DIVE

大企業のリコール隠しと同僚の失踪の真実に迫る長編小説。


冬も間近だというのに、暑く、日差しをきつく感じる日だった。
少し厚着で来てしまったかなと、香苗は一瞬後悔したが、どうせ今日も帰る頃には寒くなるのだと考えると、汗ばんだマフラーもさほど気にならなくなった。
駅のホームに降りてからが長い。階段をあがって、さがって、またあがって、さがると改札だ。改札が見えると少し小走り気味になっていたことに気がつき、慌てて歩調を周りの人波に合わせる。
テンションが高いようにでも見えたら嫌だなと思い、なるべく感情を隠した表情をつくったつもりだったが、待ち合わせ相手にはお見通しだったようだ。
「なんだか今日もご機嫌みたいね」
正確には待ち合わせ相手ではない。私が勝手に通っているだけだ。押しかけ女房とでも言うのだろうか。相手は男性ではないから違うか。改札を抜けて外に出た。目の前に見える駅のロータリー、その中央広場のベンチには私の期待通り、彼女がそこにいた。
「おはよう理恵子」
「おはようって、もう昼前よ、毎度いつまで寝てるのよ」
香苗としては精一杯早起きしているつもりだったのだが、社会的な時間軸で考えれば早起きで11時過ぎの香苗がおかしいのは間違いない。
香苗はいつものようにノートパソコンの画面に視線を落とす理恵子の横に座りたかったのだが、先約で中年のサラリーマンがかわいい鼾を立てて、居心地よさそうに寝ている。さすがに無理矢理どかすわけにもいかず、香苗はベンチの真横にちょこんと座り込んだ。
「そこ、よく酔っ払い達がゲロっているわよ」
香苗は黙って、ベンチの裏側に回り込んだ。
先に言ってよね、などと言っても、うん、ごめん、と気のない返事をされるだろうから何も言わない。理恵子は私よりもパソコンの画面に夢中なのだ。片手間で相手をされるのは普通なら腹立たしいところだが、そんな感情は毛ほども湧かない。何かを夢中でやっている理恵子、その横で何をすることもなく私は理恵子と共に時間を過ごす、それがいいのだ。
最近設置された喫煙所のせいで、ベンチ付近はやたらとタバコの匂いが充満している。
自分の父親がヘビースモーカーの環境で育ってきたので、全く不快に感じることはなかったが、理恵子はどうなのだろうか。理恵子の父親は煙草を吸うのだろうか、母親は、どんな家族で、どんな会話をして、家族には何を思っているのだろうか。香苗は理恵子のことを何も知らなかった。自分のこともほとんど話していないのだが。
香苗は高校入学からの3年間今まで、まあ所謂不登校だった。別にイジメがあったわけでもないし、勉強が嫌いだったわけでもない、学校に行って嫌なことが待っているわけではなかった。でも楽しいことが待っているわけでもない。とどのつまり、自分は不良と呼ばれる人種なのか、と考えたこともある。だが、スケバンともレディースとも自分はかけ離れているし、夜な夜な怪しい場所に入り浸り恐ろしいドラックをキメていることももちろんない。
うん。つまり、自分はちょっと世間一般の皆とは合わないだけなのだ、きっと自分は個性的な人間なのだ、と香苗はポジティブに自分の不登校を捉えていた。親にはちょっと心配をかけていて、悪いなとは思っているけどもこういう自分を自分で受け入れてから随分と気は楽になった。
そんな香苗を両親は決して突き放すでも、激しく落胆するでもなく、たまに小言を交えながら理解をしてくれていた。本心は分からないけど、理解を示そうとし、親としての愛情を絶やさず見守ることを選んでくれた両親は本当にありがたい。あんたの好きなように寄り道してみなさいよ。でも行き遅れだけはならないでよ、という母親の一言でどれだけ助かったことか。そんなこんなで、香苗は日々自分に必要な何かをふらふらと探していた。
そしてある日理恵子を見つけた。
世の中の同世代が遊ぶ場所らしい「クラブ」、というものに冒険心で行ってみた時だった。何がなんだかあまり好みではない音楽が重低音を響かせ流れている。フロアの中心部にいる男女は気味の悪い動きを音楽に合わせているようにうねうねとさせている。一体全体何を楽しんでいるのだろうか。男女の会話もちらほら聞こえてきてはいるが、生産性も面白味もない薄っぺらなコミュニケーションを楽しんでいるようだった。
店に入って数分で何故かため息がでた。何事も経験だと割り切っている性格の香苗だが、支払った分のドリンクだけ飲み干して二度とは来ないであろう場所から早々に退散することを決めた。ダンスフロアはなんだか居心地が悪く、二階席に少しでも落ち着ける場所を探そうと階段を上がっていった時、二階フロア奥の暗がりで顔だけが浮かび上がるお化けを見つけた。
お化けではなかった。パソコンのモニターの発光で顔が照らし出されている。ひどく似つかわしくない光景。それはそうだ。香苗には詳しくは分からないが、きっとここはどんなに軽薄に見えても人間と交流を楽しむ場所なのだ。パソコンなんかを一心不乱にいじっていたら、他人を拒絶しているようにしか思えない。あのお化け女は何しにここに来ているのだ。
「横空いているかな」
自分でも驚く程、考えることもなく突然口からでた言葉だった。香苗はそのお化け女に気づいたら近づいて声をかけていた。ゆっくりとこちらを見上げる眼差し。先程は遠目からで分からなかったが、切れ長の目に通った鼻筋。薄い唇。美人といって差し支えなかった。ほぼ同い年くらいだろうか、もう少し上かもしれない。同性ながら、タイプだ、などとわけの分からないことを考えている内に「どうぞ」と返答が返ってくる。
声はあんなにあっさりかけることが出来たのに、横にどう座っていいのかわからずしどろもどろしてしまう。その様子があまりにおかしかったのか、理恵子は少しだけ笑って、もう一度「どうぞ」と言ってくれた。その姿、振る舞いに、香苗はお化け女改め、この不可思議な美人を好きになった。
二度と足を運ぶことはないと思っていたクラブだが理恵子に会いに足繁く通うようになったのは香苗にとって自然なことだった。理恵子と会うのは、出会ったクラブが基本多かったが、クラブだけ、というわけでもなく、理恵子はなんだか人が多い場所を転々としているように思えた。「人が多い方が落ち着くから」というのはなんだか方便。本当のようで嘘な気もしていたが、そんなことはどうでもよかった。理恵子は大抵、何か資料や本、パソコンと相対していて私の相手はかなり適当だ。でも私は理恵子の横にちょこんと座り、たまに意味がない会話をするのが本当に居心地よかった。理恵子もきっとそうなのだろう。だから私と会ってくれるのだ。そう思っていた。
そうして、友達付き合いのようなものがはじまった私と理恵子だが、お互いのことは年齢や趣味くらいは知っていても、学校のことや家族のことは絶対に話題にでなかった。踏み込んではいけない気がした。そこに踏み込んだら理恵子は私と会わなくなるような気がして、ただ、今だけを楽しんだ。私と理恵子はそんな二人だった。
ふと耳障りな音が聞こえた。ロータリーを少し異常なボリュームの排気音でトラックが駆け抜けていったのだ。香苗は眉をしかめてトラックが走っていく様を見つめる。
故障だろうか。車のことはよく知らないが異常なことくらいは分かる。私が考えても仕方のないことか、と理恵子に視線を返すと、理恵子はただじっとそのトラックの行く末を見つめていた。あの日、クラブで出会った他人を拒絶する、誰もその世界に入れない空気。トラックが見えなくなってからもしばらく、理恵子がパソコンに目を落とすことはなかった。
次の日、昼前から冷たい風が吹く冬らしいその日。ブレーキ音が悲鳴のように轟音を奏で、それをあざ笑うようにタイヤが宙に舞う。都内のどこかで、トラックが親子連れを巻き込み事故を起こしたという。そんなニュースが街頭モニターで流れていた。
私がなにか悪いことでもしたのだろうか、と落ち込んだが頭では理解していた。理恵子はきっと自分の世界に行ったのだ。友達もどきの存在である私なんかが、踏み込めない場所に行ったに違いない。
理恵子は珍しく「明日もここでね」と声を掛けてくれた。でも理恵子がいるはずの場所には昨日とは違う男が寝そべっているだけだ。苗字も知らない私の友人は私の世界から音もなく立ち去っていた。
日差しは雲に隠れ、冷たい風が車のクラクションと共に背中を揺する。いつの間にか香苗はマフラーをギュッと握りしめていた。


詮索しない、逆らわず従順たれ、がこの会社のモットーであり、ここで円満に生きる秘訣でもあった。そして、だからこそ宮森克己は出世が遅かった。
都内某所の問屋街の端、最寄りの駅から離れたビルの一室。職場の面積は狭いが、人がいつも出払っているので大抵閑散としており広々と感じる。真っ白な壁に蛍光灯が反射している。窓もなく、外の音も分厚い壁で仕切られているオフィスは仕事場というより取調室に近い。
佐久間由紀はパソコン越しに、眉間に皺を寄せながらキーボードをだらだらと叩いている克己を見ながら不思議に感じていた。
うちの会社はブラックな会社だ。世間で話題に上がるブラック企業とかとは意味が全然違う。真っ黒。違法行為を生業にしている。依頼を受ければどんな企業にも潜入をする。そして、依頼主が必要な情報をとってくる。それがインサイダーだろうが、どれだけ倫理から外れたものだろうが、とにかく業務をこなす。一般的には企業スパイ、と呼称されているだろう。表向きは人事派遣サービス業を名乗っているが、実体は暴力団や宗教団体、反政治組織と変わらない。本来、健全な社会にあってはならないものだ。そういう堅気じゃない場所なので、会社員とはいえ現場にでている連中を中心に組織全体、端的に言うと「ヤバイ」のである。
そんなヤバイ会社では誰もが出世を死に物狂いで目指す。現場からさえ離れることができれば、管理責任は増すものの、命をすり減らすような直接的な仕事は圧倒的に少なくなるからだ。最前線の現場に居続けることは自殺行為も同然。実際、彼の同期は構成部の冴島主任、総務の加藤を除けば、色々な意味で全員会社から消えているらしい。
たまに現場での仕事にこだわっている者や、頭脳労働より肉体派だからと言って現場志願している社員もいるが、克己は少しそれとは違うように見える。
ただ会社が嫌い。この会社も会社のやっていることも心底嫌っている。だから事あるごとに会社の方針や指示に背いて噛み付いている。そんな感じだ。今もまさに先日の仕事での命令無視についての始末書を書かされているところなのだ。仕事は実際しっかりと結果を残しているからだろうが、よくもまあ、あれだけ反乱分子アピールをしていて上から消されないものだ。佐久間はある意味感心もしていた。
「佐久間、これ」
ぼんやり考え事をしていて気がつかなかったが、いつの間にか克己がデスクの横に立って始末書を差し出している。
「これ、管理課に回しといてくれ」
「はぁ。でも始末書、こんなものでいいんですか」
克己が差し出した書類には、だらだらと命令無視の経緯を説明した後、一言『命令に従わずすみませんでした』とこれだけが書いてある。そして文の後に判子だけ。眉間に皺を寄せて書いていた割にこれだけか。
「いいんだよ。どうせこんなもの、いちいちチェックしないよ。品質管理も暇じゃない」
それだけ言って始末書を佐久間のデスクに放り投げると宮森は自分のデスクに戻って、うつ伏せになり居眠りをはじめた。品質管理を舐めすぎではないか。品質とは自分たち社員、特に実際の潜入業務に就く営業部の社員のこと。社員の勤務態度を査定し、賞罰や昇進も決める。普通の会社では人事にあたる。品質によっては強制的な廃棄処分も行うのが彼らの職務であり、社内では出来るだけ彼らと関わらないようにするのがベターな選択なのだ。
しかしこの調子である。出世は無理というのも当然だ。案件自体の結果は出すが、社内での勤務態度は不真面目そのもの、上司にも不遜な口のきき方をするわ、書類も適当の範疇を超えている。彼と仕事を組むとロクなことになりはしない。陰口で彼は「人災」などと揶揄されている。それでも宮森克己はクビになることも消されることもない。始末書は多々書いているが、それ以上のペナルティをくらっていることはないようだった。営業としては結果が第一ということか。
そして、命令違反はするが会社の規則を絶対破っていないこともポイントか。どんな上司の命令よりもこの会社の規則は重い。
ツーツー、呼び出し音。内線がかかってきた。佐久間は手早く受話器をとり、「第一営業、事務の佐久間です」
相手は一言。「宮森を構成部まで寄越してくれ」と言って内線を切った。社内の回線とはいえ、もう少し愛想よく電話して欲しいものだが、上の連中にはそれを望むだけ無駄なことは入社3年目にしてよく分かっていた。そういう会社なのだ。電話の相手は構成部の冴島主任か。内線を掛けてくるのは、仕事の配置や詳細の決定権を握る構成部の人間くらいなので、声を聞けば誰が掛けてきたかは判別が容易だ。
克己は佐久間が声をかけると一瞬面倒な顔をしたが、ため息と共に、「スパン、短すぎ」と聞こえるように呟き、よれよれのジャケットを羽織って立ち上がった。クリーニングくらいして欲しい。奥さんとか恋人はいないのだろうか。
「佐久間、お前もだよ」
晴天の霹靂。キョトンとしてしまったが、事態はすぐに飲み込めた。
「嫌です」と一言。
「給料泥棒するなよ。営業が指定した事務は他の案件を抱えていない限り、断れないのがルールだろ」
克己の言っていることは正論だ。論破はできない。潜入業務を行う営業を「ダイバー」。遠隔で諸々を手助けする事務が「オペレーター」と社内用語になっているが、ダイバーは自分の仕事がやり易いオペレーターを指定して案件にかかることが出来る。
佐久間は宮森にも分かるような大きなため息と共に「スパン、短すぎ」と宙に軽く叫んだ。前の案件が終わってから3日と立っていない。
「景気が悪くなればなるほど、悪事考える奴らが増えるんだよ。文句は政治家に言え」
今度は小さなため息。「行くぞ」とオフィスのドアを開けて佐久間を促す克己。すごすごとうなだれたまま佐久間はついていくことになった。
構成部は会社ビルの最上階にあり、エレベーターも暗証番号なしでは止まらない。会社自体のセキュリティもかなりのものだが、構成部の部屋に行こうとなると、それこそ巨大銀行の金庫を破るよりも難易度が高い。網膜・指紋・声帯チェックに専用の社員証カードでのロック解除。警備のボディチェックも入念なものだ。スパイ稼業を実感する。
ようやく構成部の扉が開くと、湾曲した奇妙な壁が横に伸びる大部屋にたどり着いた。唯一の窓前にはブラインド、大仰な黒いデスクの存在感は威圧的であった。そのデスクにはより威圧的な面持ちの冴島主任島の姿。
「おはようございます」敬意の欠片もない軽い挨拶の克己。
「呼び出したのはお前だけのはずだが、宮森」
なんの気もなくついてきてしまったが、隣の男は社内随一の「人災」。自分も呼ばれていいものか確認するべきだった。早速面倒なことになりそうだ。
動揺を隠すのにメガネをかけ直して、自分は悪くないんですよ、といった雰囲気を醸し出しながら後ずさりする。
「どうせ、こっちで同じ話を打ち合わせするんです。オペレーターも一緒に聞いた方が手っ取り早いじゃないですか」
「そういうことではない」
静かに言い合っているが、怒気というか殺気というか、とにかく険悪な空気が部屋の中にまで充満している。この二人は同期だが、仕事へのスタンスがまるで違う。恐らく生き方も。唯一の共通点は二人共入社以来ほとんどの案件で成果をあげてきた、ということだけだろうか。しかし、仕事に対するスタンスによって立場は全く違うものになっていた。
「オペレーターはあくまでオペレーターだ。必要な情報もそうでないのも、営業のお前が判別し、伝える必要がある。どの社員もこのルールに沿って仕事をしている」
オペレーターを舐めるなよ、という感情もかすめたが、その通りですと言わんばかりに首を縦に振る佐久間。
「なんとなくの決まり事だろ。絶対に破ってはいけない会社の規則じゃあない。それに俺はオペレーターに隠し事はしない主義だ。全ての情報を伝えた上で主体的な判断をさせる」
主体的な判断をさせる、ということは責任が増すということだ。冴島主任にも睨まれている気がして、胃がキリキリする。いつの間にか克己は主任にタメ口になっているし。逃げ出したい。一目散に辞表を提出して、オフィスの荷物をまとめ、会社を飛び出して勢いよくスキップしながら地下鉄に乗りたい。
嫌悪感を丸出しにした冴島の視線が克己と佐久間を一舐めすると、冴島はデスクから大型の茶封筒をだしてデスクの上に投げ出した。
克己は頭をかきながら、黙って茶封筒を受け取ると中身を一瞥して、怪訝な顔を浮かべた。
「冴島主任、この案件は」
「松田が担当していた案件、第二営業の仕事だ」
克己が言い切るより早く冴島が口を挟む。松田は第二営業、大手企業担当の部署でエース格の男だ。実績だけで言えば克己とも大差ない。まだ若手と言える年齢だが、依頼の裏にある人間の心情をしっかりと掴み、正確な情報を取ってくるらしい。宮森じゃなくて松田さんと組みたかった。
「松田がしくじることありますか」
しくじる、というのはどういうことだろうか。
「一ヶ月前から松田はある企業に潜っているが、今朝で丸2日、オペレーターが連絡をとれていない。松田が潜ったまま消えた」
「ウチの品質管理が動いているんじゃないですか」
「それはない。さすがに本社主導で品質管理が動いていても、俺のところには耳に入る」
「そりゃそうだ」
先程とは違う空気が流れる無言の時間。
「でもなんで第一営業の俺が」
佐久間も引っかかっていたことだ。営業部署は担当が分かれていて、担当が違えば仕事のやり方も随分変わる。というか別モノといっていいい。第二は大手企業担当、第三は非営利団体、第四は国外、第一の宮森や佐久間は中小企業担当となる。第三と第二は案件によっては人材のシェアをしているところもあるが、第一の仕事内容的にそれはありえない。第二は社内でも花形の部署と言える。大企業を相手取り、場合によっては国家をも揺らし兼ねない極秘情報を手に入れる。ウチの活躍によってライバル企業を出し抜き業界一位を奪取したり、逆に倒産に追い込まれるケースもなくはない。そういう意味でデカい仕事ばかりだと言えるが、第一のやっていることは街の探偵とさほど変わらない。社内で妻と不倫している社員がいるから調べて欲しい、だとか会社の備品をネコババしている奴を突き止めてくれだとか、前者と比べれば大分ライトなものだ。だから何故、宮森克己なのか。
「うちの支店では松田以上のダイバーはいない。松田がしくじったなら、無闇に人材を投入するわけにはいかないし、その点お前は消えてくれても都合がいい男だしな」
企業に潜ることから、潜入要員はダイバーと呼ばれているわけだが、横文字でお洒落に諸々を誤魔化している気がしないでもない。上司が口に出すとなおさら感じる。
「素直に俺にしかできないと言ってくださいよ」
冴島の言っていることも克己の返しも恐らくは正しいのだろう。松田さん程の人がしくじる案件を解決できるとしたら、人災を振り撒きながらもダイバーとして確かな力量を持つ克己が適任だと冴島は評価しているし、最悪失敗しても冴島としては厄介払いができる。ただ、私を巻き込まないでほしいと心から思った。
詳細は封筒内の依頼書と松田と組んでいたオペレーターから引き継ぐようにと締めると、冴島は部屋からでていくように命じた。
「おい」
去り際に扉の前で振り返った克己に冴島は冷たく言葉を浴びせる。
「俺はお前なら品質管理を送り込むのも躊躇せんぞ」
獣のような眼をギラギラさせながら、克己は歯を見せて笑って背を向ける。冴島は克己の仕草には無反応。表情も変えず機械的に一言加える。
「グッドラック」
「いらないよ、幸運なんか」今度は振り返りもしない。
最後まで悪態をついた克己に冷や汗を通り越して呆れ顔になっていた佐久間だった。もう構成部には絶対行かない。
再び、厳重なチェックを受けて第一営業部のオフィスに戻る途中、廻りを気にしながら佐久間は克己に訊いてみることにした。
「あの、グッドラックってダサいですよね。生で初めて聞きました」
とことん横文字が好きな会社だ。というか中二病の台詞か。「冴島のもっと上の奴らの趣味だよ。一時期、業績が落ち込んだ時におまじない的なものでな。はじめてみたら、案件の成功率が急に上昇したのだと。主任以上のクラスになるとほとんど強制的にやらされている。宗教みたいだな」
「私は既に幸運じゃない気がしますが」
なにか言ったか、と克己が睨んできたが、適当にお茶を濁す。佐久間に先程の茶封筒を渡した克己は第二営業部の扉の前で足を止めた。
「佐久間、お前は同業他社がこの案件に割り込んできてなかったかどうかを一応調べてくれ。データベースで分かる範囲でいい」
「同業社にやられたんですかね」
「まだ分からない。とりあえずは情報を集めるだけ集める。動きようがないからな。案件の潜入先はどこだ」
佐久間に封筒の中身を確認するよう促す克己。
「自動車会社のモトハシ・モーターズです」
普段から小さい発注の対応ばかりだから、同業他社の妨害対策等は現場で実際に対応したことはない。マニュアルでも引っ張りだしてみるか。仲のいい第二のオペレーターである深山に訊いてみるのもいいかとも考えつつ、返事もおざなりにして佐久間は先にオフィスに戻ることにした。
戻ると先ほどまでデスクにいた残りの営業も既に社をでているようだった。部署には佐久間一人、誰の目もないし、ダラけたいところだが克己が戻ってきた時に嫌味を言われるのも癪だ。それに克己はトラブルメイカーではあるものの、案件に対しては真剣そのものだ。でなければ、成果をあげてきているはずもない。
データベースを立ち上げる前に佐久間は最も重要な社内規則を取り出した。
第一の規則と第二では多少違うところがあった気がする。このチェックだけは気を抜くわけにはいかない。知りませんでしたでは済まされないからだ。社内で規則は何より重んじられる。それは高潔な精神でも、利益主義からでもない。ただ、規則を破ったものは重い罰を受けることになるからだ。
佐久間が入社一年目の頃にいた中堅社員は規則を疎かにしたため、案件の仕事中に品質管理の人間が張り付くことになった。ある日、社に行くと、その中堅社員の持ち物も痕跡も全て消えていた。その社員がどうなったかは知らないし、探ることもできない。品質管理に眼をつけられたが最後。消される。それが周知の事実なのである。
昔のことを思い出してゾッとしたが、自分で選んだ茨の道である。後戻りができるはずもない。規則を具にチェックしていくと目に留まる項目があった。
〈営業は案件が終了するまで一度潜ったら社に戻ることはできない>
第一では細かい発注を扱うので尾行にさえ気をつければ頻繁に社に戻ってくる。単純に場末の探偵のような仕事も多く、リスクが低いのが理由といえる。第二ではそうはいかない。第二は社会的な影響力も大きい大企業からの発注だ。企業側に実際に潜入して窃盗や不法侵入なるものもおこなう。そこで扱う情報の類は経済に大きな影響を与えるものが多く、難度の高い案件が実に多い。難度が高いということはリスクが高いと直結する。潜入している企業側か勘づき、逆に尾行をつけられてしまえばこの会社の存続にも関わるというわけだ。
誰にも知られず、悟られず、様々な手法でクライアントの必要な情報を入手してくる。絶対に自分たちの存在を明かしてはならない。深く潜り、必要なものだけを持ち帰り、速やかに浮上する。浮上できなければ待つのは死。企業スパイの現状は実にワイルドで危ういものだと言える。
もちろん違法であることは誰もが承知し、様々な事情で働いている。佐久間も今のところ辞める気だけはさらさらない。克己も同じだろう。
規則で差異があるのはそれだけであることを確認すると、克己に頼まれていたデータベースを開く。ローディングを待っていると、克己が苦い顔をして部署に戻ってきて椅子に腰を掛けた。
「早くないですか、オペレーターの人いなかったんですか」
「ああ、いなかった」
同業他社の確認はまだ全くやっていない。克己に悪態を突かれるのも釈で、適当に会話をつづけようとすると克己が顎に拳をつけながらもう一度口を開いた。
「いなかったよ。松田と組んでいた澤オペレーターは出社していない」
「風邪で欠勤とか」
「僅か1時間前の話だ、無断欠勤を不審に思って自宅を確認した同僚が、自宅で首を吊っているのを発見したそうだ。自殺か他殺かは不明。冴島にもまだ伝わっていなかった」
体中の血が凍りつくような寒気、そして強ばる表情。潜入現場にいないだけで、オペレーターとはいえ佐久間達も決して安寧としてはいられるわけではない。知っていて実感だけがなかった事実が心臓を急かして動かす。
「松田も無事な可能性は低いな。厄介な情報を握ってモトハシ側にやられたか、同業他社の横取りか、どちらにせよ楽な案件じゃないぞ」
「わかっていますよ、あなたと組まされたその時から」言葉は胸にしまいこんだまま、佐久間はキーボードをたたいた。


「モトハシ・モーターズ」赤く大きな社名が書かれた看板。縦に高い高層ビルとは違う。横に長く広い。広大な敷地を存分に使っている会社の裏にはテスト走行用のサーキットもある。ムダを省いた効率的な会社とは違う匂い。少しばかり時代遅れ感を醸し出しつつも、アットホームな空気が会社に入る前から感じ取れる。
今回の仕事先、自動車会社モトハシモーターズの会社前で克己は会社内に入っていく人山を見ながら考えていた。
潜入先に自分の痕跡を残さないこと。当たり前のようで簡単ではない。
しかし松田は一流のダイバーだ。潜入先の社内でもほとんど痕跡は残していないだろう。松田という社員がいたことすら同僚があっという間に忘れ去ってしまうような存在感で探りをいれていたはずだ。だがそれはあくまで何事もなく仕事を終え、円満に会社を去った場合である。松田が突如消されたのだとしたら、無断欠勤になっているだろうし、同僚にも迷惑をかけているはず。まずは同僚達から松田についての情報を取得するのが優先順位だなと克己は考えていた。
冴島から発注を回されたのは昨日だが、一刻も早い対応が必要だと感じて克己は今日付けでモトハシに潜ることにした。諸々の情報は今から佐久間に伝えてもらう手はずだ。発注内容。依頼主。聞くことは山程ある。
耳にクリアで冷ややかな声が届く。佐久間だ。
『佐久間です。モトハシ社前にちゃんと着いていますか』
「GPSで追っているんだから分かっているでしょ」
普段のよれたジャケットでもシミの深いワイシャツでもなく、清潔感漂う出来男の風貌、ネクタイをビシッと締めた宮森克己がモトハシ社前に立っていた。耳内には小型の通話機。こちらの様子も会話も全てオペレーターに直結している代物だ。情報戦になりそうな今回は特にダイバーの生命線と言える。佐久間は克己の返しには反応せず、淡々と必要な情報を流してきた。
『モトハシは業界3位の大手自動車メーカーです。乗用車や高級車は他の会社にかなり遅れをとっていますが、トラックの性能は随一、流通量も群を抜いていてモトハシの主軸と言えます。業界の他社はあまりトラック部門に力を入れていないから、一人勝ちしているモトハシの経営状態も3年程前までは安定していました。やはり大手だからセキュリティも厳しいとは思ったのですが』
「思ったのですがなんだ」
『油断はさせたくはないんですが、結構ザルですね、この会社。ウチのダイバーが過去2度ほど潜っていますが、軽々と情報奪取に成功しています。ウチだけじゃなくてライバル企業や同業社も大量に潜っているみたいですし、危機管理不足ってとこですね』
アットホームな感じは裏を返せば呑気ということか。
「経営状態は安定していました、ね。過去形ということは最近下降気味なのか」
人事との約束時間までに佐久間に調べさせておいた情報をとりあえずひとさらいしておきたい。
『自動車会社はどこもそうですが、海外でやはり苦労しています。国内でもここ数年はヒット商品がでていないのもあるのですが、3年前に合併情報を盗まれてリーク。合併がお釈迦になったところから経営は悪化していますね。ちなみにウチの会社の仕事です』
「罪な仕事だね。松田の案件か」
『いえ、同じ企業に同じダイバーが潜ることはありえないですから』
となると、その合併情報のリークの件を含めた過去の遺恨は関係なさそうである。やはり松田は今回の案件に取り組んでいる中で下手をうったということか。
『松田さんは自分で事前にかなり下調べをしていたようです。どこの部署に潜るかも完全に特定して潜ったみたいですね』
「どこの部署だ」
『カスタマーサポート統括部門。簡単に説明すると、ユーザーの要望やクレーム処理をするカスタマーサポートセンターから情報を吸い上げて、会社の営業や開発にフィードバックする部門です。モトハシはこの部門に対して他の会社と違う特別な体制を敷いているようです』
「説明してくれ」
『このカスタマーサポート統括部門は社長直属なんです。営業や開発の役員を通さずにユーザーの意見が社長にダイレクトに伝わる仕組みらしいですね』
「それだな、松田が潜る指定をした大きな理由は」
『でしょうね』
さすが松田である。普通のダイバーなら社内の情報を全体的に得やすい人事や営業を選択するが、目の付け処がいい。なにが目当てだったかはこれから聞く。
「まず、依頼人に会う必要があるな、どこの誰だ」
『さあ』
「さあって、どういうことだよ。俺、何するんだよ。誰に会うんだよ」
『今回はあくまで松田さんの消息確認がメインの案件で、松田さんがやるべきだった仕事は達成可能ならば遂行せよ、とのことですから』
「ですから、なんだよ」
『依頼主の情報も依頼内容も通達されませんでした』
「マジかよ」
「ぶっちゃけて言うと、依頼主に対しては上の判断で接触を避けたい腹積もりらしいですね。前の営業がダメだったので次の営業がきましたでは会社の名前に傷がつきますから。澤オペレーターの件も気にしているのでしょう。依頼内容に関しては冴島主任の判断です。「先入観を持たせないように」とのことです」
大きく息を吸い込んで大きくため息をつく。全く、非合法なことをやっている割にお堅いお役所みたいな会社である。効率が悪すぎて萎えそうだ。一体、依頼主も依頼内容も分からない状態でどう探りを入れろというのか。
「俺の配属先はどこになる」
『松田さんと同じカスタマーサポート統括部です。パッセージというエンジン開発の関連会社からの研修員という形で潜ってもらいます』
昨日、大した打ち合わせをする程の情報もないまま、とりあえずモトハシにすぐに潜入できるようにと、会社の流通課に連絡をとり潜入の段取りを整えてもらった。準備をきっちり整えて綿密な計画を立てている時間はない、と克己がゴリ押ししたのだ。とはいえ、依頼主も依頼内容もわからないまま潜ることになるとは思ってもみなかった。こんな状況ならリスク回避を考えて前のダイバーと同じ部署は避けたかったところだ。
「同じ部署かよ、どうなんだ、それ。俺も松田と同じ目に合うかもしれないぞ」
『時間が惜しいって言ったのは宮森さんですよ。自分で判断したのだから自分で責任取ってください』
真っ当な反論だ。でもちょっとは優しくして欲しい。
やれることが限られているから、シンプルな動きにはなるだろう。案件の達成は一先ず置いておいて松田のことだけを調べるしかない。そういう意味では上も考えて情報を統制しているということか。しかしなんとも優秀な人事屋である。昨日の今日で克己を松田が働いていた同じ部署に配属させるとは。恐るべきブラック企業。
佐久間とのやり取りも一段落つき、時間を確認すると、約束の時間より10分早く社内一階の受付で名前と要件を伝える。受付嬢が内線を繋ぐと数分で若くて利発そうな人事の社員が現れた。応接室に通され挨拶を交わす。
「パッセージの宮森克己さんですね。人事の遠野です。どうぞよろしく」
「はい、宮森です。今日からよろしくお願いします。勉強させていただきます」
『ウチの社内でもそれぐらい殊勝でいたらいいのに』
大きく下げた頭。耳元で佐久間の愚痴が聞こえてきたが無視だ、無視。
普段なら潜入企業の業種についてきっちり調べた上で潜るのが定番だが、時間の都合上、今回は自動車関係の予備知識もないまま飛び込むことになった。まあ、その辺りは佐久間の尽力と生来のノリで乗り切ることにする。
応接室で簡単な書類の記入を済ますと、早速、配属部署であるカスタマーサービス統括部門のオフィスに遠野が案内をしてくれることになった。しゃべり好きなのか、遠野は道すがら矢継ぎ早に喋りかけてくる。
「宮森さんはエンジン開発の企業で、ピストン運動を促進する新しい油の配合を開発したんですよね」
「えっ、あっ、ははい。したようなしてないような」
そういうことになっているのか。事前に教えて欲しい。
優秀な人事屋というのは取り消そう。適当なプロフィールすぎる。一体どんな説明で俺をモトハシに送り込んだんだ。
「どんな油の配合だったんですか。いえね、私も昔は開発関係の部署にいたものですから、個人的な興味があって」
「あーーーー、えーーサラダ油100%です。オリーブオイルも少々」
『馬鹿』
馬鹿呼ばわりする前にオペレーターなのだから助けて欲しい。
「面白い人ですね。宮森さん。企業秘密ってことですよね」
「ええ、まあそうなりますかな」自分のキャラがよく分からない。
話題を上手く逸らそうと、こちらから遠野に質問をして油の話は隅に追いやることに決定。
「昨年まで開発にいた、と仰っていましたけど。開発から人事って珍しい異動ですね」
遠野は苦笑しながらも口を濁すことなく、言葉を返す。
「いえ、飛ばされたんですよ。昔、開発途中だった車が芳しい結果を残せなくて。その時、開発にいた人間はほとんど異動させられました。普通は理系畑の開発から人事なんてないんですけどね。カスタマー統括部部長の堤さんも、当時の自分の上司ですよ」
少し悪いことを聞いてしまったなとは思いつつ、ちょっとした情報も手に入り、時間も埋められて助かった。それにこの遠野さんの人あたりのよさなら人事でも充分活躍していそうだ。
「ここがカスタマーサポート総括本部のオフィスになります」
そんな具合にひやひやとした会話も切り抜けて、カスタマーサポート統括部のオフィスに辿りつく。フロア全体に重苦しい扉などはなく、簡単なパーテーションの仕切りだけで風通しのよさそうなオフィスである。椅子の数は8、9、10人には満たないが、ウチの会社と違い広々としている。普通なら働きやすそうないい環境と言える。
だが、オフィスに着いた克己は視線を部屋中に巡らせて目を細める。幾度となく様々な案件で感じてきたものと同じ。いびつで異様な閉塞感。間違いない。ここには何かがある。ここまで案内してくれた遠野が部署のトップらしき人物に声をかけると手招きで克己を呼び寄せた。
「こちらがカスタマーサポート統括部門の責任者の堤部長です」
「今日から一ヶ月程、お世話になります。宮森です。どうぞよろしくお願いします」
精一杯の爽やかさと愛想、偽りの笑顔で挨拶をしたが堤部長と紹介された人物は値踏みするような目でこちらを凝視する。挨拶にはまるで応じない。なんだか嫌な奴。
あの、と口ごもってみると、堤部長は不躾に「なにしにきた」と一言投げかけてきた。閉塞感は事件にも絡んでいるだろうが、この男の影響が強そうである。眉間に深い皺、タバコの匂いと老眼鏡の下から除く鷲のような目つきが初対面の人間を威嚇するのには十分であった。
『堤喜孝、カスタマーサポートの部署の部長。社内全体にもかなり顔が効く重鎮の社員です』
「弊社から是非、モトハシさんのカスタマーサポートの対応を勉強させていただこうと、研修という形で派遣させていただきました」挨拶を続けてみる。
「どこの会社だ」
雰囲気はほとんど尋問に近い。笑顔を崩さず答えようとしたが自分の勤めているはずの会社名が出てこない。
『パッセージです』
「パッセージです」
さすが、佐久間。口は悪いが気は利く。
「またあそこからか、うちは学校じゃないのだが」
悪態はつかれたが見逃すわけにはいかない。また、と堤は言った。上手く遠まわしに会話を絡める。
「すいません、いつもお世話になってしまって。うちの社員が少し前にも研修させていただいていますよね。なにか御面倒でもおかけしましたか」
松田のことで探りを入れたつもりだが堤はそれには答えず、ただ不機嫌そうにマニュアルらしきものを寄越してきた。もう少し強く押してもいいが、目の前の男が松田の失踪に絡んでいる可能性もある。慎重にいくことにする。
カバンを下ろして指定された席につくと、デスクの上に仕事道具を並べるのをカモフラージュにしながら、自然な手つきでデスクの下に盗聴器を仕掛ける。広域で拾える盗聴器なので、この部署の会話を把握するのはわけない。オペレーターにも情報はとんでいるので対応も楽である。
自分のデスクに貼り付けるのはもちろん理由がある。第一に発見のリスクが低い。なにせ自分のデスクなのだから漁る人間は皆無に近いし、発見されても被害者面できる。自分がオフィスにいない時の会話もできるだけチェックしたいと考えていた。
「あ、うちはオープンデスクだから、最低限のものだけ広げるほうがいいですよ」
向かいのデスクの青年の一言でいきなり躓いた。オープンデスクとは、社員一人一人につき固定のデスクがあるわけでなく、毎日自由に自分のフィールドを変えられるシステム。社員間のコミュニケーションを円滑にするために最近の企業では導入しているところも多い。まあ、それならそれでしょうがない、発見されないようにたまに場所を変えよう。
「島崎道夫です。よろしくです」
快活で明るさが前面にでている男性社員だ。部署全体若手が多いように見えるが、その中なら中堅の部類に入るだろう。人事の遠野といい、利発でコミュニケーション力が高い社員が多い。さすが一流企業というところか。
「宮森です。よろしくお願いします」こちらも負けじとキラッとした笑顔で挨拶を返す。
しばらく渡されたマニュアルを読むふりをしながら周囲の空気を探っていると、島崎は目下のパソコンに視線を落としたまま話しかけてきた。
「やることないですよ」
「はあ」
「朝から晩までパソコンでネットサーフィンしたりしているだけですから。あっちのデスクの吉永さんなんかオンラインゲームやっていますからね。あ、あっちの土井さんは仕事の電話をかけに行く振りしてキャバ嬢によく電話しています」
壁一枚隔てた部署は営業関連の部署だろうか。ひっきりなしに電話がかかってきているようで、その雑音がBGMになっているので二人の会話がオフィス内で響くことはなかったが、カスタマー統括部自体だけを切り取れば静寂に近いものがある。隣の部署との落差が激しい。
よく目を凝らすと、どの社員もパソコンをいじってはいるが真剣な眼差しはなく、だらだらと暇つぶしをしているような様相だ。画面を眺めたまま、フリーズしている社員もいる。
「この時期って暇な時期なんですか」
「年中暇ですよ。毎週あがってくる各地のカスタマーセンターからの情報をまとめるだけの仕事ですから。よっぽどのことがないと忙しくなどなりませんし」
『そんなことあります?いくらなんでも人件費の無駄使いでは』
大きな企業ほどサボれる部分は多々ある。目の行き届かないところが当然多いからだ。だからといって、部署まるごと暇なんてことは珍しい。それともこの部署自体が所謂窓際族が追いやられる部署なのだろうか。それにしては若手社員が多いのは変だ。
「うちの会社も結構クレームの類が多いので、対応策を学べたらと思い研修させてもらっているんですが、そういったものも余りないんですかね」
「それだったら、センターに直接研修したほうがよかったかもしれませんね。うちはまとめるだけの部署ですから。大したクレームなんかも僕が入社してからずっとないですし」
「島崎さんはずっとこの部署ですか」
「ええ。自分は中途採用ですが、最初からこの部署で3年目ですね」
やはりおかしい気がする。必要があってとった中途社員をいきなり、こんな無気力な仕事場に放り込むだろうか。
島崎は一応、堤部長に気をつかってか隣の雑音に紛れるくらいの小声で話しかけてきてはいるが会話をしている人間は他にいない。耳を澄ませば二人の会話は筒抜け状態と言えた。これではどっちが情報を探りにきているのだか分からない。
「宮森さん、社内結構広くて見ごたえありますから、見学してきたらどうですか。重役フロア以外は社員証があれば出入り自由ですし。適当に見てまわっても誰も文句いいませんから」
『セキュリティ甘すぎですね、逆に重要な情報なんかないんじゃないですか』
逡巡したが、同じ部署の人間が勧めてくれたという言い訳もたつし、社内を一通り見て回れるチャンスはそうないかもしれない。堤部長の目も気にしつつ、イエスの二つ返事をした。
「荒井」
島崎が呼びかけると顔立ちの幼い、若手女子社員がデスクの傍までよってきた。顔には似合わず、少し強めの香水が鼻をつく。
「宮森さんを3時間程、昼飯くらいまで案内してやってくれ」
「え、でも私」
「大丈夫だから」
なにが大丈夫なのだろうか。島崎は先ほどまでの柔和な表情ではない。強引な物言いで産業スパイの輩の案内を言いつけた。
荒井と呼ばれた女子社員は「こちらです」と言うと先にオフィスをでていった。克己も「それでは」と一言告げて荒井のあとを追いかける。
『なんだか妙な感じ』
佐久間に同感。厄介払いをされた気分だ。
最初に案内されたフロアの2階は一般開放もされているショールームで、モトハシの代表的な車種がズラリと並んでいた。車音痴の克己にはなにがいいのやらも分からないが、一応関連会社の出向なので、興味深々のフリをしながらじっくり眺めてまわる。案内を仰せつかった荒井は時計を気にしてばかりでこちらを手厚く案内するつもりもないらしい。時間がないのを焦っているというより時が早く過ぎるのを待ちわびている感じだ。そんなに俺を案内するのが嫌なのだろうか。
奥の高級そうな車の影に入ると荒井は死角になった。車紹介のVTRも上空の大型ビジョンで流れている。小声なら会話も聞こえなそうだ。
「案内じゃなくて監視だな」
『同意です、完全に怪しまれていますね』
「俺が来る前からだ」
『どういう意味ですか』
佐久間は首をひねったように声をだしたが、克己は確信していた。オフィスに入り、わずか10分で潜りだとバレていることは有り得ない。克己が来る前から、「次に来た人間は怪しい輩だ」ということがオフィス全体に周知されているのだ。克己がどこの誰で、どういう潜りなのかまでバレているかは不明だが。
「佐久間、オフィスの様子はどうだ」
『相変わらず静かですね。ただ、空気が違います』
「どう違う」
『張り詰めた緊迫感があります。キーボードの音がすさまじいですね。オンラインゲームじゃないでしょう。それに何人かの人間がオフィスからでたようです』
「盗聴を危惧しているな。相当警戒している。皆仕事がしたくてたまらなかったんだな」
『分かるように説明してください』
「あの荒井って子、顔の割にはきつい香水の匂いがした」
『うちの会社、セクハラには厳しいと思いますけど』
「最後まで聞けよ。何日も家に帰れてないような汗臭い匂いをきつい香水でごまかしているんだよ。島崎ってやつはワイシャツのシワが凄くてな。他の男性社員も髪は不潔だし、どの社員も目の下のクマが凄かった」
『徹夜作業ってことですか』
「ああ、それも連日だ」
勘づいたのか、佐久間の息を呑む音。
「本当は徹夜続きな程、クソ忙しい状況にも関わらず、部外者らしき人間には絶対に明かせない仕事をしているってことだな」
自分でも口に出していて鳥肌が立つ。かつて潜入先でこれ程最初から警戒された状態でのスタートはなかった。松田の消息もそうだが、自分の置かれている状況も正確に把握する必要がありそうだ。ただ当たり前すぎて規則にも記載はないが、絶対に自分がダイバーであることは知られてはならない。
「荒井さんは入社何年目なんですか」
車の影から姿をだすと、克己は荒井に対してフランクに話しかける。とりあえずの世間話、ボクシングでいうならまずはジャブから突破口を見つけてみるとする。どうせ警戒されているのだ。自分から攻めないでどうする。
「私も中途で、まだ一年経っていないぐらいです」
「じゃあ、部署だとかなり新人のほうに入るんですね」
「ええ。でも若い人も多いのでそれなりに」
「私も、と仰っていましたけど島崎さんだけでなく部署全体、中途の人が多いんですか」
イチイチの逡巡、荒井は自分の発言をかなり吟味しながら喋っているような様子だ。彼女本来の性質なのか、何かを隠そうとしているかのどちらか。もちろん克己は後者を疑っている。
「そうですね、中途採用の人はかなり多いと思います」
ウィスパーで一言、「経歴チェック」と克己。
『もうやってます』と冷たく佐久間の返し。
そして、やるか、という克己のつぶやきを佐久間は逃さなかった。仕掛けとしてはあまりに早い。忠告し、諌める言葉を直前で佐久間は引き上げた。今回の案件はとにかく時間がない。前任のダイバーが行方不明ということは、殺害、もしくは監禁されている可能性があるということだ。時間がたてば経つほどこちらの情報だけが漏洩していくのが一番問題だ。克己の今回の最優先事項は案件の解決ではなく、痕跡を全て消すこととも言えるのだから。
「ところで、例のあの件は大丈夫なんですかね。今、大変だったりするんじゃないですか」
とりあえずボールを投げる。例の件がなんなのか、そもそもなにが大変なのかなどさっぱり検討もつかないが探りを入れる言葉としては最適かつストレートと言える。相手が素人なら反応を見せないはずはない。言葉で返答はなくとも、唇の端、視線の動かし方、体の硬直などいくらでも情報はすくい取れる。正直こんな序盤から仕掛けるのは不本意だ。だが相手は既に自分を警戒しきっているし、盗聴の情報や克己の勘からしても向こう側が何かを隠しているのは明白。下手に時間をかけても情報も信頼も得られない可能性のほうが高いのだから、この時点ではかなりベターな戦略と言えた。
「え」とわかり易いほどのリアクション。目の前の荒井からは無数のメッセージが読み取れたが、統合するとこうなる。〈なんであなたが、そのことを知っているの〉
そのことってなんだよ。次の一手でどこまで潜れるかが決まる。
「いや、ニュースになっていませんでしたっけ」
「詳細はニュースや記事にはなっていないはずですけど」
つまり、ニュースになっているようなことが起きているわけだ。
「ああ。そうか、僕も人から聞いただけだけど、社内も結構な騒ぎになっているらしいので」
「こちらとしては、もう内々で処理した話なので」
はい。内々で処理するってことは社内の人事関連のことや対外に公になるような社内の話じゃないわけだ。極秘の合併や買収の線はカット。かといって内々に処理できたのだから、モトハシと全く関係のない話でもない。なにかを立場の弱い相手に押し付けたか。
「ああいうことってよくあるんですかね」
「あんな事故がよく起こっていいはずないじゃないですか」
口調は穏やかでも怒気が孕まれている。わずかに感じる軽蔑の空気。不謹慎な人間だと視線が言っている。当たりはある程度見えたか。
「すいません。あんな事故、軽口たたくような話じゃないですもんね」
「いえ」先ほど、若干とはいえ感情を表に出したことを悔やみ、慌てて調子を戻す荒井。
ありがとう。かなり参考になりました。
「無駄話でしたね。案内の続きをお願いします」
わざとらしく頭を下げると、先ほどよりさらにテンションが下がった時間潰しが再開する。
耳元では佐久間が『ご苦労様です。とりあえず、調べます』と、こちらの意図をばっちり汲んでいた。
先ほどよりさらに気まずい空気の中、エレベーターで各フロアを回っていったが、とうとう残りのフロアも2つだけとなる。島崎は重役フロア以外なら、と言っていた。一番上が重役フロアということだろうか。
「一番上の階が重役フロアですか」
確認の言葉を投げかけつつも、勝手に一番上から一つ下の階のボタンを押す克己。荒井は慌てて、そのボタンをもう一度押して取り消し、代わりに一番上の階のボタンを素早く押した。
「重役フロアは9階です。一番上が社員食堂になっていますから」
少しムッとした態度。勝手に動いて怒らせただろうか。まだ何か話を引き出せるかもしれない。相手の感情が動いた時こそチャンスだ。
「重役フロアってやっぱり行ったらダメですかね。どなたか重役の方に挨拶でもさせてもらえると嬉しいですけど」
「今日は重役の方は全員会議で外にでています。ですから行っても無駄ですよ」
ぴしゃりと跳ね除けられた。随分嫌われたようである、荒井を揺するのはここまでにしておこう。
昼前に差し掛かり、やたらと長い社内案内も最後のフロアの案内が終わって、やっとオフィスに戻ることとなった。オフィスに戻ると感謝を伝える間もなく、荒井はオフィスを駆けて出ていく。
オフィス内、先程までの演技派社員達はほぼ席を外しており、克己も残っている社員に昼食に行ってくる旨を告げて部屋を後にした。
かなりいい天気と言えた。年に数回あるかないかの、風がやんわりと吹き抜ける、やたらと日差しが気持ちいい。空のあまりの青さは絵の具でも塗りたくったかのようだった。克己は昼飯を取りに外に行くわけもなく、会社の立ち入り禁止の屋上で持参の弁当を平らげ、煙草をふかしていた。シンプルな錠前が屋上へのドアにはかかっていたが、あんな旧世代の鍵穴なら目を瞑っていても片手で開けられる。
「いやーここで昼寝できちゃうな、今日は」
『ほとんど調べがつきましたよ、どれから聞きますか』
無視。うん、小気味がいいくらいの無視だ。さすが、佐久間。
「そうだな、まずはあの荒井って子の経歴を教えて頂戴」
『女にかまけている場合ですか』
「全部聞くから順番は関係ないよ。それに俺は意外と重要だと思っているしね」
首をかしげる音でも聞こえてきそうだが、それ以上茶々はいれてこない。
『荒井雅子、一流国立大学を卒業後、海外に留学。2年後には、外資のDプロモーツに入社して相当の実績を上げていますね。で、モトハシに転職』
「超一流企業で、バリバリやっていたのに大手車メーカーとはいえカスタマサポート統合部なんかに普通くるかな。秘書とかならともかくな。社長の隠れ愛人だったりして」
『それ言い出すときりないですね。他にも高瀬裕太、弁護士資格を在学中に取得。法曹会からモトハシにきています。斎藤進、元大手メガバンクの最年少支店長。大手ファンドの経営コンサルタントだった土井恭弥。とにかくすっちゃかめっちゃかではありますが、超がつくほどの有能な人材があの部署には集まっています』
「なんでまた」
『カスタマー統括部の堤部長』
「あの嫌な感じの人」
『あの人が統括部の部長になってから10年、とにかくいい人材をかき集めてきたみたいですね』
「一介の部署の部長にそんな権限あるんだ」
『先程も説明しましたが、あの部署は社長直属の部署ですから、堤部長と社長の間で合致した目的があればそれは可能でしょう』
「目的ねえ」どうにも靄がかかったまま、なかなか人間関係の構図が見えてこない。天気とは真逆である。
「あの島崎って人はどうだ」
気さくにこちらに話しかけてきた社員である。荒井にかなり高圧的に命令を下していたのが引っかかる。
『島崎道夫。3年前に中途入社です。モトハシの前は液晶パネル系を扱うエルムズという会社にいたそうです』
「エルムズって、投資計画がリークされた上に、社長がインサイダー容疑で狙い撃ちにされてあっという間に上場廃止に追い込まれた会社だろ」
『まあ、捕まったりしたのは会社の幹部連中だけですから。あの後、6割方の社員は辞職していますし、島崎本人も真っ当な転職だと言えますが』
「やっぱりまあ、なんだかなあ」
カスタマー統括という部署がどれだけ大事なのかはよく分からないが、これだけの人材を固めているには理由がある。堤本人に聞いてみることが出来れば一番早いが、そうはいかないだろう。
「島崎がいた会社の事件はうちが噛んでいるのか」
「さあ、そこまではどうでしょう」
気がつくと右手に顎を乗っけてしまう。自身の癖から分かる、あまり考えがまとまりきらない証拠である。思考を切り替えて次の話題に移るため情報を整理して口にだす。
「あの部署に関しては不明瞭な点が多いな。まず堤と社長が優秀な人材を集めている理由が分からない。そりゃ恐らく今面している危機を乗り切るにはあれだけの頭が切れそうな面子が揃っているのは有難いだろうけど、こうなることを事前に考えていなければそうはしないだろうよ。そんでもって、あのオフィスの様子。まるで邪魔者がくることが分かっていたみたいな空気。あの部署と堤にはなにかが分かっていて、誰かの筋書きで事が動いている。でも誰の筋書きで、その筋書きが現状どこまで進んでいるのか、上手くいっているのかは不明。こんなところかね」
『・・・・・』
佐久間が無言の返事を返すときは大体、こちらの意見に同意な時だ。とりあえずパートナーと意見の一方的な摺り合わせができたところで、次の話題に入る。
「肝心の事故とやらはどうだった」
『3日前の10月13日、板橋区でトラックの事故が起きています。事故を起こしたのは野中運送の4トントラック、モトハシ社製の車です。被害者は9歳の男児とその母親、トラックはカーブを曲がりきれずガードレールを突き破り、歩道を越えて公園の植木にまで突っ込んで行きました。被害者は2名とも即死。事故自体の報道はありますが、警察関係は現在、野中運送の事情聴取と事実確認の裏取りを進めています。野中運送の整備不良が原因の事故ではないか、と』
「痛ましいな。被害者も加害者にされている運送会社も」
『まだ分かりませんよ、野中運送に落度がある可能性もあるでしょう』
「そうだけど、でもね、あのオフィスの張り詰めた、何かを必死に隠している感じを肌で感じたらピンとくるよ。で、整備不良の詳細はなんだ」
『脱輪です。走行中に突然前輪が吹き飛んだそうです』
風が音を立てて、こちらに向かってきた。穏やかな天気は変わらず、だが向かい風だけが強く頬をたたく。
「松田失踪の原因に絡んでいるのは間違いないと思う。モトハシ自動車によるリコール隠し。これで行こう」


何十年振りに怒鳴り声を上げただろうか。俺は受話器の前で最後の頼みの綱がちぎれたのを認めることができず、へたりこんだ。視線は意味もなく空を漂わせ、最後に捻り出した自分の怒声にしばらく呆れていた。あいつに非は一切ない。俺はただ、縋り付いて頼み込んだ。「俺たちを助けてくれ」と。あいつはきっと、苦しくて仕方ない顔をしていたに違いない。絞り出すようにでた「すまない」の一言が何度も耳の中で反芻されている。
今までだってうまくやってこれた。だからきっと今回も上手く乗り切れる、という浅はかな自分の考えが家族と友人と自分を追い込んでしまったのだ。だからあいつに感謝こそすれ、恨むなど筋違いだ。
窓のブラインドは何か硬いものがぶつかったのだろうか、ポッカリと穴を開けるように一部が崩れ、そのまましばらく直していない。そのブラインドの隙間から白い車体が見えた。全盛時は20台を越えていた運送トラックの数は苦し紛れに売り払い続けたせいで、既に2台の車両を残すのみになった。その2台も間もなく手放さなくてはならない。商売道具が減れば、当然商売自体もジリ貧になる。そういう仕事をやっている。そんな分かりきったことに考えが及ばなかった自分を悔いても悔やみきれない。
もう一度受話器に手を掛ける。あいつにせめて謝らなくては。昔からずっと手を貸してくれていた。一時期でも仕事が繁盛したのはあいつのおかげに他ならない。そんなあいつに怒声を浴びせたまま、電話を切ってしまった。何もかも失っても、家族と友人だけは手を離せない。だが、ボタンを押すことはできなかった。
ただの自己満足だ。「さっきはすまない。自分でなんとかなりそうだから俺のことは気にしないでくれ」そう伝えたところで、あいつの気持ちをより深く抉るだけだ。そのことに気づいてしまい、受話器をそっと置いた。
悔しい思いと後悔と周りの者達への申し訳なさが頭をぐるぐると蠢く。埃のたまった床で膝をつき、言葉にならない嗚咽をもらして、呟く。「誰か助けてくれ」
電話の音が鳴り響いた。


さらに前言撤回。やはりウチの人事は優秀だ。昨晩思いついて深夜に佐久間に頼んでおいた名刺が、今朝方家を出るときには郵便受けに入っていた。今日使う予定の変身アイテムだ。
ダイバーにとって神経を張り詰める企業潜入の初日は最も疲労度が高いが、昨日は大分逆境からのスタート。開き直っていた分、頭はさほど重くなく起き上がれた。出社初日が金曜ということもあり、克己は当然休日となっている。もちろん本業が休みなわけはないのだが。
まだまだ、通常の潜入と比べるとスタートラインに立った気分にはなれないが、昨日の収穫は大きかった。
板橋で起きた脱輪による交通事故。恐らくこの件を処理するためにカスタマー統括部門は大忙し、といったところなのだろう。加害者とされる運送会社とのやり取りや、調査書の改ざん、取引先への説明に情報漏洩を防ぐための根回し。社内調整。もっと上の仕事としては、政治家や警察関係者とのやり取りも含まれるであろう。カスタマーサポートというより、後ろ暗いことを処理する掃除屋だ。
小さな運送会社の整備不良とヒューマンミスによって事故が引き起こされ、結果その運送会社が潰れるのと、業界大手の自動車会社の商品が欠陥を把握していながらも商品を納入しつづけ、その商品自体の不良により事故が引き起こされたので被害は同じでもまるで意味合いが違う。社会的な損失は比べるべくもないだろう。不良を認め、商品を回収するリコールも会社にとっては大打撃なのである。ましてや、リコールすべき事態を他社に押し付けて逃げようと考えるリコール隠しが発覚すれば消費者の信頼を失い会社の倒産にも繋がりうる。だからといって尊い被害者の命を奪った罪には何も変わりがないのだが。
あれやこれやと思考を巡らしている内に池袋から電車で3駅。駅からさらに歩いた郊外に所在地を構える野中運送が見えてきた。
自己処理のためにモトハシの人間が詰めている可能性も考えたが、会社の廻りをぐるりと見回しても社用車は見当たらないので意を決した。強い足取りで野中運送の事務所にノックを鳴らすために敷地内を進んでいく。
克己がノックを鳴らす前から、カーテンもないガラス張りの向こうにいた体躯のいい中年がこちらに気づいて、こちらのノックと共にドアを開ける。
「はい、なにか御用でしょうか」
「私、日出新聞社会部記者の宮内と申します」人事に用意させた名刺を両手に挨拶をする。
「はい、で、なんの御用で」
目の前のガテン系の男は体躯もいいが、態度も堂々たるもので、この会社の中でも有権者であることが伺えた。不用意に差し出された名刺を受け取らないところからも分かる。
取り付く島は霞んでいるが、とりあえず漕ぎ出さないことには船は進まない。
「先日の事故のことで事実関係を調べております。少しでもお話聞ければと伺ったのですが」
「そのことでしたら、中へどうぞ」
あっけなかった。普通こういう場合は「コメントは差し控えさせてもらう」というのが定石だが。どうにも今回の潜入はこちらの予想を裏切ってくるケースが多い。そういう場合、大抵事を操作している輩が先行していることを経験から克己は察していた。モトハシによる処理は既に終了しているのだろう。
10数人程のオフィスだろうか、プレハブの中に近い陳腐な内装。それなりに広さだけはある営業所の中には机や椅子だけが閑散と並んでいる。営業所内には克己以外には3人だけで、会社としての機能は停止しているようだった。窓際には大分歳のいっている初老が新聞をデスクに広げ、その傍らには若い社員が一人ポツンと机の前に座る。若い社員は何をやるわけでもなく、ぼんやりと机の上を眺めていた。
窓際とは対角線にある応接セットのスペースに案内されると体躯のいい男性社員もどっしりと腰を下ろし、タバコに火をつける。克己も愛煙家ではあるが、探りを入れるときはこちらの思惑が読み取られる危険があるので控えている。タバコが旨いのは一人で考えをまとめている時だけだ。
「一応ここで専務をやっています、野中卓二です」
どうも、と軽い会釈をして改めて名刺を机に置くと、克己は視線を窓際の老社員に首ごと視線を送る。
「ああ、ウチは家族経営に毛が何本か生えたような会社でして、あれが父でうちの社長です。ですが父もいい年なので、自分が諸々を取り仕切っているんです。なので取材も私が対応させていただきます」
実質的には彼が責任者、というわけだ。若い社員も社長もこちらの存在には気づいてないかのように視線を返すこともなく、動く気配もなかった。克己は3人の関係性を頭に置いた上で、こちらの会話が筒抜けなのを利用させてもらうことにした。
「で、取材の件は先日の板橋の事故のことですよね」
「ええ、脱輪からの交通事故で2名が亡くなっているという情報は入っているのですが、脱輪ともなると気になりましてね。普通の交通事故ではないですよね」
野中卓二は膝に両手を置き、首をうなだれて言葉を返す。少し大仰に見えた。克己は瞬時に見抜く。彼は大根役者だ。
「この度は大変遺憾に、そして被害者の方には申し訳なく思っております。遺族の方々には取り繕う言葉もありません。事故が起きてから一旦の業務停止とさせてもらっているのですが。通夜や葬儀に出向き、事故の後処理などが終わり次第、正式に謝罪声明をだすつもりでいます。事故から今日辺りまでは相当バタバタしていまして」
用意されていたような台詞。台本は上手く書いているが、役者がよくない。
「こちらの運送会社さんの整備ミスが原因で引き起こしてしまった事故ということですか」
「そういうことです」
沈痛な面持ち、が下手くそ過ぎる。どうあれ、自分の会社の車で死者がでているのだからリアルな悲壮感が滲みでてもいいはずだ。こういう輩に容赦はしない。
「野中運送さんは業務再開の目処はたつのでしょうか」
「いえ、うちは運送屋としてはやってはいけないことを起こしてしまいましたから、恐らく取引先とも仕事はなくなるでしょうし、ある程度のかたがついた段階で営業所ごと閉める予定です」
「事故のせいで倒産と」
「ええ、そうなりますね」
割り切りがよすぎるだろ、と突っ込みたい。切り込む時は思いっ切りがモットーの克己は更に問いかける。
「事故が起きたのが3日前」
「ええ」
「バタバタしていたんですよね。本当にしっかり調べたのですか」
「どういう意味です」
「社員の整備不良が原因で事故が起きてしまった、と言い切れる程しっかり調べたのですか」
鳩が豆鉄砲くらった顔というなら、こういう顔だろうか。野中の一度丸くなった眼はすぐに睨みを効かせてくる。
「うちの責任だと言っているんだ。なにが問題なんだ」
野中の語気は大分強まり、さっきまでの芝居臭さは完全に消えていた。台本にないアドリブはきかないということだ。営業所内に、はっきりと聞こえるように子音を立てて言葉を飛ばす。
「いくらもらったんですか」
目の前の男以上に反応を示したのは、さっきまでぼんやりと椅子に座っていた若い社員だった。がたっと椅子を引いた音ともに彼はこちらをじっと見つめていた。野中卓二ではなく、克己を。何かを訴え掛ける真っ直ぐで、すがるような眼だった。
「黙れ!」もう誰も何も喋っていない。野中卓二は怒気むき出しで営業所のガラスを揺らすほどの声を張り上げる。
でていけと言われる前にでていくのも技術の一つである。自分でつくったペースを最後まで相手に握らせないまま切り上げるのだ。
「失礼しました」克己はさっと鞄を持ち、颯爽と営業所をでていく。諦めたのでもなく、気圧されたのでもなく、何か余裕をもった立ち振る舞いで。パフォーマンスはやりきってみせてなんぼだ。出ていく時に克己の差し出した名刺を破く音が豪快に聞こえたが、こちらとしてはより好都合である。ターゲットは最初の段階で野中卓二から移っていた。これからが収穫だ。
営業所をでてすぐの曲がり角で煙草を2本程、吸い終えたか。先ほどの若手社員が辺りを見渡しながら、小走りにやってくるのが見えた。
「待っていたよ」手間が省けた。もし追ってくることがなければ、後日こちらから個人攻撃をするつもりだったが、狙いは外してなかったようだ。
「鵜飼です。事故を起こしたのは自分が運転していた車両でした。これ」
名乗ると同時に剥き出しの書面を渡される。
「これはなんの資料かな」
「あの日は定期の整備点検日だったんです。うちは必ず、整備がきちんと行われたかどうかを2人体制で確認します。項目も細かく分けて。あの日もいつもと全く変わりませんでした。いつも通りだったんです。自分以外にもあの日は専務がやりました。2重にチェックをいれるんです。なんの証拠にもならないかもしれないけど、これがその項目別の点検表です」
「確かに。かなりしっかりやっているように見えるよね」と言いつつも運送会社の点検表など見たことないから比べようもないが、数ページに渡り手書きで記載されている様を見ると、タイヤが吹っ飛ぶような事故が起きる程、ずぼらだったとは思えない。
「俺、絶対に確認しました。絶対に絶対に有り得ないです。整備不良だなんて納得できないんですよ。被害者の家族に謝ったんです。そりゃ、俺が運転していた車があんなことになって、一生俺が償っていかなきゃいけない、背負っていかなきゃいけないことなのは分かっていますけど、でも100%俺が悪いです。俺だけが悪いです、とは言えなくて」
自分の運転していた車によって2名もの人間が命を失ったことの重さに鵜飼は苦しんでいた。だからこそ、表立って自分の責任を逃れるような行為を是とできず、ただ翻弄され、いいようにスケープゴートにされてしまったのだろう。鵜飼は自分の信じる真実を明らかにしてくれるかもしれない克己が現れ、ようやく席をたったのだ。
「これ、よく持ち出せたね」
「社長が渡してくれました」
「そうか」野中専務の独断と仕切りでどうやら事実は捻じ曲げられて、都合のいいようにされてしまったらしい。鵜飼と被害者以外の都合がいいように。
「これ預かるね」
「記者さん、お願いします。本当のことを世の中と遺族の方に伝えてください」
「ああ」と生返事を返して、振り向きもせず克己は立ち去る。
申し訳なく思う。真実を調べるのは仕事だが、どう転ばせるかは克己の仕事ではないのだ。この仕事で何度となく感じてきた後暗さだが、慣れるものでもない。こういうことの後はどうにもタバコが不味く感じる。克己は火をつけかけた煙草をそっと内ポケットに戻した。


自分でも不思議なくらい落ち着いていた。私はこれから死ぬ。それは考えすぎなのだろうか。
ソファの上には資料が山積みとなっていたが、重要なものは既に処分するか、会社内に置いておいた。身の回りも整え、まるで今から自殺をするみたいだなと自嘲気味に笑う。
「まあ、自殺とさほど変わらないか」誰もいない部屋で独り呟いた。
人の命は重い。だが、社会という仕組み全体が都合よくまわるためなら、人間一人の人生は余りに軽く扱われてしまう。だから私はこれから消される。
板橋の事故がリコール隠しとして世の中に出てしまえば、一つの大きな会社が破綻をきたすかもしれない。そうなればそこで働いている社員だけでなく、下請け、関連企業、あらゆる人間と日本経済が多大な損害を被る。だからこの事故はあってはならないのだ。僅かな人間に全てを背負ってもらい、仕組みは相変わらず綺麗にまわっているべきだ。そのこと自体に疑問を感じてはいない。苦々しい感情も持ち合わせてはないし、正しい考えだとすら思っている。
でも私は手を伸ばしてしまった。ヒロイズムでは断じてない。ただの個人的な感傷だ。
いや、感傷ですらないか。あえて言うなら気まぐれかもしれない。
その気まぐれが私の立場を危ういものにした。昨日の深夜から尾けられていることに気づいたが、逃げようもないことも知っている。あっちは事故の真実を塗りつぶしてしまうことが目的だ。不用意な探りを入れた私が悪い。
「馬鹿なことしたな」後悔している。悔いが残っている。死にたくない。何と何をまだやっていなかったっけ。やりたいことはそんなにないけど。やるべきことはまだ沢山あったかな。
ただ、私は分かっていたのだから。こうなるかもしれないことを。だから、自分の責任は自分で取らなくてはいけない。
鍵をかけてあるはずのドアノブがカチャリと回った。




『まあ、お約束で予想通りなのですが、野中運送は火の車でしたね』
電車を待つホームのベンチに座り、コーヒーを飲みながら佐久間と井戸端会議が始まる。ホームには克己以外に数人の姿が見えるだけで、分厚い雲に太陽が遮られると風が一層冷たく感じた。コーヒーはホットにしておけばよかったかもしれない。
「ホントにお約束だな。だけど今はどこの会社も厳しいよね」
『あの専務の経営手腕が微妙なんじゃないですか』
「ま、つまり口封じで前途ある若者に罪を擦り付けて、代わりに倒壊寸前の会社と借金を処分してもらってリコール隠し成立。互いにウィンウィンということだろ」
『全然ウィンウィンじゃないですよ。鵜飼君の人生は完全に潰されています』
「気の毒だとは思うけど、あんまり注視するな。もっと全体をぼんやり見るんだよ。俺たちの職業はなんだ」
『企業スパイです』
「俺たちは正義の味方じゃない、ただの犯罪者だ」
佐久間は言わずとも野中運送の経営状態を調べてくれていたが、肝心のモトハシとの密約の証拠となるものは簡単に探せなかった。この件のはっきりとした証拠が見つけられるとしたら、この件を処理する責任者である堤を探るのが妥当だ。ただ、それはなんとなくそこまで重要ではない気がする。それよりもここまで全く松田の痕跡を見つけられていない。波が全てをさらっていってしまう前になんとか足跡だけでも見つけなくては、と克己は内心焦りを感じていた。
確かにモトハシは事故によるリコール隠しをしているだろう。だが、その事故が起きたのは3日前だ。松田はもっと前から潜入していた。そして事故と同じタイミングで姿を消した。関係がないわけはない。でもどうにも接点が見えない、いや正確に言えば注目するべきポイントがズレている気がしてならない。
松田の依頼主の目的は全く別のところにある。だが何かしらのイレギュラーが生じて、松田も依頼主も思いもよらぬ方向に舵取りが動いてしまったと克己は考えていた。
初日に仕掛けた盗聴は未だ健在。その情報は佐久間に流れている。取り立てて注目すべき動きはなかったようだが、事故処理がひと段落ついたのか、昨日から終電がなくなる時間にはオフィスには人気がなくなっていたようだった。
克己はあらかたの路線の終電が無くなる時間帯まで、会社のビルがある駅から一駅離れた24時間営業のファミレスで時間を過ごした。規則から本当の会社に戻ることもできないし、自宅に帰れば疲労に負けてしまいそうだ。それにここにいるのは他にも理由がある。克己はここまで判明している事実関係と人間関係を改めてノートに書き出して情報を整理してみた。
悩む。やはり手詰まり感は否めない。今の状態だと、ただのリコール隠しを暴いているだけだ。一歩でも下手を打つと、会社側に気取られてしまうかもしれない。別ルートに進むにはもう一つ情報自体が足りなかった。やはりオーソドックスな手法でいくしかない。ファミレスに待機していたのは社内の物色に深夜潜るのが一番の理由だった。
盗聴器によって、オフィスに誰もいなくなったことを佐久間が確認。克己は大通りや飲み屋のある場所を避けながら、誰も通らないだろう道順でモトハシ本社までたどり着く。どういう状況に追い込まれるかも分からない。イザという時の逃げ道も逆算しながらの大回りだったので、到着する頃には深夜の2時を越えていた。
役員クラスが使用するための、あるいは営業用の社用車が置かれているモトハシの地下駐車場は随分立派なものだった。さすがに車メーカーなだけあって、社用車もどれもピカピカの新車のように清掃されている。地下駐車場の奥には普段役員や来客が使う地下からのエレベーターがあり、表口が封鎖されている時にはこの裏口経由で社員はオフィスに入るようだ。
守衛室で社員証を見せると特に訝しがられることもなく、リストに名前等を記載してすんなり入ることができた。警備が厳重なところでは上司の事前許可証や特別な事情を証明する何かがなければ社員といえども簡単には入ることはできないのが普通だが、守衛はたったの2人。しかも一人は奥でテレビを見ているような光景を見るに、佐久間の情報通りその辺はザルということだ。
『一流企業のくせに強盗に押し入られる、とかそういう発想はないんですかね』
「日本の古い会社ほど、こんなもんじゃないかね」
どうにも佐久間は大企業に刺がある。そもそもが刺だらけの人間だから通常運転ということだろうか。オペレーターが元気で非常に頼もしい。
監視カメラに写ってしまうこと自体は防ぎようがない。寒さに耐え兼ねているようにマフラーを鼻上まで上げ、できるだけ人物の特定はされないように努力をする。エレベーターは上昇していく最中、ギシギシと鉄の軋みをあげていた。役員用ということで、内装は小奇麗にはしてあるが、旧式のオンボロエレベーターなのは明白だ。
カスタマー統括部があるフロアにたどり着くと、非常灯、誘導灯以外の不自然な光源がないか、人間の気配がどこかに隠れていないかを立ち止まり確認する。正直オフィスにたどり着くまでのほうが危険度は高い。そして、このタイミングで気づくことができれば引き返すことができる。常に100%の確信を持てるわけではないが、ほぼオールグリーンと言えた。
進むと決めたら堂々と。ゆっくりとドアノブを回し、オフィスの中に潜り込む。視界にはなにも問題がないことを確認。そして椅子に腰を降ろして耳を澄ませる。監視カメラがこのオフィスにないことは既にチェック済みだが、誰かに目撃されては意味がない。息遣い、布のこすれる音、人間の気配が周囲にないかも全力で探る。
「よし」浅く息を切って、動き出す。探りたいのはもちろん責任者である堤の持つ何かしらの手がかりである。こういう場合、定番というかセオリーは決まっていて、手馴れた手つきで克己もいつもの手順を追う。蛍光灯は点ける必要はなさそうだ。窓からの漏れ明かりと非常灯が充分過ぎる程に闇を打ち消していた。
フリーデスクとはいえ、責任者クラスがいつも座る場所は大抵固定される。机の下、脇、何かしらのメモがないかを捜索。次にはキャビネット。こちらはご丁寧に社員の名前が記載されている。鍵穴に2本の金具を差し込んでロックを解除。鍵空けの専門家も会社にはいるが、この程度であればダイバーにとって造作もない。屋上の鍵といい、今回は鍵空けには全く苦労がないものだ。
キャビネットの中にはPCと電卓などの事務用品。克己は手早くPCを取り出すと、電源を入れ、その間に電卓の裏や筆箱の中身などもチェックをいれる。特に目を引くものはない。
パソコンが立ち上がると会社から支給される特性のハードディスクをUSBに差込み、データを吸い出す。吸い出したデータはそのまま佐久間に転送されるので、その間も無駄なく克己は諸々の搜索にあたれるというわけだ。リコール隠しという会社にとっての一大事なのだから、諸々の資料を各自が自宅なりに疎開させている可能性は高いが、絶対に全ての痕跡は隠せないと克己は踏んでいた。
今度はデスクの所々に置かれている丸く黒い、よく見かけるタイプのゴミ箱を漁って回る。基本、毎日終業前にゴミの回収はあるのだから、ほぼ空っぽではあるのだが、ゴミ箱は企業スパイにとって大抵お宝が眠る場合が多い。メモ一つの捨て忘れでもそこから情報は無限に読み取ることができる。だからどんな状況でも、絶対にゴミ箱は注視するべきアイテムだ。
一回り、ふた回り目で気づく。ゴミ箱の淵の色艶が違うものが一つある。蛍光灯を普通につけていては気づかなかったかもしれない。僅かな明かりを頼りに目を凝らしていたからこそ、違和感を感じ取れた。違和感の正体はゴミ箱の淵に貼ってある黒いテープだ。つやがあるテープだから、他のゴミ箱とは違って見えたが、普通なら絶対にスルーしてしまうし、気づいても意味のあるものだとは思わない。当たり前だが、どこかの誰かが意図的に誰かへのメッセージを隠したのだ。テープを剥がすとテープ裏には数字の羅列が白文字で記載されていた。
「080、携帯電話だな」すぐに佐久間に番号を伝え、誰の番号かを確認させる。
『社内で使わせている携帯電話の番号に該当するものではありませんでした。個人契約の携帯電話ですね。ちょっと調べるのには時間かかりますよ』
「なるはやで頼むわ。9割方、これは松田の仕業だ。自分になにかあった場合、後任に何かを伝えるのに残したんだろう」
『電話番号の持ち主さえ確認できれば、案件が芋づる式に分かるようにですかね』
「そう、うまく行けばいいけどな。俺の勘だと、松田が潜っていた時より、大分事態は複雑になっている気がする。いや、松田が潜ったから複雑になったのかもな」
確かに、と呟くと佐久間は一旦席を外して電話番号の照会の発注をかけはじめた。時間がかかると言っても丸一日もかからないだろう。その辺りは自分の会社は恐ろしい程、手早く、プロフェッショナルだ。誰にも自慢できないが、企業スパイ会社としてはうちが最大手である。
佐久間とのやり取りを終えると、克己は再び神経を研ぎ澄ました。一つ大きな成果があっても、集中力を切らさず、より鋭敏に隠された情報を追う。一つ何かを見つけられた、ということは2つ、3つある可能性が高いからである。いいダイバーは皆、これを徹底している。
シュレッダーの横には廃棄予定の資料や紙くずが積まれている。企業側にとって大事な情報がここに埋もれていることはまずないが、イコールこちらが欲しい情報がなにもないということではない。ざっくばらんに克己は紙の束を一枚一枚めくってそこに何かがないかを確認していく。不意に、そしてかなり大胆にそれはあった。注意深さがなくとも随分と分かりやすく。
FAX用紙には大きな文字で〈モトハシ自動車の隠蔽について〉とあった。その用紙に連なるように出てきた続きの数枚には、10年前に起きたとされるリコール隠しの実態や事故の詳細。現在では生産中止になった車種の欠陥についてが、つらつらと記載されている。
「FAXか」というつぶやきに『何を見つけましたか』という佐久間の返し。
「正確な判断はできないが、告発、内部か外部か、ともかくこの会社で起きた過去のリコール隠しについての資料だ」
『野中運送の件ではなく』
「そんなもの、ここに無造作に置かないだろ。10年前の事故か。ここにあるってことは誰も相手にしていないってことだが。悪戯だとでも思われているのか」
『告発文だというのは』
「特定の誰かを誹謗中傷していたり、はっきりと何かを責めているわけじゃない。過去に起こったとされる事実をただ連ねてまとめているだけだ。でも社の内部資料ならこんなところにあるのは不自然だし、何よりこういうまとめ方はしないだろう。そういう意味では告発文とも言えるかもな。隠蔽についてと書いてある以上、モトハシが非を認めた事故じゃあないんだろう。それにこのFAXからは誰かしらの意思と感情が見える。だからやっぱり告発かな」
『書面から感じ取れる人間の機微に着目せよ、でしたか』
「そういうことだ。その観点でこのFAXを捉えるならば、このFAXは誰かしらがモトハシに対して敵意を表現しているということになる。多くの人の目に晒されるようにわざわざFAXをしているのもそういうことかもしれない」
口にしていることと真逆のことを克己は頭の中で考えていた。本当に敵意を表現しているだけなのだろうか。見え見え過ぎる時は囮の可能性がある気がした。
『ちなみに10年前にリコール隠しがあった事実は情報として全く存在していません』
「さすが、調べが早い。ならFAXの内容も精査の必要があるな」
突如、息をスっと切ると克己は揺らりと体重移動をして、手早くコピー中のPCを抱きかかえてオフィスの隅に置かれているバカでかい観葉植物の裏に隠れる。物音は何一つしない。佐久間と会話していても、捜索中も耳だけは全力の集中で研ぎ澄ましていた。廊下から聞こえる僅かな靴の音。警備員ではない。警備の人間なら足音を殺す意味はほとんどない。フロアに自分以外の人間が現れた。
隠れたのだからジタバタしても仕方ない。体を弛緩させ、眼を閉じ、耳以外には力をいれない。眼を閉じるのも意味はある。人間は本能的に視線を感じ取るようにできている。やってくる相手をまじまじと観察したいのはやまやまだが、優先すべきは自分の存在を悟られないことだ。
殺してはいるが、随分がさつな忍び足だ。衣擦れもする。相手は素人か、それともプロが油断しているかのどちらかだ。克己は直感的に後者であると感じていた。
現れた人物はオフィスに近づくにつれ、気配がより薄くなっていった。ドアを開けたのも感じさせない。克己の勘は正しそうだ。
なにを探っているのかはもちろん気になる。飛び出て行って取り押さえれば意外と全てがすんなり解決に向かうかもしれない。だが、賭けをする段階ではなかった。これだけ空振りが続いているのだから、大振りしてもホームランはでないだろう。
10数分だろうか、しばらくオフィス内で音も立てずになにかをやっていた人物は克己の存在には気づかず去っていった。気づいていて放置した可能性もなくはないが。
『お見事ですね』
「完全にプロだな。あっちがほとんど音も気配も出しやしないから、こっちも疲れちまったよ」
佐久間も克己も確信していた。泥棒がたまたまここに入ってくるわけはない。同業社が潜り込んでいるのだ。
『あれが松田さんだったってオチはないですかね』
「だったら俺が剥がしたテープに気づいて、何かしらのリアクションがあるだろ。周囲を探る、とかな。なんていうか、それに対する反応が絶対に空気に流れる。でもそれがないから違う。まあ、なんにせよ、進んでも進んでも厄介なことしかでてこない」
『前には進んでいるんじゃないですか。収穫は3つ、いや4つですかね。パソコンのデータ、コピー完了しましたよ』
とりあえずやることはある。八方塞がりでないだけマシか。音のないため息をついて、克己はオフィスを後にした。

オペレーターは過酷である。ダイバーより神経は磨り減らないし、極限の緊張状態は滅多に訪れない。警察に捕まったり、処分されたり、直接的なリスクは大分低い。ただ、圧倒的に体力勝負だ。自分にとっての信念がもちろんあって、この会社の門を叩いた。違法行為なのも、やってはいけないことをやっているのも承知の上で、ヤバい場所に自ら選んでやってきた。だから入社試験でひたすら体力測定なるものをやらされた時、むむむと口が動いた。ESQやら、知能テストもかなり難関だと感じたが、体力に関する試験の量が単純にそれらの10倍くらいあった。
試験は一週間という長いスパンで行われるが、来る日も来る日も体を虐める日々。最終日には佐久間以外、誰も試験会場に来なくなった。当時試験管をしていた上司の「今回は一週間か、早かったな」という言葉からするに、最後の一人になるまで振るい落とすテストだったわけだ。
その時は根性や我慢強さを買ってもらったのだと意気揚々に感じていたが、業務を取り掛かってすぐに気づく。「あ、ホントに体力勝負な仕事なのね」と。
ダイバーが案件を終了させるまで、始まってから例外なく怒涛の日々が始まる。例えるなら全力で中距離走。一回案件が終われば、社内業務は楽なものだが、始まればあれやこれや、ダイバーの指示に従い、フォローをし、先回りをして、とにかく寝る間もなく走り抜ける。やるべきことが尋常じゃないほどあって、やる必要がありそうなことは無限にある。優秀なダイバーと組めば仕事は早く切り上がることも多いが、難度が高く長期案件にあたる可能性もある。ヘタレと組めば、自分次第で案件が失敗する可能性もあり、胃がキリキリ痛む。宮森克己は前者にあたるが、逆に優秀過ぎて目の付け所が多彩なため、オペレーターの仕事量も必然的に増えるのが厄介なところだ。そして、佐久間自身だけが気づいていないが、社内で克己の力を最大限発揮させられることができるタフで頭が回るオペレーターは佐久間由紀だけだと誰もが思っている。
佐久間が克己とは別の視点から状況を把握するために独自に現状を整理し、早急にやるべきことと、懸案事項をピックアップ、メールチェックを済ませたのは深夜も終盤に差し掛かる3時過ぎだった。
佐久間は父と二人で暮らしている。父である庸介は未だ現役で家具の輸入会社を切り盛りしているためにかなり忙しく、あまり自宅に帰ってくることもない。佐久間が仕事のため社内で泊まり込みをしたりすることについても理解があり、とやかくは言わない。
佐久間にとってはありがたかったが娘がブラック企業で働かされている、などと騒ぎ立てたり、そんな会社辞めた方がいいんじゃないかと諭してくれる父親でもいっそよかったのではないかと頭をよぎることがある。
「ふう」と胸に手を当て息を吐く。一区切りつきましたよ、と自分の体に言い聞かせないとデスクから離れる気になれず、半ば癖になっている仕草だ。
オフィスに常設してあるコーヒーメイカーが新しいものになっていた。普段はコーヒーを飲むことはないが、せっかくの新品なので使ってみることにした。一口飲んで口からカップを離す。この世にはタバコとコーヒーがあれば満足だとほざく輩がいるが、理解はし難い。新品だろうが苦手なものは苦手だ。
少し申し訳ない気持ちになりながら給湯室のシンクにコーヒーを捨て、代わりにコップ一杯の水を体に流し込む。疲労で力が抜けたのか、思わずコップが手から滑り落ちた。ガラス製のコップが床に衝突し、勢いよく割れた瞬間、佐久間は母親のことが頭に浮かんだ。
よく笑う母だった。おっちょこちょいな母はよく食器を落として割っていたものだ。よく、破片を一緒に片付けたのを覚えている。
ある日、母が死んだ。庸介と自分を残して。自殺だった。
母の自殺の原因が母の勤めていた製薬会社にあることを知らなかったほうが、自分にとってはよかったのかもしれない。でも
「お願い」
そう言われた気がした。
母の葬儀、閑散としている火葬場までの道程、死んだはずの母の声が聞こえたのだ。
「私のことは忘れて幸せになって、お願い」そんな解釈はしなかった。だから今、佐久間はここにいる。母のいた製薬会社の情報を取り扱う案件を待ち望んでいるのだ。佐久間がこの会社にいる理由だった。ここにいれば年間数十件の大手企業の案件を扱うことになる。取引先には母の勤めていた製薬会社もあった。第一営業に配属されたのは不本意だが、今回宮森と成果を挙げれば、第二に転属させてもらえる可能性もある。
佐久間は割れたガラスの破片を睨みつけながら呟いた。
「私は知りたいの」
誰に聞こえたわけでもない。誰にも聞かれたくなかった。
再び、仕事モードへ切り替える。我に返り、そそくさとガラスの破片を片付けようとしたが、清掃用具がどこにあるか全く知らない。廊下にでて、どこにいるのかもよく分からない守衛を探そうとしていると、蛍光灯が煌々とついている第二営業のオフィスの前についてしまった。この際誰でもいいので聞いてしまおうと扉を開くとそこには自分と同じオペレーターの深山だけが黙々とキーボードを叩いていた。イヤフォンをしていてすぐには気づかなかったが、数秒後こちらの気配を察して振り返る。笑顔が蛍光灯より眩しい。
「佐久間さん、お疲れ様です。大変ですね。宮森さんの案件らしいじゃないですか」
深山は大変元気がよく快活で明るい後輩だ。最初は自分の目的のため、少しでも第二営業の仕事を耳に挟もうと近づいたが、歳の近いオペレーターが社内にいないこともあって、普通に仲良くなった。それに深山と一緒にいると溢れんばかりの元気を分けてもらえる気がする。言い回しが少し違うかもしれないが、癒されているといったところか。
「まあね、しんどい。ホントしんどい。一回やってみな。死ぬから。マジ死ぬから」
「でも、宮森さんは相当やり手のダイバーですから、やりがいあるんじゃないですか」
やりがい、ときたか。違法行為でやりがいか、感慨深い。集中して仕事していた深山には悪いが、世間話と愚痴にでも付き合ってもらい、癒してもらおうかと考えた瞬間、松田と組んでいた澤オペレーターのことがよぎる。
「ねえ、澤さん、ってどんな人だった」
どストレートな質問。隠す必要もないだろうし、ざっくり聞くのが一番早い。
「ほとんど話したことないんですよね。基本、松田さんと2人体制で組んで、短期の企業案件を相手取っている人だったので。第二でチームを組むときも2人のコンビが加わることはないんです」
第二では大手の企業案件の場合、ダイバー、オペレーター、が複数集まって案件処理に向かうことがあるが、松田は第二営業のエース。逆に一人で動いたほうがやりやすかったのだろう。
「じゃあ、松田さんと澤さんってかなり仲よかったんだ」
「いえ、よくはなかったと思いますよ」
じゃあなんで、と言いかけて言葉を飲み込む。自分だって宮森と仲がいいわけではないが、担当するダイバーは圧倒的に宮森が多い。というか、宮森さんが自分以外と組んでいるのを知らない。
「じゃあ、仕事の相性がよかったのね」
「いや、どうなんですかね。澤さんはよく松田さんに対して怒り心頭のご様子でしたし、怒声がオフィス内に響きわたったこともあります。でも結果を出し続けてきたから、結局のところ相性がいいということになるんですかね」
自分と宮森の関係に似ているというのは思わないでおこう、と誓う。
「なにかの案件で二人がトラブっていたとかはないかな。普段と変わったことがあったり」
「トラブっていたのはしょっちゅうだと思いますけどね。ただ、松田さんと澤さんの案件は大抵ヘビーで、澤さんのデスク周りはかなり乱雑に資料が散らかったりしているのが通常状態なんですけど、亡くなった時はやたらと綺麗だったんですよね」
「あ、ホントだ」
深山の視線の先のデスクには紙切れ一つ置かれていない。
「や、今は会社のほうで資料全般とかを全部回収しちゃっているんですけどね。でも数日前からやたら資料整理をしていたと言うか。身の回りを綺麗にしていた感じでしたね」
ただの偶然の可能性は大いにある。だが、それらが示唆することも見逃せない。当初、会社側のお役所体制のせいで、澤オペレーターからの引き継ぎ書類やらが全く回ってこなかったのではないかと考えていたがそれは違うのかもしれない。引き継ぐようなものは全て処分されていた可能性がある。もしくは。思考の水面に波紋が立つ。
「ありがとう」
半ば休眠状態だった頭が冴え始める。深山に一言礼を言うと、佐久間は一目散に第二のオフィスを駆け出していった。やることが増えた。ため息をつきたい気持ちなのに、足取りは強い。私も根っからの変わり者だ。佐久間は完全に清掃用具のことなど頭からデリートしていた。


翌日の出勤日、オフィスの机でぼんやりしていても特に収穫はなさそうだと判断した克己は「腹を壊したみたいで」などと陳腐な嘘をつき、いつもの地道な情報収集に入ることにした。この作戦はリスクがそれ程高くないが、意外にもかなりの成果をあげることができる、ダイバーなら誰もが使う技である。
克己は全力で廊下と室内の空気感を探り、誰にも目撃されない確信を持つと、手早く女子トイレの個室に篭った。ゴミ漁りや、こんな変態にも見られかねない行為など、企業スパイは格好いいものばかりではない。ジェームスボンドのような颯爽としたスパイが憧れだったのだが。
朝一、社内の仕事が一段落すると女子社員は入れ替わり立ち替り、化粧直しなどにやってくる。大抵ツレがいたりして、貴重な情報を落としていってくれることも多々あり、有効な技と言えた。
男のそれ以上に便所は治外法権なのか、女子のトイレ内での会話の密度はすさまじく濃い。9割5分がこちらにとってはゴシップでしかないネタだが、興味深い話も今回は大漁であった。
「あのFAXってなんなんだろうね」
「専務派の社員が深夜に流しているらしいよ」
何度も上がった話題だったが、社内の各部署に怪文書なるものが一ヶ月前から何度もFAXされてきているらしい。内容は恐らく、克己が発見したものと同じ。会社ぐるみのリコール隠しの告発である。ただ、10年前の話ということで社員の関心度は低く、社内通達で悪戯だとアナウンスがあったこともあり、ほとんどの社員にとっては噂話のネタぐらいにしかなっていないようだ。専務が社長の椅子を狙うためのトラップだとか、会長派のクーデターが企てられているやら、尾びれ背びれがついた根拠のない憶測が飛び交っている。
もう一つ大きく気になる話題があった。
「堤さん、大変よね。娘さんがあんなことになっちゃって」
カスタマー情報部部長の堤宛に警察から電話連絡があったというものだ。共通している内容としては、堤の娘が失踪していて捜索願いが出されている、その件に関して警察署から連絡があったということ。電話を取り次いだ社員から広まったのか、その先の噂の内容は多種多様であった。娘が麻薬でパクられただの、暴走族の彼氏とヤンチャして拘留されているのだの。女子の噂話って怖いわ。
堤の家庭のことが事件に関係している可能性は普通に考えればほとんどない。社員の一人一人、誰だってプライベートの問題くらい抱えているし、それらを全部潰していったら、この案件が終わる頃には克己は定年である。だが、克己は独特の思考回路で堤の娘の件を捉えていた。噂話が多種多様過ぎるということは、公にされていない情報なのだろう。堤が仲のいい部下一人でも、娘の件に関して相談をしていたり、話題にだしていれば、ある程度噂は適度な誇張や空想の範囲で広まる。だが、完全に噂の内容はぐちゃぐちゃだった。つまり正しい情報を持っている人間が誰もいないのではないか。堤は誰にも話してない、ということに直結していても決してオーバーではない。
警察からの電話が堤宛に娘の件でかかってきた、正しい情報はこれだけだ。だからこそ、啄いてみる価値はあると克己は考えた。
篭城から1時間半程、聞ける話の内容も様変わりしなくなった。
他にも「重役室の使われていない部屋に幽霊がでるらしいよ」「部屋で男女の声が聞こえたらしいからオフィスラブなんじゃない」などといった怪談めいた話もでたが、さすがにそれはスルーしていいだろう。
ある程度の収穫を確認し、克己は次の行動を起こすことにした。もっと篭っていれば情報は多く入るかもしれないが、動ける要素がある以上、行動しなければ真実にはたどり着かない。あくまでここで聞けるのは噂話なのだから。
同じく誰にも悟られずに女子トイレをでる。入るより出る方が10倍難しいが、女子トイレへの潜入は百瀬練磨。克己にとってはお手のものだった。やっぱり少し変態的だ。
席を長時間外しすぎて、もうオフィス内では完全に怪しいやつだが今更急いでオフィスに戻っても大勢に影響はないはず。
事件のパズルを妨げる邪魔がなく、誰にも会話の内容を聞かれない屋上に向かう。鍵はかけ直されていたが無駄というものだ。今日も天気はいいが、少し分厚い雲が東から流れてきていた。タバコに火をつけると、湿った空気をことさらに肌に感じ、雨かもなとぼやく。
『天気予報では降水確率10%以下ですけどね』
ありがたいが、天気予報は信じない主義。午後から傘は必須だろう。屋上に来るまでに練ったプランを煙と共に克己は吐き出した。
「佐久間、お前、ちょっとオフィスに電話をかけてくれ」
『はあ、なにを装って』
「警察だよ。とりあえず、堤の娘が何を起こしているのかを探ってくれ、以上」
『警察関係者を装うのは社内的な規則に触れますけど』
「直接、対面してやりとりをする場合に限ります。電話なら問題ない。それにその規則は誰も守っていないだろ。暗黙の了解ってやつだよ」
『胃がキリキリするんですけど』
いつもこっちの冗談をスルーされている仕返しに、佐久間の泣き言は無視。
しばらくぶつくさと文句を言ってはいたが、克己がオフィスに戻ってくると、数分後にオフィスの固定電話が鳴り響いた。隣の席の島崎が胃薬を差し出してくるのを丁重に断りながら、堤の表情や仕草に意識を集中させて勢いよく受話器をとる。
「はい、モトハシ自動車、カスタマー情報部です」「統括部」島崎と佐久間が同時に突っ込む。教え込まれたばかりの新入社員の如く、元気ハツラツに電話を受けると、オフィス全体に聞こえるような声で克己は電話を取り次いだ。
「堤部長、戸塚警察署の方からお電話です」
堤はこちらを苛立ちも隠さずに睨みながら、受話器に手を伸ばしたが克己はニコニコと表情を変えなかった。「もしもし」と堤が電話を受けると、すかさず横の島崎が椅子を転がして「そんなこと大声でいうなよ」と注意してくる。「すいません」と照れ笑いで誤魔化しながら、視線を悟られないように克己は堤の観察を始めていた。
「会社には直接かけてこないでくれ、と言ったはずなんだが。なにかあれば自宅か私の個人の携帯電話にお願いしたい」
『すいません』
「場所を変えるので少し待ってください」
堤は電話を社員用の携帯に転送すると、オフィスから出て行った。だが佐久間が話しているので、こちらに会話は筒抜けだ。
堤はどこか屋外の非常階段にでもでたのだろうか。風が鉄にぶつかり、軋む音が裏で聞こえる。克己も会話の微細な起伏を読み取るために集中できるよう喫煙所へ移動する。
「なんの御用でしょうか」
鉄の冷たい軋みと同様に堤の声もまた冷えている。
『ええ、実は娘さんのことで』
「理恵子が見つかりましたか」
娘の名前は理恵子というらしい。
『いえ、娘さんは見つかってはないんですが』
「じゃあ、何の用でしょうか」
見つかっていないなら用はない、とでもいうのだろうか。娘を心配する気持ちがあるなら、ちょっとした情報でも気になりそうなものだが。食いつきの悪さが半端ない。
『もう一度失踪された時の状況をお聞かせ願えないかと思ってご連絡差し上げたのですが』
間を置いて、ふう、と嫌味なため息をつく堤。
「失踪なんてたいしたものじゃあない。いつもの家出ですよ。すぐに帰ってくると思います」
『いつもの、ということはこういったことは何度かあったのでしょうか』
「いや、」と堤が一瞬言葉を濁す。しどろもどろという程ではないが、どうにも堤には台詞を選んで喋っているような印象だ。
「娘はあまり出来のいいほうではないのでね」
『でも理恵子さんはなんで家出されたのでしょう』
「親子喧嘩のようなものですよ。妻が心配性で捜索願をだしたんです」
「では毎回捜索願はだされているということですか」
堤の呼吸に怒気が交じる。苛立ちがイヤフォン越しでも伝わってくるようだが、「警察の方には迷惑をかけて申し訳ないと思っている」と、堤は感情を排して切り返しをしてきた。
普通の警察の対応ならば、「冷たい父親だな。家庭の問題は家庭で解決してくれ」で終わるのだろうが、こちらは初めから何かを探るつもりで話している。会話に僅かに挟まる違和感の正体は明白だった。警察にはこの件に絡んで欲しくないと堤は考えている、そこに違いない。
『ちなみに娘さんがよく立ち寄るような場所とかってご存知ですかね』
「娘のことは妻に任せてあるので、よく分かりません」
『分かりました。大変失礼をいたしました。また、なにか分かり次第ご連絡させていただきます』
乱暴に切られる通話。まるでこちらをわざと不愉快にさせたいのではないかと思うほど、通話中の堤の口調は冷たかった。感情を逆なでするように話を進めた佐久間も見事だが、克己は思った以上の収穫を電話から得ることができたと一人頷く。
「よっ、オスカー級の名演技」堤との会話が終わるや否や、誰もいない喫煙所から克己がからかいの声をかけてきた。
『むかつく。で、私の名演技の成果はありましたか」
「冷たい父親だな」
『今時の親子関係なんてああいうものですかね。子は親をないがしろにしても、親はいつまでも子を大切にするものだと思っていましたけど』
「まあ、ケースバイケースだとは思うけど。娘の名前は理恵子。現在、家出中。堤はこの件に関して関心がほとんどない、か。お前も会話の額面通り、それだけだとは思ってないだろう」
『堤が何かしら隠しているのは分かりますけどね。それでもこれ、追う価値ありますか』
「ある」即答する克己。ただ、単に堤の娘が問題を起こしているだけ、という可能性はゼロではないが。大きな隠し事の近くで起きている小さな問題事は大抵その隠し事の火の粉だ。偶然なんてない。火の粉を追えば火の元に近づける。
「さて、午後からはサポートセンターの視察に回ってくるということにして外回りに行きますかね」
『向かうのは安田運送ですか』
克己の携帯に、FAXに書かれていた10年前リコール隠しの被害を受けたとされた安田運輸の住所を送りながら、佐久間は一仕事の後の昼飯は何にしようか脳内で巡らせ始めた。

10
いつの頃からか、母は爪を切ってくれなくなった。
父も母も相変わらず忙しそうで、昔は忙しくても笑顔が溢れていて、たまの休みにレストランでハンバーグを食べさせてもらうのが楽しみで、でもなんだか今は違う。大好きなお父さんもお母さんも頭に手をあてて、うなだれたまま、喋ることもない時間が少しずつ多くなっていた。
妹が産まれたのはそんなことになる少し前だ。10歳離れた妹は可愛く、両親の負担を少しでも減らそうと、できる限り妹の面倒を見た。両親は事あるごとに、「いつも寂しい思いをさせてごめんね」「どこにも連れてってあげられなくてごめんね」と悲しい顔をした。だから決まって「大丈夫」と笑顔で返すと、妹も「大丈夫」と真似をして笑顔をつくる。その笑顔を見て、母が涙していたことは今でも忘れない。
そして、暗く長い時間を経て、妹が8歳になる頃、父と母が死んだ。
坊主の経は激しい雨が屋根をたたく音と共に谺する。
伸びた爪ごと握り締めた右手の拳からは血が垂れてきた。左手は妹の手を強く、ただ強く握る。どんなに強く握っても妹は痛い、の一言も言わなかった。
僕は幸せだった。ずっと幸せだったんだ。誰なんだ。この中の誰が僕から幸せを全て奪っていったのだ。妹は両親の本当の愛情を享受することすらできなかった。
妹に言った。「こいつらの顔を覚えておけよ」妹はかぶりを振って大きく頷く。僕と妹の気持ちはきっと同じだ。僕らから幸せを奪った奴から全てを奪ってやる。
いつの間にか泣いていた。妹も僕も。それが何を意味するのか、その時は分からなかったけど、僕はもう決めていた。

11
電車の窓から眺めていた景色ではかなり強かった雨は克己が駅に着く頃には大分和らぎ、傘もいるかいらないか程度にはなっていた。それでも暗々とする空模様を見るとしばらく晴れ上がることはなさそうだ。駅から20分、タクシーでも使おうかと考えたが歩いて得る情報もある。克己は周りの風景に目を移しながら、佐久間から渡された住所へ向かう。
たどり着くと、安田運輸があったとされる場所は既に更地となり広々とした土地に雑草だけが生い茂っていた。住所では間違いない。広大な敷地も運送会社ということなら納得だ。ただ、更地を眺めていても何が進展するわけでもないので、克己は近辺の工場、もしくは同業に近い業種を営んでいるような会社を佐久間にピックアップさせ、一件一件を聞き取り調査することにした。「できるだけ古くからやっている個人運営店を」というリクエストをだすと、ムライ輪業というバイクの取り扱い店が徒歩2分程度のところにあった。店主が代替わりしていないことを祈りつつ、店先で声をかけてみる。
「すいません、お店の方、いらっしゃいますか」
「はいー」としゃがれた声が返ってくる。どうやら祈りは通じたようだ。店先にでてきた老人は腰こそ曲がりかかっているが、爪の間もびっしりとオイルが染み付いており、まだまだ現役であることが伺えた。
「修理だと、一週間くらいかかりますけど大丈夫ですか」
「いえ、実はちょっと伺いたいことがありまして」
保険の外交員かセールスかと思われたのか、思い切り怪訝な目つきをされたが、市役所の人間であることと、地域の活性化を目指すプロジェクトのために大きな空き地なっている事情について調べている旨を伝えると、奥の作業場に通してくれた。もちろん嘘だ。
大通りに面している店で車通りは多く、老人の声も聞き取りづらかったので、静かな作業場でじっくり話を聞けるのはありがたい。
「安田さんはね、昔はわりと付き合いあったのよ。こう見えてわたし、町会長やっていたりしてさ。安田さんとこが羽振りいい時は、祭りの寄付金をポンと結構いい金額だしてくれていたりしたもんよ」
質問していないのに老人は話しだした。大変ありがたいが、話し好きにはデマもある。充分吟味せねば。
「かなり繁盛していた運送会社さんだったんですね」
「まあ、世の中全体が悪い時代じゃあなかったからね」
男の言う悪い時代にしてしまったのにはこの世代に原因があるのでは、などと突っ込んでいる暇はない。適当な雑談は交わしながら重要そうな話をとにかく掘り下げる。
「羽振りがいい時、というと経営が悪化していくようなことがあったんですかね」
「そりゃあ、そうよ。バブルの時は、安田さんとこもトラックをバンバン納車してさ、従業員も倍近く増やして、もっともっと大きい会社にするなんて息巻いていたけどね。景気が悪くなるとダメよ。別に安田さんとこが悪いわけじゃなくてもさ、単純に流通の量が減るからさ。車も従業員も余分に遊ばせとくだけになっちまって、それが結構響いたんじゃないかな。安田さん、人がいいから簡単には従業員も切れなかったみたいだし」
私見だが、それで会社を結局潰してれば世話はない。それにバブルの時代の話を聞くに、安田社長は従業員を切れなかったというより楽観的に考えていたように思える。いつかまた、景気が上向く、なんとかなる、そういう見通しの甘さがあったとすれば経営者としては失格だ。
「最終的には事故が決め手だったかな。事故がなければ、まだなんとかなったのかどうかはよく分からないけどね」
男の話が真実ならば、事故が関係してもいなくても、倒産には近づいていたということになる。
「ムライさんが知っている範囲で事故のことを教えてもらっていいですか」
「かなり大きい事故だったよ。高速道路で安田さんとこのトラックが思いっきり横転してさ、後続も巻き込んで死者8人だとかだったかな」
『死者は4人ですね』佐久間のフォロー。倍に増えている。やはり男の話は文字通り話半分に聞く必要がありそうだ。
「その時は安田さんとこさ、あちこちから借金して回っていてさ、社員もどんどん辞めてって、残った面子が不眠不休で安い仕事ばかり引き受けていたらしいよ。それじゃあ事故も起きるよ。なんていうか、もう時効だろうから白状するとね。うちのとこにも金を貸してくれないか、なんて話に来てさ。驚いちまったよ。あんまり商売が上手くいってないのは知っていたけど、モトハシ自動車が後ろ盾にある以上絶対安泰だと思っていたもの」
「モトハシ自動車が後ろ盾というのはどういう意味ですか」
何かしらの接点は予測していたが、後ろ盾だったというのは少し驚いた。
「いや、俺も詳しいことは分からんけどさ、安田さんはモトハシの開発部の偉い人と古くからの友人らしくて、結構便宜図ってもらってみたいよ。葬式の時もモトハシ自動車の人が何人も来ていたし、でっかい花輪もあったなあ」
葬儀、ということは既に安田運送の社長は死んでいることだろう。死因は想像に難くないが、『タイミング』が大事である。
「安田さんが亡くなったのは事故が起きてから、いつ頃でしたか」
「もう事故が起きたすぐよ、すぐ。翌日にはさ、もうねえ」
しわくちゃの顔で躍けているのか、男の首を閉める手振りから分かる。予想通り、安田社長は事故によって会社が潰れることが決定的になっての自殺だろう。
だが気にかかることがあった。あの告発書を全面的に信じるならば、トラックの横転事故はモトハシの製造したトラック自体の不良が原因となる。自分たちに非はない、と考えるならば、事故の責任を追求してモトハシ側を訴えることも可能だったはず。それが、事故の翌日に自ら全てを諦めた。大会社と争っても勝ち目は薄いことを早々に悟ったということだろうか。腑に落ちないわけではないが引っ掛かりはする。
「ご家族の方が今どこにいらっしゃるかご存知ですか」
ペラペラと聞いてもない話までしゃべり倒していた男が急に顔を曇らせる。
「事故の責任とって、安田さんが自殺っていうのはなんだか納得て言ったらおかしいけどさ、昔の武士のハラキリ的なものでさ。ああ、やっちまったなあ、安田さん、なんて考えていたけど家族のほうは可哀想だったなあ。奥さんもすぐに後追っちゃってさ。残された子供達が不憫でならなかったわ」
「子供達というと」
「兄妹よ。兄と妹、あんなに明るかった兄妹が葬式の時、2人で手をギュッと繋いでさ、じっと参列者を皆睨んでいるのよ。まるで仇でも探すようにさ」
「ありがとうございました」欲しかった情報。閃と確信は遠いようで近い。頭を下げて、バイク屋を後にすると佐久間には早急に確認させる情報を伝える。
閃いたが吉日。次に向かう場所は即決だった。
堤喜孝はこの事件に何かしら関わりがあるのではないか。開発部の偉い人、ムライはそう言った。
「堤喜孝の住所をよろしく」
佐久間のキーボードの音が力強く聞こえた。

12
カスタマー統括部、荒井は島崎のことが嫌いだった。高瀬も斎藤も嫌いだが。もっと言うと吉永も土井も嫌いだが。
お気に入りの香水が切れかけていることに苛立ち、トイレの洗面台をガン、と蹴りとばす。連日の泊まり込みのせいである。肌にもよくない。腹立たしい。
昔から自分より頭の悪い男が本当に嫌いだった。そうだ、最近入ってきた怪しすぎる研修員の宮森とかいう奴も嫌いだ。私を言葉遊びでハメて情報を得たつもりだろうが、私はあらかじめ情報は垂れ流しにしても構わないと指示を受けている。あんなのでいい気になっているなら馬鹿な男である。
だが、本当に嫌いなのは本当の直属の上司である露木専務である。ハゲで馬鹿でメガネのくせに支配欲や独占欲だけはやたら強い。堤の動きに注意して、時期社長を狙うに優位な情報を逐一報告せよとのことだったが、バカのくせに細かい指示を自分でしたがる。こちらに全て任せておけばいいものを。
露木は堤と社長は一枚岩だと思い込み、堤から崩していけば社長を揺することができると思っているが、現実そんなことは別にない。
リアリストの冷徹な利益主義の社長に対して、堤はかなり強い情熱を持った技術畑の人間だ。自分に逆らう人間を少し下のほうに置いておいたほうがいい、という思考でカスタマー総括と社長室をダイレクトにしているだけで、2人の意思統一などされていない。当然、社長は堤に重要な情報を流してはいないだろう。だが、露木の専務にまで成り上がった強運は発揮されている。堤を追っていると面白いことにはなりそうだ。
あの男がなにを追っていたかはまだよく分からないし、口を割ることはなかったが、もういい。あくまで全ては社長と露木専務の盤上といったところか。露木の代打ちである自分が一番事態も把握しているだろう。
自分が露木の子飼いであることは恐らく誰にもバレていない。今日もおどおどした伏し目な女を演じるだけだ。あとは機を伺う。詰の一手を。

13
堤喜孝。モトハシ本社カスタマー統括部部長。10年前に開発部の部長から初代カスタマー統括部部長に就任。現社長の肝入りともされている。妻は寛子、専業主婦。24年前に結婚。子供は娘一人だけ。娘は高校3年生、18歳、理恵子。成績は優秀で、補導歴もなし。娘は現在失踪中らしく、捜索願が警察に出されている。娘の失踪を除けばいたって普通の家庭だと言えます。
言わなくともこちらが欲しい情報をスマートに差し出してくる佐久間は有能である。堤の住所もこちらの指示の前から調べ始めていたらしく、克己は待ち時間なく真っ直ぐ堤の自宅にたどり着いた。
オペレーターはダイバーが休んでいる間も調査や発注業務があり、ダイバー以上に過酷に働いている。この案件が終わったら、佐久間にビールでも奢らないとな、などと考えつつも毎回ねぎらうことなく次の案件に向かってしまう。とにもかくにも優秀なオペレーターいてくれて本当に助かっている。性格は本当にきついけど、うん。
堤の自宅は言い方が適切かは分からないが、普通、だった。自宅前に停まっている車も二世代前のモトハシ社製の乗用車だし、自宅がある場所も所謂ベットタウンである。普通のサラリーマンの生活感なのだ。悪いことや後ろ暗いことをしている輩は大抵、身の丈に合わない何かが見え隠れするものだが、自宅の外観を見る限りはその辺りは垣間見えてこない。
お隣の住宅の門構えが立派すぎて見劣りはするが、役員でもなんでもないサラリーマンの住居ならばこんなものだろう。少し錆がでているのか、キィ、小さく音を立てて玄関前の門が開く。呼び鈴は玄関前に取り付けられているので、不躾かとは思ったがドアの前まで勝手に行かせてもらう。
チーン、品のいい呼び鈴の音。玄関に向かってくる足音が近づくと扉が開き、堤の奥さんであろう人物が出迎えてくれた。
「どうも戸塚警察署の人間ですが」今度は警察に変化させてもらう。
先刻の佐久間都のやり取りでも話題にあがったが、会社内では警察関係者を装うことは規定違反とされている。何かがバレた時に警察を的に回すのが厄介だからだ。だが警察を装うと、引き出せる情報量もかなり上がり大変便利なので、状況次第ではあるが割と隠れて使うダイバーは多い。偽造された警察手帳も大抵のダイバーが持っている。もちろん克己も例外ではない。
「娘は見つかりましたか。どこにいるんですか」克己が取り出した警察手帳もロクに確認もせず、堤の妻は身を乗り出して訪ねてくる。
以前誘拐の現場に遭遇したこともあるが、子供を誘拐された母親は一気に老け込み、常に不安の表情をしながら声質が不安定になる。妻の寛子はほぼそれに近い状態だった。フリではない。それぐらいは洞察で見抜ける。
「いえ、娘さんはまだ見つかってはいないのですが、もう一度改めてお話を伺いたいと思いまして。特に娘さんの部屋を見せていただきたいんですよ」
寛子は一瞬躊躇し、唇に手をあてる仕草を見せたが「ええ、分かりました」と素直に自宅内に招き入れてくれた。
玄関を見れば住む人間の人となりが分かる、というのは先輩の受け売りだ。玄関から隅々まで掃除は行き届いており、履物も丁寧に並べられていた。妻の寛子は専業主婦ということだが、ちゃんと仕事はこなしているのだろう。家庭不和という様子はあまり見受けられない。家庭にヒビが入っている自宅の玄関は結構な確率で荒れている。
リビングはそれなりに広いが、高価な調度品が置いてあるわけでもなく、やはり一件普通の生活レベルである。ダッシュボードの上には家族写真やトロフィーが並んでいて写真の真ん中に写る娘の理恵子は歳の割に落ち着いた笑顔で鼻筋の通った綺麗な顔立ちをしている。
克実がソファに腰を落ち着かせるや否や寛子は落ち着き無くまた質問をしてきた。コーヒーが飲みたいところだが、こちらからは厚かましくて言えないだろう。
「娘がなにか事件に巻き込まれているとか、そういうことはないんでしょうか」
「ええ、事件性があるようなものは今のところありませんよ」、
相手をパニックにさせて情報を引き出すやり方もあるが、この場合はとりあえず、寛子を落ち着かせた方が有益だと判断した。しかし、寛子の狼狽振りと堤の電話の応対にどうにも差がありすぎてあからさまに不自然である。どちらにも芝居臭さはないから、やはり単に家族関係が崩壊しているというケースも考えられるが、克己は一つずつ地道に確かめていく。
「あの、娘の理恵子さんはこういった家出といいますか、黙って自宅に帰らないことはよくあるのでしょうか」
「いえ、そんなこと今まで一度だってありませんでした。うちの娘はそういうことはしませんし、したこともありません。私の親はかなり門限が厳しくて学生時代、私が好きなことがあまりできないこともあって、娘には同じような思いをさせたくないから、ある程度自由にはさせていたのですが。でも3日も自宅に帰ってこないなんておかしいんです。何かあったとしか考えられません」
「今までそんなことない、ですか」
イメージの話ではあるが、謎はブラックボックスとは違う。紐が絡み合い、解けない状態のことを指すと克己は考える。そのイメージで考えるならば、紐は捻れに捻れて絡んでいる気がした。つまり、捻りを見つければ謎は一瞬でほどける。不用意に探れば余計に絡まるとも言えるが。
思考を回した後、「理恵子さんの部屋を見せてもらえますか」と克実が尋ねると、寛子はどうぞ、と2階の理恵子の部屋へと案内をしてくれた。
階段を登り、部屋の前まで案内をしてもらうと、寛子は「あっ」と気づいた様子で慌てて、頭を下げる。
「すいません、なにもお出しせずに。お茶をいれて参りますので、どうぞご覧になっていてください。あるものは元の位置に戻してもらえれば結構ですので」と寛子はリビングに再び下がっていった。「おかまいせずに」と一応、寛子の背中に声をかける。
克己に年頃の娘の部屋を任せ、寛子がリビングに下がっていくのを見ると、どうやら寛子は既になにか手がかりになるようなものがないか娘の部屋を探索したということだろう。何もないようなところからなにかを見つけ出すのがこちらの仕事だから、じっくり見させてもらうのはこちらとしては好都合だ。
真面目な部屋である。第一印象だ。女の子らしさがないわけではないが、基本は勉強の道具ばかりで、没頭しているような趣味らしい趣味と言えるものはあまり見当たらない。化粧道具も最低限といったところだ。目を引いたのは部屋には似つかない無骨な車についての雑誌やハードカバー。だが、父親が車メーカーの人間なのだから、興味を持っていても別段不自然ではない。その脇には家族3人、どこかの水族館だろうか、笑顔で写る写真は飾られている。
「なあ佐久間、お前、学生時代に自分の部屋に家族写真とか飾っていたか」
『いえ、飾ってないですけど』
「お前さあ、家族は大事にしたほうがいいぞ」
『いや、大事ですけど、なんか友達とか来るとちょっと恥ずかしいじゃないですか。それに高校生ぐらいの時はなんとなく父親とは距離置いていましたし』
「だよな、それが一般的な多感な時期の女子だよな」
写真建てを持ち上げ見つめる。写真の中の理恵子は気恥かしそうにしながらも本当に幸せそうだ。いい家族だと誰が見ても感じる。
広い部屋でもなく、物自体が多くない。調べるところはほとんどなかった。何かが隠されている様子もないし、大事なものは持って家を出たのかもしれない。
リビングに戻ると寛子がちょうど、湯呑に茶を注いでいるところだった。克己はもう一つの目的のために仕込んでおいた資料を鞄から広げる。
「理恵子さんの部屋、ありがとうございました。ところでなんですが、ちょっと見てもらいたいものがありまして。この資料の中にいる女の子達で奥さんが見かけたことがある子はいらっしゃいませんか」
机の上に広げた数十枚の資料には高校生ぐらいの女子の顔写真がズラリと並んでいた。
「最近の若い子は複数人で家出をしているケースが多々ありまして、現在、都内で捜索願がでている子達の顔写真です。もし理恵子さんのお友達がリストにいたら、居場所を掴む手がかりにはなると思うので」
もちろん嘘である。寛子は頷いて、リストの写真をじっくり眺め、娘への手がかりを探そうとしている。これなら10分は稼げそうである。
克己はトイレにと席を立つと、寛子の視線を躱し、もう一つの目的である堤喜孝の部屋へ侵入を試みた。広い家ではないし、大概住宅の間取り図は似たようなものだ。寝室、娘の部屋を除けば、堤の部屋は簡単に察することができた。トイレとその先に並ぶ部屋がリビングの奥からは死角になっているのは好都合だ。もしトイレが視線上にあるようならば、トイレの窓から脱出して、堤の部屋には窓から入ることも考えたがその手間はなく助かる。
鍵がかかっているのも覚悟していたが、部屋の扉はドアノブを回すだけで簡単に開いた。
ベットに机、ゴルフが趣味なのだろうか。ゴルフバックをはじめ、ゴルフ関連の雑誌等が大量に積まれている。取り立てて不自然なところはないが、全部をひっくり返して荒らし回るわけにはいかない。
狙うのは一点。鍵がかかっている、「何処か」である。
机の一番下の段の棚にだけ鍵がかかっている。いつものやり口で鍵を外すと、そこにはE―371についての資料と鍵の暗証番号のようなものを書いたメモが入っていた。すぐにメモを手帳に写す。社内のほぼ全てはカードキーだし、この鍵の番号らしきものがどこでどう使えるのかは分からないが。資料に関しては一瞬悩んだ。もちろん今ここで舐めまわすように調べる時間はないが、もうここに潜れるチャンスはない。堤に潜入がバレるのを覚悟で鞄に資料をしまい込む。
一応、鍵をかけ直すと、克己はトイレに向かい、水を流してからリビングに戻っていった。まだ寛子は意味のない女子学生の写真集を真剣な眼差しで見ている。
「どうでしたか」
声をかけると大きく寛子は首を振った。
「いえ、私が見かけたことがあるような子は特に。理恵子は余り、学校の友達が多いタイプではないですし、なんていうかつるんでいる、というのが印象にありません。私が把握していないだけかもしれませんが」
「そうですか、ご協力ありがとうございます」
礼を言いがてら、帰る時にも妻の寛子は何度も何かわかったらすぐにでも連絡をください、と念を押してきた。寛子は心の底から理恵子を安じている。親を心配させる親不孝者の捜索はこちらの仕事ではないが、理恵子本人に会えれば事態はかなり把握できると克己は考えていた。
資料はもちろんだが、肌で感じた収穫が大いにある潜入だった。
何だかんだで既に時間は夕方の5時を回っている。堤に顔を見せると何かバレそうな感じがして、会社には直帰する旨を伝える。会社には深夜にもう一度潜らせてもらうが。
例によって自分の会社には戻れない。同じ店を二度使うのはセオリーとして有り得ないので、会社から少し離れた別のファミレスを探すところから克己は始めた。そのぐらいは佐久間に頼らずに自分でやろう。

14
ホテルのラウンジなど久しぶりだ。独身時代、若い頃はホテルの朝食ビュッフェなんかを利用して贅沢していたものだが、家族がいる今はそんなことはできない。
娘には好きな大学に行かせてやりたいし、好きなことをやらせてあげたい。大企業といえど、そんな破格の給料ではない。老いた父と母にも定期的に送金をすることも考えると随分と倹約するようになった。それにこれから金が随分とかかる予定がある。趣味のゴルフだけは続けさせてもらいたいものだが。
ラウンジの馬鹿高いコーヒーに口をつけると、ソファの背中合わせに座った男が「携帯を耳にあてて」と声をかけてきた。
待ち人がやってきた。外国映画のスパイのようなことをするんだな、と思ったが素直に指示に従う。
「確認です。お名前を」
「堤喜孝だ」
携帯電話はフェイクで、背中越しに生声でやり取りをする。若い人間の声に聞こえたが、それなりの緊迫感はある。伊達にその手の専門家ではないことが実感で分かった。
「堤さん、あらためて発注の内容を確認したいのですが、先に確認しておくことがあります」
「なんでしょうか」
「私共は企業単位での発注業務を主に受け賜っています。このご依頼は個人発注に感じるのですが、どうでしょうか」
少し戸惑った。企業スパイだなんてものに発注をかけるのは初めてである。存在は知っていたが、自分が関わることになるとは思わなかった。ツテを頼って連絡をしてみたはいいものの、こういった輩に頼っていいものかどうかは自分でも半身半疑だったのだ。
「正直よく分かりません。企業に勤めている自分が、企業に関することで発注しているということではまずいのでしょうか」
「ライバル企業等ではなく、あなたの勤める会社に関することですよね。ご自分でやられてはどうですか」
「それが難しいから頼んでいるんです」
相対していない人間と話すのは骨が折れる。相手の意図も探りにくし、こちらも苛立ちを隠すのが難しい。これも相手の策だろうか。ペースは完全に相手側だ。
「分かりました」
あっさりとした返答が返ってきた。今までのやり取りはなんだったのだろうか。
「こちらの会社のほうには上手く報告しておきます。報酬は正規の金額通りいただきますが」
「分かりました。用意はしておきます」
娘のためにと進学費用以外に妻には内緒で貯めていた預金がある。それに自分の会社の持ち株を売れば、要求されていた200万はなんとかなりそうだった。
「それと」
「それとなんですか」
何かまだあるのだろうか。堤は真後ろの男に詐欺にでもかけられている気分になってきた。
「条件が2つあります」
男の切り出した条件は落とし穴があるような気がした。なにかこちらの意図するところに決してたどり着かせてはもらえないような。だが後に退いても仕方がない。退くぐらいなら最初からこんなことなどしないのだから。
声には出さなかったが、堤の小さな頷きが伝わったのだろう。「それでは改めて依頼の確認をさせてください」と男が言った後、堤は瞳を閉じ決意を固めてゆっくりと口を開いた。
「娘を助けて欲しい」

15
間もなく、深夜の一時。そろそろ出発時かという時に佐久間から連絡が入った。ファミレスでぶつくさと喋っているのも奇妙だろう。前回同様に裏路地を探り、地下駐車場に向かいがてら佐久間の報告諸々を聞くことにする。
『堤のパソコンのデータが開けましたよ、まだ全部ではないですが。それと携帯番号の持ち主も』
「うむ、苦しゅうない。聴いてつかわそう」
こちらのおどけに対して怒りの反応の欠片もない。佐久間は相当疲れているようだった。早急に、と言いながら調べさせているものが多すぎる。今日であらかた目処をつけて、今夜はゆっくり休ませてやりたいところだ。
正直、かなり露骨な捜査をしていたこともあり、こちらの正体がバレるのは時間の問題だ。佐久間に負担はかけているが、短期決戦に限る。まだまだ目的地は遠いような気もするが、克己の推理と勘が正しければ証拠は今から向かう場所にあるはずである。
会社内、目的地は堤の部屋で見つけた資料に記載されていた暗証番号の使いどころだ。その場所は資料の中で生真面目にもはっきりと記載があった。
佐久間は頬をたたいて、気合を入れ直したのか、いつものシャープな口調で報告をはじめる。
『堤の持っていたデータですが、簡単に分けると三つ見つかりました。一つは、10年前に安田運送が起こしたとされる事故の車種、E―371の詳細なデータです。どういうことかは分かりませんが、この車種は世の中に結局出回っていません。試作された2台が安田運送に流れているだけです。その試作品が事故を起こしたことで、E―371は永久にお蔵入になったようです。事故後、それでも堤は執着があったのか、事故の原因や車種の問題点をレポートにまとめています』
「なんで、安田運送に試作品を使わせているの。それって違法じゃないの」
『大手企業ですから、その辺りの根回しは上手くやったのでしょう。運輸省にパイプがないわけはないですから。で、克己さんの予想通りでしたね。安田運送の社長が懇意にしていたのは当時、E―371のプロジェクトリーダーだった堤でした。データの中に安田社長とのやり取りがはっきり残されていましたよ』
ムライ輪業の男が話していた、安田と懇意にしていた人物は堤だった。どういう事情でかは分からないが、経営難で苦しんでいた安田運送に堤は友人のよしみで金のかからない試作のトラックを提供した。そのトラックが事故を起こして安田運送は潰れた。そういう流れだ。
「事故後の処理については俺が持っているほうの資料で把握できた。会社は安田の自殺後、あっという間に全てを闇に葬っているな。社内的にも対外的にもE―371の生産中止の理由を知っているのはごく一部だろう」
自分で話していて気づく。そう、これはリコール隠しなのだろうか。確かにE―371は順当に発売されていればリコールされるべくした欠陥品だ。だが、世の中には出回らなかった。安田運送のケースだけを除けば。しかしリコールを隠したのではなく、誰かの思惑を隠している、という捉え方が本質な気がする。本来抹消すべき隠蔽の資料を堤はなぜまだ持っていたのだろう。
『二つ目はざっくり言うと、この間の板橋で起きた事故に関してです。ですが、事故後のことではなく、堤は事前にこの件に関する問題提起をしているようです』
「全然意味がわからん。順を追ってくれ」
『板橋で起きた脱輪事故の車種、G―003という車種です。この車種には開発当時から問題があったみたいなんです。軽量化や燃費の効率化、徹底的なコスト削減によってできたG―003は消費者には大変評判がいいのですが、堤は無茶な工程を経て無理くり作った欠陥品だと訴えています。この車がいつか事故を起こしてリコールの対象になるのではないか、と発売前の3年前からかなり危惧していたようですね。堤からしてみれば事故は起こるべくして起きた、ということらしいです』
「カスタマー統括部は社長直参の部署だろ。社長に掛け合って止められなかったのか」
『モトハシ社は現在、取締役筆頭の専務である露木の影響が強いですから。露木主導で進められていたG―003には誰も手出しできなかったんじゃないですか。それに堤はあくまで一介のカスタマー統括部の人間ですからそこまでの権限はないでしょう』
人の命を乗せるものを作っている会社がこんな体たらくではやりきれない。露木専務と本橋社長の派閥、いや体裁争いのようなものもこの件に絡んでくるのだろうか。正直、権力闘争は苦手分野だ。権力を持ったことがないから、権力を持っていて、さらに欲しがる野郎共の気持ちは理解しかねる。
『事故が起こった後も詳細にレポートをまとめていますね。ほれ見たことかと言わんばかりに。堤はこの車はリコールすべきだという結論を出しているようです。放置しておけば必ず、事故は起き続けると断定しています』
「でも社内的には事故は全部運送会社の整備不良に押し付けて切り抜けたい。リコール隠しをやろうとしている」
佐久間が頷く。しかし、分からないことがある。
カスタマー統括部に優秀な人材が多い理由は推測できる。堤はこの日がいつか起きた時のために対応できるように、優秀な人材を集めていたのだろう。解釈を簡単にするならば、会社の損失を避けるためにリコール隠しをする用意をしていたということになる。
自分がオフィスに初めて行った時の異様な警戒も忙しさも分かる。部外者らしき人間が突然現れたなら、そいつを警戒するのも当然だ。根回しやクレーム対応、証拠隠滅やら、やることは膨大で徹夜作業なのも納得と言える。野中運送も早急に買収をしたに違いない。
だが、堤の娘の件、10年前の事故、謎の告発文、どうにもすっきりは繋がらない。なぜ堤がリコールに執念を持っているように見えるか。自宅の引き出しに鍵までかけて資料を保管していたこともそうだ。克己は髪を掻き毟るが、答えはそう簡単には出ない。
「なあ、佐久間。松田はリコール隠しをするのに邪魔なよそ者だったから処分された、って思うか」
『まあ、そう考えればこれで今回のミッションは終わりですけどね。私は引っかかっていることが多々あります。宮森さんがいいならいいですけど』
「馬鹿言えよ。ここで止められるかよ。それに松田はなんの案件で潜っていたのかも分かってないでしょうが」
『そこが三つ目です。松田さんと接触をとっていたのは堤です』
「チーン」
もう全然意味が分からない。堤のやりたいことが意味不明。
『ウチの会社に依頼をだして、松田さんを社内に潜らせたのは堤ということになるんでしょうね。データ内にうちの会社とやり取りをしていた形跡がありました。依頼内容は直接ダイバーに、ということですから。そこは堤か松田さんしか知らないとは思いますが』
「その依頼自体も堤のもっと上からの命令かもしれないけどな」
分からないことだらけでも、堤の周辺を探っていたのは大正解であった。見当違いの場所に当たりをつけていれば、ここまではこれない。ようやく松田の身辺に関することが垣間見えてきた。
一瞬、言葉が淀むのを我慢して平静を努める。先日の潜入の時にも感じた空気。しかし今度はもっと近く、静けさが刺さるように痛い。突き刺さる悪意を含んだ視線。
会社の地下駐車場近く、今からまさに社に潜入しようかというところでそれはやってきた。
「いや、しかしお疲れだな。たまには仕事が終わったら、一杯行こうぜ。冬でもキンキンに冷えたビールは最高だよ」
ダイバーとオペレーターは必要に応じて、陰語を決めている。2人にももちろんある。2人は飲みに行ったことなどない。飲み会の話をする場合は「尾行がいる」である。他にも隠語を混ぜながら会話をすることも可能だが、克己はこれ以上の指示を敢えて出さなかった。自分をつけてこようが、こちらはどこのどいつが黒幕か分からない以上、なんでも情報が欲しい状態だ。逆にこちらにとってチャンスだ。自分を尾行する必要がある人間が誰かを確認するべきだと考えた。
先日のルートでエレベーターを利用する。エレベーターをでて、オフィスのある廊下を突っ切ると、外にでるための非常階段がある。階段はかなり古い鉄製でどれだけ殺しても足音は響いたが、気にしてもしょうがない。エレベーターを出てからも尾行の視線はベッタリだ。煙に捲くなら社内をでる必要がある。もちろんでるつもりはない。
階段を下りきると、会社の敷地内、走行テストをするコースと会社の巨大な庭を仕切る金網が見えた。金網に電流も警報トラップもないことを確認すると、克己は颯爽と金網を飛び越える。金網を飛び越えたのなんて久しぶりだ。内腿の変なところがつりそうだった。
しばらく歩き、コースを横断。再び芝生を越えた先の場所にはいくつかの倉庫が並んでいる。中にはモトハシ社製の車がズラリと並んでいるのだろうが目当てはそこにない。
倉庫の並びを過ぎ、さらに奥。照明灯などもまばらな暗がりに差し掛かる。たどり着いたのは現在では使われていない体育館だった場所である。モトハシも景気がいい時代は野球部やバレー、その他の社会人スポーツにも力を入れていたが、20年程前から不景気の煽りを受けて、ほぼ全ての部は廃止されていた。体育館の玄関口には南京錠がぐるぐる巻きにされ錆だらけとなり、まるで魔物でも封じているかのような風体だ。克己は裏口に回ると、かなり大きなサイズの搬入口がそこにはあった。
扉にはもちろん施錠がされていたが、玄関口と比べれば、大分マシである。大げさに何重にも巻かれてはいるが単純な構造の鍵だ。格好のいい電子暗号とかではない。堤の部屋で見つけた暗証番号はただ数字を揃えるだけの代物だった。
所々、腐食が進んでいる鉄製の扉だが鍵はまだ新しいものに見えた。この手の鍵は劣化が進むと錆で数字が回せなくなるものだが、するすると動く。定期的に誰かがここに入っている証拠というとことか。
6桁の番号を揃えると、鍵が外れ鎖を解く。扉の取手自体はかなり重い。ここまできて、こいつが壊れていては困ると、体重をかけて思い切り取手を右に回す。グアン、と低い音が鳴った。ドアを開けば開くほど金属音の軋む音が響いてしまうので、体を入れ込むスペースだけを確保して、室内に身を入れ込んだ。
体育館だったその場所は左右に巨大な窓がいくつもついており、月明かりと、入口から差し込む広場の外灯が充分すぎる程、室内を明らかにしていた。電気が通っていることは期待していなかったが、探し物をするにも全く問題がなさそうだ。克己の目当てのモノは探すまでもなかったが。
『宮森さん、ここに何があると考えているんですか』
「大事なもの。堤にとってか、会社にとってかは知らないけど」
『松田さんがここに監禁されている、とか』
「ない。そんな期待もしていないしな」
正直、別に松田がここに監禁なり、死体となって隠されていることがないと言い切れる根拠はなかった。ただの勘である。ただ、ここは堤の秘密基地的な場所なのだろうし、堤が直接松田をどうこうしたと考えるのは合点がいかなかった。
「佐久間、俺にはどうにも堤という人間が会社の言いなりになってリコールを隠そうとしているだけの悪党に思えないんだよな」
『その心は』
「色々」
『色々って。まあ、言わんとすることは分かりますけどね』
「でも隠そうとだけしている人間のやることじゃないことが目の前にある」
『目の前にですか』
克己は、入った瞬間から確信していた。体育館内には似つかわしくない巨大な影。堤の資料を見た時からそれに関するものがここにあるだろう、という予想も完全にあたっていた。まさか実物とは考えなかったが。
「こんなものを未だに社内に置いているのはおかしいってことだよ」
廃棄物の大量のコンテナの脇に悠然と佇む巨大なシートで覆われた物体。克己がシートを剥がすと、そこにあったのはモトハシ社製のトラック、E―371に間違いなかった。
白い車体にサイドに走る紺色のライン。無骨な運送用の車にも関わらず、堂々としたフォルムは美しさすら感じさせる。
「これは証拠だ。モトハシが当時欠陥品を作って、そのせいで人が死んだ。その証拠だ。そんなものがスクラップにもならず、真っ新のまま、未だにここにあるのは何でだ」
実際に事故を起こした試作品は即スクラップにした、という記載が資料にはあった。これは恐らく、安田運送から回収した残りの一台だろう。
『この証拠に利用価値がある、もしくは証拠を残したかったということですかね』
「資料によれば、このトラックは社長のモトハシが主軸で動いていたプロジェクトの作品だ。堤は社長派。こんなものを残しても利用価値はない。社長からすれば、資料もデータもこのトラックそのものも全部無くなってもらったほうがありがたいはずなんだ。堤自身も隠蔽に絡んでいたその証拠品がここにあるのは堤の感情的理由以外にはない」
靴が砂を噛むわずかな音。
注意を怠っていたわけではないが、追跡者はいつの間にか追いついていた。克己の体にも緊張が走る。佐久間との会議は一旦中断だ。
ガタン、と乱暴な音と共に扉が締まり、入口から差し込んでいた外灯は遮断される。館内に窓から差し込む明かりだけが2人を照らしていた。
「こんなところに堂々と証拠があるとは思わなかったな。普通は考えないよ。でも隠している場所も鍵もあなたが手に入れ、案内までしてくれたのはラッキーでした。これで俺はミッションコンプリートってことです」
吐き気がする空気感。他人を威嚇して、縄張りを主張するような獣かヤクザの持つ独特の雰囲気。尾行をわざとさせたのは、もしかしたらミスジャッジだったかもしれないと思い始めたが、後の祭りだ。
「松田を殺したのはお前か」
「知らないよ。俺の業務じゃない」
「信用できないな」
「別にこれから消えるヤツに嘘つかないよ。お前のお仲間さんは勝手に消えた」
素人相手ではこんな緊迫感は産まれない。相手はプロ。しかも同じ枠だがかなり好戦的で野蛮な方面だ。克己は決して弱くはないが、ダイバーの中では持ち前の器用さと、話術、知能で勝負している部類に入る。こんなあからさまな武闘派に勝てる自信はない。
「俺はお前から逃げるなり、なんなりで、切り抜けるつもりなのでお前に聞きたいことあるんだが、いいか」
鼻で笑う声。あちらは俺が一矢報いれるとは露程も思っていない。
「お前の雇い主は誰だ」
こちらの問いかけに対し、男は背もたれが壊れ廃棄としてここに置かれている業務椅子に馬乗りになる。
「露木専務。俺たちは社長を引きずり降ろすための諜報活動を依頼されて、長らくこの会社に潜っていたのよ。社長の大失態と言えるこのE―371の事故に関して情報だけはでてきても、確実な証拠はなかなか掴めなかった。10年前とはいえ、リコール隠しの証拠を掴めれば、当時それらを指示していた社長を完全に追い詰められるから、この件に関しては最優先事項。それで堤の下で探っていたんだけれども、あの妙な告発文、アレがFAXされてきたと同時にお前はうちに潜ってきた。ピンときたね。お前をマークしていれば、決定的な証拠を掴める、てな。現物があるなんて、これはまたびっくりだけどな」
「妙な告発文」
思わず口走る。告発文は自分も見た。だが、男の言っていることには微細なズレがある。
「これだよ。10年前の事故と板橋の事故。2つの事故が繋がるモトハシの闇。週刊誌の見出しみたいだな」
男は掲げたFAXを指で軽く弾く。
違う。克己が見たのは10年前の事故に関する文章だった。似て非なるものだ。板橋の事故に関しては徹底的な隠滅がされたはずなので、それに関するFAXなんてものは克己の目に付くところにあったわけがない。男の持つFAXは克己が見ていないものだ。一ヶ月前に10年前の事故に関する文章が社内に送られてきた。同一人物が2種類のFAXを送っているということか。矛盾はそこまでしていない。しかし、何故FAXばかりする必要がある。
考えてもはっきりとした答えがでない疑問を考え続ける時間はない。今は目の前の男から少しでも情報を引き出さなくては。
「俺も落ちぶれたかな。なんでダイバーだと確信した」
「最初は状況判断と勘だよ。で、深夜に潜った。お前がいつも座る机を確認したら、盗聴器のお出ましだ。オフィスの統一意思としてお前を警戒していた。リコール隠しを暴こうとしている輩がいる。次にくる奴もその可能性があるというお達しだ。俺はお前の監視役を仰せつかったが、俺は盗聴器を仕掛けていない。となると、お前さんが自分で仕込んだものだという答えがでるわけだ」
なるほどあの時、俺の後にオフィスに入ってきたのはこいつだったのか。確かに、研修員としてオフィスに来てから怪しい行動ばかりとってきたから、あちらさんが勘づくのも無理はない。リスク覚悟の行動だったが、思い切り地雷を踏んでしまった。
「でも、板橋の脱輪事故が起きているでしょ。専務派としてはそっちのほうはかなり頭が痛いんじゃないのか」
「別に。あれはもう完全に隠蔽できそうだしな。社長派に上手くに押し付けても構わないという腹づもりらしいよ。どうとでもなるだろう。まあ、俺には関係ないよ。俺はただの企業スパイだからな」
やはりダイバー。それも他社の。男がタバコを咥えて火を点けると顔がより鮮明に浮かび上がつた。それはオフィスに来た時に一番最初に話をした島崎道夫だった。最初からあっちは探りを入れてきていたのか。
「企業スパイの矜持がないのかよ。お前さんには」
ムッとする、というより呆れた表情。
「俺は依頼主の都合がいい真実を調べるために潜っている。別に真実を捻じ曲げているわけじゃない。それはあっちが好きにやることだ。正義面して、真実を明らかにするんだ、なんて主義は持ち合わせちゃいないよ」
「まあ、正論だよね」と思わず克己が漏らす。
島崎の言うとおりだ。所詮、俺たちは犯罪者。ただの企業スパイ。他人に説法かましていいわけがない。自分の主義は自分で貫くだけだ。
島崎は煙草を床に放り投げると、急にかしこまった手振りで、紳士ぶったお辞儀をする。見栄えとは裏腹に戦闘態勢の逼迫感。
「ま、お話はこれくらいにしてやりましょうよ。改めてどうも。近衛産業という会社で企業スパイをやっています、島崎と申します」
「企業スパイが名乗るなんて、プロ意識が低いんじゃないですか」
「宮森さんこそ、挨拶はサラリーマンの基本でしょ、なっていないんじゃないですか」
「俺はリーマンやっているつもりはねえよ」
言い放つと同時に左足を体幹ごとぶつける。手応えがあったと思うのは一瞬。ガッチリとガードをされ、すぐにこちらの足が痛み出す。体格は同じくらいだが、こちらはそれほど、腕力に自信はない。掴まれる前に足を引いて、すぐに後ろに飛び去った。
「蹴りが軽いですね」
島崎は悠々とした足取りでこちらに迫ると、右足を軸にしたまま、中段蹴りをジャブのように連発してくる。
完全に武闘派。近衛産業は業界でもすこぶる評判が悪い。暴力団まがいの恐喝や実力行使を用いることで有名だ。当然、社員もそっちのレベルは相応に高いとわけだ。
パーリングが追いつかないところで顔に一撃もらう。アゴは避けたが一発が重い。吹き飛ばされそうになる。追いかけて、中空、体をひねっての上空後ろ回し蹴り。派手な技だが、島崎の蹴りには隙がない。ガードしたもののガードごと吹き飛ばされて転げまわる。
物理的な戦いでは勝ち目がない。克己はコンテナとコンテナの間に入り込むと、全力で右折、左折、島崎の視界から姿を消して息を整えた。
「佐久間、どうしたらいい」
『GPSでみる限り、倉庫内に逃げ道はないです。自力でなんとかしてください』
「簡単に言ってくれないでよ」
島崎は動かず、入口までの動線を塞いでいるようだった。あの早業の男の足をかいくぐって逃げ切るのは不可能に近い。
「あんた達、お得意のオペレーターか。意味ないよ。結局頼れるのは実際に潜っているスパイ自身の力量だろうが」
「ヤクザまがいがうるさいんだよ」
逃げているだけではラチがあくはずもない。克己は意を決して、コンテナの影から姿を現した。
島崎は右手に大振りのナイフを装備しているようだった。月明かりに刃が反射してぎらつく。
「ダイバーは痕跡を残さない。ナイフや拳銃は御法度だぞ」
「ウチは血痕ぐらい問題ないんですよ」
素人ならナイフ頼みで、突っ込んでくるから的を絞りやすいが、島崎の本命はあくまで蹴り。ナイフを牽制に使いながら、蹴りの間合いを測っているのだろう。克己は勝手な推測を命懸けでして、決死の特攻をした。
「死ね」
冷たく響く島崎の声を覆うようにスーツのジャケットが相手の視界を覆う。島崎は視界が隠れた下半身を庇おうとナイフで下段を払ったが、克己の体はそのはるか上。ジャケットの上からお構いなしに思い切り空中で前蹴りを噛ました。読み勝ち、と思うのも束の間。あろうことか、島崎は克己の全体重を乗せた蹴りに耐えて足首を掴んでくる。
これは総合格闘技でもなんでもない。ルール無用のストリートファイトなのだ。不利なポジションで掴まれた時点で勝負は終わる。
床にたたきつけられると同時に掴んでいる腕に蹴りを入れるがびくともしない。逆にみぞおちに思い切りサッカーボールキックを喰らう。呼吸と体の硬直。上からのしかかられ首と両腕を拘束されて、あっけなく勝負はついた。
「腐っても同業者だな。結構きいたよ」
島崎は顔面の数箇所から血を流しているものの、致命的なダメージは全くない。タフな相手はこれだから困る。島崎の憎まれ口にも返答する余裕はなかった。苦境を打破するべく頭を高速回転させたが、まるで案は浮かんでこない。
克己は無数の後悔と共にゆっくりと覚悟を決めた。島崎はこちらの動きを左手で制しながら、ナイフの切っ先を立て、克己の首筋を裂こうと刃を頚動脈に当てる。
「お疲れ様でした。宮森さん」目を閉じていても島崎が笑っているのが分かった。
突如響く。
乾いた音。
タンタン、タンタン、タンタン。小気味いいと思える程に規則正しい銃の音。
バン!でもドン!でもない。プロだけが放つ冷たい音。
島崎は瞳孔をこれでもかと言う程、開きながらくぐもったうめき声をあげて克己の体から崩れ落ちていった。わずかに薫る硝煙。殺気はもちろん気配一つ感じさせなかった。克己は既に絶命したであろう島崎の体越しに見える男がどんな人物なのか直感した。
「品質管理」
太っていると言ってしまって差し支えない体型の男。丸顔にメガネがよく似合う。こんなところで出会ったのでなければ、誰もが安心感を抱くような優しい笑顔。助かった、などという安堵の感情は毛ほども感じなかった。目の前にいるのは自分たちの会社で恐れられる死神同然の人種なのだ。
「お初です。宮森さん。あ、親しみを込めて宮さんと呼ぼうかと思います。宮さんは我社の規則を違反されたということで、遣わされてきました。今後どうぞよろしくお願いします。長い付き合いになるといいですね。私は品質管理部の相藤です」
ニコニコしながら相藤と名乗った男が死刑宣告のイエローカードをだしてくる。克己は天井に向かって軽いため息を一つ。
『宮森さん』
佐久間が悲壮な声で克己の名を呼ぶ。
「聞いてのとおりだ。ガチでヤバイです」
克己は重すぎる疲労を感じながら今度は全身で深いため息をついた。

16
私はその匂いが好きだった。実の父からはいつもオイルの匂いがした。爪の中までこびりついたオイルの染みは働く男の勲章だ。自分が産まれてから、父の会社はずっと大変そうだったが、家族のために身を粉にして働いている父と母を子供ながらに理恵子は誇りに思っていた。それに兄が優しく、いつも傍にいてくれた。送り迎えはいつも兄がやってくれた。兄と手をつなぐ帰り道、私がスキップして歩くと、背の高い兄はバランスを崩して大変そうだったが楽しそうに歩いてくれた。
ある日、父と母が死んだ。スーツを着た偉い人がたくさん葬儀にやってきた。その中の一人が何度もすまない、と父の遺影に謝っていたのを覚えている。突然のことすぎて何が起きているのか私はよく分からなかったけど、もう父とも母とも会えないことと、兄が今まで見たことがない程怒っていることだけは分かった。
兄は最初、私が養子に引き取られることに反対していたようだった。「いい話だから」と説得する叔母に対し、すごい剣幕で怒鳴り声を上げていた。でもある時、急に兄は何かを悟ったように私に聞いてきた。「あの人のもとに行くのは嫌じゃないか」兄にとってどっちがいいのかは分からなかったが、自分が一緒にいれば兄の足手まといになることを直感し、「うん」と二つ返事をした。兄と一緒にいれなくなるのは嫌だったが、それ以上に兄に迷惑をかけたくなかった。自分が引き取られる家のことなどはどうでもよかった。
程なくして兄は姿を消し、私は父の友人だった人の家に引き取られることとなった。そこの家の人たちは本当によくしてくれたのだと思う。二人には子供が出来ない体質らしく、私のことを実の娘のように可愛がってくれた。
最初は心を殺して、曖昧な表情を浮かべ、子供ながらにひたすら空気だけを読んでいた。「はい」「わかりました」「ありがとうございます」私が敬語で話すたびに、義母は寂しそうだったが、その度に、義父が「ゆっくりでいいから」と義母を諭し、最後には私の頭を撫でてくれた。そんな義理の父からは匂いがした。オイルのツンとくる刺激臭じゃないけど、なんだか実の父と似た匂い。好きな匂い。
私は何不自由なく暮らさせてもらった。空気を読んでいただけじゃない。素直に2人のためにいい子でいようと思えるようになって長い時間が過ぎた。
一年前、私宛に郵便が届いた。そこには行ったことのないクラブ、とかいう店の地図と住所。そして、実の父が経営していた会社の事故に関する資料が同封されていた。
表現は適切ではないかもしれないが、こんな不審な郵便物にも関わらず私は心がときめいた。間違いなくこれは兄からの連絡だ。クラブなんていうものには縁がないと思っていたが、次の日曜日、出来るだけ大人びた格好をして、住所の場所に出向いた。父と母にはなんだか後ろめたい気持ちもあったが、始めて足を踏み入れる場所と兄に出会うドキドキとした気持ちとその裏側にあるたくさんの不安で思考はほとんど止まっていた。
そこには私と同じくらいの歳の子もたくさんいた。おいおい、こんなところで酒を飲んで大丈夫なのか、店側も未成年者の確認くらいしろよ、などと思いながら、フロアを見渡す。さほど広いわけではない店内だったが、ガチャガチャと小煩い音楽と、飛び交うレーザー、やたら声をかけてくる見知らぬ男達にすぐに疲れ、奥のシートに腰を降ろした。
「若い女の子と会うのに不自然じゃない場所があんまり思いつかなくてな」
聴いたことのある声だった。言葉の主、向かいのシートに座った男の人の顔が見えた。私は軽いパニックになり言葉が出てこない。
「久しぶり。綺麗になったじゃないか。母さんにも父さんにもそんなに似なくてよかったな」
兄だった。相変わらず口が上手く動かない。コクコクと首を振る。
兄は私にたくさん質問をしてくれた。学校はどうだ、とか。彼氏はいるのかとか、私の話をたくさん聞きたがってくれて、私もたくさん話したかった。
ただ、兄に会えた嬉しさは充満しつつも、平静状態になるにつれ、私の中の不安な気持ちが膨らんでいく。兄はあの日のままだった。あの日、あの葬儀の日、怒り、悲しみ、復讐を誓った眼のままだった。私はあの時、まだ年端もいかない子供だったが、兄は既に高校を卒業する歳だった。私には見えてなくても、兄には見えていたものがあるかもしれない。同封された事故の資料を見ても私には分からないことだらけでピンとくるようなものもなかったが、兄はまだあの事故を追っているのだろうか。
結局、兄はあの事故のことを話題にあげることはなかった。ただ、最後にこう言った。
「俺の仕事を手伝わないか」
兄は企業を調査する仕事をしているようだった。詳しいことは分からなかったし、兄の役にどれほど立てているかは分からなかったが、この世で唯一の肉親である兄との繋がりを絶対に手放したくなかった。
少しだけ時間が経ち、私が兄の指示のもと、調べていた会社がインサイダー取引の疑惑をかけられて倒産したニュースが流れた。兄があまり真っ当ではないことをやっていることは薄々勘づいていたが、実感としてのしかかったのはそれが初めてだった。
私は兄の仕事と学校生活の合間のできる範囲で、あの事故のことを調べ始めた。すぐに行き詰まったが、一番調べるべき場所は一番近くにある。父の部屋に勝手に入ることに関しては、相当の呵責があったが、やらなければただの女子高生ができることは限られてしまうだろう。
覚悟や、罪悪感、好奇心、その他の感情がごちゃまぜになりながら、父の部屋に入って、父が隠していた資料を見つけてしまった時、私は後に戻れないことになった。
資料が糸口になり、私の個人的な調査は進んでいった。今ではクラブは私の活動にはもってこいの場所だ。兄との待ち合わせもよくここを利用した。当然自宅では調査は出来ないし、あそこなら入れ替わり立ち替わる人の波のおかげで特定の誰かに見つかる心配もない。相変わらず流れている音楽は不快だったが。
ある日、変な話相手が出来た。一人でずっといるのは不自然だし、友人と時間を過ごしているように見えるのが一番自然だと考えていたので、調査の片手間に話ができる彼女は大変ありがたかった。彼女は何故か私を慕ってくれていた。なんでだろう、私は彼女を利用する気持ちしかないというのに。僅かに心の奥が傷んだ。
そして、一ヶ月前。兄との待ち合わせ。兄は珍しく、酒を飲みながら私と向かい合った。
「俺はこれからモトハシを調査することになった。俺がヘマをしたら、お前にも危害が加わるかもしれない。もし、俺と連絡が取れなくなったら、必ず家を出でくれ。約束だ。俺とお前の身を守るために」
兄を心配する気持ちだけで、顔が強ばったのではない。いつかこの日がくる前に私が決着をつけたかった。あの日のあの眼をしていたままの兄がモトハシに関わることが心底怖かった。そして嫌だった。
兄は二度、約束を念押しすると、刺すような空気を纏い、店を先に出て行った。
腕をギュッと掴んで震えを止める。小さく浅い呼吸を繰り返す。
私は二人の父の匂いと香苗のことを何故か思い出していた。

17
早朝だが、近所の女子大生やOLが割と利用するのか、店内はそこそこに混み合っていた。克己はいつものアイスコーヒー、シロップ、ミルクは2つ。その奥には何だか甘ったるそうなパフェ。時代に合わせ、全席禁煙の店内だが、そんなルールは無視して今すぐ煙草を吸いたい。できるだけ、何かで現実を誤魔化したい。目の前にはニコニコと笑顔を振舞う社内の死神、品質管理の相藤が座っていた。
「宮さん」
「はい」
「なんだかいいですね。宮さん、ってすごく親しい間柄みたいだ」
「こっちは心の底から親しくなりたくないんですが」
心の底から、という表現をこんなに切迫して使ったのははじめてだ。
「まあまあ、宮さんも、どこの誰だか分からない奴より、親しい人間に殺される最後のほうが感慨深いと思いますよ」
ホントに軽い感じで怖いことを言う。
「死んだら一緒ですけど。ところで俺の違反っていうのはなんですか。心当たりがありすぎるようでないんですけども」
第一営業部と違うルールは頭に叩き込んで順守していたつもりだが、抜けがあったか。もしくは他のあれやこれやか。完全に潔白ですとは言い張れない。
「ええ、先日、警察関係者を装って、堤喜孝の自宅に潜りましたよね。警察関係者に化けるのは重大な服務規定違反です。ご存知でしょう」
一瞬、思考が止まる。頭の中で「ああ」と相槌をうつ。他にも掘り出されると一発レッドカードになりそうなものもあったので、それならよかったと一瞬安堵したが、自分が置かれている状況が変わっているわけではない。
「でも正直、どのダイバーもそれくらいやっていますよね」
「とんでもない、そんなことダメですよ。会社の命令は絶対ですから」
相藤のうさんくささは半端ない。これに自分の命が握られているかと思うともう泣きたくなる。そしてお役所的というか、融通が利かないのは間違いない。
「どこでバレたんですか」
「最初からずっとつけていました。構成部の冴島主任の指示で。今回の案件を担当する宮森克己は大変な問題児であると」
「さえじまあああ」と叫びたい。なんでまたわざわざそんなことをするんだろうか。嫌がらせである。いつも生意気な態度をとる俺に対する嫌がらせなのだ。もう絶対、次にあの仏頂面をみたら、しばき倒す。だが、たまたまとはいえ、冴島が品質管理を俺に張らせなければ俺は確実にあそこで死んでいた。感謝もしとくべきかもしれない。でもしばき倒そう。
「とりあえず、助けてもらってありがとうございました。俺も早死は勘弁なので、ここからは会社の規則に忠実に行きますよ」
処分の対処としては、会社の規則を違反し、会社側に損害を与える、もしくは違反を自覚しているにも関わらず同じ問題行動を繰り返す、などが挙げられるが、克己は過去、このギリギリのラインを渡ってきた。一発レッドの行動は露見していない。今回はイエローカードというところか。
「ええ、それをオススメします。宮さんの品質に問題ないと判断されるまで私がベッタリと見守っていますから」
そう告げると、相藤はパフェの金額に足りない小銭を適当に置いて先に店から出て行った。
今まで、品質管理が自分に張り付くような事態は一度もなかったので、内心動揺はしているが深呼吸して気持ちを落ち着ける時間すら惜しい。島崎の言うことが全て事実ならば、松田の行方に関しては完全に振り出しなのだ。それに堤理恵子。昨日には佐久間が調べ上げていたことだが、松田の残したであろう電話番号の持ち主、契約者は堤理恵子だった。松田は堤理恵子と繋がりがある。そして、それを俺宛に残した意図が不明だ。やはり優先順的にも、追いやすく追うべきは堤理恵子な気がした。
頭を切り替えて席を立ち行動開始だ。しらみ潰しに理恵子の動向を探るのもよかったが、この一連の事件でまだ行っていない場所を先に行っておくべきだと思う。現場百回、ともテレビの刑事が言っていることだ。克己は痛ましい事故が起きた板橋の事故現場へ向かうことにした。
時刻は早朝、8時過ぎ。もう金輪際オフィスに向かう必要はないだろう。永遠に連絡が取ることはできない島崎と共に無断欠勤でもさせてもらおうか。

18
早起きをするようになった。早起きをしたら理恵子に会えるような気がしたから。気がしただけだったけど。
私はなんでこんなことをやっているのだろう。友人と呼べるかも曖昧な人物を探して、電車に揺られ、こんな場所まで来てしまった。私はこんな粘着質で執念深い人間だったろうか。まるで別れた男を忘れられずに、家の前まで来てうじうじとしている乙女のようだ。てか私は暇人なのか。あ、それは間違いないな。
理恵子はずっと車の事故について調べていた。ちんぷんかんぷんだったし、興味もなかったが、なんで理恵子がそんなことを調べているのかは気になっていた。調べていたのはモトハシという車メーカーの事故ばかり。私は遭ったこともないし、これからも遭いたくはないが、交通事故というものは世の中で溢れるほど起きている。誰かしらの過失であったり、不運な偶然であったり、要因は様々であろうが、その要因の中に車自体が含まれているなんて考えもしなかった。車というものは完全に安全なもので、間違いのないもの。その根底が覆されるようであると、世の中の大半が信じられなくなる。でも理恵子曰く、その根底が腐る場合があるんだ、と。
だが、そうであったとしても私になにが出来るだろうか。理恵子にはなにが出来るのだろうか。私たち個人はちっぽけだ。大きなうねりや社会の波を意図的に操作しようとする人間たちに向かって声を上げてもそれだけだ。その声だってきっと簡単にかき消されてしまう。何かを変えようとするには私たちはまだ小さく幼すぎる。
ちなみにこれは理恵子の受け売りだ。私は所詮、ただの不登校。自分のことで精一杯で自分を取り囲んでいる枠組のことまで考えている余裕はない。だけど、理恵子の言っていることはすんなりと受け入れられたし、納得もできた。いつか自分も理恵子のように難しいことを考えるようになるのだろうか、なんて呑気に思っていた。
でも理恵子は追いかけていた。私たちでは立ち向かえない大きな何かに隠されている闇を掴もうとしていた。何故だろうか。理恵子は誰かのためにそうしなければならなかったのか。
駅から随分と歩いた。閑散とした住宅街。お店というお店もしばらく見かけなかったが、なんだか長閑で住み心地がよさそうな場所。そこに鎮座する中規模の公園。ネットで落とした地図を確かめるまでもなく、そこにははっきりとした爪痕が残されており、目的地には迷うことなくたどり着いた。ひしゃげる、というレベルではなく全壊したガードレール。アスファルトにくっきりと刻まれたタイヤの跡。歩道からはみ出さんとする程の花やお菓子が供えられている。
理恵子はここに来たはずである。久しぶりに交通事故で大々的に取り上げられたニュースである。モトハシ社製のトラックが起こした事故、だというのは少し調べなくてはいけなかったが、調べる前からなんとなく予感はしていた。もちろん一歩も二歩も遅いのは分かっていたが、あれだけモトハシ社の事故を注視していた理恵子が現場を見に来ても決しておかしくない。
僅かな期待で足を運んでみたはいいものの急に心が沈んできた。なんだか亡くなった人達に対して申し訳ない気がする。私は遺族でも知り合いでもなく、大別するなら冷やかしに近いのだ。
踵を返して戻ろうかともしたが、さらにバツが悪い。見てしまったものは見てしまったのだ。諸々が供えられている場所の正面に近づき、合掌だけでもしよう。
ふと足元に紫の花束が見えた。大抵の花や供え物には「天国で幸せに」などのメッセージが添えられているが、その花束だけは申し訳なさそうに姿を偲んでいた。理恵子が供えたもののような気がなんとなくした。
合掌をする時は目を閉じるものだ。だから気づいた。こちらに投げかけられている視線に。香苗が振り返ると少し離れたところにはスーツ姿の男性がいた。こちらを見てハッ、としたようにも見えたが、既に視線はこちらにはない。男性は気配を殺して、こちらを通り過ぎていく。ただの通行人かもしれない。
でも、香苗は自分でも気づかないうちに声をだしていた。
「あの、すいません」
あの時、理恵子に話しかけた時と同じく。直感が私を動かす。

19
まだ午前中だというのに、日差しが強くなってきた。風が吹いていないので、厚着だと汗をかいてしまう様な陽気だ。
事故が起きた場所は板橋区役所のお隣に位置する板橋中央公園入口付近。緩やかではあるが、大きく畝ねるヘアピンカーブを曲がり切ったところで前輪が突如脱輪し、跳ね上がったトラックはガードレールを滑るようにして公園の植林樹に深く突っ込んでいった。その時に歩道を歩いていた親子を巻き込み、運転手は奇跡的に軽傷だったものの、親子は即死だったという。その事故自体の真実には虚偽はないだろう。全壊したガードレールとトラックが追突して、ダメージを受けた樹木、タイヤの無残な跡などもはっきりと示している。
歩道の傍らには犠牲になった2人の写真が置かれ、大量の花束、お菓子などが添えられている。たくさんの人たちに愛され、惜しまれてこの世を去ったに違いない。自分が追っている事故なだけに、感傷的にはなる。
現場には先約がいた。目の前にいる若い女性は被害者の知り合いだろうか。早朝だというのに、事故現場で合掌する姿はどこか似合わない気がしたが、変に勘ぐられても困るので彼女が去ってからゆっくりと調査をさせてもらおう。
不意に視線がこちらに向く。こちらの気配をできるだけ主張しないようにしていたつもりだったが、立ち往生しているのも奇妙だ。一度通り過ぎてから、また戻ってくることにしよう。
若い女性が慌てて目を逸らしたのを横目に歩を進める。近づくとかなり若い女性なのが分かった。堤理恵子か、と一瞬思ったが、全く顔立ちも雰囲気も違う。この板橋の事故の時期に家出をした堤理恵子とこの場所に来ればもしかしたら会えるかもしれない、などと甘い期待もほんのり抱いていたが、焦りすぎである。
女子大生より少し若い。雰囲気は落ち着いているが、服装や髪型は随分派手だ。だが、平日の昼間なので、普通の子ならば高校に通っている時間。もしかしたら、被害者の遺族や友人かもしれない。足元に見える花束は彼女が供えたものだろうか。観察していることを気取られないように、脇を通り過ぎる。通り過ぎた数秒後、緊張からか震えた声が後ろからかかった。
「あの、すいません。遺族の方でしょうか」
「いえ、友人、です。はい」
予想してこなかった展開のため、つい身構えてしまう。なぜ彼女は話しかけてきたのだろう。
『被害者は丸井亜希と丸井修也くんです』
「亜希さんの、古い友人でして」佐久間が上手くフォローする。
「あの、ここには何度か来られていますか」
「いえ、今日が初めてです」
落胆した表情。何かを期待していたのだろうか。
「そうですか、すいません、声をかけてしまって」
さらに妙な会話の違和感。急激に興味が湧いてくる。
「あの、あなたも亜希さんの友人ですか」
俯く女性、改めて顔立ちを正面から見るが、やはりまだ幼く垢抜けていない。高校生ぐらいに見える。今のところ、堤理恵子以外の若い女性が捜査線上に浮かんでいることはないが、思ってもみなかった繋がりがあるかもしれない。
「すいません。あの、私、探している人がいて。ここに来れば会えるかもって思ったんです」
自分の眼が見開いていくのを感じる。
「探している人、というのは」
「友達、です。理恵子という名前なんですが」
どうやら来た甲斐はありそうだ。右手でほんの少しだけ小さなガッツポーズをつくった。理恵子の学校の友人だろうか。大人しめでクールそうな理恵子とはアンバランスな気もするが、得てして一番の友人が自分とは真逆のタイプだったりすることもある。
自分の身分をどう偽るか考える。もちろん、企業スパイをやっていまして、事件の真実を知るために堤理恵子を探していますなどとは言えない。警察関係者が一番だが、それをやった瞬間にゲームオーバーだ。胃と島崎に蹴られたみぞおちが痛む。
「実は私、堤さんのお父さんから捜索を依頼されている探偵でして。宮内と申します」
無難なところだ。下手な嘘をついて警戒されるのも不味い。
「あの、探偵さんは理恵子を探して、どうしてここにいらしたんですか」
それはこっちが聞きたい質問だ。
「目撃情報があったんですよ。ちょっと情報源は言えないですけど。えっと、」
「岸香苗です」
「香苗さんはどうしてここに」
押し黙ってしまった。少しがっつき過ぎたか。こちらは手の内を見せてないのに、相手の情報だけ引き出そうとするなんて初歩的なミスを犯してしまった。だが、押し黙ったのはこちらを警戒していることとは違う理由のようで、改めて視線を合わせると香苗は口を開いた。
「理恵子とはその、友達なのかな、って。別に理恵子の家庭事情とかよく知らないんですよね」
「学校は同じところですか」
「いやいや、理恵子はお嬢様学校なので。私は馬鹿高校ですし。ていうか学校行ってないですし」
最後の方は声が小さくなった。馬鹿高校などと言っているが随分落ち着いた物腰で、勉強ができないだけで頭が悪いとは思えない。
母親の寛子は理恵子はあまり友達の多いタイプではない、と言っていた。変換すると、寛子から見て娘に友達らしき友達は見えていなかったことになる。対して、彼女は最初、友達を探していると言い切った。後から濁したとはいえ、つつくには充分すぎる相手ではないか。
事の詳細を教えて欲しいのを感じ取ったのか、香苗はこちらが聞かずとも話をしてくれた。やはり頭の良い子だ。
「香苗とはクラブで会ったんですよ。いや、私もあまりクラブとか好きじゃないんですよ。たまたまですけどね。そしたらなんか居心地悪そうに、クラブの隅っこでパソコンなんか開いている理恵子が目に入ったんです。おかしいですよね。なにしにクラブにきているんだって話です。最初は適当にあしらわれていたんですけど、理恵子に会いにそのクラブに何度も通っていたら、そのうちクラブ以外でも会うようになって。正確に言うと、理恵子がいるところに勝手に押しかけて気ままに話した、みたいな感じです。私は理恵子といる時が妙に楽で、はじめて友達ができたような心持ちだったんですけどね。あっちはどう思っていたのか。だから友達っていうのかは微妙なところです」
「それは、友達だと思うよ」
珍しく、克己は真っ直ぐ相手を見据えて言葉を投げかける。香苗はこちらの言葉をゆっくりと飲み込んだあと、ゆっくりと小さく頷いた。
「いつもの場所に理恵子さんが現れなくて心配になったということかな」
また小さな頷き。
「連絡もつかなくて。もしかしたら、ここに来れば理恵子と会えたりするのかな、なんて思って。あ、理恵子は別に事故の関係者とかではないはずですよ。ただ、色々と私の知り得る情報を整理した結果、でた結論というか」
友人を売っている気になってしまうのか、その辺は詳しく話すつもりはないようだが、想像はつく。堤理恵子はモトハシ社の事故を調査していた。そのことを唯一の友人である彼女には秘匿していなかったということか。
「これ」香苗が指す花束、克己は香苗が供えたものだと思っていたが違うらしい。
「確証ないけど、理恵子な気がするんですよね。なんとなく。いや、私ちょっと考えすぎですかね」
香苗の言うとおりだと思った。まじまじと供え物を見ると、この花束だけが違和感がある。あえて言うなら完全な他人の匂いがする。
もし、理恵子がこの花を供えたとして、堤理恵子が直接、この事故に絡んでいる訳はない。だが、この事故が起きた原因は自分の身内にあると理恵子は考えているのではないか。だから現場に来てまで花を供えた。論理が飛躍しているだろうか。
「1つ聞いていいかな。理恵子さんとよく会っていた場所はどこかな」
「うーん、クラブとか、駅前のロータリーとかで話し込んだり。どこかに行っても大抵混んでいるようなところなんですよね、なぜか。私は静かなところでお茶でも飲みたかったけど」
クラブもロータリーも人前の最たる場所だ。理恵子はあえて、そういった場所にいたのだろうか。混み合い、自然に人が人を見ている場所。逆に言うと、人が人を隠している場所。そして、理恵子の本心は分からないが、恐らく目の前の香苗は理恵子に利用されていた部分がある。
「じゃあ、もう一つ。理恵子さんと出会ったクラブの名前は」
「池袋のナイトベリー、という店です」
今の今まで、理恵子については分からないことだらけだった。誘拐や、拉致監禁、ただの偶然。様々な可能性はあった。が、確信できた。堤理恵子は自分で行方を眩ませたのだ。佐久間に調べさせていることが分かればさらに確信は濃くなる。克己は香苗に礼を言い、深々と頭を下げると足を駅の方向に向け、そして振り向く。
「ごめん、もう一つだけ。香苗さんは理恵子さんに会えたらなんて言う」
「心配かけやがってバカヤロー、って言って笑います。思いっきり」
克己は笑う。手を軽く振ってその場を後にした。歩き出した後も少しだけ克己は笑っていた。
20
わー、だとかうー、だとか。陳腐にも聞こえた群衆の叫び声は水の塊、そして一寸間を置いて、降り注ぐ嵐のような放水と共に、阿鼻叫喚の呻き声へと変わった。放水の勢いと共に辺り一面の煙は爆発的に膨れ上がり、視界の全てをその場にいた全員から奪っていった。そのことが理知と平常心を根こそぎ刈り取る。新宿駅東口改札前の広場はあっという間に地獄に変わった。完全に放水は過った策だったのだ。白く湧き上がる煙を火事と勘違いして、駆けつけた消防の放水で増幅され、混乱を深くする。
煙の中、もういっそ殺してくれとも思える程の、全身の痛み、痺れ、呼吸の乱れにも、克己は倒れ込めずに必死に名を叫んだ。「優」この煙で自分は死ぬのだろうか。自分がなにで死ぬのかも分からないまま、終わってしまうのか。
機動隊の拡声器すら全く意味を成さないけたたましい轟音の中で、ただ喉を張り上げる。
自分の声がでているのかどうかすら分からない。それでも叫ばずにはいられない。克己は恋人の名を何十回と叫び手を伸ばした。正確にはつい先程まで恋人だった者の名を。
もしお互いに生き延びることができれば謝ろう。今までのことを。許してもらえなくてもいい、これからがなくてもいい。一言だけ、寂しい思いをさせてごめん、と言うのだ。そんなことが頭をよぎると同時に克己の視界は暗転していった。
死者はゼロだった。病院に搬送された数百人は程度の違いこそあれ、後遺症も残らず、体調はすぐに元の状態に戻っていった。新宿駅前で起きたテロとも事故とも言われる近年稀に見る大規模なパニックは死者ゼロ、というニュースと共に若干の小康状態に入る。
病院のベッドの上で目が覚めてすぐに考える。この奇妙な事件のことを。一体なにが目的だったのだろう。愉快犯なのだろうか。偶発的な事故などでないことは幼稚園児でも分かる。犯人の意図はなんなのだろう。考えても材料が少なすぎてベッドにもんどりを打つ。
克己は優に自分の仕事のことを話していなかった。探偵を目指していた克己はヘッドハンティングの形で企業スパイ会社に就職することになった。でもそんなことを人には言えない。恋人の優にも。それがよく些細な喧嘩に繋がった。隠し事があると上手くいかない二人だったのだ。
気づく。可能性は低いかもしれないが、ない話ではない。現在自分が担当している案件を妨害しようとした人間のテロなのではないだろうか。大勢を巻き込んだ事故の体で自分を処分する。こんな仕事しているせいか、なんでもありな気がしてくる。
もしそうなら、そうでなくても優に謝りたい。隠していてすまない。もしかしたら自分のせいで巻き込まれたのかもしれない、すまない、と。
もう会社側からどんな処分を受けようと構わない。無性に今すぐ優に謝りたくなり、すぐに優が搬送された病院を探した。
だが、優はどこの病院にもいなかった。被害者の数が多いので、無差別に近隣の大病院に押し込まれる形となったわけだが、あの場にいた人間が搬送された病院の全てに優の名前はなかった。
優はあの煙の中で消えたのだ。忽然と。
克己は壁を叩いた。強く殴りつける気力もない。軽い音が鳴る。
テレビでは再び、事件の報道が加熱していた。大手保険会社の社員が事件の犯人を名乗り出たというものだった。


21
佐久間にはまた一つ発注をかけてもらった。クラブ、ナイトベリーで、堤理恵子らしき人物を他のクラブで見かけなかったかを聞き込んでもらうという発注。人海戦術が必要な聞き取り調査もうちの会社ならあっという間にやってのける。
発注の結果待ちがてら、状況整理をするために雑踏が巡る池袋の駅前の申し訳程度に設置されたロータリーのベンチにもたれかかる。堤理恵子はこのロータリーで何を思い、事故を追いかけていたのだろうか。全貌を知るにはあと一歩のところまできていた。
強い日差しは樹木に遮られ、軽い風が吹き抜けてきて、穏やかな気分にさせてくれる。昼の時間帯になろうかというところ、ちらほらとランチに人混みが膨れていく中、次に動けるまでは少しだけ時間もある。夜に備えて、とベンチに思いっきり背を預けて体を休めようとすると、ギシ、というベンチの軋む音と顔にかかる影。
「こんなところでサボりとは余裕だな」
構成部主任、冴島が真横に座っていた。昔から神出鬼没な奴だ。
こっちとしてはサボっているつもりはなし、ただの休憩。上司が真横に突然現れたからと言ってそれに飛び上がるような克己ではないが。少なくとも目は覚めた。嫌な予感で。
「主任自ら何の御用ですか」
「この件、手を引いて構わんぞ」
返答を返すつもりはない。冴島は続ける。
「佐久間からの報告を受けているが、あまり着地点が見えてこなさそうだ。松田の安否も怪しい。これ以上追っても意味はないし、お前自身と会社側が危うくなるだけだ」
「せっかくもう少しなんだ。やらせろよ。早ければ今夜で多分カタがつく」
木漏れ日を手にすかしながら克己が呟く。
「お前が潜った初日。ウチの上層部とモトハシの重役全体で極秘の会合があったそうだ。板橋の事故についての情報を抹消する代わりに、いくらかウチにも旨みがある話を、という取引の持ちかけだ。取引自体はまだ成立していないが、上からはこっちに警告が入っている。今回の潜入でモトハシが多大な損害を喰らうのはこちらもおいしくないと考えているようだな。取引が成立するまでは、厄介なことはするな、と圧力をかけてきた」
「そんなもの、お前がどうにかしろ」
「お前も上に目をつけられるぞ」
「今更だ」
2人は目を合わせようともせず会話をする。目的は違えど志が同じだから冴島も克己も今ここにいる。だが、立場の違いが2人の距離を大きく離していた。
「俺が受けた依頼は松田の安否と仕事の引き継ぎ。今回の一件の真実を明らかにすることだ。俺は真実まで何とか潜ってみせるよ」
「真実がなんだ。真実になんの意味がある。そんなものを知ったところで」
体を起き上げ、冴島の言葉を遮る克己。本心ではないからこそ頭に血が上る。
「じゃあ、家畜の豚みたいに何も知らないまま、何もきづかないまま、考えないままに、ただ都合のいいことだけを見て、忘れて、誰かに飼われていろとでも言うのか」
冴島は表情を崩さず黙る。ただ、その軽く握った拳には克己にではなく、己への葛藤からか熱を帯びているように見えた。
「俺は本当のことを知りたい。隠されたままの真実を次から次に見逃していったら、俺は優にはたどり着けないんだよ」
勝手にしろ、そう言って冴島は席を立った。克己は後ろから一言「頼む」と聞こえないように声を上げた。中間管理職であるあいつのことも考えれば、上からの圧力も相当きついはずだ。見逃してくれた冴島のためにも、早急にこの件を完結させる。
それに冴島は松田について最高のヒントをくれた。さすがは主任だ。
レッドウイング。同じ池袋にあるクラブ。堤理恵子を見かけたという証言を手に入れ、克己は足早に向かっていた。
クラブなど行ったことないし、スーツでは浮くだろうが、着替える時間はなさそうだ。理恵子に会えるなら今夜が勝負になる。準備を整える必要があった。堤理恵子と接触したらその足で会社に出向き決着をつけるつもりだ。今夜会うべき人物達に呼び出しのメールを送りつける。来ない訳はない。呼び出すために絶対必要なカードは既に持っているつもりだった。最後の一枚は今から拾いに行くのだが。
足早に人混みを抜けながら佐久間の報告を反芻する。佐久間に頼んでいた情報は克己の予想と全く違わないものだった。
堤理恵子は事故を起こして潰れた安田運送の社長、安田成行の娘だった。親がいなくなった理恵子を堤が引き取ったということだ。兄は消息不明。
推測の域を出ないかもしれないし、証拠はまだない。でもこの事件に根深く絡んでいるのはその兄妹だ。そして理恵子と兄は互いに連絡を取り合い続けていた。自分たちから幸せを奪った原因を探すため、そして2人が兄妹であることを忘れないために。だが警戒した。誰にも兄妹の繋がりが知られたくなかった。だから人混みで、人が大勢いる中でしか会うことをしなかったのだ。理恵子が探偵まがいのことをやるにもそれらの場所は都合がよかったに違いない。岸香苗は隠れみのにされた、と言っていいだろう。いつもの友人と会っているカモフラージュにすることで、誰にも悟られないようにした。堤理恵子がそれだけの感情で岸香苗と付き合っていたかは計りかねるが。
たどり着いた店先の看板は趣味の悪い紫のベッタリした色にパールもどきで飾られ、レッドウイングと書かれていた。どこがレッドなのだ。
クラブ内、まだピークの時間からは遠いのか、客数はそうでもなかった。音楽も少し控えめに流れている。証言通り、ずっと探していた彼女はそこにいた。奥のシート席で俯く少女。真っ直ぐと近づいていく。
「あなたが理恵子さんですね」
「はい」
顔をあげ、間も置かない返答に滲むのは覚悟だろうか。ただの若い女性ではありえない程の堂々と正対した彼女の瞳に映るのは警戒心と頑な決意に見えた。
逃げること自体は最初から諦めているのか、堤理恵子はこちらの提案通り、黙ってクラブを出て喫茶店までついてきた。夏はクーラーの効いた店内がいいが、年中通して外の景色を楽しめるラウンジでコーヒーが飲める店が克己はお気に入りだった。他の客もラウンジにはおらず、そういった気兼ねも感じなくて済む。
克己がコーヒーを運んでくる間も理恵子は俯くことも、戸惑うこともせず、じっと一点を見詰め何か考えを巡らせているようだった。
コーヒーのトレイをテーブルに置くと克己から話かける。
「とりあえず、前提としてね。俺は警察でもモトハシの人間でもないから」
「そうなんですか」
相変わらず表情をそう崩してくれはしないが、今の邂逅だけでも少し安堵の様子は見て取れた。まあ、つまり警察かモトハシ側の人間だと彼女にとっては一番外れだったということだ。間違いなく彼女は今回の案件の重要参考人。克己は事件のキー自体も握っているであろう彼女の挙動一つ逃すまいと集中する一方、警戒をなるべく緩和できるよう、多少柔和な素振りを心がける。
「何かこちらに聞きたいことはあるかな」
聞きたいことはこちらとしては山程あるが、狙いどころを絞るためにもまずは逆に彼女の意図を汲み取る作業に入る。思わぬ先制攻撃に利発そうな理恵子も逡巡していたが、
「父の様子はどうですか」
と少し予想外の返答が返ってくる。
「それは義理のお父さんのこと」
「実の父は大分前に亡くなっていますから」
自分でしていて意地が悪いとは思ったがおかげでとっかかりは見えたか。そして彼女は堤喜孝のことを父、だと認識している。もしくは認識しているように見せたい。
「堤さんは、まあ、大分まいっているよ。板橋の方で起きた脱輪事故は相当やばい。それに、10年前にある事件があった。それを墓場から掘り下げる輩がいて、立場上2重3重に苦しいと言える」
「あなた、先ほどモトハシの人間じゃないと仰りませんでしたか」
「俺はモトハシの人間じゃない。でも今は堤さんの近くにいる人間ではある。そして俺がどこの誰かは絶対に言えない。俺の命に関わってくるからね」
気配すら感じさせないが、相藤という死神が俺を張っているのは明白だ。規則を堂々と破ろうものなら一瞬であの世行きな気がする。
「でも一つ言えるのは、俺は今回の板橋の脱輪事故、安田運送から始まる一連のリコール隠し、誰かしらの目的で隠され続け、複雑に絡み合ったこの一件の真実を追っている。警察じゃないから、誰かを捕まえることもしないし隠蔽や妨害も望んでない。ただ事実が知りたいだけだ」
「新聞記者さんですか」
「俺がどこの誰かは言えないって」
返答がわかった上で、こっちの表情や仕草に探りを入れているつもりだろうが、10年早い。まあ、向かい合う相手の男が企業スパイだなんて発想はでてこないだろうが。
会話が途切れても彼女はこちらを探る様子を隠さず、警戒心が緩んでいる様子も見られない。
克己も次に打つ一手を決めきれず、2人の沈黙とコーヒーカップが風に揺られる音だけがラウンジに流れる。
「板橋の事故現場に花を添えたのはあなたですよね、あれはなぜですか」
突発的な。考える前に口にでた一言だったが、何故かこれが今のベストの問いかけな気がした。
「それはあの事故が、父にも責任があるかもしれないと思ってしまったからです」
さらにストレートに疑問をぶつける。
「あなたが信じる真実はなんですか」
理恵子は出会ってから初めて俯いて言葉を絞り出した。


22
潜入する側としては楽なのに越したことはないが、何度でも思う。一流企業なのだからセキュリティくらいはまともにしておいて欲しい。以前にもダイバーが潜って合併がリークされたこともあるのだから尚更だ。本当に危機意識が低い。こんなだからリコール隠しなんていう事態を招くのだ。悪態をついても仕方がないが。理恵子の話を聞いた後、克己は再びモトハシ社内に最後の潜入を試みていた。
克己はいつものフロアではなく、重役フロアと言われる階層に降り立つ。取締役のための部屋が整然と並び立つそのフロアはさすがに全ての部屋に鍵がかけられており、部屋の前には監視カメラも設置されている。鍵も二重鍵でいつものよりは若干面倒がありそうだ。だが、一瞬で抜け口を思いつく。
監視カメラの視界をかいくぐり、唯一鍵も簡素で監視カメラが睨まない会議室に手早く入り込むと、重たい窓を開け放つ。風が吹き込む音が室内に流れ込んでくるが、お構いなしだ。克己は窓伝いに隣の部屋の窓の位置を覗き込んだ。充分行ける範囲だ。壁にワイヤーフックを取り付け、滑るように隣の窓の真下まで移動する。最初の頃は落下して死ぬのが怖くて、嫌でしょうがなかった手法だったが、修羅場をくぐり抜ける内に自分で手綱を握れることは何も怖くなくなった。窓の真下で数十秒の作業。電子ロックなどと大層なものはなく、普通の泥棒の手口で窓はすんなり開いた。警報関連のトラップも仕込まれている気配はない。
部屋の中に体をねじ込み、ワイヤーを回収すると部屋の中を見渡す。机と椅子、小さな応接セットがあるだけで、調度品も書類もない。ただの空室だった。当たり前である。空室なのはもちろん分かっていた。現在モトハシ社内は取締役の席が一席空席となっている。よってこの部屋は使用されていない部屋なのである。これも佐久間に調べさせていたことだ。
克己はコートなどを仕舞う一人用の小さなクローゼットの前に立ち、ためらいもなく扉を開け放った。
「おはよう。たっぷり寝られたか」
そこには克己の同僚が縛られ、口を塞がれている状態で監禁されていた。
克己は松田の拘束紐を解き、口のテープを解放して、水を渡してやる。克己は机に腰をかけて水をガブ飲みする松田を見据えた。一息ついてようやく口を開く松田。
「さすが。来てくれると思っていたよ。一応、メッセージを仕込んでおいてよかった」
「腹も減っているだろうが、飯を食う時間はないんだ。一緒に来い」
静寂が二人の間を支配した。松田もこちらの眼をじっと見ている。
「どこまで掴んだ」
「全部」
少し、驚きの表情を見せる松田。昔からこいつは顔に感情が出やすい。軽く息を吐いて克己が再び沈黙を破る。
「と言いたいところだけど。今夜集めた面子に確認しなきゃいけないことが多々ある」
「そうか」諦めたような物言いでも、松田の眼は鋭い。
「どうやってここに俺がいると睨んだ」
「正直、潜った序盤は全くお前の所在は分からなかった。生きているのかどうかも。でもお前は生かされているに違いないと確信した。そしたら露木の部下にとってはここが都合のいい隠し場所だと考えたわけだよ」
「なぜ生かされていると確信した」
「お前は堤喜孝との取引の道具に使えると踏まれたからだ」
「馬鹿げている」
松田は吐き捨てるようにすかさず返してきた。やはり顔に出やすい。困惑と怒りが入り混じっている顔。
「お前を拘束した奴。今夜、そいつに聞けばいい」
押し黙る松田。
克己は松田の肩を軽く叩き、背中越しに一言だけ声をかける。
「行こう」

23
泣いた。安田が死んだと聞いた時ではない。安田が死んだ意味を知った時、堤は溢れ出るものを堪えることが出来なかった。
「すぐに試作品を処分するように手配しておけ。まだ間に合う。全て証拠は消すように」
社長の懐刀なんて言われているがそれは違う。俺は鎖で繋がれているだけだ。それをあの男は自分を何でも自分に意見し、間違いを正す存在が傍にいる様に周りにアピールしているだけなのだ。実際には自分がどれだけ異を唱えようと意味などない。
あの日、安田が俺に怒声を浴びせた日、その主人に恥を忍んで頭を下げた。
「一度だけ私の我儘を聞いてくださいませんか」
天井から笑い声が降ってくる。何が可笑しいのだろうか。自分の楔のように見せかけていた道化が、意思を持ち自分に何かをお願いしている、それがあの男には奇異でたまらないのだろう。
「いいよ。お前の好きにすればいい」
そんなことどうでもいいと言わんばかりに。これは俺の只の気まぐれだと言わんばかりに、男はこちらの願いを快諾してくれた。自分の僅かなプライドが傷つけられたことも、目の前の男への苛立ちも些細なことだった。親友と呼べるあいつを助けてやりたかった。その位のことが出来なくてなにが親友か。親友のあいつは俺に娘の名前をつけさせてくれた。
「娘が産まれてくるなんて思ってなくて、全然考えてなかったんだ。なにかいい名前はないか」と聞かれ真剣に悩み、名付けた。自分と妻には子供が産まれなかったから、大いに楽しんで悩んだことを覚えている。
すぐに電話をかけた。試作品であるトラックを2台、無償で貸す。モニターとして車の性能や乗り心地をこちらに報告さえしてくれれば問題ないと告げると安田は何度か受話器の向こう側で頭を下げたようだった。
安田からあがってくる報告は素晴らしいものばかりで、部署一同、E―371の成功を確信した。安田自身も地道に小さい仕事を重ねることで、経営が上向きになっていたようだった。しかし、二人で祝杯のようなものをあげようなどと話していた時だった。それが起きたのは。
E―371は長距離の走行に耐え切れず、高速道路で車体の破片と悲鳴を撒き散らしながら横転した。被害者のこと。自分たちのこと。会社のこと。ぐるぐると悪夢が巡る。堤はそんな中、手を伸ばし安田に電話をかけたが、安田が電話に出ることはなかった。
安田の葬儀で線香をあげる列に並んでいる最中、前の連中の話が聞こえた。
「事故が起きてすぐに首をくくったらしいな」「自分の責任だってすぐに分かったんだろうな」
E―371は試作品とは言え、完成モデルとして渡したものだ。毎日の整備はある程度必要とは言え、半年で整備不良によって事故が起きるはずはない。この事故は十分なテストを重ねないまま、自分を過信して、救世主気取りで手を差し出した自分の責任なのだ。だが、安田は俺のためにすぐに自死を選んだのだろう。自分が即刻死ぬことで、世間は運送会社の問題だと認識する。安田は俺をかばったのだ。
自分にできるのは安田の気遣いを享受することだけだった。今更、車の不備を暴いたところで事故は起こらなかったことにならない。安田は帰ってこない。自分が茫然自失としている間に隠蔽も進んでしまった。自分にはもう何もできないことを、そして安田が全てを捨てて自分を助けたことを知って涙はいつの間にか流れていた。
堤は線香をあげることも出来ず列を離れ、涙が枯れ果てるのを待った。
列の先、安田の遺影の横に子供達が見えた。遠目で顔ははっきりと分からないが、すっかりと成長した青年は安田の長男だろう。そして横には自分が名づけ親となった理恵子が。
理恵子と俊一はこれからどうするのだろう。親戚はいるのだろうか。考え始めたら止まることはなかった。安田の親戚はどこも高齢で、収入的にも余裕はなく、理恵子を養うことに躊躇していた。その話を聞きつけると、堤は安田の姉に頭を下げて、理恵子をもらい受けることを頼み込んだ。あちらとしては願ったりかなったりではあるが、理恵子の兄がかなり強く反発しているらしいと聞き、「当然だろうな」と肩を落とした。
顔を突き合わせたことはないが、長男の俊一も父を慕っていたという。少し考えれば怒りの矛先は俺に向いて当然だ。それでも退くわけにはいかなかった。それが例え偽善でも、自己満足でも友への贖罪でも構わない。安田が残した子を俺の人生の全てを使って幸せにするべきなのだ。
何度かの交渉の後、ある時あっさりとこちらの願いは受け入れられた。兄の俊一は自立できる歳なので就職をして独り暮らしをする、ということだが妹の理恵子はまだ幼い。
「これから君の両親だと思ってくれ」そう告げた堤の両目には涙がこぼれ落ちんばかりに溜まっていた。理恵子がそっと手を伸ばし俺の視界は滲む。思わずギュッと理恵子を抱きしめると今度は理恵子の頬から流れ落ちる冷たい雫が自分の頬を濡らした。
散々悩んだが結論は変わらなかった。モトハシ自動車を去ることはせず、同じ職場で働くことを選んだ。金銭的なこともあったが、何より友を失うきっかけを作った自分を許せない。二度とこんなことが起こらないために尽力すべきだと感じたのだ。
社長の采配でカスタマー統括などという部署に配置替えされたが、やれることはある。自車のクレームに目を光らせ監視を怠らない。そのために社長に頼み込んで優秀な人材を登用した。社長にはまた一つ借りができてしまったが、こちらも事故を隠蔽した貸しがあった。
日々の仕事。家族の営みと並行して堤は時間を見つけては会社には秘密裏に回収したE―371の不具合を確認した。誰にもバレることがないように、会社の片隅に放置された体育館に車両を運び込み、開発部時代の知識と経験を活かし、長い年月、繰り返し検査を行う。事故の原因をはっきりと知りたかったのだ。体にオイルの匂いが染み付いてきた頃、堤は一つの結論にたどり着こうとしていた。
E―371に欠陥はない。
E―371はモトハシの顔になれるように、いつか全国の流通をまかなえる日がくることを想定して資金も潤沢に投入して設計されたモデルだ。何度確認しても穴はなかった。
誰にも言えず、途方に暮れる気持ちを押さえながら過ごした数年後。決して来ないでくれと願っていた日はやってきてしまった。
理恵子が実の父親の事故のことを調べ始めたのだ。会社の資料を自宅に保管していたのはまずかった。会社に送られているFAXは牽制やかき回しのつもりだろうか。理恵子がやっていることだと自分にはすぐに分かった。だが自分たちの会社と社会を守るためなら、少数の人間の尊厳など厭わない連中が上にはいる。もし、理恵子が事故のことを掘り出して告発などしたらどうなるのだろうか。いてもたってもいられなくなった堤は人づてに辿って、専門の人間の助けを借りることにした。
発信音が耳の中で響く中、祈る。
「理恵子だけは絶対に守ってくれ神様」

24
まだ島崎の死体があったらどうしようと不安になったが、さすがはウチの品質管理。きっちり証拠は消していた。E―371が眠る体育館は先日と同じく、静かで月明かりが眩しい程差し込み、神聖な場所であるかのようにすら感じられた。
松田は煙草をくれとせがんだが、こっちも残りの一本だ。くれてやる煙草自体がない。一言たしなめると以降は余計な会話をしなかった。松田には今夜集めた人物達が全員到着したら話す、と釘を刺しておいてある。既に主権はこちらにあることを松田も理解しているからこそ、何も口出しはしなかった。
最初に現れたのは堤理恵子だった。佐久間に発注をかけてもらい、モトハシの社員証を偽造して渡し、ここまでのルートも伝えてもらってある。目を合わせようとしない。自分にも松田にも。黙って克己の傍にあったコンテナに背を預け、目を閉じた。
「堤の娘か」という松田の問いかけには無愛想に「ああ」とだけ答える。
30分後、今度は堤喜孝が現れた。堤は厳しい顔つきをしていた。まるで刺し違えるのを覚悟の侍だ。こちらは刺し違えたくは全然ない。
「理恵子」
理恵子の姿を確認し、声をあげた。父親の声だった。ようやく堤という人間が見えた気がする。理恵子は小さく頭を下げて謝る。堤はそれ以上何も言葉にだそうとはしなかった。
4人が月明かりの下、揃った。主催者である克己が場の静まり返った空気を打ち破ろうとすると、少しだけ陰っていた月が、雲が完全に通り過ぎたことで室内をより明るくする。E―371が姿を現した。先日の島崎との戦闘のまま、シートは完全に剥がれており、白く艶のある車体までもが今夜の参加者であるような存在感を示している。
「こういうのは苦手なのですが仕切らせてもらいますね」
「理恵子を連れてきたのはお前か」
仕切らせてもらう、といったばかりなのに堤がお構いなしに問いかけてくる。
「娘さんの安全のため、とは言いません。でも、今ここで全てを明らかにすることは理恵子さんにとっても大切なことです」
理恵子に視線をやる堤。
「私がお願いしたの」と言う理恵子に堤は今度こそ黙った。
「あらためて。私がどこの誰かは言えません。死んでも。でも目的は言えます。私はここにいる松田と同僚です。同僚の松田がモトハシ社内での仕事中に失踪した情報を受け、松田の安否を確認すること、そして松田の仕事を引き継いで終了させることが仕事です」
「ならその仕事は終わりだな。その男の安否は確認できたということだ」
「いえ、松田の案件はまだ終わっていませんから。そして終わらせるためにこの場が必要だったんです。松田、お前の口から教えて欲しい。お前が発注を受けた依頼の内容を」
松田が中空を見上げた。短い深呼吸。ここでも全てを誤魔化して、有耶無耶に話を切り上げることも不可能ではない。だが、松田は克己のダイバーとしての力量を信頼していた。もし克己が理恵子にとって一番いい、と思う判断をしたならば。
松田はゆっくりと口を開いた。
「堤喜孝さんからの依頼を受けた。依頼内容は娘を助けて欲しい、というものだ」
「それは俺たちの本来の仕事内容からは逸脱していないか。俺たちは個人の探偵や何でも屋じゃない。なぜその仕事を引き受けた」
堤は松田をじっと見据えていた。だが、ここに入ってきた時の敵意はその眼からは見えない。
「モトハシからの仕事連絡が入ったことを聞きつけ、俺は飛びついた。俺は長年、モトハシに潜れる仕事の機会を伺っていたんだ。だから。俺にとってはどんな仕事でもよかった」
「それだけじゃないだろ」
克己以外の3人が息を呑む音が聞こえた。
「堤さんの依頼は娘を守ってほしい、というもの。それはつまり自分の実の妹を守る仕事だった。だからお前は会社が本来なら受けない仕事を無理やり引き受けた」
その場にいる誰も驚く顔すら浮かべなかった。理恵子はともかく、堤すら眉一つ動かさない。
「驚かないんですか」松田が俯きながら、堤に問いかける。堤は松田の言葉を丁寧に飲み込むと、理恵子、と名前を呼んだ時と同じ父親の声で言葉を返す。
「顔をしっかりと見ることができたのはオフィスに来た時だが。でもすぐに気づいた。君が俊一君だと。理恵子とは余り似ていないが、君は父親そっくりだよ」
「そうですか」と松田。そこに感情は読み取れない。感動の対面だけで終わらすつもりは毛頭ない克己は再び始める。
「きっかけはともかく、理恵子さんは10年前に起きた自分たちの実の父親、安田運送が引き起こした事故を調べ始めた。それを察知した堤さんは娘が会社の人間に危害を加えられるかもしれないと踏んだ。だから同じ穴のムジナに頼んだ。モトハシに潜り込み、10年前の事件を掘り起こしている輩が別にいるかのように見せかける必要があったんだ。理恵子さんが送ったFAXとは別のFAXがある。板橋の事故についても記載があるものだ。松田自身が仕込んだものだろう。これは俺の推察だが、板橋の事故以前にも理恵子さんが送った内容と同じようなFAXを社内の広範囲にわざと散らしたんじゃないか。会社の悪党どもの目をこちらに向けさせ、その間も理恵子の動向に目を見張り、理恵子さんに気づかれないように本人が納得できる真実に誘導をすること。それが堤さんの依頼。違いますか」
「ああ、そうだ。しかし捻じ曲げた真実を渡すつもりはなかった。ありのままの真実を娘自身の手で掴んでくれれば、と考えたんだ。その結果がどうなるかまでは想像もできなかったが。だが少なくとも、その邪魔をする者がいないようにしたかった」
「ありのままの真実。あなた自身は真実に辿りついていますか」
克己は腹の底からぐつぐつと湧き上がるモノを堪えきれず、堤にぶつけてしまう。都合のいい真実をつくっている人間達がいる。そいつらのせいでこの3人はこんなにも捻れてしまったのだ。
「あんたにとって都合のいい真実だろう。それを理恵子に押し付けてめでたし、めでたしのつもりか」松田が剥き出しの敵意と鋭い視線を堤にぶつける。
「あんたは理恵子を失わないために、自分の起こした事件のことを消し去ろうとしたんだ。まるで父があんたにすがったせいで事故が起きたかのようにな。父だって車が欠陥品だとしたら、そんな簡単に自死を選ぶようなことはしない。俺たちの父親はそんな弱い人間じゃない」
堤は何かを言おうとして口をつぐんだ。言い訳でも嘘でもない。何か心に秘めなくてはいけないものをまたそっと胸にしまうように。
「話は変わりますけど、堤さんが理恵子さんの家出に対してドライだった理由を推測してみたんです。あんな風に楽しそうに家族写真を撮る程、仲のいい娘の身を案じない理由を。松田と堤さんの間には約束事があったんじゃないかって」
「約束事」
理恵子がこの場に来て初めて口を開いた。その声は不安と戸惑いで揺れて聞こえる。
「もし、理恵子さんの身に危険が迫ったら、松田の判断で理恵子さんを雲隠れさせるとかね」
二人の沈黙が答えだ。理恵子が家出という名の保護を受ける可能性を堤は分かっていた。あの電話での警察に対する態度はそういうことだ。警察に本気で捜索をされては困る。やんちゃな娘のいつもやる軽い家出くらいにしておいた方が無事でいられると考えたのだろう。
「でも理恵子さんと松田の間にあった約束事とは少し内容が違う」
こちらは理恵子から直接話を聞いている。咄嗟に理恵子に首を向けた堤に対して話す。
「もし、俺と連絡が取れなくなったら堤の家をでろ。俺とお前の安全のために」
理恵子は絞り出すように堤に言った。「ごめんなさい」理恵子はもちろん家出に抵抗がなかったわけではないが、兄の安全が大事だと指示に従ったのだ。
松田は我慢できず声を張り上げる。「うるさい」自分の中で真実が一番歪んでしまったのは松田なのかもしれない。目の前で起きていること、話されていることから導かれる真実にダイバーだからこそ気づいた。それを認めたくなかった。
「堤、あんたは俺と契約を交わす時に約束したよな。この案件を成功させるためなら自分の命を使ってもいいって」
「お父さん」理恵子が悲鳴に近い声で堤に近寄る。
「理恵子、こいつは父さんじゃない。俺たちの父さんはこいつに殺されたんだ。こいつの作った車に。それをこいつは隠蔽して、何もかもを消し去ろうとした。あんたは板橋の事故だってまた全て闇に葬りさろうとしたんだろう。だから俺はあんたとモトハシにいつか復讐してやろうって。それで俺は、俺はずっと生きてきたんだ。事故の告発文と資料をばら蒔いてあんたには死んでもらおうと思っていた。そう思っていたんだ」
堤は松田の前、膝をつき、体を折りたたんで頭を地面にこすりつけて声をあげた。「すまなかった」
「うるさいんだよ」松田はもう怒りの矛先をぶつける場所すら失っていた。理恵子は顔がくしゃくしゃになるほどの涙で顔を濡らしている。
「この人がそういう人じゃないのは潜っていたお前が一番気づいているだろう」
潜った先の人間性に触れて、心を読み解いて真実を探す。松田はそういう優秀なダイバーだった。
「幸運にも。いや、そんなんじゃないな。偶然、堤さんが依頼をしたのは理恵子さんの実の兄だった。そしてもう一つ。このタイミングで本当のリコール隠しが起きてしまった。板橋での脱輪事故だ。堤さんは会社の手前、隠蔽作業を指示しつつ、告発のための準備を進めていましたね。時同じく、板橋の事故が過去にも関連があるんじゃないかと考え、迂闊に潜りすぎた松田が監禁された」
やっと堤が顔をあげ、理恵子の支えで体を起こす。
「隠蔽しようとしている人間の資料のまとめ方じゃないんですよ。あれは。板橋の事故と共に10年前の事故も、理恵子さんの件が落ち着いたら自ら告発しようとしていたんじゃないですか。そしてカスタマー統括部に優秀な人材が多い理由。最初は隠蔽要員かと思ったんですが、逆ですよね。隠蔽するような事故が起きないためにユーザーの声をダイレクトに届ける部署に人材を集めたんですね」
もう誰も異を唱えるものはいなかった。もつれた糸が解けていくのを感じる。松田は力のない瞳で理恵子を見ていた。「お前はいいのか」と。
「松田、理恵子さんは信じていたんだ。義理の父親である堤喜孝を。いつも懸命に自分のことを考えてくれている父親のことを。父は悪い人間ではない、何もかもを隠そうとしているんじゃない、ほんの少しの疑惑を胸に抱えつつも、義理の父である堤さんの無実の証拠を探していたんだ」
理恵子は相変わらず堤を支えている。だが、目の前にいる兄の俊一のことも抱きとめるように言葉をかける。
「私は兄さんを説得したかった。お父さんはそんな人じゃない。昔の事故のことは実の父さんにも責任がある。お父さんにもないわけじゃない。でも、それを全部放り出してなかったことにするような人じゃない。お父さんは兄さんのこともずっと探していたんだから。兄さんと私にいつか謝ろうとしていたの。私、それを知っていたから」
松田は見誤ってしまった。自分の怒りと復讐心に身を任せ、目の前の真実から目をそらして、自分だけが納得する真実を追ってしまったのだ。自分はこうならないと言い切れるだろうか。克己は自分の心臓にもチクリとした痛みを感じていた。
今度は松田が立ったまま、手を膝について深々と頭を下げた。
「妹を育ててくれてありがとうございました」
松田を救出した時から感じていた松田の刺すような気配はもう無くなっていた。
『一件落着ですかね。問題はどう会社に報告するかですか』
「まだ終わってないんですけど」
佐久間の横槍に冷たく返す。まだだ。まだ大事なことが終わっていない。浮上しなければ意味がないのだ。
「荒井さん、やっぱりあなたいい匂いがしますね」
和解の雰囲気に水を刺すように克己は声を荒げる。
とっさに松田は理恵子を腕でかばいながら周りを見渡し、入口に警戒を強める。だが返答は全くの逆方向からだった。
「よかったですね。生き別れの兄弟が感動の再開。実の父を殺した義理の父とも誤解が解けて、三人は仲良く暮らしましたと」
「話聞いていたか。生き別れの兄弟じゃないんだけど」
「全然。だって興味ないので」
最初から彼女はそこにいた。克己はかすかな匂いから自分たちより先にここに潜んでいることは分かっていたが、最初に介入されると厄介極まりないので放置しておいた。奥のコンテナの影から姿を現したのはカスタマー統括部の荒井だった。最初に案内を受けた時のおどおどした様子とは随分違う。女性は皆2つの顔を持っているとは言え、これでは詐欺だ。
堤と松田、理恵子が後退りをすると、克己を含めた4人が荒井と対峙する形となる。
「堤さんには娘さんが来る、あんたには堤と会えるぞ、とメールした。来てくれると思ったよ」
「シンプルな男って嫌いじゃないわよ。その一言があれば、こちらを逆撫でするには十分だもの」
落ち着き払っている。島崎のように饒舌過ぎるわけでも松田のように感情的でもない。経験上、こういう相手は手強い。
荒井が噛んでいることに気がついたのには理由がある。まず第一に、島崎は「俺たち」と言っていた。露木には2名以上の間者がいる。潜っているのは島崎と同じくカスタマー統括部だろう。だからメールを統括部全員に送った。「体育館で堤と会えるぞ」このメールでここに来る人間が怪しい輩というわけだ。関係ない人間には意味不明の内容だ。それに館内で感じた僅かな香水の匂い。これでピンときた。
もう一つ、確信に近い理屈もあった。克己が潜った初日、社内を案内していた荒井は重役フロアに人がいない、と言い切った。冴島が言っていた、極秘の会合をなぜ荒井は知っていたのか。答えは簡単だ。荒井は重役オフィスに出入りしていたから。松田の監禁場所もそこから当たりがついた。
ここまでは予定通り事が運んでいる。だが長い時間をかけると状況が不利に働くだろう。
「すいませんが、自分の言うことに絶対に口出しをしないでください」
克己は堤達に声をかけると、すぐに本題を切り出した。
「取引をしたい。ここにあるE―371を渡す。それと堤さんがまとめていた告発文もだ。だから、はっきり言うと俺たちを見逃して欲しい。露木専務の子飼いのあんたとしては悪くないはずだ。E―371があれば10年前の事故の証拠として社長を糾弾できるし、露木専務にとっては頭の痛い板橋の事故が告発されることもない」
先程までの堤の正義を踏みにじるようなことをしているのは分かっているが、俺たちの存在は完全にバレている。松田を監禁していたのもこいつだ。堤の告発の気配にもいち早く気づき、告発の握りつぶしと松田の身柄の交換を切り札にしようとしたのだろう。堤は断れなかったはずだ。松田は親友の息子。二度と親友を裏切れない。
「嫌です」
硬直して、息ができなかった。交渉内容に自信はあったが、なぜこうまであっさりと切り捨てるのだろう。こちらを全部処分してしまえば済むとでも思っているのか。松田と俺、理恵子はともかく、堤は社長の腹心とされている。だからこそ迂闊に手をださなかったはずなのに。
「なぜ」そう聞くのがやっとだった。後ろの三人も状況が完全に飲み込めたのか、緊張がひしひしと背中に伝わる。
「私の雇い主は露木専務ではありません。正確に言うとそうでもあるんだけど、露木の下で忠実に働いているように見せながら、本橋社長に情報を流すように指示されているので。格好良く言うと二重スパイなわけなのですよ」
ここに来てのどんでん返し。完全にしてやられた。しかし相手が変わっただけで交渉内容はさほど変える必要はないはずだ。
「E―371を廃棄してもらって構わない。告発文はそっちの自由に使えばいい。これなら」
こちらが言い終わる前に、克己を制して荒井が冷たく言い放つ。
「だからダメだって」
全く取り合うつもりがないのか。
「私は社長から指示を受けているの。会社の利益を損なうような動きをしている連中は全て消すようにと。E―371は出来れば回収してこい、とは言われているけど。面倒くさい」
どういうことだ。荒井は今、自分は社長側の人間だと言った。それなのに、なぜ過去の過失の証拠を残すと言うのか。その疑問を打ち払ったのは堤の声だった。
「E―371に欠陥はなかった。どれだけ何度調べてもそんなものはでてこなかった。あの事故はやはり、仕込みか」
松田と理恵子が顔を見合わせる。克己は鈍器で頭を殴られたような衝撃を受けながら、舌打ちをした。その可能性は外していた。
「露木の馬鹿が仕込んだのよ。貸出をした1台に細工をした。普通なら絶対に壊れるはずがない
パーツの一部を耐久性が低いものに差し替えて。事故は起こるべくして起こった。ただ、計算外だったのは運送会社の社長がまるで自分の非を認めるように速攻、首をくくったことね。その社長さんが、徹底的な抗議でもして事故が詳しく調べられれば、責任者の社長の首はとんでいたと思うけど。だからね、そこにある巨体は社長の弱みじゃない。露木が細工をしたことの証拠に成り得るものだったの」
松田が拳をギリギリと握り込むのが分かった。ただ、ここで子飼いの一人をぶん殴っても何も解決しない。ますます窮地に追い込まれるのは明白だ。
「ホント、馬鹿ばっかりで嫌になっちゃう。自分たちの権力闘争のために会社全体を遊び場にしてさ。こんな会社あっという間に潰れるわよ」
「そりゃあそうだな。この会社に未来なんてない。折角の傑作だったE―371を私利私欲のために潰すような真似をする輩が専務をやっている会社に先なんてない」
激しく同意、という様子で頭を振る荒井。
「まあ、会社の損益を考えて、板橋の件は隠蔽で万事解決とする辺り、社長のほうがマシかもしれないけど」
なにがマシなもんか。人間としては終わっている。
「あんたも会社の一員として、この腐った会社を立て直すために立ち上がろうとかの発想はないものかね」
「私、ただの企業スパイなんで、そこまで面倒みるつもりはないですけどね」
最後の望みも潰された。薄々感じていたが、荒井は同業者だ。完全な会社の他人。依頼された仕事をこなすためなら、他のことはどうでもいい。自分と同じだ。
「社長の依頼はただ一つ。会社の不利益になるものは全て消せ。誰の責任だろうと関係ない」
荒井はスタスタと入口に向かって歩いていく。誰も止められない。なぜ、この場面でここをでようとする。気づいた時には手遅れだった。
「さようなら宮森さん。また会えたらいいですね」
ダン、という音が空気を振動させると2発3発と何度となく鼓膜を揺する。入口付近からはじまった爆発はあっという間に唯一の入口を塞ぎ、火の手をあげて、館内を取り囲んだ。荒井の姿はもう見えない。
「松田」叫ぶ前に、松田は動いていた。理恵子を堤に預け、搬入口とは逆方向に走る。ドアを蹴りつける音はむなしく、やはり正面玄関は厳重な鍵のせいで開く気配はない。
克己は手近にあった廃棄のロッカーを持ち上げ、思い切り搬入口に叩きつける。爆発でひしゃげた扉は本当に僅かだが、空気が入り込む程の隙間を空けた。扉の前までたどり着ければもしかしたら隙間から体をだせるかもしれない。
だが炎の勢いは急激だ。荒井は事前にここに来て仕込んでおいたに違いない。全てを燃やし尽くすために。爆発物の匂いには普段から敏感なはずだが、あの香水に気をとられた。
「他に出られるところはないのか」
この館内のことなら堤が一番詳しいと聞いては見たものの、見る限りいい返答はなさそうだ。ギャラリーの大窓から飛び降りてもいいが、ギャラリーに行く階段自体が火元の一つとなっているのか、とても突っ切れそうにない。
「車の中に小型の消化器が」
克己は堤の声を聞くと飛び出した。まだ車体は火に包まれていない。車の燃料に引火すれば一貫の終わりだ。克己は助手席に取り付けられた消化器を手早く取り外して祈るように搬入扉に向かって噴射をした。
消化器は当時のままだ。消費期限が切れている。最初こそ勢いよく噴射されたがすぐに底をつく。「くそ」言いながらも、活路は見えた。僅かにだが火の勢いが弱まる。克己は堤と理恵子を半ば強引に搬入扉前の炎に飛び込ませた。二人なら火の勢いが弱まる前に脱出できるかもしれない。だが、4人は無理だ。松田と俺は別のルートしかない。克己は脱出経路を五感をフルに使って探す。
松田が理恵子たちに続こうとするのが視界の端に見えた。思わず腕を掴んで止める。自分の脱出よりも二人の無事を優先しようとしているのだろう。止める権利はない。だが、まだ一つだけ克己は聞かなければならなかった。
「澤オペレーターを殺したのはお前だな」
「ああ」
「お前が直接手をかけたわけじゃない。でもそうなると分かっていて、澤に板橋の事故を調べるように仕向けたな」
「そうだ。澤も覚悟していた」
「馬鹿なこと言うなよ。お前は自分の目的のために相棒のオペレーターを犠牲にしたんだ」
「ああ、本当に馬鹿な奴だよ」
松田は克己の手を振りほどくと、迷いなく火の中に飛び込んでいった。
松田の顔を最後に見たかった。自分の目的のために信頼できるパートナーすら犠牲にしたあいつの顔を。
克己は松田を振り返ることなく火の勢いが薄いコンテナに飛びつこうと走っていった。
「理恵子、もう少しだ」
かなり狭い。普通なら絶対に諦めるような狭い口。だがそんなことは言っていられない。四肢が引きちぎれるように痛もうと、どこぞの骨が砕けようと体を外に出さねばならない。細身の理恵子ですら簡単にはいかない、自分はどれだけ難儀するだろう。火の手は真後ろで勢いを取り戻し、体の後ろ半分を焦がすように痛めつけてくる。理恵子を突き飛ばすように押し出すことはできたが、熱と痛みでやられたのか、理恵子はその場で倒れ込んでしまった。外にでた理恵子に引っ張り出してもらうつもりが、アテが外れた。なんとか自力で出るしかない。だが物理的に無理がある。どれだけ体を折りたたみ、潰そうとも胸がつかえて出られない。鉄の扉もジリジリと高熱を帯びてきた。意識は朦朧。もうここで終わりなのかと思った瞬間、体がぐっと前にでる。誰かが自分を押している。首はもう回らない。それが誰なのかも確認できないまま、体を極限まで圧縮して、堤は外の空気がまつ世界へと転がりでた。
冷たい空気が体を包む。生きていることを実感した。
後ろを振り返るともうそこには誰もいなかった。堤は最後の力を振り絞り、理恵子を抱きかかえて、出来るだけ遠くに足を動かしていた。
「佐久間、なにか喋って」
『なにかって何ですか、こんな時に』
何でもいいから会話をしていないと煙と灼熱で意識が持って行かれそうだった。コンテナの上によじ登ると、手を伸ばすが少しだけ届かない。熱さを感じなくなってきた。本能的にやばいと感じる。焼死は一番きついから避けたい死に方ではあったが、こんな自分の末路にはふさわしいのだろうか。崩れ落ちた水銀灯が脇をかすめる。いよいよ本当に死ぬかもしれない。
ふう、とひと呼吸。呼吸を通る喉も焼けるように熱い。渾身の力を振り絞り、助走をつけて飛ぶ。手すりに手がかかる。手すりも金属性なので当然鉄鍋の如く熱い。ネクタイか何かでも手に巻き付ければよかった。右腕一本で体を持ち上げて左手を伸ばす。体重が手すりに思い切りかかった瞬間、炎のはぜる音に混じって朽ちた金属の潰れる音が聞こえた。体が一瞬、宙に浮かび視界が落ちていく。握った手すりと共に克己は落下していった。
「ヤバイ」と考える間もなく、克己はその瞬間力強く腕を掴まれた。ギャラリーから伸ばされた腕は品質管理の相藤のものだった。
「なんで」
「品質を守るのが仕事ですから」
さすがに大柄の相藤とは言え、成人男性の落下を腕一本で掴むのには無理がある。ゴキ、と歪な音を立てたのを克己は聞き逃さなかったが、相藤は動じることなく左腕も伸ばして克己を引っ張り上げた。もう立っているのがやっとだ。
「受身はとれますね」こちらの返答も待たず、相藤は克己を抱えて大窓をぶち破って外に飛び出した。ひんやりした空気が気持ちいいと思うのも束の間、克己は相藤と共に地面に叩きつけられる。
見上げた空は雲がすごい速さで流れていた。
佐久間が何度も耳の奥で自分の名前を呼んでいる。克己は立ち上がる相藤を横目に仰向けのまま、口を開いた。
「死ぬかと思った」

25
テレビでは他に大したニュースがないのか、何度もモトハシ社内で起きた大規模な火災を報じていた。火災はすぐに降り出した雨によって体育館以外には燃え移ることもなく、廃棄された建物だったこともあり、けが人や死者はゼロ。愉快犯やモトハシに恨みを持つ者の犯行ではないかとキャスターは喋っていた。
もう板橋の事故のことが報道されることも、リコール隠しの話題がでることもない。
「結局、あの荒井とかいう女にやられたって感じですかね」
いつものオフィス。いつもの佐久間との会話。久しぶり面を付き合わせて佐久間と喋る。克己はかなりギリギリの状態ではあったが、体のあちこちが軽傷で済んだ。実際は右腕を脱臼した相藤のほうが重症だっただろう。今度会ったら羊羹でも渡すべきか。
「完敗じゃない。こっちはやることはやれたからな」
「松田さんを連れ帰ることはできませんでしたけど」
そうだな、と佐久間には聞こえない声で返す。
「堤と堤理恵子の心の霧は多少なりとも晴らせたんでしょうか」
完全な形で案件を遂行できなかったのが悔しいのか、なにか今回のことで思うことがあるのかいつになく佐久間は饒舌だ。普段、社内では俺となるべく話そうとしないくせに。
「そう願いたいけどな。でも俺らは真実を提供するだけで、アフターケアは仕事じゃないし、気にしても仕方ない。ただ、堤は会社に対する告発も結局することができなくなった、堤の目的は果たせず、だ」
「どうしてですか」
荒井の策略で関係者は全員焼き払われるところを、なんとか九死に一生を得た。10年前の事件は最大の証拠がなくなったものの、板橋の事故はまだ告発できるはずだ。
「娘の安全を最優先に考えれば、そうなるだろ。真相は娘の理恵子も知っていることがバレている。荒井からすれば、別にあそこで俺たちを処分できなくても理恵子を人質にとっているようなものだ。告発することなどできないと踏んでいるんだよ」
「じゃあ、やっぱり完敗ですね」
勝ち負けにこだわり過ぎだろ。これだから気が強い女は全く。
「でも理恵子にとって一つの真実は見つかった。そこは良かった、かもな」
「一つの、ですか」
「真実は見る人間によって違うだろ。事実は一つでも真実は人の数だけある。理恵子は、自分を育ててくれた父親が悪人じゃあないことを確認できた。大事な家族を守れたんだ。そういう真実を見つけられたのはよかったはずだ」
それにテレビで報じられている死者ゼロのニュースに理恵子は安堵していることだろう。兄はまだ生きている、そう信じられるのだから。だが、事実を把握したうちの品質管理が松田を秘密裏に処分した可能性も、あの火災で死んでしまった松田をモトハシ側が隠蔽した可能性もあるから、ニュースは鵜呑みにできない。個人的には生きていて欲しいとは願うが。
克己の連絡先に堤から一本だけメールで連絡がきていた。堤は会社に残ることにしたらしい。会社を辞めて逃げることは容易だが、たとえ自身を削るようなことであろうとも最後まで会社の不正に目を光らせて戦う。やれることが自分にはまだある、と考えたのだ。その覚悟には拍手を送りたい。メールの最後には「ありがとう」とも書いてあった。克己としてはこれで随分気が楽になるものだ。
佐久間は相変わらずコーヒーを飲まない。給湯室で汲んできた水を一気に飲み干してさらに絡んでくる。これがビールならどうなるのだろう。佐久間と飲みに行くと大変そうだ。
「私、気になっていることがあるんですけど」
「なんだよ」
「澤さんはなんで自分が危ういことを分かった上で松田さんに手を貸したんでしょうか」
「そんなこと、二人にしか分からないよ」
当事者の松田と澤はいない。もっと言うと澤にしか答えられない質問だ。
松田は今回の案件、恐らくはオペレーターを使わずに単独で潜ろうと考えたのだろう。個人的感情が多分に交じる案件だと考えていたからだ。あいつならそうする。でも澤は松田と長らく組んできた相棒だ。澤は松田のやろうとしていることを察知した。松田のことを上層部に報告することもできただろうし、危険な案件なのは分かっていたはずだから退けばよかった。
しかし、澤は松田に力を貸した。澤が松田を思うあまり深く突っ込んでしまったのかもしれないし、松田が澤を厄介払いしたのかもしれない。
真実は二人にしか分からない。幾度となく死線をくぐり抜けた二人にしか理解できないことがある。克己は斜め向かいで頬杖をつく佐久間に目をやった。
「宮森さん、自分の目的が目の前に現れた時に私が邪魔だったら私を殺しますか」
「分からん」
「正直なところだけは嫌いじゃないです」
「お前は自分のために俺を殺せよ」
「はい」
「正直なのも程々にな」
他愛のない会話の最中、電話が鳴り響く。仕事だ。詳細はロビーに行けば分かるとのこと。こんなしんどい仕事を終えたあとなのだから少しはゆっくりさせて欲しい。ブラック企業め。
ぶつくさと文句を並べたてながら廊下をロビーに向かって歩いていると冴島がこちらに向かって歩いてきた。すれ違い様、こちらに声をかけてくる。
「宮森、お前は松田と同じにならないと言い切れるか」
「冴島はどうなんだ」
「俺がお前に聞いている」
「俺は、松田と同じヘマはしない。俺は俺の真実にたどり着いてみせるよ」
「昔の女のためなんぞに命を賭けるのか」
「自分の人生だからな」
自分も他人も誤魔化す言い訳ならいくらでも用意できることを知っていた。それでも克己が紡げる言葉はこれだけだ。そう、自分の人生なのだ。他人は関係ない。他人は知らない。自分が自分のために今生きている。
冴島は表情を変えることもなく、ただ踵を返して廊下を去っていった。克己はその姿を目でいつのまにか追っていた。わざわざそんなこと言いに降りてくるあいつが嫌いにはなれない。
ロビーに着くとエスカレーターの前で相藤が折り目正しく姿勢を正して、克己を待っていた。こうして見ると心優しい小太りの中年紳士という具合だ。中身は凶暴極まりない殺し屋だが。
「宮さん、準備はいいですか」
「なんで相藤さんが」
「挨拶がてらついでにね。渡すものを持ってきました」
「ちなみに今回の案件もついてくるんですか」
「ええ、もちろん。案件の詳細は追って伝えるということですので、とりあえず空港に向かってください。私はこっそり追いますので」
相藤はまだ吊り下がったままの右腕を軽く遊ばせる。
「規則はもう破らないので、できれば一人にして欲しいんですが」
思い切り苦笑している相藤。
「相藤さん、一つ聞いてもいいですか。なぜ、俺が服務規定違反を犯した時に、すぐに現れなかったんですか。それも冴島の指示ですか」
相藤は唇の端を上げて軽く微笑む。
つくづくムカつく奴だ、あいつは。もう少し素直になればいいのに。
「さて今回の案件は長旅になりそうですよ」
相藤は克己に航空機のチケットを渡すと、表情を読まれないようにか、帽子を目深に被り言った。
「グッドラック」
「いらないですよ、幸運なんか」
克己は小気味いいほどの笑顔で返すと、まるで子供が遊びに行くような楽しげな早足でエスカレーターを降りていった。
その姿を相藤はにこやかな顔をしながらじっと見送っていた。

26
香苗はこのカフェが大好きだ。あのクラブのよく分からない音楽ではなく、自分の好きなジャンルの洒落たジャズなんかを流しており、客席も少なく設定しているので、外のテラスで心地よくコーヒーが飲める。
待ち合わせの場所に理恵子がやってくる。理恵子を引っ張って店に連れ込んだが、クラブよりこういう落ち着いたカフェのほうが理恵子にはよく似合っていた。
香苗は今日初めて理恵子と会った気がした。初めて話した気がした。家族のこと、学校のこと。せきを切ったように会話が止まらない。
理恵子も自分の家族の話をしてくれた。そして嬉しそうに言った。
「理恵子って名前は私のお父さんがつけてくれたんだ」
香苗はよく意味が分からなかった。子供の名前を親が付けるのは普通ではないか。
不思議そうに笑う香苗の横で、理恵子は晴れ渡る空を見上げていた。

DIVE

DIVE

  • 小説
  • 長編
  • サスペンス
  • ミステリー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-03-04

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

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