診療所の花

診療所の花

このお話はフィクションです。専門的な事は何もわかりません。

 このところずっと腹が痛い。通勤中などにも急に痛みの波がきて、冷や汗をかきながら吊皮にすがる毎日だ。女性でもないのに、頻繁にトイレに駆け込むのが気恥ずかしく思え、外ではひたすら痛みに耐えている。そのために仕事に集中できないこともあるが、かといって腹痛を理由にして会社を休むのもなんだか後ろめたい気がして、今日も普通に出社した。
 普段から体を鍛えるのは好きだし、健康には自信があったから、かなりショックだが、これは病院に行った方が良いかなあと、思った矢先に貧血を起こした。仕事中、とうとう痛みに我慢しきれずトイレに入ったのだが、何の成果も得られずに立ちあがると急に視界が狭くなってきたのだ。何も出なかったことだし、とりあえずズボンを履いてトイレから出たところで力尽き、気づくと医務室で横になっていた。同僚が運んでくれたらしく、謝礼としてコーヒー代を請求された。そのまま早退を命じられたので、会社の最寄り駅周辺の診療所に寄ることにした。
 貧血の余韻によたよたと足を取られながら、さびれたビルに入る。
 一階に不動産屋と居酒屋があり、あとはシャッターが壁になっているような寂しいビルだが、インターネット情報によれば、ここの二階に診療所があるらしい。疑いの気持ちに駆られながら、薄暗い階段を上がっていくとボンヤリと青白い光が見えた。そこが診療所であることが分かると、安心と不安が同時に襲ってきた。ここは確かに営業しているようだが、こんな所にいる医者は大丈夫なのだろうか。別にどこにいても医者は医者だろうが、インターネットにこれと言った口コミもないし、何となく怖い。看板には、「蛇ノ目医院」と、これまたなんとなしに不気味な名前が書かれ、扉は古びた木の枠に曇りガラスをはめ込んだ、清潔な病院のイメージとは不釣り合いの、古風な感じのする扉になっている。しかしここ以外にないと思うと、腹痛を先ほどより強く感じながら、わたしはその扉を押した。キィっと音がして、白い蛍光灯の明かりと、能面のような顔の女性に出迎えられる。待合用の合成皮のイスはあるが、他にはだれもいないようだった。
「こんにちは」
 受付から低めの声が耳に届きわたしも、こんにちは。と応えた。
「きょうのご用件は」
 無表情に淡々と問われて、何しに来た、と責められているような気持ちになってしまうが、これはきっとただ来訪の理由を聞かれているだけだ。
「腹痛が続いていて、その、診察をして欲しいんですが」
 少々尻すぼみな物言いになってしまったが、女性は「腹痛が」と聞いただけで合点が言ったように、手元で何やらごそごそとし始めた。
「保険証はお持ちですか」
 病院ではお約束の質問に、素直に応え保険証を出すと、代わりに紙とペンを渡された。名前や住所、体重の他にもいくらかの質問が書いてあり、わかるとこだけ書き込む。それを渡すと、他に人影が無いだけにすぐ診察室に呼ばれた。
 こんなビルの中で、無愛想な女と診療所をやっているのはどんな奴だろうと、乾いた口で唾をのむ。
「失礼します」
 かすれた声で入室すると、まるで鈴が鳴るような女性の声が返ってきた。うつむいてこわばった首を動かし、顔を上げると、そこには思いもよらず線の細い美女が座っていた。
「どうぞお掛けください」
 白い指に導かれて、白衣を着た美女の目の前に腰を下ろす。
「腹痛が続いていると言う事ですが、どのようなときに痛みますか」
 美女は優しいほほ笑みをたたえて言った。うっかりへんなことを口走らないだろうかと緊張しながら答える。
「特にいつと言うことは無くて、電車とか仕事中とか、家にいても痛みます。ただ波がある感じです」
「そうですか。聴診器当てるので、少しシャツを上げていただいてもよろしいですか」
 美人の女医さんに不謹慎ながらもドキドキしながらジャケットを脱いでシャツを上げる。背中はともかく正面から聴診器を当てられると、シャンプーか何かの匂いがふわりと香って中々よろしい。そして同時に少し申し訳なくなり浮き立った心をそっと胸の奥にしまった。美しいまつ毛が離れていく。
 「ありがとうございます。それで、便はどんな具合ですか」
 うっとりしていたところ、明け透けにそんなことを言われてイスがガタリと音を立てた。そうだ、わたしはいま診察を受けている。見た目に反して屈託のない物言いをする人のようだが、美人に笑いかけれると、そんなところも好ましく思える。
「ずっと下痢が続いていて、今日もそれだと思ってトイレにこもったら何も出ずに……。それで立ち上がったら貧血を起こしたんです」
 女医さんはわたしの話しに「へぇ」とか「大変でしたね」とか、相槌を打ちながら、書類に何かを書きこんでいるようだった。そのあとにもいくつか質問を受け、ベットに寝かされる。女医さんにお腹を触られ複雑な気持ちに浸っていると、突然痛みが走った。
「ここ、痛いですか」
 わたしが小さく声を上げたことに気づき先生が手を離す。
「はい。あの、そんなでもなかったんですけど、ちょっとびっくりして声が出ました」
 正直に感想を述べると、女医さんは鈴が転げるように笑った。言い訳がましかっただろうか。しかし、笑ってもらえたことがなんだか嬉しくて、わたしも笑ってみせる。
「消化器系が疲れて吸収が悪くなっているのかもしれませんね。しばらくは、脂っこいモノとか辛いモノ、甘いモノあと塩辛いモノとかも避けて、消化に良いモノを食べて下さい」
「そんなに言われたら、先生、何なら食べていいんですか」
 一度笑ってもらえたことに気を良くして、気安く上げ足をとってみると、先生はまた笑った。
「そうですよね。まぁ、数日はお粥とかうどんとかを召し上がればいいと思います。でも天ぷらうどんはだめですよ!」
 にっこりと冗談を交えて、先生はわたしに処方する薬の説明をした。しばらくは質素な食生活になりそうだ。
 お礼を言って、受付で数分と待たずに薬をもらう。薄暗いビルから出ると傾きかけた太陽の光がまぶしかった。ごちゃごちゃとしてるわりには静かな駅前を春の風が吹き抜ける。葉のついた桜の花が揺れているのを見て夏が近づいているのを感じた。あの女医の名前は蛇ノ目裕美というらしい。帰り際に確認した胸元の名札を思い出す。忘れないうちに手帳に小さくメモをした。妻と別れ独り身になっていらい冷え切っていた胸が、久しぶりに熱くなってくるのを感じた。
 薬は効き、食生活もかなり気をつけていたおかげか、体は順調に回復した。貰った薬は飲みきり、それでも軽い下痢だけが気になったので、わたしは下心を隠しつつ、またあの診療所を訪れた。
 相変わらずひと気が無く、すぐに診察室に呼ばれる。蛇ノ目先生はわたしを覚えていてくれた。
「浜さん髪切ったんですか」
 そう、今日までの一週間のうちにわたしは髪を整えた。異性に気づかれると大変うれしい。意識して少し髪を触ってしまう。
「お似合いですよ」
「いやあ、蛇ノ目先生みたいにきれいな方に褒められると照れますね」
「お上手ですね、浜さん」
 にこにこと笑って軽く流されたがそれすら嬉しい。
「いやいや、そんな美人がこのひと気のないビルで診療してるなんて、大丈夫ですか」
「そうですね。居酒屋さんがあるから酔った人も来られますけど、店員さんの親切のおかげでなんとか。そう言えば浜さんはムキムキですね」
 触診をしながら鍛えてるのかと尋ねられ、スポーツクラブに行くのが習慣だと答える。
「そうなんですか!やっぱり鍛えてると体の調子は違うモノですか」
「比較的、回復力が上がる気がしますよ!ま、いまはお腹壊してますけど」
 他の患者がいないのをいいことに、ひとしきり話してから腹薬を受け取った。自分ばかりが話して彼女の事はあまり聞けなかった気がするが、たくさん見れた笑顔を思い出し、足取り軽く帰宅した。
 半年後、流行に乗って風邪を引いたわたしは、喜んで会社を早退し蛇ノ目医院に足を運んだ。
 例の無表情な受付に呼ばれ、診察室へ入る。
「こんにちは」
 鈴の音を期待して挨拶すると、中にいたのはボサボサ頭で頬のこけた男だった。仏頂面で会釈をする。思わず「お前は誰だ」と口走りそうになる。不審者のようにも見えるが白衣を着ているし、受付の女性は何も言っていなかった。イスに座るときにちらりと名札を見ると「蛇ノ目卓美」と書かれている。裕美さんの親類という事だろうか。
 男はカルテを読みながら、「はー」とか「へー」とか言っていた。
「浜さんですね。もう下痢は良いんですか」
 こちらを見もせずに男は言った。
「はい。今回は風邪で」
「へぇー。そう思って市販の薬を買わずに病院へ来るなんて、真面目ですね」
 不信感による疑心暗鬼かもしれないが、わざわざ病院に来るなと言われた気がしてムカっとする。本当にこの嫌味な男は裕美さんと血のつながりがあるのだろうか。裕美さんの話しではこの病院には女性二人しかいないような口ぶりだったのに、なぜきょう裕美さんがここにおらず、この男がいるのだろう。
 懐疑的な気持ちで、男の問診に答える。男の声は低すぎてときどき聞きとりづらく、聞き返しても同じような調子で返ってくるので、気を張って話しを聞く必要があった。背中に当たる聴診器の冷たさが不快に感じられる。
「咳が出てるって話しでしたけど、気管支も肺も何ともないみたいなので、とりあえず普通の風邪薬だけだしときます。」
「ありがとうございます」
「浜さんくらいだったら、飲まない方がいいくらいかもしれないですけど、まぁ仕事のときとかしんどいでしょうから、そういう時だけ飲んでください。」
 気休めになりますよ。と言った後に鼻で笑われ、男に対する不快感が喉元まで迫ってくる。言ってることは正しいかもしれないが、よくもその気の利かない言葉遣いで医者などやっているモノだと言ってやりたかった。そうするとますます裕美さんとの関係が気になり、文句の代りにその事が口から出た。
「以前ここで女医さんにお世話になったのですが、今日はお休みなんですか」
 男が初めてわたしの顔を見た。真正面から見ると横顔の印象より若く見える。
「妻は亡くなりました」
 男が短く答えた。先ほどから表情は全く変わらない。「妻」とは誰のことなのかと、男の顔を見ながらしばらく考えた。
「え、あなたは……」
「裕美の夫です。あんたはもしかして、裕美に会いに来たのかもしれませんが、あいつは亡くなりました。」
 俺みたいな夫がいてガッカリしましたか、といってそいつはニヤリと笑った。ふざけている。
「本当に。君のような男が彼女と結婚することができただなんて信じがたいですね。半年前、わたしが彼女と会ったとき、彼女は元気そうだった。どうして亡くなったんですか」
「あの時から病気でしたよ。あんたから見てどうだったか知りませんが、もうぼろぼろでした」
 彼女が体の治癒力を上げる運動に興味を示していたことを思い出す。彼女のことを語る男の目は冷たくあくまで淡々としていた。
「君は、気づいていても働く彼女を止めなかったのか」
 なぜ一番側にいたと公言するこいつが、医者であるこいつが彼女を助けてやることをしなかったのだ。
「俺はちゃんと言いましたよ。でもあいつは本当に頑固で、医者のくせに医者の言うことを聞かない。馬鹿なやつでしたよ」
「君にそういう資格があるのか」
 ぼそぼそとハッキリしない声で話す男の言葉をさえぎる。蛇ノ目は目を伏せてペンを弄り始めた。
 苛立ちが抑えきれずため息が出る。
「あなたはこれまでどこで何を?」
「総合病院にいました」
「裕美さんと比べられるのが嫌で違う職場を選んだんですか。裕美さんをこんな危ないところで一人働かせてたんですか」
 男に対する苛立ちと嫉妬ではらわたが煮えくり返っている。
「あんたも思ったでしょ。俺が自分で客を捕まえる開業医には向いてないって。でもあいつが診療所をやりたいって言って俺を追いだしたんだ」
 この期に及んで言い訳を並べる男を一発殴ってやろうと拳を握り締めたとき、男がふと顔を伏せた。
「あいつが居なきゃ、こんなとこ続けられるはずがない」
 声が次第にかすれてくる。
「比べられて嫌とも思わない。どう考えたって、裕美の方が医者として優れてるに決まってるじゃないですか」
 蛇ノ目の言葉を聞いて、拳はすっかり力を無くしてしまった。蛇ノ目はカルテの上の裕美さんの文字をなぞっていた。その姿を見てやっと、この人たちは夫婦だったのだと納得できたのかもしれない。
「……出すぎたことを言いました。心からお悔やみ申し上げます」
「……ありがとうございます」
 二人でゆっくりと視線を合わす。それは、互いを許しあうためだった。
「わたしも実は、妻において行かれたんですよ。死んじゃいないけど」
 赤い目元をした男を慰めたいような気になって、そんなことをうっかり話してしまう。蛇ノ目はその言い訳めいた慰めの言葉を鼻で笑った。
「なるほど、じゃあ、お仲間ですね」
「そうですね」
 そう言ってお互いの身の上に起った出来事を茶化す。しかし、不思議と悪い気はしなかった。
「……締めるんですか。この診療所は」
「いや、意外と下の人が使っているらしいので。あと約一名養ってる子もいますし。」
 蛇ノ目が扉の向こうを指さす。そしてにやりと笑った。
「だから、浜さんもまた来てくださいね」
 窓の外で桜の花びらが舞った。もう春が終わる。

診療所の花

診療所の花

さびれたビルの中にひっそりと営む診療所。1人の女が傷付いた男たちを引き合わせた。

  • 小説
  • 短編
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-03-08

CC BY-NC
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