世界の神話・異聞 -心優しき魔女の王-

次に訪れたのは港町。
そこは、古の魔女が悪しき魔龍を封じた場所だった。
男はここで魔女の技と血を継承する姉妹に出会う。
彼女らの望みは封じられた魔龍の退治。
男の望みは戦って死ぬこと。
利害が一致した彼らは、共に魔龍が眠る地下へ潜入する。

天国の海

 この世界に来て、初めて海を見た。
 潮の匂いがするな、とは思っていた。木の密集度が下がり始めて、森の終わりが見えた。突き抜けた先は高さ二、三メートルほどの小さな崖で、そこから先は海が広がっていた。
 海を見たのは久しぶりだ。幼いころ、家族揃って行った海水浴以来じゃないだろうか。
いや、僕が殺した、ある政治家のパーティが開かれた豪華客船に乗り込んだ、あれが最後だ。真っ黒な海に、そいつの死体を遺棄したのを思い出した。
 あの墨のような海と比べると、この世界の海は、手前が淡い緑色で、奥へ行くほど緑、青緑、濃紺と変化していく。その客船のバーテンダーが出してくれたビジューって名前のカクテルがこんな色だった気がする。透明度も高く、魚影が遠くからでも見えるほどだ。よく最後の楽園、などという特集で常夏の美しい海が紹介されていたが、ここでは見渡す限りが最後の楽園だ。人間がいないから楽園ばかりというのも皮肉な話だ。
「う、わぁ・・・」
 そんな僕の隣で、クシナダは口をぽかんと開けて、ただただその光景に魅入っていた。圧倒されているようにも見える。
「海は、初めて?」
「う・・・み・・・?」
 どうやら、目の前のでかい水たまりを何と呼称するのか知らなかったらしい。そうか、生まれてからずっと山奥の村の中で育ったのだから当然か。
「僕たちは海と呼ぶ。この世界じゃ何と呼ばれてるか知らないけど」
「海・・・」
 呟いて、また海を眺める。余程衝撃的だったようだ。崖から飛び降り、フラフラと誘われるように海に近付いて行った。寄せては返す波におっかなびっくり近づく。
「何で、こんなに大きいの?」
 子どもの頃いつだったか、僕も姉に同じような質問をした。その時の姉の答えが
「小さかったら、ただの水たまりじゃない。それじゃあ、つまらないでしょ?」
 後の天才科学者とは思えない発言だった。だが、その頃の僕は妙に納得してしまった。たしかに、それじゃあ面白くない。泳ぎにも行けないし、魚も住めない。海が大きいのは、僕たちがつまらなくないようにするためだ。
 僕はもう、あのころの僕ではない。残念ながら。実につまらない人間になってしまったから、あの時の姉のような面白い答えは言えない。
「村にいた時、川があっただろ?」
「ええ」
「トウエンのとこにいた時もあったよね」
「ええ。もう少し大きいのが」
「世界中には、ああやってたくさんの川が存在している。川は、上から下、上流から下流へ流れるよね?」
「そうね。うん。わかるわ」
「流れて流れて、行きつく先がここ。全ての川の終着点が海だ」
「・・・ここに?」
「ああ」
「あの大量の水が、全部ここに?」
「うん。だから、大きいんだ。途方もなく」
 ほう、とかへえ、とかつぶやきを漏らして、クシナダは屈みこんで、海に手を浸してみた。
「冷たい」
「結局水だからね」
 今度は手を引き抜いて、ついていた雫を舐めとる。クシナダの顔がくしゃりと中央によった。
「しょっぱい!」
 ぺっと吐き出す。
「何で? 川の水はしょっぱくないのに!」
「おそらく塩分、塩が含まれているからだろ。地面に含まれてる塩が溶け込んでいるからだ」
 詳しくは知らないけど、と付け足す。そんな僕の顔を、感心したように彼女が見上げる。
「何だよ」
「いや、本当にいろんなことを知ってるのね、と思って」
 感心したように彼女は言った。そんなことはない、と否定する。けれど、彼女もそんなことない、と僕の否定を否定した。
「そうよね。異世界からの人間だものね」
「何をいまさら」
「それだけ、違和感なくこの世界の生活に馴染んでるってこと。ううん、あなたが、あなたをこの世界に馴染ませてる、そんな感じがする」
 自分が馴染むのではなく、世界のほうに馴染ませる。面白い表現だ。
 ふと、昔授業で習った適応と進化の話を思い出した。生物が生き残るうえで、自分を今いる環境に合わせるのか、自分が住みやすいように環境を整えるのか、という話だ。環境と体が適合しないと、体調を崩し、最悪死に至る。
 自分の目的のためにこの世界の化け物どもに挑む。言葉としては聞こえはいいが、やってることは侵略だ。土着の生き物を自分のために食い荒らしているのだから、外来種が在来種を餌にしているようなものだ。確かに、強引に馴染ませている、と言える。そして、それがクシナダにとって当たり前になりつつある、という事なのだろう。
「あ、魚」
 クシナダが指差した。そして同時、盛大に腹の音を響かせた。彼女は指差したまま固まってしまった。首のところが徐々に赤みを帯びていく。そう言えば食料が切れて、朝から何も食ってないや。食べられそうな実とか草とかなかったし。
「飯にする?」
 僕の提案に、クシナダは黙って頷いた。
 リュックに結び付けていた剣を取る。ぐるぐると手首を回しながら、切っ先を海に浸す。ぐっと、持つ手に力を込めた。刀身がうっすら青白く発光し、その表面でバチバチと音を立てて電流が迸る。電流は、まるで生き物のように蠢き、刀身へと流れ込む。流れ込めば流れ込むほど、刀身の輝きは増していく。
「離れて」
 彼女に海から離れるように指示。自分もできるだけ近づかないように。
彼女が素直に下がっていったのを見計らって、スイッチを入れるようなイメージで、ぐっと刀身を押し込む。刀身にため込まれた電流が、海中に解き放たれた。何ボルトかは知らないが、十メートルほど先の海面に、腹を上にした魚が浮いてきたのだから相当量の電流が走っていると思う。
「悪いけど、頼むよ」
 後ろに声をかける。はいはい、と返答。ぶわっと風が吹いて、後ろから何かが飛んで行った。
「いつみても、すごいな」
 クシナダが、宙に浮かびながら、気絶した魚を魚籠に入れていく。
彼女の背には透明の翼が生成されていた。どういう原理かわからないが、空気を固めて翼の形に擬似的に作っている。
「私としては、あなたのその電撃のほうがすごいと思うけど」
 つぶやきが聞こえていたらしく、こちらを見ずに彼女は言った。僕らが自分たちのこの力に気付いたのは、数日前だ。

天女と探偵の解けない謎

 ある朝。体に当たる風が妙に強いなと思って目覚めると、隣で寝ているクシナダが、横になった体勢のまま五十センチほど浮かんでいた。目の錯覚かと思って近づいて確認したが、間違いない。彼女と大地の間には空間が生れていた。種も仕掛けもない空中浮遊だ。
「ん?」
 気配で目覚めた彼女と目が合った。ちょうど、僕が彼女の顔の真正面にいた時だ。ぱちぱち、とお互いまばたきすること数回。
拳が飛んできた。
女の細腕と侮るなかれ。蛇神の力を得た彼女の腕力は既に人の域を逸脱している。冗談抜きで、僕を殺せるのはこの女しかいないと思わせた鋭く重い一撃だった。
風景が車窓から見てるわけでもあるまいに高速で横に流れていく。気分はライナーで飛んでくホームランボールだ。そのまま場外へ。
「何をする」
「何をするじゃないわよ!」
 脳震盪でも起こしたかふらつく頭を支え、体をひきずりながら戻った僕に、クシナダは顔を真っ赤にして怒鳴った。ただ、まだ浮かんだままで、そしてそのことに気付いていないようだった。完全なる無意識の御業だ。
「何よ何なのあなたは一体全体唐突に突然に! 今まで全くそんな気なかったじゃない! あの夜の続きを今しようってのかこのやろう馬鹿野郎私にだって心の準備というものがあってね・・・」
 うんぬんかんぬん、彼女の言い分は続く。うん、わかった。落ち着け。どうやら、寝込みを襲おうとしたと思われているらしい。
「まて、違う」
「私だってね時と場合と気持ちを考えてもらえればそれ相応の対応というかね・・・違う?」
「落ち着いて、聞いてくれ。今、あんたは、地に足がついてない」
「馬鹿にしないでついてるわよ何言ってるのこんなに平静でいるのに! 私のどこをどう見たら動揺してるように見えるっていうの!」
 ・・・どこからどう見てもそう見えるんだけど。物理的にも。
どうもさっきから会話が噛みあってない気がする。言い方を間違えたか?
「よし、ちょっと質問だ。今、立てるか?」
「立つ? 何よ突然。それくらい当たりま」
 スカッと彼女の足が空を切る。
「え?」
 間抜けな声を発して、彼女は落ちた。同時に翼も消え風も止んだ。
 クシナダが衝撃から立ち直るのにいくばくかの時間を要した後、僕たちは再度話し合った。
「なるほどね、寝てる間に浮いてたと」
「そうだよ」
 腫上った、とはいっても治りつつある頬をさする。
「どうしてだろ?」
 地に足をつけた状態で彼女は尋ねてきた。こっちが聞きたい。
「そんなこと言われてもねえ。昨日まで何ともなかったし」
「じゃあ、昨日何か変わったことなかった?」
 変わったこと、と首をひねり、うんうんうなること数秒後。
「あ」
 何かに思い至ったか、クシナダが声を上げた。
「そういえば、それに触ったとき、かな?」
 クシナダが僕の剣を指差す。これ? と持ち上げると、そう、と頷いた。
「昨日、鹿捌くのにちょっと借りたでしょう?」
「ああ、そういやそうだね」
「その時、前と同じようにそいつが震えたわ」
 それくらいかなあ、とクシナダは言った。ふうん、と改めて手の中の剣を眺める。もともとは蛇神の牙から打ち出されたものだが、いまいちよくわからない。前回もクシナダが触れたら剣から矢に変化したし、穢れの塊だった敵に突き刺したら、その穢れを喰っちまうし。
「あ」
 今度は僕が声を上げる番だった。頭の中で記憶と仮説のピースが上手い具合にがちっとはまって、大きな一枚絵の下書きが出来上がった。
「どうしたの?」
「ケンキエンだ」
 穢れの塊のケンキエンは、犬と猿と雉のパーツを持った鵺だった。
「ケンキエンって、あれでしょ。この前戦った怪物でしょ? 雷落としたり分裂したり、死体を甦らせたりした」
「そう、そのケンキエンだ。あいつの力だ」
「ん? どういうこと?」
「いいかい」
 仮説を口にして、再度自分自身に聞かせてみる。
「まずは、この前の戦いのときのことを思いだそう。クシナダ、確か前にこの剣に触れてから、矢に力を込められるようになったって言ったよね?」
「言ったわね。うん。トウエン様はもともと持っていた力が、剣に触れたことで使えるようになったのでは、と仰っていたけど」
 僕の推測は、少しだけ違う。持っていたんじゃなくて、剣に触れたことで身に着けたんじゃないだろうか。
それを証明するためには、僕もケンキエンが振るっていた力を使う必要がある。
ふと頭に思い浮かんだのは、散々ぱら喰らったあの電撃だ。全身の毛を震わせることで帯電し、最終的には雷と同程度の電圧をぶっ放したあれだ。さて、どうやって同じようにするべきか。僕は全身を包むほどの毛皮を持ってないし。代わりになりそうなものと言ったら、神経を伝わる電気信号だろうか。目や鼻、手などで感じたことは、全て電気信号に変えられて脳に伝わる。電気はもともと体に備わっているのだから、利用できないだろうか。
目を瞑る。イメージする。体にある神経を伝って、電気が流れ循環するイメージだ。それを、徐々に一か所に集めている、という絵を思い描く。
「タケル、タケルっ」
 人が集中しているときに、横合いからクシナダの呼ぶ声がした。そちらを見ると、彼女は僕を見ていない。見ているのは、持っていた剣の方だ。
「お」
 ふむ、何だかんだで上手くいったようだ。バチバチと音を爆ぜさせながら、剣の表面で青白い電流が舞っている。
「何で? どうしてそんなものが使えるの?」
「これはまだ仮説なんだけど」
 とは言うものの、多分大体あってる。さっきの話の続きになるんだけど、と前置きして
「ケンキエンを倒した時の事、覚えてる? あいつが最後どうなったか、だけど」
「もちろん。その剣が、ケンキエンの穢れを全て吸い込んだことで、姿を保てなくなってしまったんでしょう?」
「そう。こいつが、ケンキエンを『喰った』んだ」
 てめえこそ僕の餌になりやがれ。
僕はそう言って奴に剣を突き刺した。呼応するように、剣はケンキエンを構成していた穢れを全て吸い込み喰い尽くした。
「取り込んだのはわかるけど。それがどうして使えることにつながるの?」
 そこだ。人差し指を彼女の額に向け、それが今回の焦点なのだとアピールする。
「僕らは、こいつで取り込んだ敵の力を、自分の物に出来る、みたい」
 あいつの力とか、そういうものをデータみたいに取り込んで、手に取った僕たちに反映させたのだ。外部データを取り込んだUSBをPCにインストールした、そんな感じだろうか。
手から力を抜くと、帯びていた電流が消えた。
「だから、僕はこの雷を、あんたは風、というか大気を操れるようになったんじゃないかな」
 信じられない、という顔で彼女は僕を見ていた。
「論より証拠、じゃないけど。そっちもやってみてよ」
「やってみて、なんて言われても。人は飛べないものよ?」
 さっきまで浮かんでいたやつが何をいまさら。イメージだ、想像力だと彼女に言い聞かせる。
「想像してご覧。さっき僕がやってたみたいに目を瞑って。自分の背中に羽根が生えて、空に浮かぶことを頭の中で思い浮かべてみて」
 気持ちだけ催眠術師になりきって、彼女の耳に囁く。半信半疑の表情で、彼女は目を瞑った。すうっと息を深く吸い込んで、吐く。何度か繰り返し、集中する。
 風が、緩やかに流れ出した。彼女の呼吸に合わせて、吸えば流れ込み、吐けば流れ出るを繰り返す。それが三度ほど繰り返されたところで、彼女は地面をトンと軽く蹴った。
 高さは大体三十センチかそこらだろうか。ジャンプのつま先到達点から地面に降りることなく浮かんでいる。
「のお、おおっ」
まるで自分の意志で引き起こしていることでは無いかのように驚く彼女は、バランスを取るように両手を広げた。その両手で上昇気流でも受けているのか徐々に高度があがり、彼女のつま先は遂に僕の身長を越える。彼女の後ろの景色が、少し歪んで見えた。歪みをなぞっていくと、形が浮き上がる。
「翼、か?」
光をわずかに屈折させているのは透明の翼だ。集まってくる風を受けているようにも、それ自身がスラスターみたいに風を吹き出しているようにも見える。はたまたその両方か。よくわからないが、とにかく浮いている。さっきは姿形を確認できなかったけど、今度は見えた。もしかしたら、僕が言ったことを真に受けて、翼を本人がイメージしているからそういうものになっているのかもしれない。
「すごいな」
 神秘的な光景に、思わず見惚れる。
 彼女は、僕がこれまで出会った女性ではまず間違いなく最高の美女だ。濡れ羽色の長い髪も、涼やかな顔立ちも、引き締まったしなやかな体も、全てが計算されたような黄金比で作られている。それに今は、初めて会った時とは比べ物にならないほど生気に満ちて輝いている。
 元の世界で道を歩けば男も女も誰も彼もが振り返りスカウトされる様な彼女が、透明な翼で空を飛んでいるのだ。翼はシャンデリアのようにきらきらと光を乱反射させて、その中を舞う姿は羽衣伝説の天女を思わせた。
「ちょっと! 感心してる場合じゃないわよ!」
 飛んでる本人はかなりまずい状況のようだが。いつの間にか高さはそこらの木を越えている。
「どうやって降りるの!? これ、どんどん上がってるんだけど!」
「何とかならない? 自分でやってることなんだよ?」
「ならないから言ってんでしょうが!」
 結構パニックのようだ。確かに、地面に足がついてないと不安にはなる。徐々に離れれば焦りも恐怖も生まれる。ジェットコースターでも足場があるのと無いのとでは恐怖感が違うって言うし。名作映画でも言っていた。人は、土から離れては生きられないのだ。
「とりあえず、落ち着け。翼のイメージで飛んでるんだから・・・」
「翼がないって考えればいいってこと?!」
「いやそこまで極端じゃなくて・・・っておい!」
 焦り過ぎだ馬鹿。彼女の背中から唐突に翼は消えた。イカロスでももう少し粘んだろってくらいの速さで翼を消した彼女は、当然世界の法則たる重力に引きずられ、落ちてきた。僕の真上に。
「ひゃああああああああっ」
 可愛らしい悲鳴を上げながら降下してくる彼女を見て、何か前にもこんなことがあったなあ、などと感慨にふけりながら備える。
ベイカー街の探偵もやっていた、頭の中で完全に完璧に行動と結果を予測し想像し実現させる手法だ。自分に不可能なことは、人間は想像できない。想像出来るなら、それが実現出来るということだ。
 考えろ、想像しろ、彼女は頭から落ちている。好都合なことに両手を差し出して。ならば僕は、彼女の両肩を掴む。そのまま落下してくる力に対して、自分の力を斜めから加える。上からの攻撃を横合いから弾いて受け流すのと同じだ。上から斜め、そして横に力を逸らして、ぐるぐる回しながら力が尽きるのを待つ。
 よし、これで行こう。

 結果は、まあ、二人とも死にはしないし大した怪我もしなかった。
 途中からは想定通りだった。力を逸らしてぐるぐるぐるぐる回って、止まった。
ただ、ちょっと最初のタイミングが遅すぎた。肩を掴もうと思ったのだが、すっと手をすり抜けてしまったのだ。仕方ないから第二案。自分の腕は相手の脇の下を通しているので、そのまま肘をぐっと曲げて抱きかかえるようにして固定。そこから腰を捻り、柔道の投げ技のように、相手の体を巻き込みながら回転する。縦から、斜め、そして横へ移行、ジャイアントスイングの足じゃないバージョンだ。計画通り、上手く地面に激突させずに済む。
 回転が止まり、ふらついて転倒しそうになるのを何とか踏ん張った。やれやれ、そう一息つこうとした時だ。
 彼女と目が合った。それも、息がかかる様な至近距離で。視界の八割が彼女の顔だ。大きな瞳がより一層見開かれ、僕を覗き込んでいた。
 客観的に見れば、今僕たちは抱き合っている。まあそりゃそうだ。回転してるときは互いの顎が相手の肩に乗っかっていた。がっぷり四つで組んでいたのだから仕方ない。
 ドクン、ドクンと胸のあたりが踊る、跳ねる。
僕、じゃない。彼女だ。彼女の心音だ。いや、僕か?
 よくわからない。これほどよくわからないことだらけの中、もう出尽くしたと思ったら最後に一番訳のわからない『わからない』が来た。
「え、ええと」
 戸惑いながら彼女が口を開いた。
「その、ありがとう」
「どういたしまして」
「っと、その、離し、て?」
 顔を下に背けながら、彼女は僕の胸に手のひらをそっと当てて抗う様に押していた。さっきのパンチとは比べ物にならないくらいの弱々しい力だから気づかなかった。ああ、そうだね、と固定していた両手を開放する。
 解放した後も、彼女は僕に手のひらをあてて手首から肘までの距離を保ったまま、僕から離れるでもなく固まっていた。僕の方も、恥ずかしがって飛び退るのもおかしいし、かといって再度抱きしめると言うのも違うかと思っていたので、その微妙な距離をたもったまま動けずにいた。
 ガサリ、と茂みで物音がしたのが幸か不幸か合図になった。お互い反射的に離れて、彼女は弓を、僕は剣をひっつかんで構える。
 のそり、と現れたのは体長二メートルくらいの少し大きめの猪だ。少し、というのはこの世界基準なので、元の世界だと山の主レベルだ。少し興奮しているようで鼻息が荒い。
「ご飯に、しましょうか」
 さっきまでの事を振り払う、もしくはごまかすように、赤い顔した彼女はちょっとだけ声を大にして提案してきた。否定する要素が皆無だったので、頷く。
 血抜きして捌く頃には、元の距離に戻っていた。少しもったいないと思ってしまったのは墓場までの秘密だ。

魔女を継ぐ者

 何日か意識して練習してみたら、思ったよりも簡単にコントロールできるようになった。自転車に乗るのと同じだ。一度頭と体で理屈と感覚を理解してしまえば、呼吸するように出来た。今ではこれ、この通り。水中に電撃を流して魚を気絶状態にさせることも、任意の高さでホバリングすることも上下左右三百六十度浮いたまま動き回ることも可能になっていた。
「で、次の目的地ってどこなの?」
 魚の丸焼きに小さな口で豪快にかぶりつきながらクシナダが言った。
「ちょっと待って」
 指に付いた魚の脂を舐めとって、僕はリュックから地図を取り出す。開くと、GPS機能付きのマップみたいに今いる場所が三角の光点で表示された。そこから矢印が北へ伸びている。僕は地図に人差し指と親指を置く。そして、すっと親指と人差し指の距離を開けるように動かした。画面上の地図表記が一気に縮小され、千分の一くらいの縮図が五千分の一くらいになった。
「便利よね、コレ」
 反対方向から覗き込んだ彼女が言う。神からもらった地図は、紙製の癖に水濡れ、火に強く、多少雑に扱っても破れる気配がなくカーナビ機能付き、それだけに留まらず、画面操作で拡大と縮小が出来ることに最近気づいた。
 この機能のおかげで、僕はこの世界の大陸全土を確認できた。そして、ちょっと驚いた。
 僕たちがいるこの世界には、大陸が一つしかなかった。小学生の時に習った、パンゲア大陸を思い出す。地殻変動でバラバラになる前の、巨大な一つの大陸だ。失われた大陸もこの時代ならあったのかなとロマンを感じた。
「矢印は、北を指してるね。で、地図を見ると、もう少し行った先に、街がある」
 縮小された地図でもわかるくらい、少し大きな街が広がっていた。海に面した街だ。このまま海岸線沿いに行けばいい。
 ただ、矢印が示す方角が気になった。微妙に街から逸れているのだ。さらに地図を縮小してもその先に地面があるわけじゃない。どういう事だろうか?
「とりあえず、この先の街に向かおう。あとは、成り行き任せだ」
 そう言って地図を畳む。そんな僕を思案顔したクシナダが見て、言った。
「あのさ」
「ん?」
「タケルって、適当よね?」
 ・・・否定はできない。
「この前の勝手に西涼に行ったこともそうだけど、敵の近くに行ったら何とかなる、敵に会える、すぐ戦える、みたいな短絡的な考えしてない?」
 ・・・全く否定できない。
 言い返すことができずに言い澱む僕を見て、クスッと彼女は笑った。
「少し安心したわ。あなたにも、そういう人間らしい雑さがあって」
 人間らしい、か。今までどういう風に思われてきたんだ。
 後始末をした後、僕たちはまた矢印の示す方向へ歩き出した。海岸線は途中で途切れ、緩やかな上りになった。海面からの距離がどんどん遠ざかる。潮風のせいか足首くらいまでの短い草が所々生えているだけの、地面むき出しのごつごつした道を進んでいると、道が途切れた。崖か、と思ったけど、そうじゃない。
「うわぁ」
 クシナダが本日二回目の歓声を上げた。
 崖の下には街が広がっていた。今僕たちが立っているところが最上段で、そこから段々畑のように、地形を利用した家屋が下の港まで続いている。海外の格式あるコンサートホールみたいだ。港が舞台で、そこを中心にして観客席みたいに半円状に住居が広がっている。
 規模としては、今まで立ち寄った中で一番大きな街だ。数千人単位の人がいるだろう。ならばやることは一つ、情報収集だ。
 街の外周を歩きながら、下に向かう階段を探す。
階段はすぐに見つかった。上から下まで一直線で、港まで繋がっていた。大通りのような階段が他にも何本かあり、その階段から規則的に横道が伸びて、家々の前まで繋がっている。真上から見たら巨大なあみだくじに見えることだろう。
一番手前にあった階段から降りることにする。さて、当たりであると良いけれど。
下に降りるにつれて、徐々にすれ違う人が増え始めた。喧騒も大きくなっている。多分、港の周囲が、降ろした荷をそのまま売り買いする商店になっているのだろう。
ちら、ちらとさっきからすれ違うたびに見られている。港町の癖に旅人が珍しいのか?
「止まれ!」
 商店街に入る直前で取り囲まれた。屈強な連中が革鎧を纏い、槍と盾で武装している。西涼の時とは違い、妙な怯えは見えない。むしろ傲岸な態度で見下ろしている。現段階では何らかの脅威にさらされているわけではなさそうだ。あれだけ騒がしかったのに、喧騒が遠くなった。周りが僕たちと彼らとのやり取りを、というよりも、彼らを警戒して息をひそめているようだ。
「何者だ。何用があってこのセリフォスに来た」
 リーダー格っぽい奴が偉そうに前に出てきた。セリフォス、か。どこかで聞いたことのある名前だ。
「ただの旅人だ。ここに立ち寄ったのは、食料と水を買う為と、旅に必要な情報を集めるため」
「情報、だと? どんな?」
 ぐいぐい突っ込んでくるな。面倒くさい連中だなと思いながらも、一応説明する。
「化け物の情報だよ」
「化け、物?」
「そうだ。人を獲って食うくらい、でかい化け物だ。大蛇とか、龍、ドラゴンとか。そういうの、いない?」
 それを聞いた連中は、一瞬呆気にとられたあと、大爆笑した。
「馬鹿か貴様。そんなものいるわけないであろうが」
「おとぎ話でもあるまいに、今時子どもでも言わんぞ」
「いやいや、昨晩娼館でとんでもない獣に出会ったぞ。我が腰に備わった大剣を振り回し、腹の上で踊る獣と朝まで戦ったわ」
「何が大剣だ、折れたレイピアのくせに!」
 がははと誰もが笑う。ふうふうと息を整えながらリーダー格は言った。
「そんなものはおらぬよ。アクリシオス王の統治のもと、セリフォスは繁栄を築いている」
 近隣の国とも問題はないし、この百年は平和そのものだ。リーダーはそう言った。
確かに、彼らは屈強で、日ごろから鍛えているのはわかるが、手に持った剣も槍も、身に着けた鎧も汚れ一つなくぴかぴかだ。これは鎧ではなくファッションだ、と言われても信じられる。
「好きに見て回ると良い。旅人よ。お前らの欲する情報は得られないだろうが。狼藉を働かぬ限り我らは歓迎しよう。だが、その前に」
 手を差し出される。何だ? 握手でもしたいのか? その割には、手の甲が下を向いていて、手のひらが上を向いている妙な形だ。ファイト一発で手を取る必要もなければ、こっちに来いとジェスチャーをする上司でもない。なら
「通行料と滞在料」
 まあ、そう言う事になるか。確かに国という形を取っているなら、税関はあるだろう。
「金貨百枚か、それに釣り合う金目の物、珍しい物を出せ。お前らは、金貨なんぞ持ってるようには見えないな」
 無遠慮に人のことを見てくる連中のことを放っておいて、僕は周りに視線を巡らせ、一番近くにいた商人と思しき男に声をかけた。男はビクリと体を震わせ、何度か左右に視線を送った後、自分が話しかけられているのだと理解し、体をのけぞらせて引きつった。関わってくるな、という合図だと思うが、それなら僕に絡まれる前に逃げればよかったのだ。恐ろしくても、人の不幸は見ておく、というのは、どこの世界にでもよくある人の習性なのだろうか。他人の不幸を見て、自分は不幸じゃないということを確認したいからか、それを見るのが楽しいからなのかは知らないが。僕が彼に言えることがあるとすれば、誰にでも不幸というのは降りかかってくるものだ、的なことだ。言わないけど。
「ねえ。金貨百枚って高いの? 安いの?」
「そ、それは・・・」
 男は僕を見て、その先にいるリーダーを見て、困って、うつむいた。うん。高いようだ。安いと言い切るには良心の呵責が芽生える程度には。にやにやと笑っている連中の顔を見て、結構吹っかけてきているってことは分かったけど。商人たちが彼らを恐れる理由が分かった。今までもこうして通行料やら滞在料やらとってたのだろう。
「まさか、払いもしないでここに来たのか? 違うよな?」
 商人の男が耐え切れなくなって逃げて行き、代わりにリーダーが近づいてきて馴れ馴れしく僕の肩に太い腕を回した。
「俺たちも心苦しいんだ。だが、これが仕事なんだ。お前らは俺たちに金を払い、俺たちがそれを街で使い、街が潤う。街が潤えば繁栄し、俺たちが潤う。街が繁栄すればお前らみたいな旅人がたくさん現れて、俺たちに金を支払う。そうやって成り立っているんだ。仕方ないよな? 仕事なのだから」
 仕事だから、で子育てを奥様任せにするお父さんたちは、まだまだ『仕事だから』のアマチュアだ。プロが使うとこういう理論になるのか。面白いね。
「でも俺たちも、お前が言う様な化け物じゃない。悪魔じゃない。だから、金目のものでも構わん。お前が持っているそのデカい剣でも良いし、そうそう・・・うん、お前」
 僕から、クシナダへ。
「お前、良いな。胸はちと小さいが、なかなかの別嬪じゃねえか。よこせ」
「なっ」
 後ろでクシナダが声を上げた。
「お前の女を一晩よこせば、チャラにしてやると言っているんだ。どうだ? ただ、一晩で気が変わって、お前より俺たちを選んじまうかもしれないけどな」
 げらげらと下卑た笑いに包まれる。うん、彼らが戦いをしたことがないと言うのは、間違いなさそうだ。あんなお怒りのクシナダに気づいていないのだから。
「どうだ、安い物だろ?」
 安いと思うよ。あんた方の命は。一応、忠告はしてやろう。
「本気か?」
「本気? ああ。もちろん本気だとも。不服か?」
 自分の要求が通ることを疑ってやまない、そういったタイプの笑顔だ。いっそ滑稽なので僕が代わりに笑ってやりたいくらいだ。
「僕としては、やめた方が良い、と言っておく。あんた方じゃ、彼女の相手にならない。一晩どころか、あの太陽がちょっと傾くまでもたないよ」
 ヒュー、と口笛が飛んだ。
「そりゃすげえ。ますます楽しみだなぁ!」
 出来の悪いすれ違いコントを見ているようだ。我慢しきれなくなった彼女が、すすっと僕たちの前に歩いてきた。
「お、もう我慢できないってあがっががああああああああっ!」
僕から彼女へ手を伸ばしたリーダーは、その腕を捻じりあげられて悶絶した。クシナダは、ゴミを捨てるようにぞんざいに腕を振るい、リーダーを投げ飛ばす。だから言ったのに。
「その程度で私の相手? 笑わせないで」
 彼女は地に付したリーダーを見下して、冷笑。
「どうしてもというのなら、手加減して差し上げましょうか?」
 本人はそう言うが、大分手加減はされているはずだ。彼女が本気なら、焼き鳥の手羽先を綺麗に喰う時みたいに、肘の関節部分で引き裂かれている。
「こ、の野郎っ・・・おい!」
 痛む腕をさすりながら、リーダーが立ち上がり、他の連中に声をかける。その合図に連中は持っていた剣や槍を僕たちに向けた。
 第二プランで行くか。こいつらが知らなくても、こいつらが使えているアクリシオス王とやらが知っているかもしれない。仮にも王家と名乗っているんだ。資料くらい残っていてもおかしくないだろうし。ちょっと『お願い』して、会えるように取り計らってもらおう。
 怒りに満ちた彼らが周囲を取り囲む。
「ぶっ殺してやる」
と息巻いているけれど、何と言うか、怖くない。本当に殺す気があるのかどうかも不明だ。西涼の連中と相対したとき、あいつらは怯えてたけど、確かに僕を殺すつもりだった。何が違うのだろう? 構えだろうか? それとも実戦経験の差だろうか?
一触即発の前は、だれもかれもが動きを止めて絵画のようになる。音も絶え、時間も止まったような錯覚を起こす。それが破られた時が、開戦の合図だ。
ころころと、だれも動かない空間に、土色の球が転がってきた。
「何だ?」
 リーダーも気づいたらしいそれは、動きを止めたかと思うとペットボトルロケットが水を噴出したみたいな音を鳴らしながら、水の代わりに盛大に真っ白な煙を吐き出した。
「何だぁ!?」
 さっきとは違うニュアンスでリーダーが叫ぶ。彼らにとっても予想外のことらしい。煙は多少もがいたところで散ることもなく、その場に留まり続けて辺りを覆った。
 ぐ、と誰かに腕を掴まれる。リーダーじゃない。もっと細く小さな手だ。
「こっちに」
 落ち着いた女性の声だった。逆らうことなく引かれるに身を任せ、ついていく。
「え?」
 今度はクシナダの声だ。女性は、クシナダにも同じように言った。そしてまた動き始める。背後で男たちの怒号が飛び交うが、すぐに喧騒に飲まれ、掻き消えていく。
 数十メートルほど走っただろうか。煙の圏外に出た。
「行きましょう。煙はそのうち消える。その前にここから離れないと」
 助けられた、ということなのだろうか。背を向けていた誰かが振り返る。
僕らを導いたのは、背の高い女性だった。先ほどの小奇麗な兵隊とは対照的に、何度も洗ってよろよろの服を纏い、手足もそこら中が泥やすすで汚れている。けれど、ウェーブのかかった髪を後頭部あたりでまとめた、かなりの美女だ。彫りの深い細長い顔立ち、ほっそりとした体に長い手足はスーパーモデルを彷彿させる。着飾ればどこのランウェイでも華やかに歩けることだろう。
「どうして?」
 当然の疑問をクシナダが口にした。
「さっき言ってたことは、本当?」
 それが助けた理由だと言いたげに、彼女は反対に問いかけてきた。
「言ってたこと、って?」
「化け物の情報を集めてる、とかなんとか、あいつらと言っていたじゃないの」
 あいつら、という言葉に若干以上の不快感、嫌悪感を滲ませる。さっきの静まり返ったことといい、市民とは仲がよろしくない間柄っぽいな。
「ええ、そうよ。本当の事」
「それで、化け物のことを知ってどうするの?」
「戦うんだ」
 そう言った僕を、彼女はじいっと見つめた。答えの真偽を見定めるようにして。
 女性はあごに手を当てて少し考え込んでから「一緒に来て」と言った。
「貴方たちが知りたいことを、私は提供できる。その代り、私の頼みを聞いてくれないかしら」
 だから助けた、と。
「助けてくれたことは礼を言うけど、唐突だね。自己紹介すらしてないのに」
 それだけ火急の要件ってことなのだろう。表面上は取り繕ってはいるけれど、焦りが見て取れる。僕の言葉に「ごめんなさい」と軽く頭を下げて改めて名乗った。
「私は、アンドロメダ。この地と海を守護せし魔女アテナの意志と技を継ぐ者」
 地図の間違いでも、僕らの間違いでもない。そのことを確信できた。
 ここに、敵はいる。

あなたの味方

 アンドロメダと名乗る女に連れられて、僕たちは街を南から北へ縦断するように進む。中心部のにぎやかで整理の行き届いた場所から離れるにつれて、街並みは次第に荒れ始めた。崖の上からでは見えなかったスラム街だ。ひとっ気は無くなり、家屋も潮風にやられて築何十年かとお尋ねしたくなるほどのぼろさだ。このまま裏路地に連れて行かれて身ぐるみはがされそうになってもおかしくない。
 スラムからもはみ出すと、砂浜に出た。先を行くアンドロメダは迷うことなく砂浜に足を踏み入れ進んでいく。
「どこまで行くのですか?」
 クシナダが彼女の背に問うた。
「もう少し先よ。砂浜の終わりに私たちの住処があるから」
 やや弧を描く海岸線を進むことしばし、掘立小屋が見えてきた。今まで通ってきたスラムのおんぼろ家屋がマシに見えるほどだ。
 アンドロメダが戸に手を当てる。開けるのか、と思いきやガン、ガンと一、二度その戸の隅を蹴った。
「最近立て付けが悪くてね」
 そりゃそうだろう。外から見てもわかるくらい傾いているのだから。
 ギリギリ、と軋ませながら戸を開けた。中は六畳くらいの広さで、それに応じた大きさのテーブルとイスが並んでいた。奥には布団、というより少しぶ厚めの布が敷き詰められて、小柄な誰かが横になっている。
「姉さん?」
 か細い声が奥から聞こえた。モゾリと毛布を掻き分けて、横になっていた誰かがゆっくりと体を起こす。すぐさまアンドロメダが寄り添い、肩に手を添えて支える。
「お帰りなさい」
 そう言った誰かは、明らかに異質だった。
 わずかに刺し込んだ光で、奥にいた誰かの姿が浮き上がる。年のころは小学校低学年くらいに見えるから、七、八歳くらいだろうか。アンドロメダと同じ波うつ金髪を腰まで伸ばした少女だ。多分。なぜなら、その人物は顔の上半分を包帯でグルグルにまかれて、容貌が知れないからだ。
「お客様?」
「ええ。旅の方。なんでも、化け物のことを調べているらしいの。それで、我が家に来てもらったのよ。ええと」
 アンドロメダが紹介しようとして、詰まる。そういや、名乗ってもなかった。
「タケルだ。こっちがクシナダ」
 初めまして、とクシナダが会釈する。
「こちらこそ、初めまして。私はメデューサと申します。アンドロメダの妹にして、同じく魔女アテナの末裔です」
 まさかの展開だ。アンドロメダの妹がメデューサで、アテナの末裔ときた。
「化け物のこと、ということは、姉さん。もしかしてこの方たちに?」
 メデューサの問いに、アンドロメダが頷く。そして、僕らの方を向いて、切り出した。
「この地に眠る魔龍を、倒してほしい」

「我らの祖先アテナは優れた魔女だった。怪我や病があれば癒し、荒ぶる神がいれば鎮め、困難に喘ぐ人、動物問わず、あらゆる生き物を救いながら世界を巡っていたの。
 やがて、彼女はこの地へたどり着いた。今では考えられないくらい荒れ果てていたと伝わっているわ。当時は毒が溢れ瘴気の満ちた、生き物の住める地ではなかったそうよ」
 アテナは原因を探った。やがて、この地の地下に恐ろしい魔龍が息づいていることを突き止めた。魔龍も、徐々に自分の住処がアテナによって浄化されていることに気づき、地上へ姿を現した。毒の原因と、縄張りを荒らす者が出会えば、激突は必至だった。
「アテナと魔龍との戦いは、三日三晩続いた。魔龍とアテナの力は拮抗し、互いに決定打に欠いた。アテナは倒すことを諦め、この地を利用した魔術の檻を築き、魔龍をこの地の地下深くへと封じ込めた」
 以上が、過去に起こった魔龍と魔女の戦いの顛末だ。
「檻のカギはアテナの血。血の中に術を込め、体中に巡らせることで、常に呪文を唱えているような状況を作った。死ぬまで術を発動させ続ける為にね。アテナが死んでも、その血を受け継ぐ者がいる限り、封印は守られる。だけど、それは諸刃の剣だった」
 アンドロメダは、メデューサの後ろに回り、その目を覆っていた包帯をほどき始めた。包帯がはらりと落ち、メデューサの容貌が明らかになった。隣で、クシナダが息をのむ。
「魔龍が目覚め、再び活動を開始したら、封印と魔龍との間でせめぎあいが起こる。魔龍を封じていた私たちの血は、魔龍の影響を受けて変質し、体に影響を与え出した。特に妹は、アテナの血を色濃く受け継ぎ、生まれつき魔術の才に長けていた。だから、影響も強かったのでしょうね」
 メデューサは姉そっくりでありながら、年相応の幼さも備えていた。姉が華麗なら妹は可憐、と言ったところか。違いを上げるとすれば、瞳が違った。姉と同じ海のように深い藍色をした、切れ長の姉とはうってかわってくりくりと大きな瞳が二つ。そして、額の中央に縦長の、深淵を映したかのような濁った闇色の瞳を一つ。
伝承にある、魔龍の邪眼だと、アンドロメダは言う。
「魔龍の邪眼は、見る者全てに呪いをかける。生き物を石に変える呪いを持っているわ」
「じゃあ、この瞳で見られる、と?」
 恐る恐る尋ねるクシナダに、アンドロメダは首を振った。
「それは無いわ。包帯を変えるとき、私が見て、見られているもの。けれど」
 妹に目くばせをする。素直にメデューサは頷き、足元にかけていた毛布をのけズボンの裾を捲った。
「嘘でしょ」
 クシナダが驚くのも当然だ。メデューサの小さな足は、つま先からふくらはぎのあたりまで大理石のような真っ白になっていた。それより上の肌の部分も白いが、それでも人の肌色の範疇に入る。一言ことわってから、触れる。石のような、ヒンヤリした感触が返ってきた。
「呪いの力が、この子を蝕んでいる。つま先から、徐々に石化しているみたいなの。ここ最近進行が早まっているのは、魔龍の目覚めの時が近いことを示しているからだと、私は考えてる」
そっと、妹の頭を抱え寄せる。妹もされるがまま、姉の胸に抱かれ気持ちよさそうに目を瞑った。
「このままでは、妹は全身を石に変えられる。その前に手を打たなきゃならない」
 事情は分かった。けど、色々と確認しておかなければならないことがある。
「手を打つって、どうやってだ。弱まっていようと封印中であることには変わりないんだろ? 封印が解けるまで手は出せないんじゃないのか?」
 また封印が解けるということは、症状の進行とイコールにならないか?
「これを見て」
 そう言って、彼女はボロボロの洋紙皮を取り出した。
「アテナが残した、封印の地図よ」
 洋紙皮に目をやる。やはりと言うか、そんな精密なもんじゃない。大まかな位置が乗っているだけだ。
「中心にあるのが、今よりも小さな街。その真下に封印された魔龍が眠っている。そこから南北に一本ずつ大木が立っているわ。それが檻の柵を形成していたのだけど」
 すっと細長い指が地図を滑り、南の木を指差す。
「街はアテナの時代から肥大化し、土地の開拓が進んだ。現在セリフォスを治めるアクリシオス王は、私たちの忠告を聞かず、この南側にあった木を切り倒した。メデューサの体に異変が出始めたのも、この木が切られた後辺りからね」
 もとは、アンドロメダの家は街の中心部、王の側近のような位置づけだったらしい。アテナの末裔なのだから、建国にも深くかかわった一族でもあった。だから王にも進言できた。歴代の王は、疎ましくは思いながらもそれを受け入れてきた。最終的にそれが間違っていない、正しい結果を生むことが分かっていたからだ。その進言を受け入れるだけの度量があったというのも要因で、残念ながら、今の王にはそれが無かった。どころか、王に刃向ったとして、反逆罪の汚名を着せられた。私財は全て奪われ、彼女たちの両親は処刑された。彼女たち二人は、事前に危険を察知した両親に逃がされたそうだ。その後、姉妹二人、ここに流れ着いたらしい。
「どうして、遠くへ逃げない。追われることを考えなかったのか?」
 そう言うと、肩を竦めた。
「そのころはまだ幼くてね。街の外に出ることなんて考えられなかった。残飯を漁りながら何とか生きてきたの。使命もあったし」
「あんたらの両親は、その使命に、殺されたんじゃないのか?」
「タケルっ!」
 クシナダの怒鳴り声を無視して、続ける。
「一体この街に何の価値がある? 傲慢な兵士を束ねるのは聞く限りさらに傲慢な王様だ。ここに来るまでの街中を見たけど、栄えてるのは本当に中心部だけで、そっから先はボロボロ。どう見たって善政が敷かれてるとは思えない。旅人や商人から何の考えもなく金を徴収するような様子も見られるし。魔龍が蘇らなくても、この街は遠からず滅ぶよ。わざわざ使命を全うする必要はないと思うけど」
「そのことに関しては、悲しいかな、同意見よ。けれどね、その使命が無ければ、私は生きてはいない。妹を守り、使命を果たすことを支えにしてここまで生きてこられたの。今更捨てることはできないわ」
 僕には理解できない。大切な物を奪われて、それを奪った奴らの住む街のことを気に掛けるなんて。こちとら同じような事情で世界を捨てた身だ。多分共感できることなど一生ないだろう。
「それに、殺しても殺したりないような、憎たらしい奴らばっかりじゃないのよ。この街は。まだ両親が生きてた頃、先代の王の頃は、まだましだった。仲良くしてくれた人たちもいた。私が守りたいのは、そういう人々の方」
 一番大事なのはメデューサだけど、と締めくくった。そうか、と否定も肯定もない、只の相打ちを打っておく。誰かの生き方を非難できるほど偉い人間ではないので、彼女らの選択については口を挟まないことにした。
話を戻そう。促すと彼女は頷いた。
「それで残っているのは、この北の木のみ。けれど、近々切り倒される予定よ」
「理由は何だ?」
 倒される予定が分かっているということは、何らかの理由があるはずだ。
「王命よ」
 こらまた、すごい理由だ。
「王は、アテナの偉業も、私たちがこれまでやってきたことも、全てただの迷信だと思っている。魔龍などいない、いや、いたとしても、自分たちだけで倒せると思い込んでいる。だから、あの木が封印だと知っていて切るの。魔龍をも恐れぬ、偉大で勇猛な王だと知らしめるために」
「いい迷惑だな。あんたらにとっては」
「ええ。けど、あちらは聞く耳を持たない。側近であった頃であっても聞かなかったのに、この身の上じゃあ話をする機会もない」
「ならどうする。このまま大人しく木が切られるのを待つのか?」
 いいえ、と首を振って、アンドロメダは地図の上に指を置く。街の中心部だ。
「木が切られるのは明後日の昼。それまでに、ここから地下に封印された魔龍のもとへ行き、対処する」
 シンプルで良いね。そうすれば、封印自体がいらなくなる。
「行き方は私が知っている。後は、あなた達のほうだけど」
 僕たちの方を見て、言う。
「腕前はどうなの? さっきのやり取りでクシナダの腕前は少し見たわ。あいつら程度なら簡単にあしらえるってとこよね。けど、魔龍並みの相手と戦ったことは?」
「これまで戦ったのは二体。一匹はでかい蛇。もう一匹は鵺・・・ええと、犬と猿と鳥を足したような奴だ。実績としちゃそんなもんだけど」
 魔龍とやらの強さが分からないんじゃ、基準も何もない。
「街の人には、協力してはもらえないんですか?」
 クシナダが言った。
「以前の戦いのときも、街の住民総がかりの戦いになったんです。協力できる人間は多い方が良い。多ければ多い程良いと思うけど」
「街を追われた人間を、信じる街の人間はいないわ」
 自嘲気味にアンドロメダは言う。そうだろうか?
「じゃあ、さっきから聞き耳を立てている奴は駄目なのか?」
 僕らが入って来た、立て付けの悪い戸を指差す。「え?」と魔女二人は首を傾げ、ガタン、と戸が鳴った。
「誰っ?!」
 アンドロメダの声に反応したようにして、戸がまた鳴った。走り去る気配。
「メデューサをお願い!」
 言って、駆け出す。勢いを殺さずに長い脚を鞭のようにしならせ、足裏を叩きつけた。ガコッと溝から戸が外れ、大の字で倒れた。戸の意味がない。防犯意識が低すぎる。若い娘二人で住んでるってのに。倒れた戸を踏み越えて、アンドロメダは駆けていった。
 腰を上げて、外に顔を出す。少し先の砂浜で、アンドロメダともう一人が掴みあっていた。というよりも、アンドロメダがそいつの首根っこを押さえつけて、猫を乱暴に持ち上げるみたいにしていた。彼女が力尽くでこっちに引きずってこれる程度には、相手は小柄で、近づいてきてようやく納得した。相手はメデューサと同じくらいの少年だった。
「どちら様?」
「近所の悪ガキね」
 悪ガキに目を向けると、フイと明後日の方を向いた。生意気な奴だ、状況を分かってないと見える。
「言ったわよね。来るなって」
「何でだよ! どうして急に来るななんて言い出すんだよ! メデューサは家に籠りっきりだしさ!」
「だから、言ったでしょう? メデューサは病気で寝ているの。うつしちゃ悪いから来るなって言ったの。治ったらまた来ていいから、それまでは」
「嘘だ!」
 言葉を切られ、真正面からの否定にアンドロメダがたじろいだ。
「姉ちゃんの言う事は全部嘘だ! 俺知ってるんだからな! 姉ちゃん嘘吐くとき唇を少し舐めるんだ」
 ほお、只の悪ガキかと思いきや、なかなか観察眼のある奴だ。
「教えてくれよ! 俺が何したってんだよ! 何かしたなら謝るから、また来させてくれよ!」
 熱い訴えだった。子どもながらに。だからこそ、だろうか。
そんなに熱くなれる彼が、誰かのことで言いつけも破って走れる彼が、少し羨ましい。
 けれど、この状況では、彼の思いは厄介だった。もし仮にメデューサの症状を知られたら、流石の彼でも街の人間に報告してしまう可能性がある。魔龍の前に彼女たちに討伐命令が下されかねない。
 もちろん、そうならない可能性だってある。
「仕方ないわね」
 アンドロメダは彼の首根っこを掴んで持ち上げ、目線を合わせた。さて、彼女はどうするつもりだろう。
「じゃあ、教えてあげる」
 そして、酷く悪い笑みを浮かべた。美人なだけに、凄味のある笑顔はある意味強面のヤクザや警官より怖い。
「前にも話したと思うけど、私たちは魔女アテナの末裔で、魔術を行使する魔女なの」
「知ってる。前にも聞いたから」
「じゃあ、魔術をどうやって使うか、聞いたことは?」
 悪ガキが、戸惑ったように首を横に振る。
「魔術を使うには魔力が必要なの、魔力は生命力を変換して使うのだけれど、まあ、使えば減るわけ。回復するには、ゆっくり休んだりするのだけど、一番手っ取り早いのが食事。人は、動物や植物の命を食べることで、それがもつ生命力を食べて回復させるの。ここまではいい?」
「お、おう」
「魔力を回復する一番の食べ物は、人の血なの。特に、子どもの血は魔女にとって最高の素材ね。魔術の触媒にしてもよし、そのまま飲み干して魔力にしてもよし」
 うっとりしたように、上気したのか赤くなった頬に手を当てて、薄く微笑む。ビクリ、と悪ガキは体を震わせた。
「子どもの肉なんて何年ぶりかしら。良ければ一緒に、どう?」
 とウィンク。断る理由もないので、話に乗る。
「じゃあ、お言葉に甘えて」
 いよいよ悪ガキの震えがピークに達しようとしていた。
「不用意に魔女の住処に近付いた、己の不運を呪うがいいわ」
 にい、と牙を剥く。悪ガキ何某は先ほどまでのふてぶてしい態度が鳴りを潜め、肉食獣に囲まれた小鹿のようになっていた。
「姉さん。もう許してあげて」
 クシナダに背負われて、苦笑しながらメデューサが出てきた。顔には再び包帯が巻かれている。
「メデューサ!」
 驚いて悪ガキを取り落した。落ちた本人は痛えっ、と悲鳴を上げて転がった。
「寝てなきゃダメでしょう? だいたい、お客様に何をさせているの? 迷惑かけちゃダメじゃない。そもそも不用意に出てきちゃダメでしょう!」
 ごめんなさい、とクシナダに謝る。
「私はいいんですよ。全然大丈夫です。この子軽いですし。それに、ほら、何か言いたいことがあるのでしょう」
 後ろのメデューサに声をかける。姉さん、と彼女は言い
「彼はあの時以降もたまに来て、姉さんがいないときに話し相手になってくれていたのです」
「なんですって?」
「こっそり逢引きをしていました」
 茶目っ気たっぷりにメデューサがはにかむ。呪いの影響から家に籠り切りだから、辛気臭い子どもじゃないかと勝手に思っていた。
楽しそうな妹とは裏腹に、姉は呆れ顔だ。
「何のために人の目を避けて暮らしていると思っているの?」
「そう言わないで姉さん。彼のおかげでずいぶんと助かっているのです。ここがこれまで街の人たちに知られなかったのは、彼らのおかげでもあるのですし」
 どういうことだろうか。僕の疑問を感じ取ったか、メデューサが説明してくれた。
「彼はスラム、街とここの間にあるもう一つ別の街の住民です」
タケルやクシナダも、ここに来るまでに見て来たでしょう? と彼女は言う。もちろん覚えている。同じ街かと疑う様な、整備の行き届いていない荒れた街並みだった。
「彼らはたいていが街の人々を快く思っていません。自分たちが苦しいのは、街の人のせいだからです」
 どうも、ただ貧しいからとか、単純な理由で彼らは追いやられているわけではないようだ。
「彼らのほとんどは、現王アクリシオスの政治よって虐げられた方々です。私たちの両親のように政治に批判的な意見をした人は当然の事、税金を払えない者は家財没収、城の増設や道路の建設に邪魔だから強制退去、王の視界に入ったから鞭打ち、気に入られなかったから処刑」
ある程度は想像していたが、まさか斜め上をいかれるとは思わなかった。
嫌わない方が難しいでしょう? とメデューサ。
「こんなですから、自分からスラムへ逃げ込む人も大勢いました。残っているのは、王に都合のいい、耳触りのいい言葉だけを語る者たちだけです」
 街の方を振り返る。ここからでも見える白亜の塔は白アリに喰い尽くされるまでもなく、土台はボロボロになっている。
「反対に、街の人に虐げられた者たちに対しては非常に友好的になります。私たちにも親身になってくれましたし」
「へへ、メデューサに言われて、俺たちずっと嘘の情報を街に流してたんだぞ」
 なるほど、もし街の誰かがこっちに来ようとすれば、誘導していかせないように対処し、情報も歪んで伝えられる。フィルターのような働きをしているってことか。
「だいたい、俺らみたいな子どもでも簡単に見つけられるような場所が、どうしてこれまで見つからなかったか不思議に思わなかったの?」
 う、とアンドロメダは言葉に詰まった。
「姉ちゃんはそういうところがいっつも甘いんだよなぁ」
 しみじみと腕を組む。
「それに、どうやって街の中心部に行くんだよ。姉ちゃんの魔術だってそんな完璧じゃないて聞いたぞ?」
 メデューサ! と怒鳴りつけるが、向けられた本人は「現実的にいきましょう」とすまし顔をしている。
「姉さんの魔術は自分に意識を向けないようにさせるけど、もし目立つような行動を取ればたちまち見つかります。地下へ通じる道は、街の中央にある、アテナが創った古い神殿跡です。今は取り壊され、王の威光を知らしめるための石像を建設中ですが。地下への道は、そんなほぼ街の中央部に位置する場所です。人通りが多く、夜も警備兵が交代で見張るそんな場所で、目立たないように活動できますか?」
 妹に言いくるめられて、渋い顔をしながらも姉は黙り込んでしまった。
「その点、俺たちなら、普段から街の中を歩き回っていても怪しまれないぜ」
 ぐいと悪ガキは自分を親指で差した。
「俺が兵士の気を引き付ける。その間に、あんたらが地下に潜るって寸法さ」
「そんな危険なこと、させられるわけないでしょう!」
「じゃあどうする!」
 息を吹き返したように悪ガキが吠えた。
「そのことで時間がかかって間に合わなかったらどうする! 姉ちゃんがいない間メデューサはどうする! 問題だらけで自分の手には負えないのに、どうして一人ですべてやろうとするんだ!」
 おお、子どもとは思えないな。今のままでは何もできないという理屈と心配しているという感情合わせた見事な論法だ。
「部外者からの口出しになるが」
 言い争う二人がこちらに注目した。
「さっきクシナダも言ってたと思うが、協力者は多ければ多い程良い。自分でも言っていただろ? 魔龍を倒せるのか、僕たちの実力はどの程度か、って。そんな強大な敵を前に、危険とか危険じゃないとか、無意味だ。危険しかないんだ。あんたが危惧する魔龍が復活すれば、メデューサは呪いが進行する。魔龍がアテナの記録通りというなら、この辺りは生き物の住めない場所になる。そしたら必然的に、そのガキどもも死ぬだろう」
 それだけの危険を前にして、まだそんな人道的なことを議論できるとでも?
「逃げ足の自信は?」
 僕は会話の矛先を悪ガキに向ける。僕から話しかけられると思ってなかったのか、少しおどおどしながらも「もちろん、ある」と断言した。
「本人もこう言っているんだ。やらせてみたら?」
「あなた、無責任に何言い出すの! 子どもにそんな無茶を」
「その考えは誤りだ」
 彼女の言葉を遮る。
「子どもだから、などと言って、そいつの覚悟や意気込みまで疑うな。それは、そいつの実力を軽んじていることに他ならない。自分に出来ないことをやってのける人間には、敬意を払うべきだ。それが自分の身を助ける物であるならば、特に。僕から見れば、あんたの方が現実を見ていない子どもの様に見えるよ」
 利用できるものは、全て利用すべきだ。それでも勝てるかどうかわからないのだから。責任だとか、そういうものは全て終わった後に生き残った奴がすればいい。取るつもりなど毛頭ないけれど。
「ほら、この助っ人の兄ちゃんもこう言ってるんだ。絶対役に立つぜ!」
 なあなあ、と悪ガキに縋り付かれ、アンドロメダはとうとう諦めた。ふう、と大きく息をつく。
「みんな、家に入って」
「お、おい、姉ちゃん。話はまだ・・・」
「こんなところで話してたら、潮風がメデューサに体に障るでしょう」
 あなたも入りなさい。
 言い残してアンドロメダはクシナダと彼女に背負われたメデューサを家の方に押し込む。この後を、喜色満面な悪ガキが続く。

この日のために、こんなこともあろうかと

「作戦会議よ」
 アンドロメダが僕たちの前で腕を組んだ。
「まず封印の木が切らられるのは近々という話だけど」
「それなんだけど、新情報だぜ」
 悪ガキが言う。
「おふれが出たよ。三日後、セレモニーを行うんだって」
「セレモニー・・・、おそらくその日が決行日なんでしょう。思った以上に早いわ」
 こちらも計画を早める必要があるわね、とアンドロメダは前置きして
「タケル、クシナダ。来てもらって早々で悪いのだけれど」
 水を向けられたので、僕とクシナダは互いに目くばせして、頷く。
「私たちはいつでも大丈夫。ね?」
「もともとそのつもりだ。手間が省けてありがたい位だ。ただし、勝てるかどうかはわからないけどな」
 保証はできない。いや、こういうものに保障などあり得ない。何が起きるかわからないのだから。
「それでは困るけれど、本当に困るのだけれど。この際四の五の言っていられないわ。今ここにある武器で何とかするしかない」
 まったく、とアンドロメダが毒づく。
「時間は本当に不平等ね。誰に対しても同じだけ時間が進む。こちらはこれから準備だってのに、王は指示一つで今からなんでも動かせるんだもの」
 時間は平等とはよく聞いたが、不平等とは初めての表現だ。だが、言われれば確かにその通りだ。例えば才能の有無。才能のある者とない者、同じ時間だけ訓練をしたとして、どちらの方が上達するか。答えは当然才能のある方だ。誰に対しても平等だからこそ不平等なのだ。同じことをしていては、持たざる者は、絶対に持つ者に勝てない。
「嘆いていても始まらないわ。姉さん」
「わかってる。・・・これからのことを説明するわ」
 仕切り直し、といった風に、アンドロメダはすっと息を吸い、僕たちを見回す。
「神殿跡地に侵入するのは、私とタケル、そしてクシナダの三人。内部は一本道だけど、伝承通りならかなりの時間がかかるはず。武器以外にも、食料と水が必要ね。急いで用意しないと」
「と、そんなこともあろうかと」
 悪ガキが言う。
「ここに、用意してあるぜ」
 勝手知ったる、といわんばかりに、悪ガキが床の一部を叩いた。すると、その床板の叩いた箇所はめり込み、反対側がめくれ上がる。
「ちょっと、あんた何」
「まあまあ」
 戸惑うアンドロメダを手のひらで制して、床下を漁る。取り出されたのは肉や魚の干物だ。
「作ったのをちょっとずつ持ってきて貯えておいたんだ。万が一俺たちの方にも危険が迫ったとき、何も持たずに家から逃げた時は、ここに来ようと思って」
「あんた、そんな勝手なことしてたの?」
「持ちつ持たれつ、ですよ姉さん。助け合いです。いざというときは私たちも使っていいと言ってくれましたし」
 子どもの方がしっかりしてるな。
 とにもかくにも、食料の問題は解決しそうだ。
「後は、防毒薬ね。魔龍の息は毒。アテナは毒を防ぐために、体中にシコウカの葉からとったエキスを塗り、アリノ仙草を煎じて飲んだというわ」
 ごそごそと棚を物色し、取り出してきたのは、何とも言えない悪臭を放つ、茶色いドロリとしたジェル状のものと。
「後は、確か・・・」
 と続けて出てきたのはケミカル色の強い、匂いを嗅いだらなぜか鼻がツンとするショッキングピンクの粉末状のものだ。
 ・・・これこそ毒だと思ったのは、僕だけではあるまい。
「あ、アンドロメダ、さん・・・? これは、一体・・・」
 鼻の利くクシナダが最大級の警戒していた。物言わず動きもしない物体に対して既に及び腰だ。
「何って、今言ったじゃない。魔龍の毒を防ぐシコウカのエキスと体内に入った毒を解毒する効果のあるアリノ仙草の粉よ。この日のために準備してきたのはあんたたちだけじゃないんだから」
 当然、という顔で言われても困る。いや、まさか毒をもって毒を制す、というスタンスか?
「嘘だ! 絶対嘘だ!」
 悪ガキと意見があった。この世界のこの地域ではこれが普通、という訳ではなくてホッとした。
「毒じゃないわよ。失礼ね。そりゃ、確かに見た目は悪いかもしれないけど、文献通り作った魔女アテナの薬よ? 効果は抜群、のはず」
「最後の最後まで言い切らないと、余計不安を煽りますよ。姉さん」
 苦笑しながらメデューサ。
「見た目と匂いと、おそらく味も保証できかねますが、効果だけは大丈夫です。姉さんの薬はアテナにも負けないと私は信じてます」
「嬉しいこと言ってくれるじゃない。ほら、長年私の薬の実験だ・・・服薬してるメデューサが言うんだから、間違いないわ」
「・・・姉さん?」
 不穏な発言をした姉に、流石の妹も頬を引きつらせる。まあ、どうしたって僕らは信じて飲むしかないのだ。魔龍の毒の効果は未知数、戦う前にへばってしまっては面白くない。ただ、戦う寸前までは待とうとは思う。これは、効果が長持ちするようにという配慮の他に、なかなか踏ん切りがつかない、という意味もある。
「じゃあ、何だかんだで準備はできている、と思っていいのか?」
 僕が言うと、そうね、とアンドロメダは目の前にある道具を見渡した。
「決行は明日の夜。神殿跡地に忍び込み、最深部の魔龍を目指す。それでいい?」
 僕とクシナダは頷く。メデューサは静かに「はい」と応え、悪ガキも「おう」と威勢のいい返事で応じた。
「よろしい。じゃあ、今日はしっかり食べて栄養をつけましょう」
 とアンドロメダが言うのに対して
「・・・もう、俺は、喰わない、よな?」
 と恐る恐る悪ガキが尋ねた。まだどこかで、魔女は子どもを喰うのだと怯えていたらしい。
 一拍おいて、全員が大笑いした。あれは冗談よ、と涙を流しながら笑うアンドロメダが彼の分の食器も用意する。
 これが最後の晩餐にならなきゃいいけど。心中でそんな不謹慎なことを考えながら、僕もご相伴にあずかった。
 もちろん、ケミカル色の強いショッキングピンク色のパンはでなかったし、ドロリとした悪臭を放つスープもでなかった。質素な、けれど常識の範囲内の食事だった。味も匂いも普通。どうしてこういう常識の中で、あんな想定外の物が出来たのだろうか。あれこそが魔女の成せる業なのか。まだまだこの世界は不思議で満ちている。

侵入

 翌日の深夜、月明りもない薄曇りの空の下、暗闇の中を進む。頼りになるのは先頭を行くアンドロメダが持つカンテラの灯りだけ、なのだが。
「何?」
 隣にいるクシナダが、この暗闇の中僕の視線に気づいた。どうやら鋭くなった感覚はここでも大活躍のようだ。
「もうすぐよ」
 アンドロメダの歩く速度が緩やかになり、止まった。建物の陰から、そっと覗き込む。真似して覗いてみると、煌々と焚かれた松明が二つと、兵士が数名立って寝ずの番をしている。
「今更なんだけど」
 アンドロメダに向かって尋ねる。
「どうしてこんなところを兵士が番してるの?」
「知らないわよ」
 そっけない答えが返ってきた。
「自分の像を立てる場所を守らせてるんじゃないの?」
 そうなのだろうか。完成された像ならともかく、ただの土台を? 不可解なものを感じながらも、かといって明確な理由がわかるわけでもない。これ以上考えても仕方ないと諦め、アンドロメダと同じように物陰で息を殺して、その時を待つ。
「大変だ!」
 誰かが声を上げながら、兵士たちに近付く。松明の灯りで照らされたのはあの悪ガキだ。
「何だクソガキ、うるせえぞ」
「す、すみません。でも、大変なんです」
「何がだ。下らねえことで騒いでたならぶち殺すぞ」
 言ってみろ、と兵士が顎をしゃくった。はい、と昼間の生意気な態度など一片も見せず、おどおどしながら悪ガキは喋る。
「昨日の昼間、兵士さんたちと喧嘩した二人組がいたんです」
 それを聞いて、兵士たちの顔色が変わった。悪ガキが言っていたのだが、騒ぎを起こした僕たちのことを、彼らはあの後も血眼になって探し回っていたらしい。ご苦労なことだ。
「すぐ案内しろ」
 兵士の一人が悪ガキに先導させる。もう一人が仲間を呼びに違う方向へ消えた。おそらく他の仲間を呼びに行ったのだろう。
「本当に大丈夫かしら」
 無人となった遺跡後を前にして、アンドロメダが悪がきたちの向かった方向に目をやる。
「本人も大丈夫だと言っていたし、それに、昨日の煙幕もいくつか渡しておいたんだろ?」
「それは、そうなんだけど」
 今更心配しても仕方ないだろうに、彼女は子供を心配する母親みたいに気にしている。
「私たちが思う以上に、あの子はしっかりしているから心配いらないと思いますよ。それよりも、魔龍を倒す事の方が彼にとって重要だと思います。もし私たちが失敗したら、あの子だけじゃなく、この街全体が崩壊するんですから」
 クシナダが言う。全くもってその通りだ。彼の行動を無駄にしないためにも、僕たちは急ぐ必要がある。心配なんかしてる暇ない。むしろされてる方だ。
「そう、よね。私たちは、私たちの仕事をきちんとこなさなきゃ。しっかりと役目を果たした彼に申し訳が立たないわ」
 両手で頬を叩き、気合を入れる。集中してもらったところで尋ねる。
「で、早速だが入口はどこになるんだ?」
 目の前には見える限り更地しかない。広さは、大体二十メートル四方と言ったところか。所々瓦礫が残るものの、建物の残骸は粗方撤去されたようだ。地下に通じるような穴も扉もなさそうだが。
「地下への入り口は封印されてるの」
「封印?」
「そうよ。目に見えたら、誰か入っちゃうかもしれないでしょう? たとえば、欲に目がくらんだ兵士とか」
「好奇心の強い子どもとか?」
 そうそう。とアンドロメダは言って、松明で足元を照らしながら進んでいく。ふらふら、ふらふらと歩いていたと思ったら、更地の中央あたりで彼女は立ち止まり、しゃがみ込んだ。そしてその場の砂を少し払う。
「あった」
 手招きで僕たちを呼ぶ。近づくと「これを見て」と明かりをその方へ近づけた。
 そこには、八角形の石版があった。アンドロメダが念入りに石版を払う。積もった砂埃が払われて、徐々に元の姿が見えてきた。良く見たら細かい線が幾重にも入っていて、何かの模様が刻まれている。
 持ってて、と松明を渡される。ごそごそと荷物を漁る彼女の手元を照らす。羊皮紙の巻物を取り出して、書かれている文様と照らし合わせる。
「間違いない。文献に残っていた文様そのまま。アテナの封印よ」
 ええと、ここから? と近くで聞いている僕たちが実に不安になる様な独り言を発しながら、アンドロメダはああでもないこうでもないと羊皮紙をひっくり返したり石版に指を這わせたりしながら試行錯誤を繰り返し
「わかった!」
 ポンとげんこつで手のひらを打った。おもむろに親指に浅く切り傷をつけ、血を数滴、石版中央へ落とす。
「ここを、こうして、こうやって」
 落ちた血を指で伸ばす。中央から、八角形の角へ、角から角へ、そして中央へ。一筆書きのように描く。
「これで方陣はよし。後は」
 離れて、と手で合図され、数歩、後ろに下がった。
「ええと、ここで解除の呪文・・・は、と。『閉じられし門は消え、我が前に道が開かれん』」
 ギャルン、と八角形の石版が左に回転した。すると、そこを中心に地面が波打つ。中央から土が除けられているようだ。地面が割れ、目の前に階段が現れた。
「行きましょう」
 アンドロメダは僕から松明を受け取って、階段を下っていく。それに続いて階段の一歩目を踏み入れる。かなりヒンヤリしている。足先ち体が受けている気温差が大きい。外は夜だから比較的涼しくなっているが、それでも二十度近い、春先のような気温だ。だが地下道内はそれよりも五度は低い。
「寒っ」
 後から続いてきたクシナダが体を抱えて震えている。
「足元が濡れてるから、滑らないように気を付けて」
 先を行くアンドロメダが声をかけてきた。真っ暗闇で足元が滑りやすいのなら、なおさら彼女の持つ松明の灯りが頼りだ。
 階段を三十段ほど下ると、左右の壁がなくなり、ぽっかりと開けた場所に出た。松明の灯りが横に広がり、影が伸びる。
「うわぁ~」
 クシナダが感嘆の声を漏らすのも無理はない。そこに広がっているのは、魔龍の住処とは思えないほど幻想的な光景が広がっていた。
「これは、鍾乳洞か」
天井から幾重にも伸び連なる鍾乳管は、揺れる光や浮かび上がる影によって万華鏡のように姿を変える。
「鍾乳洞? この柱のこと?」
「と、言うよりは、こういう洞窟のことだ」
 最近こういう役回り多いな、と思いながら、しかしクシナダの疑問に答えるために覚えている範囲の知識を伝える。
「あの柱の先から、水滴が落ちてるのが見えるだろ?」
 ふんふん、と頷いてくれるので、教えがいがある。そうか、姉さんも俺に勉強を教えるときはこんなだったのか、と思いながら続ける。
「あれは、雨が降って地面に染み込んだ水が流れてる。前に、海が何故塩っ辛いのか話したよな?」
「確か、地面、岩とか石とかに入っている塩が川の流れで削られて川水に溶け込んでいるのよね?」
「そう。川は、雨とか溶けた雪とかの水滴が集まってできたものなんだけど、雨水も染み込むだけに留まらず、集まって川みたいになる。ここもそう。地下にあるか地表にあるかの違いだけ。この地下の川は流れていくついでに、周りの土や岩を削る。そうしてできるのが、こういった洞窟」
「これが、川の流れだけで出来たというの?」
 クシナダも、一緒に聞いていたアンドロメダも同じように辺りを見回す。水の流れといえば川の流れくらいしかしらない彼女たちにとっては、水の力がこれほどのものになるとは思わなかったようだ。
「何千、何万って時間をかけて作られるのがこういった洞窟。この柱、鍾乳管、だったかな、こいつも理屈は同じ。石灰質の岩を水が削り取って、そのままこうして地下に流れる。その途中で、水に含まれてた成分が今度は空気に触れることで変質し、少しずつ固まり出す。こいつも長い年月をかけて作られた柱なんだよ」
それだけじゃないかもしれないが。地震とか、地層の変化で生まれることもあるだろうし、と例外も付け加えておく。
 はぁ~としきりに感心しているクシナダ。意外と、人に物を教えるの面白いな。
「じゃあ、ここの行きつく先も海、ということなの?」
「多分。おそらく出口は海中だと思うけど」
 海抜数メートルの場所から、すでにもう四、五階分は降ってきている。階段をおりきったと思ったら、そのままなだらかな下り坂だ。方向感覚が間違っていなければ、海の方だ。もしかしたら、すでに頭上は海で、僕たちは海底の下を歩いているのかもしれない。
 途中で休憩を挟みながら、二時間ほど経過しただろうか。僕らの目の前に、明らかに人の手が入ったものが見えてきた。
「これは、門?」
 最初に辿り着いたアンドロメダが、松明を掲げる。それは、この洞窟の縦も横も埋め尽くす巨大な門だ。閂や鍵が通常かかっている場所に、代わりに先ほどの入り口を閉じていたのと同じ八角形の板がはめ込まれている。
「もしかして、こいつが」
「ええ、そうね」
 全員が同じ意見だった。この先に、魔龍が封じられている。
「準備はいい?」
 アンドロメダが振り返って尋ねる。答えなど、とうに決まっている。
「開くわ」
 入り口と同様に解除された門が、ゆっくりと観音開きで、こちら側に向かって開く。
「?」
 頭の中を、違和感が駆け巡った。開かれた門を見比べる。何か、見落としている気がしてならない。何かがおかしいのに気付いているのだが、それが何かを判別できない。非常にもどかしい状態だ。
「どうしたの?」
 クシナダが尋ねて来ても、僕自身がその答えを持っているわけではないから何とも答えられない。結局なんでもない、と返して、彼女らと共に先へ進む。

魔龍の住処

 奥に進むにつれて、湿気が増えてべたべたと不快感が増している。海のせいもあるだろうけど、それだけでこんなに空気がまとわりつくもんだろうか? 
「大丈夫か?」
 アンドロメダに声をかける。さっきの門をくぐってから、どうも調子が良くなさそうだ。顔色も良くない。大丈夫、とは返事が返ってくるが、肩で息をしながらだから疑わしい。
「ていうか、あなた達のほうこそ、平気なの?」
 顎を伝う汗を拭いながら、問い返してきた。
「平気、と言われれば、平気だけど」
 そっちは? とクシナダの方を見る。彼女もまとわりつく服が気持ち悪いのか、胸元をつまみながらパタパタしていた。
「ちょっとべたつくのが気持ち悪いくらい、かな」
 ふむ。二人とも大丈夫だ。むしろなぜこんなにアンドロメダが弱っているのかわからない。
「魔龍の瘴気のせいよ・・・」
 納得いかなそうに、彼女は首を振った。
「この奥から流れてくる湿り気を帯びた風には、魔龍の瘴気が含まれてる。普通なら、この空気を浴びれば皮膚がただれ、吸い込めば臓腑が焼かれる」
「けどそれは普通なら、だろう? あんたがくれたあのクソ不味い塗り薬と飲み薬のおかげで、僕らはこうして平気でいられると思ってたんだけど」
「それにしたって限度があるわよ。長年アテナの術を研究し、来るべきこの日のために魔龍対策をしていた私ですらこのありさまなのに、どうしてあなた達は平気なの?」
「どうして、と言われても・・・」
 心当たりはある。おそらく蛇神の呪いだ。どんな傷でも治してしまうあの呪いが、アンドロメダの薬の効果と相まって、瘴気を完封しているのだ。まあ、呪いのことを説明しだすと話が長くなるので、毒に耐性がある、とだけ伝えた。
「何か、ずるい」
 ねたまれても、クシナダも僕も苦笑するしかない。僕だって好きでこうなったわけじゃない。むしろ不本意な結果なのだ。今更言っても詮無きことだけど。
「まあ、毒でやられる確率は減ったのだから」
 僕の代わりにクシナダが言う。目的を果たせれば何だっていいではないか。
「それはそうだけど」
 まだ納得いってない様子のアンドロメダだったが、不意に表情が変わった。
「どうした?」
「瘴気の量が、あの場所を境に一段と濃くなっている。近いわ。そろそろね」
 アンドロメダが指差す方向を見るが、これまで来た道と何が違うのかよくわからない。多分、魔女にしか見えない何かがあるのだろう。魔力的なものが。
 ただ、僕たちにも、彼女の言っていたことはすぐに理解できた。そのまま五歩ほど歩くと、明らかにまとわりつく空気の質が違ったのだ。さっきまでのが霧雨程度だったとしたら、今は蜘蛛の巣がまとわりついているくらいの、触れるんじゃないかってレベルの粘りだ。
 途中で小休憩を挟みながら、十分ほど前進を続けただろうか。真っ暗だった道の先に、青い光点が見えた。警戒しながらそっちの方へと近づく。明らかに人為的な手が入って作られた円状のホールだということに、途中まで近づいてようやく判明した。さっきまでの天然の鍾乳洞にあったような凸凹が少なく、綺麗にくりぬかれているのだ。光点の方も、ようやく正体が分かった。
「すごい」
 クシナダは今回ずっと驚いてばかりで、驚き過ぎな気もするが、致し方ないと思う。まさに、圧巻の一言に尽きる。その光景が広がっていた。
光点の正体は外からの光だ。なぜこんな地下深くに外の光が入っているのかと言えば、天井が海なのだ。水族館みたいに天井に透明のアクリルやらガラスが入っているわけでもないのに、海水が天井付近で留まっている。
いつの間にか雲が途切れ、煌々と空に月が出ていた。その月明かりが、透明度の高い海を通って青く照らし出しているのだ。
「すごい」
 今度はアンドロメダが呟いた。
「この場所全体が、巨大な結界の役割をしている。これだけの瘴気が外に漏れださなかったのもここの結界のおかげね。海水が瘴気をろ過する役目を果たしていたんだわ」
 こちらは魔術的な関係で驚いていたらしい。
「はっ! 感動している場合じゃないわ。魔龍が近くにいるかもしれないのに!」
 今更そんなことを言われても。もしいたとしたら、とっくに気づかれている。襲い掛かってこないのは、こちらの隙をうかがっているためか。気合を入れ直し、固まって辺りを探索する。
「・・・・何か、おかしくない?」
 周囲を警戒していたクシナダが僕に聞いてきた。
「何が?」
「魔龍って、どのくらいの大きさなの?」
 クシナダの疑問の意図するところが分からない。
「確か、アテナの文献では、高さは小山に匹敵する、とあるけど」
「ですよね。ようは、ものすごく大きいんですよね?」
 うぅん、と顎に手を当てて考え込む。一体何が言いたいんだ?
「ここに、そんな巨大な生き物はいないと思う」
 彼女が言う。
「いない?」
「うん。私の感覚が鋭いのは知ってるでしょ? 加えて、最近できるようになった風を操ってみたの。この空間内に広げて、流れの変化で何があるかを調べてみた」
 反響型のレーダーみたいなものか? いつの間にそんなことが出来るようになったんだ。
「生き物なら、脈があるはずでしょ? 呼吸もするでしょ? どんなにじっとしていても、僅かには動くはず。なのに、反応が全く無いの」
「そんな、そんなはずないでしょう。まさか、封印されてる場所が間違っているとでもいうの?」
 向きになったように、アンドロメダが地図をこちらに付きつける。
「それに、こんなに瘴気の濃い所、他にあるはずない」
 ここ意外に考えられないのに、居ない。
「移動した、という考えは?」
 居ないのであれば、移動したか死んで塵になったか、どちらかだ。気にしなきゃいけないのは地図の真偽よりも、これだけ濃い瘴気を放つ魔龍がどうなったかを探ることだ。
「それこそありえないわ。アテナの封印を破って外に出ているなんて」
 アンドロメダが即答する。破られるはずのない封印、なのに封印されたはずの魔龍がいない。
 がち、と思考の欠片が一つはまった。さっき門の前で覚えた違和感だ。
「・・・もう少し、広範囲を探索してみないか?」
 僕の提案に二人が振り向く。
「探索って、まだココに魔龍がいるってこと?」
 自分の感覚を疑われていると思っているのか、すこし拗ねたようにクシナダが言った。
「それも含めて、もう少し調査した方が良い。クシナダじゃないけど、何かおかしい。何か見落としてるんだと思う」
「調査するって、何をどう調べるというの?」
 アンドロメダの言い分ももっともだ。けれど僕だって、その答えを持っているわけじゃない。
「違和感」
「違和感?」
「さっきから、ずっと何かがおかしいんだ。引っかかってる。それが何かは、正直分からない。だから調べる。魔龍という前提を取っ払って、おかしいものを見つける。例えば、ここにあるはずのないもの、とか」
「あるはずのないもの? あるはずのもの、じゃなくて?」
 クシナダが首を捻った。頷き、説明する。
「あるはずのもの、つまり魔龍はいない。けど、自分から出て行けるはずがない。なぜならアテナの封印だから。そうだよね、アンドロメダ」
「ええ。もし仮に、魔龍の力が封印を上回っていて破ったとしたら、こんなに綺麗にこの洞窟が残っているはずがない。もっと崩れて、跡形もないはずだし、何よりこの上にある街がただですむはずがない」
「魔龍はいない、けど封印を破ったわけじゃない。死んだわけじゃないのは、この瘴気が物語っている。なら他の理由だ。魔龍は封印を破らずにここから出たんだ」
「そんなこと、あるはずない! だって見たでしょう。私たちが通った門は、きっちり閉まっていたわ。外からは決して開かない」
 がち、と、また欠片がはまった。もう少しで輪郭が見えそうな気がする。この調子で話を続ければ。
「そう、そこなんだ。僕がおかしいと思ったのは。何であんなに簡単に門が開いたんだ?」
「え、ちょっと、どういうこと?」
「鍾乳洞なんだよ、ここは。言ったろ? 長い年月をかけて、地中に含まれている成分が水に溶けだして、また空気に触れて性質が変化して固まる。ここはそういう場所なんだよ。で、僕たちの通ってきた道は結構湿気ていた。水が流れてるんだ。だからあんなにボコボコしてた。同じように、成分が固まって」
「だから、それが何だって言うのよ。道の形が変わるのと、門が普通に開いたのと、何が関係するって言うの?」
 アンドロメダの指摘。それが、最後のワンピースだ。
「そうか、そうよね」
 声を上げたのはクシナダだ。
「タケル、つまり、そう言う事? 何年もほったらかしなのに、門が開くとき何も邪魔しなかったってことね?」
 その通りなので、頷く。
「クシナダ? それはどういう・・・」
「考えても見てください。家の戸だって放っておくと埃とかのせいで、滑りが悪くなって開きにくくなるじゃないですか。昨日だって、アンドロメダさん、自分ちの戸の立て付けが悪いからって蹴ってたじゃないですか」
 ここにきて、アンドロメダもようやく合点が言ったように何度も頷いた。
「まさか、誰かが一度、あの門を開いたというの?」
 それだ。それなら話は繋がる。封印は破られたんじゃない。解かれたんだ。解かれたのなら、魔龍は普通に出て行くだけだ。ここにいないのはそのせいだ。瘴気が濃いのは、最近まで居たというだけのこと。
 問題は、その消えた魔龍のことだ。これだけの瘴気が残っているくらいなのだから、街に出ていればすぐにわかるだろう。なのにその気配すらない。その意味するところ、一番重要なところが分からない。
「だから、探す。何かしら残っていると思うんだ。文献に残っているほど巨大な生物が、跡形もなく消えるわけがない」
 ただ、この場で襲われるという危険性は低くなった。僕たちは三方に分かれて探索を続ける。幸い天井から降る青い光があるので、さっきまでの真っ暗闇よりかはまだ視界が効く。
 広大なホールを探索してかなりの時間が経った。
「タケル、アンドロメダさん。ちょっと」
 クシナダが声を上げた。彼女がいるのは、入り口から見て最奥部分の壁際だ。
「これ、なんだろう?」
 彼女の足元にはアンドロメダが門を開いたときに描いたような方陣と、そして、何らかの骨が大量に散らばっていた。一本一本がかなりデカい。半ばで折れていたり、細かく砕けて粉になっていたりしているのがほとんどだが、それでもこれが、人より巨大な生物の骨だということが分かる。
「な、に・・・・これ・・・・」
 方陣を検めていたアンドロメダが慄く。
「そんな、馬鹿な・・・・これは・・・・魂魄剥離!?」
 膝をつき、ガラガラと骨を払った。方陣がさらに露わになる。それを見てアンドロメダの確信が深まったようだ。
「ありえない、魔龍にそこまでの知恵があるなんて!」
 ふらり、とアンドロメダがよろめく。すかさずクシナダが彼女の体を支える。
「いったいどうしたというんですか? こんぱくはくり、とは?」
「アテナが残した術の中でも最高難度を誇る魔術よ。その者の魂を肉体から一時的に剥がす術。もともとは、麻酔が使えず、また治療の痛みに患者が耐え切れないとき、魂ごと意識を別のものに移しておいて、治療を終えてから戻す術よ」
 なるほど、痛みのショック死を無くすための方法か。けどこの場合、魔龍の使用用途として考えられるのは
「もしかして、自分の体を捨てた?」
 多分、そうだろう。クシナダも、僕と同じ推論に達したようだ。ここにある大量の骨は魔龍の物だと考えるのが普通だ。魔龍は、長い年月封印されていることによって肉体が滅びかかっていた。そこで・・・・そこで? どうする? さっきの話だと、別の入れ物に魂を入れなければ意味がない。なら魔龍は一体何に魂を移した? そもそもこんな魔術を魔龍が使用できるのか? 魔術を使用できるのは

 ―アテナの血を色濃く受け継ぎ、生まれつき魔術の才に長けていた―

「・・・・・・はまった」
 全てのピースがはまった。そう考えると、これまで『彼女』と交わした会話までもが繋がってくる。
「タケル?」
「全部はまったぞ。僕たちは完全に騙された」
「え、突然何? どういうこと」
「急いで戻らないといけない。でないと、取り返しがつかなくなる」
 踵を返した僕の前に、アンドロメダが立ちふさがった。
「きちんと説明して! 一体何に気付いたの?!」
 震えながら僕を睨みつけてくる。その震えは、その怒りは、動揺は、どこから来ているのか。
「そっちこそ、すでに、気付いてるんじゃないのか?」
 問い返す。ビクリと体を震わせて、アンドロメダは俯いた。
「た、タケル? アンドロメダさん?」
 いまいちついてこれていないクシナダが、僕たちの間に割って入る。
「どういうことなの? 私たちは誰に騙されたって?」
「それは・・・」
「言うな!」
 アンドロメダが怒鳴る。そんなもの、答えを言っているようなものだ。
「じゃあ、聞くけど。魔女以外に、いったい誰が門を開けることが出来る? 誰が魂魄剥離とかいう魔術を使える?」
「・・・・・・・・」
 アンドロメダからは、何も帰ってこない。
「タケル、それって」
「今思えば気になる点はいくつかあった。どうして彼女は、街の中心部に洞窟の入り口があると知っていた? まだそれは文献で知れるとして、どうして兵士が交代で番をしていると知っていた?」
 一度以上、訪れたことがあるからではないのか。
「いや、でも、彼女の足は、動かないはずじゃ」
「魂を引きはがせるほどの魔女が、僕らの目を眩ませる程度の魔術を使えないとは思えない」
「じゃ、じゃあ、まさか」
「そう、僕の想像通りなら、僕らを騙したのはメデューサだ」

「嘘よ! そんなの、信じられない!」
 甲高い叫び声をあげて、アンドロメダはイヤイヤと首を振った。
「もちろん、可能性の話だから絶対じゃないよ。けど、その可能性が高いんだ。この地に門を開くことのできる魔女は二人。あんたじゃないなら、あの子しかいない」
「じゃあ理由は?! あの子がこんなことをする理由は何?! あの優しい子が、こんな、街を滅ぼすようなことに加担する筈がない!」
 動機については、何とも言えない。ただ、動機云々を考えなければ、彼女が最も黒幕に近いとは思っているようだ。その証拠にアンドロメダの目は泳いでいる。口でどれだけ否定しても、思考は最悪のケースを想定しているに違いない。
「と、とにかく、今は戻ればいいんじゃないの? 真偽を確かめるにも。ここに魔龍はいなかったんだから」
 アンドロメダを気遣うように、クシナダは彼女の肩に手を置いて、そのまま抱きかかえて横に飛んだ。同時、僕も反対側へ飛ぶ。何かが、僕たちの居た空間を削った。
「何っ?!」
 驚くアンドロメダをしり目に、僕たちは戦闘態勢に入る。
 飛んで行ったのは、先ほどまで散らばっていた骨の欠片だ。それらが飛んで行った先、洞窟の入り口付近でプラモデルのように組み合わさっていく。粉末になっていたものですら、元の場所に戻り、空白を埋めていく。
「嘘でしょ?」
 弓を構えながら、クシナダが見上げた先にいたのは、骨の龍だった。以前博物館では、化石の骨を繋ぎ合わせた恐竜がいたが、まさしくあれだ。あれが、電気などの動力なしに動いている。子どもが大喜びしそうだ。
【シギャアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ】
 声帯もないのにすさまじい叫び声をあげて威嚇してきた。
「このっ」
 クシナダが矢を放つが、骨相手には少々分が悪い。なんせ肉がない。骨の隙間を素通りしてしまうのだ。当たって命中箇所が砕けても、どんな理屈かわからないがすぐに復元してしまう。反撃とばかりに振り回された骨の手足や尻尾は、うなりを上げて僕らを追いつめる。攻撃範囲は広く、逃げる場所は狭い。実に厄介だ。倒し方は分からず、かといって逃げ道は骨の龍に塞がれている。ここを抜け出すには、倒すか、掻い潜って逃げるしかない。
「はあ、仕方ない」
 僕は、一歩前に出た。
「タケル、どうする気?」
「僕が囮になる。その間に、二人は先に行け」
 誰かが気を引いていれば、逃げることが可能だと踏んだ。攻撃範囲は広いが、骨の龍は対象を一体しかと捉えていないように見える。
「クシナダ、アンドロメダを抱えて、いつでも飛べるようにしておいて」
「それはいいけど、あなたはどうするの?」
「僕も後から行く。ちょっと遅くなるかもしれないけど」
 リュックを彼女に渡し、剣を構える。
「今優先すべきなのは確かめることだ。メデューサのことだって杞憂だったらそれでいい。何が起こっているのかわからなければ何を対処していいかさえ分からないんだ」
 天井を見上げる。差し込む光が徐々に強くなり始めている。
「それに見ろ。なんだかんだで、夜明けが近い」
 封印の木が伐り倒されるのは、今日の朝だ。時間はもう、あまりない。
「アンドロメダ。あんたはどうする?」
 何を考えているのか、それとも何も考えられなくなっているのか。さっきからぼうっとしている彼女に声をかける。
「え・・・・」
「僕としては、本当にどうでも良い。メデューサが僕らを騙そうが、馬鹿な王が封印を破って、魔龍を復活させてしまおうが、心底どうでも良い。むしろ、戦いに来たので復活してもらった方が助かるんだ。が、一応あんたの意見も聞いておこう。あんたはこれからどうしたい? 別段ここで僕があれと戦うところを観戦してもらってもいいし、真相を確かめにクシナダと地上に戻ってもいいし、まだ見ぬ真相が自分の受け入れがたいものだからと、真相の陰に怯えて逃げ回ってもいい。好きにしていい」
「わ、私は」
 迷うほどのことか? 選択肢などほとんどないだろうに。
「ああそうそう。ちなみに、仮にメデューサが黒幕で、それで僕と戦うことになったとしたら、僕は一切の遠慮なく躊躇なく、彼女と戦うつもりだ。それも、遠くで見ていたらいいよ。それとも、全てに目を瞑り、耳を塞いでおくほうが楽かな?」
 ビクリと肩を震わせた。
「あんたの望む答えが、そこにありゃあ良いね」
 言うだけ言ったので、もういいや。あとはあっちの問題だ。
強く踏み込む。僕の接近に勘付いた龍が骨の尻尾を振るう。この質量は蛇神以来だ。右側から押し寄せたそれを背面とびの要領で躱し、そのまま懐に潜り込む。超至近距離ならば、その巨体は活かせないだろう。
「まあ、潜り込んでどうしようもないのは僕も似たようなもんか」
 マンガでもゲームでも、この手の敵は何か核となる物があるのが定石だ。それを潰せば元の骨に戻るはず。発見まで、ひたすら骨を砕く作業だ。文字通り、骨の折れる作業になりそうだ。

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 剣戟が振るわれ、骨とぶつかるたびに火花が散る。タケルは宣言通り、囮となって骨の龍と戦っていた。結局自分が戦いたいだけではないのか、とは、彼の同行者であるクシナダは思わないでもないが、それが今打てる最善手でもあることは承知している。
 問題は、彼女の目の前でまだ迷っているアンドロメダの方だ。
「アンドロメダさん」
 彼女の肩に手を置く。大体が、タケルは人のことを考えずに好き勝手言い過ぎなのだ。もう少し言葉を選べばいいのに、といつも思う。
「戻りましょう。地上へ」
「クシナダ・・・」
「以前の戦いの話になりますが、敵は大勢の人間に術をかけ、意のままに操っていました。確かに、ここの封印は魔女にしか解けないのかもしれない。けど、その魔女が誰かに操られていない、とは言い切れません。言ってる意味、わかりますか? 今最も危ないのは、封印を解いて用済みになったメデューサちゃんなんですよ?」
 ハッとした顔で、ようやく、彼女がクシナダの顔を見た。
「操られている?」
「そういう可能性もあるということです。あそこまで呪いが進行しているのなら、その意識を魔龍に奪われているかもしれない」
 結局彼女を敵に回さなければならない、ということにはなるが。
「クシナダ! 準備は!?」
 遠くからタケルの怒声が届いた。見れば、タケルは上手く位置取りをしながら、骨の龍を少しずつ入口から遠ざけている。骨の龍の意識からも、クシナダやアンドロメダは遠ざかっていることだろう。今が脱出の好機だ。
「あなたにとって、メデューサちゃんはどういう存在なのですか?」
 それが第一にして最重要だ。そして、それに関してだけは、アンドロメダは答えを持つ。
「私にとって、最も大切な、たった一人きりの、守るべき家族・・・」
 言葉に出して、そのことを再認識したのか、アンドロメダの瞳から動揺の色が薄れた。目的がはっきりすれば、人は進むことが出来る。また、クシナダにとってもそれだけ聞ければ充分だった。アンドロメダの背後に回り、両脇に手をさし込む。
「ちょっと苦しいかもしれませんが、我慢してください」
「え、ちょっと、何する気?」
 不安がるアンドロメダを無視して、クシナダは背中に大気をかき集める。徐々に形を成す翼には、今にも爆発しそうなくらいの風がかき集められていた。今か今かと解き放たれるのを待つ。
「タケル!」
 その掛け声で、遠くで戦っていた彼には伝わる。骨の隙間を縫い、顎に一撃を与えて、大きく飛び退る。はたして彼の思惑通り、顎を撃たれた骨の龍はすぐさま砕けた箇所を修復し、自らを傷つけた不届き者を追いすがった。巨体が彼に釣られて大きく移動する。入口までの道が生まれた。
「行きます」
「へ? 行くってぇえええええええええっ!」
 圧縮された空気が一気に放出され、クシナダとアンドロメダの姿が掻き消えた。悲鳴の残響を引きずりながら、クシナダとアンドロメダは入口へかっ飛ぶ。
「ちょ、クシ、前、前!」
「黙っていてください。舌を噛みますよ!」
「ひゃああっああっあうわぁあああああああああああっ!」
 鍾乳洞内を右へ左へ、鍾乳管にぶつかりそうになりながら、二人は来た時の数十倍の速さで地上を目指す。

●-----------------------

「行ったか」
 振り降ろされる腕を躱し、伸びきった腕に一撃を加える。手と肘の間の尺骨辺りで腕を切り取るものの、すぐに元に戻ってしまう。蛇神の呪いとはまた違う再生方法だ。蛇神や僕らは傷つくと、傷ついた部分を新しい細胞が生れて修復する。対してこの骨の龍は、砕けても、同じ骨が形状記憶みたいに元の場所に戻ることで修復する。
「らちが明かないな」
 動きそのものは単調で、躱すことは難しくはない。ただ倒せない。さっきから色んな箇所を潰しているのだが、核になる様なものが見当たらない。
【シギャアアアアアアッ】
 吠えながら、僕を噛み砕かんと大顎が迫る。真上に飛んで躱し、両手で剣を振り降ろす。頭蓋に剣が半ばまで突き刺さった。梃子の原理で柄を強引に倒し、こじ開ける。頭蓋にひび割れが走り、中があらわになる。が
「ここにもない、か」
 中はがらんどうで、ここにも核は無い。このままじゃ、核ありきの考えを見直さなければならなくなるな。
あると思ったんだけどな。骨の龍の行動は、非常に直線的でシンプルだ。ある一定範囲内に近づけば攻撃。方法は攻撃対象に一番近い部位によるもの。このことからこれが生物ではなく、何らかの方法で一番近付いた対象を攻撃するように命令されている骨を使った道具の一種ではないか。そう思ってたんだが。
「適当なところで僕も引くべきかな」
 そう呟く僕に向かって、両サイドから巨大な手のひらが迫る。剣を引き抜き、前方に飛ぶ。そのすぐ後ろを、骨の龍の両の掌が衝突し、骨の破片をまき散らす。それもまた、すぐに修復される。その後も背骨や胸、腰と体の中心部分を探ったが、それらしいものを発見することはできなかった。
 何度目の攻撃を躱しただろうか。いつの間にか僕は、最初の地点、アンドロメダが言う魂魄剥離の術式が書かれた場所だ。さすがに息が切れてきて、剣を地面に突き立て、それを支えにして体を休める。すると
【シギャアアアアアアアアアアアアッ】
 何もしていないのに骨の龍が吠えた。今までの威嚇とは少し違うような気がする。何が起こっても良いように身構え、状況の変化に備える。が、それは無駄になった。
「おいおい・・・」
 ぼやく僕の前で、あれだけ厄介だった骨の龍がボロボロと崩れ始めた。一体どうしたというのか。あれだけの巨体がみるみるうちに小さくなり、砕けて、小さな山になった。復活する兆しは全くない。
「何かしたわけでもなし・・・ん?」
 再び剣を体の支えいしてもたれ、ふと何気なく、突き刺した先を見る。それは、丁度方陣の中央部分にあたる。
「まさか」
 まさか、方陣が崩れたから、か? つまりこれで、あのデカブツを操っていたと? 青い鳥も驚きの近辺に弱点があったというのか?
 それは、道具、仮にも敵を倒すためのものとしてはおかしくないか? 敵の近くに弱点を曝すなんて意味がない。気づかずにちょっとの間戦っていた僕が言うのもなんだが、気付かれたら終わりだ。もう少し時間をかければ、アンドロメダなりクシナダなりが気づいていた。
 それを考え出すと、骨の龍の攻撃範囲もおかしかった。あれは、本体に近付いたというよりも、入り口に近付いたら攻撃してきた、という風に見えた。クシナダたちが脱出しようとした瞬間、一番近い対象が僕であったにも拘らず、クシナダたちを追おうとした。それは一瞬で探知範囲から抜け出したので、すぐに僕へと戻ったが。
 つまりだ。あの骨の龍は、侵入者を排除するためではなく、侵入者を逃がさないために機能していたと考えられる。発動条件はこの最奥にある方陣を誰かが見つけること。倒すためではなく、捕らえる為? この罠を仕掛けた人間の思惑が分からない。
「ん?」
 思考の深みにはまっている僕の意識を、頬に当たる風が現実へと呼び戻した。
「風だと?」
 どうしてこんな洞窟の奥深くで風が吹くんだ? 新たな疑問に戸惑っている間にも、風は吹く。どうやら僕の真下、壊れた方陣から吹いているようだ。流れる先は、先ほど崩れた骨の山。粉上にまで細かく砕けた骨は風で舞い上がり吹き流される。そのまま入口へ。
「嘘だろ・・・、まずい!」
 ろくでもない結果が目に見えた。休憩を終了し、全力で入口へ走る。その間も骨が流され、そして、入口が徐々に塞がれていく。
 この罠は二重だったのだ。骨の龍が倒されても、その骨で入口を塞ぐように。最初から骨で塞ごうとすると逃げられる可能性がある。だから骨の龍でけん制、もしくはバテさせて、入口を塞ぐ。誰だか知らんが、逃がさないという事でこれを使ったのなら良い手だ。
 入口まで残りわずか。だが、焦る僕の横を、サァッと骨の末端が流れていく。完全に塞がれた。走る勢いを緩めず、そのまま壁となった骨をぶん殴る。

 ボスッ

 予想していたものとは違う、低反発マットを殴ったような柔らかい感触だ。触れている箇所は完全に粉。骨が粉々になったのにもいちいち意味があったのだ。衝撃吸収タイプの壁なのだ。凹んだ部分は、手を離すと同時に、低反発マット同様に元に戻る。これでは破壊することすら困難だ。
「やってくれる・・・」
 敵の方が一枚上手だった。僕は地下何メートルかもわからない洞窟内に閉じ込められてしまった。

覚醒

 途中何度か激突しそうになったりしながら、クシナダとアンドロメダは地上へと飛び出した。
「あー! 死ぬかと思った!」
 心の底から出てきたアンドロメダの安堵の言葉が、彼女が受けた恐怖を物語っている。
「出口に兵士がいない。全員駆り出されたのかしら」
 どころか、街からも人の気配が感じられない。中心部であるはずなのに喧騒が聞こえてこない。
「街中の人間が、王のセレモニーに引っ張られていったようね」
 事態は最悪の方向へと向かっていた。
「メデューサを探しましょう」
 今度はアンドロメダ自ら、最も疑わしき、愛すべき妹の名を口にした。まだ戸惑いは見えるものの、成すべきことを成すしかないと覚悟を決めたようだ。
「そうですね。それではっきりします」
 すっと、再びクシナダはアンドロメダの背後に回り込んだ。
「く、クシナダ・・・? まさか」
 人は空飛ぶ鳥を羨ましがるが、実際飛んでみると実は恐ろしいことを知る。地に足がつかないというのは、人間にとって不安でしかないのだ。
「空からの方が速いので。我慢してください」
「いや、ちょっと心の準備をおおおおおおっ!」
 そんな暇もないとばかりに、クシナダは真上に飛んだ。
「探しながら、家の方に向かいますよ。ほら、しっかり探してください」
「無理、絶対無理! 無理だってえええぇぇぇぇっ!」
 強烈なGを体全身に浴びながら、二人は北へ向かう。上空から見ても、やはり人がいるようには見えない。
 街を通り過ぎて、砂浜に出る。
「あれは」
 何かに気付いたクシナダが、高度を落とす。砂浜は、まるで行軍でもあったかのように大量の足跡が残っていた。怯えていたアンドロメダも、この異変に、流石に目の色を変えた。足跡が向かう先は、彼女らの家だ。
「急ぎます」
 飛ぶスピードを上げるクシナダ。今度ばかりはアンドロメダも悲鳴を上げない。それ以上の問題が頭の中を駆け巡っているからだ。

 家に到着した彼女らを待ち構えていたのは、無残に焼け落ちた家屋だった。あまりのショックに、彼女たちはしばし茫然と立ちすくんだ。
「うそ、でしょ、メデューサ・・・」
 昨日まで、姉妹で仲良く暮らしていた家。皆で食事を囲んだ、幸せがあった場所と同じ場所だと認識できない。
「メデューサ!」
 叫びながら、瓦礫を掻き分け、踏み入る。クシナダも後に続いた。彼女らが最も早く見つけたい、この場にいてはいけない人物を探す。
 狭い家だったから、探すのにも時間はかからなかった。
「いません」
 クシナダの端的な一言が答えだ。最悪のケースでは、ここにメデューサの死体があることだった。まずはそれが避けられた。
「落ち着いて考えましょう」
 クシナダは慣れないセリフを使う。こういうのは、いつも落ち着いている彼の役目だった。だが彼は、自分たちを逃がすために囮になった。あの骨の龍に負けることはないだろうが、時間がかかるのも事実。今この場にいる自分たちで対処しなければならない。時間は待ってくれないのだから。
「ここにいない理由として、二つ考えられます。一つ、あの子と一緒に逃げた。二つ、連れ去られた、です」
 逃げた、というのが最善だ。無事であることが間違いない。ただ後者である連れ去られた、の場合、まだ危機は去っていない。
「私は、後を追います。あなたはここで待っていてください」
 そう言い置いて踵を返すクシナダの肩をアンドロメダが掴んだ。
「私も、行く。待ってるだけなんて耐えられない」
「行き違いになるかもしれません。だから」
 その次の言葉を、アンドロメダは首を振ることで遮った。言っているクシナダ本人でさえもわかっているのだ。一番可能性が高いのは、連れ去られていることだと。それでもクシナダが彼女を置いて行こうとしたのは、先ほど口にしなかった第三の考えのためだ。
「確かめなければならないの。誰よりも、この私が。私は、あの子の姉だから。あの子もきっと、私のことを待ってる」
「・・・うん。そうですよ。絶対そうです」
一縷の望みをかけて、彼女らは再び空へと舞いあがる。
「向かうはここより北。最後の封印へ!」
「最速で行きます。舌噛まないでくださいよ!」

 小高い丘に、大勢の兵士と、街の住人が集まっていた。その中央には、冬でもないのに葉が落ち切った大木が一本だけ立っていた。その傍には豪奢な鎧と、その上から真っ赤なマントを羽織った壮年の男がいた。セリフォスを治める王、アクリシオスだ。隣の大木にも勝るとも劣らない巨躯に、宝飾のついた巨大な斧を携えている。その斧の刃のそばに、小さな子どもが二人、拘束されて転がされていた。メデューサと、悪ガキだ。
昨晩、遺跡の番をしていた兵士を撒いてから、ずっとメデューサの世話をしていた。姉がいない分、何かと不便だろうと子どもなりに気遣っていたのだ。
そこへ軍隊が家に押し入り、一緒にいた彼もメデューサと共に捕まったのだ。
「皆の者よ!」
 立派に蓄えた口髭にまで泡が飛ぶほどの大声で、アクリシオスが叫ぶ。
「貴様らは幸運だ! 今日という、新たな歴史の始まりを、その目で見届けられるのだからな!」
 朗々と王の声は響いた。
「貴様らも、昔話で聞いたことがあろう。この街にはかつて、邪悪な魔龍が巣食っていた。それを古の魔女、アテナが封じたという、あの話だ」
 この街の者なら知らぬ者はいない昔話だ。親から子へ、子から孫へと言い伝えられてきた寝物語。
「だがそれは、全て嘘だ」
 どよどよ、とざわめきが広がる。
「それは、自らをその魔女の末裔と語る一族がついた嘘に他ならない。自分たちは偉大な魔女の末裔ということを笠に着て、王家を脅し、裏から操らんとした、おぞましく、唾棄すべき一族の策略だったのだ。その者どもの企みも、我が眼光を欺くことはできず、数年前に裁きを下した」
 そこで言葉を切り、アクリシオスは大木へ近寄った。
「それでもまだ、この街にはあの詐欺師どもの言葉に騙されている連中が多い。何と嘆かわしいことだ。愛すべき我が民の心に救う奴らの嘘こそ、本物の魔龍よ。今日、我が手によって断ち切る!」
 見よ! アクリシオスが大木を指差す。
「この木も、奴らがついた嘘の一つ。魔龍を封印しているカギだという。ハッ! 馬鹿馬鹿しい。このような葉もつけぬ、よぼよぼの老木が、どうやって魔龍を封印するというのだ。こんなもの、トカゲですら封じられまい!」
 兵士たちがどっと笑う。
「そして、見よ! ここには、あの詐欺師の末裔がいる! 小賢しくも逃げ延び、鼠のようにこそこそと暮らしていた! 笑わせるではないか。かつては王宮内で、王すら頭を垂れ、道を譲った一族のなれの果てが、これだ」
 ぐい、とアクリシオスの大きくごつい手が、メデューサの髪を乱暴に掴み上げる。体を強引に反らされて、苦悶の表情を浮かべた。
「や、やめろ!」
 隣で転がっていた悪ガキが勇敢にも叫ぶ。だが、それは勇気ではなく、無謀であった。眉根を寄せたアクリシオスが彼の腹を蹴り飛ばした。吐しゃ物をまき散らしながら転がり、その先でも兵士たちに小突かれ、傷だらけになっていく。小突いている兵士の中には、昨夜遺跡の番をしていた兵士の顔もあった。ざまあみろ、と言わんばかりに小さな体を踏みつけた。
「親を見捨ててまでわが身が惜しい、卑しき者よ。貴様に騙された、あの小僧を見ろ。貴様さえいなければ、痛い目を見ずに済んだのだ。穏やかに、わが王国で過ごせたのだ。貴様は、関わる者すべてを不幸にする。生きていてはいけないのだ」
 ゴミでも捨てるかのように、アクリシオスはメデューサを放り投げた。受け身も取れずその場に転がる。
「これより、忌まわしき木を倒す。そして、ここにいる魔女と、それに関わった者の首を刎ねる。こうして、セリフォスは長きにわたる呪いから解放されるのだ!」
 兵士たちの雄叫びが大地を揺るがす。それに満足したようにアクリシオスは一つ頷き、両手で斧を構えた。
「ふん!」
 風切音を立てて、斧が幹に激突する。がり、と一割ほどが削れる。アクリシオスは、何度も何度も、同じ個所に斧を振るった。そのたびに悲鳴のように大木は軋み、枝葉は震えた。そして、遂に、限界が訪れる。メキメキと斧の入っていない反対側から、皮や中の繊維が千切れていく。
「失せろ! 古き因習よ! 我が治世にこんなものは不要だ!」
 ダメ押しとばかりに、アクリシオスが蹴り飛ばす。木はその傾きを大きくして、ズズン、と倒れた。
同時、全員を強烈な耳鳴りが襲う。耳鳴りは一瞬の為、誰もが不快な顔はしたものの、すぐに忘れ去った。
「次は、貴様の番だ」
 斧を担ぎ直し、アクリシオスがメデューサに近付く。
「情けだ。最後に言い残すことはあるか?」
 倒れたメデューサの首に刃を突きつけながら言う。
「・・・何も・・・」
 痛みをこらえながら、言葉を絞り出す。
「ほう、言い訳も泣き言も無しか。最後まで私に刃向った親よりは、潔いな」
「馬鹿につける薬は無いと、アテナも言っていましたから・・・」
「貴様、私を、何を言っても無駄な愚か者だと言いたいのか?」
「それ以外、何と讃えればよろしいのでしょう。あなたが愛すると言った民たちは、あなたのせいで苦しんでいるというのに」
「何を愚かなことを。私あっての国、国あっての民。王家に民が奉仕するのは当然のこと。やつらが苦しむのは奴らのせい。王家のせいにするなどもっての外だ」
「本気でそう思っているのだから、つける薬もないというのですよ」
「私を・・・コケにするか! 親と子、揃いも揃って!」
 怒りにまかせて斧を振り上げる。小さな悲鳴がそこかしこで上がった。それを聞いて、アクリシオスは顔を邪悪に歪ませた。
「そうだ。小娘。貴様がそこまで言うのなら、ここにいる民たちに問えばいい。私と貴様ら一族、どちらが民から支持されていたのか」
 メデューサの首根っこを掴み上げ、集まった民たちの前に突き出す。
「さあ、民たちよ。貴様らに問おう。私が間違っている、と思うものはこの場より立ち去れ。薄汚いこの小娘が間違っている、と思うものは、この場に残るがいい」
 さあ、と促され、民たちは互いの顔を見合わせる。そして、周囲を見渡す。完全武装した兵士たちが、彼らを取り囲み、帰路を塞いでいた。
「どうした? 正直に、心のままに答えて良いのだぞ? 小娘が言うには、貴様らは私のせいで苦しんでいるという。本当にそう思うのならば、このまま帰るがいい。私が許そう」
 誰も動けなかった。アクリシオスの恐ろしさは全員身に染みてわかっていたからだ。
「・・・誰もいないようだな。可哀相になあ。貴様の味方は誰もおらんようだ」
 高らかに笑う。
「大体、封印の木を切り倒したというのに、魔龍の影も形もないではないか。このことが、全て貴様らの嘘であったという何よりの証拠。貴様らは偉大なる我が祖先と民たちを欺いていた。今、その判決は下される」
 民たちに向き直り、アクリシオスは言う。
「剣を取れ」
「え・・・・」
 戸惑う民たちに、再度「剣を取れ」と言う。
「貴様らが選んだのだ。私の方が正しいと。ならば、嘘をついているあの小娘は罰せられなければならない。貴様らがやるのだ。貴様らを欺いていたあの小娘を、貴様らの手で処刑するのだ。そう、あの娘こそ、魔龍に違いない。それを討つ機会をやろうというのだぞ?」
 天秤にかける。自らの命か、他人の命か。己に尋ねる。良心か、保身か。
「そ、そんなこと、出来るわけが」
「出来るわけがない、などと言わないでくれよ。それは、私に対する不信と取る。貴様らは先ほど選択したではないか。それを違えるというのか?」
 民たちを囲っていた兵士の環が、彼らの一歩分狭まる。肩を寄せ合いながら、民たちは互いの顔を見比べる。全員が酷い顔をしていた。選択肢は一つしかない。けれどそれを選ぶことを、まだ躊躇っている。
「こうしよう」
 アクリシオスは知っていた。このような場合どうすれば良いか。
「先陣を切り、最初にこの娘の胸に刃を突き立てた者には、金貨百枚をくれてやろう」
 誰かが動けばいいのだ。民は、人は愚かだ。誰かが動かなければ、自分から行動することはできない。だからこそ、自分のような優れた王が彼らを率いなければならないのだ、と。
 やがて、一人の男が前に進み出た。その震える手には剣を携えている。アクリシオスはほくそ笑む。
「見どころがある。貴様が最初だ」
 男は、震えながらアクリシオスに言う。
「本当に、金貨を」
「ああ、やるとも、もちろん」
 それだけを確認した男は、重たい足を強引に引きずるようにして進み、メデューサの前に立った。
 剣を逆手で掴み、振りかぶる。そこで止まった。
「どうした。何を止まっている。さあ、やれ」
 男は動けないでいた。メデューサの、その包帯を巻かれたその顔が自分の方を見ていたからだ。これから、こんな子どもを殺すのだ。だんだんと目が血走り、呼吸は荒く、肩で息をし始めた。
「やれ」
 アクリシオスからの催促は続く。
「やれ」
「早くやれ」
 周りの兵士たちも囃し出した。やれ、殺せ、早く殺せ、その剣を突き立てろ。熱狂が、場を支配し始めた。
「う、うわあああああああああああああ!」
 絶叫し、男は両手で剣の柄を握りしめた。渾身の力を込めて、振り降ろす。

 ガキンッ

 高速で飛んできた何かが、男の剣の腹を叩き、手から弾き飛ばした。勢いはなお死なず、地に突き立つ。それは、矢だ。
「メデューサぁ!」
 声は、はるか遠くの空から。
「何だ、あれは!」
 さすがのアクリシオスも驚いた。人が空を飛び、こちらに向かってくるのだ。その人物は二の矢をつがえ、こちらを狙っていた。空を飛ぶこともさることながら、あの距離と、あの速さで移動しながら、剣に命中させたのだ。恐るべき技量と言わざるを得ない。
「あの女は・・・!」
 兵の一人、数人規模の隊を指揮するリーダーが気づく。先日、いとも簡単に自分をあしらった、あの憎き女だった。
「アンドロメダさんは、このままメデューサちゃんのもとへ」
 憎まれている女、クシナダは、自分の腰にしっかりと掴まっているアンドロメダに声をかける。
「私は、奴らを引き付け、蹴散らします」
「わかった。お願い」
 高速で接近し、そのまま兵たちのど真ん中へ突っ込む。右足と左足で別々の兵士を踏みつけるようにして着地。その二人はもんどりうって吹き飛んだ。何人かがそれに巻き込まれる。
「女ぁ!」
 リーダーがあの時の恨みとばかりに剣を振り上げ、部下たちと共に八方から飛び掛かる。対するクシナダは
「しゃがんでいてください」
 アンドロメダを体から離して、迫りくる敵を見据える。今度は、リーダーたちは彼女を殺す気で武器を振るう。だが、気迫だけで倒せるような相手ではなかった。結局のところ、彼らはこれまで自分よりも弱い者をいたぶったことしかなく、本当の戦いを知らない素人だ。だから、一度は戦い、敗れているはずの相手との実力差も測れない。相手を、ただの女としか見ていない。少し腕が立とうが、大勢でかかれば押し潰せるはずだ、と。
 数人どころか、数十人を一薙ぎで押し潰してきた化け物たちと戦ってきた女に向かって、それはあまりに無謀だった。
 クシナダは慌てることなく冷静に、対処する順番をつけた。
 まず、一番早く近づいてきた兵の剣を潜り込んで避け、鳩尾に掌底を叩き込む。新品同様に綺麗だった鎧に、ボコリと彼女の手形がくっきりと残った。強打を受けた兵はそのまま体をくの字にして吹っ飛ぶ。驚いたその両脇の兵が、吹っ飛んでいく仲間に気を取られた。
 見逃さず、クシナダは次の標的として彼らを刈り取りにいく。近づき様、兵二人が再度クシナダの方を見た瞬間。綺麗な円を描いて回転してきた彼女の踵が彼らの顎を捉える。真横から顎を撃ち抜かれた兵はコキリと首を軸に顔が九十度回転し、そのまま静かに崩れ落ちた。
 その時には、すでにクシナダは次へ移っている。右から踏み込んできた一人の、その踏み込んだ足の膝を踏み込む。踏ん張っていた兵の足は通常曲がらない方向へいとも簡単に曲がった。痛みに悶える暇すら与えず、クシナダはそいつの腕を取り、力任せにぶん回した。後から追いすがってきた兵士三人をまとめてなぎ倒す。
 十秒にも満たない時間で、クシナダを取り囲んでいた兵士たちはいなくなった。
「き、貴様は」
 残ったのはリーダーただ一人。
「すみません。手加減をしてあげるという約束でしたが」
 ちら、と目をやる。そこには、傷ついたメデューサを抱きかかえるアンドロメダの姿があった。クシナダに全員が気を取られている間に、何とか辿りつけたようだ。
「あなた方のような輩相手に、約束を守る義理はありませんね」
「ほざくな!」
 ここで彼の最善の策は、そこから逃げることだった。最低でも動かなければ、クシナダも相手にはしなかっただろう。だが、彼のとった行動は最悪と呼べるもの、彼女に向かって行ってしまったのだ。すでに怒り心頭の彼女に。
 情けも容赦もない一撃が、リーダーの顔面を捉えた。リーダーは何度も後頭部を地面に打ち付ける不恰好なバク転をしながら彼女の前から消えた。クシナダはそこから、他の兵とアンドロメダたちの間に割って入るように移動した。あれだけ粋がっていた他の兵たちも、目の前で一方的で圧倒的な暴力を目の前にし、二の足を踏む。
「姉さん、どうして?」
 生み出されたこう着状態の中、姉妹は抱き合って会話をする。
「どうしてって、妹の危機に、姉の私が現れないわけないでしょう!」
 傷ついた妹の拘束を外し、傷を手持ちの塗り薬と医療魔術で癒しながらアンドロメダは言う。彼女の心の中は心配と怒りと、そして安堵が渦巻いていた。心配は妹の怪我について。怒りは妹をこんな目に遭わせた連中に対して。そして安堵は、妹が無事だったことと、魔龍に操られているわけではなさそうだということ。そのほっとした、気の緩みからか、それともそう信じたいだけなのかはわからない。だから彼女は気づかない。先ほどの会話は、全くかみ合っていなかったことに。
 メデューサが言う『どうして』とは、けして『無茶をしてまでどうして自分を助けに来たのか』ということではない。
「もう、いいのです」
 ぐい、と自由になった手で、ゆっくりと姉を押し離す。
「? メデューサ。何言ってるの。傷はまだ・・・」
「もういいのです姉さん。そんな無駄なことをしなくても」
 そして、不自由なはずの足で立ち上がる。姉の顔が驚愕に染まる。
「め、メデューサ、なぜ、なぜ立ち上がれるの?!」
「立ち上がれますよ。始めから。ただあなたの前ではこの足は使えない、そういうフリをしていただけです」
 石の様だった足は、見る見るうちに生気を取り戻し、脈打ち始める。どころか、体中についていた傷すらも修復し始めている。
風向きがおかしい、とクシナダもさすがにわかった。兵たちをけん制しながら、メデューサにも注意を払う。いつでも打ちぬけるように、矢は既に弓弦にかかっている。
「はあ、せっかく、これまで世話をかけた礼に、あなただけは生かしておいてやろうと地下に二重の罠まで張ったのに、かかったのはあのどことも知れぬ風来坊ただ一人とはね」
「それは、タケルのこと?」
 クシナダの問いに「ええ、そうです」とメデューサが答える。
「今は二つ目の罠にかかっていますよ。なかなかやるようですが、どれほど強くてもあの封印の壁は破れません。数日もすれば飢えて死ぬでしょう。そうなる前に迎えに行くことをお勧めします」
 行ったところで何が出来るとは思いませんがね。と邪悪な笑みを浮かべた。
「まあ、良いでしょう。可愛い妹の手にかかるのなら、姉として本望でしょう? 最後に食い殺してあげます」
 そう言い、今度は何が起こっているか理解していないアクリシオスの方へ歩いて行く。アンドロメダは、追いすがることもできなかった。最悪の結末が近づいていることを悟ってしまった。
「アクリシオス王。あなたは一つだけ正しいことを言った」
 メデューサが、自分の顔を覆う包帯に手をかけた。ゆっくりほどけて、露わになっていく彼女の相貌。アクリシオスの顔が、徐々に恐怖で歪んでいく。
「あ、ああ、うわああああっ!」
 恐慌状態となり、アクリシオスは持っていた斧を全力で振り降ろした。だが、その刃は彼女の首に届く前に止められる。彼女の髪が蛇のように波打ち、その一束が柄に巻き付いて動きを封じていた。髪はそのまま柄を伝うようにして伸び、アクリシオスの首を締め上げる。
「どうしてそんなに怯えるのです? あなたが望んだのですよ。忌まわしき魔龍を討ち、民たちに新しき歴史の始まりを見せると。だから、さあ」
 彼女の額にある魔眼が、怯えるアクリシオスの顔を映し出す。
「討てるものなら、討つがいい」

絶望が生まれた日

「あなたには感謝しているのですよ。アクリシオス」
 自分を締め上げる髪のから逃れようともがくアクリシオスに、豹変したメデューサは礼を述べた。
「あなたのおかげで、私も覚悟を決められました。だから、礼と言っては何ですが」
 ゆっくりと、腕を持ち上げる。真っ黒な、洞窟に満ちていたものなど比べ物にならないほど濃密な瘴気が彼女の腕から溢れ出す。それは大気中に拡散することなくその場に留まり、形を成した。彼女の腕を何十倍にもしたような、巨大な腕の形だ。
「あなたの国を、滅ぼすところを見せて差し上げましょう」
 無造作に、腕を振るう。追尾するように、形を取った腕も横薙ぎに振るわれた。

 ガリガリッザリザリザリザリッ!

まるで、机の上のものを腕で乱雑に取り払ったかのようだった。そこにいたはずの大勢の兵や民たちが、波打ち際に打ち上げられた木っ端の如く脇に寄せられた。寄せられた者たちは、衝撃と圧力により、人の形を成さず、ただの肉塊へと変貌した。
「ひ、ひいぃ!」
「逃げろ、逃げろ!」
「魔龍だ。魔龍が復活した!」
 生き残った者たちは、我先にと逃げだした。それこそ、王を守る立場であるはずの兵たちも全て。
「ば、馬鹿な、そんな、馬鹿な! 嘘だ、嘘だ嘘だ嘘だ! 魔龍など、居るはずがない! あんなものはただのおとぎ話だ! 貴様が、貴様らが王家を縛るための・・・」
 自分の兵たちが一掃されたのをその目で見ていようとも、アクリシオスはいまだ頑なに信じようとはしなかった。信じられなかった。信じてしまえば、自分が誤りであったことを認めてしまうからだ。進退窮まったこの状態でなお、彼は自分の感情を優先した。
「そうだ、これは夢だ。夢に違いない。夢ならばどんなに信じられないことでも起こる。はは、そうに違いない。私の夢ならば、私の思うとおりになるはずだ、ははは」
 だから、現実の光景から目を背けた。
「やれやれ、これから国が壊れゆくさまを見せてやろうというのに、本人が真っ先に壊れてどうするのでしょう?」
 つまらなそうにメデューサは言い、アクリシオスだったものを髪で器用に投げ捨てた。
「メデューサ!」
 呼ばれ、振り向く。上空に間一髪のところで難を逃れたクシナダとアンドロメダが浮いていた。
「おや、姉さん。無事でしたか」
 どうでもよさそうにメデューサは言った。彼女が攻撃した範囲にアンドロメダもいた。今は完全な更地になっている。クシナダが助けなければ、アンドロメダも肉塊の一つと成り果てていただろう。
「自分の姉を、殺す気だったわね」
 アンドロメダを地面に降ろしながら、クシナダが言った。油断なく弓を構える。
「いいえ、そんなことはありませんよ」
 自分に向けられる鏃など気にもせず、しれっと答えるメデューサ。
「殺す気も何も、気にすらしていませんでした。たかが人間一人、生きていようが、死んでいようが、ね」
「・・・あんたは、誰?! メデューサをどうしたの!」
 虫も殺せぬほど優しかった彼女からは、想像できない言葉と行動だった。目の前のメデューサと、自分の妹が一致しない。けれど、返ってきた言葉は無慈悲だった。
「私がメデューサですよ。古の魔龍デュクトゥスと契約せし、魔女です」
「嘘。それこそ嘘! だって・・・」
「だって、なんです? 優れた魔女の条件は、真実を見極める目を持つこと。あなたが教えてくれたと思いますが。見えませんか? 私が纏うこの魔力と、溢れ出す瘴気が」
 アンドロメダにとって、これ以上ないくらい最悪の展開だった。クシナダの言った通り、乗っ取られているのであれば、それを引きはがす方法を模索すればいい。けれど、彼女自身の意志で、街を滅ぼそうとしているとするなら。それでも、一縷の望みに賭けるしかなかった。声をかけるしかなかった。
「・・・どうして。どうしてこんな、酷いことを」
「酷いこと、ですか? ならば姉さん。彼らが私たちにしてきた仕打ちは、酷いことには入らないのですか?」
 メデューサの顔から、笑みが消えた。
「何の罪もない両親を辱め、惨殺したアクリシオスは酷くないと? アクリシオスの機嫌を損ねるのを恐れ、これまでの恩を忘れたかのように私たちの助けを無視し、どころか追いやった王宮の人間に罪はないと?」
 彼女の内から、過去から、煮えたぎった怒りと憎悪が湧き上がる。
「それでも、守ろうとした。それだけの価値があるのか迷いながら、ですが」
 そんな時です。とメデューサは続ける。
「私の中に魔龍の意識の一部が入って来ました。アクリシオスが封印の一部を破壊したため、そこから漏れ出したのでしょう。最初は私の体を奪い取るつもりだったようですが、いかな魔龍とは言え、一部ではそこまでの力はありませんでした。魔龍は乗っ取ることを諦め、私に話を持ちかけてきたのです」
 ―この街の人間に守る価値があるかどうか、賭けをしないか―
「『いずれ、アクリシオスは封印を全て破壊するだろう。その時は、必ず私を殺しに来るだろう。おそらく公開処刑だ。その時、お前が守ってきた民に問うがいい。そのことに感謝する者が一人でもいるのなら、我の負け。一人もいないなら、我の勝ち』そう、魔龍は言いました」
 悪魔の囁きとは、正にこのようなことを言うのでしょうね、とメデューサは苦笑する。
「私は賭けに乗りました。知りたかった。両親が、あなたが、守りたかったものの価値を。私たちの行いを、誰かが見てくれている。誰かが認めてくれている。私たちのやっていることはけして無駄ではない。意味のあることだ。そのはずだと、信じていました」
 その夜から行動を開始した。洞窟に侵入し、魔龍の封印を解いた。魂魄剥離の魔術を魔龍に用いて、肉体から魂を抜きだし、新たな器として、自分の体に入れた。
「アクリシオスのあの時の問いに、一人でも、私たち家族のために動いてくれる民がいるなら、声を上げてくれる民がいるなら、私はここで、魔龍の魂を道連れに死ぬつもりでした。なるほど、守る価値があったか、と。父も母も無駄死にではなかった。姉さんが舐めてきた苦渋も報われる。その思いを胸に、完全に魔龍を封じることが出来た。賭けとはいえ、魔女と魔龍の契約。たとえ魔龍であっても履行せざるを得ませんから、妨害はできません。けれど」
 何かをこらえるように、メデューサは固く目を瞑る。瞼の裏に思い返されるのは、先ほどの民たちの反応だ。アクリシオスとメデューサ。どちらが正しいかという問いに、誰もがアクリシオスの報復を恐れ、動かなかった。
「誰も、私を助けようとはしませんでした。誰一人、指先ひとつ動かさなかった」
 ああ、そうか。私は、なんて無駄なことをしていたのだろう。
 彼女の絶望は、いかばかりだったろうか。
 幾らしっかりしていても、魔術に長けていても、まだ十にも満たない少女だ。彼女の心は純粋なあまり、簡単に歪んだ。
「誰も私を助けないのなら、私もあなた方を助けるいわれはありません。誰も幸せになれない街なら、存在する必要がありません。今日、ここで、全て。滅びてしまえ」
 さらに瘴気が増し、メデューサを包む。

 パァンッ

 瘴気が弾け、円柱状の穴が開いた。メデューサの目つきが険しくなる。穴の先に、二の矢を構えるクシナダがいた。
「・・・次は、当てるわ」
 八匹の黒い蛇が腕を伝い、矢に込められていく。
「次と言わず、今当てればよかったのです。あなた達は、私を倒すために来たのでしょう? それとも、この姿では当てにくいですか?」
 今度はクシナダが彼女を睨みつけた。
「メデューサちゃん。本気なのね。本気で、ここを滅ぼすのね?」
「そう言っています。跡形もなく消し去ります。そして、かつて魔龍が住んでいた時のような、人が住めない場所にします。人がいなければ、二度とこのような悲しみが生れることもないでしょうから」
「あなた自身が、魔龍になる気?」
「良いですね、それ。では今日から私が、魔龍メデューサです」
 クシナダは弓を引き絞る手に力を込めた。鋭敏な彼女の感覚が警鐘を鳴らす。メデューサを倒すなら、今しかないと。
 だが、逡巡した。ちらと横目にアンドロメダの様子を窺う。突きつけられた現実に打ちのめされ、放心状態だ。その姉の目の前で、その妹を殺せるのかと。これ以上アンドロメダを傷つけることになってもいいのか、と。
「撃てないの?」
 どこかいらだたしげに、メデューサは言った。
「戦う気がないのなら、もう、ここから立ち去ってください。あなたが去る分には追いません。どうせならついでに、そこにいる哀れな魔女のなれの果ても連れて行ってください」
「・・・その言い草、あなたは、心まで魔龍になるつもりか!」
「先ほどから、そう言っているでしょう。こんなくだらない問答に時間をかけるから」
 最後までメデューサが言い切るのを待たず、クシナダは上空へ逃げた。その一瞬後、彼女の居た場所を瘴気が薙ぐ。
「魔龍が復活する暇を与えるんですよ」
 ごうごうと、瘴気が渦巻きながらメデューサの体内へなだれ込む。周囲を漂っていた膨大な瘴気を、全て自分の小さな体へ取り込み切った後、彼女はそっと両手を自分の下腹部へあて、指で方陣を描く。
「賭けの代償を支払いましょう。わが身を贄とし、今ここに再誕せよ。・・・おいで。魔龍デュクテュス」
 服の下から、描かれた方陣の線に沿って何かが蠢く。我慢できなくなったように、再び彼女からおびただしいほどの瘴気、いや、すでに粘度を持ったヘドロが溢れ出し、彼女を包んだ。それだけにとどまらず。ヘドロは法則性を持って溢れ、流れ、徐々に固まっていく。
 頭が出来た。鰐のように大きく長い口を持ち、鋸のような鋭い歯が不規則に並ぶ。縦長の瞳孔を持つ巨大な瞳がボコリと現れ、左右と額中央でぎょろぎょろと巡らす。その頭を支える長大な胴には足が四本生えた。四本指には鋭くとがった爪を有し、力の満ちた四肢は圧倒的な質量をしっかと受け止め、大地に足跡を刻む。
「これが、魔龍・・・」
 あまりの巨体に、上空にいるはずのクシナダの視界からも魔龍の全貌は知れない。
 大きく口を開き、吠える。生まれたての赤子のように、歓喜の産声を上げる。遠く、遠く、その雄叫びは先に逃げていた民たちを震え上がらせ、街まで届いた。

受け継がれるもの、守りたいもの

 クシナダは選択を迫られていた。
 目の前には魔龍、下には放心したようにそれを見つめるアンドロメダがいた。メデューサは既に、姉だからと手心を加えるつもりはない。そもそもあの巨体だ。あっちにその気がなくても少し身震いするだけで簡単に押し潰してしまうだろう。
 取れる手としては、自分が攻撃を加えて、相手の気を引き、この場から遠ざける。または、アンドロメダを連れて一旦引く。
 幸い、というのもおかしな話だが、魔龍はクシナダやアンドロメダを歯牙にもかけず、海の方へ向かっている。一旦海に出て、そのまま一直線に港へ押し寄せるつもりだろうか。
「姉ちゃん!」
 迷うクシナダの耳に、あの悪ガキの声が届いた。見れば、座り込んだアンドロメダの服を引き、必死で立ち上がらせようとしている。
 その二人に向かって、進行方向を変えた魔龍の尾が迫る。選択肢は一択となった。
「手を伸ばして!」
 急降下しながら、二人に向かって手を伸ばす。降りてくるクシナダに気付いた悪ガキも、彼女に向かって手を伸ばす。だが、アンドロメダの方は、項垂れたまま、クシナダの呼びかけに応じない。
「姉ちゃん、手!」
 ぐぎぎ、と悪ガキがアンドロメダの腕を上げさせる。その手とそれを支える手を、クシナダはまとめて掴み、引き上げる。真下を長い尾が風を切って通り過ぎた。あれに巻き込まれたらただじゃすまない。上昇し、魔龍と街を両方見渡せる高さまで到達する。
「ひょわあああああっ!」
 悪ガキが素っ頓狂な悲鳴を上げた。
「無事だったのね?」
 腕を二人の腰に回して、抱きかかえるようにしてクシナダは飛ぶ。
「お、おう。何とか。ていうか、どうなってんの? 俺が気を失ってた間に何があったの?」
「魔龍が復活したわ。というよりも、復活していたというか・・・」
「何だよそれ。訳わかんねえよ。馬鹿な俺にもわかるように言ってくれよ。・・・メデューサ、メデューサは!? あいつどこ行ったんだよ」
 すぐには答えられなかった。腕の中で、アンドロメダがビクリと反応する。
「・・・そのことも含めて、全部話します。どこか落ち着いて話せる、安全な場所はありますか? 彼女も休ませないと」
 アンドロメダの方を見ながら答える。
「それなら、このまま西に行ってくれ。そこの森の中に、俺たちスラムに住んでた連中が避難してるんだ」
 避難している? 街の人間はみなアクリシオスに呼び出されたのではなかったのか?
「メデューサの指示だ。最悪の事態に備えて、スラムの人間は全員逃がしておけって」
 メデューサが? クシナダは眉根を寄せて思案する。民に選択させるなら、その彼らも加えておくべきではなかったのか。メデューサの行動に違和感を覚えながらも、クシナダは悪ガキの提案に従って西へ飛ぶ。

 しばらく飛んでいると、森の中から煙が上がっているのを見つけた。
「あそこだ!」
 悪ガキの指差す方向へ、クシナダは降下していく。近づくにつれて、木々の間からちらほらと人影が現れる。
「おお、見ろ! 空から人が」
「あれはダナエさんとこのやんちゃ坊主ではないか」
「もしやあの方は・・・」
 地面に近付くにつれて、わらわらと人が集まってくる。おおよそ百人ほどだろうか。老いも若きも様々だが、共通しているのは全員が粗末なぼろを着ているということだ。
「坊主、無事だったのか!」
 着地したクシナダの腕から飛び降りた悪ガキに、大柄な髭面の男が声をかけた。
「ヘルメスのおっちゃん!」
 悪ガキがヘルメスと呼ばれた男に飛びつく。
「坊主、この方たちは? それに、こちらの方は、まさか」
「そう、アンドロメダ姉ちゃんだ!」
 アンドロメダの名を聞いた周囲の人々が、おお、ともああ、ともつかない喜びと安堵の声を発した。
「よくぞご無事で」
「生きていらっしゃったのだな」
 恭しく、人々は彼女に首を垂れる。
「あ、あなた達は」
 弱々しく尋ねるアンドロメダに「覚えておられませんか」とヘルメスは言う。
「昔、あなたのお父上に世話になったものです。そうそう、幼いころのあなたを肩車して差し上げたこともあるのですが」
「え・・・、まさか、守備隊長のヘルメス?」
 そうです、とヘルメスがにこやかに頷いた。彼女の記憶にある、精悍で、城一番の怪力を誇ったヘルメスと目の前のやつれた男とが全く結びつかなかった。
「あなたほどの人が、何故こんなところに」
「あなたと同じです。あの王によって地位をはく奪され、あまつさえ殺されそうになりました。その前に、家族ともども逃げ出したのです」
 私だけではございません。とヘルメスは手を広げる。
「コックのアルゴや、乳母のダナもいます」
 ヘルメスの横で、禿頭の男とふっくらした目の細い女性が頭を下げた。他にも、身なりは違えどアンドロメダの家族と親しかった人々がいた。
「みんな、無事だったのね。良かった」
 アンドロメダは、彼らが死んだものと思っていた。彼女らの家族に近しかったものたちは、全員おかしな術をかけられて狂っている、などという理不尽極まりない烙印を押され、処刑されていったからだ。
「ええ。こうしてしぶとく生き残っておりました。アンドロメダ様こそ、ご無事で何よりです。しかし・・・」
 ヘルメスは一旦言葉を区切った。
「一体どうされたのですか。そんなに憔悴なさって。メデューサ様は一緒ではないのですか?」
「そう、そうだよ。俺もそれが気になってたんだよ」
 人々の視線がアンドロメダに向く。それは、と言ったきり、アンドロメダも口ごもり、俯く。まだ気持ちの整理が出来ていないようだ。
「私が説明します」
 クシナダが彼らの前に立った。
「あなたは?」
「私は、クシナダと申します。本当はもう一人いるのですが、訳合って別行動を取っています。ここに来たのは、この地に封印された魔龍を倒すためだったのですが」
 クシナダは、これまで起こったことを彼らに話す。王が封印を破ったことから、メデューサが魔龍となった経緯まで。
「嘘だろ。メデューサが魔龍だったなんて、そんなの嘘だよな・・・」
 愕然とした悪ガキが、アンドロメダに縋り付く。ゆすっても、彼女から答えは返ってこない。彼女もまた、唇を噛み締めるだけだ。
「何でだよ、昨日まで一緒に飯食ってたじゃん。あの時からすでに、魔龍だったってのかよ」
「いえ、メデューサちゃんではあったのです。ただおそらく、そのころからすでに魔龍復活を考えていたと思います」
「どうしてだよ! だって、メデューサは、俺たちをここに逃がしたんだぜ! 魔龍になって街滅ぼすのが目的なら、なんでそんなことすんだよ!」
「理由は分かりません。けれど、分かっていることは、彼女が魔龍となり、街を破壊しに向かったということだけです」
 信じらんねえ、信じらんねえと悪ガキは何度もうわごとのように呟く。対して、彼以上にメデューサに思い入れのありそうなヘルメスたちは黙ったままだ。
「アンドロメダ様」
 やがて、ヘルメスが口を開いた。呼ばれたアンドロメダが顔を上げる。
「あなたはどうなされるおつもりですか?」
「どう、とは」
「メデューサ様、いえ、魔龍をどうするか、です」
 それは、とアンドロメダは口ごもった。
「儂は、もう放っておいて、ここから逃げても良いと思うのですが」
 予想だにしないことを言われたらしく、アンドロメダが目を丸くしてヘルメスの顔をまじまじと見つめる。
「クシナダさんの話を聞いていて、メデューサ様がああなってしまったのも致し方のないことだと思っています。アクリシオスは酷過ぎた。誰も彼女を責められません」
「しかし、街の人々は、あなた達の家だって・・・」
「私たちのことも、街の人間のことも、この際置いておきましょう。今はあなたのことです」
 アンドロメダの目の前に手のひらを出して、遮る。逆に考えれば、とヘルメスは続けた。
「魔龍となったメデューサ様は、ある意味で最も安全だといえましょう。ならばあとは、あなただけなのです。魔龍は復活してしまったのだから、あなたにはもう、守るべき使命はありません。縛るものは何もないのです。自由なのです」
「自由・・・」
「そうです。何をしても良い。今まで苦しかったことを全て捨てて、新しい人生を歩いても良い。許されるはずです。あなたなら」
 全てを捨てて、新しい人生を生きる。アンドロメダが口の中でその言葉を反芻する。ひどく魅力的な話に聞こえた。新しい選択肢、新しい道、新しい生き方。隣にいるクシナダたちのように、かつてのアテナのように、この世界を巡る旅。
「楽しそうね、それも」
「・・・では」
「けど、うん。やはり駄目ね」
 自分の隣にある空白を見つめる。
「さっきまでずっと考えていたの。これからどうしようかって。でも、いまヘルメスが言われて、自由に生きるということを考えてみた。そしたら、やっぱり足りないの」
 見つめていた空間に手を伸ばす。
「ここにいた、あの子のことを、どうしても考えてしまう。今までずっと一緒だったから。そばにいないと落ち着かないのよ」
 ふ、と過去を思い出して、微笑む。
「それに、あの子がこのまま街を破壊して、ヘルメスや、皆に憎まれている、恐れられているというのは、どうも我慢できない。あの子に魔龍なんて似合わないわ」
 すっと、立ち上がる。迷いは消えた。
「あの子を助けに行く。憎しみに囚われているのなら、そこから解放する」
 クシナダ、と声をかけた。
「良いのですね。最悪・・・」
「分かってる」
 魔龍から解放するということは、メデューサを殺すことになるかもしれないということだ。さきほどはメデューサのことに加えて、アンドロメダのことを慮って射なかった。
「私は、覚悟を決めた。あなたも遠慮しなくていい。ううん、あなたの力が必要なの。ついてきてくれる?」
「あなたが覚悟を決めたというなら、私がどうこう言うのは筋違いというものでしょう。それに、タケルも言っていたと思いますが、私たちの目的は、魔龍を倒す事なんです」
 言われなくても、行きますよ。そう力強く応えるクシナダが頼もしい。有難う、と返して、今度はヘルメスたちに向き直った。
「私たちは、これから魔龍と最終決戦に向かうわ。どこまで被害が広がるかわからない。あなた達はここから早く逃げなさい」
 そう言い残して、アンドロメダは踵を返した。その背にヘルメスが声をかけた。
「お待ちください」
「・・・ヘルメス?」
「どうして、あなた達だけを行かせることが出来ましょうか。儂らも行きます」
 アンドロメダは目と耳を疑った。
「ちょ、馬鹿なこと言わないで! 遊びに行くんじゃないのよ!?」
「重々承知。そして、そんな危険なところへ行こうとするアンドロメダ様を放っておけるわけないでしょう。儂も共に戦います」
「私も!」「俺もだ!」と次々と声が上がる。どうして、と絶句するアンドロメダに対して、ヘルメスは言う。
「アンドロメダ様。儂らが生き残れたのは、あなたのお父上のおかげなのです。あの方は自分の命に危機が迫っているというのに、儂らに逃げるように便宜を図ってくれたのです。儂らはあの方と共に居たかった。一緒に最後まで戦いたかった。けれど、叱られました。命を捨てるのはここではない、と。あの時は何故、と思いました。役に立てなかったことが悔しかった。口惜しかった。守備隊長などと偉そうな肩書を持ちながら、守るべき方々を守れなかったのですから。それでも生きて、生き延びてきたのは、今日この日の為だったのです。今度こそ、儂はあなたを、あなた達を守ります」
「気持ちは、ありがたい。本当に嬉しいわ。けれど、何も用意も無しに魔龍に挑むなんて、ただの無謀だわ。死ぬだけよ」
「アンドロメダ様。侮ってもらっちゃ困ります」
 ヘルメスの合図とともに、その場に居た男衆が森の中に入り、すぐさま大荷物を抱えて戻ってきた。どさどさとその場に置いていく。
「ずっと準備だけはしておいたのです。いつか、あなた達が立ち上がり、王を打倒するときに共に戦うために」
「ヘルメスのおっちゃんがリーダーで、色々やってたんだぜ。その一つが、いずれ自分たちの主となる、姉ちゃんたちの住処を今まで守ることだったんだよ」
「余計なことは言わんでいい」
 わがことのように自慢する悪ガキの口を塞ぐ。
「儂らの仲間には、奥方様から魔女の治療薬の作り方を教えてもらった者がおりましてな。他にも、役に立つ道具をお父上の指示で持ち出し、隠しておいたのを用意しておきました。必ず役に立ちます」
 まるで、この時のために取っておいたような道具がずらりと揃っていた。この治療薬なら傷にも、瘴気にも効果がある。また、揃えられたどの道具にも魔術が込められていて、魔龍にも効果がありそうだ。
「今こそ、大恩に報いる時。儂らは全員死ぬ覚悟で戦います」
 彼らの顔を、アンドロメダは見渡した。彼らの意志を曲げることは無理だ、そう諦めざるを得なかった。そして同時に、嬉しかった。私たちのことを、こんなに思ってくれている人たちがいる。是が非でも、メデューサのもとへ行かなくてはならなくなった。
 あなたの出した答えは間違いだった。こんなにも、私たちのことを考えてくれていた人たちがいる。父や母の思いを受け継いでくれていた人たちがいる。そのことを伝えなくてはならない。
 少し潤んだ目元をぬぐい、決然とした表情で、アンドロメダは彼らの前に立つ。
「みんなの気持ち、受け取ったわ。けれど、死んでは駄目よ。必ず生き残りなさい。そしてもう一度ここに戻ってきて、皆でご飯を食べましょう」
「それは、アンドロメダ様が直々に腕を振るわれるということですか?」
「そうよ」
「・・・大丈夫ですか?」
 初めて、ヘルメスの顔が曇った。他の面々も、なぜか不安そうな顔をする。元コックのアルゴが彼らの不安を代弁するかのように口を開いた。
「以前、奥方様が私らを労いたいから、と料理を作ってくれたことがありまして。それが、元気になる魔女の秘薬などを大量に入れたらしく、その、何とも形容しがたいというか、ものすごいものが出来上がったのです。で、我らに振る舞っていただいたのですが」
 それ以上口をきけなかった。だが、言いたいことは痛いほど伝わった。士気がみるみる下がっていく。
「だ、大丈夫にきまってるでしょ! これまで私がご飯作ってたのよ!?」
「でも、姉ちゃん。クシナダ姉ちゃんたちにえらいもん飲ませてたよな」
「ああ、あれはまずかったですねえ」
 必死で言い繕うアンドロメダに、悪ガキとクシナダが追い打ちをかけた。そこかしこから「やっぱり」「奥様も他は全て完璧だったのに」「遺伝してしまったのか」と残念そうな声が上がった。
「食べてから言いなさい! 絶対、おいしいって言わせてやるから!」
「がっはっは、ならば、是が非でも生きて戻らねば、ですな」
 ヘルメスが、みんながそう言って笑う。戦いの前だというのに、死ぬかもしれないのに、生き生きとした表情で。怒っていたアンドロメダも、やがて笑顔になった。
 少しの間全員で笑った後。さあて、とアンドロメダが声を発した。気持ちが切り替わり、全員の顔が真剣味を帯びた。
「私たちの街を、メデューサを、魔龍から解放する。お願い、みんな。力を貸して」
 森の木々を震わせるほどの大音声が、彼女に応えた。

初めての姉妹喧嘩

【愚かですね】
 森を抜け、街を見下ろせる場所まで近づいたアンドロメダ一行全員の頭の中に声が響いた。ヘルメスが手で合図を送り、行軍を止めて警戒するよう指示を出す。
「メデューサ?」
 耳を押さえながら、アンドロメダは周囲に目をやる。
【探してもそこには居ないのでご安心ください。そもそも、今の私はあなた方が潜んでいた森ですら姿を隠すことが出来ないほどなのですから】
「そうよね。大きくなれ、大きくなれと願いながら育てたけど、あんなに大きくなるとは思わなかったわ」
【冗談を言いに戻って来たのではないでしょう? もう魔龍は復活したのです。とっとと逃げればいいものを】
「そういう訳にはいかないわ。大事な妹を置き去りにして、私だけが逃げることなんてできない」
【その考えが愚かだと言ったのですよ。私こそが魔龍。いわば、倒されるべき存在なのです。倒せるものがいれば、の話ですがね】
「倒すわ」
 アンドロメダはきっぱりと断言した。
「ここにいるみんなで、魔龍を倒す。皆と街を守って、そして、あなたをそこから引きはがして拳骨付きの説教をくらわせるわ。覚悟していなさい」
【・・・ふう。これ以上、何を言っても無駄の様ですね。どうしてそこまでこんな街とそこに住む連中に肩入れするのか、理解に苦しみます。誰も彼も、私たちを裏切ったというのに】
「そんなことないわ。見て。ここにいるみんな、私たちのことを覚えていてくれた。誰もアテナや、私たち一族のやってきたことを忘れてなんかなかった。あなたのために声を上げてくれる人が、行動を起こしてくれる人がここにいるの」
 これで心が揺らいでくれれば、とアンドロメダは祈った。契約を結ぶというのは成立してしまえば相手が魔龍であろうが絶対に厳守されるもの。しかしその代り、互いの契約内容に齟齬が現れた場合解除できる。この場合の契約内容は、メデューサ、ひいては彼女の一族がやってきたことを認めてくれる人が一人もいなければ、魔龍は彼女の体を奪うことはできない。つまり、契約として融合している状態の彼女と魔龍を分離することが出来るかもしれないということだ。
 ただし、この契約内容はあやふやではある。口先だけならば何とでもいえるというところを、魔龍はついてくる可能性があった。そこにいる全員が、極端な話アンドロメダに『脅されて』言わされているかもしれないからだ。
【本当でしょうか。彼らが本心から、そう思っていたなど、疑わしいですね】
 やはりというか、その部分をメデューサは突いてきた。そしてそれは、メデューサが契約を破棄したくないという意志の証明でもあった。どこか、まだ魔龍に操られているだけであってくれというアンドロメダの儚い願いは、ここに潰えた。
【まあ、それもはっきりさせましょう。姉さん】
「どうやって? 心を覗いて確認するとでもいうの?」
【そんなことをしなくても、人は自分の命がかかっていれば、簡単に本音を吐くものですよ。そして、助かる為ならどんなことでもするものです】
 メデューサの話が終わるか終らないかのところで、アンドロメダたちに近付いてくる足音があった。それも一つや二つではない。軍勢だ。
 近づいてきたのは、魔龍に恐れをなして逃げ帰ったはずの兵士たちだった。先頭には、アクリシオスがいる。あの勇ましい姿はどこへやら、ずいぶんとやつれている。武器を構え、アンドロメダたちを取り囲む。アンドロメダを守るように、ヘルメス、クシナダが前に、左右を他の男衆が固めた。
「アンドロメダ! 前に出ろ!」
 アクリシオスが叫ぶ。
「私に何の用?」
「アンドロメダ様! 危険です!」
 前に出ようとする彼女をヘルメスが後ろ手に押し留める。
「勘違いするな。私たちは戦いに来たのではない。迎えに来たのだ」
「迎え? どういうつもり? 私は、わざわざあなたに迎えに来てもらえるような身分ではないけど」
「私ではなく、魔龍様が貴様を所望しているのだ」
 魔龍様、ですって? アンドロメダは形のいい眉をひそめた。
【簡単なことですよ。姉さん】
 再び、頭の中にメデューサの声が響いた。
【彼らに言ったのです。死にたくないなら、アンドロメダを生贄として差し出せ。そうすれば街は襲わないでおいてやる、と】
「メデューサ、あなた・・・っ」
【彼らは喜んで姉さんを捉え、差し出すでしょう。そして、あなたの周りにいる連中も】
「そう、上手くはいきませんぜ」
 同じくメデューサの声を聞いていたヘルメスが言い返す。
「儂らはもう、アンドロメダ様と共に戦い、死ぬ覚悟です」
【口だけならば、なんとでも言えるわ】
「ならば、行動で示してみせましょう。そして、アンドロメダ様と共に、あなたも救い出して見せますぞ」
【期待しないで、待ってるわ】
「アンドロメダ! 早く出て来い! こいつらを殺すぞ!」
 兵士たちが剣を、槍を、弓を構えて、突撃の体勢を取っている。彼らには、メデューサの声は聞こえなかったらしい。どうやら、メデューサは任意の相手に声を届けることが出来るようだ。
「貴様が大人しくついてくるのなら、こいつらの命は助けてやる。どうだ、悪い話じゃないだろう?」
 いかに優れた道具があるとはいえ、こちらが百に満たないのに対し、あちらは千を超える。戦いになれば敗北は必至だった。
「いけません、アンドロメダ様! こやつらの口車などに乗せられては」
 怒鳴ったのはヘルメスだ。
「だけど、ヘルメス。このままじゃ」
「ヘルメス? ヘルメスだと? あの臆病者のか?」
 アクリシオスが笑う。
「命惜しさに守るべき主を見殺しにした守備隊長ではないか。まさかこんなところで会うとはな。恥知らずにも、まだ生きていたのか。薄汚い、主人殺しの溝鼠めが」
「ご覧の通り、みじめったらしく生きておるよ。お前と同じだアクリシオス」
 にやりと挑発するようにヘルメスが言い返す。
「何だと! 私のどこが貴様と同じだというのだ!」
「同じも同じ、同類よ。命惜しさに魔龍に従うお前とな。何が魔龍様だ。つい先ほどまでその存在すら信じてなかったのに、現れたと見るや尻尾を振ってお使いか。儂が薄汚い溝鼠なら、お前はびくびくと怯えながらご主人様の顔色を窺う、犬っころよ」
「貴様、言わせておけば!」
 アクリシオスが抜刀する。合図が近いと兵たちが武器を握る手に力を込め、アンドロメダを渡すものかと彼女を囲むヘルメスたちが衝突に備えて身構える。
「待ちなさい!」
 両軍の衝突を、アンドロメダが文字通り体と大声を割り込ませて止めた。
「その申し出、受けるわ。私を魔龍のもとまで案内しなさい」
「アンドロメダ様!」
 引き留めようとするヘルメスの手を軽く押さえて「大丈夫」と言った。
「クシナダ、後のことはお願い」
「わかったわ。気を付けて」
 頷きを返して、アンドロメダはアクリシオスの前まで歩く。
「約束通り来たわ。そちらも約束を守ってもらう」
「偉そうに。自分たちが置かれている状況を分かっていないのか?」
「そっちこそ、周りが良く見えていないようね。あそこにいるクシナダが見えないの? この距離なら、あなたの眉間に穴をあけることだって可能なの。その覚悟があるならどうぞお好きに」
 応えるように、クシナダは少し大仰に弓を構えた。ぴたりと狙いをアクリシオスに定める。死の恐怖を感じてアクリシオスが怯む。
「あなたの部下にも言っておきなさい。先ほど彼女に挑んだ者の末路をお忘れか、と」
「くっ」
 悔しそうに歯噛みしながらも、アクリシオスは引き下がった。
「ついてこい」
 アクリシオスと十数名の兵士に囲まれる形で、アンドロメダは連れて行かれた。
街は静まり返っていた。喧騒は過去のものとなり、いまは痛いほどの静寂が街に横たわる。
向かった先は港だ。港には、他の兵や民たちが集まっていた。
「わざわざ出迎えてくれるとは、ありがたい話ね」
「喧しい、黙って歩け」
 せっつかれるように、桟橋の先まで連れて行かれた。
「魔龍様! お約束通り、アンドロメダを連れてまいりました!」
 アクリシオスが叫ぶと、水面に波紋が現れた。波紋は次第に大きくなり、遂には水面を突き破って、巨大な魔龍の頭が現れる。
【ご苦労様。下がって良いわ】
「は、ははっ」
 アクリシオスが頭を垂れ、そそくさと下がっていく。まるで暴君に怯える家臣だ。思わずアンドロメダは笑ってしまった。今までは、奴こそが家臣に傅かれる立場だったのに。
「ずいぶんと従順になったものね。あなたの躾が良かったからかしら」
【ええ。そうですね。始めからあれくらい殊勝な態度であるなら、誰も不幸にはならなかったでしょうけど】
 魔龍もつられたように笑う。
「で? 生贄にするつもりらしいけど、どうするつもり?」
【もちろん、決まっています。古より、生贄の運命など】
 すわわ、と再び水面が荒れ、巨大な腕が現れた。腕はアンドロメダに向かって伸び、器用に彼女をつまみ上げた。
【怪物に喰われる結末です】
 巨大な口を、これでもかと大きく開けた。その真上に、アンドロメダを吊し上げる。
「腹を下しても知らないからね」
 奈落のように真っ黒な、魔龍の口の中を見下ろして、アンドロメダは言った。
【減らず口も、それまでです】
 ぱ、とアンドロメダを吊るしていた手が離される。当然の如く、重力に引かれてアンドロメダは落ちる。
 バクンッ

 落下する彼女の体に対して、不釣り合いなほど大きな魔龍のアギトが閉じた。
 魔龍は、しばし上を向いた状態から動かなかった。まるで食事の余韻を堪能しているかのようだった。
「ま、魔龍様」
 おっかなびっくり、アクリシオスが進み出た。今しがた、簡単に人を飲み込んだ魔龍に、簡単に自分の命も奪われるのだ、と再認識したためだ。出来るだけ早く言質を取って、この場から逃げ去りたい。アクリシオスの心中はそればかりが占めていた。自分たちの街を守る為に生贄となった少女のことなど、欠片も頭になかった。
いい気分のところを邪魔された魔龍は、ゆっくりと、その恐ろしい顔をアクリシオスへ向ける。
「約束は守りました。これで、私の命は見逃していただけますね?」
 それを聞いた魔龍は、思案するように首を捻った。
【そうですね。じゃあ、こうしましょう。あなたがこれまで、同じようにあなたに向かって命乞いをした人を助けたことが一度でもあるなら、私はあなたの命も、街も、奪わないと誓いましょう】
「そっ・・・れ、は・・・」
 アクリシオスが詰まった。魔龍は笑う。
【そうですね。あるはずがないのです。私たちやヘルメスのように逃げ出した者以外は、全員殺されていますからね。あなたに】
「ち、違」
【何が違うというのでしょう?】
「あれは、あいつらが、あいつらが悪かったのです。王たるこの俺に刃向うから。意見するから。俺は王として、正しい判断を下したのです」
【なるほど、そうでしたか】
「そう、そうなのです」
 魔龍が自分の意見を肯定したため、アクリシオスは安堵した。
【ならば、私も魔龍として、魔龍らしい正しい行動を示しましょうか】
「・・・は?」
 アクリシオスが凍りつく。
 魔龍は徐々に陸へと近づき、巨大な手をついた。大地に悲鳴を上げさせながら、その巨体を陸へ押し上げる。ずずん、と腹の底に響く重低音。たったそれだけの動作で、触れた船や桟橋は破損し、その場で局地的な地震が起こったように揺れる。
「そんな、魔龍様! 魔りゅ・・・」
 アクリシオスの悲鳴が唐突に消えた。魔龍が崩した岸壁と一緒に海へと投げ出されたのだ。
【あははははは! 魔龍の言う事を本気で信じてどうするというのですかアクリシオス!】
 高らかに笑い声を上げながら、魔龍は街を蹂躙していく。

「街が・・・王が・・・」
 クシナダたちを取り囲んでいた兵士たちが、崩壊していく街の様子を見て一人、また一人と、足から力が抜け、蹲っていく。
「クシナダさん」
「ええ、良くは無いけど、予定通りですね」
 ヘルメスとクシナダの会話が、くずおれた兵士たちの顔を上げさせた。
「予定、通り・・・」
 一番手前にいた兵士が、彼女らに向かって問う。
「そうよ。私たちの誰も、諦めてはいないわ」
 クシナダは、アンドロメダと別れ際に話し合った策を彼らに伝える。

●------------------------------

「多分、私はあの子に喰われるわ」
 クシナダに向かって、アンドロメダは言った。
「魔龍はまだ復活したばかり。いくらあの子の魔力が高くても、完全に力を取り戻しているわけじゃないわ。私を生贄として要求してきたのは、その不足分を私で補う為よ」
「ならなおのこと、行かせるわけには・・・」
 いいえ、とアンドロメダは首を振った。
「そこが好機になる。私は魔龍の体内へもぐり、心臓を目指す。そこにあの子がいるはず」
「メデューサちゃんが?」
 クシナダの中で理解の不一致が起こる。魔龍こそがメデューサ、という訳ではなかったのか?
「今現在の時点では違うわ。今あそこには、魔龍の肉体と、それを動かしているメデューサという心臓がいる状態なの。船と船頭みたいなものね。もちろんこのまま放っておけば一体化するでしょうけど」
「では、完全に一体となる前に、彼女を魔龍から引き離すことが出来れば」
「もしかしたら、倒せるかもしれない」
 倒せなくても、弱体化させることはできるかもしれない、アンドロメダはそう答えた。
「しかし、危険ですよ。丸呑みにされるとも限りませんし、よしんば入れたとしても、あの魔龍の中なのですよ?」
 洞窟内で魔龍の残した瘴気を浴びて、ふらふらになっていたのを思い出す。
「そこは、念入りに薬を塗っておくしかないわ。人事は尽くした。後は、魔女アテナの加護があることを祈るのみよ」

「そして今、魔龍の腹の中でアンドロメダさんは心臓に向かっている。私たちの役目は、魔龍を食い止めることよ」
 兵士たちに聞こえるように、クシナダは声を張った。
「さあ、あなた達はどうする? 共に挑む? 逃げても良い。それも賢い選択よ。勝てるとも限らないのだから。一番まずいのは打ちひしがれてここで呆然としていること。巻き込まれても知らないからね」
 それだけ言って、クシナダは進む。ヘルメスや他のみんなも後に続いた。後には、兵士たちが残った。従うべき王を失い、そして今、住処を失おうとしていた。

●------------------------------

「では、皆。手はず通りに」
 街に入って、ヘルメスが指示を出す。各々が配置につくために散っていく。
「では、私も行きます」
 クシナダが風に乗る。空を飛べる彼女の役目は斥候であり、囮であり、攻撃の要であり、アンドロメダの救出と、四役を果たすことになる。
「クシナダさん。アンドロメダ様をお願い致します」
「そちらも、どうかお気を付けて」
 上昇気流を巻き起こし、空へと舞い上がる。それを見届けて、ヘルメスも自分の持ち場へ向かった。
「さて、と・・・・?」
 真上から戦場を俯瞰した彼女は、何かを見つけた。最初なんだかわからなかった。そこに在るとは思わなかったからだ。しかし、目をこすり、二度見する。
 正体が判明した。
「間違いないっ・・・!」



「意外に明るいのね」
 魔龍の体内で、ひとり呟く。真っ暗闇だと思い込んでいたので、いくつか火種とそれに類する魔術媒体を持ち込んでいた。
 予想に反して、魔龍の体内は明るい、とまではいかないが、辺りを見渡せる程度の光量があった。
【魔龍の体内に入って言う事がそれですか?】
 どこか呆れたような声が響いた。
【豪胆というかなんというか。もっと他にも言うことがあるでしょう?】
「あら、視界が利くってのは大事よ」
【まあ、そうでしょうね。明かり代わりの火が、全て攻撃に使えるわけですものね】
「・・・見抜いていたの?」
【戦いに来ていることを、ですか? さすがにわかりますよ。姉さんが食べられたのに、クシナダさんはおろか、ヘルメスすら動揺せずにこっちに向かっているのですから。それに、自分の身を犠牲にして街の人々を救う、なんて殊勝な女じゃないでしょう? 私の知る姉さんならば】
「あなたが一体どういう目で私を見ていたのか、一度問いただす必要がありそうね」
 懐から、銀の鎖の先に水晶のついた『ペンデュラム』を取り出す。魔力を通すと、ペンデュラムはゆらゆらと揺れ始め、やがてある一点を指し示したまま動かなくなった。失せ物探しの術だ。指し示す方向に、彼女が探しているもの、メデューサがいる。
 導きのまま、食道というにはあまりに大きすぎる中をただ前へ進む。進めなくなれば、短刀を壁に突き立て、強引に道を作る。そのたびに粘液や血液を浴び、彼女の体はドロドロになっていった。悪臭とまとわりつく不快感に顔をしかめながら、服の裾を絞る。薬の効果がなくなれば一瞬で死に至るであろう、そんな中、彼女の口からついて出たのは
「気持ち悪いぃ。帰ったらまず風呂ね、風呂」
 気を取り直して、ざくり、とまた壁側に切れ目を入れる。
【流石ですね。最短距離を選んできている。姉さん、昔からものを探すの得意でしたものね】
「あなたがすぐに物を無くし過ぎなのよ。そのくせ無くしたらひどく泣くから、私が探してあげてたの」
 懐かしい思い出話に花を咲かせながら、姉妹の距離は近づく。今度は再会を喜び、抱き合う為ではない。
 最後の壁を潜り抜けた先は、少し広めの空間だった。足元が、ゆっくりとだが上下している。ここが心臓部だろう。
「ようこそ。魔龍の中心部へ」
 中央に、真っ赤なドレスを着たメデューサがいた。
「待たせたわね」
 右手に短刀を、左手の五指に魔術媒体を挟んで構える。
「メデューサ。これが最後よ。魔龍との契約を解きなさい」
「嫌だ、と言ったら?」
「あなたを、殺す」
 短刀の切っ先を、最愛の妹へ向ける。
「あはっはっはははっ! 殺す? 姉さん、せめて足の震えを止めてからお言いくださいなっ!」
「そっちこそ、余裕を見せていられるのも今の内よ。・・・で、どうなの? いつもみたいに素直に言う事を聞いてくれると、姉さん嬉しいんだけど」
「そう、ですね」
 おとがいに指を当てて、可愛らしく悩む。
「ごめんなさい。姉さんの言う事を聞くことはできません」
「・・・ふう、初めてね。あなたがそんなこと言うのは。これが反抗期という奴かしら。できれば、これからもこうやって、言い合いしたり、時に喧嘩したりしたかったのだけど」
「出来ますよ。姉さんが私と魔龍と、一つになってくれさえすれば。この中で永遠に」
「お断りよ。あなたはともかく、魔龍と一つになるなんて。吐き気がするわ」
「見解の相違ですね。これほど万能感に満ちて最高の気分になれるのに」
 言葉が途切れる。
 先に動いたのはアンドロメダだ。媒体を一つ、メデューサに向かって投げつける。対してメデューサは手を中空にかざす。そこにうっすらと半透明の膜が現れた。
「『渦炎』」
 アンドロメダの言葉に合わせて、媒体が炸裂、激しい炎が顕現する。それは天井部まで達し、壁面を焦がす。熱さに驚いたか痛みを感じたか、魔龍が身を少しよじる。しかし、膜に覆われたメデューサは、無傷。完全に炎を遮っていた。
 アンドロメダも、この一撃で上手くいくとは思っていなかった。媒体を薙げた次の瞬間にはその場から移動し、側面へ回り込んでいる。その場に媒体を一つ落とす。もう一つをメデューサの真上に投げる。最初の炎は目くらまし、本命の一矢はまだ放たない。
「『業雷』」
 その言葉に反応したのは、真上に投げた媒体だ。激しい閃光を放ち、下へと雷が走る。轟音を響かせて直撃した。だが
「・・・・・いない!?」
 そこにいたはずのメデューサが姿を消していた。
「後ろです。姉さん」
 声にたいして振り返らず、横っ飛びに逃げる。アンドロメダの髪の先が、鋭利な刃物で切り取られたかのように落ちた。それだけにとどまらず、見えない刃は壁を大きく削り取った。
「『刃風』、呪文も媒体も無しでこれなのっ?!」
「当然です。今の私ならば造作もない」
 メデューサが二度、三度と腕を振るう。そのたびに躱しきれないアンドロメダの腕や足に裂傷が生れ、壁に切り傷が刻まれていく。
「自分まで傷つけて大丈夫なのっ?!」
 息を切らせながら逃げ回るアンドロメダが叫ぶ。
「ご心配なく。この程度で死ぬようなやわな体はしてません。最初の傷なんか、すでに治ってますよ?」
「病弱だったくせに、元気になったものね!」
「もう風邪で寝込むこともありません。そっちは、そうもいかないようですが」
 いつの間にか、アンドロメダは壁際に追い込まれていた。メデューサは適当に魔術を使っていたわけではない。一手一手計算し、この状況を創り上げた。
「もう逃げられませんよ」
 勝利を確信したメデューサが、一歩、また一歩と近づく。姉妹の距離が狭まる。
「くっ・・・」
 左右に視線をやるも、逃げ場がない。
「姉さん。私からも最後の宣告です。私と魔龍と、一つになりましょう。そうすれば、もう苦しむことはなくなる」
「言ったはずよ。あなたとならともかく、魔龍とは絶対嫌だって」
「そうですか。残念です」
 メデューサが目を細める。
「さようなら。姉さん」
 腕を振り上げ
「?!」
 突如、足元からツタが伸び、メデューサの体を巻き取った。絡めたまま成長を続け、ツタは撚りあい、やがて一本の大木となった。メデューサはまるではりつけにされたように、絡まって囚われている。
「これは『樹縛』? いつの間に」
「『業雷』の前よ。先に仕掛けておいたの」
「そう、か・・・。参りました。まさか姉さんに読み負けるとは」
「あんまり姉を馬鹿にしないことね。そりゃ、確かにあなたのほうが賢いけどさ」
 頭を使う遊びは敵わなかったしね、とアンドロメダは笑った。
「メデューサ。契約を解く気は」
「くどいわ。姉さん」
 いくばくか、怒気を孕んだ声でメデューサは姉の声を遮った。
「私と魔龍の契約を解きたければ、私を殺すしかないの。そして、今これが、姉さんにとって私と魔龍を殺す最後の機会よ」
 メデューサを封じているツタが、徐々に枯れ始めている。もう少しすれば、自由を取り戻してしまうだろう。そうなれば打つ手はなくなる。
 アンドロメダは覚悟を決めて、懐から媒体を取り出した。
「安心して、あなた一人で死なせない。私も共に死ぬわ」
「まさか、それは、その魔術は!」
 メデューサが初めて動揺した。先ほどまでアンドロメダが使っていたものより二回りも大きく、それ自体も強い魔力を有している。
「そう。アテナが残した禁術の一つ。術者の力量に応じて範囲内が広がり、その中にある全てを消滅させる魔術」
「『終淵』・・・」
「あなたほど強い魔力を持ってはいないけど、この特別性の媒体があれば、私とあなたと、魔龍の一部くらいなら巻き込めるわ」
「待って! 止めて!」
 ツタの隙間から懸命に腕を伸ばす。
「嫌よ。さっき私の言う事を聞かなかったお返し。私もあなたの言う事を聞いてあげない」
 アンドロメダが媒体に魔力を込める。反応して、媒体が『開花』する。花弁の一枚一枚にアンドロメダの血によって呪言がびっしりと書き込まれている。黒ずんだその文字が、再び血の色を取り戻していく。
「姉妹喧嘩の続きは、あの世でしましょうか」
「姉さん!」
「はい、そこでストップ」
 第三者の声が姉妹の間に割り込んだ。途中まで進んでいた術は止まり、媒体も初期状態へと戻る。
「悪いが、姉妹揃って消滅、魔龍も消滅、そんなくそ面白くもない展開、僕は望んでないんだよね。あんたらにも言ったはず。僕は魔龍と戦いに来たんだ。なのに、僕の知らないところで決着がついてしまうのは困る。非常に困るんだ」
「あなた、あそこからどうやって」
 メデューサが今度は驚きの声を上げた。彼女が仕掛けた封印は完璧だったはずだ。たとえ魔龍の力であろうとも、あの封印を施した壁は破れないと踏んでいた。
「本気で閉じ込めるつもりなら、今度から天井を海にすべきではないね。確かに普通の人間なら水圧とか呼吸とか、そういう問題でくたばるから逃げられないんだろうけど。あいにく化け物の一種になってしまった僕は、その程度では死ねないんだ」
 勉強になったかい? と須佐野尊は肩を竦めておどけてみせた。
「遅れてしまって申し訳ない。こっからは、僕も参戦する」

真の英雄

 ―時間は少し遡る―

「前の時もそうだけど、こういう大事な局面では遅刻しないでほしいわ」
 苦笑しながら、クシナダが僕を海から引っ張り上げる。
「すまない。一応急いだつもりではあるんだ」
 吊り上げられ、ボタボタと海水を滴らせながら、魔龍の横を飛ぶ。
「さて、色々と聞きたいことがあるんだが、その前にこいつを止める必要があるな」
 地響きを立てながら街へ進行していく魔龍。大暴れ、というほど暴れているわけではないが、やはりその巨体は、通るだけで災害を引き起こす。蛇神もでかかったが、こいつもでかい。体積で考えれば僕史上最大級だ。
「その辺については、用意できてるわ」
 焦る様子もなくクシナダが言う。その確証は、すぐに取れた。
 魔龍の体が街の中に入ったところで、左右から光の帯が何十本も飛び交った。それ自身が意志を持つかのように魔龍の手足、胴、頭に巻きつき、そのまま先端が地面に突き刺さる。
「引けえっ!」
 野太い声が帯の根元辺りから轟いた。その声に合わせて、帯が一気に引き絞られ、魔龍を縛り上げる。叫ぼうにも、口元まで帯が巻きついて塞いでいる。
「すげえな。あれ」
 魔龍が身をよじろうともがくが、帯は弛んだり、千切れたりすることなく相手を縛りあげている。
「魔法の綱だそうよ。で、引っ張ってるみんなはアンドロメダさんの御両親にお世話になってた、スラムにいた方々」
「王に追いやられた連中か。でも、一体どこにいたんだ」
「森に隠れてたんですって。メデューサちゃんの指示で」
「彼女の?」
 ふむ。どういうことだろうか。彼女ほど賢い人間なら、こういう展開を予測できたはずだ。僕の想像していた彼女の目的と一致しない。
「どうしたの?」
 黙っているのを不思議がったか、クシナダが聞いてきた。
「クシナダ。頼みがある。僕がいなかった間に何があったか、教えてくれないか」
 ただ戦うだけなら簡単だ。けど、僕の勘が告げている。今自分が感じた違和感、メデューサの真意を読み取った方が面白くなる、と。
 だって、おかしいじゃないか。いくら魔法の道具だからって、数も多いからって、それだけであの巨体を封じ込められるものなのか? そして新たな疑問が生まれる。
魔龍は、本調子ではないのではないか?
 理由はまだわからないが、非常に困る。僕の目的は強敵と戦うことだ。僕を呪いごと殺せるほど強い相手と全力で戦うことだ。
 そして、クシナダからこれまでの経緯を聞き、僕の疑問は少しずつ新しい仮説に成り代わり始めた。
「クシナダ、もう一つ頼まれて欲しいんだけど」
「何?」
「僕を魔龍の頭の上に連れて行ってくれ。で、あの綱の指揮を執っている人間に、口元の縛りを緩めるように頼んでおいて」
 真相を聞き出すには、後は本人に直接確認するしかない。
「二人を助けに行く気?」
「そんな気はさらさらない」
「あなたねえ」
 呆れたようにクシナダが項垂れるが、ここで取り繕ったって仕方ない。正直彼女たちのことなどどうでも良い。大体、メデューサとはやはり戦わなければならないかもしれないし、アンドロメダはもう消化されて養分になっちゃってるかもしれない。確証の取れないことは言わない。この世に絶対は絶対にないと誰かが言っていたし。
「ただ、『彼女たち』がまだ生きていて、ついてくるというなら、先導くらいはしてもいい」
 僕がそう言うのを聞いて、ふうん、とクシナダは、僕の顔を覗き込んだ。
「なんだよ」
「別に?」
 どこか嬉しそうな顔している。それが、なんだかムカつく。なんとなく、子どもが悪ぶっているのを微笑ましく見ている、大人の顔と対応だからだ。それから魔龍の頭部に辿り着くまで色々と言ったのだが、クシナダははいはい、とあしらうばかりで、居心地が悪くなってきた。
舌打ち一つ置き去りにして、魔龍へ向けて飛び降りた。

 ―現在―

 僕の登場にしばし驚いて固まっていたアンドロメダだが、はっと我に返って、再び媒体に魔力を注ぎ始める。やれやれ、ストップと言ったのに。言葉で通じないなら、少々驚いてもらおうか。
僕は剣を片手で掲げ、力を込める。電流が刃に集まったのを見計らって、彼女の腕めがけて振るった。電流が剣先から放たれ、狙い過たずに腕を撃った。小さな悲鳴と共にアンドロメダは飛び退り、尻もちをつく。衝撃で手から離れた媒体がコロコロと転がってきたので、拾ってポケットにしまっておく。こんなものがあるから、僕の計画が破綻しそうになるのだ。没収しておこう。
「今のは・・・」
 痺れる腕を押さえて、アンドロメダが言った。うん、初めて人に使ったが、威力調整も想定の範囲内だな。
「なに、弱めの電流を飛ばして、ショックを与えただけさ。死にはしないし傷も残らない。ちょっとびっくりするくらいだ」
 伊達に数時間閉じ込められていたわけではない。メデューサにはああ言ったが、そこに至るまでの間、あらゆる方法を模索した。その副産物がこの飛び道具だ。威力は今のところ静電気程度だが、けん制には使える。もう少しチャージすれば、威力も上がるだろうか。要検証だ。
「どうして邪魔をするの!」
 尻もちをついたまま、アンドロメダが怒鳴った。
「言ったろ? 僕の知らないところで勝手に戦いを終わらせるなって」
「ここで終わらせないといけないの! 魔龍を、この子を、メデューサを殺さないといけないの!」
「それで自分も死ぬって?」
「それが・・・私がこの子に出来る唯一の事だから」
「けど、妹の方はそれを望んじゃいないっぽいけど?」
 なあ? と僕はメデューサに目をやる。彼女は黙っていた。
「命を奪おうとしたら、誰だって望まないでしょう」
 アンドロメダは苛立ちを隠そうともせず食って掛かった。そこが、大いなる勘違いだ。そんな彼女に対して、まあ待て、と両の手のひらを向けた。
「普通はそうだ。けど、世の中には例外というのがいくつか存在する」
 そのうちの一つが僕であり
「そうだろう? メデューサ」
 もう一つの例外に声をかけた。彼女は黙したまま、喋らない。けれど、少し驚いたような顔で、僕のことを見ている。
「タケル、どういうこと? 一体何が言いたいの?」
「彼女は自分が死ぬことを望まなかったんじゃない。あんたが死ぬことを望まなかったんだ」

「訳が分からない」
 僕の言っていることが理解できず、一瞬唖然としていたアンドロメダが首を振った。
「どうしてこの子が、今更私が死ぬことを望まないって言うの? 私は現に何度か殺されかけてたわよ? 魔龍が初めて顕現した時とか、この子が振るった腕に押しつぶされそうだったんだから」
「でも、生きてるじゃない」
「それは結果論よ。たまたまクシナダが助けてくれたから」
「違う」
 僕は断言した。
「さっき外で話を聞いたけど。まさにその場には、あの悪ガキもいたらしいんだ。けど、あいつは無事だった。その振るわれた腕の範囲内にいたにも拘らずだ。だから、仮にクシナダが助けなくても、あんたは死ななかった」
 僕はメデューサの目を見ながら言う。特に変化はないか。ならば続けよう。
「他にもおかしい所はいくつもある。まさに、僕が閉じ込められていた場所だ」
あの骨の龍。出口に近付けば襲い掛かってきたが、離れれば全く襲ってこなかった。つまり用途としては、そこから出したくなかっただけなのだ。倒し方も簡単。魔法陣に傷を入れるだけ。倒した時に出来た壁は、確かに破壊が困難だが、そんなものは後でどうにでもなる。
「次はこの戦いに至るまでの話だ。クシナダから大まかな流れを聞いたんだけど、メデューサはずいぶんと回りくどいことをしている」
 アンドロメダを生贄に出すために、街の人間に連れてくるように命令したと言うが、ならばなぜ、最初に変化したときに喰おうとせず、海へと向かったのか。戻ってこなかったらどうするつもりだ。
 そもそも、クシナダがヘルメスたちの場所に行って、この街に戻ってくるまでの時間がかなりあった。それまで一体何をしていた? おとなしく海の中にいたのた。これに関しては僕の真上に尻尾が見えたから、ほぼ間違いないだろう。
 魔龍に関しても、アンドロメダが語った文献の内容と不一致がある。
「アンドロメダ。確か魔龍は、体から瘴気やら毒を撒き散らすんじゃなかったっけ?」
「え、ええ、そうよ」
「でも、外の街は毒に沈むどころか、空気も悪くなってない。どうして?」
「それは、まだ魔龍が不完全だから。だから、私を喰おうと」
 魔女の力を取り込む、とかいうやつか。けど、それにしては元気な状態でここにいるじゃないか。
「喰うとは、体内に栄養として取り込むことだ。丸呑みなんて、消化するのにいつまでかかるかわからないし、こういう状況になる可能性だって考えられた。いや、魔女の末裔ならば内側から魔龍を倒そうと考える。そして、同じ魔女の末裔ならば、相手がそう考えていることを気付くはずだ」
 体内に入られたとしても、それならそれで、防御策を取ればよかった。まさにここは自分の腹の中だ。罠を仕掛けても良いし、消化液とかまき散らせばよかった。好きに出来たはずなのに、そうしなかった。
 このことから鑑みるに、僕たちが考えていたことと全く逆の事実が見えてくる。
「メデューサは、自分を殺させるためにあんたをここまで導いたんだよ」
「殺させるため・・・? それこそ、いったい何のために?!」
「あんたをここの王にするためだ」
 そう考えれば、おかしかった点が全てひっくり返るのだ。あまりに突拍子もない話だったか、再びアンドロメダは固まってしまった。
「英雄の条件って、何だと思う?」
 話を少し変えて、質問してみる。
「色々とあるとは思うけど、僕が思うに、偉業を成して、みんなに認められた人間が英雄と呼ばれるようになると思うんだ。わかりやすいのは、人に仇す怪物を、皆の前で倒す事」
 そして、怪物を倒した英雄は、その地に留まり、王となる。どこの物語でも良くある話だ。
 アンドロメダが、ゆっくりと首を巡らせ、再びメデューサを見た。その真意を測るように。
「そう、ここでの配役は、あんたが英雄役、そして、対する怪物役がメデューサだ」
 これが、僕の至った結論だ。
「馬鹿馬鹿しい」
 ようやく、メデューサが口を開いた。ずいぶんと硬い口調だ。
「そんなもの、でたらめです」
「お前にとってはな。だが、アンドロメダにとっては、でたらめではなくなる」
「姉さん。放っておきましょう、こんな人の言う事は。さあ、続きをやりましょう。殺し合いをしましょう」
 しかし、アンドロメダは動かない。今の僕の話を聞いて戦いを再開できるわけがない。
「そんなことを言っている時点で駄目だろ、色々と。たしか、契約は魔龍だろうが魔女だろうが絶対に遵守される代わりに、少しでも互いの認識に齟齬があると破棄されるんだったな? メデューサ。お前ではなく、今この話を聞いた魔龍の方が疑念を持ち始めているんじゃないか? そのせいでもう、自由に体が動かないんじゃないのか? だから、いまだにそのツタから逃れられない」
 そう指摘すると、メデューサは悔しそうに口を歪めた。さっきまで内側から抜け出そうとしていたのに、今ではそのそぶりすら見られないから、もしかしたら、と思っていたら図星のようだ。
「ヘルメスたちを逃がしたのは何のためだ? 後々、王となるアンドロメダを補佐させるためじゃないのか。それに、仮に街から逃げたとしても問題ないようにだ。あの人数であれば、すぐに新しく村を開拓できるからな。
魔龍と化したのだって計算ずくだろう? そうやって王をはじめとした街の連中を排除するのに都合が良いからだ。全部きれいさっぱり真っ平らにする気だったんだ。後で治める者たちのために、この地にはびこる、自分を含めた邪魔者を全て飲み込もうとしていた。
 魔龍がいまだ毒を撒き散らさないのも、一体化したお前が力を封じ込めているからだ。地下の瘴気は、魔龍本体がいなくなっても長くとどまっていたからな。それを防ぐためだ。瘴気が残って街に住めなくちゃ本末転倒だからな。
 そもそも僕を閉じ込めた地下の仕掛けだって、もし閉じ込められていたのがアンドロメダなら、後で適当なところで解放して、今と同じような状況に持って行くつもりだろ?」
 全て、愛する姉のために仕組まれていたことだ。
 これまでの言動も、自分が既に魔龍と一体化し、殺さなければならないと思わせるためだ。愛すべき者からすら憎まれてでも計画を実行に移す鋼の意志。ありとあらゆる事態を想定し先手を打つ卓越した頭脳。僕たちは完全に、あの小さな掌の上で踊らされていた。
「称賛に値するよ。御見事だ」
 真の英雄に向けて、最高の賛辞を送った。
 だが、と僕は続ける。
「そんなお前の、唯一にして最大の誤算は、僕がここにいることだ」
 なぜなら、僕はその計画を全て台無しにしに来たのだから。

セメント・マッチ

「何故ですか!」
 今度は妹、メデューサが声を荒げて僕に何故、と問うた。
「そこまでわかっていながら、何故私を討たないのですか!」
 そう叫ぶ彼女に変化が表れ始めていた。まずその両目が、真っ赤に染まる。充血どころの話じゃない。白目部分が深紅に染まったのだ。また、黒目の部分は黄金色に輝き、瞳孔は縦長になっている。魔龍の意志が顕在化しているようだ。皮膚も、龍の鱗が現れ、びっしりと彼女を覆う。その顔と、普通の顔、二つの顔が照明の明滅のように入れ替わる。
「今が魔龍を殺せる好機なのです! 私を討てば、私と共にある魔龍の意志そのものを冥府へ送ることが可能なのです! 残るのは、抜け殻となった巨大な肉塊のみ。あなたの剣でこの胸を貫くだけで、全ては丸く収まるのです!」
「だから、それが困るんだって」
 何も話を聞いてないな。
「最初に会った時も言ったし、今も言った。僕は、魔龍と戦いに来たんだ。生意気なガキじゃない」
「あなたは、魔龍の力を知らな過ぎる! アクリシオスと同じだ。自分の力を過信し、魔龍を侮っている。人知の及ぶものではないの・・・ガホッ、ガホッゴホッ」
 メデューサが激しくむせた。吐き出した唾の中に血が混ざっている。彼女の中にいる魔龍が暴れているためだろうか。
「今なら、まだ間に合うのです。私が抑え込んでいるうちに、私ごと魔龍を」
「お断りだってば」
 きっぱりと僕は言った。
「何度言わせれば・・・!」
「何度言わせれば、はこっちのセリフだこのクソガキ。『僕たち』は魔龍と戦いに来たっつってんだろうが。メデューサなんていうガキじゃない」
 彼女の言葉をぶち切って、僕は言う。
「僕も、そこにいるアンドロメダも、外にいるクシナダも、ヘルメスたちも。全員が魔龍と戦う覚悟で、死ぬ覚悟でここにきてるんだよ。そっちこそ僕たちを舐めるな。ガキが抑え込める程度の鰐一匹、怖いわけあるか!」
 駆ける。彼女との相対距離は瞬時に狭まる。目標を見定め、跳躍。居合抜きのように、腰だめに構えていた剣を横に一閃させる。彼女を捉えていたツタは薙ぎ払われ、唐突に自由を取り戻した体は、一時空中に停滞していたかと思えば、重力を思い出したかのようにすぐさま落下を始めた。
「アンドロメダ!」
「言われずとも!」
 すでに駆け出していたアンドロメダが、妹の体に手を伸ばす。
 メデューサの体は二重にぶれていた。二つの体が繋がっているようにも見える。一つは普通の姿、もう一つは魔龍に乗っ取られている姿だ。彼女は左手で妹の体をがっしと掴み、もう片方の手をメデューサの背中、魔龍側に回す。
「私の妹の中から、出て行け!」
 お菓子の袋を開けるように、力任せに二つを引き剥がす。ずるり、という音と共に、二つの体が分離した。離れた体の片方はアンドロメダが抱きかかえた。もう一つは、離れた途端魔龍の体内に吸い込まれていった。
「何という、ことを・・・」
 諦念の顔で、メデューサが呟いた。
「唯一の機会を逃してしまった。これで、魔龍は復活します。もう終わりです」
「何一つ終わってはいないわ」
 胸の中にある妹の顔を愛おしそうに撫でながら、アンドロメダが反論した。
「私たちはまだ生きているのだから」
「ま、それもここでじっとしてたら意味ないけどな」
 姉妹の会話を邪魔するつもりはなかったのだが、口を挟ませてもらった。足の裏から感じる振動から、どうやら魔龍が活動を再開したと考えられる。
「まずは脱出。あんたらはヘルメスと合流だ」
 行こう、と声をかけ、先頭を走る。来た時に切り開いたはずの壁は魔龍の再生力の為か塞がりつつあったので、再度胃潰瘍やら内出血になってもらう。ストレス社会からきた人間のプレゼントだ。遠慮なく受け取ってくれ。
「脱出すると言われましても、どうやって?」
 姉に手を引かれながら走るメデューサが聞いてきた。
「まず、口元まで行く。そこで」
「「そこで?」」
 姉妹の声が重なる。
「叫ぶ」
 単純明快な答えに、二人揃って目を白黒させる。
「行けばわかるよ」
 百聞は一見に如かずだ。管から管へと渡り、最も太い場所に出た。おそらく最初の食道だ。
「まさか、口を開けさせて出る気?」
 僕の行く先を察したアンドロメダが言う。
「そのまさかだ」
「無茶言わないで。いつ開くかもわからないのに。それならどこか別の場所を切り開いた方が早いんじゃないの?」
「それも少し考えたんだが、結局は分かりやすい所の方が都合がいいんだ。迎えが来るからな」
 まだ要領を得ない顔をしている二人には、これ以上説明しても無駄だ。見た方が早い。なだらかな傾斜を駆け上がると、行き止まりにぶち当たる。ここが目的地だ。証拠に、ぎざぎざの乱杭歯の隙間から光が漏れこんでいる。
「よし、じゃあ、せえの、で叫ぶぞ」
「叫ぶって言われても、何と叫べば」
「そんなもの、決まっている。こいつは今動いている。触れたら圧殺されるような巨体に近付けるのはあいつだけだ。彼女の名を呼べ」
 じゃ、せえの
「「「クシナダーっ!」」」
 瞬間、ぎざぎざだった明かりの中に突如大きなスポットが出来る。生臭い匂いを一新する烈風が魔龍の口内に吹き荒れた。驚いた魔龍が、少しだけ口を開けて身をよじる。
「無事なのね!」
 外から彼女の声が響いた。揺らぐ足元をしっかと踏みしめながら、風穴の空いたところから顔を出す。矢を放った体勢のクシナダがこちらを見つけた。心底ほっとしたような顔を浮かべている。
「全員無事だ。これから投げる。受け取れ」
 投げる、と聞いた瞬間、後ろからついてきていた姉の方がびくりと反応した。振り返ると、回れ右して逃げようとしたので
「おい、どこ行くんだよ」
 とっさに服の襟首をひっつかむ。
「無理、無理だから。幾らなんでも無理だから。ここ、城のてっぺんより高いのよ!?」
 アンドロメダが口から泡を飛ばしながら泡食ったように慌てて叫ぶ。両腕を突っ張って上半身を起こしている魔龍の頭は、この崖をくりぬいた作りの街の、もっとも高い所とほぼ同じ高さにある。
「あんたクシナダと空飛んだだろうが。あれと似たようなもんだ」
「あれだってかなり怖かったのに、今度は頼るものもないのに虚空へとおおおおおおおおおおっ!」
 五月蠅いし、時間もないので問答無用で投げた。狙い通り、空中を飛んでいたクシナダがキャッチする。そのまま、地上へと降下していった。
「ちょっと待ちだ」
 そのまま歯に背中を預けるようにして座り込む。久しぶりに泳いで、何だかんだで疲れている。服を着たままだと泳ぎにくいってのは本当だったな。
「豪胆ですね。魔龍の口の中だというのに、その歯に寄り掛かるなんて」
 僕の前にメデューサが立った。
「そっちも座ったら?」
「では失礼します」
 チョコンと隣に腰を下ろした。
「最悪です」
 メデューサが口を開いた。
「何が」
「あなたのせいで、私が練りに練った計画は水の泡です」
「それはそれは。申し訳ない」
「本来であれば、姉、アンドロメダが今頃魔龍を倒し、街の人間に英雄として迎えられ、新たな王として君臨していたはずなのです」
「そのためなら自分は魔龍としてくたばってもいい、と?」
「そうです。それが、もっとも合理的で確実性が高く、姉と、虐げられていたみんなを元の場所に戻せる方法だったので」
 まあ、そうだな。魔龍と王の二つの邪魔者も一緒に排除できるからな。この年でこの考え方、末恐ろしいね。
「で? 泡になった計画の代わりは何かあるのか?」
「ありません。自分が死ぬ計画の次の手など、考えても見ませんでした」
 それもそうか。
「じゃあ、支障がなければ、ここからは僕らの策に乗れ」
「あなた達の、策? どういったものでしょう」
「ここまで色んな策を巡らせてきたメデューサには悪いんだが・・・」
 突如、魔龍が大きく体を揺らした。外からガラスの割れるような音が響く。
「あれは、魔龍を封じていた綱が千切れた音ですね。どうやら体の自由を取り戻し、本格的に活動を再開したようです」
 あの光の帯のことだ。やはりメデューサによって力が封じられていたから、大人しく捕まっていたのだろう。
 揺れはますます拡大し、外からも怒声や破砕音が響く。このままだと乗り物酔いになりそうだ。暴れているということなら、クシナダでも簡単に近づけないだろう。仕方ない。予定を変更して
「タケルさん!」
 メデューサが叫ぶ。ずっと薄暗かった僕たちに日差しが当たった。魔龍がガバリ、と口を大きく開けたのだ。次に起こることは二つ三つ予測できるが、どれも口内にいる僕らにとってろくなことではあるまい。
「耳を塞いでろ!」
 確率の高そうなやつを予期して言い、僕はメデューサを抱きかかえ、そのまま空中へ飛び出した。刹那ののち
【ギャアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!】
 頭を、体を突き抜ける轟音。体勢をぐらつかせながらも、なんとか魔龍の体に剣を突き立て、落下速度を弱める。
「頭が割れるような大音声ですね!」
 耳を塞いでいてもダメだったか、メデューサが怒鳴る。そうでもしないと自分の声すら聞こえないのだろう。事実、その声も僕には遠くからの呼び声のようにかすかに聞こえるのみだ。
「威勢のいい宣戦布告だなぁ、ええ?」
 そうだ、こうでなくては。僕が求めるのは、これだ。
「タケル、さん・・・・?」
 メデューサが僕を見て何か言ったが、さっぱり聞こえん。ただひどく怯えた顔をしている。
 何を怯えることがある? 楽しいのはここからだ。己の命を賭け金にして、己の全てを賭して、相手の命を喰いに行く。
 恐れるな。怯えるな。立ち止まるな。道は前にしかないのだ。
 ぎょろり、と魔龍の目が下にいる僕たちを見下ろした。相手にとっては蚊が止まっているような不快感があったのだろうか。太い腕を、それこそ虫を追い払うように振るう。大気を押しのけながら、圧倒的な質量が迫る。さすがにあれをぶった切るわけにはいかない。
 反動をつけて剣を引き抜き、斜め下へ飛ぶ。髪の先を魔龍の腕の後追いでついてきた風が撫でた。直角の壁を走る。確か、ゲームが元になったゾンビ映画の二作目に、ビルから走りながら降りるこういうシーンがあった。命綱有る無しの違いだ。同じ人体の構造をしているなら僕にもできるはずだ。そうだろう?
「ひぐっ・・・!」
 メデューサが目と口をグッと堅く閉じた。
「くくくかかかああはっははははははは!」
 ああ、やばい。血が滾る。これからあれに挑むと思うと、楽しくて、楽しくって
「狂ってしまいそうだっ・・・・・・!」
 駆け下り、途中で強く蹴る。真横に飛んだところでそこまで迫っていた建物の屋上に転がりながら着地、ザリザリとスニーカーの靴底を削りながら、止まった。
「無事か?」
 抱えたメデューサを立たせる。最初は足腰に力が入っていないようだったが、大丈夫です、とふらつきながらも自分の足で立った。そうだよ。魔龍の力なんぞかりなくても、お前なら自分の力で立ち上がれるだろうさ。
「さっき言いかけた、僕らの策なんだけど」
「はい」
 魔龍を見上げながら、僕は言う。
「大したもんじゃないんだ。これまで幾重もの策を巡らしてきたメデューサ様々に聞かせるには、あまりにもお粗末な策なんだ」
 僕の隣に、クシナダが空から降りたった。隣の屋上にはアンドロメダと体格のいい髭面の男、おそらくあれがヘルメスだろう。他にも周りから次々と、戦意溢れる人たちが現れた。
「是非とも、聞きたいです。あの魔龍を滅ぼしうる、その策を」
 問うのなら、応えよう。
「やることはシンプルだ。持ちうる全て、力、人、道具、ありとあらゆるものを持って、魔龍に叩きつけ、叩き潰す」
 剣を魔龍に突き付ける。相手もこちらを睨み返してきた。
「真っ向勝負だ」

神の加護無くとも

「ここが正念場だ! 者ども、行くぞ!」
 ヘルメスの声に呼応して、左右から再び光の帯が飛び交う。手足に巻き付き、自由を奪おうとする。
「さあ、もう一度動きを止めるわよ! みんな、引けぇ!」
 アンドロメダが音頭を取ると、綱の光度が増した。彼女の魔力を流し込むことで、強度が上がるようだ。全力で左右から全力で引かれ、腕を取られた魔龍が、万歳の形で突っ伏した。
【ギイイイイアアアアアアアアアッ!】
 それ以上はさせじと、魔龍は体を起こしながら、左、右と腕を自分の体の方へ引き寄せる。人類と魔龍の綱引きは、均衡も一瞬、すぐに人類側が敗北し、引きずられる形になる。慌てて帯を解除し、次の機会を待つ。相手の力が強いうちは、押さえつけるのは無理だろう。ふと、自分もプレイしたことのあるハンティングゲームを思い出した。あのゲームでも、モンスターをある程度弱らせないと罠にかけられなかった。
「僕らも行こう」
「ええ」
 クシナダがまず一矢放つ。矢は唸りを上げて飛翔して、胴体に命中したが
「あれだけ大きいと、当たっても効果があるのかさっぱりわからないな」
 当たった瞬間はパッと血煙をふいたが、それで終わった。急所以外だと効果は薄そうだ。
「一本で駄目なら、百本射るまでよ」
 頼もしい言葉と共に、クシナダが空へと舞い上がる。
「姉さんたちは下がって!」
 後方から、指示を飛ばすメデューサの声が聞こえた。
「アルゴ、ダナ! 弓兵に魔術媒体を鏃に付けるように指示を! クシナダさんを援護します!」
「合点でさぁ!」
「承知しました!」
 そう言って禿頭の男と恰幅のいい婦人が左右に分かれて走っていく。
「準備は?!」
「準備良し!」
「こちらもいけます!」
 合図を聞いたメデューサが、手を上げる。彼女に向かって魔龍が近づいてくる。遠近感が馬鹿になっているため、僕から見たらすでに魔龍の鼻先に彼女がいるように見える。
「メデューサ様!」
 合図はまだかと声が上がる。
「まだ! まだです! 我慢して!」
 しかし恐れることなく、彼女は冷静に相対距離を測る。全ての矢を余すことなく当てられる距離を見極めようとしているのだ。やがて、魔龍の鼻息がかかり、彼女の髪がたなびく。
「射て!」
 かざしていた手が振り降ろされる。生臭い息を切り裂くように、何本もの矢が魔龍に向かって飛来する。
ガカカカカッ
豪雨がトタン板を打ったかのような音とともに、何本もの矢が魔龍に突き刺さった。
 それでも魔龍は止まらない。自分をハリネズミみたいにした小癪な娘を真っ先に喰わんと口を開ける。
「アテナの末裔を喰おうというの? 腹を下しても知らないわよ?」
 姉と同じようなことを言って不敵に笑い
「『氣爆』」
細い指を鳴らしたと同時、魔龍の体のそこかしこで爆発が起こる。鏃に仕込まれた魔術媒体が、彼女の呪文に反応して起動した。
【ガアアアアアアアアッ】
 もうもうと立ち上がる煙の中、苦悶の声を上げて、魔龍が歩みを止めてのけ反る。
「姉さん!」
「分かってるわ!」
 姉妹が合図を交わす。息の合い方は当然ぴったりだ。再び光の帯が魔龍の体を縛り上げる。魔龍も足掻くが、矢の痛みが動きを阻害し、先ほどよりも暴れる力は若干ながら落ちている。
 好機だ、そう思った僕は、魔龍へ向けて走る。僕の他にも、何人かの近接戦闘要員が魔龍に向かっていた。目指すは腕。そこから飛び乗り、頭を目指す。
 後二十メートルほどで到達、そんな時、上から視線を感じた。見上げれば、僕よりもでかい目玉と視線がかち合う。魔龍がこちらを睨んでいた。気のせいかもしれないが、少し喉元が膨らんでいるような気がする。
 奴が口を開いた。また吠える気か、と思ったが、違う。
「何かくる、気をつけろ!」
 僕の声に気付いた数人も、同じように魔龍を見上げ、危険を察知した。前進を止め、左右後方に散らばる。

 ごぽぉっ

 大量の水が沸き立ったような音と共に、魔龍の喉元がから何かがせり上がり、吐き出された。
 それは真っ黒な球体に見えた。ゆっくりと、しかし重力に従って加速しながら落下してくる。
 結果的に、それは誰かに直撃することはなかった。代わりに、地面に接触すると同時に、水風船が割れたように破裂し、あちこちに飛沫を飛び散らせた。飛沫に触れた建物や地面は、強烈な酸を浴びせられたかのようにどろどろと溶けはじめる。直撃した場所なんかは、クレーターのように抉れていた。
「絶対当たっちゃダメよ!」
 アンドロメダが叫んだ。
「魔龍の毒よ! 私の薬でも耐えられるかどうかわからないわ!」
 へえ、これが伝説の。興味本位で少し触れてみたい欲求に狩られたが、それもすぐに失せた。第二波が来そうなのと、その見た目がどうしてもゲロ吐いてるようにしか見えないからだ。あれで死ぬのは、流石の僕もちょっと遠慮したい。
 二発目が吐き出された。山なりに飛び、さっきまで僕たちがいた場所で破裂した。誰かが逃げ遅れたか、悲鳴がいくつか聞こえた。光の帯も何本か消え、魔龍の動きを封じれなくなっている。
うめき声と、アンドロメダやメデューサが彼らを励ます声や、治癒のための呪文が聞こえた。悲鳴が聞こえるってことは、そう簡単には死なないってことだ。彼女らの行動からして回復する見込みが多少ある、とも取れる。薬の効果かどうかは分からないが。
「厄介なことには変わりない、な」
 ちょうど、囮になるにはうってつけの技を発明したばかりだ。剣を持つ手に力を込める。刀身がバチバチと帯電し始める。先ほどアンドロメダに向かって放った時よりも、長く、強く、意識して溜め続ける。蓄積される電力が高くなって、腕の毛が引っ張られるようにして逆立つ。セーターを脱いだ時や、小学生のころ下敷きを使って静電気で遊んでいた頃を思い出した。遊んでいるのは今も変わらないか。
「お前も味わえ。冬になると誰もが味わう不快感を」
 刀身はまるで雷雲のように稲妻を纏い、それ自体も白く輝いている。充電は完了だ。剣を逆手に持ち、建物の屋上から屋上へと飛び移りながら目標へ接近する。
 残り五十メートルと言った辺りで、魔龍が僕に気付いた。その三つの目が僕の動きを完全に追ってくる。三度、魔龍の喉が膨れ上がった。この距離から落ちてくる毒の塊を完全に回避するのは難しいな。多少浴びる覚悟を決め、突っ込む。
 まさに吐き出そうとした、その時。魔龍が嫌そうに片目を瞑った。そのまぶたに、一、二と矢が突き刺さる。クシナダだ。
クシナダの力をもってしても、分厚く丈夫なまぶたに庇護された魔龍の目を貫くことはできなかったが、気を引くには十分だったようだ。その後もクシナダは挑発するように魔龍の目の前を8の字を描くように飛び、揚句、べえ、と舌を出した。
魔龍に人の仕草を区別することが出来るのかどうかは不明だが、完全に標的は僕からクシナダへと移った。彼女へ向けて、毒を吐きかける。しかし、空を舞う彼女にはかすりもせず、また、吐き出した方向は海しかない。放物線を描き、海面に落ちた。被害はない。
「なるほど、考えることは一緒か」
 彼女もまた、囮を考えたのだ。確かに彼女ほどうってつけの逸材はいないだろう。その間に、僕もやることをやろう。
 完全にクシナダに気を取られた魔龍は、僕に背を向けている。つまり一番低い場所、尻尾という足場がそこに在るのだ。ますます好都合だ。建物の屋上から、尻尾に向かって飛び移った。ざらざらかと思いきや、その表面は意外につるつるしている。爬虫類というより、どちらかというと魚類の鱗みたいだ。この鱗がクシナダの矢を滑らせて、刺さりにくくしているのか。
 これは僕にとって予想外だった。駆け上がろうにも、つるつるしてるから意外に走りにくいのだ。かといって、頭も心臓も、弱点っぽい箇所から程遠いここでは効果が期待できない。参ったな。
 クシナダを追っていた魔龍が僕に気付いた。でかい図体して、僕が飛び乗ったことに気付いた。分厚い鱗に覆われてるくせに、敏感肌だったらしい。体を震わせ、僕を振り払おうとする。左右、上下とアトラクションよりも過激に人の体を振り回してくれる。ここで振り払われたらまた近づかないといけない。必死でしがみついて、はたと気づく。もしかしたら、これは利用できるんじゃないか。
 左右の揺れを耐え切り、それは来た。念願の上下ビッグウェーブだ。大きく波打つ尻尾。タイミングを見計らい、ぐぐん、と足元が一度大きく下がる。そして、次に来るであろう反動に、足の力を溜めて、その時を待つ。
 ずおおっ、と再び尻尾が上に跳ね上がる。それは元の位置を超えて、魔龍の背中の半分くらいまで到達した。
 今だ。タイミングを合わせて、上空へ飛び上がった。
「タケルっ!?」
 クシナダの声が遠くから聞こえた。彼女からだと、僕は跳ね飛ばされたように見えるだろう。現に、僕の体は魔龍の背を超える高さに到達し、まだ上昇し、トンビが飛ぶくらいのところまで到達して、ゆっくりと止まった。真下の喧騒が遠い、静寂の世界だ。
さあ、ここからだ。体をぐるりと回転させ、下を向く。最初は秒速五センチメートルくらいの速さで、そこから秒単位で加速していく。
 気分は稲妻だ。紫電を走らせながら一直線に降下する。目指すは奴の脳天。このスピードで剣を突き刺せば、頭蓋骨すら貫く。
 しかし、魔龍も馬鹿ではなかった。ぐいと顔を上に向ける。そのまま大きく口を開けた。喉が膨らむのが見えた。次にどうなるかは火を見るより明らかだ。
「とんだチキンレースだ」
 それでも僕は、顔がにやけるのを押さえることが出来ない。
 ごぽり、と音が聞こえた。漆黒の沼が、魔龍の喉の奥で揺れる。
「おおおおおおおおおおおおおおお!」
 気づかれているのだ。隠密性など気にしても意味がない。それに、叫びたい気分なんだ。手の中にある剣も、僕の気分につられたように脈動し、電流も迸る。
 ドパッ、と魔龍の口から毒が吐き出された。一直線に僕に向かってくる。いや、この場合は僕が毒に一直線なのか。まあ、どっちでもいいや。やることは変わらん。
 毒だなんだというが、結局のところ魔龍の体内で生成された体液みたいなもんだ。高電圧をかけると、水が沸騰すると聞いたことがあった。それに賭けた。
「ぶち抜けぇっ!」
 毒の塊に向かって、剣を突き刺した。剣先が触れた瞬間、毒が爆ぜ、僅かながら空間が生まれた。その中を突き進む。剣先は触れた端から毒を揮発させていく。少し吸い込んだだけで喉がやられる。飛び散ったわずかな飛沫が腕や顔に飛ぶ。じゅう、と音がする。皮膚が焼けているのだ。数秒にも満たない交錯で、そこかしこが大ダメージだ。
 知ったことか。
 遂に、毒の塊の反対側へと抜け出した。そこにいるのは、マヌケにも大口を開けたままの魔龍がいた。格好の餌食だ。勢いそのままに、魔龍の上あごに剣を突き刺した。下向きの勢いも手伝って、そのまま魔龍を三枚に下ろすように切り裂いていく。ため込んだ電気は一気に解放され、魔龍の口内を雷が無数の蛇のように駆け巡る。
【シギャアアアアアアアアアアアアッ!】
 苦痛の叫びが僕の体に叩きつけられる。吐き出される息が空気の壁となり、僕の体を外へと押し返した。再び宙を舞う。三半規管もやられ、上手く体が動かない。この先に待つのは地面だ。激突は避けられないかと諦めかけたその時、魔龍よりさらに上空から僕に近付く飛行物体があった。
「タケル!」
 クシナダが僕に向かって両手を差し出した。タックルするように、僕の胴めがけて飛び込み、背中に手を回して抱きかかえた。
「馬鹿! 無茶にもほどがあるでしょう!」
「楽しくて、つい」
「子どもみたいな言い訳しない!」
 怒られた。
 上空から戦況を見下ろす。戦況は、大分こちら側に傾いている。
「さっきのが効いたのね。毒を吐くようなそぶりも見せないわ」
 口の中を裂いたからな。口内炎どころの痛みではないだろう。また、あれだけの猛烈な毒を吐けたのは口内にも分厚い皮膜があるからだ。それさえ無くしてしまえば、毒は吐けない。趨勢は決まったか、誰もがそう思ったその時。
 ギィン、と辺りの光が一瞬吸い込まれた。そう表現するしかない現象が起こったのだ。吸い込んだのは、魔龍の額にある第三の目。
「何だ?」
 目を凝らす。細長かった額の目は、今は満月のように真ん丸に見開かれている。
【逃げて!】
 メデューサの声が頭に響いた。
【みんな、建物の陰に入って!】
「メデューサ、一体何を」
 姉がなだめるように妹の肩を抱く。
「良いから! 早く!」
 メデューサがそう言って姉に飛びつき、強引にしゃがませる。その間も、光は断続的に魔龍の目に吸い込まれていく。
「クシナダ、こいつは従った方がよさそうだ」
「同感よ。嫌な予感がするわ」
 真下へと急降下する。空いていた窓に飛び込み、言われた通り陰に隠れた。直後、二つ目の太陽が地表に現れたのかと勘違いするほどの強烈な光が窓から差し込む。
 照射時間は数秒ほどだったが、照らし出された景色は一変していた。
 窓からゆっくりと顔を出した僕は見た。
「何、コレ・・・・」
 クシナダも同じものを発見したようだ。いや、ものと言っていいのかどうか。
 そこには石像があった。恐怖に顔を歪めた人の石像だ。この顔は、たしか、アルゴと呼ばれていた禿頭の男だったはずだ。さっきまではこんな石像は無かった。いたのはアルゴ本人だ。そして今、アルゴはおらず、アルゴの石像がある。
「そうか、その可能性も、あるか」
 石像は見える範囲に数体存在した。どれも、何かから逃げるような作りだ。おそらく、いや、間違いなく、今さっき創られたものだ。
「石化の呪い、ってこと?」
 メデューサは自分の足を石にしていた。あれはアンドロメダを欺くためもあるだろうが、眠っている間、意識を失っている間に自分の体を魔龍に好き勝手に使われないためでもあったのだと思う。
自分の体を石化させられるなら、相手を石化させることも可能だろう。本来の使用方法は、こっちだ。
「つくづく化け物だな」
 手負いの獣は手に負えないとよく言うが、手負いの魔龍がここまで厄介な奥の手を持ってるとはな。
【みんな、無事ですか!】
 頭にメデューサの声が届く。
「こっちは無事だ。そっちは?」
【私たちは無事です。けれど・・・、アルゴや、魔龍を綱で封じていた数名が逃げ遅れて、石化しました・・・・】
 声に後悔が滲む。
「じゃあ、やっぱりあれは」
【魔龍最悪の呪いです。あの目に睨まれた生き物は石化します】
 睨まれる、つまり見える範囲にいたらダメってことか。
「対処方法は?」
【見えない位置にいる事です。ですが、それでは】
「魔龍は倒せない。倒すためには外に出て近づくことが必要で、外に出れば隠れられない」
 八方ふさがりだ。
「じゃ、じゃあ、あれはどう。何か、盾の様なもので全身を隠しながら近づくってのは」
 クシナダが言った。良い案だとは思う。魔龍が呪いを発動するまでにわずかだがタイムラグがある。その間に少しずつ近づき、あの目を潰せば、あるいは。
【しかし、それでは敵の姿を視認できません。攻撃方法は石化の呪いだけではないのです。毒は封じましたが、あの圧倒的な巨体はそれだけで凶器です。かすっただけでも危険な腕や尻尾、牙を、前が見えないまま躱し続けられるとは思えません】
 それが問題だ。近づこうとして踏みつぶされたら元も子もない。上空にいた僕に気付いたくらいだ。敵の気配には敏感だと考えて間違いない。攻撃しようとしてちょっとでも盾をずらしたところにあれが来たらアウトだ。
 こちらには鏡のような盾も、姿を隠す帽子もない。神話のように助けてくれる神様はいない。ここにいる人間だけでどうにかしなければならない。
「どうしたらいいの。ここまで来て、打つ手は無しなの?」
 悔しそうにクシナダが呻く。その背には、まだ空気の翼を纏っていた。いつでも飛べるようにという配慮だろう。
 ・・・・あるじゃないか。姿を隠す帽子が。その問題さえクリアしてしまえば、盾は何でもよくなる。そして、ハルパーの鎌の代わりもここにある。
「メデューサ。聞こえる?」
 作戦はこれしかない。
【タケルさん?】
「一つ教えてほしいんだが、さっき矢に仕込んでいた媒体を爆発させたと思うけど、どのくらいの距離でなら起爆できる?」
【距離は、そうですね。私の力だと、自分の足で大体五十歩くらいの範囲でしょうか】
 一歩が五十センチと考えて、二十五メートルか。
「アンドロメダでも同じくらいか?」
【そうですね。同じくらいだと思います。あ、あと、姉さんと力を合わせると、もう少し伸ばせるかもです。多分、もう三十歩くらいなら】
 四十メートル。
【どうしたんですか?】
「一つ策を思いついた。聞いてくれるか?」
【先ほども言ったはずです。魔龍を滅ぼせる策があるなら、是非とも聞きたい、と】
「そうだったね」
 苦笑しながら、僕は仔細を全て彼女に伝える。
「そんなことが可能なの?」
 傍で聞いていたクシナダが、半信半疑の顔で聞いてきた。
「理論上は、可能かな」
 あくまで理論上は、の話だが。
「ま、あんま深く考えなくていいよ。失敗したら死ぬだけさ」
「ああ、なら安心ね」
 意外なことに、クシナダが納得した。いつもなら反論の一つでも帰ってきそうなものなのだけど。きっと、僕はとても不思議そうな顔をしていたのだろう。クシナダは小さく噴出した。
「だって、あなたがそういう時は、絶対死なないんだもの」
 そうだったか?
「賭けるわ。あなたの策に」
【私たちも、です】
 メデューサも応えた。
「よし。じゃあ、今伝えたとおりに配置についてくれ」



 僕たちは窓の外へと飛び出した。ぐい、と魔龍の視線が僕たちをトレースする。そして再び、光が目に吸い込まれていく。
「タケル!」
「分かってる」
 目の前にそれを出す。先ほどまで隠れていた建物の、入り口のドアだ。取っ手がついていて持ちやすく、潮風を通さない頑丈で僕たち二人を隠すほど分厚く大きな一枚板だ。
 カッ
 背後に影が伸びる。目から光が溢れだしたのだ。だが、
「クシナダ。石になった?」
「なってたらこのまままっさかさまよ!」
想定通りだ。ドアが光を防ぎ、僕らを呪いから守った。
 魔龍の方も馬鹿ではなかった。呪いを塞がれたとみるや、すぐに攻撃方法を切り替えた。接近する僕たちに向かって、ひっかくように腕を上から下へと振り降ろす。空間に満ちる大気を押しのけながら、一本一本が大木のような指を持つ巨大な手のひらが僕らを押し潰そうとして、するりと抜けた。
 タネは学校で教えてくれる、光の屈折だ。最初にクシナダが空を飛んだ時、空気の翼を突き抜ける光が屈折していたことを思いだした。同じことを、もう少し大がかりにしている。僕らのもう少し前に、クシナダが違う密度の空気で断層を作っている。魔龍が見えている場所に僕らはいない。もう少し上空にいたのだ。
 腕を躱した僕らは魔龍の頭上に辿り着く。そこから、スキーの直滑降のように魔龍へ向けて滑り落ちる。風圧で板が軋む。周りの風景から、間もなく頭に到達すると判断。
「よし、第二段階だ」
 僕は板をクシナダに渡す。思った通り、頭上までもう二十メートルくらいか。
「離すわよ!」
 クシナダと僕が分離する。彼女はそのままアンドロメダとメデューサを迎えに行った。僕はそのまま自由落下。訪れるであろう衝撃に備え
 ドスン
 未来から転送されたばかりのターミネーターみたいな姿勢で着地。ちょうど魔龍の鼻っ柱あたりだ。三つの目が僕の姿を捉えた。その目が憎しみに燃える。自分の喉を切り裂いたのは僕だと理解しているようだ。
「決着をつけよう」
 剣を逆手に構えて、前へ。魔龍が叫ぶが、この距離での叫び声など音ではない。ただの衝撃だ。可聴域に含まれない。
 三度、魔龍の目に光が吸い込まれる。だが、
「遅い」
 僕をこの距離まで接近させた時点で、お前の負けだ。
 一歩、二歩とステップを踏んで、三歩目を大きく足を踏み出す。右足のつま先で強く蹴り、太もも、腰、背中、肩と回転させながら力を伝達させる。回転する右肩から遅れるようにして右腕、肘へと鞭がしなるようにして伝えていく。そのまま最後の右手へ。最高到達点から手放し、柄頭を人差し指と中指で押し出す。
一直線に飛び、ガラスの砕けるような甲高い音を立てて、剣先が額の目に突き刺さった。痛みから、魔龍が背筋を逸らせた。斜めになった魔龍の鼻先を駆ける。行く先はもちろん、今しがた突き刺した剣だ。
「もう一つ、おまけだ!」
 柄を思いきりぶん殴った。三分の一ほど突き刺さっていた剣が、腕と一緒に完全に埋没した。まずい、ちょっとやり過ぎた。慌てて、指で柄を摘み、引きずり出そうとする。
痛みで暴れる魔龍のせいで作業は難航したが、何とか取り出せた。代わりに、今しがた空けた穴に、ポケットから取り出したある物を詰め込む。魔龍の腹の中で、アンドロメダから没収した魔術媒体だ。ぐぐっと押し込む。これで落ちては来ないだろう。
 ぶうん、と魔龍が一際大きく首を振った。自分の作業分が終わったからといって油断したら駄目だな。反動で僕は再び海へ。落ちる前に、これだけは伝えておこう。
「アンドロメダ! メデューサ! 今だ!」
 叫ぶ僕の視線の先に、二人の姉妹と、彼女たちを抱えて飛ぶクシナダの姿があった。

--------------------

「二人とも、合図が来たわ!」
 クシナダは抱えた二人に声をかける。
「でもタケルは!」
 海へと真っ逆さまに落ちていく男の名を呼ぶ。
「あいつは、あの程度でくたばるような男じゃないわ」
「姉さん。タケルさんは、私たちを信じてあそこで戦ってくれたのです。今は、あの方の信頼に応えるのが最優先です」
 クシナダとメデューサに言われ、アンドロメダも気持ちを切り替えた。魔龍の腹の中まで自分たちを追ってきた男だ。そう簡単に死ぬわけがない。ここまでお膳立てしてくれた彼の心意気に応えるためにも、目の前のことに集中する。
「アテナより続く、永きにわたる戦いも、これで終わりにしましょう」
 もがく魔龍に対して、アンドロメダは言った。聞こえていたわけでもあるまいに、魔龍の残りの二対の目が、彼女たちを捉えた。
「賭けは、私の勝ちで良いですよね。だってみんなが、こんな愚かな私を助けに来てくれたんですから」
 メデューサがそう言い、姉の手を握った。姉はその小さな手を握り返す。温もりが、魔力が伝わり、二人の間を循環。さらに大きな魔力が生れる。
「「願わくば、安らかに眠れ」」
 同時に紡ぐ、最後の呪文。つないだ手をゆっくりと前に突き出した。
「「『終淵』」」
 光すら飲み込む漆黒の闇が、魔龍の頭を飲み込んだ。

復讐者

「終わったわね」
「はい」
 夕日と、額の部分がくりぬかれたように無くなったまま動かない魔龍の死骸を見ながら、姉妹は並んで座り込んでいた。
二人とも、もう一歩も動けないほど疲弊していた。それでも、その表情は晴れやかだ。先祖代々彼女たちを縛っていた使命が、遂に果たされたのだから。
彼女たちを運んでいたクシナダは、相棒が再び海に落ちたので探しに行ってくると言い、沖へ向かった。あの、遠くに見えるのがそうだろう。水を滴らせながら引き上げられる彼の姿に、二人は笑った。
「アンドロメダ様」
 背後から、ヘルメスが声をかけた。振り返ると、共に戦った仲間たちが揃っていた。その中には、毒を浴びたダナ、石化したアルゴも居る。
 毒に関しては、事前に塗っておいたアンドロメダ製の薬が毒を緩和し、また同時に、迅速な治療が功を奏した。完治には時間がかかるが、命に別状はない。
 石化したアルゴたちにしてみても、魔龍の目が失われた途端、呪いが解けた。硬直していた為か、筋肉が凝り固まって全身筋肉痛になったように痛むが、これもまた、治療を続ければ完治するだろう。
 あれだけの激戦を繰り広げたにも拘らず死者は一人も出なかった。考えうる限り最高の結果だ。
 よろよろと、それでも二人は立ち上がり、彼らに向き直る。そして、最大限の感謝を言葉に乗せて送る。
「みんな、お疲れ様。みんなのおかげで、私たちは長年の悲願を達成することが出来ました。本当にありがとう」
「なんの。お父上に受けた恩、ようやく少し返せたというものです」
 一同が笑う。
「メデューサ!」
 大人たちの間を掻き分けて、足の間から飛び出してきたのはあの悪ガキだ。一直線にメデューサに向かって駆けつけ、抱きつく。勢い余って倒れそうになるのを、アンドロメダが支えた。そこかしこから「ほお」やら「まあ」などの感嘆の声や口笛が上がった。
「無茶苦茶心配したんだからな! ずっと心配し通しだったんだからな! アクリシオスの野郎に連れて行かれるし! 処刑されそうになるし! 気づいたらいないしアンドロメダ姉ちゃんやクシナダ姉ちゃんからは魔龍になったって聞かされるし! さっきの戦いでももう少しで食われそうになってるし毒には当たりそうになってるし石になるってのにその目の前で浮いてるし!」
「あの、私もその時一緒にいたんだけど、心配してくれなかったの?」
 茶化すように、横合いからアンドロメダが口を出す。
「二人とも心配した! 一生分心配した!」
「すみません。でも、もう心配させるようなことは、ありませんから」
 ぽんぽん、とメデューサは彼の背を優しく叩いた。ゆっくりと悪ガキがメデューサから離れる。
「そう、だよな。もう魔龍はいないもんな」
「そうですよ。もう恐ろしいものはありません。終わったのです。全て」
 終わった、その言葉に、皆の肩から力が抜けた。
「さあて、明日からどうしようかな」
 ううん、と伸びをしながらアンドロメダが言った。これまで魔龍を封じる、倒すことを中心に添えた生き方をしていた。その目的自体が無くなったのだ。生きる目的を探すか、作らなければならない。しかし、今の彼女にとっては嬉しい悩みだ。好きに生きられる、ということは。タケルやクシナダの真似をして、旅に出る、というのも面白いかもしれない。いっそ二人について行っても良いかも、などと、思いを馳せ
 そんな浮かれた気分は、明確な殺意によって消えた。
 声を出す余裕もなかった。他の誰一人として気づいていない。だから、自分が動くしかなかった。
 目の前で微笑ましく未来について話す妹たちに覆いかぶさる。二人は何事かと驚いた顔でアンドロメダを見ていた。
 背中に強い異物感。続けて灼熱の如き熱さと痛みが異物から全身へと広がる。
「姉、さん・・・?」
 何が起きているのか理解できていないメデューサは、ただ、姉を呼んだ。応えようと口を開き、声の代わりに喉からせり上がってきたのは血の塊だ。
「姉さん、姉さん!」
「メデューサ様、お下がりください!」
 事態を察した数名がすぐさまアンドロメダに駆け寄る。彼女の背には矢が突き刺さっていた。すぐさま止血と治療が行われるが、誰が見ても致命傷だった。
「貴様らに、明日などない」
 陰鬱な声が響く。
 ヘルメスたちが後ろのアンドロメダを庇うようにして前に出る。
「アクリシオスッ!」
 怒りと憎しみを込めて、その名を呼ぶ。アクリシオスは生きていた。その手に弓を携え、背後に兵を引き連れて。彼が、アンドロメダを射たのだ。
「よくぞかの魔龍を屠った。褒めて遣わすぞ。魔龍さえいなくなれば、この地に真の平穏が戻るであろう。残るは貴様らだけだ」
 アクリシオスが手を上げた。兵たちが一斉に弓矢を構える。魔龍との戦いには一切現れなかったくせに、終わった途端湧いて出た。彼らは一体何のために兵士になったのか。
「それが命がけでこの街を守った、彼女らに対する仕打ちか!」
「馬鹿を言うでないわ。そこの小娘は魔龍の封印を解いてまで私を殺そうとしたのだぞ? つまりその娘も魔龍同前。その妹を守ろうとした姉も同類同罪。殺して何が悪い? 王の命を狙ったのだから、極刑が至極当然だ」
「どの口がほざく! 元を正せば、全てアクリシオス、お前自身によるものではないか!」
「黙れ! 黙れ! 全て貴様らが悪いのだ! 魔龍のことも、もっと貴様らが私に訴えればよかったのだ! 私を敬い、誠意を込めて! さすれば過去の私も心を動かされただろう。貴様らの、私に対する忠誠心が問題なのだ! 此度の件は、全て貴様らの責任だ!」
「ふざけるなよ。誰がお前などを王と戴くか! この暗君めが!」
「私も、貴様らのような反乱分子に王と呼ばれたくはない。ここで死ね」
 無造作に、腕を振り降ろす。
「・・・・・・どうした。何をしている」
 兵士から、矢は飛ばなかった。
「アクリシオス王、本気ですか・・・?」
 隣にいた兵士長が、つがえていた弓を降ろす。彼らは戸惑っていた。街を守った者たちに対して、本当にこれが正しいのか。王命との間で彼は迷い、その迷いが伝線したか、部下たちも矢を放てないでいた。
「貴様、私に逆らうのか?」
「そ、そういう訳ではありませんが」
「ならば、やらないか! 他の者もどうした! 私の命令がきけないのか!」
 ヒステリックにわめく。それでもまだ動けずにいた兵士長を、王は袈裟切りにした。肩から腹部までざっくりと割られ、血をまき散らしながら兵士長はどう、と倒れた。
「今から貴様が兵士長だ」
 血で濡れた剣を、兵士長の後ろにいた兵の首に突き付ける。
「貴様らは分かっていない。奴らの目的はこの街だ! 魔龍を倒した今、次は我らを殺しに来る! 私を街から追い出したと思い込んでいるからだ。そして、その片棒を担いだ貴様らだって放っては置かない! 今しかないのだ!」
「し、しかし」
「いいから、やれ! それとも、私に新しい兵士長を任命させたいか!」
 アクリシオスが再び剣を振り上げた。
「ぜ、全員、構え!」
 慌てて兵士たちは矢をつがえる。逆らえば、次は自分が斬られるかもしれないからだ。
「放て!」
 今度こそ、矢は雨のようにヘルメスたちに降り注ぎ

 ごうっ

 突如として吹き荒れた突風によって何物も射抜かず、地に落ちた。
 突風が過ぎ去ったあと、ヘルメスたちとアクリシオスたちの間に誰かが落ちてきた。

 ヘルメスたちには、神話にある、救世主の背とダブって見えた。

 アクリシオスたちには、剣を携え笑う死神にしか見えなかった。

「クシナダ。そいつらを連れていけ。あんたの風なら守りながら退けるだろ?」
 タケルは剣を肩で担ぎ、構える。彼から遅れて、空から嵐の女神が降りてきた。彼女の風が、ヘルメスたちを降り注ぐ矢から守ったのだ。
「わかった。こっちは任せて。あなたは?」
 クシナダが尋ねると、タケルは歯を剥いて笑った。
「最初に言ったはずだ。僕の目的はこの地に住まう『化け物』を殺すことだ。一匹残らず、全滅させることなんだよ」
 けっして大きくはない彼の声が、アクリシオスとその背後にいる兵たちに届いた。自分たちのことを言っているのだと怯えた。
彼らも当然見ていた。とどめこそアンドロメダとメデューサの魔術ではあったが、そこに至るまで、ほぼ一人で魔龍を相手取る、一騎当千と呼ぶにふさわしき戦いを繰り広げる男の姿を。その力が、自分たちに向くという。逃げていくヘルメスたちを追うことなどできはしない。自分たちの方が、この魔龍よりも恐ろしい男から逃げなければならない。
「な、何をしている。たった一人を相手に臆するな!」
 アクリシオスの檄にも、今度は誰も動けない。前に出れば死ぬ。
「来ないのか?」
 タケルがいっそ不気味なほど気さくに声をかけた。
「なら、こっちから行く・・・ん?」
 一歩踏み出そうとして、まだ背後に人の気配があることに気付く。クシナダと共に全員が退いたと思い込んでいたタケルは、少し眉根を寄せて、振り返った。
 そこにいたのは、顔や腕など上半身を血に染めた、あの悪ガキだ。誰の血かなど、解りきっている。
 誰かが残していったのだろう剣を、よろけながらも両手で持ち上げ、タケルの隣に並んだ。
「俺が、戦う」
 タケルに宣言した。
「お前が?」
「そうだ。俺が、あいつを、アクリシオスを殺す!」
 自分で言っていて興奮してきたのか、幽鬼のような能面から、徐々に赤みが差し、鬼の顔へと変貌した。普通の子どもがする顔ではない。
「本気か?」
「当たり前だ! あいつは、アンドロメダ姉ちゃんとメデューサを傷つけた! 絶対許さない! 俺の手で八つ裂きにしてやる!」
 タケルは悪ガキの方を見ながら記憶を探る。こういう場面を、以前にも見たことがあったからだ。思い出せば、見たことがあって当然だった。過去の自分だ。姉を理不尽に奪われた過去の自分と、目の前の悪ガキがそっくりなのだ。
 タケルは笑みを深めて言う。
「無理だな。そんなヨタヨタで、まともに剣すら振れないのに。返り討ちに遭うのがオチだよ」
「何だと!」
「だから、ここは僕に任せて見たら? 僕なら確実だ。ここにいる全員を殺せる。一人残らず殲滅できる」
 それでも、とタケルは続けた。
「それでも、自分の手で決着をつけたいかい?」
「ああ」
「そのためなら、どんな苦労もいとわない? どれほど時間がかかっても構わない?」
「この手で殺すことが出来るなら、どんなことだってやってやる!」
 わかった、タケルは目を細めた。
「そう言えば、まだ名前を聞いてなかったね。名前は?」
 ふと、思いついたようにタケルが尋ねた。
「・・・ペルセウス」
 彼の名前を聞いて、タケルは一瞬目を丸くし、大笑した。誰もが、隣で復讐に燃えていた悪ガキすらもギョッとするほどの大声で笑う。
「譲ってやるよ。新たな復讐者。頭も体も鍛え上げ、いつか目的を果たすといいさ」
 そして、アクリシオスに向き直る。
「良かったな、王様! 今ここで、僕はお前の命を奪うことを止めてやる。けれど、心せよ! ここにいる新たな復讐者が、いずれ必ずお前の首を取りに来る! それまで待っていろ! ガタガタと、毎夜毎夜恐怖に震えながら、その胸に刃が突き立つその日をな!」

魔女の戴冠

 十年後、セリフォスは『外敵』によって制圧された。
 敵から街を守るべき兵たちは、率先して敵を招き入れ、その地に住まう人々は悲鳴ではなく歓喜の声で彼らを出迎えた。敵は戦う前からすでにセリフォスの内部に入り込み、内部から瓦解させていた。十年前のある事件をきっかけに、セリフォスに住まう人々の心は王から離れていた。瓦解させるのは赤子の手を捻るよりも簡単で、むしろ敵に進んで協力を申し出る始末だった。抵抗したのは、王の側近たち、王の近くで権力と暴力を振りかざし、利権を貪っていた者たちくらいだ。彼らは自分の権利を必死で守ろうとし、あっけなく敗れた。

 豪華絢爛を誇った王城は、今や見る影もなく、そこかしこから火の手が上がり、窓という窓から煙を吐き出している。
セリフォスの王、アクリシオスは、玉座に座らされていた。数年の間に何があったか、見目だけは屈強だった男が、今は色白くやせ細り、髪や髭は伸び放題で、王というよりは病人のように見えた。彼の前には二人の人物がいた。謎の兵を率いていたのがこの二人だ。
「き、貴様ら! 私に、王たる私にこんなことをして、ただで済むと思って」
「思ってるんだよ」
 大柄な、見るからに屈強な男が笑いながら言った。全身鎧を装着し、フルフェイスの兜をつけていて正体はわからない。が、笑い声から、比較的若い男だと想像できた。その後ろから、ローブをまとった小柄な女が現れた。こちらも目深にフードをかぶり容貌は知れない。
「街は既に私たちの手に落ちました。あなたを守っていた兵たちも私たちに敗れ、捕虜となっています。彼らは勝てないと見るやすぐさま武器を捨て投降しましたよ」
 人望が終わりで、と皮肉る。
「何なんだ貴様らは!」
 アクリシオスが叫ぶと、男女は顔を見合わせ、苦笑した。
「おいおい、嘘だろ? わからないのか?」
「こちらは、一日たりとて忘れたことなどなかったのに」
 男が兜を、女がフードを脱いだ。
 予想通り、若く精悍な顔つきの男だった。だが、その顔を見て若造と侮る者など皆無だろう。顔から体からにじみ出る彼の自信は、決して根拠のないものではなく、幾つもの戦いを駆け廻ってきた経験によるものだ。鍛え上げられた肉体に加え、潜り抜けてきた修羅場の数が彼を身長以上に大きく見せていた。
 女の方も男と変わらず若く、また、今のこの状況をアクリシオスに忘れさせるほど美しかった。金の波打つ髪に、涼やかな切れ長の目。真っ白な肌。船乗りたちの間でおとぎ話として語られるセイレーンを彷彿させた。セイレーンは美しき容姿と歌声で船乗りたちを誑かし、真っ暗な海へと引きずり込むというが、なるほど、この美しさならば船乗りも溺れてしまうだろう。
「まあ、分からないのも仕方ないや。俺たちも大分変わったから」
「十年ですからね。長かったです」
「でも無駄じゃなかった。この十年鍛え続けたから、今の俺がここにいる。もう二度と負けないように。大切な人たちを守れるようになったんだ」
「頼もしいですね。でも、私としては、まだまだ強くなってもらいたいものです。ゆくゆくはタケル様と並び立ち、追い抜くほどに」
「・・・・到達点はまだまだ遠いけどな」
青年は、自分が知っている中で最強の人間を引き合いに出されて苦笑した。
「ですが、いずれ至れると信じていますよ。ずっとそばで見てきた私が言うのですから、間違いありません。ヘルメスも言ってましたよ。すでに全盛期の自分を超えられたと、少し悔しそうに、でも嬉しそうにね」
 へへ、と少し恥ずかしそうに鼻の下を指でこする青年。
「ヘルメス、だと?」
 そんな中、アクリシオスが彼らの会話から、聞き覚えのある名前を耳にした。ヘルメス。セリフォスの元守備隊長であり、薄汚い裏切り者であり、そして、
「ま、まさか、貴様らは・・・」
 彼らの正体に、ようやく気づいた。あの時の恐怖を忘れたことがないのに、その恐怖を届けるはずの者たちのことに今更気づいた。
「やっと思い出したか。その様子じゃ、毎晩毎晩、恐怖に震えて眠れなかったようだな。安心しろ。もうすぐ、深い眠りにつけるぜ」
 青年、ペルセウスがすらりと剣を抜く。
「どれほど待ったことか。この日が来るのを」
 冷酷な笑みを浮かべて、メデューサが魔力を高める。今や媒体無しでもあらゆる魔術を駆使し、アテナの再来とまで呼ばれる彼女の、その額が割れる。いや、割れたのではない。そこに現れたのは、縦長の瞳。
「その瞳は、やはり、貴様魔龍の!」
「ええ、一度同化したからか、私も使えるようになりまして。今ではこれこの通り」
 彼女の第三の瞳がアクリシオスの足を睨みつける。たちまちアクリシオスの足が、つま先から石化し始めた。
「あ、足が、足がァ!」
「呪いをかけることができます。さて、城が燃え落ちるのが先か。あなたが石化するのが先か」
「止めろ、止めてくれ! 何でもくれてやる! 欲しいものがあるなら何でも! だから、だから殺さないでくれ!」
 じわりじわりと迫りくる冷たい『死』にアクリシオスは慄いた。彼がいつか彼自身が蔑んだ、彼の前で命乞いをしていた者たちのように、涙と鼻水を垂らしながら懇願した。
「石化はお嫌ですか? 永遠に自分の姿を残せますのに」
 肩を竦めて、メデューサが可愛らしく唇を尖らせる。
「じゃあ、選択肢をやるよ。・・・メデューサ」
 彼の言葉に「はいはい」とメデューサはあっさり呪いを解呪した。ほっと胸をなでおろしたアクリシオスに、ペルセウスは短剣を渡す。
「これで、自害しろ。これまでの自分の行いを懺悔しながら死ね」
「な、何だと? 助けてくれるんじゃ、無かったのか」
「何で? どうして? これまでの自分の非道を忘れたわけじゃあるまい。むしろ、自分に選択肢があることを幸運に思え。苦しまずに死ねるんだからな。無理だというなら、もう一度メデューサに任せるけど?」
「そ、それは・・・」
 アクリシオスは、手元の剣と、楽しそうにこちらを見ているメデューサを見比べた。
「さあ、どうする? 早くしないと、我慢しきれなくなったメデューサに殺されるぞ?」
「人を、餌を前にしてお預けをくらった犬みたいに言わないでください。・・・まあ、否定はできませんが」
 容赦なく急かすペルセウス。震えるアクリシオスと、彼の葛藤を楽しむメデューサ。
「ぐ、ゴホッ、ゴホッ」
 あまりの圧迫感、緊張感に、アクリシオスが咳き込んだ。体をくの字に曲げて、激しくむせる。
「大丈夫か? 咳き込んで死ぬなんて、ちょっとカッコ悪すぎやしないか?」
 アクリシオスの背中をさすってやろうと、ペルセウスが近づく。俯いていたアクリシオスの目が、ギラリと光る。ペルセウスが、アクリシオスに覆いかぶさるような体勢になった、次の瞬間。
「死ねェ!」
 体を跳ね上げるように起こしたアクリシオスが、ペルセウスから渡された剣を、彼の腹に突き刺す。何度も何度も何度も突き刺す。
「死ね! 死ね! 死ね! 何が懺悔して死ねだ偉そうに! 死ぬのは貴様だ! ははは、いい気味だ。偉そうにしやがって! 私は王だぞ! そうやって頭を垂れ・・・て・・・・」
 調子よく突き刺しながら喋っていたアクリシオスの言葉尻がしぼんでいく。
「痛えだろうが」
 刺されて体を折り曲げていたはずのペルセウスが、ゆっくりと体を起こした。傷らしい傷はどこにもない。
「な、何故・・・・こ、これは!?」
 ふと、手の中にある短剣を見て、アクリシオスは驚愕する。短剣は、根元からぽっきりと折れてなくなっていた。幾ら刺しても死なないはずだ。刺すべき刃自体が無いのだから。
「子どものおもちゃだよ」
 パンパンと刺された箇所を手で払う。鎧にすら傷一つついてない。
「試したのです。あなたという人間を」
 メデューサが言う。
「あなたがそのまま自分の喉でも胸でも突いたなら、流石の私たちも、ああ、反省してるんだなあと思って、見逃した。死ぬのが嫌で、そのまま逃げ出そうとしても、私たちは追わなかった。みじめに生きながらえるだろう、そのくらいのもんです。王の最後にふさわしく、正々堂々ペルセウスに一騎打ちを挑むのならば、その気概を買いました。腐っても、王は王だったのだと」
「結構、生き残る選択肢は用意しておいたんだが」
 やれやれ、とペルセウスは首を振った。
「あんたは、選んではいけない一択を選んだ。俺たち二人にとっては、願ってもないことだが」
 人懐っこい笑みが、消える。
「残念だ」


 誰もいなくなった城を、二人は後にした。
そこから、集合場所である、元神殿跡地へ向かう。そこにはすでに街の住民たち、彼らに協力したセリフォスの兵たち、二人の仲間である元スラムの者たち全員が集結して、広いはずの跡地が人でごった返していた。二人は人を掻き分け、奥へと向かう。
「お疲れ様」
 最奥にいた人物が、彼らに声をかける。その声の主の前で、二人が傅く。
「セリフォスは完全に我らが押さえました。捕虜は港の広場に固めておりますが、処遇はいかがいたしましょう?」
 ペルセウスが堅い言葉でうかがう。声の主は居心地悪そうに体を少し震わせた。
「え、と。選ばせてあげて。我々に従うなら、そのままこの街にいても良い。今までと同じように、とはいかないけど、みんなと同じように働くなら同じように扱うって。従わないというなら、仕方ないから街から出て行ってもらいましょう。逆らって、我々に危害を加えようとするなら、その時は仕方ありません。各自の判断で動いて」
「かしこまりました」
 ペルセウスがまた堅い言葉で返事をして、声の主はまたむずがゆそうに体を震わせる。
「あのさ、あんたその言葉使い、何とかならない? 似合わな過ぎて気持ち悪いんだけど」
 周りから失笑が漏れる。いつもの彼の口調や性格を知っているだけに、やはり違和感はあるようだ。
「・・・その言い草は無いんじゃないの?」
 いつもの口調に戻して、伏せていた面を上げた。
「他の人間に示しがつかないとか言うから、こっちも慣れない言葉使いしてるってのに」
「そうですよ。あなたはこれからここの王になるのですから」
 メデューサも立ち上がり、呆れたように言った。
「そこんとこわかってます? 姉さん」
 たはは、とアンドロメダは弱々しく笑った。十年前、致命傷を受けながら彼女は生きていた。いや、死んでいたはずだった。彼女を救ったのは一緒にいたクシナダだ。
 クシナダが思いついたのは、自分の血を彼女に分け与えることだった。タケルも自分も、蛇神の呪いで簡単には死ねない呪いを受けている。あの時と同じようにすればもしかしたら、とギリギリのところで思いついたのだ。一か八かの賭けだったが、結果は、アンドロメダがここにいることが答えだ。
「でも、本当に私が王なんかでいいのかしら。ヘルメスとかの方が妥当じゃない?」
 それに泡食ったのは言われたヘルメス自身だ。
「何を仰るんです! あなた以外の誰が王になるというのですか! ここにいる皆、あなただからこそついてきたのです!」
 その通り、と言わんばかりに周りにいた全員が首を縦に振った。
「あなたでなければいけないのです。誰よりも一番、この街のことを思ってきたあなたでなければならないのです。そんなあなただから、皆が支えたいと思ったのです」
 再び周囲の者たちが、力強く、首を縦に振った。そして、熱いまなざしをアンドロメダに注いでいる。
「・・・あなたの事情も分かっております」
 ヘルメスがふと、そう切り出した。予想外の会話の切り口だったため、アンドロメダはきょとんとするほかなかったが
「タケル殿のことでしょう?」
「はあっ?」
 あまりの予想外に素っ頓狂な声を上げた。
「何で私があんな失礼な男の後を追わなきゃなんないのよ! あいつ、助かった私に開口一番、なんて言ったと思う? 「あれ? 何で生きてるの?」よ!? 人のこと死んだと思ってたのよ! どうしてそんな奴を気にしなきゃならんのよ! あんな奴のことなんて知るものですか! 大体あいつにはクシナダがいるでしょう!」
「あ、いや、そこまで言ってはいないのですが。私が言いたかったのは、彼のように、自由に旅をしてみたい、ということではないのかな、と」
 慌てて弁明するヘルメスの前で、アンドロメダはこれ以上ない位赤面していた。
「ま、紛らわしい言い方しないで!」
「姉さんが勝手に勘違いしただけでしょう? それとも、実は本気で憧れていて、あの方の後を追いかけようとか思ってます?」
「そんなわけないでしょうが!」
 姉妹のやり取りに、周りから笑いが溢れる。二人がこの街で、再び言い合いをすることがどれほどの奇跡の上に成り立っていて、どれほど幸福なことか知っているからだ。
「姉ちゃんもメデューサも、そこまでにしとけよ。皆待ってんだからさ」
 ペルセウスが間に割って入り、姉妹は、特にアンドロメダは不承不承、と言った感じで口を閉じた。
「さあ、アンドロメダ様」
 ヘルメスが促す。彼が指示した方向の人垣が、ゆっくりと割れる。王への道だ。
「新しい使命も、なかなかキツそうね」
 苦笑しながら、それでも迷いなく新しき女王は歩む。ゆっくりと、着実に。今度は、多くの仲間たちと共に。

世界の神話・異聞 -心優しき魔女の王-

世界の神話・異聞 -心優しき魔女の王-

  • 小説
  • 長編
  • ファンタジー
  • 冒険
  • アクション
  • 青年向け
更新日
登録日
2016-03-08

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. 天国の海
  2. 天女と探偵の解けない謎
  3. 魔女を継ぐ者
  4. あなたの味方
  5. この日のために、こんなこともあろうかと
  6. 侵入
  7. 魔龍の住処
  8. 覚醒
  9. 絶望が生まれた日
  10. 受け継がれるもの、守りたいもの
  11. 初めての姉妹喧嘩
  12. 真の英雄
  13. セメント・マッチ
  14. 神の加護無くとも
  15. 復讐者
  16. 魔女の戴冠