私の刃物遊び
あなたの握った刃物は何を刺しているの。
知り合いに理解して欲しいならブログに書くし、慰めの言葉が欲しいなら恋人や友人に電話をする。誰にも言えないことならば匿名で書くわけだから、敢えてここにこうして書いているのは、完全なる匿名になるつもりがないということ。上にあげたどれも必要としていないということ。ただ、これを読んだ私の知らない誰かに、ナニカが見えたらいいな、と思う。
私には現在自傷癖がある。それは今抱えている、漠然とした憂鬱の続くあの病気のせいかもしれないし、生まれてこの方持ち合わせている希死念慮と自己肯定感の低さゆえかもしれないが、まあそれはなんだって良い。今回これを書こうと思ったのは、先日その行為を「独りよがりの自己満足」と言われる機会があったからで、また、私が思うよりずっと、セカイと私の認識との間にはズレがあるのかもしれないと思ったから。私は専門家ではないから、ひとつのサンプルとして見ていただければ幸いだ。
自傷と聞いた時に、何を浮かべる?手首の傷。リストカット。それが一番に出てくる人が大半ではないかと思う。それに対して「気持ち悪い」「やめたらいいのに」「理解できない」「やめてほしい」「怖い」「痛そう」色んな声があるだろう。「かまってちゃん」「メンヘラ」「自殺未遂」そんな感じ?
これは私の文章なので、私の話だけをしよう。私の両腕には傷が無い。じゃあ何処にあるのかって。足の付け根から太腿にかけてだ。私にとって、深く切って血を出して病院にお世話になることは望みではないので、今のところ安定剤のお陰でそこまで錯乱することもなく、言わなければ誰も気が付かない程度で済んでいる。これからもそうでありたい、と思っている。衝動的になったときにすることもあるし、憂鬱の海の底に縄でくくりつけられて、そこから脱しようと、縄を切るようにもがく思いですることもある。意識がない時に気が付いたら切っていたことはあるか、と医者に聞かれたのでそういった人もいるのだなあと月並みな感想を抱いたのだけれど、今のところそれはないようだ。起きてびっくり、
あれ、こんなに切ったっけ、と思うことはあるけれど。それは喫煙者が自らの肺を犯すように、ゆったりとした行為でもあるし、切羽詰まった行為でもある。用いるのはカミソリとカッターナイフで、気分によって使い分けている。カミソリの方が痛くて、鋭い感触。カッターは浅いけど大袈裟に血が出る。そんな認識だ。希死念慮が進化した自殺願望に支配されて、ドアノブで首を吊ることやベランダから飛び降りることしか考えることができなくなった時に、とりあえず薬を飲んで、効きはじめるまで皮膚を浅く切っていれば、その衝動が落ち着くまでやり過ごすことが出来るし、ぼんやり、あまりに漠然とした不安に耐えかねて、目に見える痛みが欲しくなることもある。自分ですら在処のわからない、見えな
い心の痛みよりも、カッターでつけた視覚化された切り傷の方が何倍もましだ。痛くないの?あんまり、痛くない。うそ、痛い。でも、世界中から目に見えない針で刺されているような鋭い心の痛みだったり、わけのわからない不安に比べたら、ずっとずっと痛くない。その方がずっとましだから、皮膚に刃をたてるのだ。ねえ、こんなこと、好き好んでやりたいと思うの?
ファッションリスカ、だったり、病みかわいい、というものがある。私自身、病みかわいい、は、かわいい、と思う。しかしそれは実際の疾患とは全く別物であると考えているし、私の両腕に傷が無いのは、コンテンツ化されたそれへの、せめてもの抵抗なのだと思う。「見てほしい」を否定しない。「見える場所にしてしまった」も否定しない。それはいつも布団の中で震えている私には、隣合わせの恐怖だから。けれど、まるで競うように切っていたり、それを美化したりすることは、私にとっては美しくない。ただただ、愚かしく思いながら、自分さえ愚かしく嗤いながら、目を閉じて、嘲る。でも、誰がそれを否定出来よう。道を歩けば吐瀉物があり、電車に乗れば痴漢がいて、テレビの中では変わらずに
誰かのスキャンダルをやっている、くだらない世界で。目を閉じるしかないじゃないか。
血を見て生きている実感を得る、という人もいるらしい。私は女なので頼んでなくとも月に一回、嫌でも血を見て痛みを感じるし、私はどちらかといえば、生を嫌悪しているから、その実感、は良くわからない。ただ、同じ行為をする人にもそれぞれに異なった行動理由があって、興味深いな、と思うのみだ。また、これは本当に私見だが、手首を切る人が一番多い理由もなんとなく理解できる。カンタンだからだろう。一番右手に持った刃物を向けやすい位置に、左手首があるからだ。そして、腕の内側というのは、非常に皮膚が薄くて血管が青く透けていて、切るのがとても容易そうだし、魅力的な部位だ。そんな風に、思っている。そんなことを考えない、ロボットにでもなれたらいいのに。
さて、ここまで書いてみたけれど、読んだダレカは、何を思っただろうか。それも、私にはどうでも良いことなんだけれど。私はこの先、投薬治療の甲斐あって、自傷をやめるかもしれないし、もしくは悪化するかもしれない。ゆるゆると、続けていくのかもしれない。私自身は、自傷を悪だと思っていない。「いや、それは悪だ」という人ほど、誰かに皮膚を切らせているかもしれない、とだけ言いたい。それは、刃物を振り回して叫んでいるのと同じだ。誰を傷つけた自覚もなしに、誰かを傷つける人が多すぎる。そうなるよりは。ずっとましだ、と、私は思うだけだ。私を愛してくれる誰かがそれによって傷つくなら、ごめんなさい、と謝る。ごめんなさい。
さあ、書き始めた最初に戻ろう。独りよがりの自己満足と言われた日、私には数本の傷が増えた。彼女もストレスで体重が増えたかもしれない。よがってないし、満足もしていない。そう言いながら嗤う。こんなどうしようもないぐしゃぐしゃの世界で、どうせ刃物を振り回すなら、切っ先の方向を自覚しているのが良い。そう思っているので、自分にしか見えない場所へ、私はそうする。刃を立てて、横引く。痛い。こんなこと、望んでやっているとでも思うのか。ただただ、不思議で、世界と自分の間の隔たりを感じて、憂鬱の海の底へ沈んでいくから、ほら、早く縛り付けている縄を切らないと。そうでなければ、だれか酸素ボンベでも背負ってきてよ。
今日も水面から少し顔を出して、ゆるく、呼吸をしている。
私の刃物遊び