ケソウ
チクリと痛みを指に感じた。
あーあ、と心の中で呟く。紙で切った時の独特の地味な痛みになんとなく懐かしさを感じた。線の様な細い傷を広げるように肉を引っ張ると、流れる程もない血が赤く見えた。その色にあの娘を思い出す。
「痛い?」
と俺が聞いた時、首を振って
「気持ち良いから、もっとして。」
と言ったあの娘。泣きそうだったくせに、首のホクロにキスするとくすぐったそうに笑っていた。
「大丈夫ですか?」
覗き込む様にこちらを見る顔と目があう。隣のデスクのヤマダさんだ。
「指切ったんですか?」
「あぁ、うん。やっちゃった、地味に痛いよねこれ。」
笑って返す返事をヤマダさんは聞いてないのかゴソゴソ鞄に手をやって、絆創膏を1枚俺の前に差し出した。
「これ使って下さい。キーボード叩く時ほんと、地味に痛いですからね。」
「え、ありがとう。」
受け取ってすぐに傷口に貼って、
「優しいなぁ。」
と呟いた。少し大きめのひとり言に横の彼女が気づいているのを確認して、キーボードを短く叩いてみせてから彼女に手をパーにしてもう一度
「ありがとう。これで痛くない。」
と笑ってみせる。ヤマダさんも笑って、良かったと言った。画面に向き直った彼女の横顔が緩んでいるのをみて、吐いてしまいたい言葉とため息を飲み込むためにぬるくなったコーヒーに手を伸ばした。
「どうしたの?」
「何が?」
「怒った顔してる。」
「イラついてんの、毎日毎日面倒くさい事ばっかりだ。」
「面倒くさい事?」
「そう、もう何もかも面倒くさい。一々気を使われるのも気を使わなきゃいけないのも気を持たれるのもほんと面倒くさい。」
「あぁ、うん。」
「でも今さらキャラ壊せないし、愛想よくして気に入ってもらってりゃ得する事はまぁ多いし。」
「うん。」
「でも面倒くさい。これ、今日隣のデスクのスズキさんから手作りのお菓子もらったんだけど俺甘いもの苦手だしそもそも他人が作ったもん食べれないし。てゆうか何、お菓子が作れる女アピールなのあれ?それなら一人で写真撮ってSNSにアップして暇人にイイネもらって終わりでいーじゃん、わざわざ俺に食わせようとすんなよ。」
「まぁねぇ、」
「あ、あーしっかり俺へのアピールだわこれ。メッセージ入ってる。あーくそ、面倒くさい。俺の事何も知らないくせによくこーゆうの出来るよなぁ。お前らが見てるのは上辺だけだろって殴って改めさせてやりたい。」
「こわいよ。」
「そのうち爆発して殴ったらごめん、ちゃんと逃げてね。」
「爆発する前に発散させようよ。」
「あぁそうだね、発散させて。」
「良い子…あ、ちょっと、そうじゃなっ…そこ…あっ……」
「イヤなの?」
と俺が聞いた時、首を振って
「イヤじゃないから、続きして。」
と言ったあの娘。喘ぎ声の合間に覗く舌が滲んだ血みたいに赤かった、あの娘。
あの娘の声や言葉はもうあんまり思い出せないけど、どうでも良い事ばっかり時々思い出す。黒い暗いダラダラとした感情がそのまま口から溢れ出したような言葉たちを何の気も使わず吐き散らかしていた。別に綺麗な、素敵な過去なんかじゃない。帰りたいような、浸りたい記憶じゃない。けれど思い出す。何度も何度も繰り返し、たまに今まで全く忘れていたような事もつられて思い出す。でもそれだってやっぱり大した事じゃないものばっかりだ。
「あ、そういえばスズキさん。女の子だったらしいですよ。」
「え?」
なんの話だよ…。唐突に展開された話に全くついていけない。
「ほら、わたしの入社と入れ替わりぐらいで寿退社されたスズキさんですよ。無事お子さんが生まれたって、朝礼で課長が言ってたでしょう?朝お祝いのメール送ったんです。」
「あぁ…そうなんだ、」
そうだっけ?あんまり覚えてない。仕事に関係ない話にはとことん興味がない。というかそこアドレス交換してたのか…。
「羨ましいなぁ、私も早く結婚して子供欲しいなぁ。」
「ヤマダさんの子供ならきっとヤマダさんに似て可愛いだろうね。」
「え、えぇっ、そんな…先輩ったら!」
チョロいなぁ。顔を赤くしてどもる彼女の姿をぼんやり映しながら自分の未来を考える。結婚したいとか子供が欲しいとかいう欲望は俺にはないけれど、上手く穏やかに生きていきたいという気持ちはある。それだけで周りにとやかく言われる事からも無駄に好意を持たれる事からも逃れられるのなら、結婚は有効な手段ではあるのかな。
「甘い…。」
「でも好きでしょう?」
「甘いのは嫌いだよ。」
「じゃあ私が飲む。」
「いいよもう口つけちゃったし、」
「間接キスなんて、今更じゃない。」
「うるさいなぁもう。」
「素直じゃないなぁ。」
「うるさい。」
「これ美味しいけど、すぐ眠気が訪れるのが難点だよね。」
「それは単に子供だからでしょ。俺はそもそも名前が嫌。ハチミツミルクって、超軟弱感。」
「軟弱感?」
「弱そう。」
「うーん…確かに、強くはないかな。」
「弱いのも甘いのも、すぐ泣くやつも嫌い。」
「ん?」
「だから子供も女も嫌い。でも男も面倒くさいし嫌い。大人も嫌い。」
「あぁ、うん。」
「一生結婚出来ないんだろうなぁ俺。する気もないけどさ。」
「出来ないんだろうなぁ私も。人の事信用出来ないしさ。」
「悲しい女だね。」
「そっくりそのまま返してあげるよ。」
「いつ帰ってくるの?」
と俺が聞いた時、首を振って
「わかんない、帰ってこれないかもね。」
と言ったあの娘。血の繋がりなんて信じてないくせに、こんな時だけ家族ヅラすんなって言い捨ててくれば良いと無責任に言った俺に、ありがとうと笑いながら泣いたあの娘。
あの娘は幸せになってれば良いなと思う。
今更、そんなことを思う。
「ヤマダさん今日仕事の後、予定ある?」
「え?!ないです…!」
意図をすぐに読み取って表情に期待の色が滲む。こういう時だけやたらと察しが良い、そういやスズキさんもそうだった気がする。いや、大概そんなもんか。
「じゃあ一緒にご飯行かない?行ってみたかったお店があるんだよね。」
「行きますっ!ぜひ!」
「良かった、じゃあ早く仕事終わらせよう。」
満面の笑みのヤマダさんからパソコンに視線を移して自分の仕事に取り掛かる。キーボードを叩きながら、絆創膏が邪魔をして打ちにくいことに舌打ちしそうになる。コーヒーに手を伸ばす。黒い暗い液体で感情を飲み込んでしまう。
俺は変わらず苛々しながら生きてるよ。愚痴を零す人も発散さしてくれる人もいなくなったけど別に大したことじゃない。出会う前に戻っただけだ。緩やかに堕ちてゆく日々が続くだけだ。何も考えまいとする日々が続くだけだ。
だから、勝手にどこかで幸せになってれば良い。誰かを信じれるようになって、可愛い子供でも作って家であったかいご飯でも作ってれば良い。
熱をもった目が酷く色っぽかったことを覚えてる。あの目で、誰かに愛を囁いていれば良い。
時々なぜか、そんなことを思う。
ケソウ