天使の降り立つ街

天使の降り立つ街

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ひどくロマンチックな名前を持つこの街は、年間を通して温暖で過ごしやすく、ほとんど雨も降らない。
そして、ニューヨークに次いで人口が多い巨大都市でもある。
巨大都市なだけに経済活動も活発で、老若男女の学生、労働者、観光客、その他の雑多な人間が集まってくる。

巨大都市の片隅に住む私もまた日々の糧を得るために働いている。
性別:女、家族構成:独身子供なし、年齢:壮年、職業:中堅商社の中間管理職
管理職という肩書があるが、特に出世したという訳ではなく、長く勤務していたら順繰りに役職がついたというだけ。
特徴もなく、秀たところもなく、ドラマティックでもなく、平凡に堅実に日々を生きている。

一人暮らしをしているアパートメントからオフィスまでは徒歩20分。まあまあの立地と自負している。
古くて大きなこの建物は、偏使いづらい間取りの部屋が多くて、立地のわりに家賃が手ごろだ。
そのせいか、学生、若い夫婦、子だくさんの一家など、およそ共通項のない人々が雑多に暮らす。

最近、同じ階の越してきた若者は、今時珍しくわざわざ引っ越しのあいさつに来た。
「金髪美女!]と思いきや美青年だった、優しげな笑顔を浮かべて「ラファエル」と名乗っていた。性別問わずこの見た目ならば眼福というもの。
人に好かれる体質らしく、よく誰かと笑顔で立ち話をしているのを見かける。最上階の若夫婦、4階の警官、管理人とそのの飼い猫、などなど。
私は引っ越しのあいさつ以外でラファエルと言葉を交わした事はない。留学生らしいが、どこの国から来て何を勉強しているのか正体は不明だ。
特に隣人に興味もない、興味を持たず詮索しないのが、大都会のマナーというものだ。

いつも通り、早めの時間に出社して、雑務を片づける。定時になり、同僚が続々と出勤してくると、本格的にオフィスが稼働する。
前日の収益を集計して上司へ報告する。後輩から質問を受けて関連資料の場所を答える。取引先からの電話で契約書のドラフトに修正を加える。翌週の会議時間変更を関係者へ周知する。監督官庁への届出書類を作成する。
必要な事を一つ一つ着実に片づける。慣れた作業、いつも通りの日々。

会社全体では、女性社員の割合はごく少ないが、私の部署は3割以上が女性。「女の下には女をつけとけ」という安易な組織の論理だろうか?
絶賛子育て中の女性もいる。応援したいと思う。心から。
でも、「子供が熱を出したので遅刻する」という連絡を受けて、ため息を飲み込んで「気をつけて、無理せずに」と親切な言葉をかけて電話を置く。応援したいと思うけれど、どうしたら良いかわからない。

結婚ごときで人生は変わらないが、子供を持つと人生が変わる。第三者としての観察結果だ。
「子供の具合が悪いから」という理由で、遅刻早退と急な欠勤を繰り返す女性。
とても優秀な人なのに、仕事に集中できない状態で生産性が落ちる。仕事より大切なものを選んだ結果だろう。

「少子化の時代は社会で子供を育るべき」「良い上司としてフォローすべき」そんな義務感から、遅刻して出勤した直後に、保育園からの連絡を受けて、そそくさと早退する女性を快く送り出す。彼女の業務を全て引き受けて。
とてもとても優秀な女性だが、業務ではアテに出来ない。忙しい時期は内心で「迷惑だな」と思ってしまう。
そんな自分の狭量に吐き気がする。それでも思考は止められない。
社交的な彼女は男性の上司からも大人気だ。私へもさり気無い気遣いをしてくれる、とてもとてもとても優秀な人。
非社交的な私には出来ない事を、楽々とやってのける。きっと出世するだろう。
子育て中、業務を全て肩代わりした、わたしを踏み台にして。 
男性上司は気付かないだろう。子供は1ヶ月の半分は体調を崩している事を、保育園に走る母親は仕事がほとんど手つかずだという事を、その仕事をフォローしている人間がいることを。
きっと、気付きもしないだろう。

おそらく、私は今の会社でこれ以上の出世はできない。
かといって、子供を持っても自分の時間を奪う対象を愛する事は出来ないだろう。人には向き不向きがある。
最近、ひどくマイナス思考になっている。頭痛がする。

自分の汚さと狭量さに吐き気がする。温暖な地域でも冬は寒い。冷気が袖口から入り込んで吐き気を増幅させる。
背中にべっとりと悪寒が張り付いている。風が冷たい。会社からアパートまで徒歩20分、こんなに遠かっただろうか?

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案の定、風邪をひいていた。
体調管理に綻びが出るとは、やはりトシか。
幸い、明日からは土日の2連休、全力で体調の回復に努めよう。寝るのが一番だ。

しかれども眠れない。。。
家中の毛布を全部かけた。エアコンも動いている。それでも、背中に真っ黒く張り付いた悪寒が離れない。
「このまま、一人で老いて死ぬのかな」と思う。リアルに苦しい。
人間は食べて眠れるうちは死なないという至言がある。胃が何も受け付けないから、24時間以上何も食べていない。
だから、せめて眠ろう。苦しくてもとにかく眠ろう。

体中が痛くで目が覚めた。夜が明けたらしい。体温をはかると38.8℃、久々のハイスコアだ、日中には39℃を記録するかもしれない。背中に張り付いた悪寒はさらに粘度を増している。毛布が重い。
土曜日なので近所の医者も休みだ。色々とままならない。
「このまま、一人で老いて死ぬのかな」と、再び思う。「死体の後片付けをする偏屈大家は大変だな」「せめてもう少し部屋を綺麗に片づけてから死にたいけど身体が動かないな」などと考えつつ、夢と現実の間を行き来する。
頭が痛い。眠りは苦しくて、救いにならない。

2回目の朝、少しだけ頭痛が取れていた。ただ、ひどく熱い。汗をかいたらしく、シーツとTシャツが気持ち悪い。シャワーを浴びてシーツを取り替える。ほんの数分なのにフラフラして立っていられない。胃に何か入れた方が良いとは思うけど、受け付けない。
脱水症状を防ぐために、無理矢理水を流し込んで、再び寝る。少しだけ、新しいシーツが気持ちいい。

3回目の朝、カーテンの外が明るくなっている。カーテンの隙間から水色の空が見える。ひどく汗をかいたらしくTシャツが肌に張り付いて気持ち悪い。それでも、ずっと背中に張り付いていた悪寒と、頭の中の重みが取れていた。

空っぽの胃に水を流し込んでから、シャワーを浴びる。
水道から出てきた水は、不思議と甘い味がした。

月曜日なので、出勤するために着替える、病み上がりなのでいつもより厚着をする。それでも野暮ったいシルエットにしない組み合わせが悩ましい。
玄関の扉を開けると冷えた透明な空気が身体を包んだ。あれほど冷たく恐ろしかった冬の空気は、濁ったぬるま湯を洗い流すように身体に沁み込んできた。体中の空気を入れ替えるために思い切り吸い込む。空が青さを増していた。

久しぶりの歩行のせいかフラつく。階段を転げ落ちないように、いつもより一歩一歩踏みしめて階段を降りる。
アパートの入口のところにラファエルの背中が見えた。冬の冷気の中で首をすくめる動作が猫に似ている。
気が付いたら「おはよう」と声をかけていた。

朝の淡い陽光の中、ラファエルが振り返り「おはようございます」と言って笑った。
ラファエル、東方を司る風の天使の名前。
ここはLos Angeles 天使の降り立つ街。

天使の降り立つ街

天使の降り立つ街

  • 小説
  • 掌編
  • ファンタジー
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-03-10

Copyrighted
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