蝿にまつわる話

蝿とトイレ

 公園にある障がい者用トイレは広くて清潔だ。
 引き戸をあけると、白い壁で囲まれた四畳ほどの空間が広がる。薄暗く、トイレットペーパーや洗面台や消毒用のアルコールがすべて灰色に見える。ランドセルを降ろして便器に座ると、冷えた陶器の冷たさが股に染み渡った。
 ランドセルの中から漫画を取り出し、便器に座って足を組む。
 外から聞こえる笑い声は、公園で遊ぶ幼い子ども達のものだろう。嬌声がトイレの厚い壁を通してくぐもって聞こえる。風が木の葉を揺らす音も聞こえる。トイレのドアに風が吹いて、ガタガタと音をたてて揺れる。
 外にでたら、いるのは子ども達だけだろうか、それともその母親も一緒だろうか。
 考えていると、目の前を一匹の蝿がブンブンと飛び回った。ぼくの漫画の上端にとまって、「こんな時間に何をしている」と、そう言った。
「教室に入るのが怖いんだ。みんな、ぼくのことを邪魔に思っている」ぼくは言った。
 蝿は紙の上で毛むくじゃらの両前足をしきりにこすり合わせている。
「人に好かれないと、なんにもできないのか、てめえは」
「そんなことはない。そんなことはないんだ。だけど、でも、やっぱり、どうにも……」
 蝿はフン、と鼻を鳴らした。
「早く、大切な人を見つけることだな。それまで苦しみ倒せ、クソガキ」
 そう言うと蝿は、どこかへ飛んでいってしまった。 引き戸の向こうでは、相変わらず子どもたちの笑い声が響いていた。

蝿と弁当

 朝起きてすぐ、会社に風邪で仕事を休む旨の電話を入れた。一仕事終えた気分になって、私は冷蔵庫から冷えた缶ビールを取り出してソファに横たわった。テーブルの上には昨夜食べていたコンビニ弁当の残骸が残っている。冷房も付けずそのままにしていたせいで、弁当の残りは早くも腐りかけている。すえた匂いがして不快だ。よく見ると、蝿までたかっている。特に丸々と太った一匹が言った。
「お嬢さん、もう少し栄養があって味も良いものを食べた方がいいよ。夕食にここのコンビニ弁当はあんまりだ。我々が食事に文句を言うなんて、よっぽどだよ」
 蝿は机の端にとまって、私を見上げていた。後ろの脚でたち、複眼が私を見つめるのがわかった。ときおり両前脚をスリスリと擦り合わせる。王様に媚を売る側近を彷彿とした。言っていることは、媚を売るのとはまるで真逆だけれど。
「蝿のくせに生意気ね」
 私はソファの下に手を突っ込んで、ハエ叩きを取り出した。
「だいたい、蝿がここのコンビニ弁当はダメだ、なんて、そんなことわかるっていうの」
「我々は、コンビニ弁当には詳しいんだ。その習性上」
 わかるだろ、とでも言うように彼は肩をすくめるような仕草をした。
 なるほど、と私は頷いた。
 確かに、あちこちのゴミ捨て場を狩場にしている彼らにとって、コンビニ弁当の残骸はポピュラーな餌の一つだろう。剥がし損ねたラベルの文字が読めるのか、なんてことは、ひとまず置いておくとして。
「それにしても、やっとありつけた餌がこんなC級品だなんて」
 やれやれ、とでも言う風に彼が嘆く。ここの弁当を買うなら、もう五分歩けばもっとマシな弁当を売っている店があるのに、と呟くのを聞いて、グルメな蝿というのも生き辛いだろうな、と不意に私は考える。
「まったく、生きていても良いことなんてまるでない。人生は墓場だ。この体は棺桶で、僕は囚われの身なんだ」
 彼の感傷的な言葉を聞いて、私はぷっ、と吹き出してしまった。たかがお弁当で、ポエマーな蝿だ。
「あなた、人じゃないじゃない。人生って言葉はおかしいわ。強いて言えば、蝿生、かしら」
 私が言い返すと、「揚げ足をとるなよ。言いたいことはわかるだろ」と言って彼は元々突き出た口吻を更に尖らせた。
「まあね。ならあなたは、早く死にたいってことになるけれど」
 私はこれみよがしに右手にハエ叩きを持って素振りをしてみせた。
「そんなに賢いなら、蝿が私たちにとって気持ちのいいものじゃないって、わかるでしょう?」
 プラスチックの柄がしなり、ビュンビュンと風を切る音がする。蝿は肩をすくめてこう言った。
「僕にとっては、蝿として生きている今こそが、死んでるってことなんだ」
「どういうこと?」
「死んでいることが正常で、生きていることは異常なのさ。君、蝿の寿命を知っているかい。我々は、だいたい6週間しか生きられないんだ。それも、何億匹と生まれる赤ん坊のなかで運良く誰かの餌にならず成長できたとしてね。生きているってことは、すごくイレギュラーなことなんだよ」
 蝿は滔々と語り、私は黙って彼の話を聞いていた。つけっぱなしのテレビから、楽しげな笑い声が聞こえる。蝿はヒートアップしてきたらしく、言葉に熱がこもり始めた。
「だいたい、蝿として生きるってことに、僕はまだ納得がいっていないんだ。だって、こんなに賢くて感情豊かなのに!だけど、誰に当たり散らすこともできない。全ては神様の気まぐれだ、なんて、無理やりに納得するしかない。だけど、だよ。そんなことで、納得できるかい!?神様なんてやつが本当にいるかどうかもわからないのに!でもどうしようもない。だって、僕はまぎれもなく蝿で、それ以外の何者でもないんだから。だから僕はせめて
「そうね」
 私は頷き、ハエ叩きを振りかぶって、勢いよく彼に叩きつけた。彼の体が潰れる感触がして、あとには汚らしい蝿の残骸と汁しか残らなかった。
「まずい弁当でごめんね」
 私は謝りながら、弁当にたかる他の蝿たちを一匹ずつ、丁寧に潰していった。 

蝿とゴミ捨て場

 ゴミ捨て場に住み着いているわたしは、きっと蝿のように誰からも必要とされない人間なんでしょう。その事実について考え出すと、辛い、と思って、胸の奥がキュンと痛みます。だけど、どうして生きていられるの?と聞かれたら、わたしはこう答えるでしょう。「要するに慣れです」
 家出をして、学校にも行かず、セーラー服のまま、市営の団地の薄汚い白い正方形のゴミ捨て場の裏にわたしが居座り始めてから、1週間が経ちました。自分の住処にゴミ捨て場を選んだのは、まずひとつ、食料が勝手に運ばれてくるから。それに、アパートの壁とゴミ捨て場の壁のあいだに身を潜ませていれば、人目にもつきません。ただ、生きるだけでいいのであれば、こんなに楽なところもないのでした。
 日がな一日、日陰に身を潜めて、じいっとしていると、退屈でしかたありません。ぶんぶん飛び回る蝿が、ときおり三角座りをするわたしの膝にとまるので、すばやく指で潰して遊んでいました。この遊びをはじめてすぐのころは、一日で10匹も殺せなかったのですが、今では30匹はかたい。「要するに慣れです」わたしはまた、その言葉を頭のなかで繰り返します。
 夜。辺りにひとけもなくなる、深夜です。わたしはゴミ捨て場の影から這い出て、今日の食事を確保することにしました。足がこわばって、よろけて壁に頭を打ってしまいました。あいててて、とさすっていたら、俺達はもっと痛い!と声が聞こえました。振り返ると、一匹の蝿が、わたしの目の高さでホバリング飛行をしていました。
「お前だな、ここ一週間、おれたちを殺しまくっている悪魔は」
 ふんぞりかえって蝿は言いました。威厳を出そうとしているのか、大げさに低く抑えられた声音は、かえって彼の臆病なことを露呈しているように感じられました。
「おれは、お前に忠告に来た。これ以上おれたちを殺したら、きっと恐ろしいことが起こるぞ。何千匹もの仲間と、お前の体にとりついて、前足で擦り殺してやる」
「やれるもんなら、やってみな。やれないから、わざわざ言いにくるんでしょう」
 わたしの言葉に、蝿はびくりと体を震わせました。図星のようでしたし、図星であることを全身で表現するその体、表情、発する空気が、なんだか愛しく感じられました。もう少し、いじめてやりたい。掌のうえで、踊りでもしないだろうか。そうしたら、どんなに可愛いだろう、いつでも潰せる蝿のダンス。そう思いました。
 「……だいたい、ゴミ捨て場はお前のいるべき場所じゃないはずだ。その薄汚れたセーラー服を洗濯して、漂白して、清潔な校舎で勉強をしろよ」
 消え入りそうな声で蝿が言いました。気持ちが弱って、どうしようもないのだ、とでも言うような、情けない声音でした。それを聞いた瞬間、わたしのなかにあった、蝿を愛おしく想う気持ちは消えました。代わりに、冷たい、殺意がわきました。弱さをそうやって表に出すなら、いっそ、潰してやろう。
 ぱっと手をのばして、蝿がぶんぶんと漂っている空中を掴み、掌をぎゅっと握り締めました。蝿の小さな体が、わたしの手の中で潰れて、汁の出るのがわかりました。ゴミ捨て場の壁になすりつけて拭うと、蝿の死体は汚い白壁にへばりついて、ぐちゃぐちゃの粉々になりました。あとには、静寂だけが残りました。物音一つ、しない、いや、本当に少しの音もどこからもしないのでしょうか。ただ、わたしの耳が、それを聞くのを拒否しているのかもしれません。頭の中心に鳴る、ミーーーーーーーーーンという音が聞こえるばかりです。学校のやつらも、わたしをいじめるとき、こんな気持だったのだろうか、と思いました。
「要するに慣れです」
 ひとりごちて、わたしはゴミ捨て場に積まれているゴミ袋のなかから、食べられそうな残飯を探します。
 「要するに慣れです」と、いじめられているときには思えなかったのに、ホームレスみたいになっている今はどうして大丈夫なんだろう、と考えると、不思議でした。大きなゴミ袋の口のしばりをほどいて中をのぞきこんだら、数千匹にものぼろうかという蝿がそろって前足を擦りながら、こちらをにらんでいました。
 「また殺したな!」
 わんわんとうなる蝿の大群が、わたしの視界を覆いました。
 体一面にまとわりつかれ、何千匹もの蝿に擦り殺されながら、そうか、やられたらやり返せばよかったんだ、と思いました。

蝿にまつわる話

蝿にまつわる話

蝿が出てくる、3つの短い話です。

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-03-11

Copyrighted
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  1. 蝿とトイレ
  2. 蝿と弁当
  3. 蝿とゴミ捨て場