マグロ・マグラ
夢野久作に捧ぐ。
巻頭歌
鮪よ
鮪よ
何故躍る
母親が鯖とわかって
おそろしいのか
…………………ブウウ――――――――ンンン
――――――――ンンンン…………。
私がウスウスと眼を覚ました時、蜜蜂の唸るような音が私の耳石を振動させていた。
私はフッと眼を開いた。固い、冷たいまな板の上に横たわっているようである。
……おかしいな…………。
私は眼肉をグルリグルリと動かして、辺りを見回した。青黒い混擬土の壁に囲まれた二間四方ばかりの部屋である。私の身体の周りを、小皿を乗せたチェーンコンベアが廻っていた。
……不思議だ。私は自分が誰なのか思い出せない。その時、チェーンコンベアの向こうから女の叫び声が聞こえてきた。
「お兄さま、お兄さまお兄さまお兄さまお兄さまーっ」
その声は、トテも人間のものとは思えない、嗄れた底悲しい響きであった。
「チョット待ってチョット待ってお兄さま、ラッスンゴレライって何ですのーっ」
私はどうしても思い出せなかった。ネタが古過ぎるのだ。完全に賞味期限が切れている。
気がつくと、私の眼の前に変な魚の形をした帽子を被った、身長六尺程の巨人が立っていた。
「…あなたは誰ですか?」
男は私の鼻の先に、恭しく一葉の名刺を差し出した。
┌───────────┐
│ 禁忌大学水産研究所 │
│ 若林魚太郎 │
│ 所長 │
└───────────┘
「…若林…、魚太郎…」
「ギョギョ、お目覚めになりましたか?」
「…ここは、禁忌大学の水産研究所…ですか?」
「そうです。そして私は、この禁忌大学農学部准教授にして水産研究所の所長、若林魚太郎と申します。このようなヘンな名前だった為に、子供の頃より『さかなクン』などと呼ばれて居りました、ギョギョ」
「…それで、若林所長…」
「『さかなクン』とお呼び下さい」
「…さかなクン、私は自分が何者なのか思い出せないのです…」
私は呆然となった。私は依然として未知の世界に居る未知の私であった。
マキガイの解放治療
「…マキガイの、解放治療ですか」
「左様で御座います。マキガイを貝殻から解放することで、魚がエサとして食べやすくなるので御座います、ギョギョ」
「…誰がソンナ恐ろしいことを…」
「我が禁忌大学農学部教授、正木鮭児先生です、ギョギョ」
「…マサキ、ケイジ…」
「正木鮭児先生はお若い頃、漁師をなさって居られました。そして昭和二十九年に、第五救竜丸という魚船に乗ってマグロを捕っておられた時に亜米利加の水爆実験に遭って死の灰を被り被爆されたのです、ギョギョ」
「…ひ、被爆?」
「さようさよう、正木先生は奇跡的に助かったのですが他の乗組員は全員死亡、積み荷のマグロは『水爆マグロ』などと呼ばれ埋め立て処分されました。そしてこの事件を題材にして『マグラ』という怪獣映画が制作され大変な話題になったのです、ギョギョ。正木先生はその後、独学で我が禁忌大学農学部に入学されました。因みに、私も同じ年に入学致しまして一緒に勉強し、卒業後も二人共大学に残り、二人でこの水産研究所を作ったのです、ギョギョ」
「…何の為に…」
「正木先生は被爆体験を学生達に揶揄されて『アトミックさん』などという渾名を付けられながらもマグロの完全養殖の研究を此処で始められたのです。微力ながら私も協力させて頂きました。そして、実験は成功したのですが、更に正木先生は新たな実験を始められました。その実験とは、鯖にマグロを産ませるという、神をも畏れぬものでした、ギョギョ」
「鯖にマグロを産ませる?」
私には理解出来なかった。鯖にマグロを産ませる?ソンナ事が可能なのだろうか。仮に可能だとしても、鯖にマグロを産ませる事に何の意味があるのだろうか。
「はい、鯖にマグロを産ませる事によって、マグロの生産効率を上げようとしたのです、ギョギョ」
私は先刻から感じていた……何もかも出鱈目ではないか……。
「…その正木先生は今もこの水産研究所にいらっしゃるのですか」
「いえ、一ヵ月程前に亡くなられました、ギョギョ」
「…そうですか」
「…それも生まれ故郷の木更津の海に身を投げて、つまり投身自殺をされたのです、ギョギョ。それでは正木先生の研究室へご案内致しましょう、ギョギョ」
水産研究所
私は若林所長の後に付いて部屋を出た。廊下の窓から外を眺めると、数人のマキガイ達が小さなスコップで地面を掘り返していた。空を見上げると鰯雲が青空に浮かんでいた。季節は秋の様である。さらに廊下を歩いて行くと、ステキに広い円形の部屋があり、中央に四角い柱がこの部屋の天井から床を貫いていた。四角い柱の一面には金属製の扉が付いて居り、扉の横には0から9までの数字が書かれた四角いボタンが10個、何も書かれていないボタンが2個長方形に並んでいた。
若林所長はボタンを「6」「9」「3」「9」の順番で押していった。すると、金属製の扉は横に開いた。
「…さあ、どうぞ、この昇降機にお乗り下さい」
私は若林所長に促されるままに昇降機に乗り込んだ。昇降機の内側には「開」と「閉」のボタンしか付いていなかった。若林所長が「閉」のボタンを押すと扉は閉まり、ゴトンと軽く振動しながら二人を目的地まで運んだ。目的地に着くと扉は勝手に開いた。
私は昇降機から降りると、周囲の光景に唖然とした。昇降機の柱は、その周囲をぐるりと直径二十~三十メートルはあろうかという巨大な円形の水槽に取り囲まれていたのである。水槽の中には数百匹のマグロや、雑多な魚介類が泳いでいた。私が呆然と水槽を眺めていると、一匹の巨大なハダカカメガイが眼前に現れた。人間程もあるそのハダカカメガイは、くりおねっ、とこちらを振り向くとニヤリと笑い掛けてきた。若林所長が手を振ろうとした瞬間、ハダカカメガイは一匹のマグロに胴体を喰い千切られてしまった。
「矢張り、貝という生物は貝殻が無いと非常に脆い物で御座います、ギョギョ」
その時、マグロの群れを追い掛けて泳いでいた一匹のサバが、
「お兄さま、お兄さま、お兄さまお兄さまお兄さまーっ!」と叫びながら私の目の前を通り過ぎていった。
「さあ、こちらを御覧下さい。この大卓子の上に並んでいるのが正木先生の研究の成果で御座います、ギョギョ」
大卓子の上には色々な本や原稿用紙を綴じて表紙を付けた資料の様な物が無造作に置かれていた。
「マキガイ地獄磯貝サイモン」
「地球表面はマキガイの一大潮干狩場」
「鯛児の夢」
「絶対甲殻類、フジツボは貝の仲間に非ず」
「越前ウツボの遺言書」
「すり身おでん論附録」
それらの本の一番下に、一冊の薄汚れた本があった。私はそれを手に取ってみた。標題は「マグロ・マグラ」。「…………ブウウ―――――ウウウ―――――ンンン……………」で始まり「…………ブウウ――――ウウウ――――ンンン…………」で終わる小説みたような物である。
「この『マグロ・マグラ』というのは何ですか」
「それは、あるマキガイが自分はマキガイではないという事を証明する為に書いた文章で御座います、ギョギョ」
私には意味が良く理解出来なかった。
「詳しく申しますと、ある博士が放射線をマグロの受精卵に照射しまして、突然変異を起こさせて怪物を造り出し亜米利加に復讐するというSF小説の様な物で御座います。この小説を読んだ後、正木先生は投身自殺されたのです、ギョギョ」
与話情浮名横櫛
突然、昇降機の扉が閉まり、私達を残してゴトンゴトンと上昇し始めた。
「ギョギョ!この昇降機の暗証番号は私と正木先生しか知らない筈なのに!」
上昇していった昇降機は再び下降して来て私達の目の前にゴトンと到着し、扉を開いた。中から降りて来たのは坊主頭の骸骨じみた小男であった。
「ま、正木先生!ギョギョ!ギョギョギョ!!」
若林所長は突然歌い出した。
粋な黒塀 見越しの松に
仇な姿の 洗い髪
死んだ筈だよ アトミックさん
ハァー チャカポコ チャカポコ
「ふん、吾輩は死んじゃいないぜ、若林。木更津の浜で潮干狩をしていたら、『クジラを殺すなーっ!』と叫び声をあげながら近づいて来た外国人に簀巻きにされて海に放り込まれたが、自力で岸まで泳ぎ着いたのさ」
正木博士が身に纏っていた白衣の前をはだけると全身傷だらけである。
「ご新造さんぇ、おかみさんぇ、アトミックさんぇ、いやさアトム、久しぶりだなぁ」
「そうゆうお前は」
「天馬博士だ」
「死んだ筈では」
「しがねえ恋の情けが仇、まさかお茶の水博士の養子になったとはなぁ」
私と若林所長の眼の前で正木博士は首を左右に向けながら二人分の台詞を喋り始めた。歌舞伎の演目「与話情浮名横櫛」の落語バージョンなのか単に精神が錯乱しているのかは判らない。
「『鯛児の夢』か、懐かしいな。吾輩と若林が学生時代に組んでいた漫才コンビ『魚屋鮭児・鯛児』のネタじゃないか」
正木博士は大卓子の上に乗っている本に視線を落とした。
正木「鯛児君、君の夢は何だい」
若林「鮭児君、僕の夢はマグロの完全養殖をこの大学で成功させる事です、ギョギョ」
正木「そんな事出来る訳ないじゃないか」
若林「それにサバにマグロを産ませる、なんて事もいつか可能になると僕は信じているのです、ギョギョ」
正木「君は本当にお目出度いな。非現実的な夢ばかりだ」
若林「そんな事はありません。僕は日本の皆様に安いマグロをイッパイ食べて頂きたいのです、ギョギョ」
正木「吾輩の夢は…、そうだな、怪獣…、怪獣映画を造る事かな。怪獣の名前は“鮪 一郎”だ。それでは、どうもありがとうございました」
二人は私の眼の前で学生時代の漫才を諳じてみせた。
「このシナリオは非道かった。学園祭の舞台で演った時は全くウケなかった。まあ、どっちもボケないんだから当たり前だが」
若林所長は一人で台本の残りの部分を喋り続けた。
「…日本の皆様に安いマグロをイッパイ食べて頂きたいのです、
日本人はそんなにマグロを欲するかな?
マグロは日本人の国民性に合っているのです、日本人は無駄を省くのが好きなのです、鉄火場で博打を打ちながら食べられるマグロの海苔巻きが流行った。この海苔巻きを“鉄火巻き”と呼ぼう、と。さらに、マグロを海苔巻きにする手間も省こう、酢飯を丼に入れてマグロを乗せよう、そしてこれを“鉄火丼”と名付けた、
おいおい、それはこじつけだ、そいつは“鉄火丼”じゃなくて“結果論”だ…、と台本はここまでありました、ギョギョ」
「…そうだったかな、そんな細かい所まで覚えてないが」
「あなたが台本通りに最後まで喋ってくれればウケたんです。それを、途中で“怪獣映画が…”みたいな変なアドリブを云って勝手に舞台を降りてしまった!ギョギョ!」
「君の書いたシナリオがあまりに馬鹿馬鹿しかったからさ。まあ、吾輩はシナリオだの支那料理だのが苦手だったから君に任せたのだが」
「確かに、この台本を書いたのは僕だ!マグロの完全養殖もサバにマグロを産ませるというのも全て僕の着想だった!それをあなたは平気で盗み、僕よりも先に実現させてしまった!だからあなたは教授になれた!僕は未だに准教授のままだ!こんな不公平な、理不尽な事があるものか!ギョギョギョー!」
「ふん、だから外国人活動家に金を渡して吾輩を襲撃させた、とこういう事かな?」
「ギョギョ、それは…」
「着想を盗んだの、出世競争に負けたのと些末な事を!そんな事は吾輩の亜米利加に対する復讐に較べれば大した問題ではない!」
「ギョギョギョ…」
私は二人の会話を聞いているうちに、心の内にどうしても質問してみたい事が生じてきた。
「すみません、正木博士」
「どうした、君は自分の名前を思い出したかい」
「先程正木博士が仰有っていた“鮪 一郎”というのはひょっとして私の名前でしょうか」
「いや、君の名前は“鮪 一郎”ではないし、そもそも吾輩は“鮪 一郎”などとは云っていない。“マグラ一号”と云ったのだ」
マグロ・マグラ
その時、昇降機の扉がひとりでに開いた。まるで我々三人に
「乗れ」
と命令しているようだ。
「おかしいな、この昇降機の暗証番号は吾輩と若林しか知らぬ筈だが」
私達三人は昇降機の意思に従って乗り込んだ。扉がひとりでに閉まり、ブーーーンといううなり声と共にゴトン、ゴトンと音をたてながら昇降機は上昇した。階数を表示するランプが無いのは、この昇降機が二つの階だけを行き来しているからなのだ、と私は思った。
やがてゴトン、ゴトンという音が止まり、扉が開いた。
眼の前には、青い空と青い海が広がっていた。波は穏やかで、遥か遠方に小さな島が浮かんでいた。
「…ここは見覚えがあるぞ。南太平洋の、ビキニ環礁だ」
正木博士が叫びながら昇降機から飛び出し、揺れる船の甲板の縁から下を覗き込んだ。船体の横腹には黒々とゴジック体で「第五救竜丸」と書かれていた。そして、船の周りを小型のクジラが何匹も泳いでいた。
その時第五救竜丸の後方から一隻の船が猛スピードで近づいて来て体当たりした。第五救竜丸が大きく揺れると、その謎の船は突然発砲してきた。謎の船の横腹には英語で「SEA・CHICKEN」と書かれていた。
「クジラを殺すなーっ!」
「ギョギョ!あれは、亜米利加の環境保護団体『シー・チキン』の船です!」
「シー・チキン」号の甲板にはセーラー服を着たショートカット・ヘアの高校生と思しき少女が機関銃を構えて立っていた。真顔の女子高生は何の躊躇いも無くこちらに向かって機関銃をがががががっ、と乱射してきた。弾丸が無くなるまで引き金を引き続けた女子高生は、射撃が終わると虚脱して腕をだらり、と下げて一言、
「…ツ、ナ、カ、ン」
と呟いた。
「グッ、ゲボッ」と血を吐きながら正木博士と若林所長は船の甲板の上に崩れ落ちた。が、私だけは何故か銃弾を何発も食らいながらも平気だった。そして、血塗れの正木博士と若林所長を見つめているうちに激しい怒りが臓腑の底から湧き上がってきた。憤怒が限界まで達したその時、
びかびかっ
と私の背鰭が青白く光り、口から高温の放射能炎が吹き出してきた。炎は「シー・チキン」号を一瞬にして火ダルマにした。乗組員たちは次々に海に飛び込んで、肉食のハクジラ達に喰い千切られていった。
私は若林所長を助け起こそうとした。が、若林所長は既に呼吸を止めていた。若林所長を諦め、正木博士に声を掛けた。
「…大丈夫ですか、正木博士…」
「…さ、触るな、化け物め…」
「………………………」
私は一人で昇降機の中に戻ろうとした。が、そこはもはや昇降機の箱では無く第五救竜丸の船室だった。私はマグロを保存する為の船底の冷凍室に入り込み、冷たい床の上に寝転がった。不思議と、まるで母の胎内に居るかの様に落ち着いた気分になった。
床に耳を押し当てると発動機の振動音が聞こえてきた。…………………ブウウ――――――ンンン――――――ンンンン………………。
(終)
マグロ・マグラ
この小説を読んで、訳が解らなかった人は是非夢野久作の「ドグラ・マグラ」をお読み下さい。もっと訳解らんですよ。ちなみに、「ドグラ・マグラ」の方は「青空文庫」というサイトで無料で読めます。