カルリ
さようなら。
・1つで2つのおいしい味
ある二人の、ほどよく不幸を背負った恋人たちがいた。 彼らに障害がなかったらどうなっていたかなんてだれにもわからない。恋にも愛にもそれほど困難ではない試練は必要不可欠で、問題のない夫婦はいないし、問題のない恋人同士もいない。 ふたりは、それが試練だということすら気づかない。
カルリとは彼女の本名だった。 みんな彼女をそう呼んでいた。 正式な名前をみんなちゃんと目にし、耳にしているはずなのに、みんなすぐに忘れて彼女をカルリと呼ぶ。 カルリはいつも、自分に最初から名前なんてないように振舞っていた。 彼女にとって名前はさほど重要なものではなかった。
ところで、二人の程度のいい不幸を背負った恋人たちはその不幸故、やがてすれ違う。 お互いの心が通じ合っていないと男の方がいう。心が通じ合うことなんてないと女は言う。 こんなのはもう嫌だ、愛しているのにそれが伝わらないなんて、と。 僕のことはなにも分かっていないと男が言う。
やがてふたりは出会うべきではなかったと思い始める。 この恋はもう終わるべき恋なのだと。 そして沈黙。 永遠のような沈黙。 沈黙とは、話す機会の押し付け合いである。 もちろんある場合において。
カルリはいつも違う服を着て、いつも違う髪型をしていた。 おしゃれと言う人もいれば、散財と嘆く人もいる。 彼女がいつも自由に見えるのは、誰ともつるんだりせず、そしてよく手を広げているからだった。 彼女が表現するのは、平和でもなく、愛でもなく、来年流行するファッションでもない。 おそらく自由を表現しているのだ。 自由とは、選択にあるのでなく、選択の後にある。
彼女のその自由は、自身に多くの孤独を増長させた。 だれもが彼女の孤独を受け入れることはできなかった。 カルリはそれを知っていたから、誰かの嫌がらせや、罵声や心無い仕打ちもとくに気にしなかった。 彼女の深まる孤独は、自由であればあるほど際立った。 彼女の孤独は、例えるなら、沈黙のときに鳴り出したケータイ電話のようだ。 沈黙が深くあればあるほど、電話の音は際立つ。ある場合には耳障りに聞こえ、ある場合には大きなショックを与える。
そうして鳴り出した電話は二人の沈黙を破った。 ふたりは鳴り出した電話をじっと見つめていた。 やがて男の方が電話を強制的に通話終了させた。 しかし電話は何度も何度も鳴った。 ふたりのどちらも耳障りだと思った。 こんなことで心が通じ合っても意味がないんだと言わんばかりに、電源を切った。
ここでよくあるのは、昔話という展開だ。 ふたりは思い出話をした。 出会った頃、恋になった頃、遊びに行ったこと、気づかないふりをしていた不幸に気づいた頃、乗り越えようと誓った日のこと。 明日は晴れるかなと言ったこと。 雨だけど幸せだと返したこと。 ずっと雨であればいいのにと女は思った。 雨になるとなにも心配しなくていい。 なにも気づかなくていい。部屋で過ごし、雨を眺め、食事をし、晴れたらなにをしたいか語り合う。 ずっとしあわせなのだ。 日はまた昇るなんてわざわざ導きたくないのだけど。
昨日と今日の違いはない。 それはカルリにとっては当たり前の事実で、わざわざ意識なんてしていなかった。 他者と自分の違いもないと思っていた。 自分には生きる確信も哲学もない。 夢もない。 特定の恋人もいない。 それが強さではないことも彼女は知っていた。 孤独を決めるのも、強さを決めるのも、恋人同士になるのも、それは世界が決めることなのだ。 自分じゃない。 カルリと世界があって、その間にあるのが物事なのだ。
明日が晴れようが、昨日が風の強い日だろうが、それはカルリと、世界の間に存在することなのだ。
カルリはこの世界が好きだった。
カルリはさよならを言うとき、どんな場合であれ、親切に言うことにしていた。 世界がどんなに難解でも、自分がどんなに傷ついても、物事がどんなに悲惨でも。 彼女にとってさよならは祈りのようなものだ。 彼女自身はクリスチャンではなかったが、彼女は祈りを信じていた。 祈りには、どんな物事もないのだ。 そこにはただ祈りだけがあり、どんな言葉にも言い換えることなんてできない。 彼女は祈りを信じている。 祈りは自分のためでも、世界のためでもない。 そこに相手を認め、人格を認め、心を認め、そして祈る。 さようならと。
けれどもベッドの中で愛し合ったって、事態は好転しない。 情事というものは、事態とか事情とか考えてたらやってられない。 やってられないからするのだ。 もちろんある場合において。
そして思い出話もした。 けれども二人にはどうしたらいいかなんてわからなかった。 試練のことも頭によぎった。 けど、それでもわからなかった。 どちらかが愛してると言ってみた。 ならどうしてとまた一方が返す。 物事が絡み合う。 絡み合い、影を作り、二人を覆う。 そうすればするほど光なんて見えない。 二人は疲れてきた。 情事の後でもあったわけだし寝るきっかけを適当に探し、あるいは諦め、寝ることにした。
その日カルリは遊びにいくことにした。 彼女のなかでは遊びにいくときはいつもルールがあった。。 出発するときは一人。 帰るときも一人。 周りは彼女をおかしな女だと影で言い、あるいは目を見ずに直接言った。 カルリは酒を飲み、手を広げて歌った。 彼女の歌は周りを惹きつけた。 誰もがその自由な歌声を認め、孤独な眼差しに酔いを深めた。 誰かが彼女に話しかけた。 髪を褒め、歌を褒めた。 初めて君のような子を見た。 ノックアウトされたと言う。 その誰かはカルリと通じ合おうとした。 カルリはその視線をじっと見つめた。 カルリは彼を見つめていたのではない。 物事と世界を見つめていた。 彼女が恋だと気づいていたか、そうでないかはだれにもわからない。 彼女はただじっと、自分と世界の間を見つめていた。 それが魅力的な色をしていると彼女は思った。
そして彼女はルールを守って、一人で帰った。 彼はまた逢いたいと言ったのを思い出し、それから祈ることも忘れていた。
朝起きて、二人はそれぞれの生活を始めた。 空は晴れており、しっかりと影を作っていた。
男の方はなぜ愛が伝わらないのかその日一日中悩み、女の方は自分と世界の間について考えていた。
朝には雨がふり、正午には止んでいた。 しかしその日の雨が連れてきた醜い雲はなかなか消え去ることはなく、その日は一日中、その雲のような日だった。
男は夕方になると愛がわからなくなり、道端で人目を気にせず泣いた。 試練に対して、不幸に対しても、二人の障害に対して泣いた。 彼女の心の行方に泣き、自分に泣き、なんとかもう一度あの頃に戻れないのかと泣いた。 明日にはなにも解決していないだろうと泣いた。 どうしてこんなに世界は自分を突き放すのだろうと泣いた。 彼女に会いたかった。 今すぐ会いたかった。 男は泣きながら走ることにした。 彼女にこの思いをぶつけようと思った。 今この瞬間にも、自分の愛は膨らむのだと伝えようと思った。伝わるかどうかなんてわからない。 自信もない。けれども走った。 走って、走って、涙は叫びに変わった。 どこまでも走った。 街を走り、何度も人にぶつかり、柱にぶつかり、何度も倒れた。 夜になっても走り続けた。 恋人の場所を探し、彼女と最初に出会った店へ走った。
彼女はそこにいた。 出会った時と同じように両手を広げて、歌っていた。 出会ったときと同じように美しいと思い、出会ったときのように孤独だった。 もう一度向き合いたいと思った。
男は彼女の名前を呼んだ。
彼女は振り向き、祈るようにこう言った。
「さようなら」
カルリ
自分が楽しいばかりではダメですよね。 でも楽しくないとやってられないですしね。