世界の神話・異聞 -鬼と人と-

蛇神を倒し、不死の呪いを受けてしまった死にたがりの男。
途方に暮れていても死ねないのだからと、彼は旅立つ。
新天地で出会ったのは、心を読み、未来を予知し、癒しの力を持つ鬼の巫女。
そして、新たな敵。

鬼の巫女

 最近分かったことがある。自分の体についてだ。あのくそ忌々しい呪いを受けて、死ななくなってから一か月ほど過ぎようとしていた。
村を出て、自分のことを世界の管理者とうそぶく神からもらった地図を片手に、道と呼ぶには少々難のある道を進み続けて、途中で無駄にデカい昆虫やら獣やらにエンカウントして戦わざるを得なくなった時に違和感を覚えた。
過去にちょっとした理由で少々体を鍛えた経験があるから、まあそこそこの体力や力はあるかなとは思っていた。ただ、固そうな昆虫の甲殻をジャブ一発で凹ませたり、人よりでかい獣を骨ごと難なく両断できたりするのはさすがにおかしい。そこで、近くにあった大木を思いっきり殴ってみることにした。幸い、というのもおかしな話だが、呪いのせいで怪我はすぐに治ってしまう。痛いのは最初だけと、大きく振りかぶって木の幹ど真ん中に拳を叩き込んだ。
返ってきたのは、あまりに軽すぎる感触。叩いた方の木はというと、殴った場所からぽっきりとへし折れてしまった。
「・・・腐ってたのかな」
「そんなわけないでしょうが」
 僕の考えは即座に否定された。声の方を向く。黒髪の美少女が呆れた顔でこっちを見ていた。僕の旅の同行者・クシナダだ。

 一か月前、僕を含む八人が、元いた世界からこちらの世界に飛ばされてきた。ある土地を支配していた蛇神に生贄として捧げられるためだ。自殺志願者だった僕はそのまま喰われて死ぬのもいいか、という境地だったが、どこをどう間違ったか自分を殺してくれるはずの蛇神を、クシナダたちと一緒に殺してしまった。僕にかかった呪いはその蛇神からのありがたくないプレゼントで、その効力は怪我をしても瞬く間に治してしまうという、自殺志願者にとっては迷惑この上ないものだ。ただ、それだけではなかったようで。
「みなさい。みっちり中身の詰まった元気な木よ。これは、樫? 家を建てるときにも使う非常に硬い木なんだけど、それをまあ、いとも簡単に・・・」
 コンコンと倒れた木を叩き、彼女がわざとらしくため息を吐く。
「大分人間離れしてきたわね。お互いに」
 お互いに、というのは、彼女もまた、呪いを受けた人間だからであり、自分の体の異変に気付いていたからだ。
 彼女の場合は、視力や嗅覚、聴力が発達し、隠れている獣の気配を察知する、毒のある植物を嗅いだだけで見極める、離れた場所の小川のせせらぎを聞きとるなど、まるで蛇神の能力をそのまま受け継いだかのようだった。蛇神は五感が非常に鋭く、自分の支配地域のことすべてをその能力で把握していた。
「私は感覚を、あなたは力をそのまま引き継いだみたいね」
「の、ようだね」
 お互い顔を見合わせて苦笑する。そんなことをしあえるくらいには仲良くなっていた。
 出会った当初は、仲は良くなかったはずだ。僕は生贄、彼女は加害者、しかも生贄の儀式は僕のせいで失敗し、そのせいで彼女の父親は蛇神に殺されている。仲良くなる要素はなかった。蛇神を倒す共同作業と一か月もの旅は、その辺のわだかまりやらなんやらをほどく程度の要素はあったらしい。
 なぜ、今、彼女と共に旅をしているのか。
 まず、死ねなくなった僕は途方に暮れた。不死の呪いなど本末転倒もいいとこだ。さて、どうしようかと悩んでいるところに神が言った。この世界には、僕の世界の神話と同じ数の分だけ以上に化け物がいる、と。
 死ぬまで退屈しのぎに戦っほしい。ってことらしい。言外にそういう意味をくみ取った。
 神の仕事は、世界の要望を受けて、その場所に適した人材を送り込むこと。僕をこの世界に放り込んだのも、生贄にする理由のほかに、この世界の人間を食い過ぎ、バランスを崩す可能性のあった蛇神を倒させるため。この世界の要望に応えたまでだったのだ。この世界には、他にもバランスを崩す化け物どもが神話の数だけいるらしい。
 結局僕は、神からのその話を受けた。
「そんなわけで、僕はここから出てくよ」
 村の連中にそう告げると、多くが引き留めようとする想定外の事象に遭遇した。
ずいぶんと好かれたもんだ。当初、僕はこの村の人間に毛嫌いされていた。僕のせいで、生贄の儀式が失敗したからだ。別段僕は謝る気もなければ罪悪感もない。一応こちらは生贄にされかけた被害者側だ。
 僕の心情に変わりはないが、村人たちの心情には劇的な変化がもたらされたらしい。代わる代わる僕を引きとめに来た。ゆっくりと余生を過ごすのなら、別段残ってもよかったけれど、断った。これでもまだ十九、平均寿命の七十まで五十年もある。これからの五十年を、ただ死を待つためだけにこの平和な村で過ごせない。
 基本理念は変わらない。僕はこの世界に死にに来たのだ。化け物の中には僕を殺しうる攻撃方法を持つ奴もいるかもしれない。だから死ぬために、戦いに行く。神との約束もあるから、やれるだけやってみるけど。僕はこう見えて約束は守る方だ。
 完全なる自己満足の賜物なのだが、なぜか村人たちは感服しきっていた。どうやら、この村のように、どこかで化け物の脅威に怯えている人々を救いに行く、的なニュアンスで受け取ったらしい。
 面倒なので誤解は解かずにおいた。しつこく引き留められるよりその方がよっぽどましだ。
 僕に対するこの誤解は、思わぬ土産を渡されることにつながった。
「これを持っていくといい」
 出立準備をしていた僕のもとに、村のまとめ役になった老人が現れた。彼が持ってきたのは、柄の部分が握りやすいように加工された以外は、拵えもない無骨な、傷一つない真っ白な長剣だ。
「何これ」
「元はあの蛇神の牙よ。それをヤマザトが加工しておった。『オロチの死体からは剣が生まれないとね』とか、酔っていたのかよくわからんことを言いながらな」
 ヤマザト、山里幸彦は僕と同じく異世界に生贄として放り込まれた一人だ。優れた職人で、蛇神と一緒に戦った戦友、みたいなものだ。戦いを生き延びた彼は神に連れられて元の世界に戻っている。離婚した妻子と仲直りできたのか気になるところだ。
「厄除けにご神体として、記念碑と一緒に祭ろうかとも思ったが、お主が持って行くのが相応しいよ」
「いや、いらないんだけど」
「まあ、そう言わず。我らから渡せるものなどこれくらいなのだ」
 しばしにらみ合いが続いた。長旅になるのにそんな重たそうなものいらないのに、という僕に対し、持って行けの圧力をかけ続ける相談役。結局僕が折れることになった。持ってりゃ杖代わりになるか、と軽い気持ちで、ありがたくいただくことにする。
 差し出された剣の柄を持つ。瞬間、ゾクン、と脈動が剣から伝わってきた。そして、僕の握っている柄の箇所から血の様な赤が滲み出し、白を侵食し始めた。剣先に至るまで侵食され、真っ白だった剣は呪われた僕が持つに相応しい深紅の剣になった。
「こ、これは・・・一体・・・」
「蛇神の呪い、かな?」
 驚く相談役とは対照的に、僕は別段気にせず、適当にそこらの布で巻いて、ロープでリュックに括り付ける。
「そ、そんな雑に扱っては、祟りでもあるやも・・・」
「いまさら気にするほどのことでもないよ」
 リュックを背負い立ち上がる。
「んじゃ、世話になったね」
 後ろ手に手を振って歩き出す。十日程度世話になった大部屋を後にした。
 外はまだ暗い。もうないとは思うが、出ていこうとするのを妨害、良く言えば引き留めようとする人間もいないとは限らないからだ。
 ゆっくりと村の中を横断する。蛇神との戦いからまだ三日目、そこかしこに傷痕は残ったまんまだ。半壊した家屋、壁を突き破って飛び出たまんまの罠『パイルバンカー』、それを頭から突き刺した蛇の抜け殻。
 改めて、よく勝てたと思う。この蛇神は、こちらが罠を張っているのを知り、それを打ち破って人々に絶望を与えようと画策した。その結果がこの抜け殻だ。わざと罠にかかり、そして脱皮して罠を回避したのだ。傲慢で、嗜虐的で、賢かった。賢くて、その賢い自分が罠を回避するであろう、ということを僕たちが想像できるとは思わなかった。思考を、その一歩手前で止めてしまった。そこで詰めを誤り、討たれた。
 脱皮した本体ともいえる方は、死んだら全部砂になって消えた。代わりにこの皮のほうはあの時のまま残っている。
濁った赤色の、人の頭よりでかい目玉がこちらを見ている。
「これ、どう処分する気なんだろう?」
 はっきり言って、邪魔だ。体長五十メートルを超す八つ首の蛇の抜け殻が、村のど真ん中にあるのだ。しかも腐臭を放ち始めている。金運上昇のラッキーアイテムどころか、このままだと衛生的によくないだろう。これを一気に片付けることは、この世界の住人には難しい。ちょっとずつ切り取って、山に散布するか燃やすしかない。
「これから出ていくあなたには関係のないことでしょう?」
 声をかけられた。声の方を振り向くとクシナダが立っていた。なぜか、完全装備、といった出で立ちだ。右肩には矢筒と山里印のコンジットボウ。左肩からは皮で出来た鞄を下げていた。毛布みたいな外套で体をくるみ、頭だけ出している。
「狩りにでも行くの?」
 正解ではないと思われるほうの推測を口にした。
「狩り、といえばそうね。獲物は猪でも鹿でもないけれど」
「あっそ」
 僕はその横を通り過ぎる。すると、彼女は僕の後ろについてくる。
「村、どうする気だよ。村長代理の責務は?」
 歩きながら、振り向くことなく尋ねる。
「村のことはサルヒコさまにお願いしてある。さっき会ってたでしょ? 彼が新しい村長よ」
「サルヒコ、ああ、相談役のじいさんか」
 そういう名前だったのかと今更気づく。
「あのダイコクが、よく許したな」
 許嫁であり、クシナダのことが好きで仕方ないダイコクをよくもまあ説得できたものだ。
「説得なんてしてないわよ?」
 平然と言われた。
「は?」
「このことを話したのはサルヒコさま含めた数人だけ。ダイコクには言ってない。絶対止められるから」
 このことを彼が知ったら怒り狂うだろうことは想像に難くない。が、結局のところ僕には関係ない。どうせここから出ていく身だ。
「別段僕は君がどう行動しようと知ったこっちゃないんだけど、理由だけ聞いていい? どうして出ていこうと思ったの?」
 僕はようやく、隣の美貌をまじまじと見つめた。
「理由、ねえ。いくつかある。一つは、世界の外側を見てみたくなったの」
 彼女が僕の方を向いた。
「村で生まれて、蛇神に生贄を捧げて、その繰り返しで、そしてこの村で死んでいくんだと思ってた。それしかないと、それしか知らなかったから。けれど、あなた達が来た。私の知らないことを知り、その知識を持って蛇神を討った。あなたたちは、私たちに与えた影響がどれほどの物かわかってない。私の未来を変えることができるくらい大きかったのよ」
 体の方もすっかり変わってしまったしね、と皮肉げに笑う。彼女の体もまた、僕と同じ不死の呪いを受けていた。本人は言わないが、おそらくそれも、村を捨てる理由だと思う。自分がこれまで村を苦しめていた蛇神と同じ体になったなど知られたら、村人たちはどう思うだろうか。もちろん、彼女もまた蛇神討伐の功労者。ぞんざいに扱うことなどないはずだ。けれど、心の内はどうだろうか。けして偏見の目で見ない、など、誰が言いきれるだろう。
「で、他には?」
 そのことには触れず、僕は話の続きを促す。
「そうねえ、後は、あの忌々しい蛇神の他にも、人を害する化け物がいるならやっつけてやりたいってのも一つね。私、意外に血の気の多い女だったようよ」
「え? てことは、ついてくる気?」
 化け物を退治するってことは、化け物マップを持つ僕の旅に同行するってことだ。
「何嫌そうな顔してんのよ。一人よりも二人のほうが旅は退屈せずに済むわよ。大体約束を忘れたの?」
 むっと膨れる。こんな表情も持っていたのか。蛇神がいたころには考えられないくらい、彼女は感情豊かになった。
「忘れたって、何をさ。蛇神は倒した。あんたとの約束は守ったぞ」
「私の、じゃなくて、あなたとの約束の方よ。言ったでしょ? 死にたがりのあなたに。すべてが終わったら、私が殺してやるって」
 蛇神との戦いを前に、彼女と交わした約束だ。お互い不死になったため、無効だと思っていた。
「何よ、本当に忘れてたの?」
 呆気にとられている僕を見て、すねたように唇を尖らせる。それに「いいや」と苦笑いで返す。
「じゃあ、その時は頼むよ。改めて、宜しく。クシナダ」
「こちらこそ。スサノタケル」
 フルネームで呼ばれて、思わずずっこけそうになった。
 僕の名前は、僕がいた世界に伝わる神話の英雄と似ている。漢字にすると須佐野尊だ。しかもその英雄も巨大な蛇を退治したことで有名だ。あまりにこの世界にマッチしすぎていて、一緒にこの世界に飛ばされた山里たちには大いにからかわれた。彼女はその辺のことを知らないから仕方ないが、どうにも落ち着かない。自意識過剰だろうか?
「・・・タケルでいいよ。長いだろ?」
 本当の理由は告げず、僕はそう言っておいた。


 そうやって二人連れ添って、まるで駆け落ちみたいに村を出た。地図のおかげで、次の目的に迷うことはなかったから、旅自体は順調だった。
 神からもらった地図は、紙製の癖に水濡れ、火に強く、多少雑に扱っても破ける気配がない。しかもカーナビみたいな動作をするから道に迷うことはなかった。地図中央に僕たちを現す三角マークがあり、勝手に行先、おそらく一番近くにいる化け物のいる方向へと道順が現れるのだ。ファンタジーのイメージを簡単に覆すなあと最初はどうかと思っていたが、別段地図好き、マッピング好きでもない僕には丁度いい。使える物は何でも使うべきだ。
 そして、三十回ほど昼夜が入れ代わり立ち代わりして、次の日の朝。
 最初に気付いたのはクシナダだ。彼女の感覚が、地面から伝わる振動を捉えた。
「何かくる」
 そう言って弓矢を背負って木に登る。僕も、リュックから剣を取り、肩に担ぐ。
「どう?」
 下から尋ねた。
「人の声もかすかに聞こえる。息が荒いわね、走ってるみたい。何かに追われてるのかな」
 追われる、か。人が追われるってことは、それなりの獣に出くわしたのだろう。
「こっちに来そう?」
「微妙ね。方向はこっちだけど、ちょっとずれてる。じっとしてれば遭遇することはないと思うわよ」
 目的を果たした彼女が木から飛び降りて目の前に着地した。
「で、どうする?」
 僕に尋ねてきた。
「どうするって?」
「助けに行くのかってことよ」
「どうして? 縁もゆかりもない人をいちいち助けるなんて、面倒だよ?」
「まあ、そりゃそうなんだけど」
「蛇神を倒したからって、あの村の人間に感謝されたからって、僕の性格が変わることはないよ。突然正義に目覚めて、強きを挫き、弱きを助けるなんてことはしない」
「まあ、そうよね。私も、やはりあの村の狂気が残ってる気がするもの。自分が危険な目に遭わないなら、誰が犠牲になろうといいじゃないか、って」
 僕たちは助けないことを示唆する言葉を言い合う。そのくせ、二人の手から武器が離れることはなかった。
「しまわないの?」
 彼女の左手を指差す。弓が握られたまんまだ。
「そっちこそ」
 彼女が僕の右手を指差す。布にくるまれた剣の腹を、僕の手は握ったまんまだ。
「これだけ言っておいてなんだけど、僕は面倒なのが嫌いな癖に、退屈なのも嫌いなんだ」
「うん、それで?」
「少し、退屈を紛らわせに行こうと思う。目的地までの方向と一緒だし」
「ああ、それなら仕方ないわね」

 僕でもわかるくらいまで気配は近づいてきた。草木を踏みつぶし引きちぎりながら、大きな何かが来る。
 クシナダは少し離れたところで矢をつがえて待機している。作戦としては、僕が一度ぶつかって、全貌が見えたらクシナダが弱点を射抜くという、極めてシンプルなものだ。不死ならではの作戦だ。
 目の前の茂みをかき分けて転がり込んできたのは、三十から四十くらいの男性だ。顔を恐怖に歪めている。見開かれた目が僕を見た。
「逃げろ!」
 そう言って僕の横を男性は駆け抜けていく。だが、僕が動こうとしないのを見て、足を止めた。体力のない時に止まったら、再び走るために余計力がいるのに。
「何してる! 早く逃げろ!」
 息を切らせながら男性が叫んだ。僕は無視し、男性が駆けてきた方向を注視する。
「ああ、ほら、追いつかれた!」
 そう言って男性は再び回れ右して駆けようとした。が、足腰が弱ったのか、一歩目で転倒してしまう。悪態を吐きながら立ち上がろうとしている男性をしり目に、僕は目の前に現れたものと対峙する。
 体長は僕よりでかい。縦も横も倍以上あるので見上げる形になる。人型で、筋骨隆々、二の腕部分なんて僕の胴回りより一回りはでかい。ボロボロの布で腰を覆い、ぶっとい腕にはそれに相応しいでかい棍棒。伸ばしたい放題のもじゃもじゃの髪、その奥からのぞくぎょろっとした大きな眼に荒い息を吐くでっかい口とそこから飛び出た牙。極めつけは頭頂部から生える一本の角だ。これらの情報をまとめ上げると、僕の持つ知識では一つしか思い至らない。
「鬼、だな」
 蛇神の次は鬼ときたか。何とも多種多様の魑魅魍魎が跋扈してらっしゃる。
「何だお前は!」
 鬼が僕に口をきいた。てっきり違う言語体系なのかと思っていたら、そうじゃないらしい。ただ、そのデカい口から吐き出されるでかい声は人間の域を飛び越えている。うるせえなあと思いながらも、言葉が通じるならとりあえず話してみる。僕が話しかけているからか、クシナダも様子見するようだ。
「何だ、と言われても。ただの人だ。旅行中の。で、そっちは?」
「騙そうったてそうはいかんぞ! そこにいる鼠の仲間であろう!」
 鬼が指差した方向には、怯えて縮こまっている男性がいた。手をこすりあわせて、何か祈っているようだ。
「勘違いだ。僕とその人は今初めて会った。鼠だとか何とか、何の話かさっぱり・・・」
「とぼけるな!」
 僕の言葉は鬼の一喝で消し飛んでしまった。聞く耳を持ってはくれそうにない。
「そうやって仲間の息が整うのを待っているのだろう! 小賢しい! 今すぐに叩き潰してくれる!」
 鬼が棍棒を振りかぶった。悲鳴が後ろから聞こえる。さて、ここで問題だ。この一撃で僕は死ねるだろうか?
 答えは否だ。多分、痛いだけ。棍棒の材質は結局のところ木材。今しがた樫の大木をぶん殴って痛みすら覚えず無事だった体だ。ま、一応試してみようかと身構える。
 振り下ろされた棍棒は人間の一人や二人を簡単にミンチにしそうな勢いがあった。僕がただの人間であるなら、それは速やかに実行されただろう。
 が、結果はそうならなかった。
「痛い・・・」
 僕の足は地面にちょっとしたクレーターを作り、僕の頭は棍棒に小さな凹みを作った。
「なっ、お、お前!」
 棍棒に視界を奪われ前が見えないが、鬼が驚愕している様子はわかった。
「ひ、ひいいいいいいぃぃぃぃ!」
 後方へ悲鳴が遠ざかっていく。多分あの男性だろう。恐怖が肉体を超越し、体を動かしたってとこか。
「とりあえずさ、これどけてもらっていい?」
 棍棒を指差す。伝わったらしく、ゆっくりと棍棒が持ち上げられる。木の破片がぱらぱらと落ちてきて鬱陶しい。手で頭や顔を払い、口に入った木くずや砂を唾と一緒に吐く。
「やっぱダメか」
「駄目か、ではない! お前は一体何なんだ! 化け物か!」
 化け物っぽいやつに化け物と言われてしまった。心外だ。
「まあ、落ち着けよ。世の中は広い。この程度で死なない人間くらいいるさ。それよりも、人が話している途中に棍棒でぶん殴るって、あんたこそ人としてどうなんだ?」
 鬼を人のカテゴリで扱っていいのかはわからないが、話が通じるんだからまあいいか。
「何のために言葉があり、意志疎通ができると思ってんだ? とりあえずちょっと座んなさい」
 まずは率先してどっかと地べたに座り込んだ。そして、バンバンと地面を手のひらで叩く。音に怯えたわけでもないだろうが、鬼はちょっと肩を狭めるようにして、僕の前に座った。
「僕はタケルというもんだ。あんた、名前は」
 まずは僕から名乗り、促す。
「あ、安達ケ原の守り人、タケマル」
 得体のしれないものと対峙しているような恐る恐るといった感じで、守り人タケマルは名乗った。タイミングよく、クシナダも弓を仕舞ってこちらに現れた。彼女の登場に、僕に気を取られていたタケマルはまたもびっくりした。
「なんでこんなことになってるの?」
 僕の隣に座って、耳打ちしてきた。
「僕らの向かう方向から来たんだ。何か情報でも持ってないかと思ってね。それに人を問答無用で叩き潰そうとしたんだ、それなりの事情を持ってるだろう?」
 なあ? と、僕は鬼に向かって笑いかけた。
「さあ、話してもらおうか。さっきのおっさんは何者で、タケマルはどうして追いかけていたのか」
「む、う」
 タケマルは唸った。なにやら言いにくいことでもあるらしい。それを見て、僕はあからさまに落胆し、ワザとらしいくらいの大きなため息を吐いた。それを見て、クシナダも僕がどういう風な行動をとるか察したらしい。
「あてが外れたようねぇ? だいたい、問答無用で人を殴るような奴が、素直に非を認めて何でもかんでも話すわけないじゃない」
「の、ようだね。残念だ。残念極まる。僕の人を見る目がなかったということか」
 そんなことを言いながら、僕たちはチラ、チラとタケマルの方を覗き見る。プルプルと肩を震わせている。
「ようく分かったよ。世の中には、見ず知らずの人間を殴っても謝りもせず、殴った理由も明かさずだんまりを決め込むような人がいるということだね」
「そうね、諦めなさい。この世に慈悲も情けもないのよ。あるのは己の都合のみ。他人がどうなろうと知ったことではないんだわ」
 そしてチラ。
「わかった!」
 耐え切れなくなったか、タケマルは自分の膝を叩いた。意外と人間臭い。
「何がわかったというのだろう? あ、もう僕らのことは気にせず、自分のことだけに専念してもらっていいよ。僕らは荷物を持って、今すぐここを立つので」
「そうそう。ここにいても何ら得る物が無いから、さっさと旅の続きと参りましょう。あぁあ、三十の夜を越えて、道なき道を歩き続けて、最初にお会いしたのが、たまたま、ごく稀に存在するような礼儀知らずとは、この世はままならぬものね」
「わかったって言っただろうが! 話す! 訳を話す!」
 僕らは渋々話し始めたタケマルをみやりながら、ほくそ笑む。

「あれが、俺たちの暮らす安達ケ原の村だ」
 タケマルに案内され、僕らは森を抜けた。視界の開けた、なだらかな斜面の先に、木の柵で囲まれた集落が見えた。柵の中の奥の方には数百人くらいが住む規模の家屋が見える。タケマルは村の中に立つ櫓に向かって手を振りながら斜面を下っていく。僕らも後に続いた。
「訳は、詳しくは教えられん」
 森の中で、タケマルはまずそう言った。どういうことだと僕とクシナダの視線が語る。焦ったようにタケマルが顔の前で手を振った。
「喋らないってわけじゃない。俺が喋れる部分が限られているってことだ」
「タケマルは他の仲間から、余計なことは喋るな、と口止めされてる?」
 クシナダが言うと「そうだ」と頷いた。そして自分が喋れる範囲のことを話してくれた。
「俺が追っていたあいつは、近隣にある敵対する国の一味だ。あの野郎、井戸に毒を流し込みやがった。おかげで何人もの仲間やその家族が倒れて寝ている」
 タケマルの歯ぎしりと拳を握り込む音が聞こえた。よほど腹に据えかねているのだろう。
 タケマル達の村ともう一つの国とは、絶賛交戦中のようだ。そこへ、僕らが現れた。見たところ、タケマル達と敵対する人種は見た目からも全然違うようで、かつ僕は敵の人間と同じような姿かたちをしていたもんだから、仲間と思われて襲われた、そういう理由みたいだ。
「それでも、たとえば捕まえて捕虜として連行するとか、そういう発想は無かったの?」
 こっちは対話も試みようとしていたのだ。それを頭に血が上っていたからといって叩き殺そうとするのはいかがなものだろうか。
「捕まえれば、僕から情報を聞き出す選択肢もあり、その情報が今後の戦いを有利に進めるかもしれないのに」
「そ、それは、その、面目ない」
 しゅんとして、その大きな両肩を落とす。迫力のある体格をしているくせに、妙に素直な奴だ。もしかしたら、鬼の中でも若い部類に入るのではないだろうか。
「まあ、良いさ。じゃあ、案内してもらおうか」
 そう言って僕は立ち上がる。
「案内?」
 不思議そうに首を傾げるタケマルに「当たり前だろ」と告げる。
「あんたが喋れない部分を、他の誰かに聞くためだ」
「ちょ、ちょっと待て。言っただろう。今村は敵と戦っている最中だ。そんな中にお前らなんか連れて行けるか。まだ疑いは晴れたわけじゃないんだぞ」
「その疑いを晴らすためにも、疑われた理由を聞くためにも、ついでにここで何の罪もないのにタケマルに殴られて痛い思いをしたのでその賠償金を払ってもらうためにも、僕たちは行かなきゃならないんだ」
「なあ、お前、根に持ってんのか? 傷一つついてないくせに」
「怪我してないからといって、殴った事実がなくなると、本気で思っているのかい?」
 タケマルは大きなため息を吐いて、のっそりと立ち上がった。

 村に近づけば近づくほど、僕らは見上げる首の角度をあげなければならなかった。それほどまでに村を囲う柵は高く、柵を構成している木は僕が折った樫の木のもっと成長した巨木を何本も重ねて作られていた。ここまでがっちり固められたところから、あの男性は良く逃げられたものだと思う。
「安達ケ原の守り人、タケマル! ただいま戻った! 開門願う!」
 腹の底に響くような大声を出して、タケマルが門の前で怒鳴った。門の上のほうで、何者かが顔を覗かせる。タケマルと似たような感じの、これも鬼だ。
「よくぞ無事戻った! しかし、タケマルよ! 隣にいる連中は何者だ! お主が追っていた男ではないな! 敵の仲間か!」
「わからぬ! 本人たちは旅の者と名乗っておる! 俺では判断つきかねる故、巫女様にご判断いただきたい! 本人たちも疑いを晴らすために巫女様に謁見したいと申しておる!」
「わかった! ・・・旅の者よ!」
 門番が僕らに呼び掛けた。
「現在我らは敵と戦の真っ最中だ! 中で荷物を検めさせてもらう! あと不自由をかけるが、村の中では監視を付けさせてもらう! この条件が飲めぬ場合は、早々にここから去ってもらう!」
 戦争中の村に入ろうというのだ、仕方ない措置だろう。いきなり拘束されなかっただけましだ。
「問題ない! そっちが良ければ入れてくれ!」
 その返事で満足したのか、門番は言葉ではなく行動で示した。さび付いたドアが奏でる開閉音にもう少しウーハーを効かせて重厚さを加えたような音を立てて、門の一部がゆっくりと持ち上げられていく。観音開きではなく、すだれみたいに上部に巻き上げるタイプだ。
 門の中は、僕の想像とちょっと違った。タケマルや門番を見て、全員が巨大な鬼タイプかと思っていた。だが村の中を行きかう人たちは、確かに大柄だが、それは僕より少し大きいくらいで、人の域を出ない。不思議に思って隣のタケマルを見上げ、いなくなっていることに気付く。
「あれ、タケマル?」
「何だ」
 声だけ返ってきた。僕の視線の少し下からだ。そこには、見知らぬ男性が僕と同じ速度で歩いている。体に巻いているのは、タケマルが腰に巻いていた布に似ていた。誰だこいつは。怪訝な顔で見ていると、男性もこちらを同じような顔で見て「だから、何だ?」と尋ねてきた。
「まさか、タケマルか?」
「そうだ」
 ひさしぶりに驚いた。さっきまでの筋肉隆々の鬼が縮んでしまっていたのだ。三メートル以上の身長が二メートル未満くらいまで低くなり、ムッキムキだった筋肉もしぼんでいる。それでもボディービルダーくらいはあったが。言われてみれば、ああ、と気づく程度に面影がある。
「あ、そうか、術を解いたからな」
「術?」
 クシナダが聞き返した。この世界の人間である彼女も知らない知識らしい。するとタケマルは得意げに胸を張った。
「俺たちは自分の体を強くする術が使える。さっきの姿を見ただろう? 力は倍以上、走る早さも格段に上昇するんだ。体の方もやわな剣や槍なら傷をつけることすらできないくらい丈夫で頑丈になる。俺たちはそうやって、圧倒的に人数の多い敵と戦えているんだ」
 俺一人で、あいつら十人と戦って蹴散らせるんだぜ。タケマルはそう自慢げに言って力こぶを作った。あの姿を見れば、十人どころか百人くらいでも勝てる気がする。力の強さもさることながら、あの姿に恐怖し、身動きが取れなくなるだろう。
「だから敵は毒を使ったのね? 正面からでは勝ち目がないから」
「そうだ。さすがの俺たちも、体の内側まで強くできなかったってことだ」
「その割には、村の雰囲気はそんなに暗くないのね。被害が出たなら、もっとピリピリして、それこそ私たちはすぐに取り押さえるくらいはしそうだけど」
「それは、ひとえに巫女様の力さ。あの方の一族は、俺たちよりも強い術が使える。未来のことを予知して天災を予期したり、手をかざすだけで死に至るほどの傷や病を治したりも出来る。あの方のおかげで、今回の毒の件も、死人が出ずに済んでいる」
 手をかざすだけで? とクシナダは驚いている。僕も驚いている。それは他人の体に干渉できるということではないのか。タケマル達は自分の体を強くできる。で、巫女とやらは他人の体も強くできる、ということは、相手の体を相手以上に理解できるということになる。僕の考えをタケマルが裏付ける。
「巫女様には隠し事が出来ない。あの方は見ただけで相手の心の内を読まれる。巫女様に謁見するからってことで通されたみたいなもんだ。あの方が大丈夫、敵じゃないと言ったら間違いないからな」
 それを聞いて、ぜひとも巫女とやらに逢いたくなった。もしかしたら、この体にかかった呪いを解析してもらえるかもしれない。
 僕らは大通りをまっすぐ進み、村の中央に位置する大きな屋敷の前に到着した。この屋敷だけ、更に周囲を柵と堀で囲まれていた。入口の前には術のかかっている門番が二人、槍で武装して立っている。
「ここだ。ちょっと待ってろ」
 タケマルが門番に近付く。今のタケマルだって二メートルくらいあるが、彼らと並ぶと大人と子どもだ。
「守り人のタケマルだ。巫女様に謁見願いたい」
「連絡は受けている。後ろの二人がそうか」
 二人の門番が僕らへ視線を向け、ちょいちょいと手招きした。
「申し訳ないが、荷物はこちらに置いて行ってもらう。あと身体を検めさせていただきたい。門番からも通告があったと思うが、今は戦の最中だ。お前らが敵であるとも限らん。巫女様に危害が及ぶ可能性を無くすためでもある。理解と協力を求める」
 当然の措置だと僕は頷いて、リュックを彼らに差し出す。隣ではクシナダが、肩から荷物を降ろしていた。差し出された門番の大きな手だと、僕のリュックなど巾着袋みたいに小さい。
「構わん。通せ」
 凛とした声が響き、鼓膜を通過する。
 屋敷の奥から、白地に赤い模様の着物を纏った女性が出てきた。額から二本の角を生やした、肉感的で大人の色香を満載した、姉御肌っぽい美女だ。彼女が現れた瞬間、門番とタケマルはその場に膝をついた。「よい、よい」と女性は声をかけ、彼らを立ち上がらせる。
「その二人はそのまま通せ。安心せい。この者らに敵意はあらぬよ。荷を検める必要もない」
「しかし、トウエン様」
 門番二人が、責務を果たそうとトウエンと呼ばれた女性に訴える。すると、女性はからかうように笑みを浮かべた。
「ほう。仕事熱心で感心じゃ。が、そこに居る一人は女じゃ。お主ら、まさか儂の前で、若い女をひん剥くつもりかえ? お主らの妻たちが聞いたら、さて、今晩の飯が無くなるだけで済むかのう?」
 う、と言葉に詰まる門番たち。こんないかつい体をしている癖に、よほど自分の奥さんが怖いらしい。かかあ天下はどこでも同じなのか。まあ、仲の良い証拠なのかもしれないが。仕事と妻の怖さの間で揺れる門番たちを見て、ぷっと女性が吹き出す。
「大丈夫じゃから、お主らは仕事に戻れ。それとも、儂の言葉が信じられぬか?」
「いえ! そんなことは! ・・・かしこまりました」
 門番たちが、僕の前に道を譲る。それを見届けた彼女は、再び玄関の奥へと消えていく。
「おい、早く行け。巫女様を待たせるな」
 タケマルが声をかける。
「巫女、じゃあ、あの人が?」
「そうだ。あの方こそ安達ケ原の巫女、トウエン様だ」

 玄関から廊下をまっすぐ行ったところに、板張りの間があった。武道の道場みたいだ。
「すまぬが、そこからは土足は止めておくれ。履物を脱いでくれい」
 奥から声をかけられる。言われた通り、僕はスニーカーを、クシナダは藁で編まれたがんじきを脱いで板間に上がる。正面にトウエンと呼ばれた女性が正座している。
「お主らも座れ。立ったままでは落ち着いて話も出来まい」
 言われるがまま、僕たちは荷物をおろし、彼女と面するようにして座る。
「この村の巫女、トウエンと申す。まずは、謝らせてもらおう。タケマルが迷惑をかけたようじゃな」
 おや、と思った。殴られたことを僕はトウエンに話してない。タケマル経由で話が言ったのかな? 疑問はあるが、まずは話を進める。
「気にしなくていいよ。別段怪我もしてないし」
「その割には、迷惑をかけられた分、ふんだくろうと考えておるではないか」
 コロコロと楽しげに巫女は笑う。クシナダが驚いて僕の方を見た。見られても困る。驚いているのは僕の方だ。巫女に対して迷惑料云々の話を言った覚えはない。
「そう警戒するな。タケマルから聞いていたであろう? 儂は心を読む。こうして面と向かって会えば、考えていることぐらいならわかる」
 タケマルの言葉を、もはや疑う余地はなさそうだった。彼女の前で隠し事も下手な考えも通用しそうにない。
 この村の住人は体を強くする術が使える。なら彼女は、体だけでなく脳にも強化の術が働いているのだ。それが、天災の予知や読心術につながっている。
 人の脳内は僕の世界でも解明されてないブラックボックスだ。ただ、いろんな可能性があったのでは、とはよく言われている。曰く、過去にはテレパシーが使えた。曰く、現在の数十倍の力を振るうことができた、などいろいろだ。神話でも、聖人は手をかざしただけで人々を癒したとある。眉唾物だと思っていたが、彼女たちを見ていると実際のことではないかと考えを改めさせられる。
 脳内には空を飛んだり魔法を使ったりするデータなどが大量に残っている。けれど、現代に生きている人は、それを実行するためのツールが無い。空を飛ぶための知識はあるのに翼が無い、そういうことじゃないだろうか。
 この異世界の人間は、僕らが時間とともに捨ててきた可能性をまだ持っているということか。
「そうか、お主、別の世界から来たか」
 またも、トウエンに心を読まれた。考えていることがこうも簡単に読まれてしまうと、正直いい気はしない。
「ああ、すまぬ。ワザとではないのだ。儂とて、好きで人の心を読んでおるわけではない。普通の声のように聞こえてしまうのじゃ。許してほしい」
「心を読むのは、術、という訳じゃないのか?」
「そうかもしれぬし、違うやもしれぬ。儂は自身にそういった術をかけた覚えはない。が無意識のうちにかけていることも否定できぬ。厄介な物よ。恐れられこそすれ、好かれる要素など皆無なのだからな」
 ふう、と、けだるげに息を吐いた。そうだろうな、僕のように、いい気はしない、と思われているのが分かるのだから、気も滅入るだろう。タケマル達の慇懃な態度も納得だ。心の内を知られる、というのは、無防備な弱い部分を曝しているに等しい。尊敬以上に、畏怖の念が勝つのだろう。
 なんとなく、この場の空気が重くなった。それを察したか、クシナダがそれを入れ換えるために話を振った。
「あー、改めて、名乗らせてください。私はクシナダとも申します。こっちの無愛想なのがタケルです」
 無愛想は余計だ。
 僕の無言の抗議などどこ吹く風で、クシナダはトウエンにこれまでのことを話す。僕がこの世界に死にに来たところから、蛇神を倒したこと、そのせいで死なない呪いを受けたこと、僕を殺せる敵を見つける旅に出て今日に至るまで。
「ならば、一つ儂の頼みを聞いてくれぬか」
 僕らの話を聞き、トウエンが神妙な顔で言う。少しだけ面倒そうな匂いを嗅ぎ取りつつ、僕はトウエンの言葉の続きを待つ。
「タケマルに聞いた通り、我らは隣の国、西涼と戦争中じゃ。なぜそうなったかを話そう」
 西涼と安達ケ原は、これまで互いの商人が行き来する程度の小さな交流だった。仲がいいとは言えないが、敵視するほどでもなかった。その関係が一変したのは、ひと月ほど前のことだそうだ。
 ある夜彼女は、村が、途方もなく巨大で恐ろしい化け物に蹂躙されていく様を、現実の如き生々しい夢で見た。人々はなすすべもなく泣き叫び、逃げ惑う。そんな人々に容赦なく化け物の牙や爪が食い込む。地獄の様な模様が繰り広げられ、村が蹂躙されていき、遂には自身の胸に巨大な牙が突き刺さったところで飛び起きた。
 酷い寝汗のせいで重くなった長襦袢を引きずりながら外に出ると、夜明け前の、薄明かりが広がりつつある空に、どす黒い雷雲が、西涼の方に流れて行ったという。
「風の向きに逆らい、西涼の真上まで届いたかと思うと、早く流れていたのが嘘のようにぴたりと止まり、その場に留まり続けたのじゃ」
 不思議に、それ以上に不吉に感じたトウエンはじっと目を凝らし、その正体を探ろうとした。意識して目を凝らすことで、千里眼みたいな真似もできるらしい。
「雲に体を覆われた、何か巨大なものが、西涼に降りていくのを見たわ。その翌々日じゃ。いつものように西涼へ商売に行った売り子が、到着するなり西涼の兵に襲われた」
 その売り子は、全身に傷を負いながらも這う這うの体で逃げ帰ってきて、西涼の様子を伝えた。
「仲がいいわけではなかったが、突然斬りかかられるほどの無礼を働いたことはない。だが、彼らは我らの同朋に向かってこう言ったそうだ。化け物は死ね、と」
 淡々と語られる。それで余計に、トウエンの内に渦巻く怒りが垣間見えるような気がした。
「化け物・・・?」
「おうよ」
 トウエンが自らの額から出ている角を撫でる。
「この角もそうだし、儂らは皆、術を使わずとも西涼の連中よりも体がでかい。人は自分と違うものを恐れるものじゃ。彼らが儂らを化け物と恐れたのもわからぬ話ではない。が、どうして急にそう言う事を言い出したのか、色々と腑に落ちぬのよ。また、腑に落ちぬことは戦となってからも見られた。儂らはそれまで、奴らの前で術を使ったことはない。なのに奴らは、儂らがそういう術を使うのを事前に知っていたかのように、臆することなく儂らと戦いおった」
「その、売り子さんが、逃げる時に使った、ということは?」
 クシナダが尋ねる。トウエンは首を横に負って「無理じゃ」と理由を話した。
「そやつは女じゃからの。儂らの用いる術は、男女で得意とするものが違う。男は己が体を強くすることに長け、女は己が体を癒すことに長けるのじゃ。絶対使えぬではないが、せいぜい少し力が強くなる、足が速くなる程度で、男が使うような、体が変化するほどのものではないよ。よって、そこから知られるということはない」
「裏切りとか情報の漏れとか、そういう線は?」
「それもない。儂がしらみつぶしに調べた結果じゃ、信頼してもらって構わぬ」
 心を読める人間が調べたのなら、問題ないだろう。
「そこで、その西涼に降りた巨大なものってのにかかってくるのか」
 ようやく、話が僕の目的とつながった。
「うむ。それくらいしか思いつかぬ、というのも正直なところなのだがな。あの巨大で強大な力を持つ、得体のしれぬものならば、儂らの力のことくらい簡単に知れるであろうし、西涼の人々の心を簡単に操れるのではないかと、そう考えておる」
「その、なんだ。あんたの巫女の力とかで、なんとか正体とか、そういうのわからないのか?」
「それが出来ればよかったのじゃがな」
 トウエンの目線が僕らから逸れ、壁の一点を見つめる。おそらくその先にあるのが西涼だ。
「あの日、最初の戦より、西涼には通常では目に見えぬ、穢れに満ちた濃い霧が充満しておっての。それが、儂の目を曇らせるのよ」
「穢れた、霧?」
 その通り、とトウエンは頷いた。
「儂らと奴らの戦いで、多くの血が流れた。そこから生れ出た穢れが、そのまま西涼に流れ、いや、呼び寄せられたというべきか」
 地面に染み込んだ血や、死体から生まれる霧? さっきからトウエンは一体何を言っているのだ?
「血による呪いをその身に受けておるくせに鈍いのう」
 出来の悪い生徒に教え諭すように、「良いか」と僕を指差した。
「血は流れる命そのもの。生の証。力の源。この全身を流れる血は、当然頭にも流れるわけじゃから、儂らが考えたこと、思ったことに強く影響される。悪しき考え、思いを受けると淀み濁る。憎しみや悔恨を抱えたものの血は、まるで毒じゃ。それが大地に降り注げば、当然大地は穢れ、草木が育たなくなる。儂ら巫女には、そういった穢れを払い、死者たちを安らかに眠れるように誘う役割もあるのじゃよ。戦の後、儂は当然、決戦場にそれらが残っておると思っておった。が」
 そこまで言われて、ようやく僕もピンときた。
「戦場跡には、穢れが無い。代わりに西涼に現れた」
「そうじゃ。儂の目を通さぬほどの霧をため込んでおる時点で、そこにいる何奴が尋常ならざる力の持ち主だとわかる」
「何のために霧をため込んでいるかってのも、不気味よね」
クシナダが顎に手をやって呻く。なんにでも、どんなことにも理由はある。西涼の人の認識が突然変わったことも、戦争が起こったことも、霧が集められている理由も、おそらく全部繋がっているはずだ。
「のう、タケル、それに、クシナダよ。お主らが戦いに来たというならば、かの者の正体を暴き、もしそやつが此度の元凶であるなら、それを討ってくれぬか」
 居住まいを正して、トウエンが僕らに言った。
「皆の体は、もう限界じゃ。たとえ術を用い、戦士一人一人が一騎当千の兵と言えど、幾度も戦えば傷つき、やがては倒れる。父を、夫を、息子を亡くした女たちの悲しみは計り知れぬ。そればかりは儂にも癒せぬのじゃ。それは儂らに限ったことではなく、西涼に住まう者にも言える。そして、互いに怒りを抱き、憎しみを募らせる。憎しみは戦を誘い、また血が流れ、人が死に、憎しみが生まれる。終わりなき循環により、この地はいずれ何者も住まわぬ死の大地と化す。この地に住まう巫女として、村を預かる者として、それは我慢できんのじゃ。じゃが、口惜しや、儂にそのような力はない」
 バン、と両掌を床に叩きつけ、頭の角を床にこすり付けた。
「この通りじゃ。どうかこの願い、聞いてはもらえぬか」
 クシナダが僕を横目で見た。「どうすんのよ」と訴えている。ふむ、と僕は考え、当然の権利を尋ねた。
「代わりに、あんたは僕の願いを聞いてくれるのか?」
「願いだと」
 顔をあげ、僕の顔を見た。
「そうだよ。ギブ&テイクだ。僕がその西涼の何かを討って、あんたの願いを叶えたとしたら、あんたは代わりに僕の願いを叶えてくれるのか?」
 そう尋ねると、トウエンは俯いて「出来ぬ」と返した。彼女は、僕の願いをすでに察していた。
「儂は毒などの、体が受け付けぬ、【異物】と体が反応するものならばそれを取り除くことが出来る。が、お主らにかかっておる呪いは、すでにお主らの血肉と混じり合い、完全に同化しておる。切り離すには、死ぬしかない。が、儂にお主を殺せるような、そのような力はない」
「そうか」
 彼女の返答を聞くや、僕は膝を立て、よっこいしょと立ち上がった。
「なら、悪いけど、あんたの願いは聞けない」
 トウエンよりも、隣にいるクシナダが驚いてその勢いで立ち上がった。
「は、はぁ!? あなた何言ってんの!」
 無視してリュックを背負う。僕が本気で出て行こうとしているのを悟ったクシナダは、肩を掴んで振り向かせた。
「あなた、ここまで話を聞いて何とも思わないの! トウエン様やみんなのために、何かしようとか考えないわけ!」
「考えられるわけあるかよ。昨日今日どころか、さっきあったばっかの他人の事だぞ。しかもこっちはその戦のとばっちりで頭をくそでかい棍棒で殴られたんだ。どこをどう受けとって、僕が協力的になる要素があるんだよ」
「それはもう謝ってもらったし、第一あなたその程度で死なないじゃない! 痛くもかゆくもないじゃない!」
 痛みはあったぞ、一応。
「あのさ、さっきも言ったような気がするけど。僕が困ってる人を見たら助けに行き、悪を見れば成敗する、そういう正義の味方に見える?」
「で、でも! あの時は助けてくれたじゃない!」
 蛇神の時のことを言っているのなら、それはトンデモナイ勘違いだ。
「ありゃ偶然だ。偶々だ。のっぴきならない事情が色々とあっていかんともしがたい何かがあってあんたと約束して、そっから妙な話になって結局戦う羽目になって揚句僕を殺すはずの蛇を殺してしまって呪いを受けた。ようくわかった。人の厄介ごとに首を突っ込むとロクなことにならないってことに気付いたんだ。あんたのおかげでな」
 そんなお願いを聞いてはいけない。
「あんたこそ、どうなんだ。そこまで言うなら、あんたがこの村のために戦ってやればいい」
 突き放すようにそう言うと、彼女は驚き、そして泣きそうな顔をした後、般若の形相で怒った。
「もういい、もういいわよ! どこにでも好きに行けばいい! 私はここに残る!」
 どっかと座り込み、そっぽを向く。向いた後、ちら、とこっちを伺い、僕が見下ろしていることに気付いてすぐに無視するように僕から顔を背けた。
「ここに残って、トウエン様たちと一緒に戦うから! あなたはどこへでも行けばいいのよ!」
「じゃあ、そうさせてもらおうかな」
 え、という声が聞こえたような気がしたが無視して、僕はトウエンに一礼し、そのまま外へ出て行く。


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 じゃあね、と言い残して、タケルは本当に、振り返ることすらせずに行ってしまった。ぽつんと、彼が出て行った戸を見つめていたクシナダは、驚き、傷つき、泣きそうになり、それらを一周繰り返した百面相を繰り広げた後、烈火のごとく怒り狂った。言葉にならない、おそらくは考え付く限りの罵声をわめき散らし、荷物を投げつけ、地団太を踏んだ。見るに見かねたトウエンが「落ち着け」と後ろから優しく抱きしめ、ようやく動きを止めた。けれど内から溢れる激情はまだ収まりつかなかった。
「何なのもう、信じらんない、本当に信じらんない! タケルの馬鹿! 大馬鹿者!」
 村人たちのつらい現状を汲み取らない無神経さ、トウエンの真摯な願いを簡単に拒絶してのける冷酷さにも腹が立つが、何より自分に何の未練もなく簡単に去っていったことが一番腹立たしい。
 短くない時間、寝食を共にして、多少なりとも信頼関係が出来ていると思っていたのは自分だけだったというのがさらに怒りを倍増させる。
「何が私のおかげよ、厭味ったらしく言いやがって」
 なんだかんだ言いながら、村人からの非難から庇ってくれたし、蛇神に殺されそうになった時も助けてくれた。ひねくれているが、良い人だと思っていた。
 裏切られた気がして、怒りの後は悲しいやら悔しいやら訳が分からなくなっていた。知らず、彼女の瞳は涙があふれる。
「落ち着いたかの?」
 よしよしと頭を撫でながら、彼女の息が整ったのを見て、トウエンが声をかける。はい、と、か細い声で彼女は応じたので、トウエンは手を離す。
「トウエン様。私にこの村に残る許可をくださいませ」
 涙を拭いて言う。
「あいつの分まで、私が戦います。こちらも不死の身、敵にそうそうひけをとりません。それに弓に少々自信があります。必ず役に立ちます!」
「ありがとう。お主のその言葉、その心、大変嬉しく思う。こちらこそ、宜しく頼む」
「任せてください。タケルに代わり、私が西涼の怪物を討ち取ってみせますから!」
「はは、頼もしいかぎりじゃ。お主は奴に比べて本当にまっすぐじゃのう」
 奴、と比較されるのは間違いない、タケルのことだ。せっかく無理矢理頭の片隅に押しやった男の名を出されて、少しむっとした。
「そう怒ってやるな。あの者にもあの者なりの考えがあろう。儂らにそれを止めることなどできぬ」
「それでも、あんな態度は無いです」
 クシナダがむくれてそう言うと、トウエンは我慢しきれないといった風に小さく噴き出した。
「そうか、そうよな。額面通り受け取れば、あやつは血も涙もない冷血漢よな」
「違うとでも?」
 そう尋ねてから、クシナダは気づいた。目の前にいる人物は、人の心を読むのではなかったか。
「あの男の言葉に嘘はない。だが、全てでもないということじゃ。あの男は儂の願いを聞く気はない。けれど、それと西涼の件を無視するというのは同義ではない」
「それは」
 悩むクシナダに、トウエンは問う。
「タケルの行く先、どこかわかるか?」
 少し得意そうな顔を浮かべて、トウエンが微笑んだ。クシナダもすぐに見当がつく。
「西涼よ」

若武者と悪女

 地図を頼りに進むこと、大体二時間くらい。面前に城壁がそびえたっていた。多分、ここが西涼だろう。他に村も街も見かけなかったし。
 安達ケ原の囲いほどではないものの、石造りの外壁が高くそびえ立ち、頑丈そうな鉄の門は固く閉じられている。来るものすべてを拒絶しているかのようだ。それを上から下までじっくり眺めて、気づく。
「どうやって入ればいいんだろう・・・?」
 城壁は、見るからに新品といった具合だ。売り子の女性が普段通り、というのもおかしいが入れたということは、戦の前まではこれはなかったんだろう。一か月前に戦い始めた、ってことは、そこから突貫で作り込んだってことか。ピラミッドを作った連中も驚きの速さだな。
 どうするか、と城壁を見上げている僕の足元に、ざくっと矢が突き刺さった。角度から飛んできた方を見上げると、城壁の上から数人が僕に狙いを定めている。
 悩んでいたのが馬鹿らしいくらい、簡単に門が開いた。そこからわらわらと十人くらいの鎧に身を包んだ兵が出てきて、僕を取り囲まれた。
「何奴だ」
 隊長っぽいのが、腰の剣を引きぬいて、突きつけてきた。他の連中も武器に手を当てていつでも戦えるように備えている。
「あの化け物どもの仲間か?」
「僕に化け物の仲間はいないよ」
 苦笑をもって返す。僕自身が化け物の様なものだ。それを考えれば、僕から見て化け物などという存在はこの世からいなくなる。
「では、何だ。我が西涼に何用だ」
「別に、何も? 僕はただの旅人だ。ここに来たのも、ただの偶然」
「嘘を申すな!」
 唾を飛ばしながら隊長は叫んだ。どうでも良いけど顔に飛ばさないでほしい。服の袖で拭う僕に、更に剣先を近づける。もう半歩も動けば頸動脈がスパッと行くだろう。それでも死なないのは実証済みだ。痛いだけなら意味がない。
「貴様、あの化け物が住む方から来たであろう! あ奴らの住処から来た貴様が、ただの人であるわけない」
 お、鋭い。感心しながら、僕は尋ねる。
「なら、僕は何だ?」
「知れたこと。安達ケ原の化け物の仲間よ。人に化けて忍び込み、内から食い破ろうという算段であろう!」
「は、馬鹿じゃねえの?」
 鼻で笑い飛ばす。僕を囲む連中から怒気と殺意が溢れ出すが気にしない。
「そっちの言い分が正しいなら、あんたらは内側から荒らそうとしている化け物の目の前で門を大開放してんだぞ?」
「そ、それは」
 自分たちが出てきた門と僕を見比べ、戸惑う連中。なるほど、確かにこういう連中なら簡単に言いくるめられそうだ。
「あっ!」
 そんな中、僕を囲んでいた兵士の一人が声を上げた。そっちの方をみると、さて、どこかで見た顔だ。
「お前、あの時の!」
 あの時、ああ、もしかしてこいつ、タケマルに追い回されていた、毒をばらまいた男か。
「どうしたナベツナ。こいつを知っているのか?」
 隊長が問うと、ナベツナはぶんぶんと首を上下にシェイクした。
「隊長、こいつです! 化け物にぶん殴られてもピンピンしてた奴です!」
「お前の言ってた奴か!」
 戸惑ってきょろきょろと挙動不審になっていたのが一変、全員が僕を凝視した。同時、全員が抜刀する。
「やはり化け物の類ではないか。よくもたばかってくれたな!」
 たばかるどころか、まともに話もできてないんだけど、そんなことはお構いなしのようだ。一触即発、何時でも切りかかってこれる、というより、誰もが合図を待っているかのようだ。
「かかれ・・」
「止めよ!」
 隊長の合図を横合いから飛んできた大声がかき消す。全員が、声の方を振り返った。
「ライコウ様・・・」
 誰かが言った。人垣に阻まれて僕からは良く見えない。その内、人垣がすっと二つに割れ、出来上がった道を誰かが歩いてきた。
 まだ若い、二十五歳前後ぐらいの男だった。鍛え上げられた肉体と、幾度も戦場を駆け、磨かれた経験が風格となって漂っている。美丈夫、という言葉が浮かんだ。正にその通りの若武者だ。こいつらのように鎧で武装してはおらず、着物みたいな軽装だが、腰の太刀の飾りや、声一つで静止させたところを見れば、こいつらより上の役職なんだろう。
 若武者、ライコウはずかずかと僕の方に歩み寄ってきた。周りの連中がざわつく。
「ライコウ様、それ以上近付かれては危のうございます。こやつは化け物の一撃を受けても平然としているような、奴らの上を行く化け物にございます。何をしでかすかわかりませぬぞ」
「化け物、ねえ?」
 ライコウが僕を品定めするように上から下までじっと眺めた。
「己には、ただの子どもにしか見えんぞ?」
「それは我らの目をごまかすためでございます。ライコウ様も直に戦われて、奴らの恐ろしさを知っていられましょう? 怪しげな術を使い、たちまち巨人となって、我らの何倍もの力を発揮するのです。ケンキエン様の御力無くば、我らは抗うことすらできなかったでしょう」
 ケンキエン様、こいつらにトウエンたちの情報をもたらした奴のことだろうか。その名を聞いた途端、ライコウの表情が一瞬険しいものになった。すぐに元に戻ったから連中は気づいていないが、どういうことだろう。
「さあ、ライコウ様。ご理解いただけたなら、下がってください。御身に何かあったら、私はウラ様になんとお詫びすればよいか」
 嘆く隊長を見て、ライコウはきょとんとした後、爆発したように盛大に笑った。
「キント、お主、起こってもないことを今から心配しているのか? そんな心配性だから若い時から禿げるのだぞ?」
「お言葉を返すようですが、それはライコウ様が幼き日より無茶ばかりされていたせいでもあるのですぞ!」
「はっはっ、わかっておるではないか。なら、己がこれから無茶をしても、きっとお主が上手く取り計らってくれるだろう」
 いたずらっ子のような、無邪気な笑みでそう言われた隊長キントはまだ渋ってはいたが、ライコウ様が仰るなら、と下がった。周囲の兵にも剣を収めるように指示する。それを見届けてから、ライコウが話しかけてきた。
「お主、名は?」
「タケル」
「おう、タケル。己はライコウという。宜しくな」
「はあ、よろしく」
 差し出された手を握る。ごつくてでかい手だった。返ってきた握力の強さにも驚きだ。改めてライコウの顔を見返す。僕に観察されていることを知ったか、ニカッと歯をむき出しにして笑った。
 ああ、こいつは馬鹿なのだ。第一印象はこれに決定した。キント隊長も禿げるはずだ。こんなやつの御守など。
 だが、決して愚かではないこともわかった。僕を見る目には、馬鹿だと断じた後に変な話だが知性が宿っている。他の連中の目からは怯えとか敵意しかないのに、こいつは他人を知ろうという好奇心と、僕が何者か、敵か味方か見極めようとする冷静さ、判断力と、何よりそれを可能とする心の余裕があるのだ。
「キントたちが迷惑をかけたな。怪我は無いか?」
 何か、トウエンのところでも似たようなことがあったな。そんなことを考えつつ「別になんとも」と返すと、ライコウがまた大声で笑った。
「大勢の兵に取り囲まれ、剣を突きつけられて『別に』ときたか! お主、ちっこい癖に豪胆なやつだな!」
 バシバシとでかい手で僕の肩を叩く。
「腕前もなかなかのものと見た。あと、ナベツナが言っていたことは本当か? あいつらの一撃を喰らってピンピンしていたというのか?」
「ピンピンはしてない。一応、痛みはある。あんたがさっきから人の肩を叩いているのも、結構な痛みなんだが」
「がっはっはっ! 本当か! なんと丈夫な奴だ! 鉄でも入っているのか?」
 人の苦情を完全にスルーしやがった。
 さておき、ここで僕に疑問が生じる。見ての通り、こいつらのトップであるライコウは馬鹿だ。おそらく戦い方も、戦略は使うだろうが毒とか、そういう姑息そうなのは嫌いだろう。
 だが、タケマルに追われていたあのナベツネは、このライコウが命令しなさそうな毒を村の井戸に流した。
「なあ。僕からも一ついいか?」
「ん、何だ?」
「確かに僕は、あんたらが戦っている村に寄った」
 ざわっ、と怯えが空気を震わせた。周囲の兵が一瞬で臨戦態勢を取る。ライコウはそれを手で制し「それで?」と話の続きを促してくる。
「その村に行く前に、そこにいる男、ナベツネに会った。あいつは村のタケマルってやつに追われてたんだが、そいつは、ナベツネが村の井戸に毒を撒いたから追っていた、と言っていた」
 ライコウの目が鋭いものに変わった。僕はその抜身の刃の様な目を見返し尋ねた。
「あんたの命令か?」
 肩を叩いていた手が止まり、そのまま置いた。えらい握力で掴まれる。
「お主、言っていいことと悪いことがあるぞ。そんな命令、己が出すわけなかろう。誇り高き西涼の兵を侮辱するな、そんな下らんことをするわけがないだろうが」
「勘違いするな。僕は真偽のほどを聞いているだけだ。後、この手を離してもらおうか」
 僕から手を離したライコウは、振り返る。その先にナベツネがいた。彼は震えあがり、呼吸さえできないほど固まっていた。
「ナベツネ。どうなんだ」
「ひ、ラ、イコウ様、儂は」
「タケルが言うように、かの村に行き、毒を撒いたのか」
 ずんずんとナベツネの方へ歩いて行く。
「ライコウ様。どうかお気を静められて」
 横合いからキントがとりなすが、ライコウは無視してナベツネの前に立った。
「どうなんだ!」
 一喝に、兵たちが縮み上がった。一拍おいて、ナベツナはその場で跪き、土下座した。
「申し訳ございません! そいつの言うとおり、儂はあの村の井戸水の中に毒を・・・」
 ナベツネが言い終わる前に、ライコウはしゃがみ込んでナベツナを引きずり無理やり立ち上がらせた。そのまま襟首を掴みあげて前後左右にシェイクする。
「どういうことだ! ナベツナ、己はそんな命令下した覚えはないぞ!」
「ひいい! も、申し訳」
「謝るのはもう聞いた! 何故、勝手にそんなことをしたのかを問うておる!」
 がっくんがっくん揺さぶられているのに答えられるわけないだろうな、と他人事のように見ていたら
「ライコウ様、もうその辺で許して差し上げては?」
 心を撫でくすぐる様な、女の声がその場を静めた。怯えていた兵たちも、荒れていたライコウも手を止めて、自分たちが出てきた門の方を見る。
「ケンキエン様」
 誰かが女の名を呼んだ。人垣が割れ、一人の女が現れる。
そこにいたのは魔女だ。男を誘い、弄び、堕落させ、死に至らしめ、それでも男の誰もが涎を垂らして、全てを捨ててでも欲するであろう、傾国の美女だ。顔の美しさも、均整のとれた体も、所作も、声も、全てが男を魅了するために作られたと言っても過言ではない。
ゆっくりと魔女、ケンキエンが近づいてくる。彼女が前を通るたび、怯えていた兵たちがトロンとした表情になって、その残り香を嗅ごうと鼻の穴を膨らませ、顔を近づける。
「何かご用でしょうか、ケンキエン王妃」
 堅い声で、ライコウが自分の前に来たケンキエンに言う。するとケンキエンはコロコロと口元に手を当てて笑った。
「まあ、そんな堅苦しい呼び方をしなくても、母上と呼んでくれてもいいのですよ?」
 見たところ二十代くらいのケンキエンが、ライコウの実の母ってことはないだろう。後妻ってとこか。そして、そのライコウが王妃と呼んだのなら、こいつは王子ということになる。
「困りますな。王妃と言えど軍事のことに口を出されては。今は兵に詰問中です。用があるのなら後にしていただきたい」
 ケンキエンの言葉を無視して、ライコウはわざと固い口調を使う。どうやら、こいつは魅了されてないようだ。
「あと、己は今職務中です。規律を正すためにも役職である将軍、と、呼んでもらいましょう」
「ならばライコウ将軍、重ね重ね、申し訳ございません。此度の件、私が余計な口出しをしたせいにございます」
「と、申されると?」
 ようやくライコウはナベツナから手を離し、ケンキエンに向き合った。
「私がそのものに命じたのです。あのおぞましい化け物どもの住処に毒を撒けど」
 ライコウが顔をしかめる。
「何故?」
「少しでもライコウ将軍のお力になれればと思いまして、勝手ながら」
「どうして己に声をかけなかったのです? それこそ越権ではないですか」
「性根のまっすぐな将軍に、毒を撒くなどできぬでしょう?」
「当たり前です。そんなことで勝っても何一つ誇れはしない!」
「しかし、兵の家族は喜びます。無事に家族が帰ってきたと。戦に駆り出されることもなく、家にいてくれると」
 ぐぬ、とライコウが詰まる。
「私は、この戦を早く終わらせ、皆が平和に暮らせる国にしたいのです。王妃として当然の願いです」
 策は、上手くいきませんでしたが、とケンキエンは呟いた。あの女、トウエンが毒を浄化したのを知っている。僕は確信をもってケンキエンに声をかけた。
「なあ、あんた」
 全員の視線が一気に集まる。ケンキエンは、初めて気付いたような風で僕を見た。
「貴様、無礼であるぞ! 西涼国の王妃に向かってなんという口のきき方か!」
 キントが叫ぶと同時に、兵たちが僕を押さえつけようと動く。それをライコウが押しとどめた。気になることがあるなら言え、そういう事らしい。気兼ねなく話させてもらおう。
「あんたが、あいつらのことを化け物と呼びだしたのか?」
 ふむ、と細いあごに手を当てて、ケンキエンは不思議そうに首を傾げた。
「化け物を化け物と呼び、何が悪いのですか? 村に寄ったあなたは見たのでは? あの者たちは額に醜悪な角を持ち、妖しげな術を使う。しかもそれを我が愛しい西涼の民たちに隠していたのです。隠していたのは、当然やましいことがあるからです。物売りとして国に出入りしていたようですが、それはこの国を調べ、内側から食い散らかすつもりに他なりません」
「じゃあ、あんたは、どうやってその隠していた術を知った?」
 周りの人間がきょとんとした顔をした。言っている意味が分からないらしい。ただ一人、ライコウだけが顔を驚きの表情に変えた。彼自身も何故それに今まで気づかなかったのか、という感じだ。
「何をおかしなことを言うのだ」
 ケンキエンではなく、周りの兵たちが馬鹿にしたように笑った。
「ケンキエン様が知っていることの何がおかしいのだ?」
 これには僕も耳を疑った。まったく、何の疑念も持たずにそう言えるのは、どう考えたっておかしい。
「まったくだ。ケンキエン様の言う事に間違いはないのだ。現に、あの化け物どもは術を使い、儂らの仲間を何人も殺した。ケンキエン様が知恵をもたらさなければ、儂も死んでいたかもしれないのだ」
「そうだ。そんなケンキエン様を疑うなど、正気を疑う」
「いやいや、やはりこやつは化け物どもの仲間なのだ」
「おう、そうに違いない」
 じり、っと包囲が狭められる。ライコウがいなければ、今頃武装した兵たちと交戦する羽目になっただろう。
「おやめなさい」
 彼らの気を静めたのは、意外にもケンキエン本人だった。
「彼はおそらく、村に寄ったせいで化け物どもの怪しい術により正気を失わされているのです。私たちが、助けてあげなければなりません」
 上から目線で言ってくれる。
「しかしケンキエン様、助けると言ってもどうすれば」
「簡単なことです。正気に戻るまで、化け物どもの力及ばぬ城の地下で休んでいただきましょう。そこで過ごせば回復するはずです」
 それが良い、と二つ返事で兵たちは頷いた。ライコウを完全に無視した形だ。なるほど、こいつがトウエンの言っていた強大な力を持つ何か、か。

「当然、地下って言ったらこんなのだわな」
 冷たい石の上に座り込む。目の前には格子状の柵。僕は兵に連行され、この地下牢に放り込まれた。リュックは没収され、蛇神の剣は、妙にそれに執着したケンキエンが持っていった。
「すまんな。こんなことになって」
 柵の向こう側にいるのはライコウだ。
「気にするなよ。どうせ、僕もここに用があったんだ。中に入れて丁度いい」
「用? ここに一体どんな用があるのだ?」
「まあ、色々と」
 少し言葉を濁した。まず間違いなく、ケンキエンが僕の標的だ。彼女を倒すとなると、義理とはいえ息子のライコウは障害になりそうだからだ。
「まさかお主の目的は」
 驚愕の表情で僕を見るライコウ。気取られたかな、と思いきや
「麗しの朱姫から、己への伝言を頼まれたかっ!」
 予想だにしないことで食いついた。文字通り格子にかじりつかんばかりに詰め寄ってきた。
「そうなのだろう!」
「そうなのだろうもどうなのだろうも、何だそりゃ。麗しの、朱姫?」
「そう、朱姫だ。御名を知らぬからな。勝手にそう呼ばせてもらっておる。白と赤の着物を着た、額に二本の角を持つ、見目麗しき女性のことだ」
 その服装と外見の特徴からして、おそらくトウエンのことだろう。
「心当たりはある。けど、その人からはあんたに対しては別段何も頼まれちゃいない」
「む、・・・そうか」
 しょぼしょぼと勢いを無くし、ライコウは引き下がった。
「何であんたが、敵国の人間のことを知ってんだよ」
「戦場で何度もお見受けしたのだ。あの凛とした佇まい、自ら戦場に立ち、あの猛者どもを指揮し、鼓舞する勇ましさ、たまらん! お会いしてから、何度夢に出たかわからんのだ! そんな時、あの方のいた村からお主が来た。もしやあの方も己のことを! と思うのは仕方ないだろうが」
 いい年こいたおっさんのピュアな恋心を、こんな牢獄で聞くとは思いもよらなかった。人生は本当に何でもアリだな。
「このままじゃ結婚どころか、逢って話すことすら無理だろうけどな」
「それを言うな。心が折れる」
「・・・まあ、方法はないことはないけど」
「何だと!」
 しょんぼりしていたライコウが再び立ち上がる。現金な奴だな。
「簡単だ。あんたが戦争に勝てばいい」
「・・・何だと?」
 違うニュアンスの『何だと』が返ってきた。
「戦争に勝利し、村を支配して、全て奪えばいい。もともと戦争をしてるんだ。目的を果たせて、彼女も手に入る。万々歳な作戦だろう?」
「ふざけるな!」
 格子の一本がへし折れた。細かい木の破片がこっちに飛んでくる。
「己に、これ以上殺せというのか。彼女のいる村の人間を」
 腕を格子のあった場所から引き抜きながら、後悔をにじませてライコウは言った。
「人間? あれ? あんたらからしたらあいつらは化け物じゃないのか」
「違う。角があろうと術を使えようと、彼女らは己と同じ人だ」
「でも、あんたらは化け物と言って、問答無用で切りつけたと聞いたぜ?」
「それは」
「あんたらが、あの村の連中のことを化け物と言って切り付けた。だから、この戦争は始まった。そう聞いてるけど、何か違いはあるか?」
「・・・違わない。何一つ。己たちが彼女の村の一人を襲った。そのことは申し開きもできん。だが、己が気づいた時には、もう」
「ふん、国内全域が、あのケンキエンの術中にでもはまってたとか言うんじゃないだろうな?」
「そう、それよ!」
 ライコウが僕を指差す。
「お主、まさか奴の術が効かぬのか? だから正気でいられるのか?」
「術。・・・やっぱりそうなのか。兵士たちのあの違和感は、そうなんだな?」
「おう。あいつが現れたのは戦の始まる前だ。突然己の親父、現西涼国の主の枕元にあの女が現れたのだ。見張りも何もかも無視して現れたその不気味な女を捕らえ、処罰するどころか、親父は妻にすると宣言しおった。それだけでも己にとっては驚きなのに、ばかりかあの女は国の政にも口をいきなり出しやがった。最初に行ったのが、安達ケ原の化け物を殺せ、だ」
「そして、誰も反対しなかった、そんなとこ?」
 彼女が現れてすぐに、西涼内全体に術がかかっていたことになる。広範囲の人間の意識を書き換えるほどの術を使うとは。トウエンの目もごまかすというし、なかなか強力な術者のようだ。
「おうそうだ。良くわかったな」
 わからいでか。この流れで。僕が呆れる一方で、ライコウはようやく理解者を見つけたという風に顔を綻ばせた。
「いつの間にか、あの女の言う事を誰も疑わなくなっていた。これを術と言わずなんという? 己ですら、あの朱姫に会うまでは奴らは敵だと思って疑わなかった」
 トウエンに逢ってその呪縛が解けたなんて、実にロマンティックな話だ。ただ、この場合はどうなんだろう。ライコウのように一目惚れなどちょっとした刺激で術が解けるのか、ライコウが特別性なのか。
「じゃあ、あんたは今、その術が解けているってこと?」
「確証はないが、少なくとも、もう敵対したくはないと思っておる。化け物などと、全然おもっとらん」
 むしろ、彼女こそ己の前に舞い降りた天女よ、などと寝言を抜かすライコウは無視して思考を巡らせる。こいつを味方に引き込めるかどうかだ。
「将軍、このようなところで、何を成されているのです?」
 その声に、にやけていたライコウの顔が一気に引き締まる。居住まいを正し、声の方を向いた。
「王妃様こそ、このような辛気臭い場所に何用か」
「なに、私はあの者にかかっていた呪いが解けたかどうか確認しに来たのですよ」
「確認、か。で、どうであろうか? 己が話したところ、正気なような気がするが」
 ライコウが脇に退き、僕の前を譲る。そこへケンキエンが現れた。
「旅人よ。お加減はいかがか?」
「尻が冷たくて痛くて、座り心地が良くないこと以外は問題ない。お心遣い痛み入るよ」
「そうですか。では後で誰かに毛布でも持ってこさせましょう。・・・ライコウ将軍」
 視線を横に移して言う。
「申し訳ないのですが、この方と二人にさせてもらえますか?」
「それは承服しかねる届出ですな。二人っきりにして、王妃に万が一のことがあれば王に申し訳が立たぬ」
「大丈夫です。こんなに頑丈な牢で隔てられているのですから。それにほら、おつきの者もそばに控えております故」
 彼女が指し示す方から、二人の兵が現れた。一人が言う。
「将軍、キント様が探されておいででした」
「キントが?」
「はい。次の戦のため、軍議を開くとのことです。王妃様の身は我らが命に代えても守りますので、ご心配には及びません」
 ライコウは僕とケンキエンとを何度も見比べながら逡巡し「すぐ戻ってくる」と言い残して離れていった。場には、僕とケンキエン【だけ】が残される。
「そこの二人は、大丈夫なの?」
 確認のために聞いておく。ケンキエンは一瞬何のことを問われているのかわからなかったようだが、すぐに気づいて「ああ、これ?」と自分の傍らに立つ二人を見た。
「ええ、大丈夫ですよ。私の言う事をよく聞きますので」
 微妙にかみ合わない返答だった。その間も、二人の兵士はぼうっとして、視線を虚空に漂わせている。
 彼らの生死は今のところ気にしても仕方ない。それよりも、せっかく目の前に来たのだ。まあいいや、と起き上がり、彼女と対峙する。
「何か用があるんだろう?」
 ケンキエンが一歩前進する。格子を挟んで、一メートルほどの距離だ。
《お前は、何者だ》
 微笑みを崩さないまま、しゃがれた声でケンキエンは言った。さっきのか弱い王妃は消え、そこにいたのは人の姿をした怪物だ。
《お前の持っていたあの剣、西方に住まう強大な神の力が封じられている。どこで手に入れた》
「旅先で貰ったんだ」
 嘘ではない。ただ材料を獲ったのが僕なだけだ。
 ケンキエンは小さな頭を格子の隙間から首を突っ込んで、匂いを嗅ぐ。
《お前からも少し、同じ匂いがする》
 そう言って首を引っ込める。
「僕からも聞いていい?」
 ケンキエンは答えず、すっとその細い手を格子の中に入れた。小さな手が突如、毛むくじゃらの巨腕に変化した。ぐわっと大きく開いた手が僕を人形のように掴む。そのままギリギリと万力で絞められ、口から強制的に空気を吐かされる。
《雑魚が。我と対等な口をきくな》
 顔色一つ変えず、ケンキエンは圧力をかけ続ける。
《お前がどこの誰であれ、力を貯えた我の敵ではない。小賢しい小娘も、生意気なライコウも、この国も、あともう少し絞ったら、用済みだ》
「力を、貯える・・・?」
《まだ口が利けるか。丈夫な奴よ》
 体にかかる圧力が上がる。
「あんた、穢れとやらを、喰っているのか・・・?」
《なかなか鋭いな。我が術にかからぬことといい、普通であれば握り潰されるほどの力に耐え抜く丈夫さといい、お前こそただの人ではあるまい》
「最近、人間やめたもんで・・・、良ければ、化け物の生き方指南してくれよ、先輩」
《減らず口を。このまま》
 縊り殺してやる、ケンキエンの雰囲気はそう語っていたが、反して、その腕からは力が抜けた。解放された肺が、不足していた空気を一気に取り込んでむせる。
 離された理由が、息を切らしながら、でかい足音を立てて現れる。
「まだ、こんなところに居られたのか?」
「・・・ええ。将軍こそずいぶんとお早いお戻りですが、キント隊長との軍議はもう終わられたのですか?」
「終わりましたよ。軍議とも呼べるような代物じゃなかったもので、すぐにね。で、そちらの方はいかがかな。そいつにかかった怪しげな術とやらは、解けましたかな?」
 むせる僕を見て、眉をひそめる。
「解呪を施したところです。が、まだまだ良くはなりませんが」
 先手を打つようにケンキエンが言う。ライコウが僕に目で訴えかけてきたので、頷くことで問題ないことを伝える。
「それは、お手を煩わせた。王妃のご協力、痛み入る。己はまだこいつの尋問があるが、王妃はいかがされる?」
「私は、失礼させていただきましょう。将軍のお仕事を邪魔するわけにもいきませんので」
 もっと粘るのかと思いきや、ずいぶんとあっさり引き下がる。二人の兵士を伴って階段を上がっていった。
「大丈夫か? 何があった」
 足音が遠のいてから幾分たったところでライコウが尋ねてきた。
「なに、ちょっと先輩に絡まれただけだ。そっちは? なんだか都合の悪いことでもあったかい?」
 そう訊くと、渋い顔の眉間にますます皺がより、深い溝を作った。
「ああ。先ほどキント、お主も知っているあの禿げ頭たちと軍議があった」
 あれは軍議とは呼べないがな、とライコウは吐き捨てた。
「軍議というからには、戦争、戦いに関してだろう?」
「そうだ。次の戦についてだ。まあ、己が着いた時には全て決まり終えていて、口を挟む隙もなかったんだがな」
 王の命、と言われちゃな。苦々しくライコウが言う。僕としては、その王は無事なのか気になるところだ。さっきの二人の兵士のようになっていないだろうか。だとすればと推察するに、こいつと安達ケ原の彼女らにとっては良くないことだろう。
「今日と明日で兵の編成を行う。翌々日の朝に出立だ」
「ずいぶんと急だな。戦って、もっと準備に時間をかけるもんだと思ってたよ」
 昔読んだ本に書いてあった。戦争は準備が全て。決戦はそれまで用意したモノを出し切るだけだと。なら、準備こそにもっとも時間をかけるのではないか。
「ふん、あのケンキエンの差し金よ。あの女、とうとう己の領域にまで口を挟んできやがった」
 なるほどね。さっき言っていた《用済み》の意味と合致する。次の戦で入手できる穢れで充分ってことなのだろう。
「で、あんたはどうすんだ」
 腕を組んで唸るライコウに尋ねた。
「どうする、とは?」
「もちろん、これからのことだよ。戦をもうしたくないってのは聞いた。安達ケ原の巫女に惚れたというのも聞いた。けど、国は戦の道をまっしぐらだ。将軍のあんたでさえ覆せない決定事項だ。なら、どうする? このまま国の命に従ってあいつらと戦うのか?」
「だから、それはもう出来んのだ。もうあの方が悲しむようなことはしたくない!」
「じゃあ、あっちにつく? 惚れた女のもとで、自分たちの仲間だった者たちと戦う?」
「それも・・・出来ん。あいつらは家族同然だ。そいつらを、どうして斬れよう」
「・・・なら、この戦、止める方法でもあるってか?」
 質問の度に口調が投げやりになっていくのは止められなかった。わかりきった答えが返ってくる質問をすることほど質問のし甲斐のないものもない。
「ない」
 ずいぶんとためた後、ようようのことで、つまらないたった一言を吐き出した。
「つまんね」
「な、何だと!」
 声に出てたようだ。いや、これは仕方ないと思う。だってつまらないのだから。
「あれもできない、これもできない、ならあんたどうする気だ? 僕と一緒にここで寝てる気か?」
「ふざけるな! 黙って見ていることなど、見ている、ことなど・・・」
 言っていて、自分で何が出来るか考えた結果、何もできないことに行きついて言葉尻がどんどんすぼんでいく。
「あんた、馬鹿だろ」
「喧しい! ほおっておけ! そんなことは、生まれた時から周囲も己も百も承知だ!」
「いや、だからさ。馬鹿が馬鹿みたいにうんうん呻って難しいこと考えたって何もできやしないと思うんだよ」
「だからと言って! 手を拱いてみていろと言うのか!」
 ここまで言ってもわからないのか。
「そうじゃなくて。馬鹿なんだから、もっとシンプル、簡単・単純に考えりゃいいんだよ」
「・・・というと?」
「たとえば、どっからおかしくなったかを掘り下げていくんだよ。いつから戦を始めたか、いつからみんながおかしくなったのか」
「それは・・・」
 ようやく気づいたようだ。
「いやしかし! そんなことは」
「出来んってか? たかが王妃を討つだけだぞ?」
「だからだ! 王の妻だぞあの女は曲がりなりにも! それは」
「国に弓引く行為か? それがどうした。あんただって、あの女が危険だと思ってるはずだ。そう思うなら討てばいい。秤にかければいい。あんたの大事な、失いたくないものと、王の妻の命を。ほっときゃこれから何人も死ぬ。下手すりゃあんたの思い人も死ぬし、あんたの家族同然の仲間たちも死ぬ。僕にはどうでも良いことだけどね」
「・・・お主、他人事だと思って好き放題言ってくれるな」
「他人事だからね。僕は、好きなように言いたいことを言うだけさ。ああ、もう一つ好きに言わせてもらうなら、あんたが忠誠を誓う王とやら。本当に生きてんの?」
「・・・な、んだと」
 余程意外なことだったのか? 僕としては、それがいの一番に疑われることだと思っていたよ。
「王が死んでいる、だと? 馬鹿も休み休み言え。先ほど王命で戦の準備を始めたところだぞ?」
「ああ、生きているってのは、何も心臓が動いて呼吸してるってだけじゃないぜ。自らの意志で動いてるかってことも重要だ」
「傀儡と成り果てている、お主はそう言いたいわけだな」
 頷く。さっきの二人の兵士が良い例だ。
「確かに、最近は王の御姿をあまり見ぬ。それまで皆と取っていた食事も、ここのところ自室で済まされることが多かった」
「は、あの女も実の息子にじっくり見られるとばれるとでも思ったかね。存外慎重なところがあるらしい」
 さっき僕を殺さずに解放したことを取ってもそうだ。あの力ならライコウを捻り潰すことくらい訳ない。けど、穢れの方を優先した。万全に備え、獲れるものは全部搾取するタイプか。強欲だな。
 幾分思考を巡らせていた後、ライコウは顔を上げた。迷いが晴れたか、目標が決まったか、幾分マシな顔をしている。
「王に謁見を求める」
「そうかい。で? そのあとは?」
 まどろっこしいと思うのは僕だけだろうか。
「見極める。王がご存命かそうでないか。もはやあの女の傀儡となっているのであれば、身命を賭して、王を止める。たとえ」
 大きく息を吸い、吐き出した。
「たとえ我が手で討つことになろうとも。これ以上血を流させないために」
 では、さらばだ。そう言いおいて、去ろうとする。ライコウがひるがえした着物の袖を、僕はしっかとつかんだ。そのせいで格好よく去ろうとしたライコウがつんのめり、転倒した。
「何をする!」
「いやいや、何を悲壮感漂わせて、今生の別れみたいに去ろうとしてんだよ」
「知れたこと。王を討ったならば、己もただでは済まぬ。もはやここに戻ってくることもないだろう」
「それじゃ困るんだよ」
「安心せい。原因と分かったならば、王と一緒に、あの女もまとめて斬る。他の者には二人とも病で倒れたと言い、死体は処分する。そして、あの朱姫にこの首を差出し、西涼と和平を結んでもらう」
 それで万々歳だ、とドヤ顔で言われても。トウエンはあんたの首なんて欲しがらないだろうし。
「そうじゃなくて、僕がこの国のことやら安達ケ原のことやら他人事で気を揉むはずないだろう。いつだって僕の心配事は僕のためだけに使われるんだよ」
「お主、あれだな。結構人として駄目な奴だな」
 何とでも言え。
「あんたが死んじまったら、誰が僕をここから出すんだ」
 たとえ術が解けたとしても、すぐにここから出されるとは考えにくい。戦の傷痕は物理面でも精神面でも残る。トウエンたちと停戦したとしても、すぐに和解とは相成らんはずだ。人の感情がそんなに簡単に折り合いがつくなら苦労はしない。誰もがこいつみたいに単純ではないのだ。長い手続きを経て、ようやく国交が結ばれる。その間、あっちのスパイみたいに扱われた僕がすんなり釈放などされるわけがない。
 僕の指摘に、ライコウは【あ】の口のまま固まっている。こいつ、忘れてたな。
「行く前に、とりあえずカギを開けといてくれ。後、僕の荷物も返してもらう。ついでに食料も貰おうか。腹が減った」
「要求が多いなお主!?」
 文句を言いつつ、カギを開けてくれた。屈みながら、小さな枠を潜る。
「さて、僕の荷物は?」
 首や肩をほぐす。コキコキと骨が鳴った。
「階段を上がった先、牢番が預かっている。ただ、お主の剣。あれはあの女が持って行った」
 ケンキエンは、あれが蛇神のものだとわかっている。穢れなんてよくわからないものを食い物にしているんだ、あれに込められた憎しみとかも食えるのかもしれない。別段必要とはしなかったものの、何だかんだで刃物は使う機会が多いし、何より自分が持っていたものが失われるのはちと惜しい。どうにかして取り返そうかと考える。
「己が先に行って、牢番を外させる。少し時間を空けてから来い」
 頷きで答えると、ライコウはさっさと階段を上がっていった。上階に耳を澄ませていると、少しの間話し声がして、そして途切れた。足音を忍ばせながら階段を上る。
「ほれ」
 ゆっくりと陰から顔を出した僕に、ライコウが差し出してきた。ずいぶんと長い付き合いになったリュックだ。
「どうも」
 礼を言って受け取る。
「では、行くぞ」
 唐突に言われ、僕は首を傾げる。
「行くって、どこに?」
「決まっておろう。王の間だ」
「何で?」
「何でって、己についてくるのではないのか? だから牢から出たがったのではないのか?」
「どうして?」
 さっきから、こいつが何を言っているのか、何が言いたいのかわからない。ライコウはライコウで、僕が何故と問うこと自体が理解できないようだ。
「・・・お主、己と共に王を止めに行くのではないのか?」
 ようやく合点が言った。言葉の少ない人間に良くあることだ。自分の言いたいことの十全を相手が理解していると思い込んでいる。キント等、こいつの扱いに慣れているならともかく、僕に同じ理解をしろというのは無理な注文だ。それに、王を止める、という行為そのものが、すでに不可能だと思う。僕は、無駄なことはあんまりしたくない。
「申し訳ないがお断りだ。僕には僕の都合がある」
「あっさりと断るなぁおい!」
「というか、僕が一緒に行った時点で、あんたは疑われるだろう。牢にいた人間を出したんだから」
「お主、自分が出せと言ったのではないか!」
「そこまで考えて出してくれたもんだと思ってたよ。もしかして、止める止めると息巻いてるけど、さっき言ってたこと以外、何も考えてないんじゃないだろうな? たとえば、すでに守備が固められているとか、あっちが何もせずにいるなんて甘い考え持ってんじゃないだろうな?」
 返ってきたのは痛いほどの沈黙。
「・・・剣を取り返しに行くから、そこまでなら付き合ってやる・・・・」
 僕にこんなことを言わしめるライコウは、多分只者じゃない。色んな意味で。

 城内の探索は、拍子抜けするほど簡単だった。行く先々に人がいなかったのだ。
階段を上がるとき、曲がり角を曲がるとき、部屋に侵入するとき、全てにおいてライコウが先行し、僕が後に入る。それも、音や振動を目一杯に気にしながら。クシナダほどではないが、僕も多少神経が鋭くなっている。半径五メートルくらいの範囲なら隠れていようが生物の気配を察知できる。ライコウも異常なほど高い集中力で警戒を怠らない。さすが一軍を率いる将というところか。
そんな僕らの努力する姿が間抜けと言わんばかりに、王のいる最上階まで誰とも合わずに辿り着いた。ここまでくれば、もう作為的としか思えない。
「行くぞ」
 それでも前に進むだけだ。ライコウが閉ざされていた戸に手をかける。スッと、大したがたつきもなく戸が開く。
 小さな柵だけの窓から入る夕日の光に照らされて、部屋は燃えるような色をしていた。落日が作る景色は、なんとなく終焉を感じさせる。事実、この国は、このままいけば確実に滅亡する。
トウエンの屋敷よりも広い板張りの間の奥が一段高くなっている。そこに何かの獣の毛皮が敷かれていて、その上に大きな背もたれと肘置きのついた、ちょっと豪華めな座椅子がおかれていた。
壮年の男が、ただ一人、そこに座っていた。
「親父」
 隣のライコウが本人に聞こえないようぼそりと呟く。
「何用か」
 しゃがれた低い声で問われる。
「どういうことだ! 生きているではないか!」
 小声で僕に訴えられても。僕はどうなっているかわからないと可能性の話をしただけだ。生きている可能性だって十分にあり得た。
「我が息子とはいえ、ぶしつけにもほどがある。それなりの覚悟あってのことだろうな」
 はい、とライコウは進み出て、三メートルほどの距離を置いたところで跪く。
「ウラ王。今日は王の真意を伺いたく、参上仕りました」
「真意・・・とな?」
 片眉を吊り上げながら髭をいじる王。
「王が、どれほど国のことを思い、これまで過ごされていたか、己はそばで見てきました。此度のケンキエン王妃の事、安達ケ原との戦の事、王にはお考えあってのことでしょう。しかし、何も語らぬままでは、いずれ不審と反感を買うかもしれません」
「お前のようにか? ライコウ」
「ええ、そうです。己には、王の考えがさっぱりわかりません」
 躊躇もなくライコウはすっぱり言いきった。馬鹿正直にもほどがある。真正面から国のトップを非難してどうする。
 ふうむ、とウラ王は撫でさすった。ゆっくりとたちあがり、僕らに背を向けた。
「ケンキエンがこの西涼に来る前から、儂はかの国とそこに住まう者どもに対して疑問を抱いていた。我らとは違う姿、我らが持たぬ力。姿が違えば当然考えも違う。違うものを警戒するのは当然だ」
「違うから何だというのです。この世のどこに、全く同じものがございましょう。我ら親子ですら違う考えを持ち、違う姿をしているのです。しかし、我らは争うことなく、この西涼という国で共に暮らしております。それは、我らが隣人の人となりを知っているからでありましょう。知らぬから恐れるのだと己は思うのです」
「貴様は、安達ケ原の化け物どものことも知れと言うのか。知れば、争う必要などないと」
「その通りです。少し離れたところに、少し変わった者が住んでいるというだけのことです」
「そんな悠長なことをしていては、滅ぼされるかもしれんのだぞ。現に奴らは我らの同朋たちを何人も殺しておる」
「順番が違います。最初に我らが彼らの仲間を斬ったのです。国を攻めたのです。だから戦争になった。我々が彼らを恐れたが故です」
「ライコウ、貴様。王たる儂の決定を、王妃たるケンキエンの言葉を、疑うと申すかっ。誤りであったと申すかっ!」
「恐れながら。敵に回したこと、誤りであったと言わざるを得ません。王は此度の戦で我らが出した被害を知っておられるはずですな。あの国の兵を一人の相手をするために、こちらの兵は十人以上犠牲になります。倒そうとすればその倍の兵が入ります」
「だから何だというのだ。戦で被害が出るのは当たり前だ。わずかな犠牲で、未来の西涼の民が救えるのだ。尊い犠牲だ。散って逝った彼らは西涼の礎となり、国家を支えるであろう。貴様は、彼らの尊い犠牲を無駄だと言うのか?」
「無駄にしません。絶対に無駄にしない。だから今、こうして動いているのです」
 跪いていたライコウが、すっくと立ち上がった。まっすぐに王の背中を見据える。そして、あろうことか腰に帯びていた剣を抜き放った。
「・・・儂を斬るか」
 肩越しに、王がライコウを睨む。
「親であり、王である儂を斬るのか。儂を殺し、その首をもって安達ケ原に和平を申し込むつもりか」
「そうですね。あなたが本当に王であり、己の父であるなら、また別の方法を考えるのでしょうが、ね!」
 語尾と同時、ライコウは踏み込んだ。距離を飛び越え、上段の構えから一気に振り降ろす。刃は王の背に吸い込まれ、通過して床に刺さった。
「ぬっ?」
 ライコウが戸惑いの声を上げ、一足飛びに後退した。
「手ごたえが、無い」
 緊張感を漂わせてライコウが言う。目の前には、確かに切られたはずの王がそのまま状態で立っていた。
「・・・く、くくく」
 王が笑う。
「いつから気づいていた」
「王は口が裂けても、被害が出るのは当たり前などと、民の命を軽視する発言はしない。だいたい、王はこの戦が始まるまでは虫を殺すのもためらう様な臆病で、そして優しい方だった。民のことを第一に考え、諍いごとも武力ではなく言葉をもって解決するような男だった。己からすればたまに歯がゆくなるような考えをする、しかし良き王であり父であった。その父が宣戦布告も無しに安達ケ原に攻め込むことを命じるのもおかしければ、今の話のように最初から疑ってかかっていたというのもおかしな話だ。そう、王こそが最初に言ったのだ。違うからこそ知るのだ、知らぬから知るのだ、と。そう言って安達ケ原の者たちの商売を許可したのをお忘れか? であるならば、やはりお前は王ではない!」
 切っ先を王に向ける。
「くく、くはは。そうか、それはそれは、私としたことが」
 王だった者がこちらを振り向く。がらんどうの口から発せられる声は、僕の聞き間違いでなければ、地下牢で聞いたあの声だ。
突如、王の体が突如朽ち始めた。そこだけ時間の流れが何倍も速いかのように、王の体は乾燥し、皺くちゃになった皮膚が剥がれ、中からのぞいた肉がボロボロと骨から落ちていく。見事な骨格標本が出来上がった。まるで誤った聖杯を選んだ悪党の末路だ。その骨も、重さに耐え切れなくなったか崩れ落ち、ガラスよりも脆く砕け散った。最後に残ったのは一握の砂だ。
「見事見事。お見事でございます。ライコウ将軍」
 部屋の隅、陰になっている部分から、ケンキエンが湧き出て来た。
「よくぞ見破られましたな」
「王妃、いつからです?」
 噛み殺さんと言わんばかりの形相でライコウがケンキエンににじり寄る。いつでも斬れるように間合いを測る。しかしケンキエンは露ほども恐れることなく、むしろ楽しげにライコウと語らう。
「いつから、とは、どのことを聞いておられるのですか? 私めがいつからここにいたのか、ということですか? 王がいつから死んでいたのか、ということですか? それとも、いつから私がすべてを操っていたのか、ということですか?」
「操っていた・・・だと? やはり、貴様は!」
 怒りと共に腕を一閃させる。渾身の斬撃は、ケンキエンの細首を斬り落とすかに見えた。だが、それは叶わない。刃が届く前に、ケンキエンから伸びたその毛むくじゃらの剛腕が、ライコウの腕を押さえつけていたのだ。
「ぐ、くぬぅううううっ!」
 顔を真っ赤にしながら振りほどこうとするがびくともしない。どころかケンキエンは余裕の笑みでライコウに語りかける。
「王妃に向かって突然何をなさるのですか。これは、一から躾けなければなりませんかね」
 ぶん、とライコウを放り投げる。その方向にいたのは僕だ。飛んできたライコウの腕を掴み、ぐるぐると回すことで威力を押さえ、適当なところで離す。床を滑りながら、壁際でライコウはようやく止まった。
「お、お主、受け止めるにしても、もう少し優しく出来んか?」
 目を回したライコウが四つん這いになりながら訴えてきた。贅沢をいう。あのまま飛んで行ったら壁を突き破って落ちてたところだ。こいつは無視して、僕はケンキエンと相対する。
「そなたも私に何か聞きたいのか?」
「聞きたいことは、今のところ二つだ。まず、僕の剣はどこにある?」
「剣? ああ、あの赤き呪剣のことか。それ、ここにある」
 ケンキエンが懐を探る。そこからどういう原理かわからないが、僕の剣が出てきた。あの懐は四次元にでも繋がっているのだろうか。
「悪いけど、返してもらう。それは僕の物だ」
「よかろう」
 意外にあっさりとケンキエンは言った。もっとごねられるかと思ったから、拍子抜けだ。
「その剣は確かに強大な蛇神の匂いがする。しかし、残っている力は弱い。腹の足しにもならぬ」
 無造作に放り投げられた。床を滑り足元に届く。何の力もない、取るに足らない物と判断したようだ。拾い上げ、肩に担ぐ。
「さて、と。これで僕の荷物は返してもらった。この国での用事は後一つだけ」
 知らず、笑みが浮かぶ。ようやく何の妨害も無しに目的が達成できそうだ。
「西涼国のケンキエン王妃。どうか、僕と殺し合いをしてくださいな」
 ライコウが目をこれでもかと言うくらいかっ開いて僕を凝視している。
「タケル、お主初めからそれが目的であったか・・・」
「うん。あんたの父親と母親と戦うのが目的だから、明かしていいか微妙だったんだけど。ここまで来たら隠し事する必要もないし」
「なら最初からついてきてくれるつもりだったんではないか」
「ついていくつもりはなかったよ。こんなに順調に会えるとは思ってなかったからね。けどまあ、好都合だ」
 両手で柄を握りしめる。ドクン、と、また剣が脈打つ。ケンキエンが目を見張り、不快な笑みを引っ込めた。
「貴様、どういうことだ。まさか・・・」
 言葉の途中で、僕は床を蹴った。自分の想像以上の速さで相手の懐に潜り込むことが出来た。何だこの脚力。蛇神の呪いの影響か? 疑問は頭だけにして、剣は迷いなく切り上げた。
 くるくると回転しながら、ケンキエンの、中途半端に先ほどの剛腕へと変化した左腕が背後に落ちた。寸前で躱されたか、首を狙ったんだけど。
『ぐ、ギィッ!』
 切り口を手で押さえながらケンキエンが壁際まで後退する。傷口からは血ではなく黒い、腐臭を放つ煙のようなものが漏れていた。あれが穢れだろうか。落ちた腕も、同じ黒い煙となって切り口から消えていく。
「臭ぇ。換気が必要だな」
『き、貴様っ、貴様ァ!』
「うるさいな。さっきまでの余裕はどうした。牢での余裕はどこいった? 僕のような雑魚など歯牙にもかけないのだろう?」
 剣先をケンキエンに向ける。美しい顔を怒りで歪め、裂けんばかりに目と口を開いた。いや、口の端は耳元近くまで横に裂け、小さな顔からは不釣り合いな牙が覗いている。どうやって口閉じてたんだろう?
『きィッさまァアア!』
 腕の切り口から、新たな腕が生えた。それはまた別の、上質の革製品みたいに艶々した黒い腕だ。それでも大きさは先ほど見せた腕と同じくらいだったが。
力任せに殴りつけてきたのを、剣の腹で受ける。勢いのまま押し込まれ、壁際まで追いやられる。壁に足裏を当てて踏ん張り、ようやく止まった。力が拮抗する。ピシッと壁に亀裂が入る。
「っせい!」
 横合いから、ライコウがケンキエンに斬りかかった。三半規管の狂いからは回復したようだ。気配を察していたか、その一撃は難なく避けられる。ライコウはそのままケンキエンと相対し、僕は彼の隣に立った。
「王妃、答えろ! なぜ我らに術をかけた! どうして安達ケ原の者たちと争うように仕向けた!」
 切っ先を向け、油断なく構えながらライコウが吠える。
『く、くくく、今更そんなことを問うのか、ライコウ。愚か。本当に貴様は、愚かな人の中でも飛び切り愚かよな。だからこそ、操りやすかったが』
 ライコウの馬鹿な質問を受けて少し心の余裕が戻ったか、ケンキエンは饒舌に語り出す。すでに裂けた顔の皮膚も腕も元通りになっている。どうしてわざわざ戻すのだ? もうばれているというのに。
「貴様は、何者だ」
『我は、神。貴様ら人や、あらゆる生物の上に立つ絶対の支配者、いと高き神よ』
 僕の経験上、自分から神を名乗る連中にロクな奴はいない。うんざりしながらも、まだ長くなりそうな話を聞いてやる。
『退屈していた我の前に、二つの国があった。この西涼と、かの安達ケ原よ。ちょうど腹も減っていた。だから、飯を食おうとした。我の飯は人から出る穢れ。憎しみや怒り、後悔、恐怖、嘆きを含んだ人の血肉。ただ襲い、喰らうだけでは恐怖しか味わえぬ。もっと色んな味を楽しみたい。そう考えた我は、この二つの餌どもを争わせることにした。そうすれば相手に対する憎しみや怒り、身内を失った嘆きや後悔などが味わえる』
 蛇神もそうだったが、こいつの様な、知恵を持つ生態系の頂点にいる連中は、総じて食べるということに楽しみを求めたがる。まあ、本やゲームをこんな連中が楽しんでたらそれはそれで驚くが。
 生物は生きるために餌を取る。そこに楽しみなどない。ただ欲望を満たすためだけの行動だ。獲物を狩って、食べて生きるためだけに知恵も技術も体力も、すべてを注ぎ込む。後は繁殖するか寝るかのどれかを行いながら、死ぬまで生きる。最初に食事、次いで睡眠と繁殖。それだけを考えればよかった。
食事が終わり、眠くもなく、繁殖時期でもない。ならばその空いた時間をどうするか。ただの獣であれば次の狩りまで体力を温存するためにじっとしているだろう。しかし、ある一定以上の知恵を持つ生物は、それだけでは物足りなくなる。今まで満たせていた欲望が満たせなくなるのだ。その分を補うために、思考する。知識を得る。試す。慣れてきたら次の方法を。一度でも知恵の恩恵を授かってしまえば、後は際限なく。
アダムとイブは知恵のリンゴを食べたから楽園を追放されたんじゃない。知恵を得て、楽園が楽園で無くなってしまったのだ。今までの楽園が風化して見えるようになってしまった。後は自分が満足するための楽園を求めて、欲望のままに突き進む。
『目論みは成功した。安達ケ原は恐ろしい化け物が住む、西涼を襲うために計画を立てている、などと人々に疑惑の種をまいただけで、愚かな人は怯え、それから逃げるために安達ケ原の者どもを襲った。愉快でたまらなかったぞ。全て我の思うがままだ』
「貴様、そんなことのために、我らや、彼女らをっ。人を何だと思っている!」
 人など、とケンキエンは鼻で笑った。
『どうして我が、地を這う虫けらどものことを考えてやらねばならんのだ。貴様らはほどほどに増え、適度に足掻き、我を楽しませてから、我の腹を満たせ。存在価値などその程度だ』
 ギリ、とライコウが奥歯を噛み締めた。口の端から血が伝う。
「貴っ様ァアアアッ!」
 踏込み、迅雷の如き突きを放つ。それを飛び越え、ケンキエンは僕らの後ろ、部屋の入口付近に降り立った。
『さあて、もうひと手間かけようか』
 そう言って、ケンキエンはすっと姿勢を正した。口をゆっくりと大きく開いたかと思うと
「きゃあああああああっ!」
 王妃の声で、甲高い悲鳴を上げた。たちまち、複数の重たい足音が鳴り響き、複数の兵士が武装して現れる。ここに来るまで一兵たりとて出会わなかったのに、いつの間にやら暑苦しい程集まりやがった。
「王妃様!」
 槍を腰だめに構えながら現れたのはあのハゲのキント隊長だ。僕たちの立ち位置を見て、すかさずケンキエンを背後に庇い、槍の穂先を僕たちに向けた。
「おお、キント隊長」
「王妃様、ご無事ですか?」
 すがりつくケンキエンに若干鼻の下を伸ばしながら、それでも部下たちの手前、隊長の職務をこなす。ただ、最初にライコウではなくケンキエンに声をかけるあたり、こいつらは完全に術中にはまっているとみていい。
「何があったのですか。これは、一体どういうことです? ライコウ将軍」
「キント、これは」
「ライコウ将軍も、呪われてしまったのです」
 言葉を選んで喋るのが苦手そうなライコウの弁明よりも先に、ケンキエンが一息に、簡潔に、わかりやすくこの場の状況を説明した。この場合の説明は正しい正しくないではない。周りの兵を味方に引き込めるか引き込めないかだ。そして、その点においてケンキエンは僕らよりも上手だ。第三者から見た状況の全てが僕らに不利となる。なるほど、わざわざ敗れた皮膚を治したのはこのためか。
「尋問するうちにその者から呪いを貰い、正気を失ってしまったのです。そして、化け物の意のままに操られ、とうとう王を・・・」
 さめざめと嘆く。ケンキエンの話を聞いた兵たちが色めきたった。だが、それも一瞬。彼らの意志は統一された。一片の疑いも持たずにケンキエンの言葉をうのみにし、僕らを敵として認識したようだ。槍や剣が敵意と共に一斉に向けられる。
「違う! 聞け! お前らは騙されている!」
 声高にライコウが叫ぶも、時すでに遅し。誰一人として彼の言葉に耳をかたむけないだろう。
「将軍、まさか、あなたが術にかかるなんて」
 残念そうにキントが言い、しかし取り乱すことなく、しっかりと槍を突きつけてくる。
「キント! 己の話を聞け!」
「聞けませぬ。呪いにかかり、操られているあなたの言葉など、聞けるはずがありませぬ」
「己もタケルも呪われてなどおらぬ。お主の後ろに居る者こそ、この西涼にはびこる呪いそのものなのだぞ!」
「畏れ多くも王妃様に向かってなんと言う事を! 本当に正気を失われましたか!」
「失っておるのはお主らだ! 安達ケ原の者たちを襲うように仕向けたのも、王を殺したのも、全てその女の仕業だ!」
「まだおっしゃられますか! あなたこそあの化け物どもに操られているのが分からんのか!」
 キントの一喝に、ライコウがたじろいだ。恐れたのだ。迫力に、ではなく、信頼できる部下に信用されていないという事実に。
「もう、喋らないでいただきたい。誰よりも誇り高い西涼の武人であったあなたの、そんな無様な姿は見るに堪えぬ」
「キント!」
「黙れ! ・・・皆の者! 賊をひっ捕らえい! 相手は操られているとはいえこの国一の武人と、化け物の一撃でも死ななかった化け物ぞ。用心してかかれ!」
 応! と掛け声勇ましく、兵たちが一歩踏み出した。槍衾が一層狭められ、一突きすれば僕たちは串刺しだ。
 だが、僕は前に出た。ライコウを押しのけ、彼らの前に立つ。左右から二人、僕に向かって剣を振り降ろしてきた。左から来た一撃を、相手の腕を掴むことで防ぎ、もう一方は剣で弾いた。弾かれた相手の剣は僕の真上に突き刺さる。無手となった敵の鳩尾を蹴り飛ばし後続を怯ませる。相手の腕を掴んでいた左手に力を籠める。元の世界での握力は五十程度だったが、今は掴んでいた相手の骨から嫌な音がする程度には強くなっているらしい。剣をその場で取り落した相手を、来た方向に投げ飛ばす。避けきれず、二、三人が巻き込まれて転倒した。落ちていた剣をそのまま拾い、二刀流でけん制。人垣の後ろでほくそ笑むケンキエン、その手前のキント、そして周囲の兵を見回す。
「そう言えば、あんたらは最初に、この国に売り子に来ていた安達ケ原の女性を問答無用で切り付けたそうだね」
「それが、どうした」
 それの何が悪い、化け物は化け物だろうが、とワイワイガヤガヤ口々に囀る。
「なに、たかが女性一人を化け物と恐れ、寄ってたかって襲い掛かる様な臆病な兵隊が粋がったところで、怖くもなんともないと思って」
 キントたちは絶句した。一時おいて、全員が面白いように顔を真っ赤にして、一丁前に怒り出した。
「き、貴様、侮辱するか!」
「ああ、気に障ったんなら謝るよ、僕は言いたいことは好きに言う性分なので。悪いね。あんたらは何一つ良心の呵責もなく弱い女性を嬲り、家族に向かって化け物を殺した英雄だと、そういって自慢してたんだものな」
 呪剣を強く握りしめると、ドクンとまた脈打った。多分、一振りすれば辺りの兵の首は飛ぶだろう。さっきのケンキエンの腕より固いってことはないだろうから。
「同じようにやってみろよ、英雄共。化け物はここにいるぞ」
「こ、このっ・・・・!」
 呻くものの、誰一人かかってこようとしない。一歩踏み出せば一歩退くありさまだ。僕程度に怯えて、よくもまあ安達ケ原の連中相手に戦ってたな。
「ま、待てタケル! お主、まさかキントたちを殺す気か!」
「殺す気は特にないけど、降りかかる火の粉は払うよ。それで相手が死のうが僕の知ったことじゃない」
 後ろから肩を掴まれる。
「待て待て、待ってくれ。説得すれば」
「すれば、なんだよ。聞くと思うか? 手遅れだよ。時間切れだ。後はどっちかがくたばるまで戦うだけだ」
「それでも!」
 ぐいと肩を引かれる。こんな問答をしている暇などないってのに。肩越しにライコウの顔を見た。なんて顔をしてやがる。親とはぐれた子どもみたいに顔を曇らせて。面倒だが邪魔されるのも厄介だ。仕方ない。プラン変更。それに、このまま目の前の連中を排除したとしても、本命に逃げられる可能性が高い。引くに引けない状況を創った方が速いかもしれない。
 僕は構えを解き、肩から剣を下げる。囲んでいた兵たちは、こちらに刃先は向けたものの、一瞬弛緩する。
「わかった。剣を捨てる。降参だ。これじゃあ逃げられないからな」
 そう言って相手の剣を右側に、自分の呪剣を左側に強めに突き刺す。床下まで突き抜けたような手ごたえがあった。そんなに分厚いもんじゃないだろう、という目論みは大当たりだ。
「た、タケル?」
「ライコウ。ほら、あんたも」
 戸惑うライコウの剣を奪い取り、同じように僕らの背後に勢いよく突き刺す。僕の行動を理解できない連中は、唖然としたままその場を見守っている。なるほど、勉強になるな。たとえ敵対していたとしても、理解できない行動というのはつかの間ではあるが相手の思考と行動を奪うのだ。これで、右、左、後ろに三本の剣が刺さっていることになる。最後はと、上を見上げる。狙いは天井に刺さったままのもう一振り。
「しまった。そいつを止めろ!」
 キントが床に走った亀裂に気づいた。声を受けた数人が僕らの包囲網を狭める、が、遅い。
真上にジャンプし、柄を握り引き抜く。落下の力も使ってその剣を前に突き刺す。これで、一メートル四方の狭い場所に剣が四本。
 ミシリ、と軋み、亀裂が剣から剣へとつながる。そこへ、ダメ押しの四股踏み。面白い位簡単に床が抜けた。
「お、おおっおおお?!」
 間抜けな声を上げてライコウが一緒に落ちる。埃をまき散らしながら階下へ着地。一緒に落下してきた呪剣を右手で、左手でライコウの腕を掴む。階下は上よりも大勢の予備兵力が存在していたが、虚を突かれ反応できない。その隙間を縫って僕らは走る。助走をつけ、木の戸に向かって蹴りを放つ。はめ込まれていた戸が、真ん中でぱっくり割れて飛んで行った。止まらず、そのまま宙に身を躍らせる。
「はああああああああ?!」
 素っ頓狂な叫び声をあげるライコウと共に自由落下。下の階層の屋根の上に飛び乗る。
「た、タケル、動く前にせめて一言・・・」
 息を切らせるライコウを無視して、あたりを見回す。来た時にはわからなかったが、治水工事でもしたのか街の付近にまで水が引かれている。脳内に地図を広げる。安達ケ原はここから北東。流れる先は北か。ちと方向が違うが、追っ手を巻くにはちょうどいい。
「行こう」
「そんな意図のわからない端的な一言が欲しいわけではなくてだな!」
 訴えは無視し、屋根から屋根へと飛び移る。盛大なため息を吐き出してライコウが後からついてくる。
「あの川に飛び込むぞ。流れに乗ってそのまま安達ケ原に行く」
「行ってどうする」
 屋根から飛び降り、人気のない街を走る。
「決まってんだろう。戦いの準備だ。王を討って止める方法が無くなった今、被害を最小限に抑えるために全面戦争をする必要がある」
「お主、それは矛盾してないか? 戦をすればどうしたって被害は出るのだぞ」
「ここの装備と安達ケ原の連中の術、双方を上手く用いて、戦い方を選べば被害は抑えられるはずだ。でないと次が持たねえだろうからな」
「次?」
 怪訝な顔で聞き返してきた。何故気づいてない。今しがた第三勢力に合ったばかりだろうが。
「ケンキエンだ」
 仕方なく、答えを教える。
「奴がか? 確かに尋常ならざる相手だが、一軍として数えるほどの物か?」
 ああ、わかってないな。あの姿のイメージしかわかないのなら、無理もない。
「一軍じゃない」
「だろう?」
 納得しかけたライコウの面前に指を二本立てて「二軍分だ」と言っておいた。
「に、二軍分だと? 冗談だろう?」
僕はそうは思わなかった。おそらく、あの蛇神級の敵だ。腕を落とせたのは相手が油断していたからだ。
「あいつはここで力を溜めていたと言っていた。力が不足している時でさえあんたら全員の意識を操ることができたんだ。一軍以下だなんて思えない」
 穢れ云々の話は省く。なんとなくで理解している物を話して、質問されたら返せない。
 屋根が途切れ、人気の無い大通りに飛び降りる。そのまま一直線で門目指して走る。
「ライコウ、あれに上るには?」
「上る? 開けるじゃなくてか?」
「簡単に開けられるのか? 開けてる間に追いつかれるなんて勘弁だぞ。それならいっそ、飛び越えた方が速い」
「飛び越えるって・・・、いや、もう何も文句は言うまい」
 首を二、三度ふり、迷いを断つ。
「門の右は物見台になっていて、そこに扉がある。そこから上に上がれる。ただ、扉にはカギが内側から・・・」
 ライコウの話が終わる前に扉の前に辿り着く。見たところ木製だ。ということは、今の僕の障害にはならない。すでに何度か実証済みだ。走ってきてそのままとび蹴りを叩き込む。文字通り一蹴した。
「僕が言うのもなんだが、この程度の強度じゃ、また破られるぞ」
「・・・全てが終わったら、鉄の扉に付け替えることにしよう」
 物見台内部に侵入。階段を駆け上がり
「な、何だ貴様ブゥッ」
 見張りを昏倒させながら屋上に出る。下をのぞく。高さはまあ、六、七メートルほどか。ふむ。
「タケル、どうする。縄も何もないぞ。さすがにこれでは下に降りれん」
「問題ない。騙されたと思って、ここに登れ」
 城壁の端をポンと叩く。怪訝な顔をしながらも、素直に端に立つ。僕も後に続き、二人揃って城壁の上に並んでいる図だ。
「おい、これからどうしようっていうんだ」
「簡単だ」
 彼の腕を掴んだ。
「肩を脱臼しないように気を付ければいい」
「は?」
 そのまま僕は城壁の外の方へ体を倒す。掴んだ腕の先で、ライコウが口を開けたままついてきた。余計な抵抗が無くて実に楽だ。城壁の真ん中あたりに剣を突き刺す。ぐぐっと右腕にかかる負荷。反対に落下の勢いは削がれる。ここならもう下まで二メートル無い。唖然としたままのライコウに「離すぞ」と伝え、手を離す。ワタワタしながら下で受け身を取った。それを見届けてから、剣を引き抜く。ライコウの隣に着地、足から痺れが上がってくる。
「騙したな・・・」
 恨みがましく、ライコウが睨んできた。
「騙されているとわかっているなら、そんなに衝撃もないと思って」
 軽く肩を竦める。無事に出れたんだから良いじゃないか。
 片足ずつ軽く振ってしびれを払う。何を言っても無駄と悟ったか、ライコウも同じようにして、足の状態を確認していた。
「で、タケルよ。お主は何を考えている」
 再び走り出した僕と並走しながらライコウが尋ねてきた。
「さっきも言ったろ。戦う準備だ。ケンキエンの本体を引きずり出すために協力してもらう」
「本体? 引きずり出す? すまん、馬鹿な己にもわかるように、順序立てて言うてくれんか?」
 面倒くさいな。けど、こいつには理解してもらわなければ。後で西涼の連中をまとめてもらわなければならない。
「僕が考えているのはこうだ。あんたにはまず、安達ケ原の連中を率いて、西涼の連中を封じる」
「待て、最初から無茶だぞ。己が昨日まで敵だった連中を率いる等不可能だ」
「その辺は心配するな。僕が何とかするし、あんた憧れの巫女が許可するはずだ」
「巫女、朱姫がか?」
「そうだよ、だからまずは僕の話を聞け。全部聞いてから質問しろ」
 神妙な顔で頷くのを見て、話を続ける。
「あんたは西涼の兵の戦い方を知っている。どう攻めて、どう守るのか。だから、隙もつければ、しのぎ方もわかるはずだ」
「おう。それは任せろ」
 満足いく返答でよかった。それが前提条件だからだ。
「次に安達ケ原の奴らの力を見極めろ。何が出来て、何が出来ないか。そして、血を流さない戦いをしてくれ」
 まあ、これも酷い無茶な要求なんだけど。
「ケンキエンが血を喰うからか」
「そう。だからそれを止めると、きっといらだって出てくる。腹が減っているのに、食い物を目の前にしてお預けを喰らうのは、誰だって腹が立つだろう? だから、自分から動くはずだ。本性を現せば、流石に西涼の連中も気づく」
「そんなすぐに本性を現すか? ケンキエンは西涼を味方につけておきたいんじゃないのか?」
「あれは人を味方とは思ってないし、必要ともしてない。そうした方が色んな楽しみ方が出来るからそうしてただけで、やろうと思えば自身の力で全部まかなえる。だから、わざわざそこまでして自分の味方にしておく理由がない」
「己たちが脅威などと思ってない、か」
 脅威どころか、小っちゃい虫程度だろうな。周りを飛ばれたら鬱陶しい、そのくらいの認識なのだ。むしろ勝手に怖がったり、絶望したりしてお得だ、くらいの考えだろう。
「だから、あんたは崩れかけた西涼の兵を立て直し、安達ケ原の兵に加えて編成し、出てきたケンキエンを迎え撃て」
「編成なんて時間がかかることを、敵の目の前で出来ると思うのか?」
「出来なきゃ全員死ぬだけだ」
 簡単な理屈だ。僕が今列挙していることの一つでも失敗すれば、最悪そうなる。
「ま、そのための時間稼ぎ用の作戦を、これから練りに行くんだけどな」
 一応、策の一つ二つは持っている。レンタルビデオ屋に勤めていた特権で、時間つぶしに色んな映画を借りて来ては見ていた。その中には当然、昔の戦争物だってある。そのいくつかをライコウに伝えておく。馬鹿と自分では言うが、戦略、軍略に関しては驚くほどの見込みが早い。僕のつたない説明でも、大体飲み込んで、自分のものにしていった。だてに将軍してなかった、ということか。
 ようやく川べりに辿り着いた。来た道を振り返る。馬の嘶きが聞こえた。追っ手は近い。
「急ごう。雲行きも怪しくなってきた」
 ライコウが天を指差した。見上げれば、今にも降り出しそうな雲模様だ。さっきまであれほど晴れていたのに、すでにぽつぽつと当たり始めている。
 適当な、いかだ代わりになりそうな倒木を二人がかりで担ぎ、川の中へ歩を進める。冷たい水が靴やジーンズに染み込み肌を刺してくる。震えながら、担いできた木を浮かべて、その上に荷物を乗せ、しがみつく。このまま流れに乗って離れる寸法だ。しかもあちらからはただの流木だとごまかせる。
川幅は広いが流れは緩やかで、溺れる心配はなさそうだ。心配があるとすれば、ライコウの体調と体力だが。
「心配いらん。病にかかったことなど一度も無い」
 ・・・だろうな。かかっても気づかずに走り回ってそうだもんな。無用の心配は捨てて、川の真ん中まで進む。深さは胸のあたりにまで達していた。顔を水面近くまで近づける。頭と腕だけが出ている状態だ。
「上手くいっているようだな」
 ライコウが小声で囁く。僕たちの目の前には、何人かの騎兵が川岸を捜索しているが、目当ての僕たちを発見できずにいる。この流木にも特に注意を払ってないようだ。
水面を叩く雨は次第に激しくなり、徐々に川の水量が増え、流れも強く速くなりだした。騎兵たちは探索をやめ、引き返していく。増量した川に飛び込む馬鹿者などいないと判断したのだろう。
撒いた、と思って油断した。そんな時だ。カッと目の前で強烈なフラッシュが焚かれたかと思うと、耳を劈く轟音が鳴り響いた。
「雷か?」
 ライコウが耳をいじりながら言う。雨が降っているのだから、雷が降っても別におかしくはない。
 再び稲光が走り、音が腹に響いた。さっきよりも近い。光ってからのタイムラグが少ない。雷雲が近づいてきているようだ。
―どす黒い雷雲が、西涼へと流れていった―
 トウエンの言葉がよぎった。確か彼女はこう言っていた。つまりだ、相手は雲と、それに関係した天候を操ることが出来るのだ。
 再び、雷鳴が轟く。さっきよりも近い。もう少し近づくと感電する。
「た、タケル、これはまずくないか?」
「ああ、まずいね。だいぶまずい」
 しかも、すでに抗えないほど川の流れは強まっていた。次の落雷までに対岸まで行くのはかなり無理がある。またもプランを変更せざるを得なくなった。
「ライコウ。良く訊け」
 そう言って、僕は彼の二の腕を掴んだ。もう片方が剣を握る。
「今から、あんたを対岸まで投げる」
「投げ、るだと? 馬鹿な、自分より重たい己をあんなところまで投げると言うのか? 馬鹿を言う暇があったら、二人で協力して端まで行くのだ」
「悪いが議論してる暇もあんたの案に乗ってる暇もない。だから勝手の喋らせてもらう。対岸に到達したら、走って逃げろ。高い木からは出来るだけ離れて、次が来そうだと思ったら身をかがめて耳をふさげ。そして必ず安達ケ原に行け。そこにいる、クシナダという女に伝えてくれ。『蛇神の時に使った罠を覚えているか』と」
「蛇、神? 罠? タケル、お主は一体何を」
「必ず伝えろ。でないとお前の仲間も、安達ケ原の連中も全滅する。僕の知ったことではないけどね」
 そして、腕を思いきり振り上げた。ライコウの体が水中から気を付けの状態で飛び出した。足の裏が僕の頭の上に来たところで、握っていた剣の腹を当てる。
「足に力を込めろ!」
 聞こえたかどうかわからない。雨音がひどかったからな。聞こえていると踏まえて、僕は剣を振った。ライコウは狙い通り、ライナーの放物線を描きながら対岸に辿り着き、そのまま何度かバウンドしてようやく止まった。ゆっくりと彼が起き上がったのを流されながら確認できた。生きて動いているのだから、何とかするだろう。そのすぐ後に全身が沸騰するような感覚が襲い掛かってきて、目の前が真っ暗になった。

彼の居ぬ間に

 夜も大分更けた頃、外がにわかに騒がしくなった。さっき雨が止んで、ようやく静かになったと思ったのに、とクシナダは布団から起き上がる。隣で眠っていたはずのトウエンはいない。布団がめくれあがり、主が外へ出ていることを示唆していた。騒ぎを聞きつけ、先に向かったのだろうか。気になったので、同じように外へ向かう。
 外に出ると、門前の方でいくつもの松明が灯っている。家の中では何かわからなかったが、風に乗って運ばれてきたのは、人の怒声のようだ。
「起きたか」
 先に外に出ていたトウエンが振り返る。
「何かあったんですか? まさか、敵が攻めて来たとか」
「そういう類ではなさそうじゃ、が」
 ふうむ、と顎に手を当てて考え込む。
「どうかしましたか?」
「いや、この声、どこかで聞いたことがあるのじゃが、誰だったかのう?」
「村の誰かの声、では無いのですか?」
 村以外の者、という意味を込めて尋ねる。さっきからクシナダの耳に届くのは「おとなしくしろ」だの「トウエン様呼んで来い」だの「殺せ」など等だ。部外者なのは間違いない。
「うむ。しかし、何度か聞いたことがあるのじゃ。誰じゃったか?」
 まあ、行ってみればわかるか、と、トウエンは歩き出した。クシナダもその後に続く。
門前に近付くにつれ灯りと喧騒は大きくなっていく。村中の男衆が集まっているようだ。彼らは全員、同じ方向を向いている。術を使っている者もいるのか、所々で凸凹した影が出来ていた。
「トウエン様」
一番手前にいた男がこちらに気付いた。すっとトウエンに前を譲る。他の連中も彼女に気付き、騒ぐのをやめ、道を譲っていった。割れた人垣の先にはぽっかりと空間が開いている。そこに、一人の男が縄で縛られて転がっていた。幾らか暴力も振るわれたらしく、口の端と鼻からは血が流れ、乾いた跡があった。気を失っているのか、仰向けのまま、口をぽかんと開けて目を瞑っていた。
「トウエン様、丁度呼びに行こうと思っておったところです」
 年かさの男が進み出た。術を解いておらず、トウエンの二倍は大きい。それが、彼女の前で大きい体をかがめて傅く。クシナダも昼に一度会っている。守り人たちを束ねているクラマと言う男だ。
「クラマか。一体何があった」
「は。実は・・・」
「この声、もしや、朱姫か!?」
 クラマの巨体の後ろから弾んだ声がした。全員がその方向を向くと、仰向けで倒れていた男が体を起こし、目を爛々と輝かせて、トウエンを見つめていた。
「おお、遠くからでもその美しさはわかっておったが、近くであればもう輝かんばかり、この暗闇の中で輝くきら星の如き美麗さよ。いや、貴女の前では星も月も恥じて雲に身を隠すだろう」
 男の口からすらすらとトウエンを褒め称える言葉が零れ落ちた。
「・・・クラマ、こやつまさか、西涼の?」
「はい、西涼の将、儂らを散々苦しめたライコウです」
 トウエンが憐れみとも呆れとも困惑とも取れない微妙な顔をした。そして、まるで餌を前にした犬のように、もし尻尾があれば千切れんばかりに振っているであろうライコウに目を向けた。わずかに、トウエンの頬がひくついた。
「大丈夫ですか?」
 クシナダが近づいて声をかける。
「ん、うむ。大丈夫じゃ。で、その、間違いないのか?」
 改めて、クラマに問う。これがあの、我々を苦しめ、縦横無尽に戦場を駆けまわった、安達ケ原の戦士たちをして強敵と言わしめた男なのか、という意味だ。
「間違いありません。儂も一度奴と剣を交えたことがあります。後はタケマルやゼンが奴率いる部隊とぶつかっております。その二人も間違いないと言っておりました。ただ、儂が会ったライコウは、このような腑抜けた男ではなく、敵ながらあっぱれと呼べる、将としても、武人としても恐ろしい男でしたが」
「ふむ、そうか」
「何か、奴からよからぬ声をお聞きなされたか」
「よからぬ、と言えばよからぬが、この村に対してのことではない。安心せい。この者は我らを害する気はさらさらない」
「では、何ゆえこの敵地に?」
「さて、それは本人の口から聞くとしよう」
 すっとライコウの前に進み出る。
「西涼のライコウ将軍じゃな? 一体何が目的で」
「おお! 我が名を知っていただ行けているとは恐悦至極感謝感激雨霰! 今日この日が己のこれまでの人生の中で最高最大の幸福の記念日であろう!」
 言葉を途中で遮られたトウエンは、今なお訳の分からんことをわめくライコウをしばし冷たく見下ろして、次にクラマに目くばせし、
「黙らせろ」
 と命を下した。はい、と二つ返事でクラマは答え、ライコウの両足をまとめて片手で掴み、さかさまに吊り上げた。
「ちょ、おい! 今が好機、せっかく麗しの姫と話せておるというの」
 わめくライコウに構わず、クラマはそのままぶんぶんと腕を振り回した。妙に間延びした野太い悲鳴が、結構長い間木霊した。
 げえげえとその場で胃の中の物を戻し、静かになったライコウに、トウエンはもう一度同じ質問をした。さすがに冗談を言っている場合ではないと思った彼は、真面目な顔をして、ここに来た次第を話す。
「明後日、西涼が攻めてくる」
 ざわ、と周囲がざわついた。
「ほう、いつかは来るとは思っておったが。して、お主は何故、我らにそれを教えてくれるのじゃ?」
「己は、この戦を止めたいのだ」
「面白いことを言いよる。もともとはお主たちが始めた戦ぞ」
「そうだ。だから止めるのだ。この戦は間違っている。間違いは正す。それが己の責務だ」
 そう言って、ライコウは周囲の男達を見回した。
「己は、お主らの仲間を討った。許してもらえるとは思っとらん。この中にも、己を殺したいほど憎い者がいよう。だが頼む。この戦だけは、己に協力してくれ。この戦が終わった後であれば、侘びとしてこの首、お主らに差し出そう」
 だから、頼む。ライコウはそう言ってトウエンに頭を下げた。その姿に誰もが驚いたが、それでも信用できないと言う者が半数以上と言ったところだ。ライコウのこの行動こそが罠ではないかという意見もあった。
ふむ、とトウエンはあごをさする。
「クラマ。ライコウ将軍の縄を解いてやれ」
「・・・よろしいのですか?」
 トウエンは首肯する。
「再度こやつの心を探ったが、やはりこやつに我らと敵対するつもりはない。そして、この戦を止めたいというのも本音のようじゃ。明後日攻めてくるというのもな。一人でも仲間が欲しいこの時に、向こうの情勢と手の内を知っている者が協力を求めておる。しかも目的は同じ。渡りに船じゃ」
 巫女の言葉に誤りはないことを、クラマは良く知っている。一つ頷くと、それ以上異議を唱えることもためらうこともなく、ライコウの後ろに回り、縄を切った。
「朱姫、感謝します」
 縛られていた手首をさすりながら、ライコウは感謝した。
「まだまだお主からは話を聞かねばならんからの。あのままでは話し辛かろう。・・・しかし、何じゃその、朱姫というのは。勝手な名前を付けるな。儂の名はトウエン。安達ケ原の巫女じゃ」
「トウエン・・・なんともまあ美しき名よ。名は体を表すのか、それとも体にふさわしき名が宿ったか」
 腕を天に掲げながら勝手に感動するライコウをよそに、というより半ば無視して、トウエンは村の者たちに指示を出す。夜間の見張りだけ残し、他は解散させ休ませる。自身はクラマと共にライコウを連れ、家に戻る。策を練らねばならない。
「クシナダ、お主も今日は休め」
 傍にいた客人に声をかけた。夜も深いことも相まって、クシナダはお言葉に甘えようとしていた。だが、それを許さないものがいた。ライコウだ。
「クシナダ・・・? お主、クシナダと言うのか?」
 我に返ったライコウが、クシナダに詰め寄る。
「ええ、そうですけど」
 体を引き、少し警戒しながら肯定する。
「ではクシナダ、タケルという男に心当たりはないか?」
「どうして彼を知っているの?」
「知っているも何も、己を西涼から逃がしてくれたのは奴だ。安達ケ原に行き、クシナダという女を尋ねろと言っていた」
「タケルが?」
 そういえば、タケルが向かったのは西涼だ。そこでライコウに会ったとしても不思議ではない、が、なぜ彼はここにいない?
「タケルはどうしたの? あなたを逃がしたって言ってたけど」
 尋ねると、ライコウは顔をしかめて、伏せた。
「・・・奴は、己を逃がすために、死んだ」
 頭が、その言葉の意味を理解するのにずいぶんとかかった。あの男にこれほど似合わない言葉は無い。
「死んだ、って・・・」
「逃げる途中、雷に打たれて。もしかしたら、あれすらもケンキエンの術かもしれぬ」
 ライコウの話では、まるで狙っているかのように自分たちの真上に雷雲が湧きあがったという。
「有りえぬ話ではないな、お主の言うケンキエンとやらが儂の見た巨大なものの正体であるなら」
 西涼に分厚く真っ黒な雷雲を思いだし、トウエンはブルリと体を震わせた。そして、心を痛めているであろうクシナダに二人が顔を向ける。さぞ心を痛め、悲しんでいるかと思いきや、何やら思案顔で物思いにふけっている。
「クシナダ?」
 トウエンの呼びかけに、ハッと我に返った。
「今は、あいつのことはおいておきましょう。ライコウ、将軍? それで、タケルはどうして私を尋ねろなんて言ったのでしょう?」
 さほど気落ちしているようには見えない彼女の淡々とした質問に、むしろライコウが戸惑った。
「あ、いや、確か『蛇神の時に使った罠を覚えているか』と。何のことかさっぱりわからんが」
 それを聞いて、クシナダは再び考え込む。もちろん、蛇神の時に用いた罠のことは覚えている。ヤマザトにもイカルガにも興味本位で尋ねたことがあったからだ。原理は簡単で、彼らの作ったパイルバンカーのように精密なものは作れないが、似たようなものは時間と労力と材料さえあれば作れると思う。しかし、それが必要ということは、相手は人ではないことになる。タケルは、これから相手をする敵が蛇神級の厄介な相手だと伝えたかったに違いない。
「そこまで」
 トウエンが柏手を打った。
「お主らが持っておるものを一度、全てださねばならんようじゃな。クシナダ、済まぬがお主も我らの話し合いに参加しておくれ」
「もちろんです」
 彼女の返事に、トウエンは深く頷く。踵を返し、自宅へ向かう。早急に手を打たねばならない。そうしなければ、あの夢が現実のものとなってしまう。決意を固めたトウエンの後ろを、クシナダ、ライコウ、クラマが続く。

「我が国を今牛耳っておるのは、ケンキエンという女だ」
 広間で最初に口を開いたのはライコウだった。
「ひと月ほど前、あの女は王の寝所に現れた。全てはそこからおかしくなった。兵たちの意識がゆがめられ、安達ケ原の者たちと争うように仕向けられた。かくいう己も操られていた」
「操る?」
 クシナダの疑問に「そうだ」と首肯した。
「タケルも言っていた。ケンキエンの言葉は何一つ間違っていない、そういう風にされていると。己は運よく術が解けた。だが、他の者たちは依然術にかかったままだ」
「お主は、その者たちの術を解いてやりたいと思っておるのだな」とクラマは頭をかく。いまだに目の前のライコウに対して複雑な感情はあるが、同情の余地はあるとクラマは思っていた。仲間を失った怒りをぶつけるべきは他にいる、と。ならば今は、余計なわだかまりは捨て、ライコウに協力すべきだ。血の気の多い村の若い者たちは急には納得できないだろうが、それを取り持つのが自分の役目だ。そう自分の方針を固めた。
 クラマのそういう思いが伝わったか、ライコウも持てる情報全てを伝えるために、彼の質問にきちんと答える。
「ああ。術さえ解ければ、あいつらが貴女方と争う理由は消えるはずだからな」
「しかし、どうやって解けばよいのだ?」
 クラマは当然の疑問を口にした。
「ライコウ将軍と同じ方法を取ればいいのではないでしょうか? 運よく、とおっしゃっていますが、他にも何か要因はあるやもしれませんし」
「あ、クシナダ、それは」
 クシナダのもっともな意見に、顔を曇らせたのはライコウではなくトウエンだった。彼女はライコウの術が解けた原因を知っていた。聞こえたのはまさかの、自分に対する『恋慕』だ。彼女にとって、人から向けられるのは大体が畏敬の念だった。ライコウのように口からも心からも同じ自分を慕う声が聞こえて、生まれて初めて彼女は人間関係で戸惑っていた。巫女として生まれ、ずっと崇められてきた彼女にとってそれは初めての感覚であり、仕方がないと言えた。しかしそれを表に出すのは憚られる。良くわからないが、どうも恥ずかしかったからだ。だから止めようとした。
「聞きたいか? ん? そんなに聞きたいのか?」
 しかしライコウというと、嬉々とした表情でクシナダに向かって前のめりになった。話したくて仕方がないらしい。
「よし、そこまで言うのであれば聞かせてしんぜよう。そう、それはな、一つの運命的な邂逅が己をすく・・・」
「ライコウ将軍」
 吹雪よりも厳しく冷たい声が、ライコウを凍てつかせた。
「今は、そんな話で時を無駄にしたくはないのじゃがな」
 長年トウエンに仕えてきたクラマですら、彼女のこんな恐ろしい、心臓を鷲掴みにするような声を聞いたことはなかった。三人は恐る恐る彼女を見る。にこにこと、不自然な微笑みを湛えるトウエンがいた。だが、その顔が、目が言っていた。余計なことは喋るなと。
「・・・話を戻す。タケルは、ケンキエンが我々の戦によって流れる血を食い物にしているとも言っていた」
「戦場に穢れが無いのは、そのケンキエンとやらが喰っていたためなのじゃな」とトウエンが相槌を打つ。
「はい。この点から見ても、我々が争ってはならないことは明白です」
「しかし、西涼の兵は操られているのだろう? さっきも言ったがどうやって術を解く?」
 再度問うクラマに、ライコウは答える。
「タケルが言っていた。ケンキエンが我々を争わせるのは、結局のところ食い物を料理しているようなものだと。だから、その食い物が食えないようにすればいい」
「いや、だから、それをどうするか、かかっている術が問題であろう。何か策があるのか?」
「今は無い」
 はあ? とクラマが呆れる。
「だから、これから作るのだ」
ぐるりと、ライコウがクシナダに顔を向けた。
「己は、そこでお主の出番だと思っている」
「なるほど。蛇神の時のことを覚えているか、ね」
 タケルが言いたかったのは、ケンキエンという正体不明の化け物と戦うための罠と同時に、西涼の兵を可能な限り殺さずに捕らえる罠を用意しろ、という事なのだと解釈した。
「タケルは、他には何か言っておりませんでしたか?」
「己に、安達ケ原の戦力を確認しろと。何が出来て何が出来ないかを見極めろと」
 なるほど、とクシナダはまた頷いた。
「我らが血を流さない、死者を出さない戦い方をしていれば、ケンキエンは焦れて、自ら打って出てくるとタケルは言っていた。本性を現せば、術をかける必要はなくなるし、その本性を見て兵たちの術も解けるのでは、とも」
「そして、我らと西涼の兵が力を合わせてケンキエンと戦う、そういう絵か」
 クラマの結論に、ライコウが首肯する。
「では第一に、西涼の兵を死なせずに捕らえることからじゃの。ライコウ将軍。彼らは我らを見て、どう動くか」
 罠を張るにしても、敵がかからなければ罠に価値は無い。そういう意味では、相手の用兵術は重要だ。
「己ならば、やはり正面からはぶつからんでしょう。クラマ殿もだが、やはり貴方たちの怪力は脅威。まともに受ければ敗北は必至。なので、馬と弓を用いる。クラマ殿には愉快な話ではないかもしれんが」
 ちらとクラマの方を見る。頷くことで、クラマはライコウに話を続けるよう促した。こちらにも相手に劣るところがいくつもあることは承知している。それを克服するための話し合いだと理解していた。
「確かに、安達ケ原の者たちは強い。ケンキエンから術のことを聞かされたとて、その力が減じることなどない。一薙ぎで何人もの兵を蹴散らし、盾で防ごうとその上から粉砕してくる力はやはり脅威だ。だが、それだけだ。その力が及ばぬ場所では何一つ恐れることが無い」
 クラマは、これまでの戦いを振り返る。一戦目は、自分たちの勝利で終わった。ライコウが今しがた言ったように、攻めてきた西涼の兵たちを真正面から迎え撃ち、返り討ちにした。しかし二戦目からは辛い戦いが続いた。自分たちが絶対の自信を持つ力が発揮されない場面が数多く存在したためだ。力を振るおうとしてもその先に敵は無いか、または受け流される。かと思えば、敵の攻撃はやすやすとこちらに届く。トウエンが指揮に立ち、敵の心を読むことで次の手を探り、後手後手に回りながらも対処していたから、まだ大きな被害は出なかった。彼女の力無くば、すでに全滅していてもおかしくない。力はこちらが上でも、数では圧倒的に不利なのだ。
「己ならば、まず囮をあなた方の真正面に配備する。あなた方がそれに向かって攻めてくれば、弓で突進力をそぎつつ防御しながら後退、その間に騎馬で背面を取らせる。もしそれが囮とばれても構わぬな。他を警戒し薄く広がったあなた方の陣をそのまま囮部隊が攻め入り食い破る。散り散りになれば、後は各個に撃破していけばよい。その頃には騎馬隊も弓隊も現れ、ここを完全に包囲するであろう」
 ううむ、とクラマが唸った。完全に自分たちの弱さを見抜かれていた。勝てぬはずだと目の前の男の評価を改める。
「では、我らが彼らに対抗するには、どうすればよい?」
「己なら、籠城する。あなた方の力は攻撃ではなく防御に活かす。この村の出入口は一つ。どれほどの人間がいようと、扉に張り付ける人数は限られる。そして、同じ人数ならあなた方が力で負けることはない。門は死守できる」
「しかし、いつまでも門にこだわらないと思うが。西涼とは違い、囲う柵は木だ。火でも使われたらあぶりだされてしまう。今度は、一か所から這い出る我々が狙われるぞ」
「問題はそこなのだよなぁ」
 痛い所を突かれた、という風に、ライコウは押し黙ってしまった。もしや万策尽きたのかとクラマが声をかけようとして、先んじたのはトウエンだ。
「将軍。構わぬ。お主の考えていることを話せ」
「え?」
 クラマは、自分の主が言っていることが、一瞬理解できなかった。策は尽きたのではなかったのか。
「今は、ケンキエンとやらを止めるのが肝要。他のことは、皆が生きておれば何とかできる。どんな策でもよい。全て話してくれ」
「トウエン殿・・・」
 瞑目し、大きく息を吸って、吐き出す。その一連の動作を何度か繰り返して、ライコウの腹は決まった。
「己の策は、まず女、子ども、戦えない者たちを全員逃がす。そして、敵をこの安達ケ原の柵の中におびき寄せ、家屋を利用し軍を分断、各個撃破する」
「我らに、村を捨てよと、そう申すか」
「そうだ。少数で多勢に勝つにはこれしか思いつかなんだ。一対百では勝てぬが、一対一が百度であれば負けぬ。しかも捕らえればすぐさま家の中に放り込んで閉じ込められるのだ」
 理にかなっている。だが、納得はできない。トウエンもクラマも渋い顔をしている。今まで長く住んでいた故郷を捨てるというのは、そこに注ぎ込んだすべてを失うということだ。
「ライコウ将軍」
 重々しく、トウエンが口を開いた。
「その策で無くば、我らは勝てぬのだな」
「己の考えうる限りでは、そうです」
 それを聞いたトウエンは、クラマに向き直る。
「明日、儂から皆に話す」
「トウエン様!」
「家は壊れたら直せる。田畑は耕しなおせるのだ。人が生きている限り」
 しかし、死ねば終わってしまうのだ。血を吐くような思いでトウエンは決断した。誰よりも村のこと、民のことを案じていた彼女がここまで言うのだ、クラマも腹をくくった。
「ライコウ将軍、クシナダ。皆を、安達ケ原の民も、西涼の民も、皆を救ってくれ。そのためであれば助力は惜しまぬ。この家も明け渡そう。家具も全て好きに使ってくれ。他にも入用なものがあれば全て用意する。皆は儂が説得する」
 心の読めない二人にも、彼女の強い思いは伝わってきた。
「全身全霊、命を賭けてこのライコウ、必ずや貴女の願いを叶えて見せよう」
 愛する者からここまで頼られ、燃えない男がいようか。胸を叩き、力強く応えた。
「私も、微力ながらお手伝いします」
「二人とも・・・有難う。感謝する」
 そうと決まれば、とクシナダは再び思考を巡らせる。この村の全てを罠として使えるなら、対蛇神で用いた罠が使える。落とし穴やパイルバンカーはもちろん、彼らの腕力を用いればもっと効果的な物も可能だ。
「あ」
 ふと思いだしたのは、この村を囲う柵だ。あれはもちろん外からの侵入を防ぐためのものだ。もしあれが、自分たちに迫ってきたらどうだろう?
「どうした?」
「いえ、もしかしたら、なのですが」
 思いついたことを彼らに話す。三人は、一度話した時はその意味が理解できず首を傾げ、二度目でようやく合点がいった。
「確かに、それが出来ればかなり大勢の兵を捕らえることが出来る。しかし、可能か?」
 ライコウが、この作戦の肝となる安達ケ原の兵、その代表であるクラマを見上げた。
「不可能ではない。我らがあの柵をこしらえたのだからな」
 自信ありげにクラマが言った。
「でも、作ったりする時間は大丈夫ですか? 攻めてくるのは明後日、いえ、もう明日の朝ですが」
「材料については問題ない。この家を解体するがよい」
 トウエンが両手を広げた。
「言ったであろう。この家も好きに使えと。儂のためにと皆が良い木で建ててくれたのだ。皆のためになるなら、この家も本望であろう」
 「な?」と片目を瞑っておどけて言う彼女。心撃ち抜かれた男が一人、幸せそうな顔で気絶した。そのまま大いびきをかいてその場で眠ってしまった。余程疲れていたのだろう。眠りこけた彼にトウエンが毛布をかぶせて、三人は明日に備えて眠ることにした。

 早朝、日が昇って間もないころに、トウエンは村人たちを呼び集めた。隣にライコウを立たせて、これからのことを伝える。彼女がまず伝えたのは、この村を捨てると言う事。一番大切なことからきちんと説明しなければ、納得も、今回の作戦も協力してもらえないと彼女は考えていた。人の心を読めるからこそ、人の心を無視することはできない。戸惑う彼らに、彼女は頭を下げ、真摯に頼み込んだ。
「頼むだなんて、水臭いこと言わないでください」
 戸惑いこそあったものの、誰も彼女を責めたり、村を捨てることに不満を抱く者はいなかった。最初に口を開いたタケマルのこの一言が、村人たち全員の心情を現していた。
「俺たちは、これまでずっとトウエン様に守られてきた。その恩を忘れてるやつなぞこの村には居やしません。言ってくださいよ。何をしたらいいか。恩を返すためなら、俺たちに出来ることなら何でもやりますよ」
 そうですよ、やりますよ、集まった人々は口々にそう言った。
「皆、有難う」
 こっそりと、溢れていた涙をぬぐう。再び顔を上げたトウエンはいつも通り、決然たる口調で村人たちに指示を飛ばす。
「女、子どもはすぐに家に帰り、荷造りを。持って行くのは必要な物だけにして、荷物は出来る限り少なくするのじゃ。クラマ、男たちに指示を」
「かしこまりました」
 恭しく頭を垂れ、前に進みでる。
「これから人手を分ける。半分は、これからトウエン様の家を解体する。足りなければ他の者の家もだ。それで必要な木材を得る。もう半分は、その木材を用いて罠の準備だ。ヤシャ、お前は手先の器用な奴を見繕って、罠を創る連中をまとめろ」
 はい、と背がひょろっと高い男が返事をした。
「ライコウ将軍、クシナダ殿。お二人はこのヤシャと共に罠作りをお願いしたい」
 初めてその場がざわついた。
「クラマの大将、どういうことです!」
「そいつは敵の将だった男ですよ! そんな奴と協力しろってんですか」
 喧々囂々、反対の嵐が巻き起こった。
「静まれ、皆の者!」
 トウエンの一喝に、野次は止んだ。しかし、まだぐちぐちと不満を述べる者たちは過半数を占める。
「昨日、ライコウ将軍が言っていたであろう。彼は過ちを正すために我らに協力すると。そして、儂はそれを受け入れた。今、彼以上に西涼の事情に詳しい者がいるか? 昨晩の我らの話し合いでも、彼はいくつもの案を出してくれたのだ。自分の仲間と敵対してでも、この戦を終わらせようとしているのだ。その心意気を信じられぬのか?」
「し、しかしトウエン様。それこそが西涼の奴らの罠かもしれないんですよ? 奴らは俺たちの術を知っていた。なら、トウエン様の心を読む力も知っているかもしれない。そいつの様な嘘のつけない奴を追い出し、わざとここに向かわせて、こっちを騙すつもりかもしれないんですよ?」
「もちろん、その可能性もある。しかし、それとライコウ将軍と共に戦うということは別の話ではないのか?」
 トウエンの説得にも、彼らはまだ「しかし」「それでも」と否定的な言葉を発する。まずいな、とトウエンは内心頭を抱えた。不安を持ったままでは戦いに集中できない。連携も取れない。一番大事な場面で、そこからほころびが生じることは想像に難くない。
「トウエン殿」
 当の本人が、トウエンをじっと見つめていた。
「ここは、己に任せてくれぬか」
 応える前に、ライコウは一歩、いまだざわめくその場に踏み出した。全員が、仲間を傷つけ、殺した男を睨みつけた。殺意、敵意、憎しみのこもった視線を受けながら、ライコウは真直ぐに立っていた。
「己のことが憎かろう。仲間を殺し、家族を脅かした、このライコウが」
「ああ、憎い。殺したいほどだ」
「奇遇だな。己もだ」
 あっさりと、ライコウは相手の神経を逆撫でるようなことを言った。ぞわ、とその場に満ちる負の感情が形を成したかのように、空気を重くし、息苦しくさせる。あるものは術を使い体を強化し、あるものはその手に剣を、棍棒を、槍を握りしめた。そんな中で、ライコウは話し続ける。
「己も、仲間を殺された。いつも助けて世話してくれた先達、己の後を追いかけて兵になった若者、皆、この戦で死んだ。己もお主らが憎かった。だがそれ以上に、死んだ者の家族がお主らと、ふがいない己を恨んでいた。どうしてあの人が、あの子が死ななければならなかったのかと、生き残った己に言うのだ。それからずっと考えていた。誰も死なせずに済む方法を。いくつもの策を考えた。兵の動かし方を寝る間を惜しんで考えた。それでも誰かが傷つき、倒れる。あれもダメ、これもダメ、ずっと、ずっと考えていた。そして、ようやく至ったのだ。戦をせぬことが、最も戦で死人を出さずに済む方法だと」
 ライコウの言っていることは無茶苦茶だった。だが、誰もが憎き相手を前に、その言葉を聞き逃すまいとしていた。戦で死人を出さないこと、それは、彼らの敬うトウエンが常日頃考えてきたことだからだ。
「もちろん、この戦を始めてしまった我ら西涼は、その責任を取らねばならん。だから、昨晩言った。この戦が終われば、安達ケ原、西涼、双方の兵を一番殺した、最も罪深き己の首を差し出そう。己と、この戦の黒幕であるケンキエンの死をもって、この戦を終わらせたいのだ。他の誰も死なせぬために、己はこれから戦うのだ」
 ライコウは周りにいる一人一人の顔を見回す。
「それでも討ちたいのならば、この首取りに来い」
 誰もが飲まれた。ライコウという男の覚悟を感じ取ってしまった。同じ男として、武人として、同じように守るべきものを持つものとして、その熱意を頭ではなく魂で理解してしまった。
心を読めるトウエンだからこそはっきりと見えた。ライコウの内で燃える炎が、言葉を伝って他の者たちに伝染していくのを。憎しみと復讐の暗闇の中に、確かに違う何かが生まれた瞬間を目の当たりにした。これが、西涼の兵を率いていた男の器か、と。昨日の愚かな姿は儂を油断させるための演技ではないかと思わせるほどだった。
一人、また一人と武器を降ろしていくのが見えた。
「納得したわけではないぞ」
 一番前にいたタケマルが言った。
「貴様の兵が、この村に毒を撒いたこと、それでまだ苦しんでいる者がいること、ゆめゆめ忘れるな」
「心得ている」
 そのやり取りを見終えて、トウエンは一つ手を打った。人の意識が切り替わるときにも似た音が人々の耳朶を打つ。
「では、時が惜しい。皆、作業に移っておくれ」
 応、と威勢のいい返事一つ残して、各々が作業のために散った。彼女もまた、己が責務を果たすために動きだす。
 クシナダはそれらを見ていた。いつかの、蛇神に挑んだ自分たちのことを思いだしていた。あの時も、反発する村人と異世界からの彼らとが協力し、知恵を出し合い、策を練り、力を合わせて敵を迎え撃った。ほとんどがあの時と類似して、大きな点で違っていた。この場に、あの時一番の功労者が、死にたがりの男がいないのだ。

 快晴の空の下を万の兵が進む。術によって正気を失ったライコウの代わりに、軍を率いているのはキントだ。彼の内に渦巻くのは怒りだ。幾人もの仲間を殺し、あまつさえライコウを陥れた化け物どもを、この世から抹殺する。彼にとって、ライコウは幼い時から手のかかる弟であり、尊敬すべき上司であり、これ以上ない位頼もしい戦友であった。それは、他の兵たちにとっても同じだろう。彼がいるだけで士気が上がる。周りに力を与えるような、絶対的な存在であった。そのライコウに術をかけ、王を殺害させ、ケンキエン王妃にまで危害を加えようとした。許されざる所業だ。
「今日こそは」
 ぎっと目の前を睨みつける。憎き化け物どもが住む村が、面前に見えていた。あの村を焼き払い、全員を殺し蹂躙し尽くすまで、この憎しみは消えないだろう。
 王よ、ライコウよ、あの世で見ていてくれ。我らが勝利する様を。
 実際ライコウが死んだところを見たわけではないのだが、術で操られ正気を失っているのなら死んだも同じ。それに、キントは彼が逃げた方向に何度もすさまじい雷が落ちるのを見た。おそらくケンキエン王妃のお力だ。裁きを受けたに違いない、とキントは思い込んでいた。
 頬当てを装着し、いよいよ合戦の時が近づく。相手も、こちらの動きは察しているだろう。キントたちは、わらわらと害虫が逃げ出すように、あの巨大な門から出てくる場面を想像していた。そうすれば、正面にいる自分たちが一当てし、その隙に奴らを包囲するために両翼が動く。今までは相手の注意を分散し、力をじりじりと削ぐために動いていたが、今回は違う。包囲し、殲滅するための陣だ。
 だが、キントたちの思惑は外れた。いつもならすでに打ち合っていてもおかしくない距離になっても、出てくるどころか、いまだ一人の敵も姿を見せないのだ。何かの罠かと慎重に歩を進める。緊張感をみなぎらせながら、足元を確かめ、周囲に目を配り、一歩ずつ進む。しかし、その苦労と努力をあざ笑うかのように、何の障害もなく彼らは門前まで到達できてしまった。しかも、あろうことか門は開かれていた。恐る恐る覗く。予期していたような苛烈な攻撃はまるでなく、中はしんと静まり返っていた。
「キント様、こいつは一体」
 隣にいた兵が、不安げに尋ねてきた。そんなことは、キントの方が聞きたいくらいだった。
「じっとしていても始まらん。部隊を編成し直す。十人一組の部隊を二つ作って左右から調べていくぞ」
 キントの指示に従い、最初の二組が恐る恐る、未知の領域に足を踏み入れた。彼らが調べ終わるまで、キントたちは周囲を警戒しながら探索を行う。村の周りも、十人一組にした二つの部隊を左右同時に進行させた。
 異変が起きた、正確には起こっているのではないかと兵たちが思い出した。出発してから誰一人戻ってこないからだ。残った兵たちに動揺が広がっていく。まさか、もう、そう言う声があちこちから届く。悲鳴もなく、只消えるということがこれほどまで残されたものに影響を与えるとは思わなかった。これまでの奴らの戦い方とはまるで違う。
「キント様。ここに化け物どもが潜んでいるのは明白。こうなれば、この村を焼き払い、あぶりだしてやりましょう!」
 血気盛んな若い兵が言う。確かに明暗に思えた。
「出来ん」
 だが、キントはその提案を拒否した。
「まだ、中に入った者たちが生きているかもしれん。うかつに火責めなどできるわけがない」
「ならどうなされるおつもりですか」
 若者の非難めいた問いに、キントはどうしようもなく、嵌められた、ということをおくびに出さないまま答えようとして
「あああああぁぁぁ」
「ひやああああぁぁ」
「うわああああぁぁ」
 村の奥の方で悲鳴が上がった。まずい、とキントが声を上げる前に、彼が最も恐れたことが起こった。
「キント様、悲鳴です!」
 言うや否や、居ても立っても居られないという風に、仲間を助けるべく前線の兵たちが血気に逸って門へなだれ込んだ。そうすると、後続も命令が出たのかと後に続く。止める間もなく、また抗うこともできず、キントは人の波に押されるように門へと押し流された。その門は、キントがくぐろうとしたその一瞬、大きな化け物の口に飲まれていくような錯覚が見えた。
 なだれ込んだ戦闘は門を渡り、その勢いのまま村の中央まで進軍した。中央を中心に十文字型に大きな道があり、家屋は碁盤目状に並んでいるようだ。
「悲鳴があったのは、もう少し奥の方だろうか」
 あたりを警戒しながら、先頭が前と左右の三方向に分かれる。人海戦術で一気に村の中を捜索しきってしまおうという腹だ。水がアリの巣に流れ込むかのように、兵たちは流れ、家屋に浸入する。壁を破壊してまで家探しを行ったが何も見つからない。まるで廃墟に紛れ込んだような気がして、それも兵たちを不安がらせた。誰もいないのに、なぜ先遣隊は戻らなかったのか。悲鳴だけが聞こえてきたのか。わからないことが、余計に不安を煽る。
 そんな時だ。
「いたぞぉっ!」
 奥の方にある、一番立派な家から、猿轡を噛まされ、縛り上げられた先遣隊が発見された。村の周囲を回っていたはずの連中も、同じ場所に縛られて転がされていた。
 先遣隊発見の報告を受け、キントが駆け寄る。縄をほどくように指示し、彼らの前に立った。先遣隊をまとめていた兵長に声をかける。
「どうした、何があっ」
「お逃げください!」
 猿轡を外され、開口一番、兵長はそう言った。
「罠です、この村は、丸ごとが罠なのです!」
 言葉の意味を理解する前に、外からまたも悲鳴が響く。キントは部下を連れて外に飛び出した。
 目に入ってきた景色は、最悪の事態を想定していたキントの想像以下だった。
 誰かが怪我しているわけでもない。戦っているわけでもない。敵が見える所にいるわけでもない。
 近くの、ずっと外にいた一人に話を聞くが、その者も良くわかっていない。ただ遠くから悲鳴がしただけだと言うばかり。周りの兵たちに尋ねても同じ結果だった。
「一体、何が起こっている?」
 目に見えた被害が出ていないにもかかわらず、キントの胸中は不安でいっぱいだった。その間も、また遠くで兵たちの悲鳴が耳に届き、残った無事なはずの兵たちを不安と恐怖で疲弊していく。
 異変に気付いたのは、いったい誰だったか。
「ん?」
 一人が、外に立つ柵に目をやる。自分の何倍もある大木を組んだ柵が、一瞬動いたような気がしたのだ。じいっと見る。しかし、柵は動かない。
「気のせいか」
 当たり前だ。柵が、木が動くなんて聞いたことない。敵地の緊迫した空気が幻覚を見せるのだろう。怯えているからそんなものを見るのだ。気をしっかり持て。気合を入れ、柵から背を向ける。
 ズズッ
「!?」
 またも振り返る。変化はない。あるはずがない。誰もいないのだから。
「え?」
 心なしか、柵の高さが変わっているような気がする。しかし、さっきまではこの距離からなら、手前にある家の屋根よりも低かった気がするのだが。首を傾げながら見続ける。
「おい、どうした?」
 ずっと柵を見続けている同僚を不思議に思った一人が声をかけた。
「いや、気のせいかもしれんのだが、あの柵の高さが変わったような気がするのだ」
「柵が?」
 馬鹿な、と同僚の話を笑い飛ばそうとして、その目の端が捉えた。同僚が指差す方向と別の場所の柵が動いたのだ。
「・・・動いた」
 同僚もその方向に目を向ける。わずかにだが確かに動いている。そのあたりから悲鳴が上がった。この因果が意味するところはつまり、理屈は良くわからないが、柵が動いているあたりでは、悲鳴を上げる何らかの事象が発生しているということだ。
 お互いに顔を見合わせる。とにかく良くないことが起こっているのは明白だ。残念なことに、事態は彼らに考える暇を与えなかった。風が巻き起こり、彼らの頬をくすぐる。今日は無風だ。しかもここは件の柵に覆われていて風が遮られるのに、だ。妙な圧力を感じ、その方向にゆっくりと振り向く。さっきまで遠くに合ったはずの柵が自分たちに数歩の距離まで近づいていたのだ。しかも、じりじりとその距離は縮まっている。混乱し、茫然とその光景を見ることしかできないでいる彼らの前に、とうとう柵が辿り着いた。
良く見れば、柵は前後で多少ずれていて、自分たちの見ている真正面の柵よりも、左右にある柵の方が自分たちの方に出っ張っている。柵に段差が出来ているような状態だ。
隙間の薄暗がりから、にょっきりとでかい手が伸びてきて、目の前の兵の頭を鷲掴みにした。そして、野菜でも引っこ抜くかのようにそのまま掴みあげ、隙間に連れ込んだ。もう片方も襟首を後ろから掴みあげられ、隙間に連れ込まれた。
「いらっしゃい」
 野太い声と太い縄が彼らを歓迎した。ぐるぐる巻きにされ、その場に転がされる。猿轡をかまされる前に、彼らは本当の柵がはるか後方に存在するのを見た。そこからこの偽物の柵までに、何人もの兵が自分たちと同じように捕まり、転がされているのを。
 ここにきて彼らはようやく悟った。この村の柵は二重になっていて、ぐるりと村を囲んでいる。兵を捕らえては柵と柵の隙間に隠していたのだ。兵が少なくなれば内柵の包囲を徐々に狭めて、今のように隙を見せた兵を捕らえる。あの時クシナダが考えた策だ。
「そろそろ気づかれたかな」
 うめき声を上げる兵たちの頭上で、安達ケ原の男達は次の手を打つことを検討する。
「確かに、これだけやってれば、気づかれていてもおかしくはないが」
「あの男の考えでは、半分の距離を超えたら後は全員同時に包囲を狭めることになっているが」
「まだそこまでは行けてないな。それに、右側は遅れ気味だ」
「代わりに左側が早いぞ」
「奥側はどうだ」
「あっちは敵兵も多く、上手く進めてないようだな」
「もともとあそこの主な仕事は敵兵を片付けることじゃない。おそらく敵の将がいるあの場所で、敵の動きや命令を読んで、俺たち周囲の連中に知らせることが目的だ」
「いざという時の合図もな」
「ふん。いけ好かないが、こうも上手くいくのなら、認めざるを得ないな」
「違いない。・・・とりあえず、今の様子を伝えるか」
 片面が綺麗に磨かれた銅鏡を取り出し、太陽の光を反射させた。その光の角度を調整し、正面と右側の柵の境目、角っ側にいる連絡係に向けて反射させる。連絡係もこちらの合図に気付いて、反射を返す。それを確認し、今度は反射している光の前に手を出したり外したりして点滅させる。それを同じ要領で三回繰り返す。昨日決めた合図だ。点滅の回数が三回なら前進成功、二回なら一旦中止、一回なら失敗という風にいくつか種類を決めておく。こうやって、安達ケ原の男達は遠くの仲間たちと連携を取り合っていた。
 しばらくして、連絡係からの合図があった。長い一回と、短く三回の点滅。
「おう、頃合いだそうだ」
「とうとう来たか。いよいよだな」
「腕が鳴るな。あいつらの度肝を抜いてやろうか」
「くっくっく、楽しみだな。今まで散々ぱらやられてきたのだ。今度は俺らの番だ」
 術のかかった巨人たちが昏い笑みを浮かべる。その様子を見て、その場に縛られて転がされていた西涼の兵たちが震えあがった。彼らの頭にはその知識は無い。だが、本能からくる恐怖が、目の前の化け物どもの総称を新しく創り上げた。
 人の及ばぬ怪力を持ち、人を陥れる知恵を持つ、額に角を持つ化け物。
「お、に・・・」

 異変が起きた。ばらけていた兵たちを中央に集め、敵襲に備えることを優先していた頃だ。
 一番端にいる兵がそれを目撃した。
「・・・浮いた?」
 その言葉の通り、彼らの目の前で、柵が宙に浮いたのだ。それだけではない。おどろおどろしいうめき声を上げながら、柵自体が兵たちを圧殺しようと迫ってきた。この地で果てた死者たちの呪詛のような声と物理的な壁、視覚と聴覚の二つが襲い掛かってくる。
 西涼軍は混乱した。少しでも逃げようとする端にいた兵と、中で何が起こっているか良くわかっていない兵とが衝突した。そこを退け、何があった、説明している暇はない、ふざけるな、その応酬がそこかしこで広がった。
「ふはははは、痛快だ」
「何もしなくともあいつら勝手に自滅していくぞ」
「どうしたどうした、俺たちにはビビらんくせに、只の木の棒ごときに腰抜かしてやがらぁ」
 反対に、柵を持って押し込んでいる安達ケ原の男達は笑いながら西涼兵を追いやった。その大きな笑い声すらも西涼兵を混乱させるのに一躍買い、軍の中心部では情報も人も錯綜しててんやわんやの大騒ぎ、混沌の坩堝と化していた。ついには元トウエンの家の周囲に追いつめられ、四方を柵で囲まれてしまった。日ざしを遮る高い柵に出口は無く、無理やり突き破ろうにも今度は多すぎる兵が邪魔になる。例え破れたとしても、外は敵が待ち構えていること間違いなし。火を用いることも検討されたが、そんなことをすれば全員が蒸し焼きになってしまう。完全に手詰まりだった。
「予定通りだな」
 その様子を見ていたライコウは腕を組み、うんうんと頷いていた。
「自分たちで案を出しておいてなんだが、本当に死人を出さずに西涼兵を封じてしまったなぁ」
 これまで自分が鍛えてきた連中が、こうも簡単に捕らえられたことに少しばかり悲しくなりながら。仕方のないことかと思う。それほどまでに、安達ケ原の連中の力はすさまじかった。自分が西涼にいたころ、彼らが軍略を持ち、組織として効果的な行動をされていたらと思うと背筋が凍る。確かに西涼は数では勝る。だが今回のように、それをいとも簡単に跳ね返すほど、一人一人が強すぎるのだ。
「さて、と」
 頭を切り替え、ライコウは視線を巡らせる。その先には西涼がある。
「おっ」
思わず声が漏れた。西涼の真上に、分厚い雲が立ち込め始めたのだ。それは見る見るうちに広がり、遂にはライコウたちの真上も覆い、日の光を遮ってしまった。安達ケ原の連中も西涼の連中も揃って空を見上げる。雲の中を時折雷が走る。
「おいでなすったか」
 舌で唇をなめる。タケルの言った通り、我慢できなくなったのだ。すぐさま門の外へ飛び出す。同じように、斥候兼連絡係の任を負った仲間たちが後に続いた。
 一際大きな雷が西涼と安達ケ原の真ん中あたりに落ちる。苛烈な閃光が収まった後、雷の落下地点に人がいた。その場にそぐわぬ華美な着物に身を包んだ女だった。女はその場で両手を広げ、クルリクルリと舞い始めた。空が舞いに応じたように、ざあっと激しい雨が降り注ぎ、地面を濡らす。最初、ライコウたちはその行為の真意を測りかねた。雨を降らせたところで、こちらには傷を負わせることは出来ない。
 ライコウは自分の足元を見た。ぬかるみ、踏ん張りが利きづらい。足を上げるだけでも泥がまとわりつき、余計な力を奪う。いかに安達ケ原の連中の脚力があるとはいえ、機動力は半減するだろう。これが狙いだろうか。
「おい、ライコウ! 俯いてないであれを見ろ!」
 斥候の一人があわてて指し示す方向を見る。始めは何かわからなかった。どうも、地面がもぞもぞと動いているように見える。遂には見逃せぬほどの動きを見せ、地面を突き破った。
 誰もが目を見開き声も出せない中、次々と地面が突き破られる。
 それは白骨化した腕だ。半ばで千切れかけた足だ。皮が剥がれた人の頭だ。
「嘘だろ」
 誰かがぼやいた。後ろでえずいている者もいる。それほどまでに衝撃的な光景だった。地中から現れたのは、これまでの戦で死んだ者たちだったのだ。
「ウラ王・・・なのか・・・」
 ライコウの視線の先、憎きケンキエンの隣には、王の衣装をまとった骸骨がいた。それが本当に王の亡骸なのか、それともライコウを動揺させるために衣装を着せたのかはわからない。
「あれは、隣に住んでいたキリマの親父じゃねえのか」
「ガンジュの若造もいやがる。あのひょろ長い面、間違えようもねえ」
「皆、死んじまった奴らじゃねえか」
 斥候たちも、自分の知り合いを見つけてしまう。
「あの女、死者を甦らせたってのか!」
 真意はそれだった。雨を降らせたのは彼らが出てきやすいように土を柔らかくするためだったのだ。
「ライコウ将軍」
 雷雨の中を、その声は不思議なほど遠くまで響いた。まるで音と音の間をすり抜けたかのようだった。囚われた西涼兵の耳にも、その声は届いた。彼らが敬愛してやまない王妃の声だった。
「ケンキエン王妃の声だ」
「おお、ケンキエン様が助けに来て下さった」
「もう安心だ」
 何も知らない彼らは無邪気に喜んだ。無根拠にもこれが救いの声だと信じ切ってしまった。柵に囲まれ、彼女の周りの光景を見ていない彼らはある意味幸せだった。
「策を弄し、西涼兵を無血でとらえるとは、見事な手腕でございました」
 コロコロと、可愛らしく笑う。死者に守られて笑うその姿は不気味であり妖艶、まさに死者の国の女王だった。
「しかし」
 途端に豹変する。笑みは深まり、深まりすぎて憤怒の形相を呈した。
「それでは困るのです。貴方たちと西涼兵がぶつかり合い、血で血を洗い、憎しみをぶつけ合い、恨みを募らせ、死を恐れながら死ぬような、そんな戦いをしてもらわなければ困るのですよ。まったく、キント殿がその程度のことすらできない無能とは思いませなんだ。仕方がないので、私めが少し手伝ってやりましょう」
 ケンキエンが右手をライコウたち安達ケ原の方へ向ける。腐りかけた目が、頭蓋骨の落ち窪んだ眼窩の闇が、その方向を一斉に見た。
「懐かしいでしょう? あなた方の元仲間たちですよ。憎しみを抱え、恨みを募らせながら死んでいった者たちの屍です。そこに、私の力を与えてあげると」
 左手を天に掲げる。掲げられた手のひらから、黒い霧が散布される。黒い霧は死者たちにまとわりついた。付着した箇所から、死者たちに変化が訪れる。ボコボコと気色の悪い音を立てていたかと思うと、損傷の激しい肉体から脱皮するように、新しい肉体が死者から生まれた。
 足を失っていた死者の下半身からは、犬が生まれた。犬の背から、死者の上半身が生えているような格好だ。
 腕を失っていた死者の背中からは、猿が生まれた。二人羽織をしているような状態で、残った腕がそれぞれ武器を持つ。
 頭を失っていた死者の首からは、鳥が生まれた。翼をはためかせ、弓を担ぎ、大空へと舞い上がった。
「このように、新しい兵となります。どうですか? 美しいでしょう」
 ケンキエンが目を細める。犬が今か今かと唸り声をあげ、猿が猛りを押さえられないと甲高く吠え、鳥が相手の神経を逆撫でるように騒がしく囀る。
「さあ、お行きなさい。私のために、最高の御馳走を作っておくれ」
 ケンキエンが腕を振り降ろす。地響きを立てながら、死者の軍勢が殺到する。
 恐怖からか、反射的にライコウたちは門を閉じた。その前に余っていた木材を積む。
「全員を、正面に寄越してくれ。あと、西涼の兵を開放するようにクラマ殿に報告を頼みたい」
 我に返ったライコウが指示を出した。
「か、解放だと。本気か?」
「本気も本気、大真面目だ。それとも、あれを己たちだけで対応できると思っているのか?」
 深く息を吸い、呼吸を整えながらライコウは抜刀する。
「必ず西涼兵の力が必要だ。人が揃うまでの間は、己たちが時を稼ごう」
「しかし、本来であればあの光景を真っ先に連中に見せて、その後で我らに味方するよう引き込むのではなかったか? これでは順番が違う」
「策に絶対はないものさ。大きな流れを策として、予定外のことは臨機応変に対処するのだ。ケンキエンのあの声は、柵の中にも届いておるはず。ならば、自分たちも己らと一緒に押しつぶされようとしている、と思っているはずだ。やってやれないものではないはずだ」
 それでも、説得には時間がかかるだろうなとライコウは見ていた。敵のど真ん中で、どうして敵の言う事を信じる? 罠だと誰もが思うだろう。このケンキエンの声すら罠だと思い込む奴がいるかもしれない。
―失敗すれば全滅するだけ―
 タケルに言われたことを思いだす。そうだ。一つでも出来なければ全員があのような姿にされ、死ぬことすら許されずにあの女の手駒に成り下がるのだ。
「説得までの時間は己が稼ぐ。だから」
「いや、説得には、お前が行け」
 ライコウの体を押しのけて、斥候たちが門前を固める。
「お、おい」
 戸惑うライコウに、斥候たちは告げる。
「お前じゃあれは倒せん」
 ずばりと言われた。ライコウ自身が感じていたことだ。自分ではこの斥候一人に及ばない。その彼らが恐れる死者の軍団に、自分がどれほどの事が出来ようか。
「お前一人ならば、俺たちは恐れなかった。俺たちがお前の何を恐れたかを思い出せ。お前の真価を発揮する場はここではないのだ」
 後ろを示される。その先にはかつての仲間がいるはずだ。
「お前が呼んで来い。それまでは俺たちが防いでみせよう」
 躊躇うそぶりをみせたのも一瞬、彼らに背を向けて走り出した。
「すぐに戻る! それまで見事持たせてみせい!」
「任せておけ」
 勇ましい返事を背に受ける。彼らはきっと応えるだろう。ならば、自分も彼らに報いなければならない。

 突然、自分たちを囲う柵の一部が開いた。何だ、また罠か、と全員が身構える。その開いた隙間から人が転がり込んできた。
「ライコウ、将軍?」
 一番手前にいた兵が、人物の名前を言い当てた。ライコウその人は息を切らしながら、自分たちを見回した。はっと、兵たちは武器を構える。事情は良く知らないが、ライコウ将軍は敵の術にかかって、正気を失ったのではなかったか。
「キントはどこだ」
 目の前の刃に一切目を向けず、ライコウは言った。
「キントはどこだ、と聞いておる!」
 腹にずしんと来る声を浴びて、兵たちは怯んだ。だがすぐに体制を立て直した。
「ここには居ません、いや知っていたとしても、教える筋合いはない!」
「貴方は術にかかり、俺たちを裏切った。貴方はもはや敵なのだ!」
「己は、裏切ってなどいない」
 熱くなる兵たちに対して、ライコウは静かに言った。
「嘘を吐くな。貴方が王を殺害したとケンキエン王妃が言っていた」
「そうだな」
「なら、やはり貴方は王を殺害した、裏切り者ではないか」
「どうして、ケンキエンの言っていることが真実だと言える? あの女の方こそ嘘を吐いているのに」
「馬鹿な。そんなことはありえない」
「ありえない? 何故だ」
「あのお方は嘘などつかぬからだ。決まっておろう」
 自信満々に兵士は言い返す。そうか、とライコウは淡々とした態度で
「では、今、そのケンキエン王妃様が言ったことも嘘ではないというのだな? 己たちを戦わせることが自分の目的だと言い、キントを無能とののしり、そして自らの手で、お前ら事踏みつぶそうとしているのも」
「それは、嘘だ。嘘に決まっている。王妃様がそんなことをするはずがない」
 ライコウが鼻で笑う。
「おい、おかしいではないか。さっきからお前らは、王妃は嘘を吐かないと言った。しかし今は嘘だという。言っていることが無茶苦茶だ。結局お前らは、自分にとって都合のいいものだけを信じようとしているのだ」
 虚を突かれたような顔の兵たちを一瞥して、ライコウは続ける。
「ようやく分かった。己は勘違いをしていた。ケンキエンがお前らに術をかけていて、正気が今もなお奪われているのではない。自分たちが間違っているということを信じたくないから、術にかかり続けている。たしかに最初はケンキエンの術だったかもしれない。しかし、お前らは頭のどこかで、これは間違っていると気づいた。けれど、それは認められなかった。そんなことをすれば、自分たちは何の罪もない、安達ケ原の売り子を襲ったことを認めなければならないからだ。だから、術に身を任せた。自分たちに都合のいい夢を見るためにな」
 両手を広げて、全てを受け入れる聖人のように、ライコウは諭した。
「いい加減、目を覚ませ。己たちは間違っていた。その現実を受け入れろ。でなければ一生覚めない夢の中で、心のどこかで後悔しながら生きていくことになる」
「貴方の言う事が正しいかどうかも、またわからないでしょう?」
 人ごみをかき分けて、キントが現れた。
「キントか」
「さっきのケンキエン王妃の声だって本物かどうかわからない。貴方や、化け物どもが用意した罠かもしれません」
「相変わらず、頭の固い奴だなあ」
 苦笑しつつ、ここが一番の踏ん張りどころだとライコウは気を引き締めた。この頭の固い、しかし多くの兵に慕われている男をこちらに付かせれば、流れはこちらに来ること間違いなしだからだ。それに、見たところ、こいつの腹は半分以上は決まっているように見える。
「では、お前は何を信じる? 己の言葉は信に足らずと言った。そしていまや、お前らが絶対の信を置いていた王妃の言葉は、お前らに仇なすものとなった」
「ええ、貴方も、王妃も、安達ケ原の者たちのことも、我らはもう何一つ信じられません。だから、自分の目で見極めます」
 そういうと、キントは兵たちに向き直った。
「お前たちはここで待っていろ。儂が一人で出て、外の様子を確かめてくる」
「な、何を言っておられるんですか! 危険です!」
「そうです。それなら俺が見てきます!」
 先走ろうとした兵を「いかん!」と一喝する。
「お前たちには、もし儂が戻らなかった時に備えて欲しい」
 そう言って兵たちを押しとどめた。
「ケンキエンの言っていることに一つだけ、確かな間違いがあったな」
 近寄ってきたキントに、ライコウは言う。
「キントという男は、けっして無能ではなかったということ。それは、今の時点では真実だ」
「今の時点は、か。それは、今後の判断でいかようにでも変わるということですかな?」
「そうだ。残りの髪の毛が無くなるくらい悩んでかかれよ」
 久しぶりのやり取りに、今の事態も忘れてキントは薄く笑った。

「畜生が!」
 櫓の上でタケマルは、悪態を吐きながら次々と登ってくる猿を棍棒を叩き続けていた。叩き落としても落としても、次々に奴らは上ってきてキリが無い。隣でも仲間が同じように槌を振るっているが、疲労が蓄積している。それに、問題はここだけではない。空からは鳥モドキがへたくそな矢を放ってくる。幸い狙いはでたらめも良い所だが、上から何かが落ちてくるというのはそれだけで注意を逸らされる。門前では犬どもが体当たりを敢行し、門を力尽くで破ろうとしている。この四本腕の猿は、その犬どもを足場にして柵をよじ登ってこようとする。何体かはこちらの隙間を潜って下に降りたやつもいたが、それはクラマたちによって叩き潰された。今はまだ、突破を許した数が少なかったから良いものの、これ以上増えると内と外から破られることになる。下に群がる化け物どもの数も増え続け、力負けするのは時間の問題だった。
「せめて上の馬鹿鳥どもを何とかできりゃあ、な!」
 ぶんと棍棒を振り回し、同時に上ってきた猿三体、放物線を描いて飛んで行った。途中で飛んでいた鳥を数体巻き込んで落下していく。
「ちょ、おいアレ!」
 隣にいた仲間が叫ぶ。何事かとタケマルは彼を見、彼が指差す方向を見た。
「・・・クソが」
 歯を食いしばりながら吐き捨てる。絶望的な気分だった。彼らの目の前には鳥の軍団がいた。その鳥は二体一組で、その腕に犬や猿を掴んでいた。脳みそ腐っているくせに効果的な戦術を用い始めたのだ。あれだけの数を中に落とされたら形勢は一変してしまう。
「クラマ隊長に伝えろ! 敵が空から来るってな!」
「それには及ばん」
 下から返事があった。怪訝な顔で覗き込むと、ライコウがいた。
「てめえ、ライコウ! 西涼兵どもを説得に行ったんじゃなかったのか! こんなところで何油売ってやがる!」
 タケマルが怒鳴りつけたが、ライコウは涼しい顔で
「お主、馬鹿ではないのか? 己がここにいるということは、つまり、そう言う事なのさ」
 ライコウが言った直後、タケマルの頭上を何発もの岩石が飛んで行った。勢いよく飛んで行った岩石は上空を飛んでいた鳥たちに直撃し、地面へ撃ち落としていく。
「タケマル殿。すまんがここからでは戦果が良く見えん。どうなった?」
「え、あ、ああ、結構落ちた」
 呆気にとられた様子でタケマルは答えた。
「ふむふむ、なるほど、クシナダ殿が考えたこれは、なかなか良いな。ちと重たいし狙いに難ありだが、固まっていればどこぞに当たるか」
 村の奥の方から、ガラガラ、ゴロゴロと音を立てて、今しがたの戦果を叩きだした機器が五台現れた。三角に組まれた足が二本、台車のように平行に並んでいる。三角の頂点には一本の木が通されていて、そこにもう一本、縦に柱を組み込んでいた。ちょうど真ん中で十字に組んでいるような形だ。柱の下側には大きな岩石が結び付けられ、上部には綱とザルが付けられている。これこそがクシナダが以前の罠を改良して考えた石を投げる兵器だった。
「ようし、お前ら、次の発射の準備だ!」
 応! と返事をしたのは西涼兵だ。彼らは柱の片方に結び付けられた綱を引き、支柱の端を手繰り寄せる。柱の端にある大きなザルに岩石を積み込み、準備完了だ。
「もういっちょ行くぞ。上にいる連中はしゃがんでろ!」
 慌てて櫓の上にいたタケマル達はその場に伏せる。
「放てェ!」
 ライコウの合図とともに西涼兵たちは柱の綱を手放す。柱の下についていた岩石が錘となりなって下へ落ち、反対側の柱上部を振り上げる。振り上げられた力はそのままザルの中の岩石に移り、そのまま上空へと放たれる。岩石は今また飛び上がろうとしていた鳥たちの翼をもぎながら、その下の軍勢を打ち砕いていく。それを見ていた櫓の上のタケマル達が歓声を上げた。これなら何とかなる。その士気は下で門を防いでいる者たちにも伝わった。
「クラマ殿。遅くなって申し訳ない」
「いや、丁度良い所だ。助かった」
「して、戦況はいかがか」
「ライコウ将軍の助力で、一時的に士気は回復したが、このままではまずいな。あちらは倒しても倒しても復活するようだ。逆に、こちらは疲れがたまってきている」
 先ほどから自分たちが倒した化け物たちのことを思いだす。彼らは倒した後、地面に黒いシミと煙になった。煙はそこで掻き消えたが、シミは地面に吸い込まれていった。しばらくたつと、ケンキエンの周りから、先ほど倒したはずの個体とそっくりの個体が生まれ、ま他襲い掛かってくるのだ。さっきから倒しても倒しても数が減らないのは、ケンキエンが術を用いて、死んだものをまた復活させているからだ。
「このまま長引けば、こちらの敗北は必至、だな」
 うむ、とクラマは頷いた。
「かのケンキエンを討たねば、我らに勝ち目はない。しかし、貴方がたが来て、味方の士気が上がった今こそが好機」
「打って出て、ケンキエンの首級を上げるのだな」
「そうだ。それに、トウエン様たちも準備が出来ている頃合いだろう」
 あとは、いつこちらが動くか。
 彼らが決断を下す前に、敵であるケンキエンが動いた。今なお落とせない安達ケ原に業を煮やしたのだ。原理はわからないものの、西涼兵は安達ケ原の連中と和解したとみていた。上手く村を落とせないことに憤慨しつつ、それでもケンキエンから余裕は消えない。これも一興、と手を変える。
「いけませんね、西涼の者どもよ。私を裏切るのかえ? ならば、その選択の代償を支払ってもらいましょう」
 ケンキエンが腕を掲げた先には西涼があった。兵のほとんどがこの安達ケ原にいる今、西涼に兵はほとんど残っていない。ケンキエンは見せしめに、彼らが残してきた家族を全て殺すつもりだ。家族の死体を今度はあの閉じこもっている中に放り込む。さて、どのような反応が返ってくるだろうか。親の生首を見た子の嘆きはさぞ心地よく耳に残るだろう、体の一部が無い妻の死体を見た夫の憎しみは心を満たし、子どものバラバラの死骸を見た親は後悔と絶望の中正気を失うだろう。想像しただけでよだれが出てきそうだ。
「さあさ、この地で果てし者どもよ。貴様らが憎むべき生者たちは、あちらにもおるぞ」
 愛おしげに声をかけられた彼女の周りの犬、猿、鳥たちはその場で反転。西涼の方へと駆けて行く。このすぐ後に、平原に絶叫と断末魔が響き渡る、阿鼻叫喚の地獄絵図が繰り広げられるはずだった。
 最も早く西涼に辿り着いたのは鳥の一体だった。それに気づいた見張りの一人が、大慌てで警鐘を鳴らす。カンカンカンと鳴り響く警鐘は、遠く安達ケ原に立てこもっている兵たちにも届いているが、どうすることもできない。目の前にはまだ多くの敵があり、たとえそれらを排したとしても、この距離からは追いつけない。
 上空を旋回していた鳥は、丁度いい獲物を見つけた。泣き叫ぶ幼い子どもと、それを連れて逃げる母の姿だった。狙いを定め、鳥は落ちるように獲物に向かう。そのまま母の胸をくちばしで、子を鉤爪で引き裂こうとした。狙われていることを知った親子は急ぎ建物の中に隠れようとするが、間に合わない。駆け込む前に、その命が抉り取られるだろう。

 シュパッ

 最後まで、鳥は何が起こったかわからないまま地に落ちて、消えてなくなった。亡骸のあった場所から、カランと一本の矢じりが落ちる。
 鳥に構わず、犬たちが門へと殺到した。中にいた兵たちは懸命に開かないように内から押さえるものの、物量が違い過ぎた。キリキリと軋みながら鉄の門が歪み、その隙間から鋭い牙が見える。半狂乱になりながら、兵たちは門を押した。門が開かれた瞬間、あの牙が自分の首に突き立つところが容易に想像できたのだ。しかし無情にも、門は徐々に押され始め、犬の首がその隙間にねじ込まれた。もう駄目だ、門前にいた誰もがそう思った。
 大地を振るわせる雄叫びが轟いたのは、そんな時だ。音に反応したか犬たちが門から注意と力を逸らした。その隙に、兵たちは門を押し返す。
「な、何だ?」
「何が起こった?」
状況が見えない門前の兵たちは、ひとまず命の危機が去ったことにホッとしつつも、何が起こっているのか不安で仕方なかった。彼らの目は、自分たちの上、見張り台にいる兵に向けられた。下からなにが起こっているのか呼びかけるも、見張りの兵たちは茫然と一点を見つめたまま答えようとしない。
 それも仕方のないことだろう。彼らの目には信じられない光景が広がっていたからだ。
 先ほどまで西涼に攻め込もうとしていた軍の横腹に新手が突撃したのだ。強力な一撃で門前に殺到していた犬と猿が蹴散らされていく。空にいた鳥たちも首や頭を矢によって貫かれ、次々と落とされていった。
 襲い掛かったのは彼らにとって敵であるはずの、安達ケ原の別働隊だった。
ライコウは、安達ケ原の門を破るのが難しいとケンキエンが見たなら、必ずがら空きになった西涼を襲うと読んでいた。自分たちの士気を落とし、かつ、自らの欲求を満たす最良の手だからだ。
 だから部隊を二つに分けた。安達ケ原を守る部隊と、西涼を守る部隊に。これ以上、ケンキエンに好きにはさせない、その強い思いが込められていた。
 西涼を守る部隊を率いるのは、これまで幾度となく安達ケ原を守ってきた巫女、トウエンだ。
「なんとまあ、想像以上じゃ。見事な腕よのう」
 隣で矢をつがえては放つクシナダを手放しで称賛した。クシナダが放つ矢は一発必中、確実に鳥たちの急所を貫き、その数を減らしていった。
 クシナダはトウエンに向かって多少弓が得意だと言っていた。トウエンも、まあそこそこ、猟に出る男たちと同じ程度だろうと思っていた。が、とんだ計算違いだった。これを多少というなら、ここにいる全員はへたくそ以下だ。同じ距離の止まっている的でさえああも簡単に当てることなどできはしないだろう。それを、上空にいて動き回る鳥に向かって放ち、射落とす。神業と称しても差し支えなかった。
 当の本人はというと、別段それを誇るでもなく、単調な同じ作業を繰り返すだけといった風だ。
「トウエン様。西涼の門前は片付きました」
 先行して敵の軍勢を蹴散らしていたヤシャが彼女のもとに戻ってきた。見れば敵はその数を半分以下にまで減らし、散り散りになっていた。分断されたところを見逃さず、囲んで叩き潰していく。いかに異形の化け物とはいえ、術で強化された男たちの攻撃を四方八方から受けて無事ではいられず、次々と消滅していった。
 淡々と敵を屠っていくトウエンやヤシャたちにその場を任せ、トウエンは門前へと足を運んだ。
「お、お前らは何なんだ!」
 全てのいきさつを見ていた見張りの一人が悲痛な声で叫んだ。いつぞやの、安達ケ原に毒を撒いたナベツナだった。
「お前らは、安達ケ原の化け物どもだろう! どうして俺たちを助けた! 化け物同士で仲間割れでもしているのか!?」
「お主の問いに応えよう。一つ、あれは儂らの仲間ではない。敵じゃ。二つ、助けたのはお主らが追いやったライコウ将軍に頼まれたからじゃ。かの男は自分の首と引き換えに、儂らに協力を求めた。西涼と儂らの安達ケ原を害する化け物を討ってほしいとな」
「ら、ライコウ将軍がか?!」
「馬鹿な! あの方は正気を失い、敵に寝返ったと聞いたぞ!」
「いや、ケンキエン様のお力で天に召されたと聞いたが」
「誰から聞いた? 俺はそんなこと知らぬぞ!」
 見張りたちが言い争いを始めたのを見て、トウエンはうんざりしながら手で目を覆った。
「聞いた聞いたと、お主ら、全て他人からの話ではないか。誰かの言葉に頼り切るは、誰かのせいにしたい自らの弱さと心得よ。その結果があれぞ。前を見よ。目の前の光景をとくと見よ」
 彼女が指差す先にあるもの。死者が蘇り、化け物へと変ずる場所の、その中央。彼らの王妃がそこにいた。
「あれが現実よ。さあ、真実を知ったお主らはどうするのじゃ?」
「ど、どうするって、言われても」
「取るべきは限られておろう。あれとはお主ら以上に共存できる気がせぬ。儂らを飯としか思っとらんのじゃからな。それはお主らにとっても同じこと。ゆえに、儂らは生きるためにあれと戦う。それに、ほれ、見ろ」
 遠くから、わっと雄叫びが轟いた。見れば、安達ケ原の門が開いている。敵に突破されたのではない。中から開かれ、血気盛んな兵たちが敵を蹴散らしながら飛び出してきたのだ。
 ナベツナたちは信じられないものをまたも見ることになった。あれほど敵対していた自分たち西涼の兵と安達ケ原の化け物たちが、共に肩を並べて進んでいるのだ。安達ケ原の連中はその巨体と怪力を活かし盾で敵の突進を防ぎ、西涼の兵たちは隙だらけになった敵を横や後ろから突いている。かと思えば逆に西涼兵が囮になり、敵の注意を逸らしたところに強力な一撃がお見舞いされる。今しがた組んだ急増軍とは思えない連携を見せていた。
「あちらは上手く説得できたようじゃな」
「説得・・・。では、キント様たちはお前らと一緒に戦うことを選んだってのなのか。じゃあ、王妃が敵だったってのか。俺たちはずっと、騙されてたってことなのか」
 そうじゃ、とトウエンは首肯した。ライコウが、正確にはタケルがライコウに言っていた通り、本性を見たことにより、その衝撃で術が解けやすくなっているというのは確かなようだ。ただその衝撃によって今度は放心状態になろうとしている。相手が弱っているところをつけこむようでいささか心苦しいが、手段を選んではいられない。
「儂らはこれから、彼らに合流し、ケンキエンを討つ。その間に頼みたいことがある」
「頼みってなんだよ」
「うむ、他でもない、彼女らのことを頼みたい」
 ナベツナが視線を向けると、トウエンたちが来た方向から、こっそりとこちらに近付いてくる集団がいた。
「女、子ども、爺と婆、戦えぬ者たちじゃ。戦が終わるまで、彼女らを中に入れてやってくれ」
「へ? おい!」
「頼んだぞ。中に入れたら、戦が終わるまでしっかりと閉じておくがよい」
 トウエンは踵を返し、仲間たちのところに戻る。
「さあ、皆の者、決戦じゃ。あれを討ち、飯を食って、ゆっくり寝よう。明日の昼までな」
 笑い交じりに、皆が応えた。今日のために、皆昨日から一睡もしていない。トウエンに至っては悪夢を見るようになってからは深く眠れていない。
 決戦場へ向かうトウエンたちと、門前に集まっている彼女たちを交互に見た。門前の彼女らは震えていた。それも当然。自分たちの家は戦場となり、自分たちの家族が今命がけで戦っているのだ。不安にならないことなどあり得ない。
「門、開けようか」
 言い出したのはナベツナだった。それに、見張りの仲間が反論する。
「おい、良いのか? 俺たちは既に騙されているんだぞ。これ以上騙されたくない。それに、あいつらが俺たちを騙してないって保証は全然ねえんだぞ。門を開けた瞬間、襲い掛かってくるかもしれねえんだ。あの姿だって、演技かもしれねえんだ」
「けどよう、けどよう」
 ナベツナは仲間と、下にいる彼女たちを見比べる。そして、決戦場を見る。あそこに向かったトウエンたちは、傷だらけだった。
「俺にはよ、もう何が何だかわからねえんだよ。けどよう。今下にいる奴らはよ、怯えてんじゃねえかよう。俺たちと同じで、この先どうなるかわかんねえままでよ。演技には、見えねえよ」
 ナベツナはそう言い残して、駆けだした。仲間が止めるのも聞かず、内側から押さえていた障害物を取り除いていく。
「よせナベツナ! 勝手なことすんな!」
「うるせえうるせえ! 俺はもう、後悔したくないんだ! やりたくないことやらされてよう!」
 彼の脳裏には、安達ケ原に毒を撒いた記憶が蘇っていた。あの時は王妃に頼まれ、喜び勇んで安達ケ原に忍び込んだものの、そこで生活をする連中を見て、本当に正しいのか迷ったのだ。そこで生活を営む連中は、自分たちと何一つ変わらない。ただの人だった。迷うナベツナの頭に、ケンキエン王妃の声が響いたのはその時だ。毒を入れろと、敵を倒せと、英雄になれると。その言葉に従ってしまった。水を飲み、苦しむ彼らを見て、恐ろしくなった。
「ずっと俺の中で俺が言い続けるんだよ。止めときゃよかった、止めときゃよかったってな。苦しいんだよ。もう、そんな思いは御免だ。俺は、俺のために、俺の信じることをする。あの女も言ってただろう。門前で俺たちに説教していった女だよ。誰かの言葉に頼り切って、自分で選択してないからこんな目に遭うって。そうだよ。俺は全部人任せだったんだよ。だから後悔がでかいんだ。だからせめてこの選択は、誰でもない俺の選択だ」
「後悔するかもしれないだぞ。その選択が!」
「それも俺のもんだ! その時は何とかする!」
 だから、お前らは逃げる準備をしてろ。そう言って、ナベツナは障害物をどけ続けた。呆然と立ち尽くす彼らのそばを、一人の子どもが横切っていった。
「お、おい!」
 子どもは、ナベツナの隣まで行くと、そこにあった物をうんうんと唸りながら持ち上げようとしている。
「こら、あぶねえぞ!」
 気づいたナベツナが怒鳴ると、子どもは彼の顔を見返し「僕も手伝う」と言った。その子どもの後ろから、支える手が伸びた。子どもの母親だった。彼女らは、先ほど襲われそうなところをクシナダの矢で助けられた二人だった。
「あんたら、どうして」
「私にも、外の声は聞こえておりました。私たちを助けてくだすった人の家族が、そこに居られるのでしょう? 命を助けられたのですから、今度は私たちが誰かの命を助ける番だと思うのです。兵隊さんが仰ったように、後悔したくないのです」
 その彼女らを見てか、今まで家屋内に隠れていた人たちわらわらと門前に集まり出した。次々と撤去され、後には歪んだ門があった。
「よし」
 ごくりとナベツナは生唾を飲み込んだ。そして、門に手をかける。しかし先ほどの攻防で歪んだ門はいくら力を込めても開こうとしない。
「固えぇ」
 いくら踏ん張っても門は軋み音を立てるだけで開かない。そろそろ頭の血管が切れそうだと思い始めた時、ナベツナの隣に手が添えられた。ナベツナを止めようとしていた仲間たちだ。驚いた顔で自分たちを見回すナベツナに、他の兵たちは笑い、ナベツナも彼らの心情を理解した。
「せえの、でいくぞ」
「おうよ」
「せえの!」
 門は、ゆっくりと開いた。

「あれが、ケンキエン。敵の首魁か」
トウエンの眼には、真っ黒な穢れが滞っているのが見えた。その中心に、人型をしたおぞましいものが鎮座している。
 したたり落ちてきた汗を拭う。彼女のこれまでの人生で、あれほどの穢れを見たのが初めてなら、あのような恐ろしいものを見たのも初めてだった。巫女として、あれほど世の理に反しているモノがいること、それが今、自分たちを脅かそうとしていることに恐怖した。その瞬間、恐ろしいものが自分を見た。ぞわりと総毛立つ。まるで深淵を覗き込んでいるような心境だ。頭を振り、声を張る。恐怖を振り払うために。
「皆、踏ん張れ! あれさえ討てば、この戦は終わりぞ! 見よ! あちらからはクラマとライコウ将軍が攻め立てておる! 儂らも負けるな! 右前から犬どもが来るぞ! 盾を持つ者で固めよ。その後ろから槍を構えよ! 防いだところを串刺しにせよ! クシナダ、後方より回り込んできた鳥が狙っておる! 数人射手を連れ、あれを射落としてくれい!」
 彼女の指示通り、右方からは犬が、後方からは鳥が現れる。彼女の眼は中央部の穢れが濃い場所を除いて戦場の全てを見渡せていた。まるで空から俯瞰するがごとく、戦況を把握できていた。
 彼女の的確な指示、そして反対側からは安達ケ原・西涼の混成軍の快進撃を見て、皆が思った。この戦、勝てる、と。そしてその通り、彼らは目の前の敵を復活されるよりも早く駆逐していき、中央へと軍を進めていく。
 トウエンがライコウ軍の後衛に追いついた頃、前線にいる彼らの刃は中央部へと到達していた。
「終わりだ、覚悟しろ」
 勝てると思ったのは、ライコウも同じだった。先日の時とは反対に、今度は自分がケンキエンを包囲していたからだ。だから失念していた。いや、きっと覚えてはいた。
 ケンキエンは、軍二つ分の力を持つ、というタケルの言葉を。
だが、どうしても今の光景とその言葉の意味が繋がらなかった。無理もない。目の前にいるのは、女の姿をしたケンキエンなのだから。これがトウエンであれば、彼女は問答をする暇さえ惜しんで、ケンキエンを討ち取りにかかっただろう。彼女の目には、それは人の形で映っていない。
「貴様のたくらみもこれで潰える。贖え。あの世で貴様の謀略によって死んでいった者たちに詫びるがいい」
 周囲には術で強化された男達と、完全武装の西涼兵たちがいる。負ける道理などなかった。
 目の前のいるのが人であるならば。
「ふ、ふふ、ふは、ははははは」
 聞くものを不快にさせる哄笑。全てを嘲るように、ケンキエンは腹を抱えて笑った。そのことに憤慨するよりも、不気味さが勝り、ライコウたちは身構えた。
「どうして私が、たかが人間共のために贖わなければなりませんの? あなたたちは、日々食べる米や野菜、家畜に対して懺悔しますの?」
 ふう、と笑い終えたケンキエンは一つ大きく息を吐いた。
「これが笑わずにいられましょうか? たかが餌の分際で、この私に向かって覚悟しろ? 終わり? く、くくく、くはははははは!」
 頭が地面に付くほど背中をのけぞらせて笑うケンキエンの周りに、穢れが集まっていく。それはトウエンだけでなく、誰の目にも見えるほどの濃くなっていく。腐臭が立ち込め、わずかに残っていた雑草すら枯れ果て、大地が渇きひび割れる。
「下がれ!」
 後方から、トウエンが叫んだ。
『下がったところで、逃げたところで、貴様らは一匹足りとて逃がしはせんがなぁ!』
 真っ黒な穢れの中から、長大な何かが突風を伴って薙ぎ払われた。盾の上から骨を砕き、無防備な兵たちを切り裂き、弾き飛ばし、すりつぶしたそれは、毛むくじゃらの腕と鋭く長い爪だ。
 穢れが形を成した。猿の頭、犬の体、鳥の翼と尾を持つ、巨大な獣が、悠然とライコウたちの前に現れた。術で強化された男たちですら、その獣の鼻先にまで頭が届かない。全身となれば、彼らを五人足してもまだ足りない。
 茫然と見上げた先に、嗜虐的な笑みを浮かべたケンキエンがいた。三日月形に開いた口からは牙がずらりと並び、涎を滴らせていた。
「陣形を立て直せ! けが人を守りながら後退する!」
 誰もが呆然とその異形を見上げる中、崩れた陣形を立て直そうとしたライコウは並みの胆力ではない。
『させぬよ』
 ケンキエンは陣中央をただ走って突っ切った。ただそれだけで兵たちは弾き飛ばされた。盾を持っていれば盾ごと骨を砕かれ、鋭い爪は鎧ごと切り裂き、膨大な質量は簡単に人をすりつぶした。
『どうした、どうした? 我を討つのではなかったか? その程度では興ざめぞ』
 力の差を見せつけたケンキエンが、通り過ぎた場所を振り返る。その直線状には血だまりと屍しかなかった。
『いかんな、もっと我を楽しませよ。これでは興ざめではないか。おお、そうだ』
 ケンキエンが、不意に視線を巡らせる。その先にあるのは、西涼だ。
『良いことを思いついたぞ。あそこには今、貴様らの家族がおるな』
 誰もが抱いた、最悪の予感。
『一足先に、あちらから滅ぼしてくれよう。我を倒しに来た貴様らが現れず、我が現れる。それを、貴様らの家族はどう捉えるであろう?』
「や、めろ」
 誰かがケンキエンに向けていった。それを聞いたケンキエンは、それまで以上の凄惨な笑みを浮かべた。
『そう、その顔。その絶望よ。我が欲していたのは。己が無力さを噛み締め、楽しみにすると良い。血だまりに沈む、家族との対面をな』
 翼をはためかせ、ケンキエンが飛んだ。
「させるか!」
 いち早く反応したのはクシナダだ。矢をつがえ、素早く射放つ。翼に届くかと思われた矢は、届くかと思われた瞬間、上から降ってきた犬の体によって防がれた。それだけではない。ケンキエンの体がボコボコと内側から盛り上がる。盛り上がった部分は体から切り離され、犬、猿、鳥と、先ほどまで戦っていた獣に変貌した。獣たちは地に降り立ち、西涼への道を阻んでいる。
『そ奴らは我が眷属。我ある限り、いくらでも生まれる。ほれ、早く倒してここまで来ねば、間に合わぬぞ。我が貴様らの家族を喰うてしまうぞ? 我より先に辿り着いたものの家族は見逃してやろう』
 楽しげに言いながらケンキエンは飛び去っていく。
「追うぞ! まだ間に合う! 城に辿り着き、籠城するのだ! 速さを優先する。この際陣はばらけても構わぬ。足の速い者、騎馬、何でもいい、一刻も早く西涼へたどり着け!」
 ライコウが声を上げる。傷ついた体にムチ打ちながら、男たちは足腰に力を入れる。一考に消えない不安を振り払うように、ただひたすら守るべき者たちのもとへと急ぐ。
『くくく、良いぞ。そら、追ってこい』
 そんな彼らを見てほくそ笑む。先に辿り着いた者とその家族を見逃す気などさらさらない。命が助かったと安堵した瞬間に喰うつもりだ。まずは子どもから喰うつもりだ。子を失った親の悲しみと嗚咽、慟哭が、ケンキエンにはお気に入りだった。そうこうしているうちに、真下に西涼が見えてきた。こちらを見て、慌てふためいているのが見える。
『おや、おやおやおや』
 西涼の民ばかりではない。安達ケ原の民もいた。
『これはこれは、大漁ではないか』
 舌なめずりをしながらケンキエンは降下する。こうまで獲物が多いと迷ってしまうな。喜び勇んで、ケンキエンは強固なはずの外壁をたやすく崩壊させた。
西涼は阿鼻叫喚を極めた。敵を防ぐはずの防壁が破られ、そこから現れたのは家より大きな巨体。それが、自分たちを美味しそうに眺めているのだ。ケンキエンが吠える。歓喜の雄叫びだ。大切に大切に育てた食材たちが、最高の調理がなされた状態で目の前にいるのだから。
『お?』
 どれから喰おうか迷っていた時だ。目の前で童が転んだ。腰を抜かしたか、こちらを怯えた目で見たまま動こうとしない。その前に、もう一人の童が立ちふさがった。その童は額に角を持っている。いつのまにやら西涼と安達ケ原は仲良くなっていたようだ。木の棒を勇ましく構え、逃げろ、逃げろと後ろの童に声をかけている。自分も膝が笑っているのにだ。
 ケンキエンの笑みが深まった。最初の獲物はこれだ。まずは安達ケ原の子どもを、そして、怯えに怯えきった西涼の子どもを喰おう。
『その棒きれで、我とやり合うか? 勇ましき英雄よ』
「う、五月蠅い! く、来るな。来るな!」
 ぶんぶんと棒を振り回す。
『その勇気に免じて、貴様から喰ろうてやろう』
 四肢に力を込めて、ケンキエンは跳躍した。
 さあ、どんな味がするのか。口に広がる様々な味を想像しながら、ケンキエンは童に飛び掛かった。恐怖のあまり、童は固く目を瞑る。
 じっと目を瞑ってから、どれくらいの時が過ぎただろうか。いくら待っても、予想していた痛みも苦しみもやってこない。
 恐る恐る、目を開く。強く目を閉じていたためか、妙に明るく感じた。目を細めて、周りを見渡す。
 目の前に、誰かの背中があった。


 ケンキエンが西涼に辿り着いてしまった瞬間、誰もが絶望した。崩された防壁のように、皆が膝からくずおれた。間に合わなかった、後悔が兵たちの心を埋め尽くした。
「まだよ!」
 声を張り上げたのはクシナダだった。
「まだよ。まだなの! まだ壁が破られただけじゃない! まだ生き残ってる人はいる! もしかしたら逃げおおせてるかもしれないの! ここで私たちが諦めたら、助かる人も助からないの!」
 あの時だって。彼女は歯を食いしばって走った。
 あの時だってどうにかなった。誰もが、自分ですら絶望していた時、あの人たちが現れた。呪われた村の風習を否定し、不可能だと思われた蛇神打倒を成し遂げた。
「無理だ。もう間に合わぬ。俺たちが辿り着くころには、もう」
 しかし、兵たちの顔は昏い。諦めた顔をしている者のほうが多い位だ。ライコウやトウエンすら、仲間たちに声をかけるものの、歩を進める足取りは重い。
「駄目! 諦めないで!」
「もう、無理なんだよ! あれが通り過ぎただけで仲間たちは跳ね飛ばされた。それだけの力の差があったんだ。奇跡でも起きない限り、絶対無理だ!」
「奇跡が欲しければ立ちなさい! 立って動け! 己の望む結末の方向へ! 奇跡が黙って起こるとでも思っているの?!」
 ほら、もう少し、とクシナダが西涼を指差した瞬間だ。

 ドゴォッ

 目に見えそうなすさまじい音が鳴り響き、ケンキエンの体が頭から跳ね上がった。まるで、顎を下から殴り飛ばされたかのようだった。
 くるくると、彼女の少し手前まで何かが飛んできた。巨大な牙だ。さっき見た、ケンキエンの牙だった。
「・・・え?」
 誰もが唖然と見守る中、ケンキエンの巨体は崩れた防壁をさらに破壊しながら転がった。もうもうと粉塵が立ち上るなか、ケンキエンと崩れた防壁の隙間に人影があった。その人物の姿を認めた瞬間、クシナダは今まで嘆いていた、今は唖然としている連中に向かってニィッと不敵な笑みを浮かべた。
「起こっちゃったじゃない、私たちがもたもたしてるから。奇跡のほうから来てくれたみたいよ?」

 唖然としてその光景を見ていたのは、なにも外にいた兵たちばかりではない。西涼で今にも襲われそうだった人々もまた見ていた。その背中を。
「ふうん、鬼退治に犬猿雉のキメラ、いや、鵺か。なかなか面白い取り合わせだ。桃から生まれた男がいないのは残念だけど」
『馬鹿な! 貴様、死んだはずではなかったのか!』
 瓦礫を押しのけながら、ケンキエンが体を起こす。怒りの度合いを示すように、体の表面にバリバリと電流が走る。
「悪いね。あの程度で死ねれば僕も楽だったんだけどねえ? 残念ながら、この通りさ」
 大仰に両手を広げて見せる。ケンキエンの怒気などどこ吹く風だ。
『・・・後悔させてやる』
「あ?」
『我の邪魔をしたこと、ここに戻って来たことを後悔させてやる。簡単には殺さぬ。四肢を一本一本食いちぎり、死なせてくれと泣いて頼むまで苦しめてやる。我こそは神。頂きに立つ者。この地で穢れを喰らい、力を貯えた我に刃向うことがどういうことか、思い知らせてやる!』
 ケンキエンの言葉に、やれやれと頭を振った。
「どいつもこいつも、言う事は大体同じか。もうマンネリ化してんだよそんなセリフはさあ。つまんねえ。僕が聞きたいのはさ、そんなお約束じゃないの。どうするのってこと。戦うの? 逃げるの? 喰うの? 喰わないの? さっさと決めちゃえよ。でないと」
 ぷるぷると先ほどケンキエンを殴った右手を軽く振って、リュックと共に背負っていた赤い剣を掴む。そのまま引き抜き、切っ先を向けた。
「僕がお前を喰っちまうぞ」
 凄絶な笑みを浮かべて、須佐野尊は宣戦布告した。

鵺の鳴く朝

 でけえな。
 ケンキエンが変じた鵺を目の前にして思ったのは、そんな当たり前のことだ。猿の顔の位置は術を使ってるタケマルたちよりも高い。頭から尻尾までなら二十メートルくらいはある。一戸建てだ。しかも空を飛び俊敏に走り回る。吠えれば雷が迸り、腕を振り回せば辺りを壊滅させる、強大な、待ち望んでいた敵だ。
僕はこれから、この目の前の鵺と戦える。そう思うと、どうしようもない程、興奮が湧き上がってくる。蛇神の時も思ったが、やはり僕は人格破綻者だ。頭の奥の枷が外れて、こういう自分が出てくる。どうしようもなく、戦いを欲する自分だ。
『雄ォオオオオオ!』
 鵺が吠える。全身の毛が逆立ち、バチバチと青白い光が弾ける。
「ああ、子どもの時に流行ったゲームで、何かこういうキャラクター、いたなあ」
 もっとも、そのキャラクターは万人に愛される可愛らしいモンスターだったが。目の前のこいつは、ゲットするにはちと醜悪だ。姿も、性格も。
『消し炭となるがいい!』
 雷が、鵺の前方に集中する。数百万ボルト以上の電圧であることは想像に難くない。それが指向性を持って、こちらを狙い定めている。
 相手が雷を放つ一瞬前、僕は手に持っていた剣を前方に投げつける。剣は僕と鵺の真ん中あたりで大地に突き刺さり、刀身半ばで止まった。
『死ねェ!』
 雷が放たれる。目の前が白を通り越して薄いピンクに染まった。轟くのはもはや音ではない。衝撃波だ。
『な、に?』
 落雷の衝撃によって巻き上がった土煙が晴れ、僕らは再び向かい合った。間には、真っ赤な呪剣が突き刺さっている。
「別段驚くようなことじゃない。雷はだいたい、一番近い所に落ちるもんだ。で、そんだけ地面の奥に刺さってたら、剣を伝って地中に流れ放電する」
 あたりを見回す。今日戦争を始めた連中の根城だ。そこかしこに鉄製の剣やら槍やらがごろごろと転がっている。避雷針代わりに使えるだろう。この程度で止まるかどうかは正直微妙だったが、何とかなるものだ。百回やって一回の成功例だったかもしれない、もう一度やれと言われたら出来ないことかもしれない。
 けど、それでいい。こちらには通用しないと言う事を認識させられれば、あっちの手を一つでも防げればそれでいい。
 適当な推論だということをおくびにも出さずに、僕は続ける。
「そっちは今みたいにでかい雷を打つ前には事前準備が必要のようだ。なら、撃たれる前に処置しておけば、こっちまで電流は来ない」
 避雷針のことを思いだしたのが奇しくもあの川で雷に打たれそうになった時だ。そういえば、と上空に向かって剣をぶん投げたら、思惑通りそっちに直撃した。まあ、余波くらって気を失い、川下にどんぶらこと大分流されてしまったのは我ながらなかなか間抜けな話だ。
『だから何だ』
 歯を剥き出してケンキエンが唸る。
『防いだ程度で何を勝った気でいる! 我の力は、雷を呼ぶだけではないぞ!』
ボコリ、ボコリとケンキエンの体が蠢く。這い出てきたのは、十分の一スケールのミニケンキエン達だ。そいつらは生まれたと同時に四肢に力を込めて、こちらに向かって牙を剥き毛を逆立てて威嚇してきた。全く感動できない出産に立ち会ってしまったな。
一直線に一匹、左右から一匹ずつ飛び掛かってきた。同時に相手にするのはさすがに無理だ。また、後ろにはまだ二人子どもがいる。別段この子らが死のうが関係ないが、邪魔だ。彼らがいるせいで蹴躓くかもしれない。かといって逃がすには時間が無い。
ならば僕の取る方法は一つ。三匹が同時に僕に接触する前に、前に出て敵を引き付け、一匹ずつ倒す。
地面を蹴る。お互いに前に走っているのだから距離は一瞬で縮まった。突っ込んでくるとは思わなかっただろう目の前の一匹が、丸い目をこれでもかというくらいに開いていた。反応も遅い。いかに数を増やそうが、こちらの反応についてこられないのなら手の打ちようはある。
野球のオーバースローのように、円を描くようにして拳を振り下ろす。完璧なタイミングで、前から来ていたミニの脳天へ拳骨をジャストミートさせた。頭が凹み、目玉が飛び出る。頭ごと拳を地面へと叩き込む。前のめりになったのを無理に止めず、そのまま前転して体を起こし、また前へと走り出す。ちらと後ろを見れば、左右から来ていた二匹は子どもたちを歯牙にもかけずに、僕の元いた場所で反転し、こちらを追ってきている。前からは、今度は三匹だ。
接触前に、先ほど放り投げた剣を掴む。多少電気が残っているかと覚悟して掴んだが、特に何もない。返ってきたのは相変わらずの不気味な脈動だけ。
 剣を地面から引き抜いた流れで振りぬく。飛び掛かってきた一体が上半身と下半身とに分かたれる。仲間の死を構うことなくもう一匹が突っ込んできた。剣先を突き出すと、頭から串刺しになる。その背後から、最後の一体が飛び出してきた。思わず舌打ちする。仲間の死は鑑みないが、それを利用するだけの知恵はあるらしい。ふさがった剣を手放して素手で迎え撃とうと判断を下した矢先
 スカンッ
 横合いから飛んできた矢がミニの眉間に突き刺さった。最後のミニはそのまま僕から逸れてもんどりうって地面を転がる。
『ビャアッ』
 後ろから追ってきた二匹が悲鳴を上げて倒れる。その二体にも同じように頭と首に矢が刺さっていた。
 矢が飛んできた方向、城壁の上に彼女はいた。蛇神の目を射ぬいた、あの時と同じように。
「遅かったじゃない」
 クシナダは咎めるように、それでいて楽しげにそう言った。
「あんまり遅いから、もう死んだかと思ったわ」
「普通は死んでもおかしくなかったんだけどね」
 剣を振り、死骸を払い落とす。死骸は、しばらくたった後、以前切り落としたケンキエンの腕のように黒い煙になって消えた。
「悪いんだけど、後ろにいる子ども二人、どっか連れて行ってくれない?」
「珍しい。人のことを気にするなんて」
 クシナダが茶化す。
「違うよ。戦うのに邪魔になるからだよ」
「はいはい、そういう事にしておいてあげるから」
 僕の言う事を信じていないまま、クシナダが二人を抱え上げてその場から離れていった。子どもとはいえ二人を簡単に抱えたまま走っていくのを見て、彼女もまた、身体が強化されていることを知る。
 彼女のことは一旦置いといて、ケンキエンに再び目を向ける。いまだにボコボコとミニを生み出し続けていて、すでに周りが埋め尽くされていた。パッと見、三、四百体くらいいるんじゃないだろうか。
『何体倒そうが同じこと。我ある限り、無数に生まれる手足よ』
「そうかい」
 それこそだから何、だ。斬れば傷つき、くたばるのだから、解決方法なんて死なない蛇を殺すより簡単じゃないか。
「ならば、大元である貴様を倒せば済むことよ!」
 僕と同じ考えの連中が、後方からケンキエン軍団に襲い掛かった。雄叫びと地響きを引き連れて、鬼と人の混合軍が切り込む。先頭に立っているのはでかくなったタケマルだ。棍棒の一振りで、二、三匹まとめて吹っ飛んでいく。
「撃て撃て! 味方には当てるなよ!」
 城壁の上から指示を出すのは自身も弓をつがえたライコウだ。ずらりと弓兵を並べて、空にいる敵や、敵の密度の濃い所に一斉に射掛けさせる。
「無茶はするな! 傷を負ったら後方へ、儂のもとまで下がるのじゃ!」
 トウエンの声も聞こえる。治癒の力を用いて、傷ついた兵たちを癒しているのだろう。彼女がいる限り、こっちの戦力の低下もある程度は抑えられる。
 両軍が入り乱れ、たちまち大混戦の総力戦だ。遅れるわけにはいかない。喧騒と血肉舞う決戦場へ飛び込んだ。目指すはケンキエンの首ただ一つ。
 僕の姿を認めた数匹が、前足を持ち上げ、後ろ脚だけで立ち上がった。猿の性質もあるから、二足歩行も可能ってことか。その証拠に前足の指は僕と同じように物を掴めるように長く節がある。指の先には、刃渡り十センチ程度の爪が伸びていた。それをじゃりじゃりと研ぐようにこすらせて、獲物である僕を見定める。
「シザーハンズだな。まるで」
 ただ奴らに愛は無い。爪は散髪の為でも園芸の為でもなく獲物を狩るためだけに振るわれる。
 構わず、僕は突っ込む。手前にいた一匹が唾を飛ばしながら吠えた。同調するように、周りにいたミニたちが一斉に僕の方を見て、牙を剥く。
 足りないな。足りないね。その程度の敵意では足りないのだ。高揚していくのを感じる。体の中の歯車が噛みあい始め、潤滑に回り出す。
 上段から振り降ろされた爪をスライディングするように潜り抜けながら躱す。股下を潜り抜け様に剣を振るう。目標など定める必要はない。見える所全てが敵だ。力任せに振りぬけば、数匹分の足が転がった。
「シャアッ」
 足を失ったことなど意にも介さず、連中はそのまま倒れ込んできた。押し潰す気だ。すかさず足の裏を地面につけ、目の前の何匹かを力任せに斬り飛ばしながらジャンプする。お返しに、今度は僕から奴らに圧し掛かる。前足をついていた二匹の背に向けて、左右の足で踏みつぶす。踏込み、前のやつの腕を首と一緒に切り落とす。落ちた腕が消える前にキャッチ、振り向き様に後ろにいた一匹へと投げつけた。五本の爪が見事に突き刺さり、そいつは仰向けに倒れた。
 右側から突き出された腕を掴み、ジャイアントスイングの要領でぶん回す。後ろ脚の爪も前に劣らず鋭く伸びていたようで、仲間の爪に切り裂かれながら、囲んでいた連中は扇風機に吹かれる埃のように千々に千切れていく。
頃合いを見て投げつける。ドミノのように崩れ、そこに道が出来た。開けた先にいるのは荒れ狂うケンキエンだ。腕を振るい、小規模な雷を周囲に放ち敵を蹂躙している。さながら嵐の権化と化した奴に、近寄ることすら容易ではない。
両足に力を込め、跳躍する。ドミノ倒しとなって倒れている連中をさらに踏みつぶし、追いすがる奴には剣を振るった。それでも追いすがろうとした奴もいたが、後ろから飛んできた正確無比な矢に貫かれ、ことごとくが僕に到達する前に力尽きて消えた。
 相も変わらず良い腕だ。後ろをちらりと振り返れば、自らも縦横無尽に動き回りながら矢を放つ彼女の姿があった。僕の方だけではなく、あちらこちらに気を配り矢を放ち、劣勢に陥っている箇所をフォローして回っている。
後ろは、彼女たちに任せよう。
 前を見据える。ケンキエンと目があった。咆哮が轟き、耳を劈く。
「行くぞ」
 目標に向かって疾駆する。その時ミニと戦っていた味方の兵とすれ違った。きちんと見たわけではないが、何かに怯えたような表情をしていた。怯えながらも戦うとは、余程その背にいろんなものを背負っていると見える。どこの世界でもお父さんは大変なのだな、と妙な関心をしてしまった。


 タケルは全く気づかない。兵が怯えていた理由に。
 同時刻、戦場後方で負傷した兵たちを癒していたトウエンが、突如白昼夢に襲われた。いつも見ていた悪夢、予知夢の類だとすぐに分かった。
 今度の夢は、途中では途切れなかった。彼女の胸を貫こうとした牙が、逃げ惑う人々の背を踏みにじり、切り裂こうとした爪が、横合いから伸びてきた真っ黒な何かに飲み込まれた。
 救いの手だ。この地が救われるという暗示だ。そう思い、彼女は夢だということも忘れて、嬉々として振り返り、絶句した。
 偶然か、必然か。怯えた兵とトウエンは、夢と現でありながら同じものを見た。
 煌々と赤く輝く双眸の、八つ首の蛇の影を持つ男の姿だった。


 開いた道を突っ走る。追いすがるミニを振り切り、前から迫るミニを踏切り台にして踏み切った。体が宙に舞う。斜め下には僕の〝敵″がいた。
「はっはぁ!」
 体を横に倒し、軸にして回転する。フィギュアスケートの回転ジャンプを横に向けたような感じだ。腕を伸ばし、一番外円を回っている剣先に遠心力でえた力を乗せる。それを、目標へ向かってスマッシュした。
『ぬうん!』
 ケンキエンが腕を振るう。ミニのとは比べ物にならないでかさの爪が振るわれ、剣とかち合った。擦れ、火花を散らしながら耳障りな音が辺りに散らばる。
『ガァッ!』
 一瞬の拮抗、しかし体重差、体格差はいかんともしがたく、僕はケンキエンが腕を振りぬくままに弾き返され、地面に叩きつけられた。何度かバウンドして、壁にぶつかってようやく止まった。立てかけてあった武具類が散らばる。それをかき集め
「おぉっ!」
『これでぇっ!』
 僕が投げつけるのと、ケンキエンが小さな雷球数発を飛ばしたのがほぼ同時。空中で衝突し、まばゆい閃光がいくつも弾ける。
「あああぁぁああああああああっ!」
 一切動きを止めることはせず、放電と落下する武具の間をすり抜けてケンキエンに迫る。眼球はさっきの閃光のせいで視力が回復していないから勘だ。だけど気配やら匂いでおおよその距離がつかめるということは、僕にもクシナダほどではないにしろ、蛇神の感覚があるらしい。
 柄を両手で握り、剣を肩で担ぐようにして接近。左足を大きく一歩踏み込み、大地を踏みつける。そこから体をねじる。まずは左足から、腰、肩と回転させ、両手へ力を伝える。力はまだ入れない。結局のところ威力は速さだ。力を入れるのは衝突直前。
野球のバッティングと同じだ。力めばヘッドスピードは落ちる。腰の速さ以上に腕を振るのは難しいし、腰が入らなければ威力も激減するからだ。それよりも、腰から伝ってくる流れに任せ、インパクトの瞬間にバットが跳ね返されないように力を加える方が、ロスが少ない。人間瞬発的に最大出力が出せても、長時間最大出力を出し続けることは不可能だからだ。たとえそれが一秒に満たなくても、最初と最後では力の入り具合が全く変わる。
ぶおぅ
風が動く。目の前に何かが迫る。ケンキエンの腕だろう。さっきと同じように、軽くいなせると思っているのか。何のひねりもなく、力で押し切れると。
面白い。勝負だ。
感情に呼応するように、手の中の剣が脈打った。好戦的な奴だ。まだ蛇神の意志でも残っているのだろうか。
なら見せてみろ。敵を討つことで証明して見せろ。現段階で打てる最速、最大の力を剣に伝えて、目の前に広がる白い闇を斬り払った。

『おおおおぎゃあああああああああああああああああっ!』

 耳を至近距離から劈く絶叫。ドスンと、何かが地面に落ちる。ようやく戻ってきた視力が捉えたのは、真っ黒な血煙を腕の切り口から吹き出すケンキエンと、斜めに切り取られた腕だ。
『ァアアアアアッ!』
 ケンキエンが無事な方の腕を力任せに振るった。真正面に巨大な手のひらが迫る。剣の腹で受けるも、体勢が悪い。踏ん張ることもできず、再び壁際まで弾き飛ばされてしまった。壁を破砕し、その破片が上から降り注ぐ。
『死ね、死ね、死ねェ!』
 追加で雷球が何発も飛んでくる。痛みのせいか狙いは荒いが、これだけ撃たれたら躱せない。腕と足を掠め、腹と肩に直撃した。中途半端に意識が飛ばないってのも最悪だな。体は動かないのに痛みと苦しみの一切合財を味わう羽目になる。
 這いつくばった僕の体が地響きを感知した。砂埃と瓦礫のせいで見えやしないが、地面からの振動でケンキエンが近づいてくるのが分かる。
「ぐっ、のぉ」
 痺れる腕に力を込め、瓦礫から這い出す。四つん這いで顔を上げた先に奴はいた。憎しみに満ちた目でこちらを見下ろし、残った腕を振り上げた。防御は間に合わない。さて、僕もここで試合終了か? そう達観した思いでいた時だ。
「キィエエエ!」
 雄鶏の様なけたたましい叫び声とともに、上から影が降ってきた。ライコウだ。大上段に構えた剣を一閃させる。狙い違わず、ケンキエンの額を斜めに切り裂く。
「らぁ!」
ライコウの一撃に思わずのけぞったケンキエンの横っ面を、今度はタケマルの棍棒が捉えた。ジャストミートだ。ぼてん、ぼてんと地面を転がっていく。
「ざまあみやがれ!」
 タケマルが吠える。
『ごの、地を這う虫けらどもがぁ! 神たるこの我に、我にぃいいいい!』
「その虫に、貴様は追いつめられているのだ。見よ」
 三本足で起き上がったケンキエンに、ライコウが告げる。さっきまで地を埋め尽くしていたミニたちが、少しずつ淘汰され、数を減らし始めていた。
「貴様の負けだ。タケルに気を取られている間に、貴様の子分どもはあれだけ減った」
『愚かな。我ある限り、無限に生まれると言ったはずだ!』
 ボコリと新たに生み出された一体が、ライコウたちに迫る。しかし、タケマルの一振りで場外ホームランされてしまった。
「その生まれる奴が、徐々に弱くなってるってことも言ってたかぁ?」
 棍棒を肩で担ぎながら、タケマルは傷だらけの顔で満面の笑みを作った。
「後から湧いて出てはくるものの、手応えがどんどんなくなってきやがったぜ。厄介なのは数だけ。簡単にあしらってやったわ」
 なるほど。ようやく理解できた。
ケンキエンの力の源は穢れだ。いや、穢れそのものがケンキエンを形作っているのだ。そして、ぬいぐるみみたいに皮袋に穢れを詰め込んだものがミニなのだ。中身の綿がなくなればぬいぐるみはただの布、ミニたちは力を失っていくということだ。
「確かに、それであればお主がいる限り、あ奴らは無限に生まれると言えるのう」
 トウエンが納得したように言う。身を削ってミニを作っているのだから当然だ。また、それは同時にケンキエン本体も弱体化しているということを示していた。以前腕を斬り落とした時すぐ別の腕が生えて来たのに、今は生えてこないのが良い証拠だ。
「タケルに気を取られ、貴様の分身どもに充分な力が行き渡らなかったのであろう。いや、タケルとの戦いに、そこまで余裕を回せなかったか。どちらにせよ、余力はあるまい」
 トウエンが手を掲げた。彼女の後ろで、クシナダたち弓兵が構える。
「死んでいった者たちの仇、今こそ!」
 彼女が手を振り降ろし、弓兵たちが一斉に矢を放つ。
『舐めるなァ!』
 ケンキエンが二対の羽根を盛大に羽ばたかせる。巻き起こる突風に、矢の軌道が逸らされ、地に落ちる。それでもなおケンキエンに向かって飛んだ矢は辺りこそしたが、威力が失われ、刺さること叶わなかった。ケンキエンがそのまま空へと舞いあがる。
「っ、逃がすな! 第二射用意!」
『小賢しい!』
 雄叫びに呼応し、中空に幾つもの雷球が生まれた。瞬き、破裂し、周囲に損害をもたらす。地面が穿たれ、土煙が立ち上って不鮮明になる。風がうねり、視界を晴らした先にケンキエンはいない。
「あそこ!」
 そう叫んだのはクシナダか。彼女の目が捉えている先に、明後日の空へ逃げるケンキエンの姿があった。
 逃げる気だ。誰がどう見てもあれは、尻尾を巻いて退散中だ。
 僕の中で、何ともしがたい苛立ちが湧きあがった。これだけ好き勝手やっておいて、あれだけ大口を叩いておいて、その身が危なくなったら逃げる? この僕を置いてか?
「認め、られる、か!」
 幸い、体から痺れは抜けた。まだ頭がくらくらするが、無視して立ち上がる。瓦礫を押しのけ、埋もれていた自分の剣を引き抜く。
「お、おい、タケル? 大丈夫か?」
 最初に僕に気付いたのはライコウだ。彼の問いかけを無視して、その手に持っているものに目を付ける。先ほどケンキエンを切り付けた、豪奢な飾り付きの立派な一振りだ。
「これ、貸してもらえる?」
 返答を聞く前に柄を握り、ひねることでライコウの手から奪う。
「ちょ、どうしたのだ! あれか? ケンキエンの追撃か? お主分かっておるのか? あの小さな雷を何発もその身で受けておるのだぞ! それだけではない。あれだけ派手にぶっ飛んで転がって瓦礫に埋まったのだぞ! 生きているのが不思議な状態なのだぞ!」
 うるさい。ここであれを見逃すことに比べれば些事にもならない。ライコウを押しのけ、あたりを見回す。茫然と影を見送る者が大半の中、少数が、あれを追おうとしている。しかし、相手は空を一直線、こっちは陸路で、またあの方向、河のある方じゃなかったか? あれを超えられたら、追いかけるのは難しい。ならば、どうする。地を這う僕たちが空飛ぶ奴に追いつく手段は。
「なんて丁度いい・・・!」
 思わず顔がにやけた。僕の目の先には、ケンキエンを追おうとしている一団がいて、その中にタケマルが、いつもの棍棒を担いでいた。さっきのスイングもミニを味方にぶつけないように配慮されたものだった。右へ左への広角打法、狙って打てるはずだ。世が世なら三冠王も夢ではないだろう、その技量に賭ける。というか、それしか追いつく方法が思いつかん。
「タぁケマルぅ!」
 僕の呼びかけに、タケマルが驚いて振り向いた。
「何だ?! どうし」
「行くぞ! 構えろ!」
「か、構え? は?」
 タケマルに向かって全力で走りだした。何が何だかわからないタケマルは目を白黒させていたので、まずケンキエンを指差し、次に彼が持つ棍棒を指差し、最後に僕自身を指差した。
 タケマルの目が、僕の正気を疑うものになった。
 構わず、僕はタケマルに向かって走る。その距離はもう三十メートルもない。スピードを緩める気のない僕を見て、タケマルは正気じゃないが本気だということを悟ったようだ。
「ああもう、来いやぁ!」
 そうやけくそ気味に言って、棍棒の比較的平たい部分をこちらに向けた。僕たちの意図を良くわかってない周りの連中は、いまだ首を傾げるばかり。そんな彼らの横を走り抜け、トンと地面を蹴る。ふわり、と棍棒の先端に着地。
「行くぞおオオオオオ」
 タケマルが一歩踏み込んだ。地面が陥没するほどの力強い踏み込み。術によってさらに強化された筋肉が、一瞬、力を貯えるようにぐぐっと隆起する。腕、足、背中の大きな筋肉がしなり、伝送線のように筋線維が力を送り込む。僕の足裏に強力なGがかかる。
「おおおおおらぁっ!」
 カタパルトから発射された戦闘機の気分を味わいながら、僕は空を飛んだ。多分、僕の住んでいた時代であろうとも、生身での飛行速度としては最高速度じゃないだろうか。山里みたいに目算で測れるわけじゃないが、数百メートルの距離をものの数秒で文字通り飛び越えたのだ。
『な』
 驚きの声さえ上げさせてやらない。勢いそのままのダイビング・アタックだ。
『ぎいっ!』
 ケンキエンの足の付け根に、タケマルから借りた剣が深々と突き刺さる。ケンキエンは衝突のエネルギーから逃げられず錐もみ回転し、高度と速度ががくんと落ちる。
「逃がすかよ」
 僕は言う。突き刺さった剣に掴まりながら。
「ここまで好き勝手やっといて、危なくなったら逃げの一手とは笑わせてくれらぁこのへっぽこ不思議動物が。そんな情けない神様を誰ぞ敬い奉ってくれると思うんだよ」
『き、貴様、離せ! 離れろ!』
 後ろ脚を跳ね馬のように跳ね上げながらもがく。そんな可愛らしい態度で離してやるものか。突き刺さった剣を鉄棒のようにして、自分の体を持ち上げる。
「下であいつらも待ってるぜ」
 奴の背に這い上がり、翼の付け根に剣を刺し込んだ。二度目の絶叫。頭がガンガンする。力任せに引き抜けば、半ばまでは千切れたが、まだ元気よく羽ばたいている。
『オ、ノ、レェ!』
 バチバチと毛が弾ける。逃げ場のないこの場では、回避不可の絶対攻撃だ、が。
「良いのかな? この状態で雷なんぞ身にまとって」
『何を、ッ!?』
 ビクン、とケンキエンが引きつる。一瞬にして纏っていた雷は消え、残ったのはひきつったままの顔のケンキエンだ。自分の足を信じられないように見つめている。
「不思議そうな顔すんなよ。水が高きから低きへ流れるように、電気も流れやすい所に流れる物だ。それがあれ。お前の足に突き刺さってるライコウの剣だよ」
 あっちに流れ込めばいい、翼をもぎ取るまでの時間阻害してくれればいい、その程度の考えだったが、予想以上の効果を発揮しているようだ。電流が流れても大丈夫なのは毛皮の上だけで、中はそうでもないらしい。
「後はお前の翼さえもげれば・・・」
 そう狙い澄まして振り上げた剣が、想定外の方向から来た力で弾かれる。見上げれば、その二対の翼の真ん中あたりから、二匹のミニが上半身だけ生み出されていた。人の剣を弾いたのはこいつららしい。鋭い爪をこすり合わせながら、こちらを睨んでいる。
「こりゃまずい」
 僕の独白が終わるか終らないか、それくらいに、ミニ二匹が躍り掛かってきた。


「何か落ちてくるぞ!」
 そう言ったのは馬で先頭を走るライコウだ。指差した先には、上空でくんずほずれつやり合っているタケルとケンキエンの分身二体、その少し離れたところに、地面に向けて落下してくる物体があった。物体は別段大きな音を立てるわけでもなく、ケンキエンを追う彼らの前に落下した。
「これは、あ奴の剣じゃな」
 トウエンが物体の前で手綱を引き、馬の足を止める。大地深く突き刺さっているのは、さっきまでタケルが持っていた朱色の剣だ。
「え、じゃああいつ、今武器無しなの?!」
 トウエンの後ろに便乗していたクシナダが、剣と空の連中とを交互に見る。
「一応、己の剣は持って行ってるはずだが」
 ライコウが目を凝らす。彼の眼には、素手で複製たちと殴り合うタケルの姿が映った。どうやら自分の剣もいつのまにやら失っていたらしい。
「流石に素手じゃ不利だ。押されている」
「何とかして、この武器をタケルに返してやらんといかんの」
「しかし、どうやって」
「とにかく、持って行くしかあるまいよ。投げて届かせるなら、後ろから来るタケマルにまた頼みたいところではあるが・・・」
 そうすることが出来ない。いかに脚力を強化しているとはいえ、ずっと戦い詰めの満身創痍で疲労困憊。いつも通りの速さで走ることが出来ない。ケンキエンどころか、馬で後に出たはずの自分たちに追いこされているのがその証拠だ。すでにケンキエンからはずいぶんと距離を開けられている。追いついたころには、すでにケンキエンに逃げられている可能性が高い。そうでなくても、空中であれだけ暴れて、蛇行しながら飛んでいるのだ。上手く投げ渡せるかは怪しい。
 それならば、少しずつ高度を下げているケンキエンをクシナダが射落とし、もしくは妨害することでこちらの手の届く高さまで高度を下げさせ、そこで彼に帰した方が良い。
「よし、では、私が運びます」
 馬から飛び降りたクシナダが、剣に駆け寄る。他の二人には馬の手綱に集中してもらいたかったし、何よりあれは蛇神の牙から削り作られた呪いの剣だ。最初は真っ白だったのに、タケルが持った瞬間朱色に染まったといういわくつきの剣だ。二人に触れさせるわけにはいかなかった。そうして、柄を握った瞬間、タケルの時と同じようにドクン、と脈動した。
「なっ」
 驚き、熱い物に触れたかのように手を引っ込める。そんな彼女の前で、剣は見る見るうちにその姿を変貌させていった。幅広の長い剣がメキメキと音を立てて織り込まれ、あるいは畳まれて、小さく小さくなっていったのだ。やがて音も動きもなくなったそれが、彼女の前で浮いている。
「・・・矢、に、なってしまった」
 どうしてあの巨大な剣が、こんな姿に変わってしまったのか。理由はさっぱりわからない。恐る恐る手を伸ばし、その矢を掴む。ドクン、と再び蠢く。
 確証も何もない、只の勘。しかし、確信がクシナダの中に生まれた。
 振り返り、弓を構える。弓弦に矢筈を合わせ、ゆっくりと引き絞る。体から矢へ力が伝わるのを感じる。その証拠のように、矢はますます朱色を濃くし、脈打つ。そばでトウエンやライコウが何か言っているが、それが聞こえないほど集中していた。
 ふと、視界に入っていた腕を、細長い何かが這いずった。半分透けた黒い蛇だ。それが一匹、二匹と次々に現れては腕を伝い、矢へと染み込んでいく。
 不思議と恐れは湧かなかった。ただ確信が深まっただけだ。
 にい、と笑みを浮かべ、真っ赤に染まった瞳を再び空へと向ける。
「落ちろ」
 弓弦を離す。
矢は大気を切り裂いて飛翔した。その軌跡は一瞬真空となり、すぐにそこを満たそうと風がごうごう吹き荒れた。失速どころか加速しながら、彗星のごとく空を貫く。
矢の向かう先では、タケルが危機に陥っていた。右手の平と左肩をケンキエンの分身たちに貫かれ、宙づりにされていた。引き裂かれる痛みと懸命に闘いながら、そんな彼を食いちぎろうと牙を剥けるケンキエンの上あごと下あごに足裏を当て、閉じようとするのを踏ん張っている。押し合いへし合い、ギリギリの拮抗を保っていたところへ

ヒュパァン

 風切音は後からやってきた。下から飛んできた矢はケンキエンの腹から斜めに突き刺さり、中身を食い千切りながら直進して、眉間から飛び出した。そのままケンキエンの面前にいたタケルに向かって飛び、命中。タケルの頭部が後ろに弾ける。
「がが」
 弾かれていた首の位置が戻る。タケルはケンキエンと同じ運命を辿らなかった。飛んできた矢を、運よく歯で受け止めたのだ。白刃取りを歯でやったような形だ。
 ぐらり、と彼の足元が揺れた。矢を撃たれたケンキエンがついに力尽きたのか、あごに入っていた力が抜けたのだ。この隙に、タケルは足を外し、反転。強引に左肩の爪を引っこ抜き、口に咥えていた矢を吐く。その矢筈に足をひっかけ、蹴りあげた。右手の自由を奪っていた分身の胸を矢が貫く。そうして、自由にした右手で突き抜けた矢をひっつかみ、今度はもう一匹の額に突き刺す。彼にとって、普通にくたばる敵は敵ではない。彼の自由を奪っていた二匹は絶命し、煙となって消えた。
 残ったのは、目の光を失ったケンキエンとタケルのみ。浮力を失い、二匹の化け物はとうとう落下を始める。


 重力に引かれる。真っ青な空の中、大地に向かって形振り構えず一直線に。大分高度は落ちていたとはいえ、それでも三、四十メートル近い高さからの自由落下だ。このまま行けば死ぬんじゃないか?
 顔を横に向ける。僕と同じように頭から自由落下するケンキエンだ。ミニ共みたいに煙になって消えることが無いのは、本体だからか、それとも。
 地面が迫ってきた。さて、このまま真っ赤な完熟トマトみたいに潰れてしまうのも一興だな、そんなことを考えていたら、僕の名を呼ぶ声がした。クシナダだ。彼女の姿を認めた瞬間、怒りが込み上げてきた。いや、まあ怒りというほどの物じゃないけど。ちょっとイラッとしたのは事実だ。あの女、射るのは良いが、その矢が僕まで貫こうとしたのだ。死ぬ前に一言文句を言ってやる。
 体を上手く気流に乗せてケンキエンに近づく。これから何をするかというと、昔読んだ漫画のワンシーンの再現だ。
 エレベーターが事故で突然停止し、三十階の高さから落下した。中にいた人間は、エスカレーターの底が地面と衝突する瞬間にジャンプし、難を逃れるという、無茶苦茶なコメディだ。大体エレベーターの個室の中でどうやって外を確認して地面にぶつかる瞬間を見極めたんだとか色々突っ込みどころがあるが、なんとなく、落下速度と同じ速度で上に飛び上がれば大丈夫な気がする。昔高校の授業でやったベクトルだか物理だかで、力の向き云々を聞いた気がする。気がするばっかで何ら確証はないが、死んで元々だ。試すだけ試してみようか。
 ケンキエンの体を掴む。うん。まだ質量はある。これなら足場にしても問題なかろう。足を下にし、体勢を整える。
地面が迫る。両足を勢いよく伸ばし、ケンキエンの体を蹴る。一瞬、その場で静止した様な気がした。
案の定、気がしただけだ。僕は地面に落下した。ただ、幾分勢いは削がれていたかと思う。盛大に転がりあちこち擦りむいたけれど、骨が折れたとか、内臓がどっか損傷したとか見受けられないからだ。あくまで僕の適当な感想だけど。
「タケル!」
 仰向けに倒れる僕を影が覆った。
「クシナダ、か」
「そうよ、私! わかる?! 大丈夫なの?!」
 体が抱きかかえられ、至近距離で安否を確かめられた。
「わかるから、大丈夫だから、頼むから耳元で怒鳴るな」
 耳がキンキンする。
「それより、こいつはあんたが?」
 手に持っていた矢を彼女に見せる。ええ、とクシナダは頷いた。
「とんでもねえ矢を放ってくれたもんだな。ケンキエンの腹から頭まで貫通して人の歯を欠けさせたぞ」
「・・・そんなに?」
 射た本人が訝しげに首を傾げた。どうやら想定以上の威力だったらしい。少し詳しく射た時の状況を聞いてみると、黒い蛇が矢に染み込んだとか、この矢がもともと僕の持っていた剣だとか、その剣がドクンドクンと脈打って変化したとか。要領を得ないが、つまりは、彼女が蛇神から創られたこれを持つと、彼女にとって使いやすい武器、矢になった。で、それを使用すると、彼女の中の蛇神の力を上手く乗せ放つことが出来る、と。
 山犬にでもライドオンしてりゃ完璧だな、と思いをはせていたら、手の中の矢がドクン、と脈打つ。顔を向けると、人の手の中で矢はからくり仕掛けのようにその身を広げたり伸ばしたりして、ものの数秒で元通りの剣に戻った。
「・・・便利だな」
 思考を放棄した。これはもう、こういうものだと納得した。剣を放り出し、その場で大の字に寝っ転がる。ああもう痛い。やれやれだ。
 そんな僕の横を、トウエンとライコウが通り過ぎていった。後から追いついたタケマル達も、それに続く。彼女らは、ある一点を囲うように円になっている。ああ、そう言えば後始末が残っているな。剣を杖代わりにして突きながら、クシナダに背中を支えられてトウエンたちを追った。
 少し行った先に、小さなクレーターが出来ていた。中心部に、ピクリとも動かないケンキエンがいる。
「死んだのか?」
 ライコウが言った。トウエンが首を振り「まだ、穢れは残っておる」と慎重さを崩さない。
「じゃあ、僕が確かめてこようか。ついでにとどめも」
 人垣を掻き分けて、横合いから首を出す。
「馬鹿を申すな。そんな状態のお主にこれ以上危険な真似をさせられるか」
「それを言うなら、全員ボロボロなんだけどね」
 けが人しかいないのだし。それに、僕の傷は今も徐々に治りつつある。現にもうクシナダの助けなしでも立っていることが出来る。
「・・・おい、見ろ!」
 確か、クラマとか呼ばれていた隊長格だ。僕たちも言い合いをやめて、彼が指差す方を注視する。
「縮ん、でる?」
 クシナダが全員の心を代弁した。僕たちが見ている前で、ケンキエンの体が見る見るうちに小さくなって、遂には王妃の姿にまで戻った。うつぶせの状態から両手をつき、上半身だけを少し起こして
「助けて・・・」
 か細い声で懇願した。今更、と思うが、これまでのことを知らなければ、いや、知っていたとしても叶えてしまいそうな魔力があった。現に、この姿と声で、西涼の兵の半数くらいは揺らいでいる。あの本性と王妃の姿とがイコールで結びつかないってのもあるのだろう。
自分たちがしたことは間違いだったのではないかと不安げに、戸惑いながら、隣同士で囁き合っている。
 一方、安達ケ原の鬼たちの方は、手は出さないのはトウエンの指示のもと慎重になっているからだ。倒せ、と命令ひとつで全力で倒しに行けるだろう。
 けれど、今後のことを考えるとそれは良くない。これから手を取り合って行こうとしている二つの国にとって、安達ケ原側がケンキエンに止めを刺すことは不安要素になりかねない。

 まあ、そんなことどうでも良い。

 一歩踏み出した。全員の視線が僕に集まる。
「タケル!」
 トウエンが呼ぶが無視だ。近づく僕の様子を、ケンキエンは震えながら見ている。
「許しておくれ、我が、我が悪かった・・・」
 ずんずん進む。後十メートルほど。
「我はここを去る。二度とこの地には寄らぬ。約束する。だから」
 どんどん進む。後五メートルほど。
「慈悲を。・・・我に慈悲を・・・」
「がっかりだよ」
 一メートル手前で止まる。
「本当にがっかりだ。神だと名乗るから、力を貯えたと言うから。どれほどのものかと思ってた。・・・うん、確かに力は強かった。死者を甦らせたり、分身をいくつも生み出したり、厄介だった。けど。今のその有様は何だよ」
 失望が胸に去来する。僕は、蛇神みたいに最後まで神として戦い続けるものだと思ってた。どこまでも傲慢で、人を見下して、どれほど不利になったとしても、神の座から降りず、ひん曲がってはいたが誇りの様なモノは持ち続けていた。間違っても人にへりくだるような真似はしなかった。命を賭けて戦うに値する相手だった。
 それがどうだ。目の前のケンキエンにはそれが無い。
はあ、とため息を吐いて、僕はクルリと背を向けた。
「もういいや」
「おお、助けてくれるのかえ? そんな心優しきお主に、感謝と・・・」
 背後で蠢く気配。
「馬鹿、後ろだ!」
 叫んだのはライコウか。影が差す。
『死を』
 熨斗つけて倍返しだこのクソ野郎が。本気でそんな手が通用するとでも思っていたのか?
 何も考えず、大きく横に飛んだ。空中で身をよじると、自分がさっきまでいた場所に、腕だけ元に戻したケンキエンが爪を振り降ろした状態で固まっていた。
『貴様さえ食い殺せば!』
 どうやら僕の持つ蛇神の呪いをご所望らしい。そりゃあ、そんじょそこらの穢れよりも穢れているだろうけどな。
再度爪を振り上げて襲い掛かろうとしたところに

 スパァン

 完璧なタイミングで、横槍ならぬ横からの矢がケンキエンのこめかみを射抜いた。毎度毎度素晴らしい腕前だ。
 着地し、踏ん張ってから、つま先を軸にしてくるっとかかとを回し、ケンキエンと対峙。ステップを踏み、剣を腰だめに構えて、体ごと突進する。全体重をかけて突き刺した。貫通する手応え。傷口からは、真っ黒な穢れの煙が血の代わりに立ち上る。
『ガァアアアッ』
 絶叫を上げながら、ケンキエンがのけぞる。苦しみながら、僕の首にでかい手をかけてきた。剣を持つ手に力を込め、抉るようにして押し上げる。がふ、とケンキエンが黒い血を吐き出し、手足をばたつかせながら足掻く。顔や腕を引っかかれながら、それでも僕は剣を押し込む。
『き・・・さま、さえ・・・、貴様さえ喰えればぁああああ!』
「うるせえっつってんだろ。てめえこそ僕の餌になりやがれ」
 剣の朱色が濃くなった。刀身が、目に見えて脈打ったかと思うと、ケンキエンの傷口から立ち上っていた煙を吸い込み始めたのだ。ちょっと驚いて、手を離して距離を取った。その間もシュルシュルと吸引力の落ちないハイパワーな掃除機みたいに煙を吸い込み、相対的にケンキエンの体が見る見るうちに縮んでいく。ケンキエンの体内にある穢れを吸い尽くそうとしているようだ。己が体を顧みて、ケンキエンが恐怖におののく。おそらく初めて死の恐怖を味わっていることだろう。体はますます縮み、人の姿を保てず、黒い煙が子犬ほどの大きさで残るのみだ。それも、徐々に吸い取られ、足、腕と消えていく。
『嫌だ・・・我は、我は死にたくない。助けて。死にたくない。死にたく』
 ガラン、と刺さっていた剣が地に落ちた。呆気ねえ。これがつまらぬものを斬ったときの剣豪の心境だろうか。剣を拾い、今度こそみんなのもとに戻ろうと振り返る。
 こちらを轢き殺さんばかりの勢いで走ってくるタケマル達の姿があった。
 昔、ボディビルダー百人に有名人が追いかけられるというドッキリテレビを見たことがある。あれも夢に出そうなくらいの迫力だったが、多分これはその比じゃない。命すら惜しくなかったこの僕が思わず後退りしたほどだ。逃げようかと後ろを向くと、左右後方、全方位からこちらに向かって屈強な兵士と鬼たちが駆け寄ってくる。彼らは僕を取り囲むと、おもむろに人の体を持ち上げて、上に放り投げやがった。強靭な膂力の持ち主たちによる胴上げは、元の世界ならギネス記録に乗るであろう高さだ。
「「うおおおおおお!」」
 言葉にならない雄叫びを上げる。空中から見下ろせば、昨日まで名前も知らない、敵だった者たちが抱き合い、喜びを爆発させていた。
 散々空高く放り投げられた後、ようやく地面に戻ってきてへたり込む。ちょっと気持ち悪い。
そんな状態の僕の名を、誰かが呼んだ。
「見事であった」
 トウエンがいた。そこかしこに打ち身擦り傷を作り、血や泥にまみれながらも、彼女もまた笑っていた。
「お主のおかげで、この地に平穏が戻った。礼を言う」
「言われる筋合いはないよ。僕は、ただ自分のしたいようにしただけだ。それに、あんたらだって戦ってただろ。お褒めの言葉は、これまで必死こいて戦ってきた自分の部下たちにかけてやればいい」
 そうだな、と、彼女は目の前で騒ぐ彼らを見やる。彼女が優しく見つめる先に、もう悪夢の影は無いだろう。

 それから数日後、ライコウの処刑が執行されようとしていた。

誰が創りし理想郷

「言い残すことはあるか」
 幾度も戦いの起こった二つの国の間に広がる平原、その中央に、二つの国の人間たちが集結していた。中央部はぽっかり空いており、そこにいるのは安達ケ原の代表である巫女、トウエンと、西涼の将軍、ライコウだ。
 トウエンは、その手に一振りの剣を持ち、対するライコウは無手のまま、その場に両膝立ちになっている。
 後で話を聞いた。
安達ケ原に協力を求める際、ライコウは引き換えに自分の首を差し出す契約を下らしい。まあ、牢での会話でも自分の首を差し出して和解するとかなんとか言ってたしな。
 彼女らを取り巻く人垣からは、嗚咽がそこかしこから漏れている。西涼の民たちだろう。特に彼の部下である兵たちは握った拳に血をにじませながらじっとこらえていた。ライコウは一言でも助けを求めたなら、彼らは目の前で交通整備よろしく処刑場をぐるりと取り囲んで中に入れないようにしている鬼たちに飛び掛かり、彼を救おうとするだろう。けれどそのライコウ本人に言い含められているのだ。己の矜持を賭けた約束事に手出しは無用、と。
「一つだけ」
 真正面のトウエンの顔を見ながらライコウは言った。
「西涼と、安達ケ原との和平を。どちらの国の者も、もう二度と争わずに済むように」
 うむ、とトウエンが力強く頷く。
「安達ケ原の巫女、トウエンの名において約束しよう」
 その言葉で満足したのか、ライコウはふう、と安堵の息をついた。
「それが成るのであれば、己に未練はない」
 穏やかな表情で、ライコウは目を瞑った。
「約定通り、己の首を渡そう。トウエン殿、やってくれ」
 そう言って頭を垂れる。ライコウ様、ライコウ様と群衆が叫び、身を乗り出す。
「わかった」
 トウエンが剣を担ぎ、彼の隣に移動した。いよいよだ。
 目を覆う者、一時たりと見逃すまいとする者、そんな彼らの前で、剣は高々と掲げられ
「さらばじゃ、誉れ高き将軍よ。お主の名は、子子孫孫、語り継ごう。その身を賭して二つの国を守った英雄として」
 天を向いた切っ先が光を反射した。
「・・・などと、言うと思ったか?」
 トウエンが最大級の悪い笑みを浮かべた。え? と顔を上げるライコウ。トウエンは掲げていた剣を手放した。音を立ててライコウのそばに落ちる。
「歯を食いしばれェ!」
 想定外のことに頭がまっしろになったらしいライコウは、その言葉に従い、ギュッと口を閉じる。その横っ面に、腰の入ったトウエンの拳がめり込んだ。
「どっせい!」
 そのまま斜め上に振りぬく。ライコウの体が錐もみ回転しながら宙を舞った。放物線を描き、ボデン、ボデンと地面へランディング。地面に突っ伏すライコウに対して、言い放つ。
「・・・これが、儂らがお主に下す沙汰じゃ」
 ぐるりとまわりを見回し、誰も彼もに聞き届かせるように。
「お主の首で死んだ者が生き返るならばそうしよう。家屋が直るならそうしよう。傷ついた大地が蘇るのならばそうしよう。しかし、そんなことはない。お主の死など、何の価値もない。お主の誤った決意など、腹の足しにもならぬのじゃ」
 いまだ転がるライコウに近づき、その首根っこをひっつかんでぐいと起こす。互いの顔を突き合わせた。
「お主への沙汰は、死ぬまで二つの国の復興のために尽くす事じゃ。さすれば、そのうち寿命という刃がお主の首をかき切ろう。その日まで、休むことなく働き続けることじゃ」
 そして、とトウエンは続ける。
「それは、儂らも同じ。儂らも大勢の西涼の民を殺し、傷つけた。同罪じゃ。だからこそ、儂らは贖わねばならぬ。死ぬのは簡単じゃ。けれど、何も生まぬ。何も治せぬ。これより生まれてくる子らのために、今ここで禍根を断ち、良き国を作らねばならぬ。でなければ死んでいった者たちに申し訳が立たぬであろう」
 ぱ、とライコウから手を離し、トウエンは踵を返す。茫然とその後ろ姿を見ていたライコウが、慌ててその背に声をかける。
「許して、頂けるのか・・・?」
 その声に、振り返り、告げる。
「お主次第よ」
 さあ、引き上げじゃ。周囲の鬼たちに声をかけて、トウエンは撤収を開始した。統率された動きで、鬼たちは自分たちの村へと帰っていく。まだまだ復興作業は始まったばかりだ。
 彼女たちの選択は妥当だ。
 もし仮に、ここでライコウを殺すことになれば、両国の和平など不可能だっただろう。西涼の全員に慕われているライコウは、次代の王であり、西涼を導く存在だからだ。また、安達ケ原の鬼たちに対して外見の違いなどの偏見を持たない数少ない人材でもある。その彼を殺すことに害は在っても利は無い。いらぬ反感を買い、修復されつつあった心の溝が再び深まることだろう。
 反対に生かせば、安達ケ原に理解のある人間が西涼のトップに立つ。これは今後の交渉ごとにおいて大きなアドバンテージとなる。少なくとも偏見で物は見るまい。
 もしかしたら、自分にライコウが惚れている、という点も計算に入れているのかもしれない。恋は盲目、とはよく聞く話だ。自分の思うがままに操るなどと考えているのかもしれないな。
「己は、己は・・・・生かされた、のか」
 じっと、自らの両手を見つめる。
「ライコウ様!」
 そんな彼のもとに、ハゲ、もとい、キントたちがわらわらと駆け寄る。
「キント、己は、生きていてよいのか? 死んだ者たちは、己を許さないのではないか?」
 言いつのろうとするライコウの両方に手を置き「良いのです」と涙ながらに言った。
「生きていてよいのです。生きなければならぬのです。トウエン殿も仰っていたでしょう。貴方には責務があります。それを成さずして死ねば、それこそ先に黄泉路へ旅立った者たちが怒りましょう。彼らが残した家族を、彼らの代わりにこれから守らねばならぬのです。託されたのです。だから彼らは貴方のために命を賭けたのです。貴方なら大丈夫だと」
 周りにいた連中が深く頷き同意を示す。そんな彼らの顔を見回して、ライコウは「そうか」と顔を拭いながら立ち上がった。幾分すっきりした表情で、問う。
「キント、皆。ついてきてくれるか」
「我らこそ、貴方についていく許しを」
 ざ、とキントたちは一斉に跪く。
「ようし」
 皆の意気をくみ取ったライコウは、大きく息を吸い込んだ。
「では、部隊を大きく二つに分ける! 一つはこのまま西涼へ戻り、壊れた家屋の修理! 皆の寝床を一刻も早く修復せよ! 眠らねば疲れが取れんからな! もう一つはさらに二つに分け、田畑を耕す部隊と猟を行う部隊の二部隊を編成せよ! 安達ケ原の民たちと協力し、苗や種を分け合い、獲物を分け合い、協力して作業に当たれ! 話は己がトウエン殿たちに通しておく! 民たちにも助力願う! 協力できるものは兵たちに付き、その指示のもと作業に当たってくれ! 以上、質問は!」
 一人が手を上げた。
「家屋の修復ですが、城壁はどうなさいますか?」
 その問いに、ライコウはチラと西涼の方へ眼を向ける。半壊した城壁がそこに在った。
「城壁は不要だ。全て取り壊し、使える材料は他の家屋の修復に回せ。もうここに、敵はおらぬ」
「ははっ!」
「他に質問はあるか? ・・・・・・・・無いようだな。では各々、今日から倒すためではなく、生みだし、守るための戦いを始める。・・・良い国を創ろう。頼むぞ」
 威勢のいい返事が地面を揺るがせた。これほど戦いがいのある戦いもないだろう。
 ライコウの指示に、皆が一斉に動き出す。

「さて、私たちはどうする?」
 皆がそれぞれの場所に戻り、平原には僕とクシナダしかいなくなった。遠くから競い合うように掛け声や槌を振るう音が届く。
「ここにはもう敵がいない。次に行くだけだよ」
 そのために、すでに荷物は整えておいたのだから。リュックを背負い直し、地図を広げる。うん、反応なし。三十キロ圏内には蛇神・ケンキエン級はいない。
「あなた、本当に未練とか名残惜しさとか、感傷に浸らない人間よね」
 腹の足しにもならない感情は、元の世界に置いてきた。
「餞別代りに水と食料も貰った。挨拶は昨日のうちに済ませた。長居は無用だ。それに、あっちも忙しいだろう。いつまでも僕らに構っている暇はないんじゃない?」
「そりゃそうなんだけど」
 そこで、あ、と思い出す。挨拶の時、トウエンがクシナダに何かを言っていた。ずいぶんと深刻そうな、その割には最後にトウエンはにやりと笑い、僕の方を見ていた。なら、僕のことも何か言っていたのだろう。それが少し気になる。
「トウエンと、別れ際に何を話していたの?」
 ん? と彼女は小首を傾げ、何か思い当たったのか「ああ」と虚空を見上げた。
「大したことじゃないわ。二、三、力の使い方の助言をもらったの」
 力の使い方、というと、あれか。あの時放った矢の力か。
「そう。どうやらあれ以降、普通の矢にも力が籠められるようになったみたいだから」
 それは初耳だった。てっきり、蛇神の牙製の物を使わないと出来ないもんだと。
「蛇神の牙は呼び水みたいなものだそうよ。結局のところきっかけにすぎないって。もともと私たちの体は蛇神に近いものだから、そういう力が備わっていても不思議じゃない。一度出来るとわかってしまえば、後は息をするように出来るって」
 自転車に乗るのと同じようなものだろうか。乗らない人間にとってはペダルをこぐのは未知の力の使い方だが、一度乗れてしまえば、後は何も考えずにこぐことが出来る。トウエンも、物心ついた時から心を読む力が使えた。確かに似通ったところがあるかもしれない。先天的と後天的の違いはあるにせよ、体に備わった機能を使うのだ。
 なら、あれもそうだろうか。ケンキエンを喰った剣の機能は、剣に備わっていたのではなく僕が何らかのきっかけで使った機能だろうか。自然と剣を持つ手に力が入る。脈動は無い。敵がいないからか、『僕が』敵がいないと認識しているからか。
「まあ、いいか」
 別に何か困るわけでもない。腕が長くなって届かないところにも届くようになっただけだ。そう考えれば、興味も失せる。本来の目的のために、僕は再び地図に目を移す。
「次はどこに行くの?」
 クシナダが反対側から覗き込む。
「地図が示すのは北、だね。さて、次は何とかち合うのやら」


 行くか、と歩き出した彼の背を、クシナダは眺めながら思う。
 彼は気づいているのだろうか。口を三日月のようにひん曲げて自分が笑っていることに。ケンキエンとの戦いでもそうだ。強大な敵に挑むとき、彼は獰猛な笑みを浮かべていた。トウエンが言っていた通り、彼には死ぬ以外の目的が生れつつあるのだ。
 トウエンとの話は、自分が持つ力のことだけではない。彼から目を離すな。トウエンはそう忠告した。
「お主らは、これからもケンキエンの様な敵を探し、戦うのか?」
「おそらく、そうなりますね」
 それが、タケルとタケルをこの世界に連れてきた神との契約だからだ。意外に律儀な彼は、きっと約束を守るだろう。そう答えると、トウエンは「そうか」と頷き
「ならば、タケルから目を離すな」
 と言った。
「どういう、ことでしょうか?」
「あ奴は今、不安定なのじゃ」
 不安定? あの男が? 好き勝手に行動するタケルとその言葉が結びつかない。心情を悟ったか、トウエンは苦笑した。
「そうは全く見えんがな。けれど現に、あの男の心情は変わりつつある。死ぬことから、戦う事へ。より強者と戦いたいという欲求が、死にたいという元の願いを超えつつあるのじゃ。それ自体は悪いことではない。まったくない。死などという何も生み出さぬ願いよりも、余程良い。儂らはそのおかげで今生きておるようなものなのじゃから」
 感謝は尽きぬ。けれど。とトウエンは続けた。
「戦を望み戦を欲し、ついにはタケル自身が災厄となることもありうる」
「まさか・・・そんなこと」
「ありえぬと思うか? ケンキエンは、己が欲望を満たすために儂らを利用した。そのケンキエンを屠るだけの才と力のあるあ奴が、そうならないという保証はあるか? 戦を欲するがあまり、戦を引き起こそうと考えたりせぬと?」
 笑い飛ばそうとして、失敗した。自らが望むように振る舞うとは、タケル自身が常々言っていることだ。
「もちろん、そうならない可能性の方が高い。あ奴は女、子ども、自分より弱いものに理不尽を強いたり、踏みにじったりできぬ男じゃ。儂としても、あ奴にはそういった矜持を持ち続けていて欲しいが、未来のことなど確約はできぬ。移ろわぬものなどこの世に存在しない。
 だから、頼む。あ奴が誤った道へ行こうとしたとき、お主が正しき道へと導くのじゃ」
「私が、ですか?」
 思ってもみない頼みごとに、クシナダは当惑する。
「そんなの、無理ですよ。タケルが私の言う事なんて聞くはずありません。今までも、これからも」
 この村に最初に来た時の記憶が蘇る。彼は自分の言う事など全く耳を貸さず気にもせず、西涼の方へ行ってしまった。彼にとって、自分はその程度でしかないのだ。
「徳のあるトウエン様の言葉ならばともかく、彼が私の言う事を聞くとは思えませんし、私が彼の生き方をどうこうできるはずがありません」
「それは違う」
 トウエンが、クシナダの両肩に手を置く。
「他の誰にも、この役目は無理じゃ。天涯孤独の身であるあの男が、この世で唯一話を聞くとすれば、同じ境遇であるお主だけなのじゃ」
「いや、でも・・・」
 これだけ言ってもまだ自信なさそうに渋る彼女に、トウエンはにやりと笑い
「大丈夫じゃ。お主、自分の容姿がどういう風に見えているかわからぬか? 人であった時のケンキエンにも勝るとも劣らぬほどの美人さんじゃぞ。いざというときはその武器を使え。女の武器じゃ。あ奴を骨抜きにして、尻に敷いてしまえ」
 目の前で大きな武器二つを揺らしながらトウエンは言った。彼女を見て、彼女に対するライコウの様子を見て、なるほど、とクシナダは納得した。
「私に出来るかどうかわかりませんが。とりあえずは、共に行こうと思います」
「それでよい」
 クシナダの両肩から手を離す。
「一人ではない、と。お主があ奴に教えてやるのじゃ。お主が傍にいれば、あ奴は道を外すことはないじゃろう」
「それは、どうしてです?」
 簡単なことじゃ、とトウエンは可愛らしく片目を瞑って見せる。
「男は女に見られているとわかれば、格好をつけるものじゃからな。恥ずかしい真似はすまいよ」
 互いの顔を見合わせて、格好を付けたがるタケルを想像して、二人して笑った。せいぜい、格好をつけてもらおう。その姿が、誰かの希望となるように。
 トウエンの言葉を胸に、クシナダは彼の後を追う。


 後の時代。
安達ケ原と西涼は正式に和平を結び、やがてトウエンとライコウが結婚することで一つの国となった。
国の名は『倭(ヤマト)』。
 先読みの能力を持つ巫女を女王として戴き、優れた将兵たちに守られた倭は、しかしながらその武力だけではなく、まずは和をもって諍いの絶えなかった近隣諸国を説き伏せ、次々と併合していった。トウエンから七代後の女王ヒミコの時代、遂には並ぶもの無き巨大で豊かな国家となった。
 そこには理想郷の一つの形があった。姿形は違えど、同じ心を持つ多種多様の種族が暮らし、女王の先読みの力で作物の不作を知らず、誰もが笑って豊かに生きられる国だ。
 また外敵に対しては、恐ろしく強い軍が民を守った。倭の兵は普通の兵に比べ体が大きく、力も強い。それだけでも脅威であるのに策略にも富み、倭を話で丸め込もうとする臆病者と侮り戦争を仕掛けた国は、酷く痛い目を見てから倭の傘下に加わったという。
 余談だが、戦争や災害が起こった際、それらに対して素晴らしい功績を上げた者には国から褒賞と称号が与えられる。かつて国家の未曾有の危機を救った男の名にあやかり、倭を救った英雄、という意味を込めて。
 ヤマトタケル、と。

世界の神話・異聞 -鬼と人と-

世界の神話・異聞 -鬼と人と-

  • 小説
  • 長編
  • ファンタジー
  • 冒険
  • アクション
  • 青年向け
更新日
登録日
2016-03-07

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  1. 鬼の巫女
  2. 若武者と悪女
  3. 彼の居ぬ間に
  4. 鵺の鳴く朝
  5. 誰が創りし理想郷