秘めたる思い
春は異動の季節である。サラリーマンにとって、この時期の上司や人事課の動きほど気になるものはない。
「綾川係長、ちょっと、いいかな」
上司の鈴村部長に声を掛けられ、デスクで伝票の整理をしていた綾川は思わずビクッとした。
「あ、はい」
綾川は飛び上がるように立ち上がると、小走りで部長の席に行った。上司といっても、鈴村は係長の綾川より一回り以上若い。本当に若いのだが、ほとんど頭髪がないため、綾川よりも老けて見える。鈴村の頭を見るたび、綾川は『適材適所』という言葉を思い出す。
「いや、急ぎではないんだが、人事課に行ってくれたまえ。岩切課長から、ええと、その、説明があるはずだ」
綾川は、一気に顔面の血の気が引くのが自分でもわかった。
「わ、わかりました」
気の毒そうな同僚たちの視線を背中に感じながら、綾川はオフィスを出た。階段を降り、人事課のドアの前で大きくため息をついて、中に入った。
「営業三課の綾川ですが」
奥のデスクに座っていた岩切がスッと立ち上がった。いつものように、能面のような笑顔をしている。
「わざわざどうも。応接室の方でお話ししましょう」
「はあ」
「どうぞ、お掛けください。何か飲み物でも持って来させましょうか?」
「あ、いえ、どうぞお気遣いなく」
「そうですか。では、お忙しいかと思いますので、早速ですが本題に入りましょう」
綾川はゴクリと唾を飲んだ。
「綾川さんは、当社の子会社のことをご存知ですか?」
「ええ、まあ」
やはりそう来たかと思ったものの、どのような子会社なのか、詳しくは知らなかった。
「実は、子会社の方から、業務拡大のため人材が欲しいという依頼がありまして、熟慮の末、綾川係長が適任という結論に達しました。つきましては、来月より、子会社の方へ出向していただきます。まあ、当社よりはご自宅から遠くなりますが、時差出勤可能とのことですので、先方と調整してみてください」
「はあ」
肩を落として出て行こうとする綾川に、岩切は思い出したように付け加えた。
「ああ、そうそう、大切なことを忘れていました。向こうでの役職は部長待遇とのことです。ご栄転、おめでとうございます」
「あ、ありがとう、ございます」
もちろん、他社に出向する際に先方で役職が上がるというのはよくあることだし、自社に帰ってくれば元の役職に戻るだけだ。それでも、綾川はその日以来、誰もいないところでこっそり「綾川部長」とつぶやいてはニヤニヤしていた。
そして、子会社に出勤する日がやってきた。教えられた住所には古びたマンションがあり、その一室が『最新情報ウオッチャー社』という子会社らしい。チャイムを鳴らすと、「はーい、どなた?」という年配の男の声がした。
「おはようございます。綾川です」
すぐにドアが開き、ラフな格好の六十代ぐらいの男が出て来た。
「おお、よく来たね。わしが社長の西本だ。入りなさい」
「それでは、失礼します」
中はほとんど普通のマンションである。そこに、西本と同年配の男があと二人、同じようなラフな服装でゴロゴロしていた。部屋の中には読みかけの新聞・雑誌が散乱している以外、仕事に使うようなデスクも書類もパソコンもない。唖然としている綾川に、お腹の辺りをポリポリかきながら、西本が説明を始めた。
「ソファに寝そべってテレビを見ているのが専務取締役の石田、ダイニングで新聞を読んでいるのが常務取締役の東野、そして、わしが代表取締役社長の西本だ。よろしく頼むよ」
疑問だらけで、何から聞いたらいいのかわからず、とりあえず頭に浮かんだことを聞いてみた。
「ええと、その、みなさん、取締役なんですか?」
西本はニヤリと笑った。
「そうなんだ。取り締まる人間ばかりで、取り締まられる人間がいない。こりゃいかん、ってことで、本社に人を入れてくれるよう頼んだんだ。いやあ、来てくれてありがとう」
これじゃあ、部長というより雑用係だなと、綾川はゲンナリした。質問する気力もなくなってきたが、ついでに聞いてみた。
「ところで、今日はみなさんお休みの日ですか?」
西本は大きく首を振った。
「何を言う。みんなバリバリ仕事中だ。新聞・雑誌やテレビから、本社に必要と思われる最新情報をキャッチし、それを本社に売るのが我が社の業務だよ。まあ、金額は、毎月一定だがね」
「はあ」
「何故ため息をつくのかね。こんなにいい職場はないぞ。わしは今社長だが、毎年くじ引きで決め直すから、来年は石田か東野と入れ替わりになる。いっそ、きみもこっちに籍を移せばいい。そうすれば、何年か置きに社長になれるんだ。どうだ、こっちに転籍しないかね?」
戸惑っていた綾川の目が、急に輝いた。
「はい、喜んで!」
(おわり)
秘めたる思い