In A Senseless Box 無分別な箱の中で 十年目の葬送 中編

熊辺

十年目の葬送 中編


 極力交差点を避けて高崎の家に辿り着いた紫苑は、遅く帰ってくるであろう高崎の分の夕食を拵えると、早々に食事と風呂を済ませて自室に転がり込んだ。高崎の家にはもう一人、紫苑の双子の兄が住んでいるが、帰り道で考えた通り、やはり家にはいなかった。悪いことをしていないと良いのだけれど。
紫苑が嘆息してベッドに身体を投げ出すや否や、手に握り込んでいた携帯電話がメールの着信を告げる。親指を引っ掛ける様にして折りたたみ式の携帯を開くと、受信箱から最新のメールを選んで開封する。高崎からの、急患があるので帰りが遅くなるという旨の連絡があった。
紫苑はため息をひとつつき、枕もとに置いてある充電器に携帯電話を安置する。そしてベッドに大の字に寝そべったまま天井を見つめ、マットレスに深く身を沈める。
結局、学校に最後まで居る事が出来なかった。せっかく渋る高崎に頼みこんで復帰を早めてもらったというのに、精神的な不調で早退などと、紫苑には酷く軟弱な事に思えた。心配そうな表情を浮かべて自分を囲む級友たちを思うと、罪悪感に溺れそうになる。誰かが気絶した自分を運び、吐瀉物の処理をしてくれたのは確かなのだ。友人のうちの誰かかもしれないし、教員かもしれない。
明日学校に行ったら謝らないと。昨日の今日では顔を出しづらいとも思ったが、逃げるわけにはいかないと、紫苑は顔を険しくする。
逃げ続けるわけにはいかないのは、事故の記憶もだった。交差点を思い出すたびに倒れていたのでは埒があかないし、なにより雪に申し訳がない。
展望のない未来についてつらつらと考えていると、前頭葉が重く鈍るような感覚に襲われた。天井を睨みつけていた紫苑の瞳は瞼に隠れはじめ、少しずつ意識が眠気に吸われていく。やらなければいけない事も起きていたい理由もたくさん思いついたが、すべて放り投げて、紫苑はそのまま眠りに落ちた。

 車のエンジンの音で、紫苑は目を覚ました。ガレージのシャッターが開く音がして、暗がりの窓が赤く光る。同じような音が響くと、しばらく経ってから玄関扉の開く音がして、ぼんやりとしていた紫苑の意識はようやく清明さを取り戻す。高崎が帰ってきたのだ。
ベッドサイドのデジタル時計の表示は、十時三十三分。案外早く帰ってきたなと考えながら、紫苑は携帯電話をズボンのポケットに入れて、高崎を出迎えに階下に降りた。
 紫苑が階段の影から顔を覗かせると、高崎は上がり框に腰かけて靴を脱いでいるところだった。高い背を丸める姿はいつもながら窮屈そうだと考えながら、おかえりなさい、と声をかけた。ただいま、と振り返る高崎の微笑みは憔悴し切っていた。

「どうしたの、ケンさん」
「ちょっとね、大変だっただけだよ」

 驚愕の声を上げる紫苑に、高崎は曖昧に笑ってみせる。眉を下げるその様子から、相当な症状の患者が来ていたのかもしれないと考え、高崎の脱いだ上着を受け取る。高崎は礼を言いながら廊下にあがり、リビングのソファに鞄を置くと、キッチンに立ち、手鍋を持った。

「晩ご飯は食べたのかい?」
「はい。ついでにケンさんの分も作って、冷蔵庫に入れてあります。チンして食べてください。ラーメンはなしですよ」

 ジロリ、睨めつける紫苑に、インスタントラーメンを手に取った高崎は苦笑して感謝を述べる。紫苑は、相変わらずよく笑う人だと眉を顰める。(どんな感情も笑みに含めてしまうのは高崎の悪い癖であると、紫苑は思っている)。
高崎が冷蔵庫から取り出したおかずを電子レンジに入れて温めている間に、紫苑は茶碗と湯呑を用意し、湯を沸かす。そうしている間に電子レンジは軽快な音をたて、料理が温まったことを知らせる。少々温めすぎたのか、高崎が熱い熱いと皿をテーブルに運んでくるのを見て、紫苑はつい吹き出した。
紫苑が茶碗に米飯をよそってテーブルに置いている間に、高崎はようやく蒸気に耐えながらラップを剥がすことに成功したらしく、軽く手を振って指先を冷ましながら食卓に着いた。
高崎がいただきますと食事を始めると、ちょうどよく湯が沸いたので、紫苑はほうじ茶を淹れて高崎と自分のマグカップに注ぐ。胃に優しくリラックス効果も期待できる飲み物を選ぶ紫苑の優しさに、高崎は今度こそ、嬉しそうに笑った。
 紫苑は美味そうに食事をとる高崎の向かいの椅子に腰掛け、マグカップに口を付ける。明日からの登校について、高崎に意見をもらいたかった。大人である高崎ならば、自分になにか一つでも、謝る方法を提示してくれるかもしれないと思った。だが自分自身話したい事もまとまっていないし、相手のタイミングも重要だと考え、高崎の食事が終わるまで、紫苑は待った。
 食事を終えた高崎は一度席を立ち、備え付けの棚からブランデーとグラスを取り出し、注ぐ。高崎が再び席に着き晩酌を始めても、紫苑は話を切り出すことができないでいた。気が急いてばかりの自分に嫌気がさしながら、もどかしい気持ちで、高崎の手の中で揺れる、とろりとした琥珀色の液体を睨み付けていると、その視線に気が付いたらしい高崎が紫苑に声をかけ、助け船を出す。

「随分と難しい顔をしているけれど、どうしたんだい?」
「いや、ちょっと」

 実際に難しい問題なのだと眉間にしわを寄せる紫苑に、高崎は首を傾げる。相談してみようと思ったものの、謝り方や礼の言い方で悩んでいるなんて、とてもじゃないが紫苑には言い出し辛かった。それでも、勘付かれたからには言わないわけにはいくまいと、まず当たり障りのない話題を選ぶことにする。

「その、今日は仕事、思ってたより早く終わりましたね」

 高崎と目線を逸らしたまま、紫苑の口を突いて出たのは、高崎の憂鬱を増幅させるものだった。再び高崎の表情が曇るのを見て、紫苑は高崎が帰宅した時の様子を思い出した。話題選びに失敗して狼狽する紫苑の様子に、高崎は苦笑し、ブランデーで舌を湿らせてから口を開いた。

「少しだけね、大変だったんだよ。守秘義務があるからあまり言えないけれど、いつまで経っても、医者は力不足なんだねえ」

 沈んだ声で告げる高崎に、紫苑は首をすくめた。誰かが亡くなったのだと、少ない言葉でも十分に伝わった。応援医であるとはいえ、外科医である高崎が早く帰ってきたということは、外科的な疾患ではなかったか、あるいは処置をする間もなく死んだのか、どちらかだと紫苑は思った。紫苑が俯いたのを見た高崎がまた苦笑をこぼす。
言いたい事をこらえるような表情を見せた紫苑に、こんな時間まで起きているなんて、何か言いたいことがあったんだろうと、呼び水を打つ。
言うべきか呑み込むべきか。迷ったが、結局紫苑は悩みを口にした。

「明日からの、学校の事なんだけど」
「ああ、それなら大丈夫だよ。大事を取って三日ほど休むと連絡をいれてある」

 高崎の言葉に、紫苑は耳を疑った。二度三度、自分を見る紫苑に、高崎は首を傾げた。

「学校に行ったらいけないの?」
「まさか、行くつもりだったのかい?」

 高崎は厳しい面持ちで紫苑を見据える。高崎の珍しい表情に紫苑の心はしぼみそうになるが、堪えて高崎を睨みつけた。

「怪我も治ったし、体調も良くなったんだから、学校に行かないと」
「昼間倒れたばかりなのに、何を言っているんだ。君が健康かどうかを決めるのは君ではなく医者だ。それに、さっきも言ったろう?心の怪我は治りきっていないのだから、療養するべきだよ」

 心の怪我。夕方に聞いたばかりの単語がやけに胸に刺さり、紫苑はなおも高崎を睨み続ける。
子ども扱いされているのだと思った。身体が健康なのに学校に行かないのはおかしいとも。
紫苑は椅子をはね飛ばすような勢いで立ち上がり、そのまま玄関へと駆けだした。紫苑君、と追いすがる高崎の声の余韻を鼓膜に残しながら、紫苑は深夜の街に飛び出した。


飲食店の灯りが落ちた大通りは、等間隔に設置された街灯に頼りなく照らされている。昼間の喧騒が嘘のように静まり返った街を、紫苑はひた走る。衝動のままに飛び出したのはいいが、どこに行くのか、目的地すら定まらない。ただ、足を止めれば高崎に追いつかれるような気がして、とにかく家から遠ざかろうとした。
しかし、朝と同じようにすぐに息が切れるので、あまり長くは走れなかった。
十分ほど走ったところで適当な脇道に飛び込み、徒歩に切り替えて息を整えながら暗い道を進む。
どこに行こうか。紫苑は自問する。衝動的な外出に、荷物を持ち出す暇などあるわけもなく、ポケットには携帯電話しか入っていない。ふと思い立って取り出す。マナーモードにしていたので気が付かなかったが、着信を知らせるライトがチカチカと目にうるさい。折りたたみの携帯電話を開いてみると、高崎の名が連なっており、紫苑は鼻頭に皺を寄せる。
どうしようか、紫苑はもう一度自問した。残暑も過ぎた夜の空気は冷たく、頬を撫でる夜風は沁みるようで、途方もなさに空を仰ぐ。藍色の湖には炯々と満月が昇り、蹴散らされた星々は遠慮がちに瞬いている。ポケットに携帯電話をおさめ、立ち尽くす。
紫苑は不意に、秘密基地の事を思い出した。太一や先輩と私物を持ち込んで居心地の良くなったそこは、夜を明かすのには困らないだろう。腹いっぱいに眠った後は、高崎が仕事に行った頃合いでも見計らって、荷物を整えて登校すればいい。高崎は学校に連絡を入れたと言っていたが、行ってしまえば何とでもなる。行く先の決まった紫苑は、足取り軽く秘密基地に向かった。その足跡を辿るように、影がアスファルトを這いまわる。

おおよそ人工的な灯りの一つもない細い路地を抜け、どぶ川を飛び越え、錆び付いた金網を乗り越えた先に、その建物はあった。タイル状のひび割れたコンクリートに覆われた広大な敷地内で、巨大な施設の残骸は、人の営みから打ち捨てられて幾年が過ぎたのか、灰色の外壁を苔と排気ガスの煤に汚れさせている。
この廃屋がいつからあったのか、紫苑はおろか、年嵩の先輩ですら知らない。ただ、丈夫に作られたらしく、風化する兆しを見せない建物は、年頃の少年たちとっては恰好の遊び場であった。
割れたガラス製の回転扉をすり抜け、紫苑は慣れた足取りで建物の中を進む。作りかけの建物は所々屋根の葺かれていない部分があり、そこから差し込んだ月明かりのおかげで、大した苦労もせずに障害物を避けることができるのも一因だった。
紫苑は滞りなく目的の区画に辿り着いた。建物内の他の部屋よりも格段に広いその場所は、やはり屋根の一部がなく、青白い月明かりに満ちていた。普段踏み入れる者のいないはずの廃墟の中を生活感で彩るのは、紫苑達が運び込んだ物だ。ライフラインが引かれていないので、電化製品は置けないが、銘々が好きな物を持ち寄った部屋は、放課後に少年たちが“秘密の会合”をするために整えられていた。
 部屋には個性的な雑貨や音楽情報誌、拾ってきた成人向けの雑誌が詰められた棚があり、楽器を弾く時に使おうと買ってきた譜面台や、姿見までもが置かれている。雑多な部屋の中心にはアクリルの机が一つにソファが三つ。全てこの建物の裏に不法投棄されていたものだ。
紫苑は窓に背を向けたソファに向かうと、そのまま勢いよく寝転がった。一人掛けの収納付きソファは伸び盛りの少年が身体を伸ばすには少々窮屈で、細い脚は肘かけを跨ぎ、雨風にリノリウムの剥げた床に影を落とす。
思い出したようにポケットから携帯電話を取り出すと、電源を切って机の上に置く。そして手を伸ばして机下の収納スペースから毛布を取り出すと、身体の上にかけた。
紫苑はさっそく眠ろうと目を閉じるが、今にもスプリングが飛び出しそうな程に傷んだソファは体重をかける場所を変える度に軋み、まるで抗議の声を上げるようだ。普段太一達と集まった時にひと眠りするには不都合を感じなかったので、場合によってはこんなにも寝心地が悪くなるものなのかと、紫苑は顔をしかめる。
しばらくの間、側臥位を取ったり身体を丸めてみたりと、身の置き場を探して何度も寝返りを打っていたが、どうにも眠ることができず、紫苑はソファからのそりと起き上がった。  
寝ぐせのついた髪を右手で掻き毟り、乱雑に丸めた毛布をソファの隅に追いやると、床に足を下ろしてテーブルを挟んだ向こう側に歩き始める。
屋根のある部分の壁には白い布がかけられている。紫苑は雨風よけのそれを取り払うと、立てかけてあったギターを手に取った。金色の重たいレスポールは、この建物を見付けて探検していた時に、この部屋で先輩が見つけて修理したものだ。
紫苑は、持ち出さなければ泥棒にはなるまい、と悪戯っぽく笑った顔を思い浮かべながらストラップを肩にかけると、雑貨を置いてある棚に向い、ひび割れた硝子の灰皿に入っているピックを拾い上げた。音程が狂っていないかを確かめると、指を慣れさせるために簡単なコードをいくつか弾いてみる。
どうせ眠れないのなら暇つぶしに何か弾いていようかと思い立ったのだが、静謐な廃墟に金属音はよく響き、紫苑は落ち着かなさげに首を竦める。しばらくギターのネックを握ったまま棒立ちになっていたが、やがて迷いを引きちぎるように掻き鳴らした。音響機器を通さずに出る音は屋根の切れ目から夜空に細く細く、針のように突き抜け、星の隙間に散っていく。
自分の身体がどこまでも伸びていくような感覚を覚えながら、紫苑は何かを叫びたいような衝動に駆られていた。
言葉も見付からないままに、嗚咽のように湧き出る感情を吐き出そうと口を開きかけたところで、室内に電子音が響き渡った。紫苑は肩を大きく跳ねさせて音楽を中断し、あちこち見まわして音の出所を探す。机の上で場違いに明るく鳴り続けるのは、紫苑の携帯電話だ。着信音楽に設定した気に入りのバンドの曲と虫の羽音のような振動を伴い、ランプが明滅している。電源を点けた覚えはない。
紫苑はしばらく怯えに立ち尽くしていたが、いつまでも鳴り続ける電子音に耐えられずに、ギターをスタンドに安置すると、机に足を向けた。戸惑いがちに手を伸ばし、携帯電話を取り上げて開く。液晶に浮かんでいたのは太一の名前で、紫苑は脱力して大きく息を吐いた。そのまま通話ボタンを押すと、どこか投げやりな動作で受話口を耳にあてた。
 紫苑がもしもしと決まり文句を口にするかしないかの所で、太一の怒鳴り声が耳をつんざいた。紫苑は思わず携帯電話を耳から離すが、電波越しの声はキンキンと耳に刺さり、顔を歪めた。

「うるさいな」
「うるさくもなるわ。お前、今どこで何やってるんだよ。高崎さんが心配してたぞ」

 太一の口から高崎の名前が出た事に、紫苑の口元がヘの字に曲がる。こんな時間によその家に電話したのかと、自分の行動は棚に上げて、高崎への怒りが込み上げてくる。
 太一は口うるさく、紫苑に説教まがいの事を言った。紫苑は黙って聞いていることができずに、つい声を荒げて反駁する。がらんどうに物の溢れた廃墟に少年の刺々しい言葉が響き渡り、布の切れ端が振動するかのようだ。自分は悪くない、悪いのは学校に勝手に連絡を取った高崎だという気持ちと、家を飛び出して夜遊びの真似ごとをしているという後ろめたさが、紫苑を一層頑なにさせていた。
 とうとう罵倒が紫苑の唇から飛び出そうになったところで、太一が深く溜息をついた。太一の息が送話口にかかる音が鼓膜に届き、紫苑も喋るのをやめた。太一の呼吸の背後では、間断なく何かの音が聞こえてくる。

「どうせ“スタジオ”にいるんだろ?」

 太一の指摘に、紫苑は押し黙る。太一がスタジオと称するのは、紫苑が今いる部屋だ。部室のない自分たちが周囲を気にせずに楽器を弾くことのできるこの部屋を、三人は遊び半分にそう呼んだ。
 図星を突かれた紫苑が押し黙ると、太一は(呆れかえって疲れた表情なのがありありと分かるような声色で)話を切り出した。

「そこから動くなよ。今から迎えに行くからな」

 太一の大人びた言動に、またもや憎まれ口が飛び出そうになったが、受話口から聞こえた異様な音に、言葉は喉の奥に引っ込んだ。

「太一?」

 紫苑が呼びかけても返事はなく、受話口からは音が流れ続ける。なにか猛った動物の鳴き声や、人の叫び声や、工事現場の騒音を混ぜ合わせたような不快さでもって紫苑の鼓膜を揺らす。その中に太一の声が聞こえたような気がして、紫苑は携帯電話に向かって親友を呼んだ。
何度呼んでも返事をしない友人と、段々と大きくなる音に紫苑が焦燥を感じ始めたころ、唐突に音が止んだ。スピーカー越しの静寂は数瞬続き、紫苑はもう一度太一を呼ぼうと、唇を開きかけた。

「どうして」

 紫苑の声に被さるように受話口から流れた声は、紫苑の親友のものではなかった。ブツリと音を立てて通話が切れ、紫苑は思わず携帯電話を耳から離す。どろりと澱んだ声は心臓をヒヤリと縮めさせ、紫苑は自分の左手にある青い携帯電話を凝視する。二十三時五十七分と、現在時刻を表示する液晶画面は青白く光るばかりだ。この世に生を受けて十七年、あんな声は一度も聞いたことがないと、紫苑の表情は怯えの色を強くする。
 左手の中にある携帯電話から離れる様に一歩足を引いた紫苑をその場に留めたのは、ひとえに太一への心配であった。恐ろしい音がしたきり会話は途切れたままであるし、きっと何かがあったに違いない。自分の身を案じてくれた世話焼きな親友を放っておくわけにはいかなかった。
携帯電話を放り出して逃げたい衝動をどうにか抑え、紫苑はスタジオを飛び出した。

訪れた時よりも暗くなった建物内を走り抜けて、回転扉を抜ける。ガラスの欠片が踏み砕かれる音を置き去りに、紫苑は太一の家の方向に足を向けた。通話の最中に聞こえていた音は、車のエンジン音だろうとアタリをつける。今から行くと太一は言っていたが、あの時太一はすでに、自分を探してこちらに向かっていたのだろう。それなら、太一の家に向かえば、道中で出会えるかもしれない。そう考えた上での行動であったが、紫苑の足は建物から数十歩の所で止まった。遠くの方から、人の足音が聞こえてくる。バタバタと忙しない足音は、どんどん廃屋に近付いてくる。
太一に違いない。そう断じて紫苑は走りだす。来る時に乗り越えた金網の近くに来ると、反対側から太一が走ってくるのが見えて、安堵の溜息を吐いた。
紫音は太一に声をかけようとして、その顔つきが少し妙である事に気が付いた。いつもよりも歪んでいて、表情としては、たとえば成績を決める試験前夜の物に近い。紫苑はその不審さに眉根を寄せて、金網に小走りで近付いていく。

「どうしたんだよ」
「来るな!逃げろ!」

 叫ぶ太一の背後から、追いすがるように何かが近付いてくる音が聞こえて、紫苑は足を止めた。それがなんなのかを確認する前に、太一が金網にぶつかるようにして飛び付き、足をかけて登ろうとする。
 その太一の胴体に、黒い蛇のようなものが巻き付くのを、紫苑は見た。暗がりから伸びた蛇は、あっという間に太一は羽交い締めにし、空中に連れ去っていく。金網から落とされた太一は、ゆっくりと暗がりに引き摺られていく。蛇の尻尾は夜闇に溶けており、紫苑には視認できない。
 太一が手足をバタつかせながら悲鳴を上げるのを呆然と見ていた紫苑は、ハッとして金網に走り寄った。先ほどの太一と同じように金網に飛び付き、フェンスを乗り越えようとよじ登り始めると、太一から怒号が飛んだ。

「逃げろって言ったんだ!こっちはダメだ!反対側に行け!」

 引きずられまいと地面に爪を立てる太一の背後で、暗闇が沸き立つのが見えた。喚く太一を押さえ込むかのように大量の蛇が降り注ぎ、一塊になったそれらはやがて、暗がりへとフェードアウトしていった。
 金網にしがみついたままで一部始終を目撃した紫苑は、暗闇の向こうにいる気配が自分を注視したことを感じた。姿形は確認できないというのに、なぜか自分に狙いを定めたのだと確信できた。紫苑が慌ててフェンスから飛び降りると、それまでしがみついていた所に、太一を呑んだ蛇のようなものが勢いよくぶつかった。ガシャンと音を立てたフェンスに跳ね返されて、それは濡れた音を立てて地面に落ちた。
恐る恐る金網の隙間から覗きこんだ紫苑は、蛇の正体を知って顔を青くした。蛇の口は五つに分かれており、首と胴体の間には隙間があり、その胴の真ん中辺りが「く」の字に折れ曲がっている。人の腕であった。手首で切り離された腕が暗がりから伸びてきて、紫苑に掴みかかろうとしていたのだ。
腕はまるでのたうつ様に、肉色の断面を翻しながら暗がりへと引き戻されていく。腕が引かれると、繋がっていないはずの手首から先も、連動するように紫苑から遠ざかっていく。やがて腕が完全に見えなくなると、太一が走ってきた方向から、再び音が聞こえ始めた。紫苑はゾッとして、太一が言ったように、フェンスの反対側へと走り出した。

廃屋を挟んだ逆側にあるフェンスに辿り着いた紫苑は、目を見開いた。確かに反対側にきたはずなのに、そこにはまた暗がりが広がっていた。

「こっちには街灯があるはずなのに」

 愕然と呟く紫苑の目の前で、暗がりが沸き立ち、腕の形を取る。そして蛇が鎌首をもたげるような動きを見せると、先ほどと同じように、紫苑に掴みかかろうとして金網にぶつかり、地面に落ちた。
紫苑は情けない悲鳴を上げて、右手に曲がる。突きあたりにも暗がりがあり、そこからも同じように腕が伸びて、紫苑を捕まえようとしては地面に落ちた。
 いまや暗がりは廃屋を取り囲むように広がっており、紫苑を逃がすつもりはないようであった。 
広い敷地内を走り回り、息を切らした紫苑は、廃屋の影に飛び込んだ。ぜぇぜぇと馬のように荒い息を吐きながら、腕の断面を思い出し、嘔吐する。最後の食事から時間が経って空っぽになった消化器官からは胃液しか出てこず、紫苑は酸に喉を焼かれながらえづいた。
一通り吐き終り、涙に滲む視界で辺りを見渡し、危険がないことを確認すると、吐瀉物から離れた場所にへたり込む。途端に強い恐怖感と絶望に襲われ、紫苑は感冒に罹ったように震え始めた。ガチガチと歯を鳴らしながら膝を抱え、怯える。
暗がりはどうやらフェンスの中には入ってこられないらしいが、これは同時に紫苑が金網の内側に閉じ込められたということでもあった。

(家から飛び出したりせずに、大人しくしておけばよかった)
 
今更せんないこととは知っていながらも、そう後悔せずにはいられない。廃墟から逃げ出すための案など浮かぶはずもなく、絶望感は紫苑の身体を鉛のように重くさせた。
夜であってなお濃い影に身を縮めるようにして収まっていると、まるでこのまま暗闇に溶けてしまうのではないかという錯覚に襲われる。夜を照らしていたはずの月はいつの間にか姿を消していて、より一層状況の非現実さを引き立たせていた。
紫苑は少しでも不安を払拭しようと、無意識のうちに携帯電話に手を伸ばしていた。開くと人工の光があふれたが、待ち受け画面に表示されている現在時刻を見た紫苑は、息をのんだ。

「二十三時、五十七分…」

あの部屋を出る直前と全く同じ時間を示す数列に、紫苑の顔が暗闇でも分かるほど青ざめる。
一体全体どうなっているのか分からないと頭を抱えると、手に握りしめた携帯電話から、見計らったかのように着信音楽が鳴り響いた。驚きに肩を跳ねさせる。
ディスプレイに表示されるはずの相手の名前や電話番号は文字化けを起こしたようにモザイクがかっており、紫苑は慌てて電源ボタンを押し、着信を切った。
その直後、わずか数舜もおかずに再び着信を知らせる音楽が鳴り始める。ディスプレイには高崎の名前が表示されており、紫苑はたまらずに通話ボタンを押し、携帯電話を耳に当てた。

「ケンさ、」
「どうして」

 すがるように携帯電話を握りしめていた紫苑は、受話口から聞こえてきた地を這うような低い声に、思わず壁に背をぶつけるようにして身を引く。
なにか猛った動物の鳴き声や、人の叫び声や、工事現場の騒音を混ぜ合わせたような不快な音とともに耳に流れ込んだ、どろりと澱んだ声。スタジオでの太一との通話の最後に聞こえた、あの声だった。
 紫苑は反射的に携帯電話を耳から離して電源ボタンを連打するが、通話が切れる様子はなく、受話口からは延々と不協和音とともに「どうして」という問いが垂れ流される。その声はだんだん大きくなり、恐慌に陥りかけた紫苑は、たまらずに携帯電話を床に叩きつけた。
物が壊れる音がして、声が遠ざかる。
恐怖に見開かれた紫苑の目には、暗すぎて何も見えていないが、確かに液晶やプラスティックのボディが割れる音を聞いた。
これでもう大丈夫だと安堵できたのも、つかの間だった。

「どうして、こんなにも痛い」
「どうして、こんなにも寒い」
「どうして、こんなにも暗い」
「どうして、こんなにも濡れて」
「どうして、こんなにも引き攣れて」
「どうして、こんなにも何も見えなくて」
「どうして俺は死んだ」

「どうして俺は殺された」

砕けたはずの携帯電話からとめどなく流れ出る、怨嗟の声。今度こそ心臓を恐怖に鷲掴みにされた紫苑は、少しでも携帯電話から離れるために後退ろうとするが、背中はぴったりと壁にくっついており、これ以上下がることはできない。
悲鳴を上げることもできずに、現実から逃れるように左右に頭を振る紫苑の指先に、何かがぶつかる。ぎゃ、と短く声を上げて身体をすくめ、自分が何に触れたのか確認するために、勢いよく手元に視線を向けた。
そこには、工事現場や廃屋には付き物の、鉄パイプがあった。こんなものに悲鳴を上げてしまったのかと、紫苑は何とも言えない、きまりの悪さを覚える。
そして、はたと自分が声を出してしまったことに気が付き、慌てて辺りを見回す。あの暗がりはない。どうやら本当に金網の内側には入ってこられないらしいと、安堵の息を吐く。
同時に、今起こっていることの全てがなんだか馬鹿馬鹿しく思えて、紫苑は肩を震わせるようにして、小さく笑った。果たして自分は頭がおかしくなったのだろうかと考えるとなおさら笑いがこみ上げてきて、それこそ気を違えたかのように笑う。
腹筋が痛くなるほど笑い転げた紫苑は、目じりに滲んだ涙を拭うと、傍らに転がる鉄パイプを手に取った。紫苑の腕ほどの長さのそれは、想像よりも重く、錆びているのか、手触りが悪い。
しばし冷たくざらついた表面を撫でて手のひらで弄ぶうちに、紫苑の心はいくばくかの平静さを取り戻した。恐怖心が拭われたわけではないが、恐慌状態からは抜け出している。
得体のしれないものへの怖気はわずかばかり紫苑の頭の中から追い出され、その隙間を埋めるように、この状況を打破しようという気力がわいてくる。

(まずはあれが何なのか、確かめないと)
 
決めたが早いと言わんばかりに立ち上がり、鉄パイプを片手に廃屋に駆け込んでいく。
 紫苑はまず、暗いものには明るいものだと考えた。だが携帯電話は投げ捨ててしまいどこにいったか分からないし、見つかったとしても壊れていてディスプレイが光るかどうかは怪しい。
ならばと、紫苑は“スタジオ”に向かった。あそこにある棚には、先輩の趣味である「イケナイコト」をするための道具がたくさんある。その中に何か、懐中電灯やライターなど、光るものがあったはずだ――。
 秘密基地の入り口から“スタジオ”までのほんの短い距離を駆ける紫苑は、ふと馴染みのある声が聞こえた気がして、窓の外を覗いた。フェンス越しに例の暗がりがわだかまっているのが見える。その暗がりの所々が白く浮き出て見えるのだ。紫音は眼鏡を眼球に押し付けるようにして目を凝らす。
 白くちらつくものの正体は、人間の手足だった。ちょうど人間と同じ数だけ、暗がりから手足が突き出ている。
 紫苑が悍ましさに身震いをして視線をそらし、先に進もうとすると、なにかその手足に違和感を覚えて、再び立ち止まった。窓枠に隠れるように、吐き気を堪えながら覗き込むと、ちょうど見覚えのある顔が暗がりから突き出たところだった。

「太一!」

もがいていた太一の顔は、すぐに暗がりにのまれた。思わずといった風に叫ぶ紫苑に、暗がりは目を向けたようであった。
どうせフェンスの中には入ってこられない。そう高をくくっていた紫苑は、次の瞬間には目を見開くことになった。暗がりがフェンスを突き破って、建物の敷地内に進入してきたのだ。そして、紫苑がいる廊下の窓に向かって、一直線に突進してくる。
紫苑は慌てて反転し、その場から逃げ出す。暗がりは窓枠を突き破り、わずかに残っていたガラス片を纏いながら紫苑に追いすがる。べたべたと手足をリノウムの床につき、粘着質な音を立てて這ってくるそれを時折振り返り、距離を確認しながら逃げる。

紫苑はいつの間にか建物の端にある階段にたどり着いていた。がむしゃらに走るうちに、“スタジオ”を通り越してしまっていたのだ。
まあいい、と紫苑は割り切る。暗がりに見つかった状態で“スタジオ”に飛び込んでも、部屋がめちゃくちゃになるだけで、灯りを見つけるどころではないだろう。
まずは暗がりを撒かなければ。紫苑は階段を二つ飛ばしで上り、開いていたドアの一つに飛び込んだ。そして反対側のドアに張り付くようにして、暗がりが入ってくるのを待つ。破砕音とともに腕が見えたのを確認し、を開けて飛び出す。
そのまま廊下を駆け抜けると、今度は二つ隣の部屋に入り、そのまま窓に向かう。窓枠に飛びつくように手をかけると、この高さなら飛び降りられると判断し、勢いのまま飛び越えた。着地の瞬間に膝を撓め、足裏と地面が水平になるように接地。そのまま肩をつくようにして前転し、数回転の後に手足を叩きつけるようにして立ち上がり、走り出した。
紫苑はもはや、建物内で暗がりをなんとかすることを諦めていた。隠れる場所は多いが、逆説的には奇襲を受ける可能性が高いからだ。フェンスを乗り越えられた今、“秘密基地”は安全な場所とは言えなくなっていた。
それならばどうするかと考えたときに紫苑の脳裏に浮かんだのは、このまま逃げてしまおうかという意見だ。だが、暗がりの中でもがく太一の姿を思い描き、その魅力的な考えを打ち消す。
生きているなら、助けなければいけない。
 どうやって太一を助ければいいのか、相変わらずいい考えなど浮かばないが、紫苑は本能に導かれるようにして、明るい場所に向かい始めた。

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真神紫苑は、かつて事故に遭った交差点に立つ。 彼の進む先には何があるのか。

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