星夜来の噺

 夜来の噺をいたしましょう。森羅万象が混濁し、生も死も朧だった下界に星海がひらいた、遥か昔の言い伝えの通りに。そも、厚い雲を貫いて東、褪めた青の天界にちょんと鎮座まします、くだりの蓮沼が序開きにございます。
 ええ憶えておりますとも、まさしく雲上の怪でございました。吉祥雲の綺羅にそぐわぬ暗灰色の水だまりが、あわげなむら雲から一滴たりとも零さずに、底知れぬ呈で幾星霜を其の場所に腰据えているのです。事実水を掻く棹(さお)は十人の偉丈夫を積み並べるよりなお丈長で、澱凝る泥中を突き遣るたびに塵芥が舞い上がり、霞みがかった青緑がゆるゆると淀むのです。その靄も水面に近づけば近づくほどに澄み、薄青や淡紅に染まった光ばしらが揺り重なる域に達して幾万もの茎がひょろひょろと水中に伸び生えていますところを、更にあぶくを散らして浮き上がれば、其処には一面、蓮畠。央の窪んだ、淵なよやかな緑葉が掌をひろぐように繁り鬩ぐ合間、紅色の蓮花が凛と首伸ばして清らかに咲きやわぐ、極楽もかくやという景色が広がっているのでした。芳しい香りがいっぱいに噎せ満ちて、空の彩色を照り返した華露をひらりひらりと舞う蝶が徒らに散らし、羽搏きが儚い花びらに数瞬の紅影を落として一輪、二輪と移りゆくさまは、時を忘れてしまいそうなほどに美しいのです。
 その蓮花の点在する茫洋たる緑の水原を、すいと丸船が往き抜けて、時折船頭が身を乗り出しては、蓮花を手折るのでございます。一折、二折り、丸舟の先は花が溢れんばかり。長い棹を器用に繰り、船頭は沼の中央まで船を進めると、漸く動きを止めました。まだ年若い者でした。細腕は生白く、花めいた貌に唯一贅沢な、しゃらしゃらと鳴る玉房を飾るさまは高貴な御方にお仕えする童子を思わせましたが、頬は薄くこけ、纏う衣は粗末なものでした。履は草臥れ、爪先には穴さえ空いているのです。そんな有様を、気にしたふうもなく、船頭は櫂で沼底を一突き、二突きと遣りました。首を傾げ、もう一度と櫂を持ち上げたところで、緑葉の水面がむらむらと揺れて、やあやあ見ゆるうちに割れたかと思うと、暗い沼の底からぬっと双眼が現れたのでございます。
 大きな目玉が二つ、その上には薄く膜かかって、さながら瞼のようでした。まなこは確かに透けて見える、しかし焦点が合わずどこか虚ろで、おそらくは目を閉じているのだろうと窺い知れるのです。
 もし。もし。そこな御方。鈴のような音を転がして、化け物は水面を震わせました。
 もしや。あなたさまは、このぬまのぬしさまでいらっしゃる。
 や。あっちは下人よう。おみゃあ、なんぞ。
 東の曉雲から生まれ出づる、わたくしは小夜の化生にございます。
 なんじょ、かような場所に居る。
 逃げて参りました。
 ほう。何から。
 白く得体の知れない、わたくしを滅ぼすものより、逃げて。嗚呼、どうぞ後生ですから、わたくしをこのいっとう深い沼に置いてくださいな。おそろしゅうてならぬ。ならぬのです。
 やくたいのない。おみゃあ、話をせい。
 淡く呻き声を漏らして、化け物は語り始めました。
 ――わたくしは夜に棲む、蜉蝣のようなものでございます。もっぱら知るのは暗い世界ばかりですけれども、ええ、わたくしも微睡むことがありまして。近頃は、決まって恐ろしい夢ばかり。それというのも、舞子が夜な夜な現れては踊り狂い、最後は光に喰われてしまうのです。
 舞子は白い衣を纏っていました。薄絹がまろやかな線を描いて暗闇にたゆたい、次の瞬間にはさっと風を切る、さながら白い炎のようでした、嗚呼燃える、儚げに、いいえいっそ力強く、さあ、命を燃やせと言わんばかりに、ともすれば洞窟の水だまりに蹌踉めく光のように細かな綺羅をはなち、たいそう美しく踊る情景を、わたくしは心奪われて見つめているのでございます、嗚呼、けれど、けれどどうして、どこからともなく目を焼かんばかりの熾烈な光が舞子を射抜くように揺らめき立ち、虎のように伸びあがったかと思うと、あっと叫ぶ間に大地を覆って、何もかもを真白く染め上げてしまって、もう何も、何も見えなくなってしまう。小さな光など、より大きな光には呑み込まれて、掻き消されてしまうのだと言わんばかりに。
 けれども、聞こえておりました。舞子の肢が地を打ち飛翔する音、揺れ惑う空気のふるえ、果てはその息遣いさえも。その舞子の動きには躊躇いなど一欠けらも感じられなかったのです。驚きも無く。喜びも無く。悲しみも無く。嘆きさえも無く。
 わたくしはふと、背筋をぞぞと這い上がるような寒気に襲われました。
 白い闇の中で踊る、それは、地面の遠さもなだらかさも、跳躍の高さももわからぬ漆黒の闇で踊ることと、いったい何が違うというのでしょう。
 目をとらわれているうち、舞子を包み込んだ光が、よりいっそう大きくなるのでございます。蛙の腹のように、いいえそんなものでは追いつかないくらいに、膨れ上がり、今にもはちきれんばかりに。わたくしは怖くなって、ただもう一心に走り出すのですけれども、光は、みるみるうちにわたくしに迫り、どこまでも、どこまでも。ああ、鴻大に過ぎるものは、どうしてあんなに心の臓をつっつくのでしょう。自分がどうにかなってしまいそうな狂乱の最中、とうとう追いつかれて、一面が真っ白に染まったかと思うと、次の瞬間には目が醒めているのです。
 船頭は、指先で顎を擦りました。
 ほいで、ここに。
 お恥ずかしながら。今や昼最中の光にさえ怯えて、こうして暗い沼底に居候させて頂いている次第にございます。ああ、お願いです、何卒、此処にわたくしめを。
 哀願する声は痛切なものでした。船頭は何事かを考えるような素振りでしたが、やがて深く頷きました。
 おみゃあ、おてんとさまらが喧嘩するさまを見たんじゃろう。 
 お天道さま。
 そうよ。先の大帝(おおみかど)は、ふたつのおてんとさまを生みなすったが、まあ仲が悪うて、悪うて、大帝が居られる間も、とうとう顔を合わせなんだ。そのうち、天に二陽は要らぬとひどく争いなさって、おみゃあが夢見たのは、おそらくはその夢告げに違いなかろうて。
 棹を再び水面に突き立てて、船頭は舟を揺らします。
 その妙な光も、直に消えるじゃろう。あっちは構わんねえ、好きなだけ居りゃあ良い。
 再び緑の海に漕ぎ出した船の気配が、薄らいでいくのを感じた化け物は、やがてゆらゆらと水底に沈んでいきました。

 沼の底には、生温かい闇が広がっていました。緑泥の淀む、暗く穏やかな静けさが支配する場所は、顔も知らぬ母の胎に似ていたのでしょう。暫く化け物は、蓮の根を齧り、時折棹が水を揺らすさまを遠く感じながら、まんじりと過ごしたのです。夢を見ても、はっと目を覚ませば其処は暗闇でしたから、光が無いことに安心して再び微睡み始めました。
 蓮沼の底、土がひそやかに蠢き、呼吸する、生命の音を間近に聞きながら、しばらく化け物は、ぬるい安穏とした生活に身を委ねたのです。

 仄暗い、それでいてまなこに突き刺さるような奇妙な明るさを感じ取ったのは、暗い夜のことでございます。化け物はうつらうつらと夢現のあわいを漂っておりましたが、いつまで経っても光が消え去らぬことを訝しく思って、とうとう目を醒ましました。遠く隔たった水底に、微かに光が射しているのです。これはどうしたことだろう、と化け物は不思議に思いました。近頃、船頭の舟の気配もありません。天界で何ぞあったのか。化け物は蓮の根を傷つけぬようにそうっと水を掻くと、水面へ向けて緩やかに上り始めました。澱を抜け出で、瞼越しの光がますます強くなるにつれ、ますます不安が募りました。得体の知れぬ光です。それでいて妙に惹きつけられる光でした。気付けば化け物は、綺羅の水飛沫をあげて水面を突き破り、いっとう深い蓮の香りに包まれていました。冷気に驚いてたまらず目を開けた先には蓮葉と夜空が広がり、視界の端には、光が煌々と照っているのです。目を向けようとして、その眩しさに化け物は顔を背けました。目が潰れんばかりの光です。閉じたまなこの下で、その光がさっと飛び上がった熱を捉えました。更に驚いたことに、遥か天上から、もう一柱の光が降り注いだのです。
 その二つの光は衝突し、離れ、再び重なり合い、反発し合うように飛び返りの舞踏を蓮沼の上で繰り広げました。刃のぶつかり合う凍てついた音に、これはただ事ならぬと身を竦めていた化け物は、これこそが、二陽の争いだと気づきました。きつく閉じた瞼越しにもわかる鮮烈な光のぶつかり合いは、まさしく、夢に見た光景と似通っていたからです。あまりの恐ろしさに動くこともできぬまま、気配をじっと探っていると、ひときわ大きな閃光がさっと世界を照らし、そして消えました。
 化け物は恐る恐る、目を薄く開けました。遠い空に太陽の如く輝く一柱の光が、夜を明るく照らし出していました。その最中を、羽捥がれた蝶のような躰が、力失くして堕ちてくるのです。白く美しい絹の衣を纏った、それはいつか見た舞子の如く。
「あっ」
 暗い波間に眸がひらいたのは、直ぐのことでした。あ、あ、と声をなさぬ音を発したあと、化け物は蓮花を押し分けるように水面を動き、そうしてとぽんと蓮沼に墜えたその躰に、手を伸ばしました。
 すっかり光の弱まった御仁の、見覚えのある顔形に、かれこそが、もう一柱の太陽であったのだと化け物は気づきました。それは失われていく光でした。敗けた躰は最早いのちの音さえ微かに、白く輝く最期の光を燃やして、儚くなろうとしているのです。
「嗚呼」
 胸にかえった例えようもない哀しみをかき抱くように、化け物は小さな躰を深く抱え込みました。沼の下へ、下へと、幾万の綺羅となって消えてゆく光の一粒一粒が惜しく、たまらずに嘆きの声を上げました。
「嗚呼……」
 一度きりの恩でした。けれども、それで充分だったのです。
 光を抱いた、大きな真っ黒い化け物は、蓮花を道連れにしてゆるゆると水底へと沈んでいきました。沼の一番、深いところへ、そこは暗闇の最奥かと思われました。そのままふたり、永劫の眠りについたって構わなかった。
 けれど化け物は、蓮沼の主の輝きが惜しくて、あまりに惜しくてならなかったので、大きな前肢で、沼底を掻きやったのです。先は下界、未だ混沌めいた不浄の場所であったけれども、化け物はそこに一縷の望みを賭けました。
 果たして吉祥雲の底は裂け、天界の水だまりを貫いてまろび堕ちた先で、化け物は己が姿を取り戻しました。夜の切れ端であった姿は深い黒々とした闇へと転じ、そうして目まぐるしく太陽が昇り下りするばかりであった下界に、初めて静謐とした夜が訪れました。安寧とした、ひそやかな夜でした。
 夜が抱えていた一柱の光は、とうとう砕け散ってしまいましたが、夜の手に抱かれて、煌めく幾千幾万の星になったということです。ほうら、夜が来たら見上げてごらんなさい。あのひとつひとつの輝きを。
 これが地上に星堕ちたはなし。幾たび誰かが語ったやもしれぬ、遠い昔の言い伝え。
 おなぐさみに足りたなら上々、もし思い出すことあれば、いつかあの蓮沼を訪ねてくださいまし――。

星夜来の噺

星夜来の噺

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-03-10

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