世界の神話・異聞 -英雄譚の始まり、死にたがりの軌跡-

最愛の姉の命を理不尽に奪われ、以降死んだように生きていた主人公のもとに、世界を管理する神が現れ「君の命を有効活用させてほしい」と告げた。
特に生きる意味も未練もない彼の望みは死ぬことだ。
楽に死ねるなら、と彼が神に連れられて向かった先は魑魅魍魎が跋扈し、弱き者が理不尽に虐げられている別の世界だった。
彼はここで、化け物の生贄にされ、望み通り死ぬ、はずだった。

立つ鳥は後を濁さない

 燃えるゴミを出しに行って、指定された取集場所に無造作にゴミ袋を放り投げた。ボスッと力なく横たわるゴミに自分の姿を見た。
ああ、僕にそっくりだ。いや、僕があれにそっくりなのか。


 深夜、レンタルビデオ屋のバイト帰りのことだ。突然後ろから声をかけられた。
「未練は無いのか」
 立ち止まって振りかえる。薄暗い街灯の先に誰かがいた。街灯が照らすのはその人物の足元のみで、正体がわからない。その甲高い声と小さな靴から女か、子どもではないだろうか。ただ、聞いたことのあるような声だと思った。どこでか、は、わからないけど。
「僕に何か、用?」
 と返すと、何かを含むような小さな笑い声が返ってきた。
「何笑ってやがる。用がないならもう行くぞ」
「ああ、すまない。用ならある。私は、君の願いを叶えに来たのだ」
 足音を立て、人影が近づいてくる。自分より少し小柄なこの人物は、大きめのパーカーを羽織り、フードを目深にかぶっていて表情が伺えない。ただ、体格やフードのなかからこぼれおちる、ウェーブのかかった長い髪から女性だと判断する。バイト上がりの深夜二時に、見知らぬ女性に呼び止められるというレアな経験をしていた。
「女性に呼び止められるのに慣れてないもので、どう応対すればわからないんだけど。まずは身分を明かしてくれるとありがたい、かな」
「私は世界の管理者。君たちに理解しやすいように表現すると、神だ」
「へえ」
 神ときたか。ビデオ屋でバイトをしているから、映画にはそれなりに詳しくなったが、パーカーにジーンズのラフな神様は今のところ見たことがない。新世界の神になろうとした男は結構ラフだったけど。
「神様が、こんな夜更けに何用だ」
「さっきも言った通り、君の願いを叶えに来た」
「僕の、願い」
 思考を巡らせる。自分の願い、望み。一番の願いは、わざわざ叶えてもらわなくてもいずれ叶うものだが、早いに越したことは無い。
「迎えにでも来たのかよ。僕の寿命が尽きたから」
 僕の願いは死ぬことだ。
 自殺はダメだ。人に迷惑がかかる。手首を切る、首をつるなどだと大家さんやその周辺の人に、飛びおりならビルと真下の道行く人々に迷惑をかけてしまう。心霊スポットになるなんて言語道断だ。死んでも誰かに迷惑をかけるのは無責任だと思うからだ。樹海なら行けるか、と思ったが、ああいう自殺場所のメッカは巡視員が常に目を光らせていて、一度見つかってからは諦めた。自然死か、出来れば事故死が望ましい。事故死だと、加害者や警察、もしくは良心的な誰かが僕の遺体をきちんと処理してくれるだろうから。立つ鳥は後を濁さないものだ。
 僕に家族はいない。唯一の肉親だった姉さんは四年前に死んでいる。姉さんみたいに素晴らしい人間なら惜しまれたり悲しまれたりするんだろうが、僕が死んで惜しむ人、悲しむ人はいない。せいぜいバイト先の店長が「くそ忙しいのに」と嘆くぐらいだろう。
「いや、違う」
 神は否定した。
「僕の願いは今言った通りだ。それ以外なら必要ない。じゃあな神様」
 踵を返して帰ろうとして、目の前の異常事態に思わず足を引っこめた。
その先に道は無かった。光さえなかった。真黒な壁なのか空間なのかよくわからない、闇、としか言いようがないモノが面前に広がっていた。
「神の話は最後まで聞け」
 ため息交じりに神は言った。仕方なく振り向く。
「これはあんたの仕業か?」
 目の前の闇を指差す。
「そうだ。とりあえず、私が神、のようなものであることは認識していただけただろうか」
 嫌でもせざるを得ないものを見たのだ。文句もつけようがない。もともと、つけるつもりもなかった。気が狂ったなら狂ったで、別にどうでもよかった。
「それだけの力があるなら、僕一人を殺すくらい簡単だろう。願いを叶えると言うなら、痛みなくあっさり殺してくれ」
「必要があればそうすることもやぶさかではない、が、君の場合はダメだ」
「なぜだ?」
「必要だからだ。君の命が」
 僕の命が? どういうことかさっぱり分からず、首をかしげる。
「君はいらないと言ったが、君の命を欲する人間がいる。その人間に君を渡そうと思う。その人間は別の世界にいる。君を直接殺すことはしないが、間接的に死に追いやることは可能だ」
「へえ、間接的に・・・」
「そうだ。そして最初の質問に戻る。別世界の人間に渡すのだから、君にはこの世界を捨ててもらう。帰ってくることは出来ず、異国の地で果てることになるからだ」
 だから未練は無いかと聞いたのか。どうせ死ぬ身だと、そんなこと気にもならなかった。
「いくつか質問がある」
「どうぞ」
「死ぬときに痛みはあるか? あって、長時間苦しみ続けるのか? それとも一瞬か?」
「どちらかと言えば短時間ではないか、と思われる」
 第一段階はクリア。どうせ死ぬなら痛みは無い方がありがたい。
「僕の死は迷惑をかけないか?」
「現時点ではかけない、と言いきれる。むしろ君の死は感謝される。立派な墓も立てられ供養されることだろう」
 感謝される死、とは何だろうか。僕が聖人か稀代の大悪人ならそれはもう喜ばれるだろうが。何にせよ、気がかりは無くなった。
「なぜあんたはそんなことをする」
「仕事だからだ。例えるなら古本屋、だろうか。君たちはいらない本をそこに売り、必要な人がそれを安値で買う。それの規模が世界版だ。人を本、世界を本屋、売り子を私に置き換えればいい。生き物の生死を好き勝手にいじることも出来ないことは無いが、少し面倒だ。君は死ぬことを望む、別の世界の人間は君の命を望む。互いの利害が一致しているなら、移動させた方がコストパフォーマンスが良いのだ。後は君の許可を得て、私が運ぶだけだ」
 なるほど、少し遠回りだが、願いを叶えるということには変わりない。
「君の命を、有効活用させてはくれないだろうか」
 僕が納得したのを感じたのだろう、神が聞いてきた。もちろん否やは無い。ただ、少しだけ時間をくれと頼んだ。明日の今と同じ時間、迎えに来てくれと。
「すぐにでも、と言うと思っていたから少々意外だな。良ければ理由を聞かせてくれないか」
「バイトを辞める連絡と、賃貸契約の解除をしたいんだ」
 いなくなるなら、身辺整理をしなければならない。立つ鳥は後を濁さないものだ。

 翌日、僕はバイト先や不動産、廃品回収に連絡を入れた。バイト先の店長には直接会って、適当な理由をでっちあげて辞めることを報告した。店長は来月のシフトを組んでいた最中だったようで、急な話に顔をしかめたが、バイトが一人辞める程度でガタガタ言わなかった。逆に問題だったのは不動産屋だった。賃貸契約では退室の二カ月以上前に連絡しておかなければならなかったらしい。店子が住むから利益につながる、金が絡めば人は神経質になるのは世の道理で、契約違反だということでモメかけた。なので、これまで使う理由も目的もなかったために勝手に貯まっていった貯金を下ろし、二か月分の家賃を一括で払ったら面白いくらい大人しくなった。生まれて初めて金の力を使った。
 午後から廃品回収の業者がやってきた。最近の廃品回収業者はまだ使える商品を買い取ってくれるらしく、見積もりを出した結果、買い取り金額と処分にかかる金額が同じなので特に費用はかからないと言った。それで引き取ってもらうことにする。業者がどんどん物を運び出していく中、埃をかぶった小さな段ボールが出てきた。まだ中身を確認していないものだ。大したものは入ってないだろうと開けて中をのぞく。出てきたのは古いノート、カフス、万年筆、そして僕と姉さんが写っている昔の写真。カフスは姉さんからのプレゼントだ。貰った時は嬉しくて毎日つけていた。シャツを好んで着るようになったのもこのころで、何時でもつけていたかったからだ。姉さんが死んでから、どうしても思い出してしまうので外していた。ここは、幸せだったころの記憶が詰まったパンドラの箱だ。開ければ幸せだった頃の記憶が災厄になって僕に襲いかかる。心が締め付けられ、苦しい思いをさせる。神話と違うのは、希望は入って無いことだ。
「ああ、それも廃棄ですか?」
 後ろから業者が尋ねてきた。廃棄、するべきなんだろう。今更こんなものを持っていたって何の役にも立たないのだから。少し逡巡してから、思い切ってゴミ袋を広げて流し込もうとする。
「ちょ、ちょっと待って!」
 後ろから呼び止められた。業者の一人が僕の行為を止めようと走ってきた。
「何?」
「何、じゃないですよ。それ本当に捨てちゃうんですか?」
 鈍く光るカフスを指差して業者は言った。体力がモノを言う業種で珍しく女性だ。帽子を目深にかぶっていて鼻より上が陰で伺えない。特に気にも留めず、今自分の手にある段ボールに視線を戻す。
「それ、結構なアンティークものですよ。すごい高級品ってわけじゃないけど、今ではもう取り扱いがないような。純銀製っぽいですし、もったいないですよ」
「もったいないなら、あげようか?」
 差し出すと、業者は困ったように手と首を横に振った。
「遠慮します。そういうのってできる男のシャツの袖先で輝くもんですよ。お客さんなら似合うんじゃないですか?」
 付けてあげますよ、と業者は返事も聞かずに、僕が着ている黒いシャツの袖口にカフスを取りつけた。黒いシャツに銀の光沢が映える。「ほら、似合う」と業者は満足げに笑った。
「おい」
「これはサービスですから、お代は頂戴しませんよ」
 そういうことを言っているんじゃないのだが、いちいち注意するのも面倒なのでされるがままにカフスを両袖に付けてもらった。姉さんの形見が、僕の形見になるのもまた一興だ。そう考えれば、ノートも万年筆も持っていき、僕の墓に一緒に埋めてもらおう。それくらいのわがままは許されるはずだ。ゴミ箱にポイはやはり忍びなかったようで、僕の心が少しほっとしたのを感じた。見れば苦しむだけなのに、捨てるのも憚られる。どうにも上手くいかないな。世の中はえてしてそういうものかもしれない。
 部屋から物がなくなったころ、管理人がやってきて鍵の返却を行った。そのころ僕の荷物はリュック一つにまとまっていた。中身は姉さんのノート、万年筆、ロープ、工作用のカッター、後は財布くらいだ。服装も黒のシャツとジーンズとスニーカーという軽装だった。どうせすぐ死ぬのだから、色々持っていても仕方ない。万が一、長く苦しむようなことになったら困るので、自決用のロープとカッターナイフを持っていくことにした。
 約束の時間までまだ時間があった。自称神は「君に心変りは無いとは思うが、万が一、未練があって、後で駄々をこねられても困る。残った時間でよく考えろ」と言っていた。無意味だとは思うが、やり残したことがないか考えてみる。考えて考えて、無い、という結論に達した。姉さんが死んだ、殺されたあの日から、僕はこの世界に何の期待もしていない。

 昨日と同じ深夜二時。結局未練など見つからず、近くのインターネットカフェで時間を潰していた。その後最後の晩餐として牛丼の特盛りを食い、五百ミリペットボトルのお茶を飲みながらあの街灯の下で待っていた。
「時間だ。迎えに来た」
 昨日と同じように、神が現れた。
「やはり、未練はないか」
 俺の顔から何を悟ったか、神が諦めたように息を吐いた。
「あんたが神なら知ってるはずだ。僕がどうしてこうなったか」
「もちろん知っている。だが、今の君の生き方を、人生の終え方を君のお姉さんが許容するはずがない、と私は思うが」
「余計な御世話だ。だいたいあんたが神なら、姉さんをどうして見殺しにした。姉さんは僕と違って、この世界に無くてはならない人だったはずだ」
 それだけは確信を持って言える。それほどまでに僕の姉さんは凄い人だった。天才、という言葉を体現したような人だったからだ。
運命、とかそういう都合のいい言葉が返ってくるのかと予想していたのに反し、神は何も言い返してこなかった。そんな言葉で慰められたり諭されたりするのだけは勘弁だ。それが無い分、いけしゃあしゃあと葬式に出てきたくそったれどもよりもよほど好感が持てた。
「まあ、良いさ。別に今更あんたに異議申し立てをするつもりはない。さっさと行こう」
 嘆こうが怒ろうが変わることのない過去のことで労力をすり減らすのは愚の骨頂だ。
「ああ。わかった。では、目を瞑ってくれ」
 言われたとおりに目を瞑る。
「これから君をあちらに送る。私は他にも仕事があるので君については行けないが、あちらの準備はすでに整っているから、責任者の言うとおりに行動すればいい。それで、君は望みを叶えられるだろう」
 行くぞ。神が告げた。一瞬ののち、匂いが変わった気がした。湿気を含んだ草木のむせかえるような匂いが鼻をつく。目を開けると、さっきの街灯の下ではなく、どこかの木製の家屋の中だった。広さは大体十畳くらいか。四方に松明が灯っている。
 なぜか僕のほかに、七人の人間が存在した。彼らは困惑した様にキョトンとしているか、焦ったように辺りを見回していた。僕以外に、こんなに自殺志願者がいるのだろうか。
「なんだこりゃ。話と違うじゃねえか」
 僕から見て一番右にいたガタイのいい、ガラの悪いヤクザみたいな男が声を荒げた。動揺を押し隠すための怒声だからか、少し声が震えていた。しかし、話と違う、とはどういうことだ。僕と彼とでは神から伝えられたことが違うのか。男のほかに、初老に差し掛かりそうな感じの、全身がブランド物と宝石で飾り付けられた気の強そうな婦人、部屋の隅で縮こまっている地味な服装の少女、反対に金髪やメイクや指輪がちかちかと目に痛い、派手な若いホスト風の男、眼鏡をかけた陰気な少年、つなぎを着ている、疲れ切った太ったおっさん、三十路くらいの品の良い、しかしどこか疲れたような未亡人っぽい女。僕を含めて計八名だ。
「どういうこと? ここはどこなの?」
 キンキンした耳障りな声で婦人が僕たちに向けて叫んだ。上から物を言うのに慣れているような喋り方で、事実そういう身分のように見える。少年や少女は怯えたように辺りを見回していた。ただ一人、疲れたおっさんだけが無関心を貫いて、呆然と視線を床の一点で固定している。
 僕と同じ条件で来たのなら、おっさんの反応だけは妥当だ。死ぬつもりなのなら、たかが場所が急に変わった程度で騒ぐことは無い。騒いでいる彼らの方がおかしい。
 音も立てずに木製の戸が開いた。騒いでいた連中がぴたりと口を閉じ、全員の視線が注がれる。
「皆様、お待たせして申し訳ございません」
 そういって床に平伏したのは着物を着た老人だった。その後ろにも古代の女官のような服装をした数名の若い女たちがいて、彼女らも同様に跪き、頭を下げた。
「皆様方が、選ばれた方ですな」
 確認するように老人は言った。この言葉に食いついたのは陰気な少年だ。
「ほ、本当だったのね。あの人が言ったことは本当だった・・・」
 未亡人が、じわじわと体に染み込ませるように言った。その横で、当然ですみたいな顔をした婦人がフンと鼻を鳴らし、平伏する老人に詰め寄った。命令できる、自分より下の人間がいることで精神の落ち着きを取り戻したみたいだ。
「あなたがここの責任者?」
「はい。この村の村長をさせていただいております、アシナと申します」
「ではアシナさん。さっさと案内してくださる?」
 案内? 準備は整っていると言っていたが、それが何なのかまで聞いてはいなかった。聞く必要がなかったからだ。
だが、ここまで僕の想像から彼らの反応が離れると気になってくる。一体僕以外の人たちは何と言ってここに連れてこられたのだろうか。
「承知しております。すでに皆様を歓待する宴の準備も整っております。ささ、ご案内いたしますぞ」
 アシナが女官たちを引き連れて外へ出た。その後をヤクザ、婦人、ホストとおっかなびっくりついていく。少年、未亡人、少女と出て行って、最後に僕と疲れ切ったおっさんだけが残った。
「行かないのか?」
 自分から声をかけておいて軽く驚いた。僕がバイト以外で他人に自分から声をかけるなんて何年振りだろうか。姉さんが生きていたころだから、およそ五年振りになるのか。おっさんはゆっくりと僕の方を振り向く。
「君こそ、行かないのかい」
 気弱な笑みを浮かべた。その疲れ果て、色々な物を諦めたような顔を見てピンときた。多分相手も。
「あんたも、死に場所を求めて?」
「ああ、やはり君もか」
 どこかホッとしたような空気さえ漂わせておっさんは答える。おっさんは、全てを諦めたような、死んだ魚みたいな目をしていた。きっと、僕も同じような目をしている。
「おお、まだこんなところにいらっしゃったのですか」
 アシナが部屋に戻ってきた。僕たちがついてきていないことに気づいて、慌てて戻ってきたらしい。肩で息をしながら、それでも愛想のいい笑みを浮かべた。
「他の皆様はすでにお楽しみいただいております。どうぞ、お二人もささやかながら宴に加わってくだされ。皆様のためにご用意したのですから」
 僕とおっさんは顔を見合わせた。考えていることは分かる。死ぬはずなのになぜ歓迎されているのか腑に落ちないのだ。
「なあ、アシナ、さん。どうして僕たちを歓迎するんだ?」
 あんたが僕たちの命を欲しているんじゃないのか?
「言いましたでしょう。あなた方は神に選ばれた、やんごとなき人々なのです。そのあなた方を、宴をもってお迎えするのは当然のこと。酒も、料理も山ほどご用意させていただいております。食事の後は綺麗な娘を揃えておりますゆえ、気にいった娘を何人でも選び、好きなだけご堪能ください。しかしながら、それらはすべて早いもの順。ここにいては他の方々にお目当ての物を奪われてしまいますぞ? さあさ、お早く」
 その選ばれた、というのが引っかかっているのだが、その質問をする前にアシナが僕とおっさんの手を取りひっぱる。「ささ、お早くお早く」と部屋を追いだされた。なんとなく、だが、掴まれたアシナの手から執着みたいなものを感じた。絶対に逃がさない、というねっとりしたものだ。僕たちの手を引くアシナを、目を細めて観察する。見た目はただの好々爺にしか見えないが、気のせいだろうか。ただ僕の常識として、友達でも家族でもないのに何の思惑もなく他人を接待する理由がさっぱり思いつかない。まあ、気のせいであろうが無かろうが
「関係無いな、私には」
 隣でおっさんが呟いた。僕と同じようなことを考えていたようだ。

 宴会場では、すでに乱痴気騒ぎが始まっていた。騒いでいるのは部屋を先に出て行ったヤクザ、ホストだ。女性陣と少年は別室にでも案内されたのかここにはいない。まあ子どもの情操教育的にはその方がいいだろう。
 連れてこられた部屋は僕らの世界で言う風俗店のような様相を醸していた。
 ヤクザは両脇に美女を侍らせ、二人の肩に腕をまわして手で豊かな乳房を鷲掴みにしている。何というか、典型的な、古典的ともいえそうな侍らせ方で捻りが無いなあという感想が浮かんだ。二人はそれを嫌がることもなく、微笑みさえ浮かべて、右が食べ物を箸で、左が酒を注ぎ、雛鳥に餌をやる親鳥みたいにヤクザの口に運んでいる。
 ホストは自分の膝にこれまた美少女をのせ、食事そっちのけで熱いキスを交していた。時についばみ、時に舌を絡めてお互いをむさぼっていた。ホストの上半身は女に脱がされたのかすでに裸で、女の方も半分はだけて中身がちらちら見えて、ホストはそこに手を出し入れしてまさぐっていた。今にもここで一回戦を開始しそうだ。
 とりあえず、訳がわからない。
どうして異世界に放り込まれて数分でここまで馴染めるんだ。特にホストは他人の目も気にせず女を組み敷こうとしている。周りを全く気にしていない。首をかしげた僕は、この場に漂う空気に鼻をひくつかせた。微かに甘いような酸っぱいような、何とも言えない匂いが鼻についたのだ。頭をクラクラさせるような匂いだとも思った。もしかしたら麻薬みたいな成分が含まれる、香でも焚いているのかもしれない。それで二人がこうなったというなら納得できる。
「ささどうぞ。お座りください」
 アシナが僕とおっさんを用意されていた座布団に座らせた。藁やイグサのようなもので編まれた座布団だが、座り心地は悪くなく、僕の体重をしっかり支え、尻の形に合わせて形が変化した。低反発の枕みたいだ。
「ほれ、早くこの方たちの分も用意しなさい」
 パン、パンとアシナが手を叩くと二人の女官が大きな皿を持って僕たちの前に現れた。僕の前に現れた女官もまた、これまでテレビでしか見たことないような、いや、テレビでも見たことないような美少女だった。片まで伸びた滑らかな美しい髪が、三つ指をついて頭を下げた拍子にファサッと広がった。ゆっくりと女官が顔を上げる。濡れ羽色の髪の御簾がかきわけられ、のぞいた顔は、今日まであらゆることに無関心だった僕をはっとさせるほど整った顔だった。きりりとした細めの眉と少し吊り目がちな瞳が狼か狐のようで、凛とした雰囲気を醸し出している。すっと通った鼻筋の下にあるぷっくらした唇が清らかな乙女唯一の艶やかな部分だ。
「今宵、貴方様のお相手をさせていただく、クシナダと申します」
 クシナダ? 彼女の名前は僕に二度目の驚きを与えた。そう言えば僕たちを案内した責任者はアシナだったか。これは偶然だろうか。神話に詳しい人間が聞いたらさぞや喜んだことだろう。そういえば姉さんも、神話の類が好きだった。その影響が僕にも多少あらわれている。
「どうかなさいましたか?」
 クシナダが首を傾げて、物思いにふける僕の顔を覘きこんでいた。何でもないと手を振り、運ばれてきた皿に目をやる。山菜に肉、穀物が山のように乗せられていた。どこか田舎の郷土料理みたいだ。用意されていた箸を手に取り、まず肉をつまむ。塩と香草だけのシンプルな味付けだが非常に美味だ。これまで食べた焼き肉の中でも三本の指に入る。それが迎え腹になったのか、急に胃袋が活発化しだした。意外と腹が空いていたらしい。あれほど山盛りだった皿の上から料理がどんどん消えて行く。
 食事の合間、合間でクシナダが僕にも酒を注いでくれた。差し出された酒の口当たりは良く、舌に残った料理の後味を洗い流すようなすっきりとした味わいだった。香りも芳醇。部屋に漂う甘ったるい匂いを掻き消すような清廉な香りだ。だが、喉を通れば分かる度数の強さ。喉を焼き、体内に流れ込んできて鳩尾のあたりを熱くする。口当たりがいいからとガバガバ飲めばすぐに潰れてしまいそうだ。ほどほどにしておこう。大体僕はまだ二十歳前だ。お酒は二十歳を過ぎてから。いまさらそんなものを気にするのもどうかとは思うが、意外と法律と言うのは体に染みついているのだと思った。呑んだのはお猪口で最初の二、三杯だけで、後は水にしてもらった。水を頼んだ時、クシナダの表情が少し強張ったのはどうしてだろう。
 ドスン、と隣でおっさんが倒れた。そのまま大きないびきをかいている。顔が真っ赤になっていた。注がれるままに呑み、酔いが回ったのだろう。おっさんを担当していた女官が他の女官の手を借りて助け起こし、部屋から連れて出て行く。
 腹を満たしたら長居は無用だ。ちらと乱痴気騒ぎを繰り広げている方を見た。いくら料理や酒が美味くても、近くでこう騒がれては楽しめないし、やっぱりこの部屋に満ちた匂いは気になる。最大の理由は、ものすごく眠たくなってきているということだ。僕の体内時間は夜中の三時か四時。アルコールまで含んで眠くならないわけがなかった。僕はクシナダに声をかけた。
「何でしょう?」
「もう寝たいんだけど、静かな部屋はある?」
 クシナダが息を呑んだ。僕は何か変なことを言っただろうか。純粋に、寝床があるかどうか聞いただけなのだが。驚いたのも一瞬、クシナダは何事もなかったかのように
「かしこまりました。お部屋にご案内いたします」
 と対応してくれた。音もたてずにクシナダが立ち上がる。おっさんたちが出て行った戸から僕たちも部屋を出た。長い板張りの廊下を歩くたび、張られた板が軋む。先を行くクシナダの足が廊下の隅にある部屋の前で止まった。
「どうぞ」
 クシナダが戸を開いて僕を招き入れた。部屋は八畳ほどの床張りで、敷かれている薄い布団と蝋燭の灯り以外は何もない。別に文句は無い。もう寝るだけなのだから、屋根と布団があれば充分だ。部屋の隅にリュックと脱いだ靴を置き、布団にもぐりこむ。後は眠りが来るのを待つだけの僕の耳に、微かな衣擦れの音が響いた。うっすらと目を開き、音の方を向く。
「何やってんの?」
 着物を脱ぎかけのクシナダに声をかけた。腰に巻いていた帯は床に落ち、わずかに動いただけで着物の前が開く。ちらと見えた彼女の肢体もまた美しかった。処女雪のように穢れを知らない白く滑らかな肌、程よく肉の付いた太もも、対してほっそりとして抱けば折れてしまいそうなくびれた腰、余計な肉のついていない、かといって痩せすぎてもいない、丁度いい具合に引き締まった肢体。全てが黄金律で統一されているとしか思えないバランスで彼女の体は構築されていた。芸術作品もかくやだ。
「何、とは異なことをおっしゃられる。夜伽を申し付けたのは貴方様でしょう?」
 申し付けたつもりは全くない。しかし思い返せばアシナは女を用意してあると言い、クシナダは今夜の相手だと僕に言った。食事だけではなく、セックスの相手もするということか。ふむ、と体を起こす。
「なぜここまでする?」
 アシナにした質問を彼女にも向けてみた。
「なぜ、とは」
「見知らぬ人間を上等の料理と酒でもてなし、女をあてがうなんてどう考えたっておかしい。何か裏があると考えてしまうのは当然のことだろ」
 あったらあったで構わないのだ。苦しまずに死なせてくれるのであれば。
「アシナ翁が説明いたしませんでしたか? 貴方様方は神に選ばれたのです。その尊き御身を精一杯もてなすのは当然でございましょう」
 同じような答えだ。僕が聞きたいのはどういう理由で、何のために選ばれたのか、ということなのだが。質問を少し変えてみる。
「例えば、の話なんだが」
「はい」
「僕がここから出て行く。と言ったら、どうする」
 これまでいた部屋で気になったことが一つ。どの部屋も、廊下にすら窓がないのだ。この世界の建築様式など知らないから、そういうものだと言われればそうなのかもしれない。が、意図的に隠されているのなら、その理由はなぜだろうか。
「それはこれから、でございますか」
「ああ」
「おやめになった方がよろしいかと」
「理由は?」
「この村は山間に存在します。夜の山は危険ですので」
「じゃあ、外の空気を吸わせてくれ。それだけでいいんだ。玄関はどこ? 窓でも良いけど」
「申し訳ございません。先ほどの理由と同じですが、夜は完全にこの屋敷内を封鎖してしまうのです。毒を持った虫や動物には夜行性のものが多いので、潜り込まれては困りますゆえ。外に通ずる戸は、先ほどまで通ってきた廊下の突き当たりでございますが、固くかんぬきをかけておりますので、開閉は困難かと。朝になれば、係の者が開けさせて頂きます」
 滑らかに返答するクシナダ。あまりに滑らか。まるでこういう質問が過去に何度もあったかのようだ。
なぜ外に出したくない?疑問がどんどん膨らんでいく。
「質問を変えるよ。これまで何回くらい選ばれた人間とやらがやってきた?」
「それは」
 初めてクシナダが詰まった。少し思案して
「これまで何度もあった、と聞いてはおりますが、詳しくは存じません。私は今回初めて宴に参加し、皆様方のお相手をさせていただく栄誉を頂きました故」
 何度も、か。なら、そいつらはどこへ行った? 多分この質問が本質を貫くのではないか。
「もう、よしませぬか」
 僕が言葉を紡ぐ前に、クシナダがしゃがみ込み寄り添ってきた。しゃがんだ拍子に着物が盛大にめくれ、肌があらわになる。密着されたクシナダの柔らかな肌のぬくもりが服越しに感じられ、酒や部屋に立ちこめていたものとはまた違う、甘い香りが鼻腔を通りぬける。
「ここに来て言葉は不要にございましょう。それとも、私ではご満足いただけませんか?」
 僕の胸にしなだれかかり、潤む瞳で僕を上目遣いに見上げた。欲望が、彼女を押し倒すために体を意志とは無関係に操作した。彼女の両肩をいつの間にか掴んでいた。そのまま力任せに組み伏せ、布団の上に引きずり込もうとして、見えてしまった。つかんだその手で感じてしまった。
「震えてる」
 気丈な表情とは裏腹に震える右手が見えた。それをみて、獣のような欲情が沈静化し、冷静さが戻ってくる。ハッとしてクシナダは右手を握りしめた。遊女のようにふるまうクシナダの内心の現れだろう。彼女は初めて宴に参加すると言っていた。
「申し訳ないが、止めとくよ」
 立つ鳥は後を濁さないものだ。それは人の感情でも同じことが言える。わざわざ憎まれて死ぬことはない。
「アシナに相手をしろと義務付けられているなら、した、ということにしておけばいい」
「しかし」
 それでもなお、クシナダは食い下がった。嫌なのに食い下がるとはどういうことだろう。
「それとも何? 必ずしなければならないの? その理由は?」
 というか、もう眠い。さすがに限界が近い。
「安心しろ。別に逃げも隠れもしない」
 そう言うと、どうしようかと思案していたクシナダの目が大きく見開かれた。
「あなた、まさか…知ってるの?」
 驚きのあまり口調が変わっている。これが本来の彼女の喋り方なのだろう。無理して難しい敬語を使っていたわけだ。そう考えると、これまでのことは全て自分を大人に見せようと背伸びしている子どもの行動のように思えた。僕はそんな子どもを無理やり押し倒そうとしたのだなと苦笑い。あれほど無関心ぶっていた僕も欲望には勝てないってことか。
彼女を離し、僕は再び布団にもぐりこんだ。寝返りをうって彼女に背を向ける。そうしないと、また襲いかかってしまいそうだ。彼女はそれくらい魅力的だった。
「いや、知らない。何も。僕をここに送ってくれた神様は、僕の願いを叶える、としか教えてくれなかった。僕も特に質問しなかったし」
「あなたの、願いって?」
 恐る恐る、クシナダは尋ねてきた。彼女の内でどんな感情、いかなる策謀が巡らされているかは分からない。ただ結局、僕は神に向かって言ったように、面倒臭がりながらこう答えるだけだ。
「僕の願いは、死ぬことだ」
 そこまで言い切ったところで、閉じていたまぶたの奥の方から暗闇が迫ってきた。眠りに落ちるその一瞬、クシナダがどんな顔をしているのかが気になった。驚いているのか、呆れているのか、それとも…。ただ、睡魔はそれを確認する行為を許してくれそうになかった。

 真っ暗やみの中に僕はいた。まだ自分は眠っているな、と頭が理解した。意識だけが起きたような状態、半覚醒状態だ。その頭に、体が動かされている、という信号が送られてきた。少しずつ体の神経を支配下に戻していく。どうやら今の態勢は、両肩と足を担がれて運ばれているらしい。両手首と両足首がひっついていて、縄のようなもので縛られているようだ。僕を担いでいる誰かが一歩進むたび僕の体は尻を頂点にしてぶらぶらと揺れた。ゆっくりと目を開く。目に映ったのは曇り空。分厚い黒い雲が空を覆っていた。今にも雨が降り出しそうだ。遠くで雷鳴が聞こえる。
 目を動かすと、昨日はいなかった男が僕を二人がかりで担いでいた。どちらも日焼けした、筋骨隆々の男だ。アシナ以外でこの世界の男に会ったのは初めてだ。二人は黙々と僕を運び、何やら階段を上っているらしい。一番上には太い丸太が縦で置いてあり、二人は僕をそこへ連れて行った。横に担いでいた僕をよいしょと担ぎ直し、一人が僕の腕を、一人が腰だめを抱えて持ち上げる。腕を持っていた男は丸太の上部分から出ていたフックに僕の腕を括っているロープをひっかけた。腰だめを抱えていた男が手を離すと、僕は腕の部分で宙づりになった。ロープが手首にくい込んで痛い。
「お目覚めか、色男」
 右側に立っていた男が話しかけてきた。口を忌々しそうにひん曲げて、僕を親の仇を見るかのような憎しみのこもった目で見ていた。
「昨夜は随分お楽しみだったようだな、え?」
 僕が何か答えるよりも早く、男の振りあげた拳が僕のわき腹に突き刺さった。痛みと衝撃で呼吸が止まる。想像以上の痛みだ。胃から昨日の食事がこみ上げてくる。
「何で貴様みたいな男とクシナダが!」
 怒りにまかせるかのように男は何度も拳を振り上げた。人間サンドバック状態だ。腹を、顔を何度も殴られる。殴られるたび体が風に吹かれる芋虫みたいに揺れた。やれやれ、神様は嘘をついたのか? 痛みもなく死ねると言ってたのに、これじゃ約束が違う。この程度じゃ死ねない。痛いだけだ。
「何やってるの!」
 凛とした声が下から聞こえた。拳の雨が止む。現れたのはクシナダだった。昨日の艶やかな女官衣装とは違い、保温性と耐久性と機能性を重視した東欧かアジアの民族衣装みたいな恰好だった。
「こんなところで油を売ってる暇があるの? もうすぐ来るわよ」
「しかしクシナダ! こいつは、こいつは貴女を!」
「何もしてないわ」
 クシナダが僕の顔に手を当てた。ひんやりした手が気持ちいい。
「この人は私に何もしてない。その前に眠ってしまったから。だからダイコク、その人から離れなさい。それともあなたは、無抵抗の人間を痛めつけることが好きな矮小な男なの? それでもこの村一番の益荒男?」
 クシナダに言われ、ダイコクはしぶしぶ僕から離れる。もう一人の男に「行くぞ」と顎でしめし階段を下りて行く。後にはクシナダと僕が残った。
「ごめんなさい。私の監督不行き届きだったわ」
 そう言いながら、手に持った布で僕の血を拭っていく。切れた口元が沁みた。
「別にあんたのせいってわけじゃないだろ。でもあれだけ怒ってたってことは、あいつはあんたの恋人か何か?」
 痛みに顔をしかめながら言った。言葉から察するに、僕がクシナダと寝たと思いこんでのことだろう。そうなれば考えられるのは恋人か夫だ。
「許嫁よ。親同士が決めたものだけど」
「なるほど。自分が娶るはずの女を奪われたと思った故の怒りか。愛されてるね」
「どうかしら。私がこの村の長の娘だからじゃない? ダイコクは独占欲が強いから、全て自分の思い通り、自分のものにならないと気が済まないのでしょう」
「そりゃ、結婚後は苦労しそうだな」
 それだけじゃないんじゃないかな、と僕は思う。ダイコクの怒りは本物だった。本気でクシナダを思っているからこそではないだろうか。
「な、何だよこれは!」
 右の方から声が聞こえた。昨日のホストの声だ。
「ど、どういうことだ!」「どうなってるの、何のつもり!」
 次々と悲鳴が上がる。少年の泣き声も響いている。首をめぐらせれば、昨日の僕を含めた八人全員が木で組まれた台の上に丸太に繋がれて無理やり立たされていた。今の僕と同じような状態だ。全員が両腕両足を縛られて身動きが取れないでいた。首吊りの処刑台みたいだ。首ではなく腕を吊り上げられているところをみると、処刑ではなく生贄みたいだと考え直す。
「もう、聞いてもいいよな」
 僕の血をふき終えたクシナダに尋ねた。クシナダは無機質な物体を見るような目で僕を見た。
「何?」
「僕たちより先に来た、選ばれた人間はどこへ行った?」
 クシナダは大きく息を吸い込んで自身を落ち着かせるようにしてから答えた。
「死んだわ」
「全員?」
「ええ。誰一人、例外なく」
「理由を聞いていいか? 昨日はこの辺りの質問をはぐらかされたからな」
「昨日も言った通り、あなたたちは神様に選ばれたのよ。人身御供として」
 彼女の言葉が途切れた瞬間、生温かい風が吹き始めた。天気がいよいよ悪くなり、日中のくせに日没のような暗さになってきた。
「人身御供」
 クシナダの言葉を反芻する。
「ええ。私が生まれるずいぶん前、私たちのご先祖様がこの場所に村を築いた。でも、この場所は山の神の縄張りだったの」
 ここに住みたくば年に一度、八人の生贄を捧げよ。
 クシナダの先祖に向かって神はそういったらしい。
「もちろんご先祖様たちは反対し、神を倒そうとしたわ。でも結果は散々たるものだった。神は剣で斬られても槍でついてもすぐに怪我が治ってしまい、殺すどころか傷をつけることすら叶わなかった。反対にご先祖様たちは神によって簡単に喰いちぎられた。人間の数が半分にまで減ったところでご先祖様は完全降伏したわ。それから毎年毎年、村から八人が喰い殺されていった。人が誕生するよりも死ぬ方が多いので、私たちは全滅の危機に陥った。そんな時よ。生贄の儀式の前日、村長の屋敷に八人の人間が突如現れたの」
 当時の村長は八人を拘束し、神に捧げた。
「その後、毎年生贄の儀式の前日に八人の人間が現れるようになったの。ご先祖様たちは自分たちを哀れに思った何かによる供え物だと信じた。なら、神に喰われる前くらい宴を開き、八人を歓迎しようと考えた。自分たちの罪を薄れさせる意味合いもあったのでしょうね。好き放題したのだから義務を果たせ、ということかしら。拘束する際ひどく暴れまわった、というのも関係しているかもしれない。酒で酔わせ、異性と交わらせ疲れさせる。これならそう簡単には起きない。その間にこちらは儀式の準備を進めておけばいい」
 昨日のどんちゃん騒ぎにはこういう側面があったのだ。
「許せ、とは言わないわ。恨めばいい。憎めばいい。甘んじてそれを受け入れる。でも、お願いだから、あなたたちはここで死んでちょうだい」
 そういうクシナダの顔に表情はなかった。可哀そうだな、と思った。何度も同じことを繰り返し、多くの生贄の呪詛や断末魔の声を聞き、精神を守るために心を凍らせてしまったのだろう。
「分かった」
 僕はふうと胸をなでおろした。
「どうしてそんな安らかな顔をしているの?」
 今度はクシナダが尋ねてきた。
「あなた、自分の状況がわかってるの? これから死ぬのよ?」
「分かってる。昨日も言ったはずだ。僕は死ぬために来たんだと。その願いが叶おうとしているだけだ。それに昨日から頭に引っかかっていた疑問も氷解した。思い残すことは何もない」
 生温かい風に生理的嫌悪感を呼び起こすような生臭さが混じり始めた。何かが来る。クシナダもそれに気付いたのか、首を僕が見ている方向へ巡らせた。
 村中央の広場に捧げられている僕らの前には、光も差し込まないような鬱蒼とした森が広がっていた。その奥から風は吹いていた。風に乗って、今度は音が聞こえてきた。枝葉の揺れる音、何か巨大なものが落ち葉や枝、木の根をすり潰しながら這いずっているような音が森に木霊している。「クシナダ! 早く戻れ!」「もうすぐ来るぞ!」と誰かが叫んだ。声からして、あのダイコクたちだろう。
「一つだけ、頼まれてくれるか」
 前方を見据えながら、僕はクシナダに声をかけた。
「僕が死んだら、僕の荷物を墓に埋めて弔ってくれ」
「分かった。必ず」
「頼んだ。さ、もう行けよ。留まるとまずいんだろ」
 クシナダは僕に一度頭を下げ、そのまま振りかえることなく階段を下りて離れて行った。
 他の七人がパニックになって泣き叫ぶのを遠くで聞きながら、僕は森と村の境を凝視していた。風の匂いはいよいよ鼻が曲がるレベルに到達し、這いずる音は不快感となって耳の奥にこべりつく。
 ずるりと森の中から何かが這い出た。それが蛇だと理解するのにしばらくの時間が必要だった。あれだけ騒いでいた生贄が声を上げることも忘れて見入っているのだからどれほどの衝撃か分かろうというものだ。パニック映画に出演していたアナコンダが生まれたての子蛇に見える。
 頭のでかさが、すでに僕が住んでいた六畳一間の空間くらいある。人間二人分を縦に並べたって簡単に丸のみに出来る口のサイズだ。頭が森から十メートルくらい出てきてるのに尻尾はまだ見えない。しかも、この蛇は僕たちが知る蛇とは決定的に違う部分がある。
 首が八つあるのだ。一本目が出てきてすぐに、二本目、三本目と同じ大きさの首が森から這い出てくる様子は圧巻の一言だ。最初は八匹の大蛇が出てきたのかと思ったが、八本の首をまとめたひと際太い胴体が木々をなぎ倒しながら現れた時にようやく八つ首なのだと判明した。
「アシナ、クシナダときて、オロチもいるのか」
 苦笑を浮かべ、切れた口に障って顔をしかめる。僕の国で長く伝えられる、僕にとっては最もなじみ深い神話だ。
 ずるりずるりとオロチは僕たちの前に現れ、長い舌をチロチロと舌なめずりしながら、目の前にいる生贄を楽しそうに見ていた。首を代わる代わる円を描くような動きをして順に巡らせているのをみて、有名な歌手グループのダンスを思い出した。
『おお、おお、これはまた活きの良さそうな』
『ほんにほんに。さて、どれから頂こうや』
 首ごとに勝手なことを話している。脳や意志も八つ別々にあるようだ。
『では、我から頂こう。お先に失礼するよ』
 一本が鎌首をもたげ、家を呑みこもうかというくらい口を大きく開いた。
「ひ、ひいいぃっ!」
 未亡人の悲鳴が響いた。悲鳴は、バクンと顎を閉じられた瞬間掻き消えた。
『ああ美味い。怯える人の肉の、何と美味なことか』
 血のように赤いギョロリとした眼が愉悦に歪んだ。それを隣で見ていた婦人が狂乱した。
「ひ、ひゃぁあああっ! いやぁぁあぁあ!」
 金切り声をあげて、必死で逃げようともがいている。腕の皮がめくれ、鮮血が飛び散るのが見えた。火事場の馬鹿力と言うのか、通常では考えられないほどの力を発揮しているようだ。恐怖が脳のリミッターを外してしまっているらしい。
 それを楽しそうに眺める二本目の首が、舌を伸ばし、婦人の顔を撫でた。
『ほら、頑張れ。もう少しで縄から腕が抜けるぞ? 我の口が届く前にそこから逃れられれば許してやろう』
 血が滑りを良くしたのか、縛られた縄がほどけそうになっている。それを見た他の生贄たちも同じように必死で腕や足をゆすりもがく。
 婦人の腕が縄から抜けた。尻餅をつく無様な着地だが、婦人の顔にひきつった笑みが浮かんでいた。
「や、約束よ。私は抜け出したわ。い、いの、命を助けてくれるんでしょ」
『おお、もちろん。許そう。我が胃袋にはいることを』
 ひきつった顔がバクン、と巨大な口腔内に納められた。
『うむうむ、我は矮小な人の約束も守る慈悲深き神なり』
 満足そうに婦人を喰ったオロチは頷いた。
「た、助けてくれ!」
 その隣のヤクザが後ろに向かって叫んだ。後ろには家屋があり、その陰から村人たちがこちらの様子を震えながら窺っていた。嵐が過ぎるのを待つように固まって、ヤクザを見上げていた。
「頼む! お願いだ! 助けてくれ! 何でもする! 何でもするから早く!」
 彼は叫び続けた。だが村人はその声を無視した。クシナダと同じく、何の感情もこもらない人形のような目でヤクザを見ている。
『可哀そうに。見捨てられたようだの』
「や、止めて、許してくれ。俺が、俺が悪かった」
『何を許せと言うのか? 何が悪かったというのか? これまで貴様が喰らってきたものたちのことかえ? 気にするな。生き物は喰わねばならぬ。生きるために、他者の生を奪わねばならぬ。それは咎では無い。だが覚えておくと良い。強者だからこそ何かを喰うことが許される、ということは、弱者となれば他の何かに喰われる、ということでもあるのだ。このように』
 また顎が閉じられ、命が喰われた。
『弱きものが喰われるは世の定め。だからこそ弱きものは数多く繁殖する。だが繁殖し過ぎれば歪みが生じる。ゆえに繁殖し過ぎたものを我のような強者が間引く。これこそが自然の摂理なのだ』
 そう言って三本目のオロチは高らかに笑った。
『では次は』
 四本目のオロチの目が根暗へ向いた。
「トヨタマ! 助けてくれ! 昨日あんなに愛し合ったじゃないか! そんな俺を見殺しにするのか! 違うだろう? 違うよな? な?」
 ホストが懇願する相手は、家屋の閉じられた戸の向こう、昨日彼の相手をした女官だった。だが女官は動く気配すらない。ただ無感情に彼を格子の向こう側から見上げるだけだ。その眼には昨日のような情熱や愛しさが微塵も込められていない。ホストは一夜限りの嘘だったと悟り、今度は狂ったように笑いだした。唯一の希望が立たれた人間に残されているのは絶望しかない。絶望に身を落としたものは狂うしかなかった。その狂った笑い声もすぐに止んだ。
『さてお次は』
 とうとう、僕の前にオロチの顔が来た。

誤算

「よう」
 僕は気さくに声をかけた。ようやくだ。ようやく、僕の願いが叶う。そんな僕を見て、オロチは器用に首をひねった。
『何だ、貴様は』
「あんたにとっちゃただの餌だ」
『恐ろしくないのか、この我が。憎まぬのか、貴様をここに追いやった者たちが。呪わぬのか、己が身上を』
 先ほどまでの四人とは明らかに対応が違う。さっさと楽になれるものとばかり思っていたから、少しイライラしてきた。
「がたがたうっせえな。さっさと喰って帰れよ。臭いんだよてめえは」
 ひぃっ、と後ろで悲鳴が上がった。神に向かってなんて暴言を、と隠れている村人たちが慄いているが、僕にもう恐れるものはない。
 オロチの首が大きく後ろに下がった。引き絞られた弓矢のようにだ。そして、放たれた頭が巨大な矢じりとなって僕がいた台を根こそぎ吹き飛ばした。宙に放り出された僕はちょっとした滞空時間の後地面に叩きつけられた。これで即死すればよかったものの、全身に走る痛みが皮肉なことに僕の生存を伝えてくれる。
『長よ! 出て来い!』
 僕を睥睨しながらオロチが叫んだ。周囲の空気を震わせる大音量に、アシナは躓きながら飛び出してきた。
「い、いかがなさいましたか?」
 土下座しながら弱々しくアシナは伺った。
『これは何だ』
 長い舌を出し、僕に向けた。せき込みながら僕は見返す。
「なに、と申されましても、貴方様のお望み通りの、贄でございます」
『贄、これが贄とな?』
「は、はい」
『では問おう。貴様は腐ったものを喰うのか?』
「は?」
 突然何を言い出したのかと首をかしげるアシナ。察しの悪さにオロチが苛立ったように声を荒げる。
『貴様はこれまで腐ったものを平気で喰っていたのか、と訊いておる』
「いえ、いえ、そんなことはありませぬ。そんなことをすれば腹を下してしまいます」
『そうだ。腐ったものを喰えば腹を下すは道理。では貴様は、神である我にそんなものを喰わそうとしたのか?』
「め、めっそうもない。もしや、この者に何か問題がありましたでしょうか」
『問題も問題。これは生きてはおらぬ。死人よ。腐っておるのだ。喰う価値すらない塵だ。貴様はそんなものを我に差し出したのだ』
 怒気の籠ったオロチの声に竦み上がるアシナは、地面に頭を擦りつけ「なにとぞ、ご容赦を」と繰り返していた。
「どんなことでも致しますゆえ、どうか怒りをお鎮めください」
『ほう、何でもするとな? その言葉に偽りはないか? 我の怒りを鎮めるために、貴様は何でもするのか?』
「もちろんでございます!」
 オロチの怒りが収まったと嬉々として顔を上げたアシナの表情が固まった。目の前にオロチの大顎が迫っていたからだ。
「ひ」
 それがアシナの最後の言葉となった。
『おお、愚かな人にしては珍しく、約定を守ったな。確かに貴様は我の怒りを納めたぞ』
 オロチが再び声を上げて笑った。
「父上!」
 近くの家屋の戸が壊れんばかりの勢いで開いた。中から飛び出してきたのはクシナダだ。手に木の棒を持ち、オロチに飛びかかろうとしている。その彼女の細い体を、ダイコクたちが後ろから羽交い締めにして止めていた。
「よせクシナダ!」
「離せ! 奴は、奴は父を!」
「神を怒らせる気か! 貴女は村を滅ぼすつもりか!」
 そうたしなめられ、歯ぎしりをかみながらもクシナダは止まった。振りあげた手を震わせながら下ろす。どうしようもない衝動を無理やり殺し、それでも抑えきれない感情を込めてオロチをにらみつける。殺意すらこもった目線をオロチは心地いいシャワーのように受け止めた。
『父、とな。今我が喰らった村の長の娘か。ならば次の長は貴様だな』
 長い首をくねらせて、オロチはクシナダの前に顔を近づけた。ダイコクたちが腰を抜かし怯えて逃げる中、クシナダは逃げ出すこともなく気丈にも仁王立ちでオロチと対峙した。
『では次の長よ。貴様に命ずる。我の怒りは貴様の父の命で収まった。だが、腐ったものを出された不快さは消えぬ。七日後、新たに贄を捧げよ』
「何、ですって…!」
 クシナダが絶句した。
『当然であろう。口直しが必要だ。むしろ七日も与えてやった我の慈悲深さに感謝するがいい。断ればどうなるかわかっておろうな。ここで貴様ら全員を喰い殺してやっても良いのだ。だがそれでは、翌年からここで我に贄を捧げる者が居なくなってしまうでな』
 人がまるで畜産だ。この蛇は頭が良い。
「それでは、それでは我らは飼い殺しじゃないの!」
 激高したクシナダがオロチに殴りかかる。が、オロチはそれをひょいとかわし、強烈なカウンター薙ぎ払いを彼女に叩きつけた。僕の時より手加減されているようだが、それでも彼女の小さな体が地面と平行に飛び、後ろで怯えていたダイコクたちを巻き込んでなぎ倒していく。ボウリングみたいだ。クシナダはそれ以降立ちあがってくる様子がない。死んだのだろうか。起き上ったダイコクが慌てて介抱している。
『愚かな。知らなんだか? 貴様らは我が飼うているようなものなのだよ。では、七日後、楽しみにしておるぞ』
 オロチの首が一斉にまわれ右して、森の奥へと帰っていった。

 オロチが帰った後の村は絶望に満ちていた。誰もが頭を抱え、身を寄せ合って泣いている。倒れたままだった僕はゆっくりと体を起こす。関節がひどく軋み痛みを訴えてくるが、動けないほどではなかった。敏感になっている村人たちの感覚が僕の動きを察知した。ほぼ全員の視線が僕に集まる。
「お、お前のせいだ」
 誰かが僕に向かって言った。呆然としていた瞳が色を取り戻した。
「そうだ。あいつのせいだ」
「アシナ様が喰われたのもあいつのせいだ」
「こんなことになったのは全てあいつのせいだ」
「いつも通り、何事もなく終わるはずだったじゃないか」
「あいつが贄にならなかったからだ!」
 よくもまあそんな好き勝手なことを言えるな、と感心する。それではまるで、僕が死ななかった、喰われなかったのがいけないことのようではないか。まあ、僕としても不本意な結果である。ここまで死ねないとなると、何者かの陰謀を感じる。あの神を名乗る女が、僕の運命をいたずらに操ってるんじゃないかと邪推してしまう。
「どう責任とってくれるんだ。ええっ!」
 ダイコクと一緒に僕を運んでいた男が、僕の前に立った。その手には農作業に使う鍬が握られていた。その後ろから、血気盛んそうな若い衆が、手にそこらの棒や鋤を持って現れ、僕を取り囲んだ。
「お前のせいで、儀式はめちゃめちゃだ。アシナ様も喰われてしまった」
「そりゃお気の毒に」
 ゆっくりと立ち上がり、足についた砂埃を縛られたままの手で払う。
「僕としても甚だ遺憾だ。が、あのデカイ蛇のお気に召さなかったんだからしょうがない。僕のせいではないだろうに」
「てめえ!」
「何て言い草だ! 黙って聞いてりゃ好き放題言いやがって!」
「どうせ生贄にもなりゃしねえ役立たずだ。袋叩きにして殺してしまえ!」
「おお!」
 全員の目が血走っていた。オロチの恐怖を一時でも忘れたいがために、目の前の僕を標的にして暴れようということだろう。どこの世界でも一緒だ。過度のストレスのはけ口はいつだって自分たちより弱い立場へと向けられる。僕はそれを甘んじて受け入れようと覚悟し目をつむった。脳天が鍬で砕かれるのを待っていた。
「止めて!」
 制止の叫びが響いた。うっすら目を開くと、声のした方にはダイコクの肩で支えられたクシナダがいた。腹を押さえ、片足を引きずりながらこちらに近づいてくる。
「なぜ止めるクシナダ!」
「彼を殺してどうなるの? 今は無意味なことに時間を費やしている暇はないわ。これからどうするか考えないと」
 ダイコクの肩から体を離し、クシナダは自力で立った。家屋から、残った村人たちが現れる。蚊帳の外である僕を中心にして集まらなくてもいいと思うのだが、どうも言いだせる雰囲気じゃないので大人しく黙っていることにする。
「儀式が上手くいかなかったこともそうだけど、七日後にまた神が現れるというのもこれまで無かったことよ。また人が送られてくるとは限らない。今までが上手くいきすぎたのよ」
「しかし、ならどうする。クシナダ、貴女はまさか、我々からも贄を出そうと言うのではないだろうな!」
 人が喰われるのは良くて、自分たちに矛先が向くのは嫌なのか。何て自分勝手な野郎どもだ。その問いにクシナダは首を振り
「そんなことしない。したくない。そして贄も出したくない。もう限界よ。今ので分かった。身内を失って初めて分かった。こんな儀式間違ってる。だから村長代理として提案します。この村を棄て、新天地を目指そう?」
 どよめきが広がる中、クシナダがたたみかけるように続ける。
「これからも儀式が上手くいかないことが起こるかもしれない。そもそもこれらすべては神の気まぐれなのよ。いつ全員差し出せと言われるか・・・。だから、また被害者が出る前に新天地へ移りましょう。季節も丁度いいわ。今から移動して、家を建てれば冬に間に合わせることができるでしょう」
「し、しかし、今年植えた作物はどうするんだ。捨てて行けというのか」
 まるで我が子を捨てろと言われたような絶望に歪んだ顔で一人が訊いた。事実、精魂込めて作った作物や畑は我が子同然なのだろう。クシナダは悲しげな表情で目を伏せた。
「そうね、そうするしか、ないのよね」
 クシナダの苦悩や不安は、それを見てとった村の衆にも伝染していく。彼らは口々に不安材料を吐きだした。
「なら、食料はどうするんだ。今の蓄えだけで大丈夫なのか?」
「それに、子どもはどうすんだ。うちは今年生まれたばかりなんだ。とてもじゃないが移動についていけない」
「それならうちには足の悪いばあさんがいる」
「うちはガキが五人だ。今年の収穫が見込めねえなら、どうやって飯を食わして行きゃいいんだ」
 全員がやいのやいのと年下のクシナダに不平をぶつける。いくらしっかりしていそうな彼女であろうと、年のころはまだ十六、七の子どもだ。そんな責任背負えるわけがない。しかも今父親を亡くしたばかりなのだ。そんな子どもに頼り切りで自分は何も考えようとせず、困れば全て人のせいにしようとする大人に嫌気がさした。姉さん。どこの世界でも大人は同じだよ。
「みっともないね・・・大の大人が女の子に寄ってたかって」
 正直な感想が口から飛び出た。全員の視線が僕に吸い寄せられ、今度は僕が彼らの不安のはけ口となった。
「何だと貴様!」
「貴様なんぞに俺たちの何がわかる!」
「知るかそんなこと」
 お決まりの被害者面発言を僕は切って捨てた。知るわけない。会って一日そこらの人間のことなど分かるわけがない。
「ただ一つわかってるのは、あんたらが最低だということだ」
 村の衆全員が猫だましを喰らったように声もあげられずに呆けた。
「だってそうだろう? 善後策を出した女の子にそれは無理、あれは無理と不平不満ばかりぶつける。今、父親を亡くして悲しいはずの女の子にだ。どうかしてるぜあんたら」
 僕は嗤った。気まずそうな顔で皆がクシナダの顔を見る。我に返った一人がクシナダを意識しながら言い訳をする。
「し、仕方無いではないか! 我らとて生きねばならんのだ! 村の身内と他人の貴様ら、どちらを取るかと聞かれれば迷うことなく身内を取る! 貴様とて同じ立場に立てば同じ選択をするはずだ。確かにクシナダにきつく当たってしまったが、それも家族を守るためだ。必死なんだ! 生きるために! 貴様に我らの行為を非難されるいわれはない!」
 非難されるいわれはないときたか。今まさに生贄に捧げようとした人間に対して。こいつらの精神構造はどうなってるんだ。呆れることすら馬鹿馬鹿しくて楽しくなってきた。
「そうだな。僕だってあんたらのことなどどうでもいい」
 だいたい、僕は死にに来たんだと何度説明すればいいのだろうか。まあ彼らには話していないのだけど。
「なら余計な口を挟むな!」
「大体、アシナ様が死んだのは貴様のせいではないか!」
「何なんだこいつ。やっぱりここで…」
「止めなさい!」
 クシナダが再度怒鳴った。再び僕を襲おうとした村の衆は忌々しげに睨みながらも引き下がる。僕と彼らの間をクシナダが割って入った。彼らを目で制した後、僕に向き直る。
「あなたも、余計な言動は慎んで」
「悪いね。言いたいことは溜め込まずに言うたちなんだ」
 いつ死んでも後悔しないようにね、と心の中で付け足す。クシナダは僕の真意を測るように僕の顔を見て、フイと顔を逸らした。柏手を二回打ち、みんなの注目を集める。
「とりあえず食事を取りましょう。腹が減っていては何もできないわ。考えも悪い方へばっかり向かう。まず腹を満たして、それからどうするか皆で案を出し合いましょう。まだ七日ある」
 その提案に不承不承、といった感じで皆が頷き、散開していく。
「なあクシナダ、こいつと、あいつらどうする?」
 各々家に戻る中、ダイコクが僕を指差し、次に後ろをクイと親指で指した。あいつら? 後ろを振り向く。そこにはいまだ生贄の台に括りつけられたままの三人がいた。少年少女と、あのおっさんだ。オロチは僕以降の人間を喰わずに帰ったようだ。なぜだ。あの蛇は、まずいものを出されて食事の途中で席を立つような、美食家気取りには見えなかったが。すこし引っかかりを覚えつつも、今はそれ以上深く考えるのをやめた。
「そうね、大広間に連れて行って。あと彼らにも食事を用意してあげて」
「冗談だろ? これから食料は重要になってくるんだろ? どうしてこいつらにまで」
「移動することになったら、彼らにも荷物を運んでもらうわ。人手は多い方がいい」
「でも、素直に言うことを聞くかな」
「その心配は不要よ。そうしなきゃ彼らだって死ぬのだから。とにかく、彼らの縄を解いて、案内してあげて。逃げようとするなら止めなくてもいいわ。放っておきなさい。どうせどこかで野垂れ死ぬだけよ。そこまで面倒見切れないわ」
 指示されたダイコクが数人を伴って台の方へ駆けていく。後には僕とクシナダが残った。
「あなたは、残ってくれる?」
「僕?」
 意外な言葉に目を丸くした。
「良いのか? 僕はアシナが死んだ原因だぞ。てっきり憎まれているものと思ってた」
 そう尋ねると「憎いわ」と返答があった。
「あなたが悪いわけじゃない。本当に悪いのは私たちと神よ。あなたを憎むのは筋違いも甚だしいのはわかってる。わかってるのよ。でもこの感情はどうしようもない。吐きそうなほどの激情が私の中で渦巻いているのは確か。そして、はけ口にあなたはちょうどいいの」
 胸を押さえて彼女は言った。
「それでも、あなたに残ってもらいたい理由がある。あなたが喰われなかったのには、何か意味があるのだと私は思ってるから」
「意味? 気まぐれな蛇の飯の好き嫌いに意味なんてあるのか?」
「あるわ。それさえ分かれば、私たちは生贄を出さなくても喰われずにすむかもしれない。父の死も無駄には出来ない。してはならないのよ」
 気丈な女だ。今さっき身内を亡くしたのに、冷静に事態を処理しようとしている。それとも、何かしていないと悲しすぎて壊れてしまうのがわかっているからだろうか。忙殺されるほど仕事があるというのも、それはそれで幸せなのかもしれない。
「だから、あなたにはどうしても生きていてもらうわ。死ぬことなんて許さない。最低でもそれがわかるまでは。それさえわかれば、願いどおり、私があなたを殺してあげるわ」
 彼女は村人たちの元へ戻ろうと踵を返す。一歩、二歩と言ったところでその歩を止めた。
「ああ、そうだ。言い忘れてたけど」
 半身だけこちらを振り返った。
「ありがとう。気遣ってくれて」
「何のことだ」
「皆に言ってくれたじゃない、一番つらいのは私なのにって。皮肉なものね。父を亡くした私のことを気にしてくれたのが、あなただけだったなんて」
 ああ、と思いだす。彼らに食ってかかった時のことを言ってるのか。
「気にすることじゃない。言ったはずだ。僕は言いたいことを言うだけだと。あんたに気を使ったわけじゃない」
「それでもよ。臆病で、意地汚くて、それを隠そうとみんなに威張り散らして、とても良い父とは言えなかったし、皆にとっても良い長じゃなかった。でもたった一人の父だった。正直なところ、泣きたいのはこっちだって言ってやりたかった」
「叫べばよかったじゃないか。こういう時にしっかりしない男に価値などない。あんたが頼ればみんな助けてくれたんじゃないか?」
 そういうとクシナダは微笑んだ。初めて笑顔を見た気がする。年相応のあどけない笑顔だ。
「今度からそうするわ」
 視線を前に戻し、今度こそ彼女は村人たちの元へ戻っていった。
「おい」
 ドスのきいた声が背後から聞こえた。振り返ると、不機嫌そうな顔でダイコクが立っていた。その後ろには怯えた少女とうつむいたままの少年と、彼女らを気遣うおっさんがいた。さすがのおっさんも、目の前で泣く女、子どもは放っておけなかったようだ。大人の良識が残っていたのだなと感心した。無事だったのはこの三人か。死にたいはずの人間が生き残るなんて笑える。意外と、世の中そういうものなのかもしれない。
「さっさと来い。お前もこっちだ」
 ダイコクが先を歩きだす。
「クシナダが止めなきゃ、俺がこいつをぶち殺してやるのに」
 ぶつぶつと物騒なことを言いながらきちんと案内してくれる辺り、意外に良いやつなのかもしれない。そんなことを考えながら、再び僕らは呼び出された広間に案内された。昨日とは打って変わって外枠は外されていた。
「ここで待ってろ」
 と言ってダイコクは僕たちを部屋に押し込み、去っていった。今度は戸が閉められることはなかった。出て行きたければ好きにしろということらしい。
 さて、これからどうするかな。クシナダの義理もある。僕はとりあえずこの事態に付き合ってみるつもりだ。彼女は僕の何かがオロチに嫌悪感を抱かせたのだと推測していた。それを自分なりに考えてみる。あれをどうにかするのが、苦痛のない、後処理も万全な死への一番の近道だ。
 まずは自分の体を見回してみる。ただの黒いシャツにジーンズ、スニーカーだ。
「そういや、デニムの藍色は蛇が嫌うんだったか?」
 昔そんな話を聞いた覚えがある。ガラガラヘビに噛まれないために、蛇が嫌う染料でデニムを染めたところ、たまたま藍色になったとか何とか。喰われたメンバーは素っ裸か、この世界の民族衣装みたいな簡素な着物に着替えさせられていた。何か関係あるかもしれない。
「あの、大丈夫だったかい?」
 おっさんが俺に声をかけてきた。
「大きな蛇にやられていたけれど」
「ああ。問題ない。残念なことにな」
 おどけてそう言う。おっさんは苦笑した。僕もおっさんと同じく自殺志願者だ。無事を喜び合うってのもおかしな話だ。
 僕は視線を蹲る二人に向けた。少年は鼻をすすってはいるものの泣きやんでいて落ち着いており、女はその子どもをあやすだけの気力は回復していた。
「落ち着いたか?」
 声をかけるとまず女の方が振り向いた。
「はい」
 こくりと頷く。力のない返事だったが、話せる状態なのは僥倖だ。
「あんた、名前は?」
 当たり障りのないところから尋ねる。
「桐谷、月世です」
 オドオドしながら答えた。振り向いた彼女を見て、僕は彼女の印象を改めざるを得なかった。あの薄暗い部屋では良くわからなかったが、日の光のあたる明るい場所で見ると、癖のある髪の隙間からのぞく顔はえらく整っている。垂れ気味の目は愛嬌があり、少し厚めのふっくらした唇は見るからに柔らかそうだ。チノパンに無地のTシャツという大人しい服装は起伏に富んだ我が侭なボディラインを浮かび上がらせ、スタイルの良さを強調している。なぜ昨日、彼女に地味などという評価をつけたのかさっぱり理解できない。
年は、高校生か大学生くらいだろうか。一番ファッションにこだわる時期だろうに、どうしてだろう? 彼女もどうせ死ぬから、ということで適当な服装になったのだろうか。いや、だからこそ一張羅を着るんじゃいないだろうか。唯一の洒落っ気は耳のピアスくらいだ。銀細工だろうか、えらく凝ったつくりだ。
 ふと、ずっと気になっていたことを思い出す。僕は死ぬために来たが、他の人たちはどうなんだろうか。
「一つきいてもいい?」
「な、何でしょう?」
「あんたをここに連れてきたのは、神を名乗る奴? パーカーにジーンズの、多分女」
「えっと、はい。そうです。顔までは分からなかったけど」
「どうしてこっちに来ようと思ったの?」
 そう尋ねると、質問の意図がわからないのか、桐谷は首を捻った。
「どういう、意味でしょう。皆さん同じ理由でここに来たのではないんですか?」
 僕は自分がどういう経緯で神に連れてきてもらったかを伝えた。
「そんな、あなたは、死ぬためにここに来たんですか?」
 事情を聴き終えた桐谷が呻くように言った。
「そうだ。だから、蛇に食われそうになっても諦めはついた。でも、その話を聞く限りあんたやそいつ、喰われた四人はそうでもなさそうだ。死ぬために来た人間があんな飲み食いして騒ぐわけがない。悲観さも全くなかったからな」
 ならば一体何なのか。
「あんた、この部屋で別れた後はその少年と婦人と未亡人と一緒にいたのか?」
「あ、はい。皆さん男性陣がいた部屋の隣、だと思います。騒ぎ声が聞こえてたので。そこで食事を頂きました」
「他の人の様子はどうだった?」
「この子は少し食事をした後、眠くなったのかその場で寝てしまいました。寝室に連れていく、と言ってお食事を運んでいた女性が二人がかりで抱きかかえて運んで行くのを見た後は分かりません。あのおばさんは、料理の味付けが悪いとかいろいろ文句をここの女性たちにぶつけてました。あの奥さんは、その、すごく素敵な男性に誘われて、嬉しそうに連れられてそのままどこかに・・・」
 桐谷が口をつぐんだ。だが言いたいことはわかる。なるほど、女性陣の方でも同じようなことがあったようだ。
「私も眠くなってきたので部屋を出て、あてがわれた寝室に向かいました。だからその後についてはわかりません」
「話とかはした? 誰でもいい。死んだ連中なら誰でも」
「いえ、全然。色々あって疲れてましたから、誰かと話す気力もありませんでした」
 異世界に飛ばされたというのは結構な出来事だ。疲れもする。となると、死んでしまった人間の事情は永遠に分からないまま、ということになった。
「あ」
 ふとおっさんが何かを思い出したかのように呟く。僕たちの視線がおっさんに向いた。
「いや、どこかで見たと思ったんだけど、思い出したよ」
「何を?」
「あの死んだおばさんのことさ。頭取だよ。銀行の。テレビと、後個人的に見かけたことがある」
 おっさんが個人的に、と言った時に顔をくしゃりと歪めて笑った。その個人的な部分はどうもおっさんの嫌な過去のようだ。
「そういえば」
 おっさんに続いて、桐谷が口を開いた。
「あの怖そうな人と、ホストっぽい人も、テレビで見た気がする」
「本当か? どういう内容で?」
「確か、ニュースです。うん。思い出した。あのホストっぽい人、詐欺だか何かで。それに、あの怖い人も何かの事件、麻薬密売だったような気がしますが、それで容疑者として指名手配されてました」
「そうそう。頭取の方も、賄賂だか何だかは忘れてしまったが取引法違反の容疑が掛かっていたはずだ。本人は否定していたけどね。あの女性も、旦那を殺害したとかでニュースになってたんじゃないかな。保険金目当てで。心神喪失が認められて無罪になったって、一時凄い騒いだことあったけど、その時の容疑者に良く似てる」
 偶然だろうか。死んだ四人が種類は違えど犯罪者、容疑者として報道されている。
「で、最初の質問に戻るが、あんたはどうしてこの世界に来た? 神に何て言われた?」
「私は…」
 途端、桐谷の口が重くなった。よほど言いにくい、言いたくないことらしい。そこまで言い渋るのを、無理に訊くことはない。ので、おっさんの方に水を向けてみた。
「あんたはどうだ?」
「私かい?」
 おっさんは自分を指差して唇をゆがめた。
「良ければ教えてくれないか。どうせ時間があるし、暇だ。自己紹介交じりにどうだろうか。いつまでもあんたとかおっさんとか呼ぶのも失礼だろ?」
「あんたはともかく、おっさん、とは呼ばれてないんじゃないかな。まあ間違いなくおっさんではあるんだけど」
 そうか、おっさんと呼んでいたのは心の中の便宜上か。
「では、自己紹介なるものをさせていただこうか」
 咳払いをして、おっさんは語りだした。
「私は山里幸彦。今年丁度四十だ。以前は金属加工とかを請け負う小さな工場を経営してたんだが、この不況で仕事が無くなってね。潰れたんだ。借金の形に工場は取られ、妻とも離婚、無一文の宿なしになってしまった。再就職先も決まらず、もう死ぬしかないなと途方に暮れていた時に神にあった」
 やはりおっさん、いや、山里も出会っていたのか。
「神は、私に命をくれるなら、残された家族の生活を援助しようと申し出た。それだけの価値が私の死にはあると。非合法、犯罪に関わることかもと疑ったのだが、私が妻や子にしてやれることはもうない。今更命は惜しくはないので、その話に乗った。後は君たちと同じだ」
 蛇の生贄にされるとは思ってもみなかったけど、と締めくくり、どうぞ、と手で僕を促した。
「さっき話した通り、僕も、山里さんと同じ自殺志願者だ。ただ、僕にはもう家族はいない。唯一の家族である姉は四年前に死んだ。下手に自殺すると周りの人に迷惑がかかる、かといってこれ以上生きていても仕方ないと思っていた時に自称・神に会った。苦しまずに死を与え、墓も用意されて後処理もばっちりという話だったんだが、どういうわけか怪我だらけでまだ生きてる」
「…あの、あなたの名前は?」
桐谷が気付いた。意図的に僕は話さないようにしてたのだが。気にしすぎと言えばそうだし、それが何? と、誰も気にはしないとも思うのだけど。この世界の、これだけのパーツが揃っている状況で、あまりに僕の名前はピッタリ過ぎた。
「タケルだ」
 わざと下の名前だけを出した。不思議に思われるかと思ったが
「良い名前じゃないか」
「そりゃどうも」
 山里が僕の名前を褒めた。それ以降、追及される様子はないのでほっとした。
命名者は姉さんだ。
『生まれてすぐの貴方を見たときにふっと頭に浮かんだの。この子はタケルだって。ドラマか何かで聞いて、カッコいい俳優さんの名前だったかな。きっと貴方も男前になると思って。それに調べてみたらとってもいい意味をもつ名前なの。その名の通り、みんなに感謝されるような、カッコよくて尊い人になってね』
子どもの頃に、眠る前のお話代わりにきかされてきたけれど、残念ながら姉さんの願いは叶わない。それだけが悔いと言えば悔いだ。
「結局、感謝されることなんてなかったしな」
 口に出して自嘲して、悔いを和らげようとしてみた。それで和らぐわけはなく、逆に幸せだったころの記憶が蘇り始末に負えなくなる。
「あなたも、山里さんも、あっちの世界に未練はないんですね」
「も、ってことは、桐谷さんも?」
 尋ねると、弱々しく彼女は頷いた。死にたい、とは少し違いますが、と前置きして
「私は、逃げてきたんです。あちらの世界から」
「逃げる? 何から」
 少し口籠った後、重々しく桐谷は口を開いた。
「自分の罪からです。私は、この手で父を殺しました」
 桐谷はじっと自身の両手を見つめた。その手にまだ感触や、血の跡や、その時の情景が残っているかのようだ。
「父は、ひどい人でした。何かと暴力を振るう典型的な駄目親父です。母は気付いた時にはもういませんでした。死んだのか、父の暴力に耐えかねて出て行ったのか、それすらもわかりません」
「それは…学校や、他の親戚とかに頼ることはできなかったのかい?」
 山里のもっともな質問に桐谷は首を振った。
「頼ったこともありました。ですが、父は言葉巧みに先生や親せき連中を納得させ、私を連れ帰りました。一流企業に勤め、社会的信用もある人でしたから、誰もが被害者である私よりも父を信じました。父も世間を納得させる言葉や態度を知っていました。高校まで通わせてくれたのもその一環でしょう。帰った家で待っていたのは反省した父ではなく、更に酷い虐待でした。次は殺すと包丁を突き付けられて以降、私は人に頼るのを止めました。もう自分の人生は終わりだと、諦めて生きていました。
ある日のことです。学校から家に帰ってきた私が着替えていると、突然部屋に父が入ってきました」
桐谷はぶるりと体を震わせ、両手で自分の体を抱きしめた。
「自分で言うのもなんですが、高校入学ごろから、体が急に成長し始めました。そんな私の体を舐めるように見つめ、突然飛びかかってきたんです。性の知識はありましたので、これから何をされるかわかりました。必死に抵抗して、逃げて、気づけば父は血だまりの中で倒れ、私の手には包丁がありました。いつかの、私を脅した包丁でした」
 彼女を脅した包丁が自分の命を奪うとはまさか思わなかっただろうな。もちろん同情する気はさらさらない。
「最初に心に浮かんだのは、後悔でも罪悪感でもなく、安堵でした。悲しいどころか、嬉しくすらあったんです。襲われて初めて、反抗心が生まれました。この人の好きにさせてたまるかって、こんなの嫌だって、私の中にこんな強い感情があったことが嬉しかったんです」
 うつむく桐谷。誰も声をかけられなかった。彼女を非難することは簡単だ。僕たちの世界のルールを破ったのだから。だが、一概にそれが正しいとは僕は思わない。ルールの網を潜り抜けてあくどいことをする人間を僕はよく知っている。
「捕まりたくなかった。せっかく自由になれたのに、これからやっと普通に生きていけると思ったのに、私の人生は終わったも同然だなんて、それも自分を虐げてきた人間のせいでなんて耐えられなかった。どこでもいいから逃げたかった。そこに、神様が現れたんです。どんな犠牲を払っても、ここから逃げたいのかって。あの場所よりひどい場所なんて無いと思ったから、私は逃げることを選択し、ここに来ました」
飛び込んだ先は蛇の餌場だったわけか。何とも報われない話だ。しかしあの神は蛇以上に残酷な奴だ。精神の不安定な人間を騙すなんて、詐欺もいいところだ。連れて行くなら、桐谷の父親を連れていけばよかったのだ。その方がよほどためになるだろうに。神が僕たちを選んだ基準がわからなくなってきた。
桐谷の話が終ったところで、僕たちの視線が子どもに集中した。
「名前、言えるか?」
 尋ねると、やや時間があって「斑鳩スクナ。十三、中学二年」と返答があった。
「斑鳩君、は、何かそういうのあったかい? 逃げたいとか、死にたいとか」
 山里が穏やかに尋ねる。斑鳩は記憶を探るように宙を見つめ、そして、狂ったように笑い出した。
「逃げたいと思ったこと? 死にたいと思ったこと? あったよ。たくさんあった。これまで腐るほど大量に。来る日も来る日も机に向かって勉強テスト勉強の毎日だ。学校へ行けば敵しかいない。敵意と嫌悪感丸出しの連中はまだ可愛げがあったよ。笑顔の裏で人を蹴落とす算段をしている奴らよりも数倍な。先生はテストの点数で人格を評価して、低い人間は人権がないように扱われる。病院に送られた人間、自殺未遂の人間が出ることなんて当たり前、しかも、みんな嬉しそうにするんだ。ライバルが減ったからって、枠空いたからって。地獄だったよ。逃げたくなるのは当たり前じゃないか!」
 頭をかきむしり、斑鳩少年はうずくまった。
「なんだよ、俺が何したんだよ。どうしていつもいつも俺ばっかりがこんな目に遭うんだよ。化け物に襲われるなんて聞いてねえよ」
くぐもった嗚咽が広間に響く。桐谷と山里があわてて彼の背を撫でて落ち着かせようとしていた。そのそばで、僕は考えていた。中学二年、ということは、その狂った場所で一年過ごしてるということだ。一年間は何もなくて、二年目で何かあったと考えるのが普通だろう。もしかしたら、彼自身がいじめでもうけていたか、はたまたその逆で、被害者を出したか。
 まあいいさ。詮索する気も必要性もない。欲しい情報は集まった。

 しばらくして、ダイコクたちが料理を運んできてくれた。おにぎりが二つに水という、昨日のごちそうとは比べることもできないほど質素な料理だったが、目にした途端腹が鳴った。そう言えば起きてから何も口にしていないことに気づく。不思議なもんだ。どうしたって腹は減る。死人みたいな男でも、目を開いて息をしている分には喰いたい、という本能が働く。むさぼるようにしておにぎりにかぶりつき、竹筒に入っていた水をがぶ飲みした。桐谷と山里も食欲は何とかあるようだ。斑鳩も、桐谷に励まされるように食事をゆっくりとではあるが取っている。
 食事、と言っても十分程度の時間ではあった。終わると同時にタイミング良くクシナダが一人で現れた。桐谷が斑鳩をかばうよう抱きかかえて後ずさる。確かに、自身がされたことを考えれば怯えもする。
 部屋に入ったクシナダは、その場に土下座し頭を深々と下げた。その姿に桐谷も山里も目をまん丸にしている。
「許されるとは思っていません。ですが一言、謝らせてください」
 申し訳ありません、とクシナダ。
「それは、もういいんです。私も自分が生きるために、人一人殺してますから」
 「誰かを攻める権利などありません」と自嘲気味に桐谷が言った。
「私も、どうせ死ぬつもりだった。怖かったは怖かったが、なに、妻と子どもに恨まれるより恐ろしいものなどありはしない」
 山里が笑った。俺も似たようなものだと伝えておく。クシナダは無言で、深く深く頭を下げた。震えているのは、泣いているからだろうか。しばらくそうしていた後、鼻をすすってクシナダが顔をあげた。
「私がここに来たのは、あなた方の今後を確認するためです」
「確認? 一週間後の蛇の餌にする気なんじゃ」
 桐谷の疑問はもっともだ。嫌がったのは僕だけなのだから、自分や斑鳩、山里にはまだ餌の役目は果たせるはずだ。その質問にクシナダは首を横に振った。
「いえ、もう人身御供は行いません。先ほどの集まりで、この村を棄て、新天地へ向かうことが決まりました。今回の件で、気まぐれでいつ滅ぼされるかと怯えるよりも、一か八か新たな土地を目指す方が良いと。ですので、あなた方を生贄にすることはもうありません」
 それを聞いて、桐谷はほっとした様に緊張を緩めた。
「それで、私たちの今後を確認と言うと、どういうことかな」
 今度は山里が尋ねた。
「はい。私たちと共に行くか、別れるかを確認したいのです」
 クシナダが僕たちの顔を見渡す。
「先ほどもお伝えしましたように、私たちはここから新天地を目指しますが、あなた方はどうされるのかと」
 どうするもこうするも、ノープラン極まりない状態なんだが。
「…もしかして、元の世界に戻られたりはしませんか?」
 思案のために黙っていたら、期待するかのようにクシナダが訊いてきた。
「もしそうなのであれば、厚かましいのは重々承知でお願いします。村人も一緒に連れて行ってください。全員が無理なら、せめて子どもたちだけでも」
 お願いします。とクシナダは床に擦りつけんばかりに頭を下げた。山里も桐谷も気まずそうに顔を見合わせた。自分たちを騙したことは腹立たしいが、それも全て村人全員の命がかかっていたためだと訊かされると怒るに怒れない。それほど必死だったのだ。血を吐くような思いを込めた願いが叶わないとわかっているから、二人とも返事が出来なかった。
「何て言われようが無理なんだよ」
 だから僕がはっきりと言った。
「僕たちだって、どうやってここに来たのかわかってないんだ。あんただって言ってただろう。僕たちのことを、神に選ばれた人間だって。てっきり知ってるもんだと思ってたよ」
「それは、習慣的にそう呼んでいただけで。私たちはそんな理由があったなんて知らなかった。多分、父も知らなかったと思う」
 自分たちを助けるための生贄=神の思し召し、か。なんとも安直だな。
「これまで喰われた人間も、僕たちの世界から連れていかれた口だろう。僕たちのような自殺志願者であったり、元の世界にいたくない理由がある人間が選ばれているみたいだ」
「もしかしたら、あっちの世界でまだ捕まっていない指名手配中の人間は、こっちで死んでいるかもしれないね」
 山里が言った。
「神は管理者、とも名乗った。世界の管理をするために、社会を脅かすような犯罪者をこちらに放り込んでいたのかもしれない」
 そういえば、と神との会話を思い出す。異界に人を移すのは、古本屋のシステムのようなものだと。世界が不要になった人を神に預け、神がその人を必要な世界へ運ぶ。そのことを皆に話すと、全員の納得を得た。
「そうなると、こっちの世界へは一方通行と考えるしかないですね。あちらの世界からは不要と判断されたのですから」
 桐谷が泣き疲れて眠ってしまった斑鳩の頭を撫でた。
「諦めるのは、まだ早いんじゃないかな。あの神様にもう一度会うことが出来れば戻れるかもしれない。他にも何か方法があるかもしれないし。とにかく、生きてれば活路は開けるものだよ」
 私が言うのもなんだけど、と山里は苦笑した。
「こんなわけで、むしろ僕たちの方がどうすればいいか思い悩んでいるくらいだ」
「そう、なのですか・・・」
クシナダが大きく肩を落とす。しかしすぐさま彼女は首を振り、顔をあげた。頭を切り替えたようだ。いつまでも落ち込んでいる時間はないと理解していた。
「わかりました。では、改めてお聞きします。あなた方はこれからどうなさいますか?」
 僕たちはお互いに顔を見合わせた。
「言っておくけど、あなたには絶対来てもらうわよ」
 クシナダが僕を横目で睨んだ。わかってるよ、と苦笑しながら言葉を返す。
「私、ついていきます」
 桐谷が言った。
「まだ死にたくない、このままでは死ぬに死ねないんです。父親を殺してまで得たものが化け物の食糧だなんて認められません」
「じゃあ、私ももう少しお供させてくれ」
 挙手しながら言ったのは山里だ。
「ここであったのも多生の縁だ。子どもを放ったまま自分だけが楽になる、なんてのは大人として少しカッコ悪いしね」
 優しい目で眠る斑鳩を見つめる。彼も子どものいる身だ。それを思い出したのかもしれない。
「では、全員私たちと共に来る、ということでよろしいですね」
 クシナダが見渡した。斑鳩の意見は聞いてないが、多分一緒に行くというだろう。
「では早速作業を手伝ってください。時間があまりありませんので」
斑鳩に毛布をかぶせて寝かせておき、僕たちは彼女に連れられて外に出た。

 外では、すでに馬や牛に荷車を取りつけて、荷物を載せている村人たちがいた。外に出てきた俺たちに気付いた村人たちは、一度敵意の籠った目を向けた後、ふいと視線を逸らし、こちらの存在を完全に無いものとして作業に戻った。
「あまり歓迎されてないようだね」
 山里が言った。当然だろうな。俺たちが一緒に行くということは、それだけ食料が減るということだ。それにきっと、自分たちがこんな目に合っているのは僕たちのせいだ、なのになぜこいつらの世話までしなければならないんだ、とか考えているんだろう。被害者意識の強いことだ。彼らの中では、僕たちは喰われるのが当たり前になってしまっていた。当たり前になりすぎて人が喰われることに疑問を持ってないんだ。凝り固まった常識は時に人を殺す。この世界でも同じなようだ。
「気にしないで、というのも無理だけど、もう危害を加えるようなことはしないわ。私がさせない」
だといいけど。口には出さない程度にはわきまえている。
「何か言いたいことでもあるの?」
 どうやら態度には出ていたようだ。気を付けよう。
 それから僕たちは、クシナダの指示に従って作業場へ分かれていく。僕と山里は積み荷を荷車に乗せたりする力仕事。桐谷はクシナダと一緒に荷造りに行った。
「チッ。てめえも来んのか」
 僕たちの作業場の責任者はダイコクだった。会うなり舌打ちとは嫌われたものだ。それでもダイコクは、渋々といったようだったけれど僕たちに指示を出す。
「てめえは俺と一緒に来い。そこの親父は、ここでこいつらと一緒に必要な道具や食料をかき集めて荷車に乗せてろ。おら、やること決まったらさっさと動くぞ。後ろから押せ」
 ダイコクが指差した先には空の荷車。あれで、ほかの場所へ行って荷物を乗せに行くらしい。僕は言われた通り、荷車の後ろに回り、ダイコクは前の取っ手の部分を持ち上げる。
「おい」
 道すがら、ダイコクが声をかけてきた。
「何?」
「お前・・・」
 と言ったきり、黙りこくってしまう。
「なんだよ。はっきり言えよ。まだ殴り足りないとか?」
「違え! いや、ぶん殴ってやりたいのは間違いねえが、そうじゃなくてだな。その、お前に、聞きたいことがある・・・」
「だから、それは何だよ」
 それでもなかなか口を開こうとしないから、もうなかったものとして僕は荷車を押し続けた。
「お前、クシナダと寝てないって本当か?」
目的の家の前に到着して積まれた家財道具を積みこんでいるときだ。何のことかさっぱりわからなかったが、これがさっき言いたかったことかと思い当たる。
「何を言いにくそうにしてると思ったらそんなこと?」
「そんなことじゃない! 俺にとっては大事なんだよ・・・」
 まあ気になるのも当然か。許嫁のことなんだからな。
「安心しろよ。僕は何もしてない」
押し倒しそうになったことはこの際黙っておく。わざわざ言う必要はない。
「本当か?」
「本当だよ。彼女には何もしてない」
 これで安心したか、と思いきや
「お前、馬鹿なのか? あのクシナダを見て何もしないって、もう女に興味がないとしか思えない」
 呆れたようにダイコクが言った。一体どうしてほしかったんだか。とりあえずお前は僕に謝罪の一つもあるべきだ。
「僕からも聞いていいか?」
 「そうか、何もなかったかそうかそうか」と嬉しそうに、今にも鼻歌を歌いだしそうな雰囲気のダイコクに声をかけた。
「ん? なんだ?」
上機嫌がそうさせたか、あれほど嫌っていた僕の質問にもきちんと対応してくれるようだ。
「これまで行ってきた儀式では、全員着替えてたか?」
「え?」
「服だよ。これまで儀式のときは、全員服を着替えていたか?」
 一つずつ、懸念を消していく。理由を探していく。
「ああ、喰われた連中が着てたやつのこと、か?」
 眉を寄せて、ダイコクが首をひねる。
「全員着替えていたか、と言われたら違うときもあった、と思う。よく覚えてないがな」
「なら、来た時の服装のまま喰われたやつもいるかもしれないってことか」
 やはり、服装は関係なさそうか・・・。
「あの服を着てた人間以外は、全員裸だった。まあ、乱痴気騒ぎの後だからな。だから、来た時の服を着ていたまんまの奴は、いなかったんじゃあ、ないか」
 ふむ。一考の価値あり、かな。
「着替えさせるか、素っ裸にさせとく、みたいな習慣みたいなものはあった。確か、先代の、そうそう、クシナダの爺様が言ってたと思う。神からそういう要望があったみたいな話を、自分も先祖から聞いたとか」
 神の指示、ね。人間が食材の皮をはぎ、骨を抜くようなものだろうか?
「それが、どうかしたのか?」
「いや、ちょっとあんたの許嫁に頼まれてな」
「クシナダが? なんだよそれ。聞いてねえぞ」
 語気を強めてダイコクがにじり寄ってきた。好きな相手のことを知っていたいというのは恋する人間の性だろうが、絡まれるこっちとしては面倒なことこの上ない。男の嫉妬は厄介というのは本当のようだ。映画のようなフィクションだけかと思っていた。苦笑いを浮かべながら仔細を伝える。
「僕が喰われなかったのには、何か理由があるんじゃないか、と、彼女は考えている。そこで、喰われなかった僕とこれまでの人間との違いを調べてほしいと言われた」
「なんだ、そういうことかよ」
 何が安心キーワードになったのか知らないが、ダイコクはホッと息をついた。そして、がぜん協力的になった。ここで手柄を立てれば、彼女の評価もグンと高まるに違いない、とか考えたのだろう。
「詳しく聞かせろ。で、何かわかったら俺にすぐ伝えるんだ」
「構わないが、条件がある」
「なんだ」
「僕はかまわないが、他の三人に手出ししないようにしてくれ。ほかの連中にも伝えろ。あんたが、男連中をまとめてんだろ」
 これくらいは、交換条件として出しても許されるはずだ。
「わかった。あいつらには俺からも話をつけておく」
「交渉成立だな」
 ダイコクに向かって手を差し出す。その手をダイコクは煩わしいといった風に裏手で弾いた。
「手出しはしねえしさせねえ。お前も含めてな。が、俺はお前が嫌いだ。仲良くしようなんてこれっぽっちも思ってない。勘違いすんな」
「そりゃ残念」
 弾かれた手を振りながら、僕は作業についた。

 黙々と荷台に荷物を乗せては運ぶという重労働をこなし、ある程度の民家を回り終えたころ。あたりが急速に暗くなっていくのを五感で感じながら、僕は山里に手伝ってもらいながら、棚卸のようなことを松明の灯りを頼りに行っていた。現在のたくわえがどの程度あるか在庫チェックだ。僕が品物を数え、山里がそれをかき取っていく。僕たちがこの作業をしている理由は、たまたま僕がノートと万年筆を僕が持っていただけだ。姉さんのノートを開くのは少し抵抗があったが、後ろの白紙のページから使っていくことに決めた。それなら、懐かしい文字を見ることはない、が、それでも開くことに抵抗を覚えたため、書くのを代わりにやってもらっていた。
 少し騒がしくなったのは、荷台のチェックをほぼ終えたころだ。首をめぐらせると、村の中央広場、僕たちが貼り付けられた生贄台を設置していたあたりに人が集まっている。山里と視線を交わし、互いに首をひねる。見に行ってみようということになった。
「それは本当なの?」
 近づく僕に届いたのはクシナダの困惑した声だ。彼女の前には三人の男、そして村人たちがその周りを取り巻いている。
「よお、どうしたんだい?」
 気軽に声をかける。
「私には、君が自殺を考えているような悲観的な人間には到底見えないよ」
 と後ろで山里が苦笑した。
 村人たちが初めて僕たちに気付いたようにこちらを振り向く。敵意は相変わらずだが、すぐに食って掛かられないところを見ると、どうやら僕らに対する感情を上回る何かがあるらしい。村人たちはすぐに視線をクシナダと男たちに戻した。その視線を受けて、男たちは答えを求められる。
「本当です。何度も試しましたけど、ある程度森に入ると同じ場所に戻されます」

決戦前夜

 僕たちがいた大広間で緊急会議が開かれた。宴会の時と同じく中は松明でともされていたが、依然の浮かれたお祭り気分と違って室内の空気が非常に重く深刻だ。
 中央に広げられた地図をぐるりと、村人たちが囲む。中央に座ったクシナダが、男たちの話を聞きながらそこへ印をつけていく。僕たちは部屋の隅っこに座り込んで、話を聞いていた。文句でもいわれるかと思ったが、別段誰も気にしなかった。気にする余裕がなかったのかもしれないが。
 話の流れからして、男たちはクシナダの命で脱出ルートを探していたようだ。先祖がここに辿り着いたときに地図を書き残していたらしい。それをもとにして、先祖がたどったルートを逆に辿っていた。しかし、途中で問題が発生した。
「最初は、この地図の通りに川伝いに南に向かいました。ご先祖様たちの地図では、しばらく行くと大きな川と合流するとあり、それを見つけてから戻ろうと思ったのですが」
 行けども行けども合流できない。おかしいと思いながらも進んで、一人が確信を持った。
「たまたま、服の袖を枝にひっかけたんです。引っ張ってもなかなかとれねえし、これも結構ぼろだったんで糸を歯で噛みきりやした。その場はそれで終わりだったんだ。けど、そこから歩いているうちに、さっき自分で破った布きれをみつけちまったんでさ」
 男は少し震える指で地図上を指差した。クシナダがそこへ人の万年筆を使って丸を書きいれた。
「便利ね。ちょっと貸して」
 こいつはついさっきまで人のことを蛇の餌にしようとしてなかったか? 何事もなかったかのように気安く話しかけてきて、持って行ったのだ。限りあるインクを気安く使ってくれる。
「その後も俺たちはいろんな方向へ進みました。けど、どう進んでも同じ場所に戻ってきちまう」
 クシナダが地図にそのポイントを書き込んでいく。完成した地図を見ると、村を囲むようにポイントが書かれていた。ある程度村から離れると、ポイントにループするようだ。
「こりゃ、神の仕業に違いねえ。俺たちを逃がさないためだ」
「良く考えてみりゃ、ご先祖様たちが逃げ出そうとしてないはずがねえんだ」
 深い深いため息がそこかしこから漏れて、部屋中に充満した。諦観の混じったため息は瞬く間に空気に溶け、それを吸い込めば瞬く間に肺に満ち、無気力感となり、血管を通って全身へと広がっていく。どうする? という言葉すら出てこないようだ。
「何か、案はない?」
 クシナダが声を発した。誰も答えず、彼女の視線から逃げるように顔を背けた。彼女も期待していなかったようで、悔しそうに歯噛みしながら、地図に目を移す。何かないか、わらにもすがる、そのわらすら彼女たちの前には見あたらない。
「質問してもいいですか?」
 思わぬところから声が上がった。僕も含めて全員が驚いた様子でそちらを向く。手を上げていたのは桐谷だ。
「あ、その、大したことじゃないんですけど」
 場の緊迫した空気と全員の視線にさらされ、緊張したのか桐谷は口ごもってしまう。
「良いわ。気にせず何でもいいから言ってみて」
 クシナダが促す。おずおずと、桐谷は言った。
「あの蛇を、倒す、というのは。不可能なのでしょうか」
 それは、もっとも根本的な問題の解決法だった。だが、誰も乗ってくる気配はない。馬鹿なことを、と言いたげに、ほとんどの村人は彼女の発言を無視した。
「どうしてそう思ったの?」
「いえ、その、私たちの世界に、この状況とよく似た伝説があるものですから」
 彼女が話したのは、僕らの国に伝わる神話だ。勇ましい英雄神が、毎年生贄を要求し、村人を困らせている大蛇を倒す、どこの国にもよくあるようなヒロイックサーガ。日本に伝わるもっとも古い英雄譚。
「その話では、蛇に強い酒をふるまい、酔わせて、眠ったところで首を落として倒します。もしかしたら、あの蛇も」
「そうね、首を落とすことが出来たら、もしかしたら倒せるかもしれないわね」
 けど、とクシナダは続けた。
「それが問題になるの。もしかしたら聞いてるかもしれないけど、神はいくら剣や槍で切っても傷がすぐ塞がってしまう。傷を一つもつけられないの。これは、ご先祖様たちの犠牲によって得た確実な情報よ」
 そうですか、と消え入りそうな声で桐谷は顔を俯けた。それをきっかけに、村人たちの会合も失望と共に散会の気配を見せ始めた。一人が立ち上がり、部屋から出ると、そこから二人、三人と部屋から出ていく。残ったのは、僕たちと、クシナダだけだ。松明のはぜる音が嫌に耳につく。
「さっきの話だけど、もう一度聞かせてもらえる?」
 クシナダが桐谷の前にすっと座りこんだ。
「え? でも、不可能なんじゃ」
「不可能。そうね、この村のみんなにとっては」
「あなたにとってはそうじゃないと?」
「私にとってもそうよ。神は殺せない。子どもの時に教わるのはまず神のこと。そうやってずっと植え付けられるの。神に逆らうなって。でも、あなたたちはそうじゃない。外から来たから、平気であれを倒すって言える。だから、考えられるはず。私たちには思いつけないことを、神のことを知らないあなたたちなら」
 真剣を通り越して、鬼気迫るような目で彼女は僕たちを見回した。その目を見て、僕は察した。
「あなたは、戦うことを想定しているんだね?」
 山里が僕と同じ考えに至っていた。クシナダが頷く。
「神は生贄を要求してきたわ。あなたたちを数に含んでもまだ四人足りない。あなたたちの世界の神が気前よくもう四人送ることがなければ、私たちの中から四人選ばなければならない」
 びくりと桐谷と斑鳩が体を震わせた。
「ああ、いえ、もちろんあなた方を生贄に出すつもりはありません。約束は守ります」
 あわてたようにクシナダが顔の前で手を振った。
「さておき、もしそうなれば村が分裂するのは明白よ。生贄にされる者もそうだし、今後に絶対響く。誰が次に生贄になるのか、どうすれば自分たちは生き残れるのかと疑心暗鬼になる。村は立ち行かなくなるでしょう。遅かれ早かれ、村は亡びるわ」
「どう転んでもバッドエンドしかないってことかよ」
 斑鳩が小馬鹿にしたような口調で吐き捨てた。
「逃げられないと判断した場合、私は戦うことを提案します。けれど、同じ方法で戦っても勝てない」
 だから情報を集める。
「今は、どんな些細な話でもいいから教えてほしい。先の物語でも、あなた方の世界の蛇の生体でも」
 言いたいことはわかった。だが実際、僕たちに何ができるというのか。首を落とすと簡単に言うが、数千年経た縄文杉の幹みたいなぶっとい首をどうやって落とすというのだ。通販でチェーンソーやらダイヤモンドカッターでも取り寄せろと? しかも相手は傷つけた傍から回復していくような化け物だ。仮に半ばまで切り落としたとしても、そこから回復されては意味がない。
「切り口を変えて考えてみようか」
 そういったのは山里だ。
「蛇は傷つけても回復する。ここまでは良いよね? その点だけを見れば絶対勝てなさそうだけど、考え方を変えてみると、傷をつけることは既存の武器でも可能、ということにならない?」
「つまり、回復する前に首を切断してしまう方法を考えろってことですか?」
 はっとした顔で桐谷が答えた。その通り、と山里は首肯して僕のノートを取り出す。ちらと僕を見て使用許可を求めてきた。どうぞ、と肩をすくめる。
「目的はそれとしよう。まず蛇の特徴を列挙していく」
 山里がすらすらと何かを書いた。蛇の直径、約四メートル、円周約一二メートル。
「目算だけどね。でも、ほぼ完ぺきだと思う。ものを作る人間は、目算で大きさを測れるものさ」
 国の物づくりを支えてきた工場長は胸を張った。
「こうやって、情報をまとめて、逆算していこう。直径四メートルの肉の塊を分断するにはどうすればいい? まず見合った刃物がいる。しかも回復するとあれば、一息に一刀両断しなければならない」
「自分からそういう話をしておいてなんだけど、不可能よね。そんな大きなもの、人の手には負えない」
「人がする必要はないよ。断頭台のようなものを設置すればいいんだ。ただ、どれだけ大きいものにしたらいいか・・・」
 せっかく用意しても、効果がなければ意味がない。
「切る力が蛇を輪切りにした時の断面積×強度を超えりゃいいんだよ」
 意外なところから声が上がった。声の方へみんなが振り向く。斑鳩がそっぽを向いていた。
「斑鳩君、もしかして君・・・」
「言っとくけど、きちんとした数字なんて出ないからな。すげぇ適当だからな」
 立ち上がらずに足と尻を尺取虫みたいにして近づいてきて、ノートとペンを奪い取った。さらさらと公式を書き始める。見てもさっぱり意味は分からないが、どうやらそのせん断力、物体を切る力を計算しているようだ。
「再生するとはいっても、そこに障害があれば再生力は低下するわけだろ? なら完全に首を切れなくても、昆虫標本のムシみたいに杭か何かで縫いとめちまえばいい。切るより突き刺す方が材料を調達するにも力をかけるにも楽だ」
 斑鳩が提案したのはパイルバンカーだ。投石器のつくりを改良して、力が余計な方向に逃げないようにして直接対象に届かせるとのことだが、斑鳩の説明はところどころ公式やら専門用語がつかわれてさっぱりわからない。ただ、元工場長は驚き感心していたところを見ると効果的なのだろう。「アナゴやウナギを捌くようなものだよ」と説明され、ようやくイメージがついた。そういう魚を捌くときはまず頭に杭を刺し、動かないように固定する。
後はこれをどこに設置するかだ。猫の首に鈴をつけるのとはわけが違う。その罠を隠し、そこにおびき寄せなければならない。
「性格から、行動を推測するというのはどうでしょうか」
 次に案を出したのは桐谷だった。
「見た目は蛇ですけど、中身は私たちと同じです。効率的に食料を生産し、獲物が逃げないように柵を張り、そして自分の快楽を満たすために工夫を凝らす。傲慢でプライドが高い、まるっきり人と同じです。なら、存外酒をふるまうという方法は間違っていないかもしれません」
 おだてれば蛇も木に登るということか。口八丁でいい気分にさせて罠へ誘い込む。違法なバーみたいなものだ。罠に関してはそれでいいだろう。
 しかし、肝心なことがほったらかしだ。
「罠にかけることが成功したとして、杭が蛇に突き刺さったとして、それが完全に蛇の回復力を妨げられるかどうかが分からない」
 クシナダが僕と同じ疑問を口にした。
「たとえ少しでも首がつながっていたら、そこから回復しない? いや、極論を言ってしまえば、切り落とした首が再生したりないかしら」
 そこを煮詰めないと、僕たちは一か八かの賭けを行うことになる。ただでさえ勝率の低い戦いに不安を抱えたまま挑むなど愚の骨頂だ。戦いは、勝てる算段があって初めて挑める。準備こそが最も重要で、本番はそれを出し尽くすだけだ。
「ねえ」
 クシナダが僕を呼んだ。
「頼んでた件、どうなった?」
 喰われた人間と喰われなかった僕の違いか。
「順調とは言い難いな。わかったのは、これまで喰われた人間の服装と違うってことだけだ」
「服?」
 疑問を呈する彼女に僕は頷き返す。
「これまで喰われた人間は全員あんたらの世界の服に着替えさせられるか、裸にされていた。で、僕は着の身着のままだった」
「ああ、そういうこと。そういえば確かに昔っから着替えさせてるわね。私たちにとってはただの習慣程度のものだったから、気にもしなかったけど」
「裸はまだしも、ここの世界の服を着たままの人間を丸呑みにするのに、なぜ僕をそうしなかったのか。今のところ、引っかかるのは・・・」
 自分で話していて、おっ、と、そこで気づいた。
「なあ、確認するけど、あんたらも元の世界の服のまま?」
 振り向き、僕は同じ世界から来たであろう、斑鳩、桐谷、山里に尋ねた。虚を突かれたように目を真ん丸にして、三人はぎこちなくもそれを肯定した。クシナダと顔を見合わせる。

「馬鹿なことを言うな!」
 そう一人が叫んだのをきっかけに、同じような野次がそこかしこから飛び交った。徹夜で調査して疲れた頭にガンガン響いて、不快感で吐きそうだ。
 調査の結果、クシナダは戦うという選択肢を選んだ。もちろんそれは最終手段で、逃げるための努力は惜しむことなく行う。ただ、彼女の中に生贄を捧げる、という考えは全く無いようだった。
「神は倒せない、そのことは良くわかっているだろう」
「可能性が出てきたわ。まずは私の話を聞いて。昨日、彼らと調べたことをこれから話します」
 それからクシナダはゆっくりと村人たちを見回しながら、神を倒す方法を順序立てて離していった。話が進むにつれて村人たちはクシナダの話を聞き入ってはいたが、疑いの目はいまだ消えていなかった。
「話は分かった」
 口を開いたのは幾分年経た老年に差し掛かったあたりの、白髪の方が多い男だった。他の村人が騒がないあたり、村人の中でも相談役のような、発言力のある人物なのだろう。
「しかしクシナダ。その話は確実ではないのだろう? その話は、ここにいる全員の命を賭けてまで試さなければならないことか?」
「おっしゃる通りです。何ら確証はありません。昨日こちらの方たちと話して辿り着いた推測です」
 クシナダのその発言を聞いて、男はわざとらしい位鼻から空気を出して、呆れたように彼女を見た。
「だろう? そもそも、そこにいる奴らを信用していいのか? 我々は彼らを騙した。なら彼らが我々を恨んでいる可能性は十二分にある。我々を騙し、神に喰わせて憂さを晴らそうなどと考えているのではないか?」
「そんなこと!」
 心外ですと前に出たのは桐谷だった。
「私たちにそんな気はありません! 私たちはこの世界のことを何も知りません。だから皆さんが死んでしまうとここでは生きられないんです」
「そもそも、俺らを先に喰わせる気だろうが」
 馬鹿にしたように言ったのは斑鳩だ。落ち着けば思春期特有の反抗精神が表に出るのか、物おじすることなく食って掛かった。
「大体さ、戦うなり逃げるなりする気がねえってことは、あんたら自分たちの中から四人選んで生贄にするってことなんだぜ? 出来んの?」
 そう追及され、男は顔を背けた。見れば周囲の村人たちも、微妙に逸らせるか、他の人の様子をちらちらと伺っている。その様子を見て斑鳩はふんと鼻で笑う。後を受けるようにして、クシナダが再び口を開いた。
「そういうことです。そして、私はそれをしたくない。もう誰にも死んでほしくないんです」
 誰もが押し黙った。彼女の言葉の意味をよくよく考えているのか、それとも逃げ場がないと絶望に打ちひしがれているのか。ではここで、やけくそになってもらうために僕がもう一押しさせてもらおう。これはクシナダにも、誰にも話していないただの僕の推測だ。けれど、可能性は高いと思う。恨まれそうだが、それで一致団結してくれるなら安いものだ。戦うにはやはり村人全員の協力が必要不可欠だからだ。
 なぜそんな協力をしているのかは、我が事ながら複雑だ。蛇に一泡吹かせてやろうと思ってるというのも少しあるし、いっそ全員喰われてしまえ、といった破滅願望はまだ根強いけれど。
とりあえずは、だ。ちらと横目でクシナダを見る。視線に気づいたわけではないだろうから、偶然だろうが、彼女と目があった。
 とりあえず、彼女に頼まれたから、ということにしておこう。約束は果たしておこう。立つ鳥は後を濁さないのだ。
「僕としては、あんたらがどうなろうと知ったことじゃないんだけど」
 すすっと進みでる。何事かと村人たちだけでなくクシナダたちも僕に注目した。これ以上話すことは昨日の時点ではなかったからだ。
「あんたらが生き延びるには戦うしかない、と僕は考えている」
ずらっと並んだ不景気な顔が戸惑い揺れる。意に介さず続ける。
「あの蛇にはおかしい点がある。あのでかい体で、どうして年に一度、しかもたった八人の人間で済ませるのか、という点だ」
 みんなが呆気にとられている。それはそうだろう。長年、ある意味では習慣となり常識となっていることをいきなりおかしいと言われても呆けるだけだ。
「良く考えろよ。僕らは生きるために毎日飯を食うだろう。あの蛇だってそうだ。楽しむため以上に、生きるために喰うんだ」
「それがなんだって言うんだ。だから毎年生贄を捧げているんだろうが」
 そういったのはダイコクだ。そういえば彼には何かわかったらすぐに伝えると言ったが、すっかり忘れていた。まあ、ここで伝えているのだから良いだろう。
「それがおかしいんだ。僕らは一日にどれだけ喰う? 一か月なら? 一年ならどれだけだ? 昨日荷車に積んだ米俵一俵は、一年もつのか? きっともたない。それは蛇だって同じだ。いくら燃費が良くたって、あの図体で、一年に一度の食事で満足できるわけがないんだ」
「それがいったいなんなんだ。今までそうだったんだ。これは疑いようのない事実だ。神は一年に一回しか生贄を求めないんだ。神ってのはそういうもの・・・」
「蓄えがあるとは考えられないだろうか?」
 さえぎり、僕はダイコクに人差し指を向けた。銃で狙われた人質のようにダイコクは言葉を飲み込み押し黙った。
「あの蛇は人を家畜扱いするほどの知能がある。そして、家畜が逃げないように見えない柵を作る力もある。だから、おそらくだけど。あんたらがいくつも畑を抱えて作物を育てているように、あの蛇も、いくつかの村を畑のように保持し、時期をずらして人を喰っていると考えられる」
 あたかも収穫時期が来た作物を刈り取るように、蛇はローテーションを組んで、いくつかの村々を回っていると考えられた。そう考えれば一年に一度というのも納得できる。あれを僕たちと同じ生物の範疇に入れていいものかはさておき。
「仮にそうだったとして、それがなんだって言うんだ」
「わかんねえかなぁ。予備があるんだ。この村以外にも。だからここを喰いつくしても困らないってことなんだよ」
 波紋が広がる。僕はさらに投石を続ける。
「その可能性は高い。非常に高い。あんたらだって作物の出来が悪いとその畑を一度耕しなおすだろ? 同じことが蛇にだって言える。それにだ、今のクシナダの話はもちろん僕たちの推測が大分入り混じっているけど。ならこうも言えないか。蛇も同じことを推測してないかと。逆らうかもしれない、もしかしたら自分の弱点を知られたかもしれない。思うようにならないなら、いっそ消してしまえ」
 桐谷が言っていた、相手の性格から行動・思考を読み取ってみた。傲慢極まった蛇ならそれくらい考える。もちろん違うかもしれない。
だから村人を奮起させるのにちょうどいい解釈をさせてもらったのは内緒だ。
「蛇は生贄を差し出せと言った。けど、同じように八人用意しろなんて一言も言ってない。全員が勝手にそう思っているだけだ」
 実際どうかはわからない。ただ、わざとそういう可能性しかない、という風な言い方をしておく。全員を背水に立たせるためだ。死ぬ気でやってようやく五分五分と言ったところか。これで駄目なら、全員がすべてを諦めてしまうというなら、それはそれで仕方ない。僕のもともとの願いが果たされるだけだ。
「やるしか、無いんじゃないのか・・・?」
 無言で誰もが黙りこくっている中、そういったのはダイコクだった。
「やるって、まさかダイコク、本気か?」
 取り巻きの男が心配そうに問う。
「クシナダやあいつの話は全部推測だぞ。それを信じるというのか」
「クシナダが嘘をついてるってのか?」
 許嫁をうそつき呼ばわりされ、ダイコクが男を睨みつける。途端、男は委縮して口を噤む。それを見やり、ダイコクは村人たちに向かい合った。そして僕を指差し
「こいつは信じねえが、俺はクシナダを信じる。男がやるには十分すぎる理由じゃねえか」
 少し意外だ、と思ったが、当然か、とも思った。許嫁の前で格好をつけたいと思うのは男の性だ。
 ダイコクの発言によって、少し流れが変わった。取り巻きをはじめ、若い衆は乗り気になってきたようだ。賛成と反対の天秤がぐらついているこの空気を嗅ぎ取ったのか、今度は山里が口を開いた。
「不安なのは、当然かとは思います。確かにおっしゃる通り、推測の域を出ない部分もあります。けど、皆さんは、特にお子さんを持たれている方たちに問いたい。本当にこのままでいいんですか?」
 優しくも問い詰めるような口調が、中年世代の耳に届いた。
「私にも、元の世界には子どもがいます。その子のためなら、何でもしてあげたいと思う。皆さんもそうでしょう。だから、他人を犠牲にしてでも、皆さんは村のみんなを、家族を、子どもを守りたかった。違いますか?」
 まさに犠牲にしようとしていた他人の言葉に、村人たちは聞きっていた。
「そんなあなた方が、子どもたちに残すものが、こんな呪いのような儀式でいいのですか? 親なら、もっと素晴らしい未来を残してやりたいと思いませんか? どうです? どうせ死ぬなら、我が子の未来のために、誇りを持って戦って死にませんか?」
 子どものための自殺志願者らしい言葉だった。しかもその言葉が人の目に生気を宿らせるのだから面白い。彼らの頭にはきっと、自分たちが負けて子供たちが喰われるという最悪の事態を予想していないに違いない。僕の知ったことではないけどね。
村人たちの変わりようを見て、クシナダが言った。
「神を倒しましょう」
 もう誰も、否定的な言葉を出さなかった。腹をくくったらしい。ようやくスタートラインだ。

 その日から、村人総出の突貫作業が始まった。男たちは罠を作るために森へ木を伐採に、女たちは強い酒を大量に製造し始めた。物語のように酒を飲むのかどうかはわからないが、神に捧げるお神酒だと言えば話は矛盾なく通るだろう。
 僕らはそれらの作業のほかにやるべき作業が残っていた。
「この村の製鉄所がどんなものか知りたい」
 言い出したのは山里だ。
「村人のご先祖様たちは剣や槍で戦ったっていうし、狩猟用の弓矢の矢じりは鉄でできてた。なら、鉄鉱石を加工する技術と施設があるはずだ。やっぱり、木材より鉄の方が固いし丈夫で、何より重く、蛇を縫い留めるのに適している。もう一つは、秘密兵器を用意するためだ。案内してくれたクシナダが「どう?」と尋ねた。
「うん、これなら何とかなるかな」
 製鉄所、というより、昔の鍛冶屋と言った方がしっくりくる場所を見て、山里が目を輝かせた。どうやら元工場長の血が騒ぎだしたらしい。返答に満足そうに頷いたクシナダは山里と斑鳩を指差し指示を出した。
「なら、決まりね。あなたたち二人は肝となる杭の作成をお願いします。あるものは好きに使ってくれていいし、足りないものがあれば私や村のみんなに言って」
 二人が頷く。ついでクシナダは振り返って僕と桐谷を見やり、
「じゃあ、私たちは彼らの指示に従っての材料集めと一緒に、実地検分を兼ねて作戦を立てます」
「はい」と桐谷が応えた。僕も頷く。クシナダを先頭にして、僕たちは山に入った。そこかしこから威勢のいい声が聞こえてくる。森からは鋸を轢く音、木の倒れる音、釘を打つ音。丸太が次々と村の中に運ばれてくる。
 まるで祭りの準備だ、と感じた。神楽の舞い手は僕たちと神だ。

 あれから五日。約束の期日の前日ギリギリで、すべての準備は整った。蛇を倒すための罠と、万が一の時に逃げ出すための用意だ。蛇が村に入ってこれるということは、この村を囲っている不可思議に力も解除されているのでは、と考えたのだ。優先的に逃がすのは女、子どもだ。男たちはみな残って戦う気らしい。山里の演説がいまだ効いているのか、子持ちの男親が特に鼻息を荒くしていた。
 明日に備えて、作業が終わった者から眠りについていった。僕も最後のチェックを終えて、すっかり居座り馴染んでしまった大広間に戻ってきた。
「お帰りなさい」
 すでに戻ってきていた桐谷が迎えてくれた。山里と斑鳩はまだ戻ってきていないな、と思っていたら、一分もたたないうちに後に続いて二人が戻ってきた。二人の手にはかけ筒と皿に乗ったおにぎりが抱えられている。桐谷が同じように「お帰りなさい」と声をかけた。彼女はちょっとした出入りにもお帰りなさいと声をかけてくれる。最初はぎこちなく、三日目くらいからは微笑みながら。たかだかその程度の事が、かけがえのない幸福のように。
僕にとっても、それは実に久しぶりに聞く言葉だ。一人暮らしを始めてだいぶ経つから、誰かに見送られたり迎えられたりするのがこんなにホッとするものだとは思わなかった。山里や、斑鳩でさえも彼女に「ただいま」と返事をする。
簡単な夕食を終えて、そろそろ寝るかと支度をしていると、不意に手元が陰った。顔を上げると、山里が僕を見下ろしていた。立膝を突きながら、ゆっくりとその場に腰を下ろした。
「タケル君。君に聞きたいことがあるんだけど、良いかな?」
 にこやかに話しかけてくるが、真剣そのものと言った目で僕を見据えていた。はて、いったい何用だろうか。山里は、僕の返答を聞かずに話を進めた。
「君は波照間博士、の、知り合いか?」
 その問いは、僕の意識を振り向かせるのに十分な強制力を持っていた。山里にはその態度で十分伝わったらしく「そうなんだね?」と確信を持たせた。
「姉だよ。両親が離婚したんで、苗字は違うけど」
 僕は父に、姉は母に引き取られた。離婚をするくらいの喧嘩をしたくせに、父が死に、すぐ後を追うようにして母も死んだ。残った僕を、姉さんが引き取った。一緒に暮らしていたのはほんの数年だ。
「すまない。見るつもりはなかったんだが」
 山里が取り出したのは僕の、姉さんのノートだ。
「稀代にして、非業の死を遂げた天才科学者、波照間天音。ここには、彼女の知識の欠片があった。見るつもりはなかったなんて言い訳だ。最初にページが捲れたのは本当に偶然だ。けど、目に入った瞬間に憑りつかれたよ。技術者、科学者の誰もがこれを読むと「やられた!」と頭を抱えて悔しがるに違いない。
未完成だけど、これは、決して理想ではなく、現行の技術でも対応可能な、人類の夢『永久機関』の設計図だ」
 幾分興奮したように山里は言った。
「あんた、会ったことがあるのか」
「いや、でも彼女の論文はいくつも読んだ。常人は気にもしなかった着眼点から生み出されるユニークな発想の切り口、斬新なアイディア、理論だけじゃなく、何度も繰り返し行われた検証実験とそれに裏打ちされた結果。とても在学中の学生のものとは思えなかったよ。本当の天才とは彼女のことを言うのだろう。生きていれば、まず間違いなく歴史に名を遺したはずだ」
「俺も、知ってる。うちの親父が会社に欲しがってた」
 隣で同じように寝支度をしていた斑鳩が言った。
「会社、って、斑鳩君の家は何か事業を?」
 桐谷の問いに、斑鳩が頷く。すると、何かに気付いたのか山里が手を打った。
「もしかしてイカルガ科学かい? 一流企業じゃないか」
 イカルガ科学なら僕も聞いたことがある。合成樹脂や繊維などを扱った、たとえばナイロンなどの服飾製品や水槽、液晶ディスプレイなどのパネル製品などを提供している。
昨今の不況のあおりを受け、国は借金を返すために、これまで管理していた電力供給の権利を手放した。それによって企業はこれまで国によって管理、悪く言えば手出しできなかった電力供給の事業に手を出し、発展を望めるようになった。イカルガ科学も着手した企業の一つで、これまで築いてきたパネル技術をソーラーパネルに応用して徐々に売り上げを伸ばしている。
「あの頑固おやじが人を褒めるのなんか滅多にない。だから印象に残ってたよ。ハン、実の息子が死んだってあそこまで残念がらねえだろうさ」
 斑鳩が片頬を吊り上げて皮肉交じりに言った。桐谷が「斑鳩君」と咎めてから、話の流れを変えるように手を打って言う。
「もしかして山里さんたちが話してる人って、私の知ってる波照間先輩、でしょうか」
「先輩?」
 僕の知らない、姉さんの交友関係だった。もちろん知らないことがあって当然だと思うが、どうしてここで姉さんの関係者や姉さんの研究を知っている人間に会うのだ?
「はい、といってもたった一度だけですが、私の中学のОBで先輩がたまたま来校していた時に偶然お会いしたんです」
 一度しか会ったことがないといったのに、その顔は懐かしい良い思い出を探るようなそれだった。
「廊下ですれ違いざまにいきなり腕を掴まれたんです。『大丈夫なの?』って。先生もクラスの誰も気づかなかったのに、彼女だけが私の怪我に気付いたんです。はじめは家のことを話す気はなかったんですが、いつの間にか身の上を話していました」
 姉さんはいろいろと相談に乗っていたようだ。学校の先生だけでなく、教育委員会や児童福祉士にも一緒に相談に行ったらしい。
「残念ながらそれは父の妨害のせいで上手くいきませんでしたし、先輩もその数日後に不慮の事故で亡くなられたと聞きました…」
「不慮の事故、か」
 僕は掴んでいた毛布を手放し、山里たちに向き直る。
「姉は、波照間天音はもう死んだ。子どものころに車と軽い接触事故を起こして以来車が苦手で絶対乗ろうとせず、免許だって持ってない。酒も味や匂いが苦手とか言って、弱いから絶対飲まなかった姉が、飲酒運転で壁に突っ込んで」
 僕の言葉を受けて三人の表情が変わった。
「タケル、さん、それって」
 喘ぐように桐谷が言った。
「ロクな捜査もされなかったよ。すぐに遺体が戻ってきたことと、遺体の損傷が少なかったのがせめてもの救いだ。警察の話では、即死で、苦しむことはなかったはず、だとさ。それも救いと言えば、そうなのかな」
「どうしてだ。彼女が死んで得する人間など」
「いたさ。山ほどな」
 山里の疑問を、僕は嘲笑交じりに切り捨てた。
「あんたが見たこのノートにも理由はあるよ。皆無に等しいコストで半永久的に都市一つ分の電力を発電し続ける発明なんて、電力会社や石油産出国などエネルギーを提供している連中からすれば商売敵以外の何者でもない。これまで莫大な利益を上げていたものが一気に価値を失い、二束三文で買い叩かれるようになるんだからな」
 自分の利益のためなら、他人が死んでも構わない、そういう人間があまりにも多すぎた。全人類が豊かになるためのチケットよりも、手元にある株券を彼らは選んだのだ。
 そんな世界に、僕は、何をどう期待したらいいのだ?
「あんたが死のうとしてる理由って、そこから来てんのか」
 斑鳩が言った。彼も自分の境遇に絶望している人間だ。だから僕の絶望の根源を嗅ぎ取った。
「とりあえず、実行犯と思われる人間と、依頼した人間など関係者数人には同じ目に遭ってもらった。いやはや、復讐なんてのはつまらないものだね。復讐に駆られて燃えているときは本当に何でもできたけど。次から次に計画案は出てくるし、SPやガードマンの二、三人は簡単にあしらえた。けど、終わってしまうと後には何も残らない。残るのは月曜にも水曜にも金曜にも出せないゴミだけだ」
 熱が通わなければモノは腐る。人が生きていることを立証するには、体温以外の、何か熱が必要だ。
「姉さんは世界を変えようとしていた。そして、僕が見たかった、生きたかったのはその世界だ」
 それが叶わない以上、僕がそこにいる理由はない。僕の体から熱はすっかり失われている。ゾンビと一緒だ。
「自分で変えようとは思わなかったのか?」
 僕たち四人の誰でもない声が広間に生まれた。
「あんた・・・」
 僕ら全員の視線が集中する先にいたのは、パーカーのフードを目深にかぶった神がいた。相変わらず顔がよく見えない。口元だけが不敵に笑みの形を作っている。
「久しぶりだね、君も、そして後ろの桐谷、山里、斑鳩も。元気そうで何よりだ」
「てめえ、何をぬけぬけとっ」
 斑鳩が神にとびかかった。彼の歩幅でも三歩ほどだ。中学生の俊敏さがあれば一秒とかからない。斑鳩の手は神の襟元に届いて、そのまま何も掴むことなくすり抜けた。彼はその勢いのまま神の体をつき抜けもんどりうって倒れた。
「ふふ、受験ノイローゼで今にも死にそうだったのに。この一週間ほどでたくましくなったものだね」
「うるせえ! てめえのせいで俺たちがどんな目に遭ったと思ってやがる」
「だが希望は叶えたはずだぞ斑鳩スクナ。君がこの苦しみから解放されたいと言ったから、解放される場所に連れてきた、ただそれだけだ」
「着いた先で喰われそうになるなんて聞いてない!」
「聞かれていないことは話しようがない。君たちの場合は、質問する、というところまで頭が回らないほど追いつめられているようだったがね」
 詐欺師の常套句みたいなことを平然と神は言ってのけた。
「それに、君たちはまだ生きているじゃないか」
「結果論だろ! 一歩間違えたら俺たちだって喰われてた!」
「大きな違いだ。生きているから君たちは私に再び会うことができた。生きているから選択肢が増える。私も、生きている君たちだからこそ、同じことを告げることができる。君たちの願いを叶えよう、と」
 斑鳩の目が大きく開いた。
「それって、もしかして」
 震える声で桐谷が言う。
「ああ。君たちが望むなら、もとの世界に帰そう」
「じゃあ帰せよ、今すぐ」
 斑鳩が歯をむき出しにして唸る。「今すぐは無理だ」と神は首を振った。
「なぜなら条件があるからだ。条件はたった一つ。あの蛇神を倒すこと」
 
「もともとこの世界が人を欲したのは、この世界の住人がこれ以上減り過ぎないように、他の世界の不要な命を欲したからだ。君たちを今すぐ帰してしまえば、蛇神に喰われて世界からまた人が多く減る。それはこの世界との契約に反する」
「ならあんたがやれよ。あんたが神だって言うなら、あの蛇を殺すことだって可能だろうが」
「それは無理だ。管理者は自分の手で間引くことはしない。私にとっては、あの大蛇も世界の一部だからだ。各世界には一つ一つルールがある。それを破るわけにはいかない。この世界の問題ごとは、この世界に現時点で生きている者だけで何とかしなくてはいけない。もともとここに存在しようが、無理やり連れてこられていようが関係なくだ」
「理不尽な・・・」
 山里が呻く。
「そう、理不尽だ。君たちにしてみればね」
 
「で? 理不尽でない世界があるとでも?」

 神がせせら嗤う。
「結果を出せば報酬が約束されているだけまだましだとは思わないか? 向こうの世界では結果を出そうが努力をしようが、認められないことのほうが多い。山里、斑鳩、君たちはそのことを理解していると思うのだが? 生まれを選べない理不尽を感じているのは桐谷じゃないか。そして、もっとも世界に理不尽を感じているのは、君だ。不要な自分が生き残り、必要な姉が死んだと思っている」
 両手を広げ、嘆きを現し、舞台の一幕のように大仰に。
「理不尽だ。理不尽だとも。誰にでも平等に、世界は理不尽を強いる。それをはねのけるのも、受け入れるのも、逃げるのも、君たちの自由だ。自己責任だ。だが、文句を言いたいのなら、君たちは唯一その権利がある、はねのける側に回らなければならない。人事を尽くさないものに天命はない。分不相応なお願いだけをする者に関わりあっているほど神様稼業は楽ではないのだよ」
 お茶目な仕草と口調がいっそ不気味で恐ろしい。だが、聞き逃さない。神は今、面白いことを言った。
「じゃあ、なんでだ?」
 僕は尋ねた。
「どうして、僕たちにそんなチャンスを? どう見たって僕たちは、あんたが言うはねのける側の人間じゃない。流れに飲まれた側だ。お忙しい神様が、わざわざ関わるほどのもんじゃないぞ? エサ用に放り込んで『はい、おしまい』で充分じゃないのか?」
 すると神はにぃ、と笑みを深くして
「君がそう思うならそれが君にとっての正解だ」
「いやに引っかかる言い方だな。何かほかにあるのか?」
 神は応えず、ただ三日月型の口元を歪めただけだった。なるほど、人事を尽くせ、自分で考えろと。確かにヒントはもらった。
「伝えることは伝えた。ではまた明日。君たちともう一度会えることを期待しているよ?」
 神は煙のように消えた。さっきまでのやり取りが幻だったかのように、大広間には静けさが戻った。何ともなしに、僕たちは互いに顔を見合わせた。みんなが神の意図を測りかねているようだ。僕は、神が言い残したことが気にかかっていた。深読みすれば、神は何らかの、生贄にするという以外の意味があって僕たちをこの世界に放りこんだことになる。では何か。
視線を下げる。板張りの床には、黒いノートが開かれたままだ。そこには波照間天音の知識と思いの欠片がある。姉さんは、何を思い、何を考えて、ここにアイディアを書き記していったのか。
 周りを見渡す。そこにいるのは、職を奪われた技師と、ノイローゼになった受験生と、父を殺した逃亡者がいた。直接的、間接的に姉さんと関係がある者たちだ。
 考えろ。これは偶然か否か。
 桐谷がいたから蛇を倒すという流れが生まれた。斑鳩がいたから倒すための理論が生まれた。山里がいたから斑鳩の理論を実現化できた。僕がいたから、その三名は蛇に喰われなかった。
 結末に辿り着くまでの過程には、幾重もの理屈と思惑が絡み合う。僕は僕の理屈と推測をもって、辿り着く未来予想図と何のための結果なのかを導き出す。

神話の再現

 運命の日、もしくは運命と決別する日が訪れる。
 立ち並ぶ家々の間に巨大な樽が並べられる。中には何度も蒸留させた強力な酒がなみなみと注がれている。匂いだけで酔いそうだ。
 真っ青だった空が、次第に陰っていく。生暖かく湿った風が流れ、それに乗って酒の匂いが消し飛ぶほどの生臭さが漂い、あたりに充満していく。森の木々が悲鳴を上げだした。圧倒的な質量に押しつぶされ、断末魔をあげる。それが幾重にも幾重にも重なり、さながら合唱のようになって不気味に響く。
「来たわね」
 村長代理であるクシナダが、そう呟いて所定の位置である広場の真ん中に立った。今の彼女は普段の軽装ではなく、依然生贄たちをもてなした時の女官の着物を羽織っていた。他の人間たちも、作戦通りに自分の持ち場についている。
 ずるりと、神は再び森の中から這い出てきた。
『おや、おやおやおや』
『どうしたことか、どうしたことか』
『何やら良い香りがするのぅ』
『これは酒よ。強く、薫り高い酒の香ぞ』
 八つ揃った蛇神の口が裂けた。血で染まったかのように真っ赤な口から、チロチロと長い舌が見える。
「お待ち申し上げておりました」
 クシナダが恭しくこうべを垂れた。
『娘よ、これはどういうことか』
『約束の贄はどこぞ』
「は。もちろんご用意させていただいております。ですがその前に」
 頭をあげ、両手を広げる。
「食前酒をご用意いたしました。あなた様に働いた数々の無礼、どうかお許しいただければと」
『ほほう、これは殊勝な心構え』
『よきかな、よきかな』
『我らは慈悲ぶかき神。此度のこと、水に流そう』
『水ではなく、酒ではあるが』
 カカと大笑する。耳障りな声が神経を逆撫でする。
『しかし感心せぬな。捧げものと言うからには、ここへ並べて初めて捧げるというのではないか?』
 首の一本が、疑問を呈した。この蛇はやっぱり頭がいい。
「はい。理由といたしましては、まずこの樽の大きさです。あなた様と違って矮小な我らは、酒がなみなみと注がれたこれを運ぶことができません。かといってそちらで樽を作ってしまえば、今度は酒を注ぎにいけません。空気に触れるたびに酒はまずくなってしまいますので。考えた結果、まことに失礼仕りますが、こちらで作らせていただくことに相成った訳でございます」
『そうかそうか、そういうことか』
『矮小な人の身の限界か』
『ならば致し方なし』
 疑問は氷解したのか、嬉々として蛇神は各々の首を樽に突っ込む。ごっ、ごっ、とのどを鳴らす音。八つ首すべてが樽に入っていることを確認して、クシナダが手を挙げた。合図だ。
 隠れていた村人たちは、その合図をもって、手元の綱を断ち切った。瞬間、これまで固定されていた家屋の中にあるパイルバンカーは、ため込んでいた力を一気に解き放った。
 家屋の壁が内側からはじけ飛ぶ。鋼鉄の切っ先が限りなく真円に近い軌道を描く。斑鳩と山里の想定通り、可能な限り力を逃がさず、効果を発揮した杭は、木と藁で作られた屋根を易々と貫き、速度を維持したまま蛇神の脳天に突き刺さる。直径二メートルの大木がその質量を見せつけ、切っ先に固められた鋼がその強靭さを知らしめる。杭は蛇神の脳天だけにとどまらず、樽を破壊し、大地に深々と突き刺さった。
 蛇神からは悲鳴すらなかった。ただぴくぴくと痙攣し、杭と肉の隙間からおびただしい血を流しているだけだ。その周囲は垂れ流れてきた血で真っ赤に染まり、川となって流れていた。地獄絵図にある屍山血河そのままだ。
「やった、のか?」
 村人の一人が、破壊された壁の隙間から顔をのぞかせた。その声が届いたのか、他の家からも人が動く気配がする。最初はおどおど、おっかなびっくりと。しかしその目に結果が映ると、村人たちは我も我もと外に飛びだす。
「お、あぁ」
 言葉にならない、ただの音が誰かの喉から漏れ出した。それは徐々に歓喜を帯びて、村人中に広がり、爆発した。
 男も女も、老人も子供も、今まで体内に蓄積され続けた何かどす黒いモノを吐き出すように大声を張り上げた。言葉にはならなかった。けどそれに含まれる意味は誰しもが理解し共感した。
 一緒になって喜びたいのを必死にこらえた人間が、その輪の中に一人いる。クシナダだ。もっとも喜びたいはずの彼女がそれをこらえているのは検分のためだ。本当に蛇は死んだのか、それともここから回復するのか。もし回復するならば、復活する前にとどめを刺さなければならない。事後処理の指示を出すために、彼女はまだ浮かれられずに蛇神の死体を調べ続けた。
 結果、彼女は気づいてしまう。
 最初は些細な違和感だった。最後の一首から出てくる出血量が、他の首に比べて若干少ないような気がしたのだ。時間も経過しているし、血が抜けきったとしてもおかしくない。蛇神から流れ出た血は大地にしみこむ量を完全に飽和して、村全域に広がるほどの血だまりを形成していたからだ。村を包み込むほどの巨体とはいえ、これほどの量が出ればさすがに止まる。かすかな違和感はすぐに消滅するはずだった。だが
 もぞり、と、胴の内側がわずかに起伏を繰り返した。彼女の視界はそれを見逃さなかった。痙攣とは明らかに違う、たとえば、布団から体を起こした時に見える足の動き、たとえば腕が通ろうとしている服の袖。
 彼女の目が見開かれるのと同時、蛇神の八つの首を支えていた太い胴の背中が裂けた。肉片と血をまき散らしながら、それは産声を上げる。
『あは、あははははっ』
 耳障りな声が木霊し、歓喜に沸いていた村人たちの熱をたやすく冷ましてかき消す。
『愉快、愉快なり。本当に貴様ら人は我を楽しませてくれる』
 鎌首をもたげて、蛇神が嗤う。
 飛び出してきたのは一回り小さくなった、首も一本だけ。それでもとぐろを巻けば広場が埋まり、アギトは人を丸呑みにして余りある蛇神だった。
『気づかれていないと思ったのか? この森は、この山は、この地は我が住処。小枝の一本が落ちる音でも届くのだ。貴様らが木を切り倒す音が聞こえぬはずあるまいよ』
 蛇神が村人たちの顔を舐めるようにじっとりと見る。愛しいものであるかのようにねっとりとした視線を送る。
『小賢しき知恵を絞り、我を倒せると思ったか? この血だまりを見て、希望を見たか? 愚かにして愛しいな、人は。本気で我を倒せるとでも思ったか? 我は神。たかが人が及ぶものではない。こうして貴様らの戯れに付き合ってやったのは、ひとえに楽しむため。見よ、互いの顔を。希望を砕かれ、絶望に満ちた顔を! それこそが我が望み。人の血肉が美味くなる最高の調理法』
 ぐるりと鎌首をめぐらせる。品定めをするように、一人一人の顔をのぞいていく。目があった村人は恐怖で固まり、腰を抜かし、歯を鳴らし、打ち震える。
『我に逆らった罪、万死に値する。貴様らは全員死罪。我が腹を満たすことによりその罪が許される。では手始めに』
 その目がクシナダに向いた。瞬間、彼女は踵を返し、蛇神から逃げた。
『く、くくくくくかかかかかかかああははは!』
 蛇神の笑いが木霊する。
『そうかそうか! まだ我を楽しませてくれると申すか! よかろう! 付き合ってやろう! ただし、捕まればどうなるかわかっておろうな、娘よ。その手足を一本ずつ噛み千切り、その腹を裂き、ゆっくりはらわたを啜って食ってやる』
 蛇神は他の村人に目もくれず、その巨体をくねらせて後を追った。

 走る。駆け上がる。草木生い茂る道なき道をただ全力で走り続ける。後ろから聞こえるのは蛇神の笑い声と這いずる音。この視界の悪い中でも追ってくるということは、視力以外に匂いや音などで獲物の位置を特定しているのかもしれない。斑鳩も言っていた。蛇の中には熱源で位置を特定する目を持つ種類がいると。サーモグラフィのように、熱源をたやすく特定することが可能なのだと。この蛇神もその能力を持っているのだろうか。
『かは、かはははは、どうした娘! そんなにゆっくりでは、追いついてしまうぞ!』
 徐々に声が近づいてきている。追いつかれるのも時間の問題だ。だいたい足もすでに疲労困憊で、一度倒れてしまったら息を整えるまでしばらくは立ち上がれないだろう。
 それでもなお、走り続ける。そこまでたどり着けば。
『そうら、追いついた!』
 暴風を伴って、蛇神の胴が薙ぎ払われた。直前で気づき、受け身を取るためにわざと飛び上がったものの、衝撃はすさまじく、自分の体が簡単に吹き飛んだ。枝を引きちぎりながら宙を舞い、そして大きな岩に背中が激突した。声すら出ない痛みにしばらく悶絶し、のた打ち回る。口元から血が零れた。口を切ったのか、それとも内臓が損傷を受けたのかわからない。
『これでしまいかえ?』
 ゆっくりと、面前に蛇神が現れる。得意げな顔でこちらを見下ろしている。
『さあ、終わりだ、先ほどの約定通り、手足を一本一本喰らってやる。その腹を生かしながら裂いてやる。さあ娘よ、貴様はどんな味がするのかな』
「ガタガタうるさいやつだな」
ゆっくりと体を起こす。ボロボロになった女官の服をはぎ取る。口元の血を拭う。苦しいが、それでも笑って立つ。
『っ、貴様ァ!』
 赤い目を大きく見開き、蛇神が憎々しげに唸る。それはそうだろう。僕は奴からしたら煮ても焼いても喰えやしない腐った餌なのだから。
 トリックは簡単だ。クシナダが蛇の視界から家の影に逃げ込んだところには、地中に水を張った風呂釜くらいの桶が設置されていた。クシナダはそこに飛び込みカモフラージュ用の蓋をする。入れ代わりに僕が走り出した。熱源で追ってくるのなら、これで騙せると踏んだのだ。事実、蛇神は僕をクシナダと思い込んでここまで追ってきた。女官の服は羽織ってはいたものの、靴やジーンズなど違いはいくつもあったのに。おそらく通常の光でものを見る視力と熱源でものを見る視力を切り替えて追うのだろう。
 生物学者が喜ぶような性能を持っていようがいまいが、僕たちには関係ない。大切なのは、作戦が成功しているかどうかであって、そして結果は上々だという事実があればいい。
「ずいぶんと貧相になったな。後であの抜け殻をもらっとくぞ」
 蛇の抜け殻は金運アップのお守りになるそうだ。あの抜け殻にあう財布はなかなかなさそうだが。
『貴様、立場が分かっているのか。我を怒らせて、どうなるかわかっているのか!』
「知らないね。知りたくもない」
『では教えてやる。まずは、その腕ェ!』
 蛇が矢のように突進してくる。僕は、近くに張られていたロープを手に取り、その根元を用意しておいた小刀で切断する。ロープによって引っ張られていたしなやかな木が、その瞬間元に戻ろうとしなる。合わせて、僕の体が上空へと引き上げられる。
 間一髪、僕の足元を蛇神の巨体が行き過ぎる。蛇の頭は岩を砕き、あたりに粉塵が立ち込める。
掴んでいたロープをぱっと放し、自由落下する。小刀を逆手に持ち替え、蛇神の体につきたてる。落ちる力をそのまま切る力に変え、僕は蛇神の横腹を裂きながら着地、すぐにその場を離れる。
『小癪な』
 蛇神が頭を巡らせ、僕の姿を捉えた。
『我が体は不死。いかな傷を負おうとも、たちどころに治る。いかに小細工を弄せども』
「へえ、しかし」
 僕は思いっきり馬鹿にしながら
「その割には、そこ、血が止まってないんじゃないか?」
 蛇神は馬鹿みたいに素早く、己が体を見渡し、かすかな切り傷を見つけた。蛇神の巨体からすれば微々たる傷だが、その傷を目にした蛇神は初めて狼狽した。
「やっぱりか」
 反対に僕は確信した。手の中にある小刀の柄を強く握り返す。その刃には銀が練り込まれていた。

「可能性としては、あるかもしれない」
 床に並べられたものを見て、桐谷は言った。
 並べられているのは、僕のカフス、桐谷のピアス、斑鳩のメガネ、山里の腕時計だ。
 これらに共通するのは、すべて銀が使われているということだ。
「物語に出てくる吸血鬼、人狼など、不死身の怪物は銀を嫌います。なぜか、と言われると説明はできないんですけど。でも確かに銀イオンは消臭や殺菌などに使われるほど強力な殺菌効果を持ちます。もし仮に、仮にですよ。怪物たちの持つ再生能力が、バクテリアや菌の強い増殖能力から来ているのなら」
 桐谷が立てた仮説はこうだ。蛇神の体にはそういうバクテリアがいる、もしくは半分バクテリアで出来ている可能性がある。
寄生しているのでは、と彼女は言い換えた。
「アブラムシの細胞の中にはブフネラというバクテリアが共生しています。ブフネラはアブラムシの中に住む代わりにアミノ酸をアブラムシに供給し続けるのです。細胞単位で共生する微生物がいるのですから、再生能力を飛躍的に上昇させる微生物が共生していてもおかしくありません。異世界って言う、この血なまぐさいファンタジーなら何でもアリです。多分」
「ようは、その微生物? とやらをなんとかして、あの蛇神を再生させないようにすればいいのね? それには、この銀を使えばいい、と」
 クシナダの問いに、桐谷は「もしかしたら、仮定に仮定を重ねた話の範疇ですけど」といった。
「でも、そう考えると、話がつながると思うんです。食べられた人は、全員服を着替えさせられているか、裸でした。あのお金持ちそうなおばさんも、つけていた貴金属は全部外されていた。タケルさんがダイコクさんから聞いた話だと、あの蛇神から生贄は着替えさせるように、と、先祖の皆さんに伝えたそうですし。反対に、私たちは着の身着のままで、食べられなかった。身に着けていた共通のものというと、麻、絹、ポリエチレンなどの服の材料やゴム、革などの靴の材料と、この銀も含めた金属類です」
 服に効果があるとはあまり考えられない。なら必然的に、効果があるのはこの金属類ということになる。
「クシナダ。こういう、鉄以外の鉱物ってこの辺りで取れる?」
 僕の問いに、クシナダは下唇を軽く噛みながら首をひねる。
「どうだろう。過去にご先祖様たちが蛇神と戦った時、持っていたすべての鉄とか、そういうものを溶かして武器にして戦ったはずなんだけど」
「銀がなかったから、負けてしまったのかもしれないですね」
「は。案外効果なかった、ってオチもあり得るだろ」
 希望的と悲観的な観測を言ったのは桐谷と斑鳩だ。
「どうしてそういうこと言うんですか。これから戦おうって時に」
「ふん。どんな可能性でも考えておくのは当然だろ?」
 桐谷の非難を斑鳩が生意気な理論で切り返す。それを「まあまあ」と山里が仲裁に入る。
「効果のほどはさておき、ここにある銀のみで対応しなければならないね」
 早速作業に取り掛かろうとする山里。腰を上げて、ふと、僕らに問いかける。
「その、たとえ効果のある武器が出来たとして、それは誰が使う?」
 当然の疑問だった。武器は誰かが使ってこそ武器たり得る。誰も使わない武器は、ただの飾りだ。この銀で傷をつけるということは、あの蛇神と面と向かって戦わなければならないということだ。しかもこの分量では練り込んだとしても一つか二つ。
「村のみんなにも聞こうとは思うんだけど、もし、誰もいなければ私が」
「ああ、それなんだけど・・・」
 申し訳なさそうに、大人の義務感からか立候補しようとした山里の言葉をさえぎる。
「僕に任せてくれない?」
 申し出た理由は、そこが一番死ぬ確率が高そうだからなのと、あの蛇神を前にして動ける人間を合理的に判断した結果だ。別段そこまで協力してやる義理はないのだけれど、まあ、クシナダの依頼の続きってことで片付けよう。
「・・・いいのね?」
 うかがうように、クシナダが尋ねてきた。
「死ぬかもしれないわよ?」
「前も言ったと思うけど、僕はこの世界に死ぬために来たんだ」
 そういうと、彼女は大きく息を吐いて「前にも言ったと思うけど」と、腰に手を当てて呆れたように。
「あなたに死なれると困るのよ。戦いに行くあなたが死ぬってことは、負けてるってことじゃない」
「あ」
 それもそうか。
「だから、生きて帰ってきなさい。そしたら、私がとどめを刺してあげるから」
「何とも魅力的な報酬だ」

「やっぱり、そうだったんだな」
『何がだ。この程度のひっかき傷をつけたことで、我に勝てると思い上がっているのではないだろうな』
 禍々しく唸る蛇神だが、その恫喝に怯えることはない。仮定は正しかった。なら勝率がゼロから一気に跳ね上がる。せっかくの勝負だ。勝ちにこだわるのは当然だ。
「思い上がってるのはそっちの方だろ。もうお前は不死でも何でもない、ただのでかい蛇だ。ただの蛇なら、こっちにも勝算はある」
 手を広げて、周囲をアピールする。一面に、この戦いのために作られた罠や仕掛けの数々が張り巡らされている。
「ここは、お前があそこでくたばらなかった場合の次の策だ。僕らの浅知恵を見破ったようにぬかしてたけど、逆だ。そっちが嵌められたんだ。僕らはお前が次にどういう風に行動するか大体読めていた」
 これに関しては桐谷のお手柄だ。彼女は蛇神のこれまでの言動から思考や行動パターンを解析してみせた。
「尊大で傲慢な相手の思考回路なら読めますよ。多分、この世界では誰よりも」
 傲慢な父親の相手を十数年続けていた彼女にしかできない自信に満ちた発言だった。元の世界に還ったら、精神科医や犯罪心理学者、刑事になればいいと思う。きっと、素晴らしい業績を残すはずだ。
 彼女だけじゃない。ただの木と鉄からパイルバンカーやこの場にある罠の数々を創り上げた山里の物作りに対する情熱とその技術は驚嘆に値するし、斑鳩の知識は素人の僕たちから見ても凄くて、将来が楽しみな逸材だ。
 なぜ、あちらの世界でも必要とされるような逸材たちがここにいるのか。僕の仮説は徐々に固まり出していた。神の思惑の一端を掴み始めている気がしていた。
『馬鹿め』
 僕の思考回路は、蛇神の唸り声によって運転切り替えを余儀なくされる。
『嵌めた、だと? 読めていた、だと? 笑わせてくれる。たかがかすり傷一つ負わせたくらいで勝った気でいるのか? 愚か、愚かなり』
 ぐぅっと鎌首を持ち上げ、高所から見下ろす。赤い瞳が僕を睨みつける。仮説も後の答えあわせも、こいつを退けなきゃいけない。
『人間風情が、神に勝てると思うな!』
 吐き出した息と怒気がびりびりと皮膚を打つ。腐っても神、迫力満点だ。
「御託はいいよ。前にも言ったろ? 喰うのか? 喰わないのか?」
 言い捨てて、手元の小刀をアクロバティックに宙へ放り投げた。ヒュンヒュンと風切音を立てて落ちてきたそれをキャッチし、切っ先を蛇神へむける。
「さっさと答えないと、僕がお前を喰っちまうぞ」
 返答はなかった。溢れ出る怒りが言葉を失わせたのかもしれない。大きく口を開けて、蛇神が迫ってきた。ちゃちな天羽々斬を握りしめて、僕は真横に飛ぶ。

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 ―同時刻―  
 タケルと入れ替わったクシナダは、彼と蛇神を追って山中を走っていた。さっきまで来ていた女官の服を脱ぎ棄て、普段の動きやすい服に着替えていた。その手には斑鳩が設計した弓が携えられ、肩には矢筒をたすき掛けにしている。


 それは、ちょうど蛇神とどう戦うかを村人全員で話し合っていた時だ。
「この村で、一番弓が上手いのって誰なの?」
 タケルがポツリと、誰彼ともなしに尋ねた。宴会の時に出た肉料理は、牛の肉とは思えなかった。猪や鹿だろうと彼は予想していた。猟をするのなら、弓矢などがあるはずだ。
「弓がどうかしたの?」
 クシナダがタケルに問う。村人の大半は彼らに対して警戒心を抱いているのか、いまだに話しかけたりすることはない。自然、間に入るのはクシナダ、稀にダイコクという風になった。
「いや、銀を矢じりに混ぜて射れば、それなりに効果があるんじゃないかと思って。遠くから攻撃できるってのはやっぱ有利なんだよ」
「そりゃその方がいいんだろうけど、大丈夫なの? 銀って少ないんでしょ?」
「少ない、けど、練り込むだけなら矢を数点用意できるってのが山里さんたちの見解。銀製の武器が欲しいってわけじゃなく。銀の成分がほしいだけなら鉄とかに混ぜ込んだ方が固いし壊れにくいらしい」
 銀そのものは柔らかいしね、と彼は付け足す。
「もちろん当てるだけじゃダメ。確実に痛手を負わさないと。となると、一番効果がありそうなのは目だ。頭に近いし、視界も防げる。けど、いくらあいつの目が人の頭よりでかいからって、高速で這いずりまわる蛇の目を射るんだ。腕がよくなくちゃ話にならない。加えて、矢が刺さる距離まで近づいてもらはないといけない。ので。端的に言ってしまうと、矢が刺さるまで蛇神に近づき、喰われるその一瞬前まで目や急所を射続ける技術と度胸を持った人はいる?」
 しん、と場が静まり返り、居心地の悪い空気が流れ始める。村人には生まれてすぐに植え付けられた蛇神への恐怖心がある。一種のトラウマだ。それを振り払って立ち向かえるものなどいないのではないか、と桐谷は分析していた。事実、男衆の誰も、あのダイコクでさえ二の足を踏んでいる。やっぱ無理かな、などとタケルが考えていると真っ白な手が挙がった。どよめきが起こる。
「私がやる」
 皆の視線の先にいたのはクシナダだった。
「これでもみんなと一緒に狩りに出てるの。腕もそこそこ良いわよ」
 誇張でも何でもなく、クシナダの腕は村でも一、二を争う。タケルは意外そうに彼女を眺めて
「良いの? 高確率で死ぬと思うよ?」
「あなたに言われたくないわ」
 クシナダよりも死ぬ可能性が高いのは、直接戦う彼だ。
「あなたに任せきりは嫌なだけよ。私たちの運命なのよ? 私だって戦うわよ」
 心配の言葉の代わりに口をついて出たのは、対抗心と意地。それを聞いたタケルは「へえ」と目を見開いた。
 しばらく待ったが、他に誰も候補者が出てこないので彼女が射手に決まった。ダイコクが一応立候補したものの、猟の時の彼は主に罠を仕掛けたり、槍で突いたり、仕留めた獲物を運搬するなどの力仕事が主で、弓など使ったことがなかった。ただ自分の許嫁が危険な目に遭うのが黙ってられなかったようだ。その心意気は買う、とやんわりとクシナダに止められた。
「そうと決まったら、さっそく弓の調整をしなければならないね」
 タケルが言う。
「調整?」
 弓を使うのに何か準備がいるのだろうか? 訝しむ彼女を見て「僕も詳しく話知らないんだけど」と山里たちがいる工房へ行くように言われた。
 言われた通りに工房へ赴いたクシナダが、さっきと同じ質問をぶつける。その説明は、斑鳩の方がしてくれた。
「あんた用に弓をいじるんだよ。弦の強さとか弓の大きさ、重さ、あんたの腕の長さ、腕力などから、あんたが一番射やすい弓を作る。構えから射るまでの速さだって計算にいれっからな」
「そんなこと言ったって、弓はしょせん弓でしょ?」
 そういうと斑鳩は鼻で笑い飛ばした。
「そう思うなら、こいつを使ってみろ」
 斑鳩が取り出したのは、これまで彼女が使っていた弓とはところどころ違っていた。
まず、これまでの弓が一本の枝から作られているのに対して、これは木片や鉄の棒などいくつかの欠片が集まって弓の形をとっている。
真ん中にある取っ手には半円状のくぼみが四つあり、掴むと、そのくぼみに指がしっかりとはまり、これまでの物より掴みやすい。
しなる部分は取っ手とは別の素材を組み合わせており、その先には円状の部品がついていた。弦は二本、弓の両端にあるその部品にひっかけるようにして張られていた。
普段の弓とは全く違う、異質な弓を手渡されて戸惑うクシナダに斑鳩は言った。
「普段使うように、それで矢をつがえてみな。そう、そこの弦に矢をかけて」
 言われるがまま、半信半疑で矢をつがえる。弦を引いたとき、疑惑は驚きに変わった。
「軽いだろ?」
 クシナダの心を読んだかのように、斑鳩が得意げに言う。
「弓の端、先っちょについている滑車のおかげで、強い弦を簡単に引くことができる。そして強い弦を使っているからこそ、威力も飛距離も跳ね上がる」
 早速試射してみようと彼女は外に出た。あたりはすでに日が沈んではいたが、月と星灯り、そして夜を通して行われている広場の篝火のおかげで視界は確保できていた。彼女に続いて、斑鳩と山里が外に出てきた。
「一応、明日から始めようと思って的を作っておいたんだけど」
 山里が指差す方向に、鉄の棒が地面から突き刺さっていた。棒の先から紐のついた球がぶら下がっている。あれが的なのだろう。大きさも高さも、蛇があそこに横たえていたら、ちょうど目がある場所に合わせて設置しているようだ。
「ここからあそこまでが約九十メートルある。アーチェリー競技の最大距離と同じだ。理想を言うならこの距離で当てたい。まあ、最初はもっと前から、徐々に練習して距離を・・・」
 山里の話を聞き終える前に、クシナダは構えを取った。その構えがあまりに美しく様になっていて、なんだか侵すべきではない神聖なもののように思えて、山里は提案しようと開きかけた口を閉じた。斑鳩でさえ、今の彼女の姿を見て無駄口を叩かずに見守っていた。
 薄明かりの中、弓を引き絞り、照準を合わせる。風の向きや強さを体の感覚で見当を付ける。そこから放物線の軌道を頭の中に思い浮かべる。想像の中で矢が飛び、的を射る。想像と現実の誤差が徐々に縮まり、零になった。
 つがえていた矢を離す。
 弦が震える。滑車が回る。
 カァァァァアン
 木製バットが真芯でボールを捉えたような、景気の良い音が響いた。
「もう少し、弦を強くすることはできる? 遠くに飛ぶようにできる?」
 それが、クシナダが自分たちに問いかけているのだと把握するのに少し時間が必要だった。はっと我に返った山里と斑鳩は「あ、ああ。もちろん」「お、おう。貸せ」とあわてて返事をする。
 九十メートル先の的が揺れている。ど真ん中から突き抜けた矢じりが鈍く輝いていた。

 息を切らせながら、クシナダは山を駆け上がっていた。一秒でも早く、タケルたちが狙撃位置と決めた場所へと。早く辿り着けばそれだけ成功率が上がる。そして、あの男が生存する確率も上がるだろう。あの男はどうせ死にに来たんだから、と笑うだろうが、クシナダは彼を死なせるつもりはなかった。むしろ絶対に死なせないと決めていた。それは彼を救いたい、などという綺麗な感情ではない。あの死にたがりの男を死に損なわせて、ざまあみろと言って笑うためだった。
今日まで、自分をはじめ村人たちはあの男に見下され、嘲笑われていた。たかが死ぬことが怖くて、他人を犠牲にしてきた矮小な者たちだと思われていた。もちろん表だって彼がそんなことを言ったためしはないし、ただの被害妄想かもしれない。けれど、彼は気づいていない。彼の言動が、自分たちの今まで培ってきたものや築いてきたものを全否定し、今この状況を作ったのだと。これだけ引っ掻き回しておいて、あっさり死んで、はい、終わり、と勝ち逃げさせるわけにはいかなかった。
 そう、これは神との戦いでありつつ、あの男との勝負でもあると、クシナダはそう考えていた。
 彼女がようやく辿り着いたそこは、深い森の木々の囲みから突き出した、切り立った岩壁の先だった。その先端に立ち、見下ろす。森が広がる大地がここから一望できた。
 いた。
 視界をふさぐ木を伐採したために、そこだけがぽっかりと穴が開いたようになっている空間がある。中心にいるのはタケルだ。そのタケルを食いちぎろうと蛇神のアギトが、押し潰そうと巨大な質量を伴った胴が、粉砕しようとしなる尾が襲いかかる。荒れ狂う嵐が全てを飲み込み、薙ぎ払おうとしている、そんな状況を彷彿とさせる光景だった。
その中を彼は縦横無尽に飛び跳ね、場に仕掛けた罠や移動用の綱を駆使して際限なく襲いくる蛇神の猛追を避けていた。他の者ならば睨まれた時点で身動きが取れなくなるというのに、彼は避けるに加え、隙を見ては蛇神の胴を切り付け、手傷を負わせている。並大抵の身体能力と精神力ではない。一歩間違えば即、死につながるあの状況で、タケルは戦っていた。
しかし、旗色が悪いのは明らかだ。彼の攻撃は蛇神を傷つけはするものの、致命傷には程遠い。あの程度の傷など再生するまでもなく、何の痛痒も感じないだろう。
反対に彼の動きが鈍っている。反応が悪い。目の前の牙は避けられても、後ろから迫る尾への対処が遅れがちになっている。肩を大きく上下させ、呼吸も荒そうだ。体力の限界が近いのかもしれない。当たれば死に直結する攻撃を避けているのだ。精神など根菜のように簡単にすり減っているはずだ。
 矢筒から矢を取り出し、つがえる。
 銀を練り込んだ矢は三本あるが、この一本で決めるつもりだ。仕損じれば、貴重な武器を失い、しかもこちらの存在を明かしてしまうことになる。今はタケルに集中していて気づかれていないが、もしこちらの存在に気づけば、倒すのが困難な彼よりも、こちらを優先して殺しに来るだろう。
 呼吸を整える。弓を握りなおす。観察する。矢の到達時間と蛇神の動きを測る。
 さっきから何がうるさいのかと思えば、自身の心臓の音だった。
「うるさい、黙れ。一瞬で良いからっ」

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 巨大な丸太の杭が横合いから蛇の体を打つ。最後の大がかりな罠だ。衝撃が空気を揺るがせる。トラックが衝突したみたいだ。が
『小賢しい!』
 蛇神はブルリと体を震わせた。圧し掛かっていた何百キロあろうかという大木が、いとも簡単に払われる。時間稼ぎにもならない。プレデターならこれで一発なんだが。
『どうした! これで終いか!』
 いまだ意気軒昂らしい。こっちはとっくに体力の限界なのに、元気な奴だ。
 声を出す元気ももったいなくて、鎌首をもたげ、こちらを見下ろす巨体を見上げる。すぐに襲い掛かってくるかと思いきや、そうはならなかった。首をゆっくりと、鉛筆削りの取っ手のように回して言った。
『何がおかしい』
 何のことを言われているのか、最初は全く分からなかった。自分のことを言っているのだと理解して、頬に触れる。そこから、なぞるようにして口元を拭う。口は、三日月形を描いていた。ようやく、自分の顔が笑みの形をとっているのだと把握した。
「ふ、へへ、へへぇ?」
 笑っていると気づいて、おかしさがこみ上げてきた。こんなに苦しいのに、全身が痛んで軋んで辛いのに。僕は今、楽しいのか。充実しているのか。
 自分自身に問いかける。何が楽しいのか。
 戦うこと? 敵に立ち向かうこと? それらが生きがいになっていること? どれも当てはまり、そのどれも決定的じゃない。
 復讐だ。これは。
 僕をこっち側に送った方の神も言っていたじゃないか。世界を自分で変える気はなかったのかと。それは、自分たちにやさしくなかった世界に復讐しようとは思わないのかってことだったのだ。見抜かれていたのだ。僕がそういうトチ狂った人間だと。
姉さんが死んでから一番充実していたのは、姉さんを殺した奴らに復讐することだった。敵を倒すという快感をそのとき知ってしまったのだ。一つ一つターゲットを仕留めては名簿に罰印をつけていた。まるで指折り誕生日を待ち焦がれる子供のようにわくわくした。
「ああ、楽しいよ。楽しいね。チクショウが。復讐が終わってすっかり忘れていたよ。僕は、こういうのが楽しくて楽しくて仕方ない大馬鹿野郎だってことをさ。復讐が、憎しみをもって敵を屠ることが好きで好きで仕方ない壊れた人種だってことさ」
 そりゃ、あの世界も僕を切り捨てる。あの世界で僕のような人種は百害あって一利なしだ。
「ずっとずっと、こうやって踊ってたいね。蛇神、あんたは最高だ。この程度で簡単に死なない。どころかどれだけ挑んでも跳ね返される。最高の敵だ。大好きだよ」
『狂人が。腐り者が。化け物が! 我は貴様の相手をするのはもう飽いた。死ね。死ね! 貴様の肉など一片たりとて喰らってやるものか。貴様はここで朽ちろ! 朽ち果てて蛆虫の餌になれ!』
 蛇から憎しみがあふれる。憎悪が叩きつけられる。心地良いと思ってしまう。これを飲み干して、喰らい尽くしてやる。
 もはや言葉を交わすことはない。蛇神が首を九十度ひねり、大きく口を開けて迫る。時間がスローになる。脳内に分泌されたアドレナリンの効果だろうか。迫りくる大顎も、鋭い牙もゆっくりだ。自分の体ものんびりと合わせて動く。知覚だけが別の時間軸で動作している。タイミングを合わせるのなんかバッティングセンターの九十キロボールに合わせるのよりも簡単だ。
 僕は後方へ飛ぶ。蛇の顎が並走する。閉じられる前に、先に到達していた牙に足をかける。階段を駆け上がるように、牙を踏み台にしてジャンプする。一拍遅れて顎が閉じられ、僕の足元を蛇神の巨体が行き過ぎようとする。
 その背に飛び乗る。慣性でぐらつき、思わず這いつくばる。
『汚らわしい!』
 蛇神の怒声。足場の胴がブルリと揺れる。振り払おうというのか。そうはさせない。波打つ胴に銀の刃を突き立てる。一度、二度と体は跳ねるが何とかこらえる。顔を上げた。目の前に再び蛇神の顔面が迫る。
ああ、あれに似ている。映画で、地下鉄の屋根で戦うシーンだ。すれ違う電車がいとも簡単に犯人の首を飛ばしていったあれだ。
刃を横に向け、蛇神の胴を捌くようにして上から身を滑らせる。はたして思惑通り、体重を乗せた刃は蛇の胴の半分まで切り裂き、途中で止まった。切れ味が中途半端で助かるというのも珍しい話だ。
一息ついたのがまずかった。蛇神が体をわざと大木に叩きつけた。刺さっていた刃が抜ける。僕の体は宙を舞い、生い茂る枝葉の八重垣を突き破っていく。
何度か地面をバウンドしてようやく止まった。体で痛くないところがない。それでも立ち上がろうと、四つん這いから、膝を立てる。顔を上げた。
真正面に、目標を定めた蛇神の頭があった。赤い目がこちらを見据えている。喜悦に歪むように蛇神の頭に亀裂が入り、口がカパッと開く。唾液が糸を引き、チロチロと赤い舌が揺れる。
あの口の中に飲まれることを覚悟した。それでも喉に突き刺さる小骨のようになってやろうと、吹き飛ばされても離さなかった刃を握りなおす。

 ドジュ

 何とも形容しがたい水っぽい音が響いた。唖然とする僕。そして何が起こったかさっぱり理解できていない蛇神。一秒にも満たない刹那の時間、僕らはまるで狐に化かされたように停止して
 目に見えない膜の様なモノが僕の鼓膜と体の前面を強打した。
地面を揺るがすほどの蛇神の叫び声だった。遅れて、僕の顔体中にぼたぼたと血の雨が降り注ぐ。
三半規管が揺るがされるほどの酷い耳鳴りを無理やり抑え込み、僕は見た。蛇の左目があった部分に、真っ赤な矢羽が突き立っている。血は、そこから噴水のように噴出していた。
『おのれ、おのれおのれオノレェッ!』
「はっはーっ! やるなぁ!」
 呪詛が振り撒かれる。それを打ち消すような歓声が、諸手を挙げたまさかの僕の口から飛び出した。
 あの岩場からここまでかなりの距離があったはずだ。蛇神のでかい目玉であっても、あそこからなら針の穴より小さいだろう。それを見事に命中させるなんて大したものだ。
 ぐるりと蛇神が頭を巡らせる。矢の飛んできた方向だ。
『そこかァッ!』
 目の前の僕に目もくれず、体をくねらせて岩場の方へ行こうとする。標的は手傷を負わせた憎き射手だろう。
 頭に血が上ると、単純な行動パターンを取り始める。これも桐谷の予測通りだ。蛇神の頭の中では、憎さの優先順位が僕からクシナダに移ったのだろう。合理的に、一番弱っている敵を一つずつ倒していくということが全く考えられない。
 しかし、このままだとクシナダは死ぬ。いかに手傷を負わせたとはいえ、それでも死には至らない。
 僕はクシナダを追う蛇神の胴に飛びついた。這いずるスピードがざらざらの鱗を紙やすりのようにしていて、僕の手や頬の肉を削る。右手の小刀を突き立て、滑る体にブレーキをかける。蛇神はすさまじいスピードで、わき目も振らずに進む。この先はあの射撃ポイントだ。迷いなくクシナダを追いつめている。命中した後はすぐに離れろとは言っておいたが、どこまで逃げることが出来たのやら。
 走る蛇の背を、赤ん坊のように四つん這いになって体制を整える。這って頭まで行こうとすれば、クシナダどころか村を滅ぼすだけの時間を与えてしまう。
 戦略的にそれはよろしくない。クシナダが何の妨害も受けずに蛇神の目玉を射ることが出来たのは自分に気を取られていたからだ。
 クシナダに気を取られているのであれば、今度はこちらの攻撃が上手くいく。
「はン。試練の道ってのはどこもかしこもこんなもんなのか」
 昔読んでいた漫画の主人公は、死後の世界で生き返るために長い長い龍の背を模した道を走り続けていた。今度は自分が、死ぬために蛇の背を走ろうとしている。
 意を決して、小刀を引き抜く。足先に力を込めて蹴る。鱗のおかげで滑ることがないのが幸いだ。グネグネと曲がる背中の、その曲がる方向や位置を予測し、また面前に迫る枝葉の障害を躱しながら走り抜ける。
 走行距離は五〇メートルもなく、小学生の子どもでも十秒とかからない距離だ。全然大したことじゃない。
 頭部が見えたとき、ついでに目も疑った。
 クシナダが、無謀にもこっちに向かって矢をつがえ構えていたのだ。
 彼女らは非常に目がいい。多分聴覚とか嗅覚とかも、僕らの様な人種よりはるかに良いだろう。逃げきれないことを悟って、その前に一矢報いようとしているらしい。やれやれ、諦めたらそこで人生終了だろうに。
『貴様か娘ッ』
 蛇神が叫ぶ。本物の血の涙を流しながら、もう片方の目玉が彼女を捉えていた。
 彼女までの距離はおよそ百メートル。蛇のこの速度なら十秒ほどだ。
 僕は走った。その背を、ざらざらの鱗を踏みしめながら頭に向かって走った。
 クシナダの姿が鮮明に見え始めた。
 震えている。そりゃそうだ。これまで絶対の存在、死の象徴だった化け物が、自分めがけて憤怒の形相で迫ってきているのだ。そりゃビビる。
それでもなお、彼女は弓を取り落さず、歯を食いしばり、震えをこらえていた。あの夜のように。使命のために己の恐怖を飲み込んでいた。
「馬鹿だなあ、本当に」
 こんな時だというのに苦笑が漏れる。安心しろ。あんたのもとにまで、この蛇神はたどり着けないさ。
 蛇神が胴をグググッと持ち上げる。食いちぎる一歩前の動作だ。急こう配となった背を僕はスピードを殺さないように全力で駆け上がる。
大きく開いた口、その開口面前に彼女がいた。
 クシナダが弓を射る。狙い違わず、矢は口の中へと吸い込まれる。
『こんなものでえええぇ!』
 止めることなどできない、とでも言いたいのだろう。
「じゃあ、これならどうかな?」
 追いついたぞ。とうとう僕は、蛇の頭に辿り着いた。
 狙うは、残った右目だ。
『ッ』
 ぎょろりと赤い目玉が限界まで見開かれる。頭を振ろうとするがもう遅い。小刀は、吸い込まれるようにその切っ先を目玉のど真ん中に滑り込ませた。それだけで止まらず、僕はそのまま右腕を肘あたりまで突きいれる。
 蛇神が本日二度目の絶叫を上げた。音の直撃を受けて、耳どころか頭にまで揺れと痛みが訪れる。完全に聴力がイカれた。ちらりとクシナダが視界に入る。耳を押さえ、苦しそうに蹲っていた。片目をこわごわと開き、その目が僕を見つけた。何かを叫んでいるが、さっぱりわからん。無音じゃない。誘蛾灯が発する音をもっと小さくしたような嫌な音がただ耳の奥で鳴っている。
 苦痛からか、蛇神が大きく左右に頭を振った。二度、三度と振られるたびに踏ん張っていたが、体にかかる強烈な横Gに負けて吹き飛ぶ。バキベキボキと小枝をへし折り地面に叩きつけられ、二度、三度とバウンドする。強く背中を打って呼吸ができない。全身の節々がさび付いた歯車よりも酷く音を立てて軋む。視界が霞む。舌の上には鉄くさい味が広がる。もういっそ、死ねよ僕。どうしてここまでボロボロにされて生きているのかさっぱりわからない。ダイハードにもほどがある。
 バラバラにされたように思うように動かない四肢に何とか命令を下して、無様にも何度もそれに失敗しながらも、時間をかけて体を起こす。初めて立とうとする赤ん坊よりも不恰好だ。頼りの小刀も、いつの間にかなくなっていた。多分、さっき吹き飛ばされたときに手放してしまったんだろう。とうとう武器もなくなった。
 少しずつ耳があの嫌な音以外を拾い始め、靄がかかったようだった視界も鮮明になってきた。
『許さぬ、許さぬぞ』
 届いてくるのが呪詛の声なら、まだあの音の方が耳触りが良かったな。だが、面白いことが分かった。
 蛇神が、違うことなく僕の方を睨みつけているのだ。潰されたはずの両目でだ。
すでに苦痛のうめき声は鳴りを潜めていた。というよりも、それを上回るほどの憤怒と憎しみが脳内でアドレナリン的な物質を分泌させて忘れさせているのだろう。
しかし見えていないはずの目でどうして僕を捉えられているのだろうか。偶然か? 痛む体を引きずって、少し移動してみる。蛇神の頭は、僕を捉えたまま確実にトレースしてくる。
『逃げようとしても無駄ぞ。我はこの地の神、支配者。貴様ら家畜だけでなく、木々に草花、風、大地すら我が僕。伝えてくるのだよ。貴様がそこにいると』
 ああそうかい、と言った心境だ。ようは、この蛇神さまは五感に優れまくっているのだ。木や草が僕に触れれば音となって、風は僕の匂いを運び、地面は歩いた時の振動が伝わるのだ。全身が非常に強力なレーダーなんだ。つくづく今回の作戦は綱渡りだったなと思い知る。目に頼らず、この感覚すべてを使われていたら途中でばれていたかもしれない。そうならないように心理的に相手を優勢に立たせて、有頂天状態にしておいたわけだが。それでも慎重にされていればばれていた。
「逃げる?」
 どうせばれているなら、声を大にして自己主張をしてやろうじゃないか。
「どこに逃げるってんだ。こんな異世界に飛ばされて、全身は内も外も傷だらけでボロボロだ。逃げることなんかできやしないよ。
どうせ帰る家も故郷もない。未練もない。どうせ死ぬはずだったんだ、命すら、惜しくあるもんか。ただ、意外とさみしがり屋ってことが最近分かってね。
黄泉路にご同行願おうかな。クソッタレの神様」
 声とはもはや言えない、ただの獣の叫びが響く。負けじと、僕は笑い声をあげる。
 再び襲いかかろうと蛇神が首を高く掲げて、途中でそれを僕から背けた。何事かと訝しむが、すぐに理由は分かった。頭のところに矢が刺さっている。
「こっちよ!」
 風鈴のように凛と鳴る声だ。声の先に、弓を構えたままのクシナダが立っていた。
『そうかよ、娘ェ、そうか、そこまで先に死にたいかっ!』
 標的が変わった。こりゃまずい。僕は言葉にならない悪態を吐いて、力が全くこもらない足を前に出す。動け、動けと脳から心臓に無理やり血液循環の命令を下す。嫌そうに、それでも生きる義務感からか心臓は足に血液を送る。血液は酸素を運び、たまった乳酸を足から流そうと働く。
僕にとどめを刺す役割のあんたが、僕より先に死のうとするってどういう了見だ。
反転した蛇神の背を追う。その先にクシナダはいた。岩の足場を野生のシカみたいに飛び跳ねながら登っていく。さすがにそこまで登れば、蛇神の追走からいくばくかの時間は稼げるはずだ。その間に、僕がとどめを刺せれば上々。時間を少しでも稼げればそれでいい。あの蛇神がくたばるのは時間の問題だ。
残り一段、と言ったところで、蛇神が崖の下側にその身を打ち付けた。辺り一帯に地震の如き振動が走り、彼女の足場を揺らす。短い悲鳴を上げ、彼女はバランスを崩した。
『あァアアああああッ』
 体勢を素早く整えた蛇神が、空中で背面とびの途中みたいになっているクシナダめがけて体を跳ね上げた。
「くぬぉっ」
 苦し紛れ、悪あがきとばかりに、クシナダは岩場の先端を力任せに蹴った。方向も定まらない無謀なそれが、結果的に功を奏した。たとえ匂いと音で居場所が分かっても、視力を失った蛇神にとって、移動する目標を追尾するのはなかなか難しいらしい。蛇神の牙は彼女から逸れて空を切った。風圧で流された彼女の体が、丁度僕の進行方向めがけて落下してくる。有名なアニメ映画のワンシーンのようだ。違うのは、彼女は自由落下してくるってだけ。彼女には羽も、空飛ぶ石もない。
「こちとらヒーローでもないのになんなんだクソ!」
 悪態を吐いて、それでも僕は足を止めずに走る。落下地点に先回りする。彼女が降ってきた。
 空を切った蛇神のアギトが軌道を変え、こちらを向いて、クシナダを追って降下してきた。僕は降ってきた彼女を真正面ではなく横向きにキャッチし、ハンマー投げのように体を回転させて落下の力の向きを横へ変化させた。そのまま投擲。運がよけりゃ草木がクッションになるだろう。後のことなんぞ知るか。
 一回転して見上げたら蛇のアギトが面前に迫っていた。避けられないのは明白。もとより避けるつもりはない。
 見つめるのはただ一点。蛇の口の中に刺さったままの矢だ。こちらに対して垂直に向かってきている。山里みたいに目分量で測ることはできないが、あの矢の刺さり具合から、脳天に向かっているのではと推測できる。蛇を殺すには頭を潰すもの。さすがに脳が再生不可能になれば、こいつだってくたばるだろう。
『死ねぇえええええええ!』
「お前もな」
 防御は一切無視して、僕は拳を突き出す。矢を押し出し、反対に指が砕ける感触。腕の肘までが、蛇神の口内に突き刺さっていく生々しい感触。それを最後に、僕の意識は完全に闇に飲まれた。

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クシナダは目を覚ました。
「生きてる?」
 さっきまで、自分はあの恐ろしい蛇神と戦っていたはずだ。矢を射て、見事目を奪い、彼がもう片方の目を奪った。それでもかの蛇神は死なず、満身創痍の彼を襲おうとしていた。その意識を自分に向けさせ、逃げていた途中ではなかったか。
「そうだ、彼は? 神はどうなった?」
 意識がはっきりとしてくるにつれ、記憶も徐々に戻り始める。落ちてきたところを助けられたこと、そのまま投げられたこと、そしてその一瞬後に、彼を蛇神のアギトがのみこんだこと。クシナダが見ていたのはそこまでだ。さすがに落下の衝撃をすべて消せるわけがなく、すっ飛んだ先にあった大木に激突し、意識を刈り取られていた。
 体を起こす。痛みはあるが、我慢できないほどではない。辺りを見渡す。少し坂を転がっていたようだ。体を起こして、坂を上がる。
 蛇神がそこにいた。ただし、以前のようなおぞましさも迫力も恐怖も感じない。蛇神は長い舌を口からはみ出させ、そのままピクリとも動かないまま横たわっていたからだ。
「死ん・・・だの?」
 ゆっくりと近づく。近づけば近づくほど、視界から蛇の巨大がはみ出していく。こんなものと戦っていたのだと、改めてぞっとする。
 だが、それも終わったのだ。自分たちはその恐ろしいものに打ち勝った。もう怯えながら生活することはないのだ。
 目当ての一つは見つかった。もう一つはどこか。頭を、目を巡らせる。蛇神の死体がここにあるなら、彼もここにいたはずだ。そう考え、あたりを捜索する。
 初めは見間違いかと思った。だが、あれは、あの蛇の口の端から飛び出しているのは、見慣れない異世界の靴だ。
 弓を投げ捨て、たすき掛けしていた矢筒をもどかしく思いながら外し、駆け寄る。蛇神の口元によるのに少しの勇気を必要としたが、それ以上に彼の安否を確認する方が勝った。どちらのかわからない血に染まった足を掴む。何度も手を滑らせながら、足首に何とか指をひっかけて引きずり出す。
 ずるり、ずるりと引き抜いた彼の体は、ボロボロだった。
 皮膚が見えているところには幾多もの切り傷、打ち身が見られ、服の下などそれ以上の状態だろう。一番ひどいのは右腕だ。本来の関節よりも折れ曲がる個所が二つも多い。しかも曲がらないはずの方向に曲がっている。指など二本は深い裂傷を負い、骨が見えて千切れかけていた。
「ねえ、しっかり! しっかりして!」
 あおむけに寝かせて、呼びかける。軽く頬を張る。しかし彼は目を覚まさない。ピクリとも反応しないのだ。
「まさか」
 クシナダは血で汚れるのも構わず彼の胸に耳を当て、そして口元に手を当てる。
 呼吸も鼓動もなかった。彼女の知識に照らし合わせると、彼はすでに死んでいた。
「ふざけ、ないでよ」
 あれだけ不敵に、皮肉げに嘲笑っていたのに、こんなあっさりくたばるなんて信じられない。信じたくない。こちらはまだ何一つ、鼻を明かしていないのに、感謝の言葉一つ返してもいないのに。
「ふざけないでよ! あれだけ好き勝手やってあっさり死ぬなんて許さないから! 言ったはず、言ったはずよ! あなたを殺すのは私だって! 何死んでんのよぉっ」
 すこしだけ声が濁ったのを、彼女が気づいたかどうか。
 止まった鼓動を無理やり動かすように、彼の胸を叩く。呼吸を促すように、口から息を吹き込む。何度も何度も繰り返す。彼女が、彼の住んでいた世界にあるような、救命のための応急処置を知らない。だが、これまでの経験と人体の仕組みを知識ではなく、本能のような部分でこうすればいいだろうと理解していた。
 幾度繰り返しただろうか、こんなことをしても無駄じゃないのかと弱気が頭をよぎったとき、彼の体がくの字に曲がった。あわてて体を離すと、彼は酷くえずき、口から血の塊を吐き出した。そのまま何度も何度も咳をして、止まった。また心臓が止まったのかと再び胸に耳を当て、ホッとする。弱々しくはあるが、それでも生きようと動いている音がする。本人の意志とは無関係に、だ。
「ふん、ざまあみろ、よ」
 クシナダの顔にようやく笑みが浮かぶ。
『お・・・・れ・・・』
 笑顔が引きつった。振り返る。
 蛇神は、いまだ生きていた。手元にあった弓は捨ててしまった。どうせ矢は使い切っていたので使うことなどできはしないが、それでも何か手元にあるのとないのとでは安心感が違った。横たわる彼の背中に手を回し、抱き起そうとする。だが、自分より体の大きい彼を抱きかかえてここから離れるほどクシナダには筋力も体力もなかった。抱えて逃げることも、置き去りにして逃げることもできない彼女は、彼を庇うようにして、恐ろしい蛇神の前に陣取った。目の前に、自分と彼二人分の体積よりも巨大な蛇神の頭がある。
 冷や汗を滴らせる彼女の心配と不安と恐怖に反して、蛇神はピクリとも動かなかった。ただその場で呪詛を唱え続けるだけだ。
『貴様らだけは絶対に許さぬ。我が恨み、我が憎しみ、その身に宿して、未来永劫苦しみ続けるがいい。貴様らはもう逃げられぬ。我が血を浴びた貴様らに待っているのは、死すら優しき地獄』
 憎しみを唱える蛇神の体の一部が、砂のように崩れた。それに端を発して、次々と体が崩壊していく。身も皮も骨も例外なく、ボロボロと崩れ、森に吹きぬける風に吹かれて消えていく。
 目の前から、蛇神の死体が消えてなくなった。まるでこれまで存在していたのが嘘のように、何も残さずにきれいさっぱり消え去ってしまった。
「なんだってのよ。脅かしてくれて」
 別に何も起こらないじゃないか。そう安堵の息を吐いた彼女が、どう運ぼうかと気を失っている彼に目をやったとき。彼女は蛇神の呪いを理解した。

そのあとのことを、少しだけ

 遠くから、笑い声が聞こえる。それも大勢の人の笑い声だ。何がこんなに楽しいのかってくらい大声で笑い転げているような感じだ。人がゆっくり眠ってるってのに、何ともはた迷惑な話だ。体は疲れているが、意識が完全に覚醒してしまった。
「ふむ」
 記憶が曖昧になっている。さっきまであの蛇神と戦っていたと思った。右腕を真っ赤な口の中に突っ込んだところ辺りまでは覚えている。推測するのも馬鹿馬鹿しいが、それで死ななかったってことは、蛇神が死んだってことか。
 瞼を開く。目の前に広がるのはうっそうと茂る木の枝葉じゃなくて、薄暗い天井だった。見渡せば僕たちが一週間過ごした大広間じゃないか。まあ、自分が布団に寝かされているな、とわかったときからこの状況は予想していた。大方、クシナダあたりが気を失った僕を運んでくれたんだろう。とどめは刺されなかったようだ。
 体を起こす。筋肉痛の様な鈍い痛みが全身に広がるが、動けないほどじゃない。あれだけボコボコにされたのにも拘らず、だ。自分の頑丈さにほとほと呆れる。本人の意志とは無関係に、体は生き残ろうと必死らしい。そんなに頑張ったって得る物なんぞ無いんだけどな。
 微かな軋み音を立てて、戸が開いた。
「起きたの?」
 クシナダだった。その手には桶と手拭い、腕には竹筒をひもでひっかけてあった。看病をしてくれていたのだろうか。
「体、大丈夫?」
「残念ながら、ピンピンしてるよ」
 そう言い返すと彼女は苦笑して「軽口が叩けるなら、もう大丈夫みたいね」と僕のそばに腰を下ろした。
「なんか、外が騒がしいみたいだけど」
 気になっていたことを聞いてみた。「ああ、あれ?」とクシナダは手元の桶に手拭いを浸しながら、どうでもいいことのように言った。
「戦勝祝いよ。昼間っから今までずっと、皆、歌って踊って、浮かれてる」
 はい、と彼女から差し出された手拭いを、礼を言って手に取る。それで顔をごしごしやる。冷たくて気持ちいい。顔にまとわりついていた泥のような疲れが拭われている感じだ。
「戦勝祝い、ね。てことは」
「ええ。蛇神は死んだわ。あなたのおかげで。みんな嬉しくて仕方ないの。ようやく、この村を縛る呪縛から解放されたのだから」
 そう言って彼女は居住まいを正し、僕に向き合った。
「村を救ってくれて、本当にありがとう」
 彼女は再び折り目正しく頭を下げた。「やめてくれ」と僕はため息をついた。
「感謝されるようなことをした覚えはないね。僕は、僕のやりたいようにやっただけだよ。それに、戦ったのは村にいる全員じゃないか。あんたを含めてね。感謝すべきは、褒めてやるべきは、自分たちだろうに」
「それでも、あなたたちがいなければ、今日はなかったわ。今日も明日も、十年後も百年後も、未来永劫呪われ続けていたことだろうから」
「ご満足いただけて何よりだよ。で、ついでに聞きたいんだけど」
「何?」
「僕を殺さなかったのか?」
「・・・どうして?」
 少しだけ、沈黙が流れる。お互いの顔を見合うだけの時間だ。
「忘れちゃったのか? あんたは神を殺したら、次は僕にとどめを刺す約束だったはずだよ? 前にも言ったはずだけど、僕の願いは」
「死ぬことだ、と言いたいんでしょ?」
 言葉をかぶせるように彼女は言った。なんだ、わかってるんじゃないか。
「まことに申し訳ないんだけど、あなたの願いを聞き入れるわけにはいかなくなったわ」
「どういうこと? いまさら、僕の一人や二人を殺すことをためらうこともないだろう?」
「そういうことじゃないの」
 そういうことじゃないのよ、とクシナダは少しだけつらそうな顔で僕から顔を逸らし、もう一度向き合った時には、真剣な表情になっていた。
「あの時、あなたが蛇神を倒した時のこと、覚えてる?」
「倒したことすら記憶にないね。ああ、あの馬鹿でかい口の中に刺さってた矢を、脳天に押し込んだところまでは覚えてるかな。そのあとはさっぱり。気づいたらここで寝てたよ」
「そう・・・。なら、あの後起こったことは、あなたは知らないのね」
 意味深な言葉に、僕は布団を引きはがして身を乗り出す。
「? あの後、僕が気を失っていた間に何があったの?」
 問い詰める僕に、クシナダは、少しの間口ごもった。まるで自分でも信じられないことを、どうにか無理やり理解して表そうとしているかのようだ。事実、彼女が言ったことは、僕にはしばし理解不能だった。
「あなたは、二度と死ねなくなったの。蛇神の呪いのせいで」
「何言ってんだよ。死ねないって、あの神様じゃあるまいし」
「その蛇神の呪いだからよ。タケル。あなた今、体は大丈夫って自分で言ったわよね。それをおかしいとおもわなかったの? あれだけの激戦を繰り広げて、どうして五体満足でいられるのか不思議に思わなかった? 私が発見したとき、あなたはボロボロだったのよ? 全身傷だらけで、特にその右腕」
 クシナダが指差す。僕は、反射的に右腕を左手で押さえた。
「助け出した時、その腕が二か所は間違いなく折れていた。指は二本千切れかけていた」
 右手を握りしめる。指も、腕も、鈍い痛みはあるが普通に動く。そんな大怪我をしていたとは思えない。この世界の医療技術がどんなものか知らないが、僕たちのいた世界よりも発展しているとは思えない。ファンタジーの世界にあるような、どんな傷でも治してしまう治療薬でもない限りは、僕の腕は完治不能の大けがだったろう。
「蛇神が、死ぬ前に私に言ったわ。私たちに呪いをかけたって。それが、あの蛇神と同じ、どんな傷でも治癒してしまう呪い」
 ・・・・あり得ない。そんなこと、あってはならない。死ぬはずだった僕が、死ねなくなったなどと。
「信じられないって顔してるわね。なら、証拠を見せてあげる」
 おもむろに、クシナダが懐から小刀を取り出し、自分の腕を切り付けた。ボタボタと床を赤く濡らす。さっきから自分の理解の範囲外で物事が起こりすぎてついていけていない。切るなら僕じゃないのか。
「なっ・・・」
 んで、と言おうとして、彼女のさっきの言葉が蘇る。彼女は、私たち、と言った。僕だけじゃなく。つまりは、つまりはそういうことか。僕を助けた際に、同じく血を浴びて、呪いを受けたのか。
「とくと御覧なさい。これが証拠よ」
 出血はすでになかった。彼女の腕の傷はビデオの逆再生のようにふさがっていく。
「あなたのせいでこっちもいい迷惑よ。私まで死ななくなった」
 うんざりと、どこかコミカルな調子で彼女はため息をついた。
 僕は、天を仰いだ。

 クシナダに連れられて外に出た。いつまでもショックを受けて呆けていても仕方ない。それに、希望はまだある。僕たちをこの世界に放り込んだ神だ。蛇神を倒せば、もう一度姿を現すと言っていた。それがいつかはわからないが、意外と義理堅そうだから、眠っていた僕だけ無視して他の三人に会って消えた、なんてことはないだろう。おそらく、四人揃ったところで姿を現すんじゃないだろうか。なら、全員がいる所に行けばいい。
 宴もお開き間際、と言ったところだった。広場の中心にある焚火はまだ勢いよく燃え盛ってはいたが、肝心の、それを囲んでいたであろう村人たちの数は少なかった。すでに辺りは真っ暗だから、女、子どもは各々の家に戻り寝たのだろう。男衆はそこからも騒いでいたのだろうが、今日この日までの疲労に酒の力が加わり、半数以上が酔いつぶれてその場で眠っていた。起きていたのはダイコクをはじめとした村人数名と、桐谷、山里、斑鳩の三名だ。
「よう、ヒーロー。お目覚めかよ」
 斑鳩がこっちに向かって竹筒を掲げた。珍しい。こんな上機嫌なのも珍しければ、僕に声をかけてくるのも珍しい。
「酔ってるの?」
「ばぁか。酒は二十歳からだよ。つか、あんな不味いモノ旨いってガバガバ飲む山里とかわけわかんねえ」
 飲んでるじゃないか。
「ちょうど良い所に来た。君の話をしていたところだよ」
 後ろにダイコクたちをぞろぞろと連れて、山里が近づいてきた。顔が少し赤らんでいるのは、斑鳩の口に合わない酒を大いに酌み交わしていたからだろう。
「幸せそうだね」
 思ったことをそのまま口にした。すると、きょとんとした顔の後、山里は大笑した。心の底から嬉しそうに笑い転げた。
「そうか、そうだね。私は幸せだ。いつ以来だろうか。思い出したのだよ。自分が根っからの職人だということを。満足のいく仕事をして、その結果が大成功であるなら、私が喜ばない理は無いのだよ」
 ワーカーホリックと言う奴か? 案外、そのせいで奥さんとお子さんに逃げられたんじゃないのか? 邪推が頭の中に浮かぶが、わざわざ山里のいい気分をぶち壊すこともない。代わりに尋ねる。
「ちょうどいいって、どういうこと? 僕に何か用?」
 おおそうだ、と山里が手を打つ。
「彼らがね、石碑を立てたいんだそうだよ」
「石碑?」
 というと、あれか。誰それここに眠る、とかそういうのか。
「記念碑だそうだよ。君や、我々の名前、今回の出来事の記録を残したいとおっしゃっていてね」
「お主らは、近いうちに元の世界に戻るのだろう?」
 山里の言葉を引き継ぐように、村人の一人が言った。作戦会議でクシナダと話していた、村の御意見番みたいな老人だったと思う。
「お主らには、どれほど感謝しても感謝したりぬ。どれほど謝っても謝りたりぬ。我らができることは、ここにいる間に宴を開き、精一杯もてなすことと、お主らの功績と武勇を子子孫孫、連綿と語り継ぐことくらいだ。お主らが我らに与えてくれた恩恵に対してあまりにも小さいが、これくらいしかできんのだ」
「やめてくれ。クシナダにも言ったけど、僕はそんな御大層なことをしたつもりはない。ただ自分がやりたいようにやっただけなんだよ。そんな感謝されると、僕の方が困るんだけど」
「しかしだな、それでは我らの気が済まん。恩人に何も返さぬというのは」
「それなら自分たちの名前と、これまで犠牲になった人の名前を残してやれよ。僕はいい。飯が食えればそれでいいよ。それだけ甘えさせてもらえれば充分だし」
 山里たちの前を通り過ぎ、焚火の周りに残された料理を手に取る。美味そうな飯を見た途端、腹が鳴った。現金な腹だ。
「自分の名前を残さなくていい理由は、それだけじゃないだろ?」
 僕の隣に斑鳩が腰を下ろす。妙に突っかかってくるな。やっぱり酔ってるんじゃないのか?
「どうしてか気になってたんだよ。自己紹介したとき、あんたが苗字名乗らなかったの」
 一瞬気を取られて、食べる手を止めてしまった。気のない風を装ってすぐに再開したが、遅いだろうな。やっぱり、と斑鳩のつぶやきが聞こえる。
「むしろ、どうして隠してたんですか? とってもいいお名前ですし、この世界、この時この場所この状況にこれほどマッチする名前もないでしょうに」
 桐谷までそんなことを言う。なんで二人とも知ってる。
「あ、いやあ、そのね」
 僕が不機嫌になっていくのを察したか、山里が後頭部をかきながらあのノートを取り出した。
「前にこのノートを見せてもらった時なんだけど、最初のページ、ほら、このノートってカバーがついてるじゃない? そこに挟まってたんだよ。幼いころの君と、波照間博士と、おそらくご両親の」
 ノートがめくられる。最初の方のページを僕は開いたことがない。だから見逃したのだろうか。そこには一枚の写真があった。僕の記憶よりも幾分か若い両親と、小学生くらいの姉さんと、母親に抱かれている赤ん坊は、おそらく僕だろう。真ん中に移った姉さんが、長半紙にでかでかと僕の名前を書いて、勝訴! みたいに自信満々な表情で広げている。
 生まれて初めて、姉さんに悪態を吐きたくなった。
「タケルの名前が、どうかしたの?」
 それまで黙っていたクシナダが後ろから覗き込むようにして僕の写真を見ている。「タケルの絵? ああ、こいつの名前ってこんなのなんだ」などと見当違いな感想を述べている。
「そういえば、あなたの名前はクシナダ、なんだものねぇ」
「? まあ、私の名前はクシナダだけど、それが?」
 山里の感慨がさっぱり理解できない様子で、クシナダは首を傾げた。
「この世界にタケルさんが来たのも、蛇神を倒したのも、当然の結果だったんですよ。運命だったんです」
 いくばくか興奮したように桐谷が言う。そういう風に言われるから黙ってたんだよ。どうして蛇神の行動パターンを読み解くのに僕の心情を理解しないんだ。
「あのムカつく神様も、こうなることが織り込み済みでこの世界に放り込んだんだろうさ。そう考えると全部あいつの手のひらの上ってことか」
「そうでもないぞ。私はただ運んだだけ。目の前の運命、選択肢を掴み取ったのはやはり、君たちの努力のたまものだ。そういう意味では、君たちが生き残ったのは当然の結果と言えるかもしれないがね」
 全員が、突如割って入ってきた声の方へと振り向く。
「やあ、また会えて嬉しいよ」
 軽く手を挙げた神が斑鳩のすぐ隣に座りこんでいた。
「約束を果たしに来たぞ。元の世界に戻る準備はできたかな?」
「いつもいつも唐突に表れやがって・・・」
 神から体を遠ざけながら、斑鳩が愚痴る。クシナダたちなんかは突然現れた神に驚いて声も出ない様子だ。
「さあ、改めて問おう。君たちは元の世界に帰りたいか?」
 桐谷、山里、斑鳩、僕の順に顔を眺める。
「考える、多少の時間は与えよう。私が君たちの前に姿を現すのはこの一度きりだと思ってもらって構わない。最後だ。望めば、君たちが一度は逃げ出した理不尽だらけの世界に戻そう。拒否もまた良し。この世界で過ごせばいい。この村に降りかかる災厄は君たちが晴らしたのだから、そうそう困難は降りかかるまいよ。その点だけで見れば、この村は実に過ごしやすいと言える」
 よくよく考えろ、と神は言った。
「その前に、聞きたいことがあるんだけど」
 挙手する。
「何だ?」
 わずかに覗く口元が三日月のように歪む。何を聞かれるかわかっているかのようだ。
「聞きたいこと、というより、確認したいこと、なんだけど」
「うむ」
 大仰に頷く。ああ、これわかってるな。僕の聞きたいことが。
「このメンバーを、この世界に放り込んだのは偶然?」
 え、と他三人から声が上がる。神は何も答えず、ただ微笑んでいるだけだ。僕の言葉を待っているかのようだ。答えあわせの時間、ということかな。
「この一週間で、いろいろ考えたよ。時間もあったしね。それで、僕なりの結論としては、僕らだけは、作為的にこの世界に集められたんじゃないかな?」
「偶然じゃない、と?」
 頷く。
「僕らはおそらく、ここにいた蛇神を倒すために呼び寄せられたんじゃないかって、思ってるんだけど」
神の笑みが、一層濃くなった。
「ずっと気になってたんだけど、どうして波照間天音に少なからず影響を受けている人間を選んだの?」
 この時点で作為的な匂いがプンプンする。
「偶然と言い張れるレベルだ。あの世界で彼女や彼女の論文を知っている人間は大勢いるぞ」
 そういう応え方をしている時点で作為的だと言っているようなものだ。反論にならない反論を無視して、僕は次の質問に移る。
「じゃあ、次。あんたは、いくつもある世界の要望を聞き入れて、その世界で不要になったものを違う世界に放り込む、って言ってたよな」
 ああ、と神が頷くのを見てから、話を続ける。
「それって、たとえばこの世界で必要だという要望も受け入れるってことじゃないの?」
 神の隣にいる斑鳩が、あ、と口を開いた。彼も勘付いたらしい。
「この一週間、僕がこの三人の働きっぷりを見てきて思ったのは、非常に優秀だってこと。山里さんは素人目の僕から見ても凄い職人だったよ。今回の罠も道具も、目測で全部完璧に作ってたんだ。この技術があの世界で不要になるなんてどう考えたっておかしい。これであぶれるなら、僕らが住んでた国は天才職人ばっかりってことになる。斑鳩君にしたってそうだ。これでも高校は卒業した身だけど、そんな僕がさっぱり理解できない公式とか知ってた。多分、結構な進学校に通ってるんだと思う。それに、一流企業の跡取り息子が不要だなんてのは、やっぱり考えられない。そして桐谷さんは、今回の戦いでキーになる蛇神の行動を完璧に予測してた。性格から行動パターンを読み切るなんて並大抵の推察力じゃないと僕は思うけどね。このままその能力を伸ばしたら、犯罪防止とか、もしくは精神科とかカウンセラーとかの分野で目覚ましい功績をあげるんじゃないかな。みんな、世界から切り捨てられるような人材とは思えないんだ」
「では、君はどうなのかな。そこで照れたり謙遜したり斜に構えて素直に褒め言葉を受け取らなかったりしている三人はそのために呼ばれたのだとしよう。では君は、何のために呼ばれたんだと思うね?」
「それは、こいつだと思う」
 僕は、姉さんの黒いノートを掲げる。日の目を見ることなく朽ちていくだけだった、姉さんの思いとアイディアが詰まったノートだ。
「姉さん一人では潰されてしまったけれど、国でも十指に入る大企業のバックアップと、この理論を実現する腕を持つ技術者、あとは人やスケジュールをコントロールする能力に長けた可愛らしい秘書でもいれば、ここにある夢は生まれる。現実になる。あんたは、この世界と、あの世界の、両方の要望を叶えようとしていたんじゃない?」
 この世界の蛇神を倒すために、技術と知識を持った人間を呼ぶ。
 あの世界を変化させるために必要な人材を接触させる。
「なかなか面白い。けれど穴ばかりの推測だな。もし君たちが敗れていたらどうする」
「死んでもまあ別によし。生きていればなおのことよし、その程度の考えだったんだろ? あんたは古本屋、仲介みたいなもんだ。蛇神だって世界の一部だって言いのけたくらいだからな。無理に世界の要望を叶える必要もないんだ。あんたの仕事は駒を配置するまで。結果はどうなろうと知ったこっちゃないんだろう」
 なぜならこいつは世界の管理者だからだ。その世界で起こるすべてのことを肯定するだけで、無理やり捻じ曲げることはしないはずだ。僕を最初に殺さなかったのが良い例だ。世界を相手にした古本屋がどういうシステムか知らないが、ただ必要なものを必要な場所に必要なだけ運び、行く末を見守るのみなんだ。
「八十点、くらいかな」
 僕の話を聞き終えた神は言った。
「後二十点は、君だ」
 僕を指差してきた。
「君のこれからの選択と行動次第で点数が変動する」
「なんだよ、それ」
「話は終わりだ。さあ、返答はいかに?」
 柏手を打って、神が僕らに再び問うた。

僕以外の三人は元の世界に帰ることを選択した。そして僕は、この世界に残ることを選んだ。どうせ未練はないし、この不死の体ではいろいろと問題がある。
「これ、本当にもらっていいのかい?」
 別れる前、僕は山里にノートを託した。
「さっきの神とのやり取りを聞いてだろ? これは、あんたらが持っておくべきものなんだ。姉さんも、きっとその方が喜ぶだろう。それで、できれば実現してほしいんだ。面倒なことを押し付けてるとは思うけど」
「そんなことはない。全然ないよ。私でいいのかと思うくらいだ。ねえ?」
 隣にいた斑鳩に水を向ける。仕方ねえな、と相変わらず生意気な口を叩いて
「叶えてやるよ。あんたと、あんたの姉ちゃんの願いをさ」
 力強く答える彼は、もう大丈夫だ。怪物に殺されかけ、それでも戦って生き延びたのだ、あっちの世界で恐ろしいものなど存在しないだろう。
「でも、あなたは残るんですよね」
 桐谷が尋ねてきた。
「良いんですか? 今度こそ、あなたが望んだ世界になると思いますよ」
 いたずらっぽく、彼女が言った。ずいぶんと感情豊かになったもんだ。本質は、きっとこっちだ。
「うん。別にいいんだ。後は若い人たちに任せるよ。僕はここで隠居生活でもしてる」
「私より若いくせに」
 山里が苦笑する。
「別れを惜しむのはわかるが、そろそろ良いかな。何度も言うように、神様稼業はなかなか忙しいのだ」
 神から催促が入った。いよいよお別れだ。
「君のお姉さんの功績と技術は、私が一生かけてでも実現させてみせる。安心してくれ」
「でっかい記念碑を、うちの会社の敷地内に立ててやるよ」
「それじゃあ、お元気で。あっちではどうなるかわかりませんが、せっかく拾った命、生きて、何とかしてみます」
 三者三様の別れの言葉を言い終えて、三人はこの世界から消えた。ぽつねんと、神だけがまだ残っている。
「まだ私に用があるのだろう?」
 わざわざ僕のために残ってくれていたようだ。
「忙しい所申し訳ないんだけど、どうにも自力での目標達成は困難になっちゃってね」
「殺してほしい、なんてお願いは却下だ」
 先回りされて口を閉じる。
「君にかかった呪いのことは知っているよ。死ぬことが目的だった君に、死ねない呪いがかかるとは皮肉な話だ」
「笑い事じゃない。最初の話と着地点が全然違うんだけど」
「死が望みなら、君はあの蛇神と戦う際に手を抜けばよかった。そこで死ねばよかった。チャンスはいくらでもあったはず。それを拒絶したのはやはり君だ。神のせいにされても困る」
「嘘付け。あんただろう。荷物引き取りの業者に紛れ込んで、僕に銀のカフス取り付けたの」
 すべてが偶然じゃないと考え出した時から、それまでの出来事を洗いなおすと、最初の時点、僕が持ち物を整理したあたりからおかしいことがあった。
「多少、都合がよくなるように干渉したことは認めよう」
 白状した。この調子じゃ、他三人にも干渉しているはずだ。
「で? すべて計画通りになったあんたは、これ以上僕に何をさせたいんだよ」
おそらく、後二十点というのがここにかかってくるんだろうけど。
「そうだな。正確には、この世界の要望だが」
 その前に、と神は前置きを入れた。
「どうして、死なないことが呪いなんだと思う? 君の様な自殺志願者でなければ、あらゆる世界のあらゆる国のあらゆる王が一度は願うものなのに」
「そんなこと知らないよ」
 と言いつつも、気にはなっていた。古今東西の呪いと言えば、総じて苦しんだり死んだりするものだ。苦しみを癒して死を取り除くなんておかしい。
「死なないことで地獄を味わったからさ。自分と同じ目に遭え、そういうことだろう」
「自分と同じって、おいおい、まさか」
「そのまさかだ。あの蛇も元は人間だった。君が想像もつかないような苦痛を受けて、それでも死ねず、苦しみ、もがき、あらゆるものを呪い、妬み、憎しみぬいて、ついには姿すら変貌させた。人だった時の記憶があるのかどうかは知らないが、ただひたすら苦しんだ記憶だけがその身に残っていたのだろうね」
「僕にもそうなれと?」
「同じ末路を辿るか、また別の未来を選択するかは任せるよ。ただ今回と同じように少しだけヒントを与えよう。この村は、君たちの活躍で平和になった。ただこの世界には、この村と同じように窮地に追いやられている場所がいくつかある。そうだな、君たちの世界にある神話や伝説と同じくらいの数だ」
 知ってるだけでも両手足の指の数じゃ足りない数なんだけど。
「同じ数だけ化け物がいて、そいつらと戦えってことかよ」
 死なない敵は、それだけで脅威だ。蛇神の猛威がそれを物語っている。この世界の要望は、世界各地で暴れまわっている、蛇神の様な生態系を乱す連中を排除できる奴をよこせってことだったのだろう。
「話が速くて助かる。君にとっても、悪い話じゃないはずだ」
 しれっと言ってくれる。まあいいさ。死ぬまでの退屈しのぎには丁度いい。化け物の中には、僕の呪いごと僕を殺すような奴だっているだろう。それまでは約束通り戦ってやるさ。立つ鳥は後を濁さない。きれいさっぱり掃除してやるよ。
ただ、最後まで気になっていたことを、というか、恥ずかしながら今の今まで気づかなかったことを、この機に尋ねてみることにした。多分、僕も【彼女】と会うのはこれが最後になるだろうから。
「あのさ。最後に一つだけ」
「何だ?」
「素顔、見せてくれない?」
 初めて神が黙った。少し間をあけて、微笑む。
「ようやく気づいたか」
 そして、神はゆっくりと、目深にかぶっていたフードを取る。
どうして気づかなかったかな。僕も。思わず苦笑が漏れる。
「本来であれば、彼女は私に取り込まれて眠りにつくはずだった」
 曰く、今回みたいに世界に変革をもたらすのは、何も外的要因を送り込むだけじゃないらしい。管理者自身がその世界の生物に少しだけ自分の因子、世界を変革する力を分け与えることがある。その因子を持って生まれた生物がブレイクスルーを起こし、その後寿命を迎えると、その生物が蓄積した記憶がデータとして魂と一緒に管理者のもとに帰ってくる。
「事業活動でPDCAサイクルというのがあるだろう? プランを立て、実行し、チェックしてデータを集めて、改善して、また計画する。世界はその繰り返しで変革し続けている。彼女もまた、私の影響を受けて生まれた世界変革者の一人だった」
 君の国の歴史に出てきた織田信長や坂本竜馬も同じだ、と神は言った。
「通常であれば、取り込まれたと同時に、完全に自我とか記憶を失うはずなんだが、彼女の場合、あまりに未練が強すぎてね。それだけ、残してきた誰かのことが気がかりだったのだろう。こうして、私の姿と行動に影響を与えるまでとなった」
 だから、僕たちに干渉してきたのだ。ようやく謎が解けた。まったく、頭が下がる思いだ。死んでなお、世界を変えようとしていたのだから。
「これで、彼女もゆっくり眠れるだろう。引き継ぎは完了したようだからな」


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 元の世界に戻った斑鳩スクナは、その後、高校、大学、と進み、一社員として親の経営するイカルガ科学に入社する。親の七光りとはじめは陰口をたたかれもしたが、すぐにそんな声も彼の活躍、生み出した成果によって鳴りを潜めざるを得なくなった。親から社長職を譲られてからも躍進はとどまることを知らず、会社をますます発展させた。
そんな彼が行ったことの一つに、後進の育成・支援がある。波照間天音のように世に出ていない優れた人材を発掘するのが目的ではあったが、思わぬ成功を生んだ。イカルガの援助を受けて成長した将来有望な技術者たちは、恩返しとばかりにイカルガに戻り、会社と社会に貢献したのだ。「環境は用意してやる。持ってくるのは勤勉さ、やわらかい発想、健全な心身と鋼の意志で十分だ」と広く熱意のある若者を募り、優秀な技術者に育て上げて世に送り出し続けた。他にも慈善事業、環境保護活動など、社会に対する貢献は計り知れず、すべてを投げ出して一度は逃げ出した少年は、偉業を後世にまで語られるほどの優れた経営者となった。
 山里幸彦は、斑鳩スクナの口添えでイカルガ科学の研究班に再就職を果たした。彼の所属する研究班は数々のヒット商品を生み出す。
中でも世紀の発明と後に称えられる永久発電機関は、極めて低いリスクとコストでありながら高いパフォーマンスを発揮し、これまでの発電機器の常識を一新した。彼が最も尊敬する研究者から名前を貰い、名づけられた永久機関(アマテラス)は、様々な圧力や批判・非難の影を易々と打ち払い、環境に配慮したクリーンエネルギーとして急速に普及し、その名の通り世界中を遍く照らした。ちなみに、離婚した妻とは再婚し、家庭をやり直すことにも生涯尽力している。どんなに忙しくても必ず一日一度は家に帰る愛妻家として、班内に暖かな笑いを提供している。
 桐谷月世は、結論から言ってしまえば罪に問われることはなかった。彼女の父親が殺害されたと思われる時間、彼女は家から数百キロ離れた場所で、斑鳩・山里と一緒に警察に保護されていたからだ。絶対のアリバイを持つ彼女を誰も疑うことはなかった。天涯孤独となった彼女は山里に養子として引き取られる。蛇神との戦いで見せた鋭い洞察力は彼女に行動学や心理学の道を選ばせ、さらにその能力に磨きをかけていく。そんな彼女が積み重ねてきた理論や研究は犯罪を未然に防ぎ、また彼女のこれまでの経験から語られる言葉は、以前の彼女と同じ境遇の人々の支えや癒しになった。私生活では斑鳩スクナと結婚し、女の子二人、男の子一人の三人の子宝に恵まれる。これまでの分を取り返すかのように、彼女の人生は幸せに包まれたものになった。生まれた男の子にはタケル、と名付けたようだ。

 そんな三人が揃って顔を綻ばせるニュースが新聞、テレビを飾った。
 島根県のある地域で、古代の人々の生活を知る貴重な遺跡が発見されたのだが、そこで発掘された石碑と壁画が注目を浴びたのだ。壁画には古代人たちが、巨大な蛇の化け物と戦って、ついには勝利を収めた場面が描かれていた。石碑は、おそらくその戦いで中心的な働きをした人物の名前が刻まれていると考えられるが、その名前が歴史学者、考古学者および国文学者たちを悩ませ、あるいは大いに楽しませている。
 そこに刻まれた名は、《須佐野尊》。
 読み方は幾通りかあろうが、誰しもがこの名前をスサノミコトと読んだ。場所や壁画の内容など条件が揃っていて、この人物を神話に登場する英雄スサノオノミコトに結びつけないはずがなかった。
また面白いことにそれは、日本だけに留まらず、世界各地で同じように須佐野尊と刻まれた石碑や、須佐野尊なる人物が活躍している壁画、古文書が何点も発見されていった。
 想像力豊かな学者が、突飛な推論を発表した。スサノオノミコトは実在し、しかも世界各地に伝わる神話や伝説に登場する英雄たち、たとえばヘラクレス、ジークフリード、黄帝、クーフーリン、聖ゲオルギウスなど、すべての英雄の起源、アーキタイプになったのではないかというのだ。
 そんなことはありえない、そもそも一人の人物が世界各地を回るには広すぎる、時間軸だっておかしい。いやいやスサノミコトは世襲制だ、クシナダヒメも共に戦って活躍したという記録だってある、彼らの子どももスサノオと名乗って活躍したのだ。馬鹿馬鹿しい、そんなものは昔の人が創り上げたただの伝説だ、などなど賛否両論の話題は尽きることがない。
ただ、真実を知る三人は笑う。結局、姉と同じように、彼も世界を変えていたのだ。飛び立った鳥は、世界に軌跡を残していた。

世界の神話・異聞 -英雄譚の始まり、死にたがりの軌跡-

世界の神話・異聞 -英雄譚の始まり、死にたがりの軌跡-

世の中に絶望し、死んだように生きてきた男が世界の管理者である神によって魑魅魍魎が跋扈し弱者が食い荒らされる世界に送り込まれた。 男はここで化け物の生贄になることを求められ、死ぬことを望んでいた男もそれで良かった。けれど、様々な要因が重なって化け物を倒して不死の呪いをその身に受けてしまう。死ぬに死ねなくなった男は、仕方ないので自分を殺せるほどの敵を探し求めて旅立つ。 これは、死にたがりの男の軌跡にして、後の世で語られる英雄譚。

  • 小説
  • 長編
  • ファンタジー
  • 冒険
  • アクション
  • 青年向け
更新日
登録日
2016-03-06

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. 立つ鳥は後を濁さない
  2. 誤算
  3. 決戦前夜
  4. 神話の再現
  5. そのあとのことを、少しだけ