君が失恋した日

雨之香

チアガール × プリンスボーイ


君が失恋したあの日、私は恋に落ちたーー



“ずっと好きでした。俺と付き合ってください”

“はい……喜んで”


それはまるで、映画のワンシーンを連想させるかのような光景だった。
見慣れた教室がキラキラと輝きを放ち、柔らかな風たちが軽やかに舞い込む。
まさに人生における、しあわせの絶頂期。
そこから始まる二人の未来は、目も眩むほど目映かった。
だから、妬みやひがみなんてふっ飛び、ただ純粋な羨望だけがそこにはあった。

「いいなあ。
やっぱりあの二人はお似合いだよね。
まだ付き合っていなかったのは意外だったけど。
ホント、しあわせそう」

羨ましい。

そう思った一秒後に、先ほどの自分がいかに平和な悩みを持っていたのかを思い知る。
ごく平凡な教室で繰り広げられる、素敵な青春の喜劇の裏側には、必ず悲劇も存在するのだ、と。

光があれば闇もある。
それは表裏一体なのだ。
つまり、誰かが結ばれれば、結ばれない誰かもいる、ということだ。
私は今、恋の始まりと終わりを目の当たりにしていた。

ちょっと待てよ。
これは一体、どういうこと?
私はただ、教室に忘れ物を取りに来ただけだというのに。
やれ告白。やれ失恋。

この短時間に、二極化した場面に遭遇することになるなんて思いもしなかった。
教室は色んな意味で明るいが、廊下はまたとても暗い。
そのため、失恋したらしいその誰かはよくわからない。
私はさりげなく、しかしじっくりと目を凝らした。

「っ……!」

あ、あれは……。
え、だれ? だれだっけ?
見たことはあるっぽいんだけど。
うーん。
でも何だかよくわからないけど、放っておけない。
だってもやもやする。
すごくもやもやする。
あんなつらそうな顔見たら、誰だってそうでしょ?

気づけば、私の足は駆け出していた。

「あ、あのさ」

振り返るや否や、その人は笑顔で応じた。
それは、何事もなかったかのような清々しい笑顔だった。

「あれ? 澤乃井さん。まだ残っていたんだね」

「うん……ていうか私の名前、知っているの?」

「なに言ってんの。俺たち、同じクラスでしょ」

「あ、そうだっけ。見覚えはあったんだけどね。
ごめんごめん」

「傷つくなあ。これでも学級委員長なんだけど」

彼ーー時田棗(ときたなつめ)は朗らかに笑っていた。
だけど“傷つく”の一言が、今の私には妙に突き刺さった。
先ほどの彼の顔が、ひどく傷ついた顔が頭から離れないからだ。

「ごめん。ホントごめん!
傷つけるつもりはなくて……ホント、なんてお詫びしたらいいか」

「顔、上げてよ。澤乃井さんは何も悪くないからさ」

「うん、ごめん……」

「俺なら大丈夫。
だから、そんなつらそうな顔しないで」

彼は変わらず笑顔だった。
私の安い同情が、彼には見透かされていた。
その上、いらぬ気まで使わせてしまった。
私は、自分の軽率な行動をひどく恥じた。



「へえ。それは災難だったね。
駅まで行ってから忘れ物に気づくなんて」

「うん、そうなんだ。
時田くんはこんな時間まで何していたの?」

私は言ってから、しまったと後悔した。
触れてはいけない部分かもしれなかったからだ。
しかし彼は特に動じた様子もなく、笑顔で答えた。

「俺は委員会だったんだ。
代表もしているから色々と雑務もあってね」

意外にすごい人なのかな、と思ったことは秘密だ。
自然な話の流れで、私たちは教室のドアを開けた。
キラキラとした空気は変わらず健在していたが、私は見逃さなかった。
彼ーー時田棗の表情がほんの一瞬強張ったのを。

「あ、邪魔しちゃったかな」

しかし、私の不安を掻き消す勢いで彼は言った。

「な、棗くん!」

「委員長は今日も多忙だな。ご苦労様」

しあわせオーラに包まれた恋人たちと絶望に落とされたはずの時田くんは、さぞかし楽しそうに団らんをしていた。
その横顔は、先ほどの出来事がまるで嘘だったのではないか、とさえ思わせた。

傷ついていたように見えたのは、気のせいだったのかな。
だって、こんなにも自然に仲良さげに、笑い合っている。
恋人になった二人を心から祝福している。
もしも時田くんの片想いだったなら、それはとても長く、つらすぎる。
たった今、晴れて恋人という関係になったけれど、この二人はずっと思い合っていた。
周りも公認だった。
両想いも同然だった。
だからきっと、気のせいだ。
私が先ほど見た時田棗は、見間違いなんだ。

「それじゃ、またあした」

ほどけないよう、しっかりと繋がれた互いの手と手。
至福の二人はそのまま教室を後にした。

「ホントいいなあ。手なんか繋いじゃって、ラブラブだね。
羨ましいったらないよ」

先ほど話していたテンションのまま、私は続けた。
しかし、彼からはなんのレスポンスもなかった。
私は徐々に、指先が冷たくなるのを感じた。

「あ、あの……」

「うん。お似合いだよね、あの二人」

「う、うん」

「羨ましいよね、本当。
彼女をーー椎名さんを独り占めできるんだ」

「……」

「ねえ、澤乃井さん」

「なに……?」

「俺、不自然じゃなかったかな。
ちゃんといつも通りに振る舞えていたかな」

「それはっ……」

「なんて、聞いてもわからないか。
いつもの俺なんて、澤乃井さんは知らないもんね」

お願いだから、そんなにつらそうな顔で笑わないで……。

「わからない。
わからないけど……少なくとも時田くんは、二人のしあわせを心から祝福していたよ。
私にはそう感じた。ちゃんと伝わったよ……」

つい数分前に名前を知ったばかりだというのに、私は彼を抱き締めていた。
力一杯、抱き締めていた。
醜いほどの涙を流して。

「澤乃井さん、ちょっと痛いかも」

「うん、ごめん……」

「それにどうして、そんなに泣いているの」

「うう……わかんない。
なんかつらいの。苦しいの。
放っておけないの……」

「俺の名前どころか、同じクラスっていうことまで知らなかったのに?」

「う……。それとこれとは別問題!」

「そっか。澤乃井さんは、案外優しいんだね」

「……時田くんって実は性格悪かったりする?」

「さあ、どうかな」

「当たりだ」

そのあと、時田くんはクスクスと笑いを漏らすと言った。

“澤乃井さん、ありがとう”

最後は声にならなかった。
私は何度も頷きながらまた涙した。



「で……なんで、時田くんはさっきからそんなに笑っているのさ」

「え、なに? もともとこんな顔だよ、俺」

「笑い声、漏れているんですけど」

「ああ、さすがにバレてたか。
これでも抑えていたんだけどな」

「……」

むすっと黙る私を覗き込むと、彼はとても優しく目を細めた。
その仕草に無防備だった私は一瞬ドキッとした。
そして彼はこう言ったのだった。

「本当……かわいいよね。女の子って」

「え!」

「うん、かわいい」

「な、なに言って……」

「ころころ、表情が変わるところとか。
ってあれ、どうして俯くの?」

「だって、時田くんが突然変なこと言うから!」

「変だなんて“傷つく”なあ」

わざと“傷つく”という単語を強調した彼に、また意地悪さを垣間見た。
キッと睨んだ私を見ると、彼はまた楽しそうに笑った。
つい先ほど、つらい失恋をしたばかりだというのに、すごく傷ついていたはずなのに、目の前の彼は目も眩むほどキレイな笑顔だった。


どうして、そんな風に笑えるのだろう。
どうして、涙一つ流さないでいられるのだろう。
どうして、完璧な平静を装えるのだろう。
私は無理だったのに……。


「美晴ちゃん」

「は、はい」

「あ、いいね。その返事。
従順な感じが出ていて、気に入った」

「ちょっと、黒い部分が出てるよ。委員長」

「あれ、やだなあ。これくらいで黒いだなんて」

「ていうか、なんで急に下の名前で呼ぶのよ……」

「嫌だったらやめるけど」

「そんなこと、言ってないじゃん。
そうじゃなくてーー」

「じゃあ、美晴ちゃん」

「……。
あーもう、どうぞご自由に」

「俺も棗、でいいよ」

めちゃブリ(?)に私は帰り道で足を止めた。

「ほら、美晴ちゃんも言ってみて」

あんぐりな私を物ともせず、彼は自分のペースにどんどんと私を巻き込んでいく。

「い、言わない。
今、わざわざ呼ぶ必要ないでしょ」

恥ずかしくてふい、と顔を背ければ、彼はクスクスと意味深な笑いを零しながら強く断言した。

「なに言ってんの。
今言わないと、明日から絶対に呼べないよ」

「なんでよ? 勝手に決めつけないでよね」

「わかるよ。
だって美晴ちゃん、相当なシャイさんみたいだからね」

先ほどまで眩しかった笑顔が、今ではなんだか憎たらしい。
憎たらしいのに、心底は憎めないのはなんでだろう。

「ふん。私をわかった気でいるなら甘いわよ。
ば、ばか……なつめっ」

「あはは。女の子にバカって、初めて言われたな」

隣で笑う棗は本当に楽しそうで、今日が悲しいだけの日で終わらなくて良かった、と私も一緒に笑った。

翌日から、私の日常はがらりと姿を変えた。
昨日までは気にも止めなかった人ーー時田棗を目の当たりにし、本当にこのクラスメイトだったんだ、とまた失礼なことを思っていた。
彼は相変わらずの笑顔で、男女とも楽しそうに話していて、人気度というか人望の厚さを私は知った。

こんなにも存在感があったのに、まったく気づかなかった私って……。

自分の無関心さに、何だか呆れてしまう。
しかしそう感じたのもつかの間で、教室はある話題で持ちきりとなっていた。
それは、例のお似合いカップルについての話題だった。
彼女ーー椎名さんの方は私と同じクラス、つまり棗と同じクラスだった。
ただでさえ当人同士はしあわせの絶頂だが、周囲の関心がさらにそれを煽った。
話題の中心にいる椎名さんは、とてもしあわせそうだった。
ほんのりと頬を染め、はにかむその姿は恋する乙女そのもの。
“かわいい女の子”以外なにも浮かばないほど、周りを魅了した。
私も見とれていた、そのうちの一人だった。
だが、すぐに我に返る。


そうだ。棗は?


見渡した時にはもう、彼の姿はなかった。


確か、さっきまで友達と話していたよね。


しかし、彼の座席は空白だった。
そのことに私は少しだけ安堵した。
だってこの空間は、今の彼にはつらすぎる。
いてはいけないと思った。

「おお、棗! 聞けよ」

「どうしたの?」

「椎名が、やっと堤(つつみ)と付き合ったってよ。
どれだけ焦らされたと思ってんだよな」

友人らしきその男は棗に絡むと、突然爆弾を落下した。
棗の顔からは、特に何も読み取ることができなかった。
トイレにでも行っていたのか、ハンカチをポケットにしまうとそれに応じた。

「うん。本当に良かったよね」

「あれ?
棗くん、もしかして二人が付き合ったこと知っていたの?」

棗の微妙なリアクションに疑問を抱いた鋭い女の子が、彼を詰めた。

「まあ、ね」

曖昧な返事とは反対に、得意の笑顔がそこにはあった。
その時私は、彼がとても困っているように見えた。
理由はこれ以上その話題に触れないで、という彼の無意識からの敬遠だと思った。
だけど、それは間違っていた、とあとで私は知ることになる。

彼が向ける優しい眼差しを辿ると、そこには椎名さんがいた。
彼女は少し困った様子で、だけどやはり照れ臭そうに俯いていた。

「なになに? どういうこと?
棗くん、何があったの?」

決して、触れてはいけない部分だった。
教室が華々しくなるしあわせな話だからこそ、誰もが気づかないのだ。
棗の中の心の傷を。
私もそうだ。
昨日、偶然あの場所に居合わせたから、わかるだけ。
知っているだけ。
棗が恐らく、傷ついていることを。
恐らく、というのは彼がまったくそれを感じさせないからだ。

本当に棗は、傷ついているのかな?
全然わからないよ……。

胸が苦しくなったその時、教室は騒がしさを増した。

「マジかよ、棗!
告白の現場に居合わせたって」

「堤くんの告白、どんなだったの?」

「だ、だから違うの。
棗くんはその……告白のあと、教室に戻ってきただけで」

「椎名さんの言う通りだよ。彼女をあまり困らせるな」

少し怒ったように棗は腕組みをし、示した。
そこで冷やかしも一旦、落ち着きを見せた。

私はバカだった。
棗が先ほど困ったいたのは、この話題に触れてほしくなかったからではない。
傷心の自分を守るためなんかではない。
椎名さんを守るためだったのだ。

確かに棗は、みんなより先に二人が恋人同士になったことを知っていた。
だけど、ここで棗からその事実を口にすると高まったクラスの盛り上がりはさらに高揚し、椎名さんは更なる辱しめを受ける。
きっと根掘り葉掘り聞き出し、彼女は当惑するだろう。
それを懸念して、棗は椎名さんに任せたのだ。
彼女が昨日のことを口にしたなら、それはOKの証。
しかし濁せばNG、ということだ。
彼もきっと知らないフリをし、彼女を最後まで守っただろう。

私は、棗の心がわからなくなっていた。
自分が失恋した日には夜通し泣きじゃくり、しばらく心は晴れなかった。
考えたくないのに頭にこびりついたようで、自然と涙は溢れた。
まるで、胸に治らない傷をつけられたようだった。

「っ……」

同情だってわかっている。
私は棗に自分を重ねているのだ。
これはまさに余計なお世話。
いらぬ心配。
まったく失礼な話だ。


わかってるよ、そんなこと。
勝手だってわかってる。
だけど、お願いだからやめてほしいの。
笑顔でいてもきっと、失恋して悲しくない人なんていないから。
つらくないはずがないから。
たとえ、自分自身が気づいていなかったとしても、心は傷を負っているのだから。


ガタン!


その音は、教師のどんな怖い説教よりもみんなを静かにさせた。
それは、間違いなく私が発したものだった。

「美晴?」

友人の呼び声に、私ははっと我に返る。
突如立ち上がったせいで、イスは派手に倒れていた。

「あ、あはは。ごめんごめん。
何て言うか……ものすごくお手洗いに行きたくて」

このあと、とてつもない赤っ恥をかいたのは言うまでもない。
公衆の面前で、しかも異性の前で私は自ら尿意の限界を宣言したのだ。
おまけにオーバーなアクション付きで、だ。

「もう澤乃井のやつ、空気読めっての」

投げられた余計な一言に“それはお前らの方だ!”と心中で毒づいた。

ああもう、教室には戻れないな。

そう落胆した時、休憩終了を告げるチャイムが鳴った。

はあ、もういっか。
この時間はサボっちゃお。



「白昼堂々、おサボりですか。美晴ちゃん」

「な、棗!」

「しい。声が大きい」

唇に指を押し当てられた。
不意をつかれたその行為に、顔が赤らみ、私は大人しくなるしかなかった。

「よしよし。いい子」

「犬じゃない!」

「うん。歴とした女の子だよね」

「……」

何だか、ものすごくバカにされた気分だ。

つい先ほど、みんなの目の前であんな辱しめにあったのに、何が歴とした女の子よ。
お手洗いなんか別に、行きたくなかったんだから。
私はただ、あの空気が嫌で居たたまれなくて、それで……。

「っ……」

“棗のため”なんてそんなのただのエゴ。
私のエゴだ。棗は悪くない。
私はまた恥ずかしくなり、顔を伏せた。

「美晴ちゃん」

「……」

「ありがとう。美晴ちゃんは、すごく優しい人だよ」

「いいよ、もう」

優しいなんて、使い勝手のいい褒め言葉。
私の薄っぺらい同情を、余計なエゴを棗はわかっている。
だからこその、発言だった。
愚かな私を気遣った言葉なのだ。
それはとても悲しいものだった。

ほらね、棗には全部見透かされているんだ。

「俺は思ったこと、言っているだけだよ。
続きを聞かないと、ね」

むくれる私の傍らで、棗は微笑んだ。

「美晴ちゃんはね、悪びれもなく授業をサボる不良で、結構いじけ虫で、多分泣き虫で、たまに下品でーー」

「って、それは今の私そのものじゃない!
ていうか、下品ってなによ。ひどい!」

傷に塩を塗るな。
それに私は下品じゃない。

「それでいて、シャイな女の子」

「うっさいなもう……」

「あ、早速下品な言葉」

「べ、別に下品なんかじゃ……」

ムキになって言い返す私とは対照的に、朗らかに笑う棗。
私は彼に、一本取られた気がした。

「こんなに恥ずかしがり屋さんなのに、さっきは恥ずかしい思いさせてごめん」

「な、なに? いきなり。
別に、棗に謝られる筋合いなんてないよ」

「美晴ちゃん。可愛いげは、ないみたいだね」

私の顔をまじまじと見つめると、棗は失礼極まりないことを言った。

「ていうか、授業始まってるよ。
戻らなくていいの?」

恥ずかしさから無理やり話題を変えたが、これもきっと棗には見透かされているに違いない。
あの胡散臭い笑顔がその証拠だ。

「うん、いいよ。
ちょうど、教室には居づらかったからさ」

“居づらかった”その意味を私は知っている。
だけど、棗の本心かどうかはわからなかった。
私の安っぽい同情を気遣っている可能性もあるからだ。
棗の気遣い、それも私への同情なのかもしれない。
そう思うと少しだけ複雑だった。
棗の本心で、棗の意志でここにいてくれたら、と思った。

気遣い、同情。
とても寂しい響きに感じる。

だから、私は賭けに出てしまった。
期待していない、なんて言ったら嘘になる。
賭けに出る時点で、私はもう期待しているのだから。
だけど、建前でも言わないと叶うものさえ叶わない気がした。
だから私は“期待はしていないけど”と自らに予防線を張り、それから賭けに出たのだった。


「委員長がサボっちゃまずいでしょ」

「まったく、正論だね」

「棗って結構、不良だったりするの?」

「不良か、それも初めて言われたな。
美晴ちゃんには、俺がそう見えるの?」

「いや、見えないけどさ。今のこの状況がそうでしょ?」

私の言葉に棗は目を見開き、きょとんとしていた。

“賭け”が見透かされる。
そんな気がして目が合わせられなかった。

私の賭け。
それは棗がここにいることが、私への同情ではなく彼の意志であること。
それを確かめることだ。

「俺、初めてなんだ」

「なにが?」

「授業サボったの。
委員長っていう肩書きもあるしね。
だから、サボっちゃまずいって美晴ちゃんの言葉は正しいと思う」

「棗……」

「だからさ、本当だよ」

「うん……」

「教室にいるのが、つらかったんだ」

「ん……」

「俺を連れ出してくれてありがとう。
一人だったら多分無理だった。
美晴ちゃんがいなかったら無理だったよ。
こんな罪深いこと、するの」

授業をサボる=罪深いこと、の方程式が出来上がってしまった。
私の胸にグサリと棗の刃(言葉)が刺さった。

「もう空気壊さないでよ……。棗のバカッ」

「あはは」

泣きたいのは、つらいのは棗の方なのに、とめどなく涙する私を棗は優しく包んでくれた。
私をあやす間、棗は“赤ちゃんもびっくりだよ”とか“本当、ひどい泣き顔だね”だとか言いたい放題だった。
それでも涙を止められなかったのは、言葉とは裏腹に棗の手があまりにも優しかったからだ。

「秋の遠足について、今から行き先と内容を決めたいと思います。
予算は交通費込みで大体一人あたり5000円程度。
よってテーマパーク系列は却下」

先手を打ってから、棗は教卓の向こうからみんなに意見を求めた。
ブドウ狩りやバーベキューなどの定番から、水族館というテーマパークすれすれの候補まであった。
ちなみに水族館を候補に出した人は、なかなかのどや顔をしていた。
次々と上がる候補を棗は瞬時に取捨選択していく。
しかし、沢山挙がる候補をジャンル別に列記していく仕事は、何故か私が担当していた。
確かに一人で仕切って、書記までこなすのは大変だ。
しかしここは一クラスメイトの私ではなく、通常なら副委員長あたりが妥当なものだ。
副委員長なんて名ばかり。
楽な立ち位置だ、と思った。

「多数決により、秋の遠足はバーベキューに決定とします。
異論のある人は?」

盤上の一致だった。
理由は最近、バーベキュー施設が新しくできたからだ。
敷地も広く、大勢で遊ぶには持ってこいかもしれない。
私は、早速わくわくしていた。


「当日もよろしくね、美晴ちゃん」

「うん。
って、なにどさくさに紛れて仕事押し付けているんですか。不良委員長」

「副委員長よりはよっぽど使えるよ、キミ」

「ホント、ひどい言い種だね」

「仕事は“気の合う人”とするのが一番なんだ」

「へえ……」

「その証にほら。すぐに行き先が決まったでしょ。
俺がしてきた中で、今日が一番早かったよ」

「それはたまたまバーベキュー場が新設されただけで、私は関係ないでしょ」

やれやれ、と言わんばかりに棗はため息吐いた。
だけど、もはやチャームポイントの笑顔は消さない。

「仕事の早さだけじゃ納得いかないか」

棗はぽつりと溢した。

「え?」

「俺がやりやすかったんだよ。
今まで生徒会長とかもしてきたけど、それも含めて美晴ちゃんが一番良かったってこと。
反論は?」

これで満足か、とそれは有無を言わせない物言いだった。

「ない、です……。
ていうか、そのありがとう。お役に立てて光栄です」

「うん、それが正しい。ってことで、準備も含めてよろしくね」

「……」

なんかさ、仕事増えたよね。
何気に増やされたよね、今。
なんたる小悪魔っぷり。
棗が女の子なら、校内一の魔性少女に違いない。
私はぞっとした。

「大丈夫。
美晴ちゃん一人に任せたりしないから。あくまで補佐、だからね。
まあ手伝ってくれたからには、それなりのお礼もするつもりだから」

“お礼”の一言に私の胸は高鳴った。
なんとも現金だけど、仕方がない。

お礼って何だろう?
棗がくれるお礼って、全然想像つかないな。
そもそも彼の存在を知ったのが、つい最近なのだ。
彼のことを私はまだよく知らない。



「え? 今なんて……」

「だから、好きなもの買っていいよ。
ただ予算が限られているから、一人あたり500円ってところかな」

私は今、棗とクラスメイト数人でバーベキューの買い出しに来ていた。
つまり今いる所、それはありふれたやや大型のスーパー。

ていうか、なに?
これがお礼ですか?
手伝いって言ったって、私は買い出しと書記だってやったのに。
あとは、いるものリスト作ったりだとか、バーベキュー施設の予約だとか、当日するゲームの準備だとか、当日の大まかなスケジュールを立ててたりだとか。
そう、思い出すともうキリがない。

まあ確かにね、一人ではなく棗のお手伝いって形ではあったけど、それでもみんなよりは仕事をしていたし。
それなのに、みんなと同じお礼だなんて、一緒くたにされるなんて、何だか少し納得がいかない。
って、なんかこれも恩着せがましいか。
何より棗が一番頑張っているのに、お礼がみんなと同じで不満を言うなんて厚かましいかもしれない。

私はため息を吐き出した。

「美晴ちゃん、不満?」

「え!」

突然図星をつかれ、私は狼狽えた。

「ち、違うよ! 全然そんなんじゃないから!」

「当然、だよね。
美晴ちゃんが一番手伝ってくれていたから」

「だから、違うって言ってんじゃん!」

こんな必死の否定は、棗の前では無駄かもしれない。
だけど、たとえ建前でも私は虚勢を張るしかなかった。
恩着せがましくて図々しい私なんて、知られたくないもの。
もし棗に知られたりでもしたら、もう仕事を手伝えなくなるかもしれないから。

「これにしよ」

私が手にしたものは、ファミリーパックのスナック菓子だった。

「意外と油っこいのが好きなんだ」

「な、棗! 違うよ。
これはみんなで分けるおやつ」

「みんな?」

「うん。クラスのみんな。
遠足と言ったら、やっぱりおやつだもんね」

少しの間のあと、棗は言った。

「正解だね」

「でしょ?」

「うん。美晴ちゃんと買い出しに来て、正解だった」

「っ……」

そんな甘い言葉じゃ、ごまかされない。
私も来て良かった、だなんて思わないんだから。
バカ、棗。



秋の遠足当日。
天気は最高のお出掛け日和だった。
見上げた空には雲一つなく、真っ青な視界が一面に広がっていた。
こうなれば、もう気分は高まるしかない。
私は駆け出したい衝動に駆られていた。

「楽しそうだね、美晴ちゃん」

私の隣で荷物を持つ棗も、また楽しそうだった。
今日ばかりは椎名さんを独り占めは無理でも、クラス占めはできる。
思い出を作る絶好の機会だ。

「棗、思い出たくさん作ろうね!」

出だしは好調だった。
しかしバーベキュー場に着くとそれは一変した。
なんと、そこには先客がいたのだ。
しかも椎名さんの彼氏ーー堤くんのいるクラスだった。
途端に、私の気持ちは翳りを見せた。
しかし、隣の彼は相変わらずの清々しい笑顔だ。
気づいているのかさえ、わからない始末だった。

まあ場所も離れているし、あまり気にすることはないよね。
何と言ったって今日はクラスの遠足なのだ。
クラスで思い出を作るのだ。

私も張り切って準備を始めた。
開始して間もなく、棗は引っ張り凧だった。
その合間を縫うように、手の空いた人に的確な指示を出していく。
その傍らで、担任は呑気に欠伸をしていた。
私はその口に、炭を突っ込む想像をしていた。
せめてもの酬いだ。

炭に火が点くまで時間がかかったけど、そのあとの行程は比較的スムーズに進んだ。
あんなに買い込んだ材料もきれいさっぱりなくなった。
男の子の食いっぷりは晴天と匹敵するくらい、気持ちが良かった。

「じゃあ、食べ終えた人からあの木に集まって。
そろそろゲームを始めるから」

ゲームといえば罰ゲーム。
棗のその発想は腹黒さを思わせたが、ペナルティがあることでみんなの表情も真剣さを増していた。
クラスがこんなにもまとまっている。
みんなが本当に楽しんでいる。
私の知らなかった間の棗の人柄が、そこから浮かび上がるようだった。
結束力を上手く引き出す、リーダーシップを兼ね備えた人だと思った。
彼の影響力は計り知れないのかもしれない。
一クラスメイトの立場になってしまうと、なおさらそれを思い知る。
私が簡単に同情なんてしていい人ではないのではないか、と。

「!」

だけど、私はバカだから止められなかった。
自分自身を抑えられなかった。
クラスがようやく一つになったのに、これから楽しい思い出を作るところなのに。
椎名さんは、棗に耳打ちするとそのまま小走りで抜けた。
この輪をあっさりと抜けたのだ。
行き先は見るまでもない。堤くんだ。

ここに来てまで彼氏と思い出を作りたいの?
棗が頑張って企画したゲームを放り出してまですることなの?
椎名さんだって知っているでしょ?
棗がクラスのために、一生懸命頑張ってくれていたこと。

「椎名さっ……!」

「ほら、美晴ちゃん。手伝って」

「棗? ちょっと待ってよ。
みんなでやろうって話だったじゃない!
ホームルームのときにそう決めたじゃない!」

「そうだね。でもだからと言って、無理強いはできない」

きっぱりと言い切る棗に、私は何も言い返せなくなった。
悲痛に顔を歪ませるしかなかった。

「せっかくだから楽しもう。俺もそうするから」

始終笑顔の棗に、私は無言のまま頷くしかなかった。
結局のところ、私がしようとしていたことは余計なお世話にすぎなかった。
棗を救いたい気持ちが、逆に棗に迷惑をかけていたのだ。
だから私は、目一杯楽しんでやる、と思った。
椎名さんが羨んで戻ってくるくらい、思い切り楽しんだ。



「棗くん……さっきはありがとね」

片付けが始まる頃を見計らいぎりぎりに戻ってきた椎名さんは、棗にまた耳打ちをしていた。

「いいえ。楽しんでいただけたみたいで何より」

「やだなもう。棗くんってば。
でも本当にありがとう。片付け、お手伝いするね」

「うん、助かるよ」

椎名さんと堤くんは確かにお似合いだった。
だけどその時私は、棗と椎名さんも同じくらいお似合いだと感じた。
十分カップルみたいだ、と。


どうして堤くんなの?
なんで棗はダメなの?
あんなにも椎名さんのこと、思っているのに。
きっととても大切にしあわせにしてくれるはずなのに。
どうして……。


堂々巡りの問い掛けに、苦い思いが蘇った。
私は頭を振ると片付けに専念した。

「棗くん、今日はありがとう。
っていうか今日もありがとう」

「だよね。委員長、いつも頑張っているよね」

「うちら全然手伝うし、もっと頼ってよ」

「そうそう。
今日のバーベキューもあんま食べてなかったでしょ」

「うそ、マジで?
このあと、どこか食べに行こうよ。ご馳走するからさ」

「いいねえ、それ。賛成!」

集めていた炭は跡形もなく粉々になっていた。
トングは喧しい歯ぎしりのように、ギリギリと音を立てていた。

なによ、あれ。
人には掃除させておいて、己はハーレム気取りですか。両手に花ですか。
天候もよろしくて、さぞかし気持ちの良いことでしょうね。

「最っ悪……」

気づけば、服には灰が飛び散っていた。
叩けば染みが濃くなった。

「ああ、ダメダメ。
せっかくのかわいい服が台無しだよ」

「っ……」

その台詞は、なぜか私を憂うつにさせた。
月並みの台詞が、先ほど話していた女の子たちと同じ扱いを受けた気分にさせたからだ。

「でたらめ、言わないで……」

人気があって優しい棗なら、そりゃ女の子が喜ぶ言葉を口にするのは容易い。

だけど、かわいいとか、簡単に言うな。
棗からそんな言葉、聞きたくない。
棗に好意を寄せる不特定多数の、その他大勢の一人として扱われているようで、嫌だ。

なのに、それでも嬉しいって、どこかで思っている自分が一番悲しかった。

「ここは、俺がするから。美晴ちゃんはいいよ」

私の、虫の居所が悪いことを咄嗟に悟った棗は聞き分けのいい判断を取った。
しかしそれは、まるで見放された気分にさせた。

「なにそれ、横取り?
さっきまでハーレムしていた人が?
棗の手なんていらない。ここは私がする」

ため息とも似つかない息を一息吐くと棗は言った。

「本当さあ。つくづくかわいくないよね。美晴ちゃんは」

「上等よ」

声をあげて棗は笑うと、横取りはしないからその代わり手伝わせて、と言った。

「ところでさ、かわいくない美晴ちゃん」

「なんですか。猫かぶりの委員長」

「お礼、何がいい?」

「え、お礼?」

私の頭上に浮かぶはハテナのみ。

「だから今回の遠足、色々手伝ってもらったお礼だよ」

「え、だってそれはもう、この間買い出しの時にしてもらったでしょ?」

「美晴ちゃん、ひょっとしてあれで満足したの? あんなご褒美もどきで満足したの?」

「棗、私のことめちゃくちゃバカにしてるでしょ」

キッと睨んでやると棗はそれを難なく受け止め、きっぱりと答えた。

「してない」

「そ、そんな真面目に言ったってダメなんだから……。信じない」

「嘘じゃないよ。ただ、ちょっと拍子抜けしただけ」

「拍子抜け?」

「そ。美晴ちゃんのお願い、何でも聞こうって思っていたから」

私のお願い……何でも聞く……?
なんて魅惑的な言葉なのだろう。

実際耳にすると、棗のその言葉だけで私は何だかしあわせになれた気がした。

「棗の、その気持ちだけで十分だよ」

「んー。何だか、不完全燃焼だな」

そうだ。

少し落ち込む棗を見て、私は多分いいことを思いついた。

「ねえ、棗」

「笑顔が、怖いね」

「本当に、何でも聞いてくれるんだよね?」

「空飛びたい、とか夢物語はやめてね。
常識の範囲内で俺にできる範囲内で、頼むよ」

「急にハードル下げたね……」

「で、なに?」

焦れったそうに体を乗り出す棗に、つい口にすることが少し恥ずかしくなった。

だけど、棗が聞いてくれるお願いだから。
それが、私の願いだから。

こほん、と咳払いをすると私は笑顔で告げた。


“棗がしあわせになること、だよ”


思いの外恥ずかしかったその言葉に、彼が今どんな表情でいるのか、私は知る由もなかった。

普段無表情な人がたまに見せる笑顔が、たまらなくドキドキさせる。
なんてよく聞く話。
だけど、逆もまた然りだったりする。
普段笑顔を絶やさない人が見せる、真剣な表情や困った顔、憂えた横顔。
どれもみんな新鮮で、つい目が奪われた。


私が棗を知ってから、彼を意識する機会は格段と増えた。
意識と言っても、正確には気にかける方がニュアンスとしては遥かに近い。
何せ彼との出会いが、まさかの失恋現場なのだから、気にしない方が難しい。
ましてや同じ経験を私もしているのだ。
それがいかに苦く、どれほどつらいものかも知っている。
だから、やはり放っておくことなんて、見過ごすことなんて私にはできなかった。

「……」

何だか今日は棗、元気がないみたい。


ふと見せる悲し気な表情が、容赦なく私の胸を締め付けた。
同時にまた同情してしまった、と罪悪感にも駆られた。
あの遠足の日“しあわせになって”なんて無責任で曖昧なお願いはしたものの、具体的に何かをできたわけではなかった。
口にするのは簡単で、私は何ともぶしつけなお願いをした、とあとから悔やんでいた。
椎名さんが同じクラスでいる限り、彼女を忘れることなんてまず不可能だ。
だったら、何か楽しめる、打ち込める他の何かが必要だ。

「……」

直後、陳腐で安直なものが頭に浮かんだ。
それは“新しい恋”だった。

いやいや、これこそまさに余計なお世話でしょうに。
人気者の棗なら相手にも困らなさそうだし、私がとやかく口出しすることでもない。
第一、恋なんて人に言われて始めるものでもない。



「新しい、恋?」

「うん!」

わかっていても、とめられないのが私、澤乃井美晴だ。
放課後、私は棗に早速アドバイス(大きなお世話)をしていた。

「やっぱり、それが一番だと思うんだよね」

「新しい恋か」

私の余計すぎるお世話に嫌な顔一つせず、棗は真剣に耳を傾けてくれていた。

「そうそう。背に腹は代えられないっていうし」

「なんか違う気もするけど。
そうだね。じゃあ、誰がいいかな?」

「へ?」

「相手だよ。新しい恋をする相手。
美晴ちゃんのオススメは?」

「……」

あれ?

なんか今一つ、私の言いたいことが伝わっていない気がする。
新しい恋っていうのは、椎名さん以外の他の女の子にも目を向けてみたらどうか、という提案であって、今すぐ誰かを選んでほしい、という意味ではない。
固まる私に棗はさらり、ととんでもないことを口にした。

「美晴ちゃん、なんてどうかな?」

「はい?」

「一緒にいて楽しい(ラクだ)し、結構仕事もできる(使える)しね」

おかしいな。
なんか、誉められているはずのに全然嬉しくない。
それに笑顔がいつになく胡散臭いよ、委員長。

「うん、ごめん。やめよう。
浅はかな提案でした。
私ごときが委員長様に助言なんて、身の程知らずでした」

私はとりあえず丁重に謝罪しておいた。

「謝らないでよ。提案の愚策具合はさておき。
美晴ちゃんが一生懸命考えてくれたことは、素直に嬉しい」

「本当に……?」

「うん。でもね、結局うまくいかなかったんだ。その提案は」

見上げると棗は自嘲とともに湿った息を吐いた。その目はどこか遠くを見ていた。

「どういうこと?」

「美晴ちゃんの提案はもう“済み”ってこと」

「棗、新しい恋を……したの?」

自ら提案したのにも関わらず、私の口は渇き始めていた。
鼓動がやけに煩く耳にまとわりつく。


“したよ。もう何度も”


その瞬間、息が止まった。
棗の声が聞こえなくなった。

よくよく考えてみれば、当然のことかもしれない。
棗はあんなにも人気者。
人望も厚い。
委員長や代表をしているのだから交友関係も広い。
後輩、同級生、先輩。
その上愛想もよく、万人に優しい、器量の広い人だ。
たまに腹黒かったりドSだったりするが、それもまたギャップの一つで魅力的だと思う。
恋の一つや二つ、していても全然不思議ではない。
それも含めて、椎名さんを選んだのだ。
彼女がどれほど大きな存在なのか、私は今さらながら知った。

つい最近知り合った私にできることなんて、本当は何もないのかもしれない。
俄同情なんて端から見れば、ただの迷惑行為に過ぎない。
大好きな人を忘れるなんて、簡単にできないことは私がよく知っているはずなのに。



「もう何もしない方がいいのかな……」

ただ、棗を見守るしかないのかな。
棗がしあわせになれる日をただじっと待っているしかないのかな。

「ーー」

理科準備室前、人気のない廊下から小さな話し声のようなものが聞こえてきた。
私はすっかり忘れていた課題を提出しに来た、その帰り道だった。
棗にどう関わればいいのか、悶々と考え更けながら歩いていたため、接近するまで気づけなかった。
例のお似合いカップルーー椎名さんと堤くんが、すぐ目の前でイチャイチャしていることに。

「……」

公然猥褻罪で訴えてもいいかな?

つい威嚇する猫のように毛を逆立てたその瞬間、聞き慣れた声がした。

「!」

私は振り向くや否や、その人物の手を強引に引き、理科準備室へと押し込んだ。

「はあ、はあ……」

短い距離ではあったが、あの状況では運動場のトラックを一周したあと以上の動悸があった。
酸素の薄い脳で、どうか二人のイチャイチャ現場を棗に見られていませんように、と祈った。
今の私には、それしかできなかった。

「あ、あのさ……美晴ちゃん」

いつになく動揺した棗の声が耳をついた。
私は血の気が引くのがわかった。
最悪の事態が脳裏を掠めたからだ。

「ごめん、棗! 私がもっと早くーー」

「じゃなくて」

「へ?」

「この体勢はちょっとまずいと思う……」

「!」

今さらながら、私はとんでもないことをしでかした、と自覚した。
なんと、壁に棗を押し付け自らとサンドイッチにしていたのだ。
理科準備室は確かに狭いが、いくらなんでもこれは密着しすぎていた。
先ほどのカップル以上だった。

「ご、ごめーー」

私が慌て離れたその瞬間、先生の声がした。

「澤乃井、まだいるのかあ?」

すぐ後ろの物置棚に後頭部を打ち付けるはずが、棗の腕が私を守ってくれた。
ついでに口と何故か鼻も手で覆われていた。
お陰さまで、先生に気づかれることはなかった。
だけど、何だか意識が遠退いていくようだった。
私を座らせると棗は慌てた様子で言った。

「ごめん! 咄嗟に鼻まで塞いじゃった。
大丈夫? ほら、息して」

酸欠状態からの無呼吸は、窒息の恐怖を思わせた。
私は深呼吸を繰り返すと棗に尋ねた。

「ところで、どうして棗はこんなところにいたの?」

「どうしてって、美晴ちゃんを探していたからだよ」

「私? なにか、用事?」

「そ。一緒に帰ろうって、誘いに来たんだ」

そう言って棗は微笑むと、乱れた私の髪の毛を優しい手つきでといた。

「っ……」

それがあまりにも恥ずかしくて、私はつい俯いてしまった。

「ダメ、かな?」

静かな部屋に棗の甘い声が響く。
それは、私の耳孔を優しく刺激した。

「ダメじゃ、ない……」

そう言うので精一杯だった。

「じゃあ、帰ろっか」

頷いたものの、私は身動きが取れなくなっていた。

「美晴ちゃん、どうしたの?
もしかして、どこか強打したりした?」

私は首を振って否定した。

どこも強打していなければ、痛くもない。
それは先ほど棗が私を守ってくれたからだ。
思い返すとますます恥ずかしくなってきた。
だってそれは、まるで抱き締められているかのようだったから。
だけど、私はふと思い出した。
棗に抱き締められるのは、今日が初めてではないことを。


どうしてだろう。
どうして今日は、こんなにもドキドキしているのだろう。


「仕方ないね」

棗は、立てない私を見兼ねて言った。

「どれがご希望ですか? 姫」

「え?」

「腰抜かして、立てないんでしょ」

「う……はい」

「抱っこ? おんぶ? それともーーお姫様抱っこ、かな?」

いじわるく笑う棗を前に、私の反論なんて何の役にも立たなかった。

「例の、あのお似合いカップルが別れたらしいよ」

「え、うそ。距離を置こうって話だったと思うけど?」

「なんでも彼氏の方が浮気したらしくて、彼女がカンカンとか」

「絶対、ケンカとかしなさそうだったのにね」

「どれだけラブラブでも、やっぱり続かないもんなんだあ。なんかショック」

「まさに理想の恋人同士って、感じだったもんね。浮気とかホントありえないんだけど」

聞き耳をいくら立てても足りないくらい、恐ろしい噂が今朝から蔓延っていた。
他に詳細な情報はないのか、はたまたそれを覆す情報はないのか、私は頻りに耳をそばだてていた。

二人は本当に別れたのかな。
噂の一人歩きではないのかな。

真偽のほどを確かめたいも、術がないものだから私は結局何もできないでいた。
棗はというと、もはや相変わらずと言った感じだ。
もしも二人が別れれば、棗にもチャンスがあるわけで。
だけど、別れた理由が本当なら、椎名さんはまだ堤くんを好きでいる可能性がある。
喜びたいところだけど、棗が椎名さんを大切に思っていることを知っているから、やはり心底喜べないでいた。

「何だか複雑だな」

こんなややこしいことになるなんて。
棗にはチャンス。
しかし椎名さんにはつらい話。
好きな人に浮気されるなんて、きっと想像を絶するつらさに決まっている。
ああ、棗を素直に応援できないよ。

それもまたつらかった。
まあ、第三者の私がとやかく言うことでも、ましてや悩むことでもないのだけど。



「危ない!」

ぼーっとしていたせいで、反応が少し遅れた。
だけど、野球の硬球がその下級生の女の子にあたることは避けられた。
しかし、自らの額を直撃していた。

「~っ……」

あまりの激痛に声にならなかった。
まさか素手ではなく顔面で庇ってしまうなんて、バカ以外の何者でもない。
私は思わずしゃがみこんだ。

「あ、あの……どうしよう。血、血が……。本当にすみません、いや、ありがとうございます……じゃなくて、あわわ」

「ちょ、あんた! テンパってる場合じゃないでしょ。まずは先輩を保健室に連れてくのが先決!」

しっかりした友人が近くにいてくれたことに、私は感謝した。



「大丈夫、大丈夫」

保健室の先生の第一声がこれだった。
周囲の反応があまりにもオーバーだったため、それほどひどい傷なのかと内心びくびくしていた。
しかし保健室の先生によれば、おでこは少しのことでも切れやすい部分だから、それほど心配することもないのだそうだ。
それにしても相当な痛みがあった。
外傷を手当てしてもらうと、あとは氷水をもらい打撲傷を冷やした。

「まあ下級生を庇ったことは誉められても、女の子が顔面からボールに突っ込むのはねえ。
誉められたものじゃないわ」

私はちくちくと説教を受けていた。

「顔に傷が残らなければいいけれど。
帰ったら必ず病院へ行ってね。
あとかなりの打ち身だから、顔の左側が腫れてくる可能性もあるわ。
しっかりと冷やすこと。わかった?」

言われた側から、氷水を持つ方の手がだるくなっていた。

「学校の保険もおりるはずだと思うわ。
先生は今からその手続きとお医者さんへ渡す書面を用意してくるから、お昼からの授業はお休みしてとりあえずここにいてね」

先生が出ていくのを見計らい、私は腕をおろした。

「ああ、だるかった」

気を抜いたのもつかの間、閉まったはずの扉が凄まじい勢いで開いた。
腰を落ち着けたばかりの私は飛び上がった。

「って、あれ? 棗、どうしたの? 授業じゃないの?」

軽く混乱していると、棗は髪をくしゃっと掻き乱し、その場にしゃがみこんだ。

「美晴が……大怪我して倒れたって聞いて、俺っ……」

遠くてよく聞き取れなかったけれど、大体のところは合っているはずだった。

初めて呼ばれた“美晴”の名前に不覚にもドキドキしてしまったけど、棗の心配さ加減に申し訳なくなった私は、とりあえず元気なことをアピールした。

「ほらみて、棗。私はこの通り……」

「って、言った側からふらついているじゃない」

軽い立ち眩みがして、棗に余計心配をかける羽目となってしまった。
だけど、私は懲りずに口を開いていた。

「片目だからまだ慣れていないだけ。
本当に大丈夫だよ。
ボールが少し当たっただけなの。
傷もたいしたことないって先生も言っていたし。だからねーー」

「心配するなって言いたいわけ?」

それは聞いたことのないほど、低く怖い声だった。途端に私は口をつぐんだ。

「悪いけど、それはできない」

立っていた私を座らせても、棗は掴んだ私の腕を離さなかった。
その手は熱く重かった。

「美晴、今自分がどんな姿かわかって言っているの?
それなら俺、本気で怒るよ」

「っ……」

傷口を覆う大きなガーゼには、赤い染みができていた。
ボールが当たった左側も、本当はまだすごく痛い。
そして、制服には流れた血の痕が残っていた。

「美晴は女の子なんだから、その辺りもっと自覚した方がいい。お願いだから……」

力なく俯く棗に、私は自分の仕出かした事の重大さを知った。
先ほど先生に説教をされた時は何も感じなかったのに、棗の言葉ひとつひとつにはすべて重みがあった。
私は深く反省した。

「でも……」

「……?」

「自分を省みず、真っ先に人を助けるなんて、美晴ちゃんらしいよね」

“えらかったね”

棗はそう言って、ようやく私に笑顔を見せてくれた。
その瞬間、何かが壊れたように私は涙した。
堰を切ってそれは溢れた。

「ごめんなさい、なつめ……。心配かけてごめんなさい~」

子供のように泣きじゃくる私を、戻ってきた先生は優しく迎えた。

「時田くん、私よりよっぽど先生に向いているのかもしれないわね。さすがは生徒会長」

「いえ。今の俺は……ただの一生徒です」

「あらまあ。そう。青春ね」

涙を止めることに必死だった私は、二人が交わす言葉の意味を考える余裕なんて微塵もなかった。

当然、私はしばらく眼帯とガーゼにお世話になる日々を送っていた。
日に日に腫れていく自分の顔に、本当に元に戻る日が来るのか不安になった。
そこで、私は改めて事の重大さを知ることになる。

学校へ行く度、クラスのほとんどが私を心配してくれた。
ほとんど、というのはあの日以来棗とはまともに言葉を交わしていないからだ。
怪我をしたあの日、棗を怒らせて初めて、自分の罪を自覚した。
きちんと反省もした。
もう棗にも心配をかけない、と誓った。

「……」

話してくれないのは、やっぱりまだ怒っているからなのかな。
私の反省が足りないのかな。
傷も大分癒えてきたんだけどな。
無茶もしていないはず。
でも、あれだけ心配かけておいて、まだ気にかけてほしいだなんて図々しいよね。



最近、棗と話さなくなったこと以外にもう一つ、変化があった。
それは、棗と椎名さんが仲睦まじくしている場面を、よく見かけるようになったことだ。
椎名さんと堤くんが別れただの、ケンカしただのという不吉なあの噂もまだ健在だった。

「もしかして……」

頭を掠めた一つの可能性に、私の心は小さなさざ波を立てた。

もしそうなら、とてもおめでたいことだ。
なのに、なんだろう。
この感じ。重たいな。
なんだかおでこの傷も痛むみたい。



「あら。傷も順調に治ってきているわね」

私は度々、保健室を訪れ先生に傷の具合を報告した。

「きちんと病院にも行っている証拠ね。
あと少しだから、きれいに治るまで通院するように」

「はい。ありがとうございます」

いやに素直な私を見て、先生は嬉しそうに口許を緩めた。

「時田くんの、あの説教がよっぽど効いたのね。
うん。女の子は素直が一番だわ」

先生の言う通りだった。
棗のあの説教は、私の身にとても染みた。
だから通院も怠らず、心配をかけた先生にもこうして報告に来ている。


棗、私ちゃんと自分の体労っているよ。
治療にも専念しているよ。
その証にほらね、もうすぐで傷も治りそうなんだ。
だから、心配はもういらないからね。


気づけば、リミットが迫っていた。
カウントダウンの始まり、だ。



それはある静かな放課後のことだった。
一人の女子生徒のすすり泣く声がした。

「私……もうつらいよ」

悲痛な叫びを優しく受け止める人が、そこにはいた。

「椎名さん。俺でよければ話くらいは聞くよ」

「本当、優しいね。棗くんなら、浮気とか絶対にしないよね」

「さあ、どうだろ。男はバカな生き物だから」

「そうやって、またはぐらかす。
しないよ、棗くんは」

「えらい買いかぶりようだ」

「だって、人望の厚い委員長さんだもの」

「地位や人柄は、あまり説得力のある理由にはならないんじゃないかな」

「うーん。それなら……すごく説得力のあるものが一つあるよ。
さすがの棗くんも反論できないんじゃないかな」

「おもしろいね。聞かせてよ」

「噂で聞いたんだけどね、棗くんすごく長い片想いしているって」

「噂、か」

「え、違うの?」

「椎名さんそれ、噂じゃなくて事実だよ」

「じゃあ、本当なんだ」

しばらくの沈黙のあと椎名さんが口を開いた。

「棗くんさ、去年のこの時期くらいに、私のこと好きだって告白してくれたよね……」

「うん。したね」

「っていうことは私……自惚れてもいいのかな。
棗くんなら、本当に私、しあわせになれると思うんだ」

棗の胸にすり寄り、椎名さんは甘ったるい声で囁いた。

「棗くんの彼女になれば良かったって、何度も思ったの」

「椎名さん」

抑揚のない声だった。
棗の感情がまるで読み取れなかった。

「俺のーー彼女になる?」

扉を開けようとしていた私の手が、力なく剥がれ落ちた。
そこにはもう私の入り込む隙なんて、残されていなかった。
私が焼くお世話はもうなく、棗に助けもいらない。
私はもう、必要なくなったのだ。



「長かったね」

思いが報われて良かったね、棗。
本当におめでとう。
あのつらい日々は、無駄なんかじゃなかったんだよ。
今日というこの日に繋がる道だったんだ。
諦めないで正解だった。
ひたむきに思えば、いつかはきっと伝わる。
だから、次は棗の番だよ。
目一杯、しあわせになってね。今までつらくて苦しい思いをした分、それ以上しあわせになってね。
約束だよ。
それが私の願いだからーー



棗がしあわせになったその日、私はとめどなく涙した。
棗が失恋した日を思い起こさせた。
そうだ、私は棗に失恋していたのだ。
誰かが結ばれれば、結ばれない誰かもいる。
しあわせの裏側には、同じだけの悲しみがある。
そのことを私はまた思い知った。

私にはずっと、大切に温めていた考えがあった。
それは棗の失恋現場を目の当たりにした日から、約一ヶ月たったある日のことだった。

「文化祭でチアガール?」

「うん。今年で最後の文化祭でしょ?
だから思い出作りに、みんなと有志でやりたいなって思って」

「それ、いいね!
ちょうど後期の選択授業でもダンスしているし」

「でもほとんどが初心者だし、人前で披露できるまでになるかな……」

「授業で習ってるのも、基本的なことばっかりだしね」

ざわざわと不安が淀む中、私は胸を張り言った。

「大丈夫、私に任せて。中学の部活で経験はあるから、必ず仕上げてみせる。
だからやろう! みんなでいい思い出作ろうよ!」

それから授業に臨むみんなの姿勢は、面白いほど変わった。
目標がみんなのやる気に火をつけた。
一つのことに向かって、みんな一丸となって取り組むことは本当に気持ちが良かった。

文化祭実行委員会にも、申請した有志のダンスは無事受理された。
代表者の欄に私“澤乃井美春”の名前があり、そのことがなんだか誇らしかった。

「本番、頑張ってね」

快諾してくれた、文化祭実行委員会の会長である棗も声援をくれた。

「うん。ありがとう」

笑顔でそう返す私は、少しだけ複雑な思いでいた。
私が文化祭の有志で、チアガールをするきっかけとなったのは紛れもなく棗の存在だった。
失恋し、深く傷ついた棗。
だけど自らは決して弱音を吐かず、日々学校のため、私たちのため、献身的に代表を努めていた。
見返りなんて打算はまったくなく、いつも前だけを見て直向きに頑張っていた。


私も棗の力になりたい。
つらいときは寄り添ってほしい。


いくら伝えても願っても、彼は決してそれをしなかった。
本当はしたくても、できないのかもしれない。
もしそうなら私の力不足だと思った。
そんな時、私に妙案が浮かんだ。


私が棗にできること。
棗が元気になって、かつ私の得意なこと。
そうだ。チアガールだ!


それはまさに持ってこいだった。
中学の三年間、目一杯力を注いだ部活動。
それがチアガールだった。
文化祭でそれを披露できれば、少しは棗にも元気をあげられるかもしれない。


私のすべて棗を元気にする!


単純明快だけど、これしかないと思った。
それからというもの、私は授業だけでなく放課後もお昼休みも、本番が近づけば朝練もした。

「ついに明日だね、美晴」

「絶対に成功させようね」

元気いっぱいで返事をする裏側で、私は胸が少しばかり重かった。
椎名さんと両想いになれた今の棗にはもう、私の元気なんて必要ないかもしれない。
むしろ、元気をもらっているのは私の方だった。



文化祭当日。
自らで手作りしたチアガールの衣装に身を包み、みんなで円陣を組んだ。
自作しただけあり、衣装にも愛着が湧く。
慌ただしく準備を始める生徒たちに、空気は期待に膨れていた。

「ああ、すっごく緊張する」

「私も。あんなに練習したのに、頭真っ白になりそう」

「あ、見て! もうお客さん、少しずつ来てるよ」

窓の外にいっせいに向けられた目は、正門に釘付けとなった。
途端に緊張は加速した。
掌には汗が滲み、渇いた喉が潤いを求めるようにごくりと鳴った。

私には最後のトリがあった。
宙へ高らかと舞い、一回転をする大技だ。
限られた舞台という空間で、目一杯跳び上がり、床すれすれの下方でキャッチする。
練習中の成功と失敗の比率は半々だった。
最悪の事態が頭を掠めたが、それはみんなに対する侮辱に他ならない。
チアガールはなんと言ったって、信頼関係が大切なのだ。
みんなを信じきって跳ぶのみ。


大丈夫、あれだけ練習してきたのだから。
あれだけ大切に温めてきたのだから。


私は笑顔でみんなに言った。

「そうだ。本番までまだ時間があるから、みんなで校内回ろうよ!
せっかくかわいい衣装も着ているんだし」

様々なクラスの催しは、私たちの緊張をみるみる溶かしていった。
お化け屋敷、占い館、フリーマーケットや喫茶店等々。
かわいらしい看板や、面白い勧誘など趣向を凝らしたものが目白押しだった。
そんな中、私はふとあることを思い出し、自嘲が溢れた。

「美晴どうしたの?」

「緊張で、変になっちゃったんじゃないの?」

「そうかも」

笑ってはぐらかすも、私自身は欺けやしない。
つい少し前まで、正確には棗と椎名さんが付き合う前までは、棗と一緒に文化祭を回れたらいいな、なんて淡い期待を抱いていたのだから。

今となってはもう叶わない願い。
だけど、不思議とつらくはなかった。
だって、今棗がしあわせでいるのだから。
尤も、文化祭実行委員会を務める多忙な棗は、文化祭なんて楽しむ時間はないのかもしれない。
だけど、それでも私は躊躇わなかった。
勇気を振り絞り、すぐ目の前で喫茶店を営むクラスの代表と打ち合わせを終えた棗に、声をかけた。

「おはよう、棗!」

私の存在にまったく気がついていなかったのか、目を丸くし、棗は驚きを顕にしていた。
実行委員会の法被もお似合いだった。

「み、美晴ちゃん」

「相変わらず忙しそうだね」

「まあ、ね。それより、その格好……」

なぜが気まずそうに目を反らす棗はどこか、らしくなかった。
私はスカートの両端を持ち上げて見せると、また笑顔で言った。

「チアガールの衣装だよ。みんなで手作りした力作なの」

「そうなんだ。気合いバッチリだね」

そこには私の、大好きな棗の笑顔があった。
悲しくも胸は高鳴った。

そう。棗に伝えたいことが私には一つあった。

「あのね、棗」

「なに?」

「ほら、見て」

私は左側の前髪を上げると言った。

「おでこの切り傷、もうすっかり治ったよ」

ずっと伝えたかった。
本当は、真っ先に伝えたかった。

「実行委員会で忙しいと思うけど、もし時間ができたら棗もダンス、見にきてね!」

満面の笑みで言えたはずだった。


棗がいてもいなくても、私は自分の精一杯頑張るだけ。


舞台裏で私は自分に言い聞かせた。
だけど、表に出ると私の目は自然と棗を探していた。
舞台とは違い、観客席はとても暗い。
その上大勢いる。
その中で、目当ての人を探し出すのは至難の技かもしれない。
しかし、私には不思議と自信があった。
棗を探し出せる自信があった。
特に人の出入りが激しい出入口を探した。
だけど、残念ながらその姿は見当たらなかった。朝からずっと忙しくしていたのだ。
来れるはずもないことは、私自身もよくわかっていたはずだ。
定位置につくと、私は諦め目を伏せた。
次の瞬間、艶やかなライトアップとともに豪快な音響が弾けた。
舞台は、元気溢れるステージへと見事変貌を遂げていた。
固かったみんなの笑顔もすぐに本物へと戻り、観客と一緒に楽しむことができた。
同じ空間で同じ思いを分かち合えたようだった。
元気を与え、また与えられた。


ここに棗がいてくれたら。


そんな独りよがりな思いが頭を過った時、私は大トリに差し掛かった。
二人が架けてくれた手の橋に、右足前方を乗せ、肩に手をかけた。


“きっと大丈夫”


目配せから、それはとめどなく伝わった。
その瞬間、私は解き放たれた気持ちになった。
今まで練習してきた中で、一番高く跳べた気がした。
頂点で体を勢いに乗せ、放物線状にきれいに回転ができた。
だけどその時、私は見てしまった。
見えてしまったのだ。
私がずっと探し求めていた姿を。
愛しいあの姿を。
彼は会場である多目的ホールの、準二階にいた。
そこは窓を開けたり、照明を動かしたりなどする細い通路で、関係者以外は立入ることのできない場所だった。
今日の空のようなきれいな群青色した法被は、先ほど見た棗のものと間違いなかった。
目があったなんて言えば、自惚れになるかもしれない。
棗のいる場所からは、かなりの距離があるのだ。
きっと舞台にいる誰もが、目があったと感じるに違いない。
そんな確率だ。
だけど、棗がいたことにダンスを見ていてくれたことに無性に嬉しさが込み上げた。
そのせいで着地を少しばかりミスし、足を挫いてしまったが、ダンスはほぼ成功だと言えた。
その証に、観客席からは盛大な拍手と歓声が沸き起こった。
感極まった仲間は、涙していた。
私もつられて泣いた。
感謝の意を込め、みんなで深々とお辞儀をした。
顔をあげれば、あそこにはもう棗の姿はなかった。



“ありがとう、棗”



私はもう一度、彼に伝えた。
感動の余韻をたんまりと味わったあと、私たちはチアガールの衣装を身に纏ったまま文化祭を満喫した。
この日のために頑張ってきたことの一つに、ダイエットがある。
今日は、ここぞとばかりにみんなで模擬店巡りをした。
ありふれたメニューに味だけど、辛抱の末みんなで食するそれたちはとても美味なものだった。

「ねえ、次クレープ食べようよ!」

「たこ焼きも食べたいね!」

「チアのお姉さん方、良かったら、どうぞ」

至極自然な流れで会話に入ってきたのは、ここの卒業生だった。
見るからに“イケメン”に分類されるであろうその先輩たちは、爽やかスマイルで私たちにクレープをご馳走してくれた。

「やっぱり、女の子がデザート食べてる姿はたまらないね」

そういって、さらに悩殺もののスマイルを投げた。
チアガールのステージも見に来てくれていたようで、つかの間私たちはその先輩たちに持て囃された。
誉められれば、気分は当然良かった。
それからしばらくは一緒に模擬店を巡り、連絡先など交換していた。


夕陽が傾きかけた頃、左足首の腫れはひどくなっていた。
青春のこの余韻をもっと味わいたいがために、保健室は見送りにし、文化祭を優先してしまったせいだった。
私はみんなにお茶を濁すよう断りを入れると、保健室で手当てを施してもらった。
先生には少し休むように釘を刺されたが、こんな盛大なお祭りの日に保健室で大人しくしていりのは何だか無性に寂しかった。

「後夜祭だ」

保健室のあと、私は屋上へ向かった。
寂しさついでに、人気のない場所へと向かいたくなったのだ。
夜の暗闇に、火の粉が溶け込む様がとても感傷的にさせた。
頼りない炎がまた憂いをもたらす。
私の頭はただ一人、棗のことでいっぱいだった。


今頃、どこにいるのだろう。
相変わらず実行委員会で忙しくしているのだろうか。
または椎名さんと後夜祭でも満喫しているのだろうか。

いずれにせよ、その可能性のある選択肢の中に私の存在はない。
そのことだけは確かだった。
私の目に映る後夜祭のシンボルである炎が高く舞い上がった時、突風が吹き付けた。
屋上の頑丈な扉も重低音を響かせ、閉じた。

「……」

いや違う。
扉はきちんと閉めたはずだ。
あんなに重い扉が開きっぱなしなんてありえない。
時差を持つ疑問が生じた時、それは訪れた。

「そんな格好していると風邪ひくでしょ」

そう優しくたしなめ、きれいな群青色した法被を私に羽織らせたのは、紛れもなく棗だった。
私は目を擦り、瞬きを繰り返す。

「なに? どうしたの、美晴ちゃん」

「な、棗だよね? 本物の棗だよね?」

目を細め柔らかく微笑むと、棗は鉄柵に身を乗り出した。

「面白いことを聞くね」

「だって、今ごろ実行委員会の仕事か、その……椎名さんと後夜祭にでも出ているのかなって思っていたからびっくりして……」

「今日はもう疲れたから、人気のない所に行きたくなったんだ」

笑みは消えた。
その目はあまりに遠くを見つめているものだから、私はつい声をかけるタイミングを見失ってしまった。

「ダンス、すごく良かったよ」

気まずさに伏せた顔を上げれば、そこにはいつもの棗がいた。

「ありがとう。見に来てくれて。
でも棗、忙しかったんじゃないの?」

「ずっと忙しいわけじゃないよ。
それに委員は他にもいるからね。でも」

そこで棗を言葉を区切ると強く言った。

「たとえ忙しくても、絶対に見に行くつもりだったから」



“絶対に”



その言葉に私は、計り知れない嬉しさと同時に苦しさを覚えた。
矛盾した裏腹な感情が私を追い詰める。
棗のために考えしたことは、決して見返りを求めてのことではなかった。
それは奉公や償い、自己満足にほぼ近いものだった。
だから期待なんて無価値で無意味なものは、私には必要ないのだ。

「あそこ」

「え?」

「多目的室の、俺がいた使用通路。
なかなかの特等席なんだ。気づいた?」

私は少し躊躇ってから頷いた。

「美晴ちゃんの、最後の見せ場がきれいに見える」

よく知り得た物の言いに、私は首をかしげた。

「練習していた時も、たまに見ていたから」

棗はそう言った。
途端に私は穴に入りたい衝動にかられた。
失敗したり、ドジをしたり、そんな恥ずかしい場面も見られていた可能性があるからだ。

うわあ、最悪だ……。

「実は俺も美晴ちゃんが跳ぶ前、緊張していたんだよね」

きっと失敗現場を多々目撃していたから、棗もひやひやしていたに違いなかった。
だけど、それこそが違っていた。

「中、パンツ仕様になっていたんだね。それ」

変わらない笑顔で、棗は軽く私の衣装を指差した。

「な……!」

「練習はみんな体操服とかジャージだったから、今日美晴ちゃんの衣装を見たとき正直、驚いたよ」

爽やかな笑顔のまま、さらにいけしゃあしゃあと棗は続けた。

「だから、これは絶対に見に行かなくちゃって思ったんだ」

恥ずかしさの次は、怒りが沸き起こった。

「んもう、棗のバカ! エッチ! 爽やかな顔してさらりとヘンなこと言うな!」

「こう見えて、俺も健全な男子だからね」

声を出して笑う棗は久々に見た気がした。

「だからさ」

ぶつぶつと小言を溢す私はそっちのけで、棗は私の背後にそっと回った。
そのまま私を後ろから覆うように、棗は鉄柵に手を伸ばした。
触れられてはいないのに、体が熱くなるのがわかった。

「こんな格好のままうろうろするなんて、どうかと思う」

その声に冷やかしは一切感じられなかった。
冗談などではなく、むしろ怒気を含んでいる気さえした。

「だから、ナンパなんてされるんだよ……」

「え?」

「いや、何でもない。こっちの話」

その声はあまりにも小さくて、私の耳にまでは届かなかった。

遠くの方では、火の粉がぱちぱちと儚い音を奏で、生徒たちの充実した賑わいが聞こえていた。

「そういえば、棗は後夜祭、参加しなかったんだね」

あまりに気まずかったため、私は急きょ話題をふった。

「後夜祭の実行委員も去年はしていたけど、有志で出し物した人たちやカップルで占領されていた感じだったからやめたんだ」

その時、じりっと歩み寄る気配を悟った私は棗のその答えに“そっか”と当たり障りのない返事をするしかなかった。

「え、カップル? 今、棗そう言ったよね?」

「言ったけど」

「あ、いやその……」

びっくりして思わず振り返ったら、棗との距離は思いの外近く、私は吃ってしまった。
堪えきれず俯くと、私は再び棗に背を向けた。
そのすぐあと棗の控えた笑い声が聞こえてきたが、私は知らんぷりをし続けた。

「椎名さんとは……参加しなかったの?」

だけど、その質問に対する返事はしばらくなかった。
私は落ち着かない居心地の悪い時間を強いられた。
もしかしたら、何か触れてはいけないことに触れてしまったのかもしれない。

聞いちゃいけなかったのかな。
なにかまずかったのかな。
ひょっとして棗、怒っちゃったのかも。
棗といて、無言なんてほとんど経験ないし、何だか怖い。


「美晴ちゃんさ、もしかしてーー」

「……っ」

「あの現場にいたの」

それは、もはや断定だった。
抑揚のないその声は、棗と椎名さんが結ばれた時に聞いた棗の声にそっくりだった。
私は堪えきれず謝った。

「ごめん、棗! 盗み聞きするつもりはなかったの。これは本当なの!
結果的にはそうなっちゃったけど……でも誰にも話したりしていないから。
秘密の方がいいなら私、守るから」

「確かにそうだ。
初めて美晴ちゃんと話したあの日も盗み聞き、していたもんね」

棗はようやく手を解くと、うんうんと思い出す仕草をして見せた。

「あ、あれは……あれもそうだけど、たまたまって言うか偶然が重なって、私間が悪いから……ああもう、すみませんでした!」

何も弁解ができず、やけくそで謝ると棗は楽しそうに笑った。

「で、美晴ちゃんが秘密にするってのは俺が椎名さんを振ったことを言っているの?」

「うん、そう。って、あれ? 棗今なんて……」

「椎名さんを振ったんだよ、俺が」

私がこの上なく混乱している中、棗は私に告白した。

「実はさ、俺も美晴ちゃんと同じなんだ」

「同じ?」

「そ。俺の方が先だったけどね」

「なにを、言っているの? 棗……」

私の混乱はさらに渦を巻いた。
言い様のない気味の悪い鼓動だけが私を包んでいた。

棗は何を言おうとしているの?

「去年のちょうど今頃だった」

「……」

「美晴ちゃんが、三年の先輩に告白しているところを見掛けたのは」

「え……」

「あまりに一生懸命なキミの姿に目が離せなくて、つい盗み聞きしてしまったんだ」

「っ……」

「黙っていたこと、怒ってる? それとも目撃してしまったこと、かな」

私は首を、振ることしかできなかった。
あの日の苦くつらい思いが蘇ったせいなのかわからないけれど、とても複雑な思いだった。
言葉には到底できそうになかった。

「美晴ちゃんのあの姿に胸打たれて、あのあと俺も椎名さんに告白する決心をしたんだ。
ダメなのはわかっていてね」

そして私は、椎名さんの言葉を思い出した。


“棗くんさ、去年のこの時期くらいに、私のこと好きだって告白してくれたよね……”


確かに棗の言う通りだった。
あれは文化祭の少し前の出来事だった。

「でも、どうして棗は椎名さんを振ったの?
せっかく両思いになれたのに」

「両思いなんかじゃないよ。
椎名さんが好きなのは俺じゃなくて堤だし、俺ももう彼女のことを今は何とも思っていない」

そう言う棗は清々しく、さっぱりした様子だった。

本当に、今はもう椎名さんのこと好きじゃないんだね。

私は思った。

「美晴ちゃんは?」

「私?」

「まだあの先輩のこと、好き? 忘れられない?」

確かに、まだ忘れられたわけではなかった。
思い返すと胸が痛むし、目を伏せたくなる。
だけど、もう過去のものだと言えた。
傷は癒え始めていた。
これも棗のお陰かもしれない。
だから私は笑って言えた。

「もう、大丈夫だよ。過去のことだから」

「そっか。じゃあ、もう遠慮はいらないってことだ」

棗は笑顔を絶やすことなく、私に近づいた。
すぐ目の前まで来ると、私の前髪を掻き分け口付けた。

「!」

「これは宣戦布告だよ」

「な、棗?」

「覚悟しなよ、美晴ちゃん。次は必ず勝ち取るから」

「もう棗ってば、いったい何の話をしているの?」

照れ隠しといい加減痺れを切らせた私が詰め寄ると、棗はそれをさらりと受け止めた。

「あれ、そろそろ察してもいいんじゃない?
俺が美晴ちゃんの彼氏の座を狙っていること」

「!!」

その笑顔に嘘偽りはなく、私はただただ涙を流すしかなかった。
拭えど拭えど溢れる涙に、棗は困ったような呆れたような顔をして、だけど優しく頭を撫でてくれた。
抱えきれないしあわせを今、私は生まれて初めて手にしていた。



棗、今度は二人でしあわせになろうね。



誰もいない屋上、満点の星空の下、棗と私は静かに口付けを交わした


(おまけにつづく)

〜おまけ〜


「ちょ、ちょっと棗ってば」

「なに? せっかくいいところなのに」

「な、長いよ。キス……。
誰か来ちゃったらどうするの?」

棗の胸を押し返すも、びくともしない。
だから私はふい、と赤らむ顔を背けた。

「だったら」

棗はそこまで言うと、ぐっと耳元まで唇を近づけた。


“もっと本気で嫌がらないと”


「ね、美晴ちゃん」

悪魔の笑顔がそこにはあった。

「んっ……」

棗の吐息が耳孔をくすぐったとかと思うと、次に耳たぶを食まれた。
彼の口元から漏れる官能的な音が、私の鼓膜を通じ甘い刺激を与えた。

「な、なつ、め……」

それは彼の制服を掴んだときだった。


“文化祭実行委員会会長 時田棗くん。至急生徒会室まで来てください。繰り返しますーー”


棗が重いため息を吐いた。

「残念。時間切れだ」

その顔には普段の笑顔が戻っていた。

“みんなの会長”の顔に戻っていた。
途端に棗が恋しくなった。
離れがたくなった。


もっと側にいてほしい。
もっと一緒にいたい。


気づけば私は、棗の制服を掴み自ら引き止めていた。

「あ、ごめん……。
そのもう一仕事、頑張ってね」

私の言葉に棗は苦笑いを溢し呟いた。

「聞き分けがよすぎるのも、あまり気分のいいもんじゃないな」

「棗?」

首をかしげる私を棗は強引に引き寄せた。
その瞬間、淫靡な音とともに首筋に甘い痛みが走った。

「美晴。この続きはまた今度」

閉まった扉のガラスに、うっすらと映ったもの。
それは棗が残した口付けの痕だった。
いわゆるキスマークというやつだ。

「棗のバカッ……」

言葉とは裏腹に“この続き”を期待している私がいた。



棗、早く戻ってきてくれないかな……。



(おしまい)

君が失恋した日

とある海のアニメを見ていた時に思いついたお話です。
やはり、サディストに成り切れない。

君が失恋した日

初めて出会った日、君は失恋をした。

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-03-03

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