平穏を求めて
生きることに疲れた私の人生を淡々と綴って行こうと思います。
イジメや風俗や不倫などの話しが出てきます。
閲覧は自己責任でお願い申し上げます。
出生〜小学生まで
私が産まれる頃には母は神奈川県の小さなアパートに移り住んでいた。
そこで私を産み、私は小学生まで神奈川県で過ごすことになる。
私は未熟児で誕生した。
1月の寒い中、一ヶ月もの間ただでさえ初めての出産で疲弊していたのにも関わらず、授乳の為に毎日時には日に何度も病院に通いつめたのは身体の弱い母にはとても大変なことだったと言っていた。
その時に母は重度の喘息を患っていて、現在も数年に1度程度のスパンで救急車で運ばれている。
父は数ヶ月に1度来ては母に生活費を渡し、数日間泊まるという生活をしていた。
喋り始めるまでは父は私を疎む事もあったようだが、私の記憶にある父は私を溺愛してくれていたように思う。
前述した通り、父には本妻との間に2人の子供が居るが、2人の子供は結婚をして居らず子供も居ない。父が40代後半に産まれた私は、父にとっては孫のような存在だったのではないかと考えている。
私は何不自由なく幼稚園を卒業し、小学校へ入学した。運動は少し苦手だったが、成績はまずまず、明るく元気なことが取り柄な…何処にでもいる普通の女の子だった。敢えて言うのであれば、少々協調性に欠けると担任の先生から時々コメントを書かれる程度だったように思う。
小学校2年生に上がり、私は運命の出会いを果たした。
母の母国の友人を通じて、現在も私の心の支えとなっている親友と出会った。後述するが、私は彼女が居なければとっくに自分で命を絶っているか、精神的にまともではない状態だったのではないだろうかと思う。最早家族に近いような存在であり、彼女の前では気負わずに自分が自分で居られる…唯一無二の存在だ。私は彼女に言葉にしようとすると、涙がとめどなく流れて、嗚咽で伝えられない程度には感謝しても仕切れないほど感謝している。私の人生において、彼女の存在なしには語れない。
今後のストーリーにおいて、重要な登場人物である親友の紹介はこれくらいにして、話しを戻そう。
私は明るく元気な女の子である事に間違いはないが、面倒くさがり屋で小心者である。争い事においては点で弱いのに、口は災いの元…お喋りが過ぎることが多々あり、人間関係を悪くしてしまうことがあった。
しかし私には親友という最大の理解者が居て、何より興味のない相手に近付く事ほど面倒でトラブルになりかねないから嫌だという保身からか、問題提起すら殆どした事がなかったのではないかと思う。
学校生活において学業以外での大切な学びの場で私はその力を養うことをせずに来てしまったのだと今は考える。そしてそれに気付いていた先生の協調性がないという評価だったのだろう。
私は時々人間関係を拗らせていた為にイジメの対象になった事があったりなかったりもしたが…
持ち前のお気楽さからか、性格も曲がらず、特に大きな問題にもせず、無事に小学校を卒業した。
父の仕事の関係で私は小学校卒業と同時に埼玉県へ移住する事になった。
生前
まずは私の両親のことを話そうと思う。
私の母は日本人ではない。
母は8人兄妹の上から2番目、長女として誕生した。
とても貧しい家で育ち、小学生の頃から奉公に出向いて家計を支えていたという苦労人のようだ。
母は10代後半に日本に出稼ぎにきて水商売を始めた。
父曰く、母は大層綺麗な人だったそう。
街を歩けば通り過ぎる人は男女構わず振り返るほどだったと幼い頃の私によく父は自慢気に話していた。
母は19歳で水商売を始め、20代中頃には東京で自分のお店を持ち、贅沢な暮らしができるほど水商売で成功した。
そんな母には当時彼氏が3人いた。
皆穏やかで優しく、何かしらの事業で成功している立派な人ばかりだったと母は話していた。
母はとても気が強く、少しでも気に入らないことがあるとすぐに癇癪を起こしては彼氏たちを困らせていたらしい。
そんな母を最後まで根気よく宥め、甘やかしてくれたのが後の私の父親だ。
父は北海道の出身で、7人兄妹の末っ子として誕生した。
あまり多くは父から聞いていないので詳細は分からないが、20代前半に東京に出てきてお金を貯めて事業を始めたと言っていた。
父は北海道から出てきたときに父を追いかけてきた女性と結婚し、2人の子供がいる。
つまり私には義母兄妹が2人いるらしい。
父と母との出会いはそれよりずっとずっと後の話しで、母は30代手前、父は40代前後の時に母の店で出会った。
父と母は16歳の年の差がある。
その年の差があったからこそ母のジャジャ馬に付き合ってあげるだけの余裕があったのではないかと私は思っている。
因みに私の両親は籍を入れていないし、父は離婚もしていなければ私のことを認知してもいない。
しかし私は私生児ではなく、戸籍にはちゃんと父の名前がある。
このカラクリは、母のことをずっと好きでいてくれていたお客さんが、母と私を思って名前を貸してくれたからである。
お陰で私は私生児として色々言われる羽目にもならず、母も修羅場を起こさずに私を産み、日本での永住権を手に入れることができ、今尚日本で生活することができている。
私は会ったことも話しをしたこともないが、戸籍上の父にはとてつもない恩があるのだと感じている。
少し脱線したが、つまり私の出生は不倫の末に誕生した子…妾腹の子供である。
平穏を求めて