ぼくの歌姫

ぼくの歌姫

 「では、ここにサインと捺印をしていただけますか」
 数十枚におよぶ、紙の束の最後のページ。乙と書かれた部分を、彼は指差しながら言った。
 「……」
 ぼくは、無言で麻宮昇平と、差しだされたボールペンで書き、持ってきた三文判を押す。
 彼はサインした部分を念入りに確認すると、
 「これで契約が正式に成立しました」
 そう言いながら、黒いビジネスバッグから封筒を取りだした。
 その厚さ、およそ三センチほど。
 「これは、約束のものになります。それでは、くれぐれも……」
 ぼくは、封筒を見ながら、ほんとうにこれで良かったのだろうかと考え、契約書の中味を反芻するような彼の言葉など、これっぽっちも聞いていなかった。
 ただ、彼女には今後会わないこと、すべてを放棄すること、この二つの言葉が頭のなかで、何度も、何度も木霊した。
 「中味を確認された後、こちらにもサインと捺印を」
 封筒の中には、帯に巻かれた一万円札が三束入っていた。
 どうしていいかもわからず、札束をパラパラ漫画のようにめくって、確認したふりをした。
 「ほんとうはゆっくりしていきたいところなのですが、残念ながら仕事が残ってますので、これにて失礼させていただきます。ここの支払いはわたくしの方で済ませておきますので、麻宮さんは、ごゆっくり」
 彼は、さっと立ち上がり、一歩を踏みだしたが、
 「もし、どうしても彼女と会わなければならないことが発生しましたら、わたくしの方へ連絡してください。くれぐれも彼女に直接連絡などなさらないように、重ねてお願いいたします」
 ぼくが、軽く何度か頷くと、彼は満足したように微笑み、背広の内ポケットに手を入れて、小さな紙を取りだした。
 「以前にお渡ししてあるとは思いますが、改めてお渡しいたします。あくまで、もしもの連絡先ですので、そのおつもりで」
 立ち去って行く彼のうしろ姿が、歪み、そして滲んだ。
 店内には、ソロ・ピアノのジャズが流れていたが、ぼくの頭のなかでは、レフトアローンに変わっていた。
 彼女がカラオケボックスで歌ってくれたあの曲が、ちょっと細めで切なそうな彼女の声で、流れつづけていた。

 アパートに帰って、デスクチェアーに腰を落とすと、ブブブブという音がジャンバーの内側から響いてきた。
 「あっ、そっか。サイレント・モードにしてたんだっけ……」
 画面には、『柳田篤志』の文字と受話器が跳ねあがっているようなマークが表示されていた。
 「はい」
 「おっ、やっと出た。いったい何度電話したと思っているんだよ」
 「ああ……、悪かった」
 「まったく。でも、まっ、いっか」
 篤志は、どうやら、かなり機嫌がいいらしい。舌打ちしながらも、いつもより声は大きく、頭のなかで破裂するんじゃないかと思うほどだった。
 「俺たちの天使が、いよいよ、ほんとうのプロになるんだろ?」
 「ああ」
 「おい、昇。なに暗い声、出してるんだ。お前、あれほど、彼女を売り出すんだってはりきっていたじゃないか。彼女が、プロになるんだぜ。ガッツポーズのひとつもしたっていいんじゃないのか」
 「悪いな。そんな気分じゃないんだ。用が無いのなら、切るよ」
 「ちょっと待てよ。いったい…… お前、なんかあったのか?」
 ようやく、篤志の声が落ちついた。
 「いや、べつになにもないよ」
 「そう言えば、弁護士のなんたらに会うとか言っていたっけ?」
 「ああ、藤井さんだよ。さっき、会ってきた」
 「それで、どうした? ちゃんとマネージャー契約してもらったか」
 いままで彼女のマネージャーのようなことをしてきたぼくが、引き続き彼女のマネージャーに収まれると思っていたらしい。
 「いいや。もう、彼女には会わないって、正式な契約してきたんだ。もう、彼女は、手の届かないところに行っちまったんだ」
 「おい、嘘だろ。お前がいなかったら、彼女は誕生しなかったんだぜ。それなのに、会わせないってどういう了見なんだよ」
 篤志は、ほんとうに鉄みたいなやつだ。熱しやすく、冷めやすい。
 一度は楽になった耳が、ふたたび張り裂けそうだった。
 「べつに、彼女ひとりだったとしても、ちゃんとプロになっていたさ。ほんの少しの間だけ、彼女の夢のおこぼれを貰っていただけなんだよ。それに……」
 「お前、正気か? お前がネットで知り合って、彼女に歌を歌わせて、それを動画サイトに乗せて。しかも、曲にあわせたアニメ作って…… お前が、彼女の出発点をつくってやったんだろ。それなのに……」
 「ああ、あの頃は、楽しかったよな」
 チャットゲームサイトで知り合った、ゆかりって名前の女の子。彼女のブログで、彼女が鬱病にかかって不登校だってことを知り、ほんの少しでも彼女の力になってあげたくて、彼女の夢だったアーティストになるというのを応援することになった。
 独りっきりのファンクラブをサイト内で立ち上げ、掲示板で彼女を紹介して回った日々。
 彼女に歌の詩を書いてみないかって誘い、それに曲を付けてもらうため、篤志に頭を下げた。
 彼がそれを快諾してくれ、二人でパソコン画面の前を陣取り、彼女とチャットしながら、曲の雰囲気とかそういったものを話し合った。
 そして、篤志から送られてきたデモは、あの青い髪のツインテールの娘のものだった。
 彼女がそれを練習している間、ぼくは動画サイトにのせるためのアニメーションをパソコンの専用ソフトで創った。
 風が流れ、途中で弾け、花火のように降ってくる、そんなイメージでサビの部分を作り込み、それを、黄色い色鉛筆で書いた自転車に乗る女の子が繋ぎ、最後に鉛筆画の彼女の似顔絵が深々とおじぎするものだった。
 そのアニメーションを、デザインの師匠に見てもらったのも、懐かしい思い出になってしまった。
 そうそう、初めてのレコーディングは、その師匠の知り合いのところでさせてもらったんだったっけ……
 「おい、昇。聞いているのか?」
 物思いにふけっていたぼくを、篤志の声が現実に引き戻した。
 「あ、ごめん。ちょっと考えごと」
 「だからさあ。その藤井さんとやらが、俺に会いたいって連絡してきたんだけれど、俺、どうしたらいい?」
 篤志がなにをいっているのか、よくわからなかった。
 「藤井さん……」
 「そうだよ。お前が、今日、会ってきたっていう弁護士の藤井さんだよ」
 「篤志に?」
 「頼む、昇。しっかりしてくれ。お前がショックなのはわかるんだけれど、お前が蒔いた種なんだ。少しの間、ゆかりちゃんのことは忘れて、俺の相談にものってくれ」
 「ああ、わかった」
 「いったいぜんたい、なんで俺なんかに会いたいんだか想像つくか?」
 「ああ、なんとなく……」
 「新しい曲、創ってくれ、とかいうのかな?」
 そう言った篤志の声には、あきらかに期待がこもっていた。
 「いや、たぶん、あの曲の著作権のことだと思う。曲作れっていうのなら、弁護士は後回しだろ」
 「どうしよう。俺、著作権のことなんか知らねえよ。お前、わかるか?」
 一応、デザイナーとしての勉強はしてきたから、なんとなくはわかるけれど、言葉に出すとなると話は別だった。
 「多少なら、わかる気がするけれど、弁護士には、かなわないよ」
 「いや、それでかまわん。とにかく、騙されたくねえんだ」
 「弁護士に同行してもらった方が、いいと思うけど……」
 「俺みたいな貧乏人が、弁護士なんて雇えねえよ」
 「まっ、とりあえず話だけ聞いて、疑問があったらとことん質問して、それっから考えれば大丈夫だよ。たぶん…… 要は、その場で契約書にサインしなけりゃいいんだから」
 「契約書? そんなもん必要なのか?」
 「相手は、弁護士だからな。必ずサインしろって言われると思うよ」
 それにしても、会わなければならなくなった相手の名前すら覚えていなかったなんて、いったい篤志のやつ、どんだけ能天気なんだ。
 うだうだと続く質問に、知っているかぎりのことを言ってやって、やっと電話が切れたのは、時計の針がかるく一回り回ったあとだった。

 それから毎日のように、夜の繁華街に行き、ふらふらになって歩けなくなるほど酒を飲み歩いた。
 ある時はショットバーで、ある時は女の子のいるパブで、またある時は呼び込みのいる店で、貰った金をばらまくように使った。
 それでも三百万円なんて、あっという間だった。恥ずかしくってチップを渡せるほど勇気はなかったけれど、ひとつの店で十数万使ったこともあった。
 最後の三枚、それを使い切るため、時間制のパブに入った。
 不味いウイスキーの水割りを飲みながら、ぼくは、泣いた。
 ゆかりの夢が叶うってことが、彼女との別れを意味するなんて、考えてもいなかったぼくが、今、それを実感して、どうしようもなく泣いた。
 知り合った当初、彼女はまだ十六歳だった。
 ちょっと遅いデビューかもしれないけれど、アーティストなら、それも許されるのかもしれない。
 チャットだけで話していた頃、彼女は現実には居ないのかもしなれいって思うときもあった。電子世界が造りだした幻の少女。
 篤志が送ってきた、あのツインテールの青い髪のキャラクターが、彼女の本当の姿だったんじゃないか。
 鬱で不登校で、対人恐怖症の彼女。
 動画サイトの観覧カウントが増え続けるさまを見て、鳥肌がたったことを思いだしたが、それも幻だったのかもしれない。
 席の隣りに座った娘が、ぼくを見ている。
 いや、彼女には、ぼくが見えている訳がない。
 ゆかりが幻なら、ぼくも幻だ。
 幻が、幻の夢を、幻のごとく夢みていた。
 たった、それだけ……

 初めて入ったパブで、隣りに座ってくれた娘とも会話せず、ただただ泣いていたあの時から、すでに三年がたっていた。
 そして、ぼくのパソコンのモニターには、テレビチューナーを通して、彼女が映っていた。
 そう、ゆかりが……
 彼女の新しいアーティスト名がテロップで流れたが、覚えられなかった。
 ただ、ぼくの脳裏に、彼女の舞台衣装だけが、いつまでも鮮明に焼きついていた。
 黒いレースのふりふりがついた、ゴスロリ衣装が……

ぼくの歌姫

初まして
読み手に、どれだけぼくのなかのイメージが伝わっているか確認したく、投稿しました。

ぼくの歌姫

  • 小説
  • 短編
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-03-02

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