木綿のハンカチーフ

木綿のハンカチーフの曲が題材です。

「潤奈、俺、東京に行くよ」



もうどれくらい走っただろうか。
オレンジ色の河川敷を駆けたつもりが気が付くとあたりはすっかり暗くなっていた。

生温く私の肌を湿らせた空気に
ヒュッと冷たい風が一筋通ってはっとした。
息を切らし、膝に手をついて止まり後ろを振り返ると、もうさっきまで走ってきた道が見えない。

まるで、今までの何もかも全部なくなってしまったようだと思った。

でもいっそ、それでも構わない。
いつも、あなたが手を引いていてくれたようなものだった。
そのあなたがいないのなら…
私は…



「オイ」



背後から低い声でそう言われ、
全身が氷のように冷たく固まった。
怖い
助けて
そう声を上げたいのに
息を吸うことすらできない

助けて…助けて護兄さん…!



「潤奈」


「えっ」


全身が息を吹き返し
ハッと後ろを振り返る。



「柊兄さん!!!!」


「お前…」



兄さんは 帰るぞ、と私の腕を引きトラックに乗せた。
しかし車の中で電気をつけてハンドルに手をついたまま、ふぅとため息をつき、たまにこちらを見るだけだった。サラサラと鳴る作業着の中で煙草の箱をもてあそんでは握りしめ、もてあそんでは握りしめ、を繰り返している。



「吸ったら?私、平気」


ポケットの中で煙草の箱がクシャッと潰れる。


「車、まだ、出さないの?」


短い言葉を必死に紡いだ。
隣で兄さんが深く息をついた。


「家で泣けんのか」

「…っ」

「お前の兄貴たちから連絡が来たよ。代わる代わる次々。
今日隣街の神社の木切ってたんだ。
帰ろうと思ったら履歴だらけでさ。」

「…」

「どっから行くかなーと思ってたら、来たわけだ、お前が。
涙ボロボロこぼしながら」

クシャクシャになっていく制服のスカートが滲んで見えなくなっていく。

「…護か」

体全体が燃えるように熱くなって
全てが滲んで何も見えなくなる。
名前を聞いただけで、
こんなにも胸が張り裂けそうに痛む

「…っ…っ」

胸を掻き乱してしまうこの気持ちを外に押し出してしまいたいのに。
胸が詰まって声を出すこともできずに口だけがパクパクと動く。

しゃくりあげて苦しくて
息が吸いたいのに
この気持ちが私の胸を押しつぶして動けない。
私の心臓を、兄さんがキツく抱きしめて離してくれないのだ。

流しても流しても涙ばかりこぼれて白いブラウスに、雨が落ちたように滲んでいく


「…行かないで…兄さん…!」






私が覚えているかぎりの記憶にはいつも兄さんがいた。
直接手は握らないけれど、いつもうまく話せない私の一歩先を歩いて
私が想像もできないようないろんな話をしてくれた。
宇宙のこと、これから出来る最新型のロボットは人間と会話ができるとか、何年後かにはクローン人間が作れるようになるとか。
兄さんが話してくれるお話は、まるでSF映画のようで、でも先輩が話せば全て実現する気がして、私は黙って聞いている間いつも不思議な気持ちだった。

兄さんが私の目の前にいて、私だけのために話してくれているのに、どこか遠くから話しているようで
いつも必死に兄さんを追いかけているようだった。

もっと不思議なのは私が、ダメ、兄さん、行かないでと思うと決まって兄さんが振り向いて

「潤奈?」

と微笑むことだった。
あんなに遠くにいたのに、すぐ近くで私を包み込むように微笑む。

それだけで、こんなにも温かい。



その気持ちの正体を知ったのは
私が中学2年生にあがる直前、
兄さんが高校に進む時だった。



帰り道、
兄さんがいつも通り私の頭を撫でて

「小学校から続いた、お前を家まで送り届ける義務も今日でおしまいってわけだ」

そう言って眉を下げて笑った。

「兄さんは…嫌だった?」

「んー?」

「私は…楽しみだった…」

いつも一緒にいて一緒に話して、
こんなことを言うのは何でもないことのはずなのに。
どうしても顔が上げられない。
口ばかりが勝手に動いて、言葉を紡いでいく。

「忘れ物した日も、寝坊した日も。恭介と忠頼に意地悪された時も、
ずっと書いてた日記瀬里奈に読まれた時も。もう私きっと死んじゃうんじゃないかなってくらい悲しかった時も、もう全部全部ダメだってとっても苦しかった時もね。
兄さんが頭撫でてくれたらウソみたいになんだって頑張れたの」

いつも穏やかに笑っている兄さんの目がその時は少し泳いでいた。
少し上を見上げながら首をさする。
兄さんが困った時の癖だった。

困らせるようなこと言ってごめんなさいと、ブレーキをかけながらも
心臓が胸を突き破るように走り出して止まらなかった。

「兄さん!あのね!」

「潤奈」

兄さんに呼ばれてハッと顔を上げた。
兄さんの声で遮られた言葉たちが、
口を突いて出て行こうとするのを
息を止めて我慢した。

「潤奈…もう家に入れよ…
お前の…兄さんたちも…心配してる…し…」

兄さんが目を泳がせながら私の後ろを指さすと、玄関からトーテムポールのように顔を出した私の兄さんたちがこっちを怪訝な顔で見ていた。兄さんたちが護兄さんを見るときはいつだってそうだ。
でも、そんなの知らないんだから!

頭に血がカーッと登って顔に火がついたように熱くなる。
せっかく止めてたのに、私は大きく息を吸って、後ろの兄さんたちに聞こえるほどの大声で言った。

「今日でおしまいだなんて言わないで!高校に行ってもずっと一緒にいて!たくさんお話してくれなきゃ嫌よ…兄さんじゃなきゃ嫌なんだから!」

「潤奈?!」

兄さんが慌てた様に私を止めようとする

「そんな大きな声出してどうしたんだよ。」

ハッとして口を塞いで兄さんを見ると、また困ったように笑う。
私は息を止めて口を結んだ
これ以上困らせちゃいけない。
良い子じゃないと絶対にいけない、兄さんの前では。
きっとワガママ言ったら嫌われてしまう。でも。でも。


「兄さん…私よくわからないの…
兄さんの前ではとびきりの良い子でいたいのよ…」


言葉が口からポロポロと溢れては落ちていく


「ねぇ兄さん。誰かがずっと私の心臓をギュッて抱きしめてるみたいなの。」


兄さんが驚いたように目を見開く。


「潤奈!!具合悪いのか?!」


私に近づいて当たり前のように
私の額に手を当てて、頬を触る。
その手をとって言った。


「兄さん…私きっと兄さんのことが好きなのよ
どうして本当のこと教えてくれないの?」





「潤奈…」

隣に寝転がる兄さんが呼ぶ
風がサーッと通って草が揺れる
それに返事をするように先輩のシャツも私のスカートもパタパタと音をたてて揺れた
春が去って、夏が久しぶり、と挨拶して微笑んだような澄んだ日、隣町までまっすぐに続く河川敷に寝転んで兄さんの隣にいた。
髪を掻き分けながら兄さんの方を向く

「兄さん、聞こえなかった」

兄さんが空を見上げたまま顔を赤くしていた
ごめんなさい兄さん
私もう一度聞きたかっただけなの

頭の上で組んだ兄さんの腕のしたに擦り寄る

「兄さん?」

どうしてこっちを見てくれないの
意地悪なのね、兄さん
私が違う方を向いた時だった

「潤奈」

目の前が突然暗くなって
ほっぺたにあたたかいものが触れた

兄さんは慌てて私の目から手をどかすとまた同じ姿勢で空を見上げている

「兄さん?日焼けした?」

「なんだよ急に」

「顔が真っ赤だから」

兄さんがバッと起き上がって顔を隠すように触る
込み上げてくるくすぐったいようなあたたかい気持ちが止まらない
ねぇ兄さん、どうしてそんなに可愛いの?

私がじっと見つめていると
座ったままの兄さんが
なんだよ、とバツが悪そうに言った

「やっとこっち見てくれたから」

兄さんが驚いたように息を飲んだのがわかった

「いつも見てくれないから、見てくれる時にたくさん見て、心にしまっておくの。兄さんに会えない時にそっと開けて思い出すのよ」

目を伏せようとする兄さんの下に慌ててもぐり込んだ

「ダメよ!違う方を見たら!」

「…潤奈」

兄さんがまた私の目をふさいだ

「潤奈…頼む…少し兄さんに休憩をくれ…」

そんな兄さんの手に自分の手を重ねた

「兄さんすごいわ…
目を塞ぐと、兄さんのくれたキスがずっとほっぺたにあるみたいにあったかい」

本当だった
目の前が暗くて何も見えないけど
兄さんがキスしてくれた場所があたたかくて、耳まで熱くなった
目の前がキラキラと輝いて、耳のそばを通る風の音だって映画のようにロマンチックに聞こえる

「素敵ね…」

呟くようにそう言うと、今度は唇に兄さんのキスが落ちた。

少しビックリしたけれど、心の中も目の前も、見えないものすべてまでが脈を打って煌めいているのがわかる。
あたたかくてくすぐったい
なんて幸せなの
こんなに素敵なプレゼント初めてだった。

心臓のポンプが壊れたようにドキドキと鳴って、全身に熱が走る。
夏の体育で校庭のグラウンドを走った後みたい。ううん。それよりもっと熱かった。
頭の中では、体の中からアイスみたいにドロドロに溶けて、私きっと死んでしまうんだわ。なんて冷静に考えていた。それでも幸せだわ、なんて。






「護は…優秀なんだよ」

クシャクシャになったタバコの箱をハンドルの奥に置いて、柊兄さんが話し始めた。

「恭介と忠頼と穣が隣町の塾まで行って勉強してるの知ってるだろ?
恭介と穣は東京の大学に進みたいそうなんだ。
恭介の姉さんが東京行っただろ?
やっぱり憧れるらしくてなぁ
あいつ、勉強なんてさらさらする気ないくせに。」

フフッと、悲しそうに、苦しそうに笑った

「穣は、東京で音楽やって有名になって実家の楽器屋繁盛させるんだって。親父さん、あいつは耳も腕も良いって一番応援してたけど、寂しそうだった。
忠頼は、家の畑継ぐから大学行かなくていいって言われてたらしいんだけど、もっと大きくして親に楽させるんだって、東京ほどじゃないけど遠い農大目指してるらしい。
わかるだろ潤奈?
優秀な奴とか、やりたいことがある奴はみんな都会に出て行く。」

「柊兄さんだって、優秀じゃない。
勉強だって運動だって出来たし、
手先だって器用じゃない!」

兄さんが言葉に詰まる。
問い詰めてはいけないことだとわかっていた。

「柊兄さんには、瑠花先輩がいたからでしょう?
兄さんだって、都会でやりたいことがあったけど瑠花先輩はここに残るってわかってたし、先輩が行かないでって言うから」

「潤奈」

私の言葉を遮るように先輩が名前を呼んだ。

「何よ!柊兄さんは幸せでしょう?
瑠花先輩がいる家に帰って、もうすぐ赤ちゃんだって生まれて…すごく素敵よ。柊兄さんはここが好きでしょう?」

木綿のハンカチーフ

木綿のハンカチーフ

小さな島と、大きな町。そこで暮らしたり行ったり来たりする人々の恋愛、仕事とそして未来。

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-03-15

Copyrighted
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