ナッツの音楽

 十二月二十四日。公園のベンチに座り一人ぼんやりしている。空は低く、今にも雨が降りそうだ。この公園には、小さい子供の一人もいない。少し寂しい気がする。高校二年の二学期が終わり、今日に疲れたぼくはそんなふうに思えた。
 学校でいいことがあるとすれば、たまに好きな人を見られることだ。その好意の八割は憧れに近いだろう。その人の名前は小松ナズナという。右目の下にほくろがあり、口が小さいという印象が残る顔立ちをしている。同じクラスでピアノがとても上手だ。全国区のコンクールで何度もグランプリを獲得している。彼女は、学期ごとに、全校生徒の前で演奏をする。二学期の終業式ということで、今日は彼女の演奏を聞けた。だけど、演奏している時の彼女の顔は苦しそうに見える。演奏を終え一礼する時の顔はなにかの不安を拭えないような少しこわばった表情をしている時があるのだ。あれほどまでに完美な演奏をする彼女もやはり人並み以上のプレッシャーを背負い舞台に上がるのだろう。
 午後五時。日も暮れ街灯がつき始める。ぼくは椅子から重い腰を上げ歩き始める。
ぼんやりと座っていた時は気づかなかったのだが、公園の入口には、成人向けの雑誌が落ちていた。ぼくは、雑誌の前で立ち止まる。別に読みたいわけではない。
これは、男子なら大抵の人が経験したことがあると思うのだが、道に落ちている成人向けの雑誌の前では、誰もが一時停止をしてしまうのだ。数秒くらいは止まってしまうのだ。なんなら拾って持ち帰る人もいるだろう。読むつもりなど一寸もないのだ。体が勝手に止まってしまうのだ。
「あれ、蕗屋くん?」
 ぼくは、はっとした。体が凍りついた。その声は小松ナズナの声であった。いつも遠くにある声である。エロ本を前にしてこの声を聞くとは。ぼくは、どのくらい無言であっただろうか。
「小松さん。こんなところで何しているの?」
 多分、向こうがぼくに聞きたいことであろう。彼女は、少し俯き顔を赤らめていた。
「ごめんね。邪魔しちゃって」
 全然、邪魔してないって。むしろ邪魔なのはエロ本だって。彼女は背を向け走りだそうとした。ぼくは、気が付けば彼女の手首を握っていた。咄嗟にこんな言葉を続けていた。
「ちょっと座って話さない?」
 そう言い、手を離した。彼女はこちらを振り向き頷いた。苦笑いである。
 ぼくらは、向かい合って座った。さっきまでぼくが座っていたところに。少しの沈黙を彼女から開口してくれた。
「家はこの辺なの?」
「ここから歩いて十分くらい。小松さんは?」
「すぐのところにあるよ」
 口ごもらせてひとつ尋ねてきた。
「今日は、なんでこの公園にいたの?」
「今日はたまたま、ここにいただけだよ。いつもと違う道を通って帰って、すこし寄り道しただけで。小松さんはいつもこんな時間に帰りなの?」
「今日はいつもより早いよ。いつもは学校が終わってから八時くらいまではピアノのレッスンしている」
 その言葉を聞いてなぜか心が重くなった。
「蕗屋くんは、ギターはもうやってないの?」
 あまり聞かれたくなかったことだ。ぼくと彼女は中学から学校が同じである。ぼくは、中学で一度だけ全校生徒の前でギターの弾き語りをしたのだ。結果は好評であった。思った以上にウケは良かった。ぼくも舞台に立てたことは誇らしかった。小松ナズナは、ぼくが舞台に立った、その一週間後に全国区のコンクールで金賞を獲ったのだ。
その時、始めて彼女の存在を知った。ぼくは素直にすごいと思った。それ以上に彼女の演奏を聞いてみたいとも思った。後日、隣町でコンクールがあった。ぼくは、一人で誰にも知られないように、彼女の演奏を見に行った。課題曲は、ショパンの曲だったことは覚えている。
彼女の演奏を最後まで聞くことができなかった。悔しかった。彼女は、楽譜の通りに演奏しているはずだった。だけど、その音は周りの人の音とはまるで違ったものだった。演奏の始めこそ周り演奏と同じだった。が、途中から気付けば彼女の音に、のめり込んでいるのだ。ぼくは、その感覚に恐怖すら感じた。音楽をやる人間にとして負けた気がした。
ぼくは人前で、ギター弾くこと、歌を歌うことをやめた。それ以来ぼくは、自室で一人の時だけ誰に聞かせるわけでもなく、ギターを弾いた。その方が気楽だから。
「やってはいるよ。でも、人前で弾く機会がないだけだよ」
 嘘だ。機会がなかったわけではない。高校に入ってから中学の友達にバンドなんかに誘われたりした。全て断った。そんなのぼくじゃなくてもいいだろう。
「私はあの時、蕗屋くんのことをすごいと思ったよ。人前に立つことは、誰にでもできることじゃないから」
「小松さんは平気でやっているように見えるよ」
「私の場合は、何をすれば評価されるっていうのが分かるから、型にはめ込むように演奏しているだけだよ」
 それこそ誰にだってできることじゃない。少なくともぼくは、それを出来ないだろう。
 ぼくは、譜面通りに綺麗に演奏できる小松ナズナを羨ましく思う。

 彼女とは一時間ほど喋った。ぼくは、コートを着ていたが寒かった。コートとマフラー、手袋を着用していた彼女であったが寒さに身をすぼめていた。
中学と高校の共通した友達の話や、彼女のこの公園での思い出話や、食べ物の話なんかをした。たまにあった静寂は、胸が苦しくなるような気もした。
 もう遅いし帰ろっか、と彼女が言い、ぼくは、うん、と頷き立ち上がる。公園の出入り口付近になると彼女は少しの笑みをこぼしながら一つ尋ねてきた。
「あの本が目的で、今日この公園にいたの?」
 思わず、ぼくも笑ってしまう。
「違うって。ほんとにたまたまだって」
 現実の彼女は、想像していた小松ナズナより魅力的である。
公園を出て、手を振り別々に歩き出す。会話していたあの時間のぼくは、少し暗かったのではないだろうか。そう思い、十二月の風の中に少し溜め息が漏れた。

 一月一日。ぼくは、だらだらと過ごした。お昼は、こたつに入ってネタ番組を見て過ごした。旬な芸人さんから師匠と呼ばれる芸人さんたちが出る番組で、声を出しては笑わないが、見飽きずに過ごせた。すっかり暗くなった頃に、ぼくはひとり初詣に出掛けた。
 近くの神社に一人で自転車を漕いで行く。
一人で初詣をするというのは、小学校三年生の頃からの恒例になっていた。その頃、本で読んだ「夢を叶えるゾウ」でガネーシャというゾウが、こうふうなことを言っていたのだ。
「たまには、神社なんかに行って感謝の気持ちっつうもんを神様に心の中で伝えれよ」
 子供ながらそれに納得したのだろうか。ぼくはその時から、初詣は行くようになったのだ。
近くの神社は、小さな神社で人はあまりいない。お坊さんは二人ほど見かけ、巫女の格好をした人を一人見かけた。賽銭箱の前に立ち、五円を投げ入れる。穏やかな一年でありますように、と適当な感謝を心の中でつぶやく。あとは、おみくじを引くだけだ。
 社の隣の建物に売店がある。そこにもあまり人がおらず、この神社は活気がないように思えた。ぼくは、二百円を払いおみくじを引く。結果は末吉であった。あまり、すっきりしない結果になんとなく納得する。
 そうして、ぼくの何気ない一日は終わっていくのである。

 一月十五日、学校に登校すると机の中に一枚の紙が入っていた。紙には、放課後、草谷公園で待っています、と無記名で書かれてあった。草谷公園とは、以前、小松ナズナと会話した公園である。ぼくは、放課後に紙の差出人が待つであろう公園に一人向かった。
放課後、雲行きが怪しい。ぼくは、草谷公園に向かった。この日も小さな子供の一人もいなかった。
 そして、あの日座ったベンチまで歩く。そこには、小松ナズナが座っていた。学校の制服の上にコートを着て、マフラーを巻いていた。
 そして、彼女の近くまで行き、足を止める。彼女は、ぼくにこう声をかけた。
「来てくれてありがとう。もしかしたら、来てくれないかと思ったよ」
 ぼくは、腰を下ろす。
「今日、怪しい天気だね」
 そんなことしか言えないぼくが、恨めしい。もっと気の利いた言葉が出ないものか。
「うん。そうだね」
 彼女は、空を見上げそう答えた。無言になるのは嫌だから咄嗟に話を振る。
「今日は、なんで呼び出したの?」
 彼女は、こちらに視線を向ける。
「そのことなんだけど。実は、一緒に音楽やりたくて」
 とても真剣な眼差しだ。だけど、少し弱々しい。
 彼女は、学生鞄の中から一枚の紙を取り出し、ぼくに差し出す。
「今年の六月にあるフェスのなんだけど。インストのバンドが条件らしくて。私の周りは、クラッシックやっている人しかいなくて。結城くん、中学の時、ギターすごく上手だったから。一緒に出てくれないかな?」
「うん。いいよ。やろうよ」
 ぼくは、二つ返事で返す。この人と音楽ができるのは、いいなと思った。
「ありがとう。よろしくね」
「小松さんは、ピアノやるんだよね?」
「できれば、そうしたい」
 すると、ポツポツと雨が降り始めた。あと数分もすれば、大雨になりそうな空模様だ。
 彼女は学生鞄にチラシを収め、ぼくにこう言う。
「もっと降りそうだけど、うちで雨宿りする?」
「傘持ってないから、そうしたい」
 ぼくらは、ベンチから腰を上げ走り出す。ぼくは、小松さんの少し後ろを走る。彼女は、運動は少し苦手らしい。そんなふうに思える、女性らしい走り方であった。

 小松ナズナの家は一軒家だった。ぼくは、玄関で彼女を待っている。コートの肩の色が変わるくらい雨に濡れた。
 ぼくのすぐ隣の靴箱の上には、はにわの置物が何個かある。靴箱の反対の壁には、姿見の鏡が付いている。ぼくの正面には、廊下が続きその奥には、右の方にリビング、左にお風呂があるようだ。廊下の途中に階段がある。
 彼女は、廊下奥の左から白いタオルを持って出てきた。タオルをぼくに渡し、使って、と言った。ありがとう、と返し、遠慮なく髪を拭いた。
「ごめんね。雨まだ降りそうだし上がってよ」
 ぼくは、二階の部屋に案内された。彼女は、お茶出すね、と言って部屋を出た。部屋の真ん中に置かれたピアノと、窓側の壁に机が置いてある、その半分は、楽譜が積まれている。大きな棚にも、いっぱいの楽譜。そして、部屋の隅っこにはアコースティックギターが心細く置かれていた。
 ぼくは、机の方の椅子に座る。ギターを手に取ろうかと思ったが、人のものを無許可で使うのは悪いと思い自粛する。
 小松ナズナは数分経って部屋に戻ってきた。暖かい紅茶をぼくに差し出す。カップはそこに置いてと、ぼくの目の前の机を指す。ぼくは、紅茶を一口飲みカップを置いた。
「今度は、いつコンクールあるの?」
「再来週にある。ガラコンサートっていって何か賞がもらえるわけじゃないけど、コンクールで入賞したら参加できるようなコンサートがあるんだけど。んー、その演奏曲弾いてみようか?」
「うん。聞きたい」
 彼女はピアノの屋根を開けず、譜面は置かず鍵盤に向かう。学校で弾く時も彼女は、譜面を持たない。彼女の少し濡れた髪の毛。一息を吐き、指先が動き出す。鳴り出したその音楽は、奇しくもぼくが昔、聞いた曲だった。早いテンポの不安を誘うような旋律。あの時ほどの衝撃や悔恨もない。それは、ぼくがぼくに期待をしなくなったからだろうか。それとも、高校生活で彼女のピアノに聞き慣れたからだろうか。ただただ、目覚しく精良で見事である。そんな感想が残った。だけど、切なさがあるのだ。
 彼女は弾き終え、ぼくを見て少しの笑みを浮かべた。そこには、なんの屈託もないように見えた。ぼくは、紅茶を少しだけ喉に流しひとつ尋ねた。
「この曲なんて曲名なの?」
「ショパン〈エチュード〉作品10-4っていう曲。海外ではTorrentなんて呼ばれている。和訳で激発、迸りっていう意味。私には、似合わない曲だよ」
 私には、似合わない曲。ぼくは、なんて言えばいいのだろうか。今、彼女との沈黙はあまりに切なすぎる。
「ぼくもなにか弾いていいかな?」
「是非。聞きたいよ」
「そこのギター借りていい?」
「うん。もちろん」
 隅のギターを手に取り椅子に戻る。弦を弾じき、音合わせをする。何を弾こうか。つい最近に覚えた曲、ばかでくだらない曲、七十年代の彼女のわからないような曲。何がいいのかな。
「なに弾こうかな?」
「んー。じゃあ、中学の時に弾いたあの曲」
 あの時に弾いた曲。とても、ださい曲だ。あの時以来、一度も弾いていない。まだ、コード覚えているかな。
「アローン・アゲインだよね。実はさ、あのあと気に入って自分で調べたんだ」
 ギルバート・オサリバンによってつくられた曲で、一九七一年にリリースされた。俳優の草刈正雄が日本語でカバーしていて、ぼくは、カバー曲を中学の時に演奏したのだ。ぼくは、単純に曲調を気に入って演奏した。詩には目もくれなかった。この曲の詩は内省的すぎる。詩は自殺しようとする男の心情や事情が表現されている。
 ぼくはギターを弾き、歌を歌った。

人間が死ぬとは どんなことか きっとわかるだろう
そして人は 皆生きていること
空しくなる そうさ人は 誰でもひとり

暗い歌詞だ。彼女は、歌の途中でピアノの音を重ねてくれた。即興だろうか。それとも、この曲の楽譜を知っていたのか。とにかく、ぼくは人生で一番心地よく歌えただろう。自分ひとりで歌うときには感じない充足感である。自分の殻に半ば閉じこもったぼくを励ましてくれているように聞こえた。前向きかな、と思ったけど今はそれくらいがいい気がした。やがて曲は終わる。誰でもひとり、そんな詩を最後にして。
 彼女は、ひとり拍手をした。表情は少し綻んでいた。拍手はすぐに鳴り止んだ。
「この曲の歌詞さ、ダメだよね」
 と彼女は言った。ぼくは、うん、と同意した。
「わたしもたまに思うことがあるんだけど。すごいたくさんの人の前で演奏してでたくさんの拍手もらって、でも、お家に帰ったらここにひとりで座ってるんだよね」
 彼女は演奏の文字通り、演じて音を奏でているのだろう。心を大きな柱で支えながらピアノに向かうのだろう。その柱が何か知りたい。ぼくが感じた心地よさは、その柱の所作である気がするのだ。
「小松さんは、どんな曲が一番なの?」
 今そんなこと聞くのは間違いだろうか。だけど、そんな話題でしか彼女から言葉を出すことができないのだ。彼女は、んー、と右手を顎に添え数秒考えた。
「んー、一つに絞るのは難しいけど、〈星に願いを〉かな。ピアノ始めたきっかけだし、弾いてて楽しいから」
「ディズニーのピノキオの主題歌?」
「そう、それ。ディズニーのピノキオ見て、ピアノ弾き始めたんだよ」
 ぼくは、小学生の時によくディズニー映画を見ていた。ピノキオは、ディズニー映画の中でも怖いイメージがある。
「えーでも、ピノキオって子供がロバになったり、悪い大人に利用されたり怖い話なのに?」
「でも、面白いって思った」
「小松さんもストロンボリみたいな大人に利用されるかもよ?」
 ストロンボリ、太っていて髭があり頭頂部がはげたおじさん。糸なしで動く人形のピノキオを使って世界中を回り儲けようとする大人。ピノキオがお家に帰ろうとすると鳥かごに閉じ込める。たまに怒鳴り散らすストロンボリを、幼いぼくは怖いと思った。
「多分、大丈夫だよ。ピノキオには意志がなかったから利用されただけで、わたしは、意志がちゃんとあるから」
 彼女が言う言葉は、何気なくなんとなく日々を過ごすぼくが言えるような言葉じゃなかった。自分の質問に、そうだね、とぼくは答えただろう。そんなぼくは、持っているものが違う彼女から一つ、お願いごとをされたのだ。それにできる限り応えたいと思った。窓の外の雨は、まだ降り止みそうにない。
 長い時間、彼女の家にいた。いろんな話をしたけど、一番は音楽の話で会話が弾んだ。暗くなる頃には小雨になっていて、彼女から傘を借りて帰った。フェスの出場資格は高校生であることのみらしいが、高校生でインストをやる人は、あまりいないんじゃないかとも思ったけど、結構な規模でもう七回目になるそうだ。コピーでもオリジナルでも可なんだとか。メンバーは、まだぼくと小松さんの二人だけらしく少し不安を感じた。ぼくが仲のいい人で音楽をやっている人はあまりいない。ぼくを誘ってくれた人もいるけど断った手前、またこちらから誘うのは気が引ける。今、その他のいろいろをぼくが悩んでも仕方ないことにも思えた。

 一月三十日。あの雨の日から特に音沙汰なく過ぎたが、今日、学校での昼休みに小松ナズナから声を掛けられた。放課後にあの公園に来てくれないかな、と言った。いつも暇なぼくは、いいよ、と即答する。曲決めとメンバーのことで話があるとのことだ。彼女とは、クラスの違うため頻繁に顔を合わせるわけではないのだ。
 ぼくは放課後に公園に向かう。空は雲がなく、西の方がほんの少しだけ赤くなっている。暖かい穏やかな天気である。小松ナズナはいつものベンチに座っていた。ぼくは、ぎこちなくならないように注意して歩いて、近づいた。そして彼女と目を合わせ、少し間を開けて隣に座る。そしてぼくは、ひとつ尋ねる。
「コンサートはどうだった?」
「リラックスして舞台に立てたよ。いつもより緊張しなかったし、いろんな人の他では聞けない演奏たくさん聞けたりもしたから楽しかったよ」
 そう言う彼女に、いい舞台だったんだね、と返す。コンサートの話を聞きたいが、なんて話を振ればいいのか分からない。ぼくは、今日の本題に話を促す。
「そういえば、フェスでやる曲ってどうするの?」
「それなんだけど、なにがいいかな?」
 とりあえず、ピアノとギターで出来る曲が前提だ。インストだから洋楽だろうが邦楽だろうが気にしなくていい。
「小松さんが純粋にやりたい曲ってないの?」
「一応いくつかあるよ。今、楽譜も持っているけど見る?」
「曲名は知りたい。あと、ぼくは楽譜読めないんだ」
「え、そうなの?」
「うん。コードがあれば大体弾けるから、読めなくていいかなって思って勉強しなかった」
 えー、と彼女は、驚いたように声を上げる。そして、ぼくは、改めて曲名を聞いた。
「一つ目は、ロックでMr.BigのTo Be With Youと、二つ目は、きらきら星変奏曲。三つ目は、亜麻色の髪の乙女」
 と彼女は答えた。渋すぎる。きらきら星変奏曲は置いておいて、あとの二つとも終始、同じようなテンポで曲が進む、しっとりしすぎではないか。思ったことをありのまま伝える。
「なんか選曲、渋くない?」
「え、そうかな?アレンジ入れればなんとかなるかなって思っているんだけど」
 その言葉を聞き、この人とやっていけるか少し不安になる。ぼくには、力が不足しそうである。それにそんな発想はなかった。彼女はこう言葉を続けた。
「高校生でインストやるって時点で、多分、渋い人らばっかりだよ。だから、地味な曲でもノってくれると思うよ」
 ぼくは笑った。確かに、と思った。
「じゃあ、ぼくは、きらきら星変奏曲でやりたい」
 誰でも聞いたことのある曲だし、童謡で安心感がある曲だ。
「なら、きらきら星変奏曲に決定で。あとひとつ、言わなきゃいけないことがあるんだけど。もしかしたら、わたしと蕗屋くんだけで演奏するしかないかも」
 えー、と言いぼくは驚いた。インストでデュオって相当な力量が求められるだろう。だけど、ぐだぐだ言っても仕方ない。とりあえずは、やるしかないのだ。ぼくは、彼女に力添えをするのだ。アシスタント的役割で頑張れればそれで十分だろう。
「蕗屋くん、来週からセッションできる?」
 ぼくは、うん、と答えた。
「どこでやろうか?音楽室とか借りられるかな?」
「多分、借りられると思うよ。うちの学校、軽音部はあるけど部室あって、そっち使ってるし、吹奏学部はなかったと思うよ」
「じゃあ、できれば音楽室でやるかな」
 ぼくは、一つ疑問があった。なぜ、高校二年のこんな時期にぼくを誘い、フェスに出たいと彼女は思ったのか。ぼくたちは、もう受験を控える身なのだ。少し、おかしい気がする。だけど、ぼくはその謎を聞けないでいる。できるだけ、彼女の腹の中を見たくないのだ。彼女がその理由を言わない限りぼくは、聞かないでおこうと思う。
 ぼくらは話を終え、椅子から立ち上がり歩き出す。
「そういえばさ、公園の入り口の方に、もうエロ本なかったね」
 歩き出してすぐに彼女は、くすくすと笑いながらそう言った。あまりに不意をついた発言で、ぼくは思わず笑ってしまう。誰かが持ち帰ったのかな、と冗談めかす彼女は、今が本当に楽しそうであった。出入り口に差し掛かったところで彼女は、前にエロ本があったところを指差して、ほら、と言った。
「え、もしかして、持ち帰った?」
 と彼女はなぜか、真顔になってぼくに言うのであった。持ち帰ってないよ、とぼくは、笑いながら否定する。そうしたら彼女はまた、くすくすと笑いだした。
「じゃあ、また明日」
 と言って彼女は、ぼくに小さく手を振った。ぼくは小さく、うん、と言って手を振り返した。彼女が帰路を歩き出したところで、ぼくも彼女とは反対の向きに歩き出す。
 西の空は、薄く雲が掛かり赤に染まっている。ぼくの何気ない一日が受動的に終わろうとする。ぼくは、改めて小松ナズナが好きだと感じた。だけど、ぼくは彼女に想いを伝えないだろう。彼女とどうこうしたいというわけではない。ただ、うっすらと好きだと持っているだけでいい。彼女とそんな関係になるには、ぼくはくだらない。

 二月の下旬。ぼくたちは、放課後の音楽室で週に二、三回ほどのペースで〈きらきら星変奏曲〉の練習をした。音楽室は、普通教室棟を渡り廊下で挟んだ所に位置する特別教室棟の四階にあり、放課後の音楽室は人気がなかった。ぼくは、朝に登校して教室にギターを持ち込むのが少し恥ずかしかったため、ギターを音楽準備室に置かせてもらった。音楽準備室に最初に訪れたときは、とてもほこりっぽく感じた。音楽準備室には、大きな窓がなかった。普通の教室の半分もない位の広さで、たくさんの管楽器や木管楽器が、壁側の棚に並べられていた。ぼくは、入って手前の方にギターを置かせてもらった。
そんなある日、小松ナズナと音楽準備室に訪れた。彼女は、部屋中を見渡して、おー、こんなところがあったとは、と感嘆の声をあげた。そして、彼女は音楽準備室の大きな戸棚を開け、この部屋に何があるのかを詮索した。ぼくは、入口手前にあったパイプ椅子に座った。数分後に彼女は、少しほこりを被り、とても大きいテープレコーダーを奥の方から引っ張り出してきた。そして、ぼくにこう言った。
「これ、演奏に使えそうじゃない?」
「どうやって使うの?」
「鼻歌とかリズムを録音してリピートさせるんだよ。ドラムとか、その他の音を補えるんじゃない?」
 それはいい、とぼくは彼女の提案に乗る。音楽準備室には、未使用のカセットテープなどが置かれてあった。テープレコーダーとカセットテープを勝手に拝借した。ぼくたちは、音楽準備室にある楽器を使い、いろんな音でリズムを刻んだ。タンバリンやハイハット、マリンバなど音楽準備室にある打楽器をいろいろ試した。彼女が、テープレコーダーの使い方を知っているのが意外だった。小さい頃にお家で、自分の演奏を録音するときに使っていたという。
 ぼくたちは、三月の上旬まで、音楽室に通いレコーディングをした。突然、終業式での演奏にぼくも参加することが決まった。彼女が、ぼくにも舞台に立ってほしいと希望したのだ。ぼくは、周りが卒業式であっても桜が咲き誇っていても、全く気にも留めていなかった。こんな屈託なく楽しめる日が続けばいいのに、と思った。短くても六月のフェスまではこんなふうに一緒に音をかなでることができるのだ。それだけでも十分だった。

ナッツの音楽

校正を行ってないので誤字脱字があったかもしれませんが、ここまで読んでいただきありがとうございます。評価していただきたいです。

ナッツの音楽

天才ピアニスト・小松ナズナと内省的なギタリスト・蕗屋ナツの物語。

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-03-05

Copyrighted
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