小説 彼女~Her~

小説 彼~He~  と対になっています。合わせて読んでいただければ。幸いです。

1、
 朝から気合を入れてきた。今日の面接は失敗できない。第一志望の入社試験だ。一部上場企業、将来性もある。定年まで働くつもりの私にとってはピッタリの会社だ。なにより電車で一本乗,り換え無しで行ける場所にある。人混みが苦手な私にとっては本当に願ってもいない会社だ。「予習」も十分にした。親友の望相手に面接の練習もした。あとは本番を迎えるのみだった。

 受付で「今日の面接に伺いました。」と言うと待合室に案内された。受付の女性は30過ぎぐらいだろうか
「頑張ってね」
と声を掛けられ、私は笑顔を返した。相手が女性ならば何とか会話ができる。男性は苦手だ。待合室に入ると私の他に5人ほどいた。皆自分の事で頭がいっぱいという顔をしている。私は少しほっとした。ここまでは緊張せずにいられそうだ。最大の難関はあのドアの向こう。面接会場だ。相手は私の事をジロジロ見るだろう。できるだけ平静を保つよう心掛けないといけない。私はいつものおまじないを心の中で言った。

「一つの質問、三つの答え」

親友の望の兄、崇さんが教えてくれた会話方法だ。財務省官僚で、国会答弁作成をしたこともある。崇さんは的を射たアドバイスをしてくれる。
「一つの質問。つまり質問は簡潔に一回だけするといいよ。沢山聞いても相手は最初の質問を忘れてしまうから。そして三つの答え。これは一つの答えに三通りの言い回しで答えを用意すること。答えはもちろん一つだよ。嘘をつくわけにはいかないから。でも言葉を替えてつまり言い回しを替えて答えるといいよ。」これが崇さんのアドバイスだった。

私は会話が苦手だ。相手に見られると震えあがってしまう。しかし答えを用意しておけばなんとか答えられる。そのための「予習帳」を作成している。

私の名前「鈴木恭子」が呼ばれた。本番だ。
面接官は5人全員男性だった。苦手な男性だ。目ではなく胸元を見る事にする。質問は大体望と練習した内容だった。上手くいっていると思う。が、最後に左端の面接官から突っ込んだ質問が出た。

「もしあなた自身が杉並区の再開発計画に参加するとして、具体的に何をしたいと思っているのか?」
と、私はいつものように、頭の中の「予習帳」から答えを探した。
「杉並区についてですが、医療介護を統合した街づくりを目指すのであれば。人を育てるための学校も必要ではないでしょうか。介護・看護職員もですが、例えば柔道整復師なども。また、大変な仕事ですから離職も多いかと思います。福利厚生を考えて24時間保育所を設置するなど、せっかく育てた人材を離職させない手段も必要でしょう。また御社は「そのエリアだけですべて賄えるのが街づくり」を目指しているように思われますが、近くに商店街があります。今の状態では「シャッター商店街」と言ったほうがいいかもしれませんが。一緒に再開発する方法はないでしょうか。何か良い方法があれば駅までの広さをカバーできるのではと考えます」

少しまごついたが何とか答えられた。だが、その面接官が更に聞いてきた。
「しっかり調べているようですね。だが、今言った商店街「金町商店街」というのが正式名だが商店街会長は今の君の考えには反対だと思うよ。今回の再開発には反対の姿勢だからね」
どうしよう、そこまでの情報は持っていない。「時事ネタ。本日のトピックス」から何かヒントはないか、それにあの商店街は実際に行ったことがある。望が出した「宿題」だった。そう、あの時歩いて感じたことはなんだったろう。素早く考えた。

「商店街の一角を借り上げてはどうでしょう。例えば医療・介護の相談所を作るのです。堅苦しくならず珈琲でも飲みながら愚痴を言い合うような場です。病院や施設に相談したくても敷居が高くて、という方たちの一歩手前にその受け皿となる場をつくるのです。医療・介護の悩みを抱えた人は沢山いますから。人が集まれば買い物をする人も増えます。また、そこから再開発エリアを利用する人も出てくるでしょう。ある程度の相乗効果を望めるのではないでしょうか。」

すこしおどおどした声になってしまった。面接官は一応納得したようだが、笑っているように見える。ほくそ笑んでいる、嘲りだとしたらこの面接は失敗という事になる。
「質問は以上です。下がっていいですよ」
と言われ私は解放された。この面接は失敗かもしれない。来る時の自信は崩れ去り、ボロボロになった心を抱えて自宅に戻った。望は私の顔を見るなり理解したらしい
「じゃ、次行こうか!」
と明るく言った。彼女のその明るい物言いは、いつも私を救ってくれる。本当にありがたい。
「そうね、次に行こう!」
私は新たに気合を入れなおし次の「予習」を始めることにした。次は2週間後だ。
が、その2週間を待たず、合格の連絡が来た。私は望と祝杯を挙げた。



2、
 9月、望が卒業後は新潟へ帰る決心をした。お母さんの具合がよくないという。米農家の仕事は重労働だから手伝うためにも卒業後は故郷へ帰るという。折角内定貰っていたのに。
「新潟に帰って、東京で磨いた私の魅力で男を釣るわ。そいつにトラクター運転させる」
と笑いながら言う。
望は私が東京で一人になることを気にしている。望には大学4年間色々助けてもらった。これからも助けてもらいたいから東京に残れとは言えない。
「とにかく、この部屋はこのまま恭子が使っていいからね。何かあったら電話くれればいつでも相談のるし、電車なら2時間ぐらい。案外近いのよ」
望は私を励まそうとしている。自分の不安をさとられてこれ以上心配を掛けたくなかった。私はユーモアを交えて大丈夫だと言った。
「私ならもう大丈夫。それに私の就職先は一部上場企業よ。福利厚生ばっちり。厚生年金だってばっちりこのまま60まで働いてあとは田舎でひっそり年金暮らしでもするわ」
と言った。

私は一人になる。これから本当に一人になって生きていくための「予習」を始めないと。

「あなた忘れてない。お兄ちゃんの事。あなたの事はお兄ちゃんが何とかしてくれるわよ。私たち姉妹になりましょう」
これは望のいつものジョークだ。自分の兄と私をくっつけようとする。そして私もいつものように切り返す
「何言っているの。私に官僚の妻が勤まるわけがないでしょう」と笑う。
「それより恭子。明日って例の研修会でしょ。予習はしたの」
「ばっちりよ」

その研修会当日、いつも通り社内のトイレで時間を潰しギリギリに会場に入った。内定者50人のうち女性は8人だけ、男多すぎ。男尊女卑もいいところ。早く席について誰かに話し掛けられるなどという危険は避けなければ。会話の苦手な私には「予習帳」が必要。すべてを予想して問答集を作る。が、反面「予習帳」にない会話はできない。
研修会自体は話を聞いていればいいので助かる。しかもすごく参考になる。質疑応答、レポートについては今聞いた話に私の予習した内容をプラスすれば切り抜けられる。そして最大の問題は帰る時だ。同期同士仲よくしようと話しかけてくる。前回は予定があると断った。その前はトイレに行きたいと言った。今日はまだ誰も声を掛けてこない。今のうちに帰ろうとそっと部屋を出た。廊下でホットしていると後ろから声がした。
「鈴木君」
と。「きみ」とか「ちょっと」という言い方なら聞こえませんでした。と逃げられるが名前で言われたら返事をしないわけにはいかない。私は振り向かざるを得なかった。
「君、鈴木君だったね。採用されたようだね、おめでとう」
と言っている。頭の中でいつもの「予習帳」を開いた。「おめでとう」には、「ありがとう」無難な返事だ。
「はい、ありがとうございます」
ここで「予定があるので」と言って去りたいところだが、相手の男性は強引に話を進めてくる。どうしよう。相手の男性は自分を覚えているかと聞いている。覚えていない。がそんなこと言ったら失礼だ。ここは嘘だが「はい」と答えた。が、まだ話を進めてくる。正直やめてほしい。
「商店街を巻き込んでという考え、なかなか良かったよ。今先方の会長と話し合っているところだがね」
杉並、商店街、と言われているうちに思い出した。あの時の意地悪な面接官だ!面接官なら入社試験時の「予習帳」の内容で答えればいい。
「もともとこういう仕事に興味があったのか」
と聞かれた。予習が役立った。
「今住んでいるマンションが御社の手掛けた物件だったこともあり興味を持ちました」
その続きはすらすら答えられた?と思う。今住んでいるマンションは、崇さんが購入し海外勤務(留学)中、望と私でシェアして暮らしている。崇さんが7年前購入したものだ(官僚ってお金あるのね。あとローンが組みやすいみたい)。だからこの会社に興味を持ったのも事実だ。それに目の前の男の人は私を褒めているようだった。問題はないだろう。
ただ、早く話を終わらせて解放してほしかった。が、男性は話し続けている。他の内定者が出てきたのでその波にのり一緒に退場することにした。


 10月に入り、4月からの新生活に向けての「予習」を開始した。
① 会社までの通勤方法
② 周辺の雨宿り(避難所)できそうな場所探し
③ 配属先希望。会社から希望の問い合わせが来ている。これまでの研修内容から決めなさいということのようだ。

① 通勤手段だか朝のラッシュはやはり私には無理。あの混みよう、人前でゲロしちゃうかも。人混みが苦手な理由は何となくわかっている。私は人の目が怖いのだ。目を合わすことができない。高校生の頃のイジメや諸々のつらい過去が今も私を苦しめている。望にも相談し、ラッシュまえの早い時間に出社することとした。

②「避難所」これは私がパニックになったとき駆け込める場所の事。望は面白がって「雨宿り」と言っている。私にとっては笑い事ではないのだがそれを深刻にならず笑いに変えようとする望のいつものジョークだ。望から「10か所見つける事」という「宿題」が出された。
「宿題」も望のジョークの一つ。私の問題点を指摘して「宿題」と称して問題を解決させようとする。私はその「宿題」に取り掛かった。自宅から会社まで何度も歩いてリサーチする。その途中で生け花教室も見つけた。中学の頃から続けている生け花、しかも同じ流派だった。会社の近くの小さな個人教室。先生は女性。さっそく申し込みをした。

③ 希望配属先は「ネットワーク」にした
「あなたネットは嫌いでしょ。何考えているの」
と望に言われたが「ネットワーク」では夜勤がある。「夜勤の日は朝のラッシュにあわない」ということと「ネットが嫌い」という私の感情を天秤にかけて
「ネットワークにしておく。朝のラッシュはやはり無理だし」
と答えた。望もそれで良いならと理解してくれたがその顔には「心配だ」とあった。
高校生の時のイジメはネットが原因だった。
「私は、ネットは嫌いだ。スマホもSNS嫌い」
と望によく言っていた。望は嫌いなものを仕事にするのはいかがなものか。そう言いたいらしい。しかし、必要とあれば使う。情報収集には必要なツールだから。
「希望はあくまで希望だから必ず配属されるわけではない。この件は運を天に任すということにしときましょう」
と言うと望もそれもそうだねと笑ってくれた。


 入社式を迎えた。私の配属先は「土地開発企画部 再開発課」だった。希望は通らなかったことになる。新潟の望に知らせるとなぜか喜んでいた
「やっぱりねぇ。嫌いという思いを神様が感じ取ってくれたのよ」
と言う。私は
「通勤ラッシュも嫌いなのだけど」
と切り返したが
「朝の6時にそんなに電車混んでいるの」
とやり返された。確かにそれほど混んでいない。しかも朝一番の東京は意外と美しかった。空気も爽やかだ。意外な発見。
「早速、人物図鑑作っている?」
望が質問してきた。私に「人物図鑑」の作り方を教えたのは望の兄崇さんだ。相手が何者か分かれば怖くなくなるからと。ネット、特にSNS等で大体の基本情報は手に入る。それに自分なりの感想等を付け加えアップデートを重ねる。「人物図鑑」の出来上がりだ。この手法で以前より人付き合いが上手くいくようになった。
「もちろん。課の人達から始めている。課内の8人含めて部内23人全員調べている」
「あなたのそのリサーチ力の高さには脱帽だわ」
望はすこし呆れているらしい。
「これも生きていくための手段よ。相手が何者か分かれば怖くない」
「後でノート見せてよ。面白そうだし」
「いつも言っているでしょう。個人情報はお見せできません」
いつものジョーク、軽口をたたいて電話を終えた。望が新潟に帰ってひと月がたった。本音を言えば寂しい。特に食事時が。一人でとる食事がこんなに味気ないものかと最近しみじみと感じている。



3、
 7月に入り、同じフロアー48名の「人物図鑑」は仕上がっていた。職場の雰囲気にもだいぶ慣れ、おどおどすることもなく話すことができるようになった。今日の仕事は明日の会議資料作り。向かいのデスクに座る3年先輩の金子さん(金子恵子、横浜出身、26歳、恋人無し、先週の合コン成果無し・・・)より指示をうけながら作業を続けた。と、急に部長より出張に同行するよう指示を受けた。え!!今すぐ。しかも私がやる仕事を先輩である金子さんに任せて・・・ごめんなさい。金子さん。

私は予定外の出来事にまごつく。だから「予習帳」が必要なのだ。事前に指示があれば予習できたものを今からでは間に合わない。松井部長は思い付きで物事を進めることがある。確かに仕事はできると思うが私としては困ることが多い人だ。「人物図鑑」に松井部長、思い付きで行動することあり注意!とアップデートした。
「どちらへ行くのですか」と聞くと
「再開発中の杉並だ」との答え
あ、杉並は去年入社試験用に予習した場所だ。私は資料を読むふりをしながら頭の中で去年の「予習帳」をパラパラめくっていた。がそんな事お構いなしに部長は話しかけてくる
「近くばかり見ていると車に酔うぞ」
男性から話し掛けられた。しかも予習していない内容で。それだけで私はパニックになる。
「大丈夫です。車は好きですし、いままで酔ったことはありませんから」
上の空で答える。資料にまた目を落とし。話し掛けるな!オーラを作る。が、部長はまたもや話し掛けて来た。
「車、好きなのか」
と聞いてくる。どうしよう。突然でいい答えが見つからない。
「はい、免許あるのに車持っていないのが残念ですが。多分父の影響です。整備の仕事をしていますので」
言った後で後悔した、家族の話をしてしまった、この後の会話の続きはきっと
「鈴木君、出身はどこだったかな」
やはり家族の事を聞こうとしている。あまり触れられたくない話に行こうとしている。はぐらかしたいところだが、良い答えが見つからない。
「・・・茨城です」
正直に答えてしまった。
「じゃあ、里帰りは近くていいね」
私は、これ以上聞かないでくれ。と心の中で叫んだ。
「・・・はい」
とりあえず曖昧な答え方でこの場をやり過ごそう。としていると目的地に着いた。私は救われた。

それからは、建設現場を視察し、現場監督、病院事務長と話をした。相手との話しはすべて部長がする。私はとにかくメモを取る事にした。知らない単語が飛び交っている。後で調べよう。その後商店街へ向かった。ここに来て私が同行した理由が分った。あの愚痴を言いあえる珈琲ショップが出来ていた。部長はこれを見せたかったようだ。私に微笑んでいる。

思い出した!あの時の意地悪な面接官は部長だ!(早速この事実もアップデートしておこう)。

最初はただの思い付きだったのに、こうして形になっているのを見て嬉しくなった。商店街会長さんとの会話も弾んだ。会長さんの自宅、奥の仏壇に綺麗な菊が生けてあった。失礼ですが、と尋ねると「妻が3年前にガンでねと」言う。とても大切に思っていたのだろう。男性がきれいに花を生けるという事は珍しい。だから「愚痴を言い合える店」を賛成してくれたのかな。事実は聞けないが多分そうだったのだろう。予習なしで会話が弾むのは私にとっては珍しいことだ。「人物図鑑」の商店街会長の欄に、「妻3年前他界、仏壇に菊」とアップデートする。

と考えていると、また部長が話し掛けて来た。
「もっとこの商店街を利用できないだろうか。そうすれば駅までの広さをカバーした大規模な再開発になる」
「そうですね。最後の件は「宿題」という事にしましょう」
と私は答えた。そうこれは「宿題」としておこう。

帰りは電車だった。それほど混み合っていないとはいえ少し緊張していた。やはり人混みは苦手だ。すると部長(思い付きで行動、注意)がまた話しかけてきた。
「メモを取っていただろう。何を書いた。見せてくれないか」
と言っている。
え!「予習帳」「人物図鑑」を人に見せる。そんなことできるわけない。
「いいえ。大したことは書いていないので。お見せするようなものでは。済みません。そういうことをメモしているわけではないのです」
と、おどおどしてしまった。予習していない会話は苦手だ。
「いいから見せなさい」
と命令された。怖い。とにかくカバンを開けて・・・で気付いた。建設現場で開いていたノートのほうだ。これなら見せられる。
「その、笑わないで頂きたいのですが」
と前置きし、ノートを差し出した。すごく怪訝な顔をしている。こんなメモ見せたらまた怒られるかもしれない。ちょっと怖い。
「知らない単語が飛び交っていたので、書き留めておいて後で調べよかと思いまして」
と謝る事にした。が部長は爆笑している。私はかなりまごついた。さっきまで怒っていたのに今は爆笑? そして今度は嬉しそうにノートの内容について説明をしている。取りあえず私は危険を回避したようだ。

その日「人物図鑑」の部長の欄に「怒りっぽい」「気分屋」と書きながら気づいた。まんが「のだめカンタービレ」の千秋先輩に似ている。名前も真一、松井真一。私は一人部屋で爆笑した。そういえば少し玉木宏に似ている。顎のラインとか。そのままアップデートを続けた。「俺様キャラ」「のだめ、千秋先輩」「玉木宏似」と記入しながら、今週末は「のだめカンタービレ」のDVDを見ようと思った。全11話スペシャル2話に映画前後編。楽しい週末になりそうだと考えまた笑った。望が新潟に帰ってからこんなに笑ったのは久しぶりかもしれない。



4、
 生け花教室後、いつものように会社に戻り会議室に花を飾った。多くの人に見てもらった方が花も喜ぶと思う。今日のひまわりは華やかだ。本来自宅に持ち帰るべきだろうが花を持って電車に乗るのは苦労する。そこで、こっそり会社に飾っていた。さて、帰ろうと自分の荷物を取りにデスクへ行くと部長が一人忙しそうにしていた。やばい!目があった。話し掛けられそうな雰囲気。
「鈴木君、君も残業かい。残業手当は出ないけど」
うわ~。話し掛けて来た。
「何かお手伝いしましょうか」
と手伝いを申し出た。部下として無難な答えだろう。「いや、もう遅いからお疲れさま」と断わられるのを少し期待していたが、仕事を頼まれてしまった。今更断れない。広いフロアーに部長と二人、そう考えると、どんどん緊張してくる。とにかく仕事をさっさと終わらせて帰ることにしよう。

「近くの教室?でなにをやっている?」
と、部長はまたしても話し掛けて来た。なぜそう話し掛けてくる。正直、やめてほしい。
「華道です」
「この近くに教室があるのか?」
と聞かれたので
「はい、学生の頃から続けているので、同じ流派の先生を探してそちらに通っています」
話好きなのかな、普段はそんな風には見えないのに。ただ聞かれた内容は予習の範囲なので上手く答えられたと思う。多分。
「学生の頃からだと、もう10年ぐらい続けているということか。腕前もかなりのものだろうね」
よくわからないが、これは多分褒めている?どうも部長の会話は読めない。私の「予習帳」では対応できない。(予想外、予測不能とアップデートしておこう)ただ今は機嫌もよさそうだし、この機会に会議室に勝手に花を生けている事を話してみようと思った。
「実はこちらの会議室にいつも飾っています。すみません勝手なことをして。このまま会議室に飾っていて構いませんか。部長の了解も得ず勝手なことをしたと思っています」
と言うと
「構わないよ」
との答え。とりあえず、ほっとした。まぁ、花を飾って怒る人もいないけど。でも会話の中で急に「恭子」と呼ばれ私は凍り付いた。男性との会話は苦手だし「予習帳」にない会話なのでどういう訳で「恭子」とよばれたのか今一理由が分らないけど。今なんと言ったかな

「あの会議室の花を生けていたのは、恭子だったのか?」

なんか、まずい!気まずいという事は分かった。まずい!!まずい!!こういう時は以前崇さんに教わった方法でいこう。

「毅然とした態度で礼儀正しく去る」

私は無言で踵を返すと、まずコピー室へ行き心を落ち着かせることにした。戻ると部長は自室に引き上げている。8mは離れている。ラッキー!!あとはとっとと仕事を終わらせた。
帰り支度を済ませてから、部長に声を掛けた。
「ご依頼の件は終わりました。もし他になければ帰っても構わないでしょうか」
ここの返事は、「帰っていいよ、お疲れさま」ですよね。という思いを込めて聞いた。がまた予想外の返事が来た。
「サービス残業のお礼に食事でもごちそうするよ。時間は大丈夫だろう」
と聞かれた。食事?部長と? こういう時の答えは用意してある
「申し訳ありません。この後予定がありますので」
いつもの答えを言った。
「それは、用事があるのに私の仕事を手伝ってくれたということかな。もしそうならこちらこそ申し訳ないことをしたかな」
これは嫌味だ。怒っている。頭の中で良い返答はないかと「予習帳」のページをめくったが答えは見つからない。こういう時はやはり「毅然とした態度で礼儀正しく去る」しかない。

「申し訳ありません。失礼します」

一礼をしてフロアーを出た。が、「毅然とした」動きになっていたかどうかは疑問だった。

自宅に戻り「人物図鑑」の松井真一について「予測不能」とアップデートした。
ふー。今日は疲れた。



5、
 昨日の今日ということもあり部長の視線が気になった。見られるのが怖い。また怒られるかもしれない。嫌味言われたらどうしよう。とにかくミスのないよう仕事をした。

 昼休み後、受付から来客を知らせる電話がきた。崇さんが私を訪ねてきた。久しぶりの再会だった。
「久しぶりだね。恭子ちゃん、社会人になってすこしあか抜けたかな」
崇さんの穏やかな声、落ち着く。私は昨日以来の緊張から解放された。
「何か困りごと?少し緊張しているようだけど」
そして崇さんは鋭い。その時ふと、いつもは望にしている相談を崇さんにしてみようと思った。
「一人予測不能の人がいるの。「予習」はしているけどうまく会話できなくて困っている。相談に乗ってもらえませんか」
「そういう事なら今晩話を聞こう」
崇さんは明日新潟に帰る。今日はうちに泊まる事になっている。だって、もともと崇さんのマンションなのだから。
「相談に乗ってもらうお礼に、夕食は崇さんのリクエストにお応えします。何がいいですか?」
「恭子ちゃんの手料理か。和食がいいな。久しく白飯を食べていない」
「分りました。いつも一人だからつまらなくて。今日は久しぶりに腕を振るうわ。あ、これ部屋の鍵。多分6時前には私も帰れる・・・・・」
と崇さんの視線が別の方向を向いていることに気付いた。目線の先は。ゲ!部長。さぼっているところを見られてしまった。

崇さんが立ち上がると挨拶を始めた。私はもう見ていられない。どうしよう。
「お仕事中押しかけてすみません。私、財務省国際局の佐々木崇と申します。今日ロンドンから帰ってきて鈴木さんに預けていたものを受け取りに伺いました」崇さんの物言いはいつも一流だ、尊敬する。さすがキャリア官僚。
「彼女の上司の松井真一と申します。そうですか、財務省勤務で。失礼ですが、今お時間いかがでしょうか。折角財務省の方とお会いできたのですから軽く情報交換でも」
と部長も挨拶した。そして崇さんを会議室へ連れて行ってしまった。
「鈴木君、2番応接に珈琲を持ってきてくれ」
ものすごく怒っている様子だ。どうしよう。私がさぼっていたから?崇さんも怒られるのかな。崇さんに迷惑をかけてしまう。とにかく頼まれた珈琲を早く持って行かなければ、崇さん救出のためにも、急がなければ。私は廊下を駆け出した。

珈琲を二つ用意し、会議室のドアを開けると目の前に二人が立ったままでいる。
「久しぶりの再会だろう積る話もあるだろうから私は上に戻っているよ」
と部長は言って、今度は笑顔で出て行った。なぜ笑顔?
「恭子ちゃん。今緊張していた?」
と崇さんに聞かれびっくりした。やはり鋭い人だ。
「ええ、すみません。崇さん部長に怒られませんでした。私のせいですね。ごめんなさい」と言うとなぜか笑われた。
「どうして私が怒られたと思うの?」
と聞いてくる。
「だって部長すごく怒って崇さん連れて行ったし。え、じゃ何話していたの?」
崇さんは面白くて仕方がないというように笑っている。笑っているという事は、危機は脱したという事かもしれない。部長も出て行く時は笑っていた。と思う。
「ところで、さっき言っていた予測不能の人って今の人」
聞かれて、私は「そうそうそう」と力を込めて言った。
「そう、今の人です。よく怒られています」
「例えばどんなことがあったの」
と崇さんは先を促した。例えばなにが・・・
「昨日は、部長の残業を手伝ったの。で、お礼に食事をしようと言うので私予定がありますっていつもの答えを言ったの。部長すごく怒っていた。たぶん嫌味も言われた」
と説明すると崇さんが珍しく声をあげて笑った。
「君はどうしていつも「予定があります」と答えるの。たまには違う答えも用意した方がいいよ」
笑いながら言われた。
「松井部長は怒っているのではないよ。彼は、君に手を差し伸べているのだよ。そうだな、例えるのなら敵ではないという意思表示だね。ところで君はこの会社でバリバリ働きたいのだろう」
急に話の方向が変わった。でもこの答えは決まっている。
「ええ、定年まで働くつもり」
私は昔のショックから立ち直れていない。男性は苦手だし人混みが苦手。一生一人で生きていくつもりだ。
「だったらよく考えないと。彼とは長い付き合いになる。その間ずっとその答えで通すつもりかい?毎回嘘をつく事になるね。それは社会人として失礼じゃないか。折角だから今回はその手を握り返してみなさい。「はい、ありがとうございます」と言う答えも覚えた方がいいよ。もしそれでも困るようなら、その時相談に乗るから」
崇さんに言われたことを考えてみた。部長は会長の息子。いずれは役員になる人だ。つまりこれから数十年一緒に働くという事だ。ずっと嘘をつく。それは問題だ。
「関係改善のチャンスを作っておいたよ」
とニヤニヤしながら崇さんが続けた。
「マンションの鍵を彼に預けておいた」
「え、私の部屋。あ、崇さんのマンションだけど」
「そう、私がオーナーで君が住んでいるあのマンションの鍵だ。もし彼が今一度手を差し伸べてきたらちゃんと握り返しなさい。それが関係改善のきっかけになるはずだから」
「「関係改善ですか。そうですね、なんとか頑張ってみます」
実際どうすればいいのか分らないけど、このままではいけないのは確かだ。
「あ、でもセクハラ親父と年下の手は握っちゃダメだよ」
崇さんはいつものように会話の最後に「オチ」をつけて帰っていった。

デスクに戻り、崇さんのアドバイスをよく考えてみ。
① 部長は怒っていない。本当だろうか?
② 敵ではない。まあ、この先ずっと敵では困る。
③ 「はい、ありがとうございます」という答えを覚える
折角鍵を受け取りに行くというきっかけを崇さんがつくってくれたのだから、とにかく今までの失礼をお詫びしなければいけない。関係改善のための行動を開始するため部長のデスクへ向かった。

「すみません。よろしいでしょうか」
ノックをし、聞いてみた。
「閉めなさい」
うぅぅ・・・、少し冷たい言い方だ。ちょっと怖い。
「佐々木さんが鍵を預けたと聞きまして、受け取りにきました」
あぁぁ・・・、だんだん声が小さくなってしまった。よけいに失礼だ。
「ああ、預かっているよ」
と言い、デスクの上に鍵を置いた。
「ありがとうございます。お手数をおかけして」
私は置かれた鍵を受け取った。(ひったくったかもしれない)
「いや、こちらこそ、君のお陰で財務省の人とお近づきになれたし、よかったよ。沢山の情報を得られたし」
有益な情報を得られたという事は、今なら謝っても怒らないかも。とにかく今までの失礼を謝らなければ。私は勇気を振り絞って言い始めた。
「あの、昨日の事、せっかく誘っていただいたのに失礼な態度をとってしまい申し訳ありませんでした。その、社会人として・・・」
だめだ、先を続けられない。付け焼刃の予習では上手く表現しきれない。困っていると部長が助け舟を出してくれた。
「もう気にしなくていいよ、私もちょっと調子に乗りすぎたかもしれない。君は部内の飲み会にも参加しないだろう。どうしてなのかと心配していた」
この答えはまたしても予想外。心配?していたの、私を怒ってはいないという事。
「次回からは必ず参加するようにします。ご心配おかけしてすみません」
飲み会は嫌いだ。でも関係改善のためには必要なことかもしれない。
「ところで、夏休みの予定は、やはり実家に帰るのかな?」
「いいえ」
私は実家には帰れない。この答えは決まっている
「じゃ、どこか旅行でも?」
聞かれたがこの答えも決まっている。どうしてそう嫌がる質問ばかりするのかな。
「いいえ」
「では、私と同じだね。私は留守番を頼まれている。両親は妹の留学先へ行くそうだ。独り者はいいように使われる」
部長が笑いながら言うので、一応私もつられて笑った。ちょっと引きつっているかも。
「どうだろう。せっかくだからドライブでもしないか。車が好きと言っていただろう。私自慢の車で都内一周でもしないか」
と誘ってきた。これが崇さんの言っていた差し伸べられた手のこと?この答えは
「はい、ありがとうございます」
「それは、OKということかな」
と聞き返された。聞き返されると「あれ、これでいいのよね」と考えてしまうが??
「はい」
と返事しておこう。これで関係改善できるはずだから。定年までの仕事確保だ。
「連絡先を聞いておこう」
と言われたので携帯番号を教えることにした。
「スマホじゃないのか?」
と聞かれたので
「スマホは嫌いです」
この答えは決まっている。

夕方4時頃、崇さんから連絡が来た。例の鍵の件が気になっていたようだ。大体の流れを説明し、今度ドライブに行くことになりました。と報告した。
「それはデートだね」
と崇さんに言われてびっくりした。
「デート!!えデートってあのデート?」
思わず大きな声で聞き返してしまった。向かいのデスクの金子さん(恋人あり、お盆は恋人と富士登山予定)が私の声にびっくりしている。
「そうだよ。そのものズバリ、デートだ。ま、何かあったら相談に乗るから連絡して。それと今日は新潟に帰る事にしました。上手い具合に指定席が買えてね。恭子ちゃんの手料理はまたにするよ」
と言って電話が切れた。どうしようデート?あ、金子さんが興味津々に私を見ている
「電話の主が今度デートするそうです」
と言ってごまかしておいた。



6、
 崇さんに言われたことが気になる。「それはデートだ」そんなデートだなんて以前のそれは最悪だった。思い出したくもない。ただ、あれ以来部長はニコニコしている。関係改善は成功したという事だろう。定年までの仕事も確保できたという事だ。とにかくいつものように予習することにした。まずウィキペディアで検索した。「信頼関係にある、もしくは信頼関係に進みつつある二人が、連れだって外出し、一定の時間を遊行目的で行動を共にすること」とある。そうか信頼関係を築くためにも必要なことなのかもしれない。しかし読み進めていくと交際、キス、プロポーズという言葉が出てきた。ゲ!ありえない私は思わずパソコンを閉じた。どうしよう。こういう時は望に相談するしかない。私は彼女に電話した

「なにそれ、あなた男できたの?」
望の呆れた声が聞こえてきた。
「そんなわけないでしょ。会社の上司、部長。」
と即座に否定した
「部長、そんな年寄り引っ掛けてどうするのよ。近くにピチピチの財務省職員がいるでしょう」と崇さんの話に持って行こうとしている。今回はそのジョークに付き合う余裕はない。
「お願いよ、助けて、どうしよう。」
「まず、何をそんなに困っているのか考えなさい」
と言われた。そう「宿題」と同じ。私は何に困っているのだろう。もうデート?をすることは決まっている。車でドライブするのだ。
「ドライブでも、公園でイチャイチャでも必要なのは同じ、会話よ。とにかく自分のことで話せることの会話問答集でも作りなさい。入社試験だと思って」
そこまで言われてどうすればいいのか分った。そうだ部長は面接官だった。
「ありがとう。いつもながらに適切なアドバイス助かった。そうする」
とホットしていると、望が部長の事を聞いてきた。
「年齢は32、バツイチ、会社の会長の息子。のだめカンタービレの千秋先輩みたいな人」と答えた。望は電話の向こうで爆笑している。私もまた思い出して爆笑した。

 デート?当日は近くのコンビニ前で待ち合わせをした。同じマンションの住人に見られたくなかったから。私はまだ他人の目を、視線を気にしている。対策として帽子を被る事にした。待っていると高級外車が目の前に横付けされた。部長が降りてくる。私は息をのんだ。部長はこんないい車に乗っているの。いや私これからそれに乗るの?とにかく恥ずかしくなった。とっとと乗ろう。車高が低くて乗りづらい。部長に手を貸してもらいながら乗り込んだ。
「これポルシェですよね」
こんな高級車持っているなんて、さすが会長の息子。お金持ちなのだ。と思いながら聞いた。
「そ、ポルシェ。中古車を貯金叩いた上に3年ローンで購入だよ」
と笑いながら言っている。またしても予想外の事だ。
「でも部長のお家はお金持ちですよね」
と、かなり失礼な事を聞いてしまった。だって私の「予習」とは違う内容だったから。すると部長は「松井家の家訓」なるものを教えてくれた。「働かざる者食うべからず」その家訓は正解だ。つまり部長は金持ちの上に胡坐をかく人ではないようだ。すこしホッとした。次に佐々木兄妹について聞かれた。これは予想していたので予習もばっちり、すらすら答えられる。
「私にとって望は親友という言葉以上の存在です。オロオロしている私をいつも助けてくれて、彼女がいなかったら大学やめていたかもしれません。」
「お兄さんの方は」
さらに聞いてきた。これも予習ばっちり。
「会話の方法を、質疑応答方法などを教えてもらいました。」
「というと?」
先を促された。
「質問は1つ、回答は一つの答に3通りの言い回しを用意しなさい。と言われました。いくつも質問したところで最初の質問内容は忘れられてしまう。また、同じ質問に3回答えればそれ以上聞かれることはない。4回目聞いてきたら毅然とした態度で礼儀正しく去ればいいと」
この指導のお陰で私は言葉を取り戻した。最近は普通に会話もができるようになった。すべて佐々木兄妹のお陰だ
「佐々木兄は頭のいい人だね。まさに的を射た指摘だ。言い回しか、確かにそうだね」
部長が崇さんを褒めている。崇さんの事を佐々木兄と呼んでいる。まるで野球選手のようだ。
「あと、嘘はいけないと。ただ、すべてを話す必要はない。省略して話す様にと言われました」
ここまで私の事を話したら次は部長に話をしてもらおう。相手に話をさせる手法に切り替えた。
「あの。昨日崇さんと何を話されたのですか」
私は聞いてみた。
「君の事をよろしく頼むと言われたよ」
と部長が言う。え?どういうことだろう。
「恭子の事を気にかける人が多くなることは良いことだって言っていた」
あ、そういう事。
「君こそあの後何を話した?」
部長がまた質問してきた。これも予習済。
「マンションの鍵を部長に預けたと。あと、すべての人が敵ではない。差し伸べられた手はとらないと失礼だと。でも、セクハラ親父と年下の手はつねるようにと。」
崇さんは平気な顔をして面白いことを言う。望もそうだ。兄妹よく似ている。
「佐々木兄の話には必ず オチ があるね。」
部長も気づいているようだ。私は声をたてて笑った。その後、部長は家族や学生時代の話を聞かせてくれた。学生の頃はバスケットボールに夢中だったそうだ。部長の家族は皆仲が良いようだ。話の内容からお兄さんに対してライバル心を燃やし、年の離れた妹は可愛がっている様子だ。そんな話を聞いていると目的地についた。

「昭和記念公園」??と看板にある。初めて来た。当たり前だけど私は人混みが苦手。つまり遊園地やイベント会場には近寄らない。とりあえず、部長の後について歩いていくが人出がすごい。私、混雑していない静かな場所をお願いしたはずだけど・・・
ここで大変な事に気付いた。避難所を用意していない。そう、会話を成立させるための予習しかしてこなかった。まずい、前から来る人が私を見た。部長の後ろに隠れることにした。
「ここの睡蓮が見ごろだってネットに出ていてね。来てみた」
と部長が楽しそうに言っている。でも混んでいる。どうしよう。目深に帽子を被りなおした。確かに睡蓮は綺麗だった。でもみんなが指差している。10人ほどの団体が近づいてきた。向こうで写真を撮っている。私はパニックを起こし始めていた。

望の腕にしがみつきながら町を歩いた時の事を思い出した
「誰もあなたなんか見てないわよ」とよく言われた。
「あの人は看板を見ているの」「あの人は自分の彼女に手を振っただけ」「笑っているわけではないわ。耳を見て、きっと音楽でノリノリなのよ」

私が見られているわけではない、理屈では分かる。でも心が理解してくれない。心が叫びだしている。耐えられない、誰か助けて。誰か。私は無意識に部長の腕を強く掴んでいた。
「大丈夫か、気分でも悪いのか」
と聞かれたので
「帰りたい」と答えた?と思う。頭の中がぐちゃぐちゃで変なこと口走ったかもしれない。
もう完璧なパニック状態。だめ、記憶が飛ぶ!!!
とにかく部長に手を引かれて車に戻った。と思う。
車、「避難所」発見。とにかく狭いところに身を隠したかった。部長が水を手渡してくれた
冷たくてスッキリした。とにかく落ち着こう。そればかり考えていた。
「とにかく今日は帰ろう。またいつか出直して来ればいい」
と部長が言い、車をスタートさせた。帰りの車の中は気まずい雰囲気だった。

私は、大学入学してすぐの飲み会を思い出していた。望含め友人5人での飲み会だった。個室だと聞き、それならと私も参加した。が、それは合コンだった。目の前に知らない男性が5人、乾杯から10分と経たず私は席を立ち人気のない路地に座り込んだ。最初みんなが「酔ったの」「お水でも飲む」と心配し寒いだろうとジャケットを貸してくれた。でも私が落ち着きを取り戻した頃、望以外のみんなは店の中に戻って合コンの続きをしていた。あれ以来私を誘う人はいなくなった。望だけだった、いつも最後まで傍にいてくれたのは。

今日の事、部長には悪いことをした。こんな醜態さらして恥ずかしいし、迷惑を掛けてしまった。でももう誘われることもない。私が「デート?」なんて無理なこと。これで良かったのかもしれない。などと考えていると急に声を掛けられた。さすが部長(予測不能!)

「通勤は電車か?」
「はい」
何を聞きたいのだろう?不思議に思った。
「満員電車は大丈夫ということか?」
「いえ。混み合う前に、早めに出社しているので」
「何時に出社している」
「6時過ぎぐらいに」
なんか、また怒られそうな雰囲気になっている。
「そんなに早く来て睡眠とかは大丈夫なのか。会社に早く来て何をしている。」
「あの、朝食食べて、お弁当にして持ってきているので。そのあと化粧して、新聞や雑誌読んで、そうこうするうちに皆さんいらっしゃいます。あ、デスクでの食事は禁止されているので給湯室で食べていますから大丈夫です。」
と答えた
「帰りはどうしている」
「帰りは、朝ほど混んでいませんし。混んでいたら次の電車に乗ります。東京はすぐ次の電車が来るので助かります」
たまに歩いて帰る時もある。これは省略。言ったらもっと怒られそうな気がするから。
「助かりますじゃないだろう。大丈夫じゃないだろう。医者に相談するなり。何か対応を考えるべきだろう」
医者は嫌いだ。それに部長怖い。怒鳴ってばかりいる。
「そんなに怒らないでください。怖いです」
まずい、心の声がそのまま出てしまった。
「すまない。別に君に怒っているわけではないのだが」
「言いたいことは分ります。私、めんどくさい女ですから。いつも回りに迷惑かけている」
「いや、私が言いたいのはそうではない。心配しているのだ。どうだろう、私が送り迎えをするというのは。」
一瞬何を言われたのか分らなかった。私みたいなめんどくさい女の送り迎え?とりあえず怒っていないと言われた事には安心した。
「お気持ちは嬉しいのですが、今実践訓練しているようなものですし。もう少し時間が必要なだけだと思います。いつか普通になれると思います」
これは願望だ。いつか普通に暮らせる日が。それにこれ以上迷惑はかけられない。昼飯でもと誘ってくれたけど、またあの醜態を見せる事になるかもしれないと思い断った。気まずい!気まずいまま私のマンション前まで来た。

「そうだ、運転してみるかい」
部長が言う。わたしがポルシェを運転。したいです。もちろん。
「よろしいのですか?」
言葉とは裏腹に、やる気満々と言う声で答えていた。
「どうぞ、どうぞ。キズはつけないでくれよ。一応保険には入っているが」
部長が、からかうような笑いをしている。運転の仕方をざっと教わった。ウインカーが日本車と逆についている。これは要注意だ。最初はとりあえずゆっくり運転してみた。が、部長が運転していた時のようなカッコイイモーター音ではない。ここはちょっとおねだりして
「もう一周いいですか」
と聞いてみた。
「どうぞ好きなだけ」
と言ってくれたので、今度はアクセルを踏み込んだ。いいモーター音だ。こうでなくちゃ。部長が変な悲鳴を上げている。面白い。部長が怖がっている。いつもは私の方なのに。
「足が滑ってしまって、ごめんなさい」
一応謝っておいた。最後は部長の(ポルシェの)お陰で楽しい雰囲気でサヨナラを言えた。今日は楽しい一日だった。

部屋に戻り「楽しい一日」を総括してみた。まずい、部長にとっては「とんでもない一日」になったはずだ。私はベッドに倒れこんだ。休み明け、どんな顔して部長に会えばいいのだろう。そんな事をぐずぐず考えているうちに眠ってしまったらしい。気が付くと日が傾きかけていた。起きだして望に連絡をした。相談するなら望しかいない。取りあえず一日あった出来事をかいつまんで説明し、これからどうしたらいいかアドバイスを求めた。
「で、あなたはどうしたいわけ」と聞かれた
「え、いや。私これからどうしたらいいのかなと思って」
と聞き返すと
「いつも言っているでしょ。なにに困っているのか考えなさい。て」
と言われた。私は何を困っているのだろう。ええと、
「部長に迷惑かけてしまったこと」
と答えた。
「話の感じからすると、迷惑とは思っていないよ」
「え、だって私パニックになったのよ」
「で、部長とやらは水をくれたのよね。満員電車のことを聞いて恭子を心配した。最後に車運転させてくれた」
一つ一つ確認してくる。確かにその通りだけど。
「あなたが気にしているのは、パニックになって迷惑かけたこと。それとも、もう誘われないかもしれないこと。どっち?よく考えなさい」
私は考えた、でも自分でもわからない。
「答え出るまで時間かかる質問だろうから一旦電話切るね。答えが出たら電話頂戴。」
と言って電話は切れた。望からの「宿題」という事だ。

私が今気にしている事はなんだろう。よく考えることにした。と5分と経たずに折り返しの電話が鳴った。
「ちょっと、まだ答え出てないから。待ってよ」
と答えた。
「なにが待ってよだ!!こっちがどれだけ心配していると思う。ちゃんと電話にでなさい」
と怒鳴られた。部長の声だ。
「ごめんなさい。えっと、今日の事ごめんなさい」
なぜか謝っていた。
「あいや、怒鳴って済まない。ずっと電話しているのに出ないから、家で倒れているのかと心配になって。どうだ?落ち着いたか。」
「はい、その眠ってしまっていて今起きたところです。あの休めは良くなるので気になさらないでください。いつものことですから」
「こういう事、いつもなのか?」
あ、まずい。また余計なこと言ってしまった。
「あ・・・・最近はだいぶ減っているので。大丈夫です」
良い答えが見つからない。
「その言葉は本当か?」
どうしよう。私、疑われている。ここは正直に答えておこう。
「はい、直近では大学の卒業式でしたから、5か月前。だいぶ改善しています」
「私には改善しているようには思えないが」
部長の返事イライラしている。・・・だめだ、いい答えが見つからない。
「まぁ。今日はよく休みなさい。よく休んでまた改めて遊びに行こう」
と言われたので。
「はい」
と答えた。
「よろしい。ではちょっと早いがお休み」
と言われ電話は切れた。

また、誘われている?携帯を確認すると部長からの着信3件、ショートメール1件来ていた。
うわ、玄関先にかばん置いていたから全然聞こえなかった。

望の宿題「パニックになったこと?もう誘われないこと?」答えが出た。
望に電話し「今、部長から電話来た。私の事心配してくれていた。また誘われた」
と答えた。
「そ、良かったじゃない。今お兄ちゃんにその部長の話聞いていたところ。良い人そうじゃない。あなたのイジメの件も話してみたら。いい相談相手になると思うよ。」
「それは、ちょっと。」
その話はしたくない。
「ま、それは宿題かな。また連絡して、今後の進展について聞きた、面白そうだし。」
アドバイスのお礼を言い私は電話を切った。

夏休みの残りは今までに作った「予習帳」「人物図鑑」のデータをiPadに移した。
考えてみれば重要情報満載のノートを持ち歩くのは危険だ。初めてのボーナスでiPadを購入し、夏休み中にすべてデータを移そうと考えていた。
データを入力しながら思い出していた。そう、杉並で部長に「見せろ」と言われたのがこのノートと勘違いし、オドオドした。それがきっかけでiPadを購入した。データを入力しながら部長の事を考えていた。先日のパニックの原因をきっと聞かれる。どう答えたらいいのだろう。イジメの件を話すべきだろうか。望にすら話していないその先の事件は?
まだ答えは見つからない。この件だけは望にも相談できなかった。



7、
 あの日以来、部長と何度か出かけた。どこに行くか決めずにポルシェの走りをただ楽しんだ。私としてはありがたい事だった。
部長はあの日の私のパニックについて聞くことはなかった。聞かれたら高校時代のイジメの件は話そうと決めていたが、その機会はめぐってこない。私は内心ホッとしていた。

部長から、今の携帯じゃ不便だろうとスマホをプレゼントされた。こんな高価なもの頂けないと返そうとしたが
「私にだってそのくらいの金はある。私のためだ持っていろ」
と言われた。部長のため? 一瞬考えて思いついた。位置情報サービス!
今では毎日のように電話が掛かってくる。「何をしている。大丈夫か」と。「どこにいる?」と聞かないという事は、そういう事だろう。私は確信した。
夜、眠る前、部長から電話があり今日一日の話をする。毎日会社で顔を合わせているのに、電話だとまた違った会話になる。望がいなくなり私は今一人暮らしだ。正直寂しかった。部長からの電話に安心して眠るようになった。スマホはいつも眠るとき枕元に置くようになっていた。

 10月、部長との6回目のデート?の日、いつもの待ち合わせ場所に行くと先に部長が来て待っていた。早速車に乗り込むと
「済まない。今日は野暮用ができた。10時までに千葉の柏まで行かなくてはならなくなった。父の代理だ」
と言われた。私は何処でも構わない。それにお仕事なら優先しないと。それより千葉まで1時間、間に合うのか気になって訪ねた。
「飛ばせば何とか。まあ多少遅れたところで問題はないと思う」
「柏で何があるの」
と聞いてみた。
「柏市のグランドの命名権を父が購入している。その絡みでお呼びが掛かったようだ。今日はプロが教える子供サッカー教室を開催している。役場の関係者も来ているはずだから顔を売っておけということらしい。うちの社も来年あたり柏市でなにかやりたいらしい。」
イベントだ。どうしよう、苦手だ。でもただでさえ遅れそうなのに今さら帰りたいとは言えない。それに部長も一緒だし大丈夫かもしれない。
最近気づいた事、部長と手をつないでいると安心している自分がいる。以前はよく望の腕にしがみついていた。
「会う必要があるのは役場の関係者だけだよ。名刺交換だけして失礼すればいい。」
部長が私の事を心配して言ってくれた。あまり気を使わせたくない。
「そうではなくて、今日の服装ラフすぎないかしら。一応仕事なのでしょう。相手に対して失礼じゃないかしら」
と言った。実際今日のファッションはひらひら系だったから。
「服装は気にしなくていいよ。サッカー教室だ。みんなどうせ汚れていいようにジャージだろう」
え、ジャージ。やだ、違う意味でやはり場違いな服装かもしれない。しかし、部長の予測不能は相変わらずだ。

 ポルシェがカッコイイエンジン音を鳴らして走り、イベントには間に合った。グランドには100人近い人がいる。どうしよう多すぎる。でも人だかりはグランドのはるか向こう、思っていたより広いようだ。役場の人がいるのは反対側、こちらには8人だけだった。部長が役場の方に挨拶している。仕事中の部長は素敵、見とれてしまう。頼れる上司だ。
あいや、最近はそれ以外の時も頼っている。仕事以外でも。もちろん素敵だ。でもすごく心配性で、俺様で、予測不能だけど。・・・と考えていると100人の集団が動き出した。その中から一人選手が抜け出しこちらへ走ってきた。そろそろ始まるのかなと思いながら見ていた。そして、見ていて気付いた。茨城の知り合いだ。私は逃げ出した。とにかく反対側へ、できるだけ遠くへ行かないといけない。
「恭子。塩谷恭子じゃないか。偶然だな、どうしてここにいる。今どうしている」
まずい。私を本名で呼んでいる。だめ、それ以上私の本名を言わないで。言わせないためには振り向くしかなかった。
「助けて。助けて部長」心の中で叫んでいた。部長もすぐ気づいて来てくれた。肩にある部長の手のお陰でそれ以上取り乱さずに済んだと思う。が気付くと100人の集団の視線がこちらを向いていた。とにかくこのままではパニックを起こしそうだ。避難所(ポルシェ)に行こう。
「ごめんなさい。先に車に戻っていてもいいですか?」と部長に声を掛けた。仕事の邪魔をしてはいけない、とにかく一人で先に戻っていよう。と歩き出すと部長は付き添ってくれた。
最後まで私の傍に残ってくれる人がそこにいた。望以外では初めてだ。

そんな幸せに浸っているとまた「塩谷さん」と声を掛けられた。だからその名は呼ぶな!!
「私、内山が所属しておりますプロサッカーチームの広報を担当している者です。うちの内山が塩谷さんから連絡がほしいと申しております。こちらの連絡先までいつでも都合の良い時にご連絡頂けませんか」
と言って名刺を出してきた。いや、そんなものほしくない。
「あの、もちろん塩谷さんの連絡先を教えていただけるのであれば、内山の方よりご連絡いたします」
そんな、連絡なんてしたくない。早くこの場を立ち去りたい。また部長に助けを求めた。部長が上手く相手をしてくれて、とにかくその場を離れることができた。
とにかく避難所(ポルシェ)へ行って少し休もう。部長の前で醜態をさらすのはこれで2回目だ。恥ずかしい。
「ごめんなさい。もう大丈夫。帰りましょう」
「ポルシェを飛ばして帰ろう。運転するか?」
部長が励ますように言ってくれた。でも今は運転に自信がない。運転は部長にお願いした。

帰りの車の中、部長に高校時代のイジメについて話さなければと考えていた。今度聞かれたら話そうと思っていたことだ。今日がその日だったのかもしれない。徒然とあの時を思い出していた。
携帯が無くなり教科書がゴミ箱に捨てられ。体操着はトイレに突っ込んであった。私の生けた花、花瓶が割られていた、そして学校裏サイトが・・・。
ダメ思考が止まらない。どんどんあの頃に引き戻されてゆく。思い出したくない。でもどんどん蘇ってくる。いつの間にか泣き出していた。どうしよう、涙が止まらない。
部長が抱きしめて慰めてくれた。
私は気付いた。部長は最後まで私の傍らにいてくれる人。どうかわたしを離さないで。私を助けてください。心が叫んでいた。



8、
 気付くと部長のマンションに来ていた。はっきり言って汚い。部長が珈琲を入れてくれたけど、キッチンにある新聞の山のほうが気になった。そうだ、気分を替えるためにも食事でも作ろう。急に思い立った。
「何か作ります」
冷蔵庫を開けてみた。ビールしかない。
「ビールしか入っていませんけど」
「そうだ」
だからどうした。というように言う。
「ちゃんと食べていますか?」
「料理はしない、その辺で食べて帰ってくるから」
このままでは病気になってしまう。ちゃんと食べさせないと。
「買い物に行ってきます」
と言って自分のカバンを掴んだ
「おい、買い物って」
「一番近いスーパーは何処ですか」
と聞き、教えてもらったが、行ってみるとそこはコンビニだった。嘘でしょ。こんな食生活改善させないと。それほど混んでいないし、今日はとりあえずここで済ませることにした。。
パスタの麺とレトルトソースを購入。カレー用の野菜は置いてあったのでパスタに玉ねぎとベーコンを増やしてナポリタンかな。あとお野菜食べさせないと。でも出来合いのパックしかなかった。冷凍のブロッコリーを買ってサラダに追加しよう。買い物を終えマンションまで戻って気付いた。スッゴイこれ億ションと言われているマンションじゃない。40階建て?ぐらい。あ部屋何処だろう?私、間抜けだ。

「部長。マンションの下まで来たのですが、入れません。あと部屋番号が分りません」

電話の向こうから部長の爆笑が聞こえてきた。部長の笑いを取った。少し恥ずかしいけど。
「パスタで良いですか。簡単だしすぐできるので。あと好き嫌いとかありますか?今さらですけど」
と聞いたが、メニューは決まっている。少しは栄養のあるものを食べさせないと。
「趣味は料理か」
と急に声を掛けられた。
「父と二人の生活だったので、自然私が料理をするようになって。10歳ぐらいからいつもキッチンに立っていました」
まずい、この会話は今、したくない。料理に集中しよう。
「お母さんは?」
部長はお構いなしに聞いてくる。部長は予測不能。最近慣れてきたけど、この質問に答えるつもりはなかった。15分ぐらいで出来上がった。
「久しぶりに我が家で食事をした」
と部長がこともなげに言う。
「外食しかしないという事ですか。鍋とか有名メーカーの物ばかり揃えてあるのに勿体ない」
食をないがしろにする人は嫌いだ。今回は私が怒っている。いつもと立場逆転。
「その辺の物は前の妻が揃えたものだ。私は詳しく知らない」
と言われた。そうだ、部長はバツイチだった。という事はいま私が使っていた料理器具一式、奥様の物。なんか複雑な気分になった。
「食後の珈琲は私がいれてあげよう」
と部長が自慢げに言う。つまり珈琲だけは自分で出来るという事らしい。ソファーで珈琲を飲みなが考えていた。折角だからこれからも食事作ってあげようかしら。こんな食生活いいわけない。早死にしてしまう。などと考えていた。

「おい」
なんだろう、部長がまた怒っているようだ。
「はい」
えっと?私何か怒られることしたかな。
「何か私に言いたいことはないか。思い出させて申し訳ないが、気になっている」
気になっている。何を?あ、思い出した。そうだ今日のサッカー選手。頭の中で「予習帳」をめくり答えを探した。
「高校生の時、一度デートした相手です。彼はサッカー部のスター選手で誘われたとき嬉しかった。動物園に行きました。でその翌日SNSに写真がアップされたの」
ここまで一気に言う。すこし心を落ち着つかせてからまた話し始めた。
「タイトルは「学園スターとがり勉女のお出かけ」写真一枚一枚にもいろいろ書かれていた。その後、全女子学生が私を攻撃し始めたの。色々な方法で。学校で問題になって、教育委員会も出てきて滅茶苦茶になった。結局退学したの、だから高校は卒業していない」

ここで一旦心を落ち着ける事にした。どうしようこの後も続けるべき。望にも話していないあの事件。まだ誰にも話したことはないあの事。だめ、この先は続けられない、と考えていると隣から部長が肩に手を回して来た。いたわるような優しい感触、私は結局先を続けられなくなった。部長の肩にもたれかかって安らぎを得る方を選んだ。でも部長(予測不能)は続きを求めてきた。

「塩谷恭子ってだれだ?」
「塩谷は父の姓です」
私の体は緊張していた。部長は塩谷恭子という名を知った。
「じゃ、鈴木は」
「事件の後、私の親権が母に移ったので。その時母が結婚していた相手が鈴木で、鈴木に変えさせられたの」
多分その続きを話すなら今しかない。でも今はまだこの安心感に浸っていたい。今までの話に嘘はない。最後の部分を省略しただけだと自分に言い訳しながら部長のキスを受け入れた。



9、
 柏のあの出来事以来、部長のマンションへよく行くようになった。だってあんな食生活改善させないと。部長は食べ物にこだわりは無いようでなんでも「美味しい」と言って食べてくれた。私も久しぶりにうでが振るえて嬉しかった。

あと、気になっている事がある。このまま部長の家に出入りして、抱きしめられ、キスしたらその先に何があるのか、私だって知っている。

望にとりあえず相談してみた。SEXについて
「あんた、そんな事まで私に相談するの」
呆れている。でも声が面白がっている。
「だって、どうしていいかわからないし。私何すればいいの」
「何を?て・・・・・詳しく説明するのは難しい」
珍しく望も返答に困っていた。
「部長は30過ぎでバツイチよね?」
「そうだけど。」
と答えると
「だったら経験豊富だろうから、部長にお任せすれば」
望が問題を丸投げしている。
「あ、でも。避妊はちゃんとしなさいよ」
「避妊?」
私はいつも通り聞いた。
「コンドーム使えばいいのよ」
「分った。そうする」
と言って電話を切ってから考えた。コンドーム!!!!!

 数日後、私のデスクに真赤なバラが置いてあった。部長から?すごいロマンチック。と考えながら部長を見ると、物凄い剣幕でこっちを見ていた。え違う?だれ?周りの皆が囃し立てている。とにかくバラを掴むとトイレへ駆け込んだ。一番近い避難所だ。カードを取り出し開けてみると。
「君からの連絡を待っている。必ず返事を下さい ~内山久志~」と書いてあった。
ゲ!!どうしよう。見たくなかった。そう見なかった事しよう。私はカードを綺麗に元に戻した。とにかくこのカードの件は部長に相談しよう。でもバラはどうしよう。持っていたくないけど、綺麗だ。捨てるには可愛そう。いつまでもサボっていられない。トイレを出ようとして受付の東野由起恵さん(34歳既婚、趣味テニス)とぶつかりそうになった。
「あら、綺麗なバラね。どうしたの」
と声を掛けてきた。これ幸いと
「貰いものなのですが、折角ですからどこか飾っていただけませんか」
と渡した。
「え、いいの。あなたへのプレゼントじゃないの」
「違います」
即答した。そして、私はその場を毅然とした態度で礼儀正しく立ち去った。

 部長のマンションでいつものように夕食を作り、帰りを待った。部長から安らぎを得たかった。いつものように部長は優しく、頼もしかった。カードは火で処分された。もう跡形もない。
 でも、カード攻撃はいつまでも続いた。私を苦しめたいのだろうか。幸せな気分だったのに、暗い過去が追いかけてくる。
「このままではいけないと思う。先方には私が話をつけてみる」と部長が言ってくれたのでホッとしていた。しかし、部長は、私が彼と会う約束をしてきた。裏切られたような、騙されたような気持ちになった。でもそんな事を言ったら失礼かもしれない。私は、当日部長が付き添ってくれるならと了解した。
 当日、私は何も話すつもりはなかった。どうせなら部長が話せばいいと思っていた。はっきり言って怒っていた。
「連絡ありがとう。恭子はどうしているかといつも思っていた。あの日の再会は奇跡みたいだ」
と言っているが、こちらには悪夢だった。思い出したくもない。
「えっと、まず。写真の件を今一度謝りたい。本当にすまなかったと思っている。この件は何度も謝ったはずだ。それにあれは友人が勝手にやったことだ。オレはそんなつもりはなかった。あの日君の事をずっと待っていたのになぜ来なかった?連絡もなかった。急に学校をやめてどこに引っ越ししたのか分らなくて、こっちは理由が分らず気が変になりそうだったのだ」
と言っている。けど? なんだろうこの食い違い。私が知らない事を言っている。
内山君は「何度も謝ったはずだ。なぜ待ち合わせに来なかった?連絡をしなかった?」と言っている。私が悪いみたいな言い方に、また腹が立った。
「謝って頂いた覚えありません」
と返事した。実際そんな記憶はない。今度は
「だから手紙を書いたのだ。そこに書いてあっただろう。」
「手紙など頂いていません。連絡を頂いた覚えもない。こちらも連絡していません」
とも言った。部長が場の空気を呼んだのか解説を始めている。2時間ドラマで合間にやる「これまでのあらすじは」みたい。部長にも腹が立ってきた。
「いいえ、頂いていません」
もう何度言わせるのよ!話はこれまで。3回は答えたはず、あとは毅然と礼儀正しく去るだけだ。
「プロで活躍されているようで、夢をかなえられた事、素敵だと思います。これからの活躍を期待しています。頑張ってください」
と言って席を立とうとした。
「君は今どうしている」
と食い下がってくる。
「今の仕事を気に入っています。松井さんも忙しいでしょうしこれで失礼します」と言って席をたった。

 部長の部屋へ入ると一気に緊張から解放された。まだちょっと怒っているけれど。
「今日は疲れた」
部長も疲れたようだ。ここは気分を替えたい。料理をしよう。
「夕食を用意するね。昨日のうちに用意しておいたの。すぐできるから」
でも今日は一品少なくしてやる。私をあんな場所へ連れて行った罰だ。切り干し大根はお預けだ。

「手紙を隠したその誰それは何者だ」
部長(予測不能)が急に聞く。
「華道部の同級生。あの時女子生徒のほとんどが私の敵だったの。彼女も嫌がらせしていたという事ね」
そう、あの時は皆が敵になっていた。
「携帯壊されたのか」
「最初盗まれた。次は壊されたの」
「手紙の内容は気になるか」
そう聞く部長の顔をみて思った。手紙の内容を気にしているのは部長の方だと。
「気にならないと言えば嘘になる。でも今さら知ったところで何かが替わるわけでもない」
その答えに部長は安心してくれたようだ。私が部長を安心させている。いつもと立場が逆転した。自分でも最近、強くなったような気がしていた。以前のようにオドオドしなくなってきている気がする。きっと部長が傍にいてくれるから。怒りはおさまり幸福感がわいてきた。
「今日は疲れたろう。泊まっていくか」
と急に聞かれた。泊まっていく、泊まっていく。そう心の準備は多分できている。真赤になりながら
「うん。泊まっていく」
笑顔で答えた。

 一応、先に伝えた方がいいかもしれない事を伝えなければと思い
「私、今まで男性とお付き合いしたことないの」
と言った。丸投げするならちゃんと伝えておかないと。
「まぁ、今までの君の情報を総合するとそうなるだろうな。あのサッカー小僧ぐらい・・・・・」なぜ、部長の言葉が詰まった。困っているのかな?
「その、ごめんなさい」
とりあえず謝っておこう。
「よし、じゃいこう」
と言われて腕を掴まれた。
寝室まで来てふと思った。部長は奥さんとここでSEXしたのかな。夫婦なのだからあたり前だけど、比べられたらどうしよう。
「服を脱いで待っていなさい」
と部長が言い部屋を出て行った。どうしよう出て行っちゃった。私一人残して。なぜだろう?ぐずぐずしながら髪留めを取った。寝室に戻ってきた部長が後ろから私を抱きしめて、耳元で
「私に脱がされたいのか。2分待つ服を脱いでベッドにはいっていなさい。私は後ろを向いていてあげるから」
と言うと足元の灯りだけ残して電気を消した。とにかく言われた通りにしよう。あとは望の言う通り部長に丸投げだ。


 いつの間にか部長の腕枕で寝ていた。夜景がきれい。まだ夜中だ。部長が寝ているうちに少し顔をなでてみた。熟睡している。私は満たされて幸せだった。部長の掌に自分の手を重ねてみた。握り返してくる。このまま手を握っていよう。こんな日が来るなんて考えていなかった。部長の心臓の音が聞こえる。幸せだ、そして暖かい。

部長が私の髪をなでる手で目が覚めた。
「おはよう。気分は」
「歯磨きたい。あと、着替え無いどうしよう」
と眠気眼で答えると。
「何か着られるものがあるだろう。探してくるよ」
と言って出て行った。
一瞬間があって気付いた。まさか元妻の服とか、嫌だ、そんなの着たくない。とにかく昨日の服をそのまま着ようとベッドを出て気付いた。シーツが汚れている。ゲ!!そういえばネットにそうなると書いてあった。洗濯しようとシーツをはがしていると部長が部屋に戻ってきた。
「何を格闘している?」
ゲ!!!私裸だ。布団で自分の体を隠そうとしたら今度はシーツが丸見えになってしまった。ああどうしよう、凄く暑い。きっと私だけだろうけど。空気を察して部長が抱きしめてくれた。あ、ホッとする。
今度は布団を持ったままでベッドに押し倒された。
「そのまま待っていなさい」
と言われたので。布団を抱いたまま固まっていると部長が何かを手に戻ってきた。あ、それは
「コンドーム」
思わず言ってしまった。私の上にまたがりながら部長が聞く
「なぜその単語を知っている。君は初めてのはずだが」
「えっと、望に避妊はちゃんとしなさいと言われて、買いに行ったの」
部長が「何だと!」という顔をして眉吊り上げている。これは怒りではなく面白がっている表情。最近少しずつ部長の表情を読めるようになってきた。
「ということは、用意してきたという事か?」
私は首を振った。
「種類がいっぱいあって、どれが良いですかなんて聞けないし」
部長が笑い始めている。
「だから計算したの」
と私が言うと今度は不思議そうな顔をしている。
「前回のその、あれから、次のその日はいつかを」
「つまり、今は大丈夫な時期と言いたいのか?」
「はい、多分。その絶対はないとネットに出ていて。でも後3日ぐらいで次が来る予定だから」
部長がふんふんと考えている。
「では生でしてもいいかな?」なななな、生??私は目を丸くした。
「嫌なら、嫌と言っていいぞ」
嫌と言うなという目力で聞く。
「部長がそうしたいなら。私は構いません」
「・・・ま、それはまたの機会にとっておくよ」と優しく言った。


10、
 師走に入り、部長は大忙しだ。通常の業務の他に忘年会やパーティーへ参加している。会長の息子ということもあり引っ張りだこだ。これも仕事のうちだからしょうがないけれど体が心配、あまりお酒は強くないようだ。週末も寝て過ごすことが増えた。私は、と言うと相変わらずイベントには参加していない。部内の忘年会も参加しなくていいと言われた。私は部長のいないマンションで部長の帰りを待つことが増えた。

 クリスマス直前、崇さんが訪ねてきた。部長にも声を掛けようとしたが会議中だったのでデスクにメモを残しておいた。
「今回は長めに休暇を取れそうだ。恭子ちゃんは、正月休みはどうするの?新潟に一緒に来る。望もいるし」
と聞かれたので
「ありがとうございます。でも、部長と一緒に過ごす予定ですから」
と答えた
「つまり彼とは愛し合っているという事かな」
余りにストレートな聞き方に赤面してしまった。
「彼には昔の事、話した?」
と崇さんに聞かれ、今度は青ざめた。
「その様子じゃまだのようだね」
崇さんは相変わらず鋭い。昔の事、話はした。でも続きを話していない。
「愛しているなら隠し事は良くないよ」
警告のような声だ。どうしよう、言葉に詰まってしまった。黙り込んだ私を気遣ったのか。崇さんは優しい声音で話を替えた。
「今日は恭子ちゃんのところに泊まらせてもらおうと思っていたのだけど、そういう事なら別に宿を取ろうかな。彼も気にするだろうしね」
「あ、大丈夫です。あのマンションは崇さんのものですから。私は部長の家に行くつもりです。ゆっくりしてください。あ、これ家の鍵です」
と鍵を渡した。その時崇さんの視線が動いた。
「あ、君の部長が来るよ。ちょっと二人だけで話したいので、君は席をはずしてくれるかな」
「あ、情報交換ですね。お仕事順調そうで何よりです」
部長が来たのでバトンタッチ。自分のデスクへ戻る事にした。

部長がデスクに引き上げたのを見て、早速尋ねてみた。
「崇さんと何を話したの、私は席をはずすよう言われたので先に戻っていたのだけど」
「今日、君のマンションに泊まると言っていた」
部長怒っている。なぜ?
「ええ、崇さんのマンションですし、私は部長のマンションに泊まろうかと思っていますけど。よろしいですか。あとそろそろ新しい部屋見つけないと」 
だったら一緒に住もう!と言ってくれないかなぁ。と思いながら聞いてみた。
「もちろん泊まっていきなさい。用意をしてくるといい」
つまり「今日は」泊まってもいいという事かな。少しショックだ。
「用意ならもうしてあります。今日の帰りは何時頃ですか」
聞いてみた
「すまない。今日はパーティーだ。そうだな9時過ぎ、10時前には戻る。家で待っていなさい」

今日も部長の部屋で一人帰りを待つこととなった。まだ8時前、掃除でもしながら部長の帰りを待つことにした。
書斎の周りの古い雑誌を紐で縛る。ふとパソコンに目が留まる。実はずっと気になっていたことがある。部長は私の本名が塩谷であることを知っている。あの時以来何も聞かないけど、どう思っているのだろう。部長は部屋の物は好きに使っていいと言っている。パソコンのパスワード、教わっていないけど実は知っている(会社と同じ。しかもわかりやすい)。
覗きのようで気が引けるが、でも気になる。私は最近の検索履歴を確認してみた。「塩谷恭子」を調べた記録はなかった。取りあえずホッとした。次に「鈴木恭子」を検索してみた。余りにもありふれた名前だ。検索件数が多すぎて個人の特定は難しい。私が好きでもない「鈴木」を名乗っているのもそのためだ。「塩谷恭子=鈴木恭子」だと気づく人はいない。最後に「塩谷恭子」を検索してみた。まだ残っているあの時の「裏サイト」、いつまでたっても消えない。影のようについてくる。
 部長に話すべきなのかもしれない。でも、いつもここで立ち止まってしまう。知られたくない気持ちのほうが強い。どうしよう、望にも知らせていない事。望にも相談できない。

久しぶりに父の声が聞きたくなって電話をしてみた。
「お父さん、元気にしている。」
「恭子か、久しぶりだな。私の心配はするな。こっちは問題ない。お前こそ大丈夫か」
「元気にしているよ。仕事も慣れたし、同僚の人たちも皆いい人だから」
父も私もお互いの事を思うあまり本音を言えなくなっている。あの事件以来見えない壁ができていた。私は意をけして言った。
「お父さん。私好きな人ができた」
電話の向こうで父が息をのんだ。
「お父さんもその人に会いたいよ。今度連れてきなさい」
父が優しく言った。
「まだ、話していないの。その、ちゃんと話さないとダメよね」
父に心配掛けるのを覚悟で聞いてみた。
「お前は悪くはない。あれは間が悪かっただけの事だ。その人が本当にお前の事を大切に思うなら分ってくれるはずだ。正直に話してみなさい。そして茨城に彼を連れて来なさい。待っているから」
「分った。そうする。ありがとう。」

電話を切った後、そのまま部長のデスクに座っていた。部長がいないこの家は落ち着かない。時々不安になる。パーティーに出掛ける部長を見送り一人になると、大学入学してすぐの飲み会を思い出す。気付くと望以外誰もいなくなっていたあの日。部長に言われた通り私は待っている。部長の帰りを待つだけの時が不安にさせる。と、急にドアが開いた。部長だ。え、まだ9時にもなっていない。
「ここにいたか」と言って入ってくると急に抱きしめて、キスをした。いつもと違う凄く情熱的なキスだ。心がとろけそう。部長に抱き付きながらさっきまでの不安を追い払い、幸せをかみしめた。パソコンはすでに暗転していた。そして、私はまた口をつぐんだ。


11、
 クリスマス、正月と部長と一緒に過ごした。クリスマスはシャンパンを買って飲んだ。せっかくなのでドン・ペリニヨン、高級シャンパンだ。でもお酒に弱い部長は慣れない高級シャンパンに酔いリビングで寝てしまった。実は私、お酒には強い。部長に勝った!! が、リビングで寝てしまった部長をどうすることもできず、毛布を持ってきてその隣で一緒に寝ることにした。翌日部長は二日酔いだった。
 お正月はDVDを沢山見た。何時間も集中してDVDを見ている私を見て、部長がびっくりしていた。

 充実した正月休み後の仕事始めは順調だった。部長は、今度は新年会に引っ張りだこだった。でも帰りはあまり遅くならず私の作った夕食を食べてくれた。さすがに時間も遅いので軽めの消化の良いものにしたけど。
 今日のメニューは鍋だ。7時ぐらいには帰れると言っていたが、もう8時近くになっている。電話かけてみようかとも思ったが仕事の邪魔をしてもと考え。鍋を前に部長の帰りを待った。
 鍵を開ける音に気付いて玄関先へ行く
「お帰りなさい。帰りが遅かったからどうしたのかなと思っていたの」
と声を掛けた。が、部長が私の顔を見て驚いている。なぜ?どうして驚くのだろう。いや、驚いた顔ではない、これは・・・そうこの目は。あの思い出したくもないあの目。猜疑、哀れみ、蔑み・・・・どうして部長がそんな目をしているの。部長は手に見慣れない茶封筒を持っている。私はそれをひったくり、中身を取り出した。きっと原因はこれだ。
「鈴木恭子(塩谷恭子)身上調査報告書」とある。ペラペラめくってみたけど読みたくもなかった。専門の調査機関に頼んで私の事を調べたのだ。確かに私は口をつぐんでいた。嘘つきと責められても仕方のないことかもしれない。でも、これは、こんな裏切り。
「調べたのね」
自分の事を棚に上げて、怒りが先に立ってしまった。部長は何も言わない。冷たい視線だけを私に向けている。私の嫌いなあの目だ。
「その目よ、そう、あの時もみんなそういう目で私を見ていた。なによ、こんなもの」
と言いながら書類を破った。だからと言って消えるわけではないあの事件を消したくて。とにかく、ここはもう安心できる幸せな場所ではなかった、別の、どこか別の避難所へ行かないと心が壊れそう。カバンを持って玄関を向かった。
「待ってくれ」
という部長の手を振りほどいた。するとカバンの金具が部長の頬を切った。「ケガさせちゃった。痛そう。ごめんなさい。」そう言おうとしたのに、口をついて出た言葉は違っていた。
「言っておきますけど。父は素晴らしい人よ。父親が誰だか分らない母親にも捨てられた私を育ててくれた。立派な人よ、それを・・・あなたは違うと思っていたのに」
だめだ、冷静になれない。ここを出なくちゃ。そうだスマホの位置情報。今までは部長が、私がどこにいるか知っているという事実に安らぎを感じていたのに。
「最低!!」
今は知られたくない。思わず投げつけていた。



12、
 部長のマンションを飛び出したはいいが、どこに行けばいいのか。今、電車には乗りたくない。自分のマンションに歩いて帰るには遠すぎた。その気力もない。「避難所」望に言われて探しておいたここから一番近い避難所、会社の目の前にあるネットカフェへ行くことにした。避難所を利用したのは去年9月以来の事だった。女性専用の一番大きいブースを選び、とにかくそこに落ち着くことにした。頭は真っ白だった。怒り、悲しみ、何がしたいのか?どうしたらいいのか?もう何も考えられなかった。

 何故もっと早く自分の口から言わなかったのだろう。後悔する。でもあんな風に調べるなんて、やはり怒りを感じる。部長と一緒だと、とても幸せだった。でも、考えてみると4月入社時、私は一生一人で生きていくつもりでいた。人混みが苦手で満員電車にも乗れない私が普通の生活を送れるわけもなく、定年まで働いて老後はひっそり一人で暮らそうと考えていた。それが部長に恋をした。自分の馬鹿さ加減に呆れる。なにを浮かれていのだろう。これからどうしたらいいのだろう。私はデスクに突っ伏していた。普通こういう場合泣くのかもしれない。でも泣は出てこない。頭も心も空っぽだ。なにも感じなかった。
今日はもう遅い、帰る気力もないので朝までこのネットカフェで過ごすという事だけは決めた。

 朝6時、私はネットカフェをでて自宅へ帰ろうとしたが、出勤途中の人波を見て思った。「会社どうしよう。もう会社行けない。部長にも会えない」私はネットカフェにユーターンした。すぐに戻ってきた私を見て店員が不思議そうにしたけど、気にしてはいられない。もう一度同じ部屋を借りて入った。少なくとも今日一日の事だけでも決めてからここを出なければ。箇条書きにして検討を始めた

1、 会社はどうする。出社するのか。いや無理だ。今日どころか永遠に無理だ。退職願を人事課へメールした。失礼だけど自分で持っていく勇気はない。
2、 皆の出勤時間をさけてここを出る。ここは会社に近いから、ばったり出くわすかもしれない。部長に会ったら目も当てられない。昼近くまでここで過ごして自宅に戻ろう。
3、 自宅へ戻ったらと・・・自宅へ戻ったら。どうしよう。

結局、決められたのは2つ、あとは自宅でゆっくり考えようと思い、時間つぶしと気分転換を兼ねてお気に入りのDVDを見ることにした。でも私はそのDVDの選択を間違えた。気分は沈む一方だった。

ふと携帯を見ると着信が凄いことになっていた。最近部長からもらったスマホばかり使っていたけど、携帯の方に部長からの着信が20分おきぐらいに来ていた。折り返しなんてしない。何話していいか何も決められていないもの。でも最後の着信は望からだった。そうだ望に相談しよう。以前はいつも相談していたのに。最近はすっかり部長に相談する癖がついて大切な親友を忘れていた。私ってなんて薄情者。私は望に電話をした。

「恭子。あけおめ!元気している。久しぶりに東京にでも行こうかと思って」
懐かしい声だ。ホッとする。
「あなたの好きなお店に私はいけないけど。どこ行きたいの」
私はできるだけ明るい声で答えた。
「相変わらずおうちでネットショッピングしているのね。ところで本日のトピックスは」
私は目の前のパソコンを見ながら言った。
「経済、日経は下げているね。新年初日から下げるのは珍しいかな。政治、首相は年頭の挨拶強気だね。エンタメ芸能人ハワイから続々帰国。て、とこかな」
いつものジョークを言い合った。少し心が軽くなった。
「なんか元気ないね。料理している」
さすが望は鋭い。
「今、雨宿り中なの」
「雨でもないのに」
「そう。DVD見ていた。ちょうどポール・ペタニーが優勝するところ」
「その映画好きね」
「だって、ウインブルドンで優勝して大観衆の前で彼女にキスするのよ。憧れるじゃない」
「何言っているの、あなたは大観衆を前に逃げ出すくちでしょ」
電話の向こうで望が笑った。私もつられて笑った。やはり持つべきは親友だ。恋人ではない。
「雨宿りならこっちくれば。農家の冬は暇でさ」
「うん。行こうかな」
望に相談しに行こう。
「車はダメだからね。今関越トンネル雪で凄い事になっているよ。電車にしなさい。正月も明けたからそんなに混んでないはずだし」
望に言われた。
「えぇ。電車」
確かに雪道の運転、自信ない。
「グリーンで早く来るか、鈍行でゆっくり来るかどちらかにしなさい」
と命令している
「分った。明日駅に行ってみる。時間は後で知らせるね」
新潟に逃亡だ。この後の事が決まったので少し気持ちが落ち着いた。
「今回の宿題は東京バナナ、メープル味ね。じゃ、待っている、またね」
最後に「宿題」までだされた。東京駅に行けと言いたいらしい。本当は卒業前に出されていた望の「宿題」。私はまだやり遂げていなかった。望はその事をまだ覚えていたようだ。
とりあえず、この後の計画が出来上がった。
① 自宅へ戻り旅行用の荷物をまとめ
② キップの手配。同時に明日の到着時刻を望に連絡。
③ 望の宿題を行う。東京バナナ

私はネトカフェを出て、歩いて自宅へ向かい、準備を開始した。
① 旅行の準備はできた。
② キップの手配完了。望に「とき301」に乗ると伝えた。望のお父さんが駅まで迎えに来てくれるという。約1年ぶりの再会だ。去年、望の引っ越しを手伝って新潟に行った。望のお父さんは穏やかで優しい人だった。
③  東京バナナ。この宿題が一番の問題だ。どうしよう。今から東京駅へ行く気力はない。でも明日朝6時8分の新幹線に乗る予定、お店はまだ開いていないかもしれない。私は考えた。そうだ望は「東京駅で買った東京バナナ」とは言っていない。ずるだけど違う店舗で買ってこよう。と一番近い品川駅で購入した。

 翌日、朝6時前、まだ人気のない東京駅にいた。いつか、人でごった返す東京駅に来ることができるだろうか。もう一生無理な気がする。一人でポツンと立っているとこれからの人生なにもかも全てがもう無理な気がしてきた。とても不安で、押しつぶされてしまいそう。とにかく新潟に行くことだけを考えようとした。新潟に行って落ち着いてこれからの事を望に相談しよう。今はそれだけを考えることにした。

 新幹線は時刻表通り駅に着いた。日本の鉄道は本当に優秀だ。駅を出ると望のお父さんが笑顔で待っていてくれた。ありがたい。望の様子を少し聞いてみたが、まだ彼氏はできていないという。「私の魅力で」と言っていた望のジョークを思い出した。家では望と望のお母さんが外に出て待っていた。確かお母さんは体調を崩していたはず。突然の訪問をお詫びし
「お加減いかがですか」
と声を掛けると
「恭子ちゃんの顔を見たら治っちゃったよ」
お母さんも優しい。
「前回恭子が使った部屋、開いているから、またそこ使って」
と望が言う。
佐々木一家は全員私に優しい。ふと思った。いっそのこと、こっちに移住でもしようかしら。米農家は大変なはずだから労働力が増えたら助かるのではないだろうか。とても良い考えのように思える。望にその事を相談しよう。そんな事を考えながら、ずるをして購入した東京バナナを望に渡した。
「はい、宿題。ついでにレーズンサンドも買ってきた。望はその後どう、電話で話すだけだったから寂しかった。髪伸びたね」
と話ながら用意してくれた部屋へ行くと、そこに現実が待っていた。・・・いや部長だ。回れ右し、廊下を逃げようと思ったが望がいる。そうか、そういう事
「騙したのね」
なぜ部長がここにいるのよ。
「人聞きの悪い。ここに誰がいるかなんてあなた聞かなかったじゃない。つまり省略よ。
私、朝からお腹の調子悪いのよね。ちょっとトイレ行ってくる。長くかかるかもしれないから先に進めていて」
望のいつものジョークだけど、今は笑えない。しかも望に逃げられた。
どうしよう、別に忘れていたわけではない、忘れたいから考えないようにしていただけ。だから何も答え用意していない。と考えていると、部長の命令が飛んできた。
「座りなさい」
このごに及んでまだ俺様を発揮している。でもなぜか私は従ってしまった。というより、部長がここにいてくれたことが嬉しくもあった。
「聞きたいことが沢山あるのは分る。ここにきて内容をまとめようと思っていたのに」
と言い訳をした。部長の頬の傷が気になる。私がつけてしまった傷、まずはそれを謝ろうと考えていると
「手を出しなさい」
また命令が飛んできた。私は反射的に手をだした。そして部長がその手を握ってきた。びっくりして引っ込めようとしたけど、強い力だ。
「君が何を言おうと私はこの手を離さない。だから3通りの言い回しではなく事実だけを言いなさい」
「事実だけ」
「そうだ、事実だけだ」
「省略は?」
「多少は良いだろう。でも肝心な部分で省略はするな。何回も説明するのは嫌だろう。私もこの一回だけ話を聞く。私からの質問はなしだ」
そう言われても。どうしよう、何から話せばいいかもわからない。とにかく説明は一回だ。質問もなしだ。ここは何も考えず事実だけを思い出しながら話そう。思い出したくないけど。部長がどう思うか私も知りたい。部長の「手を離さない」という言葉にすがりたい気持ちもあった。

「えっと、あのフェイスブック事件の説明覚えている。」
まずそう聞いた。
「むろん覚えている」
「じゃ、その続きから」
そう、その続き。私が口をつぐんでいた、まだ誰にも話していないその続きを私は話し始めることにした。

「問題は学校裏サイトだったの。学校も教育委員会も困っていた。色々書かれていて。父親と血がつながっていないとか。あ、これは本当の事。私生物学上の父親知らないから。で、血のつながらない男と暮しているわけだから怪しいとか、何かあるのではないか例えば虐待とかと言う風に話がどんどん膨らんでいったの」
父と私が男女の中だというものもあった。ゲスの勘繰りもいいところだ。
「児童相談所と市の福祉課と色々な人がやってきて私を連れて行った。私は最初イジメのことで連れてこられたと思っていたの。だから周りの人に「つらかったね。大変だったね」と聞かれて。確かにイジメはつらかったから「はい」と答えたの。でも向こうが聞いていたのは父によるその虐待の事だった。もちろんなにもされてないわよ。父は立派な人だし、私に手を挙げたことさえなかった。でも最初の「はい」が後々まで尾を引いたの」

そうあの時の「はい」と言う一言が大きかった。崇さんに言われた言葉をふいに思い出した。「はい」の一言には多くの意味があるから注意して使った方がいいよ。抑揚のつけ方ひとつで相手は良い方にも悪い方にも取るから。いつものノートに書いてみるといい。面白いから。と

「父に何をされたと聞かれて、父は立派な人ですと答えると、それは嘘だろう、本当の事を言え、最後にはお前のために言っているのだぞと怒鳴る人もいた。まるで刑事ドラマの取調室みたいだった。病院に連れていかれてその・・・調べられた」

そう、あの時私は下着姿で皆の前に立たされた。研修中だという若い男性がニヤニヤしながらこっちを見ていたのを今でも覚えている。あの嘲りの目。

「きっと痣とか何か証拠を探していたのだと思う。気付いているかしら、右肩に3センチぐらいの傷跡あるでしょう。それ、虐待の証拠だって。小学生の時にブランコにぶつけた傷なのに。で写真パシャパシャ取られた。次に白衣を着た人が来て、私の手を取って色々質問するけどリラックスして答えてくれればいいからとか言いながら肩に手を回してきたの」

あの脂ぎった手を覚えている。下着姿の写真の後に触られて、耐えられなくなって思わず。

「その、我慢の限界で。殴った。その人尻餅ついて鼻血出していた。その後質問はされなくなったけど、母が来て鈴木の家に連れていかれたの」

事実、私は事件を起こしている。理由がどうあれ、暴力事件を起こした。あの行動が決定的となって私は父の元に戻れなくなった。身元引受人は血縁者である母となった。
しかし、私は母の事は好きではない。それはお互いさまだ。私が鈴木の家を出て以来連絡していない。もちろんあちらかも連絡はない。

「母の事だけど、母は私を連れて父と結婚したの。私が2歳の時。そして私が6歳の時に今の夫と駆け落ちしたの。私を置いて出て行った、捨てたと言った方が正解ね。私、母の顔覚えていなかった。迎えに来たとか言われても、この小母さんだれだろう?という感じで。母も母の夫も面倒な事に巻き込まれたと思っていたみたい。父との養子縁組は離縁という事になって、私の親権は母に、姓も鈴木に変えられていた。血縁があるというだけで、私を捨てた女に私の断りもなく親権移すなんて、信じられる?」

あの時の怒りがこみ上げてくる。止められない。あの時は本当に荒れ狂うほど怒っていた。

「私は父の所に帰りたいと訴えたけどダメダと言われて、喧嘩にもなった。そして言われたの、お前がここにいないと刑務所に行くことになる。と」
 話は以上だ。なぜか最後は怒りで終わった。きっと私は怒った顔をしている。

「で、それからどうした」

部長は先を聞きたがった。部長には、お終いではないらしい。質問はなしのはずだが。
「あなたの調査書への答えは、これで十分でしょ」
さっきの怒りがまだ残っている。部長のせいではないと分かっているのに。つんけんした物言いになってしまった。
「いや、高校中退した君が大学に進み今私の目の前にいる。それまでには何があった」
ええい、言葉は悪いがやけくそだ。言ってしまえ。
「最初はハンガーストライキした。とにかく抵抗したくて。反抗期みたいなものね。面倒かければまた捨てるだろうと思った。でも捨ててもらい時には捨ててくれない。その、重要な書類にサインしていて(つまり先ほど省略した身元引受関係書類)、そこには私が成人するまで監督責任を負うとある。だから成人するまでの我慢だって言っていた。ひどい物言いだけどそれがヒントになったの。つまり成人すれば私は自由になる。父に会うこともできる。それで大検受けて大学生になったの。父はよくお前は賢いと褒めてくれていた。親の贔屓目だろうけど。大学生の私の姿を見たいとも言っていた。中卒の状態で父に会うわけにはいかないでしょ」

ここきて父の姿を思い出した。4年ぶりにあった父の変わりようを、ショックだった。
「二十歳の誕生日に父に会いに行った。4年ぶりにあってみると。父は仕事を変えていて、白髪が増えて、以前より痩せていた。考えてみれば父だって色々ひどい目に合っていたのよね。私一体何をやってしまったのだろう・・・だって私のせいでこんなことに・・・」

思い出したら涙が出てきた。一番ショックなのはあれから父と本音で話をできない事。お互いを思いやるあまり。父はいつも私の心配をしていた。あの誕生日以来会っていない。一人で会いに行って、またどんな噂を立てられるか怖くてできない。

「恭子は何も悪くない」
部長は大きな声で断言した。部長が断言してくれて嬉しい。でもできれば知られたくなかった。すべてを知って部長がどう思うか考えると怖かった。

「父も同じことを言っていた。ちょっと間が悪かっただけだよって。手、離したくなった?」答えを聞くのが怖いでも、部長がどう思っているのか聞きたかった。部長は答える代わりに
私を引っ張り抱きしめてくれた。引っ張られた私は座卓の上に上がるような形になってしまった。部長の頬の傷、私がつけてしまった傷が目に入る。
「ごめんなさい」
私は傷をなでながら謝った。
「ケガさせちゃったわね。そんなつもりなかったのに。傷つけたくない」
「こんな傷すぐ治るよ。君の傷のほうは問題ありだけど」
「そうね、なかなか消えてくれない傷」

そのまま抱き合っているところに、ちょうどよく望が現れた。もしかして話、聞いていた?
「あら、見せつけてくれるわね。で駅まで送ろうか?」と言っている。

佐々木ご夫妻にわかれの挨拶をし、望の運転で駅まで送ってもらった。私は東京にとんぼ返りとなった。部長は仕事もあるし、とにかく今日は帰らないといけない。
「お父さん、見合いの相手が恭子だってわかったとたん怒りだしちゃって大変だったのよ。兄嫁に違う男紹介してどうする、アホ!て怒鳴られた」
望のいつものジョークだ。
「お母さんなんか、恭子に自分の嫁入り道具を譲るつもりだったのにと泣き出すし」
「あはは、ごめんねぇ何かごたごたして」
望のジョークが和やかな雰囲気を作ってくれる。ありがたい。今回も救われた。
「まぁ、納まるところに納まったって感じかな。でも次逃げてきたら有無を言わさずロンドン送りだからね」
「でも崇さんそろそろ日本に帰ってくるでしょ」
「あ、じゃあ霞が関送りね」
私はすっかり安心している。部長のお迎えと望のジョークに囲まれて。私って基本単純で天然な性格だから。
「今後は、逃げられないように注意します」
部長が突然言ったので私は笑ってしまった。

新幹線に乗り東京へ向かった。部長はわざわざグリーン席を取ってくれた。車両には私たちの他に一人しかいない。そして隣には部長がいる。私は落ち着いて座席に座れた。が急に部長が話し始めた。再び予測不能が動き出した。
「佐々木兄妹、容姿は似てないが話し方や雰囲気はよく似ているな」
そういえば部長に望を紹介したことはなかった。今回初めて会った。いままで気付かなかったのね
「面白い兄妹でしょ。話していると楽しくて」
私は自慢げに言った。たった一人の親友とその兄だ
「どうやって知り合ったのだ」
「大学入学の日、あまりの人の多さに式場に入れなくて、外のベンチに腰掛けていたら望が声を掛けてきたの。もう式が始まるよ、入らないの?と。でも私は入れないからって言うと、じゃ私も一緒にチューリップでも眺めてよって隣に座ってくれたの。あの日以来、望だけはずっと私のそばにいてくれた。私、面倒でしょ色々と。たいていの人は、2度目は誘ってこない。でも望だけは違ったの」
ふと考えて
「あと部長も」
と付け加えた。そう部長もいつも傍にいてくれる。
「実は昨日の電話、スピーカーで私も聞いていた」
と言われ私はびっくりした。
「え、そんなに早く新潟に行っていたの」
「ああ、行くなら佐々木さんの所だろうと思って。電話の内容がおかしくて笑いそうになった。あの二人だけには分る隠語はなんだ」
「隠語?」
なんの事だろう。
「雨宿りとか、本日のトピックス。あと宿題に東京バナナ」
いつもの望のジョークを部長も面白がっている。
「望流のユーモアある表現ね。雨宿りは私の避難所の事、パニックになりそうな時隠れる場所ね。ネットカフェや公園あとトイレとか使っている。トピックスはそのままね。会話のきっかけと言うかその日何を話すか予習しているから」
「じゃ、今話している内容も事前に考えていたという事か?」
と聞かれ一瞬考えた。そう部長との会話は、以前は予習をしていた。でもいつも部長は予習していないことを聞く。だから予習が意味をなさなくなった。いつ頃からだろう、私は部長の予習をしなくなった。
「部長との会話は予習していない。というか、予想外の質問ばかりするから。最初の頃はずいぶんまごついたのよ。最近は慣れてきたけど」
部長は、私の言葉に微笑んだ。
「宿題は?」
「宿題は、これも望流のジョークなのだけど、私の事を心配しての事だと思う。人混みに慣れさせるためにいろいろ頼みごとをする。最初は学食に行って醤油もらってきてだった。だんだん難しくなっている。今日のお題は東京駅に行けと言いたかったのだと思う」
「東京駅大丈夫だったか」
と部長に聞かれたが、どうしよう。東京駅には行っていない。嘘はいけないだろうと本当の事を言った。
「品川で買いました」
あ、まずい。部長の眉が怒っている。
「だって、昨日はその気力なかったから」
と言い訳。
「ところで我々は今東京駅に向かっている。どうする」
言われて気付いた。東京駅に、しかも真昼間の混み合う東京駅に向かっている。まずい。そうだ部長にしがみ付いて歩こう。以前望にしていたように。
「腕組んで歩いてください。そうすれば(多分)大丈夫」多分という言葉は省略しておいた。
「いつでもどこでも、私の腕で良ければ使ってくれ」
部長の言葉に私は微笑んだ。

東京駅構内を部長と腕組で歩いた。私は部長の腕に視線を落とし周りを見ないようにしていた。と部長が急に止まりびっくりし、前を見ると山田人事課長(確か、上のお嬢さん今年中学受験)がいた。
「そうだ、退職願」
部長が叫んでいる。私もその言葉で思い出した。私のメールした退職願。人事課長が
「そう、メールで送られてきた退職願。慰留が成功したという事のようだね」
と言っている。ここはまず謝らないと私は頭を下げた
「この度はご心配をおかけし、申し訳ありません。仕事頑張ります。今後とも宜しくお願いします」
「今回は休暇という事にしておきましょう。しかし上司と部下が同じ日に休暇ではちょっとまずい。鈴木君は今週いっぱい休んで来週から来なさい」
と言われた。今日はまだ水曜日、どうしよう、入社1年目でそんなに有給休暇を使ったらひんしゅくかもしれない。でも人事課長の命令だ。ここは言う通りにしよう。部長を見上げると笑っていた。

 私は部長の自宅へ戻った。当たり前のように。帰ると月曜日に用意した鍋がそのままになっていた。スープはもう使えそうもない。材料は冷蔵庫だから無事だった。今日は前回の続きで鍋かな、と思いながら夕食を用意した。
部長は事実を知った上で私を家に連れてきてくれた。いつものように私の作ったご飯を食べてくれる。食後は珈琲だ。とても満ち足りて幸せだった。何もかもすべてが大丈夫。うまくいく、そんな気がしていた。



13、
翌日、いつものように食後の珈琲でくつろいでいると部長が急に言った。
「手を出しなさい」
最初は手を繋ぎたいのかなと悠長に考えていた。が真剣な表情に別の事だと分かった。
「まだ何か聞きたいことがあるの」
「いや、今回は私の告白だ。だが逃げられたら困る」
部長の告白?部長の秘密ということ。それはそれで聞きたいと思い手を出した。
「その、あの調査書だが、私が依頼したわけではない。その前の妻が持ってきたものだ」
思ってもみない告白だった。奥さん、部長の前妻の情報。私は「人物図鑑」をめくった
「部長の前の奥さん、モデルの加賀美萌。たしか今は別の男性と結婚しているはず。」
離婚理由も知っているがここは省略した。
「そうだ、彼女が持ってきた。理由は分らないが」
「イベントの女王、パーティーの華と言われている加賀美萌」
どうして彼女が。わたしと彼女に部長以外接点はないはず。どうして私に興味を持つ?どこから私の本名を知ったの。私は情報の出所を探した。最近私の本名が出たのは・・・・柏サッカー → イベント→ プロ選手 → イベント 
「私のほうからも報告がある」
よく考えもせず、頭に浮かんだ言葉をしゃべり始めていた。
「塩谷恭子の名前だけど、ネット検索するとまだ出てくる。あの事が」
部長は驚いている。
「削除依頼とか色々手は打ったけど、まだすべてが消えたわけではない。ただ鈴木恭子が同一人物とは気づかれていないから、安心していた。今回の情報出所は、多分柏じゃないかしら。あの時大声で私の名前呼んでいたし、周りには興味津々という顔が沢山あった。塩谷恭子は誰だろうと思った人が調べて・・・」
あ、いけない、大変な事になる。言葉が続かなくなった。部長が後を引き受けて言う
「つまりサッカー小僧から聞いたという事か」
「そうかもしれないし。人づてにとか、また聞きしただけかもしれない。でも時間の問題かも・・・」
すべてが明るみに出るのは時間の問題。そうその後は、父の姿が思い出された。そして、その姿が部長とだぶった。だめ、ここにいてはいけない。逃げなくちゃ。私は手をひっぱった。
「おい、何故手を放そうとする」
一瞬、なにのんきなこと言っているのと責めたくなった。
「だって、みんなにばれる。私なんかだめ。迷惑かける、あの時の父の様に、とんでもないことになる」
そうよ、私はここにいてはダメ。でも声に出して言う前に部長に抱きしめられた。どうしよう、心のどこかにこのままここにいたいと思っているずるい自分がいる。
「なにも心配するな、何とかする」部長は言う。でも・・・。
「何とかするって、どうするの。人の噂ほど怖いものはないのよ、ネットに書かれたら勝手に一人歩きして嘘が事実になる・・・」
だめ、どうしたらいいの。頭が回らない。考えがまとまらない。
「それでも何とかする。心配するな」部長は慰めるようにもう一度言ってくれた。

 翌日、部長が出社した後、私は作業に取り掛かった。食卓に鍋を置きっぱなしにしていた部長の事だ、あの「身上報告書」もどこかに置きっぱなしにしているはず。探してみると簡単に見つかった。書斎のゴミ箱にそのまま突っ込んであった。「せめてシュレッダーぐらいしなくちゃだめじゃない。」と叱りつけたい所だけど、今回は助かった。セロハンテープで一貼一貼「ばか、あほ、ふざけるな」と言いながら貼りつけた。そしてとにかく読んだ。私が知っている以上の事は書いていなかった。当時の関係者から今さら聞いたとは思えない。やはり柏のサッカーかもしれない。次はネット検索だ

柏市ホームページから入り、広報誌で見つけた。来賓席に座る私の写真。下には「グランドの命名権を持つMsホールディングス」とある。

 「私、何故こんな目立つところに座っているのよ。馬鹿じゃない。」自分で自分を叱りつける。実は覚えていなかった。パニックを起こしていると記憶が飛ぶことがある。きっと言われるがまま席についていたのだろう。なんて馬鹿なことをしたのだろう。しかも写真まで取られている。嫌いな写真。柏市の世帯数約17万、全員が見るわけではない。でもそれだけの目にさらされた事になる。
 後は、当日のイベントに参加している人、氏名のわかる人から一人一人検索SNSをチェックしていった。そして見つけた。私、内山君、部長3人が写っている写真。余りに小さくて個人を特定するには難しいが広報誌の私の写真と見比べれば誰だかわかるかもしれない。でも、ここからどう部長の前妻、加賀美萌に結びつくのだろう。内山君と加賀美萌の接点は見つからなかった。二人が一緒に写った写真なし。加賀美萌はイベント等多数参加、参加者等多数、誰から情報を得たのか?私の力では特定不能だった。

 だめだ、部長のいないこの部屋は静かすぎて落ち着かない。私はテレビをつけてみた。子供への虐待事件を取り上げているのを見てテレビを切った。その下にあるステレオをかけることにした。音楽で気を落ち着かせようとCDをあさった。「サラ・ブライトマン」好きな歌手だ。その歌声を聞いてリラックスしようとソファーに腰掛け目をつむった。

 気付くと部長が帰ってきていた。今、まだ2時ぐらい。
「ちょっと、様子を見に寄ってみた」
と言って心配そうに私を見ている。
「パソコン借りて調べていたの。少しわかった」
「何を見つけた」
「柏のサッカー教室。来賓席に座る私と部長、あと内山君と部長と私が立ち話している写真。」
「写真ぐらい、そんなに深刻に考えなくても」
部長の答えに私は怒り狂いそうだった。きっとすごい剣幕だったと思う。部長が怯んでいる。
「でも、あなたの妻は私に行きついたのよね」
思わず嫌味まで言ってしまった。部長が悪いわけではないのに。すごくひどい物言いをしてしまった。
「ところでこれはオペラか?こういう音楽が好きなのか」
急に話を替えてくる。部長のCDでしょ。と言おうとして気付いた。知らないという事は前妻の置いて行った物ということ。私は苦笑いした。前妻のCD聞きながらリラックスしようとしていたなんて。呆れてものも言えない。
「とにかく社に戻るが、早く帰るから待っていなさい。どこにも行くな。逃亡するなど許さないぞ」と部長が言いおいて出て行った。

 ここ数日、色々なことが起こった。感情がジェットコースターのたように上がり下がりしてもうどうしていいかわからない(遊園地なんて行ったことないけど)。でも。一つだけ分っている事がある。今後なにが起きてどうなるか、結果は見えている。父がどうなったか私は知っていた。

20歳のあの日。自由になれたと喜び勇んで父に会いに行った。できれば姓を塩谷に戻したいと、お願いしようと考えていた。しかし、父は自動車整備士の仕事を辞めていた。早い話首だった。好きな仕事を辞めさせられてどんな気持ちだったろう。今ではまったく関係のない、水道工事会社に勤めている。私は何も知らされていなかった。父は私に心配掛けまいと何も言わなかった。
そして、向かいの小母さんの好奇の目と、自治会長さんの探るよう目に出会った。すべてはまだ終わっていない、過去にはなっていないと気付かされた。自由などではない。
私は二度と父に会いに行かないと決めた。これ以上迷惑を掛けられない。そして、あの日好きでもない「鈴木」と言うありふれた姓に隠れて暮らすことを決めた。

 部長を同じ目に合わせるわけにはいかない。迷惑を掛けるわけにはいかない。私はただの疫病神だ。ここを出る支度をしなくては。私は重たい体を動かして荷物をまとめた。起き手紙でも置いて出て行こう。紙とペンを用意して・・・でも何を書けばいいのかわからない。
いや違う、ここを出たくなくてぐずぐずしているだけだった。部長に恋してしまって、愛してしまってもう離れられない。「どこにも行くな」という言葉にすがってぐずぐずしているだけだった。
 なぜだろう、涙は出ない。数日前と同じだ、すべてが空っぽになってしまって何も言葉も涙も出ない。

 部長は定時で帰ってきた。いつもなら嬉しい事なのに。今日は違う。
「なんだ、このカバンは」
怒っている。でも怒って「出ていけ」と言ってくれた方が出ていきやすいのかもしれない。
「この関係はなかったことにした方がいいと思うの。傷つけてしまう前に」
私は部長の目を見ることができなかった。今でも分らない。「出ていけ」と言ってほしいのか。「行くな」と言ってほしいのか。
「私は関係を終わらせるつもりはない。また、今回のネットの件だか何もしないことにした。このままほっておく」
余りに意外な答えが返ってきて、私は顔を上げてまじまじと部長(予測不能)の目を見た。すごく真剣な目。でもほっておく。そんなどうして?
「だめよ、私みたいのが近くにいたら迷惑かけるだけ。父がそうだった。しかもあなたはあの松井裕の息子、いずれふさわしい地位につき権力を振るう人よ。私がいたら足を引っ張るだけ。私はただの疫病神だから」
と言う私の言葉を、部長が遮った。
「地位と権力は自分の実力で手に入れる。でも愛は君からもらいたい。私の事を愛していると言ってくれ。もう何処にもいかないと言ってくれ」
抱きしめてくれた。そして情熱的なキス。私は動けなくなっていた。私はずるい。ずるくて、ずるくて結局部長の腕にすがっていた。部長は私を床に押し倒し体を求めてきた。

恋や愛は、すごく美しいことだと思っていた。でもずるい事なのかもしれない。ごめんなさいこんな私なのに。でも部長の腕を離すことはできなかった。部長を愛していたから。
「なぜ泣く」
聞かれて気付いた。私は泣いていた。
「ごめんなさい。わたしずるいの。もっと早く本当の事、言わないといけない。分かっていた。でも部長の優しさに、幸せにすがっていたかった。部長を愛していたから。いつも口をつぐんで先延ばししていた。私、ずるいの」
部長は何も言わない。私は決心した。
「ここにいさせてほしい。部長の傍に。部長のここに」私は部長の胸に手を当てた。部長の心に
「私は残りの人生すべて、部長に賭ける。もう何処にも行かない。もう逃げない」
部長が私の手に自分の手を重ねた。嬉しそうな幸せな笑顔をしている。これで良かったと思いたい。部長はキスで私に答えてくれた。



14、
 翌日、昨日夕食を抜いたことを思い出し、多めに朝食を作った。
「きっとお腹ペコペコだろうな。サンドイッチも作っておこう」と独り言を言いながら幸せをかみしめていた。私はまだここにいる。部長の傍に。きっとまだいろいろなことが起こる。
でも傍にいたい。逃げないと一旦決めると腹が座ったのか、勇気がわいてきた。ふと気づくと部長が起きて来た。いつもより早い。やっぱりお腹すいていたのだろう、と思っているとキスされた。朝からアツアツカップルみたいで少し照れた(でも私はアツアツかな)照れ隠しにうつむきながら
「もう少しで出来る。昨日夕食食べないまま寝ちゃったでしょ。だからちょっと多めに作った」と言った。

やはり空腹だったようで全部食べてくれた。いつものように旨いと言いながら。部長は食べ物に対して「旨い」以外の言葉を知らないようだ。今日は外せない用があるという部長を笑顔で送り出せた。私はこの部長の家で待つことにした。

 一人、部長の部屋で帰りを待つ。今日は土曜日。人事課長の言う通り来週からは私も出社しないといけない。部屋のお掃除をして来週の準備を少々。でも、部長はまだ帰ってきていない。

以前は一人で待っているとすごく不安だった。今日は何かが違う気がした。朝食を作りながら感じた勇気?だろうか。自分でもよくわからない。奮い立つような何かを感じる。  
ふと思い立った。今ならできるのではないか。望が最後に残した宿題。沢山の人が行きかう東京駅へ立てるのでは。私は荷物と持つと東京駅へ向かった。一応行はタクシーを呼んだ(しかもドライバーは女性でと注文をつけて)

東京駅八重洲口。ここからスタートした。呼吸を整えて中へ入る。土曜日の昼近くということもありそれほど混んでいないと思う。最初は周りの人の足だけを見て歩いた。人にぶつからないよう端の方を歩いた。そして少しずつ視線を上げていく。やはり、人とすれ違うたびドキドキした。でもパニックは起こしていない。とにかく。とにかく前に進んだ。最初出口を通り過ぎた事に気付かなかった。日差しと遠くから聞こえた車のクラクションの音でそれに気づいた
「やった。通り抜けた。」小声だけど、自分に歓声を上げていた。部長にこれを伝えないと。何かここへ来たという証拠を買って帰ろう。そう思いもう一度駅構内へ入った。今度はさっきより堂々と歩いている(と思う)。お土産物の店員に声を掛けてみた
「東京駅へ来たという証拠になる商品、ありませんか?」
私は少し大胆になっていた。店員にこんな風に声を掛けたのも初めてだ。だが、店員はなに、それ?みたいな顔をしている。途端に恥ずかしくなってその場を離れた。証拠、何か証拠がほしい。と考えてiPadで動画を撮影することにした。私はまた八重洲口から同じように丸の内までiPadを持ちながら歩いた。
歩いて丸の内まで来たとき自分を撮影した。
「私。今東京駅。東京駅に一人で来たのよ、見て」
と言う自分を撮影した。そしてメールで送信。するとすぐに携帯がなった。
「今すぐいく。そこで待っていられそうか?」
部長の、愛する人の優しい声
「待っている。部長が来てくれるなら、待っている」
「20分で行く、待っていなさい」
最後は命令口調だった。でも嬉しい命令だった。
だが、20分何をしていよう、と考えた途端に少し落ち着かなくなった。

ふと手をつないだ老夫婦が私の前を歩いて行く。杖を突いた妻に手を貸しながら歩く夫。私はその姿に魅せられた。そして後をついて行った。「丸の内北口」天井には綺麗なドームがある。老夫婦はここを見に来たようだった。私は綺麗な建物を見上げていた。私は人混みが嫌いだ。人の目、視線ばかり気にしていた。いつもうつむいていた。でも上を向いてよく見回せば周りには美しいものが溢れていた。私はそれを見逃していたのかもしれない。いつも逃げる事ばかり考えていたから。

「綺麗だな」
と言われびっくりした。隣に部長が来ていた。
「声を掛けてくれればいいのに、ビックリした」
「綺麗なものをゆっくり眺めていたくてね」
とほほ笑んでいる。ほんと綺麗。
「どうやって来たのだ」
と聞かれたので、素直に
「ずるして、タクシー使った」
でも今ここにいる事が誇らしい。
「じゃ、帰りもタクシーで帰ろうか。途中で、飯でも食わないか。まだ一緒に外食したことないだろう」
と言われた。
「それは、また今度で。次の宿題。」
また宿題だ。でもすぐクリアできそうな予感がする。部長と一緒にもう一度東京駅を歩いた。前回と違って周りには違う景色があった。



≪エピローグ≫

部長は私の「予習帳」「人物図鑑」の存在を知った。望のおしゃべり!!
何が書いてある。見せろとよく迫られる。iPadのパスワードを教えろ。と言ってくる。私は心の中で決めていた。部長が私に「愛している」と言ってくれたら見せようと。でも部長は決してその一言を言わない。
 ある日、部長が冗談で「見せないとSEXしてやらないぞ!」と言ってきた。
「だったら、しない」というと
「それは困る」と言っていた。そんな言葉なら言ってくれるのに。
でも私は自分が愛されていることを知っている。それで充分なのかもしれない。欲しいのは言葉ではない。愛されているという事実。
私はiPadのパスワードを部長のパソコンと同じに替えた。
「I love Porsche 911」~私はポルシェを愛している。
ポルシェは愛していると言われているのね。ちょっと妬ける。

 茨城の父に二人で会いに行った。父はとても喜んでいた。前回私はここを泣きながら出て行った。でも今日は酔っぱらった部長を連れて家を出た。二人は酒盛りをはじめて二人とも酔っぱらった。私の酒の強さは誰に似たのだろう?それは考えない方がいいのかもしれない。(私は飲まなかったので、飲酒運転はしていません)
「親子だね。よく似ているよ」
と部長が言った。呂律がおかしい。私は笑いながら聞き返した。
「私たち似てないのよ。だから色々言われたのだから」
そう私たち親子の容姿は全く似ていない。それがイジメにも繋がったのだ。
「見た目ではなく、仕草とかしゃべり方だよ」
と部長は言っていた。凄くうれしい、これは褒め言葉だ。今後はちょくちょく茨城に来ようと部長も言ってくれた。部長のお陰で父とまた親子になれたような気がした。

 部長のご両親にも紹介された。仲の良いご夫婦だった。お金持ちなのに気取った感じのない方だった。私の「人物事典」ではバリバリの会社人間だった部長のお父さん松井裕は、親切、愛妻家、穏やかとアップデートされた。


 私は、部長からプロポーズされていない。「愛している」も言ってくれない人が「結婚してくれ」と言うのだろうか。このまま何となく一緒に暮らして、そのままいつの間にか結婚しているのかな。と考えていた。でも言葉より事実が大切。その思いはかわらない。このまま部長の傍で幸せになりたい。そう考えていた。

「君にプレゼンントだ。開けてみなさい」
と小さな箱を渡された。でも、どう見ても指輪ではない。だって小さいけど長方形の箱だからそれに私の指輪のサイズ知らないだろうし。(私も知らない。指輪持っていないから)とりあえず開けてみた。
「万年筆!」
「モンブランの一流品だ。一生ものだから大切にしなさい」
「ありがとう。大切に使います」
考えてみると部長からのプレゼント、こんな風に可愛いリボンのついたプレゼントは初めてだ。嬉しい。(あ、でもスマホをもらった、壊しちゃったけど)

「最初の仕事だ。ここにサインしなさい」
と私の前に書類を出した。

「婚姻届」

私は満面の笑みで答えた。
言葉ではないプロポーズ。私はとても幸せだった。

小説 彼女~Her~

小説 彼女~Her~

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登録日
2016-03-15

CC BY-NC-ND
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