アスファルトが柔らかい日

あおい はる

 ぼくのことを殴ってもらえませんかと声をかけられた。中学生くらいの男の子で、七センチヒールの先が埋まるほどアスファルトが柔らかい日の夕方だった。わたしは仕事の帰りで、男の子は制服を着ていたから恐らく学校か塾の帰りで、そこかしこに紫色の花が咲いていたのだけど、お腹が空いていたのでコンビニエンスストアで買ったピザまんを食べていたわたしは、妙に肌が白く艶やかな男の子の登場にピザまんを喉に詰まらせそうになった。
 顔でもお腹でもいいので、殴ってもらえませんか。
 男の子は黒い髪を揺らしながら小首を傾げた。かわいこぶってる、と思った。けれど男の子は実際可愛かったし、あれこれおねだりされても悪い気がしないなとも思った。駅が近いせいか男の子と同じく学生服を着た学生や、ビジネススーツの男性や、スプリングコートを着た女性が行き交っていた。みんな一様に清々しい表情をしていた。アスファルトが柔らかい日の夕方は空がオレンジ色をしているから、茶色く染髪していると思われる人の髪が明るく見えて空と同化しているみたいだけれど、それよりも男の子は狼狽えるわたしに顔を寄せてきて、お願いだよお姉さん、と云った。
 持ち歩いている水筒の中の残り少ないジャスミン茶を飲みながら、人を殴ったことがないので、とわたしは断った。顔を寄せられてドキッとしたのは、男の子から良い匂いがしたからだ。お花畑で寝転がっているときに嗅いだことのある匂いだった。そこかしこに咲いている紫色の花ではなくて、白やピンクの花の匂いだった。男の子は、なァんだ、と残念がった。お姉さんならめちゃくちゃにしてくれると思ったのに、と唇を尖らす男の子は、その辺のグラビアアイドルよりも艶めかしかった。
 どうして、殴られたいの。
 わたしは訊ねたよ。男の子は訊けば何でも答えてくれそうな感じがしたので。
 そこかしこに紫色の花が咲いている日は、秘密を誰かと共有したくなる日だというし。
 大小さまざまな紫色の花は駅前にある喫茶店の壁を覆う蔦に、レンタカー屋さんの植木鉢に、歯科医院や不動産会社や占いの館が入った雑居ビルの花壇に、摘んで撒き散らしても減らないと思われるほどに咲いていた。わたしの質問に、男の子はニッと微笑んだ。
「お姉さん、殴られたことある?
皮膚を伝って痛みが走るんだけどね、筋肉が震えるでしょう。
血液がカッと熱くなるの。
骨がみしみしと軋んで、
それで神経がピンッと張り詰めて、
頭の中を火花が弾けて、
意識が飛ぶ感覚。
一度味わうと、病みつきになるよ」
と男の子は語って、わたしの左頬を白い指ですっと撫でて、そのまま流れるように去っていった。
 わたしの左頬からすたすた歩き去ってゆく男の子の指先のあいだに、細く白い光の筋が見えたがすぐに消えた。
 急に人を殴りたい衝動に駆られたけれど、当然、そんな勇気はないものだから、七センチヒールで思いっきり地面を踏んづけてやろうとしたのだけれど、今日はアスファルトが柔らかい日だったので踵に体重をかけた瞬間わたしはよろめいた。しかも食べかけのピザまんを地面に落とした。あーあ。

アスファルトが柔らかい日

アスファルトが柔らかい日

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-03-05

CC BY-NC-ND
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