この話をするのはもう何度目になるのか、いちいち覚えてもいないし見当すらつきません。誰もがしきりに、話してくれ、話してくれと強請るのですが、それで私が語り終えると、口を揃えてお前は狂人だと言うのですから、難儀なものです。
 あなたの目に私は、どのように映りますか。白痴の患者に見えますか、哀れな被害者に見えますか。どちらにしても、語らせていただきましょう。
 ああ、良い塩梅に雨が降ってまいりましたね。屋根を垂水がひっきりなしに叩く音が聞こえます。ちょうどあの日もこのような、陰気な雨の降る日でした。
 仕事仲間としこたま飲んだ帰り、へべれけに酔った同僚の肩を支えながらそいつを自宅まで送ってやっていた最中でした。私も相当酔っていましたので、ちかちか光る外灯の照らす深夜のアスファルトを、あっちへふらふら、こっちへふらふらしながらゆっくりと歩いておりました。
 片方の手で同僚を支え、もう片方の手で傘を差していましたので、私たちはほとんど濡れ鼠でした。勢いこそ大したことはないとはいえ、早いところ帰ろう、懐に閉まった給金が濡れてはいけないと同僚が舌足らずに言うのに同意して、私は努めて早足で歩き出しました。
 その日はもう、随分飲んでおりました。いつにも増して私たちは、夜更けまで酒屋に入り浸っておりました。というのも、その日まで根気強く勤めていた工場で大規模な首切りが実施されると、月給の入った茶封筒を配るついでのように工場長が言ったので、同僚たちは不安がって、それを拭い去るような勢いで互いに酒を仰いでいたのです。
 私の左肩に腕を回し酩酊する同僚も私も、食いっぱぐれの危機という現実を一時の間忘れ去ることに成功しました。人生の要はとにかく酒だと、水溜りを踏んづけ同僚が嗤いました。
 違いない、と私は頬を緩め、彼にしっかり歩くよう促しながらまた一歩、暗闇へと足を前に突き出しました。ばしゃり、と水が跳ねる音が聞こえ、私は始め、作業着に泥が跳ねてしまったと小さく舌打ちをしました。
 しかし、どうも具合が違うのです。水溜りを踏んだにしては、足に絡みつくものの気配が異様に濃すぎる。
 まるで蛇が巻き付いたような無意識の嫌悪感が、踏んづけたものの正体を視認しないうちに私の中に込み上げてきました。
 外灯は相変わらず、点いたり消えたりしていました。私はそっと息を止め、目線を下げないよう気をつけながら、同僚に囁きました。
「おい。そこに何があるのか、教えてくれ。暗くて、よく見えないんだ」
 酔眼朦朧の彼はへらへらしながら顔を上げ、一瞬の間を置いてから、突然吐きました。
 顔を顰めたくなるような臭いが鼻をついても、私の表情は凍りついたように動きません。ひぃ、ひぃ、と悲鳴と嗚咽の入り混じったような奇妙な声を上げ出した同僚が、ほとんど掻きむしるような手つきで腕にしがみついてきても、私は凝然と立ち尽くしていました。
 人が潰れている。ようやく彼はそのようなことを口走り、物凄い勢いで後ろの方へ飛び退きました。人が潰れている。
 私はそれを見るつもりなどなかったのです。直面する恐ろしい出来事に、どうして積極的に関わりたい者がいるでしょうか。このまま方向転換して一目散に走れば、まだその全貌を確信することなく朝を迎えられたのでしょう。同僚の声が後方から、矢の如く飛んできました。
「死んでいる!」
 私は何を考えるよりも前に視線を足元に落とし、それを目撃しました。
 屍体はそこにありました……雨に溶け込むように、ひっそりと。
 体つきからして成人男性の屍体が、道の端で伏せていました。頭部はもう、生易しい打擲ではありえないほど滅茶苦茶になっていて、飛び散った乳色と赤色を辿れば、おびただしい量の脳髄と血液が割れた頭蓋から流れ出ています。
 ぴくりとも動かないのです。首から下はいかにも健康そのものに見えるのに、頭のせいで彼は動かない。私は自然と、人が潰れている、という言葉を反芻していました。そして、へなへなと力なく、吐瀉物の上に膝をつきました。
 その後は、記憶が曖昧です。誤魔化すつもりは毛頭ございません。ぷつりと切れたように、その後の動向を覚えていないのです。朧げに、帰宅した直後水を何杯も飲んだのは覚えています。そのまま眠ってしまったのでしょう。一人で逃げてしまったのか、同僚の姿はもうありませんでした。
 私はいつもの黴臭い布団の上で目覚めました。朝日を顔いっぱいに浴びても、私はまるで生きた心地がしませんでした。酷く酔っていたとはいえ、あの凄惨な光景をただの悪夢であったと決めつけることは出来ず、なんとか日常に逃げ込んでしまおうという気持ちから、私は時間通りに家を出て工場へ出勤しました。
 ええ、勿論、長靴には血痕がこびり付いていました。見ない振りをしたのです。
 遠回りで出勤した私は、工場の機械的な構造にこの上ない安心感を抱きました。決められた時間に決められた仕事を淡々とこなしていくだけの場所ではありましたが、その時の私にとってそれは何よりの救済でした。脳裏に焼きついた光景を払拭するが如く、私はいつにも増して仕事に打ち込みました。
 ベルトコンベアから運ばれてくる細々とした部品を品質ごとに選別するだけの、誰にでも出来る仕事です。昼の休憩に入る少し前、額に滲んだ汗を軍手で軽く拭うべく顔を上げた際、ベルトコンベアの入り口……部品が一様に流れ出てくる小さな真四角の闇に目が止まりました。ごうんごうんと規則正しく響く機械音と、鈍く光る鉄、最奥の闇……。
 突如、それは見慣れた作業現場から、屍体の正体に迫る恐ろしい機関へと変貌を遂げました。私は、私の中の歯車が、あの夜すっかり狂ってしまったのだということを、この時初めてはっきりと悟りました。
 もはや私の逃げ込める日常など、どこにも存在しなかったのです。頭の潰れた屍体が、視界に入った凡ゆる物によって頭の中で再現されるようになりました。
 私は半狂乱で部品を放り投げ、甲高く何かを叫びながら工場を駆け出しました。泥濘に足を取られながら、私は畦道を狂人の形相で走り、走り、見つけたのは、昨晩共にあの悪夢を目の当たりにした同僚の身体でした。
 奇妙なことに、私は彼の変わり果てた姿を見つめているにつれて、平常を取り戻していきました。いえ、それは……決して平常とは呼べそうにもない……寧ろ異常による静寂であったと、今なら思えます。頭の中のごうんごうんという一定の音がゆっくりと歪んでいき、悪趣味な旋律を奏で始めた頃、私はおぼつかない足取りで歩き始め……昨日とは別の酒屋に転がり込み、浴びるように飲み続けました……もう少しも酔うことはできませんでしたが、飲み続けました。
 日が沈み、客がちらほら入ってきて店が騒がしくなりだしても、頭痛が酷くなるばかりで、精神は依然として水を打ったような静けさを保っておりました。
 しかし転換は、突然訪れます。不意に隣に座っていた青年が、私の空になった猪口に酒をついでくれたのです。
 それは本当に唐突な出来事だったので、まばたきを何度か繰り返し青年の顔を呆然と眺めていると、若い彼は年相応のあどけなさを感じさせるような苦笑を浮かべていました。
「人生の要は酒であると、そうは思いませんか」
 柔和な口調で紡がれた言葉にデジャビュを感じ、私はそっと目を細めました。ビールで唇を濡らしてから、私は掠れた声で彼に尋ねました。
「それは誰の言葉ですか。小説か、詩か何かですか」
 彼は人懐こくはにかみながら、いえ、僕ですと答えました。
 青年は身なりがよく、一目で良い育ちであることが分かりました。話してみると、彼は新米の医者で、今だ現役である父の診療所でこき使われている身であることを、朗らかな調子で明かすのでした。
 知識人らしい鷹揚とした態度と若さ故の無邪気を併せ持つこの青年が、ぽつぽつ一方的に話すのに相槌を打つうちに、幾分か私も落ち着きを取り戻していきました。
 彼が私に声をかけたのは多分、私の内の闇の気配を、何気無く斟酌したからでしょう。口では自分はヤブだと謙遜していましたが、医者というのはきっとそういう、仁愛の気質を持つものです。
 店はいよいよ、仕事を終えたむさ苦しい男達で溢れかえり、活気付いて、隅の席で私と彼だけがしんみりと、猪口を傾けていました。
 そうしているうち、漸く酔いが回ってきたのか、私はなんとなく、彼には話してしまおうかしら、という気持ちになって、しかしことの有様を尽く語れるような気概はなく、ただ一言、「死体を見たことはありますか」とだけ呟きました。
 なるべく何気ない調子を装ったつもりでしたが、私の声色が俄かに変化したのに敏感に気付いた彼は、慎重に答えました。
「あります。医学生の時に、初めて死体を解剖しました。僕は外科医志望でしたからね。以来現場では何度も何度も見ています。実家では手術の助手ばかりをやらされて、久しく執刀はしていませんが」
 私は彼の話を聞きながら、執刀とは一体どんなものだろうと想像していました。人間の腹を切るという行為は、学の無い私にとっては酷く猟奇的な施術のように思えて、私は自分で想像しておきながら、小さく唸りました。
 ふと隣に座る彼を見ると、彼は話をやめてじっとこちらを観察していました。そして不意に、「見たんですね、死体を」と、低く囁きました。
 私は、直様頷きました。私の狼狽ぶりから斟酌したらしく、彼は無遠慮にあれこれを問うような真似は決してしませんでした。
 暫時の沈黙の間、私は不意に、この若い医者に腹を切開されるような気持ちになりました。それは、こじ開けられるというよりは寧ろ、施術のような感覚に近く、私はこの時点で、彼の思慮深さを無意識のうちに信頼するにまで至っていたのです。
 私は話しました。発狂を禁じ得ない悪夢の一部始終を、まるで絞り出すように、彼に語りました。彼は真剣な面持ちをして一切口を挟まず、時折頷きながら私の話に聞き入りました。
 一度吐き出したものを堰き止めるのは至難です。私はとうとう、昨夜から自分の中に存在し続ける、違和感についてすら白状したのです。
 あの凄惨な光景を目の当たりにしてからというもの、私は強い妄想じみた考えに冒されている。屍体の頭に詰まっていたのは、あの薄灰色の、どろりとした、気味の悪いものは、まるで虫の体液だった。私にはそう見えた。私は常識として、人間の中に詰まっているのは血と臓器と骨だと習っていたが、ついぞそれを間近で確認したことはない。私の中身は本当に人間なのか。あの屍体の頭から流れ出ていたのは正真正銘の脳髄で、あの屍体は虫ではないという確証は、私にはないのだ。
「人間の腹には何が詰まっているのですか」
 と、私は縋る思いで彼に問いました。彼は哀れな私を宥めるように、「血と臓器と骨です。嘘は吐きません、僕は医者です」と答えてくれました。
 私はなんと安心したでしょう……どんなに酒を飲んでも懊悩に苛まれていた心が、ほんの少しだけ楽になったようでした。
 多少肩の力を抜くことができた私は、徳利の底に残った酒を全て彼の猪口に注いでしまってから、それでもやはり声を低くして言葉を続けました。
「あなたがそう言ってくれたのは、本当にありがたいことです。だけど私はこの先やはり、すっかり元の通りには戻れそうにはありません。あなたの言葉を持ってしてでも、依然として内側に蠢く嫌悪感は拭いきれない私は、やはり何かが狂ってしまったようだ。あなたの目に私は、どのように映りますか」
「虫です」
 彼は即答しました。私は、身体が突然錆び付いてしまったかの如く、うまく動かすことができず、軋む首をやっとのことで彼の方へと向けると、彼は先程までとなんら変わりはない、穏やかな表情で猪口の水面を見つめていました。
「虫じゃあるまいな、と思ったのです。それで、彼の名前は偶然、虻川さんといったので、試しに確かめてみたら、ちゃんと医学校で習った通りの人間らしい構造をしていて、その時は安心できるのですが、また暫くすると確信が揺らぐのです。なので、酒の力を借りに来ました」
 そう言って酒を仰ぐ彼の隣で、私はただ愕然として色を失っていました。確かめる、と彼は言いましたが、彼が、どうやって確かめたのか……私は既に目撃していました。人の頭がまるで虫か何かのように無残に潰されていた、あの光景は……つまり彼は、首から下のことは、知り尽くしていたので、そのままにしておいただけだったのです。
 透き通るほどの狂気を抱いた彼の、途方も無い思案……まったくの不条理……それこそがあの悪夢の正体でした。彼にとってそれは、宙を飛び回る羽虫を不意に潰すかのような軽々しさによる行為だったのでしょう。
「虫……」
 酒屋の喧騒の中、私の目を見て歌うように彼が漏らしたその言葉を聞いた途端、私の頭の中の屍体はウゾウゾと蠢き出し、ついに私を確信させました。あれは虫だったのです。
 私はその場で少しも動くことができず、彼がそのまま黙って席を立ち、店を後にしても、しばらくは宙へ視線を浮かせてぼんやりとしていました。
 そのうち私は……気付きました……その音に。
 耳の奥から小さく響く、ウゾウゾ、という不快な蠕動は……絶えず、今も私を蝕んでいます……彼は、私を見て、あの言葉を呟いたのです。
 得体の知れない静寂の中、ただあるのは自身の内側で這い回るような感覚です。本当は、あの夜、潰れた屍体を目にしたその瞬間から、私は分かっていたはずです……ええ、分かっていました。生来の事勿れ主義である私も、こればかりは認めるしかありません。
 そういうわけで、私の話はお終いです。納得は、していただけましたか。
 その青年について、詳しいことは何も知りません。名前すら、忘れてしまいました。器用な彼のことですから、今も父親の医院でうまく働きながら飄々と暮らしているのでしょうか。
 ああ、なんだか無性に酒が飲みたい。頭が冴えてしまっていけません。さぁ、納得していただけたのでしたら、私を早いところここから出してください。気分が悪くて仕方が無い。私はすっかり話してしまいました。
 ……なんたって、そんなことを仰るのです。私は確かに数奇な体験をしまして、ろくでもない飲んだくれに成り下がりこそしましたが、こんなところに閉じ込められるような覚えはひとつもありません。
 あなた方、聞こえないのですか。ああ、虫ども……私を狂人と呼ぶのは……虫螻蛄め……ならばいっそ、殺してください。
 酒は人生の要だと……お願いです、酒がなくては私はいよいよ正気でいられない。あんまりだ……やめてくれ……だって……ああでもしなきゃ、誰も彼を、私を、虫ではないと言ってくれなかったじゃあないか……。

男、虫を見る。

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  • ホラー
  • 青年向け
更新日
登録日
2016-03-06

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