ドウセイ

二人で、住む。

「同棲」を辞書で引いてみたら、夫婦関係のない男女が一緒に住むこと、と書いてあった。だから、そうかこれは同棲ではないのだと、ぼんやりとした頭で考えて。じゃー、よかったじゃん。わはは。私はウイスキーをロックで飲んで、泣きながら寝た。
 同棲はダメだ。小さなころ、従姉妹のお姉さんが恋人と一緒に住んでいることを親戚の前で話した時、大人たちは口をそろえて言っていた。結婚するまで待てないのか。吐き捨てるように言った誰かの声が、まだ鼓膜をびりびりと震わせている。
 
「だから、薬とお酒一緒に飲んじゃダメだって。」
「…ごめんなさい。」
「違うよ、怒ってるわけじゃなくて、心配するから言ってんの。」
 頭をわしわしと撫でられて、私は二日酔いでくるくる回る天井を映しながら、浅く、呼吸をしていた。枕元に置いたぬるいポカリスエットを寝そべったまま飲もうとして、失敗する。
「昨日、いつごろかえってきたの。」
「2時くらいかな。もー、凄い疲れた。言っとくけどこれからまだ寝るから」
「うん、私もねる。」
「詩織は寝すぎ。」
 だって気持ち悪いんだもん。ジゴージトク、だけど。そう言ったら布団の中のぬくもりが、私を抱き寄せて今日休み?と訊いた。休みだよ。そっか、じゃあ一日一緒にいられるね。うん。くわんくわんする頭を押さえて、返事をする。ゆるりと寝返りを打つと、視界のふちに、カーペットの上に無造作に開かれた国語辞典があったから、昨日泣いた理由を思い出した。
 お昼過ぎに二人で起きて、シチューが食べたいねという話になったので、近所のスーパーで野菜を買う。
「あとはパンだね。あそこの坂の前でパン屋さん寄ろ」
「パン?食べたいの?」
「え?だってシチューでしょ?まだパン買ってないじゃん」
 噛み合わない会話を少し続けて、私はシチューにご飯、という文化の家庭があることを知った。カレーにご飯、シチューにパン、そんな固定観念が崩れていく。
「じゃあ、どっちにする?」
「両方にしようよ。折角だし。パン、つけて食べてみたい。」
 ああ、こういうところが好きだ。じゃあご飯炊かなきゃじゃん、と漏れそうになった言葉を飲んで、すらりとした横顔を見上げる。
「詩織はパン持って」
「パン!」
「うん、パン。フランスパンだっけ?」
 焼きたてのそれを袋に入れてもらって、小さく、手を繋ぐ。マンションの鍵を開けるのはいつも私だ。これから二人分のシチューをつくることは、とてもわくわくする行事のように思えた。シチューがそれほど好きなわけではないけれど、二人で一緒に暮らすこと、は、世界中の幸福の象徴のように感じる。そう、それは。高密度の。

「昨日さ、」
「うん」
「辞書で調べたの」
「なにを?」
「ドウセイ。」
「ドウセイ?」
私はシチューをご飯にかけて、スプーンでそれを掬ってみた。こういうことで、合っているのだろうか。
「結婚するまで、同棲しちゃいけないって思ってたんだ。」
「なにそれ。考え方古くない?」
「うん、小さいときからそう思ってたから、やっぱり教育って洗脳だよね」
 ご飯とシチュー、の味がした。それ以上でも以下でもなかった。シチューをご飯にかけたらこうなるよね、っていう、予想通りの味だった。
「でもね、…あ、パンどう?おいしくない?」
「おいしい。なんてゆーか、パンをシチューにつけたなーって味。」
「それおいしいと思ってるの?…あ、そう、でね、私たちがしてるのは、同棲じゃなかったの」
 綺麗な眉間に皺が寄って、軽く首が傾げられる。彼女の着ているタンクトップの胸元に、羨ましいほどの谷間が出来た。
「夫婦関係にない男女、が一緒に住むのが同棲なんだって。」
「ぶほっ、」
彼女が大袈裟に笑って噴き出す。詩織はそーゆーとこあるよねー、と、いつもの調子で私のことをわしわしと撫でた。由加里さんの綺麗にネイルの施された爪は、料理をするのには相応しくない。けれど、私の頬をくすぐるには充分すぎるぬくもりと、美しさだった。宝石で撫でられたのかと錯覚するくらい。その瞬間、幸福だった。
「同性なのに同棲じゃないの?」
「そうなの。同性なのに同棲じゃないの。」
「じゃあ、あれじゃない?その、結婚するまでダメってやつ。それもチャラになるね」
 その発想はなかった、って笑うと、ばーか、と言われる。そうなのだ。これは、同棲じゃない。私たちが、法的に結婚することも、ほど近い未来には起こり得ない。
「泣くことじゃないでしょ、なんにも悲しくないんだから」
「ごめんなさい」
「怒ってないの。大丈夫。ほら、おいで。」
 由加里さんにしがみついて、私はまた、昨夜と同じ理由で泣いた。もう会うことのない親戚の誰かの恐ろしい声より、彼女の体温が打ち勝った。結婚するまで待てるわけないよ。そう呟くと、ミルクのにおいのする唇でキスをされた。

ドウセイ

ドウセイ

同棲、を辞書でひいてみた。シチューにはパンじゃなくていい。教育なんて洗脳だから。

  • 小説
  • 掌編
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  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-03-11

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