3匹の猫
3匹の猫
「フリナ」
朝の日が入るあたたかい窓辺で僕のヒゲと同じ栗色の髪の毛が、キラキラと透けて風に揺れている。
空のように鮮やかなブルーのリボンとワンピース。今日も僕のお嬢さんが、世界で一番素敵だ。
ほんのり色づいた柔らかい指先で、僕の耳や顎の下を撫でて優しく笑う。もし僕が人間だったとして、こんなに幸せな気持ちをどうやって言葉にできるだろうかと考えながらゴロゴロと喉を鳴らす。
僕はお嬢さんに拾われた猫だ。
お嬢さんのお家に来るまでの記憶なんて無いのだけれど、よくお嬢さんは眠る前真っ白な僕の体を撫でながら
「煙みたいに黒かったのに、まさか綿あめみたいに真っ白だったなんてね」
と言って笑う。そして額にキスを一つ落としてくれる。綿あめみたいに真っ白で柔らかくて甘い匂いがするのはお嬢さんの方だと思うけど、拾われた時の僕は相当汚れていたみたいだ。たとえどんなに辛い過去があったとして、今こんなに素敵なお嬢さんに出逢えて、おまけにそれ以前の記憶が無いなんて僕は幸運にもほどがある。
「さて」
そう言うとお嬢さんは、立ち上がっていつものように古いケースからバイオリンを取り出して練習を始めた。
あぁ、始まってしまった。なんて思いながら僕はお嬢さんのことがよく見える本棚の上に静かに移動する。
これが始まってしまったら、お嬢さんはお昼ご飯になるまで手を止めない。その間僕のことを呼ぶこともないし、そばに置いてくれることもない。ふぅ、とため息をつくと鼻先についた埃が少し舞った。まぁ、ここでお嬢さんを見ているのも悪くない。
僕に見向きもせず、夢中でバイオリンを弾くお嬢さんもとても好きだ。
もし僕が人間だったなら。お嬢さんに相応しく紳士に爽やかな青年であろうと努力する。ポケットにはいつも白いハンカチを入れておくし、お嬢さんに会いに行く時にはパリッとアイロンのかかったシャツを着ていく。お嬢さんがバイオリンを弾いている間は静かに後ろで本を読んでいるし、お嬢さんの上に雲がかかる日にはとびきり可愛らしい花を持って会いに行こう。
そうすれば、お嬢さんは僕と同じ気持ちになってくれるのだろうか。
いつもお嬢さんのお部屋にいることや、毎晩の眠る前のキスと引き換えにもし僕が人間になれたなら、僕は、僕はきっとお嬢さんと世界一素敵な恋をしよう。
「レオ」
無視すると決めていたのに、レンの声はズルい。とびきり優しく、それでいて少し寂しそうに彼の甘い声で呼ばれたら意識しなくともレオの耳は立つし、しっぽだって揺れてしまう。
「お腹はすいてない?」
そんなこと聞かなくたって、お腹はいつもすいてるよ。それより自分はどうなのさ。薄っぺらくて骨骨しいお腹に乗って、レンの顔に鼻先を近づける。
絵の具だらけのこの部屋で息をするように絵を描いては、死んだように寝ることを繰り返しているレン。彼は画家を目指しているようだけど、彼の目にそんな闘志や情熱を感じたことはない。深いところで何かを写す目には、表面的には光も入らない。伸びた黒い髪に青白い肌。細い体には大きすぎるツナギ姿の彼がポツンと座る絵の具の匂いで充満した部屋。こんなに部屋が汚いから、顔色だって悪くなるよ。
レオのこと残して病院にでも入った日には、レンの大事な高い絵の具全部舐めて死んでやる。
レオは、レンがこの家に招き入れた迷い猫だ。それまではお母さんと街を移りながら暮らしていた気がするけれど、それももう定かじゃない。だけど一つだけよく覚えているのは、お母さんを見失ってとても不安で怖かったあの気持ち。そしてそんな気持ちをまるで見透かしたように降ってきたのは
「ひょっとすると君は迷子かな。」
というレンの声だった。
幼い時のぼやけて滲んだ記憶が、レンが現れたあの日から一歩、また一歩鮮明になっていく。思えばきっと僕はお母さんとはぐれたあの日に一度死んで、そしてレンが僕に名前をくれたあの日にまた生まれたんだ。
「画家と猫は相棒なんだよ。だから俺とお前も今日からセットなわけだ。俺の名前を半分お前にやるよ」
銀色に光る僕の長い毛を指で梳きながら囁くようにそう言って弱々しく笑ったレン。
「レオ、銀色のライオンか。俺にはもったいない相棒が出来たもんだ」
死んだように淡々と生きるレンが時々、子供のように寂しい目をする。胸が締め付けられるけれど、レオにその目をしてくれるまで、一体誰がレンの側にいたというの。僕たちは相棒だから2人で1つ。1人で抱える悲しみや寂しさなんてあったらいけない、なんだって半分こにしなくちゃ。僕たちは永遠に一緒だ。
「リリ」
振り向くと、どこへ行くの?と、首を傾げていつものように優しく笑っている。埃っぽい部屋の隅、隙間から射した西日に包まれながら座っている私の先生。
一日中そうやって先生がペンを滑らせているから、私のことなんか見ていないと思ったのに。お部屋を出るくらいいいじゃないと思いながら、込み上げてくる嬉しさをぎゅっと胸にしまって先生の足元に座る。
まるで絵に描いた人間の女の人のように、しなやかに手を揃えて少し顎を引きながら目を伏せてみる。
彼は作家だ。1ヶ月に何度か、スーツを着た気難しそうな人が来て彼のことを「先生」と呼んで、紙の上で会話をしながら、何やらたくさんのお手紙の交換をしている。だから私も気がついたらそう呼んでいた。でも彼は、先生という名前に相応しい人だ。何でも知っていていつも私に色んな話をしてくれる。外国のおとぎ話や伝説、私たちが見ている星の光は何億光年も前のものだとか、あと何年後には、ロボットが人間みたいに話せる時代がくるとか。先生が言うことならきっと全て実現するんだろうと思うけど、途方も無い先生の話を聞いていると、時々一人きりで広い宇宙に浮いているような気持ちがして怖くなる。私が先生の懐に飛び込んで埋まってしまうくらい体を押し付けるその度に先生は少し驚いたような顔をして優しく撫でてくれる。
私、先生に潰れてしまうくらい強く抱きしめてもらえたら、このまま先生に埋まって一つになれてしまえたら、それですごくすごく幸せなのに。
先生に出会う前のことなんて全く覚えていないし、この先もずっと先生の側にいられるのなら、つい昨日の記憶だって消えてしまっても何も怖くない。私の黒く光るしなやかな体を先生が愛おしそうに撫でてくれること以上に幸せなことなんて、私は知らない。
でも本当は先生からたくさんのお手紙を受け取っていくあのスーツの男の人が羨ましくて、先生が何日も紙に目を落として離さず、ペンを滑らせ続けたお手紙を読める誰かが羨ましくてしょうがない。
もし私が人間の女の子で、それが読めたなら。胸の中がピンク色に染まってやがて弾けて死んでしまうだろう。
なんて素敵なの、と胸いっぱいに息を吸って深く吐いた私を見て先生が笑う。肘をついて手のひらに痩せた頬を乗せてお嬢さん、何か煩わしいことでも?と眉毛を上げて見せる。
えぇ、少しね。とでもお返事できたらいいけれど、私が話せたところできっとこの胸が騒ぐのをやめてくれるはずもないし、と考えてまたため息まじりに笑って見せた。ヒゲが息にのって揺れる。
3匹の猫