そんなにも美しくない顔をゆがめてまで、なぜ走るのかマラソンランナー(5)

五 十キロ地点

 ここはどこだ。看板がある。十キロ地点か。大勢の人が応援している。そうか、俺は走り続けているんだ。マラソン大会に出場しているんだ。途中のことは覚えていない。今、俺がここで走っていることだけがわかる。ええ、俺は走っているのか。自分の足を見る。確かに眼に進んでいる。
「がんばって、退職サラリーマン」また、声が掛った。やっぱり、退職サラリーマンとは、俺のことなのか。俺は俺の体を見た。そうか、背広か。俺は背広を着ていたんだ。今頃、気がついた。どおりで汗をかくはずだ。それにしても、なんで俺は背広を着ているんだ。覚えていない。まあ、いいか。今、俺が背広を着ていることは事実だ。
「がんばって、退職サラリーマン」またまた、声援が掛った。背広を着ているからサラリーマンだとわかるけれど、何で、退職なんだ。何で、俺が退職していることがわかるんだ。俺の個人情報が漏れているのか。まさか。
 そうか。顔か。顔が退職者なんだ。退職者の顔なんだ。長年の宮仕えから解放されて、顔が穏やかになっているのか。そう言えば、同じ時に退職した仲間と街で会った時、「お父さん、退職して顔が柔和になったね」と言われたと仲間が笑っていたのを思い出した。あいつ、誰だったっけ。顔は思い出せない。それとも、長年の苦労で顔が誉んだままになっているのか。顔面神経痛が治らないのか。どちらにせよ、顔は履歴書だ。今さら変えようにも変えられない。まあ、どちらでもいい。とにかく、気持ちよく走ろう。
 横を見る。金網だ。その向こう側には芝生があり、等間隔に植栽が植わっている。駐車場が見えた。スタンドが聳えたっている。野球場なのか。するとここは総合運動公園か。そう言えば、昔、ここで、駅伝大会に参加しで、走ったことがあるぞ。いつ。昨日?まさか。だいぶ若い頃のことだ。三区だったっけ。タスキは赤だった。三人に抜かれて、二人を抜いたんだ。差し引き一位順位が後退したけど、何とか次のランナーにタスキを渡したぞ。あの時はしんどかったなあ。足も吊りそうだったし、胸が破裂しそうだった。タスキを渡した後、道路に倒れ込んだんだ。
 はっきりと思い出したぞ。いや、思いだしたんじゃない。今は、あの頃の俺なんだ。退職サラリーマンから現役サラリーマンにタイムトラベルだ。ひょっとしたら、この赤いランナーシューズがタイムマシンかもしれないぞ。まだまだ、俺は洒落たことが言える。ボケてはいないぞ。でも、あの頃と今の間の俺は何だったんだ。それが思い出せない。空白だ。いや、何も見えない。真っ暗だ。輝く星のない空だ。空黒だ。駅伝で倒れた後、俺は何をしていたんだろう。まさか、そのまま立ちあがって、こうしてマラソンを走っているんじゃないのか。そんな馬鹿な。
 だけど、俺は本当に走っているのか。確かに、ここまで橋をいくつ渡ってきた。そう、いくつかだ。数は覚えていない。海ばかり見ていた気がする。でもそれは、本当に海なのか。富士山じゃないけど、公衆浴場の壁の絵じゃないのか。でも、それは、それでもいいか。それにしても、「それ」しか単語が出てこない。やっぱり、「それ」だ。
 おっ。選手がこっちに向かってくるぞ。トップ選手か。これは本物だ。のはずだ。映画じゃないよな。それじゃあ、折り返し地点はもうすぐなのか。それにしても、早いなあ。飛んでいるぞ。羽が生えているのか。いや、ランシャツにランパンだ。シューズだって小さい。軽そうだ。太ももに羽が生えているのか。やっぱり、映像だろう。人間がそんなに早く走れるわけがない。
 俺は自分の足を見る。背広のズボンからは足は見えない。もし、俺の足に羽が生えていたら、マラソンなんかに参加せずに、空を飛ぶだろう。空飛ぶマラソン大会だ。やっぱり、俺はマラソンから離れられないらしい。それにしても馬鹿げた話だ。夢みたいな話だ。まあ、いいか。いい気分転換だ。少しは走る辛さもおかげで、楽に走れる。やっぱり、俺は走っているんだ。

 なんだか知らないがやる気がしない。いや、やる気というか、生きていく気力がない。なんとも言えない不安、焦燥感。うつ病か。だが、病というほどではない。なんとなくけだるいのだ。新進作家の文学賞を受賞しながら、自殺した有名な作家も俺と同じ気持ちだったのか。もちろん、俺は作家じゃない。普通のサラリーマン。年齢は五十三歳。体はいたって健康。気になる点といえば、下腹が少しぽっくり出てきたこと、髪の毛が、特に額部分が昔に比べ伸びるのが遅くなった。それはそれで、散髪に行く回数が減り、お金を使わないで済むので安くあがる。だけど、代わりに、髪の毛が少なくなったので、養毛剤を使うことになり、購入費用がかかるようになった。人生は、プラスマイナスゼロだ。
 特に、体に不安があるわけではない。子どもは二人いて、一人は大学生、一人は高校生。仕送りも必要だし、下の子はこれから大学に行くから、俺としてもこれからも頑張らなきゃならないのだが、なんとなく力が出ない。仕事から帰ってきて、夕食前に、缶ビールを二本も飲めば酔い、夜八時にはふとんに入ってしまう。朝まで熟睡ならばいいが、夜中の二時頃には目覚め、ベッドの傍らに置いてある麦茶を二口、三口を飲む。そして、トイレに向かう。その後は、三時、四時、五時と一時間おきに目覚め、五時半にはベッドから這い出す。よく寝たのか、眠れなかったのか、わからない。朝、一番で、新聞を読んで、今日の一日のことを考えるが。朝食を食べ、会社に行くまでの約三十分余りは、再び、ベッドに潜り込んでしまう。仕事に行きたくない。じゃあ、仕事をせずに、やりたいことがあるのかと聞かれても、何もない。
 先が見えたのか。先が見えない不安じゃなく、人生の先が見えた不安なのだ。定年まで後、七年。その後、三年から四年、非常勤職員として会社に残るよう妻には言われている。年金が出るのは六十五歳だからだ。だが、不安なのは、お金の問題じゃない。どう生きるのか、生き方が見えないのだ。
子どもが誕生し、誕生パーティ、家族旅行、入学式に卒業式、など、特段、子どもを意識していたわけではなかったけれど、結果的には、子どもの成長に、自分の人生を合わすことで、生きてきたのだ。だが、その子どもも一人は大学二年生、一人は高校生。もう自立だ。となるよ、俺が子どもに寄り添う必要はない。俺は大黒柱だとうそぶいていたが、実際は子どもが大黒柱で、俺は添え木として生きてきたのだ。添え木は、本体があって初めて価値がある。本体が自立していけば、俺の価値はもうないのだ。
 そんな中、わずかの抵抗として始めたのがランニング。四十歳近くまで、フルマラソンの完走と、サブスリーを目指して、毎週の土・日曜日には練習を積み重ねてきた。だが、子どもが大きくなるにつれて、子どものスポーツクラブのコーチなどを経て、走ることはしなくなった。また、長年のランニングのせいか、膝の痛みも生じ、走ることをやめた。
 それ以来だ。今でも、膝の痛みはある。だが、心の空虚感を満たすことが先だ。そんな時だ。職場の部下、若い女性から声が掛かった。「一緒に走りませんか」昔、俺が走っていたことをどこかから聞いたらしい。
「あたしたち、毎週水曜日に山に走りに行っているんです」山?そこは職場から見える市内の山だ。山と言っても標高約二百メートル。三十分も走れば到着する。手ごろな距離だ。麓には、病院や特別養護の老人ホーム、墓地がある。それを抜けると、頂上付近には公園があり、休みの日には家族連れで賑わっている。
登り坂は、脚力や心肺機能を鍛えるのにはちょうどいい。下りは、スピード練習ができる。若い頃、自分も練習した場所だ。今も、中学生や高校生が練習をしている。若い女性に誘われ、下心があるわけではないけれど、俺は再び、ランニングを始めた。何か、きっかけが欲しかったのだ。喪失感、不安感は今もある。ただ、走っている時は、走ることに精いっぱいで、感じることはない。忘れさせてくれる。体の疲れが頭の疲れを凌駕する。
 昔、高校生の頃、好きな歌手が歌っていた。「何のために生きるのか。わかったような気がします。」だが、俺は、ランニングをしながらも、何のために生きるのか、わからない。多分、このままわからないまま、生きて死んでいくのだろう。欲しいのは達成感か。達成感といっても、所詮、自己満足だ。達成感という欲望がどんどん膨れあがったり、新たにふつふつとわいてくるだけだ。それを満たせないがために、かえって、喪失感が大地のように広がっていく。その喪失の大地に立つ俺。なんとかしないといけない。いや、何もしないほうがいい。俺の心は千路に乱れる。その乱れのまま、俺は走っている。走り続けている。
 全盛期は一キロ四分の前半。三分の後半も出せた。だが、今は一キロ六分だ。時計は十時。スタートから一時間経過。予定のゴール時間は午後一時十五分。だが、このスピードでも、フルマラソンを走りきれるかどうかはわからない。フルマラソンの練習のために走った、一か月前のハーフマラソンでも、一キロ六分弱で、二時間のタイムを切ることを目指したものの、結果的には、途中で、股関節に痛みが走り出し、痛みに耐えかね、歩いたり走ったりを繰り返し、目標タイムを三十分以上も超えてしまった。
 今度はその時の倍の距離だ。果たして走りきれるのか。不安だ。だが、生きることに対する不安ではない。目先の不安だ。とにかく、俺は目の前の不安をひとつずつ取り除くと言うか、埋めていくしかない。さあ、もう一息、いや、四息だ。給水所で水を取ると、喉を湿らすとともに、頭から水を掛けた。水と一緒に汗が流れ、唇に付いた。舌で舐める。しょっぱい。走ることも、生きることもしょっぱい。
 俺が休んでいる間に、背広姿のランナーが通り過ぎた。一瞬しか顔は見えなかったが、俺よりは年齢は上に見える。この歳で走るぐらいだから、昔は相当早かったのだろうか。いや、マラソンは遅く始めたほうがいいのかもしれない。若いうちにやると、自分の限界が見えてしまい、それを下回るタイムだと、自分の力が落ちたことが如実に示され、走る気力は失せてしまう。やはり、走るからには、少しでもタイムが速くなる、成績がよくなる方が、人間はやる気が出るのだ。現状維持では走る気力がわかない。まして、タイムが落ちればなおさらだ。自分の歳になると、現状維持さえも難しく、いかにタイムが急激に落ちるのを防ぐかが勝負だ。だが、それでは、実際のところ、寂しい気持ちなのだが。
 それなのに、あの背広を着た男は、俺を追い抜いていった。負けたくない。あの男に勝ったところで、何の賞金が出るわけではない。だけど、負けたくはない。勝たなくてもいい。負けなければいいんだ。今、自分は課長だ。なりたくてなったわけではない。このまま課長で十分だ。いや、降格して、平社員になってもいいとさえ思っている。じゃあ、なれば。なろうか。それで、平社員になったら、次の目標はなんだ。わからない。ただ、今は走るだけだ。

 もう十年走っていない。若いころは、昼休みに、職場の近くの公園で練習をしたものだ。それが、職場が変わり、土・日曜日も出勤の職場に変わると、大会参加も思うようにならなくなった。目標を失った俺は、必然的に、走ることをやめた。そのうちに、子どもがドッジボールをし始めて、そのコーチに誘われた。子どもがやっている以上、他の人にまかせっきりなわけにはいかない。いいですよ、の返事とともに、コーチになった。
 土、日曜日は練習や大会が開催された。必然的に、週末はほぼ一日つぶれた。そうなると、ランニング大会に参加することは難しくなり、走ることはやめた。ひょっとしたら、走ることをやめるために、子どものドッジボールのコーチになったのかもしれない。やめどきを探していたのかもしれない。もう、無理は、しんどい目は、辛い目はできない体、心なんだ。

そんなにも美しくない顔をゆがめてまで、なぜ走るのかマラソンランナー(5)

そんなにも美しくない顔をゆがめてまで、なぜ走るのかマラソンランナー(5)

五 十キロ地点

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-03-13

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted