幸せ
『俺さ、結婚するんだ。』
その言葉を聞いた瞬間、十五分前に直した口紅を拭い去りたくなった。
店先に並んでいた"恋する唇"なんてよくあるキャッチコピーが目に留まってしまったのは、直幸から飲みの誘いがあった次の日だったからだろう。
バッチリメイクの店員さんから「先週出たばかりの新作なんですよ」と接客用の声で話しかけられ、明るめで華やかなピンクの唇になった自分を鏡で見て、気付いた時には会計を済ませていた。
『千佳には、一番に報告したくてさ。』
「そうなんだ、おめでとう。相手は由貴ちゃん?」
少し早口だがなんとか絞り出したお祝いの言葉を告げた自分に後悔しながら、右手に持っていたビールジョッキをおしぼりの上に置き、左側に座る直幸を横目で見た。
大学時代から変わらない横顔に、少しだけ胸が高鳴る。
『うん。やっぱり由貴しか、あいつしかいないなって。』
ビールを飲みながら、彼女を想って緩んだであろう表情に息が苦しくなった。
直幸とは、大学時代からの付き合いで、もう十年になる。
百八十センチ以上の長身に、あどけない笑顔が印象的だった。
気さくな性格で、誰にでも分け隔てなく話しかける直幸に、初めて会ったサークルの室内でいきなり、『ショートカットが似合う女子、久々に見たわ。』なんて話しかけられたのが始まりだった。
後日行われたサークルの新入生歓迎会の時には、肩を組んでデュエットするくらいに打ち解けていた。
きっとあの時には、もう直幸の事が好きだったのかもしれない。
『プロポーズした時、心臓が飛び出るかと思ったわ。』
ははは、と照れたように笑った直幸の表情と言葉で、悟ってしまった。
彼は私がどんな事をしたって、もう手に入らないのだと。
講義中二人揃って居眠りしてた時も、徹夜でレポートを仕上げた時も、卒業してからだって私が一番直幸の近くに居ると思っていた。
だからこそ心のどこかで、誰のところにいったとしても最終的には私を選んでくれると思っていたのだろう。
だけど彼は、私以外の女性を人生の伴侶として選んだ。
そんな直幸と、一度だけキスをしたことがあった。
直幸が由貴ちゃんと別れた直後、サークルの皆で直幸の慰めの会を開いた時だった。
慰め会とは名目で、お酒を飲みたいメンバーが集まったただの飲み会だった。
始まって数時間後には、潰れた数人が部屋の至る所で気持ちよさそうに寝ていた。
誰とでも仲良くなってしまう直幸の性格を理解できず、一方的に別れを告げて離れていく女の子を、大学時代だけで片手分は見てきた。
由貴ちゃんは二つ下の同じ大学の後輩で、大きい目にロングヘアで、ふわっとした雰囲気を持った女の子だった。
同じサークルだったので、何度か直幸と一緒にいるところを見たことがあるが、美男美女でお似合いだと思ってしまった自分の思考に傷ついたこともあった。
彼女と別れた原因もそうだった。
『いつも同じこと、言われてるのになぁ』
いつもは強いはずが、直幸の顔は既に赤く染まっていた。
「まぁ仕方ないって、次だよ次!」
そう言って、落ち込む直幸の肩を叩く。
『由貴だけは、なんか、今までとは違って、後悔してる、』
テーブルに突っ伏してビールを片手にそう呟いた表情は、何かの痛みに耐えるように歪んでいた。
頭の中で浮かんだと同時に、そのまま口から本音が出てしまった。
「私にすれば?」
直幸のはっと目を見開いた表情に、自分の口から出た言葉は取り返しの付かないことだと自覚した。
「な、なんてね!気にしないで!」
慌てて笑って、さっきと同じように肩を叩いた瞬間、その左手首を掴まれ、ソファーとテーブルの間に押し倒された。
背中にはホットカーペットの熱、左手首にはアルコールで体温が上がった直幸の熱い手、見上げれば上気した直幸の顔があった。
『そうだよな、千佳なら、俺のこと、理解してくれるもんな、』
私の髪に優しく触れる指先に、体内にある血液が逆流しそうな感覚が身体中に走る。
視線が交わった瞬間、唇に暖かい感触を覚える。
それが直幸の唇だと理解する前に離れていた。
呆然とする私を余所に、寝息を立てた直幸が覆い被さるように寝ていた。
右手は私の髪に触れたままだった。
翌朝、何事もなかったかのように接してきた直幸は、『やっぱり千佳は一番の親友だ』なんて言いながら、私が入れたコーヒーを啜っていた。
そんな直幸に何も触れないまま、私もいつも通りに接した。
『由貴さ、指輪をはめた瞬間、泣いたんだ。両目からぼろぼろ涙を流してさ、でも笑ってんの。
あの顔を、俺は一緒忘れない。』
その言葉で、我に返った。
「そっか、幸せそうで何よりだよ。
あの時由貴ちゃんのこと、諦めなくて良かったね。」
『あぁ、本当に良かったって、あの時の自分に感謝だよ、本当に。』
あの飲み会から数ヶ月後、直幸と由貴ちゃんは元サヤに戻った。
由貴ちゃんも彼と別れた事を後悔していたと、風の噂で聞いた。
「そうだね、本当におめでとう。」
そう言ってもう何杯目かのグラスを、カチンと鳴らした。
取れかけた口紅を直してお手洗いから戻って来た時には、既にお会計が済んでいた。
直幸のお祝いだからと言ってお財布を出した私に、
『女の子は黙って奢られておくべきだぞ』と、直幸に制止された。
学生の頃からそうだった。
私から誘った食事でも、直幸は絶対にお金を受け取らなかった。
女の子、私に向けられたその言葉を繰り返してる脳内は、また淡い期待を抱いてしまう。
「ありがとう。ご馳走様でした。」
そう言った私に、直幸はあどけない笑顔を浮かべながら短い返事をした。
店を出ると、4月にしては冷たい風が頬を掠めた。
二人で春物のコートの襟元を抑えて、駅までの道を並んで歩く。
学生時代の事、最近会社であった事、くだらない話も出て、思わず笑ってしまう。
こんな瞬間が、いつまでも続いて欲しいと願っているが、楽しい時間はあっという間で、最寄駅の改札口に着いてしまった。
『これまでと同じようには飲めなくなるけど、また誘うわ。』
改札の前で私の方に向き直った直幸が言った。
「何言ってんの。由貴ちゃんに怒られるよ?」
『あー、そうかも。由貴は俺と千佳の関係に嫉妬してるからなぁ。』
そう言う直幸は、悪戯っ子のような笑みを浮かべていた。
「でも直幸は由貴ちゃん一筋だから大丈夫でしょ。
ましてや私と直幸なんてありえないでしょう。」
自分で放った言葉に、ちくりと胸が痛くなる。
少し真剣な表情になった直幸が『あのさ、』と切り出した。
『俺さ、由貴にフラれた時の飲み会で、千佳にキスしたじゃん?』
その言葉にひどく驚いた。
翌朝話しかけてきた直幸は、覚えてるような素振りさえなかった。
「覚えてたの、?」
震えた声でそう言うと、直幸は小さく頷いた。
『俺さ、あの後しばらく千佳の事意識してた。
あの時、一番の親友だなんて言ったけど、本当は好きだったのかもしれない。』
いつもからかってふざけているような直幸はそこにはいなかった。
いつもは由貴ちゃんだけを見つめている直幸の瞳が、今この瞬間だけは私を映している。
その事に、ひどく優越感を覚える。
言おうとした言葉を飲み込んで、口を開く。
「由貴ちゃんを、誰よりも幸せにしてあげて?」
不自然にならないよう少しだけ口角を上げるように意識して、無理矢理笑みを作る。
『当たり前だろ、一番の親友のお前に誓うよ。』
そう言った直幸の顔は、いつも通りだった。
改札を出た直幸は、上半身を私に向けて、手を挙げながら歩いていく。
私もそれに応えるように手を振った。
直幸は、気付いたのかもしれない。
私が言いかけた、心の奥に根付いたこの10年間暖めてきた気持ちに。
そして、過去形でそれとなく牽制したのかもしれない。
直幸を振り向かせられる可能性はゼロだということに。
「あーあ、髪の毛、切ったのにな、」
直幸には聞こえないように小さな声で呟き、顎に掛かる髪に触れる。
直幸に出会った頃からショートカットだった。
そして彼が付き合う女性は、いつもロングヘアだった。
偶然かもしれないが、それでも、淡い期待を抱いて髪を伸ばしていた。
彼を思って伸ばしていた髪はいつの間にか、ロングヘアと呼べるくらいに伸びていた。
一ヶ月前に会った時に直幸に言われた『千佳にはショートカットが似合ってる』のひと言で、口紅を買ったあの日、行きつけの美容室を予約して、あの頃と同じショートカットにした。
だけど彼は、その事には何一つ触れなかった。
ホームへ向かう直幸の背中が、段々とぼやけていく。
片頬から伝った暖かい雫は、堰を切ったように両目から止めどなく溢れて顎に触れる髪を濡らしていく。
その雫は、私の行き場のない気持ちと一緒に、黒いアスファルトに吸い込まれていった。
幸せ
某スリーピースバンドの歌詞より。
切なさが足りない中途半端さが、今の私みたいです(笑)