In A Senseless Box 無分別な箱の中で
十年目の葬送 前編
真夜中、交差点の真ん中で、真神紫苑は白い花束を抱えて立ち尽くしていた。四方八方から街灯が紫苑を照らし、刷毛でぬったような影が足元を起点にして放射状に広がっている。
暗い夜の底に落ちた街で、真っ黒なスーツに痩身を包んだ青年の身体は、影に溶けてしまいそうな程にか細い。花束と曇天色の髪だけが闇に浮いて見えた。図ったように車一台、人っ子一人通らない道路に疑問を抱くほどの余裕は、今の紫苑にはない。自分の弱い心と向き合うのが精一杯だった。痛みに耐えようとすれば、汗ばむ手のひらで花束を握り潰してしまいかねなかった。
唾液を呑み込むと緊張に乾ききった喉が張り付いたように痛む。それでも紫苑は向き合わなければならなかった。一歩前に進むために。思い出に節目を付けるために。
「久しぶり」
旧知の友人にでも出会ったかのような口ぶりで紫苑は道路に話しかける。震える声は囁きに近いほど小さく、足元に落ちてはアスファルトに染み込んでいった。
「あれから、もう十年も経ったね」
遠い昔のはずなのについ最近のように思い出せると、紫苑は苦笑する。それこそが未練であるのだと考えていた。
「まだあの日を思い出せるほど強くはないんだけれど、君がいなくなってから、色んな事があったんだよ。一番衝撃的だったのは、あれかな」
懐かしむように目を瞑り、紫苑は記憶の海に心を沈めていく。深く、真っ逆さまに沈んでいく。足元に見える水面に立ち昇る逆しまの世界を手のひらで一粒一粒、つるりと撫でる。
高校生の紫苑は、まだ誰もいない学校の下足置き場でぜいぜいと荒い息を吐いていた。ほんの二キロメートルほどの通学路が永遠に続くのではないかと思えるほど、紫苑の体力は落ちていた。人間というものはほんの二ヶ月間怠けているだけでこんなにも衰えるものなのかと、病院での日々を恨めしく感じた。やはりリハビリだけでは簡単に体力は戻らないらしい。背負ったあめ色のギターケースの肩ひもをかけ直し、額から流れてくる汗を制服の袖口で拭う。俯いているせいでずり落ちてくる黒縁の四角い眼鏡を押し上げる。
本当はもう少しゆっくり歩くつもりで早めに家を出たのだが、久々の登校だということもあって心が逸ったらしく、ついいつものペースで歩を進めてしまったらしい。紫苑は朝食として胃に詰め込んだシリアルが喉を逆流しようとするのを必死で押さえこんだ。
「……まが、み?」
下駄箱に右腕をついて息を整えていると、背後から声が聞こえた。紫苑がもう一呼吸してから振り向くと、そこには親友の太一がいた。
「よう、久しぶり」
二ケ月前よりも髪の伸びた親友に右手を上げて応える紫苑の顔は、少し強張っている。家族や病院スタッフ以外と会話を交わすのは本当に久しぶりで、紫苑は緊張していた。太一は、そのおおよそ高校生には見えない顔をくしゃりと歪めて、紫苑に駆け寄ってくる。低い身長に見合わない野太い歓喜の雄叫びを上げて、紫苑の背中を力いっぱい叩いた。
「お前!ようやく学校来られるようになったのか!良かったなあ!」
ベシベシと音がするほどの力で叩かれ、紫苑はグラグラ前後に揺れる。リハビリ上がりの身には少々辛かったが、それでもお構いなしに太一は話しかけ、親友の高校生活への復帰を心から喜んだ。太一の笑顔に釣られて、緊張が解けた紫苑の表情も和らぐ。変わらない親友の態度が嬉しかった。
「ありがとう。もうすっかり元気だよ。まだちょっと体力が足りないみたいだけど」
「そうか、それじゃあちゃんと飯食って体力つけなきゃな。放課後、ラーメン食べに行こうぜ」
未だに整わない息を忌々しく思いながら告げると、太一は朗らかに笑って見せる。上履きに履き替えて廊下に向かう太一に倣って、紫苑も靴を履き替えて後に続いた。まだ誰もいない早朝の廊下を、紫苑と太一は並んで歩く。旧校舎の二階、二年四組の教室に辿り着くまでの間、やれあのバンドの新譜はどうだっただの、放課後のバンドの練習の予定だの、クラスで何があっただのと、太一はいつになく饒舌だった。階段を上りながら、紫苑は太一の話に大げさに驚いたり歓声を上げたり、分かりやすく感情を表に出す。太一が教室のドアを開き、中に入る。四十席あるうちの窓際の後ろから三番目にある自分の机に、紫苑は荷物を置いた。ギターケースを傍に立てかけると、硬くつるりとした天板に指を滑らせ、その冷たさに顔を綻
ばせる。
「なんか、懐かしいなあ。この木の机。いかにも学校って感じがする」
「ほんの二ケ月休んでただけで、何言ってんだよ。年寄りかお前は」
「ほんの二ケ月って。長かったんだぞ、二ヶ月間。半分は寝ていたけれど」
紫苑は音を立てて椅子を引き、やや乱暴に座る。行儀悪く机に足をかけて椅子を傾け、組んだ手のひらを後頭部に当てて背もたれに体重をかける。紫苑の一つ前にある自分の席荷物を置いた太一は、いっそ不自然なほどに明るい友人の様子に押し黙り、唇を歪ませた。少なくとも三ヶ月前の紫苑はこんなにも笑わなかった。明るく振舞わなければならないと思っている友人の姿は、太一の目には酷く痛々しく見えた。紫苑はギシギシと音を立てて椅子を揺らしている。眼鏡と前髪に隠れて分かりにくいが、その目の下には濃い隈があった。
太一は指摘するべきかどうか迷った。僅かな逡巡のあと、意を決して口を開いた。
「真神、無理するなよ。泣いたって誰も怒らないよ」
椅子を揺らすのをやめ、紫苑が軽く反らせていた顎を引いて太一を見る。太一は陰鬱な紫苑の目に息をのんだ。真っ黒い瞳は墨で満たされた穴の様に朝の陽ざしを吸収していた。
「無理くらいするよ」
ほとんど鸚鵡返しに近い紫苑の言葉に、太一は何も言えなくなった。耳が痛いほどの静寂が重苦しく教室を満たす。十月末の朝は妙に空気が冷たく、虫の声も聞こえない。遠くの道路で鳴らされる車のクラクションが紫苑と太一の間に割り込んでくる。紫苑は努めて交差点を思い出さないようにしながら、胸の内に泥のように溜まっているもの吐き出しかけ、呑み込んだ。
「誰も悪くなかった。泣いたって仕方ない。
そんな事より、さっきの話。俺はラーメンよりお好み焼きを食べたいな」
代わりに自らに言い聞かせるような呟きを落とした紫苑は、スイッチを切り替えるように明るい雰囲気を取り戻す。再びギィギィと椅子を揺らし始めた親友に、太一は初めて薄気味の悪さを覚えた。姿形は変わらないのに、中身だけがすり替わってしまったかのようだった。
紫苑が椅子を揺らす音だけが響く気まずい空気で満たされた教室内に、早めに登校した二人連れの男子生徒達が入ってくる。紫苑を見ると、太一
と同じように喜び、紫苑に駆け寄ってきた。
「真神!もういいのか!?」
「みんな心配してたんだぞ!」
年相応にはしゃぐ男子生徒達に、紫苑はいつも通りを装って愛想よく応対する。太一は複雑な思いでそれを眺めた
始業時間が近付いてくるにつれて、教室内は生徒達で満たされていく。それにつれて紫苑の周りに人だかりができていく。みんな同じような言葉を投げかけ、紫苑もそれに同じような言葉を返す。始業のチャイムが鳴るのとほぼ同時に駆け込んできた生徒達も、紫苑に気が付くと駆け寄って声をかける。しばらくして担任が教室に入ってくると、蜘蛛の子を散らすように自分の席に戻っていった。担任が、紫苑が今日から学校生活に復帰することを告げると、にわかに教室が沸き立つ。紫苑は照れ臭そうに一言だけ挨拶をし、担任は朝のホームルームを始めた。
「みんな元気だなあ」
一時限目の授業が始まるまでの五分ほどの中休み、ようやく他生徒達の質問攻めから解放された紫苑は嬉しそうに笑いながら、腕を組み体重を机に預ける様に身体を前のめりにさせて、前の席にいる太一に話しかける。太一は先ほどの紫苑と同じように椅子を傾け、紫苑の机に片腕をついた不安定な姿勢で紫苑を振り返る。
「いつも通り、だろ。二ケ月間いなかったからそう感じるだけだよ」
太一が紫苑への薄気味の悪さを払拭するように声をかけると、紫苑は「そうかも」と目を細める。愛しいものでも見るかのような紫苑の表情は心からのもので、太一は安堵する。無理矢理に気持ちを抑えつけて平常を装っているせいでちぐはぐに感じるが、中身がガラッと変わったわけではないのだ。本質的には学校が大好きな友人のままだった。
やがてチャイムが鳴り、一時限目の授業が始まる。紫苑の嫌いな地理の授業だった。
午前の授業は恙無く進み、四時限目の歴史に差しかかった。入院中の暇な時間を駆使して予習を済ませてしまった紫苑は、眠気を誤魔化すために窓の外を眺める。校門からいくらか離れた場所にある信号機が、通行許可から停止、進行不可へと色を変える。紫苑の意識は遠い交差点に引き込まれていく。
朗々とした若い男性教師の声も、隣の席の少女が呟いた悪態も、すべてが脳の表面を滑っていくようだった。赤く点灯した信号機から目を離せない。紫苑の背中をじっとりと脂汗が濡らしていく。手持無沙汰にシャープペンシルを弄んでいた指先が震え、取り落とす。真っ白なノートに音もなく落ちて、ペン先からわずかに覗いていた炭素が黒い点を残す。水中から空を見上げた時のように視界がぶれて、紫苑の意識は黒い点に塗りつぶされていく。
「――であるからして、はい真神くん他所見しない!」
記憶に呑まれかけていた紫苑の側頭部に何かが突き刺さる。突然の小さな痛みに、紫苑は泡を食って体勢を崩し、椅子が騒がしい音を立てた。紫苑の膝にパサリと紙飛行機が落ちる。どうやらこれが頭にぶつかったようだった。紫苑の席の真横に仁王立ちした教師が飛ばしたものらしく、教師の手は投擲の名残を残した形を取っていた。
「いくら僕の授業が退屈だからって、あからさまに聞いてないですオーラを出されるとへこみます!先生は傷つきました!責任を取ってください!」
くねくねとシナを作ってみせる男性教師に、教室の至る所から失笑とブーイングが起こる。注意を受けた当事者である紫苑も思わず噴き出してしまうほど、その動作は似合っていなかった。すいません、と紫苑が謝ると、教師はまじめくさった顔で教壇に戻っていく。紫苑の隣の席の少女も、猫の瞳を細めて笑っていた。
四時限目の授業も終わり、生徒達は昼休みを迎えていた。教室のあちらこちらで机の島ができ、仲のいい者同士が集まって食事を取っている。
紫苑と太一も例外なく、二人で机を向い合せに寄せていた。
「ねえ、またバラバラ殺人だって」
「今度は同級生らしいよ」
「隣のクラスの子だって」
「もしかして緑の目の子?あの子ストーカーされてたんだよね?」
「前の人は?夏休みの間の」
「指が何本かしか見つかってないんじゃなかったっけ」
「別の人が殺したんだ」
「やだー。この辺に頭おかしいの、何人いるのー?」
昼休みの喧騒に紛れて、女子生徒達が酷く物騒な話題で盛り上がっているのが紫苑の耳に届く。紫苑の向かい側で総菜パンを頬張っていた太一が、何故よりによって昼飯時にその話をするのかと、げんなりとした顔で愚痴をこぼす。紫苑は黙々と自分で作った弁当を消費していく。卵焼きが塩辛過ぎたと眉を寄せた。
そのうちに、男子生徒のグループから苦情の声が上がり、女子生徒たちは渋々話題を変える。移り気な少女たちの興味は、流行りのファッションやアイドルの話題へと流されていった。果てには公園の桜の木の下には桜が埋まっているだのと、怪談まで始めたので、その手の話が苦手な紫苑は女子生徒たちの声を聞かないように意識した。
ブロッコリーの梅マヨおかか和えを口に運びながら紫苑は、バラバラ殺人事件、と頭の中で呟く。
入院している間に起こった事件だったので紫苑は詳しくは知らなかったが、確か被害者は成人男性だったはずだ。女子生徒達の話の内容から察するにもう一件別のバラバラ殺人事件が起きたのだろうかと考え、太一と同じく紫苑もげんなりとした気分になった。気を紛らわすために次々とおかずを口に放り込んでいくが、連日のニュースや人々の会話で得た僅かばかりの情報を元に、紫苑の脳は好き勝手に想像を膨らませていく。
昨夜のニュースの言うところでは、被害者は年老いた母と二人暮らしだったらしい。犯人達はその家に強盗に入り男性の母を殺して、金品を奪って逃げたのだが、駆け付けた警官達によって三十分もしないうちに拘束された。犯人達が乗ってきたライトバンから押収された段ボールから黒焦げた身体の一部が出てきて、初めて男性が殺されていることが発覚したのだ。
薄汚れ、塗装がところどころ剥げたハイエースに積まれた段ボール箱の中に詰め込まれた、成人男性の上半身。リンチを受け燃やされた、腹の中ほどまでの胴体には腕も首もなく、あちこちが擦り傷や切り傷、火傷、痣にまみれていたに違いない。男性はどれだけ苦しんで死んでいったのだろうか。高校生の自分にはきっと想像もし得ないほどだったに違いないと、紫苑は想像を締めくくった。
バラバラ殺人事件。口の中のものを飲み込んだ紫苑は、今度は声に出して呟く。
途端に、紫苑の目に映る景色が一変する。立ち昇る煙、渦を巻く炎、キラキラと光る割れ砕けた硝子と巨大な鉄屑が転がるアスファルトの上。顔の左半分は火に炙られたように熱く、視界は酷く平面的でグラグラと定まらない。紫苑は全身を襲う激痛に耐えながら、重い鉄屑の下で、投げ出された自分の左手を見る。煤と傷と血にまみれた手のひら。その先にある、
ビシャリ。濡れた音が教室に響いた。先程まで紫苑の胃にスルスルと落ちていっていた弁当が、胃液と共に喉の奥を焼きながら逆流してくる。喧騒に満ちていた教室内は静まり返り、皆が一様に呆然と、背中を丸めて嘔吐する紫苑を眺めていた。紫苑は必死で口を押さえるが、全く止まらない。
紫苑は弁当には肉の類を一切入れなかった。ただ、ブロッコリーの和え物に入れた梅が、肉片に見えた。
口元を強く押さえつける指の隙間から、吐瀉物が不快な水音を立てて滴り落ちる。吐く物がなくなっても痙攣し続ける胃に紫苑がえづき気絶しそうになっていると、目の前でぽかんと口を開けて見ていた太一が慌てて立ち上がり、机を回り込んで紫苑に駆け寄る。自分よりもいくらか大きい紫苑の身体を倒れないように支えて、大丈夫かと声をかけた。
舞い戻る喧騒。黒く狭まっていく視界の端、悲鳴を上げる少女達の、黒いハイソックスの間。紫苑はたおやかな白い腕を見た。
ふと開いた紫苑の目に橙色の天井が映る。ぼんやりと真黒い瞳を巡らせ、自分がいる場所を探る。橙色に染まった白い壁には覚えがある。なんの事はない、つい三日前まで入院していた病室だった。一瞬入院していた頃の記憶と今日の記憶が混じるが、なんとか自分が倒れたことは思い出せた。脈拍に合わせてこめかみの辺りがずきずきと痛む。嘔吐のせいで血圧が上がったのだろうかと、紫苑は考えた。
かけられていた布団を捲り、全身の倦怠感を押して上半身を起こす。病室には誰もいない。寝乱れた病衣を整えながらナースコールを押すべきかどうかを思案していると、カラカラと軽快な音を立ててドアがスライドし、見知った人影が入ってくる。紫苑の主治医の高崎だった。
「やあ、おはよう」
先生。紫苑がかすれ声で呼びかけると、いつもどおり名前で呼んでも構わないと、高崎はたれ気味の目を柔らかく細めて言った。紫苑はケンさん、と名前で呼びなおす。素直な少年の様子が微笑ましく思え、高崎は微笑みを深める。四十がらみの男は糊のきいた白衣をひるがえしてベッドに近付くと、窓際にあったパイプ椅子を引っ張ってきて、背もたれ側を紫苑に向けて腰掛けた。ベッドの上に座っている紫苑に視線を合わせる様に背中を丸めて、背もたれに体重を預けた。
「気分はどうだい?」
「あまり良くないです」
「だろうねえ」
淀みない紫苑の返答に、高崎は困ったように眉尻を下げて微笑んだ。高崎の苦笑に、紫苑は申し訳なさを覚えて俯く。沈黙が病室内に蓋をするようにのしかかる。居心地の悪さに息がつまりそうになっていた。なにか喋らなければと話題を探す紫苑に先立って、高崎は口を開いた。
「倒れたと聞いたからとても驚いたのだけれど、身体的には健康そのものだったよ。再入院してから数時間しか経っていないけど、もう退院しても大丈夫」
主治医の口から退院許可をもらったものの、紫苑の気持ちが晴れることはない。こんなことで高崎の手を煩わせてしまったと自己嫌悪ばかりが募っていった。布団に乗せられていた手のひらは握り拳を作り、白くなるほど力が込められている。高崎は布団を握りしめて震える紫苑の手の上に優しく自分の手のひらを重ねた。
「体の方は何も問題はない。あとは、心の問題だけだね」
心の問題。紫苑は高崎の言葉を復唱する。
「今、紫苑君の心は大きな怪我を負っている状態だ。本当は体と一緒に直していくのが一番なのだけれど、どうやら心の方は残ってしまったんだね」
高崎は緩く紫苑の手の甲を撫でる。その温かさに紫苑の拳が少しずつ解けていく。恐る恐る視線を上げると、柔和な微笑みがあった。高崎の整った顔に据えられた薄い唇が開く。
「私は心のお医者さんではないから無責任なことは言えないけれど、君は少し、自分を傷付け過ぎている。一応保護者なんだから、私にも頼っておくれ」
「はい、ありがとうございます」
高崎の優しい声に、紫苑は力なく笑って返事をした。高崎は病室の壁掛け時計を見て自分の腕時計に目を落とすと、静かに椅子を引いて立ち上がった。回診の時間が来たのかと紫苑がアタリを付け、白衣の襟元をただす高崎をぼんやりと見ていると、視線に気が付いたのか高崎は紫苑に笑いかけた。
「私はそろそろ仕事に戻るよ。紫苑くんはどうする?このまま帰るかい?」
なんなら一晩入院していってもかまわないよ、とからかう高崎に、紫苑は慌てて首を左右に振った。病室にいるのはもう飽きたとばかりにベッドから飛び降りて服を探す。枕元に綺麗に畳まれた私服が置いてあった。高崎が持ってきてくれたのだろうかと考え、紫苑はまた申し訳ない気持ちになる。気分の落ち込みとともに自然と視線が下がっていく。
「それじゃあ、私の仕事が終わるまで待っていなさい。今日は急患さえなければ早く帰れるから」
「いえ、いいです。先に帰ります」
間髪をいれずに口から飛び出した声は、少し冷たかったかもしれない。紫苑はせっかく良くしてくれる高崎を傷付けたかもしれないと気が付き、叱られるのではないかと心配になった。紫苑の内心をよそに、高崎はいつも通りの声で、そう、と返した。
「もうすぐ日が暮れるから、気を付けて帰るんだよ。この頃は町内も物騒だから」
はい。沈んだ声を出すが、このまま気まずい思いを抱えて帰るのを嫌がり、紫苑は着替えながら付け加える言葉を探す。そうしていつも通りを
装って出たのは、やはりいつも通りの言葉だった。
「……そういえば、恥ずかしいから名前で呼ばないでくださいよ」
高崎は予想外の言葉にきょとんとした顔を見せたあと、苦笑いをしたのだった。
紫苑は高崎の勤める総合病院を出て右に曲がった。そのまま高崎の家までの帰路に就く。道中にCD屋に寄ろうかどうか迷ったが、学校を早退して病院で寝こんでいた身では寄り道をするのは憚られ、まっすぐ帰ろうと決めた。
紫苑は進学の都合で高崎の家に寄寓していた。実家は山間の集落にある神社であるが、紫苑は両親に外の高校に通いたいというと、反対せずに送り出してくれた。父の親友である高崎も快く迎えてくれたというのに、現状を思うとひどく申し訳がなく、また心を病んでいる自分が情けなく思えた。
つらつらと考え事をしながら歩いていると、いつの間にか以前使用していた通学路に辿り着いていた。この先には大きな交差点がある。紫苑の背中を冷や汗が伝う。事故から二ケ月弱が経過した今でも、紫苑は意識的に信号機のある交差点を避ける。今日もまたスクランブル交差点を直視できる気がせず、道を一本外れて交差点を避けた。
対面通行すら難しいような幅の道路を歩いていると十字路に差し掛かった。もうすぐ高崎の家に着くが、どうしても一つ、横断歩道と信号機のある交差点を通らなければ帰れない事に気が付いた。やはり高崎の仕事が終わるのを待っていて車に乗せてもらえば良かったと後悔した紫苑であったが、家はもう五分ほどの行ったところだ。何より。今さら戻るの格好が悪いと思った。ちっぽけなプライドではあったが、今の紫苑にとっては大切にするべきものだった。
覚悟を決めて足を進めると、公園の手前に信号機と横断歩道が見えた。一瞬歩みが止まりそうになるが、堪えて歩道の端に立つ。信号は赤。立ち止まって青になるのを待つ。紫苑以外はだれもおらず、電灯の明かりに影が一つ、ポツンと伸びていた。緊張を解すように空を見上げると、空の橙色は藍色に押されて遠のき、一つだけ星が見えた。紫苑は田舎で双子の兄とともに夜空を見上げ、一番星を探していた頃の事を思い出していた。今ではすっかり折り合いが悪くなってしまっているが、最近夜遊びが増えた兄を思うと心配になる。兄が紫苑を見る時の冷たい目を思い出しながら、どうせ今夜も帰って来ないのだろうなと考えていると、隣に誰かが立つ気配を感じた。
いきなり服の裾を引かれ、紫苑は小さく悲鳴を上げて飛び上がった。振り返ると、まだ十にも満たないような少女がいた。黄緑色のカットソーに、くすんだピンク色の吊りスカートを纏った少女は、菫色の髪の上に被っているとんがり帽子をずらして紫苑を見上げると、明るい緑色の瞳を弓のように細めて両手をお椀の形に合わせ、紫苑につき出した。
「お兄さん、トリック、オア、トリート」
快活そうな笑みを唇に乗せて、少女はそう口にする。紫苑はなんの事を言われているのか分からずに狼狽するが、ふと今日が何日だったのかを思い出し、合点がいった。十月三十一日、ハロウィンだ。随分と奇抜な魔女の仮装だと思いながら鞄のポケットを探り、棒付き飴の詰め合わせを取り出し、トリックオアトリートと返しながら少女の手に乗せてやる。少女は歓声を上げてとび跳ね、紫苑に礼を言う。
「ありがとう!でも、こんなにもらっていいの?」
「いいよ。多分、今日会うのは君だけだろうし」
ハロウィンの日に実際に仮装をして菓子をねだるなんて珍しいと思ったが、少女の髪と目の色を見て納得した。恐らく少女は日本人ではないのだろう。
紫苑の言葉に少女は喜び、さっそく袋の中から棒付き飴を取り出して包装を破り、口に含む。幸せそうに飴玉を口の中で転がしている少女を見やり、紫苑は眉根を寄せた。
「今どき、知らない人に物をもらってはいけないよ。危ないんだから」
「あら、私がねだったからお兄さんがくれたんじゃない。お兄さんは毒を入れた飴を持ち歩いている人なの?」
それならお巡りさんに連絡しないと、と悪戯っぽい表情の少女の返答に紫苑が言葉に詰まると、少女は自分のスカートの水玉模様のポケットからガラスの小瓶を取り出し、あどけない笑みを浮かべて紫苑に差し出した。意味が分からずに困惑する紫苑に、少女は得意げに言い放つ。
「トリック、オア、トリートへの返事は、ヒア、ユーゴゥよ。お兄さんもトリック、オア、トリートって言ったから、私もお菓子をあげるの」
なるほどそれは無知だったと紫苑が感心していると、少女は早く受け取れとばかりに小瓶を紫苑に近づける。紫苑は小瓶を受け取り、街灯に透かしてみる。中には色とりどりの金平糖が詰まっていた。
「きれいでしょ?とっておきのお星さまなのよ」
「カラフルだなあ」
「着色料が入っているから。その方がかわいいもの」
どうせなら魔法で色を着けたとか言えばいいのに、幻想的なのか現実的なのか判断が付きにくいな、と苦笑いしながら小瓶の蓋を開けて金平糖を一粒取り出すと、紫苑は小瓶を少女に返した。少女は返された小瓶と紫苑を見比べて、きょとんと目を丸くしている。
「一つだけでいいの?」
「あまり君のお菓子をとっちゃうわけにはいかないからね」
「せっかくいろんな味があるのに」
あなたってば欲がないのね、と少女が感心したように紫苑を見上げ、ポケットに小瓶をしまう。この年頃の少女特有のませた物言いが微笑ましく、紫苑は小さく吐息のような笑い声を漏らした。そして指先でつまみあげた金平糖をもう一度街灯に透かし、口に含む。甘いような甘くないような、苦いような苦くないような、しょっぱいようなしょっぱくないような、後味の悪い塩バニラアイスのような味がした。反射的に眉間にしわが寄る。なんの味を食べたのかと少女に問われて正直に感じたままに答えると、少女はまたもや目を見開き、顔に喜色を溢れさせた。
「涙味のお星さまを引いたのね!すごい!」
「なみだあじ?」
やけに嫌な名前の金平糖を混ぜているな、と紫苑は眉間にしわを寄せたままでいるが、少女は興奮冷めやらぬ様子で飛び跳ねながら紫苑に告げる。
「今まで色んな人たちが流してきた涙の結晶の、ほんの一かけらよ。眩しさに届かなかった悲しい気持ち、怒り憎しみに流した悔しさ、嬉しい時や愛しい人と共に過ごした時間。いろんなものが凝った涙。
あなたが食べたのは、その中でも大当たりのお星さまよ。これからきっと幸せになれるわ」
「幸せ、ねえ」
果たしてそんな日が来るのだろうかと思ったが、夢見るような表情で囁く幼子にそんな事を言うわけにもいかず、曖昧に笑うにとどめた。
ふと金平糖の硬さを舌に感じながら空を見上げると、すっかり藍色に染まり切り、星の海で満ちていた。遠くで一つ、星が落ちたような気がする。紫苑が慌てて少女に帰宅を促そうと視線を戻すと、そこには誰もおらず、来た時よりも濃い影が一つ横たわるだけだった。
In A Senseless Box 無分別な箱の中で