死にたがりラッキーマン
安本の日記
3月25日
今日は人生で最低、最悪の日だ。
今日、俺ほど不幸なやつはいないだろう。
会社が、ついに倒産してしまった。
出勤日がやけに少なくなったり、社員がどんどん減っていったりと兆候は見えていたので、そろそろだろうかとは思っていたが、まさかこんなに早いとは。
…さらに、このことを原因に妻である佳代子にも逃げられてしまった。
佳代子に連絡をして、電車に乗って、帰ってきたらもう家には俺の荷物以外何もなかった。机の上にはメモ書きがあった。そのまま貼り付けておく。
あなたにはほとほと愛想がつきました。
家を出てゆきます。
この離婚届にサインをして、そのまま市役所に出しておいてください。
決して探さないでください。
佳代子
よく見かけるやつだ。
…俺はやはり佳代子に利用されていただけだったのだろうか。
おかしいとは思っていたのだ。結婚して早3年。俺は、自分のお金がどういう風に使われているのか、まったく教えてもらえていなかったのだから。
部屋に増えていく佳代子のブランド物。時がたつに連れて減らされていく俺の小遣い。
…今ならわかる。どう考えたって金目当てだ。それでも、今の今まで気づかなかったのは、恋は盲目、っていうやつなのか。
俺の生きてきた意味はなんだったのだろうか。
俺は運だけはよかったが、生きてきて35年間の幸運は今日の不幸ですべて打ち消されたように感じている。
俺の存在意義は?
先ほどからこのようなことばかり考えている。
3月26日
生きている意味が見出せない。
どことなく、周りの整理を始めた。
アルバムを見つけた。俺と佳代子が写っている。幸せそうだ。
何でこうなったんだろうか。このときから、佳代子は俺のことを金づるとしか思っていなかったのだろうか。
考え出すととまらなくて、見ていられなくて、捨ててしまった。
3月27日
離婚届けを提出した。
これで、今日から、佳代子とは赤の他人だ。
そう考えると、なぜか涙が止まらなくて、35歳にもなってみっともなくわあわあと泣きながら帰った。
今日は、通帳を見つけた。
結婚する前に貯めていたものだ。結婚後のものはやはり佳代子が持っていってしまったらしい。
しばらくはこれで食いつなぐとしよう。
3月28日
身の回りを整理していたら、未練がひとつずつ消えていく気がした。
昔の自分を忘れたくて、携帯の連絡先を全部消した。
一人手で育ててくれた母親にこんな姿は見せられないと、母親の電話番号すら消した。
そうしていくうちに、3日前に悩んでいたことを思い出した。
俺の存在意義って?
…そんなもの、もうどうでもいいじゃあないか。死んでしまえばみな同じ。
存在しなくなれば存在意義ってのはどうでもいいのだ。
吉野の出会い
「あんた馬鹿じゃないんですか」
吉野正は渡された日記を親の敵のように握り締めてしまった。そのせいで日記に皺が入ったがしったことか。
「え?」
目の前のおじさんというにはまだ大分若い男はまさかそんな風に言われるとは、というような顔をしていた。
吉野はどこにでもいそうな大学生である。髪だってどこにでもいそうな黒髪の短髪、顔は多少目つきがわるいかもしれないがまあ普通、背は百七十センチで、高いわけでも低いわけでもない。内面はわりとキツイ自覚があるが…まあ、そんなことはどうでもいい。
吉野はただ、いつもどおりにこのビルの清掃のバイトをしにきたのだ。周りには「ババアかよ!」って言われるが気にしない。働く時間が少ないのに、割ともらえるお金が多いのだ。周りがオッサンやババアばっかりで出会い0なことなんて気にしてない。…気にしてない。
それで、昼過ぎにお勤めを終え、ふと窓を見上げるとやけに綺麗な青空が見え、なんだか屋上に行きたくなったのだ。やっと最近春らしくなってきたのだし、日向ぼっこと洒落込むのもなかなか乙なものではないか、と。
だから昼飯としてビルの隣にあるハンバーガーショップのハンバーガーのセットをわざわざテイクアウトした。しかも最近名づけられたあいつ。いつもはセットで五百円なあいつらをよく食べるが、今日は贅沢をする日と決めたのだ。
その足でビルの内部まで戻って、エレベーターで屋上の一階下まで上がり、そこから階段で屋上に向かった。足取りがいつもより何十倍も軽やかで、柄じゃない鼻歌まで歌ってしまうほど吉野は上機嫌だった。
そんな浮かれすぎた吉野にとって、ドアを開けた瞬間、フェンスによじ登ってる男がいたのはまさに晴天の霹靂というやつだったのだ。晴天だけに。
男が何をしようとしているのか、瞬時に理解した吉野はボルトもびっくりな速度で男を引っつかんで引き摺り下ろした。清掃業でついた筋力をなめてもらっちゃあ困る。
かなり動揺している様子の男に「何で自殺なんか!」と詰め寄ると、男はええと、だのその、だのと言いよどんだ末、吉野に日記を渡し、こういった。
「これを読んでもらうのが一番手っ取り早い」
これが先ほどまでの出来事である。
吉野は深くため息をついた。地獄の底から響いてきているのか、そう思わせるほどに低く、深いため息だった。それから横に座った男をちらりと見やる。
男は日記に書いてあることから察するに三十五歳。顔はくたびれた印象を感じるが、すっきりした鼻筋といい、薄い唇といい、だいぶ整った顔をしている。今は吉野の馬鹿発言とため息にびっくりしたのか少し間抜けな面をしているが。背だって吉野より高い。日記を読むに、内面は人を責めることのできない優しいタイプ。収入は女が金目当てで寄ってくるってほどだし、悪いわけがない。
わお、絵に描いたようなハイスペック。もう嫉妬の念すら浮かばない。
「なのになんでそんな哲学的な理由で死のうとするんですかねえ」
「えっ急に何」
「…独り言です…」
口に出てた。超恥ずかしい。
…いや、恥ずかしいとか言ってる場合じゃない。
考えろ、吉野正。ここでどう行動をとるのかで人生が決まるのだ。ここで間違ったらハイスペックな彼は死んでしまい、残された平凡スペックな俺は罪悪感で廃人になってしまうんだ。
「とりあえず、お名前をお伺いしてもよろしいですか?」
「安本だ。君の名前は?」
「吉野です。ええと、安本さん。なんで、存在意義を追い求めるんじゃなくて、死のう、って考えたんですか?」
ひとまず吉野は最大の疑問をぶつけることに決めた。最初の「馬鹿じゃないですか」発言もこれが理由だ。存在意義が見つからないなら探せばいい。吉野は存外ポジティブな人間だ。
「…そんなこと思いつかなかったなあ…」
思いつかなかった?
「なんでだよ!」
吉野は思わずそう叫んだ。結構大きな声出るんだな自分。
普段そう大声を出すわけではないのに無茶をしたせいで、盛大にむせた。「大丈夫かい君…」と男が背中をなでてくれている。あ、優しい…。
…違う、それどころじゃない!
「…あー、突然叫んでしまって申し訳ないです」
「気にしないでくれ。むしろ君は大丈夫なのかい?」
「ええ、もう大丈夫です。先ほどの話に戻りましょう」
そうだ。吉野の本来の使命は安本さんの自殺を止めることだ。…実際、放っておいてもいいのだろうが、吉野は存外正義感が強い男なのであった。
「思いつかなかった件についてはこの際放っておくとして…じゃあ、今からでも存在意義を探そうとは思わないんですか?安本さんの年齢考えても諦めるような年齢じゃないでしょう」
「ううん…なんか…やだ」
「やだぁ!?」
予想外だ。「もう人生につかれたんだ」とかそこらへんのことを言われるんだと思っていた。何だよ「やだ」って。もっと思考をまわせよ。ガキじゃあるまいし。
「…ええと、理由をお伺いしても…?」
「…一度決めたことは最後までやりぬきたい主義なんだ」
吉野は空を見上げた。今日みたいな青空が似合うすがすがしいほどの笑顔だった。今なら悟りだって開けそうな予感さえする。
吉野は、その笑顔のまま、安本に向き直り、
「ポテト食べます?」
思考をまわすことをやめた。
死にたがりラッキーマン