「檻の中」
「檻の中」
春の日差しに誘われて早春の訪れを感じようと郊外へと車を走らせた
が窓から吹き込む風はまだ冷たかった。古刹の看板に促されて脇道に入
って車を止めた。そして、さながら「北風と太陽」に弄ばれる男のよう
にコートを脱いだり着たりしながら人影のない山道を散策した。足元に
はやがて大きな草木に光を奪われることを見越した小さな草々が今を盛
りとばかりに日射しを浴びて色とりどりの小さな花を到るところで咲か
せていた。木々を飛び交う小鳥たちの鳴き声が、ウグイスはまだ鳴いて
いなかったが、時どき山々に谺して聴こえてくるほかは文字通り森閑と
した古刹への参道だった。曲がりくねった道をしばらく歩いて行くと斜
面に隠れた先の方からガチャガチャと不自然な音が聞こえてきた。歩を
速めて進むと道の傍らの坂の上に獣を捕えるために仕掛けられた鉄製の
罠に1メートル足らずの子どものイノシシが掛かってた。イノシシは罠
から抜け出そうとして何度も檻に体当たりを試みていた。そしてわたし
に気付くと身構えてからわたしの方に突進しようとしたがもちろん檻の
柵に阻まれてひと際大きな音でぶつかった。わたしは誰かに知らせなけ
ればならないと思って慌てて来た道を駆け下った。確か車を止めた辺り
には2、3軒の民家があったはずで、何処まで行けば辿りつくか分らな
い先を選ぶよりは賢明だと思ったからだ。するとすぐに、上って来る時
にはまったく気付かなかったのだが、山道に沿って流れる沢の向こうに
一人の老人が鍬を操って農作業をしているのが見えた。わたしは沢に掛
かる小橋を渡ってその老人に駆け寄った。人の良さそうな好々爺でわた
しに気付いて頭を下げた。わたしは早速イノシシが罠に掛かっていると
告げると、老人は、
「ありゃあ三日前に掛かったんよ」
と、事もなげに言った。つまりあのイノシシは3日間も檻から遁れよう
と虚しい猪突を繰り返していたのだ。
「正月にゃ三頭の親子がいっぺんに入っとたんでたぶんその連れじゃろ
う」
老人が言うには、母親と2頭の子どもは猟師が来てすぐに処分して引き
取ってくれたが、小さなイノシシ1頭では儲けにならないので何時処分
しに来てくれるのか分らないというのだ。わたしは、
「どうやって処分するんですか?」
と訊くと、
「槍で突き刺すんじゃ。大きいのは鉄砲で撃つが」
と言った。
「小さいから逃がしてやったりしないのですか?」
「バカ言うな、すぐに大きいなって田畑を荒らしに来るじゃろうが」
「ああ、そうですよね」
わたしは老人に手を止めさせたことを詫びて別れ、そして再び山道へ
戻ってイノシシが入った檻のある方へ歩を進めた。檻の傍まで来るとど
うしても気になって坂を駆け上ってそっと檻に近付いた。イノシシは疲
れ果てて寝ているのかわたしには気付かずに体を横たえていた。しばら
くじっとして檻の中のイノシシを見ていると何だか情が移った。間もなく
彼はたぶん槍で突き刺されて殺されてしまうだろう。彼の母親や兄妹た
ちが死んだように同じ罠に掛かって殺されるのだ。それにしても何で母
親たちが罠に掛かった檻に近付いたりしたのだろう?勝手な想像だが、
彼がその檻に近付いたのは母親の臭いに誘われたからかもしれない。
そう考えるとなんともやり切れない感情に苛まれた。何としてもあなただ
けは生き延びてと願う親心が、親を慕う子の思いに届かなかった。親子
の絆が彼を道連れへと導いたのだ。
(つづく)
「檻の中」