人魚姫

作り物の世界で


「きっと私は間違えて人間に生まれてしまったのだと思う。だから、神様が私にこうして、日に日に強まる自殺願望を植え付けているの。全く理不尽な話なんだけれど。毎日募るその思いを抱えながら、私は死ぬ方法を考えている。美しい死には色々あって、でも、神様の理不尽を私の伝説にしてしまうくらい、それはセンセーショナルなものでなければいけないわ。
だから、真っ白なドレスを着て、その下に重石を仕込んで、睡眠薬を沢山飲んで、眠ったまま、水族館の大きな水槽の中に沈む、という方法を考えたわけ。
そうね、沢山のカップルが来ている、土曜の夜なんかに。
沢山の恋人たちが息を飲み、何かのイベントかと、もしくは、幻かと。そう思ってしまうくらい。
家族連れの子どもが私を指差して、人魚だ、って言ったら最高ね。」

抜けるような白い肌、というのは彼女のそれを指すのだろう。彼女のきらきらしたラメに彩られた爪は、薄明かりの中で一層輝き、くるくるとマドラーでグラスを掻き回すたび、僕は星を見ている気分になった。
「それは大変な事件になるだろうね」
「だから、言ってるじゃない。センセーショナルじゃなきゃいけないの。」
彼女はくちびるを尖らせる。大きく開かれた目が僕を見据えて、たじろいだ。
「どの、水槽がいいの」
トンチンカンなことを訪ねている自分に、呆れる。
「広いところよ。特別広いところ。ジンベエザメが泳いでいて、エイがいて、一つの完成した世界になっている水槽。そこに、私という異物が入れば、この世界に生まれてしまった私の違和感を、きっとみんな理解する筈よ。」
「君は、きっと違和感がないと思う」
「どういうこと?」
「きっと、それは、在るべき姿に映るよ。本来の。」
「…肯定してるつもり?ありがとう。協力してくれるのね。」
彼女はどれほどの労力でもって、こんなことを口にしているのだろう。僕は彼女の捜していた最後のピースで、巻き込まれる最大の被害者だ。
「人生を狂わされるという意味なら、結婚とさほど変わらないわ。少しばかり拘束されて、今までと世界が変わって見えるだけ。」
彼女は、ファッションデザイナーの友人に頼んだという、真っ白なドレスを携帯の画面で僕に見せた。無機質なトルソーに着せられたそれは、早く彼女の肌に触れることを切望していた。
「何度も早まりそうになったわ。でも、駄目だって、ちゃんと私わかってたの。作り物の世界じゃないと意味が無いのよ。」
彼女が目を伏せるたびに、世界が一秒ずつ狭まってゆく。
「ごめんなさいね、利用してしまって。ちゃんと、私に脅されたって言うのよ。」
「否、」
彼女は微笑んで、僕の手を握った。
「なあに」
「これは、僕の意思だ。僕がそう望んだんだ。僕はこの美しい海洋生物を展示したい。そう思ったから、そうするんだ。君は、こんなところにいてはいけない。一刻も早く、水中へ戻るべきだ」
くすくすと笑う彼女が見える。僕の頭は、どうかしてしまったのだろう。私は海洋生物なんかじゃないわ、と笑うから、君は人魚だ、と僕は言った。
「そう証言してくれるのも、アリね。狂ってるもの。」

「みんな、狂ってる。だから、私は夢を見るの。夢は美しくなければいけないの。そして夢は叶えるものよ。」


明日は土曜日、先日、と或るカメラマンから撮影依頼を受けた。水彩画で有名な画家が、ここのところ、毎日練習するように、色々な角度からスケッチをしている様子を見かける。
彼女はどれほどの労力を費やし、海に沈む夢を見てきたのか。
水族館の館長になった理由、を、僕はこの生物を前にして、すべて、忘却してしまった。

「作り物の世界で、違和感なく溺れる様子を視覚化するには、必要なことがたくさんあった。あとは、あなたを信じるだけ。」

その夢のためだけに、彼女はモデルになり、様々な人間と関係を持ち、溺れて、溺れて、溺れていた。
明日、僕は、彼女を展示する。案外、誰もが違和感なく、通り過ぎるのかもしれない。作り物の呼吸困難な世界の中で、今までもずっと異物感を隠し、彼女は眠っていたのだから。

人魚姫

人魚姫

短い、短い、夢のお話。

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-03-17

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