ある彼
鋭くとがった刃物に似て、彼は若さ特有の維新にあふれていた。10代で初めて彼に会って、ゲームセンターで1夜を過ごしてから、磁石にひきつけられる金属となりはてる。もちろん磁石は彼。金属は私。「君は何だって、そんなに目をつぶっているんだ。目を開けて見てごらん。世界は何色だい?大きな鳥が飛んでいるだろう?」「赤い鳥。プテラノドン」私は彼の中に一つの内部世界を見て、答える。彼は十字のペンダントを指でもてあそび、離すと鋭く私を見た。「そうか。君は今も知っていることしか言えないのだな」私は瞬時に彼の意味するところをつかみ、よりかかったパンダのぬいぐるみにパンチを食らわせる。「今、あなたを一発殴った。どう?」私の得意そうな声で、彼はひるんだのか?「暴力は良くないね」と小さな声で言う。陽炎のような男だ。彼を初めて見た印象だ。それから、彼はトンボとなり、巨大昆虫となってしまった。今は虫となった彼。どこかで羽を鳴らして、飛んでいるのか?一方の私は?ミジンコになって,もう5年がたつ。こんなに寿命の長いミジンコはいなんだろうが、誰もミジンコの寿命についてマジメに調べていないし、研究者が調べるのは、多くのミジンコのことなのだ。私のことではない。「君。君」彼が図書館の静かさを破って、ギターをかき鳴らすロックミュージシャンよろしく大声で怒鳴る。その調和のない音は、私に不快さを押しつける。「これほどか!!これほどか!!」私の中で、大きな怒りが呼び覚まされる。かつて、エベレストが噴火したとき、多くの生命が失われた。そのうちの一つに私の父がいた。父はジャコウジカ。といっても、世界の理は無情だ。彼の母親であるマグマの中にいるアルケラージという無生物。それがジャコウジカに入って、卵子を発情させたのだ。彼は落ちこんでいた。なぜなら、彼は落ちこまなかったから。落ちこまない自分に落ちこんでいた。一見奇妙なことだ。私は優しく言う。「今おちこんでいるよ?」彼にとって落ちこんでいるかどうかはどうでも良いのだ。問題は人と同じという事実。彼は本当に落ちこんではいなかった。彼はまるで役者が登場人物になりきるように落ちこみ人になりきっていた。実際のところ、彼には理由らしきものもないのだから、沈みきるのも変な話だ。彼は結局、あのとき黙っていた気がする。どうしようもないのだ。彼の口を開かせるのは簡単ではない。むしろ、ポアンカレ予想より難しいのだ。熱い日がやってくる。彼が私を求めてくる熱い季節が、それは四季そのもの。ある一定の時間が過ぎると、やがてその関係は急激に冷えこむ。雪が降り、お互い家から一歩も出れない恋人たちのように。彼らには、何の連絡手段もない。そして、連絡する必要さえないのだ。また春が来れば、恋人たちは手をとりあって幸せになる。
彼が求めてきたのは知っていたが、しばらくの間私は無視した。すると、まず彼は泣いてみせた。次に怒り、笑い、不機嫌に、そして最後に無表情になった。彼の無表情は素晴らしく心地が良い。まるで、感情なんて、冬に置き忘れてきたかのようだ。どうでもいいから、もう私は受け入れた。最後の最後で、私はやはり生き物だったんだ。岩に似て動かない彼をもう誰も気にしない。もし彼が元人間であるとわかれば大騒ぎになるだろう。でも、彼はもう動かないし、いつかは消えてなくなるだろう。何千年、何万年、何億年後だろうか。でも、彼はやはり岩だったのだ。語り継ぐ私がいるからこそ、彼は私を求めたのだ。世界の中で、可能性を見いだすものは、全てのものを記述する。全てのものをメモする。だから、彼が消えたとしても、彼は永遠に生き続ける。私の中の彼。昆虫になった彼。岩になった彼。そして、人間だった彼。ミジンコから土星の輪になった私は、今日も彼のことを考えて、書く準備をする。頭の中で、今日も書く演習をする。試行錯誤のうちに多くの失敗が、やがて波にさらわれて、大海に吸いこまれていく。さようなら。さようなら。ありがとう彼。ありがとう岩。ありがとう世界。
ある彼