波浪の城

波浪の城

 ある日のこと一人の少年が絶望の淵にいた。少年はホームレスだった。5の時、親に捨てられた。それから、今まで一人で生きてきた。放浪の果てに、この街にたどり着いたのだ。家を持たない虐げられた子供と皆、同情した。が、少年が自分たちが施すよりも、さらに物を求めることを知ると態度が変わった。少年は自らの身の程もわきまえず欲しがる貪欲な子供である。住人はそう考えた。子供としては当たり前のことかもしれなかったが、誰も知らない人間に与える余分な少しばかりの飯などない。この日、少年は腹が空き過ぎてとうとう盗みに入った。家人がちょうど帰ってきた時、少年は家人の米を頬に入れている最中だった。家人はすぐに少年を縛りあげると、棒で傷が残るほど叩いた。少年が泥棒に入ったという話しは、すぐに街に伝わった。怪我をして一軒一軒の家を見てまわる少年に皆が冷たくなった。住人の心の中で少年は盗人であった。街の法を破った者は皆、こうなる宿命だった。街を出ていくか、野垂れ死にか、少年にはこの二つしかなかった。
 隣街までは凡そ20kmとても、歩ききれるものではない。少年は街を出ていくという考えを早々に諦めた。街には海岸があった。魚がいるかもしれない。空腹で魚を腹いっぱい食うことを夢想した少年は浅瀬に入り、目を凝らす。本当にちっぽけな魚がいるのみだった。そして、魚は素早かった。少年は手を小魚にそっと近づける。今だ!と思い、水の抵抗を感じながらも、全力で手を動かす。しかし、魚はするりと逃げてしまう。魚との鬼ごっこは少年の体を冷やし、疲れさせた。足は青ざめて、血液の通りも悪くなっていた。少年はやがて、日が落ちると砂浜に戻って、体を大の字に横たえた。
「いよいよ、俺も死ぬのか」
 疲れきった体に夜風をしのぐ小屋はもうない。いつも寝床を世話してくれていた婆さんは怒って小屋を追い出した。少年は5歳の頃の出来事を思い出す。体を地面につけながら、浮かんでくるのは昔のことばかり。何故親に嫌われたのかは謎だった。もしかしたら本当の子供ではなかったのかもしれない。泣いて家に入れてくれるように頼んだが駄目だった。まるで鉄の扉のように閉ざされた門は決して開かなかった。雪がひどくなり、少年はこのままでは家の門の前で死んでしまうと感じた。そこで、少年は家を離れた。その日、寺に泊まった。寺の和尚は情を持って迎えてくれた。お茶を出してくれたし布団も貸してくれた。少年はまさか、この時、自分が親に捨てられるなどとは微塵も思わなかった。和尚は雪が止んだら訪ねていって取りなしてあげようと笑った。少年の心にも希望が宿り、家の戸はいつしか普通の木に変わっていた。だが、少年の家から帰ってきた和尚はまるで別人だった。すぐにこの村から出て行け、と言われた。お金の価値などわからぬ子供にわずかばかりのお金を渡すと、わずかのためらいもなく、村の境まで連れていかれた。悲しみに沈む少年の心は凍てつく凍土のように固まっていた。固めないと今にも泣き出してしまいそうだった。挫けてしまいそうだった。村が恋しかった。父が恋しかった。母が恋しかった。だが、決して戻れないことは知っていた。もう、戻る家はないのだ。ひたすら、ふらふらと歩く足跡が少年の人生の行く末を示していた。
 ふと、物音がして我に帰る。何だろうと思って、頭を起こして、海の方を見た。すると、音は段々と大きくなり轟音がして、巨大な波がやってくるのが見えた。高さは大人の背丈程もある。少年は逃げようと、高台に駆け上がろうとする。が、遅かった。後一歩で高台というところで、少年は水の勢いにのみこまれた。
 くそう。俺の人生もこれまでか。
 波は少年を運び去っていった。
 

 目を覚ます。少年は生きている。ここは天国か地獄かはたまた波そのものが夢だったのか。少年は考えたが、辺りの景色はそのどれとも違っていた。
 サンゴ礁がきらめき、周りを幾種類もの様々な魚が泳ぎまわっている。そして、何よりも注意を引いたのは、巨大なサンゴでできた建造物。城のようなものが、少年の目の前に存在していた。
「ようこそ。波浪の城へ。人の子よ」
 声がした方を振り返ってみると、城の入り口に一人の老人が立っていた。顔には真珠の飾りやサンゴでできた装飾品がつけられている。胴には春色の巻物で作ったらしい、立派な服。下半身には波の紋様がついた青い布のズボン。少年は今までにこんな姿をした人間に出会ったことはなかったので、驚いて、ここはどこか?と尋ねた。
「波浪の城と言ったはずだ。そうじゃな、地上の人間が区別するところによると海底ということじゃよ。それより、お腹は空いておらぬか?食べ物は中にたくさん用意してある。来なさい」
 食べ物と聞いて、少年のお腹は鳴った。顔を赤らめるが、老人は何も言わずに赤と黄色で囲まれた入り口を城の中へと入っていった。

 少年がサンゴでできた入り口を老人の後について通り抜ける。中は巨大な空間だった。天井というものはなく、上を見ると、微かに日の光が射している。恐らく水面だろう。階段が上へ向かって、長くゆっくりと曲がりくねって続いていた。城の中は美しい彫像でいっぱいだ。金でできた鯛、緑色の輝くタツノオトシゴ、巨大な光沢がある鉛のような鯨。他にも見回すだけで、種々様々な海の生物が飾られていた。少年はそれらに目を奪われながらも、老人の後を足早についていった。盗みに入った時、痛めつけられた腹がズキンと痛んだ。やはり、ここは現実らしかった。少なくとも、少年の記憶の続きであることは間違いなかった。少年はぼんやりと考えた。
 ここはどこだろう。俺は今まで、海の中にこんなものがあるなんて教わったことはなかった。この豪華さをみると、城の主はさぞ名のある人物に違いない。食べ物も老人はくれる様子だ。何よりも、大事なのは腹を満たしてくれるかどうかだ。俺の腹はまだまだ空いているのだから。しかし、何が起こるかわからない危険はあるぞ。何よりも、老人の言うところによると、ここは海底なのだから。
 老人は階段の途中で立ち止まると、壁に突き出たボタンを押した。すると、壁が透明な膜になり、見慣れた家具が置かれた部屋が現われた。いや、少年にとっては決して見慣れたものではなかった。どの家具をとっても、よく見ると細かい所に装飾がほどこしてある。そして、埃一つない。年季の入ったお手伝いさんが掃除した後のような部屋だ。
「入るがいい少年。ここはお前の仮の住まいじゃ。出ていく日までのな」
 老人の言葉に少年は驚いて言った。
「ここの主人はさぞ偉い方に違いない。俺に何をさせる気か知らぬが、俺は行く宛もない孤児。何でもしてやろう。ただ、このような部屋を用意してもらってなんだが、俺は飯が欲しい」
 老人は少年を穏やかな目で見ると、手を挙げて指を鳴らした。音を聞きつけた、何か、が足音を響かせてやってくる。少年は辺りを見回すが、どこにも足音の本体はない。どんどん近づいてくる足音を居心地悪そうに聞いている少年と違って、老人は落ち着いている。むしろ、少年の動揺を試そうかというほどにじっと少年の顔を見ている。
「飯がやってくる!!」
 思わず声をあげた。少年の目は確かに、皿の上にのせられた見たこともない料理の数々をとらえた。だが、皿は空中に浮いていて、それでいて、誰かが持っているようにふらりふらりと揺れていた。やがて、階段の下からやってきた皿はあっけにとられる少年の目の前を通り過ぎて、膜を通過して部屋のテーブルに置かれはじめた。そして、仕事を果たした足音は少年の前を通り、遠ざかっていく。
「さあ。部屋に入り、ぞんぶんに食べるがいい」
 老人は何の説明もせずに食卓を指さした。言われた少年の好奇心や恐れは食欲に変わった。膜を恐る恐る通り抜けると、部屋には香ばしい匂いが充満していた。少年は手で食べ物をつかむと、口に放りこんだ。
 うまい。こんなうまい食べ物が世の中にあろうとは。よく、母に聞かされた地獄というところとはまるで似つかぬ。とすると、ここは天国なのだろうか。しかし、盗みもした俺が果たして天国にいけるものだろうか。まったく不思議だ。先ほど老人は出ていく日と言った。つまり、いずれここも俺を追い出すつもりなのだ。それでもいい。ここは俺にとっての天国だ。束の間の天国を精一杯味わってやろう。
 腹がいっぱいになると、少年は部屋にあった柔らかなベッドに寝転がると、眠りについた。

 目が覚めた時、少年はここはどこだ?と考えた。しばらくして意識がはっきりしてくると、ここは海底らしいということを思い出した。そして、決して水の中ではない。何故なら少年は普通に息を吸えたからだ。水の中で呼吸できるはずはない。少年はそのことを身に染みて知っていた。生まれた村を追いだされてから、拾われた老人は少年の顔をよく水につけて、しつけをした。洗面器を持ってきて、水を満たす。そして、子供の顔を洗面器に強引につける。少年が息をしようと顔をあげようとすると、グイと力で押さえつける。その際に、少年は老人への憎しみと恐れが沸き上がってきた。だが、他に行くあてもない。老人は少年にきつい仕事をさせた。大人がやるような仕事を少年にやれと命じた。やらなかったり、できなかったりすると、水刑がきた。老人はたまに機嫌がいい時に歌を歌った。少年はその歌が大嫌いだった。何故なら老人が大嫌いだったから。老人の歌に「都」という言葉が出てきた。派手な服装に身を包んだ人々、あふれるばかりの食べ物、才覚で出世できるチャンス、少年は老人の語る都に憧れた。だが、老人は最後に少年に、都は子供の足ではいけんよ、というのみだった。少年は勇気を持てなかった。だが、いよいよ老人の飲む酒の量が多くなり、しつけという名の虐待がひどくなってから、命の危険を感じて飛び出した。都は思ったより近くにあるのではないかと希望を持って歩いたが、どこまでいっても貧しい街や村しかなかった。ちょうど歩き続けて、数年が過ぎた頃、少年は諦めた。都などどこにもないのだ。それから、住み着いた街で、行き場がなくなって、波にさらわれて、ここに来た。
 部屋を見回すと、一冊の本が目にとまった。鏡台の上にぽつんと置かれていた。少年は字が読めない。本を開くが難しい言葉が並んでいる。懸命に理解しようとするが無理だった。本を放り出すと、少年は城を探検しようと、部屋を出ようとした。部屋の中に面白そうなものは他になさそうだった。膜を再び通ろうとした少年は違和感を感じた。通れない。そう。外からは軽々と通れた膜が中からはゴムのように少年の体を跳ね返してしまうのだ。開けてくれ、誰かいないか、少年の言葉は室内に響いたが、外に届いているのかはわからなかった。抜けだそうと赤いサンゴを固めた椅子を膜に投げつける。膜は今までになくへこんだ。だが、投げつけた時の倍くらいの速さで椅子は室内に向けて跳ね返ってきた。少年はまともに、椅子にぶつかった。少年の頭には椅子の反逆という考えはなかった。不意をつかれた少年の体は椅子によって傷めつけられた。街人に殴られた腹の傷がうずく。幸いだったのは椅子が、ごく軽かったということだった。少しの擦り傷ですんだ。少年は勝手にこの部屋を抜け出せないと知って自分の自由さ、両親に捨てられてから常に共にあった自由さを失ったことにショックを受けた。しばらくすると、また足音とともに食事がやってきた。どの皿にも昨日とは別の食材がのっている。ワカメのスープ。鯛の吸い物。ブリの刺身。雑穀米。梅干し。少年はテーブルに並べられたものをまた夢中で食べた。
 食べ終わる頃になると、あの老人がやってきた。
「良く食べておるようじゃの。食べ終わったら、この城の主人に会ってもらう。お前が何のためにここに呼ばれたかも、知らされるじゃろう」
「俺を閉じこめてどうするつもりだ」
 老人は少年の敵意に触れて、少し驚いたようだった。
「閉じこめたのではない。身の安全のためじゃ。主人には敵もいる。敵からお前を守るためじゃ」
 老人の物言いは穏やかで、真実味があふれていた。ただし、少年は納得しなかった。食べ物で汚れた手を振りながら言った。
「じいさん。何と言おうと俺は閉じこめられるのが大嫌いなんだ。今度閉じこめたら許さないぞ」
 老人は少年の物を知らない態度にあきれたようだった。だが、それは老人自身の判断ではどうにもならなかった。
「そこまで言うなら主人に相談してみるがいい。ついてきなさい」
 老人は膜を通って外に出ると、壁の七色のボタンを押す。すると、部屋を隔てる膜のような物が消え去る。少年は老人の様子を探っていた。彼の考えによると、ここまでこちらが上に出て、しかりつけたり不満な顔をしないのは理解できないことだった。少年は巧みに知恵を働かせると、このままの態度でいこうと決めた。少なくとも主人にとって俺という人間は価値のある物なのだ。だからこそ、親切にするのだ。
「いいだろう。主人とやらに会おう」
 少年は自分の物言いがとても気に入った。何度も脳内で言葉を響かせながら、部屋を出た。老人は階上に歩き出しはじめた。少年は自信満々で老人の後ろを歩いていった。

 城の主人である海星楽(かいせいがく)は、エイの形をした鏡を見ていた。この鏡は四季の鏡と呼ばれる秘宝である。その昔、東に住む大略民駄(だいりゃくみんだ)の宝物庫から盗んできたものだ。特殊な鏡で四方の数百メートルを自由に見通せる。今、海星楽が見ているのは少年である。ぼろぎれをまとった如何にも、ひ弱そうな少年である。彼の召使いである唐朴の翁に連れてくるように命じたのは海星楽だった。少年は今、こちらに翁の後をついて近づいている。異世界に等しい地にやってきたにも関わらず、動じない性根を少年は持っている。今までの子らとは違う。少年がどういう生い立ちで、あのような振る舞いを身につけたかはしらぬ。ただ、海星楽は少年が無闇に今までの人間たちのように、家族のことを叫ばないのを嬉しそうに見つめていた。もしかすると計画は上手くいくかもしれぬ。ほくそ笑んだ海星楽は鏡を棚に戻すと、ゆっくりと立ち上がり、謁見の間へ向かった。間は海星楽のいる部屋の裏手にあった。高級な布のカーテンをくぐると、謁見の間の椅子に腰を下ろす。ちょうど、間は東半分がへこんでいて、西半分が突き出ている格好だ。西半分の高所に金色の椅子が備えつけられていた。陸の細工師、阿弥陀の羅紗(あみだのらしゃ)によって作られた逸品だ。海星楽は椅子の肘掛けの部分の装飾を飽きることもなく眺めている。蝙蝠という空の生き物を描いているらしいことはわかるが、近海の陸にしか行かない海星楽にとって、いつ見ても興味をそそられる形をしていた。
 何分くらいそうしていただろうか。海星楽は部屋の扉をノックする音を聞いた。「入れ」と言ったつもりだった。しかし、部屋の入口と高所の台座では、距離があり過ぎるようで声が届かないのだ。さらには分厚い扉は外に音が漏れぬように閉じている。海星楽は唐朴の翁の融通の利かなさに閉口しながらも、かつて、急にこの部屋の扉を開けた翁を叱り飛ばしたのを思い出した。その時のことをまだ根に持っておるのか翁め。「入れ!!」今度は先ほどより大きな声を出した。威厳を保ちながら、大きな声を出すのはなかなかに難しく、これ以上大きな声を出すと、怒鳴るようになってしまうのを心配した。しかし、海星楽の心配を吹き飛ばす形で物事は進んだ。翁はゆっくりと扉を開けて入ってきた。「失礼いたしまする。陸人を連れてきました」翁は恭しく見上げて、お辞儀をすると高所にある椅子に座っている海星楽に言った。海星楽は後ろから少年が恐る恐る入ってくるのを見ると、満足気に笑みをもらす。
「ご苦労だったな。翁。しばし、ここに留まり、陸人に何故ここにいるか説明してやるがよい」
 命令を受けた翁は少年に向き直ると、懇々と話し始めた。少年は大人しく聞いている。
「お前が何故ここに来たか話してやろう。ここに、おられる海星楽様は高貴な海のお方じゃ。しかし、ある時、陸に旅行に行った時に大切な物を失くしてしまった。西の都でだ。本来ならば海星楽様が行きたいところだが、事情があって行けはせん。そこで、お前を波平太に命じて連れてこさせたのだ。陸に行き海星楽様が失くした物を見つけてきたならば、褒美をとらせる」
 今度はまったく詰まることなく言えた、と翁は喜んでいた。何せ、これで7回目の言葉なのである。慣れもあった。今までに連れてきた陸人たちは未だに帰ってこない。せっかちな海星楽はそのつど、波平太に海岸や船に乗っている人間を連れてこさせた。大人たちに命じても彼らは陸に戻ると海中の城のことなど忘れてしまうらしかった。そこで、今度、海星楽は「子供」を連れてこいと命じたのである。翁は子供になど探し物が見つけられないと反対したが、では老人ならできるのかと返されては、何も言えなかった。少なくとも老人よりは子供の方がましであった。それに、海星楽が翁自身に陸に行けと命じるかもしれぬことを翁は恐れた。そこで、慌てて子供とは実に素晴らしい案でございますな、と言ったのだ。しかし、果たして成功するだろうか。翁は不安だった。
 少年は少し考える仕草をした。
「俺は陸地になど戻りたくはない。ここは、美味しい食べ物もあるし、出て行きたくはない。ただ閉じ込められるのは御免だ。自由に部屋を出入りできるようにしてくれ」
 海星楽は渋い表情をした。何と物わかりの悪いやつだ。少年の命は私の命令一つでどうにでもなるにも関わらず、この態度。ふてぶてしい子供には世の厳しさをわからせてやるべきか。水の下僕を呼べと合図を翁に送る。
 翁が慌てて子供に忠告する。
「これ。お前は海星楽様の恐ろしさを知らぬ。口を慎むがよい。それに昨日、飯を食う前に言った言葉を忘れたか」
「うるさい爺さんだ。昨日のことは昨日のことだ。そんなすごい方がなんで探し物もできないのさ」
 腹を立てた海星楽は今度は、はっきりと声に出して言った。
「翁。水の下僕を呼べ」
 翁は仕方なく水の下僕を呼ぶために指を鳴らす。と、足音が聞こえてきた。少年は何が始まるんだと、見ていると足音の主である透明の何かに足をつかまれた。あっと声をあげた少年は体の自由を失い、硬い石面に叩きつけられた。
「少年。もう一度言うぞ。探し物を見つけに行くか。それとも、痛い目にあうか。お前の取るべき方法は二つに一つだ」
 少年は痛んだ顔をさすりながら、渋々肯いた。
「わかった。探し物を見つけにいく」
 海星楽は満足そうに笑うと、少年に小さなほら貝と黒童丸を渡すように言った。翁が言われたとおりに立ち上がった少年に二つの品物を渡す。少年は不思議そうな顔をした。
「これ何だい?」
 海星楽は少年と目を合わせると、低い声で静かに告げた。
「少年。お前の食べた料理には貝の毒が入っていたのだ。その渡した黒い薬を一週間に一度飲まなければお前は死ぬ。ひどく苦しんで死ぬことになるだろう。もし、生きたければ探し物を見つけて、ここに持ってこい。薬がなくなれば、ほら貝を吹くがいい。使いに薬を持たせよう。探し物を見つけ、ここに持ってきたならば毒を取り去り褒美をやろう」
 少年は翁に何度も海星楽の言ったことの意味を聞く。数度のやり取りの後、少年は自分の境遇を理解すると、後悔した。無料で食べる飯ほど怖いものはない、とは本当だった。俺はこれから、本気で探し物とやらを探さなければならないようだぞ。

 少年は名前を尋ねられた。親に捨てられた時、実の名前は捨てた。血筋を否定したのだ。それから少年は自分自身で自分に名前をつけなければならなかった。少年は自ら「テン」と名乗った。最初に大人に名前を聞かれた時、貂(てん)がちょうど脇のあぜ道を通った。茶色く、胸の辺りが小さな貂だった。とっさに思いついて、テンと答えた。大人は変わった名前だな、と言った。それからスルメをくれた。少年はこの大人がもっと食べ物をくれるかもしれぬと思い、ついていこうとした。だが、大人は怒鳴った。ついてくるでない。テンは泣くふりをした。こうすれば同情心をひけると知っていた。大人は子供の涙に弱いのだ。成功したが、大人は決してテンを家に連れていこうとはしなかった。申し訳なさそうにスルメをくれた。テンは、涙の力を知った。
 月日が流れ、涙を使う方法は利き目がなくなっていった。大きくなるとともに、テンはそう学んだ。それから、今度は頼みこんで食料をもらった。時たま、働く代わりに食べ物をもらうこともあった。しかし、用済みになると皆テンを追い払った。可愛がろうにも、テンの中には世間、いや大人に対する憎しみがあった。ふとした会話から、人々はテンに宿る憎しみを知るのだった。
 唐朴の翁が少年の名前を聞いた時、「テン」と答えた。ただ、この名前は盗人の烙印が押されたも同然だった。そこで、テンは翁に言った。
「俺はこの名前を使いたくない。本当の名前ではないしな。本当の名前など、とっくに忘れてしまった。爺さん。適当につけてくれ」
 翁は、ふむ、と考えこむ。老人は自分が名づけ親になることで責任が生まれるのを恐れた。少年の目を見ると、ただ面倒そうに、こちらを見ていた。この少年はただ他人に名付けて欲しいのだ。そして、気にくわなければ自分で勝手につけるだろう。軽い気持ちで翁は名前を考えた。探し物をみつける名前。老人は大昔に読んだ『天のイルカ』という本を思い出した。主人公は天を泳ぐイルカを探す羽馬 照(はま てる)という少女だった。彼女は多くの苦難の後、天のイルカを見つける。しかし、終わり方は微妙だった。もしかすると、イルカは少女の空想だったということが匂わされた終わり方だった。ただ、テルという名前を気に入った翁は少年に答えた。
「海馬 照という名前はどうかの」
 翁の中で少しアレンジをきかせた名前を少年は気に入るだろうか。少年はふてくされたように、それでいい、と言った。名前の由来は聞かなかった。翁も言わなかった。ただ、翁は少年が主人の探しものを見つけてくるように密かに祈った。誰に?もちろん海にだ。
 カイマ テル。ぶつぶつと少年は呟くと、よし覚えた!と大声をあげると翁に早く陸にやってくれとせかした。
「爺さん。早く俺を陸にやってくれ。きっと探してみせてやろう」
 唐朴の翁は少年のころころ変わる心情に戸惑いながらも、この気持を忘れるでないぞ、と言い含めた。少年は、やらないと死ぬんだろ、と言った。海星楽はテルには褒美と恐れ両方で言うことを聞かせるように翁に言いつけていた。翁は無言で、さも恐ろしそうに、そうだ、と言った。そして、どのように貝の毒によって人間が死んでいくか考えつく限りの表現を使って、テルを怖がらせた。手足が腐れて落ちる。信じられない程しびれる頭痛。傷口は決して治らず、うじが常に傷を這う。テルは知らないことが多かったので、わからせるのに、さらに説明を加えなければならなかった。うじって何?という具合にである。テルは心底震え上がったらしく、
「お前たちは自分のことを偉いやつらと言うが、とんでもない悪人だな。俺はこんな悪いやつらの言うことを聞かなければならないのが悔しい」
 と怖そうに言った。翁は、ここは甘い顔を見せてはならぬと心を鬼にした。
「そうだ。お主は使命を果たさねば、地の果てまで追いかけて、塩づけにしてしまうぞ」
 少年はぼんやりと翁のセリフを聞いていた。そして笑い始めた。翁は自分の嘘がばれたか?と焦った。けれども、思い直した。少年を脅かし過ぎて気を触れさせてしまったかもしれない。翁の予想はどれも違った。少年は笑い終わると、ふっきれたように顔をあげた。
「いいだろう。覚悟は決まった。褒美を忘れるなよ」
 翁はほっとした。しかし、少年が何故笑ったかについては翁には謎だった。恐らく永久にわからないだろう。翁は鮫の骨で作られた楽器を取り出すと、思い切りよく吹いた。キーンという音がして、振動が水を伝わる。少年は翁よりも強く音を感じたらしく、耳を押さえた。翁は楽器を懐にしまった。
「心配するな。波平太を読んだだけだ。お前を陸地に連れて行ってくれるだろう。さらばだ」
 翁が言うと、少年は急に息が苦しくなった。爺さんと叫ぼうとしたが、声が出なかった。翁は心配するなと言ったような気がした。ただ、声は耳にはもう届かなかった。そのままテルは意識を失った。
 龍宮の竪琴を見つけるのだ。意識の中で海星楽の声が聞こえた気がした。

波浪の城

波浪の城

物語作家七夕ハル。 略歴:地獄一丁目小学校卒業。爆裂男塾中学校卒業。シーザー高校卒業。アルハンブラ大学卒業。 受賞歴:第1億2千万回虻ちゃん文学賞準入選。第1回バルタザール物語賞大賞。 初代新世界文章協会会長。 世界を哲学する。私の世界はどれほど傷つこうとも、大樹となるだろう。ユグドラシルに似ている。黄昏に全て燃え尽くされようとも、私は進み続ける。かつての物語作家のように。私の考えは、やがて闇に至る。それでも、光は天から降ってくるだろう。 twitter:tanabataharu4 ホームページ「物語作家七夕ハル 救いの物語」 URL:http://tanabataharu.net/wp/

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-03-15

Copyrighted
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