遅すぎた春、散る。

雨之香

オタク男子 × 桜散る

冴えない人生を送り、このまま何のイベントもなく寂しく墓に入るものだとばかり思っていた俺に、青春が訪れたのはごく最近のことだった。
ドラマよりもドラマチックなそれはまさに劇的な魅力で以て、俺を底知れず虜にした。
プログラミングやゲーム等では、決して満たされることのなかった未知の領域があったことを認識し、長い年月封じ込められていたそれは、姫野によって解き放たれた。
そのためか、幾時も姫野を渇望し、無駄に培われた餓えのせいで、それはもう俺の理性では抑えようのないほどに膨張していた。
このようにして、坂道を転がるように堕落していく俺を止めてくれたのも、また姫野の存在だった。

俺にはまだ、受験勉強という越えなければならない砦があった。
そのため、残念ながら物理的に姫野に割く時間的有余は、残されていなかった。
それも手伝ってか、勉強の合間に思い耽ることが増え、勉強は滞っていた。
これではいったい、何のために姫野と会うことを我慢しているのか分からない。
しかし、その時の愚かな俺はそんな簡単なことにすら気付けなかった。
完全に負のスパイラルに陥っていた俺は、姫野から受け取ったある一通のメールで漸く我を取り戻せたのだった。



“正直、今は会えなくて寂しいけど……和久井くんの受験、心から応援しています。
ファイト!”



会いたいのは、寂しいのは、我慢しているのは自分ばかりだと思い込んでいた。
そんな俺に、姫野は気付きをくれた。
勘違いも甚だしいったらこの上ない。
俺は自分自身をひどく恥じた。
そこからは己に猛勉強を強いた。
飯も睡眠も、削れる無駄はすべて削ぎ取った。
身なりを疎かにしていたせいで、髪の毛や髭も無造作に伸びていた。
妹にも“キモイ”と散々罵られたが、風呂上がり、さすがにひどいと自覚した俺は、翌日身なりを整えることにした。
本命の入試は、三日後に控えていた。


心身ともにさっぱりし気が引き締まった俺は、前々から企てていたことを実行に移すことにした。
途端に、交感神経は異様な興奮を示した。
瞳孔が開くように目は冴え、立毛筋は鳥肌のごとく収縮し、心筋の収縮力はみるみる増加した。
時間帯が夜というせいもあるかもしれないが、それだけでは片付かない。
俺はもう一度、洗面所に向かった。
顔を除いては、特におかしなところはない。
大丈夫だ。

「よし」

俺は意を決した。

「さっきから何してるの? お兄ちゃん」

そこには、風呂から上がったばかりの妹がいた。
バスタオルを巻いていたが、さすがに俺は慌てて目を反らした。

「バカッ。突然出てくるなよ!」

「先にお風呂、入ってたのはもえでしょー。
その間、ずーっと洗面所うろうろしてさあ。
お兄ちゃんのヘンタイ」

「はあ? 覗いてたって思ってるなら、それは大きな勘違いだよ。そもそも興味ないね」

「ふんだっ。これから成長するんだから。
着替えるから、とっとと出てってよね。
ヘンタイ」

言った側から、妹は巻いていたバスタオルを剥いだ。
さすがに俺も、急いで退散した。
しっかり温まったのかして、ピンク色に染まったお尻が見えたが、それは見なかったことにした。

「あ、お兄ちゃん!」

妹が顔だけを覗かせた。
その頬もピンク色だった。
俺は思わず、目を反らしていた。

「なに?」

「携帯忘れてる。ていうか、鳴ってるよ。女の子、かな?」

半ば、むしり取るようにして俺は携帯を奪った。
が、しかし。

「うっそー。なーんてね。
お兄ちゃんにメールする女の子なんていないじゃん」

あっかんべをすると、妹はピシャリとドアを閉めたのだった。
まったく、可愛さの欠片もないあの憎たらしい口を捻り上げてやりたかったが、着替え中を押し掛けていく度胸は俺にはなかった。
まだ中学生だからとか、そういう理由を抜きにしても、もう性を意識する年齢に差し掛かっているのだから、それは仕方がないのかもしれない。
俺は、不完全燃焼に終わった怒りを、ため息と吐き出した。
そして、計画を実行に移すことにした。

風呂場の熱気のせいで霜が付着した画面を拭いてから、アドレス帳を開いた。
そこから選ぶのは言うまでもなく、姫野だった。
いつものようにメールにしようかとも思ったが、俺は電話にした。
これが姫野とする、初めての電話だった。
呼び出し音が鳴ると、緊張は急上昇した。
ちょうど、五回目が鳴り終わったところで、姫野の声が聞こえた。

「……はい」

「姫野? 今、大丈夫?」

「あ、うん。大丈夫だよ。
久しぶり、だね。元気?」

「うん。姫野は?」

「私も元気だよ」

「そっか。良かった」

そのあと数秒、沈黙が続いたが、気まずさよりも俺は計画をどう切り出すかで渋っていた。
いいや、渋っていたというよりただ単に勇気がなかっただけだった。
しかし、こうした時間が惜しい。
もし可能なら、一刻も早く姫野に会いたかった。
だから、俺は姫野に告げることにした。

「あのさ。
もし大丈夫なら……今から、少し会えないかな?」

携帯を握る手に、力が入るのが分かった。
俺は気が気ではなかった。
こうした誘いは初めてだった。

「え、今から?」

「そうだけど、やっぱりダメだよね」

「ううん、大丈夫! いけるよ。
突然だったから、びっくりしただけ……ていうか、私も会いたかったから」

座っていたのにも関わらず、俺は頭がくらっとした。
早くも理性が崩れかけた。
惚れた女の子からの、言葉の破壊力を身を以て知った。

「じゃあ、俺今から行くね」

大体の到着時刻を告げ電話を切ろうとしたが、姫野がそれを遮った。

「あ、ちょっと待って」

「どうしたの?」

「私が行くから!」

「え?」

「私が、和久井くんの所に行くから。
今、大切な時期だし、もし何かあったりでもしたら大変だから……。
とにかく着いたら連絡するね」

言うや否や、電話は切れてしまった。
俺は暫く呆気にとられていた。出掛けられる手筈は整っていたが、せっかく姫野が気遣いをしてくれたんだ。
俺はその時間を勉強に費やすことにした。
言うまでもないが、やはり気持ちはそわそわしていた。
正直あまり集中は出来ず、有効活用出来たとは言い難かった。
時計を見て、もう何度目か分からなくなった頃に姫野から連絡がきた。
用意してあったジャンパーとマフラーを片手に、俺は疾風のごとく部屋をあとにしたのだった。

「姫野!」

息も切れ切れに、俺は姫野の元へと駆け付けた。

「あ、和久井くん。
そんなに走らなくてもよかったのに」

姫野は朗らかに笑った。
俺の疲れ果てた心が、一瞬にして癒された。

「早く……会いたかったからさ」

酸素不足の脳では、思考を巡らすだけの余力は残っていないようだった。
姫野の顔からは笑みが消え、気まずい空気が押し寄せた。
俺はしまった、と後悔した。

「俺から誘ったのに、わざわざ来てくれてありがとう」

「ううん。これくらい、何てことないよ。
入試の本番も近いのに、まさか会えるなんて思ってもいなかったから……はりきって来ちゃった」

姫野はいたずらっぽく舌を覗かせ、笑ってみせた。
照れ臭くなった俺は、鼻の下を掻いて誤魔化した。

「寒いし、何か温かいものでも飲む?」

近場の公園まで歩いた俺と姫野は、ベンチ近くの自動販売機の前にいた。
姫野は何やら、じっとにらめっこをしていた。
それが、何だかやけに懐かしく感じた。
よく、ノートとにらめっこをしていた姫野を思い出したからだ。

「なにで迷っているの?」

「えっとね……。ホットレモンと、ホットリンゴなんだけど、よく飲むのはレモンの方なの。
でもリンゴは今初めて見て、美味しそうだなあって思ってね。
でも、レモンもなかなか捨てがたくて……」

何とも表現し難い感情が、俺の中に立ち込めた。
真剣に悩んでいる姫野には申し訳ないが、それは、本当にかわいくて堪らなかった。

「それなら」

俺は五百円玉を硬貨投入口に差し込むと、姫野が甲乙つけ難かった二つのボタンを押した。

「え、和久井くん! いいの?」

「遠慮しないで」

俺は取り出した、一つを姫野に差し出した。

「俺も少し、分けてもらうから」

それがいったい、何を意味しているのかも考えずに、俺はさらりと爆弾を落としていた。
姫野は俯くとありがとう、と小さく溢した。
それから、ベンチに腰を落ち着けた。
その時、俄にシャンプーの香りが鼻を掠めた。
俺の心臓は忽ち跳ねた。
条件反射で、姫野の風呂上がりなんてものを想像してしまった。
それは先程、妹の要らぬものを見てしまったせいかもしれない。
俺は、邪心を振り払うようにして頭を振った。


「そういえば、和久井くん」

「ん?」

「今日は、眼鏡しているんだね」

姫野は視線を足元に落としたまま尋ねた。
確かに、佐久間との揉め事で眼鏡が壊れてから修理までの間、俺は人生初のコンタクトを経験した。
着け心地や使用感等、それはそれで悪くはなかった。
眼鏡の修理期間やコスト等を総合的に考慮した上で、一ヶ月の使い捨てを購入したため、暫く学校ではコンタクトの生活を送ることとなった。
案外、周りからの評判は良かったが、そのこととコンタクトを使用していたことはほとんど関係がなかった。

「一ヶ月のを使っていたんだけど、ちょうど終わったから眼鏡に変えたんだ」

「そう、なんだ」

「やっぱり、眼鏡は変かな」

何気なく、本当に何気なく言っただけだった。
大した理由なんてなかった。
敢えて言うならば、コンタクトの評判が思いの外良かったから、姫野もそうなのかな、と軽い気持ちで尋ねただけだった。
だけど、姫野を纏う空気は何だか淀んでいた。

「和久井くんが、したい方にするのが一番いいと思う。
だけど……私はそっちの方がいい」

「そっちって、眼鏡?」

「うん」

何故か、姫野は俯いたままだった。
何か、気に障るようなことでも言ってしまったのだろうか。
分からなかった。

「なんか……ごめん」

「え?」

「いや、機嫌悪くさせたみたいだから」

「ち、ちがうよ!」

「でもーー」

上げた顔を再び伏せると、姫野はかぶりを振った。

「ごめんなさい……。
本当は、どっちも素敵だと思うの。
だって、和久井くんには変わりないから。
でもね……和久井くんがコンタクトにしてから、学校で女の子たちがカッコイイって噂してるの、よく聞くの」

「それ、聞き間違いじゃないかな。
俺に似た名前の誰かとか」

「違うよ。だって、百瀬さんとかクラスの女子が言ってたんだよ。
それに、似た名前の人なんていないし……」

姫野はまた俯いた。
俺は掛けるべき言葉が見つからず、苦し紛れに頬を掻いた。
吐き出した息は白く滲んだ。

「忙しい中、せっかく会おうって誘ってくれたのに……こんな空気になっちゃって、ごめんね」

「そんなの、気にしないで。
俺もくだらないことを聞いたから」

「ううん。くだらなくなんてないよ。
寧ろ大切なことだよ。私にとっては」

「大切?」

「うん。ずっと、モヤモヤしていたから……」

「どういうこと?」

不満があったということなのか。
俺は、つい体を乗り出していた。

「モヤモヤって言ったら違うかもしれないけど……その、やきもち、やいていたから」

吐き出すようにして、姫野は言った。
落ち着かないのか、足をぷらぷらと忙しなく揺らしていた。
その言動は容赦なく、俺の男心を刺激した。



「だって……百瀬さんよりも私の方が先に和久井くん好きだったしね、眼鏡じゃないからカッコイイとかそんな軽い気持ちじゃないしね。
それに私の方が……」

気付けば、姫野の手の上には小さな雫がいくつもあった。
俺は目を見張った。

「姫野?」

「半年くらい喋れなかったけど……私の方が和久井くんのこと、よく知ってるよ……。
化学は有機が得意で、担任の先生は喧しいから苦手なんだよね。それからーー」

忍耐強さには自信があった。
だが、俺はもう限界を迎えていた。
そのまま、強く姫野を抱き寄せた。



「何か、あった?」

俺の問い掛けに姫野は不安だった、と涙ながらに答えた。
関わりを絶ったあの半年間、姫野はクラスの女子達が噂する俺の話に幾度となく涙した。
自分しか知り得なかったことが、瞬く間に公になり共有され、共感を呼んだ。
耳を塞ぎたくなる日々に、心が悲鳴をあげた。
更には俺の受験勉強のせいで、その半年間の寂しさをも埋めることが出来ず、今の今まで不安で押し潰されそうになるのを一人、耐えていた。

「不安にさせて……ごめん」

「ううん。私も泣いちゃって、ごめんね」

「言ってる間にもう卒業だけど、残りは眼鏡で行くから」

「そんな、私のせいで……。
和久井くんの好きなようにしてくれていいんだよ」

「だったら、なおさら眼鏡にするよ」

「どうして?」

「周りよりも、姫野がどう思ってるかっていう方が……俺には大事だからさ」

姫野のシャンプーを香りを、嗅げないほどのクサイ台詞を言ってしまった。
夜で良かった、と俺は思った。
耳が熱くなるのが分かった。

「ありがとう」

姫野は、漸く笑顔を見せてくれた。
俺は、もっと大事にしなくてはならないと思った。
より大切な存在となった。

「さっきはね」

鼻を少し啜ると姫野は言った。

「不安だって、言ったんだけど……私、和久井くんの受験が終わるまで、ちゃんと待ってるから。だから、心置きなく勉強してね。
邪魔だけはしたくないから」

「うん。ありがとう」

「それと、言ってること矛盾してるかもしれないんだけど……」

「なに?」

「もし、ほんの少しでも時間あったら息抜きのついででいいから、メールくれたら、嬉しいです……」

時間が全然なかったらいいから、と姫野は付け足した。
メールくらい、と思ったことは秘密だ。
そんな簡単なことで喜んでもらえるのなら、それくらい進んでしてやる。
だけど、気になったのでやはり聞くことにした。

「メールって、そんなに嬉しい?」

「え、うん。すっごく嬉しいよ!
私ね、和久井くんからもらったメール、毎日見てるんだ」

確かに、ぷつりと何かが切れる音がした。
その途端、姫野の声が遠退いた。
言葉に応じることが出来なくなった。

「ホントだよ。
いつも寝る前に、和久井くんにもらったメールをねーー」

不意に、姫野が疑わしげに俺を覗き込んだ。



「もしかして、和久井くん……疑ってる?」

「え、いや、そんなことないよ」

「ホントに?」

上目遣いに、窺うような視線に、案外近いその距離に、俺の目は気付けば姫野の唇を捉えていた。
その一瞬、途絶えてしまった意識を取り戻した頃には、俺は姫野の話を聞ける精神状態ではなかった。
色っぽい桜色した姫野の唇が、頭から離れなかった。
今まで感じたことのない欲望が、俺を雪崩のごとく襲った。
じっとしているのさえも、もう儘ならなかった。
抑えようのないこの欲望に呑み込まれまい、と俺は残された僅かな理性に懸命にすがった。
そして、出来る限り落ち着いた口調で尋ねるよう努めた。

「あのさ、姫野」

「なに?」

「嫌だったら、正直に言ってくれていいから」

「うん?」

「キス……してもいいかな」

外気温は相当低いというのに、俺は炎上してしまいそうなほど熱を帯びていた。
暫く姫野の返事はなく、俺は苦しい時間を強いられた。
しかし、悠々と返事を待っていられるだけの余裕もなかった。
膨れ上がる欲望のせいで、じりじりと理性の崖っぷちへと追いやられ、歯止めが利かなくなっていく。
きっと今、姫野を視界に入れたら、俺は自分で自分を抑えられなくなるだろう。
それを分かっていたから、視線を出来る限り遠くへとやった。
だが、次の瞬間俺はとんでもないものを目の当たりにしていた。


いや、嘘だろ?


目を擦り、しかめ、凝らした。
幾度、それを繰り返したところで、結果は同じだった。
脳裏に過った不愉快極まりない答えが、払拭されることはなかった。
寧ろ、確かなる自信へと変わっていくのだ。
俺は信じたくなかった。
心がそれを拒んだ。
しかし、このまま気付かずにいたら、と考えると身の毛が弥立った。
そんなことは、断じてあってはならない。
俺の何もかもが、完全に冷めてしまった。
あの灼熱のような欲望が、瞬く間に消え失せたのだ。
俺は太息を吐きながら、力なくベンチへと凭れた。
姫野の肩がびくっと揺れたのが、視界の端で捉えられた。
それは、恐らくノーという答えを意味しているのだろうと俺は解釈した。
だから、口を開いた。



「ごめん。変なこと言った」

「え……」

「今のは忘れて。
勉強疲れで、ちょっと参ってたみたい」

「……」

「もう時間も遅いし、家まで送るよ」

俺は潔く立ち上がった。
しかし、姫野はあとに続かなかった。

「姫野?」

「どうして、謝るの……?」

そして、漸く立ち上がったのだった。
だけど、顔は伏せたままだった。

「私は……したいよ」

「え?」

「和久井くんは、もう気が変わっちゃったかもしれないけど……私はしたいよ。
和久井くんと……キス」

潤んだ瞳を向けられた瞬間、俺は姫野の手を引いていた。
しかし、あいつの監視下では出来るものも出来やしない。
だから、俺は自動販売機の裏へと姫野を連れた。
何事かと驚いた顔をしていたが、当然だろう。

「人が、いたからさ」

「人?」


そうだ。あいつだ。間違いない。
俺の妹がいたのだ。
何故だかは知らない。
その手にビニール袋が見えたから、きっとコンビニの帰りだろう。
それで帰り道、偶然この公園で俺を見掛けた。
そして覗き見、つまり今に至る。


ざっとまあ、こんなところだろう。
おぞましくなった俺は、頭を振った。
その時、すぐ側で何かが蠢いた。
目をやると、姫野を連れ込んだ拍子に彼女を抱えていたはずの腕が、ちょうどお尻に位置していたのだ。
俺はすぐさま手を離した。

「ご、ごめん」

「ううん……」

そのあと何とも格好の悪いことに、俺はすぐ真後ろの自動販売機で頭を強打していた。

「痛っ」

姫野は忽ち破顔した。
張り詰めていた空気は、和らいでしまった。
俺は頭を擦りながら言った。

「今、笑ったね」

「え、そんなことないよ……」

あわてふためきながらも、姫野のその口元は小さく弧を描いていた。
正確には、その時の俺にはもう姫野の唇しか見えていなかった。
離した手をもう一度掴むと、そのまま唇が重なる距離まで姫野を引き寄せた。



それは多分、時間にすると数秒ほどだった。
離れた瞬間から、俺はもう恋しくなっていた。
一度叶えられてしまった欲望は、その味を占めたかのように更に疼いた。
誰もいない二人だけの空間では、俺を鎮めてくれるものなど何一つとして存在はしなかった。
姫野は、恥ずかしげに俯いていた。
だから、俺の位置からは姫野の表情は読めなかった。
見えないことが、より一層俺の欲望を掻き立てた。
羞恥心なんて、今は微塵もなかった。
それよりも姫野によって煽られた欲望が、俺を突き動かしていた。

「姫野」

呼ぶと同時に、姫野の頬へと手を伸ばした。
そっと手を添えたつもりだったが、姫野の体は思いの外、大きな反応を見せた。
俺はもどかしいほどゆっくりと、顔を上げていった。
姫野の潤んだその目は、何故か揺れていた。



「嫌だったら……言って」

そのあとすぐのことだった。
後方から、凄まじく激しい足音が聞こえてきた。
その主が誰だかを咄嗟に悟ってしまった俺は、すぐさま姫野に触れていた手を離した。
最悪の事態だと落胆した。

「ちょっとお!」

自動販売機から、大袈裟に砂ぼこりを立てて登場した人物は、最悪の予想通り、俺の妹だった。
膝に手をつき、肩で大きく呼吸をしていた。
その手には、某コンビニ名が印字されたビニール袋があった。

「こんなとこで……こそこそ何してるのよお!」

俺も大袈裟にため息を吐いてから言った。

「萌恵には関係ない。
だいだい、おまえこそ寄り道なんてしていないで、とっとと帰れよ」

まったく。覗き見なんて、趣味の悪いこと極まりない。
また、こいつに姫野との時間を邪魔されてしまった。
早速、俺はイライラし始めていた。

「だ、だってえ……」

「なに、泣いてるんだよ」

俺はやれやれ、とお手上げのポーズをとった。
その時、完全に蚊帳の外だった姫野が遠慮がちに口を開いた。

「和久井くん……えっと、そのどちら様?」

「ああ、ごめん。俺の妹なんだ」

「え、あ、そうなの?
なんだ、そうだったんだ」

「突然で、びっくりさせたよね。
実は途中から、不吉な視線を感じていたんだけど」

「あ、だから移動……したの?」

「そう、だね」

話しながらも、姫野はちらちらと妹に視線を配っていた。
そして、鞄からハンカチを取り出した。

「えっと……もえちゃん、よかったらこれどうぞ」

妹に目線を合わせるよう屈みもって、姫野はそのハンカチを差し出した。
なのに、妹は受け取ることもせず、そそくさと俺の後ろに隠れてしまった。
こんな妹を見たのは、初めてだった。
正直驚いた。
しかし、その無礼さは許せなかった。

「萌恵。今のは失礼だろ?
謝りな。ていうか、挨拶くらいしろよな」

まったく、何がしたいんだか。
憩いの時間を奪われた俺は、すっかり萎えていた。
ため息もやたら出た。

「いいんだよ、和久井くん。怒らないであげて」

それに対してごめん、と謝罪をしようとしたら、後ろで服を引っ張られる感覚があった。

「ねえ、お兄ちゃん……」

「なに?」

「その、女の人はだれなの……?」

「え」

俺は答えに詰まった。
答えるべき解答は一つしかないというのに、だ。
言い馴染みのない単語を口にすることに、妙に恥ずかしさを覚えた。
俺はつい、姫野に視線をやってしまった。
何をどう勘違いしたのか、姫野は次のように答えていた。

「私はね、お兄ちゃんの友達で、姫野美羽って言います。
同じクラスで、いつもお世話になってるの」

「そうなの? 恋人とか愛人とか、そういうカラダの関係じゃないの?」

束の間、沈黙が訪れた。
思考が完全に停止した。
次に俺は、相当蔑みを含めた目で妹を見たが、ヤツは本気だった。
本気で質問をしていたのだ。
いや、真意を理解しているかどうかまでは不明だ。
何せ、学習能力の欠如したその頭脳だ。
これは、被害が大きくなる前に一刻も早く、退散すべきだった。
が、しかし世知辛い世の中とは鬼畜だった。
妹は、更なる爆弾を落下した。
その威力は、俺の身を木っ端微塵にするものに値した。

「そんなこと、あるはずないよね。
だってお姉さん、お兄ちゃんの好きな人と違うもん」

その瞬間、姫野の顔からは表情が消え失せた。
俺は、かつてないほどの悪寒を感じた。
それは当然、ウイルス性腸炎の比なんかではなかった。

「萌恵! いい加減にしろよ。もう分別くらい、つく年だろ」

「ちょっと待ってよ、和久井くん。
好きな人じゃないって、どういうことなの?」

「いや、それは……。
でも、姫野が想像してることとは多分、絶対違うから」

この事態から逃れる術など、分からなかった。
ただ、俺は苦し紛れの言い訳をしながら、無意識に妹の口を方手で塞いでいた。

「もう何すんのよ! ホントのことじゃん。
お兄ちゃんは小さい女の子が好きなんでしょ?
パソコンのデスクトップもそうだし、あと夜中にーー」

呼吸をする余地も与えないほどに、俺は忌まわしい限りの妹の口を全力で塞ぎにかかった。
だが、間に合っていないことは、もはや承知のことだった。
凍えそうなほど寒いはずなのに、背中には絶えず汗が流れていた。
俺はもう、何も言えなかった。
そもそも発言権すらなく、弁解したところで説得力なんてないも同然だった。
俺は、姫野の次の言葉を聞くのが怖かった。

「……やめて、あげて。窒息しちゃうよ」

「姫野」

「かわいい妹さん、でしょう?」

「……」

「私、一人で帰れるから。さよなら」

別れを告げるその言葉は、俺を奈落の底へと突き落とすダメージに匹敵した。
あまりの衝撃に、身動きをとることが出来なかった。
その間にも、姫野の姿は徐々に遠ざかっていく。
このまま姫野を返してしまったら、と思うと居ても立ってもいられなくなった。
そう思った時、とうとう姫野の姿は見えなくなった。
完全に、俺の視界から消えてしまった。

「お兄ちゃん!」

俺は走り出していた。
背後から、妹が俺を呼びながら追い掛けていた。
ついでに途中、派手な音を立ててこけた。
だが、それに構っている時間など俺にはなかった。
冷えきった空気は、気管には刺激が強すぎた。
吸えど、楽にはならなかった。
寧ろ、胸の苦しさは増した。
それでも、俺は足を止めなかった。
いや、止められなかった。
公園を出て、少しした所で姫野を見つけた。

「待って、姫野!」

俺は額に滲んだ汗を拭った。
姫野の足は止まったが、振り向いてはくれなかった。
呼吸が整うに伴い、居づらい沈黙が押し寄せた。

「その……」

引き止めたところで、いったい何を言えばいいのか、俺には分からなかった。
つい先程まで、触れられる距離にいたというのに、今はもうずっと遠くに感じた。

「ごめん……」

バカな俺はまた、謝るしか出来なかった。

「何も悪くないんだから、謝らないで」

姫野は沈んだ声で、そう言った。

「でも、怒ってるよね」

「怒ってなんていないよ。ただ……」

「ただ?」

「ショック、だったの……。
まさか和久井くんが、ロリコンだったなんて」

直球すぎる言葉に、オブラートもクソもないその言葉に、俺は思わず吐血しそうになった。
そして、やはり世間的には、一般的な女子高生には、その特殊(?)な好みは許容範囲外なのだと、身を以て知った。
例え、個人的趣味範囲に留めていたとしても、だ。
姫野は受け入れられなかったのだ。


こんな俺のような冴えない人間が、幼女を好むなど、軽蔑されただろうか。
嫌悪されただろうか。


女の子を送るという、せめてもの男の役割をも断られ、俺は悶々としながらも、こけて足を怪我した妹を背負い帰路についた。
今は、厄をもたらした妹を恨む気にもなれないほどに、俺は放心状態だった。
心はここにはなかった。
だからこそ、妹の手当ても出来たのだろう。

「ねえ、お兄ちゃん……」

いつになく、萎れた様子で妹は言った。

「なんか、ごめんなさい」

「なに? 急に。ていうか、なんかって何だよ」

「さっきから、元気ないから……。
もえが悪いんだよね?」

おいおい。気付いていないのか。
あそこまで言っておいて、信じられん。
何だかもう、怒るのさえもアホらしくなってきた。

「もういいよ。はい、終わり」

手当てが終わり立ち上がった俺を、妹は呼び止めた。

「あ、そうだ、お兄ちゃん!」

「今度はなに?」

「これあげる!」

そう言って、妹が差し出した物は、先程コンビニで買ったらしい、得体の知れないグミもどきのお菓子だった。
人に分けてくれるなんて珍しいな、と感じながらもせっかくなので、妹の気持ちを受け取ることにした。

「ありがとう」

そして、やや躊躇い以て口へと運んだ。
咀嚼するほどに味が変わるという、何とも不思議な食べ物だった。
味こそ分からなかったが、それはまあまあいけたと言えた。
妹が興味津々に視線を投げてくるので、俺は少し盛った感想を述べた。

「美味しいよ」

「ホントにホント?」

「うん」

「よかったあ。じゃあ、もえも食べよっと」

「あれ? 珍しい。
萌恵は食べないで、俺に先、くれたの?」

いつもなら、辛抱出来なくて帰り道に袋を開いているというのに。

「だって、またマズかったらやだもん」

「……」

ああ、そうか。
そういうことか。
珍しいことがあるものだと、本気で反省をしたのだと、思っていた俺は本当に愚かな人間だった。
つまりだ、俺は毒味をさせられた訳だ。
俺から、夢のような青春を一瞬にして奪い去った憎たらしい妹に、俺は毒味をさせられたのだ。
口くらい、捻ってもいいよな。

「イテテテ!」

俺は数センチほど引っ張り上げると、手を離した。

「いひゃい! もうなにするのよっ!」

「毒味させてくれた、ほんのお礼だよ」

「なによお! だって、お兄ちゃんがいつも味見しろって言ってたんじゃん!」

やはり、妹の学習能力は欠如している。
俺は改めて、そう思った。

(おしまい)

遅すぎた春、散る。

散っちゃっいました。和久井氏、ごめんなさい。

遅すぎた春、散る。

そして俺は、身の程を知る。

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-02-29

Copyrighted
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