絶望の狭間で ~ループストーリー~

電話の向こうの鬼瓦さんは、明らかに苛立った声をしていた。

「ばかやろう!そんなんで通用すると思ってんのかテメェ!」

受話器の向こうの鬼瓦さんは、さらに語気を強めた。

「今何時だと思ってんだ!会社に遅刻した言い訳が『起きたらベッドの上でした』で許してもらえるとでも思ってんのか!あぁ!?てめぇは新社会人か。その携帯電話を粉々に砕いて喉にブチ込むぞ!」

まくしたてる鬼瓦さんに対し、震えながら「し、新入社員っすよ」とだけ返すと、そういう問題じゃねえと言われた。
確かに気づくと俺は自分の部屋のソファーベッドの上で寝ていた。
側頭部がズキズキと痛む。
恐る恐る手で触ると包帯がその役目を果たしているのか不明なほどの申し訳程度な処置がなされていた。
寝たままの体勢でリモコンを手繰り寄せ、とりあえずテレビをつける。情報ライブミヤネ屋が始まったところだった。時刻は昼の14時。

「おい、マジで逃がしたのかって。」

頭の整理をしている俺に鬼瓦さんは苛立ちながら確認を求めてきた。

逃がしました。人気の無い場所に引っ張り込むところまではよかったんですが、あと一歩というところで思わぬ邪魔がはいって。
アパートから男が飛び出してくると、まるでゲームのキャラクターのように何のためらいもなく、回し蹴りを浴びせてきたのだ。
その踵が思いっきり俺の側頭部に直撃して倒れた。そして気づいたらベッドの上だった。
ということは、この適当な包帯は猫田が巻いていったのだろう。

チッ、と舌打ちをすると鬼瓦さんは、今度は落ち着き払った口調で

「俺はなあ、お前が吊るされようが、沈められようがどうだっていいんだよ。けどな、社会には監督責任ってのがあって部下の失敗は上司である俺の責任になるんだよ、こと裏社会と呼ばれるこの世界ではマトモな表社会の比にならないほどの責任がついてくるんだよ。新社会人のお前には分からねーだろうけどな。なぁ、大楠よォ、今日の18時までだぞ。なんでもいいから手がかりねーのかよ。見つけられなかったら……」

「て、手がかりって言ったって通っている大学くらいは分かってますけど、もう絶対に姿なんて現さないですよね。」

18時という時間を突き付けられると急激に思考が鮮明になり、どこか非現実的に構えていた自分の襟首を、がっしと掴まれて一気に現実世界に引き戻される恐怖を感じた。
自分の唇が徐々に血色を失っていくのを感じる。
脂汗がじっとりと額を覆い、気づくと携帯を握る手がガタガタと小刻みに震えている。

「鬼瓦さん、お、おおおれ、どうなっちゃうんでしょう。まさか、と、と、東京湾に沈められちゃうんでしょうか。」

「タイムリミット4時間切ったし、もう無理だな、あきらめろ。と言いたいところだが、クソッ、さっきも言ったが俺にも責任がつきやがる。神宮寺学の口座からはウチが先月貸した金が既にキチンと消えていた。ヤツが引き落として姿をくらましたか、または第3者が関わっているか、どこかにあるはずだ。おい大楠、今は家だな?そっちへ向かうからな。」

それだけ言い残すと通話が切られた。
途方に暮れ窓の外を眺めると、下界には川が見え、河口が見え、大きく開けた海が見えた。この大海原へ魚になって飛び出せたら、どれだけの自由だろう。魚たちは幸せなんだろうか。優雅に泳ぐ魚を想像し、少し羨んだ。

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パチンコなんかするんじゃなかった。
今の状況をつくったのは他の誰でもない、俺自身だ。行ける大学がロクになかった俺は、親に頼み込んで何とか地方の私立大学に入学することができた。細かくは知らないが、おそらく多額の授業料と仕送りをしてもらっていたはずである。おかげでそれなりに友人もできて、絵にかいたようなキャンパスライフとまではいかなかったが、酒の美味さを知り、タバコの味を知り、余った金で朝までカラオケに入り浸った。勉強もそれなりにした。最初は勉強するうちに微かな興味が湧いたが、数週間もするとそれもなくなり、親に授業料と仕送りをしてもらっているから仕方なく行くだけとなった。日本の大学は楽なもので動機は何であれ授業料さえ払っていれば卒業はできた。しかし、卒業すると働く動機、意思といった類いのものが無くなり、入り浸るのがカラオケからパチンコに変わっただけだった。
毎日のようにタバコを吸いながら夕方までパチンコをしていると、あっという間に金が底をついた。実際、バイトで生計を立てていたのだから有り金なんて知れていた。
大学の同級生に連絡を取って金を貸してほしいと頼むと、1度は貸してくれた。2度めは断られ、3度電話に出ることはなかった。金貸しへ行ってもよかったが、そんなところから借りる奴はクズだと思っていたから踏みとどまった。
そんな折、父が倒れたと連絡が入った。まだ雪解けする前の寒い日の昼だった。所々小さな穴の空いた粗末なコートを着て電車賃だけを握りしめ、実家のある名古屋方面に乗った。車中、携帯電話をいじっていると、ふとした拍子に『元気にしてるか?たまには帰ってこい』というメールを開いてしまった。そういえば何度も無視してたな、それでも連絡くれてたっけ、悪いことしたな。
実家に帰るのは久しぶりだった。駅から歩いて帰ると、変わらない駅前のコロッケ屋や、小学校のときに父親と逆上がりの練習をした公園なんかが夕日に照らされて、ノスタルジックな景色として目に入ってくるから少し感傷的になった。
家に到着すると祖母が駆け寄ってきて冷たい手を握り「よぅ帰ってきたねぇ。山口からの電車は疲れたじゃろうに、とりあえずゆっくりしんしゃい。」と声をかけてくれた。「オヤジは」と聞くと、祖母はニコリと笑い「大丈夫、死にゃあせんかった。命に別状はないってお医者さんも言っとった。」と言いながら額の汗をぬぐっていた。
コートを脱ぐと父のいる和室へ入った。中はあったかく、真ん中あたりで父はぐっすり眠っている様子だった。脇には町医者とみられる男性がいて、母と妹が座っていた。

「あんた、山口行ってから何も連絡をよこさんで、父さん心配しとったんだよ。メールも返さんもんで、ちゃんと飯食えてるのかなって。」

母は父の顔を見たまま、後ろに立つ俺にそう言った。「さっき見た」とはとても言えなかった。「とりあえず父さんも俺も生きてたってことで。」と返すと少し声を強めた。

「あんたねぇ!どれだけ心配したらいいだん!してきたのは卒業の連絡だけでしょう!?父さんだけじゃないよ、母さんだって心配したし、アンタのうちにも行ったんだから。おらんかったけど、休日の昼間だから元気に遊びに出かけてるのかねって、父さんとそういうことで納得させて帰ったけど!」

久しぶりに叱られた。そういえば他人に叱られのすら最近はなかったなと思った。お父様ですが先ほどまで、うわ言であなたの名前を呼んでらっしゃいましたよ、と町医者が言った。母は涙を流していた。

「父さん、ごめんな、連絡のひとつも寄越さずに。起きたら改めて近況を話すよ、恥ずかしくてとても胸をはれたもんじゃないけど、聞いてほしいんだ。俺が山口で見つけた美味しい焼酎の話とかさ。」

それを聞いていた町医者はばつが悪そうに

「命に別状はありませんでした。このまま経過を観察していても亡くなったりはしません。ですが…逆に目を覚ますこともないでしょう。」

とだけ言った。俺がどういうことかと問うと、どうやら手術の必要があるらしい。大病院に入院して脳神経だかの難しい手術なのだそうだ。しかし、それには最先端の医療技術と医療スタッフを揃えなければならず、手術費用が予想以上にかかるということだった。

「あんた、働いているんでしょ?少し足しになるかもしれない。この家を売るわけにはいかないしウチにも貯金なんてそんなにないんだよ。」

「貯金は…ない」

「え?」

「貯金はないんだよ。バイトしてるだけで、最近はギリギリの生活してる。」

母は大きくため息をつくと俺から視線を外した。その姿は「やっぱりあんたなんかに頼むんじゃなかった」と言っていた。このままでは父さんは眠ったままなのだろう。

「いくら、手術費はいくら必要なんですか?」

「さっきお母様とも話をしていたんですが手術してからの経過観察の治療もあります。概算で2000万あれば足りるでしょう。」



その日の夜には実家を後にしていた。
祖母が体の心配をしてくれて、お腹すいてるでしょうとどら焼きを2つ手渡してくれたが、母や妹の見送りはなかった。何もせず、大学まで出したわが子がフリーターであるという事実だけ告げられたのだから、そんなのを期待するほうが間違っている。
駅へ向かう足取りは重く、その日は真冬日で、頬をうつ風がいつもよりも一層冷たく感じられた。
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「俺まだ死にたくないっすよ!」

やっぱり死にたくない。鬼瓦さんに再び電話していた。

「だったら死ぬ気で探しやがれ!2000万の借金を踏み倒されたなんて話が業界に広まったらウチは大損害なんだよ!そんな大事な案件をテメー1人に任せた挙句、1人娘を捕まえられませんでしたなんて言ってみろ!俺もお前も間違いなく終わりだぞ!死んだ神宮寺学の唯一の血縁者なんだ、金の在処を絶対に知っているはずだ!絶対に探し出せ!」

鬼瓦さんの声色はさっきと少し変わっていた。どうにかしてくれるんじゃないかと思わせる、こんな状況でも頼もしいと思えてしまうほどに、厚い厚い鉄板のような揺るがない声にも聞こえた。
それよりも、そう、なぜ鬼瓦さんは俺1人なんかに任せたんだ。だからこんな事になったんだぞ。そんな大事な案件なら人手を割いてでも全力で探そうとするのが普通じゃないか。しかも新入社員である俺の監督者が鬼瓦さん自身だから責任も受けることになるらしい。それなら尚更、俺1人には任せないはずだ。そして、もし2000万円の回収、つまり神宮寺学の一人娘の確保が失敗に終わるようなことがあれば、会社自体が大きな打撃を受けるのは必至だと言った。確かにその話が業界に広まれば、ウチは『借りても踏み倒すことのできる金融会社』という烙印が押されてしまうはずだ。
俺が2000万の在処について口を割らなかったら。
俺がこのまま失踪したら。



なんで、なんでだ鬼瓦さん、なんでそんなこと……俺は泣きそうになるのを必死にこらえて、喉の奥から、か細い声を振り絞り聞いた。

「そんな大事なこ…と、なんで俺だけ…に押し付けたんですか?もっとみん…なで探せばこんな状況になんてなら…なかったかもしれないのに…」

瞼の上にかろうじで留まっていた涙は言葉を発し始めると同時にあふれ、いつの間にか出ていた鼻水は、すすってもすすっても流れ出ていた。

「死にたくねえんだろ。ウチの会社の名前を出して周辺に脅しを入れれば、近辺洗いざらい教えてくれるだろうよ!さっきお前との電話を切ったあとに大学に脅しを入れたら、今日は必須の実習があるってとこまで口を割った。抜き差しならない状況になってきてんだ。大楠よぉ、ここまで時間が迫っておきながら諭すことを言うようだけどな、人生を勝ち抜こうと思ったら多少の犠牲は必要なんだ。その犠牲の大きさを図ってる場合じゃないんだよ。ここでやらなきゃお前の人生も俺の人生も終わりなんだぞ!お前だけじゃねえ、オヤジを助けるんだろうが!」

「でも、それじゃあ鬼瓦さんがっ!」

「言ったよな、今のお前には犠牲の大きさを考えてる暇なんてないんじゃないか?」

もう涙は止まらなかった。

絶望の狭間で ~ループストーリー~

絶望の狭間で ~ループストーリー~

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-03-14

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