孫
「お母さん。」
ある日突然、娘の杏が母の歌都子にいった。
「私、赤ちゃんできたんだ。だからこの人と結婚する。」
といって、一人の男性をつれてきた。
「失礼します。梶本と申します。」
と、丁寧な口調で入ってきた男性をみて、歌都子は、卒倒しそうになった。男性は、身体中にあばたがあり、ぎょっとするほど容姿が醜かったのだ。
「お母さん、この人ね、梶本蒼さんっていって、私の赤ちゃんのお父さんなの。ご覧のとおり、ちょっと風変わりな人だけど、優しくてとてもいいひとよ。だから、アパートとか借りて、一緒に暮らすんだ。お母さんなら許してくれるよね。」
杏は、さらりという。歌都子は娘を見て、何となく腹回りが太ったなと感じた。杏は元々細身ではなく、いわばちんでぶであったため、余程目の肥えた人でなければ妊娠中とはわかりづらかった。
「二人とも、入りなさい。」
歌都子は厳しくいった。
「お邪魔します。」
蒼は、丁寧に最敬礼して、部屋に入った。若い人には珍しく、和服を身に付けていた。
「いいのよ、そんな敬語なんかつかわなくても。まあ、ちょっと気の強い人だからさ、大目にみてあげて。」
娘がなぜこんなに無責任なのか、歌都子にはわからなかった。
「さあ、座って。いま御茶いれるからね。」
と、蒼をすわらせて、さっさと茶をいれる杏に、
「二人とも、すわりなさい!」
と、歌都子はしかりつけるようにいった。
「お母さん、一体どうしたの?あたしが好きになった人なら結婚していいって言ったの、お母さんじゃないの。」
「いいからすわりなさい!」
蒼と杏は驚きながら座った。
「梶本さんだっけ?あなた、仕事はなにをしてるの?そんな顔で、仕事がつとまるの?」
「はい、呉服屋です。」
と、蒼は正直に答えた。
「その顔で、店なんかやれるの?」
「はい、それは十分わかっておりますので、僕はインターネット販売で店をやっています。いわゆる、リサイクル着物ですね。買い取りをして安く売る。日本舞踊の先生方などが、よく購入されます。」
「あなたは、何代目?」
「いや、僕が勝手に始めました。高校を中退して、仕事がなかったので、自分で商売をはじめたんです。親もはやく亡くしましたけど、少なくともご飯は食べていけるようになっています。」
「そうそう、それにあたしのお給料で、二人十分やってけるし、三人になっても大丈夫だし、問題はないと思うわよ。あたしもしあわせだし、あと半年くらいしたら、お母さんには孫ができるし。うん、しあわせだわ。」
「馬鹿なこと言うんじゃないわよ!杏、あんたの幸せを誰が作ってあげたと思うの?」
歌都子は思わずテーブルを叩いた。
「作ったのは私よ。大学にいったのも私だし、司法試験に受かったのも私だし、蒼さんにであったのも私。他にないわよ。」
「大学の費用とか、司法試験の費用とか、そんなのを誰が出したの?」
「それは、必要だからあったのよ。でも、弁護士になるって決めたのは私だから、お母さんがなったわけじゃないんだから。だから、結婚相手だって、私が決めてもいいじゃない。」
「杏!」
歌都子は、思わず娘を平手打ちした。
「何よ!」
杏も怒鳴り返した。
「なにが問題なの!はっきり言いなさいよ!」
「だから、立場をよく考えなさいよ。その子が生まれたら、弁護士の仕事をやめなきゃいけなくなるかもしれないのよ。そうしたらどうするつもり?着物なんて、簡単に売れるものではないんだし。子供を育てるってほんとに、お金がかかるんだから。仕事につくのには、凄い困難な時代なんだから、折角、弁護士の仕事についたばかりじゃない!」
「そう、お母さんって、本当にひどい人だったんだ。でも私は、この人が好きだから。お母さんが納得するまで、この家には来ないわ!行きましょ、蒼さん。」
杏は、蒼の手を引っ張って、出て行ってしまった。後で意味がわかる、、、。
それから数日たっても、杏は連絡をよこさなかった。一月立っても来なかった。杏の携帯電話を鳴らしてみたが、まったく出る気配がない。
歌都子は、娘がどうしているのか、心配になった。とにかく応答がないので、どこに住んでいるのかもわからない。居候弁護士として、働いている事務所に、電話をかけてみることにした。
「もしもし、私、佐藤杏の母ですが、娘は、、、。」
「ああ、梶本さんのことですか?」
と、上司の弁護士の声がした。
「梶本?娘は佐藤ですけど、、、。」
「はいはい、そうでしたね。いや、おめでとうございます。お母様。先日めでたく入籍されて、これからは梶本杏と呼んでくださいと言っていましたよ。」
「じゃあ、夫のなは、、、。」
「あら、お母さん知らないんですか?結婚したんだから知ってると思うんだけどな。梶本蒼さんですよ。いや、いいお婿さんですね。やっぱり彼女の感性は素晴らしい。きっといいお父さんになれますよ。娘さん、よい赤ちゃんが生まれるといいですね。」
「じゃあ、あの子、梶本と結ばれたというのですか。あんな醜い男に?」
「はい、確かに容姿がいいと言ったらウソになりますが、彼女の出産に備えて病院も探したし、呉服屋さんですから、生まれてくる赤ちゃんの着物を縫ったり、赤ちゃんの家財道具も全部彼がひとりで調達して、杏さんは何もしなかったそうなんです。もうちょっとしたら、性別を調べにいくと、楽しそうに話していました。」
「どうしてあの子が、、、。」
「ははは、彼の容姿ですか?まあ私も、紹介されたときはびっくりしましたよ。彼、天疱瘡なんですってね。だからこそ生まれてくるいのちを、楽しみにできるんじゃないかな。」
「天疱瘡?天然痘のことですか?」
「いやいや、ちがいます。尋常性天疱瘡といって、全身に水疱ができる難病ですよ。でも、遺伝することもないし、ステロイドで症状は抑えられます
から、気にしないでくださいと、彼は言っていました。あの二人はよい父母になれますよ。」
「あの、杏は、今も仕事を続けているんですか?」
歌都子は、恐る恐る聞いてみた。
「はい、先日退職しました。私も、そのほうが良いと思いまして、退職願が出された時は、すぐに受け取りました。」
「まあ、なんで!」
「そんなに気にしなくていいんじゃありませんか?お母さんになるんですから、子供に愛情をかけられる時は、そばにいたいって言っていましたよ。彼女は少年犯罪で、被告の少年のことも弁護していましたから、よく、お母さんの愛情が足りなかったから犯罪を犯してしまった。自分に子供ができたときは、そんな育て方はしたくないって、よく口にしました。私もそう思いましたので、弁護士の仕事を続けたらそれはできなくなるから退職したい、と言われてすぐに受理しました。」
「じゃあ、これからの仕事をどうするつもりですか!私、子供を育てた母として、やっぱり生活ってお金がかかることを、よく知っているんです。あの子を大学へ送り出すために、どれだけ苦労したとお思いですか!そんな思い、あの子にさせたくなかったから、弁護士にさせたんですよ!それをどうして、放棄したと!」
「はい、ご主人の呉服屋をそのまま引き継ぐと言っていました。」
「あの男の仕事を手伝えというのですか!」
「いいじゃないですか。日本文化を伝える仕事じゃない。あ、もうすぐ依頼人が来ますから、ここまでで。」
電話はガチャリと切れた。
「もう、富裕層はどいつもこいつも!」
思わず机をバン!とたたいた。
思えば、杏を育て上げるために、本当に苦労したものだ。歌都子が夫と知り合ったのは単に母から用意した見合いだった。平凡なサラリーマンで歌都子は、専業主婦の生活をしていた。ここまでは絵に描いたような幸せだった。二年後には待ち望んだ子供が与えられた。それはうれしかったし、舅も姑も喜んでくれた。
しかし、それは長続きしなかった。夫が、通勤途中、道路を横断していたところでいきなり猛スピードではしってきた車にはねられ、死亡してしまったのである。しかも運転者は認知症であり、このことから、損害賠償などは予想していたのとははるかに少なかった。その数週間後に杏が生まれたが、舅と姑が大変かわいがって、歌都子に娘を抱かせてさえくれなかったのだ。歌都子は、娘を年寄りに取り上げられるのではないか、と不安になり、杏が一歳になったとき、荷物をまとめて出て行った。
出て行ったとしても、行くところはない。実家の両親はすでに亡くなっていた。とりあえずアパートを借りて介護施設で働いたが、それは倒れるような重労働だった。さらに杏が、経済力の違いからいじめられて不登校になった。それを打破するため、施設をかけもちして働き、杏を高名な私立中学校に入学させた。そこで杏は、友達の影響から、法律を学びたいと言い出し、歌都子はさらに働いて、私立大学の法学部に入学させた。心の内では娘に、はやく働いてほしい、という願いもあったが、娘は大学にいけばいくほど勉強意欲を見せ、教授たちからも好評だった。杏は、教授の勧めで大学院に進学し、博士号をとった。そして難関と言われている司法試験に一発合格。弁護士として、やっと働き出すようになった。大学から大学院までは
特に浪人もしなかったし、司法試験も、一発で合格してくれたため、比較的早いスピードで法律職に着くことができたが、すでに三十近い年だった。
それから五、六年、法律事務所で居候弁護士として働いてくれた。自分でやれるからと言って、アパートで一人暮らしをし、母の歌都子にも、時々仕送りをしていた。歌都子も、これでやっと自分のための人生を送れるとして、コーラス団などに参加できた。歌が下手でもよかった。ただ、他人と話したり、食事に行ったり。そんな幸せが、一気に崩れ去るのか、、、と。
高校や大学時代、杏はよく言った。
「わたし、お母さんに散々育ててもらった。だから、お母さんが理想とする男性と結婚するから。吟味してね。」
こんな約束もしていた。これも嘘だったか。
幼い頃は、お母さんが大好きだと言って料理や掃除をしたりしていた。さらには、なぜうちにはお父さんがいないのかを詰問し、
「お父さんがいなくても、暮らしていけるところになれるといいね。だってお母さん辛そうだもん。私のせいで。お母さんが辛そうにならないで、働けたらいいのにね。」
など、口にした。そのころから法律というものに興味があったのかもしれない。確かに、母親がそばにいなくても我慢してくれて、歌都子自身も娘に感謝していたのだった。
その、杏が、、、。歌都子は娘に裏切られたようなきがした。あの笑顔は作り物で、本物ではなかったというのか。
と、インターフォンがなった。
「はい、どなた?」
「すみません、」
聞き覚えのある男性の声だった。
「あなたは!」
「はい、梶本です。ここにきてはいけないことはわかるんですが、どうしても彼女のことが心配なので、お母様にご意見を伺いたく、今日やってきました。」
「で、出てってちょうだい!貴方との結婚は認めていないわ!」
「そうなんですけど、聞いてほしいんです。」
「うるさいわね!貴方みたいな商売している人に、大事に育ててきた娘を、差し上げるつもりはありません!お帰り下さい。」
「でも、本当に深刻なんですよ!聞いてくれませんか!」
蒼は、涙声になっていた。
「なんて頼りない!そんなことで泣くのなら、父親になんかなれませんね!むしろいないほうがいいんじゃありませんか?私だって、娘を一人で育て上げてきたのですよ。父親になるなら、すこし、貫禄をもったほうがいいんじゃありませんか!出てってください!二度と来ないで!」
「本当に大変なんですよ。杏が。男性の僕にはわからないから、お母様のご意見を伺いたいんです。僕は二親をとっくになくしてしまったので、聞くことができないんです!」
「だったら二人で病院に行けば!そのほうがよっぽど早く着くわよ!」
「そうですけれど、一度聞いてほしいんですよ!」
「うるさい!さっさと出てって!」
歌都子は、玄関のドアを足で蹴飛ばした。
「あんたみたいな、気持ち悪い顔で、まともな仕事もできない男に大事な娘は渡しませんから!」
「それはよくわかります!でも、」
「出てけ!出てけ!出てけ!」
怒りに任せて怒鳴りつけた。
とぼとぼと帰っていく足音が聞こえてきて、歌都子はやっと、胸をなでおろしたのだった。
ザーッと雨が降ってきた。冷たい雨だった。間もなく夜になり、やがて雪になった。この土地で雪になるのは本当に珍しい。子供たちが雪だ雪だと
はしゃいでいる声も聞こえたが、次第にそれも静かになった。
翌朝、歌都子は、ゴミ出しのため、ごみ袋をもって、ドアを開けようとした。しかし、ドアが開かない。
「雪がふさいだのかしら。相当降ったのね。」
と、ほうきを出そうと下駄箱をあけると、ごん、と鈍い音がした。もう一度ドアを開けると、今度はちゃんあいて、外を見せてくれた。雪がふさいで
いるわけではなかった。雪ではなく物体で、しかも五本の指が見える。つまりこれは人で、しかも和服を着ていた。
「ずっとここにいたの!」
見ると、それは蒼で、頭には雪が被っている。着物も、雪と雨でびしょびしょに濡れていた。腕の一部などには充血した水疱があった。
「おかあさん、、、。」
見ると、その顔は真っ赤である。発熱しているのだ。しかも相当高い熱だ。
「入りなさい。」
「じゃあ、、、お願い聞いてくれませんか?本当に彼女がかわいそうなので、見ていてこちらも辛いんです。子供を産むって、女性にはさんざん苦労させるけど、男性の僕には何もないんですね。それって、不公平すぎて、男性の僕に対しても負担を少し分けてくれればいいのに。」
その言葉は、なぜか歌都子の頭に残った。彼女が妊娠した時は、夫はただニコニコしているばかりで、すごい痛みの中でもただ頑張れというしかしなかった。あまりにも苦しかったから、夫に対し、馬鹿野郎とかくそったれとか怒鳴りつけたこともある。
「立てる?」
彼はなんとか立ち上がった。体のあちらこちらに水疱ができている。確かに気持ち悪いのだが、顔を合わせると、それほどひどい顔にはみえなかった。
「入って。」
歌都子は、彼を居間にいれてやった。とりあえずテーブルに座らせて、暑いお茶を出してやった。
「いただきます。」
と、敬礼してお茶を飲みほした。よほど寒かったのだろう。暫く湯呑みをにぎっていた。
「どうしたの、相談って。」
「どうしても、悩んでいるんです。実は、杏さん、もしかしたら中絶する可能性もあるんです。」
「ちゅ、中絶!なんでまた!」
「ええ、杏さん今、入院してるんですよ。赤ちゃんが生まれるまで長期入院になるんで、一度スマートフォンを解約しました。だから、連絡がとれなくて、申し訳なかったのです。病院に持ち込みができないものですから。」
「じゃあ、杏は、、、。」
「はい、いわゆる妊娠中毒症っていうんですか、それが、早くから出ていて。七ヶ月検診のときに診断されて、即入院になったんです。彼女、39だし初産だから、ハイリスク妊娠にはいると先生から言われまして。なんのことだかわからないうちに、あれよあれよと入院になってしまって、僕にも責任があるな、と、思ったんですよ。自覚症状は脚がむくんだり、頭がいたかったりしかなかったそうなんですが、赤ちゃんが動くのをぜんぜん感じなかったそうなので。だから、お母さんがいてくれた方が、彼女も安心するのではないかと思いまして、今日やって来た次第なんですが。」
「出ていきなさい!あんたなんか!どうせ古い着物屋なんて、色んなところへ買い取りにいかせて、杏を疲れさせたんじゃないの!本当は、謝ってほしいくらいだわ。」
「お母さん!僕はそんなことはしていないし、杏さんはたまに、店を手伝ってくれた程度ですよ。それでもいけないんですか?」
「そうよ!そうよ!手伝わせようとしたはあんたでしょ、そうさせたことに、責任をしっかりとって頂戴ね。慰謝料払ってくれてもいいわ。女性が、あんたのような、たらたらしてる男の性欲にはならないって、よく勉強しましたね。さあ、でてった、でてった、でてった!」
「そうですか。僕は父親にはなれないんですね。わかりました。ありがとうございます。」
と、蒼は後ろを振り向かず、顔を隠して、とぼとぼと帰っていった。翌日から、蒼も杏も、何も連絡は寄越さなくなった。歌都子は歌都子で、合唱団の春の演奏会へむけて、頻繁に練習をするようになったので、連絡に気がつかなかった。
数週間たった。歌都子は明け方に目を覚ました。こんな時間に電話のような音がしたような、、、と思っていたが、本当に電話がなっていた。眠い目をこすって、電話に出てみると、
「もう一度だけ、お願いします!」
「なに、またあんた!今度はどうしたのよ!」
「お願いします、すぐに中島産婦人科まで来てくれませんか、もうすぐ生まれると思うんです。一月早かったんですが、先程から始まりました。中毒症の回復もあって、自然分娩ができそうです。ものすごい苦しそうなので、お母さんに来てもらいたいんです!おねがいできませんか!」
蒼の声は逼迫していた。
「わかったわ。」
と、声が出た。お断りします、と、いいたかったのに、なぜか出てしまったのだった。
「ありがとうございます!じゃあ、電車の時間を、調べますので、」
「ああ、ああ、電車じゃなくてタクシーの方がいいわ。電車は、駅でまたなきゃいけないから。」
またしてもでてきた。
「じゃあ、お願いします!」
と、電話は切れた。歌都子は、急いでタクシーを呼び、数十キロの道のりを走ってもらって、中島産婦人科に到着した。正面玄関に、蒼が待機していた。
「ああ、お母さん、ありがとうございます!」
「お礼はいわなくていいわよ!杏は?」
「はい、ちょっとまえに、分娩室にはいりました。」
「わかったわ。」
と、歌都子は教訓的に言った。
「あんたも一緒に来て。どれ程苦しいか、わかって、反省して頂戴。」
「わかりました!」
きりりとした響きで、父親はいった。
「こちらです。」
と、エレベーターまで走り始めた。その顔は、しみだらけだし、体には水疱が増えていたが、痩せてやつれた顔をしており、何か訳があるのではないか、と、おもった。
二人は、看護師に許可をもらい、分娩室に飛び込んだ。
「杏、わたしよ、母さんよ。」
娘に近づいたが、爆撃機のようにいきむだけで、反応はない。
助産師が
「杏さん、お母様が見えたからがんばれるね。さあ、次の陣痛で、出しちゃおうね。いきまないと、でないわよ。じゃあ、いくよ、せーの、」
とやさしく声をかけるが、パニックになっているらしく、その声も届かないのだった。
「しっかりしなさい!」
歌都子は怒鳴り付けるようにいった。
「お母さんがあんたを産んだときは、すくなくともしっかりしていたのよ!だから、あんたにもできるわよ!」
「お母さん、、、。ごめんね。」
娘は力なくいった。
「杏さん、がんばろう!」
不意に男性の声がした。みると、父親が立っていた。その顔は、蒼白になっている。杏も、少し力が出たようだ。
「じゃあ、こんどこそやりましょうね。騒いじゃだめよ。いいですか、せーの、」
杏は、声を出さずにいきみだした。
「そうそう。上手じゃない。じゃあ、もう一回よ、せーの、」
これを何十回も繰り返した。長いお産だった。分娩室にはいり4時間近くになりそうなそのとき、
「出た!」
と、蒼の声。と、同時に何よりも美しい声、産声が鳴り出した。
「思ったより元気ですね、この子、男の子だわ。」
と、助産師が言っている。
「ありがとうございます、、、。」
「いま安心しちゃだめよ。後産ってのがあるんだから。ほら、杏、後産。もう一度いきむのよ。」
歌都子が声をかけても、杏は反応しなかった。
「子癇発作です!」
ピストルの玉が打ち上げられた徒競走のように、回りの人たちが超特急で彼女を集中治療室へつれていった。酸素吸入とか、心拍数とか、さまざまな機械で繋がれた娘は、翌日の夜の12時丁度ににあの世の人になった。
生まれた赤ちゃんは、父親である、蒼がひきとった。蒼は、相変わらず呉服店をやっていたが、商談中に赤ちゃんが泣き出して、迷惑になる、という客の方が多かった。新生児をあずかる保育園も近くになかったので、もう一度、歌都子の家に相談にいった。
「ほら見なさい、」
歌都子は、白髪が一気にふえていた。
「あなた、なんとかなるって言ったけど、そうして、私のところへ来るの?約束、破ったのね。」
「すみませんでした。」
「杏を殺したのもあんたなんだし。自分で考えて何とかしなさい!」
歌都子はピシャッとドアをしめた。
それから、蒼も赤ちゃんも歌都子のもとへこなくなった。歌都子はまた、享楽に走って、すっかり忘れてしまった。
そして、歌都子は随分歳をとり、享楽に走るのも困難になってきた。そうなると、誰かにいてほしい、と、思うようになった。歳をとると、誰でもそうだが、自分のからだが思うように動かなくていらいらしたり、逆に寂しくなるものなのだ。そんなわけで、そとへ出ることも少なくなり、テレビをみて一日がおわり、という生活に変わっていった。
ある日、インターフォンが鳴った。歌都子は、思い腰をあげ、立ち上がった。
「はい、どなたですか?」
「梶本です。」
若い男性の声であった。耳が遠かった歌都子は、うまく聞き取れず、ドアを開けてしまった。
「誰?」
「梶本永です。梶本蒼と、杏の息子です。」
と、名乗った青年は、キリッとした袴姿で、歌都子に強く言った 。
「あのときの、天疱瘡の男の子?」
それにしては、かっこよすぎるきがした。
「その通りです。」
「年は?いくつなのよ。」
「18です。ちょっとお願いがありましてきました。」
「もったいぶらずにきいてください。僕はこれから私立大学にいく予定です。指定校推薦で、もう内定しています。しかし、持ち合わせがないんで、おばあさまに入学金を融資していただきたいんですよ。」
「高校生?なに学部にいくの?」
「家政学部です。男性には珍しいかもしれませんが、なくなった父が残してくれた着物屋を継ぐために知識が必要と思い、受験しました。」
「じゃあ、あの男は。」
「ええ、昨年なくなりました。ステロイドの副作用で、感染症にかかりやすくなり、インフルエンザにかかって、重症化し、あっけなくなくなりましたよ。大学の資金は八割ほどありましたが、満額になるまで、あと少しなので、融資してください!」
青年は深々と頭を下げたが、歌都子は、怒りが湧き出してしまった。
「出ていきなさい!娘を奪った男の子に、お金なんか貸すわけないわ!甘えないで勉強しなさいよ!全く、いまの若者はそうやってすぐ甘えるけど、どれだけ損をしているのか、知ってもらいたいわね!」
「そうですか!」
永も負けずに言った。
「この際だからいっておきますが、父は悪いことはしていません!着物の販売も、書いとりも、みんな笑顔でやっていたから、亡くなる寸前まで、慕われていました。」
「それがなんだっていうの!さっさとでていきなさい!」
「いいえ、言いますよ!父が、亡くなる寸前に話してくれましたけどね、母は、もう弁護士をやめたいと、父に何回も話していたそうですよ。悪い人のよいところを見つけるなんて矛盾した仕事はいやだってね。でも、母が、僕にとっては祖母ですが、あんまり期待するので、やめられないし苦しい、と、何回も言ったそうなんです。そこへ僕ができたので、父は、これをきっかけに、母を自由にしてやりたい、と思い、結婚を考えたそうですよ!」
歌都子の顔が見る間に蒼白になった。そんな台詞、聞いたことがない。と、いうことすら信じられなかった。
大事に大事に育てた娘が、そんなことをいうとは、、、。
「だから、僕を産んだ時の突然死に遠い責任があるんじゃないですか?だからこそ、融資してくださいよ。お願いできませんか?」
「わぁーっ!」
パニックになった彼女は、急に体の向きを変え、部屋の中を縦断していった。しばらくすると、重いものが地面に落ちた時の、ドサッという音。
見届けた永は、鍵をあけたまま踵を返し、奨学金を得るための、事務所に歩いていった。
孫