞かれれば大多数がイエスと答えるだろう――特にこの地域の花火は有名だから――と思っているが、彼から見て私はそこに入っていないらしい。まあ実際、地元民の私ではあるが花火を見に行ったことは一度もない。
「画面越し、写真くらいでしか花火見たことがなくて、だから好きかどうかは今日決まると思う」
 人混みは嫌いだけれど。
「えっ彩知、花火見たことないの」
「うん。そこは驚くところだよね、自分でもびっくりだから」
 彼女の反応は納得である。
「ふうん。まあ楽しんで来なよ」
 高坂は頬杖をついた。彼が私に微笑みかけるので、思わず視線を逸らした。それはもう、あからさまに。
 そこにぴょんっと登場する古川。英語の講習だけは本当に毎回受けにくる意気込みらしい。通う理由は不純だが。
「こんにちは、隼。あ、二人も」
 付け加えるような挨拶に苦笑が浮かぶ。高坂意外の人には興味ありません、と隠しもしない態度には脱帽だ。
「こんにちは」
 高坂と恵梨がにこやかに返答した。私は小さく会釈だけ。少し冷たくしたって問題ないだろう。彼女だって同じようなものだ。
「隼は昨日の祭り中井くんと行ったんだよね。どうだった?」
 古川が彼の肩に体をすり寄せ、猫なで声をだす。夏服が汗ばんでやや透けているため、ブラジャーの紐が見える。赤だ。彼女の白い肌には良く映えるのかもしれないが、校則では色付きの下着着用は違反である。よくもまあ、堂々と……ああいうのが男子は好きなのだろうか。
 古川の体をうまく避けつつ、高坂は笑う。
「楽しかったよ。途中で長井さんたちにも会ったし」
「そうそう、偶然にね」
 三人が話している間、私はぼーっと窓の外を見ていた。
 胸中がやけに落ち着かない。それで、遅刻したことをまだ気にしている自分に気づいた。
 私は生まれてこの方、我を忘れて物思いに耽ったことなんて無かった。あったとしても、生活に支障が出たのは初めてだ。いや、支障というのは大げさかもしれない。ただの遅刻だといってしまえばそうなのだ。普通ならば、それは小さな失敗の一言で済む。けれど私はそこまで心を広く持てなかった。
 自分の中に怯懦な部分があるのだ。小さな事に敏感に反応する心と、周囲の顔色を勝手に作り出してしまう脳味噌。いつからだろう、私がこんなにも弱くなったのは。
(人間、失敗はするものだって言うけどその通りだ。毎日遅刻する人って罪悪感の欠片もなさそうに見えるし)
 窓から差し込む太陽光がさすがに目に痛くなってきた。ぱちぱちと目を瞬かせ、光の残像を消した。そのまま教室内に視線を戻すと、途端に今まで聞こえてこなかった音が溢れた。
「今日は暇なんでしょう。それなら一緒に行こうよお」
 甘ったるい声だ。古川が上目遣いで高坂を見上げる図が頭に浮かんだ。振り返りたい衝動を何とか抑える。見たいような見たくないような、変な気分だ。
「今日は家でゆっくりしたい気分なんだ」
「私と一緒じゃ落ち着けないの?」
 古川の押しの強さは自信からくるものなのか。私ならすぐに引いてしまう。断るということは、極言すれば行きたくないってことだと思うから。
「無理強いは良くないんじゃない?」
 恵梨が体をひねって後ろを振り返り、古川の強引な態度を柔らかく注意した。古川は私が空を見つめている間、ずっと彼を誘い続けていたのだ。それは高坂の困ったような声でわかった。それに、恵梨が口を挟む時点でお察しだ。
「無理強いじゃなくって、隼も本当は行きたいんでしょ?」
 彼女は確信しているのだ、そう思った。声が真剣だった。
 本気で言っているという事は、その根拠があるはずだ。高坂が実は花火が好き……とか。可能性としてはありそうではある。
(行きたいのが本当でも、連れは選びたいよね)
 そう思ったがすぐに間違いだと気づいた。行きたいならば中井を誘えばいい。彼ならば二つ返事でオッケーするだろう。と、いうことはやっぱり彼は花火に興味がないんだろう。古川の確信めいた言い方に一瞬でもそうかも、と思ってしまった自分がなんだか恥ずかしくなった。
「行きたいなんて言ってないけど……」
「隼は素直じゃないから、心の中では寂しいって思ってるのに言わないから。大丈夫だよ、私はわかってるから。だから花火行こうね」
 日本語通じないって結構恐ろしい。
 恵梨は、呆れたように口を開けて大きく溜息をつく始末。手に負えない、まさにそんな表情だ。
 高坂は表面的には穏やかに見えるが、その目は数分前から笑ってはいないはずだ。声は優しく宥めるようでありながら、語尾に棘が見え始めている。そろそろ怒るかもしれない。私は内心それもいいなと思っていた。彼の激情する姿なんて誰も見たことがない。それが今、見られるかもしれないのだ。興味があった。怖いもの見たさというやつだ。しかし、恵梨が助けを求めるようにこちらを一心に見つめるのでそうもいかなかった。
 息を吐いて、笑顔を作る。その勢いで振り返った。私の突然の行動に高坂の目が見開かれる。彼は思った以上にお怒りだった。雰囲気でそれが伝わってくる。まあ、ここまで粘られれば誰だって嫌になるというもの。私ならとっくに堪忍袋の尾が切れている。
「ね? 行こうよ」
 じゃれつく古川から目を反らす。見てはいけない気がした。
「古川さん、そんなに行きたいならもっと一緒に楽しんでくれる人を連れていったらどう? 高坂くんとじゃきっと楽しめないよ」
 明るく言えた、と思う。
「え? 隼とならどこでも楽しいからそんな心配いらないよお」
 言い返してくると思っていた。私のこんな一言で引き下がるならとっくに話は終わっている。だから想定済み。
「そっか。なら大丈夫だね」
 恵梨が袖を強く引っ張ってくる。
(なんか引っ込みつかないし、私も強引なのはどうかと思うから……今日のお詫びも兼ねて言うだけ言ってみよう)
「そういえば古川さんって英語の講習だけは毎回受けに来てるよね」
 話題変更に古川がきょとんとする。
「うん。なんで?」
 笑顔をキープしつつ、思考を巡らせる。古川は高坂が他の誰かと花火に行くと言えば諦めるしかないだろうから、その手で行こう。
「いや、英語不得意なのかなって」
「そうでもないよ。私、勉強はできる方だから」
 古川の悪いところは見栄っ張りな性格。プライドが高いため、己を守るためなら嘘だって平気に付く。それは私も同じだからあれこれ言えないけれど。
 彼女は英語だけ、出来るのだ。
「そうなの? 私はちょっと苦手で……。学期末のテストで英語以外は全部満点だったんだけどね」
 嘘だ。九科目で八百七十点だったが、満点は四つしかなかった。しかしこの学校では教科ごとの点数など発表されない。だから嘘もバレる心配がない。
 古川は学期末英語テスト九十九点を取ったと言いふらしていた。あのテストは公表されてはいないものの、成績上位者ならば百点取れて当たり前なくらい難易度が低かった。一体何人百点を取ったのかと、テスト作成者に恨み言を言いたくなったものだ。
「ふうん。私は英語百点だったよ」
 勝ち誇ったように言われ、少し腹が立つ。
「英語以外満点って凄いね」
 高坂が感心の声をあげた。これは信じ切っている目だ。あとで訂正することを忘れないでおこう。恵梨は一瞬首を傾げたが、すぐに高坂にならった。彼女には英語の問題が簡単すぎると文句を言ったから、私の嘘には気づいているはずだ。
「百点! 本当に勉強できるんだ」
 一応彼女に合わせる。英語だけ出来たってイコール勉強できるには繋がらないというのに。自分の価値観を曲げるようで少し苦しい。
「まあね。って、そんなことより隼! 花火一緒に行くんだよね」
 彼女はどうしても高坂に承諾させたいらしい。このまま有耶無耶になって忘れさせる手もありかなと思ったのだが。
「いや、だから今日はゆっくりしたいし、俺は行かないよ」
 私は一瞬口に出すのを躊躇った。自分のキャラじゃない言動は言葉にしにくい。喉元でつっかえるそれを必死に吐き出す。
「高坂くんがもし行くなら私が一緒したいなあ。私、花火初めてだから最初は良い思い出にしたいし、高坂くんとならそれができそうかも、なんて」
 思ってもないこととはいえ、恥ずかしい。しかし、今高坂から目を外すと、もう見られなくなるとわかっている。だから気合いで彼を見つめた。
「え? 何言ってるの。私が先に誘ってたんだけど」
 ホント、何言ってるんだろう。
 高坂はまあ、予想内の反応だった。とにかく驚いている。そして、有り得ないっていう顔。私は彼に伝わることを祈って、睨みつけた。古川にはわからないように。高坂と数秒そうしていると、古川が間に割って入ってくる。
(今反らしたらもう見れないって!)
 慌てるが時既に遅し。高坂と私の間に体を乗り出す古川。彼女は凄い形相で私を睨んだ。背筋に悪寒が走る。
「いいよ。行こう」
 と、彼が穏やかに言った。私の言ってほしかった言葉だ。これで引き下がってくれれば、次の手は使わずに万事オッケーだ。
「ちょっと! 隼! なんで私の誘いは断って長井さんのはオッケーするの? 私の方が先に誘ったのに。納得できない」
 そう簡単に行くわけもなく。
 それにしても、本当に彼女はわかりやすい。高坂が好きだと全身で語っている。その好きがどこから来るのかは別として、自分の感情に素直なのは美徳だ。もちろん、押しつけるのはただのエゴだ。
「じゃあ勝負したら?」
 高坂の提案に私は驚いた。それは私が言おうと思っていた言葉だ。彼はこのお遊びに気づいているらしい。
「勝負って?」
 恵梨は楽しそうだ。顔がずっと緩んでいる。私も緩みそうだ。
「古川さんが決めて良いよ。先に高坂くんを誘ったのはあなただし」
 お伽話のシンデレラに登場する継母の連れ子をイメージした。私は意地悪で嫌な性格の、高慢知己なしゃべり方で……。簡素に言うと嫌な奴!
「でも高坂くんは私と行きたいみたいだけど」
 さっきの仕返しとばかりに勝ち誇った笑みを浮かべてやった。何だろう、楽しい。
「今日の講習テストがあったよね。それの点数が高い方が隼とデートするってことで決まり。わかった?」
 デートというフレーズに内心動揺した。一緒に出かけるだけでデート扱いだなんて、思考回路がピンクだ。
 おっと。忘れるところだった。私は急に不安げにオロオロ……という演技をする。
「英語のテスト……」
「私が決めていいんでしょう、ならそれで決まり、ね? 隼もそれなら納得でしょ」
 納得なのは古川の方である。高坂は勝負を強制していない。まあ、あそこで引き下がれば高坂と出かけるのは私になってしまうわけだから、古川が食いつくしかないのは分かり切ったことだ。私が提案したのでは乗ってくれずに最初に逆戻りか、もっと酷い状況になったかもしれない。高坂の機転に感謝だ。
「そうね。わかった」
 大きく頷いて、体を前に戻した。
(どっと疲れた……)
「面白いことになったわね」
 恵梨が耳元で囁く。
「全くだよ」

 講習がいよいよ始まり、テストが配られた。一通り見る限り、あの学期末よりは断然こちらのほうが難しい。センター試験手前くらいだろうか。習っていない文法もちらほらある。しかし問題にならない程度だ。大丈夫。私はスラスラと鉛筆を走らせた。
「そこまで。手を止めて後ろの人から前にまわして」
終了の合図がかかる。一応全問に回答できた。
 プリントを古川から受け取る。一瞬見えた彼女の表情は微妙な感じだった。腑に落ちない、みたいな顔と似ている。きっと講習のテストを受けるのはこれが初めてなのだ。もちろん私もそうだ。しかし彼女とは違って、出題される問題の難易度を把握していた。
 テストはその場で採点、すぐに返却される。力試しみたいなもので、偏差値や順位を競うものではないからそれでいいらしい。
 講習担当の先生が採点を終えるまでは自主学習の時間となる。
 恵梨が顔を近づけてくる。
「どうだった?」
 私はちょっと考えて「大丈夫」と言った。自信はある。夏休み中必死に勉強した甲斐があったと思える手応えだった。
「じゃ返すぞー」
 名前を呼ばれ、次々に生徒たちがテスト用紙を受け取っていく。皆、表情は微妙だ。それを見て不安になってくる。
 とうとう名前が呼ばれた。席をゆっくり立ち、肩の力を抜いた。なぜ負けても良い勝負なのにこんなにも緊張するのか。私はちょっと高坂を助けてやろうかな、という冗談半分の気持ちだった。しかし、いざ勝負となると負けたくなくなるものらしい。私は案外負けず嫌いなのかも。
 テストを受け取ると、先生は数回軽く頷いて笑った。それを見た途端、ほっとした。この先生がこうするときは褒めているということだ。私は点数を確認した。そして予想外過ぎてポカンと開いた口がふさがらない。七十八点。過去最低点だ。いくらなんでも酷すぎる。
 半ば放心状態で席に着く。
「何点?」
 恵梨がすぐに聞いてくる。言いたくない。そう思った。
 背中からの視線が痛いし、勝負は勝負だから。腹を決めて言うしかない。
 そのとき丁度古川が呼ばれた。私たちの視線はそこに向いた。
 先生はただすっとそれを手渡した。彼女は点数を見て、固まった。
(え? その硬直は何? 凄かったの? それとも悪かったの?)
 その後恵梨と高坂も呼ばれた。教室内はざわついている。点数がこんなにも人に言えないものだったとは、初めて知った。
「ぐわー! 五十二!」
 恵梨の情けない声で、私ははっとした。五十二? 
「長井さん、点数は?」
 古川よりも先に高坂に聞かれた。秀才に聞かれるほど嫌なことはない。
「七十八点」
 小さく呟く。
「じゃあ勝ちだ」
「え?」
 耳を疑う。
「だから、長井さんの勝ち」
「そうなの?」
 確かに勝ち、と聞こえるが、本人の口から聞くまでは安心できない。
「古川さんは?」
「今日は体調が悪かったのよ……」
 彼女は俯いて顔を上げない。テストも折り畳んで握りしめている。そのまま講習の間、古川はずっとそうしていた。

 講習が終わると古川は逃げるように帰って行った。そんな彼女の後ろ姿を見て、私はなんだか申し訳なくなった。
「なんか……後味悪い」
「いいのいいの。もとはと言えばあいつが悪いんだから」
 恵梨のフォローに曖昧に頷く。
「俺は八十点だったよ」
 いきなり高坂が目の前に現れた。テストの表を私に向けて、ほらねと笑う。
(私よりも出来たよアピール?)
 いいや、考えればわかる。このテストは結構難しい部類だと教えてくれたのだ。たぶん最高得点は八十点。あの高坂でも、八十だ。古川の点数はあまり聞きたくない。悪いのは目に見えた。

「途中から冗談だってわかってたけど、やっぱり行くべきじゃないかな。もしも祭りで古川さんとバッタリ……なんてことがあったらどうする?」
 校舎を出ても高坂はしつこくついてきた。折角手に入れた安息を手放そうと言うのだ。
「どうもしない。見ない振りをする。古川さん一緒に行く相手いないから来ないと思うけど」
「別に高坂も一緒でいいじゃん」
 恵梨は乗り気だ。
 私はもの凄く後悔していた。こんなことなら助け船なんて出すんじゃなかった。高坂ならばどうにかしてあれを切り抜けられたのではないかとさえ思えてくる。いや、きっとそうだ。彼が古川の言いなりになるわけがない。
「高坂くんは行きたくなかったんでしょう。無理しない方が良いと思う」
 恵梨を置いて足早に校門を通り過ぎる。後ろで恵梨がなにやら叫ぶのが聞こえた。それを無視して歩調を速める。
 蝉の声が私を笑っているようだった。

本音を暴かないで 6

やっと更新!次回はもっと遅くなるかも……。

本音を暴かないで 6

講習中心です。古川登場回。

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-03-18

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著作権法内での利用のみを許可します。

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