進路変更、後方確認

時は1995年。阪神淡路大震災が起こり、地下鉄サリン事件があった年。
そして日本のバブルがはじけて間もない頃。

「龍ちゃん!待って!」
吉野 夕夏はお札を握りしめながら、トラックに乗ろうとしている曽我部 龍を追いかけた。
龍が日焼けして健康そうないつもの笑顔で振り向いた。
「なんがか?夕夏さん。」
「これっ。困るわ。いつもいつも。子供たち、癖になるといけないから。」
夕夏は息を切らして駆け寄ると、手に握っていた千円札二枚を龍に渡そうとした。
「あの子らにほんの気持ちやけん、受け取ってぇな。かまんで。」
龍は手を振って受け取らなかった。

徳島出身の龍はスーパーなどに食品を運ぶ長距離のトラック運転手だ。
夕夏は名古屋の大型モールの食品売場で働いている。
始めは菓子類を納品しに来る龍と顔を合わすと世間話をする程度の仲だったのが、今では龍が彼女の子供たちにお小遣いやおもちゃをこっそり渡すようになった。

夕夏には二人の子がいる。
姉の美里は小学校2年生、弟の健二は保育園の年中だ。
仕事が夜の8時まである夕夏は美里に健二の保育園のお迎えと世話をいつも任せていた。
子供たちは龍に会うと必ず何か貰えるのを分かっているので、龍が納品に来る火曜日と金曜日は必ず夕夏の職場のモール内をぶらぶらするようになった。

龍が夕夏の後ろを見やると、美里と健二が残念そうな顔をしてこちらを見ているのが見えた。
「ほなけんど…。」
「はいっ。もう二度とこういう事しないでね。迷惑だから。」
夕夏はお札を龍のズボンのポケットに無理やり詰め込んで言った。
龍は夕夏の綺麗だが頑固そうな色白の顔を見てため息をついた。
5年もシングルマザーをやってきた夕夏は、言い寄る男達からの賄賂を断るのに慣れている。
「ほな、今日はおとなしゅう帰るわ。」

龍はそう言いながら、子供たちの方を見てウィンクをした。また後で近くの公園に来い、こっそりやるからな、と言う合図だ。
美里と健二は笑顔で顔を見合わせると、自分の市営住宅に帰るふりをして公園へ走って行った。

夕夏は龍のウィンクの意味も、子供たちが陰で龍から小遣いやおもちゃをこっそり貰っているのもちゃんと分かっていた。

夕夏は龍がトラックの方へ歩いて行く後ろ姿を見て、死んだ夫の事を思い出した。

夕夏は16歳の時から付き合っていた同級生の吉野 秀次と高校卒業後すぐに結婚をした。
19歳の時に長女の美里が産まれ、21歳の時に長男の健二を妊娠して4ヶ月の時、今から5年前に秀次は交通事故で突然この世からいなくなってしまった。

夕夏にとって、秀次は『死んだ』と言うより『いなくなった』という感覚の方がより近い。
よく喪失感の事を『胸に穴が開いたよう』と表現するけど、秀次が埋めていた夕夏の心と体の部分に本当にポッカリと突然穴が開いたようになった。

夕夏は時々よく考える。なぜ秀次は交通事故で突然死んでしまったのか、と。
もし病気で死んでいたなら、少なくとも相手に「愛してる」と言う時間はあったのに、と。

今でも繰り返し繰り返し思い出す
あの日のあの朝

秀次が死んだあの日、健二を妊娠中の夕夏は、朝は悪阻が酷くて布団に横になっていた。
美里もまだ2歳と8ヶ月で手のかかる頃で、秀次も夕夏も毎日の生活に忙しく相手を思いやる余裕がなかった。

あの日の朝、秀次が仕事に出かける時も、夕夏はいつものように横になりながら
「行ってらっしゃい」
と言い、秀次は
「うん。」
と頷いて出て行った。

あの時、秀次が出て行く時
「気をつけてね、愛してる。」
と言ってあげたかった。
もしそう言って玄関で引き止めていたら、秀次は死ななかっただろうか。
いくら考えても仕方のないことを、秀次が死んで5年経った今でもたまにぼんやりと考えてしまう。


「吉野さん、また勝手に店抜けたでしょう?今度同じことやったらクビだでね。」
食品売場主任の『ブタめがね』柴田が走って戻ってきた夕夏に嫌味を言った。

38歳で独身のこの男は、夕夏に食事の誘いを8回断られてから突然態度を変え、チクチクと店で嫌味を言ったり嫌がらせをしたりするようになった。
夕夏にも非があったのは確かに認める。あまりにも柴田がシツコイので、
「柴田さんとは叙々苑や、ステーキの石川や、かに本家に誘われたって一緒に行きたくありません。」
と言い放ったからだ。
夕夏は頭の中で柴田の事を『ブタめがね』と呼んで小さなストレスを解消させていた。

高校を卒業してすぐに結婚と妊娠をした夕夏は秀次が死ぬまでは働いた事も、何かの資格を取るために勉強した事もなかった。
交通事故で慰謝料は貰ったが、事故を起こした相手は任意保険に入っていなかったので多くは貰えなかった。
それに秀次が入っていた生命保険は、まだ若いからと死亡保障額の低いものにしていた。

(今の自分のように職探しに苦労して欲しくないから、子供たちは大学に行かせてやりたい。
どんなに柴田に虐められたって、意地でも仕事を辞めてやるものか。)
これまで夕夏が何回も経験してきた、若い『未亡人』への男達の下衆な期待。柴田のような男にいちいち反応して屈したくなかった。

「すみません、気をつけます。」
「この忙しい時間にほんっと困るんだわ。」
夕夏が急いでレジに入っても、まだ柴田は小さな声でブツブツと文句を言っていた。
龍が来る日は特に嫌味が酷い。龍と夕夏がよく会話しているのを知っているからだ。
(私は静かに生活をさせて欲しいだけなのに。本当に男ときたら面倒ごとしか持ち込まないんだから。)
同じ子供でも問題を起こすのはいつも男の健二の方だ。夕夏は一人ため息をついた。

午後8時に仕事が終わって夕夏が市営住宅へ帰ると、健二が夕夏の顔を見た途端に何かを背中の後ろにサッと隠した。
「健二、窓の外にモスマン飛んどるよ、ほら。」
夕夏が健二の後ろの窓を指差すと、
「えっ!ウソ!ほんと⁉︎」
と言って健二が後ろを振り向いた。
手にオーレンジャーのおもちゃを握っているのが見えた。
「健二、それ龍ちゃんに貰ったん?前、あんなに駄目だって言ったのに。」
健二がしまった、という顔をしてうつむいた。
「健二はほんっとに馬鹿。いっつもお母さんの同じ技に引っかかっとる。」
美里が茶碗とお箸をテーブルに並べながら呆れ顔で呟いた。
「美里は何を貰ったの?」
夕夏が聞くと、美里はしばらく茶碗を見つめてからため息をつき、自分用の箪笥の引き出しからスーパーノートという子供用のパソコンのようなおもちゃを出して夕夏に差し出した。
ずっと美里が欲しがっていたものだ。誕生日には買ってあげようと思っていたのに。
美里は何も言わなかったが、怒っている時と悲しい時は唇をぎゅっと結ぶ癖があるからすぐにわかる。

健二と三つ離れているだけなのに、美里は驚くほど精神的に大人だった。自分の父親が交通事故で死んでしまったことをよく理解していて、運動会や父の日のイベントでも文句一つ言ったことは無かった。夕夏が仕事で忙しいのもよく分かってくれていて、弟の世話や家事の手伝いも嫌がらずやってくれていた。
そんな我慢強い美里が、たかがおもちゃで涙を流しそうになっているのを見て夕夏は戸惑った。

「お母さん、何で龍ちゃんから貰っちゃだめなん?」
「他人から物を貰っちゃだめなの。タダより怖いものはないんだから。あんたもよく覚えときなさい。」
「でも、龍ちゃん、健二の父ちゃんになりたいって言ってたよ!父ちゃんなら他人じゃないよね?龍ちゃんが健二の父ちゃんになったらオーレンジャーとかお金とか貰っても良いんでしょ!ねぇお母さ」
「健二!その話は絶対お母さんにするなって言ったじゃん!あんたほんとに馬鹿!」
「姉ちゃんのが馬鹿だ!馬鹿!」
「もう、やめなさい!ご飯食べるよ!ほら早く座って!」

夕夏は苛立ちながら職場で貰ってきたマカロニサラダと鯖の味噌煮をお皿に出した。
(あの人はまた子供たちに変な期待を持たせるような事を言って。私より先に子供たちを味方につける魂胆ね。)

夕夏は苦い思いをしながら龍の若い顔を思い浮かべた。
龍は人懐こくて面白いので、老若男女問わず誰からも好かれていた。
背丈は標準だが、他の運送業の男達と同じように筋肉質でいい体をしていた。
顔で一番印象的なのは、龍の目だ。
あの鷹のような鋭い眼差しで見られると、夕夏は胸の奥がざわめき立って不安になる。

龍と初めて会ったのは10ヶ月前、夕夏がこのモールで働き始めた日だった。
夕夏が納品された商品を運ぶために外に出た時、龍は最初に獲物を見るような目で夕夏の顔をじっと眺め、次に胸と胸の名札をじっと見つめた後、左手の結婚指輪を見てあからさまにがっかりした顔をした。

「吉野さん、ですか。ものごっついべっぴんさんじゃ思ったけんど、結婚しとんけ。旦那さんが羨ましいのぉ。」
「龍ちゃん、吉野さんは未亡人だて。でも柴田主任も吉野さんのこと狙っとるでね。うふふふ。」
お喋り好きの金子さんがまた余計な事を言ったので夕夏は心の中で舌打ちした。
「金子さん、変な事言わないで下さい。これ、持って行きますね。」
「曽我部 龍いいます。よろしゅう。みんな龍ちゃんて呼んでくれとるけん、吉野さんも龍ちゃんて呼んでぇな。吉野さんの下の名前はなんちゅうん?」
また夕夏が答える前に金子さんが言った。
「吉野さん、確か夕夏って名前よ。ね?」
「夕夏さん、ですか。可愛らし名前じゃの。」
龍はそう言って笑った。
夕夏は、龍の目が再び獲物を定めたように自分を見つめるのを見た。
夕夏の肌がまだ暑さの残る9月なのにあわだった。
遠い昔に秀次と初めて夜を過ごした時に味わった感覚と同じものを、一瞬龍に見つめられただけで呼び醒まされた。
この男に近付くと、自分の女の部分を掘り起こされる。夕夏は秀次がいなくなって以来初めて男に性的なものを感じて自分の感情が怖くなった。


翌日、金子さんに紙袋を渡した。
「龍ちゃんが来たらこれ渡してくれませんか。」
金子さんは断りもせず中身を覗いた。中には昨日子供たちから取り上げたものが入っている。
「これくらい、受け取っときない。龍ちゃん、あんたのこと本気だが。」
夕夏は曖昧に笑って誤魔化した。

昼過ぎになる頃、夕夏がレジ係を担当している列に龍がコーラとガリガリ君を持って並んだ。隣の青木さんのレジには誰も並んでいない。
「154円になります。」
「ちょっとあの子らに厳し過ぎるんやないですか。」
龍が200円を出しながら言った。
「厳しいとか、そういう問題じゃないんです。それに、うちにはうちのルールがあるから、口出ししないで。46円のお返しです、ありがとうございました。」
「ほなけんど…。」

「曽我部さん、トラック早くどけてくれんと困るでよ。お客さんが邪魔だて言ってきとるで。」
その時柴田がやってきて龍に言った。

今は比較的暇な時間帯だし、龍はいつもトラックを客の邪魔になるような停め方はしないから、明らかに柴田の嫌がらせだった。
「…ほうですか。そりゃ、すんませんの。今すぐどかしますわ。」
龍が視線だけで人を殺せたなら、柴田は即死になっているはずだ。
龍はしばらく柴田の目を睨みつけてから、夕夏に手を振ってゆっくりとスーパーの入り口を出て行った。

「吉野さん、仕事中の私語はやめてもらわんと!」
柴田は冷や汗をかきながら、捨て台詞を吐いてバックルームへ消えた。
あんたの方がいつも無駄話ばかりしてサボってるくせに、とは言えず夕夏は丁寧に謝っておいた。

うちに帰ると、美里も健二も夕夏と目を合わせなかった。
夕夏はプレゼント用にラッピングしてもらった箱を二つ勉強机の上に並べた。
美里は我慢したが、健二はすぐに飛びついた。
「何これ!お母さん、開けてもいい⁉︎
…うわっ!これオーレンジャーのロボットじゃん!お母さんが買ってくれたの⁉︎やったー!ありがとうお母さん!」
美里がとうとう我慢出来なくなって、無言でもう一つの箱を開けた。
スーパーノートが入っているのを見て、美里はようやく子供らしい笑顔になった。
夕夏はその日昼休み中におもちゃ売り場へ走った。父親や龍のような男がいなくたって、これくらいの事は出来ると証明するために。


それからしばらく経った日の夜、美里が夕夏を起こした。
「お母さん、ダルい…。」
美里のおでこを触ると38度以上はある熱さだった。
「お母さん、健二もダルいよ…。」
布団の中から健二が咳をしながら言うので健二のおでこも触るとかなり熱い。二人とも朝から鼻水を出して咳をしていたから、嫌な予感はしたのだ。
財布の中を見ると、病院代は大丈夫そうだがタクシー代までは無かった。
夕夏は車の免許を持っていない。

今でこそ名古屋市は子供の医療費が中学生まで無料だが、この時はまだ3歳までしか助成がなく、コンビニのATMもまだ無い時代だった。

冷蔵庫を開けて、以前にもらった解熱剤の座薬を確かめると一つしか残っていない。
健二は風邪をひくと喘息が出て悪化する事があるし、さっきよりも健二の咳がだんだん酷くなってきた。
救急病院へ電話すると、連れて来てくださいと言われた。

後から考えれば救急車を呼べば良かったのにと思うのだが、この時の夕夏の頭には救急車の事なんてかすりもしなかった。救急車は、死にそうな重病人だけが乗るものだと思い込んでいた。

夕夏は自転車の後ろに健二を乗せ、サドルに美里を乗せて引いて歩いた。
時々美里がフラッとするので腕に力を込めて支えるのが大変だった。

真夏の熱帯夜、夕夏が息を切らしながら自転車を引いて病院へ向かっていると、前から鼻歌を歌う男が近づいてきた。どこかで聞いたことのある声だな、と思って顔を上げると龍だった。

「あれ⁉︎夕夏さんけ?こんな時間になんしょっと?どこ行っきょん?」
「二人とも高熱出して今から病院へ行くとこなの。」
夕夏が通り過ぎようとすると、龍に呼び止められた。
「ちょっと待ちぃ!俺が健二おぶってったるけん、美里ちゃんを後ろに乗せぇ。美里ちゃんが落ちそうになっとる!」
夕夏が返事をする前に龍が片手で軽々と健二を抱っこすると、美里を片方の肩にもたれさせて自転車の後ろに乗せた。
「ほな行こ!病院どこや⁉︎」

夕夏が病院を案内すると、龍は自転車よりも速く病院へ走って行った。
風邪が流行っているのか、救急病院では他にも熱を出した子供達とその親で混んでいた。
龍はどこかで飲んでいたらしく、隣に座る龍からは酒の匂いがしたが酔っている様子は全然見せなかった。
「よしよし、もうすぐやけん、大丈夫やでな。」
龍は咳をする健二の背中を優しく撫でながら声をかけて励ましていた。
いつも病院へ着くと健二の咳が軽くなるのだが、今日も同じで夕夏は少しホッとした。
美里は大人しく目をつむって夕夏にもたれかかっている。

いつも子供たちはどちらかが風邪をひくと片方にも必ずうつってしまう。夕夏一人で熱の出た子供二人を病院へ連れて行くのは大変だった。
今日は隣に龍がいる。
周りを見渡すと、夫婦で来ているところが多かった。
もし夫がいたらこんなに安心した気持ちになれるのだろうかと、夕夏は独りため息をついた。

40分くらい待って5分の診察を終え、薬でまた20分ほど待たされて、帰る時にはもう次の日付けに変わっていた。

夕夏は住宅の自転車置き場に自転車を停めて美里をおろすと、龍にお礼を言った。
「ありがとうございました。もうここで大丈夫だから。」
夕夏が健二を受け取ろうと手を伸ばすと、龍が健二を背負ったまま言った。
「なん言いよるん。部屋まで送るじぇ。」
「ううん、本当に大丈夫。」
夕夏がまた手を伸ばすと、龍が悲しい顔をした。
「夕夏さん、俺は確かにあんたに惚れとる。下心があるんは認めるぜ。
ほなけん純粋に、俺は美里と健二のことが可愛いんじゃ。俺は徳島を離れて6年も一人でおるけん、この子らのこと姪っ子と甥っ子みたいに思っとる。こんくらいのことはさせてもらえんやろか。」
夕夏は龍の真面目な顔を見た。
惚れている、などといきなり告白してきたのはまだ酔っているからだろうか。
「じゃあ、部屋までお願い。」
夕夏は美里を抱っこして住宅の建物の方へ向かった。

今日は久しぶりに美里を抱っこしてその重さにびっくりしてしまった。毎日見ていると気付かないが、確実に子供たちは大きくなっている。
子供たちを抱っこ出来るのもあとわずかな間に違いない。
美里を産んで、秀次が亡くなって、健二が産まれてから時間が矢のように過ぎ去った。この子たちが成長して一人立ちするまであと15年はあるけど、きっとまたあっという間に時間が過ぎてしまうのだろう。

(美里と健二が大人になってここを出て行ったら、私は一人になる。そうしたら好きな男と一緒になっても良いんじゃないだろうか。でも、私よりも若い龍を15年も待たせられない。そうかと言って、今結婚して血の繋がらない二人の子供の父親にさせるのは可哀想だ。)

夕夏は後ろからついてくる龍の足音を聞きながら、龍に会って以来ずっと考えている結婚についてまた同じことを考えていた。結論はいつも出ずにぐるぐると同じ場所を回るだけだった。

部屋は3階だが、この住宅にはエレベーターが無い。夕夏は美里を抱っこしながら息を切らして階段を上った。
悔しいことに、龍の息はこれっぽっちも乱れていなかった。

部屋に入って布団に美里を寝かせると、龍も背中で既に眠っていた健二を寝かせて布団をかけてくれた。
夕夏が健二と美里にアイスノンを当てがって隣の部屋を見ると、龍が秀次の仏壇の前に座り目を閉じて手を合わせていた。

龍が長いことそうしているのを、夕夏は子供たちの部屋の入り口に立って黙って眺めた。
龍が目を開けて秀次の遺影を見たまま夕夏に聞いた。
「名前はなんていいよん?」
「秀次。吉野 秀次。」
「秀次さんか。」
龍は立ち上がって遺影をしばらく見つめたあと、何も言わずに玄関の方へ歩いて行った。
「あ!そうじゃ、紙とペン貸してくれんか。」
夕夏が美里のキキララのペンと自由帳の切れ端を渡すと、龍は紙に数字と住所を書いて夕夏に渡した。
「これ、俺のポケベルの番号と住所やけん、またなんか困った事あったらいつでもかけてきぃ。」
最近、ポケベルというものが流行っているのは知っていたが、夕夏は使ったことも無いし使い方もさっぱり分からなかった。
夕夏が自分から龍のポケベルにかけることは無いだろうと思ったが、好奇心から尋ねてみた。
「この番号にかけたら龍ちゃんに繋がるの?」
「うん、ほうで。この番号へかけると、ポケベルに繋がんで、続けて夕夏さんの電話番号と♯押してくれたら、後で俺が夕夏さんに電話するけん。」
「…ありがとう。」
住所を見ると、龍はこの住宅から歩いて15分くらいの近い所に住んでいた。
龍が玄関から出て歩いて行く時、もう一度お礼を言った。
「今日は、本当にありがとう。助かったわ。」
「俺は、夕夏さんのためなら何でもするけんな。」
またあの鷹のような鋭い視線で夕夏を見てから龍は帰って行った。

夕夏は部屋に戻ると、秀次の遺影に向かって独り言を言った。
「龍ちゃん、秀くんに何て言ってた?」

遺影の中の秀次は20歳の時の笑顔のまま変わらない。この写真は二人で成人式の時に撮ったものだ。
1歳の美里を両親に預けて久しぶりに二人きりで出かけたからよく覚えている。普段は恥ずかしがる秀次が夕夏の晴れ着姿を照れながら褒めてくれた。美里の授乳があって飲んでいなかったお酒を同級生達と久しぶりに飲んで、二人でかなり酔っ払ってタクシーで帰宅した。
あの夜は二人でじゃれ合いながら着物を脱がせ合って…。

秀次と夕夏はお互いに初めての相手だった。そして、おそらくは秀次にとっては夕夏が唯一の相手になってしまった。
この先、もし夕夏が別の男とセックスをしたら、秀次に申し訳ない気がした。

その夜、子供たちに解熱剤の座薬を入れたり汗を拭いたりして看病しながらうとうとと眠りに落ちた時、久しぶりに秀次の夢を見た。
何度も夢に見た、最後に会話したあの日の朝だった。

夕夏がパンを焼いてマーガリンを塗っている時に、またつわりで気持ち悪くなって急いでトイレに駆け込んだ。
トイレから出て洗面所に行くと裸足で何か柔らかいものを踏んでしまった。
「あっ!秀くん、また歯磨き粉落としとる。いっつも注意してるのに。」
夕夏が怒りながらティッシュで足の裏を拭いていると、秀次が歯を磨きながらモゴモゴ言って苦笑いした。

秀次が玄関を出て30分くらい経った時、電話がかかってきた。
夕夏が美里を抱っこしながら受話器を握ったところで目が覚めた。

(最後の日にしたまともな会話が歯磨き粉の事だなんて。ごめんね、秀くん。)
夕夏は子供たちの横で静かに涙を流した。

救急病院へ一緒に行ってから初めて職場で龍に会った時、夕夏はもう一度龍にお礼を言った。
「こないだは本当にありがとう。」
いつもハイエナのように他人の会話を聞いている金子さんが反応した。
「なにぃ?こないだって。二人でどっか遊びにでも行ったん?」
「いえ、違いますよ。子供の事でちょっと助けてもらっただけです。」
「へぇ。何を助けてもらったん?」
「まあまあ、金子さん。そんなん大した話やないけん、気にせんといてぇな。」

スピーカーの金子さんから脚色された話を柴田が聞いたのだろうか。
その日の柴田の嫌がらせと嫌味はいつも以上にひどかった。
夕夏がウンザリしながら棚の整理をしていると、柴田からレジの応援に入るように言われた。
柴田が次のお客さんだから、と夕夏に耳打ちして連れてきた客のレジを終わらせると、後ろにいた50代くらいの男性客が憤怒の顔で買い物カゴをドンと置いた。
「さっきの客よりオレのが早く並んどったんだけど!!」
夕夏は柴田に『ヤラレタ』と思った。何度も頭を下げて丁寧に謝ると、長い説教のあとでようやく解放された。

仕事が終わって夕夏が更衣室で着替えをしていると、サービスカウンターで働く今泉さんと佐々木さんが入ってきた。
今泉さんが、夕夏に話しかけてきた。
「ねぇねぇ、吉野さんて、あの配送の龍ちゃんと付き合ってるの?」
「いえ、付き合ってないです。」
「じゃあ、好きだったりする?」
「いえ、何でですか?」
「佐々木さんが、龍ちゃんのこと前からかっこいいな、って言ってて、でも吉野さんと仲良さそうだから付き合ってるのかな〜って気になってたんだよね。ね?良かったね、佐々木さん。」
佐々木さんが、赤い顔をしてうつむいた。佐々木さんは、夕夏とは正反対のタイプで、小柄で童顔の可愛いい子だった。
「私達なかなか龍ちゃんと会えないから、吉野さん、龍ちゃんの電話番号かポケベルの番号聞いといてもらえない?」
「…分かりました。いつになるか分かりませんけど。」
夕夏はもう既に龍のポケベルの番号も住所も知っているが、咄嗟に隠してしまった。
今の自分の感情に付ける名前が嫉妬だということは分かっていた。


夕夏がイライラしながらうちに帰ると、美里と健二がまだ帰っていなかった。
(私の仕事が終わるまで食品売り場の横のゲームセンターで遊んでいる時がある。でもいつもなら仕事が終わるとき裏の入り口で二人とも待っているのに。外はもう暗いけど公園にいるのかな。)
こんな風に夕夏がうちに帰って来ても子供たちがいない事は今まで一度も無かった。
夕夏が子供たちを探しに住宅の外に出ると、青のシビックが夕夏の近くに停まって、降りてきたのは美里と健二だった。
二人とも夕夏に怒られると思って下を向いて何も言わない。
運転席から龍が出てきて、二人を庇うように立った。
「遅くなってすまんの。二人とも、俺の部屋で遊んどったんじゃ。ちょっと…遊びに夢中になってしもたけん。俺が悪いんじゃ。怒らんといたってくれへんか。」
「龍ちゃんの部屋で、遊んどった⁉︎よそのおうちには勝手に遊びに行っちゃ駄目だって何回も言ってるのに!それに、私が帰るまでにはあんた達も帰って来るって約束でしょう!」
「夕夏さん、ほんまに俺が悪いん」
「あなたは黙ってて!
もう二度と龍ちゃんのとこに遊びに行っちゃ駄目だからね、分かった⁉︎二人とも、返事は?」
健二が目に涙を浮かべて叫んだ。
「嫌だ!また龍ちゃんとこに行きたい!だってプレイステーションとセガサターンあるんだよ!また実況プロ野球と鉄拳やりたいもん!」

CMが流れるたびに健二がやりたいと言っていたバカ高いゲームだ。
「とにかく、もう勝手に龍ちゃんのとこに遊びに行くのは許さないから。二人とも、こっちへ来なさい!」
「龍ちゃん、話があるからそこで待ってて。」
夕夏がギロリと睨むと龍も健二と同じような顔になって俯いた。
子供たちを部屋の中に連れて行くとすぐに夕夏は龍のところへ戻った。

「勝手な事しないで。今度また子供たちをあなたの部屋に連れて行ったりしたら許さないから。」
「なんであかんのじゃ?夕夏さんが仕事終わるまで時間つぶしとっただけやで。」
夕夏は龍の不満そうな顔を見て更に腹が立った。

柴田から嫌がらせを受け、客から怒られ、子供たちを叱ることになったのは全部龍のせいだと思った。
自分の感情が嵐の中の船みたいに揺さぶられるのも。

「あなたは私たち家族とは何の関係もない人だから。いつかは結婚して自分の家庭を持つんでしょうし、ここを離れて別の場所へ行くこともあるでしょう。子供たちに変な期待を持たせたくないの。もうこれ以上私たちに近付かないで。」
外灯の灯りの下で夕夏が震えながら龍を睨んだ。
龍は苦しそうな顔でうつむいて自分の足下のアスファルトをじっと見つめたあと、夕夏の目を射るように見返した。

「俺が一緒になりたいんは、あんただけや。初めて会うた時からあんたしかおらん。あんたが好きなんじゃ。」

龍はそう言うと夕夏を強く抱きしめた。
夕夏は龍の腕の中から逃がれようともがいたけど、龍が夕夏の顎をつかんで上を向かせキスをすると体が固まって動けなくなった。
少しも寒くないのに鳥肌が立ち、体の中が燃えているみたいに熱くなった。
龍は夕夏の背中に手をやって自分の体に夕夏の体を強く押しつけた。
龍の舌が夕夏の唇を這った時、夕夏は目を開けて龍の目を見た。
龍が強く自分を求めているのが見えて、夕夏の眠っていた情熱がお腹の底から高く渦巻いて全身を駆け巡った。
龍は夕夏の目にも火が灯ったのを見逃さなかった。
獲物を貪る鷹のような目をして夕夏の唇と舌を奪った。

次の瞬間、いきなり龍が夕夏から離れて夕夏の背後を見たので振り返ると、美里が住宅の入り口からこちらを見ていた。
龍はきまりの悪い顔をして一言すまん、と言うと車に乗って帰って行った。

夕夏が言い訳を考えながら美里の方へ近づくと、美里は涙を流していた。
「お母さんも龍ちゃんのこと好きなんだが。いつも私と健二が龍ちゃんと仲良くすると怒るくせに。いつも龍ちゃんと結婚することなんか考えてないとか言うくせに!嘘つき!」
「美里…。ごめん。」
夕夏が何も言えずに謝ると、美里は今まで小さい頃から我慢してきた感情を一気に爆発させた。
「私も、ずっと龍ちゃんみたいなお父さんが欲しかった。友達みんなお父さんと遊んでるの見てずっと羨ましかった…!なんで龍ちゃんと遊んじゃ駄目とか言うの⁉︎」
夕夏は黙って美里を抱きしめて、背中をさすった。
今まで我慢していただけで、やっぱり美里も寂しかったのだ。
母親のために無理やり『聞き分けの良い姉』という演技をしていただけだった。
いや、美里に演技をさせていたのは自分の責任だ。
「今まで色々我慢させてごめんね、お母さんのせいだね、ごめんね。だけど、龍ちゃんのことは…まだ結婚するとかまで考えてないの。大変なことなのよ、結婚するってことは。分かってくれる?」
「…うん。」

夕夏と美里が部屋に戻ると、健二はポテチを食べながらドリフを見て爆笑しているところだった。
「あっ。ご飯の前にお菓子食べてごめん!でもお母さんもお姉ちゃんも遅いんだもん。」
「あのね、健二。これからはもし龍ちゃんが良いよって言ってくれたら、龍ちゃんのとこに遊びに行っていいから。」
「え!本当に⁉︎やったー!またゲームできる!お母さんありがとう!」
「うん、その代わり、必ず8時までには戻るって、約束してね。」
「うん!絶対約束するー!」
踊って喜ぶ健二を見て、美里にも笑顔が戻った。

その日から美里と健二は龍の部屋の合鍵をもらって、夕夏の仕事が終わるまで龍の部屋で遊んでくるようになった。
更に保育園と学校が休みの日には、二人はほぼ一日中龍のところに入り浸るようになった。

龍は職場で夕夏に会っても、まるでキスをしたことなど忘れたかのように普通に接するので、夕夏はホッとしながら少し物足りない気持ちになった。

そのうち夏休みに入ると、龍は美里と健二を連れて釣り堀に行ったり、動物園に行ったりして子供たちを色んな所へ遊びに連れて行くようになった。端から見たら本当の親子にしか見えなかった。
毎回夕夏も誘われたが、一緒に行く決心がつかなかった。
龍と子供たちが仲良くなればなるほど、夕夏の不安は増して怖くなった。

(秀次が亡くなった時はまだ美里は小さかったし、健二は産まれてもいなかった。
いつか龍が私達から去って行く日が来たら、美里と健二は耐えられるだろうか。
自分は耐えられるのだろうか。)

お盆に入り、自分の実家へ帰った次の日、秀次の実家へ行く日になった。
毎年8月12日頃に子供たちを連れて秀次の実家へ遊びに行くのが習慣になっていた。
今年は秀次の妹の久美ちゃんが妊娠して里帰りしていた。
みんなで秀次のお墓参りをして帰ると、久美ちゃんがわざとらしく美里と健二を別の部屋へ連れて行った。
お義父さんとお義母さんが示し合わせたように顔を見合わせて頷いてから、夕夏に話を切り出した。
「夕夏さん、秀次が死んでもう5年も経つでしょう?あなたもまだまだ若いんだし、うちらに気を使うことないんだに?もしあなたに良い人がおるなら、いつでも再婚して構わないんだからね。」
「はい。ありがとうございます。でも、まだそういった方はいませんから。」
「本当に?実は、さっき健ちゃんと喋っとったら、その…いつも遊びに連れてってくれる人がおるって言っとってね。りゅうちゃん?とかいう名前の?あ、誤解せんといて、責めてる訳じゃないんだから。私達はあなたに好きな人が出来たら応援しようね、って言っとるでね。」


秀次の実家から帰る電車の中で夕夏がぼんやりとしていると、
「ねえお母さん、健二、今から龍ちゃんとこに遊びに行きたい。」
と健二に言われた。
「龍ちゃんだってお盆だから実家に帰ってるんじゃない?」
すかさず美里がその質問に答えた。
「今年は休みが2日しかないから徳島には帰らないって言ってたよ。私も龍ちゃんのとこ行きたい。」
夕夏はため息をついた。
「じゃあ、いつもお世話になってるお礼に、何か豪華なもの買って持って行こうか。もし龍ちゃんがいなかったら諦めるんだよ。」

部屋の前に着いてチャイムを鳴らすと、シャワーを浴びたばかりで上半身裸の龍が扉を開けた。
夕夏の顔を見ると慌てて中に入ってTシャツを着てきた。
「すまん。夕夏さんが来る思わんかったけ。入ってぇな。」
5年振りに男の裸を間近で見たからか、龍とキスをしてから職場以外で初めて会うからか、夕夏は恥ずかしくて龍の顔を見れなかった。

「私は、子供たちがここに来たいって言うから送ってきただけなの。今日、来ても大丈夫だった?」
「かまんかまん。なんも用事なんか無いよって。」
「あの、これいつも子供たちがお世話になってるからお礼に。」
夕夏がちらし寿司とうな重を渡して帰ろうとすると、龍が夕夏の腕をつかんだ。
「待て待て。帰らんといてぇな。一緒に食べてきぃや?」
「そうだよ!お母さんも一緒に食べようよ!」
騒ぐ健二の横で、美里が夕夏の顔を期待の目をして見つめるので帰ると言えなくなった。

龍の部屋はCDと、DVDと、漫画と、ゲームで埋め尽くされていた。
夕夏が見たことも聴いたこともない外国のCDやDVDを眺めていると、健二が得意げに話し出した。
「すごいでしょ!全部龍ちゃんのなんだよ!健二、このスラムダンクが一番好き!」
「健二、お母さんは漫画読むような大人は好きやないと思うぜ。」
「え〜?こんな面白いのに。お母さんも読みなよ!」

龍が麦茶を入れて小皿と箸を持ってきた。美里と健二専用に買ってくれたらしい、子供用のカップとお皿と箸だった。
独身の龍が子供用の食器を買うところを想像して、夕夏は胸がじんと熱くなった。

「名古屋の味噌ダレはあんま好かんのじゃが、ひつまぶしとかいうやつはものごっつう美味いもんじゃのぉ。」
龍がうな重を食べながら言った。
「徳島は何が有名なの?」
「ほうじゃのぉ…。徳島ラーメンと、すだちと、阿波踊りかの。
女の子が浴衣着て笠を被っとったら、それだけでみんな可愛らしゅう見えるで不思議なんじぇ。
…夕夏さんも似合うやろなぁ。」
龍が夕夏の顔を見て目を細めた。
龍の視線はいつも、夕夏の体温を上げ、ジェットコースターに乗っているような気分にさせる。
夕夏は適当に笑って誤魔化すことしか出来なかった。

ご飯を食べると、龍と健二はゲームで対戦をし、美里はヘッドフォンをしてウォークマンでCDを聴いていた。

「龍ちゃん!その技ずるいよ!」
「健二が弱過ぎるんじゃ。ほれ、もう死ぬじぇ。」
「ああ!もう!また負けたー!龍ちゃんもう一回!」
「ええけど、何回やっても同じやけんな。」

もし龍と結婚したら、今感じているような静かな幸福を毎日味わえるのだろうか。
秀次と一緒に過ごした日々はどんな感じだっただろう?
今では秀次との生活の断片しか思い出せない。
夕夏は突然罪悪感で胸が痛くなった。
もしも自分が死んだ方の立場だったらどう思うだろう?
秀次が自分を忘れて、他の人と結婚して美里と健二を取られたら?
私はそれを許せる?

(私の秀次に対するこの思いは何なんだろう。未練?まだ彼の事を愛しているのは確かだ。でも…。)

夕夏は、龍と健二がゲームをしている背中を眺めて確信した。
自分は龍に惹かれている。秀次の時に感じた柔らかな愛情とは違う、磁力や引力のような抗えない強さで。
秀次と龍への気持ちをどうすれば良いのか、夕夏は全く分からなかった。

我に返って時計を見ると、もう夜の8時を過ぎていた。美里を見るとヘッドフォンをしたまま眠っている。
「美里、起きて。もう帰るよ。」
「美里ちゃん寝てしもた?もうそのまま寝かせとき。今日は泊まってけばええけん。」
「でも…。」
「ほうや、歯だけ磨かなあかんな。」
龍は美里用の歯ブラシを持ってきて、寝ている美里の口をこじ開けて歯を磨くと、布団を敷いて美里を寝かせた。
「健二も泊まっていい?」
「おう、健二も泊まってけばええで。夕夏さんも泊まってくけ?」
龍が子供のような笑顔で言うので思わず頷きそうになってしまった。
「私は、もう帰るね。明日子供たちを迎えに来るから。健二、遅くまで起きてたら駄目だよ。」
「分かった!龍ちゃん、今度はドラゴンボールしたい。」
「ええで。健二、俺はお母さんを送ってくるけん、ちょっと待っちょってくれ。」
「うん、分かったー。」
「そんな、送らなくてもええよ。一人で帰れるから。」
「うん、話したい事があるけん。」

龍のアパートの階段を降りて公園の前を歩いている時、龍が夕夏の左手を握った。
「夕夏さん、俺があんたのこと好きなんはもう知っとるやろ。俺はあんただけじゃのうて、美里と健二の事も大好きじゃ。…俺と結婚してくれへんか?」
夕夏は初めて見る、龍の自信の無さそうな顔を見た。龍の右手は緊張で汗ばんでいた。
「私は、死んだ夫のことをまだ好きなんだと思う。だから結婚は出来ない。」
「そんでもええ。俺は、秀次さんの事忘られへん夕夏さんでええけん。」
龍は夕夏を自分の方へ引っ張って胸に抱いた。
「俺が、秀次さんの分もあんたのこと幸せにするけん。頼むで俺と一緒になってくれ。」
「秀くんはそんなこと望んでないかもしれん。私が龍ちゃんと結婚して、子供たちまで龍ちゃんになついちゃったら、秀くんは嬉しくないかもしれん。」
「んなむちゃくちゃな。秀次さんはほんな心の狭い男やないやろ。ちゃうんけ?」
「分からんの。だから結婚出来ん。だって秀くんに質問出来ないんだから。そんなの…不公平だが。」
夕夏が龍の胸に向かってつぶやくと、龍は夕夏の頭を抱えていた腕を離した。
「…俺が霊媒師やらイタコやったら秀次さんに聞けるんじゃがのぉ。」
龍はため息をついて困ったように笑った。
龍は黙って住宅まで夕夏と手を繋いで歩いた。着くと、ほな、とだけ言って帰って行った。


夕夏が結婚を断った後も、龍はそれまでと何も変わらず美里と健二を部屋に受け入れ、遊びに連れて行ってくれた。
こんな自分勝手な関係がいつまでも続くわけが無いのは夕夏も分かっていた。

自分の気持ちに整理がつかないまま、
それは子供たちの夏休みが終わってしばらく経った頃だった。

柴田が遅れて出勤してきたと思ったら、左頬に派手な大きさの湿布をしている。夕夏が挨拶するといつも大量の仕事を押しつけて小言を言うのに、その日は目も合わさず夕夏から逃げるようにいなくなった。

そして、いつも龍が納品に来る菓子類のトラックに、龍ではない年配のドライバーが乗って来た。
夕夏は龍が風邪でもひいて休んだのだろうかと思った。
金子さんが急いで帰ろうとしているその人を無理やりつかまえて、夕夏が聞きたいことを代わりに聞いてくれた。
「ちょっと!いつも来る龍ちゃんはどうしたん?今日休みなん?」
「ああ、あんたらはまだ知らんのか。…わしから聞いたって言うなよ。龍はクビになったわ。ここの食品売場の主任殴って。」
「ええ?龍ちゃんが柴田主任を殴った⁉︎なんでぇ?」
「さあな。詳しいことは知らんでよ。そんじゃ。」

夕夏は嫌な予感がした。金子さんも夕夏の顔を見て聞いてきた。
「吉野さん、なんか知っとるんちゃうの?あんたなんかしたん?」
「何も…何も知りません。」

その日、金子さんは全力を挙げて噂ネットワークを駆使したけど、詳しい事は分からなかったらしい。
思いきって柴田に直接聞いてみたらしいが、やはり口を開かなかった。
夕夏は仕事の帰りに龍のアパートへ寄って何があったのか直接聞こうと思った。

夕夏が仕事を終えて帰ろうとした時、普段から大人しくてあまり会話したことのない大学生アルバイトの伊藤くんが、何かの使命を帯びたような顔で話しかけてきた。

「あの…吉野さん。」
「伊藤くん。どうしたの?」
「オレ、昨日裏でタバコ吸ってる時、たまたま聞いちゃったんすよ。柴田さんと龍ちゃんの会話。」
「え?」
「なんか、いきなり、柴田さんが龍ちゃんに、あんたはええなぁ若いしええ体しとるもんな、って言ったんすよ。それで、龍ちゃんが、はぁ、ありがとうございます、って言ったんすよ。」
「うんうん。」
「そしたら、柴田さんが、吉野さんみたいな日照り続きの未亡人は、あんたみたいな若くてええ体の男のが好きなんだて、羨ましいわ、って言ったんす。そしたら、次の瞬間龍ちゃんが柴田さん殴ってました。」
夕夏は柴田の下劣さに呆れて言葉が出て来なかった。
「オレ、金子さんとか他のおばちゃんに何か知らんかってしつこく聞かれたんすけど、吉野さん以外には誰にもこの話してないすから。」
伊藤くんはそう言って格好良く仕事へ戻って行った。

夕夏は帰りに龍のアパートへ寄ってみたが、留守だった。子供たちも来ていないようだった。
うちに帰ると、美里と健二が部屋にいたので龍のことを尋ねてみた。
「なあ、今日龍ちゃんと会ってない?」
「ううん、今日龍ちゃんとこ行ったけど、いつも帰ってくる時間に帰って来んかった。なんで?龍ちゃんどうかしたん?」
美里が心配そうに言った。
「ううん、何でもないよ。…ご飯食べようか。」

子供たちを寝かせたあと、夕夏は龍のポケベルの番号が書いてある自由帳の切れ端を見つめた。
30分くらい受話器を握ったまま迷ったあと、夕夏は前に教えてもらった通りに電話をかけてみた。

5分くらい経って夕夏の電話が鳴った。
出ると龍だった。
「もしもし?夕夏さんけ?」
「龍ちゃん、柴田さん殴って仕事クビになったて本当?」
「ああ〜、…ほんまや。俺は気が短いでのぉ。すぐに手が出てまうんよ。」
龍は呆れたように笑った。
「私、龍ちゃんが柴田さんを殴った理由聞いたよ。私、龍ちゃんの上司に話してみるから。悪いのはブタめがねだもん。」
「ブタめがね?ああ、柴田のことか。ハハ、ピッタリじゃの。…夕夏さん、もうええぜ。次の仕事決まりよったし。俺の知り合いがおる別の運送会社で雇ってもらえることになったけん。夕夏さんは気にせんでええからの。」
「本当に、大丈夫なの?ごめんね、龍ちゃん。迷惑ばかりかけて。」
「夕夏さんはなんも悪ないぜ。それに、言うたやろ、俺は夕夏さんのためなら何でもするて。これからはちょっと離れてまうであんま役に立てんかもしれんけんど。」
「離れる?遠くへ行くの?」
「そんな遠ないで。岐阜やけん。また休みの日に美里と健二に会いに来てもええか?」
「いいに決まっとる。いつでも会いに来て。いつ行くの?」
「金曜に引っ越さなあかんのや。あの子らにはまだ黙っといてくれへんか?泣くとこ見たないけん。」
「うん、分かった。」
「あかん、テレホンカード切れそうや。ほなまた電」
名古屋と岐阜ならそんなに離れてはいない。龍が休みの日に会いに来れる距離なんだからと、夕夏は自分を納得させた。

今までがあまりにも近過ぎた。子供たちはほぼ毎日龍の部屋に遊びに行って、休みの日には遊びに連れて行ってもらっていた。
龍が引っ越したら美里と健二はとても悲しむだろう。
夕夏は子供たちよりも自分が一番悲しいだろうと確信しながら、長いことポケベルの番号を見つめていた。

龍が部屋を出る前の日、夕夏がうちに帰ると健二が泣きながら玄関で夕夏を待ち構えていた。

「お母さん、龍ちゃん引っ越すってほんと⁉︎今日龍ちゃんとこ行ったら荷物箱に詰めとった。」
「うん、本当だよ。岐阜に行くんだって。でも、今までと同じように休みの日はあんた達と遊んでくれるって言ってたよ。」
「岐阜って遠いの?何分くらいで行ける?何キロ?」
「何キロかは分かんないけど、でもまたいつでも会えるから大丈夫だよ。」
「でももう毎日龍ちゃんちには行けないんだよね。嫌だなぁ。
お母さん、龍ちゃんいつも言ってるよ、お母さんと結婚したいって。こないだも健二とゲームしてた時、バーチャファイターと鉄拳のこうりゃくはこんな簡単なのに、お母さんのこうりゃくはいつまでたっても出来ないって言ってた。お母さんがこうりゃくして龍ちゃんと結婚すれば龍ちゃんと毎日会えるのに。」
健二が不貞腐れてテレビをつけると、美里が夕夏に近づいて言った。
「お母さん、ちょっと向こうで話したいんだけど。」

美里と隣の子供部屋に入ると、美里が真っ直ぐに夕夏の顔を見た。
「お母さんは、龍ちゃんと結婚しないの?」
「うん。結婚はしないと思う。」
「なんで?お母さんも龍ちゃんのこと好きなんでしょ?こないだ龍ちゃんとキスしてたじゃん。」
夕夏は美里の大人びた表情を見て、誤魔化すのは無理だと解った。いつの間にか美里は、夕夏の知らない間に大人に負けない洞察力を持つようになっていた。
「お母さん、確かに龍ちゃんのこと好きだよ。でも、死んだ美里のお父さんのこともまだ忘れられないの。それに、龍ちゃんはまだ若いから、若くて子供のいない女の人と結婚した方が幸せになれるんだよ。」
美里はしばらく黙ったあと、目に涙を溜めて夕夏の両腕をつかんだ。
「私、死んだお父さんのこと何も覚えてない。私と健二にとっては、龍ちゃんがうちらのお父さんなんだよ。
…私、こないだ先生に蝉の話聞いたの。蝉は土から出て一週間で結婚相手を見つけて子供を産んで死ぬんだって。人間も同じだって。いつ死ぬか分からないから、生きてるうちに思い残す事がないように思いきり生きなさい、って先生言ってたよ。
龍ちゃんだって、私や健二だって、お母さんだって、本当のお父さんみたいに、いつかは死ぬんでしょ。
私は、今、龍ちゃんと一緒にいたいの。」

その夜、夕夏は子供たちが眠ったあと外に出て龍のアパートへ向かって走った。
壊れそうなくらい心臓をドキドキさせてチャイムを押した。
何も応答がない。
ノブを回すと扉が開いた。
部屋は真っ暗だった。
中に入ると、龍はもういなくなっていて、荷物は全て運び出されていた。

夕夏が部屋を出ようとした時、押入れの襖に何か書かれているのが目に入った。
月明かりだけで確認すると、健二が描いたオーレンジャーの絵と、その横に手を繋いだ四人家族を描いた美里の絵があった。下に、健二、お母さん、龍ちゃん、美里、と名前が書いてあった。


それから一か月経っても、龍は一度も姿を見せなかった。


柴田はしばらくしてから別の店舗へ移動が決まった。夕夏は本部に電話をして、柴田の言ったことや、嫌がらせの数々を伝えていた。
それでも夕夏の気持ちは少しも晴れなかった。龍が戻ってくるわけではない。

子供たちも元気が無かった。健二は毎日龍に電話をしろと迫り、美里は机に座ってため息ばかりついていた。
いつの間にか夕夏も常に龍のことを考えるようになっていた。

ふとした瞬間に夕夏は龍のことを思い出してたまらない気持ちになった。

病院で健二を抱いて励ます龍の姿、
秀次の仏壇の前で長いこと手を合わせていた龍の姿、
ゲームをする龍と健二の大きさの違う並んだ背中、
夕夏に結婚を申し込んだ時の不安そうな龍の顔、
夕夏にキスをしている時のあの夕夏を見つめる龍の目…

秀次が生きていた頃一緒に過ごした同じ部屋の中に居ても、今では秀次よりも龍を思い出すことの方が多い。
秀次と過ごした日々はだんだんとひび割れて欠片になり、今では無くしたジグソーパズルのピースのように必死で探し出さないと見つからない。
自分の中で秀次よりも龍の占める割合の方が明らかに大きくなっていることに、夕夏は龍がいなくなった今になって気が付いた。

時間が経てば、龍との思い出も同じように失ってしまうのだろうか。
唯一違うことは、秀次にはもう二度と会うことは出来ないけれど、龍はまだ手を伸ばせば届く場所にいることだ。

夕夏は毎日何度もポケベルに電話をしようと思って受話器を握ったが、冷や汗が出てかけられなかった。
一度は結婚を断って拒んだ龍に、夕夏の方から会いたいと電話するのは自分勝手だと思った。

ある日、新しく入った女子高生のアルバイトの奈々ちゃんが、休憩時間に何かの表を見ながら熱心に勉強しているので夕夏が感心して褒めると、照れたように笑った。
「違いますよ、勉強じゃないんです。ポケベルに打つ文字の表を見てるんです。速く打てる子は、これ全部暗記してるんですよ。」
「ポケベルに文字を送れるの?」
「そうなんですよ。あ、私今から彼氏のポケベルに電話してきます。」
「ちょっと待って。あとでやり方教えてくれない?」
「もちろんいいですよ。吉野さんも彼氏さんに送るんですか?」

夕夏はその夜、奈々ちゃんからポケベルの文字の割り当て表を写させてもらったメモを見ながら、震える指で電話の数字を押した。
言葉ではなく数字なら、なんとか自分の思いを伝えられそうだ。
[*2*2 3 3 2 2 1 1 1 2 4 1 1 2 ##]
電話を切ってから、夕夏は自分の電話番号を入れるのを忘れた事に気がついた。
でも、もう一度かけ直す勇気は出なかった。

30分くらい待っても龍から電話はかかってこなかった。
夕夏が諦めて布団に入ろうと思った時、電話が鳴った。
慌てて受話器を取ると、龍だった。

「夕夏さん?こんな夜中にすまん。違ってたらほんまに悪いんやけど。…さっき俺のポケベルにかけてきてくれたん、夕夏さんやないけ?」
「うん。私がかけた。ちゃんと文字になってた?」
「…今から、そっちに会いに行ってもええか?」
夕夏は、子供たちが熟睡している姿を見てから返事をした。
「うん。会いに来て。」
いきなり電話が切れた。

40分くらい経った後、また電話がかかってきた。
「今住宅の前に着いた。出てこれるか?」

外に出ると、龍の青いシビックが停まっていたので助手席に座った。
一ヶ月半ぶりに会った龍はあご髭を伸ばしていて、精悍さに磨きがかかっていた。
「これ、ほんまに?」
龍がズボンのポケットからポケベルを出して夕夏に見せた。
画面には、
「ス キ ア イ タ イ」
と文字が入っていた。
夕夏は膝の上の自分の手を見つめた。
「うん、本当。龍ちゃんがいなくなって、龍ちゃんの存在の大きさに気がついたの。でも、今更もう遅過ぎるし、勝手過ぎるよね。」
夕夏の白い手を龍の日に焼けた手が握った。
「もう諦め時やなぁ思うとった。夕夏さんに結婚する気ないのに、このまま美里と健二と仲良うなり過ぎるんは俺も辛いと思ったけん。岐阜に行くんは丁度ええ区切りやと思ったんや。」
龍は夕夏の左手をギュッと強く握って、夕夏の顎を持って顔を自分の方へ向けさせた。
「俺は、ただ付き合う、とかは時間の無駄じゃ思っとる。夕夏さんが結婚する気ないんならこのまま岐阜に帰る。もう一回だけ聞くぜ。…俺と結婚する気はあるか?」
「私と結婚、して下さい。龍ちゃんが好きなの。一生、死ぬまで一緒にいたい。」
夕夏は声を震わせて龍の目を見つめ答えた。
龍は夕夏の両頬を手で挟んで引き寄せると、夕夏が息継ぎをする暇もないくらい性急なキスをした。龍が夕夏から唇を離しておでこにおでこをくっつけ、目をつむった。
「今から、部屋に行ってもええか?」
息の荒くなった龍に静かに聞かれ、夕夏は黙って頷いた。

部屋に入ると、子供たちが眠っているのを確認して、子供部屋の襖を静かに閉じた。
隣の部屋の灯りを全部消して真っ暗にすると、龍は夕夏の服を全部脱がせた。
龍は夕夏をうつ伏せにして、後ろから夕夏の首元を吸い、胸を揉みながら下に手を伸ばした。
暗闇の中、龍の手が夕夏のクリトリスを探し当て、指で円を描くように撫でたりこすったりするのを感じた。
夕夏が震えて喘ぎ声をあげると、龍が夕夏の口を片手で覆った。
龍が中に指を挿し入れてゆっくりと動かしたり奥を細かく突いたりすると、夕夏はすぐにいきそうになった。
「んんっ、う〜っ!」
夕夏は我慢が出来なくなって龍の指を強く噛んだ。
龍が鋭く息を飲んでから、低くかすれた声を漏らして笑うのが夕夏の耳元で聞こえた。
「夕夏さん、俺のこと秀次さんやと思ってええけん。秀次さんはあんたにどないなことしよった?」
龍が指を動かしながら夕夏の耳元で優しく囁いた。

始めは、夕夏の妊娠線とか、子供を産んで張りの無くなった胸のことを気遣って部屋を暗くしてくれたんだと思った。
龍の本当の意図が解って、夕夏の目に涙が溢れた。
「なん⁉︎泣いとんけ?痛かったんか?」
龍が指を抜いて夕夏の顔を振り向かせた。
「無理だよ。龍ちゃんのことを秀くんだと思えなんて。」
「すまん。そらそうじゃの。怒ったんか?」
夕夏は龍の首に両腕を回して抱きついた。
「違うの。だって、秀くんには悪いけど、龍ちゃんの方が上手だから。」
夕夏が暗闇の中で顔を赤くして龍にキスをすると、龍が暗闇の中で歯を見せて笑うのが分かった。
龍は立ち上がって豆電球をつけると、夕夏をきつく抱きしめた。
「男を喜ばせるんがほんまに上手いの。まだまだこんなもんやないけん。もっと気持ちええことしたる。」
龍は夕夏の足を広げてがっちりと腿の裏をつかんだ。
龍が夕夏のクリトリスを舌の先でなぞると、夕夏は声を出して叫び声をあげた。龍の髭が夕夏の腿の敏感なところをこすって、夕夏は気持ち良いのとくすぐったいのと痛いのを同時に全部味わった。
「ああっ!龍ちゃんだめ!」
「声出したらあかん。美里と健二が起きんで。」
「んんんっ!だって!あんっ!」
龍は夕夏の左足を曲げて上に押しつけると、舌でクリトリスをしゃぶったり舐めたりしながら中指を入れて優しく動かした。
夕夏は声が漏れるのを我慢しようとして、ビクビクと腰を痙攣させた。
「ああっ、お願い、龍ちゃんっ、もう、我慢出来ないっ…!」
「俺も、もう限界じゃ。」

龍は自分の服を全部脱いでペニスを夕夏に当てがうと、ゆっくりと挿入した。
「ああ、ごっつい気持ちええ。夕夏さん、ほんまにあの子らこっから出したんけ?もういってまいそうじゃ」
夕夏が思わず声を出して笑うと、龍も笑った。
龍は夕夏の上半身を起こして、座って向かい合った。
龍が舌を入れてキスをしながら夕夏の腰をつかんで速く動かすと、夕夏はまたすぐに絶頂に達しそうになった。
「龍ちゃん、ああっ、もう、いっちゃうっ…!んんっ!」
「俺も、もういきそうや。中で、出してもええか?」
夕夏は叫び声をあげそうになるのを我慢するのに精一杯で、何も言えなかった。
夢中で龍に抱きついて、声をあげそうになると龍の肩を噛んでこらえ、足を龍の体に巻きつけた。
「ああ、夕夏、ごめん、出すで。」
龍は低い声で呻くと、夕夏の中で痙攣して放出させた。
しばらくは二人で抱き合ったまま少しも動けなかった。

龍は夕夏の中に入ったまま夕夏を横たえ、夕夏に優しくキスをした。
龍がキスをしながら乳首を親指でいじくると、快感がまた夕夏の全身に広がって、夕夏から長いため息が漏れた。
夕夏は龍のお尻をつかんで、自分の右足の裏を龍の左足に滑らせた。
再び夕夏の中で龍が硬く大きくなるのを感じた。
夕夏は暗がりの中で龍の目をじっと見つめた。
龍はまたあの鷹のような目をして夕夏を見返し、夕夏の右足を自分の左肩にかけて、腰をゆっくりと動かした。
夕夏が声をあげそうになると、龍は自分の指を夕夏にくわえさせた。

その時、隣の部屋から健二の声が聞こえてきた。
二人で抱き合ったまま固まっていると、
「うん〜。龍ちゃん…。健二が勝ったよ…。」
どうやら寝言らしく、また健二はゲームの夢に戻っていった。

龍と夕夏は、二人で顔を見合わせ声を出さずに笑い合った。


「パパ、ここは、Xと△を一緒に押すんだよ!違うよ!それは□!
あ〜もう!貸して!」
「健二はゲームが上手だな。パパはこういうのは苦手だったから、健二はママに似たんだな。なぁ、美里?」
「ママもこういうの無理だよ。たぶん健二は龍ちゃんに似ちゃったんじゃない?」
「ああ、そうか。健二は龍ちゃんに似とるんだな。」
秀次は夕夏の顔を振り返って微笑んだ。
「夕夏、龍ちゃんと幸せにな。」

夕夏が朝目覚めた時には夢の内容をほとんど忘れていて、ただ頬に涙の跡が残っているだけだった。



おまけ

「夕夏、健二は何しよっとか⁉︎もうすぐ美里の結婚式が始まってまうじぇ!」
龍が結婚式場の時計を見てウロウロと歩き回った。
「浩司、さっき健二に電話かけたんだよね?すぐ来るって言ってたみたいだけど。」
夕夏が健二の弟の浩司に聞くと、妹のさくらが呆れたように言った。
「健にい、こういう時いっつも遅れてくるからね。」
「あかん!もう俺は美里んとこ行くぜ!…バージンロードはどっちの足からやったかのぉ。手はどっちじゃったけ…。」
龍はブツブツ言いながら歩いて行った。
「龍ちゃん大丈夫かなぁ。こういうの苦手だでね。」
夕夏が龍の後ろ姿を見ながら呟いていると、入り口から健二が走って来た。
「ヤッベ!寝坊しちゃった!ごめん!もう始まった⁉︎」
「健にい、御祝儀ちゃんと持ってきた?」
「あ!ヤッベ!玄関に忘れてきちゃったかも!」
「そう思って、健二の分も持ってきたよ。」
「母ちゃんさすが!俺を産んだだけはあるね!」
「そろそろ僕らも行かないとまずいんじゃない?」
「浩司の言う通りだわ。もう行かないと。」

披露宴で、招待客にお酒を注いで回る龍と健二を見ながら、さくらが夕夏に言った。
「健にいって、お父さんとは血繋がってないよね?」
「うん、繋がってないね。」
「でもあの二人、すごいソックリだよね。式から二人ともずっと号泣してるし、今だって二人してみんなにお酒注いで回ってるし、ゲームとか漫画好きなのも全部一緒じゃない?血の繋がってる浩にいの方はそんなに似てないのにね。」
「本当に、不思議よね。健二は顔とか体格とかは死んだ旦那に似てるけど、性格は龍ちゃんにそっくりなのよね。」
「DNA検査したら一致したりして。」
「クローンじゃないんだから。」
夕夏と浩司とさくらが笑っていると、龍と健二が席に戻ってきた。
「なんや、何笑っとん?」
「龍ちゃんと健二がソックリって話よ。」
「失敬やな!俺は健二ほどアホやないで!」
「俺だって父ちゃんほどバカじゃないもんね!」
龍と健二が不毛な言い争いをしているのを見て、さくらが夕夏に言った。
「こんなにソックリなんだから、女の趣味も似てたりして。健にい、子持ちの彼女連れてきたりしたらどうする?」
「あはは、まぁ私は何も言える立場じゃないわね。」
「ねぇねぇお父さん、お父さんとお母さんの馴れ初めって、お父さんの一目惚れなんだよね?」
さくらが龍に話しかけると、龍は顔を赤くした。
「ん、ほうやけんど。」
「お母さんのどこが好きになったの?どうやって結婚相手って選ぶの?」
龍の顔がますます赤くなった。
「ほんなもん、一目見たら分かるもんじゃ。さくらも将来会うてみたら分かるけん、心配すな。」
それを聞いた健二が、ニヤニヤしながら言った。
「俺、まだ父ちゃんが母ちゃんに片思いしとる時、父ちゃんに聞いちゃったんだよね〜。」
「あかん!健二!その話はあかんじぇ!」
「え?何?何の話?」
「昔、父ちゃんに、母ちゃんのどこがそんなに好きなんか聞いたらさ、父ちゃんさ、ブフーッ!顔とおっぱいじゃ、って言ってたじゃん!俺、あん時は5歳だったからふぅん、て聞き流したけど、今思い出すとウケる〜〜。」
「お父さん最低〜〜。」
「龍ちゃん…。その話は初耳だわ。」
「け、健二こそ、最近はどうなっとんじゃ。お前こそ女を顔で選んでは失敗する、を繰り返しよんやろ。」
「今度、友達の彼女にお友達を紹介してもらうんだよねー。さとちゃんの彼女、スゲエ可愛いからお友達も絶対期待出来る!」
「健にい、ほんとバカ。コンパで、自分より可愛い友達連れてこない説、知らないの?」
「何⁉︎そんな説があんの⁉︎誰が唱えたんだよ!アインシュタインかよ!」
「健にい落ち着けよ。」

進路変更、後方確認

進路変更、後方確認

「昨日見た夢」に出てくる健二のお母さんとお父さんのお話です。

  • 小説
  • 短編
  • 恋愛
  • 成人向け
  • 強い性的表現
更新日
登録日
2016-03-08

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