20160103-私の愛したブロンズ像


 朝、目が覚めると、やけに寒気がしてカーテンを開けた。思ったとおり雪が降り積もっていた。イブには、これくらい雪が降っていないとつまらないが、それにしても寒い。私はたまらず身震いして、石油ファンヒーターのメモリを上げ、急いで身支度を始めた。
 ヒゲをそり、顔を洗って、背広に着がえる。朝食に厚手の食パンをオーブンで焼いてブルーベリージャムを塗ってかぶりつく。テレビの天気予報を見ると、例年よりひと足早く寒気が来ていると言う。どうりで、寒いわけだ。ひとり納得してコーヒーを飲み干すと、オーバーを羽織ってスコップを手に玄関を開けた。
 出勤の三十分前。雪かきをしながら私は思う。昨夜から降り出した雪が、根雪になってイブを向かえるのが望ましいと思っていた。それでも、これからは毎日のように雪かきをしなくてはならないことには不満を持っている。しかし、ここから雪のない所へ引っ越す気にはなれない理由があるのだが。
 答えの決まった押し問答をしながら、スコップで歩道をひたすら雪かきをするのだった。
 朝の重労働から解放されて、やっとバスに間に合った。肩で息をしながら吊り革につかまっていると、バスは坂道を下って幣舞橋(ぬさまいばし)に差しかかった。私は、いつものように窓の凍りを息で溶かし外を覗く。
 ――薄衣(うすぎぬ)一枚をまとい、長い髪をうしろでまとめ、一点遠くを見つめ、凛(りん)と立つ姿は、美しい。だが、どんなに美しくても彼女はブロンズ像。私の声には答えてくれない――。

 私、新井幸彦(ゆきひこ)はあの日、幣舞橋の彼女、ブロンズ像『春』に恋してしまった。
 それは、私が美術教師として北海道の釧路江南高校へ新卒で来た年の春だった。初めて彼女と目が合ったときは動けなかった。ひとめ惚れだった。なん時間も見入っていた。そして翌年、幣舞橋を見下ろすアパートへ引っ越してからは、この三年のあいだ毎日彼女を見てきた。
 それを変だと言う者がきっといるだろう。しかし、私は彼女を見ているだけで満足だった。
 だが、その彼女の身体が最近洗われていない。私は、鳥の糞で汚れた彼女を見るのがつらかった。それは、彫刻をやっている私にとっては、とうてい耐えがたいことだったのだ。
 だから、イブの今夜、彼女をきれいにする。ただし、不審がられないように、ほかの三体のブロンズ像『夏』『秋』『冬』も洗うようにした。


 私は、学校の仕事が終わってアパートへ帰ると、バケツと、スポンジ、洗剤、それからポータブルガスヒーターをかかえて幣舞橋へ歩いて来た。まず、橋の近くにあるお店の人にお願いをしてお湯をもらい、オーバーの上から少し大きめの白衣を羽織った。
 腕時計を見ると時刻は午後六時。すでにオレンジ色の街灯がつき、静かに降り積もる粉雪を暖かく照らしていた。

 まずは『夏』の像。彼女の肢体(したい)は、夏の日光を浴びたように伸びている。これを、スポンジを泡立たせ、勢いよく汚れを落としていった。
 次に『秋』の像。少々骨が太く健康的な彼女。私は、友達の身体を洗うように、ごしごしと洗った。
 そして『冬』の像。寒さに凍えるような彼女を見ていてつらくなった。私は、お湯で温めてから、ていねいに汚れを落としていった。

 時刻を確かめると、もう夜の十時。私は、急いで最後のお湯をもらいに行った。そして、ついにブロンズ像『春』の台座に足をかけた。
 初めて近くで見る彼女の顔は、やはり凛として美しい。特に、口元と目元が引きしまってたんねんにつくられ、作者『舟越保武(ふなこし・やすたけ)』氏の思い入れの深さがうかがえる。ネットで調べたところによると、彼は六十五歳からこの立像をつくり始めたようだが、なぜそれ以前には石碑とかしかつくらなかったのだろう。もしかして、このモチーフになった少女と出会ったからではないのか。彼女は一体誰なのか気になるが、彼が亡くなった今となってはわからないだろう。それにしても整った美しい顔だ。
 私はスポンジを泡立てて、うしろでまとめた長い髪から優しく洗っていった。時間も忘れていねいに洗っていくと、本来の美しい顔が現れた。私は少しのあいだ、見とれてしまった。
 それから身体を洗ったのだが、その薄衣をまとった肉体はほどよくふくらみを有し、まるで生きた人間をブロンズ像にしたように思えた。
 ――耳を澄ますと、今にも鼓動(こどう)が聞こえそうだ。
 そんな妄想に取りつかれ、私はブロンズ像『春』の身体をみがき上げていった。
 それから、どれくらいたっただろう。気がつくと、洗い終えてしまっていた。なごり惜しむように彼女の手を握りしめて、台座を下りた。
 時計を見ると、もうすぐ深夜〇時。夜空を見上げると、雪はすでに止んでいた。私はバケツの水を捨て、白衣を脱いだ。

 掃除道具をかかえ、もう一度、ブロンズ像『春』を見て満足して立ち去ろうと背を向けた、そのときだった。
 誰かが、私のオーバーをつかんだ。ギクリとする。
 ――深夜でまわりには誰もいなかったはずなのに。
 私は、おそるおそる振り返った……。

 そこには裸の少女が、たった一枚薄衣をまとった美しい少女が、震えて立っていた。

 私は驚いて、身体に電気が走ったように手に持っていた掃除道具を落としてしまう。だが、すぐにあわてて自分のオーバーを脱いで彼女にかけ、冷たそうな足に脱いだ靴をはかせた。
 ――なぜ、こんなに美しい少女が、裸同然のかっこうで立っているんだ?
 私は、完全に動揺して、凍えるような寒さなのに冷や汗をかいていた。そこで、気づく。
 ――そういえば、ブロンズ像は?
 ブロンズ像『春』がいた台座の上を、おそるおそる見上げると……。

 そこには、なにもなかった。

 私は、めまいがして、なにも考えられずに、ただ呆然と彼女の目をみつめていた。時間にして、ほんの数秒だろうが、私には長く感じられた。
 彼女がまばたきをした瞬間、我に返り、このままにしてはおけないと思い、こわごわと彼女に話かける。
「もし……、もしよかったら僕の家に来ませんか?」
 思いつかなかった、それ以外に彼女を連れて行く場所が。できることなら置いて逃げたかったが、それはあまりにむごいことだ。
 彼女はホッとした表情をして、「お願いします」と寒さに震える声で言った。それが、彼女の美しい第一声だった。
 私はコクリとうなずき、掃除道具をひろって、まわりを気にしながら彼女と共に家路を急いだ。

 そのとき、彼女は手を差し出したのだが、私には怖くてどうしてもつかめなかった。そして、歩いている最中、私がなぜ震えているのか、寒さのためか、恐れのためか、それさえもわからなかった。あんなにブロンズ像『春』が人間だったらと願っていたのに、いざ、それが現実になったら恐ろしいと思ってしまった。
 私は、この現実にひどく混乱して更には恐怖していたが、それでも彼女を家に招いたことは間違いではなかったと断言できる。それは、彼女をあの橋の上に置き去りにしたら、凍死してしまってもおかしくないと思ったからだ。

 傾斜のキツイ坂道を上ってアパートに着くと、私は急いで玄関にたまった粉雪を手ではらって、カギをまわした。
「どうぞ、上がってください」
「ありがとうございます」
 彼女の声が震えている。私もガタガタと震えていた。急いで石油ファンヒーターに火を入れ、なん枚かの暖かい服を、ふたりでかさね着をした。そして、火に当たりコーヒーを飲んで、私の方はようやく暖まってきたが、彼女はいまだにガタガタと震えていた。
 ――無理もない、裸であの橋の上にいたのだから。
 私は、おそるおそる彼女にたずねる。
「まだ……、寒そうですね。よかったら、お風呂に入りますか?」
「お風呂とは……、なんですか?」
 ――そうか、彼女には日常生活の知識が抜け落ちているのか!
 私は少しの間固まってしまったが、気を取りなおして苦労して説明した。
「……えーと、大きい容器に温かいお湯を入れて、人間がそのお湯につかって温まるものです」
「お湯につかる! ぜひ入りたいです!」
 彼女は感激したようにそう言った。
 私は「わかりました」と言って急いで風呂を沸かし始めた。
 ――そう言えば、健康保険証も持っているわけはない。風邪でも引かれたら大変だ。
 私は、あわててバスタオルなどの入浴に必要なものを用意した。下着は私のものしかないが、それも一応用意した。

 風呂は、古いタイプのガス式で、三十分ほどかかってやっと沸いた。私は、すぐさま脱衣所へ連れて行ったのだが、彼女を風呂に入れるのは、やはりとまどった。まず始めに、服の脱ぎ方から教え、ジャグチをひねってシャワーを出してもらって、それを全身に浴びてもらう。その間、彼女はキャーキャーと言って驚いでいたが、ようやく湯船に入ってもらった。
 そこで彼女は「ほおっ」と声をあげる。
「本当に温かいです」
 私は目のやり場に困ったが、彼女は気にしなかった。お湯を手でかいて肩にかけて、本当に気持ちよさそうにしていた。
 ようやく震えも治まったころ、私は彼女がまだ寒いだろうと思い、湯船につかったままシャンプーを渡し、洗い方を教えていった。そんな風に、髪を洗い身体も洗い終え、ゆっくりとお湯につかって湯船から出した。そして、シャワーで泡を洗い落とし、脱衣所でタオルで身体をよくふいて、私の服を着てもらった。
 服を着るときなどは、後ろ前はもとより、どこに腕と頭を入れるかを教えなければならなかった。まるで、幼稚園児を風呂に入れるときみたいだと、にが笑いした。しかも、ぶかぶかである。
 きっと、そのせいもあるだろうが、いつの間にか私の緊張は薄れて、ていねい語で話すのを止めていた。
「どうだい、いいもんだろ、お風呂って」
 髪をドライヤーで乾かしながらクシの使い方を教え、そう言った。
「ありがとうございます。身体がホカホカして気持ちいいです」
 ――ああ、こんな風に笑うんだ。
 私もつられて笑顔になった。
「よかった、さっきまで震えていたから。ところで、お腹はへってない?」
「そう言えば……、お腹がペコペコです」
「よし、急いで用意しよう」

 私は、作り置きのシチューを温めながら考えていた。
 この少女、ブロンズ像『春』だった者は、どうやらあの橋の上にいたときから意識があったらしい。それで、橋の上を行きかう人々から言葉や行動を知ったのだろう。だから、ふだん家でやるような、風呂に入ったり服を着ることができなかったのだ。また、裸でブロンズ像として立っていたから、裸を見られることに抵抗がないのだ、そう推察した。
 そして、さっきからの会話で彼女がまじめで素直な性格だと知り、少しずつだが初めにあった恐れは薄れていった。
 ふと目をやると、今も石油ファンヒーターの前で暖を取っている彼女。その横顔にはあんどのようすが感じられた。

 そんなことを考えているうちにシチューが温まった。ごはんにシチューをかけスプーンをさして、テーブルにおいて「どうぞ」と言ってようすを見ていると、やはり彼女は食事の仕方は知らなかった。皿とスプーンを交互に眺めてとまどっている。
「僕のマネをしてごらん」
 私は、そう言って、自分の皿からごはんとシチューをスプーンですくい、口に運んで見せた。
「どう? やってみて」
「はい」
 ――初めての食事だ。口に合うといいが。いや、それよりも消化のよいものにした方がよかったか……。
 そんな私の心配も知らずに、彼女は勢いよくスプーンを口に運んだ。
「ぱく、もぐもぐもぐもぐ、ん! ごっくん。おいしい! おいしいです!」
「よかった。ゆっくり噛んで食べるんだよ」
「はい!」

 彼女が満足そうな顔をして、ごちそうさまと言ったのは、もう深夜一時半。明日に備えて早く眠らなければと思い、急いで彼女に歯磨きを教え、寝室のベッドへ寝かせた。そして、私が「お休み」と言って居間のソファーで寝ようと電気を消したとき、彼女に呼び止められる。
「どこへ行くんですか?」
 不安そうな声だ。
「いや、僕はあっちで寝るから」
「お願い、行かないで」
 彼女は今にも泣き出しそうに言う。

 もしかして、彼女はあの橋の上に設置された一九七七年から二〇一六年の今まで、三十九年間意識があったのかも知れない。それで孤独を恐れているのだ。
 人がすぐ目の前を通り過ぎるのに、自分は声さえもかけることができずに、ただずっと立ち続けるだけだとしたら……。私なら耐えられない。
 ようやく、彼女が泣き出しそうになった気持ちがわかった。

「ごめんね。一緒にいるから」
 そう言って、私は彼女の隣で背を向けて横になった。彼女は安心したのか、私の背中にぴったりとくっついて、スヤスヤと寝息を立てた。


 けたたましくドアが叩かれて、目を覚ました。時計を見るとまだ午前六時前。誰かと思って玄関を開けると、そこには年配の男と若い男の、ふたりの警察官が立っていた。
「新井幸彦さんですね。朝早くすみません。実は、幣舞橋のブロンズ像が盗まれまして」
 年配の警察官がにこやかに、だが笑ってない目が鋭く光っている。
「あなた。昨日ブロンズ像を洗いましたね?」
「ええ、洗いましたけど」
「そのとき、なにか変わったことはありませんでしたか?」
「なにもありませんでしたが」
「そうですか」
 警察官の視線が痛い。明らかに疑っている目だ。
「できたら、今から部屋の中を調べさせて貰えないでしょうか?」
「……ええ、どうぞ」
 私がそう言うと、警察官たちは玄関をあがってきた。彼らは、押し入れやタンス、そして物置を開けて調べた。途中、元ブロンズ像だった者が目を覚ましおびえていたが、私が大丈夫だからそのまま寝ていて、と言うと大人しくしていた。年配の警察官は彼女の顔を見て、一瞬動きを止めたが、なにも気づかなかったようだ。まさか、元ブロンズ像だとは。
 警察官たちは、ひととおり部屋を捜索したが見つかるはずもない。その後、二、三質問をしたが、大人しく帰っていった。

 なんとか乗り切ったとふーと息を吐いていたら、心配そうに彼女が聞いた。
「大丈夫かしら?」
「大丈夫だよ。あんなに重そうなブロンズ像は、どこを探してもありはしないから。だから、絶対に捕まるなんてことはないよ」
 私がそう言うと、ホッとした顔をして布団をかぶった。
 それでも、気になってテレビをつけると、レポーターがしっかり防寒具を着込んで幣舞橋に立っていた。
「犯人は、ここから一体どうやってあの重いブロンズ像を持ち去ったのでしょうか? パワーショベルなどの特殊車両のタイヤ痕は、この雪の上には残されていませんでした」
 そのとおりだ。まさか、ブロンズ像が自力で歩いて行ったなんて、誰も思わないだろう。次いで新聞を開いたが、載ってなかった。印刷に間に合わなかったのだろう。
 取りあえず安心して、もうひと眠りしたかったが、もうすぐ七時だ。しかたなく身支度をはじめた。すると、彼女が不安そうに言った。
「どこへ行くの?」
「ごめん、顔洗って昨日のシチューを食べて。学校は今日は昼で終わりだから、すぐに帰ってくるからね」
 その私の言葉にホッとしたようで、
「わかりました。行ってらっしゃい」
 と笑顔で言ってくれた。
 そうだ、彼女を安心させればいいんだと気がついた。これからは、行先といつ帰るかを言ってから家を出よう、そう思った。

 彼女のことは心配だったが、学校を休む訳にはいかない。八時前にアパートを出てバスに乗り込んだ。
 途中、幣舞橋を通るとブロンズ像があった周辺には立ち入り禁止のテープがはられて、現場検証が行われていた。ブロンズ像が置かれていた台座を見ると、設置のためにピンが四つ立っており、ネジがそのまま残っていた。やはり、ブロンズ像が人間になって私の前に現れたんだと、改めて認識した。私はこのことを記録するように、スマートフォンのシャッターを切った。
 学校へ着いて、同僚たちと朝の挨拶をすると、やはり話題はブロンズ像のことだった。レポーターと同じように、どうやって盗んだのかが主題だった。その時、物理教師が言った。
「あれは、きっと船を使ったんですよ。もしかして、海外の窃盗団の仕業かも知れませんね。ねえ、新井先生?」
 その物理教師は、得意げに自分の推理を披露したので、私は感心して見せた。
「そうかも知れませんね。さすがわ丸川先生。レポーターも気づかないのに、凄いですね」
 私がそう言うと、物理教師は満足したようにうなずいた。それで、雑談は終わり、それぞれ学期末の準備を始めた。

 お昼前に学校が終わり、急いで家に帰ると、彼女は「お帰りなさい」の言葉で私を笑顔で迎えてくれた。
「ただいま。……そう言えば、ただいまなんて言ったのは、ひさしぶりだ。高校のとき以来だよ」
「それは、なぜですか?」
 返答に困った。私は、あらためて自分が孤独だったことを知る。
「さあ、急いで食べて出かけるよ」
 そう言って、私は昼食の用意をして質問から逃れた。

 残り少なくなったシチューの鍋を温めながら、母のことを思い出していた。
 若くして私を身ごもった母は、祖父母と仲たがいして、たったひとりで産んで育てた。そのあと、祖父母は不慮の事故で死んでしまう。しかし、悲しむひまもなく日々の生活に追われていった。そして、苦労して私を札幌の美大へ行かせ、卒業させた年に病気で亡くなった。
 まだ四十一歳だったのに、これから親孝行をしようと思っていたのに、行ってみたいと言う場所へまだ連れて行ってないのに、母は半年の闘病の末逝った。だから、私には家族はいない。孤独なのだ。
 だからかも知れない。彼女、ブロンズ像『春』に心奪われたのは。母を亡くした私は、心のすきまを埋めるために彼女を好きになってしまったのかも知れない。そして、これからは人間になった彼女と、お互いの孤独を埋めていく……? なにを大それたことを。
 その考えを否定してシチューをコンロから下ろした。

 食事の間、テレビを着けたのだが、ニュースはやはりブロンズ像が取り上げられていた。
「あの美しい像は、特殊車両なしに一体どこへ持ち去られたのか。いぜん、行方はわかりません」
 と謎の多いこの事件を伝えていた。
 コメンテーターは、
「残念です。犯人よ、すぐに返しなさい」
 とわめいていた。けれど、その要求には答えられそうもない。そんな残酷なことなど私にはできないのだから。もうこれ以上、彼女に見せたくなかったのでテレビを消した。

 昼食のあと、私たちは彼女の服を買うために連れだって家を出た。いつまでも、私の服はおろか下着まで着せているのは、さすがにまずいと思って。
 彼女の希望で、車ではなくバスに乗りデパートへ向かった。初めてのバスに、彼女は緊張と感動をしていた。私は、それを微笑ましく見ていた。
 そして幣舞橋を通ると、まだ警察が二、三人立っていた。きっと、現場を荒らされないようにだと思う。それを見て、彼女は困ったような顔をした。私は、その顔をスマートフォンにおさめた。

 それにしても、彼女の顔はそっくりそのままブロンズ像だ。それに警察官さえも気づかないのは、髪型のせいかも知れない。前髪を下ろしてうしろを真っすぐ伸ばした姿は、私でも見間違えるほどだ。女性の髪型に、どことなく不思議な世界を感じずにはいられなかった。

 バスを降り、足元の氷を気にしながら目的のデパートに着くと、私は店員さんに耳打ちして、彼女の下着と似合う服を数点みつくろってくださいと頼んだ。店員さんは驚いた顔をしたが、すぐに何事もなかったように彼女を試着室へ連れて行った。さすが、プロだと思った。
 ベンチで待つこと約一時間、店員さんに呼ばれて行って見たら……。そこには優等生の女子大生がいた。紺色のスーツに、グレーのダッフルコート。店員さんは彼女のキリッとした口元と目に、これを想像したのだろう。彼女は、笑顔で鏡の中の自分に見入って、満足そうな顔をしていた。

 きっと、彼女にとっては初めての洋服だろう。彼女は、その誰もが振り向く自分の姿を鏡で見て、これから人間として生きていくんだという心構えと決意をしたことだろう。これからなにが起こるかわからないが、強く生きて行ってほしいと思った。私も、彼女のあまりにも似合う服装に胸の高鳴りを感じつつも、彼女が人間として生きることを助けていこうと思った。

 それから、用意された普段着も試着してみると女らしい柔らかなフォルムでまとまっていた。それら五着を選ぶと、店員さんに感謝して店をあとにした。

 デパートを出て買い物袋を下げて大きな通りを渡っていると、ふとツルツルとした氷で彼女が転ばないかと心配した。おそるおそる手を差し伸べると、彼女は喜んで手をつないでくれた。
「やっと、手をつないでくれたのね。うれしい」
 そう言って彼女は微笑みながら涙ぐんだ。
 ――彼女はずっと待っていたのだ、私が差し伸べる手を。ここに私を必要としてくれる人がいる。
 彼女の手のぬくもりに、私の目にも涙がにじんだ。

 そのあと、私たちは、ちょっとオシャレなレストランで夕食をとった。あらかじめ、私のマネをして、と彼女に言っておいたので食事は無難にできた。
 このとき、彼女は今度からは食事の手伝いをしたいと言った。きっと、おいしい料理を食べて、自分で作ってみたくなったのかも知れない。それとも、私に作ってあげたいと思ったのだろうか。そうだと、うれしいが。
 バス、買い物、そして外食。今日は初めてのことばかりで、彼女はとまどっていたが、とても楽しそうだった。私は、それをハラハラドキドキしながら、ときに苦笑いしながら見ていた。
 この分なら、彼女は思ったより早く、人間の生活になじむだろう。そう考え、私は胸をなで下ろすのだった。

 日が暮れて街灯が優しく道を照らすころ、バスに乗りアパートにたどり着いた。
 さっそく、彼女の服をタンスにしまっていると、チャイムがなった。出て見ると、テレビ局のレポーターだった。こうなったら、否応なしに答えなければ、犯人扱いをされてしまうという強迫観念があったから、インタビューをOKした。
「あなたは、前日にブロンズ像を洗ったんですよね? なにか、変わったことはありませんでしたか?」
「さあ、どこも変わったことはありませんでしたが」
「あなたが、犯人だと言う人もいますが?」
「まさか? あんなに重たい像を素手で運べませんよ」
「そうですよね。失礼しました。犯人になにか言いたいことはありませんか?」
「そうですね。犯人にはすぐに像を返して貰いたいですね。あれは、釧路市民の宝ですから」
「奥さんは、どう思われますか?」
 突然のフリに驚いた顔をしたが、奥さんという言葉に気をよくしたのか元ブロンズ像だった者は元気に答えた。
「犯人さん。早く返してくださいね」
「ありがとうございました。以上、前日にブロンズ像を洗った人のコメントでした」
 顔は撮らないでくれと言った。だが、もしも捕まったとき用に、顔を密かに撮っておくことは知っている。あくまで、一般視聴者に顔が知られないようにだ。日本ハムの記念バッジをくれて、レポーターたちは去っていった。正直、バッジはうれしかった。

 うまく言えたと思ってホッとしてコーヒーを飲んでいるとき、不意に言葉が出てしまった。
「そういえば、君は……」
 ここまで言って、しまった、と思った。果たして彼女に、この奇跡の秘密を聞いていいものかと。
 それを感じ取った彼女は、コーヒーをテーブルに置くと、凛とした口調で言った。
「なにか質問があるなら仰ってください。わたしは平気ですので」
 その言葉にうながされ、私は質問を口にした。
「君は、一体いつから意識があるの?」
 彼女は、姿勢を正して話し始めた。
「わたしが……」
 彼女の話を要約するとこうだ。

わたしが意識を持ったのはブロンズ像が完成したとき。
なぜブロンズ像にわたしの魂が宿ったのかはわからない。
そして、舟越さんや橋の上を行きかう人々から言葉や行動を学んだ。
ある日、あなたがわたしに好意を持っていることがわかり、うれしかった。
そして昨日、心を込めて優しく洗ってくれた。
すると突然、わたしの身体は人間になり、あなたのことをつかんでいた。
これからのことは、わたしにはわからない。
 そう言って、彼女は不安そうに私を見つめた。

 どうやら、私の推察は当たっていたらしい。
 それにしても、当時六十五歳だった作者、舟越保武氏の思い入れはすさまじい。像に魂を呼び込んだのだから。
 もしかしたら、病気かなにかで亡くなった昔の恋人を彫ったのかもしれない。それに、神様が間違って亡くなった恋人の魂を転生させたのか? そうすると、彼女は亡くなった舟越保武氏の恋人の生まれ変わりということに。それを知ったら彼女はどうなるのか……。
 そこまで考えて、彼女が私のもとから去ってしまうようで、急に怖くなった。いつから意識があるかなどと、聞かなければよかったと後悔した。

 それでも、これだけはどうしても聞かずにはいられなかった。
「ねえ、君……。もしかして君は、僕のことが好きで人間になったの?」
「はい、そうだと思います。そして、神様もわたしを人間にしてくださったのだから、わたしたちの出会いは神のお導きなのです」
 彼女の答えに一瞬喜んだが、すぐに飲みかけのコーヒーをこぼしそうになった。
「ちょ、ちょっと待ってよ。いきなり神って。一体なにからそう思ったの?」
 私のあわてように驚いたのか、彼女は小さい声で言った。
「それは、わたしの作者舟越保武さんから。彼は、熱心なクリスチャンでしたから」
「やっぱり」
「なにが、やっぱりですか?」
 彼女は眉を上げて私に聞く。
「君の意識の根底には舟越保武氏が大きい。だから、君の考え方や性格は舟越保武氏そのものなんだ!」
 私がそう言うと、彼女はちょっと怒った顔をした。
 だが私は、さも彼女が舟越氏の性格を受けついでいるように印象づけた。決して転生などと言って、前世の記憶を思い出さないように。
「それが悪いことなんですか?」
「いや。君を形成している人間性は、はっきり言って素晴らしい」
「ありがとうございます……」
 そう言ったが、彼女の表情はさえない。きっと自分を他人に乗っ取られた気分なのだろう。
 ――彼女が、舟越氏の性格を受けついでいるということを、少し強く言い過ぎたか。
 私は、彼女を元気づけるために、今の気持ちを告白した。
「君は、誠実で、賢く、品があって、僕の理想の人だ。僕は好きだよ、君が」
 そう言うやいなや、彼女は抱きついてきた。
「やっぱり神のおみちびきだわ」
「ちょっと待って。君はなぜ僕を好きになったの?」
 自分に自信のない私は、一番気になることをここで聞いた。
「それは、あなたの目。あなたのまなざしは、誠実で、優しく、いつもわたしを温かくつつんでくれる。言わばオアシスのような存在なのです」
 彼女の答えがとてもうれしかった。同時に、私はそんな大それた人間ではないのにと心配になった。
「ありがとう。でも見かけ倒しかもしれないよ?」
 彼女は、人差し指を私の口に当て、こうささやいた。
「いいんです。そう思っているだけで幸せなんです。それに、あなたにはそれを目指してもらいますから。だからいいんです」
 そう言って彼女は私の唇を求め、私はそれに応えた。そして、ふたりは愛し合った。

 彼女を抱いていて私は思う。孤独な私と彼女が、新たな家族になること。それが神の定めた運命ならば、私はこれに従おうと。


 朝起きると、彼女の寝顔が横にある。すやすやと、音がしそうな寝顔だ。
 私は、そっとベッドから出て洗顔もそこそこに、上機嫌で朝食の用意を始める。そして、腕によりをかけたパンを使った朝食を作り上げた。それは、彼女の新しい門出を祝う、私のちょっとした儀式。

 このパンが彼女のエネルギーになり、このミルクが彼女の血となり、このベーコンが彼女の骨となり、このサラダが彼女の身体をみずみずしく保って、そして彼女は新しく生きるのだ! この世界にしっかりと両足を着けて!

 太陽がようやく顔を出すころ、寝室のカーテンを開け、彼女の肩をゆり起こした。
「おはよう」
「うーーん。おはようございます、幸彦さん」
 彼女は大きな伸びをして、ニッコリ微笑みながら、私を名前で呼んだ。
「さあ、起きて。朝食ができてますよ、お嬢さん」
 そこで、昨日の約束を思い出したのか、彼女ははっとした表情をして言った。
「すみません、本当はわたしが作らなくっちゃいけないのに。昼食は作り方を教えてください。わたしが作りますから」
 私は彼女の頭をなで、微笑んで言った。
「ありがとう。それじゃ次はお願いね。まずは顔を洗って朝食にしようか」
「はい!」
 彼女は、そう言って元気にベッドから起き上がり、顔を洗って身支度をした。そして私たちは、彼女の門出のために作った、サックサックのパンとミルクたっぷりのコーヒーをおいしくいただいた。そう、私のオマジナイたっぷりの朝食を。

 ふたりで仲良く朝食の後片づけをしたあと、私は机の上のノートパソコンのモニターとにらめっこしている。彼女の戸籍(こせき)を手に入れるためだ。
 調べてみると、彼女の事情を知られずに戸籍を手に入れるには、誰かに親になってもらって出生届を出してもらうのが、一番リスクがない方法のようだ。
 ――でも、一体誰に頼む?
 そこで、行きづまってしまって頭を抱えた。
「ねえ、幸彦さん。なにを調べているの?」
 彼女が心配そうに私を見ている。
「いや、君の戸籍を手に入れたいんだが、いい親がいないんだ」
「戸籍って、なんですか?」
「それはねー……」

 戸籍とは、家族単位で国民を登録するもので、それは役所に保管される。これは、なくても大抵のことはできるが、結婚するときの戸籍作成で、色々詮索(せんさく)されるのが怖い。だから、彼女の素性がバレないようにするには、戸籍がどうしても必要なのだ。

 私は、たんたんとこう説明したが、彼女は結婚の言葉にビンカンに反応した。
「結婚!」
 彼女はそう叫ぶと、いきなり私に抱きついてきた。
「……ああ、そうだよ。君と結婚するために戸籍が必要なんだ」
 ――しまった。つい、うっかり口がすべった。本当は戸籍が作成できたらプロポーズするはずだったのに。考え事をしてると、すぐにこれだ。
 自分の失言にうんざりしていた。
 そのあとも、あれこれと考えてみたがいい人物は思い浮かばなかった。
「僕と君が従兄妹同士になるが、仕方ない。一太郎おじさんに頼もう」
「一太郎おじさん?」
「そう、僕の母の弟だ。さっそく電話してみよう。……ねんのために明日ふたりで遊びに行くとだけ伝えるよ」
 そう言って、私はスマートフォンを手に取った。

 新井一太郎おじさんに電話を掛け、あした紹介したい女性をつれて行きたいと言うと、快く承知してくれた。ホッとして電話を切ると、その直後、不意にチャイムがなった。出て見ると、昨日来た年配の警察官が、ひとりで来ていた。
「たびたびすみませんね、新井幸彦さん」
「どうも。それで今日は、一体なんの用ですか?」
「実は、あれから気になったことがあって、眠れないんですよ。二、三お尋ねしますが、いいでしょうか? ああ、言っときますが、これはあくまで個人的な興味で、答えたくなければ答えなくてもいいです。いいですか?」
「……はい」
 私は、このときほど緊張したことはなかった。一体なにを聞かれるのだろうかと。
「あなたは、昨日四体のブロンズ像を洗いましたね?」
「……はい」
「そして、最後に洗ったのが春像だった?」
「……はい」
「あなたは、洗い終えて立ち去ろうとしたとき、春像が突然人間になり動き出した」
「……」
 ――しまった! 誰かに見られていたか!
「あなたは、あわてて彼女にオーバーを着せた」
「……」
 ――ああ、神様。助けてくれ。
「そして、彼女をアパートまで連れ帰った」
「……」
 ――もうダメだ。
「その彼女とは、あなたですね?」
 そう言って、年配の警察官は元ブロンズ像だった者を見すえた。私たちの動きは停止して、息を呑んだ。
 と、そのときだった。
「すみません、すみません。これは、あくまでも自分の興味の範囲ですから。決してあなたたちを逮捕するとか、マスコミに売るとかいう気持ちはないです。ただ、あなたがあまりにも『春』像に似ていたから、もしかしてと思いまして。それで、真実が知りたかっただけです。すみません」
「……」
 その言葉をうのみにするほど、私は素直じゃなかった。どっと脂汗がひたいに吹き出る。
「これ、自分の名刺です。なにか困ったことが起こったら、自分を頼ってください。精いっぱい、あなたがたのお役に立ちたい」
「……あなたは、一体?」
「自分も舟越氏と同じ、カソリックのクリスチャンなんですよ。それも、奇跡が大好きな」
 そう言って、年配の警察官は去っていった。一枚の名刺を残して……。
 私は、彼が帰った後もしばらく動けなかった。狐につままれたように、元ブロンズ像だった者と、黙って見つめ合っていた。

 しばらくすると、これは幸運が来たのだと思うことにした。きっと、神がわたしたちに与えたもうた、もう一つの奇跡だと。そうでなければ、恐怖で足がすくむ。
 時計を見ると、もう少しで昼だ。私は、無理に元気を出して、自らをこぶした。
「よし、それじゃ一緒に昼飯を作ろうか!」
「はい、よろしくお願いします!」
 彼女も、私と同じように元気を出して、エプロンを身につけ、調理に取り掛かった。

 食材は、朝から解凍しておいたサンマだ。
 まず、フライパンに薄めにサラダ油を引き、あらかじめ頭と内臓を取っておいたサンマを中火でいためる。そのあいだに、大根の皮をむいてすり下ろす。そしてフライパンのサンマが焼けたら皿に移し、大根オロシを添えてしょう油をかける。
「どう、簡単だろ?」
「ええ、思ったよりも」
 彼女はシンケンなまなざしで続けて調理をした。しかし、焼き加減がわからないのか、片面が黒くこげてしまった。
 ――彼女が焼き過ぎたサンマは私がいただこう。でも筋はよい。この分だったら結婚しても大丈夫だろう。

「いただきます」
「いただきます」
 初めてのハシだ。それでも、私の使い方をマネして、なんとか使えるようになった。
 彼女は、まずみそ汁を一口飲み、さっそくサンマにかぶりつき満面の笑みを作った。
「おいしい!」
「それはよかった……」
 私は、焼き過ぎたサンマを食べて複雑な笑顔でそう言った。ニガイ……。
「人間になれてよかった。毎日こんなにおいしいものが食べられるなんて幸せです」
 言ってるあいだもハシが止まらない。私はそれを、あっけに取られて見てた。
「……明日の晩ごはんは、もっとおいしいものを出すから、期待しておいて」
「はい!」
 彼女はわきめも振らずに、サンマを二匹もペロリとたいらげた。
「ごちそうさまでした」
 そう言って、満足したようにお腹をなでた。

 私は、彼女にたくさんのおいしいものを食べてもらいたかった。そう、この三十九年もの間彼女が味わえなかったものを。きっと彼女は知らないだろう。世の中にはたくさんの食材があって、それを調理することで匂いとうま味が増すことを。それを私は教えたかった。
 ほかの人は、それじゃレストランで食事をとればいい、と言うだろう。だが私は、自分でできる範囲で、素材の味をできるだけ生かして、さまざまな料理を食べてもらいたかった。
 食べること。それは生きること、そして自分の人生を豊かにするものだと、私は思う。

 昼食も終わりふたりでテレビを見てくつろいでいると、ふと彼女がテレビのテロップが読めるかが気になった。
「ところで、君は文字は読めるの?」
「あまり読めません。ぜひ、教えてください」
「わかった。さっそく国語の教科書を買いに行こうか」
「ありがとうございます。やっぱり、人ができることは全部できないと、いい気はしませんものね」
 ――おや、負けず嫌いなところがある。でも、向上心ととらえると、これもまた、うれしいことだ。
 私たちは、仲良く手をつないで国語の教科書を買いに出かけた。周りの景色が昨日と違う。色あせた古い看板も、鮮やかな原色をまとったように見える。こんなに気分で変わるものだと、はじめて知って、少し戸惑っている。

 歩いて十分ほどの小さな本屋のトビラを開けた。すると、彼女は目を輝かせ並べてある書籍を手に取った。
「どうだい。ここは小さな本屋だけど、教科書も置いてあるんだ。さあ、こっちだよ」
 国語の教科書をひとそろえしてレジに向かう途中、ファッション雑誌が彼女の目に止まった。食い入るように見てる。私はそれも買い物カゴに入れた。
 レジを終えお店を出ると、彼女はうれしそうに
「ありがとうございます」
 と言って頭を下げた。
「どういたしまして、お嬢様」
 私はおどけてそう言うと、彼女とまた手をつないで横断歩道を渡った。

 私はうれしかった。彼女が普通の人間になろうと努力をするのが。彼女は、これからたくさんのことを学んで、たくさんの喜びを知って、たくさんの感動を知るだろう。
 しかし、世の中には苦しみや悲しみ、それに人にだまされることもあるだろう。人はそれを避けては生きられない。それが人間の宿命なのだ。
 きっと彼女は人間になって喜んだろう。だが、それが間違いだったと思う日が来ないことを、私は祈るだけしかできない。私は神じゃなくて、ただの人間だから。

 家に帰ると、彼女はうれしそうに教科書を袋から出した。しかし、かな文字が読めないで困っている。私は、彼女に『あいうえお』から読んで聞かせた。それからはひとり集中して勉強をした。
 晩ごはんの支度の時間になったが、彼女はそれに気づかずに勉強を続けていたので、私がひとりで晩ごはんを作った。

「ごめんなさいね。気がつかなくって」
 彼女は、夕飯の支度を手伝うのを忘れたことに、眉を下げて落ち込んでいる。
「いいんだよ。君は勉強に集中してたからね。僕は、むしろうれしいんだよ。君がどんどん知識を吸収して普通の女性らしくなるのが」
 そう言うと、彼女はようやく笑顔になりハシを取った。
 その晩、彼女は寝るまで集中して勉強を続けた。

 この分だと、すぐに読み書きができるようになるだろう。そうしたら、彼女に私のお気に入りの小説を読んでもらおう。楽しい話ばかりの。


 翌朝、彼女は生きいきとしていた。新しく入って来た知識に頭が刺激されて、ベールが一枚はぎ取られた気分なのだろう。私は、彼女がさらに美しくなったように見えた。
 私たちは、ふたりで朝食の準備をして楽しくいただいた。

 家を出る際、空を見上げると、気になっていた天候は冬の釧路にはめずらしく晴れだった。私たちは、朝から四輪駆動のステーションワゴンに乗り込み、前日に電話をした一太郎おじさんの家をめざした。

 一太郎おじさんは私の唯一の親戚、亡くなった母の弟だ。歳は四十一でバツ一の独身。めずらしい話が大好きで、他人の言葉なんて気にしない、そしてなによりも口が堅いナイス・ガイだ。
 母の両親は、釧路に隣接する厚岸郡浜中町でカキの養殖を営んでいたが、不慮の交通事故で死んでしまう。おじさんは、あとを継いで頑張っていたと聞く。
 そんな中、私が大学に入ったときは、援助を申し出てくれた。母は貰う訳にはいかないと言って丁重(ていちょう)に断ってしまったが、それ以来おじさんと私は交流を持っている。
 二〇一一年の東日本大震災のときには、カキの養殖はかなり被害をこうむったらしいが、今は復興して以前のように海のミルクを量産している。きっと今日も、ごちそうしてくれるに違いない。思い出して生唾を飲み込むのだった。

 安全運転で一太郎おじさんの家に向かう長い道中、はたと気づいた。まだ、彼女の名前と年齢を決めていなかったことに。出生届を頼みに行くのに名前も決めていないなんて、とんだ間抜けだ。
「すまない。君の名前と、何歳にするか、まだ決めていなかった。どうする?」
 彼女は、少しだけ考えて言った。
「名前は、そのまま『春』で、二十歳じゃだめですか?」
「『新井春』ね。うーーん、ちょっと響きが悪いけど、『春』が気に入っていたらいいんじゃないかな。僕もその方がしっくりくる。歳も、そのくらいだろう。誕生日は、十二月二十五日でいいね?」
「はい!」
 やはり彼女は『春』が似合う。亡くなった母も、この名前はきっと気に入ってくれるだろう。年明けに一度、母の墓へふたりで報告に行こう、そう思った。

 家を出発してからおよそ一時間、一太郎おじさんの家に着いた。一太郎おじさんは冬のあいだも養殖の仕事で忙しいのだが、今日は私のために時間をさいて待っていてくれるはず。
 私は、春と一緒になって深呼吸したあと、チャイムを鳴らした。
「こんにちはー。幸彦でーす」
 ドタドタと足を鳴らし、一太郎おじさんが玄関へやって来た。
「いやー、よく来たねー。待ってたよ」
「どうも、おひさしぶりです。一太郎おじさん」
「で、その子が幸彦の彼女? かわいいねー、名前は?」
「春です。どうぞよろしく」
「そう、春か。いい名前だね。あははは」
 春はハニカミながらあいさつをして、一太郎おじさんは上機嫌に笑った。
「一太郎おじさんも元気そうでなによりです。これ、つまらないものですが」
 私はそう言って、むき出しの名酒『ご機嫌酒』を差し出した。
「いやーすまないねえ。高かっただろう? 大事に飲むよ。ありがとう」

 一太郎おじさんは、お茶を入れる春を温かい目で見てる。どうやら、第一印象はよかったらしい。私、新井幸彦はさっそく本題へ入ることにした。
「一太郎おじさん、実はこの子のことで、お願いがあるんです」

 一太郎おじさんは、私の話を最後まで黙って聞いた。そして、春に近づき四方から食い入るように見ている。
「うーん、どこから見ても人間だ」
 私は春の後ろ髪を手でまとめて、あのブロンズ像だったときのポーズをとらせた。
「おおー! これは、まさしく新聞に載ってた春像だ! 間違いない!」
 一太郎おじさんは、驚きと興奮をないまぜにして春に握手を求めた。春はちょっと照れている。

 しばらくして、ようやく一太郎おじさんが落ち着きを取りもどし、ソファーに腰かけた。
「それで、この子の戸籍を手に入れるには、俺がこの子の親の振りをして、出生届を出していなかったがようやく改心して出す、ってことにするのが一番安全な方法なんだな?」
 一太郎おじさんは、少しのあいだ下を向いて考えていたが、すぐに答えを出した。
「うん、いいだろう。それでお嬢ちゃんが救われるなら。俺の経歴に傷がついたって、それは小さいことだ。よし、唯一の親戚の頼みだ。任せろ」
 そう言って、一太郎おじさんは承知してくれた。
「ありがとうございます」
 私と春は、おじさんに深く感謝した。春は、人間の温かみがわかって感動しているようだった。
 ――そう、人間っていいもんだよ。

 春にはもっと、人間の心の温かさや、感動を知ってもらいたかった。それに、もしも私が不慮の事故などで死んだら、一太郎おじさんを頼って欲しいと思った。そのためにも、一太郎おじさんにすべてを打ち明けることを決心したのだから。それだけ信頼している人だった。

 無事、話もまとまって昼になった。私たちは、一太郎おじさんの出してくれたカキをおいしくいただいた。
 そのあと、他愛もないことをみんなで話し笑い合い、再度出生届をお願いして、一太郎おじさんの家をあとにした。

 帰りの車の中、私は一太郎おじさんがドロをかぶってくれることに感激していた。
「それにしても、一太郎おじさんはすごい人だな。僕だったら、躊躇(ちゅうちょ)してしまうのに。やっぱり、底抜けに心の広い人だな」
「うん、一太郎おじさんって本当にいい人よねー。なぜ、おじさんにお嫁さんがいないのか不思議だわ。ねえ、誰か紹介してあげて、お願い」
「ふふふ、実は密かに計画しているんだ。一太郎おじさんの嫁獲得作戦」

 私は、同僚である三十五歳の古文の高校教師の女史に、それとはなしに話してきた。一太郎おじさんのことは、とても好奇心旺盛で、それでいて温かみがある男だと。その話に怪奇現象好きの女史が飛びつかない訳はない。きっといい縁になるだろう。

 春はニコニコして言った。
「やっぱり、あなたは優しい人だわ。わたしの目が確かだってことを証明してくれる」

 私は、春の期待を裏切らない人間であろうと思った。誠実で、優しく、いつも温かくつつんであげられること。どれだけ自分がそれに近づけるかはわからないが、春も人間になることに努力している様に、私も努力をしなくてはならない。そう思った。

「戸籍は手に入るし、これで安心して結婚できるね、わたしたち」
 春の目が、いつのまにか夢見る少女のようになっている。
 ――戸籍のことは一太郎おじさんに頼んだし、婚約指輪がないけど仕方がない。今プロポーズをしよう。ああ、緊張する。
 私は、車をパーキングエリアに止めた。
「春」
「はい、幸彦さん」
 春は、私の緊張した声に、なにかを感じ取ったようだ。
「僕と、け、結婚してください!」
「はい、喜んで!」
 春は、涙をにじませて感激している。

 こんな短い期間で結婚を決めるなんて、と人は言うだろう。しかし、彼女がブロンズ像だったころから数えると、もう四年もお互いを見つめ合ってきたことになる。だから、短いということはない。
 それに、私には強い味方がついている。それは、神だ。私はクリスチャンではないが神の存在だけは信じよう。だって、その証拠が、今、私の手の中にあるのだから。

 長い抱擁(ほうよう)のあと、再び車を走らせた。

 帰り道、思わぬ求婚をしてしまってだいぶ遅れたが、一太郎おじさんに、さよならをして二時間後、ようやく家にたどり着いた。
 私はソファーにくつろいでテレビを点けたが、春はコーヒーを入れてくれて、国語の教科書をひらいて勉強を始めた。春がうるさいだろうと思い、私はテレビを消しておとなしくインターネットを始めた。
 そう言えば、学校で作成中の彫刻、あれを家でやりたかったがスペースがなくて断念していた。春と結婚する訳だし、この際もっと広い所へ引っ越したいと思い、物件を探し始めた。
 インターネットでアパートを探していると、宅配便が届いた。私は、お金を払って荷物を受け取る。予定どおりだ。晩ごはんの準備を始めよう。
 今日のメニューはパスタ。私は、鍋にお湯を沸かすところから教え始めた。

 調理が始まって三十分。ようやく根室産の花咲ガニのクリームパスタの完成だ。花咲ガニは、先週急に食べたくなって冷凍物を注文したのだ。それと、トマトとレタスのサラダもおいしそうだ。
 私たちは、仲良くいただきますと言った。
「どうだい、味は?」
「ぱく、もぐもぐもぐもぐ、ん! ごっくん。カニさんが本当においしいですー!」
 春は、目を丸くして言った。しかし、すぐに声を落として。
「でも、おいしすぎます……。人間って欲張りですね」
「そうだね。花咲ガニは特別おいしいからね。それにしても、その『人間って』言うのはもう止めようよ。春も人間になったんだから」
「すみません、ついクセが出てしまって。もう言うのを止めます」
「しかし、春はもう立派な人間なんだなー。この前までブロンズ像だったのに」
「そうです。わたしは人間です。だから、あなたと愛し合える。……幸せです。ありがとうございます」
 春は、満足そうに微笑んだ。
「こちらこそ。春が来てからこの家は明るくなったよ。そして、一番幸せなのは僕だ。こんな、誠実で、賢く、品があって、そしてエッチな春は、僕の理想の人だ」
「あっ! この前よりも一つ増えている! もう!」
「あはははは」

 ひとしきり笑ったあとで、春がなぜ二十歳だと思ったのか、気になった。あの時は、名前と年齢を決めることに焦っていたから、気にならなかったのかも知れない。
「そいえば、どうして二十歳と思ったんだい?」
「それは、写真に二十歳と書いてありました」
 ――そうか! やはり彼は恋人を思って像をつくったのかも知れない。
「……その写真に、ほかになにか書いてなかった?」
「そう言えば、その数字の横に漢字が書いてありました。なんと読むんですか?」
 春は、エンピツを引っ張り出し、紙に『没』と書いた。
「……この文字は、死んだことを意味する」
 ――しまった! 私は、なぜこんなことを言ってしまったんだ!
「ええっ!」
 ――ああ、春はあのことに気づいたかも知れない。
 私の背筋は冷たくなった。

 春は、ぽつりぽつりと話し始めた。
「それじゃ……、わたしは舟越保武さんの亡くなった恋人を彫った像だったんですね」
 そして長い沈黙のあと、
「もしかしたら……、わたしはその人の……生まれ変わりかも知れない」
 ――ああ、春はとうとう気づいてしまった。春が舟越氏の亡くなった恋人から転生したかも知れないと言うことを。
 その重い空気を振り払うように、私は強い口調で言った。
「そうだとして、春になにができる? まさか、舟越保武氏に会いに行くとでも言うのかい? 舟越氏は二〇〇二年に亡くなっているんだ!」
「舟越さんのこと、調べたんですね」
「それは、春が人間になるずっと以前に調べたんだ!」
「そうですか……」

 まずい。春は舟越氏の墓に行くつもりだ。なにが起こるかわからない。問題は、前世の記憶がもどってしまう恐れだ。自分を舟越氏の亡くなった恋人の生まれ代わりかも知れないと知った今、それはあり得る。

 私は、胸騒ぎがして、春を止めた。
「舟越氏の墓に行っちゃダメだからね。場所もわからないし。とにかく、反対だ!」
 私は、きつくそう言って、まだ食べかけのパスタをゴミ箱にすてた。食欲なんてもうない。

 前世の記憶、それは舟越氏と愛し合ったころの記憶。私はその記憶を取りもどした春を愛せるか、不安だった。
 いや、違う。春がもう私を愛せなくなることが不安なんだ。そして、春が私の前から消えてしまいそうで不安なんだ。

 私は、にがいツバを飲み込んだ。
 その晩、私は春を抱いた。舟越氏の記憶を断ち切るように、激しく精いっぱい強く抱いた。


 翌朝、目覚めると春はもういなかった。
 テーブルの上には、私の財布と一枚の紙切れが。そこには、きれいな文字で『お借りします 春』と書かれてあった。
 ――きれいな文字に漢字……。
 たぶん、彼女は前世の記憶がもどってしまったのだろう。そして、舟越氏の墓に会いに行ったのだろう。

 私は舟越氏の墓の場所を調べることもせずに、春の帰りを絶望的な気持ちで待った。なにをしていても、春のことが頭から離れない。お気に入りの映画を見ていてもだ。
 ふと、テーブルの上に年配の警察官が置いて行った名刺が目に入った。彼に電話をしようとスマートフォンを手に取ったが、すぐにやめた。彼は春の見方であって、決して私の見方でないことが、少し考えたらわかったから。やはり、春の気持ちが私たちの運命を決めるのだと思った。それは、あまりにも私に分がないこと。もはや、神さえも敵に思えた。
 それでも、指は勝手に電話をかけていた。誰かと話さなければ、気が変になりそうで。
「もしもし」
「新井幸彦さんですよね? よくかけてくれましたね」
「……」
「それで、用件はなんでしょうか?」
「はあ、……。実は、春がいなくなって」
 ことのあらましを、年配の警察官に話していた。そして、春を探してくれないかと、泣きながらに訴えていた。
「大丈夫ですよ。きっと戻ってきます。あなたは、そこで待っていてください。神は、それほど無慈悲ではありませんから」
 その言葉に安心してスマートフォンをおいた。そうだ、春はきっと帰ってくる。私は、春の帰りをただ待っているだけでいいんだ。少し落ち着いてコーヒーをいれた。

 今日一日、春は帰って来なかった。ひとりになって、あらためて孤独がこんなにつらいものだと知った。ムダになった国語の教科書の表紙が、むなしく光っていた。

 その夜、私は布団に横になったが、眠れずに今までのことを思い起こしていた。
 私は、旭川で生まれた。小学校に上がる前の遊びは、なぜか絵を描くことだった。ひとりでクレヨンを握りしめて、暇さえあれば風景画や人物画を描いていた。それを寂しいと思うことはなかった。
 あれは、私が小学校に上がったときだった。自分には、なぜ父親がいないのだろうと思った。友だちは、みんないるのに。そのことを母に言うと、悲しそうに言った。お父さんは、星になっちゃったのよと。その意味を、私は数年後に知る。そして、母の苦労を知った。けれど、母は気にしないで好きなことをしなさいと言う。その言葉に甘えて、絵ばかり描き続けていた。
 中学三年のとき、私の絵が小さな展示会で賞を取った。母は喜んで、私の父という人の墓に報告に行った。私の父は、若くして亡くなった才能ある画家だった。その人の画集を見せてもらうと、私の絵が陳腐なものに思えて呆然とした。しかし、創作意欲はあとからあとから湧いてきて、筆を折ることはできなかった。
 札幌の美大を凡庸な成績で出ると、母の母校釧路江南高校へ就職した。母を亡くし、絵で食べることをあきらめてのことだった。寒々とした心境で釧路の町をさまよっていると、出会ってしまった。美しいブロンズ像、春に。彼女を心のかてに、私は生かされてきた。
 そのブロンズ像が、人間になって私の前に現れた。最初は、驚いたが、嬉しかったのも事実だ。春の生きることの手助けをして、私の身体に血液が流れていくのがわかった。そして、春と愛し合って一緒に生きる決心をした。なにもかもが、ふたりを祝福しているように思えた。
 だが、その矢先、自らの失言で彼女の前世の記憶を呼び覚ましてしまう。春は、遠い記憶をたどって前世の恋人、舟越安武氏の墓に会いに行った。そして、きっと会えただろう。
 春は、舟越安武氏とどんな話をするだろう。前世の思い出話か、それとも人間になったときの話か。いずれにせよ、春と舟越安武氏には未来はない。あるのは、純然たる死だ。
 だが、そんな春に選択をさせるのは、舟越安武氏だろう。彼は、きっと春に生きる道を示してくれるだろう。そう信じるしかないのだ。
 私は、はじめて天に向かって手を合わせた。まるで、クリスチャンのように。


 春が出て行ってから二日目。帰って来た! 春が帰って来た!
 時計を見ると、夜の十時。
 私はなにも聞かずに、ただ熱いコーヒーを入れた。春はグレーのダッフルコートを脱ぐと、コーヒーカップを両手で持って、ゆっくりと飲み干した。そして、私の前に座って話し始めた。

「ごめんなさい。二日も留守にして。
 あれから記憶をたどって舟越さんの家に行ったの。ええ、きっと生まれる前の記憶がもどったのね。
 舟越さんの家はもう取り壊しになっていて、新しい家に違う表札がかかっていたわ。
 それでわたしは兄をたずねて行ってみたの。兄は今年九十四歳でまだ健在だったわ。わたしが『兄さん』と言うと、兄は怪訝な顔をしたけれど、すぐにわたしが生まれ変わったと気づいてくれて、よかった、よかったと言ってくれたわ。
 近況を報告し合ったあとで、舟越さんのことを聞くと、墓は横浜の港の見える丘公園にあって、翌日訪ねてみるときれいに手入れされてた。きっと、ご子息がやってくれたのね。

 わたしは今日一日、舟越さんと話をしたの。
 ごめんね、今までひとりにして。これからは、あなたのそばにいますって言ったの。そう、舟越さんともう一度会うために……。
 そして日も暮れようとしたとき、ひとりの老紳士がわたしに話しかけてきたの。
『春さんですか?』って。わたしが『……ええ、そうですが?』と答えると、老紳士はとてもうれしそうに微笑んで言ったの。
『僕は舟越保武の息子です。あなたのお兄さんから電話をいただいて』って。
 そして、静かにこの手紙をわたしに渡しました。とても短い手紙です。
 手紙を開くと、そこには彼、舟越保武さんの名が書かれてありました」

『すまない。僕はもう行くよ。君は新しい出会いをしてくれ。
 我が春。君の幸せを祈っている。
 舟越保武』

 その手紙を私に見せて、春は涙を流した。

 こんなことがあるのか?
 舟越氏は知っていたんだ。ブロンズ像に亡き恋人の魂が宿ったことを。
 そして、ずっと君、ブロンズ像『春』が人間になる日を待っていたんだ。
 しかし、月日は過ぎ、自らの命が尽きようとしたとき、舟越氏はメッセージを残した。
『君の幸せを祈っている』

 こんな深い愛があるのだろうか?
 私は絶句した。と同時に、できすぎた物語のようで、少し微笑んだ。
 奇跡? そうかも知れない。でも、それを起こしたのは人間の深い愛だ。

 そして、この場を借りて言いたい。

 舟越保武氏へ
 春を返してくれて、ありがとうございます。

 舟越氏に深く感謝して、私は春に歩みより抱きしめた。春が泣き止むまでずっと抱きしめた。


 あの日から、私と春はまた一緒に住んでいる。なにごとも、なかったように。
 それから、一太郎おじさんはしっかり役目を果たし、春は無事戸籍を手に入れた。これで私たちの結婚がとどこおりなくできる。
 そして、一太郎おじさんは三十五歳の高校教師の女史とめでたく結婚した。これで、少しは恩返しできたかも知れない。

 後日、私と春の結婚式は札幌の羊ケ丘公園で行った。式には、一太郎おじさん夫婦と、年配の警察官を呼んだ。年配の警察官は呼ばれたことにえらく喜んでいた。もしも、真逆の警察官にめぐり合っていたら、今の私たちはないような気がして。そして、なによりも心強い味方なのだから。
 幸せの鐘と共に、やっぱり奇跡が起こりたくさんのハトが飛んで来て、私たちは神に祝福された。
 そして今、春のお腹には子供が宿っている。生まれるのは、まだだいぶ先だが、私は女の子が欲しいと言い、春は男の子が欲しいと言う。でも、どちらでも元気な子さえ生まれたなら、私は満足だ。

 最後に。
 私は、像は二度とつくらない。奇跡は、もう充分だから……。


(終わり)

20160103-私の愛したブロンズ像

20160103-私の愛したブロンズ像

76枚。修正20220312。北海道釧路市の幣舞橋(ぬさまいばし)のブロンズ像、春。彼女が人間になって美術教師と愛し合う物語。

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-03-13

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