日本史B

「歴史は流れですよ」って、中学の歴史の先生はいつも言ってました。だから、流れだけに沿ってまとめました。年号も、100年に一度ぐらいだけ覚えていれば、あとは、「あの時より10年前」「あの時より50年くらい後」と、どの年号を見ても流れの中に位置づけられて、覚えやすいだろうと思ったからです。
 中学でも高校でも、歴史の先生はなぜかいい先生方ばかりでした。
こわもてでも、強硬な左派だという噂があっても、プリント教材を手間暇を惜しまず揃えてくれて、イメージが沸いて覚えやすいように教科書にも乗せられていない歴史の裏話を、たくさん聞かせてくれました。歴史の話を語るのに忙しくてお説教を聞いた覚えがありません。何よりも生徒思いで、声を荒げたりしたことは、一度も見たことがありませんでした。
「歴史って、学ぶと人格が形成されるのか?」と、その時から抱いている疑問です。
とにかく、先生方に教わった歴史の知識が、この中にはたくさん入ってます。だから、このまとめ文を、中学生高校生の私に歴史の授業をしてくださった先生方に捧げます。

100年に1度の年号暗記!これで歴史に杭を打つ!

前100年 倭人“100”余国「漢書地理志」
(100も国があると言ったら想像がつくと思うが、戦争が絶えなかったらしい。特に稲作が入ってきてから、身分社会ができると、遺跡も堀があったり、高台に作ってあったり、外敵を意識したつくりになっている。
その一方で、船が得意だったらしく、すでに朝鮮の南端と行き来があった。だから中国の歴史書にも載っているのである。)

後57年 “ゴウカナ”(豪華な)金印 嬉しいな
(『後漢書東夷伝』に出てくる「奴国」の王に送られたらしい。福岡県志賀島で実際に見つかっている。)

107年 “イレイナ”(異例な)献上 生口(奴隷のこと)160人
(同じく『後漢書東夷伝』に出てくる。戦争が絶えなかった。)

239年 “フミク”ださい(文下さい)と 女王卑弥呼 
(『魏志倭人伝』にでてくる。争いが絶えなかったが、卑弥呼が治めはじめて、収まったとか。その後男性が継ぐとまた争いが絶えなくなり、結局この時代ものをいうのは、呪術とか祭祀とかである。中国も1世紀ごとにほとんど国家が入れ替わっている。ちなみに魏の後は晋)

350年 “サアゴウレイ”(さあ号令)だ ヤマトが統一
(大和政権が国内統一)

471年 “シナイ”(竹刀)にぎって ワカタケル
(埼玉県稲荷山古墳で、年号入りの「ワカタケル」の銘の入った鉄剣が出土。
倭王武が、征服戦争で関東まで支配を広げていた証。熊本県にも似たような鉄剣が出土している。
ちなみにこの人、かなり残酷な性格で、兄弟殺し、変装、だまし討ち、女性をたぶらかす…と、征服のためには手段を選ばない人だったらしいが、そのおかげでヤマト政権は五王の内でも特にこの人物の時代に、領土を広げたらしい。その物語が今でも残っている。かの有名な「ヤマトタケル」だと言われている。)

538年 仏教伝来 “ゴサンパ”い(ご参拝)
(欽明天皇が百済王から仏像と経典をもらう。
 実はその前にも、継体天皇に渡来人が仏像を献上しているので、伝来は、「552 “ゴゴニ”(午後に)仏教伝来す」でもOK )

645年 “ムジコ”(無事故)の世作り 大化の改新
(中大兄皇子が蘇我氏を殺して皇太子になる。最初は叔父の孝徳天皇を立てた。その次に自分が「天智天皇」となった。側近に中臣鎌足、国博士に旻・高向玄理。)
(この後も動乱に次ぐ動乱。白村江でも大敗北(663“ム、ムザン”(無残)な死傷者白村江)。亡命者も大勢入ってきて、このあたりから反乱と策謀の血みどろ朝廷史の始まりである。特に、天智天皇、弟で娘婿の天武天皇、娘の持統天皇、あたりはまだよかったのだが、ひいひい孫の孝謙天皇(女性)の時代に、立て続けに乱がおこって、内乱はほとんどこの天皇の時代に起こっている。持統天皇が死んで、次の文武天皇になると、やっと「大宝律令」(701年 日本がナマイ(生意)気 大宝律令)が出されて、都はそれまでにもできていたけれど、ようやく中身も体制が整ってくる。ちなみにこれを出した「藤原不比等」が、娘を妃にするという手段を編み出し、やがては摂関政治を行う藤原氏の祖先である。)

794年 “ナクヨ”(鳴くよ)うぐいす 平安京
(桓武天皇が京都に都を築く。それまでも何回も遷都していたが、ここだけは長持ちして、今に至る。)

894年 “ハクシ”(白紙)に戻す 遣唐使
(菅原道真が宇多天皇に言う。これ以降国風文化へ)

939年 “クサク”(苦策)の挙兵 効果なし
(「承平・天慶の乱」平将門が関東で「新皇」を名乗り、藤原純友が西国で海賊を率いて反乱した。地方武士の興隆が始まる。これを皮切りに乱もたびたび起こるが、いつも中央が勝つ。)

1052年 “センゴニ”(戦後に)始まる 末法思想
(末法時代が、1052年から始まると言われていた。(ハルマゲドンみたいなもの?) 後世を願って寺院もたくさん建てられた。)

1192年 “イイクニ”(いい国)作ろう 鎌倉幕府
(やっと武士の政権が来た。中世の始まり。頭は武家貴族の源頼朝。祖先は皇族。でも実際に動かしているのは、関東武士の北条氏一族。)

1221年 “イタッ ツツイ”(痛っ!つつい)て反撃 承久の乱
後鳥羽上皇が鎌倉幕府打倒を目指すが、逆に破れて隠岐に流された。

1333年 “イチミサンザン”(一味散々) 鎌倉滅亡
(別に鎌倉が滅ぼされたわけではないが、北条一族は一族郎党全員が死んで、幕府は京都に移った。これ以降室町幕府となる。
後醍醐天皇という野心家の天皇が、反乱を起こしては流され、また企て、とやっているので、鎮圧に向かった「足利尊氏」が、鎌倉幕府を裏切り、天皇側につき、さらに呼応して鎌倉を新田義貞に攻められた。結果滅亡。
この後、尊氏と後醍醐が、武家の方が上か、公家の方が上かでけんかして、不安定に。結局後醍醐が負けて、逃げて吉野に勝手に朝廷を立てるが、貧しかった。そのうちに吸収合併される。)

1467年 “ヒトヨムナ”(一夜空)しい 応仁の乱
(義政将軍時代、将軍の弟と将軍の正妻が部下を巻き込んで11年も争った結果、京都は焼け野原となり、将軍の信頼も失われ、各地で強い者が勝手に支配する、戦国時代に突入する。)

1543年 “イゴヨサン”(以後予算)食う 鉄砲伝来
(種子島漂着のポルトガル人から、2挺の鉄砲を入手。堺の商人が量産に成功する。時は戦国、高価だが強力な武器として、戦国武将が争って買う。
ちなみにキリスト教は、「1549 イゴヨク(以後よく)ひろまる キリスト教」で、ザビエルが伝える。鉄砲のすぐ後。)

1600年 “ヒーロ~~~~~!”(1600) 天下分け目の関ヶ原
ごろ合わせがちょっと強引だけど、1600年でちょっきりしているから、数字のまま覚えても大丈夫だと思う。有名すぎるが、徳川家が勝って、豊臣家が負けた。この3年後、家康が徳川幕府を開く。

1716年 “ミンナイロン”(みんな異論)なし 享保改革
(徳川3代で、せっかく幕府の基礎が固まったというのに、ここに至るまで、5代綱吉が政治をひっかきまわし、生類憐みの令を出したうえ、側近の荻原重秀がまた悪くて、貨幣は悪鋳するわ、賄賂は横行するわで、ガタガタになったのを、6・7代で、新井白石が元に戻したり、廃止したりして、ようやく8代目で、「暴れん坊将軍吉宗公」の出番となる。この改革で、財政を何とか立て直したが、大飢饉と年貢の引き上げ(平たく言えば増税)で、庶民は苦しんだ。)

1867年 将軍の“イチハムナ”(位置は空)しく 大政奉還
(鎖国を続けているがための外圧、もともと無茶ばかり押し付けるから嫌われていたための内圧、等々、なんやかんやで幕府が大政奉還。明治が華々しく始まり、今までの鎖国の反動か、一気に欧米化が進行。)

1936年 “ヒドクサム”(ひどく寒)い日 クーデター(二・二六事件)
(本当は、「1937 イクサナ(戦長)引く 日中戦争」とか、
「1941 イクヨーイ(行く用意)できた 戦争開始 (太平洋戦争の始まり)」とかのほうが、超重要事項なのだが、この二・二六事件は、ものすごく覚えやすい! 2月26日は、確かに寒いはずだ。
陸軍の青年将校らが、2月26日、軍人内閣を作るため、大臣や警視総監を殺して回った。首相や何人かは奇跡的に助かったが、暗殺は成功し、何人もの大臣がこの日に死ぬ。この4年前、1932年にも、「五・一五事件」で、こちらは海軍の将校が、首相の犬養毅を、殺している。首相の最後の言葉は、「話せばわかる!」である。陸軍と海軍はいつも張り合っていた。
クーデターの首謀者は処刑されたが、この後は軍人が軍部大臣を務め始め、ファシズムの道へと突き進んでいくことになる。
実際、日中戦争もこの翌年に起こっているしね!)

石器時代「寒くて石は割る」(~1万3千年前)

氷河期
マンモスなどを狩っていた。
打製石器(割って作った石器)
村・移動(小人数単位で、食べ物を求めて移住生活)(洞穴や岩陰に住んだ)

縄文時代「寒くない。石は磨く。壺も焼く。」(1万3千年前~紀元前4C)

完新世
暖かくなって海が近くなり釣りもできた。(釣り針等の発見。)
磨製石器(磨いて作った石器。)
村ができて、定住。
住居は竪穴住居に変化。
貝塚・海辺。クリ等の栽培もおこなった。
矢じりや刃に使う黒曜石は、かなり離れた地域のものが発見されたりして、広域交易がおこなわれていた証拠。
【風習】抜歯・研歯・屈葬
【宗教】アミニズム 土偶とかで祈る。

弥生時代「米作り。身分できる。」(前4C~3C)

中国では黄河文明から5~6千年を経てやっと実った米文化を、一気に輸入。縄文期から弥生時代へ急ジャンプした。北九州から米作り。
灌漑施設を作る等、集団行動の必要から、身分生まれる。
米ができて蓄えができると、襲撃があり、戦争始まる。
戦争や身分ができると、次第に国もできていく。
【代表遺跡】佐賀県の吉野ヶ里遺跡 環濠集落の代表。その他。九州が重要度高い。米の栽培が始まったところなので。
【村の特徴】水田あり。高床倉庫あり。軍事的な施設有り。
【道具】石包丁(穂首刈り) 鉄鎌(根刈り) 紡錘車(糸をつむぐ)
【宗教】青銅器の祭器。銅鏡・銅剣・銅矛・銅鐸
【お墓】甕棺墓・支石墓(九州) 方形周溝墓・墳丘墓(九州以外) 銅鏡や銅剣の副葬品あり。
*鉄器の使用(実用)が特徴的。鉄を手に入れるために、朝鮮や中国と行き来があった。
もちろん貴重品なので、石製、木製も引き続き使われた。

古墳時代「国ができて大きなお墓を作る。」(3C後半~7C)

大きなお墓を作れるほどの権力者がいた。
=それなりの規模の集落・国ができた。身分の上下もあった。
副葬品のおかげで、当時の様子も少し分かる。
初期は祭祀者、中期は武人・大和政権、後期には有力庶民が、権力を持ってお墓を建てた。
大和政権は、地方の諸部族を従えて、ひとまとまりにした。
お墓だけでなく、庶民は縄文時代から竪穴式住居にすんでいるが、豪族は、濠をめぐらした居館に住んでいた。

渡来人を技術者集団にまとめた=韓鍛冶部(からかぬちべ)陶作部(すえつくりべ・陶器) 錦織部(にしごりべ/機織り/秦氏が伝える。) 鞍作部 
すべてまとめて「品部」国家機関。
統括するのは「伴造(とものみやつこ)」と部下の「伴(とも)」
渡来人がいろいろ伝えてくれた=論語(百済・王仁) 暦(百済・観勒) 
歴史書も作った=『帝紀』『旧辞』
地方豪族を支配下に置いた=氏としてまとめて、君や直(あたえ)の姓をあたえる。裏切りを防ぐために、子女を朝廷に出仕させた。有力な中央周辺の豪族には臣(おみ)や連(むらじ)の姓をあたえて、その中から大臣・側近を選んだ。(大臣・大連) 
土地と人民は朝廷と豪族で仲良く分けた=
大王の分→屯倉(みやけ・土地) 田部(たべ・農民)
豪族の分→田荘(たどころ・土地) 部曲(かきべ・農民)
【宗教】禊(みそぎ) 祓(はらえ) 祈年(にいなめ・春) 新嘗(としごい・収穫祭) 太占(ふとまに・鹿の骨を焼く) 盟神探湯(くかたち)
【お墓】埴輪と葺石、副葬品、権力なくしては作れない古代の大工事、という点が特徴。
大きな古墳と小さな群集墳に分かれ、時期によっても様々。重要な手掛かり。
 重要古墳は「江田船山古墳」(熊本)「ワカタケル」(=雄略天皇)の文字の刻まれた鉄剣が出土。
【筑紫国造磐井の乱】「国造(くにのみやつこ)」は、豪族に与えられた位。平定される。継体天皇時代。6C前半。

縄文 屈葬

弥生前後 甕棺墓(特に九州北部 甕なので必然的に屈葬が多い)
方形周溝墓(周りに濠をめぐらした墓穴 盛り土あり。弥生時代を通して見られる)
伸展葬

弥生中期~ 箱式石棺墓(西日本) 板石を箱型にする。
墳丘墓(西日本) 盛り土 古墳と同じだが弥生時代なので名前を変える。
支石墓(九州) 大石の周りに甕棺等がたくさん埋まる。石は全員用の墓石?

古墳前期   近畿中心 前方後円墳(鍵穴型)他
竪穴式石室・粘土槨
(竪穴式は、土を盛って石室を完全に封鎖する。粘土槨は、石室なしで粘土で覆う。いずれも1回しか使えないお墓。)
副葬品は呪術系。銅鏡等
円筒埴輪・葺石
「箸墓古墳」(奈良)

中期   全国に広がる 前方後円墳(巨大化・陪冢や濠もある)他
竪穴式石室 横穴式石室(出入り口を石でふさぐが、また追葬可能)
副葬品は武人系 刀剣、甲冑、冠等
形象埴輪(動物や人や家の形 かわいい)
「大仙陵古墳(仁徳陵)」(大阪 日本最大の前方後円墳)

後期 群集墳 山間部など 規模の小さい密集墓 
前方後円墳は小型化。
横穴式石室普及(再利用が一般化)
副葬品は、日常品(食器など)が交じる。
埴輪は、円筒も形象もどちらもたくさん使う。
「藤の木古墳」(奈良 金銅製の冠) 「吉見百穴」(埼玉 200の横穴墓)


*土器の種類
→土器は3種類ある。土色、赤色、灰色 縄文時代から古墳時代までの種類と名前。

土色(黒褐色) 縄文土器 縄文時代に使われる。主に祭祀用
縄目文様がついているので、「縄文土器」 厚手

赤色(赤褐色) 弥生土器 のちに土師器(古墳時代)
薄手。主に実用品。「弥生」の名前は発見場所の名前。
壺(貯蔵) 甕(煮炊き) 高坏(たかつき・盛り付け) 甑(こしき 米蒸し器)

灰色 朝鮮からの渡来人が作った「須恵器」(すえき)
灰色で硬質。これも実用品。こっちの方が土師器よりも硬い。


*中国&朝鮮との関係
日本は誕生の当初から大陸との関係が切れたことなし。
約100年に一度、中国の歴史書に登場し、そのたびに中国の国名も変わっている。
中国が歴史書に書いてくれているから、資料が残っているともいえる。
国名と時代の関係一覧。
紀元前1C 『漢書』地理志 倭人100余国 楽浪郡を介して使者を送る。
1C  『後漢書』東夷伝 光武帝が倭の奴国に金印を授ける。(実際に発見あり)
3C  『魏志』倭人伝 卑弥呼は鬼道に優れていた。帯方郡を介して使者を送る。銅鏡と金印をもらう。死ぬと後継者争いが起こり、宗女が立って、収まった。
4C  好太王碑文 倭国が高句麗と交戦した。
5C  『宋書』倭国伝 倭の5王が次々と中国に使いを送り、倭国王に任命された。

鎌倉時代(1192~1333)  「始めての武家社会」

初めて武家の法と制度ができる。
「武家諸法度」と「御恩と奉公」
与える土地がなくなったために、やがて崩壊。

政治は「執権政治」である。
源頼朝が名目上の将軍であるが、妻の北条氏が実権を握っていた。
源頼朝と北条政子の間にできた二人の息子は、幕府を継いだが、ごく早い段階で2人とも殺され、そののち将軍は藤原氏から迎えた「摂家将軍」 皇族から迎えた「皇族将軍」をすえるものの政治は北条氏が基礎を築き、発展させ、安定期を迎え、専制を行い、鎌倉幕府が滅びる時も、北条氏の集団自殺で終わる。

鎌倉約150年のうち、最初の50年は北条氏以外を滅ぼして基礎を整え、次の50年は「宝治合戦」「引付衆」で専制の始まり、最後の50年は「元寇」あり、「霜月騒動」ありで、内管領の圧政によって信用を失って足利尊氏に滅ぼされる。

[最初の50年(1192~1246ぐらい)]
北条3代(私が勝手にそう呼んでるだけで、そんな歴史用語はありません)が基礎を築く
北条時政(政子の父) 北条義時(政子の兄) 北条泰時(義時の息子)

侍所(軍事) 政所(行政) 問注所(裁判所)は鎌倉幕府の成立以前から設けられていた。

幕府が成立すると、まずは梶原氏 比企氏(頼家の妻の一族) 頼家(2代目将軍)殺害 畠山氏 和田氏と次々に滅ぼして、北条氏の権力を確立。

承久の乱(1221)で後鳥羽上皇が幕府を倒そうとするも乗り越え、逆に「六波羅探題」を置いて京都と西日本の監視を強める。
その後は連署(片腕)→評定衆(重要事案の合議制)→貞永式目(武家社会初めての成文法)
の順に (順序が大事!センターは順序を問う問題が多いから!) 制度を固める。

中でも重要なのは、「貞永式目(別名:御成敗式目)」である。
武家社会の「道理」(慣習)と「先例」を成文化し、裁判基準を明確にした。
朝廷の公家法、荘園の本所法とは別個のものと規定することで、朝廷や貴族との反発も避けて、武家社会にこの法律が浸透するようにした。
作ったのは3代執権の泰時である。
3代目北条泰時の時にすでに摂家将軍を迎える。(1226) その前の段階で頼朝の直系男子は全員殺されていたので、京都の摂関家に嫁いでいた頼朝の女孫の子孫を将軍に迎えた。


[次の50年 1246~1284 北条の専制]
北条の専制が固まる。北条時頼 5代目執権
・宝治合戦(1247) 三浦㤗村一族が死亡
・引付衆(小さい裁判所) 裁判の迅速化
・皇族将軍を迎える(宗尊(むねたか)親王)


何といっても「元寇」が大きい。8代目執権 北条時宗
まずはモンゴルの襲来に備えて九州の御家人に「異国警固番役」(お役目)を言いつける。
文永の役(1274) 弘安の役(1281)
モンゴルの元が2回攻めてくるが、辛くも撃退。
一度目は鉄砲で苦戦し、
そのあと石垣(石塁)を20キロ作って「長門探題」(お役所)を設置。
その甲斐あって2度目も何とか撃退。


[最後の50年 1284~1333 専制の行き過ぎ]
元寇の時幕府は恩賞を出せなかったために、幕府の信頼は揺らいだ。

このため北条一族は専制を強めて対抗した。「得宗専制政治」である。
全国の守護職は北条氏が独占し、
評定衆による合議制は形骸化した。
(「得宗」は、北条の惣領家のこと)

困った御家人を助けるための「徳政令」(借金帳消し 質入れした土地の無償返却)を何度も出す。有名なのは「永仁の徳政令」(1297)

内管領(得宗家の執事のようなもの・家令) の力が強まり、
彼らは散々勝手な真似をしたために余計に幕府への反感は強まった。

もともと御家人たちはすでにこの時点でお金に困っている。
分割相続なのに、年貢、軍役は惣領がまとめて担うという制度、「惣領制」のためである。
窮乏するので、鎌倉末期には「単独相続」へと変わっていく。
御家人でないが武力をもって好き勝手をする「悪党」も生れた。

これらの専制を行ったのは 9代目執権 北条貞時
・霜月騒動(1285) 内管領の平頼綱が、讒言によって貞時の外祖父安達泰盛とその一族を滅亡させる。
・永仁の徳政令(1295) 
幕府はその次の10代目北条師時で滅びる。


【守護と地頭】
「大犯三カ条」守護は3つのことをやる。
京都大番役の催促(=地頭の監督) 謀反人・殺害人の逮捕(=警察機関)
守護:国ごとに設置

地頭:公領・荘園ごとに設置 承久の乱以後全国に広がる。
本来は荘園領主の下で兵糧米の徴収・免田経営など「地頭職」という特権が認められるだけのものであったが、地頭は御家人で武力もあるので、立場は強い。
承久の乱以前の「本補地頭」は、荘官や郡司の権限を受け継いだもので権利にはばらつきがあり、
承久の乱以後の「新補地頭」は、「新補率法」によって権利が決まっている。
「11町につき1町の免田」「段別5升の加徴米」「山や川からの収益の半分」

当然もともとの荘園領主との争いは絶えない。
荘園領主は一切の経営を地頭に任せて年貢を入れてもらう「地頭請け」を行ったが、
年貢を入れてもらえない場合があり、荘園を半分に分ける「下地中分」を行うときもあった。

【鎌倉文化】
中心人物:運慶と快慶
写実的で豪放。
「大仏様」(東大寺南大門)「和様」(日本の伝統建築)「禅宗様」(宋からの伝来)の建築様式

「金沢(かねさわ)文庫」2代目執権義時の孫、北条実時が、自分の蔵書を公開した。つまり図書館を作った。実時は時頼時宗あたりの評定衆(合議制の一人) ちなみに金沢は「かねさわ」で横浜にある。
【鎌倉新興宗教6TOP】
鎌倉時代は、武士や庶民にも受け入れられる新しい宗教が流行った。
今も根付く宗教だってある。浄土宗とか。
主に念仏中心で手軽、分かりやすい。座禅が組まれたり、悟りのために禅問答をしたり、禁欲的で、面白いところも特徴。
・「浄土宗」(法然)=「専修念仏」(ひたすら念仏) 「選択本願念仏集」
・「浄土真宗」(親鸞)=法然の弟子 専修念仏を一歩進め「悪人正機説」(悪人だって救われる) 
・「時宗」(一遍)=踊念仏(踊りながら念仏を唱える。)
・「日蓮宗」(日蓮)=念仏ではなく題目「南無法蓮華経」(蓮華経)を唱える。攻撃的だったので、しばしば迫害される。「立正安国論」
・「臨済宗」(栄西)=座禅を組みながら公案を考える。
・「曹洞宗」(道元)=ひたすら座禅。公案なし 永平寺

幕府は宋の僧侶が好きで手厚く保護した。お寺を建ててやる。
北条時頼 蘭渓道隆・建長寺
北条時宗 無学祖元・円覚寺
【豊かになった鎌倉時代】
・貨幣経済の発達
平安時代は布や米で取引されていたものが、日宋貿易での宋銭の大量流入により、貨幣が広まった。
借上(かしあげ) 高利貸し
問丸(といまる) もとは輸送業者だったが、倉庫・流通業へ 問屋のもと
為替(かわせ) 手形決済 現金を持ち歩かずに遠隔地で安全取引できる。
銭納(せんのう) 年貢もお金で納めてよくなってくる。
定期市 三斎市は月三回 市日に市を開く。室町時代になると六斎市で月6回
座(ざ) 神社やお寺、公家が保護する同業者組合 関税の免除や独占権を認める代わりに「座役(ざやく)」を納めさせる。室町時代にさらに発達。


・農業の発達
二毛作(にもうさく) 米の裏作で麦を作る。
刈敷き・草木灰 草を混ぜ込んだり、灰を混ぜたり、肥料を使うようになった。
牛馬耕 耕すのに牛や馬に犂を引かせるようにする。
水車
商品作物 藍 荏胡麻等

室町時代(1333~)  「幕府支配の空白地帯出現『惣』が始まる」

武家でも、農村でも、あちこちで自治が始まる。
室町幕府は、求心力もなく、信頼も失いがちで、また、嫡子単独相続により、一族の跡継ぎ以外はすべて家来という、かなりのまとまった武家の集団ができていたから。
これがやがて戦国時代につながっていく。
【まず室町幕府の始まりのころの小競り合い一覧】

後醍醐天皇 事の発端はこの天皇である。天皇親政、幕府打倒を目指して、2回も討幕運動を計画し、2度とも阻止されて隠岐に流された。
しかし3度目に新田義貞・足利高氏の協力を得て幕府を倒した。

*後醍醐天皇は「大覚寺統」である。「ダイダイ」で覚えやすい。
もう一方の皇統は「持明院統」である。その当時天皇家はこの2つの皇統を交互に皇位につかせる「両統迭立(りょうとうてつりつ)」という原則をとっていた。
なぜこれが大事かと言えば、このあと後醍醐天皇と足利高氏が決裂して、「南北朝時代」がしばらく続くのだが、南に逃れた後醍醐天皇は当然「大覚寺統」を立て、対立する京都の北朝が「持明院統」の天皇を立てて、これが時々テストに出るから。


1333 鎌倉幕府滅亡 2人の武士が協力した。東の鎌倉は新田義貞が攻め落とし、西の六波羅探題は足利高氏(後で朝廷から「尊氏」と言う名前に変えてもらった)が攻め落とし、鎌倉幕府は滅亡した。

建武の新政 古代の天皇親政を復活させようとし、公家に手厚く武士を冷遇する後醍醐天皇の親政を開始。3年足らずで崩壊。 足利尊氏が反乱を起こした。

[建武の新政の失敗ポイント]
・綸旨で所領安堵すると決めた→綸旨は天皇の文書 所領の安堵は誰にとっても最大の関心事で、これを天皇の文書が他機関の決定を上回るとしたので、混乱を招いた。
まもなく撤回され、「雑訴決断所」が裁決を行った。
・恩賞方→建武の親政の論功行賞を行う機関。公正を欠いて武士の不満を招いた。

[失敗でないけどテストに出るポイント]
・後醍醐天皇は「鎌倉将軍府」と「陸奥将軍府」をおいて、それぞれに皇子を配置し、関東、奥羽支配を任せた。

[後醍醐天皇の味方]
・新田義貞 彼は南北朝でも南朝についたが敗死
・楠正成(くすのきまさしげ)天皇に対する忠義心が武士の鑑と言われていろんな話に登場する有名な武士。神社にもまつられている。足利尊氏に敗れて敗死。
・護良親王(もりよししんのう)後醍醐天皇の皇子 建武の親政では征夷大将軍に任命された。できる人だったらしく、警戒されて鎌倉に幽閉され、中先代の乱の混乱に乗じて尊氏の弟に鎌倉で殺された。


1335 中先代の乱 鎌倉幕府の残党が反乱 足利尊氏が鎮圧。

尊氏側vs後醍醐天皇側で激しい戦闘 尊氏勝利

1336 南北朝に分かれる 後醍醐天皇が吉野に逃れて南朝を立てた。以後動乱。一時後醍醐天皇の皇子が九州を制圧したこともあったが、九州探題に敗れた。しかし公家なので、理屈や文章はえらい。「神皇正統記」とか。
1338 尊氏 征夷大将軍に

1350~52 観応の擾乱(かんのうのじょうらん) 足利尊氏の部下(高師直)vs弟(足利直義)
弟は尊氏を助けて活躍していたが力を持ちすぎて二頭政治と呼ばれるほどになっていた。弟負ける。高師直勝利。
これによって南北朝の動乱は長期化

【室町幕府の機構】
ほぼ鎌倉幕府を踏襲したもの 幕府が鎌倉から京都へ移った。
名前が変わる。
六波羅探題(京都)鎮西探題(九州)→鎌倉府・鎌倉公方・関東管領(鎌倉) 九州探題(九州) 奥州探題(陸奥) 
貞永式目(または御成敗式目)→建武式目
内容はほぼ同じ

重要なのは世襲の有力者の名前
「三管四職」管領三家と侍所四家
管領(将軍の補佐)=細川 斯波(しば) 畠山
侍所(京都の警備・刑事裁判)=赤松 一色 山名 京極

鎌倉公方(関東の統括)=足利基氏の子孫
関東管領(鎌倉公方の補佐)=上杉氏の世襲


【争いは続く 今度は力をつけた守護大名との争い】
覚えるべきは、初代足利尊氏以外に3人いる。

守護大名を抑え、南北朝を統一し、金閣を建てて最盛期をもたらしたのは、
3代将軍 足利義満である。
将軍の権力を強化しようとして、次々に有力大名を滅ぼし、最後暗殺されたのは、
6代将軍 足利義教(よしのり)である。
趣味はよくて銀閣や書院造を作ったが、応仁の乱を招いて京都を戦乱におとしいれたのは、8代将軍 足利義政(よしまさ)である。

戦争は時々出るので順序だけ

土岐康行の乱(美濃の守護大名) 
→明徳の乱(山名氏 中国・近畿の守護大名全国の6分の1の領国を持っていたので「六分一殿」と呼ばれた) 
→南北朝の合体(ここまでが義満) 
→応永の乱(大内氏 堺) →上杉禅秀の乱(元関東管領 関東の大乱) 
→(このあたりから義教(よしのり)) 
→永享の乱(鎌倉公方 足利持氏 以後関東管領上杉氏が関東を支配) 
→結城合戦(ゆうきがっせん)(持氏の遺児を守ろうとしたが敗戦) 
→嘉吉の乱(かきつのらん)(次は自分だと思った赤松満祐が将軍を暗殺。赤松満祐を討った山名氏が強大になる とにかく義教将軍はやりすぎて殺される) 
→享徳の乱(関東で24年にわたる戦乱) 
→応仁の乱(京都で11年にわたる大乱) 
⇒戦国時代始まる

*足軽(歩兵)は応仁の乱から使われだした。

*頻出事項:「足利学校」
永享の乱で持氏を倒すのに協力したのは、関東管領 上杉憲実(のりざね)
彼はもともと足利氏一族のためにあった「足利学校」を再興し、発展させた。
学ぶのは僧侶が多い。戦国時代「坂東の大学」と呼ばれた。


【力をつけたのは守護と百姓と国人である】
守護
守護の権限が拡大した。
一番大きいのは「使節遵行権」(幕府の判決の執行権)「半済令(はんぜいれい)」(年貢の半分を軍事費に徴収)である。
中でも「半済令」重要。徴税権を与えてしまうのは、支配権を与えたも同然である。
「半済令」は足利尊氏が観応の擾乱の際、近江・美濃・尾張に1年のみ臨時に認めた。
しかしその後拡大し、地頭の時と同じく年貢を守護が請け負う「守護請」が進み、荘園を崩壊させた。

百姓
「惣百姓」が生まれる
地下検断(警察権) 惣掟(きまり) 寄合(入会地・用水の共同利用や祭礼を決定) 地下請(じげうけ)(年貢徴収請負) リーダーは「おとな(乙名 長)」
まとまることで自治を行う力を得る。
集団を結成して要求を通そうとすることを「一揆(いっき)」という。
百姓の一揆は「土一揆」

「国人(こくじん)」(土着の有力武士)生まれる。もとは地頭などなど。
「国人一揆」もあり。

有名な一揆
1428「正長の徳政一揆」失敗 近江坂元の馬借が徳政を要求した。
1441「嘉吉の徳政一揆」成功 義教の死後、「代初めの徳政」を要求。京都 地侍指導
1485「山城国一揆」成功 国人一揆が畠山両軍を退けて月行事が8年の自治
1488「加賀の一向一揆」成功 一向宗徒が守護の富樫政親(まさちか)殺害 100年の自治


【室町幕府の一番の特徴は税金をたくさんかけたこと】
段銭 臨時の増税 田畑の段別にかける
棟別銭 お寺や神社の修復のために家の棟別にかける
徳政分一銭 債権者もしくは債務者が幕府に手数料を払うと徳政令に入れてもらえるもしくはのぞかれる。 徳政令すら税金にする。
津料・関料 入港税・通行税 室町時代は関所が多かった。
年貢 年貢は年貢で税金とは別にあった。幕府の直轄地は「御料所」という。
五山献上銭 お寺からも取る 五山とは、五山禅院の有力寺院のこと
*「撰銭令」質の悪い銭を規制する基準法
鎌倉時代は宋銭が使われたが、室町時代は明銭が流通した。
「土倉・酒屋」高利貸し

【貿易はもうかる 対明貿易流れ】
この時代の中国は「明」 「朝貢貿易」という、天子に貢物を送り、その返礼をもらうという形をとり、もうけは大きかった。割符「勘合」で相手を確認する。
対中国では、輸出品は銅・硫黄 輸入品は銅銭・生糸
対朝鮮では(朝貢貿易ではない) 輸出は香木・銅・刀剣 輸入は木綿・人参

足利義満が始めて、子の義持が中断 義教が再開
「日本国王」は天皇ではなく義満だった。

邪魔をするのは海賊の「倭寇」である。前期倭寇は日本人・朝鮮人 後期倭寇は中国人である。

流れは以下の通り
1325鎌倉時代に建長寺を修復するための「建長寺船(時頼が建てたが高時が送る)」が送られる。
1342室町時代に天竜寺を建てるための「天竜寺船(尊氏)」が送られる。
明の建国者が倭寇取り締まりを求めるも効果なし
1404義満が「日本国王」として勘合貿易開始
1411子供の義持が、朝貢貿易を屈辱とみなして国交中断 貿易停止
1419朝鮮が倭寇の本拠地とみなして対馬を攻撃(応永の外寇)対朝貿易はしばらく中断
1432義教が貿易再開
(1467応仁の乱から、すでに戦国時代に入る)
1510三浦の乱 日本人居留民が朝鮮でおこした反乱 鎮圧 以後対朝貿易衰退
1523寧波の乱 大内氏(博多)と細川氏(堺)が寧波で紛争。以後大内氏が独占。
1547最後の勘合船 1551大内氏滅亡
1588秀吉の海賊取締令 倭寇衰退

【さらに豊かになった】
農業
二毛作三毛作 灌漑や排水の改善

商業
六斎市広まる(月6回 5日に一度)
農業工業が発達してお店が出せるようになった。露天売りから屋内売り(見世棚・店)へ
専門職の手工業者が出た。 紙漉き 研ぎ師 
行商人もできた。 問丸は鎌倉時代からあるが、大原女 振売 連雀商人(中距離)

座が発達した
専売権をもつ座
有名どころは 祇園社の綿座 淀の魚座 興福寺大乗院の油座 離宮八幡宮の油座

【南北朝文化】
中心 北朝・南朝の正統派争い。
とにかく難しい文章が多い。
「神皇正統記」(北畠親房・南朝) 「梅松論」(北朝) 「太平記」(南北朝の軍記物)
連歌の「菟玖波集」(二条良基 準勅撰)も。
【北山文化】
中心人物:足利義満
金閣とか。「五山文学」発達
能を保護する 観阿弥・世阿弥「風姿花伝(世阿弥)」
【東山文化】
中心人物:足利義政
銀閣とか。他、書院造、石庭など。
*ちなみに有名な銀閣寺は、寺とつくけど山荘の1建物。正式名称は「慈照寺銀閣」同じ寺内で他に「東求堂(とうぐどう)」が有名。
「新撰菟玖波集」(宗祇)(準勅撰連歌集 連歌を芸術に)
「犬菟玖波集」(山崎宗鑑)(自由で庶民的な連歌 「犬」は「滑稽」)
【宗教 五山・十刹の制】
鎌倉室町と、中国から多くの僧が来て、権力者はそれを信仰し、寺を立ててやった。
南禅寺を頂点とする五山・十刹の制で、幕府は税金を取った。
五山は「祠堂銭貸付」(貸付業)によって収入を得ていた。

京都五山 1天竜寺(足利尊氏/夢窓疎石)
2相国寺(足利義満/夢窓春屋)
3建仁寺(栄西)

鎌倉五山 1建長寺(北条時頼/蘭渓道隆)
2円覚寺(北条時宗/無学祖元)
3寿福寺(北条政子/栄西)

他にも五山に入らない「林下」の私寺も民衆の支持を得ることがあった。
一休宗純(大徳寺)とか

民衆に支持を広げると強大な力を持つ。
2大宗教は 浄土真宗(一向宗)と日蓮宗

一向宗で力を持つのは「本願寺派」 8代法主 蓮如の布教が発展期
御文(蓮如の手紙) 門徒・講(信者を「講」という団体で結ぶ) 
武装的で寺の周りを特に「寺内町」と呼ぶ。普通は「門前町」(神社・お寺の周りにできる街)という。
大阪石山御坊が本拠 のちに信長が焼き討ちする。
加賀の一向一揆で100年の自治を保ったのはこの「一向宗」加賀はその間寺領となる。

日蓮宗の団結は「法華一揆」と呼ばれる。日親の布教が発展期 
有名なのは「天文法華の乱」(1536)
日蓮宗は京都で一揆を結んで一向一揆の本願寺を焼き討ちにし、自治を行っていたが、延暦寺からの焼き討ちにあって寺院21を焼かれた。
京都から追い出されたのが、「天文法華の乱」
1542年に京都に戻ってきた。


「唯一神道」(吉田兼倶)反本地垂迹説 神道・儒教・仏教を統合

戦国時代 「下剋上 強いものが勝ち、弱いものは滅びる。」

群雄割拠
守護から発展した守護大名: 今川 武田 大内 島津 大友
守護代・国人から発展した戦国大名: 上杉 織田 伊達 徳川
不明: 北条(北条姓は勝手に名乗っているだけで鎌倉幕府とは関係なし)
下剋上で、下の者が上の者を倒す風潮あり
国が豊かでないと戦争もできないので、大名たちは農業商業の発展に尽力した。
100年ほど戦乱が続いたのち、織田信長が台頭し、部下の秀吉が天下統一し、同盟者の徳川が江戸幕府を開く。

群雄割拠の中から織田信長が出て、明智光秀に裏切られ、秀吉が天下統一を果たし、その死後石田光成と天下分け目の関ヶ原で勝って、徳川家康が江戸幕府を開く、その後大阪冬・夏の陣を経て豊臣家滅亡・・・・。と言った経緯に関しては詳しい人が時々いたり、面白い解説たくさん出ているし探してみてください。


出るのは「分国法」
戦国大名はそれぞれ法律や家訓で統治した。
「喧嘩両成敗」や結婚 土地の売買に至るまで様々

朝倉氏「朝倉孝景条々」(なぜか「一乗谷に居を構えた」というのが頻出)
今川氏「今川仮名目録」 武田信玄「甲州法度之次第」

城下町 楽市楽座
指出検地(年貢を取るためにしっかりと検地)
この頃は貫高制(とれる年貢を貨幣換算する) 江戸時代には石高制(とれる年貢を米高で換算)


【鉄砲&キリスト教の伝来】
世界的には大航海時代
ポルトガルとスペインはキリスト教を広めたのちに征服するという政策をとっていた。
鉄砲の後にキリスト教も伝来し、南蛮貿易始まる。

南蛮人=南欧系の白人 スペイン ポルトガル イタリア
紅毛人=北欧系の白人 イギリス オランダ キリスト色なし 純粋に交易目的 そのため江戸幕府が鎖国政策をとってもオランダは交易を許された。

輸入するのは 鉄砲火薬 鉄 絹 木綿
輸出するのは 刀剣 漆器 銀 硫黄

大変儲かるので、キリシタン大名が現れる。
大友宗麟(大分) 天正遣欧使節を派遣
有馬晴信  黒田如水
しかし中には信仰を抱き続けて江戸時代に国外追放(マニラ)を選んだ者もいた。→高山右近

[キリスト教関係の専門用語]
伴天連(バテレン):ポルトガル語で「パードレ」神父 宣教師のこと
セミナリオ・コレジオ:イエズス会の学校 セミナリオが中等 コレジオが高等教育
南蛮寺:教会 慈善事業も行ったので信仰を集めた。
天正遣欧使節団:九州のキリシタン大名3名が4人の少年をローマに送った。8年で帰国。ローマ法王に謁見して地球儀や時計などを持ちかえった。1590年に帰った後、秀吉がキリスト教を禁止にしたので、4人中1人棄教、1人殉教 1人追放 
慶長遣欧使節:これは江戸時代に入って1615年伊達政宗が交易目的で送った。キリスト教関係ないが切り離せない。支倉常長は交易の交渉には失敗したがローマ法王に謁見した。
外来語:金平糖 カステラ ビロード 天ぷら メリヤス 等々
活版印刷術:宣教師のヴァリニャーニが伝える。宗教書以外にも刊行多数。「天草版」ともいわれる。「天草版伊曽保物語」(イソップ物語 ローマ字で表記)とか。


【キリスト教&貿易禁止の流れ】
貿易は「朱印船貿易」朱印状を持つ船だけが交易してよい
輸出 銀  輸入 生糸

[秀吉] だんだん禁止にした。宣教師を見せしめに殺した。
1587 バテレン追放令 宣教師の20日以内国外退去 貿易は許したので実効力なし
1596 サン=フェリペ号事件 船員が宣教師の派遣はスペインの他国征服の手段であると言ったので、26聖人殉教(26人の宣教師・信徒が処刑)

[江戸幕府] 禁教→鎖国へ 鎖国はほとんど3代家光がやった。
流れとしては、
貿易統制(糸割符仲間)→禁教→さらに貿易統制(奉書船)→島原の乱→完全鎖国である。

最初江戸幕府はキリスト教だけ禁止しようとしたが、貿易が続いていると難しかった。
また、貿易は莫大な利益をもたらすので、江戸幕府に反抗する資金になりかねなかった。

1600 オランダ船リーフデ号漂着 水先案内人のイギリス人「ウィリアム・アダムス」が家康に気に入られて外交顧問となる。日本名「三浦按針」平戸のイギリス商館設立に尽力。イギリスの商館は鎖国中に閉鎖。航海士のオランダ人「ヤン・ヨーステン」(日本名「耶楊子」)も平戸のオランダ商館開設に力を尽くす。オランダ商館は鎖国中も残る。
1604 糸割符制度 ポルトガル商人の言い値で買わないようにするため、生糸を糸割符仲間で一括購入させた。有名大商人:茶屋四郎次郎
1612 禁教令 その後大迫害開始
1613 伊達政宗がこっそり慶長遣欧使節団
1623 イギリス商館閉鎖
1624 スペイン来航禁止
1631 奉書船制度 朱印状の他に奉書(老中の許可文書)がいる
1635 日本人の海外渡航と帰国の全面禁止 この頃海外には日本人町があった。
1637 島原の乱
1939 ポルトガル船の来航禁止 鎖国 
1641 オランダ商館も出島に移転。中国・オランダとのみ長崎の出島で交易できる。

【重要です!天下人秀吉の天下統一事業】
・太閤検地
全国の検地を統一基準で行う。枡は「京枡」を基準にした。
単位も「町・段・畝・歩」と「石・斗・升・合」に
度量衡の統一は、天下統一の一大功績である。
生産力を金額から米へ「貫高(かんだか)」から「石高(こくだか)」に変えた。
それに「一地一作人」の原則を用いて、持ち主が何人もいる複雑な所有関係をなくした。

・刀狩・兵農分離
大仏建立の釘にするという名目で、百姓から刀や鉄砲などの武器を没収した。
さらに身分統制令で士農工商の先駆けを作った。

・全国の鉱山の支配
佐渡の金山 生野・石見の銀山から金銀が取れたので財政が豊かだった。

・朝鮮出兵
文禄・慶長の役で、2回にわたり朝鮮に出兵した。目的は中国の征服だった。
多大の犠牲を払いながら大失敗して大名の不満を招き、秀吉政権の崩壊の下地を作った。
1度目の文永の役は平壌まで征服できたが、朝鮮義勇軍の活躍で停戦。
2度目の慶長の役は李舜臣(リシュンシン)の亀甲船のために補給路を断たれて苦戦。秀吉の死により停戦。
【安土・桃山文化】
中心人物:狩野一門
ほとんどすべての重要文化財が、狩野一門の描いた絵である。
例外は長谷川等伯くらいである。
自由闊達、勇壮。

江戸時代(1600~1867)  儒学大好き封建制度 上が絶対 でも平和

徳川家康1600年征夷大将軍に
15代続く間内情は火の車である。
「続くこと」「逆らわせないこと」を基本に、様々な政策が立てられている。

「花と実は同時に与えない」政策で、格式の高い家には収入を低く設定し、
「大名は鉢植えにせよ」の政策で、転封・改易により、大名の土着を防ぎ、
「百姓は生かさず殺さず」で、年貢はぎりぎりまで上げた。

将軍家に対する信用度合いによって、旗本/御家人(直属)・譜代(関ヶ原以前)・外様(関ヶ原以降)に分けられていた。重要な奉行などの職は旗本から選ばれる。

結婚・城の増改築は許可制であり、
妻子は江戸に住み(人質)、大名は参勤交代で一年ごとに大名行列を作って江戸と国許を行ったり来たりする(余計な出費を抱えさせる)。「入り鉄砲に出女」を関所で警戒して反乱を起こしにくくする。
ときどき「お手伝い」と呼ばれる土木事業が言いつけられて、ひどい財政難をもたらす。

基本嫡男が後を継ぎ、次男以下は部屋住みと呼ばれて居候で結婚もしにくい。
将軍家が絶えてはいけないので、予備に「御三家」が存在し、尾張・紀伊・水戸の三藩が控える。8代将軍吉宗は紀伊藩の藩主である。
さらに吉宗が立てた「御三卿」(田安・一ツ橋・清水家)も存在する。藩主にならず、いざというときに将軍家を継ぐための家である。

大名家の多くは多額の借金を抱え、藩政改革で借金を返しきった藩が、幕末に「雄藩」として力を持つようになる。

借金の貸主となったのは「札差」である。
年貢米は蔵物と呼ばれて大阪の蔵屋敷に集められ、蔵元・掛屋という商人が保管・送金を受け持つ。そして代理で売買を行うのが「札差」で、儲かったらしく、お金持ちが多い。ただし大名貸しに手を出すと返してもらえなくてつぶれる者多数。
蔵物の反対は「納屋物」。民間の流通で、米なら「納屋米」

【法律】武士、朝廷・公家、寺、農民用にそれぞれある。
武士→武家諸法度

公家・朝廷→禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと) 
*これで問題が起こる 沢庵の「1627紫衣事件」(沢庵はたくあん漬けを作ったお坊さん) 幕府に許可を取らずに天皇が紫衣を与えた事件。抗議した沢庵は流罪、天皇は譲位した。

寺→寺院法度 本山末寺の制
*大事なのは寺である。
幕府は寺請制度を用いて、寺に人口把握と身元証明をさせた。これでキリシタンも防げる。
「宗旨人別帳」は家族の宗派を書いたもので、戸籍になった。

農民→田畑永代売買禁止令(田畑は売るな。質入れは可)
田畑勝手作りの禁(商品作物を作ってはいけない。五穀の生産を減らさないため。新田畑には作ってよし。)
慶安の触書(着て良い服、家、食べてよいもの、事細かに規制している。)


【百姓は国の基本である】
江戸幕府は米で給料を支給する「俸禄制」を取っていたので、米の生産は大変重要だった。
だからこそ決まりをたくさん作って統制した。
「士農工商」では、農民を工商よりも上に置いている。でも実際は貧しかった。

村方三役(庄屋・名主)→本百姓→水呑み百姓 と身分も存在する。
5人組を作らせて、相互監視も行う。犯罪が起きれば連帯責任である。

「結(ゆい)」というまとまりを作って田植えや屋根葺きを行い、絆は固いが、
村掟に違反すれば葬式火災以外は無視される「村八分」にあうこともある。(2分だけ付き合うという意味。) 

年貢の名前が時々テストに出る。
・本途物成(ほんとものなり):年貢 家、田畑にかけられる。
・小物成(こものなり):山野河海の利用にかかる税金 つまり雑税
・伝馬役・助郷役:街道周辺で人馬が足りない時に近隣から補助する。

・当然一揆はよくおこる。
その形態は前期中期後期に分けられる。
前期 代表越訴型(代表者が領主などに直訴 聞き入れられても代表者は殺されがち) 
佐倉惣五郎一揆 年貢減免を将軍に直訴して死刑 年貢は減免された。

中期 惣百姓一揆(団体抗議)
国訴(商人の指導で独占に反対したりとか 菜種 綿)

後期 世直し一揆(世直しを求める) 打ちこわしとか

[道具で収穫力UP!]
千歯扱 踏車 千石簁(せんごくどおし) からさおうち 唐箕 備中鍬

*増収を目指して新田開発にも力が入れられた。


【江戸の流通を支えた船の輸送~航路開拓】
覚えるのは2名
・角倉了以(すみのくらりょうい) 川の治水 朱印船貿易の貿易商
・川村瑞賢(かわむらずいけん) 東廻り・西廻り海運を整備 材木商 
(東廻りも西廻りも東北からの北前船を運ぶ海路 東は江戸へ、西は大阪へ)
*江戸―大阪間は南海路 「菱垣廻船」「樽廻船」で、しょうゆや酒を運んだ。


江戸幕府の「4つの窓」
・沖縄 中国・オランダ 朝鮮 蝦夷地(北海道 アイヌ) 

【沖縄(琉球)】
貝塚文化 弥生時代に沖縄など南方で展開 貝符など 貝の文化
1429 尚巴志が北山・中山・南山を統一
1609 薩摩藩の島津家が征服 以後支配下に 黒砂糖が取れるので、大きな収入源に
慶賀使(将軍の代替わりのお祝い) 謝恩使(国王の代替わりのお礼)を幕府に送る。
ちなみに琉球は中国にも服属し、冊封を受けていたので、中国との貿易の中継地点になった。

【中国・オランダ(長崎出島)】
長崎はキリシタン大名大村氏の領地だったが、秀吉も江戸幕府も直轄地とした。
中国人は「唐人屋敷」に
オランダ人は「出島」に収容して、出入りを厳しく監視した。

そうはいっても、オランダにはヨーロッパの進んだ知識があるので、その情報は貴重だった。「長崎貿易」と特に呼ばれる。
オランダ商館長は「カピタン」と呼ばれて、新任のたびに将軍に拝謁する。
オランダ東インド会社の日本支店長で、純粋に交易目的である。
入港のたびに「オランダ風説書」を幕府に提出して、海外の情報を伝えた。

輸出 銀 海産物「俵物」(ほしあわび ふかひれなど)  
輸入 生糸 木綿 本 薬品 香木

当然輸入の方が品物だから有利で、銀で支払うしかない日本側の方が損をしている。
新井白石はこれを問題視して、長崎貿易での銀の支払いを制限し、オランダ船中国船の入港も制限する法律を作った。(「海舶互市新例」)ために、長崎貿易は衰退した。


【朝鮮】
対馬の宗氏が受け持った。
「己酉条約(きゆうじょうやく)」というものがあり、日朝貿易の取り決めをした。
「朝鮮通信使」が聞かれる。
もともとは秀吉の朝鮮出兵で拉致されてきた朝鮮人を帰国させる目的だったが、そのうちに将軍の代替わりごとに朝鮮から送られてくる使者の一行になり、将軍の威光を高めた。
朝鮮には知識人も多く、漢文でのやり取りができるので、通信使と日本の知識人との間で交流が見られた。
ちなみに朝鮮も鎖国中。

【蝦夷地 アイヌ人】
ひどい搾取を受ける
アイヌの歴史
縄文時代後も朝廷の支配が及ばず、寒くて米作もできなかったので、独自の文化が発達していた。
続縄文文化 8Cごろまで。縄文土器
擦文文化(さつもんぶんか)13Cごろまで。鉄器の使用あり。櫛の歯の文様のある擦文土器を作る。
オホーツク文化 擦文文化の中オホーツク海沿岸に展開した独自文化 北アジア系漁労民
オホーツク式土器 竪穴住居 貝塚 墳墓
1457 コシャマインの戦い 鎮圧
蠣崎氏の所属に
蠣崎氏が松前氏に改名
1604 家康が松前氏の蝦夷地統治を認める。
俸禄の代わりに、アイヌ人との取引場所(商場)を家臣に与えたので、搾取がひどくなる。(商場知行制)
1669 シャクシャインの戦い 鎮圧
江戸後期には家臣は商人に取引場所の運営を任せて運上(年貢)をとったので、搾取はさらにひどくなった。(場所請負制)
*蝦夷地ではにしんや昆布がとれた。こぶだしを使うことを発見されてからは、昆布はなくてはならない食材である。また、にしんは肥料にもなる。北前船で大量の物資が上方に送られた。
【先につぶしておこう 儒教】
儒教は江戸幕府の重んじた学問であるが、いろんな学派に分かれて学者も本も多い。それも難しい漢字が多い。それがテストでよく聞かれる。ゆえに、先に説明。

[幕府が保護した朱子学 京学]
朱子学は君臣の別や上下関係を重んじたので、幕府に採用された。
江戸幕府の重んじたのは、朱子学の中でも「京学」と呼ばれる。
藤原惺窩(せいか) 相国寺の僧侶 五山の禅僧が学んでいた朱子学を広めた 家康に朱子学を講義した。
林羅山 惺窩の弟子 家康に仕えた 上野に塾を開くことを許される。
林鵞峰(がほう) 羅山の子 親子で編年体の歴史書「本朝通鑑」を編纂
林信篤(のぶあつ) 鵞峰の子 塾を湯島聖堂に移して「聖堂学問所」にしてもらった。湯島聖堂の大学頭(だいがくのかみ)

木下順庵 新井白石と室鳩巣を教える 「木門」学派とも。
新井白石 政治改革を行う 「正徳の治」あまり成功せず。自伝「折りたく柴の記」
室鳩巣(むろきゅうそう) 白石の推薦で将軍吉宗に教える。


[四国で発展した朱子学 南学]
南村梅軒 土佐で朱子学を起こした。 谷時中を教える。
谷時中(たにじちゅう) 南学を大成
野中兼山 谷時中の弟子 土佐藩家老 藩政改革を推進
山崎闇斎(やまざきあんさい) 谷時中の弟子 神道と朱子学を融合し、垂加神道という道徳的な神道を設立。


[儒教なのに批判的 幕府ににらまれがち 陽明学]
儒学だが、「知行合一」を説き、実践を重んじる。ので、幕府に批判的である。ゆえに陽明学者の行く末は大抵よくない。
中江藤樹 近江聖人といわれる。 日本の陽明学の祖
熊沢蕃山(くまざわばんざん) 中江藤樹の弟子 経済政策論の「大学或問」で、武士の帰農・参勤交代の緩和を主張して幕政批判の罪で幽閉された。
大塩平八郎 幕末の陽明学者 なんといっても武士なのに幕府に反旗を翻そうとしたことで有名。私塾「洗心洞」


[孔子に帰ろうとする 古学派]
朱子学・陽明学を批判し、原典に帰ろうとする。
やはり処罰の対象となるが、将軍吉宗の教師となったこともあった。
流派がやたら多い。が、細かい点で何が違うのかよく分からない。

山鹿素行(やまがそこう) 孔子に帰ろうとして朱子学を批判 「聖教要録」赤穂に流されて兵学を教えた。赤穂浪士はこの流れをくむ。

伊藤仁斎・東涯(じんさい・とうがい) 親子 孔子孟子の原典にあたる「古義学」を唱える。塾「古義堂」

荻生徂徠(おぎゅうそらい) 経世論の本が有名「政談」 武士の土着を説く。吉宗の教師 「古文辞学」を始める。
太宰春台(だざいしゅんだい) 徂徠の弟子。「経済録」経世論を発展させる。


【町人も勉学に励む「心学」】
懐徳堂(かいとくどう) 大阪にあった町人出資の朱子学・陽明学の町人の入れる塾。
石田梅岩(いしだばいがん) 儒教・仏教・神道の融合 町人の生き方を教える。正直・倹約・堪忍を説く。京都。


【意外にも儒教以外の他の学問も発展した】
江戸時代の人たちは学問好きであったらしく、役に立つ本草学(博物学) 農学のほか、数学もかなりのレベルまで発展。聞かれます。

[本草学(薬物学)]
貝原益軒(かいばらえきけん) 「大和本草(やまとほんぞう)」本草学の基礎
稲生若水(いのうじゃくすい) 「庶物類纂(しょぶつるいさん)」博物学的本草学の大著

[農学]
宮崎安貞(みやざきやすさだ) 「農業全書」農業技術を記す 体系的農学書 武士なのに帰農した。
大蔵永常(おおくらながつね)「農具便利論」(農具の紹介 図入り)
「広益国産考」(お金になる作物を紹介して殖産興業を図る。お茶とか)

[数学]
吉田光由(よしだみつよし) 「塵劫記」(問題集)
関孝和(せきたかかず) 「発微算法」(代数計算)
安井算哲(やすいさんてつ)天体観測で「貞享暦」を作る。

[医学]
山脇東洋(やまわきとうよう)解剖図巻「蔵志」

[国文学]
北村季吟(きたむらきぎん)「源氏物語湖月抄」
*日本古来の道を探る国学に発展していった。
賀茂真淵(かものまぶち)「万葉考」
本居宣長(もとおりのりなが)「古事記伝」
平田篤胤(ひらたあつたね)復古神道を唱えて国粋主義 尊王攘夷に影響

[歴史書]
徳川光圀(とくがわみつくに)「大日本史」(水戸のお殿様 「黄門様」はこの人)

[洋学]
*西洋の学術を学ぶ。基本自然科学
ただし名前が変わっていく。蛮学(南蛮)→蘭学(オランダ)→洋学(英独仏)

新井白石(正徳の治でも出てきた学者 なぜこの人が?長崎貿易を衰退させた人だ。)
日本に布教のため密入国した宣教師シドッチを尋問していろいろと西洋事情を聞き書きした。ただし幕府内で限られた人しか読めなかった。 「西洋紀聞」(西洋の地理・風俗) 「采覧異言」(世界地理)
青木昆陽(あおきこんよう) さつま芋を普及させる。(飢饉対策になった) 吉宗の命令でオランダ語を学ぶ。
前野良沢&杉田玄白 解剖書を翻訳「解体新書」 苦労して和訳。あまりにも苦労した苦労話を「蘭学事始め」に記した。(「一文に数日かかった」とか。)
大槻玄沢(おおつきげんたく) オランダ語入門書「蘭学階梯」 塾「芝蘭堂(しらんどう)」
稲村三伯(いなむらさんぱく) オランダ語辞書「ハルマ和解」
志筑忠雄(しづきただお) 天文学・物理学の訳書「歴象新書」
平賀源内(ひらがげんない)本草学者・物理学者・戯作者 エレキテルの実験 石綿の発明など。多芸多才で有名。

*この時代は翻訳するだけで歴史に名が残るほどの大事業。だから…翻訳所を作る。
1811 蛮書和解御用 政府によるオランダ書の翻訳局。高橋景保(シーボルトに地図を渡した人)が提案。幕府末期で外国ともめていた頃。名前がよく変わる。
→1855「洋学」→「蕃書調所」→「洋書調べ所」→「開成所」→「開成学校」→1867幕府滅亡→1869「大学校」→1877「東京大学」
というわけで、東京大学の元となる。旗本の子弟や藩士が英学・蘭学・科学技術を習得。

【幕府歴史の流れ】
一口に幕府といっても、ずっと同じではない。
文化も違うし、後半は何度も改革も起こる。その流れ。

【寛永文化(初期)】
幕藩体制の確立期
戦国の気風が残ってきらびやか
権現造りの「日光東照宮」

徳川初代三代が基礎を築く。

【元禄文化】
華麗な町人文化
尾形光琳「杜若図屏風」「紅白梅図屏風」「八橋蒔絵螺鈿硯箱」 菱川師宣「見返り美人図」 友禅染 

「4代家綱」由井正雪の乱があり、末期養子の禁をゆるめる。殉死も禁止し、戦国の気風を取り除き、文治政治に転換させる。保科正行が補佐
「5代綱吉」生類憐みの令とか、側用人柳沢吉保とか、荻原重秀が金を少なくした元禄小判を作ったりとか、が大変評判良くない。

「正徳の治」6代7代で新井白石の改革
やたら体面にこだわる改革を行う。が、生類憐みの令は一番に取り消す。
・朝鮮通信使の待遇の簡素化
・正徳小判の鋳造 綱吉が金を減らした小判の金の含有量を戻した。
・海舶互市新例で、長崎貿易を制限し、衰退させる。
・閑院宮家の設立

「享保の改革」8代吉宗の改革
吉宗のあだ名は「米将軍」 米価の安定に力を入れ、税金も重くした。
・年貢重く「五公五民」 検見法→定免法(作柄にかかわらず税率一定へ 安定収入)
・上げ米の制 税収が足りないので米を上納させて、代わりに参勤交代の期間を短くした。
・足高(たしだか)の制 地位の低いものを役につけるとき、その間だけ給料の不足分を支給する。人材登用
・倹約令 使う量を減らした。大奥の大量解雇とか。
・株仲間・米市場公認(株仲間市場を公認した。座を認めたのは田沼意次)
・目安箱(将軍が直接読むので意見を言える。)
・町火消
・小石川養生所(薬草を育てる)
・公事方御定書 裁判の基準を明確化 大岡裁きで有名な大岡忠相があたる。
・漢訳本輸入制限の緩和 「漢訳洋書」は、中国経由の西洋の本 新しい知識が得られた。

1732 享保の飢饉 長雨とウンカの被害 西国で死者200万人 米の買い占めがあったために米価高騰 打ちこわしが起こる。


【化政文化(動乱目前)】
本が多い。絵が少ない。
本は「黄表紙」(風刺) 「洒落本」(遊里小説) 「滑稽本」(庶民の滑稽会話)
風刺をすると弾圧された。手鎖をくらった山東京伝(洒落本・黄表紙)と財産没収をくらった版元の蔦屋(現ビデオ屋と同名)が有名。松平定信時代に弾圧。
川柳も始まる。(柄井川柳が始めたので川柳)

「田沼時代」老中田沼意次の改革 経済政策は偉かったが、浅間山噴火の天明の飢饉で無対策だったので、民衆にものすごく評判が悪かった。

・幕府の専売制(「座」) 銅・鉄・真鍮・朝鮮人参などの専売制を設け、「座」をくませた。
・株仲間も公認 税金(運上・冥加)をとった。
・南鐐二朱銀(なんりょうにしゅぎん) 金本位制にしようとして、銀の計数貨幣(重さではなく数で計る)を作った。
・印旛沼・手賀沼の干拓 新田開発 商人資本を利用しようとしたが失敗
・蝦夷地開発計画 工藤平助「赤蝦夷風説孝」 最上徳内・蝦夷地探査
*商人を重く用いたために賄賂が横行した。
天明の大飢饉後に失脚

1782-87天明の大飢饉  長雨 浅間山噴火 冷害 水害による大飢饉 東北地方がひどかった。

「寛政の改革」松平定信による改革
松平定信は飢饉対策で実績を上げて幕政に呼ばれた。
農村復興と飢饉対策、堅苦しい言葉が特徴。
統制が厳しすぎて評判が悪かった。
*嫌われている証拠「白河の 清きに魚住みかねて 元の濁りの 田沼こひしき(松平定信は元白河藩主 田沼は田沼意次のこと)」
・囲い米 社倉 義倉 (飢饉に備えて米を貯える。)
・江戸に流れている農民を農村に返す「旧里帰農令」
・七分積み金 町費を節約させ、その7割を低利で貧民に融資する
・人足寄場 無宿人に職業訓練を付けて教化する。治安対策にもなる
・寛政異学の禁 上野の聖堂学問所は林家の家塾であったが幕府直轄にして整備。のちに「昌平坂学問所」と改名された。朱子学以外を教えることを禁止。柴野栗山が提案した。
・海防を唱えた林子平の「海国兵談」を発禁&林は蟄居。しかし海防は強化。
・棄捐令 札差の借金のチャラを強制した。


「大御所政治」(1793~1841)
11代家斉(いえなり 一ツ橋家出身)が直接政治を取る。大奥がとても華やかだったので有名。社会不安増大
・関東取締出役(かんとうとりしまりしゅつやく)治安が悪くなったのでこういう役職を設けて関東の警察機能を強化した。

*1837大塩平八郎の乱 大塩平八郎は朱子学者で「洗心洞」という塾を開いて先生をしていたが、幕府の天保の飢饉への対応に不満を抱き、蔵書を売り払って蜂起したが密告されてすぐに捕まった。農民の一揆は多かったが、武士の義憤に駆られての蜂起は大変珍しかったので、影響が大きかった。同年大塩の門弟を名乗る男が「生田万の乱」という代官所襲撃事件を起こしている。


「天保の改革」(1841~1843)
老中水野忠邦の改革。株仲間の解散で物価を上げてしまうなど、失政が多い。言葉ややり方がちょっと単純。
・人返しの法 寛政の改革の「旧里帰農令」と同じだが名前が違う。
・棄捐令 これも寛政の改革と似てる。札差の借金を無利子にさせたりした。
・株仲間解散→物価を下げるためだったが、かえって上がった。
・倹約令→景気を良くするためには消費を盛り立てないといけないのに逆である。
・上知令 江戸・大阪周辺の土地を幕領にして幕府の収入を上げようと計画したが、土地を取られそうになった旗本・大名たちの大反対で、水野忠邦の方が追い出されて改革終了。
*このとき外国船がたびたび入港したので、取り締まったり、アヘン戦争で中国が負けると取締りを緩めたりした。


[ここで外国船何隻来たか、幕府はどんな手を打ったかをおさらい]
基本幕府は外国船を来させたくない。鎖国だからである。
しかし日本は捕鯨船の補給地として便利だったために船がたびたび来た。
国内なら、幕府の命令なら鎖国なのに流れ着いた難破船の乗組員を皆殺しにしても、大名行列を止めたという理由で通行人を殺しても何ら罪ではないが、
列強が植民地の奪い合いをしているこの時期には、戦争の口実を与える危険行為である。
アヘン戦争で中国が負けると、幕府の態度は軟化したが、
そうすると今度は国内で、「攘夷」(外国人を追い出す)運動が盛んになって、反対に開国運動も起こったりして、武力と理屈を磨いているのに使う機会のない武士たちが大勢この運動に身を投じた。
最後には不平等条約の締結で終わり、この条約の改正は明治まで持ち越された。

①田沼の対応→蝦夷地の開拓を計画・調査 
工藤平助 「赤蝦夷風説孝」→田沼意次 蝦夷地の開拓を計画
最上徳内 千島を調べる

②寛政の改革の頃 松平定信の対応→弾圧 しかし調査 東北海道を幕府が召し上げる
林子平「三国通覧図説」「開国兵談」→海防の必要性を訴えると蟄居 しかし幕府は海防強化
近藤重蔵・最上徳内 択捉島を調べる
東蝦夷地を幕府直轄地にする
伊能忠敬も蝦夷地を調べる
[ロシア]大黒屋光太夫(船頭)が遭難していたので、ロシアのラクスマンが根室に送り届けてついでに通商を要求した。
許可されたと思い込んで翌年レザノフが長崎に行ったが追い返された。

③大御所政治(文化文政)のころ→軟化しかし北海道を召し上げ
「文化の撫恤令(薪水給与令)」→漂流船には薪水を給与してよし。
蝦夷地をすべて直轄地に
間宮林蔵 樺太、間宮海峡を探査

*このころロシアとイギリスともめる
ロシア:ロシア南下政策のためにもめているが平和を保つ
1804レザノフが通商のため長崎に出向いたのに退去させられる。
→1811ゴローウニン事件 ロシア人ゴローウニンが千島測量中に捕らえられて幽閉
→1813高田屋嘉兵衛 択捉航路開拓中にロシア人に捕らえられるが、ゴローウニンと交換

イギリス:小競り合いあり 捕鯨船の補給基地に日本が欲しかった。
1808フェートン号事件:オランダ船を追って軍艦フェートン号が長崎に侵入 食料・薪水を強奪した。
1824 イギリスの捕鯨船が常陸・薩摩に上陸して乱暴を働く

結果幕府は硬化。
1825異国船打ち払い令 中国船・オランダ船以外は撃退せよと命令。

幕府は正しかった(と幕府は思った事件)。
1828シーボルト事件 ドイツ人シーボルトが長崎の出島で「鳴滝塾」を開いて医学を伝授。たくさんの弟子に西洋の医学・博物学を授けると同時に優秀な弟子から日本についての知識を吸収した。弟子の高橋景保がお礼に日本の地図をこっそり渡したが、帰路シーボルトの船が遭難して地図を渡したことがばれた。日本地図は国防のため持ち出し禁止 景保投獄・獄死。シーボルト国外退去

④天保の頃 水野忠邦の天保の改革の頃→外国の方が強いので幕府の態度軟化
1837モリソン号事件 日本の漂流民を助けたアメリカの船が届けついでに通商を要求しようと浦賀と鹿児島に近づくと異国船打ち払い令によりどちらでも撃退された。
1839蛮社の獄 外国を擁護するものを弾圧 蘭学者が逮捕された。
シーボルトの弟子(高野長英)と、モリソン号事件を無謀だと批判した(「慎機論」)絵もうまい洋学にも明るい三河藩家老(渡辺崋山) どちらも死亡。

ところが
1842 アヘン戦争 中国敗北 
1842 天保の薪水給与令 異国船打ち払い令を取り消して「文化の撫恤令」に戻した。

⑤幕末20年 ペリー来航後開国
1853 ペリー来航
1854 日米和親条約(不平等) 下田・函館を開港 なぜか英・露・蘭とも同種を締結。
最恵国待遇(別の国に許した条件はこの国にも許す)
1858 日米修好通商条約(大変不平等) 領事裁判権認める(外国人は治外法権) 関税自主権なし(関税を日本が決められない) これらを取り戻すのに明治までかかった。
神奈川(横浜)・長崎・新潟・兵庫(神戸)の開港
⇒これがひどい抗争を産んで江戸幕府は滅びる。「幕末」へ続く。

輸入 毛織物・綿織物 武器 軍艦
輸出 生糸 茶


【幕末】
何しろ政情不安なので、改革また改革の繰り返し。
特に最後の方は2年ごとに老中が入れ替わり、しかも暗殺や襲撃で変わるという動乱期。
1854 日米和親条約 ハリス着任

①堀田正睦(ほったまさよし)(1855~57)
ハリスに日米修好通商条約を結ぶように迫られ、老中は孝明天皇の勅許を得ようとして京都へ行ったが天皇がくれなかった。(孝明天皇は後に公武合体のため妹を将軍に嫁がせるが、条約には反対した。誰だって不平等条約には反対するだろうが、外圧のことは無視していた。)そして辞任。

②井伊直弼(いいなおすけ)(1858~1860)
1855 日米修好通商条約
勅許なしで強引に調印した。尊王攘夷派の大反発を招いた。
*このとき文書をアメリカに持っていくため、咸臨丸がアメリカへ。艦長勝海舟。オランダから購入した木造軍艦だったが、太平洋の横断に成功。

1858 将軍継嗣問題に決着 徳川慶福(よしとみ)が14代将軍家茂に。
13代将軍(篤姫の夫)に子供がないので、将軍を誰にするかでもめていた。
強硬派の慶喜(一ツ橋派・一ツ橋家)と、公武合体派の家茂(南紀派・紀伊藩主)で争っていたが、井伊直弼の大老就任で決まった。井伊直弼は南紀派。

1858 安政の大獄
井伊直弼に反対するもの(主に条約反対を唱える攘夷派)を100余人処断。
有名なのは「吉田松陰(よしだしょういん)」(松下村塾の先生)の処刑。
なぜこの人が有名かというと、この門下生が長州(山口)の攘夷派となり、討幕の中心となって明治政府を作ったからである。高杉晋作や伊藤博文が有名。

1860 桜田門外の変
井伊直弼の安政の大獄に怒った水戸の浪士と薩摩の浪士が井伊直弼を桜田門の外で暗殺。

③安藤信正(1860~1862)
1860 五品江戸廻送令
開国後、銀が大量に国外に流出した。そして、大量の物資(雑穀・菜種・蝋・呉服・生糸)も国外に流れた。その結果、物資が足りない上に物価が上がるという、深刻な不景気を招く。
これを防ぐべく、この5品を直売せず、問屋を通す決まりを作って、ついでに江戸の問屋を保護した。

1862 和宮降嫁
公武合体のため、許嫁のいる孝明天皇の妹和宮と将軍家茂を結婚させる。
尊王攘夷派が怒る。

1862 坂下門外の変
和宮降嫁に怒った尊王攘夷派の志士が今度は坂下門の外で安藤信正を襲撃。
安藤信正失脚。

④文久の改革 島津久光(1862~1864)
雄藩薩摩の殿様の父親が、勅命(天皇の命令書)をかかげて藩兵を率いて幕府の改革にやってくる。薩摩は財政再建に成功して多大な力を持っていた。公武合体を目指すが、結局藩の力を強めて、幕府の力を弱めた。
・参勤交代の短縮 妻子の帰国も許可
・留学生派遣
・「蕃書調所」→「洋書調べ所」(名前を変える)
・西洋式陸軍
・松平容保(かたもり)を京都守護に(尊王攘夷派の強硬取り締まり)
*藩主の父親がこのように幕府に食い込んでいたので、長州討伐で薩摩は長州を攻めた。
長州を攻めるあたりまで島津さんが改革の腕を振るう。

*島津は攘夷派だったので、攘夷派が次々と攘夷(外国人の排斥)を行動に移した。
そして手ひどい報復を受けて、外国人には適わないという事を悟り、外国の知識を受け入れようとする開国派に転じた。
つまり、攘夷を実行していた藩が、早く開国派に転じることができた。

1862 生麦事件 薩摩藩が大名行列を遮ったイギリス人を殺傷。
→報復 1863 薩英戦争 イギリス艦隊が鹿児島湾で砲撃。後に講和。

1863 長州藩外国船砲撃事件 朝廷が「攘夷決行日」といった日に、馬鹿正直に下関を通る外国船(フランス・アメリカ・オランダ)を砲撃。
→報復 1864 四国艦隊下関砲撃事件 英・仏・米・蘭の四か国が連合艦隊を作って下関を攻撃。下関が占拠される。長州で開国派が台頭。

尊王攘夷派の舞台は京都 朝廷を取り込むのがキーとなるため
1863 八月十八日の政変 長州が京都から追い出される。長州派の公家も追い出される。
1864 池田屋事件 新選組が池田屋で尊王攘夷派を殺傷
1864 禁門の変 池田屋事件をうけて長州勢が京都に攻め上るが薩摩・会津・桑名の藩兵に敗れて敗走。 以後長州は京都での勢力を失う。そのうえ、薩摩との仲も悪くなる。
*つまりは京都で2回争いがあり、2回とも長州が負ける。1回目は政変・追放で済んだが、2回目は戦闘があって負ける。

1864 長州征討(1次) 禁門の変の後、幕府が不服従な長州を攻めた。薩摩藩も入る。ちょうど討伐を受けている最中に長州は四国艦隊下関砲撃事件で外国艦隊に攻められて、下手を打った急進派の勢力が弱まり、保守派が強くなった。よって恭順。薩摩藩と長州藩の仲は悪くなる。

1865 条約勅許 天皇が1858年=7年も前の修好条約をやっと認める。でも近場の兵庫開港は認めなかった。(ただし認められなくてもすでに神戸は開港済み)

1866 薩長連合 仲が悪かったが、日本の2大勢力である薩摩と長州が仲直りすれば進歩を妨げて邪魔でしかない幕府も倒せる(討幕)と、誰もが望むところだったが、それを坂本竜馬が成し遂げる。彼は貿易をやりたがる人間らしく、利益で2藩をつないだ。外国貿易のルートを持つ薩摩藩が外国製の武器を長州に都合し、代わりに長州藩が兵糧米を薩摩藩に渡した。西郷隆盛(薩)&木戸孝允(長) 仲介 坂本竜馬(土佐)

1866 改税約書 外圧に弱い幕府が英・仏・米・蘭と輸入関税を20%→5%に引き下げる条約を結ぶ。日本植民地化の危機迫る。

1866 長州征討(2次) 幕府再び長州を攻める。この時長州は負けなかった。まず第一に、強硬派の高杉晋作(「奇兵隊」を組織して庶民も混ぜた外国式の軍隊を作った)が長州の実権を握っていて、武力的に強かった。第二に、攻める側の薩摩がすでに薩長連合で長州側についていた。幕府連戦連敗。将軍病死をきっかけに撤退。失敗するくらいなら最初からやらないほうがよかった。武士集団の幕府の権威は失墜する。
次の将軍には、将軍後継争いで負けていた、攘夷派の「徳川慶喜」がつく。

1867 幕府が倒れる運命の年 いろんなことが急激に動く。
・徳川慶喜「慶応の改革」(軍備拡充 やった年に幕府倒れる。ゆえにあまり出てこない)
・兵庫開港勅許 ついに天皇も外圧に屈する。
・「ええじゃないか」踊りの大発生。あまりにも不景気で社会も不穏なので自暴自棄になった民衆が「お札が降った」と踊り狂う。無法地帯発生。討幕運動が進展。
・討幕の密勅 天皇が「討幕せよ」というお墨付きを与える。薩摩・長州・安芸が受ける。
同じ日に先手を打って幕府が大政奉還した。

◎そしてついに「大政奉還」
戦争することなく、幕府が政権を天皇に返すという大英断。
ただし将軍慶喜のつもりでは、政治力のない朝廷は幕府に泣きついて、結局将軍家が権力を握るだろうという心づもりだったらしいが、「小御所会議」でそのもくろみは外れる。幕臣たちは静岡の小さな領地に押し込めになり、討幕に大きく力のあった薩摩・長州が明治政府で力を持って「藩閥政治」と呼ばれ、問題になるが、選挙制度のためにしばらくすると関係なくなる。

将軍が退けられたことに納得いかない忠義心の熱い藩(例えば新撰組を作った松平容保の会津藩)は、北上する政府軍にところどころで抵抗を続けた。
ちなみにこの時抵抗を見せた者は、たとえ優秀でも出世することはなかった。
北海道で抵抗した榎本武明は例外的に重く用いられるが、彼は投降したのである。

[社会不安が増大すると出てくるのは新宗教 幕末編]
黒住教 朝日を拝して陽気の修業を行う。黒住宗忠(岡山の神官)
天理教 天理王命を信仰 相互扶助と奉仕の「陽気ぐらし」の理想世界 中山みき(農婦)
金光教 天地金之神を信仰 川手文治郎(農民)
*これらの宗教は今でもあります。なので、変わった名前だと思っても絶対に一言半句も侮辱的なことを言わないこと。聞こえる場所に信者の方がいる可能性があります。

明治維新以後

ここからは10年刻みです。
10年に一度、年号、その後その10年分の出来事の単語を列挙いたします。

1867年 将軍の イチは空しく(1867) 大政奉還
五カ条のご誓文 五榜の掲示
国家神道体制
2官6省
北海道


1877年 西南戦争
廃藩置県
徴兵告諭
地租改正
地租改正反対一揆・血税一揆
士族の授産・家禄奉還・金禄公債・士族の反乱
徴兵令
征韓論破れる
ガラ紡
愛国公党・民撰議院設立の建白書・立志社
大阪会議(暫時立憲体制樹立の詔・板垣&木戸の政界入り)
江華条約(朝鮮開国・日朝修好条規)
西南戦争
大久保利通暗殺
(都市)地方官(大阪会議)→大区・小区→三新法→市制・町村制(ドイツ人モッセ)
*東京日日新聞・福地源一郎・政府御用


1885年 天津条約(日清戦争前の紳士協定) 大阪事件
国会期成同盟
集会条例
明治14年の政変(大隈下野)
国会開設の勅諭
自由党(板垣退助)
松方デフレ・紙幣整理(小作農増える。地租は金納定額・小作料は現物ゆえにデフレで地主は豊かになった。)
私擬憲法
軍人勅諭
日本銀行
壬午軍乱(高宗の父が閔妃に敗れる。中国勝利)
大阪紡績会社(イギリス製機械・蒸気機関)
甲申事変(改革派の金玉均が閔妃に敗れる。金玉均日本へ亡命)
天津条約
銀本位制(銀兌換銀行券)
大阪事件
内閣制度(初代伊藤博文)(太政官制に代わる)
ノルマントン号事件・三大事件建白運動(井上馨への反発)
大同団結運動(星亨)
保安条例
市制町村制
枢密院・憲法草案(ロエスレル・伊藤博文)
大日本帝国憲法・衆議院選挙法(同日文相森有礼殺される)
黒田清隆・超然主義

1894年 日清戦争
「民法出でて忠孝滅ぶ」(ボアソナード)→施行延期
大隈外相の条約改正案がロンドンタイムスに流出
日清戦争がはじまるまで3回議会との攻防(予算案で)
1回(山縣有朋)「経費節減・民力休養」自由党の切り崩し
2回(松方正義)大津事件「蛮勇演説」選挙干渉
3回(伊藤博文)元勲総出 
日清戦争前のため日英通商航海条約(外相陸奥宗光)不平等条約一部改正(開戦外交)
甲午農民戦争
日清戦争
下関条約
三国干渉
閔妃殺害
貨幣法(金本位制)
労働組合期成会(高野房太郎)
隈板内閣(憲政党)
文官任用令の改正(官僚を試験で選ぶ)
八幡製鉄所
社会主義研究会・「日本の下層社会」・ストライキ
*社会問題研究会→社会主義研究会→社会主義協会(1900)→社会民主党(1901)の流れ。
(研究会・協会・党)
*総合雑誌
「脱亜論」欧化主義 
陸羯南「日本」国民主義(国民の統一・国家の利益)
高山樗牛「太陽」日本主義(日本的伝統の尊重。国粋主義の一種。)
政教社・三宅雪嶺「日本人」国粋主義(日本的伝統の尊重)(⇔欧化政策)
民友社・徳富蘇峰「国民の友」平民主義(平民の力で近代化)

1904年 日露戦争
社会主義協会・治安警察法・社会民主党即日禁止
桂園時代
義和団の乱・北清事変・北京議定書
立憲政友会
足尾鉱毒事件
日英同盟
日露戦争
第一次日韓協約
桂・タフト協定(アメリカ朝鮮支配を認める)
ポーツマス条約
第2次日韓協約(外交権掌握)
統監府
鉄道国有法
日本社会党
ハーグ密使事件
第3次日韓協約
戊辰詔書(享楽主義をいましめる)
伊藤博文暗殺

1914年 第一次世界大戦
大逆事件
韓国併合
関税自主権回復
工場法
大正へ
2個師団増設案否決・帷幄上奏・西園寺内閣総辞職
第一次護憲運動「閥族打破・憲政擁護」
大正政変→桂園時代終わる
桂内閣総辞職(立憲同志会)
山本内閣で軍部大臣現役武官制改正
立憲同志会
シーメンス事件
第一次世界大戦
21カ条の要求(大隈重信)(5月9日は国恥記念日)
大隈内閣狙撃
憲政会
寺内内閣
西原借款
石井ライシング協定
8・8艦隊
シベリア出兵(日本陸軍最初の敗北)
米騒動
原内閣
大日本労働総同盟友愛会
3・1独立運動
ヴェルサイユ条約
*ロシア革命も1917年


1925年  日ソ基本条約 治安維持法 普通選挙法
同盟と名のつく結成が多い
国際連盟加入
新婦人協会
日本社会主義同盟
戦後恐慌
ワシントン会議・海軍軍縮条約・9カ国条約
日本共産党
関東大震災(山本内閣ができてすぐ。虎の門事件で引責辞任)
亀戸事件・甘粕事件
清浦圭吾内閣から第2次護憲運動 護憲三派内閣の加藤高明内閣成立
日ソ基本条約
治安維持法
普通選挙法
大正から昭和へ
金融恐慌(若槻礼次郎内閣の蔵相片岡が失言)
モラトリアム(田中義一内閣)
田中義一はアジアには強硬政策(首相が外相・田中外交)
山東出兵
東方会議
普通選挙実施
満州某重大事件(張作霖爆破事件)
治安維持法改正
満州某重大事件の責任を取って田中内閣総辞職→浜口内閣


1936年 2・26事件
ロンドン海軍軍縮会議
統帥権干犯問題
浜口内閣 金輸出解禁・昭和恐慌
桜会の浜口首相暗殺
三月事件(桜会)
満州事変(柳条湖事件)
十月事件
犬養毅 金輸出再禁止
血盟団の井上準之助暗殺
リットン調査団
満州国建国
5・15事件→犬養毅暗殺・岡田啓介内閣
満州国承認(日満議定書)
滝川事件(刑法の学者を罷免)
ワシントン海軍軍縮条約を破棄
天皇機関説問題(美濃部達吉追われる)
国体明徴声明
ロンドン海軍軍縮会議脱退
2・26事件
日独防共協定
盧溝橋事件・上海事変(日中戦争の始まり)
日独伊防共協定
南京大虐殺(蒋介石は重慶へ)
第一次近衛声明(「国民政府を相手とせず」)
国家総動員法
張鼓峰事件(対ロシア第一戦)
第二次近衛声明(東亜新秩序建設)
第三次近衛声明(近衛三原則・善隣友好共同防共経済提携等々)
ノモンハン事件(対ロシア第2戦)

1945年 終戦
汪兆銘の親日政府樹立
北部仏印へ進駐
日独伊三国同盟
大政翼賛会
治安維持法改正(予防拘禁制度)
日ソ中立条約
太平洋戦争
ハル・ノート
シンガポール占領
翼賛選挙
ミッドウェー海戦
ガダルカナル島撤退
大東亜会議
カイロ会談(日本の植民地の剥奪)
学徒出陣
ヤルタ会談(ソ連の対日参戦)
ソ連対日参戦
ドイツ降伏
国際連合
ポツダム宣言
終戦
財閥解体
金融緊急措置令(預金封鎖・インフレ抑止は一時的)
国家と神道との分離
農地改革
労働組合法
片山(社会主義)→芦田(民主党・昭和疑獄事件)→吉田
極東国際軍事裁判(東条英機処刑・近衛文麿服毒自殺)
日本国憲法
日本労働組合総同盟・全日本産業別労働組合会議
教育基本法(6・3・3制)
労働基準法・独占禁止法・地方自治法
経済安定9原則
ドッジライン 単一為替レート設定
下山事件・三鷹事件・松川事件

1951年 サンフランシスコ平和条約
警察予備隊
レッドパージ
日本労働組合総評議会(総評)
朝鮮戦争特需
公職追放解除
ILO〈労働活動の自由〉加盟
サンフランシスコ平和条約・日米安全保障条約
日米行政協定(米軍基地へ協力する)
GHQ廃止
日華平和条約(台湾と国交回復)
メーデー・破壊活動防止法
IMF(国際通貨基金)・世界銀行加入
MSA協定(日本も防衛力を上げる)(自衛隊)
第五福竜丸被ばく
日本民主党結成 党首鳩山一郎 政権も吉田から鳩山へ
GATT加入
原子力
日ソ国交回復共同宣言
国連加盟
*3種の神器


1965年 日韓基本条約 (先進国の仲間入り・石炭から石油へ)
新日米安保条約(岸信介首相)
貿易の自由化進む
国際通貨基金(IMF)8条国に
経済協力開発機構(OECD)に加盟
名神高速道路開通・東海道新幹線開通
東京オリンピック
日韓基本条約
革新派知事
公害病
小笠原諸島復帰
*3C

1972年 日中国交回復 世界第2位の経済大国
大阪万博
沖縄返還(佐藤首相)佐藤・ニクソン会談
日中共同声明(田中角栄)
第一回サミット(石油ショックに対抗するため)
ロッキード事件
日中平和友好条約
東京サミット(大平首相)

1989年 消費税
NTT
男女雇用機会均等法
リクルート事件
消費税
自民党惨敗

1995年 阪神淡路大震災
PKO協力法(湾岸戦争後)
阪神・淡路大震災
中国核実験
オウム真理教
*イラン・イラク戦争→湾岸戦争→イラク戦争

日本史B

参考文献 「日本の歴史 小学館 全8巻」
マンガの日本史はたくさんありますが、小学館の全8巻の版がとても分かりやすくて、本質から外れず、しかもほろりとするストーリーが随所にあります。
縄文時代の話では、山で生きる少年が交易に来た人について行き、海辺で生きるようになり、大きくなってから餓えて困っていた山の村の人々を、海の村に連れて行く…といった具合で、移動を繰り返していたこと、どんな道具を使っていたか、何を食べていたか、すでに木は生えていたこと、交易があったことなどが、むだなく自然に頭に入ります。
古いですが、きっと図書館に置いてあると思います。2回か3回読めば十分なので、わざわざ買うことはないと思います。古くても、歴史で教えられることはそんなに変わりません。まんがだと自然にストーリーも頭に入ります。
もちろん教科書で使う図表もいっぱい書き込んで何度も見返すことをお勧めします。
解説図や表でみるのが文章を読むよりも早く理解できます。何となく目に入っていると、いざというときに思い出せるという利点もあります。

日本史B

  • 随筆・エッセイ
  • 短編
  • 時代・歴史
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-03-16

CC BY-NC-ND
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CC BY-NC-ND
  1. 100年に1度の年号暗記!これで歴史に杭を打つ!
  2. 石器時代「寒くて石は割る」(~1万3千年前)
  3. 縄文時代「寒くない。石は磨く。壺も焼く。」(1万3千年前~紀元前4C)
  4. 弥生時代「米作り。身分できる。」(前4C~3C)
  5. 古墳時代「国ができて大きなお墓を作る。」(3C後半~7C)
  6. 鎌倉時代(1192~1333)  「始めての武家社会」
  7. 室町時代(1333~)  「幕府支配の空白地帯出現『惣』が始まる」
  8. 戦国時代 「下剋上 強いものが勝ち、弱いものは滅びる。」
  9. 江戸時代(1600~1867)  儒学大好き封建制度 上が絶対 でも平和
  10. 明治維新以後