16粒の媚薬
寒さでふと目が覚めた時には、窓の外は暗闇に包まれていた。
深夜三時半過ぎを指していた壁時計を見て、帰宅した時間から思考を巡らせ、二時間半以上はソファで眠っていた事を自覚した。
気怠い身体を起こして、キッチンへと向かった。
冷蔵庫からパックのジャスミン茶を取り出し、愛用のマグカップに注ぐと、一気に飲み干した。
淵に薄っすらとついた薄紅色の口紅を見て、自分が水分を欲していた事に気付いた。
リビングに戻り、アンティーク加工が施された大きめの木製姿鏡に映り込んだ自分の顔を覗き込んだ。
きっちりめに巻いてあった肩までの髪はゆる巻き程度になって、古めかしい香りがした。
会社を出る前に直したメイクはほとんど残っていなかった。
ソファの横に置いてあった鞄から、いかにもお土産屋さんという雰囲気のある青い袋を取り出した。
その袋から出した箱には、コックコートを着た小さな少年と、スーツ姿の男性が握手している白黒写真の上に、“ PETERS ” と書かれていた。
赤と黒の半々の彩りの箱を開けると、ふわりとお酒の香りが鼻をかすめた。
綺麗に並べられた16粒のトリュフチョコレートは、ミルク、ビター、ホワイトの色をベースに、色とりどりのソースで装飾が施され、目でも楽しめる外国のチョコレートそのものだった。
箱の裏側に書かれた中身と同じ順番に並ぶ一つ一つの説明書きから、一番左上の “ RUM TRUFFE ” と書かれたチョコレートを、親指と人差し指で壊れ物を扱うかのような手つきで少しだけ丁寧に掴んだ。
唇を開き、口内にそれを入れる。
歯でトリュフを割った瞬間、口いっぱいにラム酒を含んだかのようなアルコール独特の風味に目を瞑り、芳醇な香りが鼻から抜けていく。
その瞬間、私は彼のペニスが入ってきた感覚を思い出した。
ドイツ出張から帰国する日は昨日だと知っていたが、時間までは知らなかった為、出社前に連絡が来たときは流石に驚いて、セットしていた前髪からコテを外すのを忘れ、きつくカールがついた前髪は眉毛と平行くらいの長さになってしまった。
それを指で梳き、少し落ち着かせながら彼と文書のやり取りをする。
早朝の便で帰国したこと、今日はゆっくりする為出社しないこと、お土産を渡したいから今日会えないかという内容だった。
それに肯定の返信をし、ストレートヘアに少しだけきつめにカールをつけて、薄紅色の口紅をつけて、プライベートでつけるジャスミンの香りの香水を鞄に忍ばせ、いつもより10分遅く家を出た。
和食が食べたいとお店を調べて連絡してきた彼と、新宿駅で待ち合わせをした。
久々に会った彼は、何一つ変わっていなかった。
そのまま二人で並んで歩き、ファッションビルの上階に入っている和食のレストランへと向かった。
金曜日の夜とあってか、テーブル席が埋まっていた為、左側のカウンター席の一番奥へと案内された。
右側に座る彼の久々の気配に、少しだけ心臓の鼓動が早くなるのを感じた。
二人で定食を注文し、待っている間にドイツ出張の話を聞いた。
彼の会社で製作している商品の初の海外出店だった為、楽しそうな表情の彼の話に耳を傾けた。
両隣のブースの方が何度も出店しているベテランの日本人で設営から色々と教えてもらったこと、その人達と二日に一回は夕食を共にしていたこと、下戸の彼にとってはドイツビールは日本のビールより飲めなかったこと、ソーセージと付け合わせのポテトとザワークラウトには二日目で飽きてしまったことを、時折写真を見せながら話す彼は、相変わらず素敵だと思った。
運ばれてきた定食に舌鼓を打っている私に、何度か太ももを撫でる悪戯を仕掛けてくる彼を交わしながら完食した。
カードでお会計を早々と済ませた彼にお礼を言うと、手を握られてそのまま流れるようにホテルへと向かった。
少し古めの部屋に入り、鞄をソファに置いた。
厚手のコートを脱いだ瞬間、後ろから彼に抱きすくめられる。
次から次へと私の服を脱がせて唇を合わせてくる彼の目は、男そのものだった。
私も彼のシャツのボタンを外し、その唇に合わせるように少しだけ背伸びをする。
生まれたままの姿になって、そこからは二人でベッドに沈んだ。
久々に受け入れた彼のペニスは、私の中でより一層質量を増し、奥まで押し広げていくように動いていた。
眉間に皺を寄せて快感に耐える彼の表情に、子宮の奥が締まるのを感じた。
そこから先は快感と彼に身を委ねた。
脳内で巡る数時間前まで一緒にいた彼を思い出した頃には、口の中にはラム酒の香りだけが残っていた。
箱裏の説明書きを眺め、ソファに寄りかかりながら天井を仰いだ。
ホテルの休憩時間の制限が迫る中、帰りの身支度をしている時に、彼からこのチョコレートを受け取った。
彼が出張に行く前の最後に会った日、年に一度のチョコレート屋の戦略に乗るつもりはなかったが、当日は出張中で会えない彼に、本当の心の奥に抱いていた気持ちを隠し、何かとお世話になっている日頃の感謝の気持ちと告げ、私の好きなGODIVAのトリュフチョコレートを渡した。
私の想像以上に喜びを露わにした彼に驚きながらも出張の成功と無事を伝え、帰路に着いた記憶は遠い昔のように感じた。
私と言えばチョコレート、なんて言いながら私にこの箱を手渡した彼はずるい人なのかもしれない。
これはただ単に出張のお土産なのか、それとも私が渡したチョコレートのお返事なのか、もしくはその両方なのか。
彼とは付き合ってはいない。
身体の関係はあるから、セフレという位置付けが正しいのかもしれない。
ただ、心のどこかで私と同じ気持ちを抱いているのではないかと考えてしまう私はやっぱり年頃のその辺にいる女の子なのだろう。
そして、会う度に彼を受け入れている私は、所詮 “ 動物の雌 ” に過ぎないのだろう。
はっきりしない関係にやきもきしていた数ヶ月前を考えると、私の中でも着実に何かが変わっていた。
その関係に終止符はあるのか、私には分からない。
「好き、か」
呟いた独り言は白い天井に吸い込まれていくようだった。
もう一粒、チョコレートを口に含む。
また同じ感覚に、身体の奥の私の女の部分が疼き始める。
時計の針はいつの間にか四時を指していた。
そのままお風呂場へ向かい、熱めのシャワーを浴びながら私は、生まれて初めてオナニーをした。
彼の匂い、息遣い、名前を呼ぶ声、少し冷たい唇の感触、私の中で動く指先、私の脳内は彼で埋め尽くされていた。
チョコレートは媚薬として昔から食されてきたと聞いたことがある。
あの16粒は私にとっては彼を思い出してしまう媚薬なのだろう。
快感に身を委ねた私の鼻からは、ラム酒の香りが抜けていった。
16粒の媚薬