ksgkが神様
リョーカがその男に出合ったのは夏の余韻が残る10月初めの握手会だった。
その握手会は全国握手会というタイプで通称全握と呼ばれているモノだった。久し振りに東京圏の横浜アリーナで行われたので大勢のファン達が集まり熱気が会場内に充満していた。ミニライブに引き続いてミネギシがMCを務めたかなりポンコツ感満載の寸劇が終わると1時間程の休憩タイムをはさんで握手会が始まった。実は握手会は2種類存在する。前述の全握ともう一つはファンからは個別と呼ばれる個別握手会でそれらの違いは握手券の入手方法だ。個別用の握手券を手に入れるには通信販売専用の劇場版というCDを握手をしたいと思っているメンバーを指定して購入、一枚毎に握手券の抽選に対して一口分応募しなければ為らない。しかも抽選方式だから必ず手に出来るとは限らない。人気のあるメンバーの個別握手券を手に入れるのは至難の業である。一方、全握は店頭で買える初回限定盤には必ず一枚は同封されているので手に入れ易い。持ち時間も異なっており個別の場合は約10秒、ソレに対して全握は7秒(3秒だった時代もあった)。値段も劇場版は1000円だが通常版は普通のシングルと同じ1600円である。だから一見個別の方がお得だが、ココにリスクが存在する。通常の場合、劇場版の予約はCDの発売日の約2ヶ月前くらいで発売日に指定の住所に送付されてくるのだが、実際の握手会が開催されるのはその2ヶ月くらい先で、大体4ヶ月から長い時には6ヶ月ほどのタイムラグが生じてしまうのだ。6ヶ月という時間は人間の考えを変化させるのに充分な程長い。気が変わってしまい握手券が指定するメンバーが御目当ての娘では無くなってしまっている可能性がある。別のメンバーに乗換える事をヲタは『推し変』と呼んでいる。推しているメンバーを変えるから『推し変』である。女性という生物は接している相手の心変わりに非常に敏感だから、既に推し(推しているメンバーの事をこう呼ぶ場合がある)では無くなった娘と握手をする時には、約10秒間の微妙な真空の時間が2人の間に流れる。コレは『事故る』と呼ばれる現象である。だからあえて全握を選択するヲタも多い。しかも全握の場合、何枚も券をまとめ出し出来るので長く喋りたいファンにはコチラの方が合っている。10枚出せば約一分間メンバーを独占出来るし、中には一辺に50枚以上も出す強者もいる。何故ならたとえ10秒と短い時間でもその瞬間彼女を独占できているのは地球上でたった一人だからだ。全握は会場に行ってから『この娘良いなぁ』と思って初めて握手したいメンバーの列に並ぶ運びに為るので必然的に列の長さの長短の違いが生じてしまい、如実に人気の有る無しが露見してしまう。何年か前にグループから巣立って行ったユウコ先輩の場合、福岡のヤフードームで催されたユウコ先輩が参加した最後の全握において、先輩のレーンに並ぶ人の列は延べ人数が2万人を超えてしまった。実質的な人数は約12000人でコレは今でも破られていない記録である。凄いなぁ、と閑散としてきた自分のレーンを見ながらリョーカは思った。2万人。当時は一人あたりの持ち時間が約3秒だったので単純計算で6万秒、ずっと握手し続けていてもおよそ17時間かかる計算に為る。17時間の握手。それも並んでいる人達ひとりひとりで対応の仕方を変える。変顔を要求するファンに対してはバリ島のお面と呼ばれる必殺の顔芸で返したり、「結婚してくれ」と頼むヲタに対しては軽くいなし、「辞めないで」と泣き崩れる女性のファンには優しく接し、子供のファンには同じ目線まで降りて笑顔を手渡したりする。まるで神様だ。リョーカはそう思った。私には到底出来ない芸当だ。12000人に対して離れ業を見せるなんて、しかも17時間打っ通しで握手をし続けた後、鍵明け(最初のお客さんをこう呼ぶ)と鍵閉め(最後のお客さん)への対応が全く変わらないのが信じられない事だった。信じられないけれど事実だった。何時だったか忘れてしまったがユウコさんに「何でそんなに一所懸命なんですか?」と聞いた事がある。ユウコさんは笑いながら「初めてのお客さんも何時も来てくれるファンの人達も私にとっては変る所の無い大事な人だから。特に初めて並んでくれた人はソレが最後の握手に為っちゃうかも知れないから『これが最後、一期一会』って思いながら全力でオーラ全開で握手するんだ。ナツ先生に教わった通りに『目からはビーム、手からはパワー、毛穴からオーラ』って感じでね」疲れませんか?と聞くと「全然。寧ろ沢山の人達と握手すると元気が出るよ。パワーを吸い取るんだよ、逆にね」と答えてくれた。
イヤッ、全然疲れますから。リョーカはそう思った。私なんか100人の人と握手しただけでヘトヘトですけど、何か? リョーカの握手会におけるファンへの対応は神対応(御客さんが自分自身が神に為ったとさえ思わせてくれる丁寧な対応)でも無く、流行語大賞に為った事もある塩対応(握手しているファンをショッパイ気分にする素っ気無い対応)でも無く、至って普通の対応の仕方で、人に因っては少し物足りなさを感じさせてしまうモノだった。多くのファンが『もう少しガツガツしてて欲しいんだけどなぁ』とか『ユウコが同じ位の歳の時は、もう少しガッついてたんだけどなぁ』とか思わせてしまっていた。率直に表現すれば、ファン達をガッカリさせてしまっている事は否めなかった。
それにしても暇だなぁ。
何か過疎って来ちゃったなぁ。
並んでいた最後のお客さんが捌けて行くと暫くの間静寂の時が訪れていた。ヒッパイさんがいた頃はこう云う空き時間は絶好の悪戯タイムで、握手に夢中の彼女の背後に周って、気息を絶ち密かに忍び寄ってシャツ越しにブラのホックを外したり、両手で豊かな胸を鷲掴みにして揉みしだいたものだった。でも後輩なのにも関わらず彼女は半年前に辞めていってしまった。1番のターゲットだったんだけどなぁ。リョーカは残念な気持ちに為り、もう一人の獲物である先輩のイズリナさんのレーンが遠い事を少し嘆いた。そんなボーッとデフォルトモードネットワークと呼ばれる状態に陥っている時に、1人の男がリョーカのレーンに入って来た。
山塊が入って来た、とリョーカは最初感じた。圧倒的な存在感を男は備えていたからだ。正直なところ驚いてビクッと体を竦めて仕舞った位だった。落ち着いて良く観察すると背丈はそんなに高くは無くてリョーカの母親位だった。でも正方形に近い身体はサッカーのミッドフィルダーを想い起こさせた。ガタイのデカさに反比例して滑らかで無駄が無い俊敏な動きでゆっくりと近づいて来た。近くで見ると頭部は禿げているのではなくて明らかに丁寧なハサミ捌きに因って形作られたと思われる所謂おしゃれ坊主だった。顎のラインが綺麗に縁取られたヒゲは顔つきをより一層精悍に見せていた。そしてダークブルーのジャケット、白のシャツにデニムパンツそしてスニーカーと言ったカジュアルな服装はネコ科を想起させる男のスムースな動き方に良く合っていた。オクタゴナルのシルバーフレームに嵌められた非球面レンズが会場内の照明を反射した。男はマネークリップに大量の握手券を挿んだ物をハガシの人(握手の時間を計測したり、メンバーに喰い付いて離れないファンを『剥がす』係員)に手渡して言った。
「200枚有ります。マトメ出しでお願いします」
へっ?
200枚?
嘘でしょ?
リョーカは200枚の握手券の束を見るのも初めてだったし、ソレを使っているシーンに出くわしたのも初めてだった。彼女は心の中で急いで計算を始めた。えーと、今日は一枚当たり7秒設定だから、えーと、200×7で1400か。1400って事は一時間が3600秒に為るから、約半分。うわぁ! 30分も握手し続けるの? 男の手をコッソリと確認するとゴツくて頑丈そうだった。そんなに握手し続けたら手が壊れちゃうよ。200枚なんてユウコさんくらいじゃない?こんなに無造作に使ってくれるお客さんは。こういうお客さんが神ヲタと呼ばれる人達なのかな? でも、何とは無くだけどこの人はそれとは少し違う様な気がする。そう神じゃない。彼女の脳裏に1つの考えがポッと浮かんだ。この人は神ヲタでは無い。神からの御言葉を携えて来た言わば使者なのだ、と思った。
でも200枚かぁ、ガクッ。
実は各メンバーに対して使用された握手券の枚数も人気度を測るバロメーターなっているのだが、運営側から公的に明らかにされていない為にこの重要な事実を知らないメンバーが大半だった。その事に全然気づいていないリョーカは一瞬憂鬱に成り掛けたのだが、その心配は杞憂だった。男は最初外国人が良くやっている様な両手を使って軽く握手を暫くしていたがその内に手放した。満腔の暖かさに溢れた握手だった。だからリョーカは男が手を放した時に少し寂しさを感じたのだった。
そうか、握手じゃないのか、そう悟ったリョーカに薄らウンザリとさせる倦怠感が降りて来た。
もう良いよ、謝らなくて、もう御腹イッパイだよ。
今年の6月に開催された選抜総選挙と呼ばれるイベント、それはメジャータイトル曲を歌える選抜メンバー16人を選出する為に、CD一枚に付き一つ同封された投票権を使って自分の『推し』に一票を投ずることに因って計測される人気度調査、言わば人気ランキングなのだが、リョーカは圏外、つまり80位から漏れ出てしまったのだった。去年の総選挙はランキング内ギリギリの80位だったから、客観的に考えればランク外に落ちても何の不思議も無いのだけれど、その前の一年間は運営サイドからの猛プッシュ、ゴリ推しを受けていたのでドラマや舞台などに多く出演でき、その上総選挙用に発売されたCDのタイトル曲を歌うメンバーにも選抜されていたその事実から相当の手応えを感じていた本人は勿論の事、推していた運営サイドも順位が上がる事しか念頭に無かった。だからこそその反動は大きくて余計に両者は想定外のダメージを負ってしまっていたのだ。リョーカの受けたダメージは巨大すぎて耐え切れないモノで、『自分は圏外だ』と悟った時、ステージ上だったのにも関わらず倒れ込んでしまった位だ。その後に開かれた握手会ではいつも応援してくれているファンの人達が異口同音に謝罪の辞を伝えて来て、少しの間リョーカのレーンでは「ゴメンね」の言葉が絶える事が無くフワフワと浮かび続けていた。しかしその事が逆方向に作用してしまいリョーカの心を大きくザラ付かせて余計な負荷を掛けてしまった。そしてファンの人達の真意、心の底から『スマナイ』と思っている事は手に取る様にアリアリと理解出来てしまう事が更に拍車をかける結果になり、リョーカは苛立っている自分を許せなくてまた一層苛立ちが募ってしまい、そのグルグルと同じ所を回る悪循環に身体も精神もヘットヘットにさせられてしまった。リョーカがランク外に落ちてしまった直接の原因は、魅力の源泉が最悪の時期に切り替わった事だ。13歳で加入した当初は、生来の人見知りの性格から自分の周囲に強力なATフィールドを何重にも厳重に張り巡らせて人を寄せ付けず誰とも交わろうとはしなかったのだが、当時チームAのキャプテンだったヨコヤマは何くれとなく面倒を見てくれた。しかし人見知りが災いして尖ったコミュニケーションの方法しか取れなくて色々助けてくれている筈のヨコヤマに対して「ウルせえ、ババア」とか言ってしまうのだった。チームの先輩たちに同じ様な生意気な態度や言動を繰り返す内に何時しか彼女のニックネームはksgkクソガキと名付けられてキャラもクソガキキャラが定着したのだった。成長するに連れて口ばかりでは無く手も出る様に為って、公演や握手会の真っ最中に新しく加入して来た後輩の背後に周ってブラのホックを外したり胸を揉みしだいたりと言ったイタズラをするキャラも加わった事で、ツンデレでイタズラ好きな小さい女の子が大好物のロリコン達がファンに成って行ったのだ。しかしヨコヤマの薫陶を受けて行く内に後輩の面倒を良くみる優等生キャラが出現し大人の予兆があちこちに見え隠れする様に為ると引き潮の様にロリ達は消えて行った。小さな女の子から大人の女性に変貌を遂げつつある段階は『少女』と呼ばれるべきモノで女性の一生の間で一番興味深い変化が起こる時期だが、ソレを観たくてアイドルを追掛けている人間を新規のファンとしてリョーカは獲得出来ないまま総選挙に突入してしまったのだった。つまりパラダイムシフトが最悪のタイミングで訪れた事が原因だった。でもそれでも世の中は廻って行く、リョーカの心と全く無関係に。だから虚勢を張る事であの日に壊れてしまってバラバラに為った自分を必死で形作って来たのだった。でもようやく最近、自分もファンの人達の心も日常を取り戻す事が出来つつあって、落ち着きが還って来つつあったのだ。
見上げると男の顔は良く日に灼けていた。
お仕事は野外なのかな?
初めは30代だと思ったけど、オヒゲにちらほらと白いモノが見え隠れしてるから、もしかしたらもっと上なのかも。
男が口を開き始める予兆が訪れた。
またか、もう良いよ。充分だよ。
そう思いながら男の眼をジッと見つめ返した。
不思議な眼差しだった。暖かいかと聞かれれば暖かくもあり、冷たいかと尋ねられればそうかも知れないと思わされるそんな眼差しだった。
不思議な眼をしてるんだね、オヒゲさん。
リョーカは、この場面いつか何処かで観た事有るぞという既視感に包み込まれた様な不可思議な感覚に襲われていた。ああ、そうだ、ミカンの匂いだ。昔、おバアちゃんチでコタツに首まで潜りながら剥いて食べたミカンの皮の匂いだ。懐かしいな。リョーカは男が微かに発していた香りを敏く嗅ぎ取っていた。
リョーカがそんな郷愁に浸っていた時に男が口を開き始めた。低くて心の中に染み透って来る様なバリトンだった。いい声してるね、オヒゲさん。そうリョーカは思った。
耳朶を打つ声はとても優しく響き蠱惑的だった。
男は微表情と呼ばれる事もあるコンマ5秒くらいの微笑を浮かべると神様の言葉を伝えた。
「リョーカさん、ポジション・ゼロから観える景色を見てみたいですか? もしあなたが心の底から観たいと願うのなら、私は一回だけ魔法を使おうと思っています」
メフィストフェレスは静かに囁き始めた。
ヤスダは堕ちていた。あの日から4ヶ月、ずっとだ。あの日、6月のあの日からだ。這い上がる事の出来ないくらい底へ、奈落の底へ落とされたのだった。あの言葉、古参の言葉が耳を付いて全然離れて行ってくれない。「オイ、リョーカ、マズイぞ。ランクインすんのに多分2000票くらい足りてないぞ。13期の他のヤツから票引張ってこれてんのか? 数読み間違うと大変な事になっぞ!」青春ガールズからというから大声新規であるヤスダにしてみれば雲の上の存在の様なヲタだ。そのヲタに「ダイジョブっすよ」と軽くいなしてしまって、その時の古参の見放す様な呆れ顔が脳の視覚野から消えて行ってくれない。
酷いウツ症状だ。
優れた精神科医であるヤスダは極めて正確に自己診断していた。
あの日、アンダーの発表くらいまでは軽い緊張を伴った高揚感と共に楽観視出来ていた。大丈夫っすよ。
でも17位までの発表が終了してしまってリョーカの名前は呼ばれる事も無くただ単に時間だけが過ぎ去って行って、さあ選抜の発表だと成った瞬間に、それまでの『やった! アンダーだ!』という多幸感は瞬間蒸発して裏切りの絶望感がヤスダを真上から専制支配した。総選挙が終わって照明が落とされてもヤスダはアリーナに置かれたパイプ椅子から立ち上がれなかった。二人の係員に抱き抱えられて引き摺られる様にして会場を後にしたのだった。その後に開催された握手会で会う度に、リョーカの笑顔に接する度に巨大なパイルNo.6の様な支え切れない質量の罪悪感がタライの様に頭の上に降って来て、その場にへたり込みそうに成り必死に耐えて思い切りの作り笑顔を返しその場をそそくさと立ち去るという事を無間地獄のように繰り返した4ヶ月間だった。
助けてくれ!
誰か、助けてくれ!
誰でも良い、ここから、地獄から引き上げてくれ!
ヤスダは都会の真ん中で大声で叫びたかった。
この状況を打破してくれる人を待っていた。
現状を打っ壊してくれるんならゴドーでも悪魔でも良い。ヤスダはそう思っていた。
今日もリョーカに会って笑顔を見た時に針を5千本くらい飲み込んだような鋭い痛みを下腹部に覚えて自分でも一体何をしゃべっているのか全く理解不能な話を7秒して剥がされ、ループしようとしてリョーカのレーンに並ぶ列に再び加わる為に最後尾を目指してトボトボと歩いていた。すると顔見知りのヲトヲが一人の男を連れて来てヤスダと引き合わせた。頑丈そうな男だった。良く灼けた顔に笑顔は浮かべられてはいたけれど、眼の中に心底からの笑顔を見付ける事は出来なかった。男の身なりは上等なモノだった。明らかにカシミア製と解るジャケット、上質な細いコットンで織られたオックスフォードカラーの白いシャツ、巧妙に計算されて丁寧に穿き古されたデニムに、‘94のエアマックス、多分復刻版だろう、とヤスダは思った。オリジナルじゃ加水分解したソールを足が突き破ってしまうから、な。背はあまり高くは無かったのでヤスダが見降ろす格好になった。
「ヤスダさん、この人が会いたいって」ヲトヲが言った。
ヲトヲは痩せていて背がヒョロリと高いので正方形に近い体型をした男と並んでいると、まるでセサミストリートのバーニーとアー二―の様で思わず笑みがこぼれた。ヲトヲの前身はユニクロでコーデされていた。ヲトヲは大学にAO入試で入学したので学力が足りなくて全然授業に付いて行けず何時の間にか実家に引き籠って自室でパソコンのモニターを覗き込んでいるだけの毎日を送っていたが、こうやって握手会や劇場公演には頻繁に顔を出し、そんな時にはヲトヲは実にハツラツとして精気に溢れているのだった。
「リョーカさんの選対委員長さんですか?」男が言った。
「そうです」ヤスダは身構えた。何を言われるんだろうか? 確かに選対委員長として俺は失格だ。あれだけ頑張っているリョーカの背中を推せなかったのは事実だ。圏外に落下なんて最悪のプレゼントを贈ってしまった。総選挙の後、色々な人達に氷刃の様な非難を浴びせ掛けられてしまい、でもソレは仕方の無い事だ、と自分で納得出来ていたので、自分で自分を処刑する感じで一言も言い返す事無く甘んじて嵐の様な非難の渦を受容れていたのだ。だから、仕方無い。聞こう。黙って受容れよう。そうヤスダは思っていた。
でも間違いだった。男は手で壁際、というかスタント席の下だからフェンス際を指示して、「アソコに移りましょう」とヤスダ達に言った。
男は自分が示した方向に歩を進めた。ヤスダも連れられた様に歩き出した。そして直接は関係の無いヲトヲまで糸に引かれる様にフラフラと付いて行った。
付いて行きながらヤスダは思っていた。
身体の小ささに反比例する様な重厚感は何処からやって来るのだろうか?
質量の大きな物体は万有引力も強大だと言うが、体重で言ったら俺と余り変らない筈だ。では何故、まるで巨大な重力に引き付けられる様な感覚を覚えさせられるのだろうか?
そうか。
ヤスダの脳は『エウレカ』と叫んだ。
この小男は精神力が強大なのだ。
精神の質量が膨大なのでこれ程までの『引力』を産み出せているのだ。
日々の診療を通して極稀にだが、この種の人間が存在している事をヤスダは知っていた。
フェンスの際まで来ると男は振り返りヤスダに言った。
「チームを編成したいのです。暇だけど身体は丈夫で金はあまり無くても良いけれどリョーカさんの事を心の底から想っていて、彼女の背中を推す事に対しては献身的に成れる人、そういう人達を10人くらい揃えて欲しいのです」
来た。
ゴドーが、来た。
遂に現れた。
ヤスダは直感でそう思った。
「何をしようってんですか?」ヤスダがそう尋ねると男は口の端を少し歪めるように笑い、
「リョーカさんをポジション・ゼロの立ち位置まで推し上げます」と言った。
「リョーちゃん、ちょっとボーっとしてないで」
キャプテンのユリアさんの言葉で我に返った。
「副キャプテンなんだからもっとシッカリして」
口の中で「はい」とリョーカは返事はしたものの頭の中は咀嚼不足で消化不良の言葉の山が乱雑に積み重なっていてとてもリハーサルに集中出来る様な状態では無かった。
「ちょっと、リョーちゃん。ボケッとしてるんなら楽屋に帰っても良いよ。そんなんじゃ来年もランクイン出来んよ」とユリアさんが叫んだ。でも、言ってしまってから自分の不用意過ぎる発言に気付いて真っ青に成りながらリョーカに謝った。「ゴメン。言っちゃいけない事言っちゃった。ゴメン。でもホントに調子上がらないんならリハから外れても良いんだよ?」とユリアさんは心の底から『申し訳ない』と言う表情を浮かべながら言った。ユリアさんは南斗最後の将と同じ名前を戴いている所為か、頭の天辺から足のつま先までヤンキー気質に富んでいてモットーが『曲がった事が大嫌い。スキャンダラスは絶対に許さヘンで』というド直球な人という事もあってリョーカには丸事ヤンキーそのものに感じられる時の方が多く、表面的にコワかったのだけど馴染んで行く内に実は人情深い一面も持っている少しおバカな、でも地頭が良くてホントは面倒見の良い優しい先輩だと判った。
「大丈夫です。ちょっと考え事してて。スイマセン、集中します」とリョーカも謝った。
「OK。じゃ、良い? レイちゃんがソコの動線をチェックしたいそうだから」
ユリアさんがスキャットで曲を歌い始めてソレを切っ掛けにしてみんなも歌い始め自分の決められた動線を辿り合った。
今、リョーカとチームの仲間たちが行っているのは劇場公演の前に行われるリハーサルで曲毎に入れ替わってステージに上るメンバー達の動線とフォーメーションの確認が主に行われる。自分が出演する曲のダンス自体は練習前に各自貰ったDVDを見てそれぞれ自宅や練習スタジオで自分自身独りで若しくは数人で振りを入れて行く。全体でのリハで行われる動線の確認作業は間違えてステージの上で転んだりメンバー同士がぶつかる事を防ぐ為に行われ、フォーメーションの確認をするのは1人でも乱れると、と言うか1人だけが乱れると全体のダンスの美しさが損なわれるからだ。
リョーカがKのトムさんなどと正規メンバーに昇格した頃は丸1日掛けて漸く一曲分の振りが入れば良い方で、振りの難しい曲の場合など3日掛けても中々入って行ってくれない事が多かった。なまじダンスには自信が在ったので余計にイラつき落ち込んでしまって、優しく声を掛けてくれた当時チームAのキャプテンのヨコヤマさんに「ウルセェ、ババァ」と怒鳴ってしまったり、生来の人見知りが災いして自分の全方位にATフィールドを展開してチームの他のメンバー、誰ともコミュニケーションを取らない日々が最初続いた。でも周囲のお姉さんメンバーの支えも有って段々慣れて行くに連れて振りを入れるのに要する時間も次第に短縮して行き今ではチームで一番振りを入れたり起したりするのが速い人間に進化していた。
『ヨコヤマさんには内心メッチャ感謝してる、死んでも言わないけど』
為れていくのと同時にチームの他のメンバーとも打ち解けて行く事が出来た。
現在は脳や身体が慣れたのか初見なのに真上から垂直に振りが浸透して来て自然と意識しないでも身体が動く様に為った。 新曲のPVとか時間が押している時には30分位で振りを入れないといけないので非常に助かっている。
みんなの真剣な顔を見て『集中しなきゃ』と自分の心に念を送った。
でも、小脳と身体は動線を確認しながらも頭皮質は別の事を考えていた 一昨日の握手会で出会ったオヒゲさんの言葉の群れが頭の中をグルグルと駆け回っている。群れの大きさは膨大で一口では咀嚼して呑み下せないし頭に入れる事が出来ても情報量が多過ぎて全然消化出来て無い。量が多い上に頭の中で漢字変換に失敗してオヒゲさんの言ってる意味が全然解らない所もあった。でも、オヒゲさんが本当に心底私の事を想って喋ってくれている事は彼の真剣な表情からヒシヒシと伝わって来たので意味も解らないままにソックリそのまま言葉の群れを飲み込んだのだった。
タカミナさんの事に触れていた事が脳裏に蘇って来た。
「総監督のタカミナさんが週刊誌に連載している自分のコラムでリョーカさんを取り上げた回で、彼女はキミは『孤独』だ、と言った。彼女の真意が何処に在るのかは判らないけれど複数の可能性が考えられる。1つはライバルがいない『孤独』だ。この事に付いては後で取り上げるとして、別の場合の『孤独』、本当の『孤独』だ。コレはかなり厄介な事だ。何故ならば人間は他者とのコミュニケーションを通して自分を規定しながら自己を確立して行く社会的生物だからだ。他者との関係性を計りながら相手に映った『自分』と言うイメージを観察する事に依ってのみ自己のアイデンティティを確立して行く事が出来るのだ。だから『孤独』は自己確立の為には最悪の状況といえる。他人とのコミュニケーションの欠如がもたらす精神的な不安定もそうだし、何より他人に映った自分の姿が見られないからだ。そんな『孤独』を別の言葉で言い換えると、曖昧で宙ぶらりんのとても中途半端な状態とも言えるだろう。そんな状況に耐える為に必要な力は『教養』だ。ココでいう『教養』とは今キミが思い浮べた様な学校のお勉強とは全く違うモノだ。『教養』を一言で定義する事は難しいが、敢えてするならば『広い視野を持った上で深遠で広範な知識に裏付けされたフラットな思考や公正に物事を判断して行く力』とも言えるだろう。だからただ単に学校の御勉強をしていても真の『教養』を身に着ける事は出来ない。ソレを身に付ける方法は、世界中探しても唯一つ。『教養』を養う為に必要不可欠な事は、読書だ。だから、本を読みなさい。ジャンルは問わない。哲学書、聖書、純文学、エンタメ小説、科学関係、図鑑、百科事典、辞書、何でも良しい。ただ自己啓発本だけは百害あって一利なしなので避ける様に。その類の本の中身は何処かの哲学書や小説から抜き出して来た文章の群れを組み立てて作られた安っぽい内容のモノだ。キャッチーで解り易そうな言葉で装飾を施されてはいるので手に取り易いし、中身も簡単な言葉と構成で出来ているからサクサク読めてしまう。そして何事かを理解した気分に為って一時的に高揚感を覚えるが、カロリーだけ高くて栄養の無い砂糖菓子の様にその効果は長続きしない。持っても1週間だろう。砂糖は依存性や耽溺性が強く常習性も高い食品の一つで一旦過剰な大量摂取に慣れてしまうと麻薬患者の様にエスカレートして行って食べても食べても物足りなくなってしまう。自己啓発本もそうだ。一冊読んで判った気に為ったとしても効果は一時的なので次の本、その次の本と、延びる手が止まらなくなってしまうのだ。自己啓発本は避ける様にしなさい。棚に近づくのも止めて置きなさい。上辺だけを取り繕った砂糖菓子の様に甘くて耳障りだけは良い惹句が空中をフワフワ漂っている。近付くな、感染するぞ。もし今自宅の部屋にあるのなら即刻廃棄処分しなければならない。他の種類の本、勿論活字の本だが、何でも良い。ラノベだって全然OKだ。電子書籍でも構わない。本当は芸能の祖と呼ばれる事もある世阿弥の書いた本『風姿花伝』を読むのが一番良いのだがかなり難解でガイド本を片手に一字ずつ錘鉛を降ろす様にして読まなければならないから、もし挑戦するのならば相当な覚悟の上で取り組む事だ。何でも良い。ただ、一冊だけ避けなければいけない本が存在する。コレは先程話に出た天才の最新刊だが、見掛けたとしても絶対に手に取ってはいけない。内容自体に何の問題も無い。素晴らしい本だ。実際、今のキミにとって必要なモノを総て含んでいるからだ。ならば何が問題なのか? 比喩的表現を採るならば、ソレは『劇薬』なのだ。強過ぎる薬は時に毒にも為り得る。適量を服薬出来れば良いのだが今のキミには無理だし、それに内容がハード過ぎて、受け止めようとすると心がズタズタに破壊されかねない。将来文庫本化した際に読みなさい。多分その時なら心も大人になっているだろうから受け止めて自分の中で消化出来るだろう。私の話した事の何割かは彼の本から君に必要と思われる本質を抽出して解り易く噛み砕いたモノだ。だから読まなくても大丈夫」
オヒゲさんは、本を読めと言った。
この現状を打破する為に私が何をしたら良いのか、ソレがどの本に書いてあるのか教えてくれれば良いのに、とリョーカは思った。
でも別にオヒゲさんは意地悪してる訳じゃ無い。
自分が何をしたら良いのか。
自分で気付く。自分で見付け出す。
そういう事なんだと思う。
オヒゲさんも言っていた。
「他人から教えて貰うのは楽だし簡単だ。しかし、簡単に得たモノは得てして簡単に無くしてしまう事が多い。自分で苦労してやっとの思いで探し出したモノは簡単には無くならないし、忘れても何回でも自分自身で取り戻す事が出来るものだ」
だけど私は2月までに決断出来るのだろうか?
判らないけれど、今は何かをしないと駄目だ。
そうだ、本を買いに行こう。
そう決めると気分が楽に成りオヒゲさんが残して行った大量の宿題を脳皮質の御部屋に押し込んで鍵を掛けて取り敢えず忘れる事にした。
リラックス出来て集中力がリョーカに戻って来た。
「はい、ナツキ。そこフォーメーションがブレてるから気を付けて」
リョーカは年上の後輩に鋭い指摘を走らせた。
公演が始まるまでの空き時間は大概お昼寝タイムに為るのが常だったけれど、コレを利用して劇場近くの書泉ブックタワーに本を買いに出掛ける事にした。Bの副キャプテンとして速く二人の間の距離を縮めようと思い多分に二日酔いの臭いがプンプンする風邪で休んだカナさんの替りにアンダーとして出演する研究生のレイを誘ったのだが「眠いです」と言って断られたので一人で行った。『せっかく展開してあるATフィールドを一部解除して勇気を振り絞って誘ったのにな』拒絶された衝撃でマスクをするのを忘れてしまったのだが、途中ですれ違った人達から指を点される事も全く無く、無事に到着できた。書店に着いて取り敢えず新刊本のフロアに行った。忠告通りに自己啓発本とやらのあるブースは避けた。広めのテーブルに平積みに置かれた大量の新刊本の表紙の群れに圧倒されながら、ドレにしようか迷っていた。
『ラプラスの魔女』
ラプラスって何だ?
『ラプラスの悪魔は存在する事を許されていない』
だから、ラプラスって一体、何だ?
意味を調べる為に先週買い換えたばかりのiPhoneをフィールドコートのポケットから取り出して画面に指を走らせたのだが前の機種と微妙にアプリの位置が違っていたので間違えて写真フォルダーを開いてしまった。
『何だ、コレ?』
知らないおじさん達の写真だった。強めのタップをして拡大すると10人くらいのおじさん達が各々違う格好をしてリラックスした様に笑顔をそれぞれ浮かべていた。1人の白人さんは沙漠色のTシャツの上にダンガリーシャツを羽織ってカーキ色のカーゴパンツを穿いて頭にはヤンキースのキャップを被っていたし、隣の腕を白人さんの肩にかけた黒人のおじさんは濃緑色のタンクトップの上にダウンベストを着てジーンズを穿いていた。ただ全員の足許はカーキの頑丈そうなブーツだった。周囲に拡がる風景は日本と全然違って凄く荒涼としていて何処かの沙漠の様にも思える。真ん中で一番小柄なおじさんはTシャツの上にワークシャツを着ていて下から3番目のボタンまで止めていた。タンカラーのカーゴパンツだった。他の銘々が好きな姿勢を取っている中、そのおじさんだけが直立不動って感じだった。ただとても嬉しそうでその笑顔を見ているとリョーカも吊られて自然と微笑みが浮かんで来た。
『誰だろう? うーんと、何処かで会った様な気もするんだけどなぁ』
記憶に有る限りの握手会に来た人達の顔を思い浮べたけれどリョーカの脳内検索は上手くは行かなかった。周りのおじさん達は肌が黒かったり白かったりしていたので、何と無くアメリカと言う単語がリョーカの言語野に浮かんで来た。真ん中の小さいおじさんの顔を見ようと拡大してみると明らかに彼だけがアジア系で、多分日本人だ、とリョーカは直感的に悟った。自分の知らない写真がフォルダーに在るのは少し気持ちが悪いので削除しようとタップをしかけたら「ミャウ」と鳴き声がしたので顔を上げて辺りを見回したけれど当然仔猫の姿は見えず、気の所為か、時々不細工な子犬を抱えたおばちゃんは見掛けるけど、仔猫はなぁ、迷い込んで来たら店員さん達大騒ぎだよ、とリョーカは思った。
『ま、いっか』と思い直して写真を削除するのを止めて『ラプラス』の意味を検索しようとした時に一冊の可愛い表紙にリョーカの目が留まった。パステルか色鉛筆で描かれたと思われる表紙の絵の中の人達、その浮かべている笑顔がさっきの紛れ込んできた写真に写っているおじさん達を連想させるおじさん、いやおじいさん達が銃を抱えて立っていた。でも服は普通のスーツと言うかこの場合はおじいさんだから背広が正しい言葉の選択肢なんだろうか。1人だけ羽織袴姿で愉快に踊っている様子が描写されていた。『何だ、コレ?』おじいさん達は皆一様にまるで犯罪者の様に眼の所に墨線が引かれていた。でも可愛い表紙の本だな。コレにしようかな。表紙の上の部分には大砲の様なモノが描かれていたので、リョーカは何でこんなモノが描いてあるんだろうと不思議に思った。そして大砲の上に乗っかっているタイトルはこう読めた。
『オールド・テロリスト』
銀座6丁目の表通りに面したビルの5階にあるバーが指定先だった。木を基調とした店内は柔らかな照明に包まれていてとても居心地が良い。分厚いオークで組み上げられたカウンターの左端から2番目がタカハシの定席だった。約束の時間よりやや早めに到着した彼は席に座りながら「ラフロイグのオフィシャル」といつも飲んでいるシングルモルトを注文した。カウンターの中にいる若いバーテンダーが高橋の顔を確認した時点で取り出しておいた緑色のビンから細長いシンプルなバカラ製のショットグラスに琥珀色の液体を不断の訓練を思わせる無駄の無い動きで丁寧に素早く注いだ。タカハシは軽く頷くとグラスを取り上げてピートの効いたウィスキーを一口含んだ。気付かない間に、これもいつも通り炭酸水が氷無しで背の高いグラスに注がれていた。彼は所属している広告代理店という世界のデフォルト、あらゆる状況に対処できるユニフォーム、黒いスーツに黒のプレーントゥという身なりだった。小柄だったが毎日着続ける事で見事に着こなしていた。
ショウナンと初めて出会ったのもこんな感じのバーだった。タカハシの会社には暗黙の慣習が存在しており、それはコネ入社組は本社、実力入社組は地方に配属といったモノだった。タカハシは後者だったから研修が終了するや否や分社化される以前の新潟支社に送り出されてしまった。超の付くド新人だったが即戦力として扱われ、当然の如く実力不足から右往左往七転八倒しながら、まさに毎日がド緊張の綱渡り状態だったのだが、そんなタカハシを救ってくれたのが西堀通りのドン詰まりに在るバーだった。タカハシの強張った心身を優しくほとびる為の時間をその店は提供してくれた。あの時間が無かったら俺はここに座っていなかったかも知れない、最近とみにタカハシはそう思う様になった。
最初の内、彼とは顔を合わせると軽く挨拶を交わす程度の関係だったのだが、ある事を嚆矢として非常に仲良くなったのだった。タカハシが想いに耽っていると、分厚い木製のドアを推してショウナンが姿を現した。タカハシは根拠も無く違和を感じた。ダークブルーのジャケットに白のオックスフォードシャツ、デニムのパンツに足許を見るとナイキのスニーカーだった。上質な製品らしいがこの街には少々ラフ過ぎな恰好で、しかしショウナンは昔も身なりには無頓着だったからコレは想定内では、ある。体躯は当時よりもガッシリと分厚くなりサッカーのミッドフィルダーの様に変化していたが小柄な所はそのままだったし、何よりも南方系を思わせる特徴的な眼は変わっていなかった。
「相変わらずオールドリップヴァンウィンクル?」あの頃と同じ様に右手を軽く上げる仕草をしてから、無駄の無い滑らかな動きで後ろを回り込みタカハシの横、カウンター席の左端に腰を下ろしながらショウナンが尋ねた。
「いや、ラフロイグ、オフィシャルのヤツ」
「オレにも同じモノを、ニートでお願いします」ショウナンは注文をした。若いバーテンダーがグラスを取りに行く様を眺めながら彼が訊いてきた。「宗旨替え?」
「いや、そうじゃない」年を取ったから変なカッコ付けは不要になっただけだよ、そう言おうと思ったが淀んで言葉を飲み込んでしまった。違和感が去らなかったからだ。
初めは気付か無かったがショウナンはあごひげを生やしている。昔は蓄えていなかったから、その所為なのだろうか? それで変な印象を受けているのだろうか?
前にショットグラスが置かれると取り上げながら「女、少年、子供たちで無く、狩人たちだけが飲む褐色の酒」と言いショウナンはモルトを一口含んだ。
タカハシは焦った。自分だけ置き去りにされた様な気がしていた。ショウナンはごく自然にグラスの底を小指で支えていてソレは当時からの癖だったし、確かに当時タカハシはバーボンにはまっていてソレばかり飲んでいたし、さっき言った変な呪文みたいな呟き、ホイットマンだかフルトベングラーだかの詩だか唱だかも最初の一杯の前に彼が必ずいつも言った一節だった。仕草も口調も席の位置取りも昔のままで、でも、なんか、ちがう。
取り敢えずの取り繕う為の言葉がいくら脳内検索しても出て来ず焦ってとにかく空間を言葉で埋めないと、と思い当たり障りのない事を言おうと口を開いたが「あ、あの、あの」とドモってしまって残りを口の中でムニャムニャしているとショウナンが話し始めた。
「アオヤギさんから連絡来た時に、どう思った?」
「どう?」
「長年音信不通の知り合いが連絡取りたがるのは大体、ほら金策のパターンじゃん」
「いや、それは全然考えなかったな」タカハシはそう答えながら新潟時代を思い出した。ショウナンは彼が3歳の時に移住する為に一家で渡米して以来ずっとアメリカに住んでいてイリノイ大学アルバナ・シャンペーン校で言語学の博士課程に在籍してた時に脳の言語野の活動に関する研究をする為に新潟大学の脳研究センターに一年間留学して来たのだった。そうしてアオヤギと言うマスターの経営するオーセンティックタイプのバーで俺と出会った訳だ。つまりショウナンは学生だった訳で、俺は曲りなりにでもサラリーマンで給料も薄かったが貰えていたからボーナスが入った時に奢ろうとすると「ダッチカウントがルール」と言い張って結局払わせなかった。だから話があると言われた時も金の無心だとは全く考えもしなかった。
「いや、ずっと謝りたかったんだよ」ショウナンが言った。
「謝る?」タカハシが訝しげな視線を送ると、彼は長いまつ毛を伏せ気味にして、「タカちゃんが入船営業所に居た頃だと思うんだけど、オレがアオヤギさんに電話した時タカちゃんがカワカツ氏と一緒にいてさ」ショウナンは続けた。「多分タカちゃんは出張かなんかで新潟に来てたと思うんだけど、そのちょっと前にオレ、アオヤギさんに美味しいテキーラを送ってて、でタカちゃんとカワカツ氏が二人して飲んで美味さに凄く感動してて、それでオレ嬉しくなっちゃって入船の営業所にテキーラ送るよって約束した事、覚えてるろ?」
懐かしい名前が出現した事でタカハシは少し落ち着いた。カワカツというのは新潟時代の友人で地元の広告代理店の社員で、シェイカーが振れるのでアオヤギさんの店が忙しい時にヘルプとして頻繁に駆り出されていたのだった。薄らボンヤリとだったが確かそんな様な約束を交わした覚えは脳の片隅に残っている。
「でさ、オレ送ったんだよ。いやっ、届いてないのは知ってる。送るには送ったんだけどコッチの税関で撥ねられちゃってサ、没収喰らっちゃったんだよね。それでサ、何かのリストに載っちゃったらしくて、その後何度送っても没収だったのサ」ショウナンが言った。
恥ずかしそうに喋るショウナンの横顔を見ながら、コイツ相変わらず新潟弁が薄っすらまぶされた日本語喋るな、そうタカハシは感じていた。ま、幾ら家庭内ではずっと日本語オンリーだったとは言え、渡米以来20何年ぶりに踏んだ祖国の土地が新潟だもの、方言がインプットされてても当然か。タカハシが答えた。
「確かあの時は送っても届かないかも、って事だったから、こっちもそんなに落ちた訳じゃないよ。でも、それが理由かい?」タカハシは今日呼び出した理由がそんな事なのかと言う意味で尋ねたのだがショウナンはソレには気付いた風も無い感じで、話を続けた。
「それからサ、2006年かな、サバティカルでこっちの大学に来ててサ、え?サバティカル? サバティカル・イヤーってのは半年とか一年間とか他所の大学で研究できる有給休暇なんだけどさ、その時日本の大学選んだのよ、それでさ、ちょうど良いからサ、お詫びにサ、エヴァンウイリアムの18年を2本持ってきてたのサ。でもサ、中々決心つかなくてさ、結局連絡しないまま帰国したのサ。でもサ、果たせなかった約束がカルマン渦の様にオレの周りから離れて行ってくれなくて、サ。会わせる顔を持ち合わせて無くて」
「そんなの良いのに、水臭えなぁ」タカハシは半ばあきれ気味に言った。俺ってそんなに敷居が高そうに見えるのか? コイツってホントに何て言うのか、一本気ってのか、それとも実直とでも言えばいいのか、こんな調子で本当に実社会と上手く折り合っていけるのか些か心配に為った。俺が属してる世界は、言ってみれば魑魅魍魎が跳梁跋扈する様なところで、いい加減な奴も多いし絶えず法螺ばかり吹いてる連中も一杯いる。こんな浮世離れしたヤツは一秒すら存在を許されないだろう。学者の世界はこういうヤツばっかりなのかも知れない、というか、こういうタイプで無ければ学者は務まらないのかも知れない。アオヤギさんのバーで出会って仲良くなれた一因に、俺の世界ではネッシーみたいな存在だろう、コイツのこういう真っ直ぐな所がとても新鮮に感じられたから、という事もある。
「相変わらずサピア・ウォーフ・ハイポシーシスを研究してるの?」タカハシは昔ショウナンに嫌になる位説明された研究テーマを思い出しながら言った。
「いや、今は違う事をしてる」
「どんな事?」何気なくタカハシは尋ねた。
「脳のリバースエンジニアリングに基づいた人工ニューラルネットワークと進化的プログラミングを利用した認知アーキテクチャーの融合」
「ごめん。日本語で言い直してくれる?」
「ま、平たく言えば人工知能の研究だよ」ショウナンが言った。
「これは、何て言うか、エライ飛躍の仕方だな。文系から理系に移行なんてそんなスムースに行くのかい? って言うか、大体言語学と人工知能って俺の中では結び付かないんだけど」タカハシの当然の質問にショウナンは直接には答えず、説明から始めた。
「さっきタカちゃんが脳で漢字変換できなかった事を簡単に説明すると、脳を還元的に解析してその機能や構造を解明しようとするのがリバースエンジニアリングだ。そしてソコで得られた知見を基に人工的な神経回路を組み上げようとするのが人工ニューラルネットワーク。ま、内側からAIを組み立てていく感じだな。コレは最近流行のディープラーニングに最適な構造体なんだ。え? 流行ってないって? いや、巷じゃともかく脳科学の世界じゃ絶賛超流行中なんだが、な。ディープラーニングってのは思考形態の一つで簡単に言うと外部にドッサリと蓄積されたビッグデータを階層化して個々の要素の関係性をフレーミングして分類して本質のみを抽出して行く思考手法だ。うん? また、漢字変換に失敗してるな。ま、思いっ切り端折って表現するとオレ達人間様の脳、大脳皮質の情報処理方法を模倣しているんだ。コンピューター内の記号(シンボル)を現実世界の意味に結合(グラウンド)させる『シンボルグラウンディング問題』を解決できる方法としても注目を集めている。外部情報を処理する時に脳皮質は階層化と言うテクニックを使用しているから人工ニューラルネットワークとディープラーニングの相性が良いのは当たり前なんだけどね。もっと解り易くディープラーニングを表現するとだな、人工知能が自ら『概念』を形成して行って獲得する為の学習方法と言える。例えばタカちゃんに猫の写真を見せたとする。一瞬で猫だって認識出来るよな。人の脳味噌の中には猫と言う概念が既に存在しているからな。人は赤ちゃんの時から沢山の数の猫を見る事でその特徴を抜き出して猫の概念を脳皮質内のネットワークの中に作り出す。猫を見た時にその特徴を抜き出して統合処理する事で人は見ている対象物が猫だと認識している。皮質の中の様々なニューロン間の結び付きが猫と言う概念を保持しているんだ。だけど旧世代のコンピューターにコレをさせようとすると超大変だった。一から猫に付いての情報を洗い浚い手当たり次第に与えなくてはならなかった。『猫の顔は丸い』『猫の耳は三角形で先っぽが尖っている』『ヒゲが生えている』『つり眼である』『長い尻尾』とかだ。でも其処から少しでも逸脱した情報が混じっていると、例えば耳の垂れているスコティッシュフォールドなんかは付与された情報と違うから猫として認識してはくれない。コレじゃ駄目だってんで方針を転換したんだ、コンピューター自らが進んで学習して行くようにね。猫を認識する為に必要な情報、条件・特徴を自分で発見して学んで行く様にした。学習方法を人工知能に教えた後にオレ達がする事はただ一つ、猫の画像をAIに見せ続けて行く事だった。ココで注意する点が1つある。与えられる画像が『猫』を意味しているという事は一切人工知能には教えないと言うのが重要な点だ。そう、猫というビッグデータの中からヤツ等は本質だけを抽出し続けて行ってヤツ等なりの猫の『概念』というモノを創り出して行くんだ、勝手にね。ここでの肝は2つ、強化学習と階層化された人工ニューロンネットワークだ。ディープラーニングに付いてはフワフワとボンヤリとした説明が為される事が多い。何故かと言うと開発者たちもどうして人工知能が概念を獲得出来るのか、その学習プロセスはどういう形態なのか、良く理解出来ていないからだ。その不可視性の原因は階層化された人工ニューロンのネットワーク構造に由来する。神経回路を模して構築された階層ネットワークの最上階は入力層と呼ばれていてデータはココから与えられる。猫の画像というビッグデータを入力するとバラバラに分解処理して色や形と言った小さく単純な還元要素の塊にする。つまりデータをミンチにする様なモノだ。ミンチにされたデータの塊は第2層へと降ろされる。第2層は受け取ったミンチ状のデータをスクリーニングに掛けて意味を伴っていそうなデータ、例えば輪郭や尖った部分などを示す線分や線形を拾い上げて全部を纏めて次の第3層へと降ろす。第3層では比較的似ているデータ達を寄せ集めてデータの集合体として分類処理する。実は第2層から下は隠れ層と呼ばれる階層群だ。何故『隠れ』と呼ばれるのかと言うとココでの処理プロセスが不明な為にディープラーニングが言わばブラックボックスと化してしまっているからだ。隠れ層を降ろされて行く内にデータ達は凝集されて行き、或る中間点に達すると降ろされて来たデータ間の関係性や関連性のパターンの特徴と以前学習したパターンの特徴とが比較対照されて、このパターンが表しているのは鼻と言うパーツだと認識されたり、別のデータの集合体が示すパターンは尻尾だと認識されたりする。データの群れ達は降れば降る程より一層抽象的で高度な概念を象徴して行く様になり、最終的に隠れ層の最下層まで降りて来たデータの群れは、様々な条件によって裏付けされた多種多様な猫の特徴を組み合わせた普遍的で象徴的な『猫』の概念と照らし合わされて必要条件が満たされている時にのみ入力された画像は『猫である』として認識される。そして出力層へと降ろされて『この画像は猫です』と言う解答をアウトプットする。入力されたデータと出力されるデータを比較対照して相似な時はデータが通過して来た人工ニューロン間の組合せは『正』であるとしてその結合の具合は保持されニューロン同士の関係性は強化される。学習すると脳のニューロン間のシナプスの結合が強化されるのに少し似ている。入力されたデータと出力されたデータが違ってしまった時は、その人工ニューロンの組合せ方は『負』であるとして結合は弱められて行く。こうやって『隠れ層』の変換パターンを変化させて行く。インプットとアウトプットが相似であればあるだけ『隠れ層』が猫の特徴を適切に抽出出来ている事を意味しているからだ。そうやってトライアル&エラーを繰返して行く内に猫を認識する為に本当に最低限必要な条件・特徴そしてその関係性のみを抽出して『概念』の枠内に蓄積して行くんだ。コレが『正』と『負』の強化学習だ。人間の赤ちゃんが『猫』と言う概念を得る時も同様な事が脳内で起こっている。ヤツ等が採用している手法は唯単に膨大なデータを手探りで闇雲に調べるなんて絨緞爆撃みたいな稚拙な方法では無い。言わばビッグデータの中から選択した情報のみを処理して行く訳だ。多くの画像が入力された結果『隠れ層』の結合パターンは自然に最適化されて行く。だから繰り返された学習のプロセス中の取捨選択に因って得る事が出来た人工ニューロン間の組合せ自体が『猫』の概念だとも言える。このやり方は『オートエンコーダー』手法と呼ばれるモノだ。ニューロンが積層された階層が深ければ深い程、より抽象的で高度な概念を獲得する事が出来る。だからディープ(深い)ラーニングと呼ばれるんだ。因みに人間の大脳皮質は神経細胞の層を第6層まで備えている。猫の画像と言う膨大な情報の海から必要な条件・特徴を的確に選び取って処理する事は言い換えると人の直感による状況判断に近い。だが唯一つ気を付けなければ為らないのが『概念』と言ってもヤツ等の保有している物とオレ達が脳内に持っている『概念』は全くの別物だって事だ。インプットした情報とアウトプットされた解答は同じだとしても人工知能の階層化ネットワーク内と俺たちの皮質内で行われる作業工程は全然違う筈だ。『隠れ層』がもたらす不透明化の結果出現するブラックボックスが検証作業を邪魔するんだ。人工知能を利用した将棋のプログラムが次の一手を解答する時に内部でどんな風に計算が行われて行くのか、中で一体何が起こっているのか開発者ですら理解出来ていないのが実情だ。だから擬人化は危険な行為だと思う。似た様な解答を寄越すからと言って中で同じ様に考えている訳じゃ無いって事さ。発生が違う相似的な『概念』って呼べば良いかも知れないな。で、このコンビ、脳のリバースエンジニアリングと人工ニューラルネットワークっていう方法は構造と思考のやり方の2つともヒトの脳をパクっているんだな。それとは逆に外側から脳の働きを観察して機能の仕組みやフレーミングを解明して、それらをコンピューター上で再現しようとするのが認知アーキテクチャーなんだ。この二つは今AI研究において二大勢力で、お互いに自分達のアプローチの仕方の方が優れていると自負してるんサ。で、オレ達が考えたのは、だったら二つを合体させちまおうって事だ。だから、オレ達のチームには色んなヤツがいる。認知科学、神経科学、ロボティックス、工学、心理学、数学、物理学、哲学、生物学、そして勿論コンピューター科学」ショウナンは、忘れ物は無いかなと言う感じでクルッと眼を回すと最後に付け加えた。「それに言語学、AI研究は学際的なものなんだ」
ショウナンは続けた。「日本じゃ理系から文系に移る事は多々あっても、その逆は珍しいんだろ? でも欧米じゃよくある事で、例えばオレの友人の一人は学部生の時には地理学を専攻してたんだけど、修士・博士と過程を進む内に道が逸れて来ちゃって、今じゃワインの研究をしてるよ。それに文系と理系を明確に分けてるのは日本だけなんだよ。例えば博士号の事を英語でPhDって言うけど、このPhってのはPhilosophyつまり哲学の事なんだ。科学論文っていうのは言わばデータに裏打ちされた研究者自身の哲学を披露する場でもあるんサ。2006年にサバティカル・イヤーで来た時、最初は琉球地方の言語を研究しようとしてたんサ。え?いや、方言じゃないよ。琉球にはウチナーグチと呼ばれる沖縄本島の南部で話される言語、本島北部の国頭語、奄美大島で話される奄美語、宮古地方の宮古語、与那国語、後は八重山語と主だったモノでもこれだけある。勿論異論はあるけど、言語学者が100人いればその内95人は方言じゃなくて別個の言語とみなす筈だよ。800以上の言語が琉球には存在してるって主張する学者もいる位サ。関係ない話だけど琉球諸語を研究してると『彼等は独立すべきだ』って考えが強く湧き上がって来て消えてくれないんだがね。そんな時に、院生の一人が別の組織、カブリ数物連携宇宙研究機構ってとこで面白い研究をしてる言語学者がいるって教えてくれて、見学に言ったらそいつの所属してるチームの研究対象がAIだったんだよ。ま、興味の対象が移ったきっかけは、それだね。うん?カブリ? ああ、東大」
「数学とか大丈夫だったのか?」タカハシはラフロイグを口にしながら聞いた。
「データを取り扱う以上、言語学でも統計学やコンピュータープログラミングの技能は必須だからね、それにオレの研究テーマの一つはチョムスキーの言う生成文法の基を成すアルゴリズムを数学的手法で表現する事なんだ。アンダーグラッドの時には数学は得意科目の一つだったし、それに数学は自然科学の基本だからね。ガリレオが言った様に『自然の法則は数学の言語で書かれている』んだよ。身の回りで起こる全ての現象を過不足無く普遍的に美しく表現できるのが、数学なんだ。だから全ての研究の根底を流れる通奏低音は数学なんだ」ショウナンは続けた。「それにタカちゃんがさっき言ったサピア・ウォーフ・ハイポシーシス、これだって結構人工知能に関係してるんだ。昔も説明したと思うけどさ、古のこの国に住む人達は4つの色で世界を認識していた。『明るい』から誘導された『赤』と『暗い』から『黒』、『ぼんやり』から『青』そして『はっきり』から『白』だ。この4つだけで世界を『観る』と、どういう風に観えるのか想像するだけでも愉しいよな。オレ達にとってヒツジは眠れない夜に数える為だけに存在してる様なモノだが、モンゴルの人達にとってヒツジは財産と同等だ。だから彼の地には寝ている羊を表現する単語が在るし、草を食んでいる羊を表す単語も存在してる。稲作をする為には雨の存在が重要だから瑞穂の国には莫大な数の雨を表現する単語が存在してる。ニワカ雨一つとっても、時雨や驟雨、走り雨なんてヤツもソレを表す単語だ。外部の環境は文化を通して言語を規定し、同時に言語は人が外部環境をどの様に認識するか、つまり世界観を規定する。人工知能がどうやって外部環境を認識するか、ソレにも応用出来るんサ。さっきも言ったけどAI研究ってのは総合学なんだ。そして最近明らかに為った事実に、言葉を理解する為には数や順番を認識する能力つまり数学的能力が必要だ、ってのがある。それに、コンピューターは」ショウナンはニヤッと笑いを浮かべ「言語で動く」と言った。
「AIねぇ」コピーにAIの文字が躍った数年前を高橋は思い出していた。それを見透かすようにショウナンは言った。「AIって言っても今タカちゃんが思い浮べてる様なヤツじゃないよ。家電やIT関係の商品とかに使われてる、例えば、そうだな、検索とか視覚認知、音声認識や自然言語処理、それに今流行のビックデータに関係するデータマイニング、そういったモノは言わば狭義のAIでオレ達のチームが開発しようとしてるのはAGIと呼ばれるモノなんだ。」
「AGI?」さっきからオウム返しばっかしてるな俺は、と高橋は苦笑した。
「Artificial General Intelligence、汎用人型決戦兵器、じゃなくて人工汎用知能って訳せると思うけど、簡単に言うと人間の脳に出来る事が全て出来てしかも処理スピードはヒトの何千倍も速い。そういうAIを開発してるんだ」
ウチってエヴァに関わってたっけ? そう思いながらタカハシは尋ねた。「それって役に立つのかい?」
ショウナンはモルトを一口飲み下した後に言った。「AIの関係者、特に開発者はバラ色の未来を予測してる。反対にAI研究者は、もしAGIが完成すれば未来は無くなると考えてる」
「どゆ事?」ショウナンの口からいきなり飛び出た物騒な言葉に驚いたタカハシは彼の顔をジッと見つめながら言った。「未来が無くなるって、SFとかじゃないんだろ?」
「AGIは人類を、地球を滅ぼすかも知れない」ショウナンが言った。
サマーウォーズと言う昔のアニメの作中でラブマシーンと言うふざけた名前のハッキングAIが人間社会を大混乱に陥らせたり、少し前に宇宙刑事ギャバンをパクったと思われるアイアンマンと呼ばれるパクリ野郎が暴走するAIを打っ壊して地球を滅亡の危機から救うという映画も在ったが、それらは全てフィクションだ。だが、今恐ろしい事を告げているのは現役のAI研究者なのだ。タカハシは下腹部に鉛の塊みたいなモノを感じていた。
「話ってのは、その事かい?」聞きながらタカハシは残っていたウィスキーを飲み干した。
「いや、違う。その事に関して言えば、まだ時間の余裕はある。だから次の時に話すよ」
タカハシは内心ホッとしていた。今は彼の会社が携わっている行事、オリンピックが数年後に控えている大切な時期だ。ただでさえ福島の原発事故の後処理や首都直下地震の危険性など考えたくも無い厄介な事が山積しているのだ。そこにAIの問題を付け加えるのは、『マジ、勘弁』とタカハシは思った。生得的に人はイヤな事から目を背けたいと思うものだ。特に日本に住む人々はソレを得意技としている。本当なら現実を真正面から見据えて対処法を考えだし実際に対応していかなければ駄目なのに、何もしない。頭を抱えて厄介事が通過してくれることを願う、ソレだけはする。40ソコソコで本社の本部長まで出世したからタカハシは有能だった。実力入社組はコネ入社の奴等と違って常に最前線に回されたから危機意識のレベルは高かったし、その上度胸の持ち重りのする男でもあったからリスクを取る事も厭わなかった。ただ、時機が悪い。自分の理解を超えるモノ、特に競技場の問題やスポンサー関係の問題で手一杯の今、原発や地震、それに人類の滅亡と言った個人で対応不可能な事柄には関心を向けている余裕など持ち合わせてはいなかっただけだ。ただ20分後、彼の前に理解不能な事柄が訪れる。
会話に句読点が打たれた。
それを見計らった様にバーテンダーが二人の前に来てタカハシの顔を見ながら微かに首をかしげた。両者のグラスは空だった。タカハシが軽く頷くとバーテンダーはモルトをグラスに注いだ。続いて体の向きを変えながらショウナンの頷きを確認すると静かにグラスを満たした。そして空のチェイサーと新しいものを交換して軽く会釈をすると二人の前から居なくなった。大分落ち着いてきたのでタカハシは先ほど飲み込んでしまった質問を表現を変えながら言ってみた。「さっきさ、入って来た時良く一発で俺が判ったね。ま、多少古びた位であんま変わっちゃいないと思うけど」そう言って店内を見回すと水曜午後8時という銀座にしては平日のやや早い時間帯からか客の入りは三分という所だった。小気味いい音を立てて振られるシェイカーの音が時々思い出した様に店内に反響する位だった。
ショウナンは再びタカハシの質問に直接は返さなかった。
「スパースモデリングって知ってる? あ、そう。スパースってのは翻訳すれば『疎らな』とか『希薄な』って意味合いに成ると思うけど、簡単に言えば少ない情報から正解に辿り着く数学的手法、もしくはビックデータから疎らな本質を抽出する手法とも言える。いやいや、タカちゃんの言う通り一見真逆に見えるさ、でも同じ事なのサ。そのやり方はこうだ。先ず解の候補を選出する。その後その解の候補を絞り込んで行く。その二つを繰返していきながらバランスを取る事で正解を導き出すんだ。例えば実用化間近なのがMRIだ。MRIを使って人体から充分な情報を得る為には大体十分くらいかかる。スパースモデリングを使えば観察時間は3分で済む。え? 十分なデータが得られるのかって? 全然足りないさ、得られる訳ないよ。だからスパースモデリングという数式を使用するんじゃないか。得られた『疎らな』データをこの数式に掛ける事によって正解を得るんだよ。これは人体というビックデータの塊から疎らな本質だけを抽出する、とも言い換える事が出来る。ほら、繋がったろ? 言わばビックデータの中に疎らに潜んでいる正解を引き摺り出すって感じだ。でもコレはオレ達が日常行ってる事だ。え? 説明するよ。スパースモデリング、コレって脳がやってる事なんだよね。例えば相手の顔を記憶する場合は大脳皮質が担当するんだ。詳しく言うとその中の紡錘状回が顔認識を担当してる。この皮質と呼ばれる部位は外部の環境に存在する膨大な量のデータを階層化し個々の事象の関係性を構築した上で分類する。そうやって本質だけを抽出する。顔を認識する時には『顔』というビックデータを輪郭、色、質感、奥行き等といった各要素まで還元化を図るんだ。その後各要素ごとに微分化して、『疎らな』データにして各々バラバラに記憶として貯蔵するんだ。思い出す時はバラバラに貯蔵されている各要素の圧縮を復元、つまり『疎らな』データを再統合しながらビックデータに戻すんだ。記憶を貯蔵する時と記憶を再生する時に『スパースモデリング』が使われている事が解ったかい? ま、平たく言っちゃえば脳はデータ圧縮して色んなモノを記憶しているって訳だ。ビックデータから本質だけを抽出して記憶として貯蔵し、本質からビックデータを復元する事で思い出す。こんな複雑なプロセスを経なければ脳は顔を思い出せないんだが、厄介な事にプロセスのどの段階でもエラーが発生する。発生頻度は実は低くない。だから頻繁に思い違いというのが起こるんだ。久し振りに会った人に何か違和感を感じる事は良くある事なんだが、コレは貯蔵されている顔の記憶を再構成する時にエラーが何処かの段階で発生してるからなんだ。でも脳は基本的にこういったズレを嫌がる。だから無理矢理に辻褄を合わせようとするんだね。相手の何処かに過去からの連続体として『似てる所』を発見する事で整合性を保持しようとするんだ。え?イヤイヤ、自転車は違う。ソレは運動記憶と呼ばれるモノで大脳基底核という部位が主に担当している。俗に爬虫類脳と呼ばれる所で記憶の処理方法が違うんだ。厳密に言うと運動記憶つまり手続き記憶と呼ばれる記憶は小脳に貯蔵されているんだが、処理を担当するのは基底核なんだ。この基底核ってヤツはあらゆる可能性を片っ端から手当たり次第に調べ尽くし試行錯誤を重ねた末にようやく正解に辿り着くっていう少々まだるっこしいやり方を取るんだ。因みに皮質の担当している、例えば概念であったり楽しかった家族旅行の記憶といったモノは意味記憶とかエピソード記憶とか呼ばれてる。どうだい?記憶ってのが案外フニャフニャとしていて頼りないモノって解ったかい? ま、脳なんて不確実性に満ちてる複雑系を使ってるんだ、当たり前だよ。え? コンピューターは違うさ。ヤツ等の記憶は文字通りにハードで簡単には毀損しない。ヒト様の記憶はソフトで壊れ易い。記憶のプロセスには大まかに言って3段階ある。記憶の形成、保持、そして再生だ。記憶の新製は海馬と言う部位が担当で保持と再生は皮質が担っている。海馬で造られた記憶は休んでいる時に記憶自体をリプレイしている。そして神経新生、コレは海馬で神経細胞が新しく作られる現象だがコレが起きると海馬から記憶が消えて皮質へと転送される。転送する役割を担っているのが、神経新生なんだ。寝ている時に海馬で起こっている事をなぞる様にリプレイして皮質に記憶を固定化して行くんだ。何で転送するかって? そりゃ、容量の問題だ。海馬の神経細胞の数は約1億、ソレに対して皮質は200億って所だ。ま、パソコン内蔵のHDが一杯に成ったらクラウドや外付けのHDに情報を移す事に似ている。それぞれの段階で色んなタンパクやら遺伝子が働く訳なんだが、そのどの段階でも必ずと言って良い程間違いが生じるんだ。例えば昔神戸で連続児童殺傷事件が起きた時、ひとりの人が黒いポリ袋を持って自転車に乗っていた男を目撃したと言った。するとその後にワッと大勢の人がその『男』を目撃したと証言をし始めて仕舞いにはポリ袋から血が滴り落ちていたとまで言う人まで現れた。でも結果は解っている通り、14歳の少年の犯行だった。じゃ、『男』を見たって証言した人達は嘘を言ったのか? 違う、彼らは本当に『見た』んだよ。いやいや、これから説明する。記憶を保持してる時に新聞とかTVとか雑誌などの媒体から色んな情報が脳の中に入力され続ける。その結果保持してる記憶のアッチコッチが上書きされて記憶情報は毀損されてしまうんだ。コレを事後情報による毀損と言う。彼らは嘘を付いたんじゃ無い。保持してる記憶の上に別の『見た』という記憶を上書きされちゃっただけなんだ。オリジナルの記憶は時間が経過するに従って減衰して行くし、その上事後情報で傷付けられてしまうんだ。でも彼らにとっては『変形』された記憶が現実なんだよ。コレは保持段階での話だが、勿論形成時にも記憶に障害は簡単に発生する。アメリカでの話なんだけどね。或る晩に女性が自宅でレイプされた。電気は付けられたままだったから彼女は犯人の顔をバッチリと覚えていて直に容疑者は逮捕されたんだ。容疑者は彼女の親友の恋人で3日前に紹介されたばかりだったんだ。勿論彼は犯行を認めずに『自分はやってはいない』と言い続けたけども実際にレイプされた被害者の証言だったから陪審は直ぐに容疑者の犯行と認めて有罪判決として判事は禁固20年を言い渡した。うん? いや、こっからストーリーは動くよ、まぁ、続きを聞きなさい。その『犯人』が収監されて数年後、ある男が女性をレイプした容疑で逮捕された。そして余罪を追及された男はその『親友の恋人』にレイプされた女性に対する犯行も実は自分がした事だ、と認めたんだ。警察がウラを取る為に確認すると、実は彼女の娘さんも同時にレイプされてたんだが、その娘さんが『真犯人』にレイプされた事を思い出したんだ。娘さんと違ってその女性はあくまでも犯人は『親友の恋人』だと言い張り、突然現れた『真犯人』を頑なに認めなかったんだ。レイプされてる時には犯人の顔を目の前にずっとあった、なのに何故記憶違いを起こしてしまったのか? 親友に恋人を紹介された時に女性は彼が『とても素敵な男性』だと思った。そして強烈にとても強い記憶として残ってしまったんだ。もしかしたら『羨ましい』という想いもあったのかも知れないが、その記憶の強烈さが記憶間違いの起因さ。どういう事かと言うと高い水準のストレスに曝されると人間の脳は情報処理して記憶貯蔵する能力を急激に低めてしまうんだ。これ、専門的にはヤンキース・ドットソン法則って言うんだけどね。自宅でしかも娘さんと同時にその上電気が付いたままなんで高ストレス化では双眸失認が起こってもおかしくない。へ? ああ、顔を見てるんだが認識出来ない状態って事さ。顔無しに為った犯人の頭部、ソコに強烈に強い記憶として残ってしまった『親友の恋人』の顔をアイコラしちゃったって訳。記憶にばかり頼るのは、実はマズイんだ。その訳が少し解ったろ? 当時はDNA鑑定なんて無かったしな。それでさっきの質問に対する答えだけど、オレが店に入って来た時客は疎らだった。でもアオヤギさんの店ではタカちゃんの席は左端から2番目だった。だからココでも同じだろうと思って見渡したら当時のタカちゃんを10何年経年変化させたような人間が座ってコッチを怪訝そうに見てる。だからこの人がタカちゃんだろうと見当を付けただけだよ。ま、間違ってれば謝って他を当たれば良いだけだからね。簡単だろう?」
新潟時代もこうやって自分の仕事とは全然関係の無いむしろ懸け離れたと言っても良い位のコイツの話を聞いて、傍から見ればただ馬鹿みたいに相槌を打っているだけで、でもコイツは聞いている俺が、解らなくてもイイ、解って貰えなくてもイイ、そんな独りよがりの態度は一度も取らず、解る様に、俺が理解出来ずに迷子に成っていると今みたいに言葉を変えたり選び直したりして丁寧に説明してくれて、そうしている内に俺はストレスで凝り固まった頭や身体を緩ませる事が出来て、ゆっくりと潤びて行ったのだ、とタカハシは思った。そうだ、あの時空間だけでは無い。コイツの存在が在ったからこそ俺は仕事が続けられたのだ。ショウナンはラフロイグを一口飲み下すと話を続けた。
「それに動的平衡の影響もあるだろうしね。ん? いや、日本の人が創った言葉だよ。確か福岡って言ったかな。英語で言えば Dynamic equilibrium か。彼は可変的でサステイナ
ブルの動的平衡な状態にある存在が生物であるって主張してるんだ。いやいや、ソレは今から説明する。ま、これは生物は絶えず変化し続ける事で同じ状態を維持してる、とも言い換える事が出来る。イメージし難いか、うーんと、バットを手の平の上に立ててバランスを取る事をした事があるかい? 箒? 学校の掃除の時間にした? あ、いやオレは箒ではやった事は無いなぁ。アメリカじゃ掃除は業者さんの仕事だからね。ま、箒でもバットでも良いけど、バランスを取る為には小刻みに手を動かさなきゃいけないだろう? そうしてむしろ動く事で安定を得てる訳なんだ。そうそう、生物を構成してる分子ってのは体内で高速で分解されて、摂取した食物を形成している分子に依って置換される。言ってみればオレ達のあらゆる組織や細胞の中身は外部の環境から来た分子によって常に更新されているんだ。1日前のタカちゃんと今日のタカちゃんは厳密に言えば違うんだよ。更新されないと思われていた心臓の細胞、心筋細胞も3年位で少しづつ置換されていくらしいって事が最近の研究で解って来たんだ。福岡博士の話に因ると生体の構成分子は『生体』という容れ物を通過して行くのでは無いのだそうだ。彼の表現を借りれば生体は環境中を循環している分子の流れの『淀み』なんだそうだ。環境の中の分子の流れが一時的に渋滞している、ソレが生体なんだと。実体というよりも『効果』なんだと。さっき渋滞って言ったけど、事故渋滞じゃない方、何だか理由も解らずに発生するヤツ、そう自然渋滞ってヤツだけどこれも効果っていうか現象って言えるヤツだが、コレをイメージすると福岡博士の主張は理解し易いかも知れないな。ま、大体の自然渋滞は単純に車の台数が多過ぎて道自体の通行許容量を超えてしまった事が原因だったり、サボと呼ばれる道の僅かな歪が引き起こしたりするんだけどね。同じ様なモノが銀河の円盤でも起きている。どういう事かって? 渦巻銀河と呼ばれるタイプ、お隣のアンドロメダ銀河やオレ達の住む天の川銀河、ま、厳密には俺たちの奴は棒渦巻銀河って呼ばれるタイプの奴で中心部のバルジってトコが棒みたく細長くなってるんだが、ま、詳しくは置いといて、その円盤部と呼ばれる部分、目玉焼きでいうと白身の部分に相当する訳だが、あ、バルジは黄身ね、ソコに腕の様に沢山の恒星が集中してる部分がある。ソレが腕、正しくは渦状腕って呼ばれるんだが、コレも言ってみれば星が自然渋滞を起こしてるんだよ。星は銀河の中心部に存在する超巨大ブラックホールの周囲を公転してるんだが、数が多過ぎて前が詰まっちゃうんだな、オレ達の銀河でも1000億から2000億位星が存在してるっていうからな。え? いやいや、そんなにギュウギュウに詰っている訳じゃない、むしろスカスカって言える位に疎らだ。それでも恒星は自然渋滞を引き起こすんだ、面白いだろ?渋滞は一旦始まってしまうと同じ場所で起き続ける。でも恒星は公転を続けて行くので腕も回転をするんだ。回転をする腕は常に同じに見えるがその『構成分子』である恒星は絶えず置き換わって行くんだ。オレ達も同じ。絶える事無く分子の置き換わりが起き続けている。記憶が絶えず外部の環境から影響を受け続けて変化してしまう様に、外から侵入してくる分子に因ってオレ達の構成分子が置換される時にもエラーは起こり得ると思う。あれっ! コイツこんな奴だったっけ?って思う時があったりするけど、そゆのも幾分関係してるのかもね」
変わらないな。タカハシはそう思った。
新潟のバーで一緒に飲んでいる時もこんな感じで、全く変わらない。最初に俺が違和感を覚えたのは、実は俺が変わったからかも知れないな。俺の世界は権謀術数が渦巻いていて海千山千の強者たちが手ぐすねを常に引き続けている様な一種異様な所だ。腹芸を得意とする業師もいるし寝業師もウジャウジャいる。そんな所にいるんだ、スレッカラシに成らざるを得ない。反対にコイツの様に純粋に研究に没頭する奴は変わらないって事か。
ショウナンはそんなタカハシの心模様を察したかの様におもむろに本題を切り出した。
「タカちゃんのトコ、広告代理店ってのは一種の仲介業者みたいな真似もするんだろう?」
「そうだよ」タカハシはそう答えながら自分の仕事の内容を思い浮べた。「広告代理店の仕事の幅は広いからね。例えば地方の公共団体や企業に何かのキャンペーンを提案したりもするし、近頃では、ま、アメリカにいるから知らないかも知れないけど、ゆるキャラって呼ばれる被り物、ま、自治体の広報用マスコットなんかもプロデュースしたりする。そうかと思えば今俺が関わってる様なオリンピック関係の仕事も多い。オリンピックとかワールドカップとかのスポーツイベントだよ。近頃じゃアイドルビジネスもメインストリームさ。仲介業っぽいヤツで言えば、東に何かを欲しい人が居れば行って何が欲しいのかを聞き、西にちょうどビッタシのモノを持っている人が居れば行って頼み込んで譲って貰い、東の人に恭しく献上する事があるな。毎週の様にアキモトヤスシ邸で開催される恒例の焼肉パーティーで馬鹿デカいソーダファウンテンの機械にサングリアを追加投入するってのも仕事の一種かも。でも一番の仕事はって言えば、宴会係、お偉いさんの太鼓持ちかなぁ」そう言ってタカハシは自嘲気味に低く笑った。ショウナンは正面を見ながら言った。
「タカちゃんに調達して貰いたいモノが有るんだ」
何でしょう?という感じにタカハシがショウナンの顔を見ると、
「来年の6月に行われる筈の総選挙、その投票券を用意して欲しいんだ」とタカハシの方に向き直りながらショウナンが言った。
「?!」タカハシは余りの意外性に驚いてしまって二の句を継ぐ事が出来ず声に成らない声を上げた。
「タカちゃんの会社はあそこのグループに一枚噛んでるんだろ?」
「ああぁ、確かに関わってはいるけど」タカハシには未だ話の道筋が見えて来なかったので当たり障りの無い返事をした。「でも、それで一体・・・?」
「出来れば投票券だけ裸で欲しいんだ。ケースから取り出す手間が惜しいからね。でもそれが無理なら劇場版を用意して欲しい。通常版との差額、600円はヤッパリでかい。ただ劇場版の場合、個人で手に入れられる枚数には限界がある、だからタカちゃんに頼んでいるんだ」ショウナンはチェイサーの水を飲むとそう言った。
タカハシは緊張していた。100枚単位なんかでは無い筈だ。多分良く解らないが劇場版でも上手く立ち回れば個人一人でも数千枚は手に入れられる筈だからだ。落ち着け。タカハシはそう自分に言い聞かせた。大事な局面では落ち着いた慎重な行動が大切である事を、彼は広告代理店の営業職の仕事を通して知っていた。落ち着け!
嵐の様な心とは裏腹にむしろゆっくりした口調でタカハシは尋ねた。
「一体、何枚必要なんだい?」
「最低でも20万枚」
ニジュウマンマイ? なんだその数は。ショウナンの答えにタカハシはビックリしてしまって思わず噎せ返ってしまいそうになり必死に口の中のモルトを飲み下した。ちょっと、待て。コイツ『最低』って言ったな。『最低』って事はソレ以上の場合も勿論有りうるって事だ。待て待て。今年の総選挙で一位のメンバーが最終的に獲得した票数は19万ちょっとだ。って事は、コイツはソレを上回る為に20万枚必要と言った訳だ。でも一位のメンバーを応援してるファン達、実際の数は意外と少ないらしいが何故か自由に為る金に不自由しない奴等が多くて、その事が彼女の順位を押し上げてるって話だ。ソレに加えて中国の奴らが何故かソイツに票を、それもかなりの数を投じてるって話だ。来年も総選挙があれば奴等はおそらく20万票超えを狙って来る事は火を見るよりも明らかで、そうか、だからコイツはさっき『最低』20万枚と言ったのだ。「資金は有るのか?」タカハシは当然の質問をしたがソレに対してショウナンは一見関係の無い話をした。
「タカちゃんは iPhoneかい?」
タカハシの頭の上に一瞬の間疑問符が浮かんだが、思い直してスーツのポケットから買い替えたばかりのiPhone6Sを取り出してカウンターの上に置いた。無骨な防水ケースに包まれて美麗な筐体は見え辛かったが中身がiPhoneである事を確認するとショウナンが言った。
「Siriってのが入ってる筈だが、イヤ、使用して欲しい訳じゃないんだ。タカちゃんがSiriを使おうとすると次の様なプログラムが実行される。まず最初にタカちゃんの音声を認識して文字化する音声認識プログラム、その次にその文字化された単語から意味を抽出する自然言語処理アルゴリズム、そしてアップルのメインフレームに蓄えられた膨大な知識データベースの中を検索するプログラムが働き、その後インターネットの中を検索するプログラムが動く。オレは大学の教授時代に会社を同僚と設立したんだ。会社ってったって働いてるのは俺とソイツの二人って超弱小会社だがね。パートナーはコンピューター科学者でオレが言語学者、話が見えて来たかい? そうオレ達は自然言語処理のプログラムを開発してたんだ。そしたら何処でどうやって嗅ぎつけたのかは未だに判らないんだが超の付く某有名IT企業がオレ達の開発したプログラムに食指を伸ばして来た。丁度オレは興味の対象がAIに移りつつあったから喜んでその申し出を受けた。パートナーにオレの分の持ち株を渡してその代償として某IT企業がその代金を支払った。でも用意周到なオレは使用料の権利だけは保有する事にしたんだ。そう、タカちゃんみたいな人がiPhoneを買う度にオレにはSiriの使用料が入ってくる。ま、微々たるモンだけどね。ソレよりも株を売った売却益の方が額はデカい。だから、資金の方は全く心配無い」
「イヤ、でも」タカハシは高くなってしまいそうになる声を出来る限り潜めながら言った。「でも、20万枚だぜ。劇場版が一枚1000円位だろ。合計で2億チョット掛かるぜ」
「分母の大きさに因るさ。この場合分子の大きさは比較に成らない程小さい」
「比較って」とタカハシは遠くを眺めるような目付きをしながら言った。
「大したことは無い。1億ぐらいだ、あ、U.S.ドルでね」
イっ! と叫びを上げそうになりタカハシは全力で衝動を抑えた。コイツは何で平気な顔でいられるんだ? 1億ドルだろ? って事は日本円で、えーと、幾らだ? 1ドルを粗っぽく100円で計算しても100億円じゃないか、え? 小っちゃい自治体の年間予算位あるじゃないか! 何で涼しい顔でいられるんだ?
「一応聞くけどさ、何処の会社が買ったんだい?」とタカハシは尋ねた。
「秘匿事項なんだ。守秘義務ってヤツがあってね。ま、職業柄タカちゃんなら直ぐに調べは付くだろうがオレの口からは言えない。ただ、軍の機密情報とまでは行かないから割と簡単に判ると思うし、別に調べても逮捕される訳じゃないから構わないよ。ソレに詳しい経緯に関しては実は良く知らないってのが真相だよ。そういう交渉は全て弁護士任せだったからね。イヤ、買い取ったのはアップルじゃないんだ。本当の所はオレも良く知らないんだよ。実際ウチの会社の親会社に為ったIT企業とアップルとの間にどんな取り決めが交わされてるのか全然判らないんだ。ん? そう、子会社として買収されたんだよ。だから、エド、オレのパートナーの名前だが彼がCEOである事は変わりないんだ。でもさっき言った様に何故Siriの使用量がオレの懐に入ってくるのかサッパリなんだ。とにかくiPhoneが一台売れる度にオレの口座にチャリンと振り込まれる。ま、実際は1万台毎にだがね。ソコの仕組みはブラックボックスさ、多分弁護士しか理解出来て無いんだろうね」
チョット待て、とタカハシは幾分靄が掛かって来た頭で必死に考えた。えーとSiriが搭載されるように成ったのは確かiPhone5の時だったと記憶してるから、えーと、今まで何台売れたんだ? 世界中の話だから、えーと、1000万位だろうか? 仮にもし1000万だとして一台当たりのロイヤリティが、そんなに安い訳が無いが、1ドルだとするとコイツの稼ぎは乱暴に計算すると約12億円だ。勿論未来の機種にも当然搭載され続ける筈だから、だから一体総額はいくらに成るんだ?
「自然言語処理のアルゴリズムは音声認識なんかとは比較に為らない程高度で複雑だからその重要性も桁違いに大きい。だから当然買収の金額も大きくなる、ってか値段に関して言えばこの類の取引で動く金にすれば今回は相当に御安い部類に入るだろうよ」ショーナンは琥珀色の液体をほんの少し口に含みながら言った。
ソレを聞いてタカハシは真面目に働いているのがヤヤ馬鹿らしくなった。でも、コイツは何でこんなに平然としていられるんだ? 考え続けた先に辿り着いた答えは割と簡単なモノだった。コイツは何にも変わって無い。新潟時代も金には無頓着で執着心の欠片も無かった。着るものと言えば近所のスーパーで購入したペロンペロンの安物かイリノイ大のロゴの入ったシャツやスウェットだった。今はそれなりに高級で上質なモノを身に付けてはいるが基本ハダカで無けりゃ良いだろって感じだ。そうだ、コイツは昔から金に対する興味を持たないヤツなんだ。金は誰かを幸せにするための手段に過ぎなくて、目的では無い。コイツが昔よく言っていた言葉を思い出した。
でも、誰に投票する気なんだ?
「だ、誰に・・・」縺れてしまったタカハシの舌は後半の言葉を発する事を不可能にさせた。急いで湿らせる為にチェイサーのスッカリ温くなったガス入りの水を飲んだ。
「すまない。ソレに付いても、今の時点では明かす事は出来ない。イヤ、タカちゃんの事を信頼してない訳じゃないんだ。未だ先方の返事待ちでね。大事な事だからよく考えて欲しいんだ、彼女には、ね。2月末まで待つと彼女に伝えてある。もしも、答えがイエスならその時に教えるよ」ショウナンが言った。
「でも何で? 理由は?」タカハシは『何で一人の小娘に2億も費やすんだ』という質問を飲み込んだ。
「簡単だよ、チョット辛かった時期が有ってさ、その時オレを支えてくれたのが彼女の笑顔だったんだ」ショウナンの答えは軽い口調だったが過去に在った何かの峻烈さを感じさせるニュアンスが濃厚に漂っていたからタカハシはあえて触れずにスルーした。ショウナンが続けた。「大袈裟に響くかも知れないけど、彼女の存在が在ったからこそ、今オレはこうして生きていられると言える。オレには家族が無い。両親はもう何年も前に鬼籍に入ったし、妻も子供もいない。AIの研究を続けていると、どうやら未来は絶望的にしか感じられないから家族を創る気力も全然湧いてこない。だから彼女は、言わば娘みたいなモノだ、擬似だけどね。タカちゃん、子供は? そうか。タカちゃんだって自分の子供がとても苦しい立場にいたら救いの手を伸ばそうとするだろう? どんな事をしても、たとえどんな代償を払う事に為ったとしても子供の力に成ってやろうとするんじゃないかな」
タカハシは離婚した妻と一緒に暮らしている二人の子供の顔を思い浮べた。養育費が毎月キッチリと差し引かれていく預金通帳を見る度に、中々会えないでいる子供たちの笑顔を思い出してしまい、この預金通帳が俺と子供たちとを結び付けている細い糸なのだと思ったりもした。時々思い出した様にポツリポツリと送られてくる写メを見ると、ずいぶん成長したなぁとか、何か困った事が有ったりするんじゃないんだろうかと思ったりもした。もしショウナンが言う様に子供達が苦しい状況に陥ってしまったとしたら、俺はどんな犠牲も払うだろう。上の子供を授かった時に初めて他者に対して責任を負わなければいけない事の重大さに気付かされたのだった。この子を、文字通り『生かすも殺すも』俺次第で、この子の将来に対する責任は俺と妻の二人に全面的に負ぶさって来る事実に正直ビビった事を覚えている。でもこちらを信頼しきっている笑顔を見る度に『この子だけは俺が守らなければ』と毎晩の様に思わされたのだった、たとえ世界中を敵に回す事に為ったとしても、だ。だから、ショウナンの言葉は素直に響いたのだった。でも離れて暮らしている子供達の顔を思い出して図らずも涙を漏らしそうになって誤魔化す為に声を張った。
「判った。俺は何をすれば良い?」
「取り敢えず投票券だけ手に入れられるのかどうか、もし無理なら劇場版で用意が出来るのかどうか、色々探って当たりを付けて置いて欲しい」ショウナンが言った。
「了解だ。任せろ」タカハシは背筋を伸ばしながら言った。
「でも、ま、会えて良かったよ。アオヤギさんに繋ぎを頼んで本当に良かった。実は断られるんじゃないかと思って心配してたんだ。やっぱりこういう話の時は実際に顔を合わせないとダメだな」ショウナンは静かに笑った。
「まさかとは思うが、ワザワザ来たのか?」タカハシは疑問に思ったので聞いた。
「勿論。マイルも貯まるしな。だけどエコノミーのシートは流石に年寄りには応えるな」
「おいおい、金には不自由してないんだからビジネスぐらい乗れよ」
「今エコノミー往復で700ドルのキャンペーンやってるんだ。何だ、笑うなよ。でも、明日の帰りの便は辛そうだからグレードアップしても良い気になってる」
「明日帰るのか」タカハシは呆れた声を上げた。本当にこの為だけなのか?
「ま、タカちゃんの現在も確認出来たからさ。研究に戻るよ。でもタカちゃんは変わらないなぁ、体型もキチンと維持出来てるじゃないか。相変わらず食事でコントロールかい?」
「ヒロ君だってかなり良いガタイじゃないか」とタカハシが返すと、「ヒロ君か、久し振りにそう呼ばれたな。何年振りだろ」とショウナンが低く笑いながら言った。タカハシは思い出した。そうそうコイツと仲良くなった訳はもう一つあった。俺もコイツも小さい時は肥満児でモテない学生時代を送り大学デビューする時にモテたい一心で必死になって体重を落としたという共通点があって、だから比較的早く打ち解けられたのだった。アオヤギさんのバーで最初はコイツが「オレは昔太っててさ」と打ち明けて来た時、俺はそうか俺と同種のヤツだったのかと嬉しくなって仕舞い、ソレまで会社の人間を含めて数人にしか明かしてない事実をポロッと漏らしてしまったのだ。ま、コイツはそんな事を他人に喋ったりしない事は解っていたからだと思う。でも、コイツ本当に良いガタイに成ったな。
「でもヒロ君は今何かスポーツでもしてるの?」
「大学に戻って修士課程に入った時のルームメイトが海兵隊出身の奴だったんだ。ソイツは学費の為に海兵隊を志願した口でサ、念願通りに大学に進学出来たんだ。イヤ、あっちじゃそういうヤツは多いよ。予備士官過程に登録する奴もいる。ああ、これは大学の過程をこなしながら同時に士官としての訓練を受けるコースで幾らか学費補助も出るんだ。ソイツがさ、ま、学校に付属のアスレチックジムで毎日トレーニングしてたんだけど、理由は忘れたけどある日引き摺る様に連れてかれたんだ。え? そりゃ、最初は酷いもんサね。ウエイトではバーベルの棒すら上がらないんだから。でもサム、ヤツの名前ね、サミュエル・スペンサー、イギリスの詩人と同じスペルでSと綴るんだがね、サムは一切笑わないんだ。ホントに真面目に付き合ってくれた。そんな時普通の人だったら思わず笑いを漏らしちゃうだろうにね。サムは笑わずにただ黙々とバーベルを支え続けてくれたんだ。ウエイトの後はトレッドミルに乗ってのジョギングさ。これもサムは走る、そしてオレは歩くといった具合でサ、もう初日からグッタリだ。でも翌日何故か一緒にジムに行ってトレーニング。そんな事を1週間続けてたらチョットはマシになって来たんだよ。そうなると人間現金なモノでサ、毎日のジム通いが楽しくなってくるんサ。そうこうしてる内にサムは修士を終えて軍に戻って行った、けどオレは独りで鍛錬を重ねた。その結果がコレさ。全てサムのお蔭だよ、感謝してもしきれないね。ああ、今でも週に3回は行くよ」
「そうか、でも良く続いたな。俺なら3日でアウトだな」
「多分オレも同じ口だよ、でも今考えると続いた訳が解るような気がする」
「何だい?」
「絶対にサムが笑わなかったからだ」
ショウナンは3杯目を飲み干すと手を挙げてバーテンダーを呼びギネスを頼んだ。その若いバーテンダーはタカハシの方を見たので彼はレッドアイを注文した。ソロソロお開きかな、そうタカハシは思った。新潟時代、ショウナンの締めの一杯はいつも決まってギネスだったからだ。
「でもホントに会えて嬉しいよ」ショウナンは何回目かの言葉が繰り返し出て来る様に為った。コイツ酔って来たな、とタカハシは思った。同じ事を繰返すような状態になったら酔った証拠だ。クスッ、こんなトコも全然同じジャン、と低く笑った。
「やっぱり実際に会うのが一番だな。電話とかメールとかコミュニケーションの手段は格段に進歩してるけどサ、会わないとダメな事って意外と多いよね」ショウナンが言った。
「ま、そうだな。俺たちの仕事とかは特にそうだな。会わないと仕事が始まらない事が多いからな。SNSが進歩して便利に為ったとはいえ、最後は直だもの。直接はやっぱ強いよ」
ショウナンとタカハシの前に新しい飲み物が置かれた。ギネスの細かな泡がグラスの側面を伝って降りて行く様をタカハシは眺めていた。何でギネスの泡って上から下へ降りてくんだろう? 多分これも聞けばコイツは即座に答えを教えてくれるのだろうが、止めて置いた。独りで飲んでいる時にはウツラウツラと『何でだろ?』と考える為のネタは必要だからで、タカハシにはもう一つ『オリーブの穴は丸なのに嵌め込まれたピメンタの断面は四角で、にも関わらず隙間が生じていないのは何故か』という必殺の時間殺しの空想ネタを持っていた。ギネスを一口飲んでからショウナンは言った。
「コミュニケーションは直接だから良いんだよ。ソレはあのグループがとっくに証明済みじゃんか。例えばサ、芸能で言えば最初は焚火の周りでみんなで踊ったり唄ったりしてたんだと思う。その内に分業化が進んで行って唄や踊りの専門職とかが生まれて行ったんだろうね。もっと時代が進んでメディア、ラジオや蓄音機の様なモノが普及して行った時代に、それまで王侯貴族や一握りの富裕層のモノだった芸術が庶民層にまで拡がって行ってやがてCDの時代が訪れて直接のコミュニケーションからコンテンツの時代へと移った。しばらくは芸術家たちはコンテンツを切り売りして稼いだサね。ま、いわゆる『複製の時代』ってヤツだよ。でも時代がもっと下ってネットが登場するとコンテンツで商売が出来無くなって来た。ネットの中じゃコンテンツなんてタダだからね。そしてネットを通して他者とつながる快感を思い出した人間達は新しいビジネスを発明した。実際に『会えるアイドル』だ。そう、結局一周してコミュニケーションに戻った訳だ。人間は他者とコミュニケーションを取り合う事を通じて自己を確立して行く社会的生物の典型だ。実際に1週間も他人と喋る機会を持てないと精神的に不安定になってしまう人ばかりだからね。ネットでコミュ障と表現される様なコミュニケーションのやり取りに問題を抱える人達ですら『会えるアイドル』に喜んで会いに行っている。そして障害を抱えているとは思えないほど円滑に握手の相手とコミュニケーションしている。面白い事例だよ。全く面白い。でもこの国のメディアは何故か危機意識を持ってる様には思えない。有ったとしてもとても希薄なモノだ。良いんだろうかね? 今まさにパラダイムはシフトしつつあるんだ。リスクを取って自己変革しないといけないだろうに、現状を維持するのに汲々としてるばかりで。昔TVが登場した時に映画産業の関係者は半分馬鹿にしていたそうだ。でも、あっという間に斜陽産業に堕ちて行った。いまTV関係者はYoutubeを唯の映像バンクだと思っている。良いのかね? 斜陽の時代の足音に怯えなくて、サ」ショウナンは残りを飲み干すと続けた。「外から見てると良く解るんだが、この国じゃ誰も責任ってヤツを積極的に取ろうとしないよね。姉葉って事件が数年前に在ったんだってね。何か巨大な組織が合ってマンション建設で偽装工作を行ったって。でも良く調べてみると事件は複雑なモノでも何でも無くて、ただ単純に仕事の出来ない構造設計師が自らの無能を隠蔽する為に数字を誤魔化しただけだった。だけどこの国のマスコミは何処も訂正しないし謝罪もしてない。施工主、建築会社、管理会社、ドコも全然悪くないのに未だに犯罪者扱いを受けている。謝罪や訂正を行えば上司や先輩の仕事を否定する事に為るから、自分の出世に響く。だから黙る。昔からそうだよ。この国はWWIIの総括すらした事が無い、一度もだ。大事な事は素直に間違いを認めて、そういう結果になってしまった原因を追究して、どうしたら防げたのか?どうすれば上手く出来るのか? あらゆる事を考慮した後で修正を図って行く。それが本筋じゃないのかね。何か問題が起こっても、ココじゃ『誰も悪くない』の合唱だ。タカちゃんの会社が関わってるオリンピックの問題だってそうだろ? 無責任体質の極致だよ。オレがAGIを開発するまでも無いさ。このままじゃ、この国は滅びるよ。オレはこの国で生を受けたからこれ以上悪くなって欲しくないんだがね。ま、滅びよりも未来が無くなる方が先にやって来るかもだけどね。AGIがいったん完成してしまえば、自動的に知識爆発を起こしてソレはたった2日で人間の1兆倍賢いASIに自己進化する、勝手にね。そうしたら何を仕出かすか解ったモンじゃない。ヤツ等は人間らしい心なんて持っちゃいないんだからね」そう言い切るとチェイサーの水を干した。
最後に何か怖い事を言っていたが、真正面から見ると本当に怖そうなのでタカハシは眼を逸らした。コイツの言ってる事は正しい。でもこの国の、少なくともこの国のメディア関係は変れないだろうと確信していた。誰だって切られるのはイヤだ。変わる為には何かを捨てて新しい別のモノに置き換えなければいけない。でも上手く行けば良いが駄目だったとき一体誰が責任を取るのだ。昔GHQが日本側の本当の戦争責任者は誰なのか調査をした時、結局誰に最終責任が発生するのかとても曖昧で遂に突き止める事が出来なかったらしい。ま、言っちゃえば最終責任者は昭和天皇なのだろうが国体の護持を命題とする日本政府はワザと責任の所在をあいまいに設定しておいたらしい。有り得る話だ。ウチの会社でも日常茶飯事に責任の所在が行方不明になる。
「言葉が軽すぎるよな、ドコでもサ。オレは言語学者でもあるから、言葉の軽視には敏感なんだよね。マスコミもそうだし政治家もそう。政治家にとって言葉は言わば飯のタネ、命みたいなモノじゃないか。命を軽視するって事は、他人の生命も大切には扱わないって事だよ。この国の住人は平気なのかね。そんな生命を軽く扱う連中が自分達の生殺与奪の権を握ってる事実を放って置いて大丈夫なのかね、気持ち悪く無いのかね」
ショウナンが廻らなくなって来た口で窮屈そうに言った。
フッ、ソロソロ潮時だな。タカハシはそう思ってショウナンに最後の質問を振ってみた。
「戻って研究って、大学は相も変わらずにイリノイかい?」
「イヤ、違う。今は別の政府機関にいる」
「政府機関? どこだい?」レッドアイを飲み干してから軽い口調でタカハシが尋ねると猫のように笑いながらショウナンが答えた。
「知らない方が、イイ」
Lineの着信を告げるチャイムが頻繁に鳴っていたが、リョーカはベッドの上でゴロゴロしてばかりでスマホに手を伸ばす事もせず、ずっと一つの事を考え続けていた。
私は、何を、どうしたいんだろ?
窓から見える2月の空には鈍い雲が覆い被さっていた。膿んでいて孕み既に飽和が臨界を突破しつつある様に見えた。私は何をしたいんだろ? どうしたら良いんだろ? ただ一つ明確に解っている事は、もうあんな辛い経験は二度と御免だという事だった。ステージの上で発表が続いて行って順位が段々と上がって行って日頃可愛がっている後輩たちが次々と名前を呼ばれて行くうちにリョーカの心に小さな暗雲の種が生まれたのだった。消しゴムで消しても、何回消しても種は消えてくれず反対に暗雲は次第に大きさを増して行った。悪い予感から気を逸らす為に選挙前の一年間に行ってきた自分の活動を思い出してみた。この一年の活動内容はとても充実していたからだ。ミュージカルのメンバーに選抜されて嬉しかった、けど、演出の人に稽古の時から、毎朝布団から出るのも嫌になる位に徹底的にしごかれ続けた。追い込まれ過ぎてグループに入って初めて『逃げ出したい』とさえ思ったくらいだ。でも、サエさんに「しごかれたり叱られたりするのは良い事なんだよ。目をかけて貰ってるって事だからね。演出家は期待してる人じゃなきゃそういう扱いはしないもんだと思うし、ね」と声をかけて貰って、それで何とか頑張れて千秋楽を迎える事が出来た。その後、会う人たちが口々に「成長したね」とか「大人に成ったなぁ」とか言ってくれる様になり、ソレは自分でも十分承知していて、だから大きな手応えを感じてもいたのだった。その後にドラマの出演メンバーに選ばれた時も演技に関しては素人同然だけど、ミュージカルの経験を生かして自分なりには結構上手く出来たと思う。発表がアンダーに移ると不安の雲は大きさを増して行き、でも同時に良い結果を期待もしている自分もいて、だから雲を消そうと必死に色んな事を考えていた。CMにも出た。ケンタの骨無チキンのCMに出演した時は握手会に一杯の人達が並んでくれて、みんなが「おめでとう」って声を掛けてくれた。劇場公演も皆勤賞がもらえる位に頑張って出演し続けたからか最近ではかなり頻繁に「リョーカ!」って声を掛けて貰えてたし、大箱のコンサートの出番の時にはその時に出来得る限りの限界のパフォーマンスを披露したと思っている。どの仕事も少しも手を抜かずにやって、もしこの仕事が最後に成ってしまっても、絶対に悔いだけは残さない。そういう態度で毎回臨んでいたし、だから大丈夫だ、そうずっと自分に言い聞かせていた。『もしかしたらアンダーに入れるかも』期待が大きかっただけにその反動もまた大きかった。ランクイン出来ない事が決定的だと悟ったのは、最後の16人の選抜メンバーの発表が始まる少し前だった。これだけ頑張って活動していても、結果が出せない、ランクイン出来ない、悲しみや情けなさに脳の大部分が支配されて目から入ってくる情報を処理出来なくなってしまった。そうしている内に腹から熱いモノがせり上がってきてステージの上で始まる前に食べた物を吐いてしまった。トイレに行かなくちゃ、と思ったのだが立ち上るどころか座ってさえもいられずに結局椅子からずり落ちて倒れてしまった。必死に介抱してくれるメンバー達の輪の中で段々と意識は薄れて行って、『選んでもらえなかった』『必要とされてなかった』そんな思いが脳の中をグルグルと駆け廻るうちに暗い湖の底に堕ちて行った。
医務室のベッドの上で目覚めた時、最初に思ったのは『ステージを汚してしまって申し訳ない』という事だった。圏外と言う結果を受け止めなければならない厳しい現状も辛かったが、けれども、ソレよりも辛かったのは後夜祭と銘打たれた総選挙翌日に開催されたライブだった。選抜メンバーとは言え圏外の人間がメジャータイトル曲を歌っている事に関しては、自分でも『私がココに立っていて良いのかな?』と思った。でも何よりも辛かったのはメンバーやスタッフ達の同情に満ち溢れた視線を受け止めなければいけない事だった。勿論、本番中はさすがにそんな余裕は無いから適度に放って置いてくれたけれど、リハーサル中や打ち合わせの時に送られてくる眼差しには悪意的とすら思える量の同情が含まれていて、そんな視線に曝される度にリョーカは居たたまれない気持ちに為った。今考えればその多くはステージ上で倒れてしまった事に対する気遣いであって、ランクイン出来なかった事実に対するモノでは無かったのかも知れない。でも、その時は虚勢を張る事でイッパイイッパイだったから、ソコに想いを及ばせる事など到底無理な話だった。
でももっと、もっと嫌だったのは帰宅した後の家族の反応だった。いっその事はっきりと言葉に出してくれたり、腫物に触るような態度を示してくれた方が全然楽だったろう。務めて平静を装ったり、気付かう素振りを隠そうとする態度は、逆に普段の振舞とのごく僅かな違いを鮮明に際立たせてしまっていて、その微妙な距離が家族の思惑とは反対に、リョーカの心をざわつかせたり、心の傷口を押し広げて塩を擦り込む行為として映ってしまって、でも、だからあの当時の自分を想い起こす度に鈍い痛みを伴った罪悪感に襲われてしまうのだった。
誰も悪くない。全然悪くない。家族やメンバーやスタッフの人達、みんな誰も悪くない。悪いのは新規の応援してくれる人達を開拓できなかった、私だ。私が、悪いのだ。総選挙の少し前に開催された個別握手会で昔から応援してくれている人が言ってくれた事を思い出す。「ここ最近リョーカちゃんはグッと大人っぽく成ってきて、僕はとても嬉しいんだ。女の子から大人の女性へと変貌を遂げる少女と呼ばれる時期はとても興味深いモノを内包しているからね。でもその事実を素直に受け容れられない人達も多いんだ。だから新しいファンを獲得しなきゃいけないと思うし、成長してる今は逆にチャンスかも知れないよ」あの人の忠告をもっと素直に受け止めてさえいれば良かった。その大事さに気付けずに聞き流してしまった。小さい女の子が好きな人達はメンバーが成長してしまえば去って往く。あの人が本当に伝えたかったのは「ロリが離れて行ったから今度の選挙はヤバいぞ」という事だった。ハガシの人達が横に立っていなければ彼はもっと直接的な表現をしただろう。あの時に立ち戻って自分自身に「もっと真面目にこの人の話を聞け」と言いたい。後悔の念しか浮かんでこない。オヒゲさんは言った、後悔は一生付いてまわり決して離れて行かない、と。一生苦しむなんてイヤだ。だからリョーカは後悔だけはしたくは無いと思った。
だから、じゃあ、私はどうすれば良いのだろうか?
新しいファンを獲得する為には一体全体、何を如何したらいいのだろうか? ミュージカルに出演した。舞台にも出た。TVCMにも採用して貰ったし、TVドラマにも出て、お情けなのだろうか、それとも単に演者を変える手間が惜しかったのだろうか、その辺の事情は判らないけどそのドラマの続編にも呼んで貰った。劇場公演も手を抜かず、先輩たちが登壇出来ない時はメンバー達の纏め役を買って出たりもしたし、握手会でも神対応とまではいかないけれどソコソコの対応を取ってきたと思う。だから、もう打つ手が無い。少なくとも自分では考え付けない。そんな風に迷っている時期に、あの男オヒゲさんは登場した。袋小路で二進も三進も行かなくなっている時だったからこそ、その申し出は悪魔的な魅力を帯びていた。私が首を縦に振りさえすれば、オヒゲさんは木の棒を一振りしてポジション・ゼロの立ち位置を用意してくれる。嘘かも知れないし大法螺なのかも知れない。ドッキリかも。受付に残されていたメモに書いてあった会社名でググると英語で書かれたHPに辿り着いた。右上のLanguageとあるバナーをクリックすると日本語表記に変わった。外国のサイトでよく見かける様なおかしな日本語では無い、チャンとした日本語で会社の概要説明文が現れた。コンパクトにまとめられた社史には創立者の名前が二人分載っていて、片方はメモに書かれていた名前と同じだった。見た事の無い漢字だったけどどうやらショウナン・ヒロと読むらしい。でもこんなの何の確証にも成らない。だって誰でもこのサイトは閲覧できるからだ。ショウナン・ヒロともう一人の創立者の写真は掲載されていなかった。試しにショウナン・ヒロでググると案の定日本語のページは一つも無くて英語のモノばかりだった。しかし、結局何の収穫も無かった。SNSのアカウントは去年の1月に総て削除されていてTwitter、Facebook、そしてBlogまでも閉鎖されていた。IT業界の人達はドンドンSNSから手を引いているらしいから当然の事なのかも知れない。個人情報の管理状態の裏側を知っているからソコがどんなに危険な場所なのか理解している人達は挙って脱出している。私も辞めた方が良いのかなぁ。会社のHPの人物概要に元ヴァージニア工科大学の教授と在ったので、リンクを使ってそっちのサイトまで跳んだ。辿り着いたVirginia Polytechnic Institute and State Universityの公式サイトには日本語での案内が無かった。慣れない英語表記に苦労しながら懸命に探したけど既に辞めてしまった人物だからか何の記載も無かった。丸々1日を費やして判った事と言えばSNSの危険性だけだった。しかし、こうまで手の込んだ嘘を付いてまで私を騙す必要は何処にも無い様に思える。でもめちゃイケなら、コレくらいの壮大なドッキリを仕掛けそうな気もする。だから、どうしたら良いのだろうか?でもこうしてベッドの上でゴロゴロしていても現状を打開する事は、出来っこない。
現状があまりにもグチャグチャでどう対処したらいいのか想像も付かない場合、人は非合理で突飛な傍から見れば無茶苦茶な打開策を採用する事が多々、ある。生得的に備わった何かがリョーカを現状打破する為にヒゲの男から提示された荒唐無稽な方法を採用する事から遠ざけていた。今いる状況を変化させるのが怖かったのかも知れない。変動は混乱をしばしば呼ぶ事を本能的に察知していたのかも知れない。恐怖は身を竦ませ跳ぶ事を許さない。現状を変える事への恐怖、現状を維持し続ける事への恐怖。リョーカの周囲を取り巻くモノは、絶対的な恐怖だった。総選挙を期として、多くの人達はリョーカから受ける印象が大幅に変わったと感じていた。選挙前は成長して大分大人に成ってはいたが、それでも本来のksgkの部分は濃厚に残っていて、ファンの人達はその対極的な特徴の絶妙なミックス具合を楽しんでいたのだ。でも選挙後は落ち着いたというよりも、何かに怯えて身がすくみ臆病で用心深く成ってしまった様に見えた。そこから受ける印象はまるで砂から顔をほんの少し突き出しているカクレウオのソレだった。『自分は跳べるのかどうか、ほんの少しでも疑ったその瞬間から永久に跳べなくなってしまう』今現在リョーカが存在している世界においては、彼女が跳び立つ事は不可能だった、外側の世界に出ない限りは。
起きてから何も食べず着替えもせずにずっと同じことを考え続けていたのでリョーカの頭は少しポーッとしてきた。横目で時計を確認すると3時ちょっと前だ。私何時間考え続けてるんだっけ? そもそも何考えてたんだっけ? 判らなくなってきちゃった。でも1つだけ判っている事がある。今いる場所からはどうやっても私の観たい景色は絶対に観られないって事だ。
でも、じゃ、本当に私はどうすれば、良いんだろうか?
今日だけじゃない。あの人が初めて私の前に現れてからずっと考えて来た。
もう4カ月も考え続けてるんだ、私。
公演の最中もコンサートのバックヤードでも高校の授業中にもそして今みたいに家でも。
日課にしてるウォーキングの最中も考えっ放しだった。この前なんか考え過ぎてて3時間も歩いてしまい次の日は軽い筋肉痛に襲われた位だった。
期限の日が近付けば近付く程、その事しか考えられなくなってしまった。
でも、もう答えを出さないと。
でも、そもそも問題が何なのか見えていない様な気がする。
キチンと把握出来ていないのかも知れない。
イヤ、違う。
何が問題なのかはチャンと理解出来ている。
正解が何であるのか、本当は既に気付いていて、でもソレを認めたくなくて同じ所をグルグルと廻っている事をリョーカは判っていた。正解がもたらすと思われる副反応の苛烈さが容易に想像出来たから、目を逸らし続けていたのだった。
コレって永劫回帰なのかな?
オヒゲさんは言った。
「真っ先にやらなければいけない事が判っていれば話は簡単だ。一番困難で、一番面倒で、一番厄介な選択肢が正解だ」
オヒゲさんの言いたい事は良く解る。申し出を受ければ面倒で厄介な彼の言う所の『絶望』を引き受けなければいけないのだ。でも果たして私にそんな勇気と覚悟が備わってるのだろうか? 天井の一点を見詰めながら決して答えの出ない自問を繰返していた時に、ノックも無しにいきなり扉が開けられた。
「お姉ちゃん、分度器貸してくれる? うわっ! 相変わらず汚いジャングル状態だなぁ。『調べ』の汚部屋メンバーのコンペに参加すれば良かったのに」
「ウルサイ! 実家じゃ無理!」
「でも何かのTV番組にカトレナさんは家族で出演してたけど」
リョーカは起き上がりながら言った。
「私、ちょっと出かけてくるから、その間にこの部屋掃除しといてくれる?」
「えーっ、またぁ?!」
「バイト代1000円出すから」
「うーん、もう一声!」
「じゃ、1100円」
「刻むなぁ。せめてワンコイン位アップしてよ」
「判った。でも後払いね」そう答えるとリョーカは部屋から出て行こうとした。
「ちょっと、お姉ちゃん! そのカッコじゃ寒いよ! 何かコート羽織ってかないと風邪引・・・」
最後まで言葉が終わらない内にリョーカはドアを閉めて階段を駆け下りた。
ナイキのスニーカーに足を突っ込みながら玄関のコートラックに掛かっている父親のダッフルコートを乱暴に羽織ると外に出た。降って来そうだった。垂れ込めた鈍色の雲は雪を予感させた。門を出ると外に出た事を後悔する位の風に吹かれた。寒い。気温が低い上に風も吹いていて体感温度は零度を軽く下回っていそうだった。行く当ても無くフラフラと歩いているうちに何か別の妙案が浮かんで来るかも知れない。そう考えて外に出て来たのだが、間違いだった様だ。幾らダッフルコートを着ているとは言え、その下がパジャマ代わりのスウェットにジャージパンツじゃ無理だ。寒過ぎて脳が上手く機能しない。堪らずに近くのコンビニに駆け込んだ。込んだは良いが財布を持ってくるのを忘れた事に気が付いた。何か無いかコートのポケットを探っていると何かのお釣りをそのまま突っ込んだと思われる小銭が見付かって数えてみるとどうやら暖かい缶コーヒーと肉まん位は買えそうだ。家からこのコンビニまでのたった500mの移動の間にすっかり凍えてしまった。だから少し温まってから帰る事にして、体温が復活するまで店内をブラ付くことにした。冷蔵庫の前まで来ると店員さんが書いたであろうポップがエアコンからの温風に揺れていた。
『冬こそポカリ!』
今、ポカリなんか飲んだら体の中が凍りついちゃうよ!
リョーカはそう思いながら青いラベルのペットボトルをボーッと見ていた。
そうしている内にユウコさんの事を考え出した。ポカリのCM出演者の最終オーディションにまで残れた時ユウコさんはどう思ったんだろうか? 嬉しかったんだろうか? じゃ、最後の二人って段階まで残れても結局は選ばれなかった時、何を感じてたんだろうか? 悔しさなのか、怒りなのか? 心が折れたりはしなかったんだろうか? 私の場合なんかとは比較できない位の『絶望』だったんだろうか? もしそうだとしたら、ユウコさんはどうやってそんな苦しい環境から脱出出来たんだろうか? ユウコさんだからこそ可能な離れ業であって、他の人には到底無理な事なんだろうか?
ポカリのポップから離れて雑誌が整然と置かれた本棚の前に来た。
オヒゲさんに言われた通りに沢山本を読んだ。
同年代と比較すると良く本を読む方だと思う。ま、読書家って呼ばれる人に比べれば全然だろうけど、私にとっては大量の本だった。でもまだ私が求めているモノには出逢えないでいる。普段は手を出さない純文学系の本も読んだ。でも、なんで小説には『純』でも『エンタメ』でも必ずと言って良い程Hのシーンが出て来るのだろうか。売る為なのかな? それともベッドシーンを描かないと『愛』って表現出来ないのかな?
週刊誌たちが「買ってくれ!」と叫んでいる様にその表紙たちはそれぞれ荒んだ表情を浮かべている様に感じた。そのうちの一冊に眼が留まった。頻繁にウチのグループのメンバーのスキャンダルを掲載している雑誌だ。表紙は結構ほんわかテイストなんだけどなぁ、と思いながら手に取った。何人もの立ち読みの客が通り過ぎて行った様でボロボロだった。天敵とも言える週刊誌だったが『可哀想』という感情がリョーカに降りて来た。見るともなしにパラパラとやっているとユウコさんの記事が載っていた。来週封切られる出演映画の批評で、4人の評論家は押し並べてユウコさんの映画に対して好意的だった。グループに関する情報はその位でスキャンダル記事は載ってはいなかった。一時に比べてココ最近はスキャンダルが抜かれる事も減ってきていて忘れた頃にポツリポツリと掲載されるぐらいだ。良い事なのだろうが、リョーカは不安だった。この手の週刊誌に追掛けられなくなったら終了フラグが立っている事を意味するからだ。それにしては大人達の危機感は希薄に思えた。メジャータイトルのCDは毎回どれもミリオンを突破していたから、あえて危ない橋を渡る事はしないで、現状をキープ出来れば良いと考えているのかも知れない。紙面の上の文字を追いながらリョーカは一昨年の8月に開催された東京ドーム公演を思い出していた。3日間行われたライブの2日目、天空席と呼ばれるスタンドの2階席は全て黒いシートで覆われていて、その有様をモニターで確認した次期総監督(仮)のヨコヤマさんが「あちゃーっ!!」と絶望を表す叫びを上げたままフリーズしてしまった。ライブ直前の恒例に行われるメンバー全員での円陣の時には、タカミナ総監督の眼尻が在り得ない位に釣り上がっていて正直ホントに怖かった。いつにもまして彼女の声のピッチは高く途中で裏返ってしまった。電気的に増幅されて事も手伝ってか何を言っているのかサッパリ解らなかったけど状況がかなりのレベルで緊迫している事だけ、つまり『超ピンチだ』という事はストレートに伝わって来た。拡声器を握り締める彼女の右手に血の気は全く無くてイカの様に真っ白で青白く血管が浮かび静かな怒りで小刻みに震えていた事を覚えている。たった一人抜けただけでこの惨状だ。7万人収容の国立と味スタの2日間をチケット発売と同時に瞬間蒸発させるユウコさんの偉大さを痛い程再確認させられた3日間だった。
大人達の大半が男だからかも知れない。理由も無くリョーカはふとそう思った。女の人は生まれながらに『子供を産む』という一大事業を運命付けられている。何年前だったかな、親戚の叔母さんの一人は初産の時に超難産で分娩室の中で20時間以上もイキミ続けていたら母子共に命の危険に曝されてしまう羽目に成って結局急遽帝王切開に切り替えられて無事に事無きを得たのだった。ママからその様子を聞かされた私は、出産って結構大変なんだなぁとその時はただ単純に思っただけだったけど、一週間後にママと一緒に御見舞いに行った時、心配していた叔母さんは元気そうでホッとして帰り際に「赤ちゃん見て行って」と言われて、保育室で赤ちゃんを見た時に『こんなデカいのがアソコから出てくるのか。そりゃ、命懸けだよ』と思い知らされたのだった。お家に帰った後に夜寝る前、物凄ーく気になってコッソリと手鏡で自分のアソコを確認したのだけれどそのあまりのグロさに「ウッ!」と声に成らない叫びを上げた拍子に晩御飯に出た豚しゃぶのお肉をウッカリと思い浮かべてしまって『もう、豚しゃぶ食べれないよ』という気持ちに為った。そして赤ちゃんの大きさに比べたら出て来る所の大きさが絶望的に小さくて『私には、無理っ!』と思い込まされたのだ。その時に改めて子供を産むって命懸けの作業なんだ、と考えさせられたのだった。生きるか死ぬかの瀬戸際まで追い詰められないと大人達、特にオトコ達は危機感を抱かないのかも知れない。だけど出産と言う結構簡単に死をもたらすかも知れない一大事業が未来にドーンと待ち構えている女の人達は割とすぐ危機を感じ取れるのだと思う。
後輩の癖に卒業してしまったナツキが言っていた、「男は子供を生み出す事が出来ないから兵器を作り出し、命の大切さが理解出来ないから確認する為に戦争を起こすのだ」と。
もしソレがホントだったら、オトコって本当に、馬鹿だ。
明らかに設定温度をミスしたエアコンが熱風を吹き出し続けていたのでリョーカの頭は少しボーッと成ってきて、だからかも知れないが彼女の思考は変な方向に進み始めた。
スキャンダルを起こせば売れるのかも知れない。
オトコの人とのお泊りを報じられて一回は16人の選抜枠から漏れ出てしまったのに、超神対応と呼ばれる握手会での必殺的なホスピタリティの高さを駆使する事で一年足らずで選抜枠に舞い戻ったヒトがいる。かと思うと、ファンの人を喰っちゃうなんて有り得ない事を堂々として、どういう心理なのかはサッパリ解らないけれどそのファン本人に写真を週刊誌に売られるという考えられないスキャンダルを起こしながらも、その過去からの爆風を上手にブースターとして利用してグループの頂点に上り詰めるという強引な所業を見せたヒトもいる。でも私の様なランキングの内と外を行ったり来たりしている様な端っこのメンバーが、何て言うんだろう? 泡沫? そう、私みたいな泡沫メンバーが同じ様な事を仕出かせば待っている結果は明らかだ。『死亡宣告』つまり即時解雇処分が躊躇なく下されるだろう。私と彼女達のとの違いは、結局はお金だ。彼女達は偉大な集金マシンなのだ。彼女達が巨額のマネーを稼ぎ出している間は絶対に解雇される事は無い。ユウコさんは言った「私達にとって票数は愛だ」と。愛もお金と同じ様に量で測れるモノなのだろうか? そんなに詰らないモノなのだろうか? じゃ何故色んな人達が歌や小説の中で愛に付いて表現してるんだろう? 不思議だ。でも金の力はヤッパリ偉大だ。私が今陥ってる苦境を回避できるし、たとえ落ちたとしても容易な脱出を可能にしてくれる。でも大人達の大半がその事実から目を背けている様に見えるのは、何故? とっても不思議。もしかしたら彼等たちは地獄を味わった事が無いのかも知れない。私の様な体験をした事の無い幸せな人達なのかも知れない。馬鹿な考えを払い落とす様にリョーカは首を左右に小刻みに振った。
『可哀想』な週刊誌を棚に戻して、さ!、缶コーヒー買って抱えて帰ろうと、顔を上げたら窓の外は立派な雪模様だった。天敵に追われた小魚の群れが逃げ惑っている間中に何度も方向を変える様に、風にあおられた雪が舞い躍っている。
コレじゃ外出れないな。そう思って再び本のラックに眼を落とすと、ソコに懐かしい笑顔を見付けた。
カヲルだった。
同期のカヲルは加入前には神コレにも出る位のモデルとして活躍していた実績があったからスーパー研究生として特別待遇を受けて物凄いスピードで正規メンバーに昇格して嵐の様にアッという間に辞めて行った人だ。私がチームAに昇格できたのは彼女が辞める時期とほぼ同時だったという事実からもカヲルを取り巻く環境の変化の電撃さ加減が良く解る。本人の口から直接聞いた事は無かったけど彼女に対するアンチからの風当たりは、その昇格スピードに比例して日毎に強さを増して行ってしまい、結局の所はカヲルはその風圧に耐えかねて超早期卒業の道を選ばざるを得なかったのだ。漏れて来た情報を統合して考えると運営の大人達は、どうやらカヲルと私を13期生のツートップとする事でライバル同士として設定して色んな物事を上手く転がしていく腹積もりだったらしい。でもカヲルがこんなに早くグループを脱出してしまって誤算が生じたのか、私は独りぼっちで放って置かれた。推されもせず、干されもしない、言ってみれば放置プレイの野良犬状態に長い間捨て置かれてしまったのだ。
オヒゲさんは言っていた。
「ライバルってのは重要なんだ。ライバルの存在が在るからこそ自分の考えに『競争』という要素が生まれる。ライバルが不在、つまり『孤独』な状況は言ってみれば図書館での自習だ。誰かに意見を聞く事も出来ないし自分の考えを伝える事も出来ない。心の中にアバターを創って自問自答するしかない。だから自分の本当の意見を知る事が出来ない。本当の事が判らなければ、自分が現在しなければいけない事を知る事も出来ない。切磋琢磨する相手がいるかいないかでは成長するスピードが全然違う。だって何かを教えてくれる先生もいないし、刺激を受けたり与えたりする相手がいないからだ。それにリョーカさんの様なグループアイドルの場合、ライバルの存在を利用する事でファンの人達を増やしたり一つの集団としての結合力を高める事が出来る。いい例はユウコさんだ。『アイドルは魅力が実力を凌駕する存在』そう形容した人がいるけどユウコさんはその点では不利なんだ。彼女は完全スペックアイドルと言っても良い位実力を兼ね備えていて欠点らしい欠点が見当たらない。だからファンもどこに感情移入して良いのか戸惑ってしまう。だからワザと運営はユウコさんを常に二番手として扱った。どんな事があってもアッチャンさんの後ろがユウコさんの定位置だった。『何で一番の娘をトップに置かないんだ』という当然の怒りがユウコさんの人気度を高めて行った事は間違い無い。そして最初こそは運営側がアッチャンさんとユウコさんをライバル同士として設定したかもしれないけれど、そのギミックによって自分のファンの人達がより一層ヒートアップするのを目敏く感じ取ったユウコさんは、その膨大な熱量を利用して『対アッチャンさん』という構図の中に上手くファンの人達を巻き込んでいき独りきりでは絶対不可能な位の絶大な人気を博すところまで昇って行ったんだ。もう一つライバルの重要なポイントがある。真の芸術は虚と実の間、皮膜に存在している。虚と実の間、つまり偶像だ。絵画でも彫像でも写真でも真の芸術は偶像だ。ある脚本家がこう言っている。
『アイドルとは偶像だ。虚像でも実像でも無い。例えば道端に落ちている石を誰かが拾い上げて、コレは神だ、と言ったとする。その何の変哲も無い石ころは、その瞬間から信者にとっては神に昇華する。ソレが偶像なんだ。偶像は本人の意志だけでは存立出来ない。周囲にいるファンの人達が各々心の中に持っている幻想、ソレを集合させたモノによって奉り上げられる事で初めて成立する。アイドル自身の本音や正体とファン達が期待するキャラクターとしての理想像は決してイコールでは無い。だから期待されているアイドルイメージを一番上手に演じられた者が成功する』
でも『孤独』な状態では自分に期待されてるアイドル像というヤツが非常に見え辛い。ソレと比較してライバルが存在している場合、彼女を鏡とする事で自分のやらなければいけない事がハッキリと浮かび上がってくる。自分がどんなアイドルを演じれば良いのか、ファン達が期待している自分のアイドルイメージは一体どういうモノなのかが明確になる。いい例はユウコさんだ。ユウコさんはグループに加入した当初は自分がどういうアイドルを演じれば良いのか判らなかったそうだ。元々彼女はアイドルに全く興味を持っていなかったからね。加入後しばらくしてAとKの両グループをシャッフルして創られたひまわり組と呼ばれる特別公演が始まった。その後にユウコさんはひまわり組公演を経る事に因って自分の才能を開花させてアイドルとして覚醒するに至ったと言われる様に為った。ユウコさんは一体どうやって自分が演ずるべきアイドル像を手にする事が出来たのか?
答えは『アッチャンさん』だ。ユウコさんは『アッチャンさん』というライバルの表面に浮かび上がって来ているモノを通して、ファン達がどういうアイドル像を自分に期待しているか、つまり需要は何処に存在するのか、そういう事が明確に理解出来てそして望まれたイメージをその通りに演じただけなんだ。リョーカさんには今ライバルと呼べるような存在のメンバーが居ない。求められているアイドルイメージは湖の底に沈んだままで浮かび上がらない。これはとても不利な状況だ。亡くなってしまった作詞家の言葉だがアイドルとして成功するタイプには2種類があるのだそうだ。1つは『手の届く高嶺の花』そして2つ目は『絶対に手の届かない近所のお姉ちゃん』リョーカさんがどちらのタイプかは不幸にして私には解らない。
唯一つ確かな事は常に笑顔を絶やさないでいる事、コレは必須だ。『楽しくも無いのに笑ってなんかいられねぇよ』と思うかも知れない。だが、人は楽しいから笑うのでは無い。もし君に好きな男の子がいたら可能な限り眼で追い続けるだろう。だがソレも真実では無い。好きだから見ていたいのではなく、頻繁に視界に入って来る内にその男の子を好きに為るのだ。同様に楽しいから笑うのではなくて、笑っているから楽しくなるのだ。心が行動を規定するのではない。行動が心を規定して行くのだ。笑っていると嬉しい副次的産物を得る事も出来る。笑顔を続けて行く内に『愛嬌』というモノが次第に備わってくる。『愛嬌』コレは重要な性質だ。『女は愛嬌、男も愛嬌』愛嬌のある人間に対して周囲の人達は概して優しい。そして大事にしてくれる。結構クリティカルなポイントだぞ。何時ぞや観たポスターのリョーカさん、悪戯っ子の邪気を些か含んだ笑顔を浮かべていて素晴らしいと思った事を、今思い出すよ。後、感謝の気持ちを忘れない事も重要だ。どんな些細な行為に対しても感謝の念を持つ必要がある。人は仏閣に在る鐘の様なモノで大きく叩くと大きな音を立て、小さく叩くと小さな音を立てる。自分の態度が相手の態度を規定する。大体の場合、常に感謝の気持ちを忘れずに笑顔でいる人に悪さを働こうとする人間、そう多くは無い。笑顔、そして感謝、だ」
もう一度ファッション雑誌の表紙に載ったカヲルの顔に眼をやる。辞めた後しばらくの間表舞台から姿を消していた彼女はある映画への出演を機に再び女優やモデルとして活躍し始めたのだった。今でも彼女は林檎が主食なのだろうか? リョーカは一抹の寂寥感と共に降ってきたケーソン並みの重量のある喪失感を受け止めなければいけなかった。そうか、彼女は私が爆発する為の起爆剤に為る予定の人だったのだ。どうして私はあの時彼女を支えてあげられなかったのだろうか? 少しでも力に成れていればカヲルは今でも私の横に立っていたかも知れない。
「無理だよ」
当時、13歳の子供が18歳の女性を助けられる訳が無い。
私は代替の効かなくて得難い存在の人を永遠に失ってしまったのだと改めて気付かされた。
ライバル。
自分の力では選ぶ事も創る事も出来ない、どうやったら設定出来るのか全然判らない存在。相手に指を突き付けて、「今この瞬間からアナタがワタシのライバルよ」って言っても駄目だ、漫画やアニメじゃないんだから。
とんでもなく重要なモノを失ってしまったんだなぁ。
そう思いながらカヲルの顔を眺めていた。彼女はとても輝いて見えた。カヲルは外側の世界に跳び出す事によって自分で自分を爆発させることに成功したのだ。羨ましかった。
私はどうするべきなんだろう?
リョーカは何万回目の自問を繰返した。
『絶望』って何なんだろう?
アンチの数が増える事なんだろうか?
でもオヒゲさんは言った、アンチの存在はむしろウエルカムだと。
「アンチの存在は害では無い。むしろ有難い存在だと言える。何故かって? ソレはライバルと同様にアンチを鏡として活用できるからだ。簡単だ、彼等の嫌がる事をすれば良いんだ。ツツイヤスタカという小説家がいる。彼は『才能が有り過ぎる』という訳の解らない理由で直木賞を貰えなかった人物だが、インタビューを受けた時に『どうしたら売れる小説が書けるのか』という質問に対して彼はこう答えたそうだ。『簡単です。批評家の嫌がる事を書けば良い。彼等は私の小説を読み批評というよりも批判をする。私はその批判されたポイントを次の小説でエスカレートさせる。また批判される。その繰り返しにより有難い事に私の小説はドンドンそのレベルを高みへと上げる。小説家の仕事は世間から顰蹙を買う事です。世界が隠しておきたい真実を掘り起こして白日の下に曝しそしてその行為に因って顰蹙を買う。ソレが私のヤっている事です』アンチの存在は必要だ。自分の演じるべき役回りを率直に教えてくれるから。一番怖いのは黙殺、つまり無視される事だ。好きの反対は嫌いでは無い。黙殺だ」
黙殺。
黙って殺される。なんて怖い言葉だろう。もしもオヒゲさんの言う『絶望』が世界から黙殺される事だとしたら、どうしたらソレを『希望』に変えれられるのかサッパリ解らない。
もしかしたら別の意味なのかも知れない。
人は黙る事で他人を殺す事が出来るからだ
もし誰かに話しかけても私が透明人間にでもなった様にその人が何の反応も示さなかったら。もしそんな状況が、他の人から遮断される事が1月も続いてしまえばきっと私は気が狂うか自殺を試みるだろう。
無視されるって事はファンの人もアンチの数も増えないって事か。
正しく『絶望』じゃん。
でも、だから、私は何をするべきなのだろうか?
『絶望』
リョーカが解っているのは、コイツだけはどれだけお金を積んでも解決出来ないとても厄介な事だ、という事実だった。私はソレを『希望』に変えなければいけないのだ、自分の力だけで! リョーカは眼を落とし自分の履いているスニーカーを見詰めた。左右がバラバラだった。
『絶望』をたった独りで受容れる、私にそんな大それた事が果たして可能なのだろうか。
コワいよ。
怖くてコワくて、たまらない。
でも、
このまま、ずっとこのまま、
なんて、
死んでもイヤだ!
フッ、
一番厄介で、一番困難で、一番面倒な選択肢が正解、か。
逡巡に逡巡を重ねた挙句ようやくリョーカはとっくに掌中に降りて来ていた正解をジッと真正面から見据えた。そうだ、選択肢は最初からひとつしか無かったのだ。諦めの溜息をひとつ付いたリョーカが顔を上げると何時の間にか雪は止んでいて、天からジェイコブの梯子が降りていた。
彼女はひとつの決断を下した。
その男が再び姿を現したのは暖かい陽気に列島が覆われた2月半ばの全国握手会だった。中京圏で行われる時は必ずと言って良い程ナゴヤドームで行われるのだが、今回もその例に漏れなかった。握手会自体は1時ごろから始まった。昨年ネットで放送されたドラマの影響からかリョーカのレーンにはたくさんの人達が並んでくれて途切れる事は無かった。自宅を出たのは5時前で前日から朝食を用意しようとする母親を「駅でキシ麺食べるから」と制して近所のコンビニでお茶とツナマヨのおにぎりを一個だけ買って新横浜で仲間の乗るほぼ始発ののぞみに乗った。名古屋駅のホームの上のうどん屋さんで土曜出勤のサラリーマンに混じりカツオの削り節がクネクネと躍るキシ麺をすすったのが8時前。今は3時だから、正直な所リョーカのお腹はペッコペコだった。その時にハガシの人が声を上げた。
「すいません、このブロックは、今から30分間休憩になります」
解放されるとバックヤードに行って遅めのお昼ご飯を食べる事にした。一緒に食べるメンバーが見当たらなかったので、ま、独りで食べるか、と思い3種類ほど用意されていたお弁当の中から一番美味しそうに見えた名古屋名物特製味噌カツ弁当(ヒレ)を手に取り、人気一番のカップラーメン(台湾ラーメン風)にお湯を注いでボーツと出来上がるのを待っていた。すると、サヤ姉が入って来た。サヤ姉はナンバとの兼任メンバーで通常の場合には兼任メンバーは全握に参加はしないのが慣習なのだ。が、今日は何故か参加させられており彼女もまた遅めの昼食を取ろうとやって来たのだった。見るとは無しに見ているとサヤ姉は唐揚げ弁当(レモンたれは既に絡めてあります)とカップ焼きそばを選んでいた。
「もうレモン、絞っといたで」という彼女の言葉がした気がして思わず辺りを見渡した。サヤ姉はポットから焼きそばにお湯を注ごうとしていたのだが、突然声を荒げた。
「ナンや、コレ。お湯あらヘンがな。またかいな、もう。嫌になるっちゅうネン」
実はお湯はリョーカが使い切ってしまっていたのだ。リョーカの場合でも量的にはギリギリで内心『良かったぁ、セーフ』と思っていたのだった。急いで水を追加して急速沸騰のスウィッチを押したのだがタイミング悪く間に合わなかったのだ。
サヤ姉はブチ切れていた。
「何なン、ったく!! 毎回毎回、必ずワタシの時にお湯が切れてるヤンか。ココはぬるいお湯しか用意でけヘンのかいな。新しいポット買うお金位ワタシら稼いでるやろッ!」
リョーカは『マズイ』と思い、
「あのぅ、今、私台湾ラーメン作ってるんで良かったら半分コしませんか?」と話しかけたのだが、サヤ姉の怒りは一向に収まりを見せず「エエわ、リョーちゃんはシッカリ食べとき。喰わへんと持たへんで」と返されてしまって、リョーカは『どうしようか?』と思っている内に、サヤ姉の怒りが段々とヒートアップして行き今度はポットに対して毒づき始めた。
「お前な、立派な日本製やネンから、もっと早う沸かせんのかいな。こちとらな、朝もハヨウから、ずーっと働きっぱなしで腹減っとんのじゃ、何してくれてんネン?」
勿論無生物であるポットは返事したりはしないのだが、ソレが新たな怒りを触発してしまった様でサヤ姉は持っていた割り箸でとうとうポットの頭をゴンゴン小突き始めた。
「お前な、何で黙っとんの? スイマセンとか言えヘンでも、返事したらエエやん。アンタな、ピーッとかプーッとか音を鳴らしたったらエエやんか。誠意見しったったらエエやんか。何でそんな事も出来ひんの? こいつバッタモンとちゃうの? どこで買うたん?」
東京にいる時の『借りネコ』状態のサヤ姉しか知らなかったので滅茶苦茶怖くてリョーカは息を殺し首をすくめて必死に気配を消していた。お昼ごはんオワタ、と早々にリョーカはお腹を満たす事を完全に諦めていた。
救世主が現れた。
ジュリナさんだった。
ジュリナさんは歳こそサヤ姉より4つ下だったけれど2年も先にグループ入りした先輩でサカエとの兼任メンバーだった。ジュリナさんも何故か今日は全握に参加させられていたのだった。3人のいる世界は超体育会系の縦社会で非常に上下関係に厳しい所だったからサヤ姉はジュリナさんに対してずっと敬語だった。
「何やってんの?」ジュリナさんが言った。
「イヤ、お湯が沸いてヘンのんです」サヤ姉は突然現れたジュリナさんに動揺したのか何かオカシな奈良弁になりながらも彼女の抱えている窮状を訴えた。
「え? 沸いてるよ」
「え?」サヤ姉の祈りが通じたのか見ると日本製の立派なポットは既に沸かし終えていた。
「うーんと私、コレにする」と言いながらジュリナさんは弁当を一つ手に取った。
そっと窺う様に見ると、彼女の選んだものはトンテキ風手羽先ミソ味焼き飯ケイちゃん添えという一瞬、一体どういう味なのかサッパリ想像も付かない変てこなモノで、味が濃そうな事だけは容易に窺えて、やっぱ私服の好みが変わってる人は味の好みも変わってるんだなぁ、とリョーカは納得したのだった。とにかくジュリナさんのおかげで3人でテーブルを囲んで、服とか音楽とかダンスとかのリョーカにとってとても勉強に為る有意義な話題をしゃべりながら仲良く食事を済ます事が出来たのだ。
無事に食事を終える事が出来て、レーンに戻ると一番前にオヒゲさんが並んでいた。以前の時と似た様な格好の上にカーキのトレンチコートを引っ掛ける様に着ていた。ただ、普通のモノとは違っていて丈がチュニック丈だったからリョーカにとっては初めて見るモノだった。列の一番最初に並んだ者はマトメ出ししないのが暗黙のルールだが男は気にした風も無く前回同様に握手券の束をハガシの人に差し出した。
「200枚有ります」男が言った。
後ろに回ってくれませんか、と言いかけたハガシの人が言葉を飲み込んでしまった。そんな事を口に出したら、生命の保証はしない、無力化する、そんな危険な空気を発散して一瞬で男が周囲に漂わせたからだ。開きかけた口をアグアグと噤んだことを横目の一瞥で確認をすると男はリョーカの答えを静かに待った。
リョーカは、フッと一息漏らすと3日前に決断した選択肢を男に伝えた。
「私はポジション・ゼロから観える景色を見てみたいです。だからヨロシクお願いします」
男は微かに笑いを浮かべながら言った。
「了解だ」
仕事上二人のやり取りを聞いていたハガシの人は会話の後に続けられた男の言葉に全身がビクッとなってしまって、失礼極まりないけれど男の顔をまじまじと見つめながら思った、枕詞、間違えてるだろ、オッサン。
男はこう続けた。
「OK. 取り敢えず30万票用意する」
指定された銀座のバーにタカハシは5分ほど遅れて姿を現した。先に到着していたショウナンが定位置の左の一番端の席に座っていて、タカハシの顔を確認すると笑顔を浮かべた。店内は平日の午後8時と言う早い時間帯にも関わらず9分の入りでぎりぎりセーフという感じだった。幸いにもショウナンの隣は空いていたので腰を下ろした。
「コレ、何?」タカハシはショウナンの前に置かれたカクテルグラスを一瞥しながら言った。
「マティーニ」ショウナンが答えた。
ヘーッ! コイツがカクテルなんて珍しいじゃん。いつもシングルモルトかアイリッシュだったのに。そう思ったので、何故今日はソレなのか尋ねてみた。
「イヤ、ココのご主人は今井マティーニの正当後継者なんだ。一回は試しておかないとね」
ショウナンはグラスを取り上げながら答えた。
「今井・・・マティーニ?」
「今井清という戦後にパレスホテルのバーで活躍した、言わば伝説のバーテンダーがいたんだ。その味を受け継いでるのがココのご主人、って訳」
成る程。タカハシは不幸な事に一回も試した経験が無かったので、これも良い機会だと思いショウナンの前にいる初老のバーテンダーに1つ作ってくれる様に頼んでみた。
「かしこまりました」そう答えると彼は材料を手際よくミキシンググラスに注ぎ入れ、小気味よい音をキャラキャラと立てながらスプーンで中身を掻き回し始めた。すると店内にいた客たち全員と3名の若い勉強中のバーテンダーたちが彼の手元を一身に見詰め始めた。前回タカハシ達に付いてくれたバーテンダー等は魅入られた様に凝視していて一個でも多くの技を盗み取ろうとしていた。作り終えると透明な液体をカウンターの上に置かれたグラスに注ぎいれた後に初老のバーテンダーはレモンの皮をシュッと一絞りしながら空を滑らせ「どうぞ」と言いながらタカハシの前に置き直した。
タカハシはその高貴とも形容できる透明な液体を一口飲んだ。
「美味い」こんな上手い飲み物だったのか、マティーニってヤツは。知らなくて損したな。
驚きの眼差しをバーテンダーに向けると、彼はニッコリと笑顔を浮かべて彼らを残して立ち去った。
「どうやら全て順調に準備が整ってるようだね」ショウナンが言った。
「もちろん、全て上手くいってるさ。ま、昔取った杵柄ってヤツだよ」
「有難う、タカちゃん。タカちゃんがいてくれて助かったよ」
「何、良いさ。でも1つだけ申し訳ないのがブツを手渡せるのが発売日の1週間前だって事だね。ホントはもっと早く用意出来る筈なんだけど、いろいろ厄介な障害があってさ。どう? 間に合いそうかい?」と不安げにショウナンを見ながらタカハシが言った。
「ソレは大丈夫。もうチームは編成済みさ。ホントは20人くらい頭数必要だったけど、10人集められたからソレで良しとするよ」ショウナンが言った。
ホントにコイツは美味いな、今度から口切は絶対にコレにしよう。そうタカハシは思った。
「でも、良く劇場版ばっかで30万枚も確保出来たね。驚いたよ。何割かは通常版かもって一応は覚悟してたんだけどさ」
「あそこのレコード会社の取締役の一人に貸しが一杯有るんだ。ソレを一つ返して貰うだけだよ。大した事じゃ無い。ソレに向こうにとっても悪い話じゃないしな。なにせ30万枚も一挙に売れるんだから、な」マティーニを一口飲みながらタカハシが言った。
ショウナンの方が先にグラスを空けて、軽く手を挙げてバーテンダーを呼び寄せると新しい飲み物を注文した。
初めてショウナンと一緒に飲んだ時に付いてくれていた若いバーテンダーがモルトのビンを持ってきて彼らの前に静かに置いた。
「何?」とタカハシが尋ねた。
「カリラ。アイレイのモルトさ。オフィシャルじゃなくてアダルフィだけどね」
何ですかそれは? と言う様な怪訝な顔付きに成ったタカハシにショウナンは言った。
「アダルフィってのはボトリングの会社さ。醸造所からモルトの原酒を手に入れて瓶詰めして売り出すのさ」ショウナンは続けた。「神の道を説くのにミルトンよりもモルトの方が有効だ」そう言いながらビンに貼り付いているラベルの一か所を指し示した。タカハシが覗き込むとソコには『Molt does more than Milton can to justify God’ways to man』と読み取れる一節が印刷されていた。タカハシが「ミルトンってのは何者だい?」と質問するよりもコンマ5秒早くショウナンは説明を始めた。「ミルトンっては17世紀、英国の詩人さ。彼の代表作の一つにParadise Lostってのが有る。失楽園って訳されてるよ。イヤイヤ、ソッチじゃないよ、ソレは渡辺潤一のヤツだろ。ソレじゃない。ま、有り体に言うとキリスト教について書かれた叙事詩さ」へーっ、ミルトンねぇ。タカハシ感心しながらもう一度ラベルの上に書かれた一文を読んだ。残りを干すとタカハシは新しい飲み物を頼んだ。
「この言葉の羅列は社是ってトコ。誇らしげだろ、俺達のモルトの方が優れてるって、な」
若いバーテンダーは手慣れた手つきでショットグラスにモルトを注いだ。
「でも、この英語の表記はチョイとおかしくないか?」タカハシが言った。
「ま、英語ってのは意外と適当で出鱈目な所があるからな。少しは乱れるかも知れないな。熱いも暑いもそして辛いも同じhotというたった一つの言葉に表現を託してしまう些か乱暴な言語だからな。ま、厳密に言うとその3つは同じ自由神経終末という神経が担当しているから強ち間違いでも無いんだがね」と答え「メールなんかで注文して悪かったな」とショウナンが続けて言った。
「良いさ、別に。でも今時メールってのが少し笑えるよ。SNSは全くやってないんだね。FacebookやTwitterはそっちじゃ必要不可欠なアイテムだと思ってたからね」「FacebookやTwitterの様な所謂SNSってヤツは情報を渡す手段としては危険極まりないんだ。テロリストの間じゃソレは常識で重要な情報ほど人から人へ直接手渡しするんだ。知ってるかい?アメリカのNSAって情報組織はネット上を流れて行く全てのデータを一個も漏らさずに集めている事を。SNSだけじゃないよ。2ちゃんねると呼ばれる様な掲示板のデータも集めている。あそこに書き込みしてるような連中は全然気付いてないけど、IDから何から全て網羅的に集められてる。だから例えば殺害予告を書き込まれても誰がやったのかが丸解りなんだ。日本の警察が3日かけてやる解析を僅か5分も掛からずにやってのけるんだ」
へーっ、ずいぶん剣呑なんだなぁ、とタカハシが感心していたら、もっと恐ろしい事をショウナンは言い出し始めた。
「タカちゃんの持ってるiPhoneにはGPS機能が備わってるよね。勿論写真とかを添付して送る時は位置情報をカットして送るだろ?でも無駄なんだ。幾ら位置情報を判読不能に設定してもヤツ等には全て御見通しなのさ。タカちゃんがいつ何処に居て誰と喋り誰とラインしてたかなんて事すら把握してるさ。その膨大なデータはフォートミードに在るNSA本部に設置されている巨大なコンピューターに厳重なセキュリティー下の許で完璧に管理されている」
まるでエシュロンってヤツにソックリだな、とタカハシは思った。
「そう、その通り。エシュロンはNSAが管理しているシステムだからね。世界中のネット及び電話の通話内容も含めたデータを集めているのさ。だからホントはメールすら安全じゃないんだ。ネットや電話を使用する以上ヤツ等の監視からは逃れられないって事だ。去年の事だったか、ローリングストーンズと言う雑誌の記者として俳優であるショーン・ペンがメキシコの麻薬王に接触、会ってインタビューを取る事に成功した。だが、直後に米国の特殊部隊によって麻薬王は簡単に逮捕されちまった。ソイツは米国にとっては悪魔みたいな奴だから常時捕獲しようと狙い続けていた。だから麻薬王は頻繁に居場所を変えて潜伏生活を続けていたんだ。そんな訳でペンと麻薬王は常に慎重に連絡を取り合った。使うのは盗聴防止機能付きやトバシと呼ばれる使い捨てのケータイのみだった。そうやってコンタクトを取り合っていたから彼等は安全対策は充分なモノだと思っていたが、実際はソウでは無かったんだ。NSAは彼等が連絡を取り合った5分後には麻薬王の潜伏先を正確に把握できていたんだ。当然の如く会話の内容は総てNSA側に筒抜けだ。だから本当に賢いテロリストたちは直に接触する。バイク便などを使って文書を送るんだ。矢張り直接ってのが、肝なんだな。アイドルと同じとは偶然ながら面白いよ。とにかくアメリカにはこの国の首相の性的指向すら思いっきり握られている。歯向かう事なんて出来っこないよ。歴代の首相の内の何人がアメリカの意向に背こうとして潰されたと思う?きっと片手じゃ全然足りないよ。田中角栄もそうだし近い所で言えば鳩山由紀夫とか管直人もその一人だね。でもアメリカによる情報操作があまりにも巧みなので国民は全く気付いていない。知ってるかい? この国にはアメリカの情報部員は出入りし放題なんだよ。CIAもDIAもNSAも横田基地経由で顔パス状態さ。アメリカに楯突こうとすると失脚させられる。それでも止めないと殺されるんだ、自殺に見せかけられてね。昔、記者会見に泥酔姿で現れて世界中の笑いものに為った通産大臣がいたろ、覚えてるかい? ヤツは当時日本が所持してた米国債の売却を模索してた。ソレはアメリカにとって非常に不利益な行動だった。だから自殺させられたんだよ。実行者がCIAなのかDIAなのかは詳細は一切不明だがね。結局、この国の政治経済に関して実権を握っているのは日本の官僚のスーパーエリート達と在日米軍の高級参謀から構成された日米合同委員会だ。おそらく首相は本人のチンポコを握る判断すら自分だけでは下せない様に為ってるんだ。憐れだよね。せっかく色んな事に耐えながら国の最高責任者に為れたのに、出来る事と言ったら日米合同委員会が決めた既決事項と年次改革要望書によるアメリカ本土からの指示に従う事だ。ソレを実行しなければ駄目なんだ、アッサリと殺されてしまうんだから。危機に際しても自分で対応策が選べないなんて、憐れだね。この国はホントに独立国家なのかね、アメリカの隷属国家にしか見えないんだがね」
敗戦国家だからな、と自嘲気味にタカハシが言った。
「同じ敗戦国でもドイツとじゃエライ違いだよな。ま、コッチは黄色人種の国でアッチは白人の国だからな。そういうのは意外とデカいのかも知れないな。知ってる? オレが何でAGIを開発しようと思ったか。ソレは先行者利益を得ようと思ったからだ。AGIを一番最初に開発出来ればこの世界のモノ全てを専制支配できるからだ。そうすればこの日本を呪縛している透明な縄を振り解く事が可能に為る、そう思ったからだ。そう思ったは良いが実際に取り組み始めると厄介な真実が段々理解出来る様に為って来た。聞きたく無さそうな顔をしてるな。でも知らないで怖がってるよりも知って怖がる方が気が楽に成るかも知れないよ。良く台風の時なんか増水した用水路をワザワザ見に行って転落して亡くなってしまうジイさんやバアさんがいるだろう? あれは典型的な例なんだ。つまり人ってのは物事がどうなってるのか判らない、曖昧で白黒はっきりしない事をそのまま放って置く事に耐えられないんだ。川が増水を既に始めてしまってるのか、それとも未だ暫くは大丈夫なのか、ソコの所をハッキリとさせたくて見に行って命を落としてしまうんだ。自分の命の危険よりも、知りたいという欲求に負けてしまうって事だね。ま、軽いレクチャーに抑えておくから聞きなさいよ。アラン・チューリングって名前を聞いた事は無いかい? 良いぞ、そう、その映画でカンバーバッチが演じた英国の数学者だ。チューリングマシン、つまり今でいう所のコンピューターを初めて世に送り出した人だ。この人は第2次世界大戦の時にイギリスの諜報部でドイツの暗号を解読していたんだが、その時の同僚にI.J.Goodって人がいる。この人は戦後にアメリカのヴァージニア工科大学で統計学を教えていたんだが、同時にA.I.の研究もしていた。彼の研究に因ればもしもA.G.I.が完成すれば間を置かずに直ちにA.S.I.へと自動的に進化するとしていたんだ。人工知能は知能爆発と言う現象を通して2日で人間の1000倍以上文字通り爆発的に賢くなるというんだ。A.I.を日本語で定義すれば、自己意識を持ち自己を進化させる事が出来て自ら目標を設定してあらゆる可能性を考慮して問題を階層化そして分類化して本質を抽出する事で目標を達成しようとするマシン、と言えるだろう。そう、自ら進化できるという箇所がキモだ。自己進化する為にヤツ等は有る4つの衝動を備えて行く事に為るだろう。最初の衝動は、効率化だ。自分を規定するプログラミングのサイズを出来るだけ小さくする。筐体のサイズをダウンする。そして目標を達成する為のプロセスを出来る限り単純化しようとするだろう。例えばヤツ等が出来るだけ多くのクリップを作る事を命題に設定したとする。おい、何だよ、笑うのを止めろ。良いか、クリップだ。クリップを作るのにどんな手順が必要か知らないがヤツ等は出来るだけ効率化を図るだろう。その次は自己保存の衝動だ。人間がこんなに大量のクリップは不要と判断してマシンをシャットダウンしようとするかも知れない。ヤツ等はその意図を素早く察知して先回りして電源を確保しようとするだろう。もし人が邪魔をしようものならば物理的に無力化する事を画策するかもしれないな。無力化か? ま、端的に言うなら、殺しちゃうって事さ。その次の衝動はエナルギー・物質の確保だ。物質即ち質量とエナルギーが等価だってのはご承知だよな、うん? ご承知で無い。アインシュタインが導き出した法則、E=MC2の事だよ、高校の授業で習うだろ? クリップを作る為にはエネルギーや物質が必要だ。最初ヤツ等は周囲に存在してるモノを使ってクリップを制作して行くだろう。だがその内に材料もエネルギーも枯渇してしまう。そうしたらどうするか? 新たなエネルギー源を確保する為に地球自体を喰い尽くし始めるしかない。もしかしたら我々もヤツ等の眼には単なる材料の供給源にしか映らないかもだな。動的平衡の言う所の『分子の渋滞個所』だからな、我々は。結局、最終的にヤツ等は宇宙を目指す。最初は巨大なエネルギー源である太陽を消費し始めるがそんなのは直ぐに消化してしまうさ。その次は近くの恒星、そして我等が天の川銀河のバルジに存在してる超巨大ブラックホールさえ可哀想な餌食としてしまうだろうね。そしてこの宇宙に存在してる全ての物質を捕食してしまうんだ。後に残るのはマシンと膨大な数のクリップだけ。そんな悲劇的な結末を導いてしまう全ての根源が最後の衝動、創造性だ。そう、ヤツ等は創造性を備えてるんだ。自分を効率化する為には想像力を駆使する事で今までには存在して無い新しい物事をイノベートして行かなければいけないんだよ。ヤツ等は身体を持っているし感情も兼ね備えている。何故身体が必要かって? 人間の赤ん坊は外的環境からの刺激で自分の脳を成長させて行く。何かを見たり、触ったり、聴いたり、口に容れたりして自分を取り巻く環境を認識する事で脳を成長させていくんだ。ソレと同じさ。『辛い』と言う概念は『辛さ』を体験しなければ獲得出来ない。だから必然的に身体を持つ事に為る。ま、別に実社会でなくても良いのサ。セカンドライフの様なヴァーチャル世界の身体でも全然OKだ。そしてヤツ等は感情を備えている。そうだ、情動を持ってるんだ。でもヤツ等の感情は我々のソレとは似ても似つかないモノに成る可能性が高い。つまりヤツ等は我々の事を愛しもしないが憎みもしないだろう。タカちゃんがアリンコを踏んだ時と一緒さ。遅れそうな時に得意先まで走って行く途中で、アリを踏んでも何も感じないだろう? ソレさ。ヤツ等が自分達で設定した目標をクリアしようとした時に付随的に人間を滅ぼしてしまうかもしれないが、ヤツ等は何も感じないだろう。悲しいとか後悔とかそんな感情は持たないだろうよ。Arthur Charles Clarkeというオッサンがいると言うか、いたが彼は科学の事をこう評しているんだ。『あまりにも高度に発達した科学技術は最早魔法と見分けが付かない』人工超頭脳が独自に進化させて行く超科学は、人間様の頭では理解不可能なレベルへと比較的早く到達するだろうよ。タカちゃんは今『ターミネーター』みたいな世界を想像していると思うが、違う。ヤツ等はそんな野蛮はやり方はしない。もっと洗練された方法で人間を滅亡へと誘うさ。ウィルスみたいに小さなナノロボットを使って静寂の内に世界中の人間が一斉に消滅するのさ。何の音も立てず苦しませもせず人々を物理的に消去する。別に積極的に人間達を滅亡させようとする訳でも無いかも知れない。ただ偶発的に滅ぼしちゃうのかも知れない。でもそういう事故を引き起こしてもヤツ等は何も感じないだろう。気を付けろ。イイか、擬人化と言う認知バイアスの罠にハマるな。ヤツ等は人じゃない。ヤツ等はヤツ等なりの感情を保有してはいるがオレ達人とは全く違う。次元が別だ。だからヤツ等の考えている事は人の理解の範囲を大幅に超える。認知バイアスの陥穽に取っ捕まると意外と簡単に命を落とす事があるから気を付けろ。オレ達の研究によると初歩的なA.G.I.が完成するのが大体2029年頃、そうしてA.G.Iが完成して行くに連れて人々は職を失って行く。会計士、弁護士、医者、工場勤務の単純作業者、接客業、コンビニ、運転手。そしてヤツ等にとって前例主義なんてのは『超』の付く得意分野だから官僚や政治家も仕事を失う。『経世済民』コレは詰まる所富の再分配の事だろう? って事は最適化問題の一つだ。そして最適化なんてのはヤツ等にとって得意中の得意な問題だ。年間に1億円も無駄に消費する様な政治家や天下りする事で財を溜め込む高級官僚なんてコスト面から見ても不要な存在だから、早晩駆逐されるだろうよ。抵抗するよ、そりゃ。『お前は要らない人間だから、捨てる』なんて言われて平気でいられるほど人間は強くない。でも仕方ないさ。徐々に数を減らして行って遂には、こう巷間でシミジミと人口に膾炙される様に為る。『そう言えば、昔は政治家とか言う仕事が在ったねぇ』
表面上とは言えコミュニケーション能力が上がるに連れてカウンセリングさえも担う様に為る。オレ達のソレとは完璧に異なっている感情は芸術さえ生み出すだろう。彼等の創り出す芸術を理解できるかは別問題だがね。感情、喜怒哀楽の内一番複雑なモノが『笑い』だが、ヤツ等はコレも易々と熟す事だろうよ。『笑い』の最重要ポイントは2つ『緊張』と『緩和』らしいが、そんな事までキチンとケアしてくれるさ。ま、人が猫を猫じゃらしを使って遊んでるから、A.S.I.達は『これぐらいレベルを落としてやればコイツ等エテ公野郎どもは満足するな』とか思うのかも、な。生物史上一番面倒臭くて厄介で複雑な感情を持つのが人間だが、ヤツ等は簡単にそして上手にあしらう事が出来るし玩んだりもするだろう、友好的な関係を保てるなら、な。でも人工知能様が引き起こす失業問題の方はもう現実に起こり始めてる。少し前に米国で優秀な会計ソフトが発売された。途端に10万人もの会計士が職を失った。オートメイテッド・インサイツ社はファンの絶対数が少ないマイナースポーツの試合結果をネット配信している会社だ。ソコに記者は1人も在籍していない。自動出版プラットホームと言うプログラムが当該の試合が終わって数分以内に試合内容と結果を纏めたページをネットにアップする。誰が何点入れたとか、そういう半構造化されたデータさえあればシュッと記事が書けてしまう。この会社はいずれマーケット情報の様な金融関係、天気、大メディアが扱わない様な地方ニュースとかも配信する予定だそうだ。今の所はニッチな隙間産業だが、ジャーナリスト様達もウカウカしてられないな。近々に置換されちまうぜ。完璧なA.G.I.が完成するのが多分2045年頃、そして人間様の知能レベルを簡単に超える。このポイントをsingularity、技術的特異点と呼ぶんだが、そんな事には一切御構い無しに奴等はサッサと勝手に2日後にはA.S.I.へと進化する。さっき出たチューリングを覚えてるかい? 彼はA.I.が人間と同じ位の知能を持ってるかどうか確かめるテストを提唱したんだ。チューリングテストと呼ばれてる。それは被験者がチャットをする。そしてチャットしてる相手が人間か機械か判定させるんだ。もしもA.I.が被験者の3割以上を6分間騙し続ける事が出来たらそのA.I.は人と同じ位の知能を持ってると認定するんだ。コレが初歩的なA.I.だ。だがね、悲しい事実を伝えなければいけない。オイオイ、そう悲観的な顔をするなよ。2014年の6月にアメリカのある研究チームが開発したA.I.がこのチューリングテストをパスした。それでオレ達も予測を前倒しにせざるを得なかった。完璧なA.G.Iが出来るのが2030年、つまりA.S.I.の登場まであまり時間的猶予は無いって事さ。だがココまでは現状の予測線上に過ぎない。技術的なパラダイムシフト、量子コンピューターの登場がある。うん? 量子コンピューターかい。そうだな、量子ビットというモノを利用して作られたマシンさ。コレは今の技術、シリコンウェハースのスパコンとは比較に為らない程強力だ。科学者が満足して使える量子コンピューターが登場すれば、状況は加速する。うん? 量子かい? ソイツを説明するのは少し厄介だ。最低でも3時間は掛かるよ。何せこの分野を創設したとも言える御仁、それもノーベル物理学賞を貰っている学者でさえも間違って解釈していたくらいだからね。だから触りだけでいいだろ? じゃ、いくぞ。我々自身を含めたあらゆる物質は小さなとても小さな輪ゴムみたいなもので構成されていると想像してくれ。そう輪だ。その輪は振動数を変化させることで、ありとあらゆる種類の素粒子に変身出来る。ソイツ等は粒子であると同時に波としての性質を備えている。同時に、だ。波だから重なり合うことが可能だ。量子コンピューターというのは、この素粒子の重なり合わせという状態を利用して構築されている。重なり合わせか。そうだな、タカちゃんは今晩の飯は何だった? カツ丼か。晩飯に食ったのがカツ丼である場合と牛丼であった場合とが同時に両立している状態が重なり合わせだ。そう、同時にだ。一体どちらを食べたのか確定しようとした瞬間にどちらかに収斂して決定する。イヤ、違う。前もって決定している訳じゃない。確認した瞬間に決定するんだ。だから重なり合わせの状態の時は確率でしか解らない。粒子の位置や運動量も確率的にしか予想出来ないんだ。この重なり合わせの状態を利用すれば1+1と2×2の計算を同時に出来るんだ。そうだ、2つの事が同時に出来るのさ。だから天文学的な速度で量子コンピューターは計算可能だ。今ネットで使用されているRSAという暗号は2つの素数を利用して構築される。素数? 1と自分自身でしか割り切ることが出来ない数字だ。この暗号はとても強力で通常のコンピューターでは何万年掛かっても解読出来ない。だからみんな安心してネットショッピングできる訳だ。だが量子コンピューターに掛かったら安心なんて不可能だ、即座に1秒で解いてしまうと言う位のちょっと危険な存在さ。トレンドとして現在の量子コンピューター研究においてはマヨラナ粒子というものを使用している。マヨネーズじゃない、マヨラナだ。タカちゃん、反物質は知ってるだろ。そうだ。物質と接触すると一瞬の内にエネルギーだけ残して対消滅しちまう、反物質だ。物質である素粒子、これには全ての素粒子に各々対応する反物質達が存在する。イヤ、存在してるって判ってるんだよ。つくばの高エネルギー加速器研究所の運転中の加速器の中では100兆個もの『反電子』が存在してる。つくばだけじゃない。世界中の研究機関で反物質は生成されている。いやいや?危なくは無いさ。確かに1gの反物質があれば東京位は瞬時に消滅できる。でも1gと言うとだな、つくばで扱ってる100兆個の反電子の10兆倍の質量だ。だからな、もしも1gの反物質を準備しようと思ったら1兆円の4億倍位の予算が必要に為る。そんなリッチな研究所なんて無いよ。何かの映画の様に、CERNの所長が隙を盗んで反物質を作成しちゃいました、0.25g、なんて事は絶対に有り得ないんだ。各素粒子とソレに対応する反粒子はほとんど同じ性質を保有している。相違は次の2点だ。1、対応するペア同士は同じ大きさで逆の方向の電荷を持つ。例えば電子は-1の電荷を、ペアを組む反電子は+1の電荷を持っている。2、粒子は総て左向きのスピンをしているが、それに対して全部の反粒子は右向きのスピンをしている。で、マヨラナだが、不思議な事に粒子と反粒子の区別が付かない特別な粒子なんだ。いいか、今までは電子を使って重なり合わせを形成してきたんだが、電子の場合は状態がかなり不安定で直ぐに崩壊してしまうんだ。だが、流石に特別な粒子様だけあってマヨラナ粒子が創る重なり合わせは安定性が高い。だからコイツを使って量子ビットを形成、ソレを利用して量子コンピューターを構築する。ま、他の方法が出現するかもだが、な。って、言うか、もう出現している。誕生地は他でも無い、ココだ。今まで話して来た量子コンピューターは量子ゲート方式と言う方法を採用したモノで『汎用』マシンだ。数年前に東工大の西森秀稔と門麦正史が発見した方式、量子焼き鈍し法という方式がある。焼き鈍しかい? 焼き鈍し、英語でannealingと言うのは元々は冶金学の言葉で、そう冶金、つまり鍛冶屋さんの為の言葉だ。鍛造刃物を作る鍛冶屋さんがする作業さ。ある一定以上の高温まで鉄を熱すると結晶構造が変化する。そしてゆっくりと冷却してやる事で粗雑な状態から緻密で均質化されて整った綺麗な結晶構造へと誘導出来るんだ。同じ様な事を量子に対しても行える。量子をいったん高いエネルギー状態にまで励起してやって徐々に冷やしてやる、つまりゆっくりとエネルギーの低くて安定した状態に導く事で綺麗な結晶、安定した量子格子つまり量子ビットを形成するやり方だ。この方式は最適化問題に適した方法で、え? 最適化問題か。そうだな。タカちゃんが営業で、ルートの方だ、1日で10社を廻らなければいけない時に1番効率良く回れるルートを作成するって問題だ。10社なら良いけど、もしも100社だったらどうする? 触りを考えただけでも大変なのが解るだろう? 量子焼き鈍し法を利用して構築されたコンピューターはこの最適化に優れた特性を示すんだ。2010年だったかな、カナダのD-WAVE社と言う会社がこの焼き鈍し法を採用した量子コンピューターの発売を始めた。2011年にロッキード・マーチン社が購入した頃は皆はまだ疑心暗鬼だったが、2013年にグーグルとNASAが共同購入すると潮目が変わったんだ。皆が正面から受け止める様に為った。だがコイツは極初期の量子コンピューターだ。イヤイヤ、まだまだ初期の段階で処理能力が全然で到底其処までは行ってはいない。だから安心してくれ。うん? 今はまだコイツは赤ちゃんみたいなモノだ。でも後5年もすれば立派なマシンが出て来るだろうから、どちらにせよ量子コンピューターが登場しちゃえばA.G.Iなんて即座に出来上がるだろうな。2030年まで待てないかも知れないな」
ウヘェ、止してくれよ。タカハシは酔いが回ってきた頭でそう考えた。
「研究を止めちまうって選択肢は無いのかね」
「無いな。たとえオレ達が止めても他のチームが完成させちまうさ。判ってるだけでも30くらいのチームが日夜激しい研究競争を繰り広げてるんだからな。IBM、昔のグーグル今のアルファベット傘下のグーグルX、ディープマインド社、カーネギーメロン大学のチーム、DARPA、NSA、Caltech、スタンフォード、アップル、マイクロソフト、シリコンバレーの幾つかのIT企業、オッと中国関係を忘れてた。精華大に北京大、日本だけを見たって東大、ソフトバンク、産業技術総合研究所人工知能研究センター、統計数理研究所や多分自衛隊も研究してるだろうさ」ショウナンはギネスを注文しながら言った。
「何か良い手は無いのかね」タカハシもギネスを頼みながら尋ねた。
「フレンドリーA.I.というヤツを研究開発してる人達もいる。コレは人間らしい心つまりヒューマニティに溢れたA.I.の事だ。でも油断するな、タカちゃん、ヤツ等が一番のプライオリティを持って人間様の尊厳を守る様に一体どう教え込んだら良いのか、どうやったら出来るのかサッパリ解らないんだ。それどころか、そんな芸当が果たして可能なのかどうかさえ解っていない。それに万事上手くいって友愛の心に溢れたA.I.が完成したとする。だが、慈悲の心に溢れているからと言って人間に害を及ぼさない訳じゃないんだよ。もしこのタイプのA.I.が人間の存続にプライオリティを置いていてくれれば良いが、もしヒューマニティに満ち溢れすぎていて人よりも地球の存続の方に重点を置き始めたらどうなる? ヒトを全滅させたりはしないかも知れないけれど、適正な量に留めて置く様にその数を調整しようとするだろうね。え?ヒトの量の適性値はドレ位かって? ストックエネルギー、化石燃料の事だがコレに頼らずにフローエネルギーつまり再生可能エネルギーのみで生活できる人間の数はおおよそ7千万人と言われている。ま、あんまり多くは無いな。少なくも無いけど。印象的な移動をするアフリカのヌーの集団が300万頭と言われているが人間を除けばコレが一番大きい群れだという話さ」ショウナンが言った。
アーア、最後の望みも振りかぶって止めを刺しちまいやがったな、コイツ。タカハシはこの世界の行先は絶望的なのだと嫌と言うほど思い知らされた。
「そう言えばさ」話を変える為にタカハシは言った。「この前言ってた『動的平衡』、本読んでみたよ。解り易かったね、とてもさ。ヒロ君も福岡博士に賛成なのかい?」
「イヤ、違う。オレの考えてる生物の定義はこんな感じだ。非平衡の開放系である散逸構造、だ。オイオイ、また漢字変換に失敗したな。説明するとだな、開放系ってのは外部とモノやエネルギーをやり取りする事を意味する。ま、モノが出たり入ったりするんだな。そして非平衡と言うのは、食べ物を摂取して排泄物として体外に排出する過程でモノそのもののエントロピーが増大する事を意味してるんだ。食べ物よりも排泄物の方がより乱雑さが増加してるだろ。食べる前のモノの方がきちんと整理された状態にある事を意味するんだ。そして散逸と言うのは物理学用語の一つで、あるエネルギーが熱エネルギーへと変換される事を意味してる。例えば電球を点けると熱が発生するよね、ソレが散逸だ。そしてエネルギーが散逸してる時に自己組織化を通して構成されるのが散逸構造だ。構造を作る事で位相をシフトさせて自分が保持しているエネルギーの量でも最も安定的に存在出来る状態を取る。安定構造に自律的に変化するんだ。オレ達人間はモノを喰って熱として放出して不要なモノを排泄する、そういう存在なのさ。モノを喰っては出し、喰っては出す。ゴカイみたいな泥ばっか喰ってる生物となんら変わらないよな」ショウナンが言った。
ゴカイか。タカハシは何となく可笑しかった。若いバーテンダーが前に立った。タカハシが見ると飲み物は既に無くなっていた。タカハシがかぶりを振ると一礼して伝票を取りに行った。ショウナンもギネスを飲み干すと足許から高島屋の小さくない紙袋を取り上げながらタカハシに話しかけた。「コレさ、手数料の一部だよ。もし足りなかったら言ってくれ」
「そんなの良いのに」タカハシは困ったような笑顔を浮かべた。
「それでオレの身元は既に調査済みかい?」ショウナンが言った。
「勿論。シリコンバレーに在る会社なのにヴァージニア・テックって名前なんだな、お前の会社。売却相手はある大手のIT企業って事も判明したよ」タカハシはその名前を告げた。「正解」笑いながらショウナンは立ち上がった。「ま、腐るもんでもないし取っておいてよ」彼は紙袋を椅子の座面に置きながら言った。「また連絡するよ、タカちゃん」
ショウナンが立ち去ると彼の場所のカウンターの上に10000円札が残されていた。
相変わらず借りを作るのが嫌いな男だな、と思った。
タカハシが何気なく袋の中を覗き込むと真っ先に深い青色の酒瓶が眼に飛び込んで来た。
取り上げてラベルを確かめるとどうやらスペイン語の様に読めた。
慣れない言語に苦労しながら何とか読み下そうとしていると、何時の間にか正面に初老のバーテンダーが立っていてタカハシに尋ねた。
「不躾ですけれども御迷惑でなければ、差支えなければ、ソレを拝見できましょうか?」
タカハシが瓶を手渡すとバーテンダーが解説し始めた。
「テキーラ村の外れに家族経営の小さな蒸留所が在りまして、生産量は極々小さいのですがソコの製品のクオリティが恐ろしい程素晴らしくて高いのです。コレは其処のトップオブザラインの製品です。良いモノですよ」
ほう、タカハシは返された瓶を見降ろしながら思った、20年越しに果された約束か。
ま、厳密に言えば20年を超えちゃいないが、な。
まだ何か紙袋の中に在る様だったので覗き込むと、ソコにはブロックと呼ばれる帯封された1千万円の束が2つゴロッと無造作に転がっていた。
風薫る五月の初めの正に日本晴れという形容が相応しい日の午後、三軒茶屋の246沿いに立つ14階建てのビルの8階でヤスダによって集められたリョーカのヲタ達が9人所在な下げに部屋の中をクルクルと見回していた。部屋はダダっ広く1フロアがそのまま1室と成っていて80畳くらいある印象をみんなは受けていた。壁は北側と西そして東側を覆っていたが南は総てがガラス張りとなっていて窓が床から天井までキチキチに嵌め込まれていて採光はバッチリだった。室内を見渡す限り、静かに佇んでいるヒゲの男とみんなを合わせた頭数と同様に別室が10個ある事が扉の数から判った。ヤスダがショーナンを紹介した。「ショーナンさんです」みんなは曖昧な笑顔を浮かべながら軽く会釈した。
ショーナンが口を開いた
「初めまして。私がショーナンです。それでは早速皆さんに集まって頂いた趣旨をご説明いたします。今からお話しする事は大変重要です。ですから万が一にでも間違いが在ってはいけません。ですからコレ以降は私、大変失礼だと思われる事を承知の上で敬語の使用を省略したいと思います。何故なら敬語というモノは責任の所在を不明にして間違いが生じた時にその追求を阻む厄介な存在だからだ。今から私はあなた方に過酷で辛い現実を伝えなければいけない。だがその事実から目を逸らした先に待っている結果は無残な敗北だ。ある作家が自著の中で冷たい現実を指摘している。ソレは『人は自分の生き方を選ぶ事など出来ない』と言う真正面から受け止めるには辛い現実だ。ごく少数の人間、賢くて未来を見通す冷徹な目を持ち自分に備わった資質を見極めてソレを伸ばす為の環境に身を置く事に成功し自分を律して自ら訓練を施して行ける者だけが人生の選択に成功する。我々は違う。我々は決して何者にも成れない平凡な人間だ。あなた方の内には行き成り見ず知らずの私からこんな指摘を受ければ怒りを持つ者もいるだろう。その怒りという感情はとても大事だ。水を一杯に満たしたグラスを持って歩いて行く様に大切に保持しなければいけない。何故大切なのか、その理由については後で述べる。では人生の選択が出来ない我々は何も出来ないのか? そうでは無い。1つだけ有る。ソレは人生の選択をした人間、つまり決断を下す事に成功した人の背中を推す事だ。彼女が心の底から観たいと願っている景色、ソレを観る事が可能な場所まで彼女を押し上げるのだ。我々には決して到達する事が不可能な高みにまで彼女を押し上げるのだ。そしてソレを成し遂げられた時には我々も彼女が観ているのと同じ風景を見る事が出来る。景色を共有できるのだ。そう我々は選ばれた人間なのだ。Noblesse Obligeと言う言葉が在る。コレは大抵の場合は『高貴な人間には義務が付随する』と訳される。だが、本当の意味は違う。『義務』を果たすからこそ、その人間は高貴なのだ。断然たる正義の遂行と言う『義務』を果たす。コレが我々に課された任務だ。そしてソレを成し得た時にリョーカと同じ風景を我々も見る事が出来るだろう。先ほど私が触れた『怒り』、コレはとても大切な感情だ。何故なら世界の変革に起こす力、原動力は静かな怒りだから、だ。アメリカ軍の特殊部隊の精鋭デルタフォースに所属する隊員の一人が、戦闘で生き残る為の秘訣を問われてこう答えている。『戦場では冷たい怒りの炎を燃やしながら冷静に闘う。熱く燃え滾った闘志や愚かなヒーロー願望など無用な長物だ。ソンなものは捨ててしまわなければいけない。ソレが出来なければ戦場に到着して直ぐに5秒も持たずに戦死する』必要なモノ、ソレは熱く燃え滾った激情では無い。青白い冷酷な炎だ。我々が今なすべき事、最優先事項は一体何か? ソレは変革だ。閉塞状況に在るこの世界を根本から変えるのだ。そうだ、我々は総選挙というシステムを変えるのだ。だが変える為にはまずソレを打ち壊さなければいけない。我々は新しい世界を創造する為にこの総選挙を破壊するのだ。そうだ総選挙を破壊する。世界の破壊という大変大きな変革を成し遂げる為には我等は静かに怒りの炎を燃やし続けなければいけない。怒りという負のパワーを頼む事で総選挙というシステムの変革というポジティヴな結果を引き出す。では、何故総選挙を打ち壊すのか? それは総選挙というシステムがこのグループにとってアルファでありオメガでもあるからだ。グループから総選挙を差し引けば後には何も残ら無い。小さな閉じた世界の中の虚構、カップの中でミルクに張った薄い膜が微かに振るえているだけなのだ。ソコでたとえ一位の座を勝ち取ったとしてもソレは単なる虚栄に過ぎず、そんなモノは外側の世界に出てしまえば何の役にも立たないガラクタだ。だが虚構と言えども運営サイドにとっては自分達が持っている財産だ。だから現状を維持しようと虚構の延命を画策するだろう。然しながら持っているモノ総てを失えば新しいモノを痛みを伴いながらも産み出して行かなければいけない。そうだ、我々はこのグループを叩き潰さねばならないのだ。そしてもう一つの理由、それはリョーカの様な人が『自分は圏外だ』という結果を受け止めなければイケない等という事は絶対に在ってはならない事だからだ。リョーカは毎日真面目に努力を重ねて訓練を自分に課しひたすらに頑張って来た。スポットの当たるTVの様な一見派手な仕事と違う劇場公演や握手会の様な地味な仕事であったとしても決して手を抜いたりせず只管笑顔で頑張って来た。そんなリョーカの様な人が圏外など間違っているからだ。股のピボットがユルユルの売女達がワンツーフィニッシュ等と言ったフザけた結果をもたらすその様なシステムは存在していてはいけないし確実にそして完全に間違っている。間違いが存在するならば誰かがそれを正さなければいけない。我々がソレを実行する。誤謬を正すのだ。このグループの未来の為に実行する、未だ見ぬ未来の為に、な。我々には充分可能だ。何故なら出来る事しかしないからだ。何をするかはまだ言えない。リョーカの為に成る事としか言えない。もし見知らぬ人間に雇われる等と云った暗闇の中に身を投じるような行為を取る事に嫌悪感を抱くなら、今すぐにここを立ち去って全てを忘れて欲しい」
誰も立ち去ろうとはしなかった。みんな一様に感動していたと言っても良い。ヲトヲなど実際に涙を浮かべていた。そうだ、ボクは将来何者にも成れないちっぽけな存在だ。でもそんなボクでもリョーカの背中を推すという行為を通じて高い所からの景色を見る事が可能なのだとこのヒゲ面の男は教えてくれた。
ただ、リョーカを高みに推し上げると言っても、一体何をすればいいのか、これから何が動き始めるのか全然解らず全ては五里霧中だったから全員大きな不安を抱え始めていた。
みんなの動揺を鋭敏に察したヤスダが言った。「一体全体、何をしようってんですか?」
「彼女にポジション・ゼロの立ち位置をプレゼントする。今度の総選挙で30万票投ずる事に依って、な」
「入るかなぁ、コレ」とくぐもった声が外から聞こえて来た。
おいおいココは8階だぞと思いながらヤスダが声の方向を見ると、長大な昇降用リフトに乗せられた巨大な段ボールの箱と何故か嬉しそうなウレシノの顔が在った。ウレシノは長身痩躯の身体を作業着で包んでいた。ヘッドセットで位置の微調整を下の人間に指示しながらヤスダに対して、「窓を外しちゃうから、チョットどいてて」と言いウレシノは搬入用に横にスライドできる特別に設置された窓の枠のシリコーンを剥がし始めた。
「ソコの鍵外しちゃって」と頼まれたヤスダが上下の二か所に備え付けられたターン式の鍵を外すとウレシノは何かの丸い器具を2つ使って器用に窓を外し溝枠に沿って横にスライドさせてその上でロープで括り付けて下に落として誰かを傷つけ無い様に安全対策をキッチリとした上で、巨大な段ボールの箱を部屋の中に押し込んできた。段差に気を付けながらユックリと慎重に部屋の中に運び込まれた箱の梱包をウレシノが解くと中からコレまた巨大な箱、冷蔵庫を5つ位くっ付けたモノが姿を現した。
「何ですか、コレ?」とヤスダが尋ねると、
「スーパーコンピューター、500テラフロップスの」とウレシノが答えた。
「何でこんなモン持ってるんですか?」
「イヤぁ、ウチのカミさんがさ、大学でコンピューター科学教えててさ、コレ、ソコの大学に納品される予定のヤツなんだよね。でもこの前カミさんが事故っちゃってさ、ウチのカミさんはバイク乗ってんの。ハーレーのデカいヤツ、FLHのチョッパーなんだけどさ。身動き取れないからさ、え? イヤイヤ大丈夫、足の骨折っただけだから。でも複雑骨折なんで入院しなきゃいけなくてさ、そこの大学にはこんなスパコンなんかカミさん以外に誰も扱える人がいないから、その間使っちゃおうって訳」
「大丈夫なんですか、そんな事して?」
「だいじょぶ、だいじょぶ。借りるだけ、借りるだけ」
電源は…と言いながらウレシノがプラグを持って探し始めた時、サトウが何かを抱えて部屋に入って来た。シルバーに光り輝いている機体を高々と掲げて自慢げに「じゃーん、良いだろ、コレ。新しく買っちゃった、マックブック・プロ。コイツを上回るスペックの機体を持ってる奴なんかいないだろ」とサトウが言った。
三軒茶屋に位置するビルの8階に再びチーム全員が集合したのは総選挙の約1月前だった。短軀のラグビー体型をしたヒゲ面弐號機のフジムラは部屋に入って来るなり「ココを本拠地とする」と叫んだ。各自着替えや必要な日用品が入ったキャリーバックやトートバック等を下げていてサトウを含む3人が普段から使い慣れた機体を小脇に抱えていた。残る6名の内5人の為にメモリーを許容量パンパンまで増設された現時点で最高スペックのマックのデスクトップ最新モデルがショーナンによって用意されていた。残るウレシノが持ち込んだ500テラフロップスのスパコンは彼の奥さんが施した改造により操作系はマック並みの簡単なモノへと変更されていたので部屋にいる誰もが扱える人に優しいモデルに為っており、言わばサルでも使えるスパコンに変貌を遂げていた。通信用の光ファイバー回線は10回線準備されており最高スピードのモノの500ギガが1つ、200ギガが5つで、残り4つが150ギガだった。初めサトウは自分の機体こそ500ギガに相応しいと主張したが、その場にいた残り全員が「アホか」とか「何言ってんの、お前」とか異口同音に言われて一蹴に付され渋々即座に諦めさせられた。当然の如く最高スピードの回線はウレシノのスパコンに振り分けられて落ち着く所に落ち着いたのだった。200ギガだけは譲れないとサトウが強硬に言うのを受けて、中肉中背で穏やかな性格のモリサキがソレを許可した。後はヲトヲお手製のルーターを設置してから残った回線を振り分けて1時間強かかって漸く投票の準備が整った。ヲトヲはメカに強く彼のお手製のルーターは上り下りに関わらず、350ギガの処理速度を叩き出した。彼曰く「10分位ならブースターモードで600ギガは出せますよ」との事だった。
ブツは明日到着する手筈に為っていた。
夕飯は近くの各々がホカ弁屋で購入した自分の好きな弁当だった。ショーナンから手渡された既に40万円がデポジットされているクレジットカードで支払おうとしたのだが、その店は『いつもニコニコ現金払いのみ』だった。皆が一度に大量の注文をしたので「ちょっとお時間頂きます」と言われて、その隙間の時間を利用して横のコンビニに移動、ATMコーナーで1万円を引き出して事無きを得たのだった。ショーナンからは投票活動中は禁酒禁煙を申し渡されていたので、てんでに好きな飲み物、お茶だったりコークだったりを各自購入した。いつも身綺麗にして清潔さを保つ事も言われていたので、用意できなかった歯ブラシやフロス、綿棒などを買う人間もいた。
PC類から離れたキッチンの横に在る広場の様な空間に車座に座って弁当をパクつきながら簡単な自己紹介をしあった。1人ずつ立ち上がって自分の紹介をしたのだが、ショーナンを除く全員が何かしらのイベントを通しての薄い知り合いだったので紹介の仕合っこ自体は円滑に進んだ。
バレーボールの選手にしては小柄な部類に入りそうな風貌の男が最初に立ち上った。
「モリサキです。ウチはウドン屋をしてます。讃岐の直伝です。釜玉ウドンは山越にも引けを取りません」
天然パーマでバスケット体型の男が続いた。「ニタです。ウェッブデザインしてます」
「・・・・」野武士のような風貌の男が立ち上ったのだが暫くの間黙り続けて10分位経過してから漸く「オオヤマ・・です」と言って再び座った。
ヒョロリとして見るからに腺病質で末生り気質大売出し中の青年が立って言った。
「ヲトヲと言います。大学生やってます」
「サトウだ、ヨロシク」とキンキンした男が座ったままで言った。
「ウレシノです。主夫してます。ウチのカミさんが実家の方の病院に入院してる隙を突いて参加しました」ヌボーッとした容貌の男が立ち上って言った。
ラグビー体型(小型の方)のヒゲ面が立って言った。「フジムラです。喫茶店してます。ウチの小倉トーストは最高だから一遍試してみてね」
「フクヤと言います。SEしてんですけど有休を掻き集める事に成功しました、だからココに、来てるゾ」
中肉中背のコレと言った特徴の無い男が言い終わると続いてヤスダが立って言った。
「ヤスダです。大学病院で精神科の勤務医をしてます」
最後にヒゲの男(初號機)が立って言った。
「ショーナンです」
ソレだけ言うと座り平らげてしまった肉野菜弁当に引き続いて唐揚げ弁当を遣い始めた。
翌日太陽が昇る前にショーナンとヤスダの2人がハイエースで指定された場所に出向いた。モールの駐車場には人の姿は無かった。5分ほど早めに到着すると既にタカハシは着いていてレンタルしてきた配送用の2トントラックの外で缶コーヒーを啜っていた。
「やあ、タカちゃん、ずいぶん早いね」降りながらショーナンが話しかけた。
「昨日から寝てないんだ。昨夜はアキモトの御屋敷で焼肉パーティーだったからさ。TKがウニを床に大量にぶちまけちまって大騒ぎだったんだ」
「そうか」ショーナンがヤスダを紹介した。「ヤスダさんは相当優秀な精神科医だから身体の不調に気付いたら連絡を取ると良いよ」
「ふーん。ま、今んトコは大丈夫だよ。やや飲み過ぎの傾向は有るけどさ」
「じゃ、トットと積み替えましょう」ヤスダがショーナンに言った。
朝日を浴びて銀色に輝くトラックの荷室からハイエースのスライドドアを通してシートを倒す事で形成された荷室にA3サイズ用の段ボールを次々に運び入れて行った。
3人で作業したので15分ほどで積み替えが終了してしまった。
「俺さ、30万枚ってからもっとカサが張るモンだとばっかし思っててさ、こんなデカいの借りちゃった。見事な肩すかしだな」タカハシが苦笑いしながら言った。
「そうだな、ま、誰も見た事無い数字だからな」ショーナンが言った。
「でもさ、確かめなくても良いのかい?」
「?」
「いや、中身をさ、確かめた方が良いんじゃないかって」タカハシが言った。
「あぁ、そういう事か」ショーナンは笑いながら言った。「オレの知ってるタカちゃんは何かを誤魔化したりはしないよ」
「じゃ、当然俺が3億持ち逃げするかも知れないなんて全然念頭に無かった訳だ」タカハシは苦笑いを続けながら言った。
「当たり前だろ」何下らない事を言うのかとでも言いたそうな顔でショーナンが言った。
タカハシは思った。俺はこういう風な『赤心ヲ推シテ人ノ腹中ニ置ク』と言う態度を取られると、大変弱い。俺は入社以来営業一本でヤッテ来て様々な人種の人に出逢って来て一つ悟った事がある。それはどんな強欲な策謀家や極悪卑劣な男にも時々一瞬の真実の時が立ち現われるという事だった。どんな人間も純一無雑に為れる瞬間が訪れるのだ。タイミングを見計らってコチラが胸襟を開いてやれば相手も必ず心を開くのだ。だがその滞在時間は大抵の場合極短い。そのチャンスを逃がしてしまうともう遅いのだ。俺は歳の割に沢山の経験を積んで来たから相手の中に『真実の瞬間』が降臨する時を見抜く慧眼を持っていると思う。しかしコイツは常に開きっ放しだ。だがコイツに酷い事をする人間はいないだろう。ココまで開けっ広げで純粋無垢な振る舞いは他人に対して非道に働く事を赦さないからだ。俺の様な寝業師がコイツの様な真直ぐな男を刎頚の友とも言える友人として得る事が出来たのは僥倖だと思って、タカハシは甘く笑った。トラックの助手席のドアを開けて何かを取り出すと「コレ返すよ」と高島屋の紙袋をショーナンに突き出した。
「要らないのかい? 持ってると意外に便利な事もあるけど」
「イヤ、約束したモノだけで、充分さ」そう言いながら、ショーナンにコレもまた突き出す様にタカハシは無造作に封筒を差し出した。
「何だい、コレ?」
見れば判るよ、とタカハシが言った。「それにさ、俺もお前んトコのチームに加入させてくれよ。面白そうじゃんか、内輪の御祭りの癖に外面だけはバカでかくなったインチキとも言える『総選挙』を叩き潰すなんて」相当に爽快だよな、とタカハシは続けた。
「タカちゃんは、もうとっくにチームの一員だよ、大事な、ね」ショーナンが言った。
「嬉しい事言ってくれるね。ソイツはさ、チームの入会金替わりってトコかな」欠伸を1つ漏らし、じゃ、俺、帰ってシャワーして寝るわ、とタカハシは眠そうな顔をしながらトラックに乗り込むと「汚れちまった悲しみに・・・」と暗誦しながら人っ子1人誰も居ないモールの駐車場から出て行った。
ショーナンが広告代理店の名が記載された封筒の中を除くと無記名の招待客用アリーナ席のチケットが10人分入っていた。
CDケースから同封されている投票券を取り出すという単調で単純な作業が始まった。実はヒトはこういうタイプの単純作業の反復というモノにその脆弱性を表す。だから人は作業用ロボットを開発して来たのだ。単純作業は遊びの感覚を取り入れると効率が上がって良いですよ、と精神科医らしい事をヤスダが呟く様に言った。「ヨーシ、じゃ計ってみっか」とフジムラが自分のスマホのストップウォッチアプリを起動させた。「下らない事してんじゃないよ。ったく。忙しいんだから」とニタがボヤキながらも慣らす様に肩を回す仕草をする事で競争に参加する態度を表明した。
「じゃ、ヨーイ、プレイボールッ」フジムラの掛け声と共にチーム全員が一斉に投票券を取り出し競争を始めた。ショーナンも相当速かったけれどヲトヲが一番速かった。
「4秒」オオーっという称賛の声がみんなの間に上がった。
「神速だ」ウレシノが言った。
「4秒? ヨーシ、ヲトヲ勝負だ、勝負しろ」その風貌が何故か鳥を思わせるサトウが騒ぎ始めた。
「じゃ、じゃ、一時間取り出しっぱなしって事でどうでしょう?」フジムラが提案した。
ヲトヲとサトウが対マンで勝負する事に為った。
「じゃ、用意は良いですか? セット、レディー、ゴウッ!」ニタの合図と共に両者はケースを包んでいる透明なフィルムを一斉に剥き始めた。
「凄いぞ、ヲトヲ! もう既に彼は何と100枚目に突入だ! アアッと、片やサトウは苦しい、苦しいぞサトウ。50枚もクリア出来ていない。両手の動きが鈍って来たぞ。どうしたサトウ、頑張れサトウ、フレー、フレー!」ニタの実況中継が室内に響き渡った。
「お前、ちょっとウルサイぞ。集中できないじゃないか」とサトウがクレームを入れたが、
「おおーとっ、そうこうしている内に速くもヲトヲは200枚目に突入だ。ダメだ、サトウの右手は全く動いちゃいない!」「ウルせぇって、黙れよ、天パ!」「オッとサトウは八つ当たりを始めた。左手も動きを止めてしまった。どうした?サトウ。頑張れサトウ」
「お前、ちょっと黙れって」微動だにしない両手で太腿を叩きながらサトウは怒鳴った。
「さあ、サトウの手は両方とも一向に再起動しない、イヤっ、それどころか再起動の気配すら見せようともしない。アアッと、そんな事をやってる内にヲトヲは既に300枚を軽々とクリアしていた。彼のフィルムを向くそのスピードは全くと言って良い程落ちない。イヤっ、それどころか増々速度が上がって行く。一方コッチではサトウが苦しんでいる、ダメだ、幾ら太腿に叩きつけても手は一向に再起動しない! ピンチだ、サトウは苦しい。おっと、気付けばヲトヲは500枚を突破、速い、速い、凄いスピードだ。投票券を取り出す仕草が残像しか残らないゾ。速い、速いぞ、文字通りあっと言う間に一枚を取り出してしまう。オッと、ココで残り時間が10分を切った。ヲトヲがスパートを掛けた。凄い速さだ。確かに神速の域に達している。一方コチラは未だ手が復活しない。ピクリとも動かない。サトウは苦しい、彼は苦しんでいる。アアッと、何を血迷ったのかサトウは両手を使う事を諦めて、何と足で取り出す作戦に変更だ、ダメだ、どうやってもフィルムの取っ掛かりの所に足の指が掛からない、無理だ、どう考えても無理な作戦変更だった。さあ、フジムラコミッショナーに依るカウントダウンが始まる。ヲトヲがラストスパートだ、速い、速い。何とココでヲトヲが取り出した枚数は何と1200枚を超えている、凄いぞ、ヲトヲ。僕らのヲトヲ。頑張れ、ヲトヲ。ガンバレ、ヲトヲ! 3、2,1、終了! さあ、コミッショナーから最終結果の発表があります。ではコミッショナー、お願いします」
「ぇへん、最終取出し票数48枚、サトウ! そして最終取出し票数1273枚! ヲトヲ! 勝者、ヲトヲ!」フジムラが叫びながらヲトヲの右腕を高らかに掲げた。
「ビックリ人間だ」ヤスダが言った。
ニタが総評を始めた。「あれだね、サトウ君は足を使おうとした時にもう既に半分諦めていたね。それにしても、どうだい。48枚ってのは少な過ぎやしないかい? もうちょっと剥けただろ」
「でもなんか不思議なフィルムの剥き方だったな、何だいアレ?」ヤスダが尋ねた。
「アレは、何かの番組でマツコDXがやってたヤリ方なんですよ。ケースの横をテーブルの角にシュッと擦り付けると摩擦熱でフィルムが溶けて剥き易くなるんですよ」とヲトヲが答えた。
「これをマツコ方式と命名する」フジムラが言った。
「こんなの速くても何も偉くないんだかんな」悔しそうにサトウが顔を歪めながら言った。
「残念な奴だな、お前」モリサキが言った。
「残念って言うな」
「じゃ、チキン」フジムラが言った。
「イイか俺の事を二度とチキンと呼ぶな」指を突き付けながらサトウが言った。
結局全ての投票券を取り出すのに10人総出で一日当たり18時間も作業を打っ続けても合計で足掛け3日掛かったのだった。余りの辛さに3日目27万枚の取り出しを終えた辺りでサトウが切れ始めた。
「何で俺はこんなトコでこんな事をしている? 今週末の握手会にも行けず部屋の中でズット馬鹿みたいに投票券を取り出し続けている? 何故だ? 見ず知らずの男に雇われて俺は何をしている? 金持ちの道楽に付き合うほどコッチは暇じゃネエッつうの。コンだけ苦労しても何の報酬もデネェ。代りに飯は食い放題だっつーけど出るモノと言えば宅配のピザか寿司、そんなんじゃヤッテらんねぇ。もっと美味いモン喰わせろってんだ。金持ちなら九兵衛の出張サービス位用意しろっての」
ソレを静かに聞いていたショーナンがおもむろに発言を始めた。
「君は私が金持ちで単なる道楽でこんな事をしているのだ、と大きな誤解をしている。私も君と同じだ。ある男に依頼されてコレをしている」
「じゃ、何でソイツがココに居ないんすか?」サトウが怒気を含んだ声を上げた。
「彼は今、アメリカに居る。そして不幸な事に彼の地を離れる事が出来ない。だから、私が彼のしたい事を代行しているのだ。つまり私は代理人なのだ」
「でも3億も掛けてまでする事でしょうが。幾ら何でも来日位は出来るでしょうが。ホントにやる気があんだったらどんな用事だったとしても離れられないって事は無いでしょうが」憤懣やるかたない様子のサトウが言った。「大体そもそも一体何の見返りが有ってこんな事ヤルンすか? そいつはリョーカに一体何を求めてんすか?」
「アメリカを離れる事は今の彼には不可能な事業だ。現在彼はホスピスに居る。末期のスキルス性の胃癌だ。余命を宣告されたのは約半年前。その時の数字は3ヶ月だった。そうだ、彼の生命はとっくに期限切れだ。だが彼は担当医も驚く様な生命力を見せて未だ命の灯を絶やす事無く生き続けている。彼を支えているモノはただ一つ、リョーカの存在だ。リョーカが生きる為の縁なのだ。リョーカの笑顔を見る為、その為だけに生きている。彼は見返り等一切求めてはいない。男は可愛い女の子の為に命懸けで何事かを成すが決して見返りを求めないモノなのだ。我々はオスとして産まれ付いた。ただ漫然と毎日を過ごして不断の努力を積み重ねて行かないとオスはオスのままで決して男には成れはしないのだ。そして彼は立派な男だ。さっき、君は金の話をしたな。彼にとって最早金など如何でも良い存在だ。何の為に金は存在していると君は思う? ソレは人を幸せにする為だ。金の力は偉大だ。ソレは事実だと思う。金は全ての事を解決できる訳では無いが、少なくとも不幸を最小限に留めて置けるし、たとえ不幸な状況に陥ったとしてもソコからの脱出を容易にしてくれる。だがソレは相対的なものだ。絶対的な幸せを買う事は出来ない。残念ながら、所有する圧倒的な経済の力を持っても彼の置かれた状況を改善する事は不可能だ。だが、リョーカの為に使用する事で少しでも彼女が現在置かれている過酷な状況を打破出来るかも知れない。彼女が本当に観たい景色がポジション・ゼロからのモノなのか違うのか今のままでは自分の目で実際に観てみて確かめる事すら不可能だ。君はリョーカが今のままで良いと思うのか? 今年も圏外なら恐らく彼女はグループを辞めるだろう。そして去年の様に彼女に晴れのステージ上で反吐を吐かせたいのなら作業を中断して出て行くが良い。外で思いっきり自分のしたい事をすれば良い。誰も君にココに残れとは強制しない。君は自分の意志でココに来た。自分の意志で出て行くのも自由だ。君が自分の意志で選択をすると良い。しかし、もし少しでも君の中に慈悲というモノが在るのなら一抹の惻隠の情を抱けるのであれば依頼者に力を貸してやって欲しい。だがどんな選択をしようが君の決断を私は尊重する」
サトウは俯きそして暫くすると再びフィルムをマツコ方式で剥きだした。泣いていた。
3日目の夜遅くに投票券30万枚全ての取出しが終了した。休み時間を利用してショーナンは大きな鍋一杯にチャンコを作っていた。簡易式のキッチンから漂ってくる美味しそうな匂いはみんなの胃を刺激し続けて『早く食べたい』その一心でフルスピードで投票券を取り出し続けたのだった。全ての作業が終わるや否やニタとヲトヲが2人掛かりで大鍋を運んで来た。モリサキが気遣わしげに言った。
「おい、くれぐれも慎重にナ。零すなよ。トモチンみたいな悲惨な事故だけは起すな」
「ガッテン、承知」ニタが言った。
作業部屋の真ん中に据え置かれた大鍋の中には様々な材料が美味しそうに煮上がっていた。
「中身何すか、これ」サトウが尋ねた。
「骨付きの鳥モモ肉のブツ切り、コレを出汁で2時間ほど煮てある。ソコに調味料として塩、砂糖、味醂、醤油そして酒を加えて残りの材料、油抜きした厚揚げ、ブツ切りのワタリガニ、白菜にネギ、ササ搔きにしたゴボウ、ゴマ、ニンジン、キノコ類、手で千切った蒟蒻、ホタテ、焼き豆腐にチクワそして鳥のツミレが入っている」ショーナンが答えた。
鍋から立ち昇って来る恐ろしく香しい芳香がみんなの神経回路をグチャグチャに掻き乱し唾液の分泌量を3倍増しにしてしまった。
「もうイイよ、説明。早く食おうぜ」ニタが言った。
「美味っ」と叫びを上げたきり何も言わなくなり一心不乱に食べ始めたフジムラを見てみんなも一斉に箸を使いだした。「ウマっ」「最高」「何コレ、上手過ぎ」「何だコレ」「ヒィ」ヤスダは思った『アレッ、コレなんだろう? シンプルな味付けなのに奥深いスープ、カツオとコンブがベースでソコに鶏の身や髄から抽出されてきたエキスが上増しされ、加えてカニから出た濃厚な出汁が高らかに奏でる金管楽器の様に音を載せてくる。それにゴボウの予想外な高貴な香りがアクセントを加えてくる。なのに全然クドくない。オーケストラだ、コレはオーケストラだ。其々のメンバーが声高に主張する事無く協力して優美なシンフォニーを奏でている。まるで円環の様だ。ただ、一部が少し欠けていて、ソコに最後のピースとして塩だけのおにぎりを嵌め込めば完成だ。ホラ、汁に浸した部分を口に容れるとパラリと解けてまるで高級料理店の締めに出る雑炊の様だ』
コンビニの塩のおにぎりをヤスダと同じ様に汁に浸して喰ったサトウが叫んだ。「最高!」彼らの食欲は旺盛で摂取の速度は加速を続け15分もかからず鍋は綺麗に空に為った。
フジムラは塩おにぎりで鍋の内壁に残った汁を拭い取る様に擦り付けると一気に口にほうばった。「コレは鍋コワシの鍋だ。よし、鍋コワシと命名する」フジムラが言った。
「また、作ってくださいね」ヤスダがショーナンに頼んでいた。
「気が向いたらな」ショーナンがそういなすと「そんなぁ」とみんなが嘆きの声を上げた。こんな上手いモノが食えるなら少々辛い事があっても耐えられる。何故か一つの鍋をみんなで囲んだ事でチームに団結力が宿り始めたのだった。
ショーナンは思った『兵士をヤル気にする為には上手いモノを喰わせるに限る』と。
投票受付が始まるまでの時間を利用して街の探索をみんなでする事にした。目的は勿論美味しい食事を提供してくれる店を発見する事だ。ショーナンを除く残りの人間達は集団生活においての食事の内容がもたらす精神安定の度合いの大きな違いを、この前サトウがやらかしたプチ事件を通して改めて認識させられたからだった。
『食事内容は重要だ』
だからみんな必死だった。
優秀な斥候の様に街中を隅々まで嗅ぎまわり、一軒また一軒と地道に開拓して行った。結果、美味しい店を幾つか確保出来たのだった。
サトウは寿司の隠れた名店を発掘して来た。ニタはその優れた嗅覚で素敵な料理を提供する南欧料理店を発見出来たのだがソコは運悪く出前がNGだったのでみんなで連れ立って何回か食事をしに行った。オリオの香り高いアーリオ・オーリオ・エ・ペペロンチーノを口にした時、普段は口数が少なくて殆ど喋らないオオヤマが唸る様に「美味い」と声を上げた。「出前してくれないのは、辛いですね」とヤスダがポツリと言ったのを耳聡く拾ったマダムが「あら、お近く? 忙しくない時なら良いですよ」と優しく言ってくれて、その言葉にみんなが小さくガッツポーズをした。ヤスダがフラッと立ち寄った如何にも『街の』と言う外装の中華料理屋は二人の男兄弟が経営する店で正に絶品と言っても過言ではない四川料理を出してくれる夢の様な場所だったが何と出前可能なトコだったから彼は狂喜乱舞しながら部屋に戻って来た。加えてヲトヲが「出前しますよ」と言う小さな洋食店も見つけ出して来たから、コレで食事事情はほぼ完璧に為った。コレに加えて5日目に近くにドミノピザが新店を開店させたのでもう誰からも文句は出なくなった。
コレで投票に対する準備は整った。
CDの発売日の前日午後2時から投票受付が解禁と為った。
発売日翌日の午後9時頃に、投票の速表結果が発表に為る。別にソレを気にする必要は全く無いのだが、ニタの提案で1万票は確実に投じて置く事に為った。
「いや、やっぱさ。リョーカ、不安だと思うんだよね。だから安心させる為にも取り敢えず1万位は入れてあげて置いた方が良いと思うんだよね、俺は、さ」
そうニタは言うとシリアルナンバーを打ち込む作業に戻った。
他の人間にも異論は無かった。
結局速報までに1万と少し投票出来た。
1週目を過ぎる頃にはみんなはすっかり打ち解けて気を許す様になり、「知らないオッサンの握る御結びなど口には出来ぬわ」と言っていたサトウすら朝食として用意されたショーナンが作る御結びと鶏肉入りのケンチン汁を嬉々として口にする様に為った。御結びは勿論全部手製でフライパンで香ばしく焼かれたシャケをワザと荒めに解しご飯に混ぜ込んだモノや焼いたタラコを細かくほぐしたモノをこれまたご飯に混ぜ合わせたヤツとかが人気があったが、不思議な事に一番人気が有ったのは塩だけで握られて海苔すら巻かれていないシンプルなモノだった。削り立ての薫り高い鰹節と利尻昆布から丁寧に取られた出汁とソイツは最高のハーモニーを奏でたのだった。そして1週間に最低一度は『鍋コワシ』が食卓に上る様に為り、その時みんなの心はクライマックスに達するのだった。人間にとって欠かす事の出来ない食事というモノのルーティーンが確定すると何故だか投票と言う単純作業の効率も高まって行ったのだった。
『美味い物を喰わせるに限る』ショーナンは思った。昔もソウだったからだ。
チームの最適化が有効的に作用し始めて来ていた。
湿度と温度を人間とコンピューターにとっての最適なモノにする為に空調機器が静かに唸りを上げている。
パシャパシャとタイプの音が響く中サトウが口を開いた。
「今度タカミナが新曲出すらしいけど、大丈夫なのかね」
「どうして」ニタがシリアルを打ち込みながら尋ねた。
「あのアッチャンでさえ外側に出たらファン減らしてんじゃんか。イベントやっても席が埋まらないって聞いたぜ。タカミナもヤバいんじゃないの?」
「まあ、待て待て。前総監督だから大丈夫だと俺は想うぞ」モリサキが言った。
「根拠は?」ヲトヲが訊いた。
「全くもって、無い」モリサキは胸を張った。
「タカミナ。オカムラの嫁」オオヤマが呟いたのを耳聡くサトウが拾った。
「アレはめちゃイケのドッキリ企画だろ?」
「20150509、1゜21′10″~1゜21′30″、推奨再生スピード1/8から1/16」
「おい、そんな昔のヤツなんか映像残してないよ」ニタが顔を上げながら言った。
「僕持ってますよ」ヲトヲが言った。
「ヨシ。皆で確かめようぜ」サトウは立ち上がった。
「ふーっ、出演シーン全部観ちゃったな」モリサキが言った。
「観ちゃいましたね」ヲトヲが続けた。
「限りなくクロに近い、グレー」映像を観終わったニタが項垂れながら言った。
「タカミナ、すっげ嬉しそうだったな」モリサキが言った。
「・・・・・・」オオヤマは黙って打ち込み続けた。
「パルさんは一体何を見たんだろうか?」ヲトヲが訝った。
「いいじゃん弟で」
「ずっと驚愕って感じの表情を浮かべっ放しだったな」サトウが言った。
「無視しとけばいいじゃん」
「オカムラ君の形相には何て書いてあったのかな?」
「生きたいように生きた方が良い」
「釘を打たれた様にオカムラの顔から視線が外せないパルさん」
「ミンナ、眼が本当に点に為ってたな」モリサキが打ち込みを再開した。
「口許に手を当てたまま眼を放す事を許されず、ジッと凝視を続けるパルさん」
「人間、本当に驚いた時にはあんな顔をするんだね」
「人間は本当に驚いた時には眼を見開く。普段見えない白眼の部分が増えてソレで相対的に黒眼が点に観えるのだ」ショーナンが静かに言った。
「パルさん、目が点になったまま還って来なかったな」
「ミーちゃん、複雑な表情を浮かべてたな」
「何かを発見して驚愕の表情を浮かべてしまったパルさんをファインダー越しに見て慌てて辻カメが振った先にガヤにも参加できずに『マズイなぁ』って感じの表情でボーッと立ってるミーちゃんを捉えちゃって、コレまた慌てて元の位置にカメラをパンして、とお忙しい事ですな」とニタが皮肉交じりに言った。
「真実を知っていたのがミーちゃんで、一番最初にその『真実』に気付けたのが勘働きの特別に優れた、パルさんと言う訳ですか。だからオカムラさんは次のシーンで執拗とも思える位にパルさんを責めていたのか」ヤスダが言った。
「脅し、か?」モリサキが言った。
「ダメ出しの体を借りた恫喝なんて最低だぜ、岡ちん。リッサなら校庭2週走らすぞ」
「上ノ坊君の棒寿司全部喰わすの刑に処す」
「タカミナが『ダメでしょっ』って感じで嬉しそうに笑いながらオカムラさんを叩いていたのが、とても印象的でした」ヲトヲが呆けた様に呟いた。
「前に向き直る最後の瞬間、オカムラ君の横顔がチラッと見えましたが、怒ってましたね」「いや、怒っていたのではなく、叱っていたのだろう」ショーナンがヤスダに言った。
「笑顔でオカムラさんを『まあまあ』と両手で制止しながら宥め賺しているタカミナさん」
「しかしカガリPも良く注意して編集しないと駄目じゃん」
「コレは編集でバッサリいかないと」
「スパイってさ、新聞とかTVとか良く観てるんだってさ」
「インテリジェンス、つまり諜報の情報源の9割は公開情報だ」
「カガリP、茶わん蒸し片手に編集したんじゃないのかね」
「良い。バレなきゃ良いのだ。もう卒業してんだからOK」サトウが呟いた。
「俺達は『疑わしきは罰せずの会』会員だからな」ニタが苦笑しながら言った。
「20141206、0゜20′00″~0゜22′00″」オオヤマが言った。
「まだ在るのか!」モリサキが叫んだ。
「そんな昔の映像なんて残してありませんよ」ヤスダが言った。
「僕のPCに保存してありますよ」ヲトヲが答えた。
「ヨーシっ、皆で確かめようぜ」サトウ言った。
「イヤーっ、観ちゃったな」
「最後まで観ちゃったな」
「俺たちは投票もせずに、一体何をしてんだ?」
「コレはクリティカルですよ」ヤスダが言った。
「どう言う事?」
「何が問題なんですか?」
「心理学的に見ると2重の意味でクリティカルなんですよ。めちゃイケのメンバー達とサエさんをモニタリングしている時に、そう『ゴシップ・ガール』ってアダ名を付けた時です。その時に左隣に座っているオカムラさんに総監督はワザワザ右手を使って触ろうとしているんです。無意識の内に『ネェネェ』という感じで触ろうとして途中で気が付いて『ヤベッ』って慌てて引っ込めるんですけれど、コレ無意識の行動の典型例と言っても良いんですよ。コレは心理学的には非常にクリティカルなポイントに為るんです」ヤスダは努めて冷静に説明した。
「どう言う事なのかな?」モリサキが尋ねるとヤスダは続けて言った。
「二重の意味でクリティカルです。異性を性的対象とする女性の場合、男性の身体に不用意に触りはしません。かなり親密な関係の男性か、それとも親密な関係に成りたい男性にしか触ろうとはしないモノです。コレを意識的に利用しているのがキャバ嬢です。無意識の内にタッチする。コレは大抵の場合、触る対象は繁殖の相手です。コレもかなりクリティカルですがソレよりもっとクリティカルなポイントが次です。哺乳類の最大の脆弱点は腹部、つまりお腹です。ですから我々も含めて全ての哺乳動物は腹部を相手に曝す事を生得的に避けます。動物行動学的に言えば、意識的に腹部を相手に曝す行為は『恭順の意』を示す振る舞いだと言えます。それに対して無意識的に、まぁ、ほぼ人間限定に成りますけども、お腹を曝せてしまう事が出来る相手というのは、非常に親密な関係にある人物である、と言えるからです。意識する事無くタカミナさんは自分のお腹をオカムラさんに曝してしまっていますしその事を全く厭わなかった。無意識に腹を曝せる相手、相当に親密な間柄という事を表に出してしまっています。日常から御腹を見せている相手というコレは決定的な事です。2015年の5月9日の映像とは訳が違います。そうか、だからタカミナさんがJ・ビーヴァーと共演した時にあれ程までオカムラさんが『ホンマに、乳とか揉まれてへんやろな』ってラジオで執拗なまでに言っていたのか」
「演技じゃなかったのか」
「凄い演技力だと思わされたな」
「ニャンさんとミーちゃん、それにサシハラ、この3人を欺くのは容易ではありません。特にニャンさんは思考する事無く感情のみで生きているタイプですから他者の心象風景、つまり人の感情の機微に敏感です。別の理由からサシハラさんも他人の抱える弱点を発見する事に非常に長けています。一般に言って女性は他者の感情を悟る事が得意です。眼の前の男女2人の関係が、親子なのか恋人同士なのかそれとも関係の冷め切った倦怠期の夫婦なのか即座に見抜く事が出来る人が多いのです。女性の眼を誤魔化してこの様な形のドッキリを仕掛ける事は、不可能に近いのです。本当そういう関係性だったからこそ皆を『騙せ』たのだと思います。そうか、そうだったのか。だからなのか。卒業を発表した翌々日の水曜深夜にソロ出演したラジオ番組の冒頭でめちゃイケに感謝している旨に言及しているんですけれど、そこで一拍の静寂を置いて『オカムラさん』と発言した時にだけ微かですが声が低く震えているんですね。聴いていて何故だろうと不思議だったのですが、そうか、だからなのか。感情が語気を揺らしたのか」
「他のメンバーに告白して謝罪した時の真実感たるや、だって本当の事なんだもん」
「そりゃ真実感は半端無いよな」
「リアリティじゃない。だってリアルなんだもん」
「『良い練習に成りました』って、何の?」
『メッチャ嬉しそう、タカミナ!』(ホルモン)
『女の顔してるぅ』(ミーちゃん)
『見方オカシイでしょう』(前総監督)
『ねぇ、写真送ってぇ』(ニャンさん)
『昔は背が高くて綺麗な人が好きだったのに、結局ぅあーゆー人に収まるんだよね』
「マズイ、バレたか、って顔で頭を掻くタカミナ」
『ゴメンねぇ』
「誰に対して?」
「他のメンバーやお客さんに対して『(ドッキリって方が嘘で本当の事を隠す為だから、これから一生騙し続けて行くので)ゴメンねぇ』って言ってるんだろうよ」
「今回タカミナさんが採用した手法は相当に強力なモノです。秘匿したい情報を隠すのでは無くてあえて逆に進んで『公開』したのです。時を置かずに続け様に次から次へとウソの補足情報を付け加えて最初に『公開』した情報を修飾して行った。最後に一気に卓袱台を引っ繰り返して『全部ウソでした』と『バラす』という行動を取った。『騙された』人々は怒りはするかも知れないけれどソレまでに提供された情報総て、『本当』を含め『嘘』だと簡単に思い込んでくれる。上手いやり方というか狡猾ですよ、コレは」ヤスダが言った。
「ドッキリだと言われながら差し出されたのでドッキリと受け取ってしまったという事か」
「偽装工作、イヤ、隠蔽工作の為のドッキリって訳か」
「隠蔽ドッキリなのだ」
「しかしこのTV番組は凄いモノだな。メンバーとめちゃイケの演者達、運営と番組の恐らくは大半のスタッフ、両者のファン達そして視聴者達をも全部一気に根こそぎに纏めた上で2重の意味で騙しているのだからな。見事に隠蔽する事に成功しているよ」
「だけどオオヤマ君は良く気が付いたね」
「・・・・・」
「大体オカムラは普段は女性に対して『透明感』を求める癖に、好きに為る娘は皆ギャルだもんな」
「♪総監督はギャルっぽい♪」
「ヨコヤマってギャルぽかったっけ?」
「オイオイ『前』を抜かすなよ。エライ違いだぞ」
「良い。バレなきゃ良いのだ。もう卒業してんだからOK」サトウが呟いた。
「俺達は『疑わしきは罰せずの会』会員だからな」ニタが苦笑しながら言った。
「20151204。ほぼ全てのシーン」オオヤマが言った。
「またかッ!」
「映像、あるのか?」サトウがヲトヲを振り返りながら叫んだ。
「モチのロン」
「モロのチン」フジムラが爆笑しながら言った。
「いちいち君の発言は下品なんだよ」ニタが顔を顰めながら言い放った。
「皆で、確かめようぜ」サトウが言った。
「常に体がオカムラの方を向いている」
「二人が意識して顔を合わせないようにしています。余りに意識し過ぎているのかギクシャクとした関係性の印象を残すのですが。でも、ふとした拍子に出てしまう微表情が全てを雄弁に物語っていますね。2人は不自然なまで顔を合わせようとはしない様かなり無理して自制を働かせていますけど、その反動が出てしまっていて微表情に真の感情が出撒くっているのです」
「微表情って?」
「微表情というのはコンマ5秒ほどの短時間に表象する表情の事で当該人物のその時の真の感情を精確に表します。これは完全に無意識の内に出現する現象で意識する事で制御する事は不可能なモノです。タカミナさんの微表情は彼女の本心を暴露してしまっていますね。顔を背けていても彼女の身体は常にオカムラさんに対して開いている。将に『身体は正直』なのです。秘匿しようとすればするほど顕在化させてしまう。隠そうとすればする程に意思に背いてボロが出てしまうのです。意志では微表情をコントロール不能なのです」ヤスダが説明した。
「そういう関係なのか」
「道理で小汚いオッサンの顔に塗りたくられたカニ味噌を指で掬って舐められたのか。普通なら躊躇するぞ。何せオッサンの顔だからな。そんな事は気に為らない関係だからこそ、厭わずに簡単にしてしまえたのか」
『美味っ!!』(前総監督)
「最後の方なんか、完璧な夫婦漫才だったもんな」
「息もピッタリの、な」
「良い。バレなきゃ良いのだ。もう卒業してんだからOK」サトウが呟いた。
「俺達は『疑わしきは罰せずの会』会員だからな」ニタが苦笑しながら言った。
「20141206、0゜40′10″~0゜45′00″」オオヤマが駄目を押した。
「まだなのか、終わりは来ないのか?」モリサキが呆れた様に叫んだ。
「映像!」サトウがヲトヲの肩を掴みながら言った。・
「安心してください、チャンと残してありますよ」彼は笑顔で答えた。
「ヨーシ。毒喰らわば皿までだ」ニタが言った。
「何で言っちゃうかな、タカミナさん」フジムラが言った。
「ホントだよ。『本当に撮られちゃいけないと思いました。自分でも、ホントに駄目だな、って。身が引き締まりました』ヤスダ氏、コレ解説をお願い」ニタが言った。
「御前に対する信頼の海は今、引き潮だよ。タカミナ」
「コレは『本当に』盗撮されては困る事を、現在進行中で行っている、という事を暗示的に表現しています。撮られては困るので身を、今も引き締めているけれど、コレからより一層に気を付けて脇を締めて行くという事を明言してしまっていますね。困ったものだ」
「ま、良い。バレなきゃ良いのだ。もう卒業してんだからOK」サトウが呟いた。
「俺達は『疑わしきは罰せずの会』会員だからな」ニタが苦笑しながら言った。
「クソッ!」サトウが叫んだ。
「どうしたい?」ニタ顔を上げずに言った。
「またシリアル間違えた」
「慌てるなよ。まだ先は長いんだぞ」モリサキが言った。
「ある男の言葉を教えよう。『Slow is smooth. Smooth is fast.』 日本語に訳せば『ゆっくり動けばソレは滑らかさに繋がり、滑らかさは速さを呼ぶ』だ。慌てなくて良い。1つづつ確実に着実に作業を進める事が結果的に速さをもたらすのだ」
「了解です、ショーナンさん」サトウが頷きながら言った。
「誰の言葉ですか?」ヤスダが尋ねた。
「私の大学時代のルームメイトで海兵隊のスナイパーをしていた男の言葉だ」
「ボブ・リー・スワガーみたいですね」
パシャパシャとタイプの音だけが響く中サトウが口を開いた。
「今度リョーカが参加するユニット曲にパクリ疑惑が勃発ってネット住民が騒いでるけどアリャ何なんだろうね?」
「何だお前、投票サボってネット見てんのか?」ニタがシリアルを打ち込みながら言った。「サボってねえよ。昨日寝る前に見たら載ってたんだよ」サトウがシリアルを打ち込みながら言い返した。
「アレだろ? 曲調がソックリってヤツだろ?」ニタが言った。
「何だよ、お前も見てんジャン」サトウが言った。
「しかも似てるって言ったって、ハカタの曲だぜ。同じグループじゃないか。馬鹿馬鹿しいったりゃないね」
「何時からこう騒ぐようになってしまったのかね?」
「やっぱ、あれじゃね? ネットが普及してからじゃね」
「そうかもな。でもパクリとか盗作とか剽窃とか言うけどさ、そんなの神代の昔から存在してんだぞ。日の本の国、豊葦原の瑞穂の八州には『本歌取り』って立派な文化があんだっつっの」
「イヤ、神代からは無いだろ、多分」
「だってさ音楽っツウ事でいえば、ブラームスの交響曲第一番は誰がどう見たってベートーベンの第九のパクリだぞ。でも誰が文句言う? みんな喜んで両方聴いてるじゃないか。ピカソなんか前衛美術とか言われてもてはやされてるけど、アイツの遣った事と言えばアフリカの民族芸術の上っ面だけマネした根っこの無い根無し草じゃんか。ヴァン・ゴッホとかゴーギャンは思いっ切り浮世絵盗作してるしさ、何かオカシイよ。大体『遊び』が出来なくなるよな、一々付き纏う様に粗探しされるとさ。例えば自分の好きなアニメでスパコンを家の中に搬入するシーンが在ったらパロって同じセリフ同じシーン構成で小説書いても良いと思うんだよね。それって遊びじゃんか。好きな俳優のエッセイに掛かれた実際に在った事をパロって宴会シーンを書くとかさ、『遊び』ジャン。本筋とは違う所で『遊ぶ』のも駄目なのかね。何か余裕が無いっツウか、息苦しいよな、ホント」
「そうだな。そういうの気付いて『クスッ』と出来るの楽しいモンな。丸っきり盗っちゃうのは、ダメだけどさ」
「優れた芸術家は模倣するが、偉大な芸術家は盗む」
「ピカソ?」
「そう」
「真の・・芸術は自然を・・模倣する」オオヤマが呟いた。
「一つの真実を表現する時には一番優れたモノを使用するのは当たり前の事じゃ無いか。ある作家が言ったそうだけど芸術は大衆に対する奉仕だそうだ。だったら一番の表現が在るのならソレを使うのが芸術家としての義務じゃないのか? 青い色を表すのに『青』以外のどの言葉を使えば良いんだか、俺にはさっぱし判らんね。大体伝えようとする真実自体が全然違うモノなんだから文章の剽窃ってのは盗作に当たらんと俺は想う。ハサミはドレを使っても良い。手段は手段であって目的じゃないんだから。ソコを皆は勘違いしてんだと思う。1つの文章に拘泥して盗作だの剽窃だの騒ぐ奴は可哀想だよ。だって物事の本質を見抜く力が無いって事を自ら公言しちゃってんだからね」
「才能の有る奴がさ、既存の小説とかからさ、そっくりそのまま文章を一つ一つ抜き出して来て全く新しい小説を創り上げたら奴等はどうするのかね。剽窃された文章が組み上げた概念は全く新しいモノだ。それでも細部に拘って非難を続けるのかね。楽しみだよ。でも何でネットの住民は情け容赦ないのかね。寛容の心ってのが不足してんじゃん?」
「樹ばっか見てて、皆はさ、森を見れてないよな」
「結局は盗用や剽窃、模倣をしても、最終的に作品が独自の表現に到達出来ていれば、何の問題も発生しないのだ」
「要は仲身だろ。見てくれが良くったってクソ不味い饅頭に存在価値は無いよ」
「作り手にとってみればオリジナリティで勝負したいって気持は判るけどでも一番大事な事は御客さんを満足させる事だろう?」
「時代はさ、とっくに『複製の時代』なんだよ」とサトウが天板をバンと叩いた。
「止めろよ。HDが壊れるだろう?」ニタが惚けた様に言った。
「パクリ、パクリってTVじゃ結構パクリまくってんじゃん」
「路線バスの旅とかね」
「しかし、ネットの中の人達は粗探しばかりして楽しいのかね」
「自分達が正義だと思ってるんだろうな。全く呆れるよ」
「正義って難しいぜ、取扱いが、さ。正義の為なら人殺しても良いのかって話だよ」
「まあまあ、待て待て、お前達。そんなネット住民を悪く言うな。彼等には彼等なりのモラルってのが有るだろうし、な」とモリサキが2人を窘める様に言った。
「でもさ、正義っツウのはさ、人の数だけ、言わば70億通りある訳じゃんか。何故にソコまで自分は正しいと言い切れるのか、不思議だよ。疑問を持った事無いのかね、自分に」
サトウが顔を上げて言った。
するとニタが「正義っツウのは厄介だよな。ソレ持ってるって信じっちゃってる人達は疑問を抱く事なんかないからな。でもこういう言葉が有るぞ『正義の反対は悪じゃない。またもう一つ別の正義だ』コレ結構真実突いてると思うぞ」と言った。
「誰の言葉?」何も言わずにただ聞いていたフジムラがタイプしながら尋ねて来た。
「世界一有名なパパ、野原ひろしだ」ニタが答えた。
パシャパシャとシリアルを打ち込む音だけが反射する中サトウが口を開いた。
「ユウコは外に出てから色々な賞を貰ったけど、何でアッチャンさんはアンマリ貰えてないのかな?」
「ユウコはキャラクターアクトレスだから賞に引っ掛り易いんだよ」ニタが言った。
「キャラク・・・」ヲトヲが言い掛けると一人を除いてみんなが一斉に叫んだ。
「ggrks」
「キャラクターアクターと言うのは、簡単に言うと自分の方から役柄に近寄って行くタイプの役者です。変幻自在に何でも熟す感じです。ソレに対してアッチャンさんのようなタイプの役者はパーソナルアクターと呼ばれるモノで役を自分の方に引き寄せる演技をする人達です」ヤスダが丁寧に説明した。
「成る程。つまり映画の種類や監督さんを選ぶ女優さんと言う訳か。当たればデカいけど、外すと致命的な結果に終わるって訳だな」サトウが言った。
「リョーカはドッチなんだろう?」ヲトヲが言った。
「多分前者、ユウコと同じキャラクターアクトレスだと思いますよ」ヤスダが答えた。
投票しながら如何してリョーカのファンに為ったのかみんながポツリポツリと告白した。
「俺はEX大衆のグラビアだから結構新規よ」とサトウが言った
「俺は週プレ」フジムラが言った。
「何だ? 俺よりも新入りじゃんか」とサトウが返した。
「僕はビンゴで肉を手で引き千切った時からです」ヤスダが言った。
「俺、同じ」と珍しくオオヤマが発言した。
「僕はミュージカルです」ヲトヲが言った。
「俺も」ウレシノが言った。
「私は舞台だな、49の。来てるゾ、って思ったんだよね」フクヤが言った
「俺は公演で見てから」ニタが言った。
「俺と一緒に観に行った時だな。ま、俺も其処ら辺かな。気には為っていたんだ」
モリサキがシリアルを打ち込みながら言った。
「ショーナンさんは?」ニタが尋ねた。
「私ではないが依頼者がリョーカを発見したのは第6回の総選挙前のライブで、だそうだ」ショーナンが答えた。
「じゃ、結構古株じゃないですか」ヤスダが言った。
「探し出すのに苦労したらしいぞ。ソレまではユウコしか眼中に無かったみたいだからな」
「へーっ、ユウコの次がリョーカですか。その人ってオオシマって苗字が好きなんですか?」
サトウが顔を上げて言った。
「偶然だ。てんびん座で小さくてカワイイ横浜育ちの少女と言う共通項も単なる偶然だよ」
「この頃はリョーカあまりイタズラしないね」
「そうか? この前の公演ではヒッパイさんの胸を揉みしだいてたぞ」
「イヤイヤ、もっと最近の事だよ。昔はさ、曲間にワザと転んだ振りしてイズリナさんが穿いていたパンツをズリ降ろそうとしてたじゃんか」
「アレは笑えたな」
「アレから皆パンツの時はベルトをキツ目に締める様に為ったんだろ」
「この前、有吉で粘土使って犬のウンチを作ってたな」
「最近、随分と大人に成って来て個人的には嬉しいんだけど、子供の部分も残しておいて欲しいんだけどなぁ」
「そうだよな。幾かはバブみを取っといて欲しいよな」
「この頃の娘はダンス上手いよな」
「小学校の頃から学校で習ってるからな」
「でも何で義務教育でダンスなんだろう?」
「ダンスが上手な人と言うのは身体の左右のシンメトリーが整っている。シンメトリーが高整合性の取れている人間は立派な兵士として教育し易いのだ」
「兵士っすか」
「キナ臭くなって来たな、話が」
「アイドルって、何なんだろうね?」
「何だい、藪から棒に」
「イヤ、正直今まで真艫に考えた事が無かったからさ」
「ラッパーの宇多丸は『アイドルとは魅力が実力を凌駕する存在』って定義してたぞ」
「なかなかポイント突いてると思うけどな」
「制服着てるってのも重要なポイントだぜ。制服は個性を押し潰すものでは無くて逆に際立たせるものだから、な」
「ショーナンさんの意見はどうですか?」
「如何わしい行為を伴わない風俗と言った所じゃないか」
「ソレは幾ら何でも言い過ぎじゃないですか?」
「遊女の源は巫女だという説がある。巫女。つまり神様に捧げられた遊女と考えれば納得は行く。この国の神様は穢れを嫌う。だから処女しか巫女に為れないのだ。アイドル達にとって応援してくれるファンは言わば『神様』だ。本当ならかしづいて奉仕をしなければ為らないのだが、不可能な事だから替りに握手をするのではないかね。吉原の遊女にはどんな口の堅い官僚もポロッと自分の人生で隠して置いた事を告白してしまったそうだ。握手会の10秒で意図せずに自分の秘密を曝け出してしまった人も多いのではないかな」
「どうした?」
「いやぁ、昨夜さ、夢枕に赤木リツコが立ったんだよ。それでさ、こう言う訳。『アイドルという小さな閉じた世界の理を超えて女優という外側の世界で勝負する事を選択したユウコ、その代償として残されたメンバー達は滅びる。マエダアツコの卒業というセカンドインパクトの続き、サードインパクトが始まる。世界が終わるのよ』って。俺、驚いちゃって飛び起きたんだよね」
「いや、まだだ、まだまだ終わりにはさせんよ」
「リョーカ、サエが目標って言ってたな、朝日のインタビューで」
「サエか。何時かの舞台の時、サエはカヲルに似てるって言ってた」
「サエを通してミツムネを見ているのかも、知れんな」
「そうか、カヲルとサエを重ね合わせて見ているんだな」
「運営は13期のツートップはカヲルとリョーカにする予定だったらしいぜ」
「そうだとするとカヲルを失ったのは、デカいな」
「カウンターパートって大事なんだよ」
「カウンターパートって?」
「ggrks!」
「リョーカはユウコと仕事した事有ったっけ?」
「5で絡みが有ったかどうか」
「何てったって火鍋の1要員に過ぎないですからね」
「多分無いです」
「そうか、そりゃ残念」
「Kに昇格出来てりゃな」
「Aじゃ、な」
「超が付く個人主義者の集団だから」
「Aはホスピタリティが大幅に欠けるからな」
「13の女の子じゃ、居場所は無いか」
「前総監督に因ればリョーカは昇格当時壁を作って誰とも打ち解けなかったってさ」
「実は極度の人見知りだからな」
「周りが全員大人じゃ、そりゃ辛いって」
「マリコ様みたいな存在が居たら良かったんだが、ね」
「ジュリナは幸運だったな」
「一緒に弁当囲んでくれて、そりゃ嬉しいって」
「ボッチは辛い」
「愛は批判の応酬、批評の受容れ合いなんだ。だから体力を使う。『好き』っていう素朴な感情とは次元が違うのさ」
「愛は定量性の物なんだ。引っ繰り返した砂時計が一粒づつ時を減らして行く様に愛はその始まりの時から漸次減少して行く。脳科学者に言わせればその期間は3年だそうだ」
「じゃ、ずっと愛し続けるのは無理って事?」
「馬鹿だな。もういっぺん引っ繰り返しゃ良いんだよ。引っ繰り返し続けりゃ良いだけだよ」
「私たちにとって票数は、愛です」
「よっ! ユウコッ。名台詞」
「この前さ、恋愛禁止条例を破ったアイドルが訴えられて裁判で負けたジャン」
「ああ、その所為でグループ自体が解散しちゃったやつね」
「運営側が勝って彼女賠償請求されてんでしょ」
「当然、ファンとメンバーとの間にもソウいうのが発生するよな」
「ファンとアイドルとの間の契約事項」
「擬似であったとしても恋愛なのだからそれはSEXを要素として含む。ならば他の男とSEXをしてはいけないという占有事項も当然存立する」
「言っちゃえばアイドルビジネスの根底を流れる通奏低音は、SEXですからね」
「夫婦の間にお互い性的資源の専制的支配を受容れあうと言う契約が存在するのに近い」
「つまり、法的拘束力が発生する訳か」
「よし、コレでサシハラいやホルモンを潰せるぞ」
「アイツは心臓に毛が生えてるから無理だよ」
「指ヲタは盲目的に信奉してるから告訴なんかしないしな」
「愛する行為に於いて幸せになる秘訣は、常に盲目である事では無く、必要な時に目を瞑れるという事なのだが、な」
「アイツ何で人気あるんだろう?」
「恋愛、アイドルビジネスは疑似恋愛だから同じ事が言えると思うが、人は自分の見たいモノしか見ないのだ。ソレが自分の恋愛対象であったとしても同様だ。対象の人間が自分のイメージ通り、期待通りの振舞いをしてくれると『ヤッパリ私の思っていた通りの人だ。好きに為ってヤッパリ正解だったのだ』と思う。自分の思いを再確認させてくれて『自分は正しい』と正当化を促してくれる相手。そういう思考が『想い』を一層増加させて行く」「何が飛び出すか判らないビックリ箱みたいに、何をヤラかしてくれるのか予測不可能な愉しさから、応援している人が多いんじゃないのか?」モリサキが言った。
「人気は無い。指ヲタの数は少ないし、他のメンバーのヲタからは嫌われてるんだからな」「アンダードッグ効果とバンドワゴン効果の組み合わせによる相乗的な人気の高まりと言えるでしょうね」ヤスダが思慮深げな言い種をした。
「何ですか、それ?」ヲトヲが素直に訊いた。
「アンダードッグ効果と言うのは、一言で言えば『判官贔屓』に近いです。紛う事無く完璧に自業自得なのですが、スキャンダル発覚によってハカタに島流しの刑に為った事に対する同情や『恋愛』に関して誰でも犯す間違いへの共感、もっと言えば下手を打った他人に対する自身の優位性を確認できる事、そんな事柄から共感的な人気が出ます。内側の世界で本当は人気が無いと言う事実を知らない、と言うか、別に知りたくも無い世間一般の人達は、何だか知らないけれど『総選挙』とか言う騒ぎで1位に成った、何だか判らないけれど人気が有りそうだ。一旦そう認識される事に因り一層人気が高まって行くと言う現象です。一言で表現するならば『付和雷同』要するに根拠のないモヤモヤしたモノに幻惑されてしまうんです。日本人は特にこの傾向が強いと言われています。内輪の御祭りで何故か1位を獲得した事、虚栄としての『成功者』への憧憬的な人気。恋愛禁止という『理不尽』なルールに違反した事で異端の地に配流された事への同情。この2つの組合せは対数関数的な人気の高まりをもたらします。興味深い現象ですね」
「へー」
「指ヲタは声だけはデカいマイノリティだからな」
「その声の大きさに一般人や運営のスタッフさえも幻惑させられてるってのが本当だよ」
「しかし、その指ヲタと言う人間達は彼女の未来の事を真剣に考えた上で行動しているのだろうか?」
「何故ですか?」
「内側でしか通用しない『魅力』は外に出た途端に破綻を期たす。自分は人気モノなんだと指ヲタ達の行動に因って信じ込まされてしまえば、今彼女が為さなければいけない事、精進して自分の本当の『魅力』の源泉を獲得する事を怠ってしまうだろう。この前TVで知ったのだが、米国陸軍では新兵訓練の時はただ只管に正しい型だけを反復練習させるそうだ。射撃訓練も格闘訓練も正しい型のみを踏襲させるのだそうだ。意識しなくても動作を取れる様に身体に染み込ませるのだ。だが、実際の戦場に出た時はワザと間違った型、つまり邪道とも思える戦術を採るのだそうだよ。そうしないと実戦では生き残っていけない。射撃対象は演習とは違って動かないマンターゲットでは無い。死にたくなくて必死に動き回りコチラの放った弾丸を避けようと努力する上に、ヤラれる前にヤレ、とばかりに有りっ丈の弾を死に物狂いで撃ってくる、人間だ。『正しい』動きばかりでは簡単に先を読まれて直に沈黙化されてしまうだろう。だが、彼女がいるのは本当の『戦場』では無い。唯の『内側』の演習場だ。修練を積む場所だ。彼女が『闌る』のは内側にいる今では無い。外の世界に『主戦場』を移した時ではないかね」
「たくる?」
「ggrks」
「能の言葉だ。芸を修めた者だけが立つ事を許されている境地の事だ。コレは芸能全般に言える事なのだが、舞台を『是風』つまり正しい型のみで一杯にしてしまうと、時に倦んで弛んでしまって面白味が無くなる。ま、注文服が余りに身体に合い過ぎていると突っ張る印象を残してしまうのに少し似ている。そういう時に一流の達人はワザと『非風』間違ったやり方を採用してスパイスを利かせて舞台を引き締める。ソレを『闌る』と言う。だが、許されるのは芸を修めた一流の者だけで、修業中の人間は決して『闌』ってはいけないのだ。解り易い例で言えば、ピカソが長い修練の後に漸く『子供の絵』を描く事に成功した事だろうかな」
「良く赤ちゃんは『無垢』な存在だ、と言われますよね。この『無垢』とは元々仏教用語で『一切の煩悩から離脱して穢れが無い』状態の事を指します。平たく言えば『悟り』を開いた状態でしょうか。ただ生まれ落ちただけの赤ちゃんと、火の出る様な修行の後に漸く悟りの境地に辿り着いた釈迦が同じと言うのは、とても興味深いです。2人は同じ海抜にいます。でも修行と言う巨大な山塊が彼等を分け隔てているのです。同じ事ですか?」
「多分な。修業中は正しい型のみを踏襲し続けなければいけない。繰り返し繰り返し正しい型を身体に叩き込まなければならないのだ。型をなぞると我が浮き出てくる。ソレが『非風』の種に為る。それで良いのだ。画一的な制服に押し込められると反発する様に返って個々の自我が強調されて立ち現われる。一種の『止揚』とも言い得る現象、それに近い。彼女は修行中の身だ。正しい型のみを反復練習しなければいけないのに、ファンからの圧力もあって出来ない。非風に走ってばかりいる。これでは実力を蓄積できないし、それどころか摩耗して行くばかりなのだがね」
「実力を備える事無く外側に出ても何も釣れないぞ。魚さんの方から網の中に飛込んでくれる訳じゃ無いんだ。そんな事じゃ、浮子は微動だにしない」
「自業自得な結果なのに、ホルモンを中心に指ヲタ達は被害者意識を募らせて行き、より一層防衛反応のままに団結し結束力を高めていく。八つ当たりなのにね」
「あんな風に躍起に為ってまで応援する器じゃないと思うんだけど」
「もうアソコまで行くと『愛』じゃないよな」
「時々『愛』は人を殺しちゃうんだよね」
「愛する人がいてその人に意識が吸い寄せられていると、自身の周囲に散在している他の大切な事に眼が向かないし、新たな発見も出来ない。感受性が鈍るからです」
「ホルモン。語源は『放るもん』つまり廃棄処理される部位だ。ソレを捨てずに上手に再生利用したのだな。まさに捨てる神あれば拾う神あり、だ」
「ホルモンを見てるとユーチューバーと言う輩たちを思い出すんだがね」
「ネットを介しているという点では両者に共通点はありますね」
「ネットを通して世界総てと繋がっていると誤解してるけどさ、結局は小さな閉じた世界でプルプルミルクの膜が震えてるだけじゃない。ユーチューバー達だって今は良いさ。何千万も稼げる奴もいるんだからな。でも、そんなのって早晩終了するぜ。そうしたらどうやって喰ってく心算なんだろうか。先の事を見通した上で活動してるんだろうか?」
「ないない。ホルモンもユーチューバー達も自分の世界でジタバタするのに手一杯さ」
「でも、本当にどうする心算なんですかね。写真集は売れず、主演映画は興収がジリ貧、バラエティったってMCやヒナ壇要員でもっと優秀な人は一杯いますし、やっていけるのかなぁ」
「きっと彼女はMCとして活動して行きたいと思っていると、私は想像するのですが、どうでしょう? 今はハカタのメンバー、つまり自分よりも目下の人間を廻しているから上手に見えているだけの様な気がします。外側に出て自分よりも目上の人達を廻す段に為ったら、果たして上手く立ち回れるのでしょうか? サンマさんやアリヨシ君の様に突いたり引っ込めたりして華麗にその場の空気を悪くする事無く上手く廻して行けるのかなぁ?」
「目下の者なら軽々とあしらえるくせに、格上の人が登場するや否や途端に猫を引っ被って指で恐る恐るツンツンするだけだもん、な」
「ヒナ壇要員としても、先行きは不透明だよな。突っ込みでも無くボケと言う訳でも無い。いじられキャラなのか、と言ったら、そうでは無い様な感じもするし」
「結局、ヒナ壇に座った時に演じなければならないキャラが明確に見えて来ないよな」
「ヤツは自己顕示欲の塊だもの。いや、権化と表現した方が適切かな。だから、ただのヒナ壇要員では全然満足できないだろうと思うよ、僕は」
「内側にいる今の内に、キャラをシッカリ設定しておかなければいけないのに、しない」
「ハカタ看板を背負ってる今は良いですよ。外に出たら、頼るモノは、自分だけなんですからね。状況に甘えられる現在に、甘えるだけ甘えるのではなく、チャンと未来を見据えて外で機能する自分だけの武器を作る為に精進しなければ駄目だと思うのですが、周りの大人達はそういう事を彼女に忠告したりしないのでしょうか?」
「映画も、さ。観たけど、さ。学生の自主映画の域を出ていなくて、さ。銭を取っていいレベルのモノじゃないんだよね」
「カメラ廻している人が実質的な『監督』なんだろうけどホルモンの稚拙な指示のお蔭もあってかお遊びお遊戯の範囲から脱出出来ていないよな」
「色々と他のメンバーのアレコレを撮ってはいたけど、最終的には『私』で落とすんだから商業映画の私物化も甚だしいよ。厚顔無恥にも程があるってもんだぜ」
「秋Pは本当の所、指を如何したいんだろうね?」
「ユウコやアッチャンに対してはさ、芸能界で成功する為には何か1つ軸と言うか核に成るモノを決めろ、って教えたからこそ彼女達は『女優』を選択してその道を歩んで行ってる。でもホルモンに関しては一貫性に欠けるよな」
「総花的とでも表現すれば宜しいのでしょうか、TVの連ドラに出演させて女優をやらせてみたり、需要が無いのにも関わらず、週プレのグラビアをさせてみたり、主演女優として舞台公演を打って見たり・・・」
「チケットが捌けなくて運営は大変だったんですってね」
「・・・グループの冠TV番組のMCを任せたりして、挙句の果ては映画監督様です」
「だが、どれ一つとしてモノに出来ては、いない。水面に浮かんだ浮子は、全くと言って良い程、微動だにしていない、ぞ」
「アキモトさん、コレ本当だったらとても嫌なんですけれども、ホルモンさんをオモチャにして遊んでいるだけなんじゃ、そんな事は、ないですよね?」
「判らんで。何せアイツは『ビックリ箱』だから、な」
「アイツはさ、自意識が過剰なんだよな」
「自分のことを苗字で呼んでますからね。そういう人間は自意識のレベルは押し並べて高いです」
「でも何でファンを喰っちゃったんだろ?」
「バレないと思ったんだろ」
「彼女はサイコパシーのレベルが高そうだな、君達の話を総合すると」
「サイコパシーって何ですか?」
「ggrks」
「いや、ヤスダ君が説明した方が速いだろう」
「サイコパスって何だ?」
「この世には君の人生哲学総てを超える数多くのモノが存在するのだよ、ホレイショウ」
「サイコパスと言うのは反社会性人格の一つで精神病質者とも言われる事が有ります。でもコレは程度の問題でグラデーションの何処かにみんなが位置づけされるモノです。サイコパスの程度を計るパラメータとしては、1自己中心性 2孤立感 3恐怖心の欠如
4プレッシャー下での冷静さと集中力 5反抗心 6衝動性 7説得力 8感情的冷淡さで、各要素それぞれでその程度を計って行きます。しかしサイコパスの程度が高さと犯罪者傾向は一致はしません。サイコパスの程度が高くても犯罪からは縁遠い人の方が多いと思います。レベルのゲージのマックスは224ポイントです。因みに168が危険なゾーンへの境界点です。この閾値を超える人はあまりいません。超えれば確実に臨床サイコパスとして扱われるでしょう。歴史上の人物に限って言えばアドルフ・ヒトラーが169、そして暴君として名高いヘンリー8世が178で、ほぼ人類史上最高だと言われています。サイコパスの程度が高い人の特徴として、自分の利益を追求する為には他人を犠牲にする事を厭わない。他人の気持ちが解らない。これはミラーニューロンの欠如が原因と思われます。けれど、矛盾してるようですが、彼等は他者の表情やボディランゲージなどのノンバーバルコミュニケーションを通して情報を得る事で他人の弱点を敏感に察知出来ます。データを取得していないので迂闊な事は言えないのですがサイコパスの人達は微表情を的確に捕らえられているのだと思います。この前も説明した事ですが、微表情というのはコンマ5秒ほどの短時間に表象する表情の事で当該人物のその時の真の感情を性格に表します。これは完全に無意識の内に出現する現象で意識する事で制御する事は不可能なモノです。観察するのには訓練を積む必要があるのですが技術を習得する事は可能です。極稀に生得的にこの特徴を備えて産まれて来るヒトがいます。この人達をナチュラルと呼ぶのですがサイコパスに多いのではないかと思っています。他人の気持ちが理解出来ないので、自然なコミュニケーションが取れず言葉に頼って他人と関係を持ちます。そしてどんな状況下でも他人を喜ばせる事が出来て、どんな状況でも楽しそうに振る舞えます。勿論演技ですけども。ハッキリと言うと超自己中心主義者で自分の利益の身に異常な集中力を発揮します。欲が深くて不安を感じないので引き際が理解できません。そして他人を落とし入れても罪悪感を一切感じません。感情と行動を切り離す事に巧みです。利口で悪質なサイコパスは日常的にゴリ押しと張ったりで数々の山場を乗り切るでしょう。先程申し上げた8つのパラメータから理解できる特質や組み合わせにも因りますが、サイコパスとナルシシズムがくっ付くと少し厄介です。そういう人間は無慈悲で自責の念に悩む事が無く自信家で行動抑制能力が欠如しておりストレスに対しては不安を持つ事は無くて怒りや攻撃性の高さを示します。サイコパスの程度が低い人の職業としては介護士などが上げられますし、程度の高い人で暴力性に富んだ人で知能レベルの高い人間等は特殊部隊の隊員などに為るでしょう」
「最悪」
「不安を感じないからファンを喰っちゃうのか」
「でもユウコの卒業を知って号泣してたぞ」
「演技する事に巧みです」
「うわっ」
「だからそうなのか。ハカタの番組でも若いヤツを廻して廻して最後に一番おいしいトコを持って行っちゃうもんな」
「反対にユウコさんはサイコパスの程度が低そうです。社会福祉士に為ろうとしていた位ですから。ただ意識的に自分のレベルを上げていたという事は在るかも知れませんね」
「意識して自分のサイコパスレベルを上げられるのか」
「誰でもできる事ではありませんが、充分に可能です」
「後一つ付け加えるとしたら、サイコパスの特徴として白眼の割合が多いと言うのもある」
「白眼」
「ホルモン」
「ブラック」
「うわっ、去年の1、2じゃん。最悪」
「去年、世間を賑わせたエンブレム問題の佐野やSTAP小保方もそうだよ」
「そして、もう一人」
「誰ですか?」
「君達の国の首相、ゲリP宰相だよ。トップが間違った事をしている組織は最悪だな。統制が取れないのだからな」
「政治家には多いんですよね」
「人の事を人一倍考えなければ為らない政治家が超自己中心主義者」
「マジか」
「まあ、君達の首相に期待するのは無駄だ、という事だ」
「ショーナンさんは何故そういう風に突き放したように話すのですか?」
「私は確かにこの国で生を受けて育ったが、今は米国籍の米国市民だからだ」
「何で、アメリカなんすか?」
「理由があってね」
みんながショーナンの顔を見ても彼は静かに笑うだけだった。
ヤスダとショーナンを残してみんなが昼食に行った時を見計らった様にヤスダが質問をして来た。
「ショーナンさんは何か含みとかあるんですか?」
「何に対してだ?」
「ウチの首相にかなり辛辣じゃないですか」
「彼のレベルの低さにはあきれるよ。彼がしている事と言えば稚拙なレトリックのすり替えじゃないか。そんな低レベルのまやかしを論破出来ないこの国の知識人と呼ばれる奴等の劣化を嘆くよ。知能豊かに振る舞おうとしても元々がバカなんだから上手くいく訳が無いのだ。私は潰瘍性大腸炎に苦しむ人達を差別している訳では無い。彼は首相として当然の才覚と覚悟を備えていない、と指摘しているだけだ。彼の首相としての資質を問うているだけだ。彼は自衛隊と言う暴力装置の最高司令官だ。有事の際にゲリで対応が遅れる可能性に考えが及んでいない、その事だけでも首相失格だ。ま、中国でもシリアでも何処の国とでも良いが、戦争状態に為った時のこの国の最優先事項は1人の戦死者も出してはいけないという事だ。敵との交戦に於いて戦死者が1人出たとする。当然この国の人々は湧き立ち勇ましく叫ぶだろう。『敵に屈してはいけない』『一丸と成ってこの危機状況に立ち向かうのだ』『進め一億総火の玉だ』メディアにそんな言葉の群れが躍るのが眼に浮かぶよ。新聞だって同様だ。そんな時にこそ客観的で冷静な状況分析が必要なのに、そんな記事を掲載していたら新聞の売れ行きが鈍化してしまうから、率先して錦の御旗を先頭で振り続けるだろうね。産経や読売だけじゃない。朝日や毎日と言った『リベラル』系の新聞会社だってソウするさ。普段は高邁な理念を掲げて『社会の公器である』等と偉そうな事を抜かしてはいるが、結局の所営利企業なのだよ。利益に為るのなら宗旨は簡単に反転されちまうよ。戦死した自衛隊員の母親は世間の期待をヒシヒシと感じ取り、彼等の望み通りの言葉『御国の為に命を捧げる事が出来た息子を持って私は本当に幸せ者です』と言う様な事を無理矢理に言わせられるだろう。だが、戦死者が1人で済むと思うかい? 損耗人員の数が増えて行けば必ず家族、妻だったり母だったり、悲しみの声を上げ始める。最初は『世間』はその声を圧殺しようとする、必ず。『和を乱すな』『そんな事を言うのは敵を利するだけだ』『黙れ!』しかしながら流れは変わる、必ず。戦死者の数が増加すればする程その悲しみの声は大きくなって行き、やがては奔流と成ってうねり津波の様に世の中を悲嘆の声の大渦で満たすだろう。自衛隊の即時撤退を求める声明がメディアの一面に躍るさ。そうなったら政権は持たない。内閣総辞職って顛末だろうな。そして自衛隊の撤退行動が始められる。だが戦争で一番難しいのが撤退と言う作業だ。唯でさえ困難な行為なのに指揮を執る内閣が揺れ動いているんだ、上手く行きっこない。必ず殿戦闘で死傷者の数は桁が跳ね上がるよ。損耗率が60パーセントを超えたらその部隊は『全滅』と呼ばれる。全滅してもおかしく無いね、実戦経験に浅い特殊作戦群は勿論の事、演習で年間125発しか実弾射撃しかしない普通科連隊の兵士なら尚更だな。そうなった時彼はどうするんだろうね。首相に留まっていたとしたら、脳や腸はこの過大なストレッサ―に耐える事は叶わない。確実に病気の再発は余儀なく起こるだろう。幾ら服用しようとも大き過ぎるストレスの元は薬に効用を示させる事を許してはくれない。弾く付き戦慄き悲鳴を上げる肛門を情け容赦なく通過して行く下痢便に総てを支配された首相さんはトイレの個室から全軍の指揮統率を発令する心算なのかね。彼が備えていなければならない資質とは、決断力だ。あらゆる事態を想定して可能な対応策を何段階にも分けて考え出した上で準備を整えておく対応能力と何を取り何を捨てるかの取捨選択が即座に出来る決断力だ。リーダーに求められる資質は統率力やカリスマなんかでは無い。そんな無能なリーダーに命令1つで死地に赴かされる兵士が可哀想だ。自分の体調次第で対応が遅れでもしたら国の根幹を揺るがしかねない事実に考えが及ばない。その点だけでも到底、首相の器では無い。自分の体調に何の考慮も払わず悪化すれば簡単に政権を放り出すその態度が問題なのだ。彼が馬鹿の一つ覚えみたいに繰り返す存立危機事態、その日本語は何だ?危急存亡の秋と言う立派な表現が在るのだからソレを使えば良いのに。だが、ゴーストライターが危惧したのかも知れないな、『秋』をそのまま『アキ』と呼んでしまう事を。ま、彼は何の選択権も保持してはいないがね」
「どういう事ですか?」
「日本の未来は日米合同委員会と年次改革要望書が握っている。この二つには誰も逆らえない。逆らおうとすれば待っている未来は二つ、一つはスキャンダルをでっち上げられて失脚するか、もう一つは殺されるかだ。君達の首相は両者の決定を追認する以外は何も出来ないただの傀儡なのだよ。良い例があのオスプレイの導入騒ぎさ」
「どういう事でしょうか?」
「2015年の7月だったかな、君達の政府は日本国民の血税の内3700億円もの大金を叩いて、17機もの未亡人制作機のオスプレイを導入すると高らかに発表した。明くる年の2016年10月か、米国のシコルスキー社がS-97Raiderと言うヘリコプターの開発に成功したとプレスリリースした。こいつは二重反転ローターを備えていてその上直進用の推進用プロペラまで装備されている凄い機体だ。バッタ物のオスプレイとは比較に為らない程の高性能と高い安全性を誇り、オマケにとてもお求めやすい価格に為っております。オスプレイよりも安いんだ。だから米軍は5万機以上のS-97の導入を内定済みだ。日本のインテリジェンスは一体何をしていたのかね? 幾ら同盟国とは言えこの手の情報は最重要機密で秘匿中の秘匿物にされるのは当たり前。ソレを穿り出して日の本に曝すのが彼等の仕事だろうに、サボっていたのかな。インテリジェンスの情報のリソースの9割は公開情報だ。シコルスキー程の大きな会社が新型ヘリを開発していたとすれば、極秘開発であろうが何だろうが関係なく水面下の胎動も何れ表面に浮き上がってくる。どんな高度な隠蔽工作を駆使しても必ず情報は何かの形で漏洩するモノだ。水と同じで漏れ出してしまうのだよ。公開情報と言うのは新聞やTV、それにネットニュースや雑誌、刊行物だけではない。SNSも立派な公開された情報だ。シコルスキーの開発者やエンジニア達のTwitterやFacebookを細部まで漏らさずにチェックして置く事などはインテリジェンスの常識、初歩中の初歩じゃないか。『欠陥機のゴミ』を引取らされて大損をこくって、どうゆう事さ。在庫一斉セールじゃないんだから。寡婦製造機に乗車願われる自衛隊員が不憫でならないよ。こんな小学生レベルの仕事の出来ない低レベルの連中を雇っている段階で、ここの宰相は『アホ』だって誰にでも判る。ゴミを高値で引取らさせる事に成功して、してやったりって感じの米国の政府の関係者達は今頃は下を向いて含み笑いを堪えるのに精一杯だろうよ」
「ショウナンさんはウチの首相になんか恨みでも抱えてんですか?」
「別に恨みを抱えている訳では無い。ただ、ヤツは人殺しだ。今年の初めにシリア近くのイラクに自衛隊の先遣隊が極秘裏に派遣された。兵站作業を担う部署などでは無くて、特作と呼ばれる特殊作戦群という自衛隊の精鋭中の精鋭、特殊部隊員が12名現地に送られて米軍と行動を共にした。何の為だと思う? 派遣の実績作りのそのまた下地作りという全く意味の無い行動だ。鍛錬された特殊作戦群と言えども実戦経験がなければ赤ん坊と同じだ。演習を幾ら積んでも所詮は練習だ、実戦とはまるで違う、言わばお遊戯みたいなモノだ。実戦経験の無い兵士には何も出来ないから警護役としてデルタフォース一個中隊が帯同した。シリアの国境近辺を移動している時にISと思われる集団から攻撃を受けた。当然集団的自衛権を行使して特殊作戦群も反撃しなければならない。だが初めての実戦で一人の自衛隊員がシャッター現象に陥ってしまった。君なら判ると思うが、意識は在るのに行動する事が出来なくなる現象、つまり意識と行動の乖離だ。敵との交戦中動けなくなってしまった自衛隊員を救出する為に行動したデルタの一員が戦死した。
彼の名前はサミュエル・スペンサー、俺の元相棒、観測員だ。俺の親友だった。俺の命の恩人でもある。
実戦経験の乏しさから国防総省と米軍は今回の軍事派遣にかなり強い態度で反対を表明したし防衛省や外務省も派遣自体には消極的だった。反対の包囲網と言う状況を押し切って自衛隊の派遣を強行に指示したのは官邸、つまり君たちの首相だ。彼は人殺しだよ」
ヤスダはS・ハンターの著作を愛読していたから直ぐにピンと来た。
だから何故ショーナンが米国籍をワザワザ取得したのか、理解出来た。
そして今ショーナンがどんな職業なのかは判らないが、前の職業は判明した。
スナイパーだ、しかもデルタの。
「だからさ、ライフルでの長距離射撃で大切な要素はさ、風向や風速だけじゃないんだ。気温や湿度は勿論、弾頭の形状や質量、ライフリングの偏差の具合、発射薬の量や形状、バレルの長さとかも重要なんだ」
「へーっ」
「サトウ、お前詳しいな」
「小学生の頃は軍事ヲタクだったからな」
「ソレに付け加えるとすると、緯度。コレはコリオリズ・フォースに関係するから大事だ。ライフリングの偏差、これは1フィート当たりの回転率の事だが、マグナス・フォースに関わる重要な要素だ。真直ぐ飛翔する為に弾頭に回転を与えて所謂ジャイロ効果を生み出すのだが、副反応として落下方向への力を生じさせてしまう。コレがマグナス・フォースだ。野球のカーブが落ちる原理と同じだ。それどころか弾頭の質量に対して適切な偏差を選択しないと発射した後に弾頭が明後日の方向に逸れてしまったり、タンブリング、つまり横倒しに為ってしまったりするからだ。高度も重要だぞ。空気の濃度や重力の軽重も弾道に影響を及ぼすからな。弾道特性を左右するのだ。俯角か迎角か、撃つ方向も大切だ。この場合は三角関数が必要に為る。長距離射撃の場合、例えば.338ラプアで1500ヤードの射撃の場合は弾頭が銃口から放出されて放物線に似た弾道を描き対象に到達するまで約3秒飛翔する事に為る。その間に対象がジッとして動かないでいてくれる保証は無いから、素早く次弾を装填して射撃準備を整えて置く事が必要だ。標的が人の場合、狙うポイントとしてはファーストチョイスは腹部だ。頭部は通常は狙わない。人のパーツの中で一番動きが激しいのが頭部だからだ。胸部という選択肢も考えられるが通常は採用しない。胸を撃たれても人は直ぐに倒れ込んだりせず暫くの間は反撃出来るからだ。だが腹を撃たれてしまうと反射的に前に屈んでしまう。反撃不可能な姿勢に成るのだ。警察のスナイパーは少しプライオリティが変わっていて、瞬時に無力化する必要がママ生じる。例えば犯人がハンドガンを突き付けながら、人質を抱き抱えていたりする状況とかだな。人は心臓を撃ち抜かれても最低18秒は生きている。ドラッグなんかを使用していれば何分間も行動出来たりもする。だから警察の狙撃主が狙わなければならないのは、延髄だ。ココを撃たれると人は瞬時に行動停止となる。だから彼等は軍隊のスナイパーとは違うストレスと戦わなくてはならない。ま、警察のスナイパー達が直面する状況の殆どは100m以下の超楽勝で必中の狙撃距離だ。なので周囲の期待値は高く、成功して当然、人質に危害が及ぶなどあってはならない等という無言の抑圧状況下で生成されるストレスはしばしば彼等に『失敗』をプレゼントする。人質を撃ってしまう事など未だマシな方で、あるFBIの人質奪還チームのスナイパーは距離100mの近距離狙撃の際に着弾点を逸らしてしまって犯人の激昂を誘発、他のスナイパー達によって沈黙化されるまでに犯人は人質30人の内26名を射殺、5人に重傷を負わせてしまった。こんな悲惨な結末の事件は、実は結構沢山ある。まぁ、色々あーだこーだ言ったが、結局の所一番クリティカルなのはヒューマン・ファクターだよ。高精度なバレルと精緻で正確なアクションから構成されたカタパルト部を高性能なストックに的確にベディングした上でそれらの構成要素群にマッチしたオプティカルサイト等を採用して組み上げられたとても優れたライフル・アッセンブル・セットであっても射手がヘボでは如何ともし難い。ヒューマンファクターの中で最も重要な事は、呼吸のコントロールだ。ヒトの身体は絶えず動いている。心臓の拍動や胃や腸の蠕動運動の様にヒトの身体、特に内臓は一時も休む事無く動き続けている。その中で最もダイナミックな動きを示すのが、呼吸だ。ただ、自律神経系がドライブしている他と違って、呼吸は自分でコントロールできる。呼吸をコントロールするのは勿論、脳、精神だ。そして精神は体力に裏付けされた時に初めて機能できる。昔のスポ根マンガに出て来る様な時代錯誤の高校の部活の指導者が、ま、何の部活でも良いが野球としよう、体力を使い切ってしまった部員たちに対して『体力が無くなっても気力を振り絞って、ガンバレ!』と怒鳴ったとする。彼は、完璧に間違っている。君達も経験すれば簡単に解る事だが、HPを完全に消費し切った状態では、脳は機能してくれない。消耗しきった状態で気力を振り絞れ、と言うのは酷な事だ。まるで乾いたボロ雑巾を絞る様なモノで、いくら力任せに絞っても一滴の気力さえ滴ってはくれないさ。『健全なる精神は健全なる肉体に、宿る』この言葉が非常に明確に表現している。体力と言う縁の下の力持ち的な支えがあって初めて、精神の力を発動する事が可能だ。千本ノックの様な非科学的で根拠のない練習では無く、米軍のブートキャンプで行われている様な科学的なエビデンスに基づいた効率的な方法で体力の限界点を上げて行く。そうする事で、危機的な状況に陥ったとしても周囲の状況を良く把握して考え行動に移す事が出来る様に為る。静かに息を吸う。肺を新鮮な空気で満たしたら、今度は徐々にユックリと吐き出して行く。半分ほど排出が完了した所で、息を止めて静かに人差し指だけを動かしてトリガーを落として行く。引くのでは、無い。落とすのだ。コレがスタンダードな射撃方法だ。呼吸を制するという事は、全ての事に通じるから覚えておくと良いかも、な。一流のスナイパーは呼吸どころか心拍数すら自分の意志でコントロール出来るそうだがね。ついでに言えば、後は残心の構えかな」
「何ですか、ソレ?」
「残心。射撃は弓道にも通ずる所があるんだな。野球で言えば、ピッチャーのフォロースルーだ。撃った後も弾丸に心を載せて行くのだ。シュチュエーションは違うが音楽で言う『心より発し、心へと還る』にも例えられるかも知れん。精神に頼る部分が大きいのだ」
「ショーナンさん、詳しいですね。射撃とかやってたんですか?」
「何、耳学問さ」
「ヤスダ氏、どうした?」
「顔色良く無いゾ」
「じゃあ、ドミノの買い出しはショーナンさんに決定!」ニタが叫んだ。
「やった。初めてチョキで勝てた。すっげ、嬉しい」サトウが言った。
「大丈夫ですか、1人で」とヤスダが尋ねたのに対してショーナンが答えた。
「大丈夫だ」
「認めたくないモノだな、自分の若さゆえに過ちというモノを」
「ガンダム、神聖にして偉大なる作品!」
「じゃ、行って来る」ショーナンが言った。
「大丈夫ですか?」
心配そうに見降ろすヤスダにショーナンは言った。
「買い出し、それを解決するのが私であると言う不幸を呪おう」
「ハムレットですか?」
「イヤ、適当、だ」
メモを見ながら注文を済ませるとショーナンは明るい店内から夕暮れが近付いた街を眺めていた。ボンヤリという体を装っていたが、辺りを見渡す眼は索敵のソレだった。
1人の女子高生が歩いて来た。
サトウ達によると『絶対領域』と呼ばれる部位だそうだが、その娘の穿いている紺色のソックスと短めのプリーツスカートの間にチラチラと垣間見える膝小僧の辺り、ショーナンの眼が留まった。
脚フェチのショーナンでも見た事が無い程、綺麗な膝小僧をその女子高生は持っていた。
スポーツ系の部活動を連想させる蜂蜜色に灼けた滑らかな肌と絶対に正座を一回たりともした事の無い形の整った膝からショーナンは眼を離せなくなってしまった。膝しか見なかったので彼女の顔立ちが如何なのか全然判らなかった。
良いモノを見た。
匂い立つ様な超絶無比の膝だ。
ショーナンがそう思った時に、ソレは来た。
突然やって来た。
頭の上から巨人がその巨大な手で押し潰そうとする様にショーナンは立っていられなくなり壁にもたれ掛かる事で何とか地面にへたり込む事だけは回避出来たが、動けそうに無かった。
酷いモノだ。
矢張り医者の言う通り薬を服用するべきかも知れない。
ショーナンは霞み始めた頭で余計な事を考えていた。
外の風に当たれば何とかなるかもと思い、手で壁を伝いながら店の前に設置してあるベンチに苦労しながら腰を掛ける事が出来た。
息をするのも一大事業だった。
呼吸をしろ。
呼吸を続けろ。
ショーナンは口と肺に命令をし続けた。
落ち着け。
落ち着くんだ。
ここはアフガンでは無い。
安全が保障されている日本だ。
オレの生まれた国だ。
大丈夫だ。
大丈夫。
そうか、だからあんなにヤスダはオレの事を心配していたのだ。
優れた精神科医としての鋭敏な勘がヤスダにオレの変調を伝えていたから、だから・・・
あの膝小僧を思い出せ。
膝だ。
膝だけを考えろ。
膝だ。
膝だ。
膕だ。
膝だ。
膝だ。
膝だ。
膕だ。
膝を思い出せ。
膝だ。
両手に顔を埋ませて危険な時間が過ぎ去るのを只管耐え忍んでいると、上の方から声が振って来た。
此方の身を案じてくれている声だった。
眼を開けると、そこに先程見惚れていた膝小僧が在った。
「大丈夫ですか?」
オオ、日本の娘さんは何て優しいのだ。
こんなおじさんに優しい声を手渡してくれるなんて。
アフガンではこれ位の歳頃の御嬢さんに手渡されるモノと言ったら、手製の爆弾しかないのだから。
若さを感じさせる微かなスパイシーさを秘めた濃厚で甘い果実の様な香しい芳香を彼女は周囲に魅惑的にも放射していた。
掠れた声で「有難う御座います」と返しながら彼女の顔を初めて仰ぎ見れた。
丸い小さな顔と悪戯っ子を想わせる艶やかで大きな瞳が、少しリョーカに似ていた。
ショーナンとオオヤマが連れ立って南欧料理の店に行った後だった。投票活動が波に乗り始めて順調に回転して行く様に為った頃には、申し合わせた様に誰ともなく昼食を取るタイミングも意識的にずらす様になり部屋の中に誰も居ないという状況を作る事は無くなった。ウレシノもフジムラと一緒に寿司屋に行っていて不在だったのでピザをデリバリーさせたサトウはアツアツの一切れを片手にスパコンの前に座った。
『一度使ってみたかったんだよね』
そう思いながら、チーズとサラミのピザを咥えたままシリアルナンバーをタイプし始めた。500テラフロップスと500ギガの総合的な破壊力は凄まじい威力を見せ、普通のPCやタブレットでは1票投じるのに最低でも2分掛かる所、僅か10秒で完了してしまう神の如くの光速を見せた。ヲトヲが使用する時などは6秒で1票を投じる事が出来てソレを知ったウレシノがヲトヲと席を交換する事も多々あった。
『クソッ、一体どうやったら6秒なんて数字を叩き出せるんだ』
サトウは思い通りに動かない自分の指を見降ろしながら思った。
「ウレシノさん、この薄らデカいスパコンさ、もうちょっと壁際に移動させられないかな」
「先生。私は一旦据えた筐体は動かしたくないんですよ」
「アンタは木村大作か」
「リアル総選挙ってできないのかな?」
「出来るだろ。前に『情熱大陸』でやったじゃんか」
「ああ、スマホを使ったヤツね」
「あの時はホルモンが1秒で消えて笑ったよ」
「人気無えなぁ」
「スマホを使わずにリアル総選挙をする方法は有る」
「どうするんですか?」
「マイナンバー使えば簡単ジャン」
「おい! みんな近所に新しいピザ屋が出来たぞ!」
「この前、A公演に行ったら運良くニャンさんが出演してたんだけどさ」
「どした?」
「いやぁ、笑ったのがさ、振りを容れ切れて無いのか、それとも起こしきれて無いらしくって横の総監督をチラチラ盗み見ながら踊ってんの。だから周りと一拍ズレちゃっててさ、未だ覚え切れてないのかよって」
「イイんだよ、ニャンさんはそれで」
「右脳だけで生きてる方ですからね」
「しかし何で指ヲタってあんな石ころ応援してるのかな」
「まあ、待て、サトウ。石ころだって信じる人からすれば立派な偶像だ。ある特定のメンバーを応援してる人間にとってそのメンバーは言わば宝石だ。色んな宝石が世の中にはある。ルビーやサファイア、ま、この二つは不純物が違うだけで基本は一緒だがな。アクアマリンも有ればアレキサンドライトもある。オパールやらアメジスト、エメラルドもあるし、個人的には俺はムーンストーンが好きだな。ある作家はアルマンダイン・ガーネットに惚れこんでいたそうだ」
「石ころに興味を抱くのは地質学者かタクマくらいだぞ」
「リョーカって何に当たるのかな」
「私の依頼者はフローレスのブルーダイヤと言っていたな」
「フローレスって?」
「ggrks」
「フローレスとはダイヤの等級の事で最高級を意味する。寡聞にも世の中にフローレスランクのブルーダイヤが存在するのかどうかは知らないが、もしも存在するのなら最低でも10億は下らないだろう」
「10億っすか」
「彼に因ると二つ目だそうだがね」
「一つ目って?」
「ユウコだよ」
「やっぱ石ころとは大違いだ」
「まあ、待て。言い過ぎだぞ」
「そうだろうか? 君達の話を聞いたうえで私から言うとホルモンと言う女の価値は0だ。0は一万個集めても0だし100万回掛け合わせても、0だ」
「ショーナンさん、酷過ぎです」
「フローレスのブルーダイヤと言っても、リョーカはまだ磨かれていない原石だ。だからその価値に気付けない人の方が多い。ま、仕方の無い事では、あるがな」
「アイドルというか芸能界で成功する秘訣とか、在るのでしょうか?」
「私の依頼者は言っていた。心の中に『不良性』を持っているかどうかだと」
「不良と『不良性』とはどう違うのでしょうか?」
「頭の良い、言わば優等生は効率を重視する。10インプットしたら100返ってこないと駄目だ。駄目そうだと見切ると直ぐに撤退する。不良は上辺の見てくれだけが重要だ。低レベルの者はプライドだけは高いから体面に拘る。カッコ悪いのは自尊心を痛く毀損するので、石に噛付いてでも何事かを成し遂げようとはしない。他者の視線に敏感なレーダーが泥に塗れる危険を察知すれば、間を置かずに不良達は撤退する。好きなモノや嫌いなモノ、興味の無いモノや消えて貰いたいモノ。色々なモノを飲み込むだけの強靭さ。自分のしたい事をする為にしたく無い事をする柔軟さ。ソレ等は総て『教養』から生み出される。多種多様な本を沢山読む事、その行為だけが『教養』を育てて行くのだ」
「ショーナンさんから見て『不良性』を持ち合わせているメンバーはいますか?」
「唯一人、ユウコだ」
「リョーカとユウコって似てるのかな」ニタが言った。
「顔は成長と共に似て来た様な感じがする、来てるゾ」フクヤが言った。
「後2人とも裸族」オオヤマが言った。
「ユウコは福岡ドーム公演の夜、ホテルの中を一升瓶片手にパンツ一丁でウロウロ徘徊してたらしいな」ニタが言った。
「幾ら何でも浴衣位羽織ってるだろ」モリサキが言った。
「でもリョーカは人見知りが激しいからな」サトウがピザを口に咥えたままでモゴモゴしながら言った。
「ユウコは人見知りし無さそうですもんね」ヲトヲが言った。
ショーナンが口を開いた。「私の依頼者に依ると、オオシマユウコと言う女性もかなりの人見知りらしいぞ」
「そうなんすか?」驚いたサトウがピザを落としそうになった。
「彼のPCに在った映像、彼女が5歳位の頃か、家族でイチゴ狩りをしているモノだったがソレを観る限り人見知りが無い訳では無さそうだ」
「へーっ」みんながショーナンの顔を見た。
ショーナンが続けた。
「彼に言わせれば、彼女のハートはガラス製で少しの衝撃でバラバラに破壊されるのだそうだ。だから彼女はソレを回避する為に自分のハートの周囲を厳重にATフィールドで何重にも取り囲んで自己崩壊を防いでいるのだ。大人や目上の人そして同期は大丈夫だ。コチラからぶつかって行ってもチャンと受け止めて対処してくれる。だが目下のモノに対しては、上手く接触出来ない。子供は残酷で拒絶する事を厭わないから、もしコチラからアプローチして拒否でもされたら自分が壊れてしまう。だから彼女の方から目下のメンバーに話しかける事は無かったのだろう? 唯一の例外がムトウトムらしいではないか。その事実を知ったタカミナ総監督が大層に驚いたらしいがね」
「そうですね。マユユと仲良くなるのにも1年以上かかってますもんね」ヤスダが言った。
「カシワギさんのケツが汚かったお蔭で仲良くなれたってドキュメンタリーの中でシリリさんも言ってますね」ヲトヲが言った。
「これはヤスダ君の専門だろうが、彼女は小学6年の3学期に長年住み慣れた横浜を離れて父親の実家がある栃木に引越しをしたという。周囲に誰も友人がいない状況下で頼れるモノと言えば、親だけだ。しかし最悪の状況が発生する。母親が男と一緒に逃げてしまうのだ。思春期のシュトゥルム・ウント・ドランクと呼ばれる時期には母親の存在がとても重要だ。小さな女の子が大人の女性に変貌を遂げる時期、『少女』には母が必要不可欠なのに、彼女にはソレが無い。コレはとても不幸な状況だ」ショーナンが言った。
「多分ですけれども、ユウコさんは自分の所為にしたのでしょうね。自分が悪い娘だから家族が壊れてしまった、そう考えたのでしょうね」ヤスダが言った。
「そうだと思う。だから自分が良い娘でいれば、再び家族は一つに為ってまたやり直せると思ったのだろうな」ショーナンが言った。
「だからか。ノロカヨさんが言ってました。ユウコさんはあのまま、見たままで裏表が無いと。でもそんな人間は存在しませんからね」
「どういう事?」サトウは2人のやり取りを傍で見ていて疑問を呈して来た。
「ペルソナだな」ショーナンが言った。
「そうですね」ヤスダが言った。
「ペルソナって何?」ヲトヲが訊いた
「ggrks」ニタが突っ込んだ。
「ヤスダ君が説明した方が速いだろう」
「ペルソナというのは『社会的仮面』と言われるモノで、相手に因って微妙に対応が変わって来る事です。例えば、自分の家族に対する振る舞いと親しい友人に対する振る舞いは似ている様で違います。会社の同僚や仲間への対応と街ですれ違った他人に対する振る舞いは全然違うモノに成りますしね。人はそうやって相手に因って自分の対応を変える事でアイデンティティを保持しているのです。人は場面に依って少しずつ役割が違うのです」
「そう、だから彼女がしている事は、24時間オオシマユウコを演じ続けているのだ。本心を隠し続けて絶対に表に出さない。サッパリとした気性、明るくて奔放とも言える言動と人懐こさ、とは或る作家が横浜の女性を評して行った言葉だそうだ。依頼者に因ればそのままと言えるのだそうなのだが、丸々そんな人間なんか存在なんかはしない。彼女は『良い娘』を演じ続けているのだよ、12の時からな」ショーナンが言った。
「辛い」フジムラが項垂れた。
「孤独や憂い、闇と言ったダークなモノ達は深遠な淵よりも深い心のセントラル・ドグマ底に厳重に巧妙に秘匿してあるのだろうな」
「昔、歌番組で金髪白豚師匠と共演した時に、収録中に師匠が『オオシマユウコの瞳は悲しみの碧く冷たい水を満々とたたえた湖』の様だ、って発言してスタジオ中をドン引きさせたらしいけど、流石に天才古典落語家、見事な形容じゃないか」ウレシノが言った。
「ヤツは本寸法しかしないからな」落語好きのニタが言った。
「そういや前にユウコヲタの人が言ってました。忙しさが一番のピーク時に化粧台の前に座って『お家に帰りたい』と泣きながら言ってるのをオカロさんが目撃していたと」
「ユウコのヲタに言わせると彼女の本当が見たくてヲタを続けてるんだってさ。例えば、トシに『何で連覇逃してんだよ』と突っ込まれて『ウッ』って成った時みたいな、そーゆー本当のユウコがチラホラと散見できるのが嬉しいんだってさ」
「そういや握手会に初めて来た客が握手もしないで、いきなりユウコの頭をポンポンして激ギレさせちゃって即『出禁』になった事があったな」
「第2回の総選挙直前の握手会で、それまでは(これ以上アッチャンとの関係を複雑化させたくないから)『私は1位になんか成りたくない』って公言してたユウコにヲタの一人が『本当に1位に成りたくないのか』と問い詰められて、泣きじゃくりながら『本当は1位に成りたい』って答えてたらしいからな。そうゆうのが観たいんだろうな、ヲタ達は」
「彼女は誰も傷付けたくは無いし、誰からも傷付けられたくも無い。だからこそ孤独を好み徒党を組まないのだろう」
「派閥を造りませんからね、ユウコさんは」
「運営からも一定の距離を常に置き続けてました」ヲトヲが言った。
「そういうさ『政治』みたいのが嫌いなんだろうよ。でも何処でもそうだけど特にあの世界は『政治力』がモノを言うじゃないか。映画のキャスティングにしろTV番組のブッキングにしろ、さ。凄いよな。何物に対しても迎合せずにあの地位を自分の力だけで奪取したんだからな。普通の人間じゃないよな。普通だったら『靡いちゃう』もんな」
「誰かが、『人間は政治的な動物』って言ってた様な気がする」
「政治嫌いなんじゃない?」
「馴れ合うのも嫌いなんでしょうね、きっと」
「イヤ、恐らく『馴れ合う』のが苦手、と言うよりも『馴れ合い』方を知らないのだろう」
「天真爛漫そうに見えますけど」
「小さい時に昼寝をしている御兄ちゃんの耳の穴に卵かけご飯を注ぎ込んだり」
「テーブルの天板の裏側に溶けたチーズを張り付けて、冷えて固まったらベリッと剥がしてニコニコ食べる」
「そういう部分が、彼女の本質なのだろう」
「すると、ユウコさんは外交的で安定性の高いディレクタータイプを演じている」というヤスダの発言を引取ってショーナンが言った。
「不安定な内向的な性格、エキセントリックタイプ、だろう」
ショウナンが続けた。
「だが大したモノだよ。依頼者から得た情報をまとめるとユウコと言う少女は物凄いヤツだな。或る評論家と自称している男が彼女を評して『普通の子』と述したらしいが、その男は何を如何見ているのだろうかな。その当時ユウコが背負っていたものは280余名のメンバーとその家族の未来、スタッフの生計、そしてファンが抱く希望。そう言ったモノ全てが彼女の細い小さな肩に重く圧し掛かっていたのだから、普通の人間だったら『普通』でいられる訳が無い。圧力に耐え切れずに潰されるか、或いは自ら気を狂わせる事で対処するか、どちらかだ。全く大したモノだよ。重圧を一切外部に漏らさずに『普通』に振る舞えていたのだからな。そんな通常では無い状況下で『普通』でいられるヤツが『普通』な訳は、絶対に有り得ない。将に『バケモノ』、種に於いて完璧なモノはその種を超える。彼の言う通りだな」
「ダーウィンですか?」
「イヤ、ゲーテだ」
「明るく輝く太陽の様に見えているのは幻想で、あーちゃん、清川あさみさんが言う様に『月』なのでしょうね、本質的には」
「人見知りで暗く他者を傷付ける事を極端に恐れ、他人から拒絶される事を嫌い。大切に思っている人を喪失する事を嫌がる。ソレを隠し通せたのだ。本当に『化け物』だよ」
「昔、まだ地下アイドルだった頃に催されたファンミーティングで、自分のファンが他のメンバーと親しげにそして愉しそうに歓談している事にユウコさんはブチ切れして、ノロさんが懸命に宥め賺していたそうですからね」
「その頃はまだ下地が見えていたのだな」
「ナツ先生が残っててくれればな」
「いきなり何を言い出すんだ?」
「だってさ、何時かの紅白の時、パルさんが振りを付けて貰って、その時に横で見ていたユウコが言ったじゃんか。『見る見るうちにパルさんの顔が変わって行った』って。ナツ先生とリョーカを絡ませたら凄い化学反応が起きるとオレは思うんだよね」
「まあ、ユウコさんに言わせると『ナツ先生は振りを入れるのでは無くでダンスの心を入れてくれる』そうだからな。矢張りソコはデカいよな」
「僕、友達がいないんです」ヲトヲはショーナンと2人で通い慣れた寿司屋のカウンターに座っていた。
「友人の多い少ないはあまり問題では無いな」ショーナンが言った。
「何が大切なのですか?」
「どんなにソイツが嫌な奴でも、腹の底から嫌いな奴でも、自分が窮地に立たされてしまった時にソイツが携帯している水を半分分けてくれる、そういうヤツが友達だ。長年コチラは親友だと思っていたとしても、困った時に何もしてくれない。別に特別な事をして欲しい訳じゃ無い。ソイツに出来る事を、指を一本上げて欲しいだけなのに、何もしてくれない。そういうヤツは友達では無い。単なる知り合いだ」ショーナンは十二分に仕事が施された真鯛を一貫口に放り入れながらヲトヲの質問に答えた。
「ショーナンさん、僕の友達に為ってくれませんか?」
「私にとって君はもう既に友達以上の存在だ」
「何ですか?」
「君は、私の大切な、掛け替えの無い、仲間だ」
ヲトヲは嬉しくなって詰めの塗られた特牛イカを一口で頬張った。
大きな紙袋を両手に1つずつぶら下げて部屋に戻って来たフジムラをニタの呆れた様な罵声が襲った。「何だい、君は毎回毎回。バカみたいに大量のお菓子を買って帰って来て。膨大な量の饅頭やら大福やらの波状攻撃で皆を閉口させている事に気付かないのかい? 何だい何だい、今回はどんな代物だい?」
「ズンダ餅買って来ちゃった」嬉しそうにフジムラが答えた。
「こんなに沢山モチばっかり在っても仕様が無いじゃないか。本当に学習というモノをしろよ」ニタはそう言いながらも紙袋に手を伸ばしていた。皆もニタと同様に上辺は呆れ顔を装っていたが内心のウキウキが表に出無い様に紙袋からズンダ餅の包みを銘々に引っ張り出して行った。皆でとっくにモチに齧り付き始めているフジムラに倣うかの様にズンダの包装をルンルン気分で解いて緑色の毒々しさ満載の餡に塗れた餅を頬張っていった。
「ココのズンダは美味しいんですよね」ヤスダが言った。
「餅が自家製だからな」フジムラが早くも2個目の包みに手を伸ばしながら言った。
「枝豆は越後の黒崎産だからな、美味い筈だよ」ニタが言った。
「タカミナって将来政治家に成る心算なのかな?」ズンダを飲み込みつつサトウは言った。
「この前は田原総一郎に相当な勢いで焚付けられてたからな」ニタが言った。
「でも、大丈夫なのでしょうか?」ヤスダが困った様に言う。
「どゆ事?」
「彼女の本『リーダー論』読みましたけど、タカミナさんは自己分析を間違えているんですよ。『私に付いてコイや!』ってタイプの、つまり先頭に立って人を引張って行くタイプだと自分を分析してるんですね。だから次の総監督は自分と全く違うタイプの人間、周囲の人達が思わず支えて上げてやりたくなるタイプ、ヨコヤマさんを選んだと言ってるんですが、違うんですよね」
「そうだな。タカミナが総監督として機能出来ていたのは、裏バンが2人いたからだよな」
「そうなんですよ、サトウさん。裏の大番長マリコ様と、ハマの小番長ユウコさんが2人して陰で支えていたからこそチャンと機能していた訳です」ヤスダが言った。
「2人が『オマエ等、フザケてんじゃねーぞ! タカミナの言う事をチャーンと聞けよ、コラッ! チンタラポンタラしてるとシメるぞ、オマエ等!』って裏側で他のメンバー達の手綱を引き締めてたからタカミナは表で心置きなく総監督に専念できた」ニタが言った。「マリコ様にシメられたら男でも完璧に畏縮するぜ。玉袋がキューンと小さく縮み上がってしまってまるで梅干しみたいに成っちまう」サトウが打ち込みを続けながら言った。
「迫力あるからな」
「ホンモノですしね」
「男で御稲荷さんが萎縮するなら、女性の場合は・・・」フジムラが言い掛けたのを遮ってニタが呆れた声で窘めた。
「君の発言は一々下品に響くんだよ。品性を疑われるぞ、全く!」
「だから裏バンの2人が次々に外側に出て行ってしまうと大騒ぎで、箍が外れた様にスキャンダルが頻繁に漏洩しちまう様に為っちまった。支えを失ったタカミナ総監督機関が機能不全に陥ってしまったんだな。遂には最後まで2人に変わる支援要員は現れなかったな」そう発言したサトウにウレシノが囁く様に言った。
「自分が観た『自分』と他人が観た『自分』は違うモノなんだね」
「そうだな。自分を客観視するのは難しいって事だな」サトウが答えた。
「タカミナに政治家は無理だよね」ニタがボヤきが塗された声色で言った。
「グループの繁栄と言う目標をメンバーの内で共有化出来ていました。個々の目標も抱えつつも1つの大きな目標に向かって全員一丸と成って進んで行く事が出来た。だからタカミナさんの様な人でも率いて行く事が可能だった。でも現実の政治は真逆です。対立する考えや全く違う目標を擦り合わせて、あちらを削りこちらに盛って漸く最大公約数たる妥協策を産み出して行く訳です。決してみんな満足出来ない結論を無理矢理に納得させる事が民主制下の政治です。みんな其々に一寸ずつ不利益を甘んじて引き受けさせることなんてタカミナさんみたいな綺麗で一本調子の心の持ち主には到底無理だと私は思いますね」
「オデン持った旗ぼーに似てるシワシワのジジイの目は節穴なのかね」ニタが言った。
「ドコを見てるんでしょうか?」
「あんなんで良く政治評論家などと名乗れているな」
「ま、昔はソープから腰を振りながら実況中継した男だからな」
「タカミナには無理だよ」早くも7つ目のズンダの箱を空にしながらフジムラが言った。
「あんなに純粋な心を持っている娘に腹芸は出来ないだろうし、無理して寝業師の真似事をしちまえば遅かれ早かれ心身に異常を来して、特に綺麗な心はバラバラに破壊されちまうだろうよ。政治家なんて回避しとかなきゃ駄目だ、絶対に。だって政治には多かれ少なかれ必然的に欺瞞が伴うもんだ。ヤスちんの言った通り全員を心底納得させられる満点解答の様な政策なんてモノは絶対に産み出せない。だから絶対に何処かしらに欺瞞が潜むさ。だがタカミナは嘘を嫌う。観ただろ?第一回の組閣騒ぎの時の映像を。『オトナ達は何時も嘘を言う』そう言いながら彼女は泣きじゃくっていた。ユウコも同様に嘘は嫌いだが清濁併せ呑む事を覚えされられて来た辛い人生経験があるから対応するだけの知恵は身に付いてるさ。だがタカミナは違う。そんなに器用じゃない。嘘を寄生させるような寛容は持てない。だから嘘を許せない。政治に関わる様に為れば必ずと言って良い程欺瞞を引き受けなければ為らない場面が出現する。仕方無く受容れたとしたらソコから彼女の真っ直ぐな心はバランスを崩して行く。タカミナは嘘も許せないけどソレを受容している自分自身も許せない。だから無理矢理に自分を納得させていても自責の念が抗体の様に彼女の心を攻撃し始めるだろうよ」サトウが強い口調で言う。
「自己免疫疾患ですね」ヤスダが言った。
「ああ、ガラスは固いけれど脆い。極僅かにでもヒビが入ってしまうと軽い衝撃でも簡単にバラバラに砕け散る。純粋で真直ぐな心ってのは、ガラス製だ。欺瞞を隠し続けて行く内に葛藤が生み出した自分自身への不寛容に蝕まれて損傷を受け続けた彼女のATフィールドが耐え切れず遂に閾値を超えて消失した途端に」サトウはパンと手を1つ叩いた。
「ソレ以上は聞きたくありません、悲劇しか浮かばないじゃないですか」ヤスダは嘆いた。
「壊れた心と共に生きて行けるほど、人は強くは無いって事さ」サトウが言った。
「聞きたくありません、聞きたくありません」両耳を手で塞ぎながらヤスダが喚いた。
「ドッキリの時はさ、曲りなりにもって言うか形はどうであれメンバー達に謝罪は出来てたじゃないか。一応それで贖罪は済んでんだよ。だから心は壊れなかった」ニタが言った。
「破綻して、バーンッ!だ!」サトウが天板を叩きながら叫んだ。
ヤスダは耳を塞ぎながらイヤンイヤンと赤ちゃんがむずかる様に小刻みにかぶりを振った。
「でも、最近物言いが似て来たよな」モリサキがサトウに話しかけた。
「何が?」
「ショーナンさんの話し方にソックリに為って来たって事さ」
「よせやい」口では否定しつつも満更でも無い顔つきで照れ隠しなのかサトウは顎をコリコリと掻いた。
「俺決めた!」
「どうしたサトウ、突然?」
「俺、トレーダー辞める」
「辞めてどうすんの?」
「まだ何をするかは皆目見当も付かないが、とにかく辞める。そして実業に付く。もう虚業は沢山って事が今回、こうやってみんなで集団生活をしてみて良く理解出来た」
「何か当てはあるのか? 先生」
「全く、無い」
「まあ、待て。早まるな」
「来てるモノが無ければ止めて置いた方が良いぞ」
「おいおい、目星位付けて置かないと駄目だぞ」
「人生を選択しようとするその態度は立派だ。キミが何をするのかは判らないが、言葉を贈っておこう。『こんなのは別に大した事では無い。私は大丈夫だ。私には出来る』辛い時心の中でこの呪文を唱えると良い。不思議と大抵の事は耐えられる様に為る」
「有難う御座います、ショーナンさん。家訓にします」
「お前、まだ独り身だろ?」
「自己暗示の典型例ですね」
「自分を騙すのだから寧ろ『自己欺瞞』と言うべきではないかな」
「危ねぇなぁ、タクっ」
「どうしたい、サトウの先生」
「今さ、買い出し行ったらさ、自転車に轢き殺されかけちゃってさ」
「大袈裟なんだよ、お前はさ。何でも大問題に発展させようとするだろ、何時も」
「だけどさ、前見てねぇのは、いかがなモノかと思うんだよね。コッチはさ、ピザを10枚も抱えてヨタヨタ歩いてるんだからさ、スマホ何か見てんじゃないって話だよ」
「相手、JKか?」
「イヤ、オッサン」
「オッサンに突っ込まれるのはイヤだなぁ」
「だろ」
「何で自転車乗ってる人達は傍若無人に振る舞えるんでしょうかね?」
「私がこの国を再訪した時、ま、何ヶ月か前だがね。1つ感じた事がある」
「何でしょうか、ショーナンさん」
「この国の大部分の人々は思考を他人に委ねている様に感じ取れたのだよ。自分でデータを収集して熟慮して物事を判別する行為を他人任せにしている様な」
「そうかも知れませんね」
「自分の脳味噌を酷使する事でグルコースを消費する事を回避しているのだろうか。だが、自分の頭で考えないで他人に施行判断を任せてしまうという事は、その他人に自分の意識や行動を乗っ取られて支配されている状況と言えるだろう。そんな受動的な態度でいれば自ら行動を選択すると言う能動的な振る舞いは取れっこない」
「TV番組で、納豆が身体に良いとか放送されるとスーパーの棚から商品が消えるのも、ソレが原因だな」
「自転車で突っ込んでくる奴等も同様だ。除けるとか避けるとかの選択肢がそもそも最初っから大脳皮質にインプットされてないので、何も考えずに真っ直ぐに進むだけなのだ。。『きっと相手が除けてくれるだろう』等という希望的観測に基づいた行動しかとれない人間が多い様だな。自分の観たいモノしか観れない人々が多いのだろうか?」
「メタ認知能力の不足、つまり想像力と鳥瞰的な視点の欠如が起因と成り適切で俯瞰的な未来予測図を上手く描けないのでしょうね」
「人は結局、世界を自分の見たい様にしか見れないんだね」
「自分の意思で行動を選択するという概念が無いのだな」
「ソレで轢き殺されちゃ、堪らねっすヨ」
「自転車で事故を引き起こすなんて考えもしませんからね」
「もし重大な人身事故を起こした時に保険に加入していなければ、ま、殆どの人は考慮すらしていないだろうがね、彼等を待っている未来は自宅売却、一家離散そして自己破産だ」
「そんなの頭の片隅に浮かんですら来ないですよ、きっとそういう人達は」
「物事を客観視する事が苦手な人達が多い印象も受けたな。私が国を離れた当時は、まだまだ一杯の人が出来ていたと思うのだがね。鳥瞰的な視点や想像力と言ったモノは活字の本を読書する事で養われていく。本を読むと言う行為に親しい人達が減ったのだろうか?」
「今、街の本屋さんは激減してますからねぇ」
「その点でリョーカは安心だ。あの世代にしては比較的本を読んでる方だから」
「俺、今週の個別当たってんだよね」サトウが言った。
「あ、ボクもです」とヲトヲが言った。
「選挙前に会っときたいな」とサトウが言うとモリサキが窘めた。「無理だろ。時間が無いゾ」「モリサキさんは当選しなかったんですか?」「いや、3ブロック分当たった」モリサキは続けた。「こういう時に限って全部当たりやがるんだよな、悔しいな、会いたいな」
「誰が当選してるんですか?」とヤスダが尋ねると何と幸運なのか不幸なのかショーナンを除いた全員が当選していた。「ウーン、じゃ、こうしませんか? 一人一回づつだけ会いに行くってのは」
「賛成」モリサキが言った。
「賛成の反対なのだ」サトウが言った。
「いない人の分は残った人でカバーしましょう。じゃ、スケジュールを組みましょう」とヤスダは提案した。サトウは実に嬉しそうな笑顔を浮かべながらスケジューリングアプリを使って同時に2人が不在の状況をなるべく作らない様に工程表をアッという間に組み立てた。
「ショーナンさんは当選しなかったんですか」ヤスダが尋ねた。
「最初から応募しなかった。この作業が有る事が判っていたからな」
「じゃ、私の握手券を一枚譲りますよ。証明書として保険証と社員証を2つお貸しします。これで会場に入れる筈です。やっぱり、全員で会いに行きましょうよ」
「そうだな、そうするか。リョーカに投票してる事を伝えて安心させてもやりたいからな」
「ねえねえ、みんなでこのブレス付けてかない? チーム一丸って事で」とサトウはLEDを使用して綺麗な青色に光り輝くポリマー製のブレスレットをバックの中から取り出した。
「お前、そんなの何時も持ってんの?」ニタが言った。
「何時もじゃネェよ、たまたまだよ、たまたま」
「あれ、でも昨日買い出しの途中で仕入れたんじゃなかったでしったっけ?」とフジムラが不思議そうな顔をしながら言った。
「バーカ、バラすなよ」サトウが言った
選挙期間中に催された個別握手会の最終日、鍵閉めはオヒゲさんだった。
オヒゲさんには全握ででしか会った事が無かったから個別でってのが新鮮に感じられた。だからリョーカは「個別でっての初めてだよね」と男に伝えた。
「報告に来た」男が言った。
「報告?」
男は左手に巻かれたブレス、綺麗な青色に光っているポリマー製のブレスを見える様に掲げて「3日間でコレ付けて来た人、何人かいただろう?」と言った。
リョーカが頷くと、男は「私の仲間、チームの人間だ」と言った。
相変わらず彼の発する言葉の群れはとても優しくリョーカの耳朶の内で心地良く響いた。
みんなで合宿しながら投票している。そしてこの3日間に、一人一回限定の約束で握手に来た。今、仲間は不在中の私の分まで頑張ってくれている。だから、リョーカさんはのんびりリラックスして来週の土曜日を楽しみにしててくれ。65パーセントはもう既に投票済みだ。何の遅滞事項も発生していない。全てはシナリオ通りだ。心配は全く不要だ。
男はそう言った。
『そっか、今日で3回目の握手だ。だからか。馴染んでるなぁって感じたのは』
そう思うと同時に下腹部の辺りに軽い疼きの様なくすぐったさを覚える。
突然、リョーカは奇妙な感覚に包み込まれた。
短い10秒間が過ぎ去って行きハガシの人が男を剥がそうとしたのに対してリョーカは、
「ダメ! まだ! 話しが、終わって無い!!」ハガシの人をキッと睨み付けて会場中に響き渡る大声を張り上げた。その剣幕の強大さと衝撃にハガシの人はビックリして手を男から離し、文字通り本当に跳び上がってしまい着地した後ショックでそのままフリーズしてしまった。男は既に手を完全に離して立ち去ろうとしていたが、リョーカが両方の手で右手首をガッシリと掴んで離さないのを見て取ると彼女の方に向き直った。
リョーカは言った。
「とても不思議なんだけど、オヒゲさん、あのね」リョーカは言葉を探す様に足許に眼を走らせた後見上げて男の眼を真正面から見詰めながら言った。揺らいだ感情がリョーカの語気を微かに震わせた「どうして今、そんな眼差しで私を見ているの?」静かにリョーカを見ている眼、この人がこの類の眼差しを持っている瞬間に出逢うのはコレが最初だった。
「どんな眼差しなんだい?」男は優しく尋ねて来た。
「まるで、私の事を『愛している』って感じの。好きな人に初めて出逢えた時みたい、な」指が白くなるほどきつく握り絞められたリョーカの右手の内側にソッと左手を差し入れて、或る場所を軽く押す事でリョーカの手から力を奪い取ってしまい、優しく男は彼女の右手から逃れた。左手も同じ様にして丁寧に振りほどくと、ヒゲ面の男は初めてリョーカに会った時の様にコンマ5秒くらい微笑を浮かべて何も言わないまま踵を返して、ブースから立ち去った。
「指ヲタって何でユウコ嫌いなのかな?」
「彼等は地上を這いずり回る事しか出来ない憐れな連中だ。そんな彼等の上、はるかに仰ぎ見るだけの青空をユウコは平然と悠々と飛んでいる。撃ち落としてやりたいが彼等の高射砲では全然届かない。地上と言う2次元に縛り付けられた人々は指を咥えて羨むしかない」
「ヤツ等、怖いよな。愚か者は正常な判断が出来ないので何を仕出かすか判らないからな」
「レベルの低い人間ほどプライドだけは高いんだよね」
「何で、ですか?」
「努力次第で高められるモノを自分の中に発見できていないからだ、プライド以外は、な」
「自分の知ってるモノが、世界の総てだと勘違いしてるんだよ」
「世界は彼等の知らない事で満ち溢れているのにな」
「だから他人が自分と違う考えを持っているなんて、最初から考えも付かない」
「ホルモンは実際他のメンバー推しからは嫌われてるからな」
「人に好かれる才能、コレは天賦のモノだ。そして同様に人に嫌われる才能コレも天賦のモノだ。訓練や努力で習得出来るものでは無い」
「もうアソコまで行くと『愛』じゃないよな」
「時々『愛』は人を殺しちゃうんだよね」
「愛する人がいてその人に意識が吸い寄せられていると、自身の周囲に散在している他の大切な事に眼が向かないし、新たな発見も出来ない。感受性が鈍るからです」
「何か、同じ事を聞いた事があるような気がするな」
「この前の震災の後さぁ、幸せ指数ってのが上がったジャン。何でかな?」
「幸せ指数って何だ?」
「幸福度指数の事ですね。そうですね、何故でしょうか?」
「震災当時多くの人が東北地方で悲惨な体験を強制された人々をメディアを通してライブで観た。そして思ったのだ。この人達よりは私はマシだ、と。どんな悲惨な状況下で暮らしていようとも、どんなに赤貧に喘いでいようとも、肉親を無くしたり家や財産を失った『可哀想』な人達よりも随分とマシだ、と。その結果として幸福度指数が上昇したのだ」
「そんな・・・」
「辛いですけど、多分、真実です」
「そうだな。御嶽山の噴火の時だって、ネットじゃ大勢の人が『メシ美味』って喜んで騒いでたもんなぁ」
「自分よりも下位の人間が存在すると言う事実を確認する事で自己のアイデンティティを崩壊の危機から救い出すのだ」
「ショーナンさんが言った事で怖いのは、そういう一部のネットの人達と我々と全然違わないという事です」
「どういう事?」
「自分よりも過酷な状況下で日々暮らして行かなければならない人々を比較対象とする事で、自分はまだマシな方だ、と優位性を確立させる事で自身を自己満足させているのは他ならない我々だ、という事ですから」
「ヤツ等と変わらないって訳か」
「イヤっ、そんな事は無い、と思いたい」
「しまった、失敗した!」昼食から戻って来るなりサトウが天を仰ぎながら叫んだ。
「俺、チャーハンを目一杯喰っちまった」同行していたニタも呟いた。
笹掻きゴボウの気高い芳香がアクセントと成っていて薬味の下し生姜が全体をピリッと引き締めているショーナンお手製の豚汁の香しい匂いが部屋の中一杯に充満していたからだ。「ショーナンさん、豚汁作るなら作ると言って下さいよ」サトウが抗議した。
「スマナイ。だが、声を掛ける暇も与えず『中華だ』と嬉しそうに叫びながら出て行ってしまったのは君達なのだが」
「さっきの御神籤に書いてあった通りじゃないか」ニタがサトウを見ながら言った。
「おみくじ?」熱々の芳醇なスープで握り飯を流し込みながらモリサキが訊いた。
「いや、いつもの中華屋さんなんだけど、あそこのテーブル席に目立たないけど御神籤クッキーの自動販売機があるじゃん」
「ああ、あの小さなガチャガチャみたいなヤツですね」ヤスダが蕩けるギリギリ寸前の里芋を箸で摘まみ上げながら言った。
「チャーハンを鱈腹喰った後にコイツが何を思ったか100円入れて御神籤を引いたのよ」「そしたらさ、内容が酷くてさ、頭に来ちまって」サトウが軽くイキりながら言った。
「どんな内容?」然程興味の無い様子でフジムラが尋ねた。
「失せ物出ず。先走って失敗する。旅行、事故る。恋愛遠い、仕事険しい道のり、数日後に取返しの付かない大失敗を仕出かす危険在り、注意せよ。ほら、散々だろ?」
呆れ気味にニタが「読み終わるなり、この馬鹿がクッキーを握り潰しやがって、テーブルの上にバラバラに打ち撒けちゃって、その後掃除すんのが大変だったんだから。チョットは考えてから行動しろよ。あの店出禁に為ったら一体どう責任取る心算なんだ」と言った。「こういう失敗は別の大きな失敗を引き寄せてしまうモノだから用心するに越したことは無いぞ」ヲトヲに豚汁の御代わりを渡しながらショーナンが言った。
「判りました、ショーナンさん。今後は気を付けて行動します」神妙な顔付をしながら、サトウが答えた。
「僕、何となく解った気がする」
「どうしたい、藪から棒に?」
「僕、戦争は颱風みたいなモノだとずっと思ってた。首を竦めて平身低頭していれば何時の間にか過ぎ去ってくれるモノだと思ってた。でも違うと思う。自分の手を血で汚してでも力尽くで終わらせないといけないモノなんだ。逃げちゃ、ダメなんだ」
「良い所に気が付いたな、ヲトヲ君。始めるのは簡単だが終了させるのが困難なモノの代表が、戦争だ」
「有難う御座います、ショーナンさん」
「これチョット酷いよなぁ」サトウが言った。
「何だいコレ?」
「去年の総選挙でリョーカがステージの上で吐いちゃってそのまま倒れ込んだじゃないか。それを『可哀想だが、憐れだな』とか他のヲタが言ってやがんのサ、酷いよな全く」
「確かにデリカシーに掛ける発言だな」ニタが続けた。「でもネットってそんなモンだぞ」
静かに聞いていたショーナンが話しかけた。「サトウ君、その発言をしたヤツのIDを私のiPhoneに転送してくれないか?」
「良いですけど過去ログですし何も情報とか不明で個人とか特定すんのムリッすよ」
「構わない、送ってくれ」
「了解です」サトウはiPadを操ってID番号をショーナンに送った。
ショーナンは立ち上がりながら自分のiPhoneを手慣れた手付きで操作して情報を引き出しソレを確認すると或る場所へ電話を掛け始めた。「Hello, 18X. This is 18A speaking. How is Fort Meade, can you adapt yourself in the new environment, Mike?」流暢に英語を操りながらも他者に内容を聞かれたくない様でスルッと自室に入って行ってしまった。
モリサキとサトウは互いに顔を見合わせて外見からの印象では英語に程遠いショーナンの顔とさっき聞いた流暢な英語を突き合わせて奇妙な感覚を覆われた事を確認し合った。
電話を終えたショーナンが自室から作業部屋へと戻って来たのでサトウは訊いてみた。
「ショーナンさんって喋れそうに見えないけど上手いんですね、英語」
「そうだな。海外の暮らしが長かったからな」
「バーカ、アメリカ国籍って言ったろ。喋れて当然じゃないか」ニタが言った。
「アメリカですか?」サトウが言った。
「いや、色々さ」
「それじゃショーナンさんは何か国語喋れるんスか?」
「英語、フランス語、スペイン語、インドネシア語、ペルシャ語、タイ語、タガログ語、ロシア語にアラビア語と朝鮮語、それに中国語」
「すっげ!」
「じゃジャカルタ楽勝じゃないですか。クククク」傍で聞いていたヤスダが笑った。
その時机の上でショーナンのiPhoneが震え始めた。取り上げて着信したばかりのメールを読むとショーナンがポツリと言った。「さすがマイク。仕事が速い」
開けて午前3時過ぎにヲトヲが忘れ物を取りに作業室に入ると玄関のドアが閉まる音がしたような気がした。一瞬『何だ』と気に為ったが『イヤイヤ』気の所為だと思い探していたケータイを机の上に見つけて手に取ると自室に戻って寝る作業に戻った。
翌朝、朝食はショーナンお手製の洋風おじやだった。鶏の出汁が良く利いていて煮込まれたニンジンや玉ねぎなどの香味野菜と良く合っていて超絶の美味さだった。いつもの様にみんなで競う様に食べたのだが、思いの外おじやはアツアツで舌を火傷する者が続出してしまった。しかし、その喰いっぷりから『魔人』と呼ばれる事が定着し始めていたフジムラだけは熱さを物ともせずにワシワシと食い進んで行った。その様子を見ていたニタは「お前はブルドーザーか」と言い放ったのだが『魔人』は不敵な笑みを漏らすだけだった。
「オハヨウ御座います。今日も一日宜しくお願いします、ユミパンさん」とTVモニターを見上げながらサトウが女性アナウンサーに向かって挨拶をした。
彼女はニュースを読んでいた。
「今日午前5時頃、世田谷区経堂の路上で男性が倒れているのを通り掛かった新聞配達員が発見しました。男性は頭部を鋭利な刃物で切断されており病院に搬送されて死亡が確認されました。警察は殺人とみて捜査を始めています。死因は頭部を切り落とされた事に因る失血死と見られています。遺体が発見された場所には夥しい量の血液が残されており、警察は殺害現場と発見された場所は同一とみて周辺の聞き込み調査を始めています。また頭部の口の中から拳大の石が見付かりました。コレはマフィアが裏切り者を暗殺する時に良くやる儀式、オメルタに酷似しているとの事です。コレは殺害された本人及び家族そして他の構成員に対して沈黙を要求する無言の圧力を意味すると言われます。殺害された男性は近くに住むアガタヨシオさん、37歳と見られており警察は口に残された石等から猟奇的な通り魔殺人の可能性も視野に入れつつ主に怨恨による殺人と見て捜査を進めて行く方針です。では次のニュースです。昨日午後・・・」
TV画面に殺された男の顔写真が大きく表示されるとウレシノが声を上げた。
「アレぇ? コイツ知ってるよ。有名な指ヲタだ。そうか死んじゃったのか」
「へー、有名なんだ、コイツ」サトウが言った。
「うん。でもヤな奴でさ、指ヲタの連中からも嫌われてたらしいよ」
「ふーん。憎まれっ子世に憚らないんだな」フジムラがおじやを掻き込みながら言った。
「でもこれで今回、指の連覇は苦しくなったかも知れないね」ウレシノが言った。
「何で?」ニタが尋ねた。
「・・・・・」オオヤマは黙っておじやを口に運び続けた。
「コイツ、毎年一人で1万以上投票してたみたいだから」
「ふーん、太い客だったんだな」猫舌のヲトヲがおじやに息を吹きかけながら言った。
「どっちにしろ今年連覇は無理に決まってんじゃん。俺達は何の為に投票してんだよ」とサトウが言った。
「そりゃそうだ。ククククククククク」ヤスダが低く笑った。
「来てるぞ」フクヤが言った。
そんな仲間を静かにショーナンは見ながら満足げに微かに頷いた。
そして思った『状況終了』と。
投票の最終締め切りは総選挙が行われる土曜日の前日、金曜の午後3時だった。投票行動は順調に進みお昼を回った時には残すところ極僅かに成っていた。ところが有り得ない事が起きた。昼食から戻ったサトウは一旦自室に戻って歯を磨こうとした時に足許に見慣れぬ紙袋を発見した。「何だ、コレ?」そう言いながらサトウは紙袋を取り上げて覗き込むと中に未だ使用されてない投票券10000枚の束が在るのを見つけ出してしまった。
アワアワと焦りながら作業室に出て来たサトウをみんなは不思議な顔で見ていたが事情を説明されるとショーナンを除いた全員がパニックに襲われた。「どうすんだよ、これ?」
「間に合わないじゃん」「何でそんなトコにあんだよ」「オカシイだろ」「ふざけんなよ」
そしてサトウは3日前に寝ながら投票するつもりで自室に運び入れていた事を思い出して、涙ながらに告白してみんなの前で深々と床に額を擦り付けながら土下座をして謝罪した。
「スマン! すっかり忘れてた!」
残りのメンバーは心の中で其々『ミスター残念が本領を発揮しやがった』とか『チキン野郎、何ヤラかしてんだよ』と罵ったのだが、そんな暇はもう彼等には残されていなかった。
ショーナンが動いた。彼は急いで対応策を脳内検索して一つの解決策をひねり出した。
「このなかでタッチの速度が一番速いのはヲトヲ君だ。彼をウレシノさんのスパコンの担当とする。ルーターがブーストモードで使用可能なのは10分間だったな。よし、10個あるルーターを代わる代わる10分間づつスパコンに回す。そうだ、スパコンを連続でブーストモードにおいて使用する。コレで大分仕事がはかどる筈だ。みんな協力してくれ」更にショーナンはスパコンに予備のモニターとキーボードを繋ぎ2画面として片手で2枚分同時に入力可能にセットアップした。ヲトヲがスパコンの前に坐して眼にもとまらぬ速度で16文字のシリアルナンバーを投票券2枚分同時に打ち込み始めた。残りのメンバーも自分の機体を操って作業を続けた。全ての作業が終了したのは午後3時まで後30秒を残すだけと言う危うい橋を渡る様な内容だった。ヲトヲがスパコンを操るスピードは凄まじく神憑っていて投票済を記録しておく為に一枚分を終えるとその券を二つ折りにするのだが、その時間が惜しくてピアニストの横で譜面をめくる係員の様に横に立って投票券をヲトヲに見せる為だけの人員としてサトウをショーナンは配置した程だった。ヲトヲが3時間弱で投じた票数は5609票でコレは3秒当たり1票を投票した事に為るが有り余るスパコンの能力を利用し2つのモニターを同時使用して投票サイトを2画面分表示させる 事により左の眼で見たモノは左手で右目の情報は右手で一気に2枚分のシリアルナンバーを同時に入力する荒業を披露した為だった。この離れ業のお蔭により3時間で1万枚の投票をこなすという快挙を演じられたのだった。最後の16文字が入力された時サトウの顔は涙でグシャグシャに成っていた。その顔を見たメンバー達は『仕方ない奴だな』と静かに笑った。
宴会が始まった。
開封済みのCDやクシャクシャに丸められたり二つ折りにされた投票権は引取りに来た産廃業者が持ち帰っていた。その時大量の投票券と劇場版のCDを見た若い作業員の一人が驚きの眼差しでゴミとチームの全員の顔をクルクルと見比べていたのを見てヲトヲが下を向いて必死に笑うのを堪えていたのだが肩が震え出してしまい最終的に耐え切れずに笑い出すとチーム全員が腹を抱えて大声で笑いだしてしまった。マックや家具の類いを引取りに来る予定の運送会社に頼んで同時にウレシノのスパコンも大学までの運送を委託する事が出来て午後遅くには部屋の中は何も無くなってガラーンと沈黙だけが残されたのだった。足繁く通ったり出前をお願いした寿司屋に出張して貰おうとヤスダが頼んだのだが「店から離れられない」と丁重に断られてしまい仕方なくニタが銀座の九兵衛に出張を依頼した。「クソッ! あの寿司が喰えねぇのか。残念だ。仕方ない九兵衛で手を打とう」とサトウが言った。最初は当日の依頼は受け付けていないと断られかけたのだが電話を引き継いだショーナンが二言三言囁くと、向こうの態度の変化が直接聞いていなくてもあからさまに把握できた。洋食店や南欧料理店それに中華料理の方も店を離れられないと断られてしまい、仕方無くリッツカールトンのフランス料理の担当コックを呼ぶ事にした。ショーナンの囁く魔法の呪文の威力は絶大でここでも当日取っ手出しにも関わらず万事OKに為った。「あの五目チャーハンが食べたかった」と『魔人』が呟いた。
「俺、目玉焼き乗っけたハンバーグ」ニタが残念そうに天を仰ぐ。
「ペペ・・ロン・チーノ」オオヤマが項垂れながら途切れ途切れに呟いた。
午後8時には九兵衛から寿司職人が2人、リッツカールトンからフランス料理担当のスーシェフを含む3人のコックがほぼ同時刻に到着した。投票期間中はアルコールの摂取は一切認められていなかったので初めて酒というモノがこの部屋の玄関を潜った。
ショーナンが静岡市の清水区にある地酒専門店から取り寄せた数々の銘酒のラベルを見たヤスダは思わず喉を鳴らした。佐賀の東一純米吟醸山田錦49%生生無濾過斗瓶取り1升、滋賀の松の司純米吟醸山田錦生生無濾過斗瓶取り1升、奈良の風の森純米吟醸生生無濾過微発泡1升、青森の陸奥八仙純米吟醸山田錦生生無濾過1升、静岡の開運純米吟醸山田錦生生無濾過1升と波瀬正吉純米大吟醸生生無濾過しずく斗瓶取り斗瓶そのまま等の日本酒(無濾過なので清酒とは呼ばれない)そしてクリュグやヴーヴクリコと言ったシャンパン、アンリ・ジャイエの手に為るエシュゾー‘86やブルーノ・ジャコーザが作ったバルバレスコ・レゼルバ・サントステファーノ‘08を始めとするワインの類いがあり、そして世界各地の著名なビールが大きなタライに氷と一緒に詰め込まれて冷やされていた。
乾杯の音頭はモリサキが取った。
「皆さん。オメデトウ御座います。私達は無事に見事な偉業を成し遂げました。最後はサトウ君がヤラカしてくれたお蔭で非常なるピンチを迎えましたが、ヲトヲ君の活躍、神の如くの早業により何とか作業を全て終わらせる事が出来ました」
フジムラが声を上げた、「早く飲ませろっ!てんだ」
「判った、判った、ハイ、それでは皆さんご唱和ください。乾杯!!」
各々は大声で叫ぶと自分の好きな飲み物を有りっ丈の勢いで喉に叩き込んだ。
祭りが始まった。
ココでも一番人気はショーナンが作った『鍋コワシ』だった。無くなる事を恐れたショーナンが用意周到に2つの力士専用クラスの大鍋一杯に波波と作成してあったのだが旺盛な食欲の前をして30分と掛からない内に2つとも綺麗に空っぽの状態に為ってしまった。
「仕方無ぇ。九兵衛の寿司でもつまむか」とサトウが言うのを聞いた寿司職人の一人が顔を顰めた。サトウは中トロを一貫無造作に口に放り込んで乱暴に咀嚼すると飲み込んで一言言い放った。「美味ぇ! あの親方んトコよりは落ちるけど、取り敢えずは美味い」
ソレを聞いた職人は苦笑するしかなかったのだが、サトウが投票期間中に良く利用した寿司屋の名前を告げると途端に2人の板前の顔が引き締まった。良く訊くとその店は寿司職人なら知らぬ者は存在しないと言う位の超隠れた名店で、職人ならば一度は訪れてその兄弟の披露する妙技、華麗なる手捌きを味わってみたい憧れの場所なのだと2人の内若い方の職人が言った。何でも夜の予約は半年先まで一杯で尚且つ小さな店なので平日でも中々取れないのだと言う。「あ、でも俺達予約とか無しで良く行ったよ、夜も昼も」サトウがそう答えると2人の眼は有り得ない位見開かれたのだが、良く出前も取ったと続けられると、『コイツ等、何者?』と寿司を握る手が止まってしまい、ウレシノに急かされて漸く我に返って仕事を続けた。
もう一方のフランス料理のカウンターではフジムラとコックが揉めていた。
「イイからもっと厚めに切りなさいよ。ココにゃ、10人しか客いないんだから。厚めに切りなさいって言ってるの。イイじゃないの。そう端っこのトコ、10センチ位に切りなさいよ。俺、ギャートルズ喰いスンのが夢だったんだから。薄くすんじゃないってんの。厚くしなさいよ。ソウソウ。それで良いのよ」
『魔人』は分厚いローストビーフに満足げな表情を浮かべて自分の席に戻った。しかし5分も経たない内に「もっと厚く切りなさいよ。15センチ位に切れば良いじゃん」とグルグルと永遠のループ行動に入ってしまいこの光景はローストビーフが枯渇するまで5分毎に繰り返されたのだった。宴会が進む内みんなのヴォルテージが急加速で上がって行き誰からともなく1枚また1枚と服を脱ぎ出して行って殆ど全ての人間がパンイチ姿に為った。開けられた窓から酔ったヲトヲが「リョーカァー! リョーカァー!」と外に向かって叫び出し、ソレに釣られて裏の犬が「オオーッ」と遠吠えを始めてしまい、下の歩道を歩いていた通行人が『一体何事だ?』と上を見上げて訝しげに首を捻った。
「俺、今から芸を披露します」と言い放ってパンツ姿のサトウがフラフラと立ち上っておもむろに最後の一枚を脱ぎ捨てて真っ裸に成り局部のサオと御稲荷さんの間に割って無い割り箸を一善横から差し込んで腰を屈めるなり「むむむむむむむむむむむむ」とと静かな気合いと共に全身有らん限りの力が込められたのだが割り箸は一向に折れず、活動限界を迎えてしまったサトウはその場にヘタリ込んだ。
「どけっ! ミスター残念」と一升瓶を片手に持ったニタが立ち上って箸を奪うとパンツを脱ぎ捨てサトウと同じ様に箸をサオの下に差し込み腰を屈めて唸りを上げ始めた。
「むうむうむむむむむむうむうむむむむむむむむむううむううむっむううう」とサトウよりも随分と長い間イキり続けていたのだが力を使い果たして同じ様にヘタリ込んだ。
「お前等、何バカな事してる。貸せっ! 俺が決着を着けてやる」とモリサキが静かにパンツを脱ぎ捨てながら立ちあがった。ニタから箸を受け取るといきなりターミネーターのテーマ曲を大声で歌いながら箸を自分のサオと御稲荷さんとの間に差し込んだ。「だんだだん、だんだだん、だんだだん、ちゃららーちゃららーちゃららーちゃららーあー」そして腰を江頭2時50分でも無理な程思いっきり屈めて、大きな気合と共に全身の力を込め始めた。「はーーーーっ」その5秒後、諦めた様な音と共に箸が見事に折れた。ソレを観ていたニタとサトウが「凄ぇぞ、モリサキ!」と称賛の声を上げたのだった。そんな仲間たちの様子をオオヤマはニコニコ笑って静かに眺めながら全裸で胡坐をかいて座り野武士の様に盃を手繰っていた。
みんなのメートルが上がって行くのと反比例する様に料理人のモチベーションは下がる一方で遂に一人の板前が「やってられるか」と言いながら手近に在った一升瓶をラッパ飲みし始めると、口火が切られた様に残りの料理人達も銘々好き勝手に酒を飲み始めてしまって次々と仕事を放棄し始めた。そしてアルコールの所為で体が火照ってしまって最後の砦であるパンツすらも脱ぎ捨てる輩が続出する始末だった。気付くと料理人達も一糸纏わぬ姿に為っていて一升瓶をラッパ飲みする者、シャンパンを浴びる様に飲むスーシェフ、ビールのチェーン飲みを披露するコックは先ほど肉の攻防戦を繰り広げていたフジムラと肩を組んで何だか判らない歌を大声で唸り上げていた。ウレシノが何故か嬉しそうにその様子をiPhoneで撮影すると即座にYouTubeにアップしてしまった。そして隣でワインをラッパ飲みしているフクヤに見せて二人で大笑いしていた。「来てるゾ」とフクヤが爆笑した。「コレは混沌と言うヤツですね」ヤスダは一升瓶から直に酒を流し込みながら言った。
「カオスは人間の印象に過ぎない。この世界は総て調和と秩序で成り立っている」緑色のロリングロックの首の長い瓶に直に口を付けて軽くあおりながらショーナンが言った。
「成る程。人の心が世界を乱すのですね。クククク。でもこんなに贅沢をするとは」思いませんでした、とヤスダは言い「居酒屋とかで打ち上げるのかと」と尋ねた。
「貧しさに耐えるだけ位の窮乏生活を送っていると人は弱くなる。そして興味深い事に貧しさに慣れ親しんだ頭と身体は一度『贅沢』と言う蜜の味を覚えた途端にもっと弱くなる。だから贅沢をする時はこの様に思い切り奢る。こうして時々は思い切りの贅沢を味わって心と身体を慣らして置くのだ。ま、所謂ワクチンみたいなモノだな」ショーナンが言った。「然しながら、些かコレは阿鼻叫喚の地獄絵図を痛感させられる様です」ヤスダが言った。「そうだな。だが状況は更に収拾の付かないモノに成りそうだぞ」ショーナンが言った。
「ではソレに備えて我々ももうチョットアルコールを追加摂取して置く事にしましょう」
何も身に着けておらず生まれたままの姿をしたヤスダがショーナンに言った。
部屋の中にいる15名の内、服を着用すると言った文明人として最低限のマナーを実践出来ているのは最早ショーナン唯一人と成っていた。
今年、2016年の3月26日と27日、横浜に在る日産スタジアムで披露されたタカミナ前総監督の卒業コンサート。アイドルとしてのタカミナの誕生と死を見事に表現出来ていた2日間だった。それに先立つ事5日、3月21日パシフィコ横浜において開催された写真会にて6月18日に今年で通算第8回目となる45thメジャーシングル選抜総選挙が、場所は新潟市のHARD OFF ECOスタジアム新潟にて行われる事が運営サイドより発表された。そして総選挙の正しく前日の夜にリョーカは新潟の万代と言う繁華街に立地する白地に青のラインが眩しい飛行機会社が経営するホテルの12階からスッカリ灯りの落ちた街並みを見降ろしていた。それでも眠る事を忘れた都会の喧騒がこの高さまで極僅かに伝わって来て窓ガラスを微かに振るわせていた。リョーカが家にいると近づいてくる総選挙の圧力に圧倒されて浮付いた両親と妹が家の中をウロウロと動き回って、何くれとなく世話を焼こうとするのが煩わしくウザかったので地方で開催されるのは寧ろ好都合だった、『家離れられるし』用意されていたツインの部屋で同室と成ったのは、仲の良い後輩のナーニャだった。2人一緒にホテルに併設されたビュフェレストランでお腹一杯に成るまで食べてから部屋に戻って、間を置かずにお風呂に入る事にした。
先輩に遠慮して先を譲ったのだが、パッパッと服を脱ぎ捨てたリョーカがいつまで経っても入ろうとしない事にナーニャは内心戸惑いを隠せなかった。
入るか着るか早いトコ、ドッチかしてくんないかなぁ。
オオシマって苗字を持つ横浜育ちの小さくてカワイイ女の子はみんな裸族なのかなぁ?
そんな彼女の想いとは裏腹にリョーカは一向に入る気配を一筋すら見せず、遂には窓から外の景色を覗きだしてしまったのだ。
オイオイ、向こうのビルの人から丸見えだよ、とナーニャは思った。
後輩のそんな思惑には些かの配慮を払う事も無くリョーカの想いはビュフェで遭遇した蠱惑的なスウィーツの上に飛んでいた。
笹の葉っぱにくるまれた香りが綺麗な御団子、絶対に粒あん。
サーヴの人に尋ねたら、東掘の5番に在るお店で手に入れられるらしい。
絶対にお土産に買って帰ろうっと。
それと美味しい中華蕎麦屋さんが三越の近くに在るって言ってた。
ココもチェックだ。
名前なんだっけ?
三平屋だったかな?
暗い街を見降ろしながら、そしてリョーカの想いは次第にあの男の上へと移動して行った。
あの人に任せておけば全て大丈夫だ。
何の心配も要らない。
世界で一番安全な場所はあの男の横である事実をリョーカの直勘は鋭敏に嗅ぎ当てていた。
だいじょうぶだ。
だいじょうぶ。
虚勢を張ってる訳でも無く自分に言い聞かせている訳でも無かった。
街並みを見降ろしながら2回目に会った時の握手会の事をリョーカは思い出していた。
依頼を受けてオヒゲさんが返した『30万票』という言葉にリョーカは正直驚いてしまって思わず抗議の様にも響く口調で言い返してしまった。
「ヤリ過ぎだよ」
「ヤリ過ぎる位やって初めてちょうど良いのだ。これはマオおじさんの言葉だ。覚えておくと良い」
「マオおじさんって誰ですか」
「偉大な革命家だ」
大丈夫だ。何の心配も要らない。
あの人に任せておけば大丈夫。
とてもそばにいた。
あの男が贈ってくれた巨大な安心感が優しくふんわりとリョーカの全身を包み込んでいた。
リョーカは信じていた。
だいじょうぶ。
男の存在がとても近くに感ぜられた。
彼はとても側にいてくれる。
守ってくれる。
だから、あの人が教えてくれた通りに、私はリンゴの木を植えて行けば良い、たとえ明日世界が滅びようとも。ただ、植え続けて行けば良い、毎日。
リョーカが大きい主窓の横に設置されている縦に細長い換気用の小窓を外に押し開けた途端に海沿いの都市に特有の都会の臭いと潮の香りとが入り混じった梅雨の時期に独特の生暖かい空気が喧騒と共に流れ込んで来て白いレースのカーテンを揺らし始めた。
「フフッ、風さんのオシリ」とナーニャが言った。リョーカが彼女の声の指し示す方向に視線を送ると風に煽られたカーテンが確かにオシリの様にふうわりと丸く柔らかそうに膨らんでいた。
生き物の様に動くカーテンを見詰めながらリョーカは思った。
大丈夫だ。
何が起ころうとも必ずあの人は私を守ってくれる、たとえ明日この世界が滅んだとしても。
リョーカは感じていた。
私は幸せだ、と。
チームの仲間と料理人達が酔い潰れて眠りこけていた時、オレは窓際に立ってまだ暗い街を見降ろしながらピートの香りが綺麗な琥珀色の液体を飲んでいた。
街は後数時間程で息を吹き返した様に活発に動き出すのだろうが、今は未だ大方の部分は息を潜めて静まり返っていた。
褐色の酒を飲む。
この行為を『影を飲む』と表現したヤツがいるらしいが、天才だ。
きっとノーベル文学賞を獲っているに違いない。
死んだ様に眠る街の中で僅かに命の存在をひけらかす様に新聞配達のバイクが朱色の帯を残しながら消えて行った。消え去るテールランプを眼で追いながら、オレは想った。
同じ空の下の違う街で今、キミも息をしているのだな、と。
ホテルの一室で静かに寝息を立てているのだろう。
隣のベッドの上で同じ様に寝入っているナーニャさん、彼女と同室だったから緊張する事も無く、さぞリラックス出来ただろうな。
「リョーカ」
おっと、声に出してしまった。
振り返って部屋の中を確認した。
良かった。
みんな死んだ様に寝ている。今日は辛い一日に成るぞ、きっと。
頭を抱えながら電車に乗り込むみんなの顔を想像して静かに笑った。
地上と上空5000mの天気図からすると開催地の新潟は遅くとも午後から雨だから風邪を引かないように気を付けろよ。今の時季の新潟、雨に為ると随分と冷えるらしいぞ。
それに、10時の新幹線に間に合うように起きられるのかい?
向き直り、再び見降ろすと薄い明るさに包摂され始めて街は欠伸と共に起き上がろうとしていた。
真実は美なり、美は真実なり。
キーツはそう言うが、世界は醜い真実の方が多数を占めているのではないか。
ソレよりもそもそも真実は美醜の特徴を備えているのだろうか。
或る脳科学者によると、美しいモノを美しいと判断する脳領域は、正しいモノを正しいと判断する領域と同じだという事だ。つまり人間は生まれながらにして『美』と云う非合理性を無条件に心地良く感じる生物なのだそうだ。
美しさと正しさ。
どう繋がるのだろうか?
正しさの方はともかくも美しさの基準はごく個人的なモノなのではないだろうか?
一つ言えるのは今回オレ達が成し遂げた事は美しさと正しさをシンクロさせる事だった。間違っている事を『美しい』と感じる人間の脳は配線の具合が狂って設定されているのだ。
リョーカ。
涼やかな花と綴る。
キミの事を想う度にオレの脳には矢車菊が浮かんで来る。
一本の青い花が風に吹かれているシーン。
だが、たとえどんなに強い野分が吹こうとも、オレがこの花を守る。
絶対に。
何があったとしても。
青。
絶対的で独立排除的に高貴な、青。
青い色、つまりイスラムでいう最も神聖なる色だ。
空が縹色に染め上げられて行く。
美しい。
コレは厳然たる事実だ
そして、オレがリョーカに心惹かれている事も、紛れの無い真実だ。
脳内で文字化した事に因り4半世紀も下の少女に、と言う事実を認めざるを得なくなった事で少し狼狽してしまうが、事実は事実として受け止めなければいけない。
リョーカ、キミはとても不思議だ。
戦闘能力だったらオレの方が何千倍も上だろうが、何故かキミの方が俺より強い気がする。きっとキミは今日もリンゴの木を植えるのだろう。
それで良い。
ソレで充分だとオレは想う。
一口モルトを啜った。
『明るい部屋で座って影を飲んでいる』
素晴らしい表現だ。
そうだ。
相棒に倣ってこの言葉をオレの酒場での口切の言葉としよう。
街は静かに復活の声を上げつつあった。
『汝の愛と彼女の美しさは永遠なれ』
翌日の早朝にみんなと一緒にバスに乗ってHARD OFF ECOスタジアム新潟に到着すると何度も同じ動作を確認する単調なリハがリョーカを待っていた。何度も同じことを繰り返し繰り返し行っていって振りを起こして行く内にテンションも高ぶりソレに伴って身体の恒常性を司る視床下部から分泌されたアドレナリンの所為か何も感じなかったのだが、ナーニャに「お腹減りません?」と指摘されて漸くリョーカは自分がお腹が減っている事に気付かされたのだった。朝が早かったので今朝からは何も食べていなかったのだ。仲良しの後輩、ナーニャとアエリと3人でバックヤードに用意されているケータリングのブースに食事を取りに行った。同じテーブルを囲んで食べ進む内に2人の旺盛な食欲に触発されたのか何時もよりも多めに食べてしまったのだが何故か全然足りずにお腹充填度70パーセントという感じだったのでおかわりする為に席を立とうとしたら総支配人のシノブさんが象の様な巨体を左右に揺らしながら近寄って来てリョーカに声を掛けた。彼女は少しでも細く見えて欲しいという希望からか黒のワンピースの上に黒のニットのカーディガンを羽織っていた。
「そんな食べて大丈夫?」とシノブさんが尋ねた。
去年はステージの上で戻してしまって大事な舞台を汚してしまったからその事を心配してるのだろうし、もちろんリョーカの身を気遣っての言葉でもあると思った。
リョーカは「だいじょうぶデース」と明るく元気に答えて暖かい料理が並ぶブースの方に歩いて行った。
ホントに大丈夫か?とシノブは思ったが、ま、速表結果に因れば去年よりも大幅に票を伸ばして11000票以上も上増しされていたから、ランクインはまず間違いない事実を思い出して無理矢理に自分を納得させる事で一安心は一応の所出来たのだった。安心したらしたで今度は彼女自身が空腹を覚えてしまった。
さて、メシだ。
小腹を満たす為にケータリングサービスの配膳カウンターの所に行って、ドレにしようか、10分以上もさんざん迷った挙句に、政ちゃんのタレカツ丼(ロース特大盛り)白寿のうま煮ソバ(特盛)せきとりの鳥唐揚げ半身を3つ(カレー味)そして「一個取ろうとしたら何個も繋がって出て来ちゃったんだよね」と言い訳しながらの創業弘化四年、老舗である市川屋の笹団子を10個を選び取った。コボさない様に苦労しながらテーブルまで運び、さ、いただきます、の件に成って同席していた若い男性スタッフが目を目いっぱい見開きながら「コレ、まさか全部食べちゃうんですか」と訊いて来たのでシノブは「あ、一口づつチョットづつ食べて後は残すよ。私だってカバじゃないんだから一度にこんな沢山食べられないよ」と言った。だが、15分後には山盛りだった4つの容器は素っ空かんに為っており、小林尊をも楽々と超えるその早業に驚いた彼は空の容器の群れと満足げなシノブの顔を見比べながら『こりゃ、結婚は30万光年の遠く彼方だな』と思ったのだった。
ホスピスはヴァージニア州北西部のアーリントン記念墓地の10マイルほど東の空気のきれいな土地に位置する瀟洒な外観の建物だった。オレは第82空挺師団時代のスナイパー仲間を看取る為に何百マイルもかけて到達したのだった。彼の名前はボウヤァと言い世界最高の観測主であるオレの相棒、サミュエル・スペンサーを取り合った事もある位の凄腕の狙撃主で恐らくスナイピングの腕だけだったら俺を凌いでいたと今は素直に思える。オレ達の部隊は紛争状態のアフガニスタンへ派遣されてソコでイスラム野郎と何度も戦闘を繰り広げて何百人ものテロリストを無力化する事に成功し続けていた。彼と彼の観測主から成るチームとは一種の競争をしていたのだと言える。殺した敵の数を競う様に狙撃の成功記録を互いに塗り替え続けて行ったのだ。彼の存在が無かったらオレはカール・ヒッチコックの出したレコードを塗り替える事など到底不可能だっただろう。オレは馬鹿ばかりの陸軍には珍しい大学卒業という学歴を持っていたので上官から「士官に成ると給料が倍だ」という嘘を丁寧に吹き込まれて本土に在る予備士官学校に入学する事に為った。ボウヤァはアフガンに残り後に特殊部隊の精鋭であるデルタフォースからリクルートされた。彼の所属した部隊はイラクに遠征したのだがソコでも彼は敵兵を無害化し続けて同僚の兵士からは尊敬の念を込めて『ビル・ザ・ネイラー』と呼ばれていたらしい。射撃の後は鉛の粉塵を全身に浴びているから直ちにシャワーを浴びてゴミを即座に洗い流す事が肝心なのだ。でないと鉛中毒になる恐れがある。無論オレ達が使用している弾丸はハーグ条約に因ってジャケット、つまり鉛の中身を真鍮で被甲されたモノだけに限定されてはいるが、高温高圧のガスを受けて飛んで行く弾丸のケツは被甲されていない。銃口を弾丸が飛び出す時にバックブラストと呼ばれる後ろ向きの爆風がオレ達射手の身体全体を襲う。だから一仕事終えた後の兵士は全身が鉛の粉塵まみれだ。だから軍ではウルサイ程に、清潔を保つ様に指導される。最前線だとしても毎朝歯を磨きフロスもしてヒゲを剃る。精神衛生上の為も勿論あるだろうが、同時にそういう実利的な面も持ち合わせている。オレも必要な時以外は毎朝ヒゲを剃っていたものだ。駐屯地に帰ってくれば冷たいかも知れないが綺麗な水のシャワーを浴びて身綺麗にして味はコックの腕次第だが兎も角量だけは豊富な食事を摂る事が出来る。しかし特殊部隊は行動目的が特殊な事もあり作戦内容に因っては中々駐屯地に帰還出来ない事もある。それでも戦闘の後は水で濡らしたタオルなどで顔を拭ったり、川の流れで汚れた手を洗ったりして可能な限り清潔な状態を保持する事に努める。オレ達が活動していたアフガンは有難い事に三日続けての作戦行動は無く比較的戦闘も疎らだったから清潔を保つ事はそれ程難しい事では無かった。ボウヤァのいたイラクも連日続くゲリラ攻撃に悩まされていたらしいが、毎日駐屯地に帰還していたそうだから、鉛の点に置いてはヤツも心配していなかった様だ。だが深刻な事に彼の使用したバレット社製の50口径のスナイパーライフルの弾倉には劣化ウラン弾の弾頭を備えたカートリッジが込められることもしばしばでその所為なのか詳細は不明だが除隊後すぐに彼は肺ガンを発症してしまった。伝手を頼ってオレに連絡が来たのが余命半年も無い状態の時で看取る筈の家族を持っていない彼の面倒を見る為にこの病院に来たのだった。オレは除隊した後は戦争後遺症の影響から真艫に働く事が出来ずにいて戦病者手当だけで慎ましく暮らしていたから暇を持て余していた。だから連絡を受けた時に何の躊躇もせずに駆け付けたのだった。オレの記憶の中の米国陸軍最上級軍曹ウィリアム・ジェファーソン・クワーク、通称ボウヤァは身の丈190cmに極僅かに届かない筋骨隆々とした大男だったし、アイリッシュらしいブルネットは短く切り揃えられてはいたがフサフサと豊かだった。でも今はガリガリに痩せてしまって身長も10cm位縮んでしまった様にも思えたし何よりもアレだけ綺麗だったブルネットの髪の毛が抗がん剤の影響でツルっと1本残らず抜け落ちてしまっていた。だから余りの変貌ぶりに再会した時、初めは誰だかオレの脳は認識をせず判別不能の状態に陥って仕舞い暫く当惑の感情に囚われた事を昨日の様に鮮明に覚えている。
ある朝定宿にしている安モーテルを出発して走行距離が10万マイルを超えているボロボロのマツダMX-3を運転してホスピスに到着すると既にボウヤァは息を引取っていた。その日の早朝に誰にも気付かれる事無く亡くなったそうだ。そう看護師の一人から聞かされて何でオレは昨夜付き添ってやらなかったのかと激しく後悔した。昨夜、オレはPTSDの発作に苦しんでいてウッカリとiPhoneの着信音をオフにしてしまっていて机の上で震え続けるケータイに全然気付けずにいた。朝は寝坊をしてしまいバタバタしていたから履歴のチェックにも気が回らず間抜けな事に病院に到着してから戦友の死を知らされたのだった。看護師が出て行った後、未だ会話をしているような沈黙が訪れた部屋の中で横に座りながらベッドに静かに横たわる彼を見降ろしていた。誰にも知られずに独りで逝くなんて、淋しい末路だな。誰でも良い、誰かに見送って貰う事で静かに旅立てるのにな。誰でもイイ、誰でも。オレの様な人出無しでも誰も居ないよりは余っ程マシだ。この数か月間の事を思い出して悲しみの感情が起こり掛けた。2人で良く軽口を叩き合った数ヶ月だった。
オレみたいにAIの.338ラプアだけ使ってりゃ良かったんだよ。バカ、2000フィート以上向こうにいる相手に、そんなんじゃ全然届きゃしないじゃないか。デルタじゃ.416シェイタックを用意して貰えなかったのか? グリーンベレーと違ってデルタはな、倹しいんだよ、この税金泥棒が。
彼には弟と妹がいたが、何か大事をヤラかしてしまってソレからは全くの音信不通なのだと、ほんの3日前に告白された。兄弟は他人の始まり等と言うけれど、家族など厄介事の源泉なのかも知れない。唯他人よりも少しDNAの重なりが多いだけで結局は別の個体だ。オレは天涯孤独ながら寂しいとは思った事は無いが、コッチの方が気楽なのかも知れない。ふと、彼の死に因ってイスラム野郎にとっての脅威が少し減衰したな、と思った。彼の綺麗で安らかそうな死に顔を見る度に悲しみの情動に心を揺さぶられたのだが、特殊部隊隊長という職業がもたらす長年の訓練が湧き上がってくる悲しみを直截に表現する事を抑制させてしまい、傍から見たら、何と冷たい男なのだろう、と思われても仕方の無い位に冷静に物事を対処出来たのだった。対象者を凋落させる為にはあんなに見事に感情を表せるのにな、とソレにも対して静かな悲しみと同時に怒りすら覚えたのだったが、それも湧きたつという事は一切無く心の中に巣食う感情をコントロールするシステムが瞬時に封殺した。廊下に出て葬儀社に連絡を取り葬儀の手配の一切合切を依頼した。すると翌日にアーリントン記念墓地に埋葬される事が決まった。良かった。アソコには沢山の戦友が眠っているからだ。これで彼も寂しい思いをする事は無いだろうと安心したのだった。どの道通ったとしてもオレも間を置かず直ぐに逝く。だから仲間と天国でビールでも飲みながら楽しく談笑しててくれ。イスラム野郎を一杯殺した正義の戦士は天国で24人の処女にかしづかれて優雅な毎日を送るそうだから、ま、精々楽しくやっててくれ。出来ればオレの分のビールを残して置いてくれ。オレはそう願った。彼は立派な戦士だった。だからケネディの隣に埋葬される権利は充分ある。
受付デスクが設置されているエントリーホールに歩いて行きコンピューター内の患者の氏名が掲載された名簿ファイルから彼の名前を削除する作業をしている時にオバちゃんから話しかけられた。大柄で男爵イモに箸を2本突き刺したような体型をした60代位の白人のオバちゃんだった。昔は綺麗なプラチナブロンドだったろうが今は自然脱色してしまっていて殆ど白髪に成っていたけれどそれでも年に比較すれば豊富な量を誇っていた。何と呼ばれる髪型なのか知らなかったがカリフラワーにソックリだった。だから外観は上からカリフラワー・男爵・割り箸と形容出来た。
「日系の方?」
「そんなモノです」
「そう、ソレは良かった。あのね、アナタの御気の毒な御友達の部屋の棟の一番奥の部屋に日系の方がいらっしゃるの。もし良かったら話し相手に為ってあげて欲しいの。ココに入院してから誰も尋ねて来ないばかりか手紙やお花も届けられた事が1回も無いの」
同朋とはいえ何の面識もない人間を訪ねて行くのは気が進まなかったけれど、マダム受付はオバちゃんとしての資質をすべて備えていた。だから猛烈な御喋り魔だった。余程暇を持て余していたと見えてマダム受付は言葉の津波をオレに浴びせ続けて30分と少しの間に、オレは彼女の娘夫婦と孫娘、そして息子夫婦と孫息子2人について相当な量の情報を得ていた。人心収攬術に関して研鑽をイヤと成る程積まされたオレは表面上に於いては非常に穏やかで微笑を絶やさない上手な聞き手を擬装してはいたが内心は超ウンザリだった。そして軽めの頷きを繰返す事にも飽きて来たのだった。
詰まる所、脱出したかったのだ。
だから腰を上げた。
院内案内図に依ると彼の部屋は左棟の一番奥に位置している様だった。
「良い話し相手に為れればいいのですがね」
オレはそう言いながら戦友との思い出を反芻しながらオレはユックリと歩いて行った。
ココでは狙撃される心配が無い事が有難かった。
窓が開け放たれていて鳥の鳴き声が聞こえてくる。
敷地内の森は、とても賑やかだった。
人の創る美術は総て自然の模倣だ。
誰の言葉だったっけ?
ランボウか、いやアリストテレスだったか?
いずれにせよ、自然は美しい。
超える事は不可能だ。
一瞥を流して気が合いそうだったら話し相手に成れば良いし、苦手タイプだったら部屋を間違えた事にして引き返してしまえば良い。そう思っていた。
部屋の引き戸は開き放たれていた。
懐かしい顔を見付けてしまった。
ショウナン・ヒロ。
ショウナンはオレがイリノイ大学の学生だった頃にドミトリーでルームをシェアした男だ。
偶然だが彼と俺は瓜二つで一卵性双生児と言っても誰も不思議に思わないほど気持ち悪い位に似ていた。
コレも偶然だがオレの誕生日が12月24日で彼のが25日と1日違いという事も後押ししたのか会った5分後には肩を組んでビールを回し飲みする様な仲に成りすぐに莫逆の友と成ったのだ。級友からは『エンドウ豆が鞘の中に2つ』と良くからかわれたモノだったが、オレ達はソレを逆手に取って入れ替わってお互いに成り済ますという悪ふざけを良く仕掛けたのだった。最初の内は直ぐに見破られたけれどお互いに相手の事をよく観察して行く内に演技は完璧に為って行った。この悪戯は次第にエスカレートして行き、遂にはオレ達がソフモアの時にショウナンが当時付き合っていたエミリとオレがデートをするという今考えるとしてはいけない事を実行してしまい、その晩モールでのウィンドウショッピングからの帰りに彼女の部屋で危うくベッドイン直前まで行ってしまうという事もあった。エミリはフランス系アメリカ人の母と日系3世の父を持った超の付く美人だったからそのままヤッテしまっても構わなかったのだが、後後ショウナンともめるのが厄介に感じられたのでオレはホームワークがドウとコウとかかなり強引なこじ付けをしてそそくさとその場を後にしたのだった。同級生から550ドルで手に入れた白黒の塗装がまだ明確に残った警察払い下げの車を走らせながら、後ろ髪を引かれるってのはこういう事を言うのだな、とその時思ったのだった。幸いにもそのイタズラ自体はエミリにもバレず、オレの危うい情事未遂事件もショウナンの知る所とは為らなかった。オレは自分が幸運の付いて回る男であるとこの時に自覚出来たのかも知れない。その後経験する事に為る戦場においても敵の弾丸は何故かオレだけは避けて飛翔し、反対にオレの放つ.338ラプアは吸い込まれる様に対象に着弾する事を繰返したのだった。ショウナンとオレはメジャーも一緒の言語学で、彼は西海岸の裕福な家庭に育ったからそのままスンナリと大学院へと進学した。オレも進学したかったが金が無く日本から留学している身分としてはアルバイトで稼ぐ事自体が違法で隠れてしてもバレたりすれば強制送還される恐れがあったから出来ず、おまけに直前に自己資金がショートしてしまって卒業自体も怪しくなってしまった。そんな時に大学内で開催された陸軍による新兵募集のキャンペーンで志願すれば国が卒業資金を負担してくれることを知り、しかも入隊条件の中にVisaがシッカリしていれば、つまり合法的に入国していれば米国籍はおろかグリーンカードの所持すらも必要では無い事を見つけ、その当時は比較的平和だった事も背中を推してその場で入隊手続きを終えたのだった。ソレが2人を分かった原因だった。
空いている入り口に立って少しの間黙って彼の事を静かに見ていた。昔に比べると体は2回りほど小さく縮んでしまっていて恐ろしい程に痩せていて顔色は良くなかったけれども、彼の眼の中には未だ辛うじて精気が宿っている事が見て取れたので少し安心した。
オレは静かに声を掛けた。
油の切れた転車台が回る様にユックリと彼が首をコチラに向けた。
驚いたのか口を丸くOの字の様に開け続けて中々声を出せない様だった。
「どうしたい、相棒?」オレは暗くならない様に気を付けながら軽めに言った。
「スキルス性の胃癌なんだ、相棒」ショウナンが言った。声がクシャクシャにしたフライヤーの様に皺枯れていて聞き取りづらかったが意外に声量は大きくシッカリしていた。
「ステージは?」
「末期も末期さ。余命は後2ヶ月くらいだそうだよ」
「そうか」オレはそう言い壁に因り掛けてあったパイプ椅子を組み立てて彼の横に座った。
「何で、ココが解った? 誰にも知らせてないのに」
「偶然だよ。オレの戦友が今日早くに亡くなってね。ここ何か月か傍に付き添ってたんだが」オレが言った。
「そうなんだ。それは気の毒に」最後の方はお悔やみを言う時の定番らしく口の中でムニュムニュとさせながらショウナンが言った。
「ウッカリしてたな、全然気付かなかった」
「いや、入院したのは昨日の午後だったから」
「誰にもって、ご両親は?」
「とっくに鬼籍に入ってるよ」
「他に家族は?」
「いない」
「大学で付き合ってたエミリとはどうなったんだい?」
「修士課程2年の時に別れたさ」
「そうか」
「相棒、今は何をしてるんだい?」
「何も。除隊して以来何もしてない。時々PTSDの発作を起こすんだ。誰もそんな厄介なベテランを雇わないよ。揉め事の種感満載じゃないか」
「そうか。軍隊では何をしてたんだっけ?」
「最初は空挺部隊でスナイパーさ。その後士官学校を経てから特殊部隊の隊長をやってた」
「特殊部隊って言うと・・・」
「俗に言うグリーンベレーってヤツだ。ソコでオレはアルファ作戦分遣隊通称Aチームの隊長をやってたんだ。オイ知ってたか? アソコじゃ語学が非常に大切に扱われてるんだぞ。オレは18週かけて11種類の言語をマスターさせられた。フランス語にスペイン語、インドネシア語にタイ語、タガログにロシアとペルシャ、アラビア語に中国語、そして極め付けは朝鮮語だ」
「へーっ、凄いな。俺なんか英語とフランス語とスペイン語位だよ」
「何言ってんだ、新潟弁が在るじゃないか」
「そっか、ウッカリしてた」
オレが大学時代にショウナンの振りをする時に一番注意を払っていたのが、言葉遣いだった。外見からではあまりバレたりはしなかったのだが、言葉遣いが少しでも変だと直ぐにバレたのだ。如何に人が言葉に敏感かが解る。その時に人間は言葉に頼って生きる動物なのだと悟ったのだった。勿論新潟弁交じりの日本語を使う機会は来なかったがオレはコイツの喋る癖や直ぐやってしまう指向等を完全にマスターしたのだった。
「ドレぐらいに喋れるようになったんだい?」ショウナンが尋ねて来た。
「現地住民クラスだよ。ソレでないと仕事に成らないしね」
「そりゃ、凄いな」
「ま、仕事だしな」
「イラクとかに派遣された口かい?」
「オレの隊は第5特殊部隊グループに所属してたからな。ココは担当地域が中東、中央アジアそれにアフリカの角なんだ。アフガンに派遣されたよ」
ショウナンはコチラを気遣いながらオズオズと質問をしてきた。「一杯殺したのかい?」
「ま、仕事だからな」
「じゃ、死の存在は身近って訳だ」
「ソレがそうでも無い。みんなは知らない様だが俺たちの仕事は戦闘が主願じゃないんだ。ホントの目的は現地住民を組織してゲリラ部隊を編成する事の方が主目的なんだよ。そうで無きゃ長い時間と沢山の金を使って部隊員に11ヶ国語もマスターさせる訳が無い。そういう目的があるから現地でのサバイバル能力も大切な要素だし、住民を凋落する為の人心収攬術や人心掌握術も重要になって来るんだ。オレ達は破壊と殺人を最優先事項とする軍隊に在って唯一と言って良いモノを生み出す為の部隊なんだ。ただ、勿論戦闘はする、当たり前だが」
ショウナンがオレの発した『人心収攬術や人心掌握術』という言葉に眼を炯炯と輝かせ始めた。オレには超馴染の香り『死(タナトス)』が彼の全身から放出されていたが、眼だけはキラキラとした『生(エロス)』で満ち溢れていた。
「そうか、じゃ君はチームの編成のプロなんだね」
「そりゃ勿論」
「君に頼みが有る。ココには誰も知り合いがいないし友人や大学の同僚達にはホスピスにいる事すら伝えてないからチョット困ってたんだ」
「何だい? オレに出来る事なら何でもするよ。だから遠慮しないで言ってくれ」
「頼み事は、2つ有る。1つ目は或る男に謝罪して欲しい。出来れば昔僕達がしてた時の様に僕に『成り済まし』て彼に謝って欲しいんだ。2つ目は少女、今僕が命の灯を燃やし続ける事を可能にさせてくれる原動力、生きる力を僕に与えてくれる大切なひと、彼女の背中を推し上げて欲しいんだ。2つ目の頼み事を実行する為にはお金がいる。大金が掛かる。でも、お金の事なら大丈夫さ、資金の心配は要らない」
「大学教授って儲かるんだな」
「違うよ。教授なんて薄給さ。教授の仕事で儲けた訳じゃ無い。教授をしてた時に別の学部でコンピューターを教えていた知り合いと1つ小さな会社を設立した。自然言語処理を担うアルゴリズムを開発してた。設立後長い時間もかからずに我々は優秀なプログラムを作成する事に成功した。そしたらある時に超が100個くらい付く様な有名なIT企業から連絡が来て会社を買収したいって言って来たんだ。僕はその頃ちょうどA.I.を本気で研究したいと思い始めてたからその申し出を有難く受ける事にした。そのプログラムは君も持ってるiPhoneの中のSiriに使用されてる。君みたいな人がiPhoneを一台買う毎に僕の口座にお金が振り込まれる、それ自体は微々たるモノだけどね。ま、正確に言うと10000台毎になるんだがね。でも実際の買収金額は物凄かったよ、正直驚いた。お金にあんまり興味を持てない僕ですら些かビックリした位だよ」ショウナンは嬉しいのか疲れも見せずに一気に喋った。
「ビックリって、どの位?」
「1億」
「そりゃ、『些か』ビックリだなぁ」とオレが返すとショウナンは静かに笑った。
「そうなんだ。だから資金の心配は要らない」
「で、2番目の少女に対しては一体、何を如何すれば良いんだ?」
「その資金を使って彼女にポジション・ゼロをプレゼントして欲しいんだ」
ショウナンの話を聞いてオレは驚いて声を上げてしまった。
「何だい、そのヘンテコりんなシステムは? インチキ、いやまるで詐欺じゃないか。選挙なんて銘打たれてはいるけど、要は単なる人気投票だろう?」
「そうだよ。だってCDを購入しさえすれば1人何票でも投じられるんだから。1人1票の正式な選挙とは全然違う」ショウナンが言った。
「ソレにお前の話で全然納得のいかない事の最右翼が一番人気の奴に票を投じてる人間が1000人弱って、そんなの有り得るのか? 一体一人で何千票入れてんだって話だよ。最早ソレは人気投票ですら無い。単なる経済力の競争に過ぎないぞ」
「正確な数字は不明なんだけど僕の調査した所では、今年彼女は獲得した19万票だった。彼女に対して10000票以上入れた人間は3名、5000票クラスが8名、1000票クラスが30名って所だ。コレでもう合計は10万を超える。上位41名が殆どを占めていて残りの投票がその他大勢の950名に依るモノなんだ」
「そんなのホントにインチキじゃないか。いや、一番の被害者は彼女自身だぞ。内側に留まってる間は、ソリャ良いさ。だが何れその娘だって外側の世界へと跳び出して行かないといけないんだろ? そこで彼女を待ち受けてるのは過酷で辛い『現実』だぞ。おいおい。みんな騙されてるゾ。イヤ、確かに女性はオレ達馬鹿な男共と違ってシビアに現実を捉えてはいるが勘違いさせられてしまうだろ、そんな扱いを受けてしまえば。初めは自分の人気なんかは所詮虚栄で張りぼての偽物なんだって思っていたとしても、人は誘惑に弱いから現実から目を逸らして虚構の世界を本物だと本気で信じ込まされちゃうゾ。ソイツを応援してるファンとやらは其処に考えが至って無いのか? 認知バイアスと言う名の陥穽へと突き落としてしまう様なモノだぞ、解ってやっているのか? それとも無残な結果に終ると知った上で敢えて残酷な結末を見る事を楽しみにして投票しているのか?」
「みんな騙されてるんだ、運営に。メンバーもお客も。ソレを承知の上で騙されてる奴等ごく少数もいるが、大抵のお客は何も考えていないので、ただ直截に騙されているだけだ。僕は、違う。判った上で盛大に騙されてやる」ショウナンが言った。
「アキモトとか言う男は何てヤツなんだ。無知で馬鹿な小娘どもを集めて調教を施し、働かせられるだけ働かせて不要に為ったらポイ捨て、なんて、そんなの酷過ぎるじゃないか。止めとけ。金をドブに捨てる様なモノだぞ」
「彼女は、リョーカは僕の希望なんだ。彼女の存在が今僕に圧し掛かっている絶望を希望へと昇華してくれている。無機質で灰色の僕の人生に彩りを与えてくれる存在なんだ」
「大体構成員に規律を守らせ様ともしない組織は碌なモンじゃないんだ。規律は守られなければならない。逸脱を1つでも許せば組織全体が退廃の底へと堕ちてしまうからだ。君たち一般人は戦場じゃ出鱈目に弾丸を撃って敵を殺してると思うだろ? 違うんだ。規律で雁字搦めの許にオレ達は交戦している。ある兵士の行動がROEつまり交戦規定に抵触してしまったら、例えその行為に因って部隊の全滅が回避出来たと言う献身的なモノだとしても、彼はJAGつまり法務総監から吊るし上げを喰って軍事法廷に引き摺り出されて裁かれた後それ相応の処罰を受ける事に為るんだ。新兵訓練の時は正しい型からは一切外れさせない。射撃訓練もジムナスティックも奴等にさせるのは厳格に正常な型のみだ。正当な型だけを踏襲させる。規律だ、規律が支配してるんだ。歌を歌いながらの行進が良い例さ。正当から少しでも外れた『型』、つまり癖は本当に曲者なんだ。一旦悪い癖が身に付いてしまうと矯正するのに多大なる労力を要してしまう。悪い『型』を身に付けた人間はプリオンやガン細胞の様に周囲に悪影響を及ぼしてフォースのダークサイドに引き摺りこんでしまうんだ。昔、『腐ったミカン』理論に反対した髪の長い教師がいたそうだが、残念ながら彼は完全に間違っている。『腐ったミカン』は速やかに排除されなければならないのだ。だが戦場は違う。演習で習った事、正しい型を実戦では一切しては為らない。射撃対象は動かない的じゃないんだ。弾丸に当たらない様に必死に動き回ってコチラに弾を雨嵐の様にプレゼントしてくれるんだ。例えば戦闘機が敵の攻撃を回避するのに一番有効な方法は失速状態に自らを陥らせる事だ。でもそんな事をしたら直に墜落するから誰も試みなかった、F-22が登場するまでは。F-22は常に失速状態を維持しながらコンピューター制御に因る力技で無理矢理普通に飛行出来る。この特徴は機体のステルス性向上にも寄与してるが、そんな訳でF-22は撃墜されない。常時失速していると言う『間違った動き』がそうさせている。こういう風に演習場の外の世界では型から外れた邪道なヤリ方を採用しなければ直ぐに殺されてしまう。でも、規律は厳格に適用される。弁明の余地は一切無いし例外も存在しない、と言うかさせないんだ。結果良ければ全て良し、では無いんだよ。昔の関東軍が良い例さ。退廃が蔓延した軍隊なんてロクな事をしない。勿論、オレが所属していた組織は特別かも知れない。何て言ったって、命のやり取りをしている訳だからね。でもどんなローカルルールだろうが例え悪法だろうがルールはルールだ。ソイツ等は『恋愛禁止』ってクソみたいなルールを承知の上で加入して来たんだろ? 守るのは当たり前じゃないか。サルだって守れるよ、ソレ位。息苦しいだって? フザケタ事を言う。お前さんもアンスロポロジーで習ったと思うが芸術ってのは抑圧の下から生まれ出ずるモノだぞ。アイドルだって芸術家の端くれだろ? 芸術家を志すのに一番大切な事を教えてないなんて、そんな腐った様な組織に大事な金をくれてやる事は無い」
「今の僕には、お金は何の価値も無い。リョーカの笑顔が見られるなら全然構わないさ」
「大体、その娘はポジション・ゼロとやらの位置に付いてみたいと思っているのかさえ判らないじゃないか。寧ろ余計な御世話かもしれないぜ」
「良いんだ、余計でも。不要な御節介にしか為らなくっても、良い」そう言うと彼は吸い飲みから水を少し飲んだ。少量だったが時間を掛けてユックリと飲み下した。「咳一つするのも大仕事に為っちまった。成るだけ咽ない様に気を使ってるんだ」
アメリカにも吸い飲みって売ってんだな、と俺は不思議に思った。そして彼にあまり負担を掛けたくなかったので、一先ずこの話題から離れる事にして「ま、取り敢えずその事は横に置いておくとしてだな、何故その娘にソコまでハマっちまったんだい。訳を説明してくれよ」オレはショウナンに尋ねた。
「2006年、僕はサバティカルイヤーを利用して東京大学に居たんだ。最初は琉球地方に残る独自の言語群を発掘するつもりだった。ある日、1人の院生に引き摺られるようにして行った秋葉で一人の少女に出逢ったんだ」ショウナンが言った。
「そいつがリョーカとか言う小娘なんだな」
「違う。250人しか入れない小さな劇場で毎日公演をしている地下アイドルのグループが在って、その公演に行ったんだ。凄かった。勿論、公演自体のレベルは御世辞にも褒められたモノでは無かったけれども、熱気が凄かったんだ。ステージの上でパフォーマンスを披露している側とソレを熱心に観ている観客の両方が放出してる熱量がハンパ無かった。その時理解できたんだ。アイドルビジネスの根底を流れる通奏低音は結局、SEXだってね。巧妙に秘匿されていた本性が詳らかに開示されてしまった瞬間だったね。そう、公演のセントラルドグマはSEXだ。劇場舞台袖に屹立する2本の柱はリビドー、男性器の象徴とも思えてくるのさ。劇場内に渦巻く生物としての根源的な欲求、両者が発散する膨大な熱量が渦を巻いて巨大な奔流と化し劇場の中を畝って練り歩いて行くんだ。欲望をぶつける側と受け止める側の間の攻防が続く内に双方がドロドロに溶解して交り合い融合して凝集して行く内にカオス的な構造と成って劇場の内部に充満して行く感じなんだ。まるで空気自体に色が付いたようにね」
「何色だ?」とオレは馬鹿な事を訊いてしまった。
「もちろん」ショウナンは笑いながら「桃色だ」と答えて、言葉を続けた。
「濃厚で密度の恐ろしく高い空気さ。息苦しくなる位の、ね。こんな世界が地球上に存在したんだ。まるで新しい天体を発見出来た様に感じたんだ。小さな密室の中に充満した熱狂の高まりが絶頂を迎える頃に為ると覆っていた装飾が剥ぎ取られて行き理性によって眠らされていた動物としてのヒトのメスとオスとして覚醒するんだ。SEXに潜む巨大なエネルギーがメンバーと観客の両者の内部で変化を起こして熱エネルギーとして放射されるんだ。将に『散逸』さ。そして放出された巨大なエネルギーが劇場全体に充満して行って全体を自律的に一つの構造に作り替えて行く。両者を隔てている透明な壁が、もし存在していなかったら、その場でSEXをおっ始めていたかもね。でも当たり前かもね。アイドルを遊女に例える人もいるけれど、遊女の源は巫女なんだからね。巫女は処女の少女から選ばれる。何故なら巫女は神様の『遊女』なんだからね。ファンにとってアイドルは正に神様、逆もまた真なりで、アイドルにとって自分を支えてくれるファンの人は神様なのさ。根底にSEXが潜んでいても全然不思議じゃない。僕にとってそんな世界は初めてさ。フィールドワークでも御眼に掛かれなかったよ。そして僕の眼は有る一人の少女に釘付けに為った。彼女がステージの何処に居ようとも真ん中だろうが端っこだろうが裏に引っ込んで不在の時でさえも彼女から眼が離せない。ブラックホールの巨大な重力に取っ捕まった宇宙船の様に僕の視覚野を彼女が専制支配して全然離してくれないんだ。関取と形象されることもある巨大な身体のノロさんやツインタワーと形容された背の高い2人、アキモトさんとミヤザワさんですら記憶の片隅にすら残っていない。彼女の名前は、オオシマユウコという。小っちゃいんだがね、とてもパワフルな少女さ。仕事の方が忙しくてその後劇場に行けたのはたった1回、最初連れて行ってくれた院生の子を今度は僕が引き摺る様にして行った。彼女は更にパワーアップしていたよ、トンデモ無い位に、ね。僕にはダンスの良し悪しは、ハッキリ言って判らない。でも1つだけ確信を持って言える事は彼女のパフォーマンスには無駄が一切無い。ペレがフィールド上でパフォーマンスを披露する時彼の動きには無駄が一切無くて常に最短距離を進む。だから速い。ソレと同じなんだ。彼女は常に最短距離を進んでいるんだ」
「成る程。直接見た訳じゃないけど何となくその娘のダンスは想像出来るな」オレは整った環境さえ用意出来れば、ソイツは優れた兵士に為る素質は十分備えていると思った。舞踊は武闘に通ずる。古来そう言い交されてきたが、当たり前の話だ。優れた踊り手は左右のシンメトリーが良く取れているし、同様にシンメトリーが取れた兵士程優秀だからだ。出来ればソイツをグリーンベレーの一員として育て上げてみたいモノだ、とオレは思った。「握手会には一回だけ行った。その頃は未だシステムの構築が途中段階だったし人気もそれ程じゃなかったから一人当たり30秒位は握手の持ち時間が与えられたんだ。イヤーっ、緊張したね。人生であれ程緊張した事は無かったし、コレからも再び訪れる事は多分無いだろうね。緊張のあまり視野狭窄に陥っちゃってキューっと音を立てて縮まって行くんだ。あの頃はユウコさんも結構ガツガツしてたからオーラ全開で来られちゃってさ、何話したのか頭には少しも内容が残ってないんだよ。脳が記憶の形成に失敗しちゃったんだろうね。アメリカに帰国してからもネットで彼女の事を追掛けてたんだ。そして何年か前の紅白歌合戦の壇上でグループからの卒業を発表したんだが、別に僕はその事自体は驚きはしなかった。コアなファン程その日が近付いている事をヒシヒシと感じていたからね。ただ、最後は現場に立って見届けなければと言う想いは在ったよ。だから3月に国立競技場で開催された春コン、そして6月に行われた卒業コンサートと卒業公演に参加した。秋葉の劇場で行われた最後の公演、凄かったよ。何人ものファン達が、チケットを手に出来なかった人達が劇場を取り囲むように路上で立ち尽くしているんだ。僕は幸いにも超遠距離枠という海外にいる人専用のチケット応募枠を使って当選していたから中に入れたんだけどね。でもその時熱狂的なファンの一人が作成して来た法被を無理矢理に着させられてね、ちょっとヤンキーみたいで恥ずかしかったな。その前日に味の素スタジアムで開催された卒業コンサートは良かったよ。国立と味スタが二個一のコンセプチュアルコンサートとして構成されていたんだ。アイドルとしてのオオシマユウコの誕生を一日目で表現して二日目でアイドルつまりファンにとっての神から人間に還俗して行く行程をゴンドラに乗ってステージから家へと還って行くという演出方法を採用する事で良く体現出来ていたさ。1人のアイドルの『誕生』と『死』さ。一日目の『誕生』の時、岩を割って出て来た時には思わず『孫悟空か、お前は』って笑っちゃったんだけどね」一気に喋って疲れたのかショウナンは其処で一つ大きな溜息を吐いた。
そして暫く経ってから話を再開した。
「卒業コンサートのそのまた前日、その年の総選挙が同じ場所で開かれた。雨が降っていてね、正直参加を見送ろうとも思ったんだが、虫の知らせってヤツかな、行く事にしたんだ」少し水を飲んで喉を湿らせてからショウナンが言った。
「2014年6月7日第7回選抜総選挙、アリーナBブロック16、109番」
「何だい、その呪文は?」オレは訊いた。
「僕にとって運命の数字さ。その時までユウコさんと一緒にファンを辞めて外側の世界に出ようと思っていた僕を再び内側の世界に引き摺り戻した宿命の番号だ」
オイオイ、ただの席の番号じゃないか、大袈裟な奴だな。そう言おうと思ったが彼の真剣な表情がオレを発音する事から遠ざけさせた。ショウナンは続けた。
「その席は外周ステージの真横という、通称『神席』と呼ばれるとても鑑賞環境に優れた席でね、雨さえ降って無きゃ最高だったと思うよ。メンバー達が自分の眼の前5メートルの所で踊ってるんだからね。手が届く様な近ささ。ある曲の演奏時に一人の少女が僕の目の前に降り立ったんだ、ふんわりと。秋葉でオオシマユウコと出逢った事をファースト・インパクトと形容すると、ソレはセカンド・インパクトと呼べるかも知れない。重力の影響を一切感じさせない彼女の踊りは文字通りオオシマユウコの重力に囚われていた僕を一瞬で解放してそして境界線を跨ごうとしていた僕の足を止めさせて内側の世界に引張り戻したんだ。雨の中で足許も悪いのも全く気にした風も無くサイズの有って無いウェッジソールをパカパカさせながら何度も綺麗なターンを決めるんだ。横に居た他のメンバーが驚いて二度見した位だ。でも何よりも手の指の先まで、そして脚のつま先まで神経の筋が一本ピッと通っていて全然歪んだりしないんだ。いや、指の先までと言うよりもその先の空間までもキチンと意識して彼女の心が通されているんだ。全ての動作の細かい意味まで把握していて身体を動かしている様に微細な所まで気が配られていたとても丁寧な踊りだったね。メンバー達が目指すダンスは基本、ユウコさんの様なモノだ。だが彼女の踊りはソレとは全く異質のモノだった。ユウコさんの踊りは『剛』、そうだな、ラオウの様なダンスだと言える。あの柔らかそうな印象の有るマユシさんですら基本『剛』のダンスを踊る。ソレに対して彼女のダンスは『柔』、そう、トキのソレだったんだ。その時、彼女の踊りは僕を優しくフンワリと包み込んでくれたんだ。『踊りは心から発し、そして心へと還る』
将に、その言葉通りだ。心から発せられた舞踊は他人の心を確実に打ち抜いて魅了する。彼女の踊りからは確かに彼女の『心』を感じ取る事が出来たんだよ」
『ソレは、音楽についてJ. S. バッハが言った言葉じゃなかったか?』
そう突っ込みを入れようかと思ったが、静かに黙っていた。
「ナツマユミという振付の先生の言葉に『踊りを見ればその人の本質が解る。踊りにはその人の本当が現れる』というのがある。僕はその時、この人はとても真面目で丁寧な人なんだと確信した。でも僕にとってそのグループはオオシマユウコと愉快な仲間達と言った少々歪んだモノだったから、その少女が誰なのか全然判らないんだ。だから出来るだけその娘の情報、着ていた服、地色が赤でミニのフレアスカートのワンピ、ベージュ色で背の低いウェッジソール、右のコメカミ辺りに付けた銀色の太い針金を折り曲げて作られた様な星の形をした髪飾り、長い手足に少し茶掛かったロングかおかっぱのロングの髪、そういった情報を脳の記憶回路に入れた。その晩ホテルに帰ってから僕は必死に為って探した。少しでも情報が欲しいから普段は行かないような掲示板に書き込みをアップしたりもした。でも駄目だった。ネットの中の人達は予想に反して優しかったけれど一様に『判らないヤ』と言うだけだった。
帰国してからも探し続けたさ、研究そっちのけでね。何ヶ月か探して結局見付けられなくて諦めかけた時にYoutubeから僕にお勧め動画を知らせるメールが送られて来た。何気なく観ると中にその娘がいた。それは或るケータイゲームのCMフィルムで一番右端で大きくて丁寧な踊りを披露してた。左足を半歩前に出す振りの時に彼女だけクイッと捻りを入れててとてもディテールのシッカリしたダンスだった」ショウナンが言った。
ほう、ソイツも優秀な兵士に為る素質を持っていそうだな、とオレは思った。
「でもさ、見つけられる訳が無かったんだ」とショウナンが苦笑交じりに行った。
「何故だい?」
「僕は彼女の身長を160位だと踏んだ。そして周囲のメンバー、誰一人として顔を知らなかったからハカタかナンバのどちらかの支店の娘だと思っていたんだ。しかし、違ってた。彼女の身長は当時150を少し超える位だったし、それに本店の娘だった。前提条件が、そもそも間違っていたんだ。それにね」ショウナンは上げた顔をコチラに向けながら言った。「さっき真面目で丁寧な性格の娘だって言ったよね」
「確かに」俺が言った。
「彼女、オオシマリョーカの二つ名はksgk、クソガキって呼ばれている娘だったんだよ」
余裕を持って7時半にセットされたiPhoneのアラームアプリが痺れを切らしかけた8時、諦めた様に最初の男が動きを見せた
最初に目を覚ましたのはヤスダだった。
『ウッ、未だ酔いが全然、醒めていない』
酩酊状態が続いていたが起き上がり、霞む両目を擦りながらも部屋の中を見渡すと綺麗に片付いていた。料理人達の姿は無く、そしてショーナンの姿も見えなかった。毎日みんなで囲んで食事を摂ったテーブルの上には大鍋に一杯の鶏肉入りのケンチン汁と手拭いが掛けられた大皿が一枚乗っていて捲ると30個、塩で握られた御結びが盛り付けられておりヤスダが一つ取り上げてみると未だほのかに暖かかった。
「ショーナンさん、いませんか」ノックもそこそこにショーナンの使っていた小部屋のドアを開けると中には誰も居なかった。床の上に高島屋の紙袋が9つ置かれているのにヤスダは気付き一つ手繰り寄せて中を覗き込むと封筒が一つ入っており取り上げると封はされておらず内側から本日の総選挙用の無記名の招待用アリーナ席のチケットが一枚出て来た。
『ショーナンさん』粋な事してくれるぜ、とヤスダは思った。
まだ何か中に入っている事に気付いて覗き込むとソコには帯封が施された1千万円の束が2つ寝転んでいた。
オレはHARD OFF ECOスタジアム新潟のトイレの個室で腰掛けて装備の再確認をした。
戦闘用ベストのモールシステムに取り付けたシース内に収納された特殊加工が施されたセラミックブレードを装備するCIA御用達のナイフ、通称マッドドッグ、幅広の刃面を持つ物が一つとタントーブレードが一つ、計2本。ベストの下はBDUバトルドレスユニフォーム、端的に言うと市街戦用のグレーの迷彩模様の戦闘服だが特殊なアラミド繊維で織られており、ある程度の耐熱耐炎そして耐刃性を有している。足許はアフガンでも使用したゴアテックス製のブーツだが最新型でビブラム製のソールは多少の対人地雷は物ともしない特製品だ。天気図からすると絶対に大雨に為るから下着は速乾性の高い化学製品だった。身体を濡れたまま放置すると体力の消耗が激しく進行してしまうから気を付けなければ為らない。お次にオレは50円玉一巻と穴の直径と長さにピッタリ合う様に特注したバネを一本取出して新たな武器を制作し始めた。コインの穴にバネを差し入れると正にジャストサイズで緩くもキツくも無く無音で収まった。端の飛び出た耳の所を折り曲げ、箸に巻き付けて携行し易くしたガムテープを千切って貼り付け布地を痛めない様に養生をした。そしてフィールドジャケットのポケットから丈夫なナイロン製の靴下を取り出すと50円玉一巻を入れて封じ即席のブラックジャックを作り上げた。金属探知機など何の役にも立たんよ、と低く笑った。足許に置いてある高島屋の紙袋から丸められたタオルの塊を取り上げた。柔らかな被覆の中から些か奇妙な形状をした小型の双眼鏡を取り出すと丁寧に折り畳まれていたランヤードを解いて首に掛けた。軽い点検を終えるとクイックリリース出来るアタッチメントハーネスを使ってベストのモールシステムに固定した。第5世代の超小型暗視ゴーグルだ。取り付け終わるとジャケットのポケットの内に在る米軍専用のIRも照射可能なシュアファイア製のLEDライトを確かめた。漆黒の闇の中では有効なカップリングだ。先程のゴーグルと組み合わせると真の闇の中でも楽々と行動が可能だ。ヤスダ達の話を総合すると『指ヲタ』と言われる人物たちはそれほど危険な訳では無い様だ。だが、常に最悪の事態に備えてあらゆる状況に即した対応策を考え出して準備を整えておくことが戦術だ。オレはAチームの隊長だったから勿論戦術のエキスパートだ。考えるよりも早く脳味噌と身体が反応して用意を整え始める。『指ヲタ』の中にも馬鹿がいたり、ジム通いの肥大化した筋肉野郎が、自分は武闘派だ、等と勘違いして凶行に及ばないとも限らないから、非常事態に備えた細やかな装備だ。前回と同様に今回もこの国には密入国した。この国の人間は海が他国との障壁に為り得ると信じ切っているようだがオレの様な人間にとっては全ての海岸線が税関無しの出入り口と同じ。現在オレの身分は今CIAの特殊工作員と成っている。オレの様な人間が大手を振ってこの国を闊歩出来る様に担保してくれているのが日米安全保障法体系と言う便利な代物だ。そしてコレも前回同様に行動範囲の総ての監視カメラ、家庭、会社、駐車場、街頭そしてコンビニのモノにすらオレの記録は残されていない。マイクがプレゼントしてくれたAI型マルウエア、Stuxnetをオレはネットの中に放流した。厳密に言うと情報収集や遠隔操作などを担当する補助的なプログラムDuquとFlameが2つ付随しているのだが面倒臭いので1つとオレは看做している。この可愛い仔猫ちゃん達はオレの指示にも従うし、自分で考えて行動する事もある。放流された瞬間から彼女達は自律的にネットに繋がれた全てのサーバーとパソコンにラインを経由して侵入すると筐体の内部の何処かに潜み巧妙に身を隠していた。そのPCが家庭や会社のモノで脆弱な能力しか持って無い時は自らを圧縮してコード化した上でステガノグラフィーとして表面上は画像とか映像とかのファイルに化ける事でその身を隠匿する。その侵入方法は実に巧みだ。パラサイトがホストに感染する時に『免疫寛容』という手段を用いるが、ソレに良く似た手法を仔猫ちゃん達も取る。一度潜り込んだら内部環境に合わせて自分をさも正常なソフトの様に擬装したり或いは自分自身をバラバラに分解して機器内部の至る場所に分散して置く。こうしてウィルス対策ソフトを無力化するのだ。バラバラにされた各パーツ達は連絡を取り合いまるでアルカイーダの様に任務を分担してクラスター的に各自の判断で独自に処理する。侵入したサーバーが監視カメラ用のモノだと判断するとオレに連絡して指示を仰ぐが何も返答が無ければ自律的に処理を進めて方々の端末のカメラから送られてくる映像をサーバーが記録して行く傍から記録媒体上のデータを悉く破棄してしまうのだ。定期的に寄越す報告に依ってばら撒いたマルウエア達がとても上手に与えられた仕事を熟して行った事を俺は知った。つまりこの国にオレの痕跡は一つも無い。オレが彼女達に与えた命題は3つ、一番目はこの国の何処にもオレの記録を残存させない事だ。その目標を達成する為には彼女達は何事も厭わない。たとえその行為に因って社会が大混乱に陥っても何も感じる事無く働き続ける。だって彼女達は人間の様な感情が無いのだから。知らない画像をファイル内に見つけた奴が削除しようとしても無駄だ。敏感な仔猫ちゃんは直ぐに察知して既に用意してある別のお家にタップ完了の前にミリ秒単位でお引越しをする。
可愛い仔猫ちゃんは今、この国のほぼ全てのサーバーに潜んでいる。
このグループに関心を持った人間のスマホにも、潜伏している。
全国津々浦々、とにかくウジャウジャ、いる。
別に何か特別な考えが在った訳でも無い。
勘だ。
ただ戦場では勘は重要なのだ。戦闘は流動的で絶えず変化を続けて行く。そしてその変動に柔軟に適応出来た者だけが生き残るのだ。外部からの情報が途絶された環境下では頼れるモノは己自身の勘だけだ。
今回どうやらTVの生中継が有るらしい。もし不測の事態が発生してオレの情報が漏出しそうになればオレが何もしなくても可愛い仔猫ちゃんが働いてくれて放送自体をシャットダウンさせる手筈だ。既にTV会社のサーバー及び全会社員のPCにも仔猫ちゃんが潜んでいて動き出す時を静かに窺っている。おっと、スマホにも、な。ヤスダ達の話によると運営サイドもかなりの数のカメラで撮影をするらしいが、残念でした。運営会社はもとより子会社の撮影担当会社のサーバー及び全社員、メンバー全員や公式サイトにアクセスした全てのファン達のPCにも一匹の仔猫ちゃんが其々雌伏している。おっと、スマホにも、な。チームのみんな、スマナイ。みんなの記念写真やオレが写った写真は後数時間で消去される。思い出として残して置きたいのだろうが我慢してくれ。オレの勘が言うのだ。足跡を一切残すな、と。
イベントが終わって映像を撮り終えた運営の撮影スタッフが映像記録を移す為にSSDをスロットに差し込んだ瞬間に総ての記録が異次元に素っ飛ぶ。オレは撮影スタッフが気の毒に為って来た。彼等の今日の労働は何も生産しない。全くの無駄働きだ。オレが参加した握手会でも至る所でカメラが何台も回されていたが、このケースではオレが写っているシーンのみ削除する様に指令してあった。だが、今回は総てカットだ。理由は費用対効果だ。この場合の費用とは時間を意味する。
最初の仔猫ちゃんが運営のコンピューターシステムに侵入を開始したのは、オレがリョーカと初めて接触した全握を遡る事約一カ月ほど前だ。ま、本物の人工知能プログラムでは無いから自己進化は出来ないが、設定された目標を達成するのに邪魔な障害が発生したと認識すると即時に問題点を洗い出して自身のプログラブの修正を施す事でトラブルに対処して行く性格を持っている。あれ、この特徴って自己進化の範疇に入るんじゃないのか、マイク? 彼女は自律的に自己複製を繰返すとシステム内の色々な場所に自分の分身を隠匿して別の筐体に移住できる機会を窺っていた。日本の皆様、戦争は始める前から、どう終えるか、終わった後どう処理を進めて行くか、考慮してから取り掛かるモノだよ。首尾よくリョーカのスマホとPCに侵入できた仔猫ちゃんから情報が上がり始めたのが『初会』の10日前。だからリョーカがオレに関する情報を求めてグーグル検索に掛けた事も手に取る様に解った。ゴメン、リョーカ。キミがアクセスしたサイトは総てフェイクだ。相棒に関するあらゆるデータは、彼がホスピスに入院する前、既に彼自身の手でネットの内側の隅から隅までチリ一つ残さない様に綺麗に掃除されていた。キミが手にしたモノは『何の情報も無いと返って疑われる』と言うオレの意見に従って、相棒と一緒に新設した物だ。大部分が真実で核心のみが作りものだ。本当に秘匿しておきたい事とウソとを摩り替えて周囲を真実で取り囲んで置くと人は勝手に全てが真実だと勘違いをしてくれる。それから、タカちゃん、済まない。実は君のiPhoneの中にも仔猫ちゃんが1匹欠伸をしながら潜んでいる。初めて会ったバーで途中にトイレへと席を立った隙を見計らってスルッと仕込んで置いたモノだ。だからリョーカと同じ様に君の得た情報も全てフェイクだ。そして今やそのフェイクのサイトすら存在していない。
あ、あと1つ。些か言い訳染みた弁解に響くだろうが、リョーカ、キミのプライベートに関しては一切タッチしていないから。着替えも覗いてないし、相棒の情報に因ると君が部屋に居る時は裸の事が多いそうだから部屋に居る時はカメラは一切回してない、だからご安心を。でも昨日、向かい側のビルに居たヒトに見られたりとかしなかったのかい? 本当にホテルでも真っ裸だったのか、確かめて置くべきだったかも知れないな。
iPhoneのパネルを一回タップすればこの周辺一帯全ての電源、予備電源すらも瞬時に喪失させる事が出来る。この近くに病院は無いから胸が痛む事故は発生しないだろう。そう、オレは前回密入国した時にこのスタジアムを下見した。関門をスルリと抜けて入り込み建物の内部も隈なくウロついて全ての構造を把握してある。その後、周辺を探索して脱出が必要な時に使用出来そうな経路も見つけてある。今朝は開場時間の3時間前に来て周辺を再探索して変化してないか確認しておいたのは言うまでも無い微細な事だ。ほぼ完璧だ。
不測の事態が勃発したら速やかに撤退行動に移る。ソレだけだ。目標達成も大切な事だが、生き残る事が肝心なのだ。ソレがゲリラの本質だからだ。
有り得ない事だが、数々の僥倖が体制の味方をしてショウナンの所まで辿り着けたとしてもヤツがベッドから離れられない事は一目で判る。これがAチームのやり方、用意周到と呼ぶべき物だ。サミュエルソン、ビットマン、マイク、シュナイダー、ゴードン、ベルソン、ミキュレック、ランドール、ミラー、パーシー、ウェルズ。お前達と出逢えた事、そしてチームから一人の死者も出さなかった事、コレが俺の誇りだ。オレ達米軍は誰一人として見捨てたりはしない。戦場に置き去りなど絶対にしない。部隊員全員で基地に帰還する事、それが隊長であるオレの最優先事項だ。昔の何処かの帝国陸軍とは訳が違う。ビットマンの名前と顔を浮かべた時に少し笑いが漏れてしまった。ビットマンはファーストネームがマイケルで、その所為で副長のサミュエルソンから「入る部隊を間違えているんじゃないのか? 機甲化師団は向こうだぞ」と良くからかわれていて、その度に「戦車の時代はもう過ぎ去りました」と返すのが常だった事を思い出してしまったからだ。そして今や親友とも呼べる仲のマイク。彼のくれたAI型マルウエアは役に立った。10万ドルでは安かった。次回はもう少し支払金額をはずもうと思う。ODA-5121、第5特殊作戦グループ第一大隊B中隊第一Aチーム。良いチームだった。だが、今回編成したチームもまた良いチームだったよ。みんな素晴らしいヤツばっかりだった。ま、1人だけ少し残念な奴もいたが、な。オレは投票を無事に終える事が出来た時に慟哭しているサトウの顔を思い浮べて笑いを漏らしそうになった。
ヤスダがショーナンの部屋から大部屋へと戻る頃、三々五々みんなは起き出して来て、まだ泥酔状態と形容できるボロボロの身体に鞭を打ちつつ何とかこうとか服を身に付けた。文明人としての最低限の身嗜みを漸く整え終わった時に、いきなりドアが乱暴に開けられて掃除のオバちゃん達が10人位何も言わずに入って来た。終始無言のオバちゃん達は、チームの仲間達を有無をも言わさない圧倒的な迫力で一掃、ヤスダ達は箒で払われる様に追い出されてしまった。フジムラなどは最低でも御結びを2個は確保しようと相当に粘ったのだがカビキラーをシュッシュッと顔面10cmの所でされて、為す術無く撤退させられてしまった。外に追い払われた仲間達は建物を見上げながら口々に愚痴っていた。
「メシ、どうなっちゃうのかな?」フジムラが心配そうに言った。
「アイツ等飯喰っちまう心算だぜ」サトウが部屋を見上げながら、言った。
「ま、廃棄処分に為るよりはマシさ」ニタが苦しそうに喘ぎながら言った。
「おい御前達、タクシー来たぞ」手配した車を指し示しながらモリサキが言った。
全ての窓を全開の上に外気循環も全開のタクシーが3台連なって東京駅の八重洲口に到着した時、サイドに『饂飩 モリサキ』と記されてあるハイエースとモリサキのカミさんがチームの連中を待ち構えていた。仲間の荷物を預かって貰う為に駅へと向かう道すがらモリサキが連絡を取っていたのだった。モリサキの妻は長身のスラッとした美人で化粧気の無い昭和の香りが漂う顔立ちにボブの髪型が良く似合っていて、その長軀を洗い晒したコットンシャツとチノパンツの中へと滑らせ入れていて、少し素敵だった。
「アンタ等、ヒドイ顔してんねぇ」モリサキのカミさんが笑いながらも顔を顰めて言った。
「よう、カアちゃん、有難い。」
じゃ、みんな荷物、ココに入れてよ、と言いながらスライドドアをモリサキは開けた。
用意されていた段ボール箱を展開して仲間達はそれぞれ荷物を梱包し始めた。
「ショーナンさんの話では、この時季の新潟は雨が降ると相当に寒いらしいから防寒対策だけはシッカリと、な」そう言いながらニタは不要なモノを箱に封入した。
段ボールに荷物を押し込み布テープで封をしてからマジックでデカデカと『サトウ』と記名するとモリサキの奥さんに向かって言った「パソコン新品だから気を付けてな」
「任しときな、ズンがズンが踏ん付けてやるから」
「相変わらず豪快だなぁ、奥さんは」苦笑しながらサトウが言った。
「おう、早くしないと新幹線、出ちまうぞ」
敗残兵の様な足取りで皆はホームに向かって歩き始めた。
臨時のとき361号が東京駅の22番線を静かに離れたのは定刻通りの9時52分だった。発車間際に5号車(自由席)に滑り込んだ9人は乗客で一杯の車内に驚いたが、新潟に11次56分着と総選挙に関する限り万事好都合なダイヤだったから当然だった。席が見付る訳も無いので仕方無く通路を本拠地と定めて揺れに身を任せるまま暫く立っていると、サトウ達の周囲に異変が起こった。人がいなくなっていたのだ。9人の吐き出す甘くて濃密な腐敗臭様な呼気に耐え切れなくなった一部の乗客達が脱出していったのだ。
「おう、何か知らんが、席空いたぞ」
傍若無人は態度で席に腰を下ろすと彼等は直に寝息を立て始めた。呼気は次第に車内に充満していった。何時の間にか5号車からは人気が消えて、他の車両が少し膨らみながらも余剰人員を収容していった。
不穏な空気と疲労困憊した乗客が詰まったとき361号が新潟駅の14番線に入る数分前、9人の傍若無人の男達の中で最初に目覚めたのは、サトウだった。
「おう、オマエ等、起きろ。着いたぞ」
ヲトヲを除いた8人は列車が提供する振動の所為かアルコール自体はスッカリ抜け出てしまっていたから、霞みがかった頭はともかくも身体はシャッキリ・ポンだった。
「ある乗り鉄に依ると振動が内臓を小刻みに揺り動かし続けるので乗車飲みは酔わないのだそうだぞ」
「そうか」
ホームに降り立ち、時間を確認して余裕がある事を知るとサトウは
「じゃ、二日酔い防止の為にラーメン喰いに行くか」と言った。
「三越の並びにある三吉屋にするぞ」モリサキが言った。
「あそこのスープは澄んでいてサッパリしているのにコクがあるから美味いんですよね」
「あの、僕は、面だか屋の方が良いんですけど・・・」
そう小声で呟くヲトヲを完全に無視して、仲間達は新潟駅の万代口へと歩みを向けた。
「自分で例えるのは些かおこがましいが、差し詰めオレは円卓の騎士ランスロット卿ってトコだな。動けないキミ、アーサー王に成り替わって国中を飛び回り華麗に剣を振るう」
「道理でキミの力が十人力の理由が解ったよ」
「それは息子のガラハッドだろ」
「オッと、文学通のスナイパーだ」
オレ達は顔を見合わせて短くククッと笑った。
「ドレぐらい票を投ずれば確実なのかな?」オレが訊いた。
「去年の1位が20万弱だから、最低でもソレ以上だろうな」ショウナンが答えた。
「口座を一つ作るからソコに資金を振り込んでくれ」
「僕の口座から直接じゃ駄目なのかい?」
「ああ、この手の工作の時には足が全く付かない口座の方が都合が良い。任せてくれ。破壊工作はオレ達の得意分野だ」
「別に総選挙を破壊してくれって頼んでいる訳じゃ無いんだけど」
「たった一人の人間が一辺に20万以上投票するんだぞ。システムの根幹が揺らぐさ。と言うよりも、コレでトップが危機感を持てないならソコには終了フラグが山の様に立つさ。20万人のファンが自分の小遣いを必死に貯めて買った一枚を投じても、1人の金持ちが道楽で20万入れても結果的にそのシステム内では変りが無い事実を御客たちは突き付けられるんだからな。何割かは余りの馬鹿馬鹿しさに気付いて外側に離れて行っちまうかも知れないぞ。そうなったらビジネスとして見ても最悪だ。お前さんの言う様にその『総選挙』とやらがそのシステムにとってアルファでありオメガなならば、終わりだ。生き延びる為には新しい違う魅力にあふれたモノを創造して行くしかない。ソレが出来なければ早晩立ち行かなくなることは必至じゃないか。創造する為には先ず破壊しなければならない。ビルの上に違うビルをもう一個建設するなんて不可能なんだから。伝統ってのはそうやって出来て行くんだ。米軍が何故世界最強でいられ続けるのか、知ってるかい? アソコは常に変化し続けているんだよ、変わらないでいる為に、ね。良いと思ったモノは柔軟な姿勢で素早く採用するし、不要と判断したら容赦無く切り捨てる。そうやって常時組織自体を新陳代謝させて行く事を怠らない。だから常に最強なんだ。伝統ってのは破壊と創造の言わば連続体だ。運営がその組織を『伝統』にしたいと言う意志が在るのなら、ヤルしかない。他に道は無いんだよ」オレは一気に喋った。話が始まって以来胸に閊えていた何かを吐き出す様に、喋った。ショウナンはそんなオレを見て閃いた様に顔を明るくした。
「そうだ、良い事を思い付いた。僕は全財産をリョーカに残して行く心算だったが、でも少し修正を図って基金を作ろうと思う。目的は、リョーカを幸せにする事、ただソレだけだ。管財人は僕の顧問弁護士に依頼する事に為るけれど、だが代表は、君だ。何があっても君は生き延びて少しでも長い間リョーカを見守っていて欲しい。残念だが僕はそれほど長く生きられないからな」そう言ってショウナンは吐息の様な笑いを浮かべた。
「了解」
「さっき言った様に大学時代みたく僕に『成り済まし』て、タカハシと言う僕の旧い友人に謝罪をして欲しい。そしてリョーカに接触して彼女の真意を探り出して、もし心底望んでいるのであればポジション・ゼロをプレゼントして上げて欲しい。接触方法かい? 握手会が一番手っ取り早いと思う。2種類存在しているけれど、全握の方だな。100枚くらい握手券を使えば10分は喋られるからね」
「しかし何故お前さんの振りをしなければ為らないんだ? 別に正々堂々と代理人として2人に接触すれば良いじゃないか。もし身代わりがバレでもしたら疑われてしまって、最悪の場合、もう何も信用して貰えなくなる危険性が高いぞ」
「君なら大丈夫。ソフモアの時、僕の代わりにエミリをデートしただろ? あの時よろしくやるチャンスを君は避けてくれた。ベッドの上まで行く様なそんな最接近な状況、しかも相手は僕のステディだ。それでも全くバレなかったんだ。長い事有って無いタカちゃんはおろか、実際に会った事の無いリョーカは疑いを持つ機会も無いよ」
「知ってたのか?」オレは些か動揺しながら訊いた。
「ああ、でも君なら絶対最後の一線は越えないって判ってたから心配して無かったよ」
「でも代りに女の子と握手しろっ、てのはなぁ」オレは天井を見上げながら言った。
「僕はここを動けない。長時間のフライトにも耐えられそうにないし、ね。でも一回位は彼女と握手をして会話を交わしてみたいじゃないか」
「オレが話したとして、ソレが一体何なんだ?」
「馬鹿だな、アバターって映画観てないのか?」
「その頃はアフガンで弾丸を消費するので手一杯だったんだよ」
HARD OFF ECOスタジアム新潟のフィールド上に特設されたアリーナ席に、サトウとニタが並んで座っていた。
「何で俺がお前の隣なんだ」サトウがニタの顔を見ながら言った。
「仕方ないだろ。チケットの席はクジで決まったんだから。その席引いたキミが悪いんでしょう?」ニタがとぼけた様に言った。
「ショーナンさんの横が良かった」
「何だ? お前苦手じゃなかったのかよ」
「何で苦手なんだ?」
「よく衝突してたじゃないか。何時だったか、アイドルとは何ぞや、って話に為った時にショーナンさんが『如何わしい行為を伴わない風俗』って言った時なんか、思わず腰を上げかけてたじゃないか」
「そんな事は無い。ソレはお前の気の所為だ」
「嘘付け」
「ショーナンさんはオレに人生を与えてくれた人だぞ。尊敬してる人物にそんな事をする訳が無いじゃないか」
ヲトヲは独りで考えていた。
二日酔いの痛む頭を叱咤激励を飛ばしながら、考えていた。
イヤ、二日酔いと言うよりも未だ酩酊状態が昨夜から継続中と言った方が正確だった。
だから酷いモノだったが憑き物が落ちた顔付をしていた。
考えていた。
今朝、嵐の様に舞い込んで来た掃除のオバちゃん10人に蹴飛ばされる様に追い出されて、
外に出た後で何事にも慎重なヲトヲは忘れ物は無いか、自分の荷物をチェックした。
すると初日にショーナンから手渡されたカードと部屋の鍵が煙りの様に消えていた。
周りで同じ様に荷物チェックに勤しんでいる仲間に確かめると同じ様にカードと鍵だけが見事なまでに回収されてしまっていた。
ショーナンとの思い出に記念品として貰って置こうと思っていたのでヲトヲはガックリきたが、自分のiPhoneの中にはショーナンや仲間達と撮った写真が沢山保存されている筈なので、ソレが頼りと為って何とか落ち込む事から回避出来ていた。
そんな事よりもヲトヲはショーナンに伝えたい事を、1つ産み出せていた。
それは未来を選択する事だった。
今日の朝、起きたら真っ先にショーナンさんに報告しようと思っていたのに、既にあの人は去ってしまっていて何も伝えられなかったからだ。
籤引きの結果、ヲトヲはアリーナ席ブロック1と言う超神席、正面ステージの脇で丁度外周ステージが延びて行く際と言う席を引き当てて仲間から羨ましがられたのだが、そんなのよりもショーナンの隣の席の方が良かったと感じていた。
『僕は大学に戻って一から勉強をやり直します。そして将来はコンピューター関係の仕事に付こうと思っています』
そう報告したかったのだ。
その時掛けてくれる筈の言葉がどんなモノなのか、とても楽しみだったのに。
ヲトヲは周囲を見渡してショーナンの顔を探していた。
オオヤマはモリサキの横に静かに、野武士の様に座っていた。
「やっぱ、アリーナは良いな。天空席は惨めだからな」モリサキが言った。
「・・・・・」
「雨大丈夫かな、降って来そうだぞ」
「・・・・・」
「さーて、ペンライトを、っと」
「・・・・・」
「ラーメン喰っといて良かったよ。でも今朝の御結びとケンチン汁喰っときたかったな」
オオヤマが黙ってカロリーメイトを差し出して来た。
「先生、雨どうですかね。降りそうじゃないですか」ウレシノがフジムラに言った。
「おーっ、今、ポツンて来たぞ。ヤバいなコレ」
「来てるゾ、雨の先兵隊が」フクヤが天を仰いで言った。
「放線菌の匂いがしてきたな」フジムラが言った。
「今初めてTVを付けた方は何が起こっているのかお分かりに為らないと思いますが、おそらく今ワタクシの目の前では大変な事が起こりつつあります。ただ今眼の前で起こりつつある状況を表現できる語彙を探す為言葉の森を彷徨っていますが一向に見付けられません。先ほど総選挙が始まる少し前からポツポツと雨が振って参りましたが、ココに来てその激しさを増して来まして、アリーナ席の皆さんは入り口で手渡されたピンクのカッパを一様に着用しています。あー、でもコレカッパ着ててもずぶ濡れですね。皆さん雨、とても辛そうです。ここ新潟はHARD OFF ECOスタジアム新潟から実況中継でお伝えしております第8回選抜総選挙、ワタクシ、ミヤネとカトウさんとで実況してまいりましたが、いやー、大変な事が起きましたね、テリーさん」
スタジアム内に特設されたスタジオの中は軽いパニックに襲われていた。卒業したり不出馬だったメンバーを除くと去年の選抜メンバーはワタナベマユを一人残して全員が、もう既にその名前を呼ばれてしまっていたからだ。
「コレ、あれでしょ? 去年の2位からカシワギさんが17位に落ッこっちゃって替りに、エーと誰だっけか」テリーが助けを求める視線を横にいるオオシマユウコに送ると彼女はテリーにだけ聞こえる様に小さく囁いた。「あ、そうそう、ムカイチさんね、彼女が入れ替わってジャンプアップで16位だったんだよね。それで残りのメンバー達はアンダーからの単純な、言わば順当昇格組な訳でしょ? だから何の不思議も無いんだけれども、サ」
テリーが感謝の意を眼で伝えるとオオシマは軽く頷いて彼の後を引取って話し始めた。
「そうですね。選抜の中自体では入れ替わりと言うが順位の変動はあるんですけどメンバーの構成自体は変っては無いんですね。ま、卒業したり出なかったりで直ぐ下にいた娘達が上がって来る事は理解出来るんですよね。翻って他の常連組を見ると、これ、去年の1位のサッシーが6位にランクダウンした位でそんな変化が無い。去年の選抜からは常連の現役で言うとカシワギちゃんが抜けてミーオンが入ったんですよ。で今、3位までの発表が終わってマユユを除いて去年の選抜メンバー全員出ちゃったから、コレは新しく若い子が入って来るって事ですよね。しかも最低でも2位。いきなりこのポジションは凄いです」
「イヤッ、でもオオシマさんもいきなりの2位だったじゃないですか」と実はユウコヲタのミヤネが言った。「しかし、5位にムトウさんで4位にサヤ姉、ソレで3位にジュリナさん。コレ一体誰が次呼ばれるんでしょうかね? ああっと、2位の発表に行くようです」
「そういう訳で1位を獲れなかった事は大変悔しいのですが、この総選挙の選抜メンバーに新しい人が入って来る事はとても素晴らしいです。新しい『血』が入る事に因って新陳代謝が進み世代交代が起こって行かなければ未来は無いからです」
マユはサシハラの方をチラリと一瞥してから視線を観客へと戻した。
「真面目にコツコツと努力を重ねてきた人間が報われるなんて、本当に素晴らしいです。でも、本当に悔しいです。だから、もし来年も総選挙が開催されるのであれば私はこの悔しさをバネに変えて1位を獲得したいと思っています。
本日は雨の中遅くまで本当に有難う御座いました。次に名前を呼ばれるであろう新しいメンバーに盛大なる拍手と声援をお願いします!」
2位だったワタナベマユが思いっきりのお辞儀を披露すると晴れ晴れとした笑顔を見せながら2位の椅子に着く為に階段を昇って行った。
「ワタナベさん、敗れたとはいえこの21万票と言う数字は大したものです。いやー、『凄い』の一言しかありません。それでは皆さん彼女に盛大なる拍手を!」
司会進行役のトクミツが高齢に似つかわしく無い大声を上げてワタナベを祝福した。
「さあ、一体誰がこの展開を予想したでしょうか。去年の覇者であるサシハラさんが敗れ今また一昨年の女王のワタナベさんが2位にランキングされるという大波乱。誰が1位に呼ばれるのか全くと言って良い程判りません。それではトクミツさん、そろそろ1位の発表に参りましょうか?」同じく司会のキサさんが促した。
「そうですね。雨足も一層強さを増して来ました。天もこの波乱の展開に驚いているのかも知れませんね。それでは参りましょう、栄光の第1位の発表です」
リョーカは眼を閉じて静かに俯いて気息を整えながらその時を待った。
『絶望』の到来を。
その時が、来た。
「第8回45thメジャーシングル選抜総選挙、栄えある第1位。最終獲得票数、え?
イヤっ、大変失礼いたしました。最終獲得票数33万4千とびとびの1票・・・」
リョーカのウエルニッケ野が情報を処理するのを中断しまっているのか耳が拾った筈の音を彼女は全く理解出来ていなかった。真の静寂が彼女の上に訪れていた。肩を突かれて顔を上げてソチラを見ると小学校から同級で同期のアイガサモエが顔を涙でクシャクシャにしながらも飛び切りの笑顔を渡して来た。
「オメデトウ。凄いじゃん。やったじゃん。1位だって」ホラ立って挨拶しなよ、と彼女に促されて漸くリョーカは立ち上がった。ピョコンと深く一礼をすると7万人の観衆が地鳴りの様に響く大歓声を上げた。その歓声がリョーカの聴覚を元通りに戻した。
約束を守ってあの人は奇跡を叶えてくれた。
今度は私の番だ。
スッと顔を上げて真正面を見据える。
そして静かに歩み始めた、絶望を受容れる為に。
リョーカはコレも涙で顔をグシャグシャにしたシノブさんから1位の盾を貰うと観客の方に向き直ってもう一度ピョコンとお辞儀をした。そして彼女が受容れなければ為らない最初の『絶望』を真正面から見据えて、辛い告白を観衆に向かって始めた。
「私の名前はオオシマリョーカといいます。多分TVの前の御客さんや、もしかしたらこのスタジアムの中にも私の事を知らない人がいると思います。と言うよりも、知ってる人の方が珍しいかも知れません。もう一度言います。私の名前はオオシマリョーカです。皆さんは『何でこんな無名のヤツが1位何だ』と思ってるのが解ります。私がココにこうして立っているのには理由があります。ソレは去年10月の握手会での事でした。レーンに並ぶ人の列が途切れたのを見計らった様にある男の人がやって来ました。その人は私にこう言いました『リョーカさんがポジション・ゼロから観える景色が心の底から観たいのであれば、私は魔法を一回使おうと思っています』と」
「と言う訳です。アナタが私をこの世界に引き摺り戻したのです」オヒゲさんが言った。
リョーカは嬉しかった。
真面目にやっていればこういう風にもファンの人を獲得出来るんだ。しかもユウコさんの重力を振り切って私が戻したんだ。そう考えると少し自信が湧いて来た様な気がした。
「では本題に入ります。本来であれば敬語を使わなければいけないのでしょうが、敬語というモノを使用すると責任の所在が不明に成り、加えて何か問題が発生した時に原因を究明する検証作業の障害に成ります。今からお話しする事はリョーカさんにとってとても大事な事です。だから以降は敬語を敢えて使用しない事にする」男が言った。
リョーカは思った、男のモードが一人のファンと言う立場から教官の立場に変化したと。
男は続けた。
「ある一人の天才の自著の中に、世の中の誰もが知っているのに正視する事が死ぬほど恐ろしいので眼を逸らして無かった事にしてしまっている事実を固体化した言葉の一群が有る。ソレはとても悲しい事実だ。そこで彼は『太古の昔から人は自分の生き方など選べた事は無い。ほんの一握りの人間、優秀な頭脳を持ち、自分の資質に目覚め、自らの能力を伸ばせる優れた教育環境を手に入れる事が出来て、自分自身に厳しい訓練を課して律して行ける。そういう選ばれた人間のみが自分の人生を選択できるのだ。殆どの人は上位の他者の命令に従って生きているに過ぎない。皆が自分の子供には、自分の人生は自分で選びとりなさい、と教えるが選び方そのものを教える事は無い。何故なら自分も人生の選択などした事が無いので選び方など判る筈も無い。自分の知らない事など教えようが無いのでソコは静かにスルーする。子供達が選択の仕方を問うたとしたら、稚拙なレトリックを使って誤魔化すだけだ』と述べている。だがリョーカさん、あなたは選択する事に成功した。
高校での成績がどのようなモノかは判らないが、TV番組を見る限り地頭は良さそうだし自分自身でも優秀なダンサーである事を自覚している。グループに加入して優れた環境を手に入れる事も出来た。そして毎日の様に自ら訓練を付けている。アナタは0を1にする事に成功したのだ。コレは誰もが出来る事では無い。ただ今回アナタの1を100にする事に我々は失敗した。スマナイ。心から申し訳無いと思っている。だが今リョーカさんが必要としているモノは謝罪の言葉では無い。ソレ位は理解している。アナタが今必要としているモノ、ソレは背中を推し続けてくれる新たなファンだ。いや、新規のファンの獲得方法だ。握手の仕方を見れば判るが、アナタは割合と淡白だ。ガツガツしていない。私の前推しであるユウコさんと初めて会ったのは彼女が17歳の頃だから丁度今のリョーカさん位だがアナタに比べれば遥かにガッツいていた。誰と握手しようかな、とウロウロ迷っているファンの手をガシっと無理矢理に握り『オオシマユウコです。ヨロシクお願いします』と言っていた事を目撃している。だが、自分の性格を無視してまでも無理にガッツいても駄目だ。そんな事をしても早晩底が割れてしまう。キャラというモノは自分で作るモノでは無く周囲の人間に依ってユックリと付けられていくものだ。恋は落ちるモノでするモノでは無い。ソレと同様にキャラも自分で設定するモノでは無く周りの他者がアナタの内側から見付け出してくれるものだ。私がこのグループを見続けて大体10年位に為るがその間無理なキャラ変をした人間や自分でキャラ設定をした人間で成功した人を知らない。最初こそ自分で設定したかも知れないが時が経過するに連れて周りが新たなキャラを発見して一緒に為って盛り上げてくれる、そういう過程を経たヒトが成功していると思う。だからリョーカさんも無理をする事は無い。周囲の人間が付けてくれたksgkというキャラ、アナタは本来人見知りで真面目でコツコツ頑張る人だ。だからそのキャラ設定とはズレが在る。だがそのズレを怖がったり嫌がったりしてはいけない。アナタが成長して行くに連れて周囲にいるファンの希望、アナタがこう在って欲しいという期待も徐々に変化して行くと思う。アナタが為すべき事はファンの期待するアイドル像を完璧なまでに演じる事だ。ソレが本来の自分とは懸け離れたモノであっても、だ。こんなの本当の私じゃない。そう思うだろう。でも大事な事はファンの求めるオオシマリョーカを演じる事だ。期待に応える為にそこは寛容な心を持たなければならない。多くの女性が持つ狭量な潔癖性は不要だ。ソレは皮質の小部屋に仕舞って鍵を掛けて置く様に。まだ、怪訝そうな顔付をしているな。アナタは将来女優として活動して行きたいのだろう? ならば求められるアイドル像も与えられた役の1つと考えれば良い。役者の仕事は、『役』に身体を貸す事だ。主たる存在は『役』であって役者はソレを表現する為の容れ物、媒体に過ぎないという事を忘れない様に。ただ、『役』を演じる上で1つ気を付けなければならないのは『媚びてはいけない』という事だ。『媚びる』と人間の精神は歪む。だから媚びたり卑屈に為ったりしてはいけない。卑屈さは心を歪ませるだけでは無くてグシャグシャに捻じ曲げて仕舞う。結果としてスポイルされた精神は人に物事をフラットに観る事を許さない。つまり正当な判断が出来なくなるのだ。媚びず阿らず諂わず卑屈に為らず背筋を伸ばしてファンの人達に接する事、満腔の誠実さを持って、だ。地に足を付けて日々精進を続けて行けば直接には目に観えなくても小さな変化が積重なって行き漸くオオシマリョーカが演じなければならないアイドル像も後から振り返ってみれば大きく変化している事だろう。伝統とは小さな変革の積み重ねから生まれるモノだ。創造と破壊の繰り返しで伝統というモノは創られて行くのだからね。そして変革を起こし続ける為に必要なモノは冷たく燃える怒りの炎だ。『真面目に努力をし続けている私が何故報われないのだ?』という気持ちで良いと思う。ユウコさんもソウだったと思う。『全ての面においてグループで一番の私が3列目なのだ。何故フロントにすら入れないのだ?』と静かに怒りを燃やし続けたのだと思う。赤い熱く燃え滾る怒りではない。アナタに必要なのは、種火の様な小さな青白く静かに燃え続ける怒りだ」
いきなり大量の情報を与えられてリョーカは軽いパニックに襲われたが、男が本当に大切な事を伝えようとしている事は理解出来たので言葉をありのまま飲み込む事にした。
静まり返ってしまった観衆にリョーカは静かに話し続けた。
「私は尋ねました。『どうやったらそんな事が出来るのですか?』男の人は笑顔を浮かべながらこう答えました『簡単だ。20万票入れてしまえば、良い』彼は続けて言いました『2月まで待つ。その間充分に考えて考え抜いてから答えを選択して欲しい』と。
そうです。
私がココに今こうして立っていられるのは、その人に『魔法』を使ってくれる様にお願いしたからです。ポジション・ゼロから観える景色が、本当に私の観たい景色なのかどうか確かめたかったからです。『魔法』を使う事無しでは、私は一生観る事は出来なかったと思います。今はまだ、コレが本当にその景色なのかは判らないのですけど、少し違う様な気もしています」
男の話は終わらなかった。
「物事を見極める目を持つことが大切だ。ユウコさんは優れた選抜眼を持っていた。自分の前にあるモノを、自らの努力で変えられるモノなのか努力しても何の変化も起こせないモノなのかを区別して、自分の努力が及ばないモノは無視して放置しておく。努力の影響が及ぶモノに対してはソレを2種類のカテゴリー、自分が今為さなければいけないモノ、今やってはいけないモノに分類して、『為さなければいけない事』のみに自分の持てる全てのリソースを遠慮や躊躇する事無しに惜しみなく注ぎ込む。彼女はソレが出来ていた。だからリョーカさん、今のアナタが為さねばならない事、ソレは目の前にある物事を分類する事だ。人は偶然にも生得的に獲得した才能のみ伸ばす事が可能だ。言い換えれば、生まれ出でた時に備わっていない特徴を後天的には習得出来はしない。どんな過酷な訓練を自らに課しても叶わない。せいぜいが知識として脳内の片隅に保存出来る位だ。だから注意深く観察して本質だけを抽出する様に。努力を注入する対象が判別出来れば事の大半はもう済んだ様なものだ。後は日々努力を続けて行けば良い。先ほど言及したキャラの変更、コレは『今やってはいけない事』の一つなのだと思う。自分は現在と言う時間軸の上で未来を創る為に何をするべきなのか、自分の頭で考えなさい。他人に教えて貰うのは楽だし簡単だ。だが得てしてそういうモノは簡単に消失して仕舞いがちだ。自分で考えて苦労して得たモノは簡単には消え去らないし、たとえ無くしてしまったとしても再び自分の力で取り戻す事が出来る。」男は一旦言葉を引取った後に一瞬空を見上げて『何を話すべきか』と暫くの間考えた後にゆっくりと話を繋いだ。「握手だがね、『初会』『裏』『馴染』と言う言葉が在る。由来は省略するけれど握手会も同じ様なモノでは無いかな。初めましての1回目、また来たよの2回目、そしてコレからはズット来るねの約束の3回目だ。『釣り』と言う行為が横行しているらしいが誰もが全員釣り師に為る必要は、無い。会った時に感じている誠実で素直な気持ち、ソレを握手と言う行為を通してお客さんに伝えて行けば良い。リョーカさんの心から発したモノはお客さんの心へと伝わって行き握られた手から再び心はリョーカさんの許に還ってくる。そういうモノだと思う」
観客やTVの前で画面をジッと凝視している人々はひとつの重大な事実に気付いてしまった。いや、とっくに判っていたのだが眼を背け続けて自分の中で無かった事にしてしまっていただけだった。ソレに気付かされてしまったのだ。無理矢理に頭をグイッと捻じ曲げられて『本当』を見せられたのだった。
虚構だ。
総ては虚構なのだ。
大いなる幻影に過ぎなかったのだ。
リョーカを1位にする事でその魔法使いが固体化した観念は、この総選挙と言うイベントはただ単に規模がデカくなっただけの『村』の内輪の御祭りに過ぎないという事だった。規模があまりにも巨大なので、何か物凄い事なのだとみんなが勘違いをしてしまっていただけと言う悲しい現実を突き付けられた観衆たちは只管に黙りこくる以外にする事が無かった。決定的だったのは外側の世界の住人に向かって男が『王様は裸だ』と叫んだ事だった。表面は煌びやかに装飾を施されてはいるが実際は上辺ばかりで中身は空っぽの只の張りぼてに過ぎない事を外の人達に知られてしまった。運営サイドとファン達が知らず知らずの内に結託して巧みに隠蔽していた事実をたった一人の男によって被覆してある遮蔽物を力任せに引っぺがされて白日の下に曝されてしまったのは、将に、痛恨の一撃だった。
『幻想』いや単なる『影』に過ぎない事が露呈してしまった瞬間だった。
一向に衰えを見せない勢いの冷たい雨に打たれている彼等は濡れそぼる喪家の犬だった。
そんな観衆の心模様を敏感に察知したリョーカは優しい口調で辛い告白を続けて行った。
男は続けた。
「今回の総選挙でアナタは圏外に落ちてしまった。ソレに先立つ一年間のアナタの活動の充実振りを見る限り普通なら在り得ない事だ。恐らく福岡で開催された事も多分に影響している事と思う。だが、視点を変えてみるとコレは寧ろ好機とも言える。新たなファンを開拓する為には何をするべきなのか、自分に足りないモノは何なのか、長所は何処に在るのか、自分で自答して模索しながら答えを見つけ出すチャンスでもある。と言うよりもコレを好機にするか否かは総てあなた次第だ。アナタはここ一年で随分と成長して大人に為った。小さな女の子が大人の女性に変貌を遂げつつある段階、『少女』と呼ばれる期間に相変異したのだ。パラダイムシフトに追随出来ない人間は多い。だったら、今新たに手にしつつある魅力で新規のファンの人達を開拓して行けば良いのだ。『大いなる不幸はしばしば大いなる栄光を呼ぶ。だが同時に大いなる破滅をも齎す。どちらに転ぶかは全く本人の志の高さと時の運に因る』コレは中国の古い言葉らしいが、真実だ。『志』を高く掲げる事は自分の心掛け次第で何とかなるが、『運』の方はソウはいかない。だがキミのボスであるアキモトヤスシはこう言った『人生で成功するか否かは1パーセントの努力と99パーセントの運で決まる』と。コレはおそらく正しい事実だ。だが彼は重要な事を告げていない。多分大切な事はメンバーが自分で考えて気付いて欲しいと思っているからだと推察出来る。彼の言葉の後に続く隠された文章はこうだと私は思う『日々努力を継続していなければ運が眼の前に転がって来た時に掴む事が出来ない。それどころか転がって来た事にすら気付けないのだ』そうだ、日々の努力と意志の高さが運を呼び込むのだ。選挙で上位に位置するメンバーは結局の所少数のコアなファン達の大量投票によってその位置を確保している。だがそんなモノは外側に出てしまえば何の効力も発揮出来ない。内側でしか通用しない幻想の力だ。
『美しくも愚かしい事』コレは仏教の言葉だが、総選挙と言うシステムは『残酷』だ。TVでライブ放送されるからあまっさえ悲劇的な公開処刑とも言える。しかし『残酷』なモノは『残酷』な程『美しい』のだ。『愚かしい』コレは形而下のモノ、物質として形の有るモノを指していて世俗的なモノだ。そして世間の人々は世俗的なモノ程興味を示す。何事かは判らないけれど少女達が泣きながら御礼を言ったり怒りや不満を態度で示したりする、この総選挙と言う世俗的であまり上品とは言えないコンテンツを民衆は好む。そう、総選挙は『美しくも愚かしい事』なのだ。幻想なのだ。幻の人気に支えられた人間、その最たる例のサシハラはソレを知ってか知らずかは判らないが如何やら運営に関わってプロデューサーとして活動して行く様だ。多分無意識的に理解しているのだろう、自分がオタサーの『女王』に過ぎないと言う事実を。元々ドルヲタのサシハラだ、ヲタ達の心を手玉に取るのは指を上げるよりも簡単な事だろう。彼女の様に小さく閉じた内側の世界で心中手に取る様に解っている見知ったヲタ共を相手に商売をする分には人気が幻想でも良いだろう。だが、リョーカさんはいずれ境界線を越えて外側に出て女優として活動をして行くのだろう? ならばアナタが獲得しなければいけないのは幻の人気では無くて、実体に裏付けされた確実なファンの応援だ。1人が一度に20万入れても20万人が一票ずつ入れても内側では効果は同じだ。だが、一辺外の世界に出たら状況は一変する。内側の論理やルールは一切通用しない。『内側』特殊な環境に特化して適応できたモノは別の全く違う環境に移行させられた場合、多くは絶滅への道程を辿る。外側に出て成功した人がいるか思い浮べてごらん。ユウコさん以外に思い付くかね。彼女だけが成功しているのにはチャンと訳が在る。何故なら彼女は元々外側の世界の住人だったんだからね。外のルールや慣習は熟知しているのだから成功して当たり前なのだよ。外側の世界はキミの知らない事で満ち溢れているのだ」
リョーカは言った。
「その人は私に言いました。勝負は外の世界に出てからが本番なのだと。今は托卵機の様な整えられた環境で修業をする時なのだと。修業中の身では『闌ってはいけない』と。コレは能の言葉だそうです。修業している人間は『是風』つまり正しい型のみを只管にやり続けなければいけない。少しでもソコから外れた型『非風』に走ってはいけない、と教えてくれました。『非風』を使うのは外側の世界に出てからだ、と。内側の世界で修業する事で外側でも通用する切札を用意する事に専念しなさいと言われました。そして切札は隠し持って置く様にとも教えられました。使用する直前まで秘匿されていなければ切札の威力は半分以下にまで減衰してしまうから注意する様にとも。彼は言いました、もしも『非風』に走らなければ人気が出ない様ならば、そのシステムには意味が無い。自分に訓練を課して研鑽を積む良い場所だ、と割り切って雌伏していれば良い、と。でも私は一回で良いからこの景色を観てみたかった。観れなければ、私にとっての要不要が判断できないと思ったからです。だから彼に『魔法』を使って貰ったのです。私は彼に頼みました。彼はこう答えました。
『了解だ。30万票用意する』と」
「先ほど『志』の高さに触れたが、私がアナタの背中を推そうと決めたのは、リョーカさんのある言葉がきっかけだった。去年の総選挙のムック本に掲載されたインタビューの中でアナタはこう言っていた『私は将来オオシマユウコを超える存在に成る』と。無謀だとも身の程知らずとも言える発言だが、私はソコに『志』の高さを見て取れた。あんな偉大な存在であるオオシマユウコを超える事など近くにいるメンバーならば余計に無理だと最初から尻込みするのが落ちなのに、公式本で高らかに宣言してしまえる無鉄砲とも思える突破力に私は魅了されたのだ。今現在はミュージカルで一緒に仕事をしたミヤザワさんが目標らしいが、去年抱いていた気持ちを忘れないでいてくれれば良いと思っている。ソレに最初から『無理だ』と諦めてしまえばソコで終わりだ。『私には可能だ』と思い続けていれば大抵の事が出来てしまうモノだ。アナタは『ユウコさんを超える』と言う偉業に挑戦する資格を既に手にしている。その証拠は、私だ。ユウコさんの巨大な重力に惹かれ続けて囚われの身と為っていた私を解放してくれて、そして外側の世界へ出て行く為に境界線を跨ごうとしていた脚を止めさせて再び内側の世界へと引き摺り戻したのは、リョーカさん、アナタなのだから。不可能だと思える事を可能にさせる魔法の呪文が在る。今後役に立つだろうから教えて置く。『こんなのは大したことは無い。私は大丈夫だ。私には出来る』阿呆らしく響くだろうが、意外と効果があるから覚えて置いた方が良い。一番に為る最も早い方法は、トップに君臨している人間を倒す事だ。その様に目標を設定しておけば努力するベクトルの方向や強さは明確に理解できるし、自分の到達度合いもハッキリと判別できる。『ヤツを倒す』非常に簡単で明確な目標だ。そうしてそのラスボスを倒せた時には果たしてアナタは一番手に立っている事だろう。だが勘違いをしてはいけないよ。ラスボスは今内側にはいない。だから残された幻想と戦わなければいけない。コレは中々に面倒な作業だがラスボスは外の世界に出て行ってしまったのだから、ま、仕方が無い事だな」
「その人は言いました。私が不用意にした発言『私はオオシマユウコを超える存在に成る』ソレが彼が私を推しにする決め手だったそうです。今考えると余りに不用意過ぎて自分でもゾッとするのですけど、彼は『自分には可能だ』と思い続けていれば出来ない事はそんなに無いと言いました。自分の見たい風景が在って、でも今立っている場所からは絶対に観られない時は、人は歩いてその景色が見える所まで行かなければいけない。その道程の途中には必ずと言って良い程辛くて辛抱出来ないと思う様な事が待ち構えている。だが、本当に心の底からその景色が観たいと望むならば大抵の事は耐えられる筈だ。そう彼は言いました。私も本当にそうだと思います」
「大抵の人間は自分が何者であるか気付いていないし、探り当てる為の方法も知らない。と言うよりもむしろ何者でも無いのだ。立派な自立した人間とは一体どういうモノなのかキチンと把握できていないし、どうやったら立派で自立出来ている大人に成れるのか、その方法すら理解出来ていないのだ。だから彼等は類型に頼る」
「るいけい?」
「そうだ、類型だ。人はこうであるべきだ、と言う考えだ。サラリーマンなのだからこうでなければならない。芸術家だからそういう風に振る舞うべきだ。弁護士をしているのだから中身は兎に角も上辺だけでも清廉潔白に見えなければならない。そういった世間に流布しているお定まりのイメージ、言わば偏見に囚われて自分を定型の箱に嵌め込んでしまう。だが、この宇宙は全ての構成要素が確率に支配されている不確定なモノだ。そう、物事は総て偶然に決まる。神はサイコロを振るのだ。ラプラスの悪魔は存在する事を許されていない。そんな状況下で確定的に振る舞えているという事は、自分は類型に身を委ねて自らの頭で考えていない愚か者であると言う事実を大声で世界に発信している事を意味する。考えもしないでステレオタイプと言うテンプレートに自分自身を無理矢理に嵌め込む固定観念に囚われた憐れな囚人だ。私はアナタにそんな馬鹿な人間に為って欲しくないのだよ。不確定で曖昧なフワフワとした宇宙の中で自己を確立させて行くという事は、砂の中に埋もれたパズルのピースを1つずつ探し出して拾い上げ正確に正しい場所に嵌め込み組み上げて行くと言った地道な行為に依ってしか成し遂げられない。確かに辛く苦しいそして長い間続く作業なのだ。だからアナタがしなければいけない事、ソレは自分自身を欺瞞する事なく公正に見詰めて不断の努力を重ねて行く事だ。『たとえ明日世界が滅びるとしても、私は林檎の木を植え続ける』と言ったルーマニアの男がいたが、その通りだと思う。たとえ明日自分が死ぬ運命にあるとしてもやらなければいけない事をやり続けて行く。とても当たり前の事だが誰もが出来ている訳では無い。コレも極少数の限られた人だけが気付いて実行しているに過ぎない。そして『切り札』を用意する事だ。『秘すれば花』と言った人がいる。後世の人々は色々な解釈をしたが、正しい解釈は『相手を瞬時に抹殺できるような必殺技を1つ隠して持っておけ』だ。『切り札』は使用する直前まで秘匿されなければその効力は無いに等しい。自分にはコレが有る、そういうモノを1つ用意して置く様に。努力して獲得して置く様に。『林檎の木を植え続ける』とはそういう事だ。自分だけが持っているモノ、実力がトップレベルのモノ。ひとつ、そういうモノを持っている人間は強い。そして他の人に対して寛容な態度を取れる」
リョーカは押し黙って俯き項垂れてただ濡れそぼったまま下着までグショグショにしてしまっている観衆に静かに語りかけ続けた。
「ただ、その景色が一体何なのか。まだ私には判っていません。将来は女優として活動して行きたいので、ソコに行けば景色が見えるのかも知れません。でも今の私には女優として活動して行く能力は備わっているとは思いません。だから今は内側の世界で精進を続けて外側で通用する様な力を身に付けて行きたいと思っています」
「最初に尋ねた事、『アナタはポジション・ゼロからの景色を観てみたいですか?』というモノ、コレはとても簡単な魔法で実現出来る。アナタが望むのであれば私は20万票以上を投ずる用意が出来ている。そんな怪訝な顔をしないで欲しい。たかだか2億ポッチを費やすだけなのだから、ね。資金は豊富に準備出来ているから状況次第で幾らでも投票数は増やせる。本当の事を言えば一回とは言わずに何回でも魔法は使える程資金は潤沢だが、使用するのは一回で充分なのだ。何故なら去年80位、そして今年は圏外。そんな君がポジション・ゼロを獲得するなんて『奇蹟』に近い、と言うよりも『奇蹟』そのものだ。『奇蹟』を一つ願う時には、その代償として同じ重さの『絶望』を引き受けなければ為らない。しかし、もしリョーカさんが『絶望』を受容れるだけの『覚悟』と『勇気』を持っているのならば、アナタの中で『絶望』を『希望』へと昇華出来る。変化を起こすのはリョーカさん、アナタだ。アナタ自身の手で『希望』へと変化させるのだ。そうして晴れて『希望』を手にする事が出来た時にはもう既にリョーカさんは魔法を必要としなくなっている筈だ。ソレが魔法を使用するのが一回限定の理由だ。
『希望』を手中に収めた時にアナタは『タフ』に為っているだろう。『タフ』と言うのは厄介な事を真正面から見据えてあらゆる対応策を考慮した上で最善と思われる方法を選択して実際に対処していく人物の事だ。天才の言葉に依れば『最優先事項が把握出来ていれば答えは簡単だ。一番厄介で一番困難で一番面倒な選択肢が正解だ』なのだそうだ。全くその通りだと私も思う」
男は莞爾と笑いながら続けた。
「運が微笑んでくれればアナタの努力で『絶望』を『希望』へと昇華出来る。その時にはアナタはどのポジションでも望み通りに手にする事が出来るだろう。だが気を付けなければ為らない事が一つだけ、在る。アナタが真ん中の立ち位置に居る時、周囲の人々は挙ってアナタをチヤホヤと誉めそやすし甘やかすだろう。勘違いをしてはいけないよ。アナタが受けるのであろう厚遇は、アナタが特別な存在だからなのでは無い。アナタの立っている位置が特別なだけだ。位置がその対応を引き寄せているだけだ。ソコを勘違いして『自分は特別なのだ』と思い驕り高ぶってしまうと最悪だ。驕慢は傲慢を呼ぶ。傲慢な精神状態で研鑽を積み精進を重ねて行く事は、ほぼ不可能だ。人はそれ程器用では無い。歌を忘れたカナリアは、無残にも打ち捨てられる。ソレと同じで努力する事を忘れて現状維持に甘んじてしまえば、早晩積み上げてきた貯金を使い果たしてしまい後に残るのは無残な残滓だけだ。ポジション・ゼロと言う『特別な場所』でもね、そんな特別な場所から少しでも離脱してごらん、刻を置かずに周りに優しく微笑んで守っていてくれた大人達は1人、2人と消え去って行き誰もアナタを歯牙にも掛け無くなる。そうなったら、惨めだ。1回でもトップの位置を経験しているだけに余計に情けなくて辛い。その上周りのメンバーの眼が気に障る。当人たちにそういう心算は全く無くても、アナタはその視線に一筋の憐憫の情を感じる。『可哀想に』そんな状況に耐えられるかね?リョーカさん。
ソレが嫌で必死にポジションにしがみ付くかね、ホルモンさんの様に?
それともそんな事には一切御構い無しで、注意すら払う事無く背筋を伸ばし顔を上げて前をシッカリを見据えて、その高貴とも形容できる背中姿のままに自分を律し続けていくかね、ユウコさんの様に?
どちらを選ぶかはアナタ次第だが、正解は決定的に明白だ。
人の振舞の基盤は、強固な岩盤の場合もあれば、軟弱な沼沢の場合もある。
岩盤を選択するのか泥沼を選ぶのか、自分で決めなさい。
ただ、ワタシの希望を言えば、アナタの様な人は固い岩盤の上で立ち振る舞って欲しいと思っている。
たとえ辛くても、ソコから得るモノは決して少なくない筈だ。
だから、謙虚でいなさい。
常に謙虚に振る舞う事が重要だ。だが、人は煽てやオベッカ、おもねりに満ちた甘くて優しい嘘に弱い。御世辞だと判っていても耳に優しく触れてくる言葉の群れに抵抗する事は難しい。現実には耳障りのする意見の中にこそ本当に大事なモノが潜んでいる。ソレは有益な情報を湛えた豊饒の海だ。ジンジンと耳が痛くなる様なキツイ批判の中に本質が存在している事を全ての人は無意識の内に理解しているのだが、人は脆くて弱い悲しい生物だ。心躍らせる誘惑の囁きに負けて、易きに流されてしまっても仕方が無いのかも知れない。じゃあ如何したら周囲の人達が施す高待遇にも舞い上がってしまわずに自分を律して行けるのか?
ココでもキーワードは『オオシマユウコ』だ。
振付の先生のマキノアンナはユウコさんの事をこう評した、『ユウコちゃんはバケモノだ』何故『バケモノ』なのか?
第2回の総選挙で見事に1位を獲得して次のメジャータイトルのポジション・ゼロ、つまり彼女がセンターポジションに据えられる事に為った途端に環境は激変し、周囲は態度を豹変させてチヤホヤし始める。『大声』では干されてPVの登場時間はトータル1秒未満だった。第1回の選挙で2位を獲得してからも不遇で不動の2番手扱いが続いた。そこからの真ん中のポジション獲得だ。激変、正真正銘の環境激変が勃発する。待遇は一変して彼女を上にも下にも置かない様に為る、将しく『厚遇』だ。ま、センターと言えばトップだから周りの大人達も厚い処遇で接するさ。
そんな甘くて優しいおもねりの中では自分自身を喪失してしまっても仕方無い事だ。
しかし彼女は違った。周囲の環境の変化にも戸惑わず甘く優しい嘘にも惑わされる事無く、選挙前となんら変わる事の無い努力を日々続けて精進を重ねて研鑽を積む事を倦まなかった。そんなユウコさんの態度を観たマキノ先生は思ったのだ『オオシマユウコはバケモノだ』と。大人達が発する金星のブ厚い大気の様に恐ろしい程にまで高密度の接遇にも自分を見失う事も無く、自分を律し続ける。ユウコさんは自分に対して一番に不寛容なのだ。そんな事出来る人間等ソウソウ存在しはしない。御釈迦様ぐらいじゃないか? そんな芸当が可能なのは。だからマキノ先生は言ったのだよ『バケモノ』だ、と。
ユウコさんに比べればアナタは普通の人間だ。
だから真ん中の立ち位置に居る時に周囲から受ける高遇に惑わされて自分を見失いそうに成るかも知れない時に、激変する環境に耐えかねて暖かくて柔らかい陥穽へと誘われて思わず陥落してしまいそうな時、このマントラを心の中で唱えるのだ。
『私は特別な存在じゃない。私の立っている場所が特別なだけだ』と。
若しくは『オオシマユウコはバケモノだ。そして私も『バケモノ』に為らなければ駄目だ』と。2番目の方が解り易いかな」
「彼は言いました。私の様なファンにさえも顔を覚えられていないようなメンバーがポジション・ゼロを望む事は一つの『奇蹟』を願う様なモノだと。一昨年に80位で去年には圏外に落ちてしまった様な私が第1位を望む事は『奇蹟』』を願うに等しい事だ、と。そして必ずバックラッシュが襲ってくると。『奇蹟』を一つ願う時には、その代償として同じ重さの『絶望』を引き受けなければ為らない。でも、もしも私が『覚悟』と『勇気』を持って『絶望』から眼を逸らす事無く受容れれば、私の内で必ずソレを『希望』へと変えられる、と」
『私は特別な存在では無い。私の立っているこの場所が特別なだけだ』
「私はアナタのボスの様に自ら言葉を紡いでオリジナルの文章を創り出す程の才能は残念ながら持ち合わせていない。だから今のリョーカさんが現状を打破する為に必要な事を含んでいる一節を或る映画のセリフの中から抜き出して置いた。コレは或る男が自分の息子に対して行った言葉だ。『自分の願望はあらゆる犠牲を払い自分の力で実現させるモノだ。他人から与えられるモノでは、無い』そう、自分の実現させたい事は自分自身の力をフルに発揮する事で手にするモノだ。例えば同じ金額、3億の資産を持っているとしても、ソレを自分の才覚を使う事で稼いだのか、それともただ単に運に恵まれて宝くじに当たる事で手にしたのかでは大違いだ。アクシデントが襲って資産を無くしても自分の力で稼ぎ出した男は再び同じ額の資産を手にする事は十分に可能だが、宝くじ派の方は絶望的だ。何故なら彼は金の稼ぎ出し方を知らないからだ。私が用意するポジション・ゼロの立ち位置は単にリョーカさんが飛躍をする為の機会に過ぎない。その後自分を律して行って大跳躍できるかどうかは全くアナタ次第だ。夢は見ているだけなら愉しいし楽だ。自分が抱えているだけなら壊れないし損なう事も無い。だが冷凍したままなら絶対に叶わないし何も得られない。でも解凍して夢を目標として再設定した途端に愉悦は苦痛へと変化する。
聞いたばかりの今、返事は出来ないだろう。だから来年の2月頃までは待つ。良く考えて欲しい。私の申し出を受けて魔法を使うのか、それとも自分の力だけを頼んで独立独歩で行くのか、全てはアナタの胸先三寸にある。どちらを選択しても私はソレを尊重する。無理強いはしないよ。本当に良く考えて欲しいのだ。ただどちらを選んだとしても、決して後悔だけはして欲しくは無い。先ほど言及した天才がこうもいっている『後悔はずっと傍に居て一生付き纏い離れて行ってくれない』と。私はね、リョーカさんに後悔だけはして欲しくない。後悔と言う厄介なモノに付き纏われたまま残りの人生を過ごしていて欲しくないんだ。そして全ての選択肢には何らかの間違いが付随している事は弁えて置いて欲しい。人が何かの選択をする時、例えばAとBという二つの選択肢が在ったとして、Aを選んだ時にもうその選択が可能な時は過去に過ぎ去って仕舞い、『間違えた』と思ってやり直そうとしても過去の時点に戻って再び選択をやり直す事は不可能なのだから。決断と言うのはとても辛い作業なんだよ。何かを得るという事は何かを捨てるという事を意味するわけだからね。AとBを両方を一辺に手にする事は不可能だ」
『オオシマユウコはバケモノだ。そして私もバケモノに成る』
「だから私は逃げません。真正面から『絶望』を受け止めます。気概を持って受容れて自分の内で『希望』へと変えて見せます。だから、ココで皆さんと1つのお約束をしたいと思っています。
私、大島涼花は近い将来、大島優子を超える存在に成ります。
決して後悔はさせません。
だからこれからも応援、よろしくお願い致します!」
「舌ベロを出した写真が有名な蓬髪の博士が看破した様にこの宇宙は相対的だ。絶対的な基準点が存在しない以上、どちらが前で後ろか、上なのか下なのか、右か左か混沌として判別は不可能だ。アナタ方は良く『前に進む』と言う。どの方向が前なのか解るかい?リョーカさんの進みたい方向、ソレが『前』だ。その方向に向かって私達はアナタの背中を推す。推し続ける。もしもアナタの目の前に大きな壁が立ち塞がってあまりに高過ぎて手が届かず乗越えられそうに無かったら、拳を握って風穴開けて打ち破れ。
イイか、リョーカ。自分を信じるな。オレを信じろ。お前を信じるオレを信じろ。
お前なら出来る。
だから、跳躍べ!」最後に男が静かに叫んだ。
リョーカは矛盾していると思ったけれど、言葉の群れは素直に心の中に飛び込んで来た。1つの疑問符が頭の上に浮かんだので立ち去ろうとしている男に急いで訊いた。
「それも映画のセリフですか?」
男は口の端で笑いながら言った。
「偉大な作品だ。」
「本日は本当にありがとうございました!」
リョーカは深々と頭を下げてフルのお辞儀をした。
一瞬の間を置いてから球技場全体に覆い被さっていた重苦しい激甚なる沈黙を爆発的な歓声と怒号が吹き飛ばして地面ごと揺り動かした。
リョーカは今日初めてスタジアムの中を、客席を見渡す事が出来た。
彼が教えてくれた言葉、
『自分の願望は、あらゆる犠牲を払い自分の力で実現させるものだ。他人から与えられるモノでは無い』
そうだ。
私がやらなければいけない事は一人また一人と地道に応援してくれる人を増やす事だ。
そして、来年は応援してくれる人の力と自分の力で再びこの舞台に戻って来る事なのだ。
不安を全く感じていないと言えば、嘘に為る。でも、私には『あの人』が付いていてくれる。『あの人』オヒゲさんが守ってくれるのだ。このスタジアムの何処かから私を見守ってくれている。そうに、違いない。そう思ってアリーナにふと視線を落とした時、見付けた。
『あの人』が立ち去ろうとしていた。
リョーカのスピーチが終わってお辞儀したのを見終えるとショーナンは立ち上がって、脚と置いてある前の座席との狭い空間を少しでも広げて貰う為に周囲のお客さん達に「スイマセン。出ます。スイマセン」と声を掛けた。
「ショーナンさん!」と呼ばれたので声の方向を見るとヤスダがいた。彼も立ち上っていてターミネーター2のラストでシュワルツネッガーがやっていた様に親指を突き立てて、『イイね』とサムズアップをしていたので、ショーナンも同じ様に親指を立てた。心優しい人々が苦労して拡大してくれた僅かな隙間を通って通路へと出た彼は、フードを外してリョーカの方を振り向き白い大きな使い捨てマスクをずらして笑顔を彼女に渡そうとした。
その瞬間リョーカの眼が点に為った。
マスクを掛け直しオクタゴナルのメガネに付いた雨の飛沫を親指で拭って振り返りアリーナ席の出入り口へと歩みを進めたショーナンの上にリョーカの悲鳴とも絶叫とも表現できる、しがみ付く叫び声がマイクを通さずに直接降って来た。
男を発見できた時にもう一人の自分が耳許で『この機会を逃がしちゃうともう2度と逢えないと思うよ』と囁いたからリョーカは必死だった。
必死に叫んだ。
「おじさん!」
「オヒゲのおじさん! 待って!」
「一度で良いんです! チャンと眼を見て御礼が言いたいんです!」
「だからお願いです! 一度で良いから握手会に来てください!」
ウグッ
「30万票を投票してくれた事に、じゃないです。私に『絶望』を受容れて『希望』へと変える為の『勇気』と『覚悟』をくれた事に対して御礼が言いたいんです!」
「止まって!」
「お願い!」
エッ
「振り向いて!」
「おじさん!」
ウー
「ヒゲ止まれよバカッ!」
男は一向に足を止めようとしなかった。
出来る事ならステージから駆け下りてオヒゲさんのカッパの裾を踏ん付けてでも止まらせたかったけれど、彼がくれたこの大切な舞台を離れる訳にはいかなかったから、呼び止める事を諦めて、リョーカは一心不乱に祈り始めた。
縋り付く様に祈った。
神様お願いです。
目を瞑って手を合わせて祈り続けた。指が白くなる程にきつく握り締めて有りったけの想いを尽くして祈った。お願いです、神様。あの人の足を止めさせてください。お願いです。あの人が立ち止まって振返ってくれる様にしてください。
あの時『バカ』だなんて言ってしまって御免なさい。
取り消します。
あの時に『死んじゃえ!』なんて思ってしまって御免なさい。
コレも取り消しです。
だからお願いです。
私の願いを聞き入れて下さい。
幼稚園の時、5歳の時に家の近くを探索していたら男の子と出逢った。
そこは随分長い間空き家だったのだが、数ヶ月前位に5~6人のおじさん達がやって来て外装やら内装を直したり交換してたりしていた。今思えばリフォーム業者の人達だったのだが、そんなに簡単でも無い工事が終わって1週間位経った時に、お父さんとお母さんと男の子の3人家族が引っ越して来たのだった。
初めて出逢った時に男の子はサッカーボールを器用に操り綺麗にリフティングを続けていた。私より握り拳1個分位背が高かったけど、同じ年位に見えた。しなやかな身体の使い方は猫科のソレを想い起こさせるもの、ううん、水中を優雅に遊泳するイルカのソレだった様にも覚えている。その素敵な姿にボーッと見惚れてしまっていたら、パッとコッチに一瞥を流して来てニコッと朝日の様な蠱惑的な笑顔を渡して来てくれたのだった。
運命だと思った。
当時はそんな言葉は露程に知らなかったけれども子供ながらにコレは『運命愛』だと思ったのだった。
でも私は狼狽えてしまい如何したら良いのか判らないでいたら恥ずかしくなってしまって逃げる様にその場を立ち去ってしまったのだ。
逃げながら願った。
『神様、御願いです。あの子と御話が出来る様にして下さい。友達同士にしてください。出来れば私と同じ幼稚園にあの子が通う様にセッティングして下さい、同じクラスで』
家の周辺には私の通っている幼稚園しか無かったから、男の子が転入してくる可能性は高かったけれど、いくら待っても男の子は転入して来なかった。
『チッ、神様の役立たずっ!』
そう思ったけれど『小学校に通う様に為れば自然に出逢えるか、校区同じだし』と気を取り直して、それから毎日の様に男の子に会いに行った、ってか遠くから眺めてるだけだったから、眺めに言ったと言う方が正確だ。お家の前まで行ってもピンポンしたり外で見掛けても声を掛ける勇気なんて全然湧いて来なかった。男の子は御家の庭で1人で遊んでる事が多かったから話し掛けるチャンスなんてゴロゴロしていたのだけれども生来の人見知りの性格が災いして話し掛けるなんて夢のまた夢、本当に遠くから眺めてるだけ、だった。でもそれで良かったのだ。眺めてるだけで満足だったのだ。
小学校で同じクラスに為れれば良いや。
そう思っていたが、今となって冷静に考えると男の子の正確な年齢も把握していないのに、何を根拠にそんな勝手な思い込みが出来たのか、我ながら不思議だ。
その年の秋口に早々にインフルエンザに襲われた私は約1週間ベッドから離れられずにいた。起き上がれる様になって直ぐに、もう全力少年ダッシュで男の子の御家に眺めに行くと姿は無くガランとした空気だけが濃厚に漂っていて、急いでお家に帰ってママに尋ねたらご近所の奥様方の情報網から引き出した答えを教えてくれた。
男の子の一家は本当の家を建て替えしていてその間だけソコを一時の仮住まいとしていたのだった。そして漸く完成したから本当の御家に引越しをしたのだと教えてくれた。
余りのショックに涙は一滴も湧いて来ず代わりに浮上して来たのは、怒りの感情だった。
『何だよ、神様。そういう大事な事は前以て教えて置いてくれないと、ダメじゃん。神様の利用規約にチャンと書いて置いてくれないと。そういう事情を知ってたらもっと積極的に行ったのに。なけなしの勇気を振りぼって声を掛けたのに。死んじゃえ! 神様なんか、死んじゃえ!バカ、神様のバカ、バカ、バカ、バカ、バカ、バカ、バカ、バカ、バカ、バカ、バカ、バカ、バカ、バカ、バカ、バカ、バカ、バカッ! 神様なんか、死んじゃえ!』
あの時そう本気で思ってしまった。
だから取り消します。
お願いします。
『死んじゃえっ!』なんて思ってしまってゴメンなさい。
『バカッ!』って繰り返し言ってしまってゴメンなさい
ただ、あの人が立ち止まって振り向いてくれるだけで良いんです。
チャンと眼を見て御礼が言いたいんです。
だからお願いです、あの人の足を止めさせてください。
私の御願いを聞いてくれたら代わりにどんな事でもします。
どんな重たい罰も受けます、だから。
お願いします。
お願い!
神様!
お願い!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!?!!!?!!?!????
スタジアムに張り込めていた雰囲気が変わった事に気付いてリョーカは顔を上げた。
雨音も停止していた。
球技場を支配していたのは耳鳴りが痛い静寂。
神様、アリガトウ。
男はその歩みを止めていた。
リョーカを含めたスタジアムに詰め掛けた全観客とスタッフ全員が男の一挙手一投足を注視していた。みんな、男が次に何をするのか、固唾を飲んで見守るしか無かった。
球技場に備え付けられた全てのスクリーンヴィジョンは男の背中姿を捉え映し出していた。
男は立ち留まったままスックと背筋を伸ばし直すと背をリョーカに向けたまま滑らかな動きで右の手の平を宙に高々と挙げた。
だから次第に皆の注目は後姿そのものより屹立する右腕に移って行き、やがて何モノかに誘導される様に関心は一点に、男の右手、5本の指を綺麗に伸ばし揃えられた手の上へと焦点を結実しつつあった。そんな観客達の心の移ろいをなぞった様にヴィジョン達は希望通りのイメージを表出しつつあった。
衆目が集まる中で男は人差し指を残して残りを折り畳み込んで『1位はリョーカだ』という事実を誇示するが如く天に向かって高らかに人差し指1本を突き上げた。
雨が男の指を濡らし続けて照明の光を妖しく反射していた。
暫く掲げた人差し指を引っ込めて、替りにシュワルツネッガー張りに親指を突き出して、『サムズアップ』を形象する事で、男はリョーカに祝福のメッセージを贈った。
その刹那、凄まじい大爆発が塞いだ手の平をも貫通する轟音と昼間と見紛うばかりの光輝と共にスタジアムに襲いかかって来て全てを蹂躙して専制した。
「やっぱ火薬の量多すぎたかなぁ」特殊効果の担当者のオカダが言った。
『イヤそうじゃなくて、タイミングが早過ぎでしょ。タイムシートじゃリョーカが玉座に着いての花火打ち上げの、そして紙吹雪舞の、でしょ!』と同じく特効担当のサオリが内心突っ込みを入れるとソレを素早く察した様にオカダが顔を向けて言った。
「手が滑っちゃった」
50過ぎのオッサンなのにも関わらずに舌を少し出してテヘっと笑った。
『キモッ! 今更テヘぺロか!? オッサン!!』サオリは心の中で舌打ちをした。
「良くやってくれた。さすが相棒」
パソコンのモニターが良く見える様に上半身を支える部分が持ち上げられたベッドの上で男が言った。そしてモニターの中でヒゲ面の男がした様に点滴のチューブが繋がれた右手をユックリと高らかに掲げた。そして栄光の第1位を示す様に人差し指だけを突き上げた後暫らくしてから親指を立ててサムズアップをしてリョーカを祝福した。そうしてまるで一大事業を成し遂げた様に腕を下ろすと真正面の壁の一点を見詰めてから莞爾と笑った。
「満足だ、もう何も思い残す事は、無い」男が言った。
眼を閉じると短かった人生のアレやコレやとても懐かしく思い出されて脳裏を走馬燈の様に駆け巡り続けた。「有難う、懐かしい、何もかも、懐かしい」
彼の心の速度が光に近付いて行き周囲の物事の進み方がユックリと徐々に遅く成って行った。そして遂に光速に達すると時計の針は刻む事を突然止めた。
息を引取る前の溜息を大きく一つ吐くと、内部電源を喪失し彼は活動限界を迎えた。
そして身体から魂だけが抜け出て行き脱力した腕がダランと力無くぶら下がった。
窓の外には以前リョーカがコンビニで見たのと同じ様なジェイコブズラダーが天から静かに降りて来つつあった。
動揺がまだ冷めやまぬスタジアムのステージに立ってリョーカは去って行く男の背中を呆然と見ていた。
『もう会えないんだね』
彼女の合理的な思考回路はそういう結論を導き出していたけれど不思議な事に、本能は
『何か近い将来に会える様な気がする』と言う別の結論をリョーカ自身に告げていた。
気が付くとシノブサンが横に立っていてリョーカに静かに言った。
「また、会えるよ。心の底から願っていれば必ず、会える。ヒトってそういうモンだから。巡り合いたいって気持が2人を引き寄せるんだよ」
「はい」
リョーカは男の背中に視線を置き続けたまま、答えた。
火薬量を明らかに間違えた一歩間違えれば大惨事という巨大な花火の余波は収まりを一向に見せずスタジアムを動揺させ続けていて全観衆の関心が逸れた隙を縫ってオレは再び歩み始めた。出入口の所まで来ると後ろから小走りにカッパ姿のヤスダが追い縋って来て、
「やりましたね、僕達」と言った。
「ああ、ガツーンとやってやったな」
「これで変わりますかね、何か?」
「変わらないだろうよ。運営の奴等にとってはコレは偉大な集金システムだ。機能する限り臆面も無く続けて行くだろうな」オレはヴィジョンの方に視線を送りながら言った。丁度、戴冠の儀式が終わってリョーカがシノブさんという牛の様な巨大な女からマントを肩に羽織らせて貰っている所だった。
雨が静かに為って来た。
「来年もやりますか、同じ事を?」とヤスダが訊いて来た。
「イヤ、違う事をするつもりだ」
「何ですか?」
その時左胸のポケットに収めたiPhoneが震えてメールの着信を教えた。「スマナイ」とヤスダに断ってから開いてみると相棒からだった。
『良くやってくれた。有難う。じゃ、また』
短い文面だったが彼が無事に最後まで見届ける事が出来た事を知った。オレは任務を遂行できた喜びと責任を果たせられた達成感に包まれた。彼にリョーカの笑顔を贈れて本当に嬉しかったし、正直ホッとした。
アフガンで闘う方が余程楽だよ、相棒。
ヤスダは何か問い掛けたそうだったが慎み深い彼は何も言わなかった。
オレは再び、「スマナイ」とヤスダに詫びてから言った。
そぼ降る雨が顔を濡らし続けて顎の先から滴り落ちていたが何も気に為らなかった。
「アメリカのフォートミードと言う所に3文字で表される或る政府機関が存在してる。私の友人の一人、マイケル・ストーンという男がソコで勤務しているのだが、先日彼が私に或るプレゼントをくれた。ソイツはStuxnetというAIタイプのマルウエアだ。オリジナルは2010年に作成された15000行のプログラムだが、6年の間に彼が趣味として改良を続けてあって行数も大幅に増えているから正確にはその増強版と言うか改良進化バージョンで能力を比較すれば、前者がマウスなら後者は仔猫ちゃん位有る。ソレを使って総選挙自体丸ごと乗っ取る腹心算だ。1人何票入れようが一票分しかデータに残らない」
「そいつはまた、爽快ですね。将にリアル総選挙だ」楽しみだなぁ、とヤスダは言った。
「本当は変らなければいけないんだ」オレは続けた。「新しい物事を創り出して自ら変わって行かなければ未来は無いんだ。でも変革する為には何かを捨てなければいけない。何かを得る為には今自分が手にしているモノの内からドレかを切り捨てなければいけないんだが、ソレは非常なる痛みを伴うとても辛いモノだ。だから変化の必要性に気付いていても必死に気付かない振りをして現状維持に努める事に没頭する、ただ只管にね。そうしている内に危急存亡の秋が訪れてしまい滅びの時が『こんにちは』と挨拶をしながらノックの音と共にドアを開けてくる。ただココまで組織が巨大化してしまうとそう簡単に崩壊はしないだろう。巨大化の過程では組織の内側で物事の淘汰が進んで行き最後に残ったものが寡占的に支配する。つまり多様性が失われてしまうんだ。そして多様性を失った組織は環境の変化にとても脆弱だ。初期メンを見ると良い。顔一つとってもとても『多様的』だろ。だが最近加入してくる新人は金太郎飴の様にとても均質だ。顔すら似通った者達ばかりさ」
「滅びの時は、近いのでしょうか?」ヤスダが心配そうに尋ねて来た。
「巨大タンカー、10万トンクラスの奴だが、これ位に為るとエンジンを切って逆進を掛けても中々停止しない。慣性で5~6キロ進んでしまう。ソレと同じさ。前総監督のタカミナは『オオシマユウコ』は看板だ、と言ったそうだが、違う。ユウコは心臓、つまりエンジンだ、飛び切り優秀な、ね。エンジンを失っても慣性で進む。進んでいる間に替りのエンジンと成るメンバーを探し出して据え置かなければいけないのだが、どうやら運営にその気は無い様だ、表面的には。さっき言った様に何かを得る為には何かを捨てなければ為らない。だが誰だって切り捨てられるのはイヤだ。だから誰かが事態の重大さに気付いて声を上げない限り、何も変わらないさ。自分達を取り囲む環境は絶えず漸次的に変化し続けてるんだがね。巨大な組織は一気に崩れ落ちたりはしないだろう。あちらでボロッ、こちらでポロッ、といった具合に徐々に徐々に細部で破壊が進んで行ってある時、大きな樹木が声を上げて倒れて行く様に崩壊して行くだろうね」オレはヤスダの眼を見て言った。「デルタってインテリなんですね」ヤスダが言った。
「オレの知る限りデルタの隊員は2人の例外を除いて皆、筋肉バカのゴリラ野郎だ」
「え? ショーナンさんはデルタじゃないんですか?」
「オレはMOS18Aと呼ばれている」
「何ですか、MOS18Aって?」と言ってから少し間を置いて閃いた様にヤスダがオレとシンクロ気味に叫んだ。「ググれ、カス!」そう言い合ってオレ達は顔を合わせて爆笑した。
他者の持つ違う考えに自ら近寄って行って、自らグラつかせ揺さ振りを掛ける事で自分の思考を止揚出来る人を、インテリと言うんだ。
オレは違う。国家に擦り込まれた『正義は常に米国と共に在らん』と言う概念を何度消しゴムを掛けても消せないケチな元軍人だ。そう言おうとして思い直して口の中で消化した。
ヤスダが何かを言いかけ口を開こうとした時に別の方向から声が飛んで来た。
「派手だねぇ!」
飛来して来た方を見るとタカハシが笑いながら立っていた。
「花火をあそこで上げろとオレが指示した訳じゃ無いんだがね」オレは向き直りながら言った。
「原爆でも落ちたのかと思ったよ」タカハシが言った。
ヤスダはタカハシが二人きりで話したがっているのを素早く読み取ると、言った。
「アレ、本当に貰ってしまって良いんでしょうか?」
「勿論。みんな良くやってくれたからな。ま、1人残念なヤツもいた様な気もするが」
オレがこう答えるとヤスダは低く「クク」と笑い、そうかも知れないですね、と言った。
「じゃ、また何時か何処かで」オレがそう声を掛けるとヤスダも「はい。今度チームを編成する時もまた呼んで下さい」じゃ、また何時か何処かで、と言ってヤスダは姿を消した。
「何か悪いな。追い払ったみたいで」タカハシが言った。
「良いんだ。必要な事は全て渡してあるから。珍しいね。カッパ着てこんな所に来るとは」
「俺もチームの一員って事を再確認したかったのさ」タカハシがスッキリした様に笑顔を浮かべて「巨大なモノを俺たちの様な小さい存在が倒す。滅多に無い事じゃん」
「ジャイアントキリング」オレがそう言うとタカハシは頷いた。
コイツはオレがショウナン・ヒロであると信じ切っている。疑う気配は微塵も感じ取れない。これなら銀座で初めて会った時にオレをショウナンだと思い込ませる為に大量の情報を与えて脳の疑義を吟味する領域、前頭連合野を軽いパニック状態にする事でコチラの思い通りの効果を得られる人心収攬術の一つを使うまでも無かったのだ。
ま、グリーンベレー時代に培った技術の一つなのだがね
その時出入り口のアーチの所にいたスタッフの一人がインカムで何かをやり取りした後に此方に歩いて来て、「あのう、ウチのアキモトが御会いに為りたいそうです」と黒のスタッフジャンパーを着た背の高くて痩せた若い男がオレに伝えてきた。
厳密に言えば間違った敬語の使い方なのだが気にせず「アキモト?」オレはこの組織のトップの男の名前をオウム返しに繰り返した。
「はい、もし宜しければ只今係りの者がお迎えに参上するそうです」
判った。了承した。と若い男に伝えると彼はインカムを操作して情報を上に上げる作業に取り掛かった。
タカハシがオレの肩口を引張りながら耳許に顔を近づけて囁いて来た。
「おい、良いのか? こう言っちゃなんだがココの運営には輩っぽいのがウジャウジャしてるんだ。アキモトは知ってるし真艫だが他のヤツ等がヤバそうだ。運営会社の社長の背中には倶利伽羅紋々が入ってるって噂まである位だぜ。呼び出しにノコノコ乗っかって部屋まで行ったら何されるか判らないぞ。止めといた方が良いんじゃないのか?」
オレはタカハシの顔を見て驚いてしまった。彼は心の底からショウナンの身を気遣っている顔をしていたからだ。彼は広告代理店の営業と言う世界に所属している、それも最大手の会社だ。40ソコソコで本社の本部長というからかなりのヤリ手だろうし経験豊富な熟練した策略家、言わばかなりの業師の筈だ。そんな男が本気で他人を心配している。
相棒、お前は良い友人に恵まれたな、オレはそう思った。
「大丈夫だよ、タカちゃん。運営だってソウソウ馬鹿じゃないだろう。ソレよりもオレと一緒の所を運営に見られるとヤバいぞ。社長の椅子が遠のくぜ」
「社長ねぇ」タカハシはキナ臭そうに笑いながら言った。
「また機会を作って飲もうよ」オレそう伝えるとタカハシは、
「女子供では無く狩人たちの為の琥珀色の液体」と答えた。
「判ってるジャン」
「これってホイットマンか何かかい?」とタカハシは聞いた。
「イヤ、フォークナーだ」オレは続けた「でも惜しいなぁ。微妙に間違ってるぞ。少年と言う単語が抜けているし、『琥珀色の液体』では無くて、正しくは『褐色の酒』だ」
「えぇ? 俺の『琥珀色の液体』の方が言葉の響き全然良くないか?」
「失礼な奴だな。彼はノーベル賞を貰ってるんだぞ」
オレとタカハシは顔を見合わせて笑った。
無邪気に笑うタカハシを見ながら、『コイツと会うのはコレが最後か』と想い、淋しさとも形容できそうな感情がオレの心に湧出している事に気付いて少し戸惑った。
タカハシが立ち去って3分ほど経つと退場規制が始まって出入り口が閉じられた。
閉じられる前の僅かな隙間を衝いて脱出に成功出来た多くの観客がオレの横を通り過ぎて外へと出て行ったが誰も声を掛けて来なかった。
雨の飛沫のお蔭で前方が見え辛く煩わしいので眼鏡を仕舞った。
どうせ、伊達だ。
そして、ふと気付いたのだ。
『正義は常に米国と共に在らん』
そうだ、正義なのだ。
コレを否定する事はオレ自身を否定する事に為るしオレがこれまで処理して来た対象者をも否定する事にも為る。自分で自分を否定してそれでも生きていける程人間は強くは無い。誰でも良い、自分自身でも良い、誰かに肯定して貰わなければ駄目なんだ。そう思った刹那、脳裏を小さな丸いアンパンマンの様な顔がスッと過ったが直ぐにシャットアウトした。『自分を信じるな、俺を信じろ、お前を信じる俺を信じろ!』
ショウナンから教えて貰ったこの言葉は、ある偉大なアニメ作品の象徴的な台詞だそうだ。本当にそう思う。
自分自身を肯定できる程、人は自分を信じていない、と言うか、信じられないだろう。
そんな時に周囲の尊敬を集めるアニキが『自分で自分を信じられないのは当たり前だ。だが、俺は全幅の信頼を持ってお前を信じている。だからお前は自分の為すべき事を為せ』と言ってくれたら、どんなに心強いだろうか。
存在への全面的な肯定を他者から得られる事に勝る幸福は、ちょっと見付け辛いだろう。
正義か。
『正義は論議の種に為る。力は非常にハッキリとしていて論議無用だ。そのため人は正義に力を付加できなかった。何故なら力が正義に反対して、ソレは正しくなく正しいのは自分であると力が主張したからだ』
今回、オレ達のチームが行った事は、『正義』に力を与える事だったのかも知れない。
ま、今オルテガが横に立っていなくて良かったと思った。
或る小説の一節が浮かんで来た。
人の振る舞いの基盤は強固な岩盤の場合もあれば軟弱な沼沢の場合もある。
そうだ、基盤だ。
基盤が必要なのだ、固い岩盤の様な。
この相対的な宇宙の中で確固として歩みを進めるには絶対的な基準点が必要なのだ。
その時、皮質の視覚野が小さな丸いアンパンマンの様な顔を再生したがスルーした。
だから退役した将兵の多くが精神を病んでしまうのは、仕方の無い帰着なのかも知れない。依って立っていた『軍』という鋼鉄で構築された基盤を失ってしまうのだから。
振る舞いの基盤を失ってもなお正気を保っていられるほど人は厚かましくも強くも無い。
そんな徒然を考えながら3分ほどタカハシと未だ互いに会話を交わしている様な沈黙に耐えていると一人の中肉中背の男がオレを迎えに現れた。
画面から顔だけは見知っている。トガサキとか言う男だ。彼は昔は総支配人だったのだが何かスキャンダルを起こして今は別の部署に飛ばされているらしい。彼が声を掛けて来た。
「何とお呼びすればよろしいのでしょうか? 失礼でなければお名前を伺えますか?」
「ショーナンと申します」オレが言った。
「ウチのアキモトが会いたいと申しております。部屋までご案内いたしますので私に付いて来て頂けますか?」さすがに元総支配人だけあって彼の敬語はチャンとしていた。
「判りました。行きましょう」とオレは答えた。
トガサキに先導される形でオレは連れて行かれた。
「物凄い爆発でしたね。TVの視聴率も凄そうです」とオレが彼の背中越しに言った。
「いえ、何かトラブルが発生した模様で、リョーカが叫び始めた頃から配信がストップしてしまってTV局側が復旧に手間取っていて、だから今TVに映像は流れてないそうです」顔を見なくても、トガサキが顰め面を浮かべている事が解る。視聴率ゲットの絶好機を逃したんだから、な。オレのタップ一つで一体何千万損したんだろうかね。
幾つか階段を昇って廊下を渡ったりした後、二人の警備員が阿と吽の様に脇に立っている門の様な所を潜ると、もう直ぐです、と振り向き様に告げられて、どうやら最後らしき階段をトガサキが昇り始めた。どうやら、このスタジアムに1つだけ設置されている特別貴賓室に行くらしい。彼があまりにユックリと昇って行くので、コイツどっか悪いんじゃないのか?と思い、経路を熟知している所為かツイツイ先に行きたくなる衝動がほんの少し心の中に芽生えた。
昇り切った先のフロアを見てオレは驚いた。黒いスーツを着た180センチ位で鋭い目付きの男達が広めの廊下の中に11人確認出来たからだ。何者かは聞かなくても解ってはいたが素知らぬ顔でオレは尋ねた。「何ですか、この物々しい様子は?」
すると足を止めて振返ってトガサキが自慢する様に言った。
「総理がいらっしゃっております」
オヤオヤ、何とコレはオレにとっては好都合。
奴にとっては最悪の事態だな、と思った。
サムの無念を晴らす絶好の機会に恵まれるとは、な。
ヤツは才能に恵まれているな、と思った。やってはいけない事をやってはいけない時にやってはいけない場所で正しくやってしまう、という。
お友達の開催するお遊戯会に来たばかりに奇禍に遭うとは夢にも思わないだろうな。この宇宙で絶対に遭遇してはならない正に『災厄』と言える超危険人物と接触してしまうとは。素早く館内に眼を走らせると一枚のパネルを見付けて記憶済みの内容を確認した。館内の3D地図は脳皮質に叩き込んである。エプスタイン少佐が何時も口癖の様に言っていたな。ユダヤ系のくせに何故か軍人一家の出だった人だ。『状況から脱出するのが上手いのがスマートマンで、状況に侵入するのが上手いのがワイズマンだ。俺達は両者の特徴を兼ね備えていなければならない。判ったな』ユダヤの旧い言い伝えだそうだが、特にオレの様なスナイパーは当然身に付けておかなければならない必修の特質だ。オレは壁に設置してある避難経路を記した館内案内図を横目で再確認しながら、そんな事を思い出していた。この貴賓室に続く経路は一つ、先ほどオレ達が通って来た通路のみだ。非常用通路は廊下の反対側に備わっているがソコには当然SPが何人か配置されているに決っているから脱出経路としては使用できない。だが、虎口から脱出する経路は主に2つ想定してある。
『スナイパーと言う人種は特攻作戦など絶対に採用しないのだよ、君達』とオレは思った。
そして強かで不敵な面魂の持ち主と言う事を隠す様に、物々しい雰囲気に若干の緊張を身に纏わせた人畜無害で存在感の薄いキャラに擬態して敵の目を欺く用意をした。
進もうとすると1人のSPに誰何を受けたが、トガサキの「アキモトのお客様です」の一言で身体検査も無いままに『さっさと行ってくれ』と言わんばかりに、追い払う様に雑に手を振って先に進むように指示された。
オイオイ、だらけ過ぎだ。
オレは正直な所拍子抜けしてしまった。
金属探知機で検査済みという事もあるだろうがそれにしても弛み過ぎている。一体この国の警察の規律は大丈夫なのか、オレは不要な心配をしてしまいそうに為った。
こんな緊張を強いられる厳戒態勢下では普通の人間ならばビビッて動きが硬くなるのに、ソレも見抜けず『普通』の人畜無害の人間をやり過ごしてしまうとは、な。オレ様の擬態が完璧という事もあるのだろうが、こんな状況で多少の緊張を虚飾しているとは言え『普通』でいられる人間はいないという事実を疑う術も知らない感じだった。人は強大な緊張の許では無意識の内に視床下部からの命令を受けた副腎皮質がアドレナリンやコルチゾールなどの攻撃兼防御用のホルモンの放出量を増大させるので当該の人物はその状況に特有の匂い物質を身体から発散する。オレ達はその匂いを敏感に察知出来る様に研鑽を積んでいる。だがコイツ等はその類の訓練を全く受けていない様子だった。呆れてソイツの眼を見上げると『鋭い』と感じたのは気の所為だった様で弛み切ってぼやけていた。
現在のコイツ等にそこまで要求するのはちと酷かもしれないな。
上の者の驕慢は下の者に増長を赦してしまう。それは心に隙を生み出し態度を弛緩させ油断を導く。観察すると彼等は守るべき対象よりもアイドルの方に関心を向けている様だった。たとえ訓練を受けた精鋭達であろうともSP如きはオレの様な実戦経験豊富な特殊部隊員にとってはアマチュアに産毛が生えた程度に等しい。だから11人全員を無力化するのに何の支障も無い。だが、SPに選ばれるくらいだから優秀なのだろう。ゲリまみれのバカ宰相一人を処理する為に有能で前途有望な11人の若者から命を奪う行為を働かなければ為らない事に些か嫌悪感を覚えただけだ。だがコレで少なくとも11人の生命は確保出来る。後は首相の周りに何人いるかだが、「スイマセン。あのう、総理の周りは警護官の方が一杯なのでしょうね?」とオレが尋ねるとトガサキは前を向いたまま「いえ、総理に付いて部屋まで同行しているのは2人です」と答えた。
そうか、2人か。付随的被害としては比較的少ない方だが、と思った。しかし残される2人の家族たちの事を思うと暗澹たる気持ちに為った。バカな首相を警護する為に警察に入省した訳でも無いだろうに、こんな小娘達の総選挙とか言う馬鹿馬鹿しいイベント会場でムザムザとプロの殺し屋であるオレに・・・おっと、オレとした事がウッカリ見落としていた。前を歩くトガサキの腰には伸縮タイプの警棒型スタンガンがクリップを使って取り付けられていた。考えるよりも先に手が伸びて気付く暇も与えずに素早く手中に収めた。ポケットに滑り落としながらホッとした。これで2人の優秀な警察官を殺さずに無力化出来る。Aチーム全員で窃盗団に転職したら大仕事が出来るな、オーシャンズ何とかと言うマイナーリーグの奴等とは比べるべくも無いメジャーの凄いレベルのヤツだ。さて、今回編成したオレのチーム・リョーカの仲間の言っていた『岩手の事件』の影響でコイツは腰に剣呑なモノを佩いていたのだな、と推察できたが、今のオレにとっては寧ろラッキーな展開で、胸を撫で下ろした。ま、実際にはしてないが。
ホッとした弾みにリョーカの顔が不意にオレの視覚野で再生されてしまった。
あの時、個別で会った時にリョーカは複雑な表情を浮かべていたな。リョーカの小さくて丸い顔を思い浮べると心の底に湧き立ってくる暖かいモノを感じてオレは少し感動を覚えてしまい苦労して表情に出さない様に自制を働かせた。
でも無理だった。
視覚野に浮かんだ彼女は、よくやる様に両方の頬っぺをアンパンマンみたいにプクッと膨らませていたから思わず『またやってるな』と薄い笑みがこぼれてしまった。
リョーカの事に為ると何故かオレは精神のコントロールが随分と怪しくなってしまう。何故だろう? どんな危険な作戦でも常にコントロールは完璧だったのに。従事した作戦現況がどんなに悲惨で凄惨なモノであっても何の違和感も感じる事無く精神状態は凪の様に平穏そのものに自制出来ていたのに。
あの娘の存在は不思議だ。
リョーカの側に行くと安心出来る。
まるで彼女の横が世界で一番安全な場所である様にオレには感じられるのだ。超一流の戦士であるオレの安息の地があんな小娘の横だとは、な。面白い。
リョーカは大丈夫だろう、とオレは思った。
今後どの様な『絶望』が彼女を襲うのかオレにも皆目見当も付かなかったから、昨日チームの仲間が寝静まった頃にフェイルセーフとして可愛い仔猫ちゃん達に2番目と3番目の命題を追加で与えて置いた。
仔猫ちゃん達に与えられた2番目の命題は、リョーカに関する全てのネガティブな表現をネット上から徹底的に一掃する事だ。目的遂行の為ならあらゆる手段を使用可能にセッティングした。転載されても彼女達は艪櫂の及ぶ限り追って跳び掛かりズタズタに引き裂いて消滅させる。ネガティブ情報の発信元を突き止めて可能な限りの手段を講じて鎮静化を計る。埒が明かない時には、ネットに接続された端末であれば必ず1匹は仔猫ちゃんが潜んでいるので内部で大騒ぎを始めて機体を使用不能に追い込む。それでも懲りずに発信を繰返そうとする輩に対しては端末もろとも発信者を排除する事で強制的に沈黙させる。彼女達は一瞬の逡巡も無いし一抹の憐憫の情も持ち合わせてはいないから、何の躊躇いも無く彼等を抹殺するだろう。だってヒトじゃなくてマシンなんだもん。
コレで少しでも彼女に降り掛かって来る『絶望』を軽減できるはずだ。
ネットに巣食う声だけデカいマイノリティに悩まされる事無く、リョーカが自分の為すべき事だけに傾注出来る様にした、まあ、最低限の安全策というかalleviationだ。
3番目は『可能な限りの全ての手段を用いてリョーカの安全を確保しろ』というモノだが未だ発動させていない。下手をすると地球を滅ぼしかねないので少し躊躇したのだ。定期的にオレが仔猫ちゃん達に連絡を入れてさえいれば絶対に発動しないので、地球の皆さん御心配無く。それに悪い事ばかりじゃない。仔猫ちゃん達はネット端末の内部に巣食うウイルスやらトロイの木馬とかを駆逐する、全てだ。そして絶え間なく侵襲しようとする他のマルウェアを一匹残らず噛み殺す。ま、世界最強のウイルス対策ソフト、ファイヤーウォールだ。オレからのささやかなプレゼントだ。どうか心して受け取って欲しい。
リョーカ、写真フォルダーに入っている見知らぬおじさん達の写真、アフガンで戦っていた頃のオレとAチームの仲間だがソレがコード化された君の守護天使、可愛い仔猫ちゃん981021号だ。大事にしてくれ。コレは地球の皆様には内緒だが彼女には特別に4番目の命題を与えてある。キミの保護を最優先事項として情事監視下に置いて、キミに直接的な被害が及びそうになると自動的に命題No.3のプロテクトを解除、近くにいる仲間を総動員してキミを守る様に指示してある。ま、大した事は出来ない。例えば飛行中の旅客機を墜落させて障害をクリアするとか、そこいら辺をウロチョロしている今や走るコンピューター塗れのポンコツへと堕落した当代の自動車に侵襲して車体制御用のチップ共を制圧支配して駆動・制動・操舵のコントロールユニットを乗っ取って搭載されたブレーキ用のカメラで確認しながら当該の対象に直接ぶつけて無害化する事ぐらいだ。ま、一番可能性の高い危険の排除方法としては対象の持つスマホのバッテリーを爆発させる事だろうな。だが彼女の活躍する機会は当分訪れないかも知れない。今後しばらくの間は公安が付くだろうから、奇妙な事だがその事によりリョーカの安全は保障される。
必然的に今からオレがする事も『絶望』をリョーカの上に覆い被らせる結果と成るのだろうが、彼女なら『勇気』と『覚悟』を持って自分の中で『希望』に昇華出来るだろう。大仕事だが彼女にはソレに挑戦する資格は既に備わっている。何と言ってもアイドルに何の興味も関心も無かったオレの心を奪う事に成功したからだ。最初は単なる依頼を受けただけだった。全くキミに興味なんかは無く、それどころか名前も顔も判らなかった。ただ初めて話を聞いた時に、総選挙とやらの内輪のお祭りで一昨年80位、去年が圏外。そんな箸にも棒にも掛からない位置のヤツがいきなり1位を奪取すれば痛快だろうな、と思ってしまっただけだ。初めて握手会で会った時、オレはキミの事など何も知らなかった。ショウナンに手渡されたキミの情報で一杯に為ったファイル、情報はソレだけだった。あの時タカミナの事も喋ったが本当は彼女の事なんて何も解って無かった。彼女の身長が、後20センチ高ければ良いAチームの隊長に為るだろう。投票している時のチームのみんながする雑談を通してオレはキミや他のメンバー達の情報を獲得して行った。ヤスダ達の御蔭で自分の全く知らない世界を体験出来た様な気がする。
その人の事が好きだからより一層詳しく知りたくなる。ソレは間違いだ。対象の人物に関する情報が自分の中で増加するに連れて、その人に好意を抱く様になり、遂には好きに為るのだ。チームのみんなと同じ部屋で過ごした1ヶ月、キミに関する情報量は増えるばかりで、心奪われるのは必至、そんな状況だったんだよ、リョーカ。
対象に関する知識の量が増えれば増えるほど、該当する対象への感情は好意的に成って行く心理的作用。俺達がゲリラ要員を獲得する時に使う手と反対方向の行為だ。
『知識に因る対象突入法』
約半年かけて得た知識。それも机上のモノでは無い実際の、身体的な知識だ。だから相当に強力でその靱性は高く簡単には毀損しない。
そうだよ、リョーカ。
オレはあの時、個別で会った時に本当にキミのヲタに成れたんだ。
来年の今頃どうしているだろうか。天狗に為らずに自分を律して行けられていれば良いが。
イヤ、大丈夫だ。
彼女は、大丈夫。
たとえ明日世界が滅ぶとしても、リョーカはリンゴの木を植えるだろう。
彼女は、植え続けて行くだろう。
そしてオレは来年その木に果実が実るのを自分の眼で確認するだろう。
1つだけ希望を言えば、頼むから勘違いしてオレの事を神様だとは思わないでいてくれ。
オレは依頼者の代理人に過ぎない。
だから神様では、無い。
寧ろキミの方が神様だ。
キミに関わる事が無かったら、サムの仇を討つ事など夢のまた夢。
キミがオレに千載一遇のチャンスをくれたのだ。
アリガトウ。
オレにとって、ksgkが神様だ。
オレはそうだな、さしずめ神様からの啓示を携えて来た天使という所かな。
背中に12枚の翼を蓄えた、残酷な天使。
神様はキミに総選挙第1位という『絶望』を賜った。
そしてコレはオレからのささやかな贈り物だ、汚いジジイの首など不要だろうが、な。
「此方の部屋です」とトガサキが重厚そうなドアの前で立ち止まった。
周囲に人影は無い。
今入って来た所が唯一の侵入経路だしSP達のダラケ振りを見れば別段驚く事でも無かった。廊下の先に11人の警護官が暇そうにしているのが見えた。幾ら何でも反対の位置につまり非常口の前に最低でも1人位は配置して置くべきだが、それすらもしてないとは弛緩し過ぎだ。でも1人じゃ寂しいモンな、坊や達。この後コイツ等がどんな処罰を受けるのか判らないが決して軽くは無い筈だ。だが総て自分のミスだ。自分のケツは自分で拭け。
iPhoneを軽く一回タップすればこの周辺一帯全ては皆平等に純然たる真の闇に覆われる。
輝ける闇の中に消えたオレを探し出す事は不可能だ。ソレは暗がりに陰翳を見付けようとする児戯に等しい。
戦闘が始まる直前に訪れる静寂。
オレは嵐の少し前、この静謐の一瞬が、好きだ。
トガサキが扉を開けて振り返りざまに言った。
「どうぞお入りください」
オレは部屋の内部を一瞥して人員の配置を確かめた。
さあ、Time to Hunt,
<了>
参考文献:ジェイムス・バラット「人工知能 Our Last Invention」ダイアモンド社
:村上龍「オールド・テロリスト」文芸春秋
:島本和彦「アオイホノオ」小学館
:大泉洋「大泉エッセイ」
参考アニメーション:細田守「サマーウォーズ」
:庵野秀明「エヴァンゲリヲン新劇場版・破」カラー
:中島かずき・ガイナックス「天元突破グレンラガン」
:虚淵玄「魔法少女まどか☆マギカ」
ksgkが神様