小説 彼~He~
小説 彼女~Her~ と対になっています。
彼の視線から書いてみました。 両方読んでいただければ幸いです。
1
今日は朝からついていない。出社すると兄の仕事を押し付けられた。兄には、先月2人目の子供が生まれた。今日は妻の体調が優れないと言って休暇をとった。そこで会長である父から私に命令が下った。
「お前は暇だろう。今後の参考にもなる。兄さんの仕事を代わるように」
私だって仕事がある。決して暇ではない。
つまり今私は、本来兄が座る予定のこの席、入社試験の面接官の席に座っている。
実家での私の立ち居地は悪くなる一方だ。先日兄の子のお披露目会が実家で行われた。せっかくの週末、自宅でのんびりしようと思っていたが、母がどうしてもと言うので出向いてみれば、予想通りの結果となった。父は
「お前はいつになったら落ち着くのだ。もう30を過ぎただろう。いいかげん、しっかりしなさい」
と言ってきた。私は1度目の結婚に失敗した。しかも妻に浮気されての離婚だ。父には面白くなかったようだ。私だって面白くない。いや、私の方がよほど面白くない。
あの離婚からそろそろ2年がたつ。もともと金目当ての女だった。
私の父は、Msホールディングス会長、松井裕「不動産王」と呼ばれている。たいていの人は父の名を知っている。が、その家に伝わる家訓を知る人は少ない。
「土地は歴史を語る。慈しみ、守り、次の世代へ渡すもの。私たちの役目は永遠に続く歴史の鎖の輪にすぎない」そして「自分の生活は自分で面倒を見る」。
確かに家は裕福だが、私自身の収入は同年代サラリーマン平均年収と大差ない。金目当てで近づく人間は私のことを「ケチ」と思っているようだ。はっきり言ってムカつく。
ついでに、この会社での環境も嫌いだ。父は会長社屋ビルの最上階にいる。兄は10階、ネットワーク企画部部長。私は7階、土地開発企画部部長だ。仕事は好きだし誇りを持っている。自分で言うのもなんだが実力・実績問題ないはずだ。だが、周りは私ではなく私の置かれている環境にしか興味を持たない。
しかし、入社試験の面接官などつまらない仕事だ。こんなことなら杉並の再開発現場にでも行って現場監督と話をした方がどんなに有益なことか。
しかもどいつもこいつも似たような格好をしている。まるで金太郎飴のようだ。ドアから同じような顔が入ってくる。話す内容も同じだ。
「御社の志望動機は、湾岸エリア開発という将来性ある・・・・・・」
「御社が展開している杉並区再開発について・・・・・・」
面接官は私の他に人事、経理、から4人来ているので、質問は彼らに任せ私は自分の考えにふけることにした。明日の工事のスケジュールと週末の・・・
「松井君、君も何か質問はないかね?」
突然声をかけられて夢想から呼び戻された。気付くと目の前には、またもやリクルートスーツを着た地味目で華奢な女性が座っていた。その時ふと、からかってやろうという気持ちになりちょっと意地悪な質問を思い立った。
「わが社の再開発事業について興味があるようですね。では、もし、「あなた自身」が計画に参加するとして、具体的に何をしたいと思っているのかな?」
さぁ、マニュアルにはない答えだぞ!!!どうする。
「杉並区についてですが、医療・介護を統合した街づくりを目指すのであれば。人を育てるための学校も必要と考えます。介護・看護職員もですが、例えば柔道整復師なども。また、大変な仕事ですから離職も多いかと思います。福利厚生を考えて24時間保育所を設置するなどせっかく育てた人材を離職させない手段も必要でしょう。また御社は「そのエリアだけですべて賄える街づくり」を目指しているように思われますが、近くに商店街があります。今の状態では「シャッター商店街」と言ったほうがいいかもしれませんが。一緒に再開発する方法はないでしょうか。何か良い方法があれば駅までの広さを開発できるのではと考えます」
一瞬の間があった。この女性はしっかり調べてきているようだ。しかも自分の考えをプラスして答えている。おぉ、他の面接官が一斉に採用に○をつけている。しかも杉並と言えば私が今まさに手掛けている事業ではないか。
興味がわいてきた。もう一押ししてみるか。
「しっかり調べているようですね。だが、今言った商店街「金町商店街」というのが正式名だが商店街会長は今の君の考えには反対だと思うよ。今回の再開発には反対の姿勢だからね」
さあ、どう答える? なぜだろうか、挑発するような質問になってしまった。
「商店街の一角を借り上げてはどうでしょう。例えば医療・介護の相談所を作るのです。堅苦しくならず珈琲でも飲みながら愚痴を言い合うような場です。病院や施設に相談したくても敷居が高くてという方たちの一歩手前にその受け皿となる場をつくるのです。医療介護の悩みを抱えた人は沢山いますから。人が集まれば買い物をする人も増えます。また、そこから再開発エリアを利用する人も出てくるでしょう。ある程度の相乗効果を望めるのではないでしょうか。」
おいおい。確かに筋は通っている。「甘ちゃん」な考えだが。
「そうですね。それは、魅力的な考えかもしれませんね」
なぜかにやにやしながら答えてしまった。
彼女の履歴書を改めて確認してみた。清泉女子大学、頭はいいほうだな。
「質問は以上です。下がっていいですよ」
人事部長の声で面接は終了した。彼女、「鈴木恭子」は一礼をして退席した。
その後の面接で似たような質問をしてみたが、彼女のように、まともな答えは返ってこなかった。再開発エリアの内容や場所すら知らない学生もいた。つまり彼女「鈴木恭子」は当社が第一志望でよく研究してきたということかもしれない。
が、その日は気付くと彼女のことばかり考えていた。いや、彼女のアイデアが今回の再開発事業に生かせないかと考えていた。
2
夏の残暑がのこる9月。人事部で新卒内定者のための「研修会」が行われた。今日の講師は私だ。土地開発企画部、部長として内定者に当部署の仕事内容等々を説明する。ざっくり言えば「当社はこんなにが魅力ある会社ですよ!他社の内定は蹴ってこちらへ来てください!」とお願いするものだ。
媚びを売るようで、なんだかムカつく。
しかし、会場にあの鈴木恭子を見つけた時、彼女だけは当社に来てほしいと思った。
彼女のアイデアを基に今商店街会長と話し合いを持っている。学生の甘い考えと思っていたが、話してみると商店街会長の方が乗り気になり、再開発事業も波に乗り始めている。彼女のような人材は貴重だ。できれば自分の元にほしい。そう、彼女が欲しい。
もともと再開発、街づくりは自分の好きな仕事であり誇りを持っている。いつになく力の入った演説になったようだ。30分後には大きな拍手で終えることができた。彼女、鈴木恭子も拍手をしている。
人事部の音頭のもと今の内容について質疑応答があり、その後グループセッション、最後に簡単なレポートを提出させて本日の研修は終了する。あとで鈴木恭子のレポートを見せてもらおう。と考えていた。
研修終了後、他の学生が仲良く雑談しているのを傍目に鈴木恭子だけが一人帰ろうとしていた。気まぐれなことだが、ここは声を掛けてみようかと思った。
「君、鈴木君だったね。採用されたようだね。おめでとう」
「はい、ありがとうございます。」
「面接の時私と話したこと覚えているかな?杉並区の話をしたのだが」
「はい」
おい、「はい」だけか。話を膨らませろ。
「商店街を巻き込んでというアイデア、なかなかよかったよ。今、先方の会長と話し合っているところだがね。」
「それは良かったです。自分ではあの面接は失敗したと思っていましたので。」
「もともとこういう仕事に興味があったのかな」
「今住んでいるマンションが御社の手掛けた物件だったこともあり、興味を持ちました。」
入社試験の続きのような会話だが、とりあえず、良しとしよう。
「どこだろう」
「品川駅近くの港南です」
「7年前の開発かな」
「そうだと思います。友人のマンションを借りて住んでいます。住んで4年になりますがとても快適です」
会議室にいた学生たちがぞろぞろ出てきた。そろそろ話を切り上げないと。彼女もそわそわし始めている。が、肝心なことを聞かなければ。
「ところで、来年の4月はもちろんうちに入社だろうね」
「はい。そのつもりです。その節は宜しくお願いします。それでは失礼します」
話はここまでということだろう。彼女は一礼をした。
「じゃあ」
私は彼女が他の学生に混ざって出ていくのを見送った。振り向くと人事部の(名前は忘れた)2名が「ここでナンパか?」という顔で私を見ていた。笑顔で「お疲れさま」と言いながらその場を立ち去った。来年4月から彼女と仕事ができる。それは嬉しい報告だった。
10月になり、私をがっかりする報告がきた。彼女「鈴木恭子」は配属希望を「ネットワーク企画部」で出していた。くそ!!なぜだ。しかも兄の部署じゃないか。兄に取られるなど許せない。あれだけの優秀な人材だ。私が欲しい。
とはいえ、希望はあくまでも希望だ。私の立場を利用すればなんとでもなる。私は「鈴木恭子」獲得のために動き出した。そして、それは成功した。
そして4月。めでたく彼女は入社してきた。むろん配属は「土地開発企画部」だ。
入社早々は慣れないこともあり大変そうだったが、3か月もすると他の社員と変わらず
いやそれ以上の働きをするようになった。やはり優秀だ。
3、
7月、杉並区再開発計画が施設本体着工工事開始となった。計画が目に見える形で動き出し始めた。商店街会長との話し合いも順調に進み、商店街内にケアプランセンター等々の相談窓口や介護に必要な技術を教える教室を作った。もちろん珈琲を飲みながら愚痴を言い合える場所も。
今日の視察には彼女、鈴木恭子も連れて行った。もともと彼女のアイデアだ。自分の考えが形となった姿を見せてやりたかった。
タクシーでの移動中、彼女はずっと書類に目を通していた。明日の会議資料のチェックをしているようだ。なんだか気まずい。沈黙はあまり好きではない。私は会話の糸口を探していた。
「近くばかり見ていると車に酔うぞ」
「大丈夫です。車は好きですし、いままで酔ったことはありませんから」
「車、好きなのか」
女性にしては珍しい。
「はい。免許あるのに車持っていないのが残念ですが。多分父の影響です。整備の仕事をしていますので」
「鈴木君、出身は何処だったかな」
「・・・茨城です」
「じゃあ、里帰りは近くていいね」
「・・・はい」
「よく帰るのかな?」
「・・・いいえ」
おいおい、どうしてそう会話が尻つぼみになる。会話は嫌いか。まさか私が嫌いということではないだろうな。私を嫌う者などいない。
運転手の「着きましたよ、正面入口まで行きましょうか?」
という言葉に救われた。楽しい?会話はとりあえず終了。ビジネスモードに切り替え大好きな仕事をすることとなった。
まず現場監督から進捗状況について説明を受け、遅れの出ている部分について指示を出した。彼女はそばで何も見逃さないぞ!という意気込みで聞き、メモを取っている。その後提携予定の病院へ出向いて事務長と会談。工事現場の騒音が問題になっているようだ。駐車場に出入りするダンプも目障りだと言われた。ご指摘については改善策を講じるよう努力します。と答えておいた。あくまで努力だが。
その後は、商店街会長との会談だ。今日一番の目的は彼女を会長に紹介する事にある。今回の件は彼女のアイデアなのだから。
「へぇ、お嬢さんの考えだったんか。やっぱり若い人は考えることが違うね」
「いいえ、私は思い付きを言っただけの事。事業として運用していくためには会長さんや商店街の方々のお力が必要です。今後とも宜しくお願い致します。」
お!ちゃんと相手を持ち上げている。新人にしてはしっかりした会話だ。
「今まで空いていた店を開けただけの事だよ。しかし、介護とか悩んでいる人、ずいぶんいるんだね。今じゃあの店が一番繁盛しているよ!」
と言って会長が笑った。
私と彼女もつられて笑った。会談は終始和やかに進み、楽しい時間はあっという間に過ぎた。
今では商店街のほうがすべて順調に進んでいる。地元の人の要望に応えるのは街づくりの大原則だ。大きな手ごたえを感じて本日の出張は終了した。彼女も嬉しそうにしている。自分のアイデアが実を結んでいることが嬉しいのだろう。だからこそ彼女を連れてきたのだが。
「君のアイデアのお陰でこうもいい方向に進むとは。最初反対していた会長がいまや賛成に回っている」
私は彼女にお礼を言った。
「私は思い付きを言っただけです。事業として軌道に乗せたのは部長のお力です。」
おっと、私のことまで持ち上げ始めた。
「私にまでお世辞を言う必要はないよ。しかし、もっとこの商店街を利用できないだろうか。そうすれば君の言ったように駅までの広さをカバーした大規模な再開発になる」
最後の一言は誰に言ったものではないが、願望がつい言葉になっていた。ふと見ると彼女が真剣に考えているようだった。
「そうですね。最後の件は「宿題」ということにしましょう」
その物言いに私は笑ってしまった。彼女も隣で笑っている。私と彼女、私たちは良いコンビになりそうな気がする。いや良いコンビだ。
帰りは電車を利用した。彼女はまた書類のチェックを始めている。どうやら世間話はあまり好きではないらしい。それとも、ただしないのか。何か会話の糸口を考えた。そうだ
「さっき、メモを取っていただろう。何を書いた。見せてくれないか」
「え・・・・いえ、たいしたことは書いていないので。お見せするようなことは。」
お、頬を染めて恥ずかしがっている。なかなか良い画だ。いや、いい反応だ。
「いいから、私も何か良い考えが浮かぶかもしれない」
「済みません。そういうことをメモしたわけではないのです」
ここまで断られると、なんかじれったい。何をそう隠そうとする。反対に気になるではないか。私に隠し事をするなど許せない。
「いいから見せなさい」
私は命令口調になっていた。
「その、笑わないで頂きたいのですが」
と言いながらやっとノートを取り出した。そこには「スレート」「軒板」「コンパネ」等々書いてあった。現場監督が「納期が遅れて困っている」と言っていた品だ。私は「何だ?これは」という顔をしていたのだろう。恭子がおずおずと言った。
「知らない単語が飛び交っていたので、書き留めておいて後で調べようかと思いまして。すみません」
本当に申し訳なさそうに言う。
「謝ることはない。最初からすべて知っていたら驚きだ。しかし勉強熱心だね。この仕事は好きかね」
「はい」
彼女の目が輝いている。そうかそうか、私もこの仕事を誇りに思っている。今日一番の嬉しい返事だ。私たちは良いコンビになる。これは確信! いや決定だ!!
「説明してあげよう。今後も必要になるからね。知っておいたほうがいい」
帰りの電車は建築用語説明会となった。彼女は新しい情報をスポンジのように吸収していく、本当に賢い子だ。気に入った!
4、
8月、私は気になっていた。彼女、恭子は社内での態度はまったく問題ない。ちょっとした冗談も言う。同僚との関係も良好だ。仕事は、その辺のヘボ社員とは比べ物にならないほど優秀だ。新人社員とは思えないほどに。しかし一歩社外へ出るとまったく情報がない。飲み会欠席、イベント欠席、誰かがちょっとランチにと誘っても忙しいと言って断る。
何だろうこの違和感。なにか違う。見えない壁を築いているのだろうか。普通に笑顔で仕事をしているが。その笑顔が無理に作っている笑いに見えることがある。
彼女は気付いているのだろうか、周りの男性社員が好意の目で彼女を見ていることを。いや、気付いているとは思えない。相手にしていないだけなのだろうか。最近彼女のことばかり考えている自分がいる。そう、私もそんな男性社員の一人になっていた。そう、私は彼女を食事に誘いたいと思っている。
彼女とは良いコンビになる。そう確信している。しかし、なにかが邪魔をしているようでもどかしい。
① 上司たるものむやみに女性を誘うとセクハラで訴えられる。
② 部内の飲み会イベントに参加しない。ガードが堅い、どこから攻めればいいのか
③ その前に、恋人がいるのかどうか確認する。
32歳、バツイチの私が彼女に好意を寄せ、そして戸惑っていた。
そんなある日「待っていました」と手を叩きたくなるようなチャンスが来た。
その日、私はお盆休み前に済ませておくべき仕事のため残業していた。気付けば部屋には私一人。そこに恭子が入ってきた。
「鈴木君、君も残業かい。残業手当は出ないけど」
最後の言葉は申し訳なく言った。
「いいえ。近くの教室に参加していて。荷物を置きに。何かお手伝いしましょうか」
お。チャンス!チャンス!これはチャンスだ!!!
「申し訳ないがお願いできないだろうか。夏休み前に片づけておきたいので」
「分りました。何をしましょうか」
私は資料の清書、コピー、郵送等々仕事をお願いした。多少時間はかかるが軽めの仕事。恭子が仕事をしている間、私は仕事そっちのけで彼女と二人きりだという事を楽しんでいた。
そういえばいつもと雰囲気が違う。髪を下している。いつもは後ろに一つに結んでいる今は髪をほどいている。少し茶色がかった髪が下の方でカールしている。ツヤがあって柔らかそうな髪だ。触ったらどんな感じだろう・・・。
そうだ、今教室と言っていた、私生活のことを少し聞いてみよう。
「近くの教室?とは、何をやっている?」
「生け花です。」
「この近くに教室があるのか?」
「はい。学生のころから続けているので、たまたま同じ流派の先生が近くで教室を開いていらして、そちらに通っています」
「学生の頃からだと、もう10年ぐらい続けているという事か。腕前もかなりのものだろうね」
10年近く一つの事を続けるとは、実際たいした事。私は本気で褒めた。
「いいえ。そんなことは・・・・好きなだけです」
謙遜している。しかも頬を染めている。かわいい姿だ。なかなか見ごたえがある。
「花は持ち帰りだろう。家に飾っているのか?」
「いいえ。実はこちらの会議室にいつも飾っています。すみません勝手なことをして」
「え、ああ。会議室の電話脇にいつもある、あの花かい」
「はい。電車に花を持って乗るのはちょっと。周り方の迷惑になるので」
確かに電話脇の生け花が電車にあったら迷惑だろう。それより、ここから会話を膨らませないと。私は考えていた。何かないかと
「あの、このまま会議室に飾っていて構いませんか。部長の了解も得ずに勝手なことをしたと思っています」
珍しく恭子の方から声が掛かった。いや、初めてかもしれない。
「もちろんだ。いつも綺麗だと思っていたのだ。生けていたのが恭子だったとはね」
一瞬、沈黙があった。しまった。心の中でいつも恭子!と言っていたのが声になってしまった。
恭子は聞かなかったことにしたいのか、そのまま仕事に戻っていった。が、頬が赤くなっている。気付いているのは間違いない。そして「コピーに行ってきます」と言って部屋を出て行った。これは逃げられたか?
私も自室に戻って仕事を続けた。私の部屋はフロアーの一角をガラスで仕切っている。ドアを閉めれば中の声が外に漏れることはない。
この後、サービス残業のお礼にと食事に誘おうと思っていた。が、さっきの沈黙が気になる。避けられたか。10分とせず恭子はフロアーに戻ってきて仕事の続きを始めた。私もとにかく自分の仕事を続けた。すると頼んだ仕事が終わったのだろう、恭子が声をかけてきた
「ご依頼の件は終わりました。もし他になければ帰っても構わないでしょうか」
なんかものすごく他人行儀な物言いだ。
「サービス残業のお礼に食事でもごちそうするよ。時間は大丈夫だろう」
少し強気に言ってみた。
「申し訳ありません。この後、用事がありますので」
夜の9時からどんな用事があるというのだ。きっと嘘だ。間違いない。
「それは、用事があるのに私の仕事を手伝ってくれたということかな。もしそうならこちらこそ申し訳ないことをしたかな」
ちょっとユーモアを交え、しかし「別に食事くらい、いいだろう」という思いを込めながら私は食い下がった。
「申し訳ありません。失礼します」
恭子はそれだけ言うと振り向きもせず、私の部屋を出て行った。自分の荷物を持ち、フロアーを出るときまた一礼して去っていった。酉つく暇もない。いや息つく暇もない。どちらが正しい言い方かはこの際どうでもいい。とにかく私はフロアーに一人取り残された。
私を断った。嫌われた?
いいや、私を嫌う人などいない。ありえない。自慢ではないが、あの松井裕の息子だ。家柄も財産も申し分ない(自由に使える金は限られるが)。父の威光ではなく、自分の力でキャリアを築きこの地位を手に入れた。顔も身長も問題ないはずだ。私は女性に人気がある。社内でも私に色目を使う女性も多い。
あ、でも離婚した。いやあれは相手が悪かった(はず)。
私の考えはぐるぐる回っていた。しかし答えは出てこない。「なぜ?」という問いかけばかりが残る。
なぜ?私の誘いを断った。
なぜ?必要以上に話をしない。
なぜ?自分の事を話さない。
彼女は自分で壁を築きその中に一人でいる。なぜだ?
5、
翌日、恭子は昨日の事が無かったかのように仕事をしていた。必要以上に話さず、必要以上に私に近づくこともしない。一度珈琲を頼んだが持ってきたのは違う部下だった。
お茶出しも拒否するということか。ますます許せない。
もうすぐ夏休みというのに私の気持ちはリーマンショック時の日経平均株価のようにダダ下がりした。
接客を2件、会議を1件かたづけ遅めのランチをとり社屋へ戻ると1階エントランスで恭子が男性と話をしていた。しかも親しそうに笑顔で。許せない。そして怒っていたのかもしれない。自然と足がそちらに向かい、話の内容も聞くとはなしに聞こえてきた。
男「恭子ちゃんの手料理か。和食がいいな。久しく白飯を食べてない」
恭子「分った。いつも一人だからつまらなくて。今日は久しぶりに腕を振るうわ。あ、これ部屋の鍵。多分6時前には私も帰れる・・・」
そこで私に気付いたのだろう、会話が急に止まった。
手料理! 腕を振るう! 部屋の鍵!!!!! きっと私はすごい剣幕で立っていたのだろう。恭子は顔を背けたが、相手の男性は空気を読んだのか如才なく立ち上がると挨拶をした。
「お仕事中に押しかけてすみません。私、財務省国際局の佐々木崇と申します。今日ロンドンから帰ってきて鈴木さんに預けていたものを受け取りに伺いました」
と言いながら名刺を出してきた。
私も
「上司の松井真一と申します。そうですか、財務省勤務で。失礼ですが、今お時間いかがでしょうか。せっかく財務省の方とお会いできたのですから軽く情報交換でもできれば」
火花が出そうな目力で言った。
「鈴木君、2番応接に珈琲を持ってきてくれ」
と言うと、有無を言わさず男を案内した。恭子は面喰ったような顔をしていたが、相手の男は何も言わずについてきた。
「彼女とはどういうご関係ですか」
応接に入ると前置き無しで切り出した。恭子が珈琲を持ってくるまであまり時間はない、早く聞きたい事を聞き出さないと。
「彼女の住んでいるマンションのオーナーです。」
相手、佐々木の声は穏やかだった。
「もともと私と妹で住んでいたのですが、私が海外勤務になり部屋が空いたからと妹が親友の恭子ちゃんを連れてきたのです。妹は大学卒業後、東京は私に合わなかったといって地元に帰りましたので、今は恭子ちゃんだけが住んでいます。」
え、つまり恋人ではない。同棲などしていない。あと何を聞くべきか?
「恭子ちゃんは賢く、素直で、純粋。ガラス細工のような心の持ち主です。守ってやりたくなる。そんな女性ですね」
佐々木はつぶやく様に言った。
「そうです。でも彼女はそれを拒んでいるように感じる。壁があるといいますか」
私は思っていたことを言った。よく知りもしない目の前の男に沢山のなぜ?の答えを求めて
「あれでもだいぶ良くなったと思いますよ。彼女は人が怖いのです。初めて会った時など私の顔を見たとたん部屋に逃げ込んでいましたから。」
「え!」
面喰った。なぜ?
「私も妹からのまた聞きなので詳しく知りませんが、高校生の時かなりひどいイジメにあったそうです。そのせいで高校をやめ家も引っ越したという話です。特に男性はダメみたいですね。本人も普通の人間関係を築こうと努力しているのでしょうが、やはり昔の嫌な思い出が足枷になっているのでしょう」
イジメ。それで。
「でもあなたとは普通に話しているようですが。」
私は聞いてみた。
「こうして話し合えるまで4年かかりました。しかも間に妹がいる環境でしたから。恭子ちゃんにとって友人と呼べるのは私の妹だけでしょう。私はその兄妹という立ち位置でしかありません。まぁ、彼女さえその気になってくれれば私はいつでもウエルカムなのですが」
と言って男は笑った。
「恭子ちゃんの事を気にかけてくれる人が増える事はうれしいです。」
「こちらは気にかけている以上なのですが」
と私はライバル?に挑むように言った。
「今日はやはり実家に帰る事にします。墓参りのために、はるばる15時間も飛行機にゆられてきたのですから。この鍵は恭子ちゃんに返しておいてもらえますか。」
と言って恭子のマンションの鍵を私に渡した。こいつ何を考えている。いい奴なのか?
「あと、ちなみに私の海外勤務は今期で終了です。来年には日本に帰ってきます。すると恭子ちゃんのルームメイトは私という事になります。一応報告しておきます」
私は眉を吊り上げた。いや、やっぱり嫌な奴だ。
ちょうどその時ノックがあり、恭子が珈琲をもって入ってきた。立ったまま話している私たちを見て驚いている。「何を話しているの?」という顔をしている。
「久しぶりの再会だろう積る話もあるだろうから私は上に戻っているよ」
と言いおいて二人を残し部屋を出た。恭子の部屋の鍵は私の手の中にある。あいつに手料理を振る舞うこともない。「今日の戦利品だな」私はつぶやいて、笑っていた。
自室に戻り仕事をしながら恭子の帰りを待った。鍵を取りに来るはずだ。私を避けることはできない。フロアーに戻ってきた恭子は自分のデスクで数分仕事をしていた。がそわそわしている。そうだ、自分で取りに来ないと鍵は手に入らないぞ。まるで能の「羽衣」ようだな。別に踊れとは言わないが・・・
「すみません。よろしいですか。」
恭子がおずおずと部屋に入ってきた。
「閉めなさい」
私はドアを指差して言った。会話は外に聞こえないほうがいいだろう。
「佐々木さんが鍵を預けたと・・・」
最後まで声になっていない。
「ああ、預かっているよ。」
私は差し出した。あの男の言葉を借りるなら「特に男は怖い」のだろう。怖がらせてはいけない。
「ありがとうございます。お手数をおかけして」
恥ずかしいのか、目を伏せている。いつもとは違う対応だ。
「いや、こちらこそ、君のお陰で財務省の人とお近づきになれた。よかったよ。沢山の情報を得られたし(君の情報をね)」
まだ何か言いたいのかぐずぐずしている。仕事以外では普段はこういう態度になるということだろうか。
「あの、昨日の事、せっかく誘っていただいたのに失礼な態度をとってしまい申し訳ありませんでした。その、社会人としてその・・・」
またもや消え入りそうな声だ。
「もう気にしなくていいよ。私もちょっと調子に乗りすぎたかもしれない。君は部内の飲み会にも参加しないだろう。どうしてなのかと心配していた。」
「次回からは必ず参加するようにします。ご心配おかけしてすみません。」
この言葉はビジネスモードだ。上手く使い分けるようにしているようだ。
「ところで、夏休みの予定は、やはり実家に帰るのかな?」
「いいえ」
即答。なぜだろう。
「じゃ、どこか旅行でも?」
「いいえ」
これも即答。
「では、私と同じだね。私は留守番を頼まれている。両親は妹の留学先へ行くそうだ。独り者はいいように使われる」
私は笑いながら言った。恭子もつられて笑っている。場が和んだようだ。
「どうだろう。せっかくだからドライブでもしないか。車が好きと言っていただろう。私自慢の車で都内一周でもしないか」
調子に乗りすぎたと言ったそばから誘ってみた。今なら話に乗ってくるような期待もあった。
「はい、ありがとうございます」
「それは、OKということかな」
思わず確認してしまった。
「はい」
私は恭子の携帯番号を見ながらニヤニヤしていた。彼女はスマホを持っていなかった。メールもあまり好きではないから直接電話してもらいたいという。こちらとしてはありがたい事だ。とにかく日取りを決めて連絡をする事になった。
6、
恭子のリクエストは混雑していない静かな場所だったので「昭和記念公園」へ行くことにした。生け花をしているくらいだから花は好きだろう。
「デートスポット 花 8月」でネット検索したところ「昭和記念公園」がヒットした。考えてみれば、お盆真っただ中、渋滞に猛暑。デート日和とは言い難い。が日を改めてなどと言えば逃げるかもしれない。まだ涼しいだろう早い時間に出発することにした。
待ち合わせの場所へ行くと、すでに恭子が来ていた。ワンピースを着ている。そういえば普段着を見るのは初めてだ。会社ではビジネス用のスーツを着ている。しかもパンツスタイルだ。いつもとまるで感じが違う。背まである長く茶色い髪、帽子を被っている。綺麗だ。ここまで綺麗な子だったとは。見とれてしまう。が、他の通行人も見とれている。なんだ、何をジロジロ見ている。失礼だろう。
「待たせたね。」
と言い、手を貸して私自慢のポルシェに乗せた。そう言えば手を握ったのも初めてだ。
「これ、ポルシェですよね」
感嘆の表情で聞いてきた。
「そ、ポルシェ。中古車を貯金叩いた上に3年ローンで購入だよ」
と私は笑いを誘うように言った。恭子は目を丸めて笑っている。
「でも、部長の家はお金持ちですよね。」
と聞いてきた。私は我が家の家訓を教えた。歴史の鎖の輪と働かざる者食うべからず。また恭子の笑いを誘ったようだ。幸先いいぞ。
とりあえず佐々木兄妹の事を確認しておこうと思い、聞いてみた
「私にとって望は親友という言葉以上の存在です。オロオロしている私をいつも助けてくれて、彼女がいなかったら大学やめていたかもしれません。」
それほど大切な人物ということか。
「お兄さんの方は」
「会話の方法を、質疑応答方法などを教えてもらいました。」
「というと?」
先を促した。
「質問は1つ、回答は一つの答に3通りの言い回しを用意しなさい。と言われました。いくつも質問したところで最初の質問内容は忘れられてしまう。また、同じ質問に3回答えればそれ以上聞かれることはない。4回目聞いてきたら毅然とした態度で礼儀正しく去ればいいと」
「佐々木兄は頭のいい人だね。まさに的を射た指摘だ。言い回しか、確かにそうだね」
しかしそうすると彼女の会話すべてが計算された上での言い回しという事になる。
「あと、嘘はいけないと。後々話の食い違いからその嘘がばれる。だから必ず本当の事を言うように。ただ、すべてを話す必要はない。省略して話す様にと」
一瞬間があって
「あの。昨日崇さんと何を話されたのですか」
と聞いてきた。私はどう言ったものかと考えた。はぐらかす?本当のことを言う。今の会話の流れでは嘘は良くない。
「君の事をよろしく頼むと言われたよ」
この言葉、多分嘘ではないはずだ。が、彼女は黙り込んでしまった。
「恭子の事を気にかける人が多くなることは良いことだって」
私は付け加えた。これは本当だ。彼女も納得したようだった。
「君こそあの後、何を話した?」
「マンションの鍵を部長に預けたと。」
間があって
「すべての人が敵ではない。差し伸べられた手はとらないと失礼だと。でも、セクハラ親父と年下の手はつねるようにと。」
そのアドバイスの結果がこのデートにつながったということか。やはり佐々木兄はいい奴のようだ。
「佐々木兄の話には必ず「オチ」があるね。」
恭子が笑っていた。今日はよく笑う。その後は私の学生時代の事、家族の事等々話しているうちに目的地についた。
すごい人混みと猛暑だった。なぜだろう彼女はそわそわオロオロしている。目の前にある睡蓮は嫌いか。確かに生け花向きではなさそうな花だが。
「大丈夫か、気分でも悪いのか。」
私は心配になってきた。
「その、人混みが苦手で、こんなに混んでいるとは思っていなくて」
申し訳なさそうに言う。私はびっくりした。とりあえずこの場から離れた方がいい。手をひいて車まで戻り彼女を車に乗せ自動販売機で水を購入し渡した。
「とりあえず飲みなさい」
彼女は素直に従った。ほんの1時間前は笑顔を見せていたのに、今は苦しそうだ。そのまま落ち着くまで車の中で待った。10分もそうしていただろうか。
「本当にすみません。」
また彼女が謝る。
「謝る必要はない。その元からこうなのか。その喘息とか何か持病があるとか。」
「いいえ。心の問題です。体は何処も悪くありません。」
「心の問題?」
まずい。彼女が沈黙している。昨日聞いたイジメが原因か。
「とにかく今日は帰ろう。またいつか出直して来ればいい」
彼女は何も言わない。OKということだろう。来る時の和やかな雰囲気はどこヘやら、帰りの車中は沈黙が続いた。
ふと思った。人混みが苦手。満員電車はどうしているのだ。
「通勤は電車か?」
「はい」
「満員電車は大丈夫ということか?」
「いえ。混み合う前に、早めに出社しているので」
「何時に出社している」
「6時過ぎぐらいに」
彼女はまた申し訳なさそうに言う。私は驚いて目を剥いた
「そんなに早く来て睡眠とかは大丈夫なのか。そんなに早く来て何をしている。」
「あの、朝食食べて、お弁当にして持ってきているので。そのあと化粧して、新聞や雑誌読んで、そうこうするうちに皆さんいらっしゃいます。あ、デスクでの食事は禁止されているので給湯室で食べていますから大丈夫です。」
なにが大丈夫だ!
「帰りはどうしている」
私はだんだん詰問するようになっていた。
「帰りは、朝ほど混んでいませんし。混んでいたら次の電車に乗ります。東京はすぐ次の電車が来るので助かります」
「助かりますじゃないだろう。大丈夫じゃないだろう。医者に相談するなり、何か対応を考えるべきだろう」
最後は怒りが込み上げてきた。何を怒っているのだろう彼女に、いや違う彼女がこうなった原因に怒っている。
彼女はまた沈黙した。長い沈黙の後、彼女がポツリと言った。
「そんなに怒らないで下さい。怖いです。」
まずい、怖がらせた。
「すまない。別に君に怒っているわけではないのだが」
「言いたいことは分ります。私、めんどくさい女ですから。いつも周りに迷惑かけている」
「いや、私が言いたいのはそうではない。心配しているのだ。どうだろう。私が送り迎えをするというのは。」
少し間があってから彼女が答えた。
「お気持ちは嬉しいのですが、今実践訓練しているようなものですし。もう少し時間が必要なだけだと思います。そうすれば普通になれると思います」
また沈黙が続いた。
そうこうするうちに、出発地点まで戻ってきていた。まだ12時にもなっていない。早い昼飯でもと誘ったが体調が優れないと断られた。さっきの状態を見ている以上無理強いはできない。せめて自宅マンション前まで送ると言い張るのが精一杯だった。この気まずい雰囲気のまま別れるのは避けたいがどうすれば・・・
「そうだ、運転してみるかい」
彼女は車が好きだと言っていた。彼女は驚いた顔をしていたがそれは嬉しい驚きの顔だ。
車を道路わきに寄せ、彼女の手を取って運転席に案内した。
「よろしいのですか?」
聞いてはいるが、やる気満々という声だ。喜んでいるのが分る。
「どうぞ、どうぞ。だが、キズはつけないでくれよ。一応保険には入っているが」
ウインカーの出し方等ざっと運転方法を説明してエンジンをスタートさせた。彼女のマンション近くの安全そうな大通りを選んで運転をする。最初はポルシェにあるまじきノロノロスピートで運転していた。
「もう一周いいですか」
やる気満々に楽しさ等々が加わった声だ。NOとは言えない
「どうぞ、好きなだけ」
と私が言うと同時に、彼女はアクセルを踏み込んだ。おいおい、やめてくれ!私は変な悲鳴を上げていた。私のその声を聞いて彼女が笑っている。笑いながらアクセルを緩めた。
「足が滑ってしまって。ごめんなさい」
と言い微笑んだ。絶対わざとだ。でもポルシェのお陰で楽しい雰囲気のままでサヨナラを言えた。いや「またね」と言って別れた。そう次もあるということだ。
自宅へ戻ってはきたものの、恭子の様子が気になった。確かに公園は混み合っていたが、あの程度の人出であのパニック、高校のイジメが原因という事だが、どれほどの心の傷を受けたのだろう。自分でも改善したいと思っているようだが。自分の事を「めんどくさい女」と表現した彼女の姿が哀れにも思えた。同情はよくないが。とにかく心配だ。
今、無事か確かめたくて電話をしてみた。が、出ない。休んでいるのだろうか。とりあえず「無事か確認したい。連絡をするように」とショートメールを送った。
しかし、いくら待っても連絡が来ない。今ではスマホを手放せないという人が多い今日、彼女はまめに携帯をチェックする事もしないタイプのようだ。
だめだ、これでは心配でこっちが持たない。もう一度連絡すると今度は話中だった。とりあえず無事と言うことだろう。そしてもう一度、やっと繋がった。しかも彼女の第一声が
「ちょっと、まだ答え出てないから。待ってよ」だった。
「何が待ってよだ!こっちがどれだけ心配していると思う。ちゃんと電話に出なさい」
と、思わず怒鳴ってしまった。さっき怖がられたばかりなのに、これではいけない。案の定また謝っている。
「あいや、怒鳴って済まない。ずっと電話しているのに出ないから、家で倒れているのかと心配になって。どうだ?落ち着いたか」
と出来るだけいたわるような声をだした。
「まぁ。今日はよく休みなさい。よく休んでまた改めて遊びに行こう」
と言うと素直に「はい」と返事をしていた。私はその返事に安心し。電話を切った。
7、
私と恭子はあの夏の日以来何度か一緒に出掛けた。ポルシェを走らせるだけのドライブだ。たまに美しいと景色に出会ったらそこで下り散歩をする。観光地やイベント会場である必要はなかった。
私は恭子にスマホを買い与えた。私との専用に使ってほしいと言って渡した。恭子の初めてのパニックの後、私は心配で何度も電話したが彼女が電話に出ずに私の方がパニックになるところだった。
「このスマホは肌身離さず持っていなさい。」と命令しておいた。実際恭子はそうしている。毎晩、眠る前彼女に電話するとすぐに出る。
「今日会社で会ったばかりです。何も問題ありません。もう寝るところです」
という答えが返ってくる。私はその返事を聞いて安心し一日を終える。
あと、位置情報を共有した。あくまでも彼女の安全のために使っている。私はストーカーではない。
10月の穏やかな秋の日。今日も一緒に出掛けた。が今日はちょっと野暮用があった。
「10時までに千葉の柏まで行かなくてはならなくなった。父の代理だ」
「私は何処でも構いませんけど。柏ってどこ?間に合います」
「飛ばせば何とか。まあ多少遅れたところで問題はないと思う」
という事で、今日はナビの言う通りのコースを走った。
「柏で何があるの」
彼女は聞いてきた。混み合っていたらと心配しているのだろう。
「柏市のグランドの命名権を父が購入している。その絡みでお呼びが掛かったようだ。今日はプロが教える子供サッカー教室を開催している。役場の関係者も来ているはずだから顔を売っておけということらしい。うちの社も来年あたり柏市でなにかやりたいらしい。」
恭子はイベントと聞いて少し落ち着かなそうな顔をしている。
「会う必要があるのは役場の関係者だけだよ。名刺交換だけして失礼すればいい。」
私は安心させようとして言ったが、気になるのは違う事だったようだ。
「そうではなくて、今日の服装ラフすぎないかしら。一応仕事なのでしょう。相手に対して失礼じゃないかしら」
といいながら自分の上着をいじっている。恭子は会社でカチとしたパンツスタイルで通しているが、私服になるとこれは乙女系と言うのか?ふわりとした淡い色合いの服を着る。今日は・・・、とにかくかわいい綺麗だ。いや今日もだ。
恭子は会社ではいい意味で仮面を被っているようだ。それは服装にも表れている。しかし私の前では服装も話し方も笑顔も違う。私だけが知る恭子がいる。私は今、彼女が作った壁を少しずつ乗り越えているのだろう。
「服装は気にしなくていいよ。サッカー教室だ。みんなどうせ汚れていいようにジャージだろう」
とりあえず先を急がなければ、やはり遅刻はイメージが悪い。
多少遅れて着いたが、イベントはまだ始まっていない。どうやらお母さんグループが子供そっちのけでプロ選手のサインをねだっているようだ。こういうイベントはスケジュール通りに進まないものだ。私は役場の関係者を探し挨拶をした。恭子の事はとりあえず部下という事にしておいた。柏市の現状や展望について人口動態などについてざっと意見交換をした。恭子はいつものようにメモを取っていた。いつも持ち歩いているという事か。
急に恭子が私たちの輪から離れて歩き出した、いや逃げ出した。
私が「恭子」と呼び掛ける声に違う男の声が重なった。
「恭子。塩谷恭子じゃないか。偶然だな、どうしてここに。今どうしている」畳みかけるように質問している。男はさっきまでサイン攻めにあっていたプロサッカー選手だ。名前は・・・・?知らない。
振り向いた恭子の顔は恐怖だろうか、目は私をとらえて助けを求めていた。
私は恭子の肩を抱いて、「俺の女に気安く声をかけるな」という目線を男に向けた。うまい具合にイベントの開始を告げる挨拶があり、サッカー小僧は去っていった。恭子は私の背に隠れるようにしている。いつも以上に怖がっている、怯えている。
役場関係者が来て来賓見学用テントへ案内されたが、恭子の様子は良くない。これはもしかして以前のようなパニックを起こしているのか?
しかもさっきのサッカー小僧がこちらに熱い視線を送ってくる。なんだ、あいつ。しかも確か恭子を塩谷恭子と呼んでいた。なぜだ?
「ごめんなさい。先に車に戻っていてもいいですか?」恭子がつらそうに言った。私は役場関係者に断りを入れ、恭子を連れ、席を立った。
「大丈夫か?」
明らかに大丈夫でない彼女に馬鹿なことを言った。
「大丈夫」
と答えているが、いやいやどう見ても大丈夫じゃないだろう。自分で聞いておきながら否定をした。こうなったときは、そうポルシェが役に立つ。とにかく車まで行こう。と考えていると、後ろから声を掛けられた。
「私、内山が所属しておりますプロサッカーチームの広報を担当している者です。うちの内山が塩谷さんから連絡がほしいと申しております。こちらの連絡先までいつでも都合の良い時にご連絡頂けませんか」
と言って名刺を出してきた。恭子は何も言わず、私の背に隠れるようになった。そんなもの欲しくないということだろう。
「あの、もちろん塩谷さんの連絡先を教えていただけるのであれば、内山の方よりご連絡いたします」
おい、嫌がっているのがわからないのか。という言葉を飲み込んで
「こちらは私がお預かりします」
と言って名刺をひったくり、彼女の手をひいて会場を後にした。
恭子はポルシェの中で落ち着こうとしているのか押し黙っている。やれやれ手のかかの女だ。だか、あの目私に助けを求めている目を見た瞬間彼女を守らなければという気持ちのほうが強くなる。彼女にとってあの視線を向ける相手は私だけだ。そう私だけが知る恭子。
「ごめんなさい。もう大丈夫。帰りましょう」
その提案に異議はない
「ポルシェを飛ばして帰ろう。運転するか?」
「ううん、運転してくれる」
「分った」
私は無言で運転をした。彼女も押し黙っている。が運転し始めてすぐ恭子が泣いていることに気付いた。無言で涙を流していたのがだんだん嗚咽となり、最後は叫ぶように泣いた。
車を脇に止め、彼女を抱きしめた。彼女を抱きしめるのは初めてだ。そして泣く姿を見るのも。私は静かに言った
「今日は私の家に行こう。こんな状態で一人家に置いておけない」彼女は黙って頷いた。
帰り道はずっと無言だった。彼女は窓の外をずっと眺めている。まだ泣いているのかもしれない。泣いている姿を見られたくないのだろう。
私の家に彼女が来るのも初めてだ。こんな状態の時でなければ嬉しいことなのだが。
8、
私の部屋は汚かった。まずい。最近掃除をしていなかった。
「珈琲飲むかい」
「いただきます」
上の空で答えている。
とりあえず我が家のエスプレッソマシンは最新のものだ。使用方法も知っている。妻が出ていってからキッチンで使っているのはこのマシンと冷蔵庫ぐらいだ。
キッチンに来た彼女が何かに気づいた。今度はなんだ?
「何か作ります」
彼女が突然言った。いったい何を作るというのだ。
そう言うと冷蔵庫を勝手に開けた。あ、ビールしか入っていない。あとつまみのチーズがある。
「ビールしか入っていませんけど」
「そうだが」
「ちゃんと食べていますか?」
「料理はしない。その辺で食べて帰ってくるから」
「買い物に行ってきます」
というと自分のカバンを持って出ていこうとしている。
「おい、買い物って」
「一番近いスーパーは何処ですか」
さっきまでの涙はどこへやら、この気持ちの切替の速さは・・・なんだ?私はスーパーまでの道を説明した。が途中で
「いや、一緒に行くよ」
と言ったが、きっぱり断られた
「帰ってくるまでに、テーブルの上食べられるように片づけておいてください」
と雑誌置き場と化したダイニングテーブルを指差した。
「はい、わかりました」
私の返事を聞くとさっさと出ていってしまった。
いつもと立場が逆転している。恭子の命令を私が聞く。私はかなり面喰っている。ビジネスモードに入っているということだろうか。取りあえず言われた通りテーブルの上の物を片づけた(別の部屋に投げておいた)。キッチンで料理を作るのに必要なさそうなもの(古新聞置き場になっている)も移動しておいた。
20分ほどすると彼女からの電話がなった。
「マンションの下まで来たのですが、入れません。あと部屋番号わかりません」
と言う。私は笑いながらロックを解除してあげた。玄関を開け彼女が来るのを出迎えた。
「パスタでいいですか。簡単だしすぐできるので。あと好き嫌いとかありますか?今さらですけど」
たいていの物は食べられる。パスタならまず嫌いなものはないだろう。と私が言うのを聞くと、早速作り始めた。
「休んでいてください。すぐできますから」
と言われたが落ち着かない。自分の家に彼女がいて、しかも料理中。取りあえず雑誌を手に取り読むふりをしながら彼女を見ていた。お湯を沸かしている隣で野菜を切る。炒めて。何か探している・・・?
「すみません。菜箸何処ですか」
と聞かれたが、なんだそれ?
「あ、ありました」
と言うと料理の続きを始めた。すごい手際がいい。そういえば朝食は弁当を会社に持ってきていると言っていた。
「趣味は料理か?」
「父と二人の生活だったので、自然私が料理をすることになって。10歳ぐらいからいつもキッチンに立っていました」
「お母さんは?」
答えはなかった。聞かれたくない質問にはいつも沈黙するようだ。そうこうするうちに出来上がったようだ。食べてみるとおいしい。
「久しぶりに我が家で食事をした」
と言うと彼女がびっくりしている。
「外食しかしないという事ですか。鍋とか有名メーカーの物ばかり揃えてあるのに勿体ない。」
え、そんないい物があるのか
「その辺の物は前の妻が揃えたものだから。私は詳しく知らない」
それに今、前妻の話はしたくない。後はとにかく旨い旨いと言いながら食べた。実際ものすごく旨い。彼女はすごく満足そうだった。
「食後の珈琲は私がいれてあげよう」
と言いながら唯一使えるマシンで珈琲を入れた。彼女は手際よく片づけをした。
「あ!食洗機がある。ビルトインじゃないですか」
私には分らない内容だ。
「使ってみたいところだけど、専用洗剤でないといけないのよね」
と残念がっている。どうやらキッチンは私にとって未知の空間のようだ。
珈琲を持ってリビングのソファーへ移動、二人並んで座りくつろぎ始めた。
いやいや、何か聞かなければならないことがあるはだ。そう、さっきのサッカー小僧は何者だ。おい、あれだけ大泣きしたのに忘れているのか。隣の彼女は私よりもくつろいだ様子で珈琲をすすっている。
「おい」
私は話を促すように声を掛けた
「はい」
その返事はやはり忘れているようだ。
「何か私に言いたいことはないか。思い出させて申し訳ないが、気になっている」
やっと思い出したらしい。一瞬体に力が入ったようだ。
「料理していると他の事忘れていられるの。食べきるころには何だったか忘れている時もある」
と言う。つまり本当に忘れていたようだ。少し間があってから話し始めた。
「高校生の時、一度デートした相手です。彼はサッカー部のスター選手で誘われたとき嬉しかった。動物園に行ったの。で翌日その写真がSNSにアップされた」
ここから先は思い出したくないことなのだろう。緊張しているようだ
「タイトルは「学園のスター、がり勉女とお出かけ」写真一枚一枚にもいろいろ書かれていた。その後、全女子学生が私を攻撃し始めたの。色々な方法で。学校で問題になって、教育委員会も出てきて滅茶苦茶になった。結局退学したの。だから高校は卒業していない」
そこまで一気に言い終えた。昔を思い出しているのだろう、とても辛そうな顔をしている。私は肩に手を回しいたわる様に髪をなでた。彼女も私の肩にもたれかかってきた。これが佐々木兄の言っていたイジメということか。
うん?何かまだ忘れている。
「塩谷恭子ってだれだ?」
「塩谷は父の姓です。」
「じゃ、鈴木は」
「事件のあと、私の親権が母に移ったの。その時母が結婚していた相手が鈴木で、鈴木に変えさせられたの」
「かなりキツイ経験だし、少し複雑だな」
「キツイし複雑。でももう過去の事だから早く忘れたい」
でも、まだ忘れていないということだろう。私はきつく抱きしめ、そしてキスをした。彼女は安心したようだった。
9、
恭子との関係が一気に進んだ。毎日ではないが仕事の後私の家に来て料理を作り一緒に食べるようになった。今まで父やルームメイトの佐々木妹(望という名だったかな)に作っていたが、自分だけになったのが寂しかったと言っている。作るのももちろんだが人が食べている姿を見るのが何より嬉しいとも言っていた。それに最近ため口で話すようになった。つまりまた一つ彼女の壁がなくなったということだろう。会社では取澄ました敬語で話すのに、自宅に帰るとため口になる彼女の言い方、声すべてが愛おしい。
しかし、そんな浮かれていると何かが起こる。そして実際起こった。
会社の恭子宛てに花束が届いた、真赤なバラ。あのサッカー小僧からだ。恭子の事を調べたのだろう。柏の役場関係者に恭子は部下だと紹介している。調べようと思えば簡単なことだったのかもしれない。恭子は明らかに困っている。が周りの社員は恭子の彼氏からのプレゼントと思い、どこの人だ、いつ知り合ったのかと楽しそうに質問し、囃し立てている。きっと私は凄い形相で仁王立ちしていたのだろう。蜘蛛の子をちらすようにみながデスクに戻っていった。
その日も私の自宅に恭子が来た。相談したいようだ。
「花はどうした」
恭子が悪いわけではないが、なんか腹立たしい気持ちが声に出ていた。
「受付の人に渡しました。どこか適当な場所に飾ってくれるそうです」
いけない、以前の堅苦しい態度に戻っている。優しく言わなくては。
「答えたくなければ答えなくてもいいが、カードには何と書いてあった」
恭子はカードを差し出した。開けていないではないか。
「部長、お願いします」
と言う。おお、そこまで私を信頼しているということか。嬉しい反面、目の前のカードが気に入らない。複雑な気分だ。とにかく開封してみた。
「会いたいと書いてある。連絡がほしいと携帯番号が書いてあるよ」
彼女の考えを尊重したい。返事を待った。まあ、あれだけ怖がっている相手に会いたいはずはないという自信もあった。
「それ、部長が処分してください。会いたくないので」
私はキッチンのコンロの火でカードを燃やした。跡形もなく片づけたかった。
しかし、これでは終わらなかった。2日後(金曜日)に、その3日後(月曜日)に、また3日後(木曜日)と真赤なバラが送られてきた。しかもだんだん本数を増やしている。私たちも同じことを続けた。私がカードを開封し、燃やす。とんだストーカー野郎だ。
恭子にそれだけの魅力があるというのは分かる、が許せない。一番許せないのは多分恭子は花が好きでむやみに捨てたりしないと知っているのだろう。会社に飾られる真赤なバラがどんどん増えてゆく。バラは日持ち?するようだ(そんなマメ知識要らない)
出社すると受付に。兄の部署では女性がきれいだからと押し花をつくっていた。
一番ムカついたのは役員会議室。父である会長の後ろにでかでかと。会長に向かって発言するたびに目に飛び込んでくる。気が散って仕方がない。さすがに私の部署には置いていないがこのままでは社屋が真赤なバラで溢れてしまう。なにか対策を講じないと。
結局連絡をするしかないという結論に達した。恭子の要望を聞き場所をセッティングした。人目につかない店で個室あり、でも食事などしません。そして私も付添ってほしいと言われている。
当日、早めに行って個室で待っていた。サッカー小僧と一緒に入るところを見られたくないようだ。そして時間通りにサッカー小僧が現れた。簡単なあいさつのあとサッカー小僧が恭子の目の前に座る。が恭子が椅子をずらし少し私の側に移動した。
その様子を見ていたサッカー小僧が、「おまえは誰だ、なんでいる、邪魔なのだよ」という不快感丸出しの表情を私に向けた。私も負けてはいない「私の恭子にこれ以上しつこくするな、このヒヨっ子が」という目線を送った。
「連絡ありがとう。恭子はどうしているかといつも思っていた。あの日の再会は本当に奇跡みたいだ」
とサッカー小僧が言い始めた。が、間があって
「すみません。二人きりで話せませんか」
とこれは私に対しての言葉だ。出て行けと言いたいらしい。
「私の事は気になさらず話してください。それに付添をつけると事前に申し上げたはずです」
絶対にこの場を動かないぞという気合で答えた。サッカー小僧はしょうがない、この状態で話すしかないと諦めたのだろう。話を先へ進めることにしたようだ。
「えっと、まず。あの写真の件を今一度謝りたい。本当にすまなかったと思っている。この件は何度も謝ったはずだ。それにあれは友人が勝手にやったことだ。オレはそんなつもりはなかった。あの日君の事をずっと待っていたのになぜ来なかった?連絡もなかった。急に学校をやめてどこに引っ越したのか分らなくて、こっちは理由が分らず気が変になりそうだったのだ」
と一気に言った。
うん?恭子が面喰っている。何を聞かれたかよくわかっていないようだ。
「あの、私謝って頂いた覚えありません。それにあの時、携帯壊されたので連絡先も分らなくなりました」
と答えた。これはビジネスモードの答えかだ。私に対する以前の恭子の話し方だった。
「携帯の件は知っていた。だから手紙を書いた。そこに書いてあっただろう。」
恭子の?が倍増しているようだ。そして完全なビジネスモードに突入した。
「手紙など頂いていません。あの動物園へ行った日以来なんの連絡も頂いておりません。こちらかも連絡していません。」
二人の話がかみ合わない。何か食い違いが発生しているようだ。私は話に加わる事にした
「ちなみに、その手紙と言うのは?」
と聞いてみた。
「恭子の携帯が壊されたことは知っていましたし、自宅の電話番号は知らなかったので、恭子の友人の篠崎君に手紙を預けました。恭子に渡すように。自分で渡してもよかったのですが、人に見られるとまた恭子が困ることになると思って」
「いいえ、頂いていません」
恭子は即答した。完全なビジネスモードだ。これなら話を進めても大丈夫だろう。
「つまり、その手紙を預けた相手がその手紙を渡さなかった。ということかな」
「しかし、篠崎君は恭子が嬉しそうに受け取っていたと」
サッカー小僧が食い下がる。
「いいえ、頂いていません」
またしても即答
かなりの間があった。サッカー小僧は今まで恭子に捨てられたと思っていたのかもしれない。恭子は恭子で違う思いを抱えていた。
「プロとして活躍されているようで、夢をかなえられた事、素敵だと思います。これからの活躍を期待しています。頑張ってください。」
話はここまで。というように恭子が切り出した。サッカー小僧はまだ何か言いたそうにしている。このまま終わらせられないという事のようだ。
「君は今どうしている。その」
「今の仕事を気に入っています。それにこちらの松井さんがいます。これで失礼します。」
と私を見つめた。恭子の口から言われると照れる。が誇らしく感じた。サッカー小僧も納得したようだ。私たちは別れの挨拶をし、席を立った。
その後、私のマンションまで手をつないで帰った。玄関に入ったとたん緊張から解放されたせいか疲れが襲ってきた。
「今日は疲れた。」
「私も」
恭子も同じ思いのようだ。
「夕食用意するね。昨日のうちに用意しておいたの。すぐできるから」
と言いキッチンへ向かった。忘れたい時の行動だ
食事をしながら私は聞いてみた。
「手紙を隠したその誰それは何者だ」
「華道部の同級生。あの時女子生徒のほとんどが私の敵だったけど。彼女も嫌がらせしていたという事ね」
「携帯壊されたのか」
「最初は盗まれた。次は壊されたの」
私は気になっている事を聞いた
「手紙の内容は気になるか」
恭子は少し考えてから答えた
「気にならないと言えば嘘になる。でも今内容を知ったところで何かが替わるわけでもない」
「確かにその通りだな」
そしてもう一つもっと気になっている事を聞いた。
「今日は疲れたろう。泊まっていくか」
沈黙が返ってきた。おい、さっきサッカー小僧に対して「松井さんがいますから」と私を見つめていたではないか。飯だけ作って帰るというのはいい加減やめてくれ!私は二人の関係を進めたかったが、恭子はガードが堅かった。
「うん。泊まっていく」恭子は真赤になりながら答えた。
私はまた一つ恭子の作った壁をのりこえたらしい。
ソファーで良い雰囲気になっているときに恭子が小声で言った
「私、今まで男性とお付き合いしたことないの」
「まぁ、今までの君の情報を総合するとそうなるだろうな。あのサッカー小僧ぐらいしか・・・・?」
と言いながらふと気付いた、気づいて手に持った珈琲を落としそうになった。初めて。
「その、ごめんなさい」
さらに小声で恭子が言う。つまりそういうことだ。彼女は初めてなのだ。なにか特別な事をしなくてはならないような義務感。しかし私はロマンチックな方ではない。それに特別なことをしようとして彼女の初めてを台無しになどしたくない。
「よし、じゃいこう」と言い恭子を寝室まで引っ張って行った。
とにかく優しくすることだけを考えていた。
私は、SEXは上手なはずだ(たぶん)だから大丈夫!
朝、目覚めると恭子は私の手を握って眠っていた。なかなか嬉しい光景だ。今日は土曜日休みだ。恭子と一日ゆっくり過ごそう。そんなことを考えていると恭子も目を覚ました。
恭子の髪をなでながら「おはよう」と言った。
「歯磨きたい。着替えないどうしよう」とまだ眠そうに言う。
「何か着られるものがあるだろう。探してくる」
と言って、クローゼットへ行った。恭子が着るもの?私のトレーナーは?サイズが違いすぎる、ぶかぶかだ。と彼女が大きめのトレーナーだけを着ている姿を想像してニヤニヤしていた。
寝室に戻ると彼女がベッドと格闘?していた。
「おい、何をしている」
彼女は何かを隠そうと必死のようだ。私は面白がってのぞき込んだ。自分の裸もそうだが、シーツの汚れを隠そうとしていた。
私は布団ごと抱きしめながら気にすることはないと言ってキスをした。
私だけが知る本来の恭子は、無邪気で、朗らかによく笑う。天然ボケな部分もあるが。そこも愛おしい。料理が好きで、集中すると他の事を忘れてしまう。そして車が好き。私だけが知る恭子が増えていく。私は彼女を手放せなくなっていた。彼女に溺れていた。彼女を愛していた。
10、
師走に入ったある日、会議を終え自分のデスクへ行くと恭子からのメモがあった。
「佐々木崇さんがロンドンから帰ってきました。正月を実家で過ごすとか。一階エントランスに行っているので、部長も良かったら来てください。」とある。私は急いでエレベーターに向かった。前と同じ場所に二人がいた。しかもまた鍵を渡している。どういうことだ。
「お久しぶりです。今恭子ちゃんからいろいろ報告を聞いていたところです。嬉しい報告で良かったです。」
と前回と同じように穏やかな声で挨拶した。恭子は横でほほを染めている。
「私は仕事があるので先に戻っています。」
と言って恭子は席を立った。私に目配せして。どういうことだろう。
「しかし、まだ数か月しかたっていないでしょう。進展が早いですね。私も恭子ちゃんを愛していましたからショックです。ロンドンで雑務に追われている間にこんなことになっていたなんて。でも一番ショックを受けるのは妹かもしれませんね。私と恭子ちゃんが結婚すれば本当の姉妹になれると良く言っていましたから」
この男は何を言いたいのだ。それより恭子の家の鍵を手の中で転がすのはやめろ!!
「今、愛していると言いましたか?」
「ええ、言いました。私は恭子ちゃんを愛しています」
なんだ、その余裕の態度は、彼女は私のものだぞ。
「でも、愛だけでは生活できませんから。彼女はいろいろ面倒なところがある。官僚の妻向きではない。海外勤務やパーティーへの同伴、まず無理なことです。彼女には常に寄り添い守る人が必要です。私にその役目は無理です」
「ご安心下さい。私がその役目を引き受けますから。」
一瞬の間があった。
「そう言っていただけて、安心しました」
と言いながら佐々木兄は立ち上がると別れの挨拶をした。そして立ち去り際
「あ、今日は恭子ちゃんの家に泊まります。新潟には明日、帰りますので。では」
あの鍵をちらつかせながら言った。
なんだ、恭子の家に泊まるだと。どういうことだ。
とにかく自室に引き上げることにした。するとすぐに恭子が部屋にやってきた。
「崇さんと何を話したの。崇さんに席をはずすよう言われたので先に戻っていたのだけど」
「今日、君のマンションに泊まると言っていた」
まず出た言葉がそれだった。多分怒った声になっていたと思う。
「ええ、もともと崇さんのマンションですし、今日は部長のマンションに泊まろうかと思っていますけど。よろしいですか」
考えてみればそういう事だ。今までだって恭子は私の部屋に泊まっている。私は何を心配していたのだ。いやあの男にまんまと乗せられた。あの思わせぶりな態度、やはり嫌な奴だ。私が黙っているので、恭子が心配顔で私の顔をのぞき込んでいたる。
「もちろん泊まっていきなさい。用意をしてくるといい」
「用意ならもうしてあります。今日の帰りは何時頃ですか」
すこし残念そうな声だ。
「すまない。今日はパーティーだ。そうだな9時過ぎ、10時前には戻る。家で待っていなさい」
そう、私の部屋で待っていなさい。けして自宅には帰るなよ。
今日のパーティーは、有名ブランドの新社屋完成とかなんとか、よくわからないパーティーだ。とにかく今後のために顔を売っておこう。いつものことだが。
パーティーの間、佐々木兄の言葉を思い出していた。恭子のことを愛している。しかし官僚の妻には向かない、愛だけで生活はできないとも。私も仕事の関係でこういったイベントに参加する。妻あるいはパートナー同伴で参加している人も多い。しかし恭子にそれは望めない。前妻とはこういったパーティーで知り合った。背が高く美人でこういう場が似合う女だった。まぁ元モデルだけのことはある。などと考えていると、その本人にばったりあった。
「やだ、久しぶり。12月はいいわよね。イベント盛りだくさんで」
と彼女が声をかけてきた。
「ねえ、まだ一人なの?いい人いないわけ」
と聞いてくる。
「彼女はこういう席が嫌いなのでね」
と私は答えた。前妻には以外だったらしい。
「え、なにそれ。あなた好み変わったの。前はよく遊んでいたじゃない」
と言われた。確かに、昔はよくクラブやパーティーに行っていた。そう目の前の女を連れて毎週末のようになんらかの会に参加していた。父にはよく注意された「いつまでふらふらしているつもりだ」と。
ふと思った。私はここで何をしているのだろう。関係先への挨拶はもう済ませた。まだここにいる必要があるのだろうか。前妻がまだ何かしゃべっているのを遮って
「すまない、帰るよ。恭子が家で待っているのでね」
と言って会場を後にした。そう私の居場所はもはやここではない。守る人の傍、愛する人の傍だ。恭子。
家に帰ると恭子の姿が見えなかった。いつも「お帰り」と言って出迎えてくれるはずなのだが。まさか自宅へ帰ったか。まずい、今日は佐々木兄がいる。部屋を一つ一つ探した。そして書斎で恭子の姿を発見し、ほっとした。
「ここにいたか。探したよ」
彼女が不安そうな顔をしている。そんな顔はさせてはおけない。私は駆け寄ると強く抱きしめていた。何より大切な守るべき人。そしていつもより熱いキスをした。恭子は安心したのか私の腕の中で笑顔を取り戻していた。
11、
年末年始の休み。独り者の私にまた留守番の役が回ってきた。両親は箱根の温泉につかりに行くという。が、今年は恭子が傍にいた。連休は一緒に私の家で過ごした。
「私のレシピに伊達巻とかまぼこはないけど、黒豆は煮るわ」
と言っておせちを作った。
正月の東京は観光地以外閑散としている。ドライブや散歩にもってこいだ。あと海外ドラマを見た。恭子は集中すると止まらないタイプのようだ。6話目を見終わり7話目に行く前に「腹がすいた、何か食べたい」と言い止めた。あのままでは最終話(13話)まで見続ける勢いだった。とにかく今年は良い一年のスタートを迎えた。
正月があけ仕事始め、前妻から電話が来た。電話帳に登録されたままだった事にびっくりした。
「ねぇ、この間のパーティー、あの後盛り上がったのよ。あなた帰っちゃったけど。ところで同棲しているって聞いたわよ。この間言っていた女?どんな子なの?」
なんだ、その話は。
「お前には関係のないことだ」
私は突っぱねた。
「でも、私の部屋に別の子がいるのよね。なんか気になるじゃない」
と聞いてくる。
「あの家は私の家だ。離婚時の調停調書もそうなっている。もともと離婚の原因は君の浮気だろう。もう一度言うが君には関係ないことだ」
この女は今さら何を言いたいのだろう。
「ねぇ、久しぶりに飲まない。ヴァレンチノの新作発表パーティーがあって呼ばれているの」
「いや、忙しい。悪いが切るよ」
と言って電話を終えた。恭子との事が噂になっている。しかも同棲していることになっているらしい。良いことか?少なくとも悪いことではないはずだ。べつに噂が広まったとしてなにも困ることはない。私はそれ以上深く考えることはしなかった。
ところが一週間後、社を出ると前妻に声を掛けられた。
「会いに来ちゃった」
おい恋愛ドラマじゃあるまいし、なんなのだ。
「ねぇ、どこかお店連れてってよ。寒い」
と甘えた声を出してくれる。
「いや、家で彼女が待っている失礼するよ」
と言うと
「ねぇ、その女って何者。ちゃんと調べたの?あなたって脇が甘いから」
と言ってA4サイズの封筒をひらひらさせている。明らかに恭子の事だ。それに会社の前で前妻といつまでも立ち話もしていられない。近くの喫茶店に入る事にした。
「はい、プレゼント」
前妻は封筒を差し出した。一瞬見るべきか迷った。前妻が含み笑いしている。取りあえず手に取ってパラパラと目を通してみた。私は目を見張った。驚きを隠せない。前妻が私の驚いた顔に満足している。
「だからあなたは脇が甘いって言ったのよ。しかし、どう潜り込んだのかしらね、その子中卒でしょう」
「いや、ちゃんと大学を出ている」
私は上の空で答えていた。
「ちゃんと調べたほうがいいわよ。あなた、あの松井の息子なのだから。財産狙いの女いっぱいいるのだから。ところでさ、今度のパーティーなのだけど・・・・」
と話し始めた前妻に「失礼する」と言って店を出た。慌てていて珈琲代を渡さないままだった。
とにかく家に向かって歩き始めた。考えてみれば23歳の女性の身上調査書類がこの厚さになるわけがない。内容は盛りだくさんだった。
父親の氏名不明、義父による虐待、医療関係者への暴行事件
私の知っている恭子ではない。でもこの写真は紛れもなく恭子本人だ。
考えがまとまる前に家まで帰ってきていた。玄関を開けるといつものように恭子が待っていた。
「お帰りなさい。帰りが遅かったからどうしたのかなと思っていたの」
心配顔だ。
「帰りがけに呼び止められてね」
私は上の空だ。
「これ何」
と恭子が茶封筒を指差した。私はかなり狼狽した顔をしていたのだろう。恭子がその封筒をひったくると勝手に開け中身を見た。本人なら一目見て何が書いてあるのか分っただろう。
「調べたのね」
今まで聞いたことのない冷たい声だった。でもその返事は書いてあることは自分の事だと認めることになる。どういうことだ。
「その目よ、そうあの時もみんなそういう目で見ていた。なによ、こんなもの」
といいながら書類を破り始めた。怒っている彼女を初めて見た。しかも激怒。いつもは怯えるか怖がるかだ。抱きしめて慰めればよかった安心させてあげればよかったけど、怒っているときはどうする。どうすればいい。彼女は自分のカバンを持つと出て行こうとした。
「待ってくれ」
と言い彼女の腕をつかんだが、彼女は私の手を振りほどいた。しかもその時カバンが私の頬を打った。金具部分が当たって頬が少し切れた。痛い。
一瞬、私を殴ったと思ったのか恭子が動きを止めたが、怒りは治まらない。
「言っておきますけど。父は素晴らしい人よ。父親が誰だか分らない母親にも捨てられた私を育ててくれた、立派な人よ。それを・・あなたは違うと思って」
最後は涙声になっていた。踵を返し玄関へ向かうが何かを思い出したのかカバンを漁り始めるとスマホを出して私に向かって投げつけた。スマホは壁に当たって壊れた。しかも最後に
「最低!!」
と捨て台詞を叫んで出て行った。
一瞬の間の後、私は彼女を追いかけた。しかし、エレベーターに丁度乗ったところだった。まずい、非常階段を駆け下りたが間に合わなかった。とにかく車の鍵をとりに部屋へ戻った。スマホのGPSから位置を特定しようとパソコンに向かったところで気づいた。彼女はそのスマホを壊して行ったのだ。私が彼女の位置情報を確認している事を知っていたのか。まず彼女のマンションへ行ったが応答はない。部屋の灯りもついていなかった。他にどこへ行く。彼女の行きそうな場所を考えたが思いつかない。私だけが知っていると思っていた恭子。でも私は彼女の事をなにも知らなかった。
12、
一旦部屋へ戻る事にした。破られた身上調査書、今一番情報があるのはこの中だ。いまいましいがもう一度目を通すことにした。連絡のつきそうな先は塩谷喜一(恭子の義父)と鈴木和子(実母)ぐらいだろうか。どうする連絡するか。そうだそれより佐々木兄妹だ。一番頼りにしている。確か名刺をもらっている。会社にあるはずだ。とにかく恭子を探さないと。私は彼女を傷つけた。常に寄り添い守るべき人を愛する人を傷つけてしまった。
会社に行き佐々木兄の名刺を確認したが連絡先霞ヶ関となっていた。携帯番号くらい書いておけ!結局自宅に戻り恭子が戻ってくるのではという淡い期待を抱きながら朝を迎えた。
会社には来るだろう。休むとしても恭子は真面目な性格だ、無断欠席するはずがない。私はいつもより早く7時には出社して何らかのアクションがないかと待った。8時、9時と時は過ぎたが彼女は来ない。来たのは人事課長だ。
「君のところの鈴木恭子君だが、退職願が送られてきた」
私は脳天に雷が落ちたような衝撃を受けた。仕事を辞める。
「最近の子はなんでもメールで済ませようとするから困るよ。退職願も今じゃメールで送ってくる。一応仕事だから確認させてもらうが、部内で何かあったのかね、会社がらみの問題なら今後の対策を考えておかないといけないのでね」
と言いながら私の頬にある傷を見た。私が何かしたのではと疑っている。確かにとんでもないことをしでかしたのだが。
「この件は保留という事にしていただけませんか。彼女は貴重な戦力です。慰留する方向でいきたいので」
と、私が言うと、人事課長は頷いている。
「確かに鈴木君は人事考課でAプラスだ。失うには惜しい人材だ。2週間待つからその間に結論を出してくれ」
と言いおいて部屋をでた。
こうしてはいられない、とにかく佐々木兄妹に連絡を取らなくては。まず財務省に電話した。職員個人の連絡先は教えられないと言われた。この個人情報保護のうるさい時に何を言っても聞き出せるはずもなく、伝言を残すことにした。受け答えの感じからその伝言が届くには何日もかかるだろう。何か他に方法は、妹の連絡先は、とにかく考えた。
そうだ品川のマンション。当社が7年前に開発し売り出した物件だ。なにか情報が残っているかもしれない。私は資料保管庫へ行き7年前の資料を探した。「売買台帳」に購入した兄の連絡先があるはず。連帯保証人はきっと両親だろう。ならば実家の住所もわかるはずだ。
1時間かけて探し物を見つけた。実家の住所ゲット。NTT番号案内から新潟の住所につないでもらい妹を呼び出してもらった。確か名前は「望」あいにく留守だったが伝言を残した。
「鈴木恭子さんの件で大切な話がある。連絡を待つ」と、
本当に親友なら連絡が来るはずだ。私は新潟に向かう準備を始めた。3日間の休暇願、その間の仕事についての指示、そして自宅に戻って着替えをカバンにつめ東京駅へ向かった。12時前には関越新幹線に乗り込んでいた。乗り込んですぐ佐々木妹(望)から連絡が来た。
驚いたことに佐々木妹は私の事を知っていた。兄と恭子双方から話を聞いていたという。
「恭子そちらにいませんか?」
だが私のこの問は予想外だったのだろう。驚いている
「その、ケンカしまして、頼るなら佐々木さんだろうと思ったのだが」
「来ていませんが、つまり逃亡中という事ですね」
「実は今新潟に向かっているところです。きっと佐々木さんの所にいるだろうと思ったので」
恭子どこにいる。
「じゃあ、そのままこちらに来てください。東京で探すよりこっちにおびき寄せる方が簡単ですから」
燕三条で下車し、あとはタクシーで来るようにと言われた。佐々木妹は私に協力的だ。佐々木宅に着くと大柄の女性が待っていた。佐々木望、恭子の親友だ。奥の客間に通された。佐々木家はコメ農家だった。座卓を挟み座るとさっそく佐々木妹が切り出した
「さて、ケンカの原因を教えてください。恭子が逃亡するとはよほどの事です。返答によっては恭子をロンドンの兄のもとに届けますから」
私はどう言ったものか、彼女の身上調査の内容を考えると言っていいものか、佐々木妹は何処まで知っているのだろう。私は差しさわりのない部分を話した。。
「お節介な知人が彼女をその、調べたのです。その書類を見られてしまって。あんな怒った恭子を初めて見ました」
嘘はない。佐々木妹は、ああそういうこと。納得という顔をしている。
「佐々木さんはご存知ですか、その彼女の」と言い淀んでいると
「恭子から聞いた範囲で知っています。多分あなたが今知っている内容とは違うと思いますけど」
私は教えてほしいという顔をしていたと思う。話の続きを待った。が
「その件は恭子本人から聞いた方がいいですね。ちゃんと話し合った方がいいでしょう。彼女に電話してみます」
と言って電話を取り出し掛けた。が恭子は電話に出なかった。
少し待つと、恭子から折り返しの電話が来た。彼女は口に人差し指をあて「シー」とし、スピーカーにして電話に出た。
「恭子。あけおめ!元気している。久しぶりに東京にでも行こうかと思って」
おい、お前が東京に行ってどうする。
「あなたの好きなお店に私はいけないけど。どこ行きたいの」
元気のない声が返ってきた
「相変わらずおうちでネットショピングしているのね。ところで本日のトピックスは」
「経済、日経は下げている。新年初日に下げるのは珍しいことだね。政治、首相は年頭の挨拶、強気だね。エンタメ芸能人ハワイから続々帰国。こんなところかな」
なんだ、この面白い会話は。私の知らない恭子の一面だ。
「なんか元気ないね。料理している」
「今、雨宿り中なの」
「雨でもないのに」
「そう。DVD見ていた。ちょうどポール・ペタニーが優勝するところ」
「その映画好きね」
「だって、ウインブルドンで優勝して大観衆の前で彼女にキスするのよ。憧れるじゃない」
恭子はそういうことに憧れているのか。
「何言っているの、あなたは大観衆を前に逃げ出すくちでしょ」
と言って笑った。電話の向こうからも笑い声が聞こえてくる、私はほっとした。恭子の笑い声が聞こえる。
「雨宿りならこっちくれば。農家の冬は暇でさ」
「うん。行こうかな」
そうだ来い!私は祈った。
「車はダメだからね。今関越トンネル雪で凄い事になっているよ。電車にしなさい。正月も明けたからそんなに混んでないはずだし」
「えぇ。電車」
「グリーンで早く来るか、鈍行でゆっくり来るかどちらかにしなさい」
と命令している。恭子は命令に弱い。佐々木妹もそれを知っているようだ。
「分った。明日駅に行ってみる。時間は後で知らせるね」
「今回の宿題は東京バナナ、メープル味ね。じゃ、待っている、またね」
と言って電話は終了した。「宿題」に東京バナナ?
こっちに向かうと言っている。取りあえず安心した。明日には会えるだろう。佐々木妹に、今日はここに泊まっていくよう言われた。気が変わって今日中に来るかもしれないしこのまま待っていた方がよいだろうと。私はご厚意に甘えることにした。それに佐々木妹から何か聞き出せるかもしれない。という考えもあった。
「あの、彼女が今どこにいるのか分るのですか」
「多分インターネットカフェです」
「え、でも人混みはダメなはずですよ」
「あぁ、あそこは仕切りがありますし、女性専用部屋がありますから。多分行きつけの場所が5,6箇所あるはずです。ご存知と思いますけど、恭子には避難できる場所が必要ですから」
「ネットカフェを使っているなんて、知りませんでした。」
また私の知らない彼女の一面だ。
「それは、あなたが恭子にとって安心できる場所だったからでしょう。あなたと一緒の時に避難所は必要なかったはずです」
え、私が安心できる場所。
「あとは、恭子から連絡があればお知らせします。夕食はこちらに運ばせますね。私は奥にいますので用があれば声を掛けてください」といって佐々木妹は部屋を出て行った。
私はここにきて、やっと今後の事を考え始めた。まずは謝ろう。お父さんとの事を問いただすべきだろうか。いやまた怒るかもしれない。そんなことを悶々と考えていると再び佐々木妹が現れた。先ほどと同じ姿勢のまま固まっている私を見て面白がっている。
「明日に備えて休まれた方がいいですよ。あとこれ。きっとお役に立つと思います。全部覚えたから必要ないと言ったので私が貰いました。つまり、今は私の物だからお見せして問題ないでしょう」
と言ってノートを2冊渡した。そして嬉しそうに含み笑いをしながら出て行った。ずいぶん使い古したノートだ。時間もあるし読むことにした。
ダイトルは、「会話辞典」
1、 謝り方
申し訳ありません。ございません。≪頭に≫ ご迷惑をおかけし、ご心配をおかけし、
すみません。すみませんでした。≪頭に≫ ご迷惑をおかけし、ご心配をおかけし、
ごめんなさい。≪頭に≫ 本当に ≪後に≫心配かけして待って。
ごめんね。≪頭に≫ 本当に ≪後に≫しんぱいさせちゃって
何だ、これは、よくある教養本のようだが。その後も「お礼」「断る」「同調する」等々進んでいく。「はい」という部分はかなりたくさんの書き込みがある。
はい → YES,その通りです。
⤴ 内容を聞き返すとき。(ちょっと失礼だから注意)
⤵ 怒られた時、しゅんとした感じで
はぁい YES ちょっと甘えた感じ
はぁ ⤴ ヤンキーの威嚇
つまり矢印は抑揚を指しているようだ。「はい」の一言に色々意味があるという事だ。
恭子のではない字がある。多分「甘えた感じ」という丸っこい字は佐々木妹の字だろう。「ヤンキー」の汚い字は佐々木兄だろうか。字の上手さでは佐々木兄に勝ったな。
夕食を佐々木奥様が運んでき来た。泊めてもらうのに挨拶もしてなかったことに今さら気づき慌てて挨拶をした。
「お気になさらず、古いけど部屋ならいっぱいありますから、いつでもいらしてください。なんか明日お見合いするとか。成功するといいですね」
と言い出て行った。見合いってなんだ?そうだ佐々木妹は両親に私の事をどう説明しているのだろう。
そろそろ寝ようかと思っていると佐々木妹が来た。
「始発の新幹線に乗ると連絡がきました。とき301だから8時には燕につきます。父に迎えに行くよう頼みましたので、9時前には来ると思います」
と、始発を選ぶあたり恭子らしい。
「いえ、これ以上はご迷惑でしょうから、私が迎えに行きます」
と言うと
「ダメです。駅であなたを見かけたら、まだ逃亡しますよ。ここで確保しないと」
なんだ、その刑事ドラマのような言い方は。私は話題を変えてみた
「あの、先ほどのノートですけど。あれはいつ頃、何のために書いたのですか」
「大学入学してすぐの頃です。私と兄も面白がって手伝いました。小学生の国語みたいでしょ。でも恭子にとっては会話をするために必要なことだったの。初めて会った時の恭子は歌を忘れたカナリアでしたから」
つまり話さなかったという事か。佐々木妹はもう少し教えてあげてもいいかなと思ったのか恭子について話し始めた。
「よく、人の目が怖いと言っていました。昔いろいろあったから。その事は、あなたもすでにご存知ですね。周りがすべて敵に見えたのではないでしょうか。とにかく怯えていました。兄に初めて会った時も逃げましたから。恭子はそれを「予習帳」と「人物図鑑」を作ることで克服したの。作るよう勧めたのは兄でした。国会答弁作成と同じ事だと言って、つまり相手を知り、何を質問するか予想し、答えを用意しておく。そうすれば怖くなくなるから。きっと今でも作っていると思いますよ。見せてくれませんけどね」
そう言うと、ではまた明日とそのまま部屋を出た。
翌日、早くに目が覚めた。後はとにかく待った。
8時、駅に着いた頃か。腕時計をチラチラ見ながら待った。8時45分ごろ外から若い女性の声がしてきた。その楽しそうな声に少し落ち着いた。声が廊下を歩いてくる。
「はい、宿題。ついでにレーズンサンドも買ってきた」
恭子の声がする。と、部屋に私がいるのに気づき廊下を逃げようとした。が、逃げられないよう佐々木妹が仁王立ちしている。
確保だ!!
「騙したわね」恭子が怒っている。が相手は佐々木妹だ。
「人聞きの悪い。ここに誰がいるかなんてあなた聞かなかったじゃない。つまり省略よ。
私、朝からお腹の調子悪いのよね。ちょっとトイレ行ってくる。長くかかるかもしれないから先に進めていて」と言って佐々木妹は奥に消えた。
恭子は廊下に立ったままだ。どうしようか考えているらしい。私は座卓の向かいを指差しながら「座りなさい」と怯えさせない程度に語気を強めに言った。恭子は命令には弱い。案の定素直に座った。
「聞きたいことが沢山あるのは分る。ここにきて内容をまとめようと思っていたのに」
と言いながら座る。しかし、私としては内容をまとめる前に話をしないといけない。
「手を出しなさい」
私は命令し。恭子はまた従った。私はその手を握った。恭子は手を引っ込めようとしたが私の力のほうが強い。そう、もう絶対に逃がさない。
「君が何を言おうと私はこの手を離さない。だから3通りの言い回しではなく事実だけを言いなさい」
「事実だけ」
「そうだ、事実だけだ」
「省略は?」
「多少は良いだろう。でも肝心な部分で省略はするな。何回も説明するのは嫌だろう。私もこの一回だけ話を聞く。私からの質問はなしだ」
恭子は考えている。が、いずれ話さなくてはならないと分かっているはずだ。恭子の手から力が抜けた。逃げるのではなく話すことにしたらしい。
「えっと、あのフェイスブック事件の説明覚えている。」
と聞いてきた。
「むろん覚えている」
「じゃ、その続きから」
つまり、続きがあったという事のようだ。
「問題は学校裏サイトだったの。学校も教育委員会も困っていた。色々書かれていて。父親と血がつながっていないとか。あ、これは本当の事。私生物学上の父親知らないから」
話があちこちに飛ぶ。事前に答えを用意していない時はこんな話し方になるのか。
「で、血のつながらない男と暮しているわけだから怪しいとか、何かあるのではないか、例えば虐待とか、と言う風に話がどんどん膨らんでいったの」
恭子の手に力が入り始めている。これからが本題という事か。
「児童相談所と市の福祉課と色々な人がやってきて私を連れて行った。私は最初イジメのことで連れてこられたと思っていたの。だから周りの人に「つらかったね。大変だったね」と聞かれて。確かにイジメはつらかったから「はい」と答えたの。でも向こうが聞いていたのは父による虐待の事だった。もちろんなにもされてないわよ。父は立派な人だし、私に手を挙げたことさえなかった。でも最初の「はい」が後々まで尾を引いたの」恭子の手がかすかに震えだしている
「父に何をされた?と聞かれて父は立派な人ですと答えると、それは嘘だろう、本当の事を言え、最後にはお前のために言っているのだぞと怒鳴る人もいた。まるで刑事ドラマの取調室みたい。病院に連れていかれてその・・・調べられた。きっと痣とか証拠を探していたのよね。気付いているかしら、右肩に3センチぐらいの傷跡あるでしょ」
これは私に向かって聞いているのだろう。「確かにある」と私は答えた。
「それ、虐待の証拠だって。小学生の時にブランコにぶつけただけなのに。で写真パシャパシャ取られた。次に白衣を着た人が来て、私の手を取って色々質問するけどリラックスして答えてくれればいいから、とか言いながら肩に手を回してきたの」
かなりの間があってから続きを話した。
「その、我慢の限界で。殴った。その人尻餅ついて鼻血出していた」
「その後質問はされなくなったけど、母が来て鈴木の家に連れていかれた」
恭子の手の握り方が変わった。今度は怒りだろうか。爪を立てている。
「母の事だけど、母は私を連れて父と結婚したの。私が2歳の時。で6歳の時に今の夫と駆け落ちしたの。私を置いて出て行った、捨てたと言った方が正解ね。私母の顔覚えていなかった。迎えに来たとか言われても、この小母さんだれ?て感じで。母も母の夫も面倒な事に巻き込まれたと思っていたみたい。父との養子縁組は離縁という事になって、私の親権は母に、姓も鈴木に変えられていた。血縁があるというだけで、私を捨てた女に私の断りもなく親権移すって、信じられる?? 私は父の所に帰りたいと訴えたけどダメダと言われて、喧嘩になって、そして言われたの、お前がここにいないと刑務所に行くことになる、と」
私の手に恭子の爪が食い込んだ。恭子はここで話は終わりだというような顔をしている。
「で、それからどうした」私は先を促した
「あなたの調査書への答えは、これで十分でしょ」
いや私の調査書ではないが、その件はまた後にしよう。
「いや、高校中退した君が大学に進み今私の目の前にいる。それまでには何があった」
彼女は少し考えてからまた話し始めた。
「最初はハンガーストライキした。とにかく抵抗したくて。反抗期みたいなものね。面倒かければまた捨てるだろうと思った。でも捨ててもらい時には捨ててくれない。その重要な書類にサインしていて、そこには私が成人するまで監督責任を負うとある。だから成人するまでの我慢だって言っていた。ひどい物言いだけどそれがヒントになったの。つまり成人すれば私は自由になる。父に会うこともできる。それで大検受けて大学生になったの。父はよくお前は賢いと褒めてくれた。親の贔屓目だけどね。大学生の私の姿を見たいとも言っていた。中卒の状態で父に会うわけにはいかないでしょ」
恭子の手がまた震え始めた。
「二十歳の誕生日に父に会いに行った。4年ぶりにあってみると。父は仕事を変えていて、白髪が増えて、以前より痩せていた。考えてみれば父だって色々ひどい目に合っていたのよね。私一体何をやってしまったのだろう・・・だって私のせいでこんなことに・・・」最後は涙を流していた。私に手を握られているから涙をぬぐうことはできない。
「恭子は何も悪くない」
私は断言した。
「父も同じことを言っていた。ちょっと間が悪かっただけだよって」
泣きながら少し微笑んだ。
「手、離したくなった?」
恭子が私の反応をうかがっている。答える代わりに私は立ち上がると恭子の手を手前に引っ張り抱きしめた。引っ張られた恭子は座卓の上に上がるような形になり、目線がちょうど同じ位置になっていた。
「ごめんなさい」
恭子が謝った。何をあやまる必要がある。と恭子が私の頬のキズを指でなぞった。
「ケガさせちゃったわね。そんな積もりなかったのに。傷つけたくない」
「こんな傷すぐ治るよ。君の傷のほうは問題ありだけど」
「そうね、なかなか消えてくれない傷」
そのまま抱き合っているところに佐々木妹が現れた。
「あら、見せつけてくれるわね。で駅まで送ろうか?」
と聞いてきた。
私たちは、佐々木ご夫妻にわかれの挨拶をし、佐々木妹の運転で駅まで送ってもらった。
「お父さん、見合いの相手が恭子だってわかったとたん怒りだしちゃって大変だったのよ。兄嫁に違う男紹介してどうする、アホ!て怒鳴られた」佐々木兄妹は話が面白い。
「お母さんなんか恭子に自分の嫁入り道具を譲るつもりだったのにと泣き出すし」
「あはは、ごめんねぇ何かごたごたして」
恭子は慣れているのか普通に受け答えしている。
「まぁ、納まるところに納まったって感じかな。でも次逃げてきたら有無を言わさずロンドン送りだからね」
「でも崇さんそろそろ日本に帰ってくるでしょ」
「あ、じゃあ霞が関送りね」
と言って二人は笑った。
「今後は、逃げられないように注意します。」
と言って私も笑った。
関越新幹線に乗り東京へ向かった。もちろんグリーン席で。車両には私たちの他に一人しかいない。
「佐々木兄妹、容姿は似てないが話し方や雰囲気はよく似ているな」
「面白い兄妹でしょ。話していると楽しくて」
「どうやって知り合ったのだ」
私は聞いてみた。
「大学入学の日、あまりの人の多さに式場に入れなくて、外のベンチに腰掛けていたら望が声掛けてきたの。もう式が始まるよ、入らないの?と。でも私は入れないからって言うと、じゃ私も一緒にチューリップでも眺めてよって隣に座ったの。あの日以来、望だけはずっと私のそばにいてくれた。私、面倒でしょ色々と。たいていの人は、2度目は誘ってこない。でも望だけは違った。あと部長も」
と言って私を見上げた
「実は昨日の電話、スピーカーで私も聞いていた」
と言うと彼女はびっくりした。
「え、そんなに早く新潟に行っていたの」
「ああ、行くなら佐々木さんの所だろうと思って。電話の内容がおかしくて笑いそうになった。あの二人だけには分るあの隠語はなんだ」
「隠語って?」
「雨宿りとか、本日のトピックス。あと宿題に東京バナナ」
言いながら笑ってしまった彼女も笑っている
「望流のユーモアある表現ね。雨宿りは私の避難先の事、ネットカフェや公園あとトイレとか使っている。トピックスはそのままね。会話のきっかけと言うかその日何を話すか予習しているから」
「じゃ、今話している内容も事前に考えていたという事か?」
「部長との会話は予習していない。というか、予想外の質問ばかりするから。最初の頃はずいぶんまごついたのよ。最近は慣れてきたけど」
私は予想外か
「宿題は?」
「宿題は、これも望み竜のジョークなのだけど、私のことを心配してのことだと思う。人ごみに慣れさせるためにいろいろ頼みごとをする。最初は学食に行って醤油もらってきてだった。だんだん難しくなっている。今日のお題は東京駅に行けと言いたかったのだと思う」
「東京駅大丈夫だったか」
東京駅はかなりの人混みだ
「品川で買いました」
私の顔に、ずるをしたなと書いてあったのだろう。
「だって、昨日はその気力なかったから」
「ところで我々は今東京駅に向かっている。どうする」
私は聞いてみた。
「腕組んで歩いてください。そうすれば大丈夫。」
「いつでもどこでも、私の腕で良ければ使ってくれ」
と言って二人して笑った。
東京駅構内を腕組で歩いた。しかも手には旅行鞄、誰が見てもラブラブという風に見えただろう。そういう時に限って知り合いに会う。人事課長、なぜここにいる!
「そうだ、退職願」
私は思わず叫んでしまった。人事課長は空気を読んだのだろう
「そう、メールで送られてきた退職願。慰留が成功したという事のようだね」
と言った。
恭子は頭を下げながら
「この度はご心配をおかけし申し訳ありません。仕事頑張りますので、今後とも宜しくお願いします」
と言った。これはビジネスモードの挨拶だ
「今回は休暇という事にしておきましょう。しかし上司と部下が同じ日に休暇ではちょっとまずい。鈴木君は今週いっぱい休んで来週から来なさい」
と言った。
13、
翌日、彼女の作った朝食を食べ「いってらっしゃい」と見送られて出社した。今までは必ず彼女が先に出社している。見送られるのは初めてだ。照れるが嬉しいことだ。今日はまだ恭子は休みだ。出社したばかりだというのに彼女が心配だ。彼女に会いたい。今日は定時で帰ろうといつもの倍の速さで仕事をこなしていると、佐々木兄から連絡が来た。今さら遅い!
「何か急用があると伝言頂きまして」
と聞いてくる。ふん、教えてやるものか
「いいえ、その件はすでに解決しました。お騒がせしすみません。もう大丈夫です」
「そうですか」
探るように聞いてくる
「佐々木さんもお忙しいでしょうから、これで失礼します」
と言って電話を切った。一応ナンバーは電話帳に登録しておこう。ふと携帯を確認してみると前妻から電話3回、メール5回来ている。ずっと無視していたが、何らかの対策が必要かもしれない、恭子に調査書の出所を知らせるべきだろうか。彼女は正直に打ち明けてくれた。私も正直に打ち明けようと決心した。
しかし、彼女の「お帰りなさい」の声に決心がぐらつく。まず夕食をとり珈琲タイムになってから切り出すことにした。
「手を出しなさい」
前回と同じ手法でいこう。また逃げられたら困る
「え、まだ何か聞きたいことがあるの」
「いや、今回は私の告白だ。だが逃げられたら困る」
ソファーに並んだまま手を握った。
「その、あの調査書だが、私が依頼したわけではない。その前の妻が持ってきたものだ」
「あなたの前の妻。モデルの加賀美萌」
そうだが、なぜ名前を知っている。
「そうだ、彼女が持ってきた。理由は分らないが」
と言うと
「イベントの女王、パーティーの華と言われている加賀美萌よね」
どうしてそんなことまで知っている。私が疑問顔なのに対し、彼女は何か別の事を考えている様子だ。
「私のほうからも報告がある」
と彼女が手を握り返してきた。
「塩谷恭子の名前だけど、ネット検索するとまだ出てくる。あの事が」
私は驚いた。
「削除依頼とか色々手は打ったけど、まだすべてが消えたわけではない。ただ鈴木恭子が同一人物とは気づかれていないから、安心していた」
少し間があってから
「今回の情報の出所は、多分柏じゃないかしら」
え、サッカー小僧か
「あの時大声で私の名前呼んでいたし、周りには興味津々という顔が沢山あった。塩谷恭子は誰だろうと思った人が調べて・・・」
あとは想像もしたくないということだろう。
「つまりサッカー小僧から聞いたという事か」
私は驚きを隠せなかった。
「そうかもしれないし。人づてにとか、また聞きしただけかもしれない。でも時間の問題かも・・・」
ここにきて何かに気付いたのかすごい力で手を放そうとしている。
「おい、何故手を放そうとする」
すごい力だ。まずい、また逃げようとしている。
「だって、みんなにばれる。私なんかだめ。あなたに迷惑かける、あの時の父のように、とんでもないことになる」
取り乱している。手を握るだけではだめだ、私は強く抱きしめた。
「なにも心配するな、何とかする」
とはいったものの実際どうすればいいのだろう。最初の告白ではこんなことになるとは考えていなかった。
「何とかするって、どうするのよ。人の噂ほど怖いものはないのよ、ネットに書かれたら勝手に一人歩きして嘘が事実になる」
不安で押しつぶされそうなおびえた声だ。彼女をいまだに苦しめているものに腹が立った。彼女を守らなければ。
「それでも何とかする。心配するな」とにかく今は落ち着かせないと。何か手があるはずだ。
翌日、私はしぶしぶ出社した。どうしても外せない仕事がある。彼女には家で待っているよう言いおいた。また逃げるのではないかという心配もあったが。休んでいた分の仕事も溜まっている。彼女も理解し今日はおとなしく家で待っていると約束してくれた。
まず、会社の顧問弁護士にネットでの誹謗中傷対策について問い合わせてみた。証拠を集め、削除依頼を出す。それでも続くようなら告訴、損害賠償請求となるとの事だった。「まずは自分で対応してください。」「実害が出たら来てください。」と言いたいようだ。
なんだ、高い顧問料貰っているくせに、それだけか!
こうして仕事をしている間に、また彼女が逃げだすのではないかと気が気でなかった。スマホはあの日壊れたままだ。彼女はすぐ逃げようとする。気になって仕事にならなかった。私は仕事の合間に一度自宅へ戻る事にした。部屋に入ると大音量で音楽が掛かっている。オペラのようだ。彼女はソファーに座っていた。取りあえず安心したが様子がおかしい。今話しかけないでという雰囲気だ
「ちょっと様子を見に寄ってみた」
「部長のパソコン借りて調べた。」
パソコンにはロックが掛かっていたはず、なぜパスワードを知っている。今その事は後回しだ。話を先に進めないと
「何を見つけた」
「柏のサッカー教室。来賓席に座る部長と私、あと内山君と部長と私が立ち話している写真。」
「写真ぐらい、そんなに深刻に考えなくても」
と言ったが彼女に睨まれた。私はその目に縮み上がった。いつもと立場逆転している。
「でも、あなたの妻は私に行きついたのよね」
と言いながら調査書を指差している。破いた物をテープで張り合わせたようだ。あまりにごもっともなご意見に「ぐう」の音も出せない。この雰囲気を変えたくて、話題を変えてみた。
「ところでこれはオペラか?こういう音楽が好きなのか」
「うん」
なぜだろう、場の空気が凍り付いた。さっきより悪くなっている。まだ残してきた仕事がある。このまま残しておくのは忍びないがいったん社へ戻った。
彼女の言う写真とやらを探した。確かに市のイベントということで広報誌に載っていた。とても小さく不鮮明な写真、これでは誰だか特定するのは難しいだろう。たとえ知り合いでも気づかないぐらいの代物だ。彼女はこれを気にしている。
いや、本当に気にしているのは、心配していることはなんだ。それを取り除かないと。昨日の会話を思い出してみた。
自分の名前がネットで誹謗中傷されている。それに対して彼女は不快に感じている、怒っているという呈だった。姓が違うからばれないと安心もしていた。確か「ばれるのは時間の問題。迷惑。父のように」と言っていた。
そう、自分の事ではない。私の事を心配している。自分のせいで迷惑を掛けてしまうと。
私はどう感じている。迷惑か?もちろんNOだ。昔いわれのない誹謗中傷で傷ついた。でも頑張って大学へ進み今では社会人として立派に生活している。賢い美しい女性だ。私の傍にいて何の問題がある。私が傍にいてほしいと思っているなら何の問題もないはずだ。
とにかく彼女は夕食を作りながら待っていてくれるはず。今日は定時で帰ろう。と思い定時前には退社した。
しかし、私が帰ると、帰り支度をした彼女が待っていた。夕食はない。待っていると約束した手前、一応待っていただけのようだ。
「なんだ、このカバンは」
私は怒りが先に出てしまった。また逃げようとするとは何事だ
「この関係はなかったことにした方がいいと思うの。傷つけてしまう前に」
うつむいている。きつく言い過ぎたようだ。私はできるだけ優しく言う事にした
「私は関係を終わらせるつもりはない。また、今回のネットの件だか何もしないことにした。このままほっておく」
というと彼女は驚いた顔をしている。
「だめよ、私みたいのが近くにいたら迷惑かけるだけ。父がそうだった。しかもあなたはあの松井裕の息子、いずれふさわしい地位につき権力を振るう人よ。私がいたら足を引っ張るだけ。私はただの疫病神だから」
やはり彼女が心配しているのは私の事だ。ふと佐々木兄の「愛だけでは生活はできない」という言葉を思い出した。いやそれは違う
「地位と権力は自分の力で手に入れる。でも愛は君からもらいたい。私の事を愛していると言ってくれ。もうどこにもいかないと言ってくれ。」
私は懇願していた。そして抱きしめてキスをした。とにかく彼女を引き止めたくて。
しかし、彼女は眼をそらしたまその場に立っていた。
私は最終手段として彼女を抱くことにした。避妊もなしだ。もし子供が出来てそれが理由で彼女がここへ留まるなら、逃げないならそれもひとつの手段だと思った。が、気づくと彼女は泣いていた。いけない、やりすぎたかもしれない。
「なぜ泣く」
「ごめんなさ」
「いや、謝ってもらいたいわけではない」
私はうろたえていた。
「ごめんなさい。私ずるいの」
何がずるいのだろう。何を言おうとしているのか最初、分からなかった
「もっと早く本当の事、言わないといけない。分かっていた。でも部長の優しさに、幸せにすがっていたかった。部長を愛していたから。いつも口をつぐんで先延ばししていた。私、ずるいの」
これは私への愛の告白だ。彼女の瞳に今までに見たことのない強さを感じた。
「ここにいさせてほしい。部長の傍に。部長のここに」
彼女が、私の胸に手をあてた。
「私は残りの人生すべ部長に賭ける。もう何処にも行かない。もう逃げない」
私の胸に置かれた彼女の手のぬくもりが、私を愛しているという言葉が私を安心させた。またしても立場逆転。彼女が私を安心させた。彼女は私のもの、私はキスで答えた。
14、
翌日、空腹で目が覚めた。昨日の朝食以降何も食べていなかった。隣に彼女の姿がない。私は慌てた。まさか逃亡?と思い、あわててリビングへ行くと彼女が朝食を作っていた。ほっとするのと愛おしいのがない交ぜのキスをかわした。
「もう少しで出来る。昨日夕食食べないまま寝ちゃったでしょ。だからちょっと多めに作った」
テーブルにはごはん、味噌汁、卵の何かにサラダ。朝からご馳走だ。そして彼女の「行ってらっしゃい。気をつけて」の声に見送られて出かけた。しかもお昼にとサンドイッチも持たされた。
最近分かってきたが、彼女は気分によって食事のメニューやボリュームが変わるらしい。サッカー小僧の事件の頃は今よりしょぼかったような気がする。美味しいことには変わりはなかったが。また初めての発見に笑みがこぼれる。
さて、今日は土曜日、本来休みだが私は仕事が溜まっているのでと言い恭子に嘘をついて家を出た。これから彼女に内緒で2つのことを行うつもりだ。彼女に要らぬ事を言ってまた苦しめたくない。逃亡でもされたら大変だ。たった1週間の間に、逃亡1回、逃亡未遂1回。これ以上何か起こったら私の身が持たない。それにこれは私の仕事だ。(恭子流に言えば嘘ではなく省略だ)
まず、前妻に電話をした。いや口止めのための脅しだ。
「ああ、私だ。」
相手は私の電話に喜んでいるようだ。いや誉めてもらいたいのだろう。
「電話待っていたのよ。この間の役に立ってたでしょ。あなたは・・・」
と続ける言葉を遮って私は語気を強めに言った。
「いいか君の話を聞くつもりはない、こちらの話をよく聞くことだ。先日の書類件だが彼女と話し合った。私たちは結婚することにしたよ」
と言うと、
「あの女は財産狙いの・・・」
などと恭子を誹謗中傷する事を言い始めた。そんな言葉聞くに堪えない。
「うるさい。私の話を聞け。今後一切私の妻に関わるな。いいか私の父が誰か知っているな、私が手を回せば君のキャリアなど簡単に潰せる、ついでに今の旦那の分も潰してやろうか。わかったら二度と私たちの前に現れるな。以上だ」
電話を切った。ついでに電話帳から彼女の登録を消去した。
そして、もう一つ、父(会長)への報告だ。父へ至急会いたいと伝えると、ちょうど社に出ているという、会長室で会うこととなった。恭子に内緒で恭子の事を話そうと考えていた。もしもの時、やはり私一人では彼女を守り切れない時、協力をしてもらいたい。とお願いするつもりだ。実際、前妻も父の名を出したらあっさり引き下がった。
父は、何かの書類に目を通しそれにサインをする。を繰り返していた。私の方を見ようともしない。
「何だ、改まってなにか困り事か」
と聞かれたので
「一緒になりたい女性がいます」
と私が言うと、父は面倒そうに顔をしかめた。出来のいい兄と比べて手のかかる私を父は煙たく感じている。前回の離婚以降特にそうだ。ここ数年、仕事以外の個人的な話はほとんどしていなかった。
「今度はどんな女性だ」
と聞かれたので
「同じ会社の部下です。今度会っていただきたいのですが、その前にご相談とお願いがあります」
と伝えると、父は以外に思ったらしい。何を以外に思ったのだろう。手を止めて私を見た。そして応接セットを指差した。座れということらしい。仕事の話ではないからだろう。
「今、相談とお願いと言っていたが、どういうことだ」
と聞いてくる。ここは恭子ではないが予習をしてきた。答えは出来ている。私は答えた
「彼女は複雑な家庭環境で育ちました。色々つらい思いもしたそうです。その件については二人でよく話し合いました私たちの間に問題はありません。過去の事ですし彼女に非はありません。しかし、いまだにその事で誹謗中傷する人間がいます。申しわけありません」
私はここで頭を下げた
「父さんの名前をだして相手を脅しました」
ここできっと父は怒ると覚悟していた。が返ってきた返事は違っていた。
「実際、どう脅したのだ」え、実際なんと言ったか?
「その、私の父が誰か知っているだろう。私が手を回せば君のキャリアなど簡単に潰せる。と言いました。」
なぜだろう、父がにやにやしている。
「で、お願いというのは、今後またそういうことがあった時、私の名前を使わせてくれということかな」
と聞いてくる。だんだん予定と違う会話になっているが、そういうことだ。
「はい、そういうことになります。父さんにはご迷惑を・・・」
と続けていると父が私の話しを遮った。
「お前は私の息子だ。なに謝る必要がある。私の名前で役に立つのならいつでも使いなさい。あと、その子を今度連れてきなさい。母さんも会いたいだろう。」
と父が言っているその時私の携帯がなった。恭子からのメールの着信音だった。恭子からメールが来ることは珍しい。彼女は「話すこと」を大切にするから、メールを必要以上に使わない。
「彼女からだ」
何か緊急事態かもしれない。私の不安そうな顔をみて、父が気遣って言った。
「構わないから、出てあげなさい」
お許しも出たのでメールを確認した。それは動画だった。何だろう人が歩いている風景だが、突然画面に恭子が現れた
「私。今東京駅。東京駅に一人で来たのよ。見て」と、はしゃいで言っている。その明るい声は父にも聞こえたようだ
「行ってあげなさい」
と優しく言われた。私は失礼します。と席を立つとすぐ恭子に電話した。
「今すぐいく。そこで待っていられそうか?」
と聞いた。
「待っている。部長が来てくれるなら、待っている」と言う
「20分で行く。待っていなさい」私はタクシーに跳び乗り東京駅へ向かった。
東京駅丸の内北口に彼女がいた。天井ドームを見上げている。私はそっと近づいた。
「綺麗だな」
と声をかけるとびっくりしていた。
「もう、着いたなら声を掛けてくれればいいのに」
と彼女が口を尖らせている
「綺麗なものを眺めていただけだよ」そう恭子は綺麗だった。そして美しかった。
彼女はまた一つ宿題をクリアした。まだ色々起こるだろう。でもこうして一つ一つ乗り越えていく。
「どうやって来たのだ」
聞いてみた
「ずるして、タクシー使った」
いたずらっ子のような笑いだ。
「じゃ、帰りもタクシーで帰ろうか。どこかで飯でも食わないか。まだ一緒に外食したことないだろう」
「それは、また今度で」
という。無理強いは良くない。今日はこれでよしとしよう。恭子と手をつないでもう一度東京駅構内を歩いた。前回と違って彼女は前を向いて歩いた。
≪エピローグ≫
私は両親に彼女を紹介した。彼女は手伝うといって母と一緒にキッチンにいる。しかもメモを片手に持っている。相変わらずだなと思いながら見ていると父に声をかけられた。
「お前もやっと我が家の家訓を理解したらしいな」
私は我が家の家訓を声に出した
「自分の生活は自分で面倒を見る」
「ばかもん、もう一つのほうだ」
と父が言うので
「土地は歴史を語る。慈しみ、守り、次の世代へ渡す・・・・・」
言っているうちに気づいた。父もやっと分かったかという顔をしてみている。そう、慈しみ守る
「分っているだろうが最後の意味は子供を作れということだ。お前も励めよ。そうしたら一人前の男として認めてやる」
と笑いながら言った。
もちろん、彼女の父親にも会いに行った。彼女の父塩谷喜一は穏やかな人だった。私たちの結婚を心から喜んでくれた。この親子の容姿は全く似ていない。しかし、仕草や話し方はよく似ている。その事を指摘すると二人とも喜んでいた。
一つ心残りがある。私はちゃんとしたプロポーズをしていない。彼女は何も言わないが、以前映画の中のシーンをステキと言っていた。やはり何か憧れがあるはずだ。できれば叶えてあげたい。ここは一番詳しいであろう佐々木妹にお伺いを立てることにした。佐々木妹は彼女の好きな映画を教えてくれた。
1「若草物語」2「メラニーは行く」3「タイタニック」ちなみにあの時見ていたのは「ウインブルドン」。
後は自分で考えてくださいという事のようだ。
全作品見たが参考にならない。こんな歯の浮く様な言葉言えない。途中で吹き出してしまうだろう。
やはり自分流にやる事にした。
「君にプレゼントだ。開けてみなさい」
と言って小さな箱を渡した。小さい箱とはいえ指輪がはいっているとは思えない長方形の箱だ。恭子が怪訝な顔をしている。
「万年筆?」
もっと怪訝な顔をしている。
「モンブラン、一流品だ。一生ものだから大切に使いなさい」
「ありがとう。大切に使うね」
とほほ笑んだ彼女に一枚の紙を差し出した。
「最初の仕事だ。ここにサインしなさい」
と婚姻届けを差し出した。
どうやらこのプロポーズを気に入ってくれたらしい。満面の笑みを浮かべている
小説 彼~He~