放課後の戦士たち

人はみんな平等だなんて言うけれど、平等なんかじゃない。
だから僕はこの不条理な世の中を生きて行ける強い力が欲しかった。
そして励まし合える仲間が欲しかった。僕の夢は叶ったよ。
…さあ、駿。
今度は君の番だ。

襲いかかる不条理

 坂の多い街だった。お寺の立ち並ぶ坂道を、青山駿は転がるように走りぬけた。上品な三つ編みの高校生が駿の斜めにかけたカバンのがっさがっさという音を背中で聞いてそっと端によけた。白山祝田通りの交差点に出ると東京タワーが左手に見えてくる。前後に子供を乗せたごつい電動自転車の群れを抜けると図書館があり、三田駅に近づくにつれ、学生の数が増えてくる。駅前で数人の大学生の大きな笑い声をたてていた。それをかき分けて、駿は小さな体を滑らせるようにして進んだ。塾のスタートは五時。小学六年生には飛ぶように街を移動しないとその時間に着席することは難しい。そしてそれは日に日に難易度を増していた。係りの仕事、委員会の役割、先生の手伝い、友達との付き合い……。夢を見る暇も、夕日がこんなに赤く街並みを照らしていることすら気づく暇もなかった。
「いいなあ、小学生は気楽で」
大きく伸びをしながら、大学生が茶化すように駿の背中を笑った。その言葉が駿に聞こえなかったわけではない。駿にはそれが自分を指すとは思ってもいなかっただけだった。
 首からぶら下げた子供用のPASMOで改札を軽く叩いて通過すると、にょきにょきと黒いアスパラが伸びてくるように、ホームからサラリーマンたちがエスカレーターを上がってくる。駿はその横の階段を何段も飛ばして降りた。怪訝そうな大人たちのまなざしにはもう慣れた。駿がちょうどホームに降りたころ、電車が滑り込んできた。
「間に合った」
それに飛び乗り、小さくため息を落とすと黒い窓ガラスに映りこむ自分を見た。
 駿がこの町にやってきて今のような生活を始めてからちょうど一年になる。一年前は、まさか自分が中学受験をするなんて思ってもいなかった。転校する前の学校にも中学受験組はいることはいたが少数派だったので、駿は彼らの存在を特に気に留めたこともなかった。
 駿はドアにもたれかかりバックから社会のテキストを引っ張りだし広げた。勉強が楽しいなんて一度も思ったことはなかった。でも、歴史だけは好きだった。好きだからと言って成績と結びつくわけでもなかったが、テキストを読んでいても苦にならない唯一の教科だった。それでも、二、三ページ読み進めたころ、別の中学受験を目指す少年たちが電車に乗り込んでくると、駿はテキストを小さく棒のように丸めてちらちらとのぞくようにして読むことしかできなくなるのだ。そうしているうちに、駿の脳は一年前の自分に戻る。鉄棒の柱にランドセルを放り投げ、適当にグラウンドを走ると誰かが駿を呼び止め、誰かがボールを投げ、笑い転げる……。さよならもろくに言えないままここに来た。駿がぼんやりしていると、駿のテキストが乗り込んできた男性の腕にあたりばさりと足元に落ちた。
「……Lだ」
少年の誰かが小声でそう言った。駿の塾のテキストはハイレベルのHミドルレベルのM、ローレベルのLで分かれていた。その中でも細かいクラス分けがあり、駿はLの中でも下から二番目だった。テキストをカバンに押し込むようにしまいむと、再び黒い窓ガラスが駿の暗い顔を映した。まるで、逃げられないんだぞ、と脅すかのように。

 中学受験も、この町に越してきたのも、駿に選択肢はなかった。駿は十一歳になるまで、母の青山奈央と二人で小さなアパートで暮らしてきた。奈央は未婚で駿を産み、中古車販売店で事務の仕事をしながら駿を養っていた。決して楽な暮らしではなかったと思うが、奈央との暮らしはそれなりに楽しかった。長い髪を高い位置で結び、細身のジーンズで接客する姿は格好良くて駿の自慢だった。化粧っ気のない奈央なのに、授業参観でほかの母親と比べても美人だと思っていた。タバコと飲酒のせいで声はかすれていたが、その声には迫力があり怒鳴られると駿の友人たちも震え上がってはいたが、友人たちも気さくな駿の母を慕っていた。なんだかんだと奈央を交えて話しているうちに、友人たちは自分の家の不満を吐き出し、納得して帰ってゆく。そんなことも少なくなかった。しかし、その母との別れは突然やってきた。乳がんだった。病名を知ったのは母が亡くなってからで、亡くなるわずかひと月前に、駿はほとんど会ったこともなかった父に突然引き取られることが決まった。
「どうして?なんでなの?」
やせた母はぶっきらぼうに、
「パパは金持ちだからさ、心配ないよ。心配ない」
そう言った。今思えば母はそう言って自分を慰めていたのだろうが、当時の駿には訳が分からず、荷物をまとめて追い出されるように父親のもとへ追いやられたのだから、母に捨てられたものだと思っていた。まだ四十にも満たない母の死の恐怖など駿には想像もできなかった。見るからに具合の悪そうな母を見て、今思えばその場限りの
「今、お母さんは大変だから、僕のところでいったん君を預かるということだ」
と言う父、五十嵐恵一の言葉を信じ納得して駿は恵一の元で暮らすことになった。
 妻子ある恵一が自分のような子供を引き取るということ、それは小学六年の駿にも歓迎されていない身だということは理解できていた。しかし、駿は母が元気になればここを出ていける、それは数日、数週間のことだと信じて疑わなかった。
「自分が育てる、迷惑かけないっていう約束で認知したんだけど……まあ、君に愚痴っても仕方ないんだけどね」
恵一は迎えに来た外車の赤いワゴンの中で、助手席に座らせた駿の方は向かずにバックミラーを見つめながらそう言った。駿は遠ざかる慣れ親しんだ小菅の土手と空いっぱいに広がる夕日の色を目に焼き付けていた。途中、サッカーボールを蹴りながら掛けてゆく友人たちが目に入った。誰も駿に気づくことなく景色は過ぎてゆく。もう、彼らとは会えないような気がして駿は鼻をすすった。大人の都合で人生のレールが切り替わる。それは子供にとっては流される海藻のようになるがままただ身を任せるしかない。そして、それがどこへたどり着くのかもわからない。大人が幸せに導いてくれるとは限らないのだ。恵一は配慮のない自分の発言で駿が泣きべそをかいたのだと思い、申し訳なさそうに後部座席からティッシュボックスを取り駿の膝に置いた。そして大きなため息をひとつ吐いた。
ついた先は、港区三田のバラの生け垣のあるマンションだった。建物こそ古いものの、中はきれいにリノベーションが施されていて、玄関から廊下を進むと広いリビングにはふかふかの絨毯が広がってた。その絨毯の柔らかい感触に駿は雲の上にいるようだと思った。頭上を見上げるとそこには大きなシャンデリアがきらめいている。あちこちに花が飾られ、芳香剤なのかあたりにはいい香りが漂っている。
「こんにちは」
背後から声をかけられた。
「僕の妻の聡子だよ」
駿は頭だけ下げて挨拶をした。どんな形相で自分と対面するのだろうとこわごわ想像を膨らませていた駿だったが、対面キッチンのカウンター越しに見る実際の聡子は駿に聊か緊張していたもののにこやかに優しく微笑んだ。黒く長い髪を縦に巻き、つややかな毛先が胸元で弾んでいる。薄いピンクの頬紅、緩やかなカーブを描いた眉、潤んだ唇。どれを取っても非の打ちどころがなかった。
「疲れたでしょう、何か飲む?」
そう言って大きなシルバーの壁に近寄る。その壁があまりにも大きすぎて、駿はそれが冷蔵庫だということにすぐに気づくことができなかった。
「オレンジジュースならあるんだけど……」
リビングのソファーに腰を下ろすと、聡子の白い指先が駿の前にオレンジジュースの入ったグラスを差し出した。そのグラスの裾にはたくさんの切れ込みが入っていて、駿は校長室の硝子の灰皿を思い出していた。
無言のままの大人二人に見つめられながら、駿は遠慮がちにそのグラスを持ち上げぐっと半分ほど飲んだ。すると聡子が、
「ストロー、あるのよ」
と言ってコースターの脇に置いてあった紙の袋を破きグラスにストローを立ててくれた。細い指の割には大きな爪が印象的だった。ベージュのネイルになにやらきらきらと光るものが乗せてある。華奢な腕には高そうな時計が巻き付いていて、文字盤の硝子が光って何度も反射していた。その時、玄関が開く音がした。
「あ、玲央。帰ってきた!」
聡子が巻髪を揺らして玄関へ走って行くと、恵一は肩を鎮めるほどの大きなため息を吐き、胸元のポケットから煙草を出すと火をつけ煙をくゆらせた。リビングの硝子の扉を先に開けて入ってきたのは玲央だった。切れ長の瞳に筋の通った鼻、幼さが口元だけに残っている。聡子に促され玲央は不機嫌な様子でソファーに座る駿を見下ろした。表情のない整った目元に、駿はぎくりとした。
「お前、いくつ」
「11……」
「11年も黙ってたんだ、隠し子がいること」
駿の答えにかぶるようにして玲央が言い放った。恵一は煙草を持ったまま黙っている。それから玲央はもう一度駿に視線をやると、
「お前さ、何しに来たの?」
と言った。駿は連れてこられた思いでいたので、何しにと言われ答えに窮していると、
「金だろ」
へらっと笑いながらそう言った。駿にはその意味がすぐに分からず、恵一の表情をうかがった。
「ちょっと玲央、小さい子にあんまり変なこと言わないで」
聡子が玲央の肩に手を添えると、玲央はその手を振り払いスリッパを音を立てて引きずるようにして自分の部屋に戻って行った。玲央が自分の部屋を開ける音がすると恵一は煙草を消し、リモコンを取りテレビのニュースに耳を傾け始めた。聡子はまだ残っているジュースのグラスを手に、
「すぐに夕飯にするから、ちょっと待っててね」
と言ってキッチンへ消えていった。残された駿はテレビを見るふりをしながら、恵一の横顔を盗み見た。そして、頭の奥の方の記憶が戻ってきた。
……僕は、この人を一度見たことがある気がする。
その記憶は、こうだ。場所はよく覚えていなが、どこか水辺の喫茶店。ガラスのテーブルの向こう側に、煙草を吸う男の人がいる。奈央は少し苛立っていた。駿は三歳か、四歳か、はっきりしないがまだ小学生ではなかった。何の話をしていたのか細かい記憶はなかったが、その男性がひとことぼそりとつぶやいた。
「僕とはあまり似てないじゃないか……」
それからその男性と別れ、奈央は駿の手を引き電車に乗った。それから小菅の土手に駿を連れて行きそこで大の字になって二人して寝そべった。大きな空には雲ひとつなくおひさまのにおいがして、
「ママ、僕お布団になった気がするよ」
と言ったら、奈央はそうだねと言って笑ったが、目じりから涙が零れ落ちたのを見た。

「ここが君の部屋ね」
夕飯のあと、聡子が玲央の向かいの部屋を指しそう言った。ドアを開けると白木の床にベッドと机と本棚が置いてあり、その片隅に見慣れたよれた古い段ボール二個が、申し訳なさそうにたたずんでいた。
「何か、必要なものがあったら言ってね」
駿は小さくうなづいた。
「いろいろあったから、心の整理がつかないと思うけど、それは私も同じなのよ」
聡子はドアにもたれかかったまま駿を見た。
「ママが元気になったら、すぐ出ていきます」
駿ははっきりとした口調で言った。それを聞いた聡子が安心して笑顔を見せるとばかり思っていた。しかし、現実は駿の思いと全く違った。聡子は薄く眉間にしわを寄せ、小さく震えながら言った。
「……そう、そう聞いてるのね」
「え?」
今度は駿の顔がゆがむ。
「良くなると良いわね……あなたのお母さん」
聡子は静かにドアを閉めた。
ひとり残された駿は、与えられた部屋を改めて見渡した。部屋中のなにもかもが新品だったが、とても殺風景だった。真新しいベッドの上には新品の掛布団と封を切っていないシーツが置いてある。机の上には箱に入ったままの2Bの鉛筆、空っぽの本棚。言いようのない不安が駿に押し寄せてきた。もう、ここ以外帰るところがなくなったらどうしよう。祖父も祖母もだいぶ前に亡くなってしまっている。母に兄弟はいない。もし母が死んでしまったら……。そして、ようやく駿は自分の置かれた状況がのみ込めた。母は死を覚悟していたのだ。
 それから約一か月後、奈央は息を引き取った。それはあまりにも大きな悲しみで、駿は母の遺体を前にしてただ、呆然と立ち尽くしていることしかできなかった。いつどのようにして用意されたのかもわからないスーツを着せられ、遺影を持たされた。うつむく駿の肩に知らない人が手を置き、頑張れよと言った。火葬場の煙を見上げても涙は出てこなかった。心の中が空っぽになってしまった駿は、食欲をなくし日に日に痩せたいった。もともと細い体が一段と小さくなった。そして、夕食時にも口を利かない駿を見かねて、聡子が言った。
「駿君も気を遣うでしょう?どう?自分の部屋で食べる?」
「ママ、それいじめじゃね?」
玲央が嘲笑した。
「……だって、ねえ」
聡子は恵一に視線を送った。恵一は、ああとだけ言い、どちらにもとれる言い方をして逃げた。
「向こうで食べます、僕」
「いいのよ、ここでも」
玲央は白いご飯を口に頬張りながら駿の背中に向けてけたけたと笑い声を立てた。
 自分の部屋に入ると駿は食事を机に置き、窓にもたれて月を見上げた。お寺の多い街なので、下を見ると幾つもの墓地と卒塔婆が見え、東京タワーのオレンジ色が夜空を照らし、タクシーのテールランプが連なっているのが見えた。それから、母のことをゆっくりと思い出した。
「今日は給料前だからさ、粉ものね!」
そう言って奈央はよくお好み焼きを焼いた。ソースとマヨネーズを山ほどかけ、
「駿、贅沢だねー」
と言って笑った。
「駿はさ、あたしに似て顔立ちは良いんだから自信持ちなよ」
そう言って工作ばさみをうまく使って前髪を切ってくれた。そして、
「女泣かせたらただじゃおかないからなー」
そう言って両サイドから両手で頬をはさみこんで、
「タコ!」
と言って笑った。
その手がもうないと思ったら、涙が零れ落ちてきた。ひと粒ふた粒がとめどなく流れるようになり、駿は我を忘れて泣いていた。思い出せば思い出すほど、後悔しか浮かばない。あれも話していない、これもしてあげていない、あの約束も、何も果たしていない……。とめどない悲しみが、駿を打ちのめしていた。そしてそのまま、駿は床で丸くなり眠りについていた。


「玲央も通ったのよ、とてもいい先生がいらっしゃるの」
奈央が亡くなってひと月が過ぎたころだった。帰宅してまだランドセルを背負ったままの駿に、聡子は嬉しそうに塾のパンフレットを見せた。
「僕は……」
「もうすぐ六年生だもの、今からでも遅いくらいよ」
「僕は、公立でいいです。お金もかかるし」
「そんな……」
二人のやり取りを見ていた玲央が口をはさんだ。
「ママが言ってるのは世間体、お前の希望なんか聞いてないんだよ」
「玲央君、そういう言い方はないんじゃない?」
パックの牛乳をあおって飲み干した玲央が聡子の言葉を遮る。
「自分の子供には金のかかる大学付属、夫の隠し子は金のかからない公立って言われるのが耐えられないんだろ」
「そんなことは……」
「だったらやめてやれよ。公立でいいって言ってんじゃん、そいつ。無駄に金使うことないんじゃないの?」
玲央はとげとげしくそう言い放ち、駿を一瞥した。そして駿の肩にぶつかりながら廊下を進み荒々しくドアを閉めた。駿も手渡されたパンフレットをキッチンのカウンターに置き自分の部屋に引っ込もうとしたとき、
「明日は初日だから、私が車で送っていくわね」
聡子はそう言って駿のランドセルをポンと叩いてリビングへ向かった。聡子がいなくなると、玲央の部屋がすっと開いた。
「あいつ、博愛主義者だからさ、お前みたいなかわいそうなガキ、大好物なんだよ」
そう言ってにやりと笑った。
 そして、その翌日から駿の塾通いが始まった。それは停車駅のない特急のようで、乗ったら最後、目的地まで降りることは許されない過酷なものだった。駿はまだそんなことを知る由もなく、賢そうな子供がピンと手を伸ばし目を輝かせている写真のパンフレットを一瞥し、ためらいもなくごみ箱へ捨てた。

 通い始めた当初はクラスの昇降など気にならなかった。ただただ通うのに精いっぱいで、自分の立ち位置がどのくらいなのかなんて二の次だった。オフィスビルの片隅に大きなビルがあり、吸い込まれていく小学生の数に驚き、整然と片付いた受付に似つかわしくないランドセル、奥の階段を上り細かい教室の並ぶフロア。そのどれもが、駿の知ってる学習塾とは違っていて、その雰囲気に慣れることが駿の第一の課題となった。
「とりあえず、通えば良いんだよな」
駿はあくびを噛み殺しながら、意味の分からない授業に耐えた。その光景に見慣れてくると、徐々にクラスの雰囲気を感じ取りだした。講師の目を盗んで膝の上で漫画を広げる少年、カラフルなペンを何度も並べ替えている少女。そしてそれを見て見ぬふりしている講師。楽勝だ、と思った。ここにいればあの家の人間と顔を合わす時間も減るし、講師も学校の先生と違ってお客様に手を出しはしないだろう、そう思った。
 駿の心に火をつけたのは、皮肉にも玲央だった。玲央は塾から帰宅してカバンを背負ったままの洗面台で手を洗おうとしていた駿の背後から近づき、カバンの中から無理やりテキストを出すと声を立てて笑った。
「なにこれLって。やる気あんの?お前」
「返せよ」
「なに?本気だしてこれ?絵なんか描いてるし、バカなんじゃね、お前」
へらへらと笑いながらテキストを駿が手を洗おうとしていた洗面台に投げ捨てた。出しっぱなしだった水にテキストが濡れてゆく。
「なにすんだよ!」
駿は力いっぱい玲央に体当たりをした。玲央の体は壁に打ち付けられ、大きな音を立てて倒れた。
「てめえ」
怒りで玲央の目が変わった。その目を見て、駿は一瞬ひるんだが、玲央は構わず駿の左頬をこぶしで思い切り殴りつけてきた。駿は殴られたのは初めてで、痛みよりも恐怖よりもまず最初に感じたのは驚きだった。それから玲央は駿の腹に膝を入れ、駿を床に伏せさせ自分がその上に乗り駿の髪をつかみ耳元でこうささやいた。
「母ちゃんの腹の中にいるとき死ねば痛い思いしねえで済んだのにな」
玲央は冷たい目をしていた。
「放せ……」
もがく駿の足が浴室の壁にドスンドスンとあたり、その音を聞きつけた聡子が、
「なにしてるの!」
そう言って駆け付け駿はようやく解放された。が、よろよろと立ち上がった駿の背中を玲央はさらに蹴り落した。
「玲央、やめなさい!」
今度は、駿をかばう聡子に向ってかみつく。
「あんたが一番バカなんだよ!ぼーっと金にもならない趣味にうつつを抜かしてるからこいつの母親みたいなあほ女に足元救われんだよ、ばーか」
駿の口に血が混じってきた。体中に痛みが走ったが、駿は玲央に向って叫んだ。
「ママを悪く言うな!」
「言われたくなかったらな、言われるようなことすんじゃねえよ!」
玲央の足が駿の目の前に飛んできた。咄嗟にぎゅっと目をつぶりそのまま駿は意識を失った。

 目を覚ますと、駿はリビングのソファーに横たわっていて、すでに傷の手当てが施されており、傍らには缶ビールを持った恵一がパジャマ姿でメジャーリーグの中継を観ていた。駿が体を持ち上げるとズキンと体中に痛みが走った。
「起きたか」
恵一は駿の顔色を見て、ほっとした様子でため息をついた。
「いろいろあると思うが、うまくやってくれよ」
「僕じゃなくて玲央が……」
「それも含めてだ。ごたごたはたくさんだ」
駿はもうひとこともふたことも恵一に言いたいことはあったが、恵一の意識はメジャーリーグへとすでにうつってしまっていて、きっともうこれ以上話しても無駄なのだと悟った。駿はよたよたと起き上がり自分のベッドへ戻ることにした。二、三歩足を進めたところで、やはりどうにもならなくて駿は恵一を振り返った。
「僕のママは、あほじゃない!あほはあんただ!」
その時、誰かがヒットを打ちテレビから歓声がワッとあがり、恵一もソファーから思わず腰を浮かせるほど喜んだ。駿はもうそれ以上声を張る元気もなく壁を伝いながら自分の部屋へと戻って行った。
 いまだに肌になじまない布団の中で背中を丸めて小さくなって目を閉じた。体を縮めれば縮めるほど腹の虫が鳴る。駿は、夕飯を食べ損ねたことに今ごろ気が付いたのだ。母を罵った玲央の言葉が脳裏にこびりついて離れない。泣くもんかと歯を食いしばってみても鼻の奥が痛くなってきて涙で布団が冷たくなっていった。
「早くここを出て自由になりたい……」
布団越しに、机の上にぐしょりと濡れてよれたテキストが置いてあるのが見える。
「あれでトップに行けば、玲央の僕を殴る理由がひとつ減る……」
駿は体を起こすとテキストと卓上ライトを引き寄せ、布団にくるまったままそれを広げた。読んでも読んでも何も言葉は入ってこなかった。それよりも体を動かすたびに筋肉のあちこちがぎしぎしと痛んで、駿は顔をゆがめた。駿はそれでもあきらめようとはしなかった。

 それから半年が過ぎ、五月の連休が過ぎたころ、駿はようやくこの窮屈な生活に慣れ始めていた。玲央の不条理な暴力は相変わらず続いていて、駿に無関心だった恵一までもがそれを咎めるようになっていた。しかし、玲央は恵一の言うことなど聞くはずもなく、駿を誰かがかばえばかばうほど、玲央は駿を殴った。そのころには恵一も聡子も、玲央が壊れていることに気が付き始めていたが、なすすべなく時間だけが過ぎて行った。四方を壁で遮られたかのような閉塞感の中、駿は毎週配られるテキストをむさぼるように片付けて行った。もう下に道はないけれど、上へ続く階段が残されている、そんな気がしていた。
 そして、ある日突然、ついに雲が開け頂上が見え始めたのだ。駿はその視線の先に見つけた光に夢中になって食らいついた。知識の点と点が星座を結ぶようにつながり、やがてそれが面となり空白を埋めてゆく。そして、駿は最後の最後のピースを見つけた。震える両手でそのピースをはめ込みそっと手を離した。駿は頂上に上り詰めたのだ。テストが返され、順位を見る。初めて見る一桁の数字、駿はその場で立ち上がり思わず叫んだ。成績表を配っていた社会の猿渡が駿を見て、騒がない!と注意したが、その声に怒りはなかった。
 その翌週、駿は新しいクラスの扉を開けた。まずは細く開け、中の音を確認する。そして、ゆっくりと中の様子をうかがいながらドアを開け中に入った。しんと鎮まる教室に半分くらいの生徒がすでに席に座っていて、思い思いにテキストをひろげていた。女子は二人ほどで、二人とも黙って活字を追っている。駿はその中のちょうど真ん中の席を選び腰を下ろした。すると駿の背中を後ろからつつく者がいた。
「初めて?ここ」
「え?ああ」
「良かったー。俺も、クラス上がったはいいけど緊張するよ、ここの空気」
「なんで僕が初めてってわかったの?」
「挙動不審だもん」
駿より一回り小さな少年はそう言ってにっと笑った。
「俺、石井悠斗」
「青山駿。よろしくな」
「おう」
「僕もここ久しぶりなんだ」
隣の席のふっくらした少年も駿と悠斗のやり取りを見ていて声をかけてきた。
「へえー、なじんでるように見えるぞ、お前」
「見た目で判断するなよお」
二人はくすくす笑いあった。
「名前は?」
「皆川理玖」
「よろしくな、理玖」
駿がそういうと、理玖は視線を上げ、小さく、あっ、と声を立てた。
「あいつだよ、この校舎のトップ。佐伯隆之介。すごく頭がいいんだ」
駿は理玖の目線を追った。その先には、白のラルフローレンのポロシャツに長めの栗毛色の髪をした少年がいた。そして理玖を見つけると目じりを細めた。
「理玖!頑張ったんだな!」
そう言って上品に笑う隆之介は本当にうれしそうだった。そして隆之介は駿と悠斗にも微笑みかけた。
「初めて見るな、君たちは」
「うん、初めてこのクラスに来た」
悠斗が先に名乗ると、隆之介は次に駿を見つめた。その時初めて隆之介の瞳が茶色いということに気が付いた。隆之介が微笑むと、なぜだか涙が出るほどうれしくなった。そして、なんとも照れくさかった。僕はこの笑顔を見るために今まで頑張ってきたのかもしれない、そんなふうにさえ駿は思えた。
「青山駿だ。よろしく」
「シュン?どういう字を書くの?」
静かでまっすぐな隆之介の目が駿を見つめている。
「え?えっと、馬って書いて……あ、宮崎駿の……」
駿は自分でもおかしいくらいに緊張してうまく答えられず手こずってしまった。
「へえ……いい名前だね」
隆之介はさらに目じりを細め感慨深げに頷いた。
「僕は佐伯隆之介。よろしくな」
隆之介が差し出した手に、駿は遠慮がちに手を添えるとその手はしっかりと握り返してきた。暖かくて体の割には厚みのあるやわらかい手のひらだった。
 それが駿と隆之介の出会いだった。

隆之介の秘密

 隆之介は一番前の席で、体を横へ向け右耳だけ黒板の方へ向けて座る。隆之介は幼いころの事故で左耳がほとんど聞こえないということを駿は最近理玖から聞いて知った。駿は隆之介のすぐ後ろに座るので、隆之介の横顔越しに黒板を見られることがひそかな楽しみになっていたので初めてそれを聞いたときは衝撃を受けた。テキストに目を落としたまま隆之介の全身が耳になる瞬間がある。伸びた前髪が鼻先から上を隠し唇だけが講師の言葉を繰り返すたびに震える。駿はその時の隆之介は本当に美しいと思った。美しいなどという言葉を同い年の、そして少年にむけて使うとは思っていなかったが、それ以外にふさわしい言葉を思いつかなかった。そして、駿はかすかな隆之介のつぶやきを一番近くで聞いていられることを誇りに思うようになっていた。隆之介は授業が終わるとあどけない顔で一番に駿を見る。
「終わったね」
「あー、疲れた」
そう言って駿が机に突っ伏すと、隆之介は駿の頭を持って激しく左右に揺らす。
「やめろー、脳みそが出る!」
隆之介が声を立てて笑う。
「帰ろう」
塾に放課後はない。駿は未練がましくゆっくりと立ち上がると隆之介のあとを追って教室を出た。
「隆之介と同じ学校に行けば、もっと一緒にいられるんだよな……」
駿は心の中でつぶやくだけのつもりだったが、思いが思わず口をつき焦った。
「何?何か言った?」
「ううん、何も」
隆之介と同じ学校に受かるためには、まず来週のテストは落とせない。階段をリズムよく降りて行きながら、受付前のエントランスで保護者と混ざり合う塾生たちを見つめてそう思った。
「負けられない……」
駿は自分でもあきれてしまうほど、心が隆之介に染まっていくのを感じていた。

 夏休みに入るとすぐ、聡子と玲央は友人たち家族とハワイへ行くと言い残し留守になった。恵一は毎年この時期のにわか一人暮らしを楽しみにしているのだと聡子は言い、駿にも気にすることはないと言い切った。実際、恵一は聡子の言った通り気ままに過ごしていて、いつもよりとても陽気だった。飲んで帰ってきた日はずいぶんとご機嫌で、寝息を立てていた駿を布団からひきはがすように起こして土産の寿司をむりやり食べさせながら言った。
「婿養子ってのはな、お前が考えるよりよっぽど大変なんだよ、わかるか駿。あっちに気を使いこっちに気を使い、奥さん子供の機嫌をとって、自分なんてもんは殺して生きてんだよ」
酒臭い恵一を横目で睨んで、好物のイクラだけ食べて立ち上がろうとすると、
「ほら、お前も奈央のこと話せ。今くらいしか話す時間ないんだから」
恵一は聞いてやるぞと言わんばかりに駿の横に胡坐をかいて真っ赤な顔でにこにこと笑った。さあ、と促すように恵一はグラスを上にあげる。
「話すことなんて、ない」
「そんなことないだろう、奈央との思い出とか何かあるだろう」
「ない」
駿はしつこく迫る恵一を叩き切るかのように言葉を振りかざした。深夜番組の芸人のふざける声とエアコンの風の音だけがリビングに響いている。
「ない……か」
「もう寝ていいですか」
苦笑するしかない恵一は、ああとだけ言って駿を解放した。

「あれ、もう行くのか」
翌朝、まだパジャマ姿の恵一があくびをしながら聞く。
「はい、行ってきます」
「夏期講習って、午後からだって聞いてるけど、違うのか」
本当は一時間も早い。それでも駿は父と同じ空気を吸うのは一瞬でも少ないほうがいいと思った。
「行ってきます」
スニーカーのかかとを踏んずけたまま、恵一の言葉を遮って玄関を飛び出した。
 駿は途中コンビニでおにぎりを買い、それにかじりつきながら駅から塾へ歩いた。最初の横断歩道に来ると、午前中の授業を終えた四年生の集団とすれ違った。ブルーの塾のロゴの旗を持った年配の警備員が駿を見つけ笑う。
「食事くらい落ち着いて取ったらどうだ」
「……」
口いっぱいの駿はうなづくだけで精いっぱいだった。
「頑張れよー」
駿は警備員に手を振りすぐに駆け出した。

 クラスにつきドアを開けると、冷房のひんやりとした空気が駿の肌をなで思わずため息を漏らした。誰もいないと思った教室の隅に、澤井まりあがちょこんと座って持っていた本から顔を上げた。
「あれ?早いね」
うん、とだけ返事をしてまりあは再び顔を下に向けてしまった。白い頬に薄いそばかすがある。まつ毛は長く伸び、瞬きをするたびにふさふさと音がしそうだった。
「なに読んでるの」
そういいながら、駿は広げられた本を無理やり立たせ、背表紙を確認した。その時、駿の指がまりあの指に触れ、まりあがあわてて手を引っ込めたので本が床にばさりと音を立てて落ちた。
「何これ?何語?」
それは駿が今まで見たこともない文字の羅列で、駿は思わず眉をしかめた。
「イタリア語……」
「ィ、イタリア語!?お前、イタリア人なの!?」
「ママの方のおばあちゃんがイタリア人で、おじいちゃんとパパは日本人だから私はクウォーターで……」
駿がいちいち大きな声を上げるものだから、まりあの声がどんどんか細くなってゆく。駿は、へえと言いながらまりあの顔をまじまじと見つめた。
「そう言われると、そうかもな……でも、僕、イタリア人なんて直接見たことがないからわかんないや」
瞬きもせずにまりあの顔を見つめ続ける駿に、まりあはたまらず顔を赤らめてうつむいた。
「で?何読んでるの?」
駿はまりあの前にどかっと腰を下ろし、パラパラとめくってみた。
赤毛のアン…知ってる?
「…ああ、なんとなく」
「男の子はあんまり興味ないよね」
まりあがふわっと笑った。
「うん、女の子が主役じゃね…。他にないの?」
「どんなの?」
「例えば、敵をバタバタ倒す感じで、スカッとするような…」
まりあが小首を傾げ考える。
「歴史小説はどう?歴史の勉強にもなるし」
「勉強!?もうたくさんだよ」
「そんな事ないよ」
まりあはそう言ってカバンから文庫本を取り出した。表紙には坂本龍馬のイラストがあった。
それを受け取った駿はぶつぶつ言いながらも少しずつページをめくり始めた。まりあは駿の意識が本の中へ吸い込まれてゆくのを感じ、目を細めた。そして駿の口元に小さな米粒を見つけそれを指摘しようとすると、ぱらぱらと生徒が入室し始め、2人の静寂は奪われて行った。
「これ、借りても良い?」
駿とまりあの視線があい、まりあがうなづいた瞬間、2人の関係に変化が生じた事をお互いにぼんやりとではあったが感じていた。まりあは駿の口元が気になりなんども伝えようとしたのだがかなわず、あきらめたころ、駿は自ら気づき慌てて手の甲でこすり落とした。まりあは誰にも気づかれないようにこっそりと小さく笑った。
 それから駿は、週に一回の割合でまりあから本を借りるようになった。まりあが勧める本はどれも駿を虜にし、二人が教室で言葉を交わすことはほとんどなかったが、読み終えた本の数に比例して二人の距離は近づいていった。そしてある日、本の間に小さな手紙が挟み込まれるようになった。便箋の表にはまりあ、裏にはその返事を駿が書くようになっていった。最初の目的は、飽きっぽい駿のためにその本の読みどころをまりあが書き添えることだったが、そのうちにお互いの近況がつづられるようになった。
「昨日のテストは難しかったね。私、今回は自信がないな   まりあ」
「僕も。国語、時間足りなかった。次回、がんばろー   駿」
「先週、K女学院の文化祭に行って来たんだ。やっぱり私、K女学院に行きたい。駿は?もう決めた?志望校   まりあ」
「僕は、まだわからない。M中学か、S大付属かな。あ、でも隆之介たちと今年の国立の付属の文化祭に行くんだ。そこを見てから決める。ってより、隆之介と一緒ならどこでもイイや    駿」
「駿は隆之介と本当に仲良しなんだね。うらやましくなっちゃうな。国立、気にいるといいね   まりあ」
「K女学院って、あの茶色いブレザーのところでしょ?まりあに似合うかもね……」
駿はそこまで書いて慌てて消した。塾の壁に貼ってあるポスターの制服、きっと白い肌のまりあには似合うと思ったが、文字にすると突然恥ずかしくなったのだ。
「まりあなら大丈夫だよ、頑張れよな。俺も頑張るよ」
俺なんて使ったのも初めてだった。しかし、もうそれ以上読み返す勇気もなく、駿は手紙を折りたたみ本を閉じた。

 夏休みも後半に入ると、いよいよ学校別の授業に入っていった。まず女子と男子に分かれ、その中でも細かく志望校別に分かれていった。駿が決めかねていると聡子が
「無難なところにしたほうがいいわよ」
そう言って学校の偏差値一覧のあるラインを指でなぞり、
「このあたりね」
そうつぶやいた。あくまでもどこに行きたいかどこが合ってるかなんてことより、世間の評価が第一なのだと駿はつくづくそう思ったが、隆之介も駿と同じコースを選んでいて、駿は途端にうれしくなった。
「てっきり国立選んだかと思ってたよ」
「……うん、まあね」
このクラスには二人以外に見慣れた顔が一人いた。ほとんど口をきいた事のない大谷雅哉だった。細身の長身で、黒縁のレンズの厚い眼鏡をかけている。髪は短髪で、講師にあてられると滑舌の良い早口で回答を述べるのが特徴的だった。
駿と隆之介が昼食を終えた後の少ない休み時間を小さなマグネットの将棋を指して時間をつぶしていた。将棋を全く知らない駿に、隆之介は丁寧に教えてくれていた。
「マグネットだと、いまいち気分がでないよな」
「そうなの?」
「本当はこうしてピシって音が出るように打ち込むんだ」
隆之介は人差し指と中指で駒を挟むと、すっと指を伸ばしてそれを置いた。
「へえ……」
すると、横でその様子を見ていた雅哉が駿を見下すように口を挟んだ。
「いっくらやっても君みたいにセンスがない奴は強くなんかならないよ」
言われても仕方のないほどの腕前の駿はへらへらと笑いながら、
「これから強くなるんだから良いんだよ」
そういうと、珍しく隆之介はとがった言い方をした。
「じゃあ、勝負してみる?……」
「え?」
隆之介は雅哉の耳元で何かをささやいた。すると雅哉の目つきが挑戦的な色に変わり、
「ああ、いいとも!」
そして二人は向かい合いにらみ合った。駿は隆之介を取られたようで少し雅哉に腹がたったが、その勝負を見たさにクラスの男子たちが寄ってきてたちまち人だかりができた。駿の肩に誰かがのしかかり、小声ですげえと言った。駿には何がどうなっているのかわからず、ふたりのにらみ合いを見つめているだけだったが、次第に雅哉が体を揺らし始め、爪を噛んで考えるしぐさが増えてきた。
「おーい!始めるぞ!」
そう言って猿渡が教室に入ってきた。それでも人だかりは散らず、猿渡は声を荒げながら、
「何やってるんだ?」
と駿たちの頭上から覗き込んできた。
「先生、もうちょっと……」
周りの男子たちが口々に懇願する。しょうがないなあと言いながら、猿渡も思いがけない好勝負の行方を黙って見守った。
それから四、五分経った頃だろうか。雅哉がうーんとうなり、頭を抱え込み急にぼさぼさと掻き毟り、絞るような声で、
「……参りました」と言った。
隆之介の厳しい顔も緩み、ほっと一息をついた。
「いい勝負だったな、二人とも」
猿渡は腕時計を確認しながら速足で黒板の前に戻った。そして、なぜかうれしそうだった。
「強いな、お前」
「お前もな」
「誰に教わったの?」
「じいちゃん」
隆之介はそう答えると自分の席に戻り、駿にだけ見えるようにこぶしを突き立てて見せた。駿もそれにこたえるようにこぶしを突き上げた。

 事件が起きたのはお盆休み明けのことだった。
  その日は朝寝坊をしている啓一を残して、聡子は実母の具合が悪いらしく急きょ横浜の実家へ、礼央は友人宅に泊まりに行っていて2人とも留守だった。いつもなら聡子が朝食を用意し、出かける前にはお弁当を準備していてくれるのだが、啓一ではそれは見込めない。駿は冷蔵庫を開け、とりあえず朝食だけ食べて出かけることにした。すると、
「もうこんな時間なんだな」
ようやく起きてきたパジャマ姿の啓一が新聞を脇に挟み、頭を掻きながら言った。
「ようし、俺がやろう」
と言って駿をキッチンから追い出した。
「僕はパンだけ焼いてそれ食べて行くので別に……」
「そんなんじゃ持たないよ、ちゃんと食わなくちゃ」
張り切る恵一に何を言っても無駄だと悟り、駿はカウンターの真ん中に恵一に背を向けて座った。ガチャガチャとやたら大きな音を立て、啓一は奮闘している。駿はつけっぱなしのテレビを見つめながら時計を見た。もうそろそろ出かけないと遅刻する。そう思った矢先、
「わあ!」
「あつっ!」
駿は首筋に何か熱いものがあたりあわてて立ち上がり背中を払った。振り向くと恵一の煽ったチャーハンがいたるところに飛び散っていて、恵一は情けなさそうにフライパンを片手に笑った。
 結局、二人は駅前の蕎麦屋に立ち寄り、カウンターに並びそばをすすった。
「チャーハンくらいいけると思ったんだけどな」
恵一はまだ悔しそうに言っている。
「……奈央は、わりと料理が上手だったな」
駿の眉間にしわが寄る。そんなことを話すつもりはないと言わんばかりに駿は音を立ててそばのつゆをすすった。しかし、恵一は構わず続ける。
「情けない男で、申し訳ない」
お盆だからか、客は駿と恵一だけだったが、数人の観光客が店に入り一気ににぎやかになった。中国語だろうか、従業員たちが彼らの注文を取るのにてこずっている。駿は恵一にこたえることなくそばを食べ終え、口を拭いて席を立った。
「もう行きます」
「ちょっと……」
恵一も慌てて席を立つ。
「駿!」
呼び止められ振り返ると、恵一の大きな手が駿の目の前にかざされた。駿はそれをのけぞるように除けたが、恵一は駿の頭を撫でようとしただけだったのだ。駿にもそれは理解できたが、受け付けることはできなかった。そのまま駆け出して改札を抜けることもできたのだが、駿はそれではあまりにも薄情な気がして恵一の目を見てこう言った。
「一日も早く自立します、迷惑は……もうかけてるけど、これ以上かけません」
犬ですら捨てた飼い主のことを覚えているという。駿がどうしてそれを忘れることができよう。駿はエスカレータを駆け上り恵一の視界から消えた。今度は自分が捨てられたのだ、恵一はようやく悟り、やせた姿で恵一に最後の頼みをしに来た奈央のことを思い出していた。不忍池が窓辺でキラキラと光っていた夏の喫茶店。かたくなに拒む恵一の足元に、奈央は土下座をした。恵一は、自ら招いた罰としてのこ罪悪感から一生解放されることはないのだと駿の見えなくなった方向を見つめながら思った。

 恵一と別れた駿は、隆之介のことで頭がいっぱいだった。お盆休みのわずかな間ですら、隆之介が恋しい。人気の少ないオフィス街を息せき切って駆け抜けた。肩で息をしながら信号で足を止め腕時計を見ると、三十分は過ぎてしまっていた。先を急ごうと角を曲がったとき、見慣れた隆之介のバックが濃い色のTシャツを着た大きな男に路地へと引き込まれるのが見えた。いつもいる警備員の姿も、もうこの時間になると見えなくなる。駿は慌てて隆之介のあとを追った。飲食店のブルーのごみ箱が並ぶ路地を抜けると小さな鳥居があった。その袋小路になった奥の方で、汚れた塀に隆之介の体が男に叩き付けられていた。隆之介は足をばたつかせそのつま先がかろうじて男のあごにあたり、ひるんだすきに隆之介は転びながらも駆け出そうとした。しかし男は隆之介の足をがっしりとつかみ離さない。男の手が隆之介の体をつたいやがてその手が隆之介の首に絡んだ。駿はとっさに大声を上げた。
「おまわりさん、早く!子供が襲われてる!!」
駿の声を聴いた男は隆之介からすぐに体を離し、駿を突き飛ばして走り去った。
「大丈夫か?隆之介」
「ああ、ありがとう。でも、何でもないよ」
「なんでもないって知ってる人なの?」
「いや、知らない。いきなり襲われた。駅からずっと変な感じはしていたんだけど、どうやらずっとつけられていたんだね」
隆之介の顔が青白い。駿は隆之介の半そでのポロシャツの袖口に血がついているのを見つけた。
「血が出てるよ、あいつ、ナイフ持ってたんだ!やっぱり警察に行こうよ」
いや、と言って隆之介はカバンからタオルを引っ張り出し、傷口に当てながら、
「誰にも、言わないでくれ」と言った。
「だって、こんなに血が」
「お願いだ、今は、騒ぎにしたくない」
隆之介が必死に訴える。隆之介のタオルが赤く滲むのを見て、駿は黙った。胸騒ぎも覚えた。それでも、駿は隆之介の目を見つめこう言った。
「わかった、約束する」
駿のその言葉を聞くと、隆之介はいつもの穏やかな表情に戻り傷口に目をやった。
「痛む?」
「ああ、少し」
「まだ血が出るね」
隆之介は心配そうに自分の傷を見つめる駿をみて言った。
「何にも聞かないんだね、駿は」
「だって、言いたくないんだろ」
隆之介はうなづく。駿は少し考えてから、
「言いたくないことは言わなくていいんじゃない?」
そう言った。それは今の自分にも言えることだった。どんなに隆之介を信用していても、今は言いたくないことがある。隆之介だけには言えないこともある。きっと、隆之介にもそうかもしれないと思った。そんなことを穿り返し合うよりももっと違う話がしたい、駿はそう思って隆之介の目を見ると、少し驚いたような顔をして、今にも泣きだしそうな目をそっと伏せた。駿にはその少し悲しそうな目が自分の思いとダブり、口元にぐっと力を込め無理やり笑った。隆之介の前で涙は見せたくなかった。きっと隆之介も同じだと、駿は確信した。
「そろそろ行くか!」
「ああ」
二人はどちらからともなく駆け出した。オフィス街にも、降り注ぐようにしてセミが鳴いていた。

志望校決定

 二学期に入って二度目の月曜日、駿は聡子に言われて大きなマスクをつけて登校した。前の日の夜、玲央は再び駿を殴りつけたのだ。口元を青く腫れさせたままの駿を見かねて聡子がマスクで隠すように言ったのだ。
「どうして殴られるの?理由があるはずでしょう」
駿は聡子の執拗な追及にもかたくなに口を閉ざした。口を開けば、結局また殴られるのはわかっているからだ。
「理由?僕のことが嫌いだからじゃないですか」
聡子は巻き付けたガウンをさらにきゅっと体に引き寄せいやなものを見るかのように駿を見た。
 駿はマスクの中が蒸れてきて苦しくて仕方がなかったが、あきらめたようにため息を吐き捨て学校へと向かった。その道すがら、昨日の玲央のことを考えていた。
「お前も、あいつといっしょだな」
その駿の言葉に玲央は激高したのだ。しかし、駿は殴られている間にも負けた気はしなかった。駿は偶然に、玲央が携帯で話しているのを聞いてしまったのだ。誰もいないと思って帰ってきたリビングのソファーに横になってテキストを読んでいる駿を見落とし、キッチンに向かい冷蔵庫を開けながら玲央は話し続けていた。
「……おう、まじで。産むとかってありえなくね。結婚とかってまじわかんねえ。俺がりえと結婚なんかするわけねえじゃん」
駿がゆっくり体を起こし玲央を見ると、振り向いた玲央は持っていた牛乳のパックをするりと落としてしまった。
「お前、なに人の話聞いてんだよ」
そう言われて駿はあの一言を玲央に放ったのだ。
 駿は学校ではひとりぼっちだった。自分からなじもうとはしなかったし、出来上がってしまっているグループに今更入ることがとても億劫に感じられたからだ。それと、都会の真ん中のこの狭い校庭で新しい友人たちとはしゃいでしまったら、負けてしまったことになるような気がしていた。駿の様子を心配した担任に呼び出されて、自分の気持ちを述べてはみたが若い女性教師は首をかしげては、
「前の学校からいただいている書類と、今の君の印象、ずいぶん違うのよね……」
そういうばかりだった。そんな担任だったのでマスク姿の駿に、はつらつとした健康的な笑顔で、
「好き嫌いばかりしてるんじゃないの?」
と、的外れなことを言って駿を困惑させた。
 駿の異変に気付いたのは、やはり隆之介だった。教室に入り、駿のマスクを見た瞬間、隆之介は駿のマスクを引っ張った。
「何すんだよ」
駿がそう言って笑っても、龍之介の目は笑わなかった。駿はマスクを直しバックからテキストを取り出して並べ始めた。
「良くあるの?」
駿は隆之介の目を見ずに視線をそらしたままうなづいた。
「たまにね」

その日の帰り、隆之介が言った。
「今度の金曜、一緒に帰ろう。送ってくよ」
「送ってくって?タクシーで?」
隆之介の両親は一度も塾に来たことがない。その代わり、いつも決まったタクシーが塾の帰りに駅前で舞っていて、駿はそれに乗って帰るのだ。
「金曜なら少し遅くなっても大丈夫だろ?」
「ああ、でも良いの?」
隆之介はにっこり笑うと、
「少し寄り道して帰ろう」
そう言って、駿の笑顔を誘った。

 金曜日の夜、隆之介は約束通り駿をタクシーに乗せた。運転手の60代半ばの男性は新田と名乗り、しきりに今の小学生は大変だと繰り返していた。
「新田さん、あの場所に寄りたいんだ」
「ああ、いいですよ。そのかわり、寄り道は十五分程度ですよ、坊ちゃん」
「坊ちゃんはやめてってば」
新田はミラー越しに駿を見て、おどけて笑って見せた。 
 タクシーは昭和通りを進み、三原橋交差点を右折した。そこからしばらく進むと晴海ふ頭公園へと出た。フロントガラスいっぱいに広がる夜景に、駿は思わず歓声を上げた。
「十五分だけですよ、十五分」
新田の言葉に、隆之介は何度もうなづくと、駿を車外へ連れ出した。
「本当に海のにおいがする!」
興奮しておかしなことを言う駿を横に座らせ、駿はポケットからキャラメルを取り出し駿に渡した。
「これ、僕らの一服ね」
そう言って隆之介が振り返ると、新田が眠たそうに煙草の煙を吐き出していた。キャラメルを口に放り込み駿は両腕を地面に下ろし、足を投げ出した。水面がチャプチャプと壁に当たっている音が聞こえた。
「風が気持ちいいね」
「ああ」
短い会話が途切れるたび、沈黙が長くなる。そのうちに駿は感じ取った。隆之介は自分に何か打ち明けようとしているのだ。
「僕さ、母さんが去年死んで、今は今まであったこともなかった父親の元で暮らしてるんだ……」
駿は隆之介が打ち明ける前に、自分の置かれた環境を話して聞かせた。不倫の果て生まれてきた自分、玲央の暴力、そしてもう帰る家は他にないこと。
「こないだのあざは、その玲央ってやつが?」
「ああ、あいつは同じところばかり殴る。やなやつだよ」
「……駿」
隆之介が静かに言った。
「僕の話も聞いてくれる?」
「ああ、もちろん」

「僕は、僕の本当の名前は佐伯隆之介じゃない。桜井……駿って言うんだ。そう、駿とおんなじ字を書く駿だ。僕は、本物の隆之介の代わりでこの塾へ来てる。頼まれたんだ。新田さんも、僕が隆之介だと思ってる。本当の僕はお坊ちゃんなんかじゃない、飲んだくれの母親と二人きりの家族だ。今も彼女はうちにはいないで、どこかで飲んでいるんだと思う。最初は面白半分だったんだ。暇を持て余していたし、酔っぱらっている母親の帰りなんか待っているのも嫌だったしね。それが、だんだん楽しくなってきて、仲間ができて、成績優秀者っていうメダルをいくつももらって、誇らしかったよ、自分が。でも、いつばれてしまうんだろうって考えると不安でたまらなくなった。それを思うと生きた心地がしなかった。雅哉は早くからあの塾にいたから、僕が自分の前に突然立ちはだかったから感づいていたみたいなんだ。あの、将棋の勝負で、僕は黙っていてくれることをかけたんだ、負けたらこの塾をやめるって。でも、そんなことはできないから必死だったよ。雅哉も僕の存在を煙たがっていたしね、だからこそ二人ともいい勝負ができたんだと思うけど。僕は、隆之介の代わりにこの塾に来てるだけだから、初めからどこかの中学を受けるつもりはなかったんだ。そんなお金どこ探したってないしね。でも、僕は、国立付属だけ受けてみようと思う。そこなら金銭的になんとかなりそうだし、それに……駿が一緒だったら僕は、最高だな」
隆之介ははにかんでいた顔を一変させ話をつづけた。
「駿、僕にはね、3歳下の妹がいたんだ。4歳になる前に亡くなってしまったんだけど。僕らの母親は十代の時、未婚で僕らを産んで、すぐに再婚したんだ。その男はとても暴力的でね、僕はよくその男に殴られたよ。耳が不自由になったのもその男にやられたせいなんだ。でも僕は妹に手をあげられることの方が耐えられなかったから、必死で妹をかばったんだ。それでもある日学校から帰ったら、妹は布団の上で冷たくなっていたんだ。体中腫れあがって、すぐにあの男がやったんだってわかって逮捕されたけど、もう妹は帰ってこないんだ。何度も何度も妹とにげようとしたけど、子供の力なんてたかが知れててにげるたびに暴力はひどくなったよ。その時、思ったんだ。早く、早く大人になりたいって。そう思っていたんだけどね、駿、君といるようになってからなんだ。あんなに煩わしかった子供でいる時間なのに、今はいとおしくさえ感じるんだ、君といると。さっきもね、新田さんのタクシーが夜空を飛んでるように見えたんだよ。そんなこと絶対ないのに、でも、僕はまだ子供でいられるんだって思ったら、すごくうれしくなった。それでも、時間には限りがあるから、僕が大人になったとき、妹のような子供はもう見たくないんだ。何をすればいいのか、今はそれが何かはわからないけど、どんなことにも耐えられるような知識は持っていたいんだ。僕らは、不条理な世界を生きていかなきゃいけないから、それに耐えられる力が欲しいんだ。それと、大切な友達が」
隆之介はそこまで一気に話し終えると、ふうっと息を吐いた。
「初めてだよ、こんなに自分の気持ちを赤裸々に打ち明けたの」
少し興奮しているのか、隆之介の頬が赤らんでいる。
「隆之介……じゃないや、シュン、やっぱり、すごいや、お前」
駿は何度も袖で目をこすり我慢していたのだが、どうしてもシュンの顔がにじんでしまう。
「駿、僕の、僕の親友になって欲しい」
しゃくりあげるばかりの駿だったが、ようやくシュンの手に自分の手を添えると、シュンはぎゅっと駿を引っ張り抱きしめた。
「シュン、僕、なるよ、シュンの親友」
「よろしくな、駿」
ちょうどその時だった、新田が二人を呼び寄せる。
「お坊ちゃん方、そろそろ出発しますよー」
「お坊ちゃんじゃないってば」
そう言いながら、シュンも袖で顔をぬぐっていた。
泣きはらした二人の顔を見た新田は、
「何?何かあったんですか?飼っていたウサギが死んだとか?」
そう言って何度も振り向いた。
「新田さん、そんなことより、早く帰ろう。僕、おなか空いたよ」
「僕も」
「そういや俺も食ってなかったな、そうだ、ラーメンでも食ってくか?」
歓声に沸く後部座席を、新田はバックミラー越しに目を細めてみていた。

放課後の戦士たち

放課後の戦士たち

12歳の受験戦争。放課後、少年たちはそれぞれの理由を抱え、戦士になります。武器はとがった鉛筆と丸まった消しゴム、そして孤独を分かち合える仲間。 少年たちが息をひそめる塾の一室は牢屋なのか否か。ひとりの少年、青山駿を通して見えてくる少年たちの置かれた不条理な境遇。 そして、ある講師が駿たちを奮い立たせるように叫んだ言葉、 『不満があったら主張を述べよ!主張したいのなら他人より多くを学べ!そして、知識を得たら自らの手でその困難を打ち砕け!』 重たいテキストを背負い、くたくたになった少年たちの向かう先にあるものとは……。

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-02-29

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. 襲いかかる不条理
  2. 隆之介の秘密
  3. 志望校決定