無夜城

無夜城

 放たれた矢は弧を描きながら中空を目標に向かって飛んでいく。その時、風が吹いた。矢の方向がわずかに変わる。カツン。木をえぐる音が響いた。木の中の臭いが近くに立つ人物の鼻を刺激する。命を狙われたのは女だった。彼女の名前はゲシュティンアンナ。マヨネーズの君として知られるキューピー伯爵の妻だ。ゲシュティンアンナは木の防壁に刺さった矢をじっと見ていた。「また、夫が私を殺しにきたか」と呟く。次の瞬間、第二矢が今度は風を計算して、彼女の胸に当たるべく向かってくる。木でできた壁が周りにあるにも関わらず、彼女は隠れることもなく、風を切ってやってくる矢を待ち構えていた。矢が彼女の胸にあとわずかというところで、ふいに黒い影がゲシュティンアンナの前に現れた。黒いアメーバの形をした“それ”は矢を彼女の胸に到達するのを防いだ。矢は黒い透明な液体に絡め取られて、止まっている。黒い影は放射状に伸びて、巨大な黒い壁となって、暗殺者と彼女の間に途方もない大きさの壁を作った。
 ゲシュティンアンナは今日も死ねなかったことに落胆していた。いつも、黒い影は彼女を守った。決して死なない女、と無夜城のパーティーで噂されていることも知っている。
無夜城は夫のキューピー伯爵と愛人のアントワネットが住んでいるところだ。かつては彼女が城の主人として、全てを任されていた時代が懐かしい。夫が愛人を作り、あらゆる手段で彼女を殺し、アントワネットと結婚しようとしていることは揺るぎない事実だった。
ただ、ゲシュティンアンナはまだ夫を愛していた。彼女の恋愛観はメルヘンに包まれていた。愛する人間に殺されるなら、それも幸せなのかもしれないとさえ考えていたのだ。しかし、望みは叶わなかった。彼女に取り憑いている黒い影が、いつも後一歩というところで、彼女の死を阻止した。今日のように。そして、いつものように。
 この国に離婚というものはない。厳しい道徳律によって、結婚した伴侶と生涯生きるのが義務であった。過去、離婚した夫婦は326年前のバラン・トレー夫婦だった。彼女たちはお互いの幸せという、幻想を抱いて、離婚したといわれる。そして、二人とも悲惨な死に様だったと伝えられている。夫婦が幸せを掴めたかどうかが問題ではない。死に方が、重要な意味をもっていた。それから、公には貴族間では離婚は禁忌とされてきた。
 彼女は離婚する気はなかった。一種の女の意地だったのかもしれない。愛しているのだから、離婚する必要はないと思っていた。ただ、夫は離婚を望んでいる。幾度も自ら命を絶つことを試してみた。その度に、何度も黒い影は彼女を生かした。
「もう、やめて。あの人の願いを叶えさせてあげて」
 悲痛なゲシュティンアンナの声は狭い、別荘にこだまする。のそのそ、と別荘の庭にいた彼女の側に、結婚前からの召使いであるグリムが歩いてきた。
「また失敗ですか。お嬢様」
 齢、60になろうというグリムは忠実な召使いであったが、彼女の自死願望だけは喜ばなかった。そして、彼女が赤ん坊の頃から黒い影を見てきた唯一人の生き残りだった。
「グリム。あなたは黒い影の正体を知っているのでしょう?どうにかして、こいつを退治する方法はないものかしら」
「なりません。お嬢様。その時、お嬢様の命はなくなります。お嬢様は決して世界のために死んではならないお方なのですから」
「私が、こんなに死を望んでも、お前は賛成してくれないのだね。こんな召使いをもって私は悲しいわ」
「お嬢様。それを言ってくれますな。わしだって苦しいのです。しかし、亡き旦那様との約束は私の心に残っております。旦那様は30年前、破滅の巫女としてお嬢様がお生まれになったとき、わしを呼びつけて言いました。『グリム。この子は決して死なない宿命をもって生まれた子だ。お前も、この子が何と言おうと命を絶つことだけは許してはならぬ』と、旦那様は…………」
「もう、いいわ。お父様は一体私に何をしたのかしら。この黒い影は何なのよ」
「お嬢様。どうしても秘密が知りたければ、無夜城に行けばわかります」
「夫のいるところに?何しにいくのよ」
「どちらにせよ。お嬢様はいい加減向きあわなければなりません。自らの宿命と」

無夜城

無夜城

物語作家七夕ハル。 略歴:地獄一丁目小学校卒業。爆裂男塾中学校卒業。シーザー高校卒業。アルハンブラ・IS大学卒業。 受賞歴:第1億2千万回虻ちゃん文学賞準入選。第1回バルタザール物語賞大賞。 初代新世界文章協会会長。 twitter:tanabataharu4 ホームページ「物語作家七夕ハル 救いの物語」 URL:http://tanabataharu.net/wp/

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-03-03

Copyrighted
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