俺に、青春なんて必要なかった。

雨之香

メガネ理系男子 × ワケありアイドル女子

昨夜、漸く完成した。
と言っても、ほとんど未明に近かったため、俺を襲う今朝の睡魔は計り知れないものだった。
それでも眠い目を擦り、無駄に体力と地味に精神力を費やしてまで起きているのは、完成したばかりである、この自作プログラムの出来栄えを一刻も早く試したかったからだった。
数学教師の中菅(なかすが)から、演習開始の合図を受けると同時に、俺は制服のポケットから即座にスマートフォンを取り出した。
無論、中菅の目を盗んでだ。
そして、平凡な行列の問題が並ぶプリントを素早く撮影した。
あとはこの画像データを、JPEGファイルからテキストファイルへとコンバートすれば、準備は整う。
そして、ファイルを読み込みコンパイル後、問題がなければ実行だ。

「よし」

エラーメッセージもなく、見事にらしき解答が画面上に表示された。
大学受験対策用の演習問題にしては、幾分陳腐な問題だったが、このプログラムの性能を確かめるにはまあ妥当なところだろう。
これくらい単純な問題なら、プログラムの修正がすぐに効く。
開始五分という凄まじい早さで、俺は演習プリント丸々一枚を終えた。
そして、昨日の分の睡眠をとるため机に伏せたのだった。



次に目が覚めた時には、休み時間になっていた。
ガヤガヤと騒がしい教室に、頭が徐々に覚醒していく。
スッキリしたとは到底言い難かったが、ある一人の女子クラスメイトの声によって、まだ睡魔が潜む俺の頭は完全覚醒した。

「和久井(わくい)くん。おはよう」

「あ、はよ……」

なんて寝惚けた返事だ。
恥ずかしさから大して顔も合わせられず、俺は席を立った。
向かった場所は、トイレだった。
寝ぼけた顔を洗いに行くためだ。
その途中、俺は佐久間(さくま)とすれ違った。
いけ好かない、こいつの行先が容易に想像できた俺は極端に歩を緩めた。
なにも、別に急いで教室に戻る必要はない。
だけど、男の用とはすぐに足せるもの。
俺はもうトイレをあとにしていた。
案の定、佐久間はいた。
俺の教室の前で、先程俺に挨拶をしていた女子クラスメイトである、姫野美羽(ひめのみう)と会話を弾ませて。
それは予期していた通りで、またよく見掛ける光景だというのに胸は何か小さな音を立てた。
だけど、小さいだけにわざわざ気に止めるまでもない、と俺は目を伏せた。
そして、二人がいる反対側のドアから教室に入ったのだった。
席に着くなり、俺の前の席で唯一気の合う奴である吉村(よしむら)は言った。

「やっぱり、かわいいよなあ。姫野さん」

ここで誤解を招かないよう追記しておくが、吉村と気が合うというのは姫野に関することではなく、趣味についてだ。
そして、ほぼ一日一回以上は耳にするこの台詞に、俺が何もコメントしないのもいつものことだった。
そう、理由は面倒だから。
それだけだ。
教科書を仕舞おうと、机に目を向けた時だった。
明らかに、俺の物ではないシャーペンが乗っかっていた。
見るからに女物だった。

「誰の?」

「あ、多分それ姫野さんのだ。さっきまでここにいたから」

「ふうん」

吉村は姫野と比較的、話す方だった。
いや、姫野に限らずクラスの女子とよく話す奴なのだ。
完璧に冴えない組の俺とは違って。
少し前までは、正確には三年生になるまでは、吉村も俺と同じ部類の人間だと思い込んでいた。
というか現にそうだった。
けれど、高校三年での進級の際に理数系クラスを選択してからというもの、まあまあ頭がキレて人並みに愛想のいい吉村は、女子からはよく頼られたものだった。
そして、吉村が解けないクソ問題は吉村から俺に回ってくる、という具合だった。

(完全に後手だな……)

頭のどこかで、そんな情けない思いを抱きながらも吉村みたく、女子に対してなかなか免疫がつかない俺は、やはり冴えない組というレッテルを貼られざるを得なかった。
しかしもう、そんなことにも慣れていた。
だって、今に始まったことではないのだから、今更とやかく言うこともない訳だ。
それに、周囲からの一方的な評価にいつしか俺自身も呑まれていき、そしてどこか片隅に蟠りを抱きながらも、その評価相応の俺自身となっていった。
その蟠りが歪みとなって、冷めてひねくれた俺の性格に更なる拍車を掛けていた。
吉村のように上手く、そして何より素直に振る舞えない俺は、俗にいう不器用というやつだった。
愛想がないのは、ただ女子に対してどういう風に接したらいいのか、分からないから。
無愛想で、更にはパソコン(特にC言語を使ったプログラミング)やゲーム(麻雀からギャルゲーまで)が趣味という、一段と冴えない要素が加わった俺に唯一、挨拶してくれる女子がいた。

それが姫野だった。

彼女とは去年から同じクラスで、彼女も理数系クラスを選択したことから、今年もまた運よく同じクラスになれた訳だが、挨拶以外の会話は多分ほとんどしたことがなかった。
愛嬌があり、よく笑う彼女は性格までもが良くて、先生も含め特に異性からの絶大な人気を得ていた。
そんな彼女の周りにはいつもお盛んそうな野郎共が取り巻いてが、とりわけ中でも際立って接していたのが先程廊下ですれ違った、いけ好かない野郎もとい佐久間だった。
そいつは、姫野とクラスが離れてからというもの、休み時間になれば甲斐甲斐しく姫野の元をを訪れた。
いや、もしかしたら二人はもうそういう関係なのかもしれない。

気が付けば、昼休みで化学の授業はとうに終わっていた。
今日は有機化学の分野だったようで、黒板には無数の骨格異性体がずらりと列記されていた。
それは、数えるのも億劫なほどの炭素数だった。
構造決定の演習だったのか、と俺は胸を撫で下ろした。
俺が苦手とする分野は、何といっても見事に暗記ばかりで塗り固められた、無機化学に他ならないからだ。

そんなことより、と俺は立ち上がった。
目的の人物は、まだ席を立ってはいなかった。
それは既に確認済みだった。
そして、その人物はもう昼休みだというのに未だペンを握り、至近距離でノートとにらめっこをしていた。
それにも関わらず、近付く俺の気配を素早く察知するなり、くるりと振り返った。
そこには険しかったはずの顔はもうなく、いつもの笑顔があるだけだった。

「あ、和久井くん。どうしたの?」

そして、今日も俺は彼女の名前を口にする機会を失ったのだった。
そもそも俺が姫野に話し掛けるなんてことがないし、あったとしてもせいぜい今回みたいなレアなケースだけだ。
それに俺が彼女に声を掛ける前に、こうして先に気付かれてしまう。
ともなれば、もう名前を呼ぶ必要もなくなってしまう訳だ。

「これ」

俺は、手にしていたシャーペンを差し出した。

「私、和久井くんの机に置いたままだったんだ! ごめんね。どうもありがとう」

ただ、置き忘れていたシャーペンを届けただけだというのに、それは親切な行為より寧ろ当然の行為だというのに、姫野はとても嬉しそうな顔を俺に向けた。

「いいえ」

何だか、妙に照れてしまった俺は、もはや模範回答にも採択されないような畏まったクサイ返事をしていた。
姫野は朗らかに破顔した。

「あの」

用はもう済んだので、立ち去ろうと背を向けた俺に、姫野が遠慮がちに声を掛けた。

「えっと、ここの問題がわからなくて……和久井くん、わかる?」

「へ?」

それは、あまりに唐突だった。
だから、思わず俺は素頓狂な返事をしてしまった。

「あ、突然ごめんね。和久井くん、賢いからわかるかなあって思って……」

姫野は申し訳なさそうに視線と、そして肩を落とした。

「見せて」

ほぼ寝ていたくせに俺は姫野が分からないという、見るからに面倒そうな問題を何故か引き受けてしまった。

「あのね、ここなんだけど」

構造決定の問題だからやむを得ないが、姫野が指差した箇所にはやたらと長ったらしい文章が連なっていた。

「……」

正直なところ、面倒だった。
そもそも、活字離れが世間に比べ、俺の場合は遥かに進行していたからだ。
立ったまま、問題文にざっと目を通し終えた時のことだった。
間が悪く、それは聞こえた。

「美羽」

確かにその声は、佐久間のものに違いなかった。
それ以前に姫野のことを下の名前で、しかも呼び捨てにしている野郎はこいつしかいなかった。
そこで、これから働こうとしていた俺の思考回路は完全に停止した。

「あ……お昼ご飯、食べる約束していたんだった」

姫野はそう、小さく溢した。
そして去るべく、俺は無造作に制服のポケットへと手を突っ込んだのだった。

「和久井くん、ごめんね……。私から聞いたのに」

「いいよ」

やはり、佐久間はいけ好かない野郎だ。
内心むしゃくしゃしながら席に戻ると、にたついた吉村が俺を迎えた。

「姫野さんと、なに話してたんだよ?」

まったく以て下らない質問だった。
だから、俺はため息を吐き捨てるようにして答えた。

「ペンを返しただけ」

「ホントかあ?」

「あんま無意味な詮索するなら、行列のプログラムやらないよ」

面倒になった俺は、姑息な手段で吉村を脅した。
そして、この会話を終わらせたのだった。

「え、マジで? 和久井、あれできたの?」

「明け方に完成した」

「ホント、スゲー!」

「吉村のはまだできていないの? 微積のプログラム」

「実は今、サブルーチンに挑戦してるんだけど、ちょっと行き詰まっててさ」

「あ、でも前より進んでるな。ちょっと見せて――」

こうして吉村と趣味の話をしている時間が、趣味に没頭している時間が、俺にとっては何より楽しかった。
愛だの恋だのカノジョだの、青春時代と呼ばれる時代に、必要不可欠らしいそんなものがなくったって、俺には十分だった。
何故なら、今までがなかったからだ。
元々ないものなんだから、ないことに不自由さや不都合さを感じることも当然ない訳だ。
けれど、敢えてあるものとして挙げれば、劣等感や焦燥感かもしれない。
きっと、そういう負の感情が俺の知らないうちに俺自身を、どんどんと孤独に追いやっていた。
卑屈になって、頑なになって、冷めていく。
今の俺にはもう、それを止めるための術を持ち合わせてはいなかった。



「今週から掃除当番かあ。めんどくせえ」

吉村が不平を吐いていた。
当然の如く、俺も掃除の当番だった。
だけど、いつも以上に俺は嫌な気持ちになっていた。

なんたって、今週は大嫌いなトイレ掃除だからだ!
潔癖症ではないが(多分)、トイレ掃除は昔から嫌いだった。
妙に薄暗いし、そのうえ狭いし、常に異臭は漂っているし。

俺は周囲にバレないように気合いを入れ、ブレザーの上着を脱いだのだった。
しかし、俺の意とは大きく反して掃除は長引いていた。
理由は言いたくないから言わないが、俺のトイレ掃除嫌いにますます拍車が掛かった日となった。
そして、悔しいことに教室掃除よりも俺達は遅かった。

「姫野さん、頑張るね」

がらんと寂しくなった教室に、姫野がいた。
普段いる取り巻きがいないのをいいことに、吉村は彼女に話し掛けていた。

「今週、化学の小テストがあるから、残って勉強しようと思って。家だと、誘惑がたくさんあって集中できないから」

「そうだ、俺もやらないと。今日はバレー部ないの?」

「うん。試合でもない限り、月曜日はだいたいお休みなんだ」

「そっか。俺も姫野さん見習って勉強するとしますか」

「あ、私なんて見習うと、吉村くん欠点取っちゃうよ」

「それは参ったな」

「ふふ」

楽し気に会話する二人の少し離れた傍らで、俺は帰る支度を終えた。
トイレの悪臭被害を受けないために置いていった上着は、教室掃除による砂ぼこりの被害を受けていた。

「俺、図書室に寄ってくけど、和久井はどうする?」

上着の袖口を軽く叩きながら、俺は答えた。

「帰るよ」

第一、今週に化学の小テストがあること自体、俺は知らなかった。
いや、元はといえば、授業中に寝ていた俺が悪いのだが、何故か聞けなかった。
どこが出題されるのか、気になったのにその時の俺には聞けなかった。

「姫野さん、またあした」

去り際に、吉村が言った。
姫野は多分、笑顔で応じていた。
多分、というのは実際に見た訳じゃなかったからだ。
それなのに。


「またね。吉村くん、和久井くん」


姫野はそう言った。



こんな俺に、唯一挨拶してくれる人がいた。
その人は、ほとんど欠かさず挨拶をしてくれた。
たった一言だけど、その瞬間だけは、冷めた俺の心は小さな火が灯るように暖かくなった。
何だかよく分からないけれど“また”とどこか期待にも似た淡い気持ちが湧いた。
そして、その自分自身も気付かないほど微かな期待が今、報われようとしていた。

「和久井くん!」

廊下に出て数歩というところで、俺は姫野に呼び止められていた。
呼ばれたのは間違いなく俺のはずなのに、少なくとも半径五メートル以内にいた生徒はみな振り返っていた。
それに気が付いた姫野の顔は、俄に紅潮した。

「あ、あの、えっと……」

言おうとしていたことを咄嗟に忘れてしまったのか、姫野は萎縮したように俯き言い淀んでいた。
周囲の視線もあり、何だか居たたまれなくなってきた俺より、先に痺れを切らせた吉村が小突いてきた。
そして、目配せをしたのだった。
先程、入れたばかりのポケットから手を出し、無意味に頬を掻くと俺は教室へと戻った。
吉村もきっと、そういう意味で俺を小突いたに違いなかったからだ。

「あ」

姫野が小さく声をあげると、吉村は“またあした”と再び別れの挨拶をしていた。
そして、姫野も教室に入ったのを確認してから、俺はドアをぴしゃりと閉めたのだった。
これで、不愉快な視線はシャットアウト出来たはずだった。

「……」

なのに、姫野はまだ俯いたままだった。
そして、同時に今がチャンスだと俺は思った。

「姫野?」

そう。
彼女の名前を口にする、絶好のチャンスだと。

「名前……」

「え?」

「はじめて私の名前、呼んでくれた」

まるで、譫言のように姫野は言葉を紡いだ。
そんな彼女を前にして、俺は聞き苦しいほど白々しい返事をしていた。

「そう、だったかな」

「うん、そうだよ! 初めてだよ」

俺は決して背が高い方ではなかったが、それでも小柄な姫野が視線を合わせるには、やはり見上げないといけなくて。
しかも、ただ名前を口にしただけなのに、たったそれだけのことなのに、姫野はまた嬉しそうな笑顔を俺に向けた。
その笑顔は、あまりにも無邪気だった。
不意をつかれた気がした。
だから、俺はつい思ってしまったんだ。



“かわいい”って。



テレビや漫画、ゲームを通じて、それを感じたことは今まであったが、そんなもんじゃない。
比になんてならないし、なんたって格が違っていた。

「和久井くん?」

姫野は更に俺を窺うようにして、覗き込んだ。

「あ、それで、どうしたの? 俺に何か用?」

俺は、すかさず頭を切り換えた。
だけど、さっきのアレを消せたわけではなかった。
寧ろ、俺の目に何かおかしなフィルターがかかってしまったみたいだ。
そのせいで、姫野の顔が上手く見れなかった。

「あのね、私……」

姫野の顔から笑顔が消えた。
何を言おうとしているのか、皆目見当もつかない俺はただ待つしかなかった。

「その、私……和久井くんに謝りたくて」

直後、俺の頭上にクエスチョンマークが浮かんだ。
姫野に謝られる心当たりなんて、まったくないからだ。

「えっと、ほらお昼休みの時の……。私から和久井くんに質問したのに、ご飯食べに行っちゃったから」

「ああ」

たった今、思い出した。
今の今まで、忘れ去っていた。
俺にとっては、それくらいのことだった。
だから。

「いいよ。気にしないで」

と俺は言った。
そして、姫野の顔に再び笑顔が戻った。

「それでね、もしよかったら、その……お昼の続き教えてもらいたいなって思って……」

“あ、もし忙しかったり面倒だったらいいから!”
と姫野は付け加えた。

「いいよ。俺が答えられる範囲でなら、だけど」

「ホントに? いいの? ありがとう!」

そんなに、感謝するほどのことじゃないのに。
ただ、断る理由がなかっただけなのに。
もっと笑顔が見たい、そんな下らない俺の下心からなのに……。

当然、そんなことを知らない姫野は、屈託のない笑顔を俺にくれた。
その、たった数時間という時間の中で、俺の姫野に対する見方は完全に変わってしまった。
端的に言うとそれは“唯一、挨拶をしてくれる女の子”から“特別な女の子”になった。
今まで、女子とこんなに沢山話したことはなかった。
それに、こんなに楽しいと感じたこともなかった。
姫野の表情、言動のひとつひとつが俺を捉えて離さなかった。



「和久井くんって、やっぱりすごいね! どんな問題もパッと解けちゃうんだもん」

「そんなことないよ。有機はまだ、好きな方なんだ」

「でも、数学もできるでしょ?」

「普通だよ」

「え、うそ! 和久井くんが普通なら、私は最低になちゃうよ……」

「それなら、ちょっとできる、にしとく」

「もう……和久井くんはイジワルですね」

そのあと、俺は自分でも驚くくらい穏やかに笑っていた。
それは面白かったからではなくて、姫野のその仕草がとてもかわいく感じたからだった。

俺は夢中だった。
全然、目が離せなかった。
趣味以外のことで、こんな風になるのは姫野が初めてだった。

その日、俺は姫野と一緒に帰っていた。
意外に盛り上がり途切れなかった会話に、俺自身も心底楽しんでいたが、これが最初で最後なんだろうと、どこか冷静な部分でつまらないことを考えていた。
そのせいで、改札での別れ際が随分と惜しまれたのを、今でもよく覚えている。
きっと自分では、見るに堪え兼ねないほどの情けない顔をしていたように思うが、その時の俺には、それを気にしているだけの心の余裕がなかった。


“和久井くん、またあした”


そう、改札を隔てた向こう側で、元気よく手を振る彼女が、ずっと俺の頭から離れなかった。
姫野が言った“またあした”それが来れば、また無条件で会うことが出来る。
だけど、今日のような特別な日はきっと、もう来ないばずだった。
それは、俺自身が一番分かっていたはずだった。
だから、驚いた。
本当に信じられなかったんだ。
姫野とまた、二人で勉強できる日が来るなんて――

「和久井くん」

「どうしたの?」

「うん、あのね……ちょっとまた教えてほしいところがあって」

「いいよ。どれ?」

「数学なんだけど……」

そのあと、姫野は更に言いにくそうに口をつぐんでいた。
彼女の言わんとしていることが、今一分からなかった俺は、高鳴る胸を抑えながらも彼女の言葉を待っていた。
それは姫野と一緒に帰ったあの日から、何回目かのとある月曜日のことだった。

「姫野?」

「その……多分、時間がかかると思うから、もし和久井くんが大丈夫なら、放課後にまた教えてもらいたいなって思って……」

下らない吉村の冷やかしなんて、そんなもの今はどうでもよかった。
願ってもいない姫野からの、この上ない誘いを前にして、俺は即答せずにはいられなかった。

「俺なら、大丈夫だよ」

だけど、この嬉しさを露にするにはまだ鉄壁の理性とか、ちっぽけな見栄が残されていたため、俺は多分平静を装えていたはずだった。

「和久井くん、ありがとう!」

姫野が柔らかに破顔したから、どこかたどたどしかった彼女を纏う空気も和らいだ。


“またあとでね”


俺の心を浮わつかせる、期待を含ませた言葉だけを残して、姫野は佐久間の元へと駆けて行った。
そして、つい先程まで俺に向けていたあの笑顔を、姫野は佐久間にも向けていたのだった。
その時、ふと何かが心に引っ掛かった。
確かに何かが胸を掠めた。
だけど、それは微かで、あまりにもぼんやりとしていたから、俺自身もよく分からなかった。
ただ一つ、確実に言えることはその“何か”とは間違いなく“良くないもの”だということだった。

その日の、最後の授業終了を告げるチャイムが、たった今鳴った。
と同時に、クラスは教師への嫌がらせの如く、荒々しい音を立て片付けをし始めたのだった。
教室掃除のこともあるので、俺もとりあえず片付けを始めた。
そして、ちょうどペンを仕舞い終えたところで、姫野がやって来た。

「和久井くん!」

何だか、彼女は慌てた様子だった。

「えっと、今日、放課後大丈夫かな……?」

「うん」

「よかった」

つい数時間前の昼休みにその約束をしていたというのに、何故だか姫野は俺のその言葉に安堵した様子を見せた。

「和久井くん、片付けしていたから、てっきりもう帰っちゃうのかなって思って……」

そう言いながら、姫野はきまりが悪そうに視線を落とした。

「俺もそんなに薄情じゃないよ」

「うん。そうだよね。私、今日掃除当番だから少し待っててもらってもいいかな?」

「わかった。教室にいるよ」

「うん、ありがとう。私も急ぐね!」

どこか必死な姫野がいじらしく思えたから、つい俺の中にイタズラ心が芽生えてしまった。
だから、真剣な表情で急ぐと言う彼女に“かなりね”なんて、低級なイタズラ言葉を投げ掛けてしまったんだ。
それから俺は、暫く廊下で時間を潰していた。
放課後の風景を眺めながら、ふとあるものが目に止まった。
きっと、今までの俺なら気にも止めないようなものだった。
それは、一組のカップルだった。
そして、俺は自分の想像の浅ましさから、すぐに目を反らしたのだった。
窓から教室へと視線を戻し、壁に背を預けた時、少し息を切らせた姫野が俺の視界に飛び込んできた。

「待たせてごめんね!」

申し訳なさそうに眉毛を下げて謝る姫野は、肩で浅い呼吸を繰り返していた。
それを見た、俺の方が申し訳ない気持ちになった。
先程、かなり急げなんて下らない冗談を言ったばかりに、姫野に要らぬ気を遣わせてしまったに違いないからだった。

「いや、俺の方こそ急かしたみたいでごめん」

「ううん! 私も早く終わらせたかったし。
それに……和久井くんに、早く教えてもらいたかったから」

そこで、姫野はやっと笑顔を見せた。
彼女の、はにかんだような表情とその台詞に、俺は何だか擽ったさを覚えた。
だから、すぐに人が疎らな教室に入ってしまった。
前回のような完全に二人だけという空間ではないことに、ほんの少し残念な気持ちになりながらも俺は姫野の質問に応じた。



「なるほど! さすが、和久井くんです。寝ていても完璧だね」

「あれ。なんか今、聞き捨てならない一言があったような」

「え……き、気のせいだよ」

「……」

「ごめんなさい」

姫野とこうして、放課後に勉強するのは久々だったが、一緒に帰ったあの日から話す機会は格段と増えていた。
そして、授業中によく寝ている俺を姫野はたまに注意したものだった。

「でも、授業聞かなくてもわかるなんて、ホント羨ましいな。私なんて、どんなに聞いてもわからないことばかりだから……」

「最後に解ればいいよ。俺は姫野の、その姿勢の方がよっぽど大事だと思うけど」

「そうかな。ありがとう。私も諦めないで頑張ってみる」

片付けをしながら、俺も頷いて見せた。

「あ、今日ってもしかして、和久井くん予定あったの?」

「いや、そんなことないけど」

「ホントに? まだ少し大丈夫かな……」

「大丈夫だよ。見せて?」

後ろで何かを隠すようにして腕を組む、姫野のその手に化学のプリントが窺えた。
だから、俺は見せて、と手を差し出した。

「あ、うん。今日の状態方程式のところなんだけどね……」

自分自身の理解の範疇で姫野に解説しながら、彼女の話を聞いたり教師の愚痴を溢したり、たまに意地悪を言ったり、他愛もない話をしていた。
気が付けば疎らだった人もいなくなり、それは本当に二人だけの空間で、周りなんてまったく見えくなっていた。

いや、見ている余裕なんてなかった。
ただ、俺の目の前にいる姫野に心を奪われた。
だから、少なくとも驚かずにはいられなかったし、当然落胆せずにもいられなかったんだ。
なんの前触れもなく、良すぎた空間を壊したのは俺の携帯だった。
ポケットから、着信を知らせる鈍いバイブ音が響いた。
無視するには、十分不快すぎたため俺はそいつを取り出した。
そして、ディスプレイに表示されている名前を見るなり、条件反射で再びポケットへと仕舞ったのだった。

「出なくていいの? 私なら気にしないでね」

「うん、いいんだ。大丈夫だから」

俺は少しばかり苛立っていた。
理由は言うまでもなく、先程までのあの良すぎた空間を壊されたからだったが、もう一つあった。
それは、電話を寄越した人物そのものだ。
一旦、気持ちを落ち着けてから、俺は再びプリントに目を向けた。
だけど、着信は鳴り止まなかった。
無論、集中なんてできたものではないし、苛々が募るほどに空気が悪くなっていく気がした。
限界を迎えた俺は立ち上がった。

「ごめん。ちょっと出てくる」

「あ、うん」

廊下に出て、教室のドアをきちんと閉め終えたら、俺は渋々携帯を耳に押し当てた。

「なんだよ、萌恵(もえ)」

こいつから電話を寄越す時は、大概何かを買わすケースが大半だった。
しかも、大体どこにでも売っている下らないものだ。
つまりは、俺はこいつのパシリだった。
情けないが仕方ない。
だって。

「もう、お兄ちゃん! なんで電話でてくれないの!」

その電話を寄越した主は、五つも年下の妹だからだ。
本気でムキになるには、相手は幼すぎた。
だから、俺は妹の下らない要求を呑むしかなかった。

「今、出ただろ。で、用件はなに?」

「アイス食べたい!」

ああ。ほら、やっぱり。
下らなかった。
出るんじゃなかった。
俺は激しく後悔した。

「自分で買えよ。それくらい近くのコンビニで売ってるだろ?」

「もう、もえ家だもん。制服も着替えちゃったもん!」

要するに、買いに行くのがめんどくさいらしい。
幼児のような言い訳をする中学生の妹に、俺は呆れたため息を吐くしかなかった。

「忙しいから切るよ」

「ウソつき! お兄ちゃん、いっつも暇じゃん! 帰り道のついでに買ってきてよ!」

どうしたら、こんな自分勝手な発言ばかりが出てくるのだろうか。
まったく以て理解不能だ。
本心は一刻も早く、この電話を切って姫野の元へと戻りたかったが、今は萌恵に“妹”という立場を分からせる必要があった。
ついでに俺の怒りを鎮めるためにも、だ。

「そんな頼み方するなら、絶対に買って帰らないよ。欲しいなら、言い方あるだろ?」

「……」

ああ、もう。
めんどくさい。

「萌恵」

「お兄様、買ってきてください!」

「はい、宜しい」

これで気が済んでしまう俺も、結局のところは妹と何ら変わらないのかもしれない。
つまりは、同列ということだ。
言付かったものは、シャリシャリくんのトロピカルミックス味というまったく以て想像できない、いや、したくない味のアイスでこの夏限定らしかった。
そもそも、何をミックスしているのかさえ分からない始末だ。
妹は度々、新商品や限定品を買いたがる傾向にあるが、その都度失敗に終わっていた。
自ら、しかも何度も苦い経験をしているのにも関わらず、それを買い続ける妹の頭の辞書には、きっと“教訓”という言葉はないのだろう、と俺は思い始めていた。
だから今回も失敗を想定して、頼まれたものと定番のソーダ味を買って帰ることにしたのだった。


一気にテンションの下がった俺は、閉ざされたそのドアを開ける手が何だか重く感じた。
だけど、戻らない訳にはいかない。
俺はドアに手を掛けた。
そして、開けた視界に真っ先に飛び込んできた姫野は、窓辺に佇んでいた。
その後ろ姿を見た俺は、途端に申し訳ない思いに駆られた。
だけど、姫野は振り返るなり笑顔で俺を迎えた。

「あ、もう電話終わったの?」

「うん。待たせてごめん」

「ううん。いいよ。その、用事は大丈夫なの? もし急用なら、今日はもう……」

「全然、そんなんじゃないから」

電話の用件があまりにも野暮用だったため、俺はつい遮るようにして言葉を発してしまった。

「……そっか」

何だろう。
この違和感。

姫野の置いた間が、俺は妙に気になった。
決して長い間ではなかったが、何だか気になった。
とりあえず元いた席に着いたが、姫野が窓際から離れる気配はなかった。
背を預け、俯き加減の彼女はやはり何か様子が違っていた。
そして、ポツリと溢したのだった。


「ひょっとして……さっきの電話って、カノジョさん?」

「え」

頭が一瞬、フリーズした。
まったく予期せぬ言葉を不意に掛けられると、思考が止まるということをその時俺は初めて経験した。
今の問い掛けを噛み砕き、当然たった一つしかないはずの答えを口にしようとしたら、間が悪く携帯が床に落ちた。
そして、直後鈍い振動が響いた。
次は、電話ではなくメールを知らせるバイブのようだった。

「やっぱり……今日はもう帰るね」

言うや否や、姫野は敏捷な動きで席に戻り、手早く片付けをし始めた。
俺は掛ける言葉が見付からなかった。
明らかに態度が変わった彼女の後ろ姿を眺めながら、俺はその場に佇むしかなかった。
そして、無造作にポケットへと突っ込んだ手で携帯の電源を切ったのだった。

「姫野……ごめん」

漸く出た一言は何の味気も、何の気も利かない言葉だった。だけど、姫野は言った。

「ううん……。忙しかったのに、教えてくれてありがとう。またね」

足早に去る姫野は、一度たりともこちらを振り返らなかった。
それどころか、俺と目すら合わさなかった。
怒らせたのかどうかまでは分からなかったが、気分を害してしまったことはほぼ間違いなかった。

「姫野!」

気が付けば、俺は駆け出していた。
だって、見てしまったから。
ここを立ち去る姫野の頬に、光る一筋の雫を。
それは、ほとんど反射に近かった。
ちょうど、姫野が教室を出る手前で俺は彼女を掴まえた。
初めて触れた、女子の腕は、折れてしまうのではないかと錯覚させるほどにか細くて、不謹慎にも脈は速まった。
姫野は蚊の鳴くような小さな声で悲鳴をあげると、俺の手を振りほどいた。
それは咄嗟のことだったからかして、か弱そうなその腕からは想像も出来ないほどの力だった。
だから、俺もすぐに手を離してしまった。
だけど、間違いなかった。
先程、彼女の頬に見た雫は見間違いなんじゃなかった。
俺が姫野を引き止めたあの一瞬、振り返った彼女の頬にそれは確かにあったのだ。
掴まれた方の腕を抱え込むようにして、小さくなる姫野の肩は細かく震えていた。

「姫野」

それは、本当に無意識に出た。
多分、姫野の今の有り様を見ていると、呼ばずにはいられなかったのだろう。
彼女の名前を呼ぶ声は、混乱する心境とは裏腹に意外にも落ち着いていて、柔らかさを含んでいた。
もしかしたら、姫野を落ち着けようとする思いからかもしれない。
だけど、彼女は謝った。

「ごめん、なさい……」

「なんで姫野が謝るんだ? 悪いのは俺の方だよ」

彼女の後ろから、訴えるようにして出た俺の言葉に、姫野はかぶりを振った。

「もとはと言えば、私が図々しいお願いをしたのが悪かったの……」

細い声ではあったが、姫野は語尾まで決して語気を緩めはしなかった。
だけど、その理由が正しいと俺は思えなかった。

「それは違うよ。だって、俺は図々しいなんて少しも思わなかった」

「でも、カノジョさんがいるのに私……」

姫野の大きすぎる誤解を今すぐにでも解きたいのに、今さら否定の言葉を発しにくい空気がそこにはあった。

俺自身を構成する冴えない要素の、いったいどこに姫野は“カノジョ”という単語を連想したのだろうか。
俺は思う。
それは、世の中にごまんと存在する言葉の中で、俺にとってはまったく縁のない言葉ベストファイブに間違いなく入る、と。
だから、今度は強く言えるはずだ。
先程は突然のことで、頭が凍結したが今度こそは。

「姫野、それも違うんだ。付き合ってる子なんて、俺にはいないから」

「え?」

驚きのあまりか、姫野は漸く振り返った。
その目元はまだ乾いてはいなかったが、涙はもう止まっているようだった。

「うそ……ホントに?」

見開かれた目は半信半疑に揺れていて、涙の跡が残る頬に思わず伸びそうになった手を、俺はポケットへと引っ込めた。
それから、身の程を知らない邪な思いをため息とともに吐き出したのだった。

「なんか、しつこく聞いちゃってごめんね……」

俺の、ため息の意味を履き違えた姫野は、華奢な肩を更にすぼめた。

「いや、そういうんじゃなくて……」

「え?」

歯切れの悪い言い方をしてしまったために、言葉の続きを待つ姫野。
その視線に耐えきれなかった俺は、ため息の言い訳を先程浮かんだ疑問にすり替えてしまった。
それは、極めて微妙なものだった。

「なんていうか……俺に付き合ってる子なんていないのは一目瞭然っていうか」

やはり歯切れの悪かった俺の言葉に、姫野はやや怪訝な顔付きを示した。

「どうして、一目瞭然なの?」

「いやだってほら、俺こんなだし」

自ら振りながらも、明らかに話の方向性がおかしくなってきたことに少しげんなりしていた。
だってそれは、今議論することでも、ましてや姫野に言うことでもないからだ。
そして、彼女を取り巻く空気も何だかおかしいようだった。

「……いよ」

「え?」

「そんなの関係ないよ」

「姫野?」

「全然、一目瞭然なんかじゃないよ……」

俺は、何も言えなかった。
当然否定すべきことなのに、口が重く閉ざしたようだった。
恐らくそれは、今ここで俺が否定をしたら、姫野は更に上回る否定を重ねてくる気がしたからだ。
彼女の心優しく何気ない否定はきっと、俺の愚かで貧しい妄想を爆発させる火種になり兼ねない。
だから、どうにかして俺は、この空気を変えなければならなかった。
だが、十八年間冴えない人生を送ってきたこの俺に、そんな高度なスキルがあるはずもなかった。
そして結果、姫野が変えることになった。

「なんか、でしゃばった言い方してごめんね」


どこがでしゃばった言い方なのか、俺にはまったく分からなかった。
受け答えが微妙になったのは、やはり先程の疑問を口にすべきではなかったと後悔していたからだ。
正直、遠退いてしまった本題を今更姫野に問うべきかどうか、俺は迷っていた。
しかし、彼女を引き止めた理由は、まさにそのためと謝罪するためだった。
だから、俺は言葉を続けることに決めた。

「いや、謝るのは俺の方だよ。姫野に嫌な思いをさせた。ーー泣かせるくらいに」

否定をしようとしたのか、一瞬開きかけた姫野の唇は俺の最後の一言によって再び閉じられた。
それもきつく、力が込められているようだった。

「だから……ごめん」

俺は、純粋な謝罪の気持ちから頭を下げた。
自ずと低くなった視界に、体の前で組まれた姫野の手が映った。
それは力を込めたために、小刻みに震えているように見えた。
だから、俺は下げた頭をすぐさま上げることになった。

「泣いてしまったのは、和久井くんが悪いんじゃないの……」

絞り出すようにして話す姫野の声は、涙声に変わっていた。
自ずと早まり出す鼓動に、胸は圧迫感を覚えた。

「ほんとはね、私……ショックだったの」

「ショック?」

「うん。和久井くんにカノジョさんがいるって知ったとき、なんだかショックで……。
もう今日みたいに勉強教えてもらったり、そんなお願いもできないなあって思って……」

「……でも、本当にいないから」

「もちろん、嘘ついてるなんて思っていないよ。だけど、和久井くんさっきは否定しなかったから。
それに、電話で話していた人とも親しげだったし……」

軋む、音がした。
決して自慢にはならないが、長年培ってきた鉄壁の理性は、それは強固で頑丈でしぶとくて、壊れる日なんてまず来ないだろうと自負していた。
だけど、その壁が確かに軋んでいた。
瞬く間にひびが入り、重なった部分から細かな破片が落ちていく。
とりあえず、俺はすっかりし忘れていた呼吸をした。
それから、ポケットに入っていた手を強く握り締め、何とかして理性を呼び戻そうとした。
その掌は体中のどこよりも汗ばんでいた。

「姫野」

過信していた理性と有るまじき欲望との葛藤の末、熱を帯びたため息とともにそれは出た。
姫野はやや不安げな面持ちで俺を見上げた。

「わからないことがあったら、遠慮しないで聞いてくれていいから。これからも」

「うん……ありがとう。和久井くん」

それは、あまりにも澄み切った笑顔だった。
今まで見てきた、どの笑顔よりも綺麗だった。
だからきっと、どうしようもなかったんだ。

どんっ、と背中を途方もない力で押されるような衝撃を食らうと同時に、俺は姫野のか細い腕を掴んだ。
そして、俺の元へと引き寄せた。


「っーー」


さっきよりも遥かに近付いた距離のため、姫野の髪から漂う甘い香りが俺の鼻孔を刺激した。
彼女が一クラスメイトであることには変わりないが、その香りは“女”を意識せざるを得ないほど官能的に感じた。
事実、俺は一瞬頭がくらっとした。

「和久井、くん……?」

胸元から伝わってきた声に、俺は自分が仕出かしたことの重大さに漸く気が付いた。

「ご、ごめん」

もはや反射を凌ぐ俊敏さで、俺は姫野から離れた。

「びっくりして……涙もすっかりとまっちゃった」

つい先程まで、確かに俺の腕の中にいた彼女は嫌な顔一つせず、寧ろ笑顔でそう言った。

「怒って、いないの?」

相当ばつが悪かったため、俺は視線を外しながら恐る恐る尋ねた。

「え……全然、怒ってなんていないよ?」

「でも……嫌じゃ、なかった?」

姫野は、この質問にすぐには答えず少し間を取ると、先程よりも声量を抑えた声で答えた。

「全然、嫌なんかじゃなかった」と。

更にはこう付け加えた。

「だから、謝らないで」

“うん。ごめん”と出かけた言葉を、辛うじて呑み込んだ。そして、その代わりに俺は言った。

「ね、姫野」

「なに?」

「一緒に、帰ろっか」

「うん!」



それから、更に姫野のことを意識するようになったことはもう、言うまでもなかった。
気が付けば姫野の笑顔を思い浮かべ、気が付けば姫野のことを目で追う日々だった。
いくら鉄壁の理性とは言えど、一度の崩壊の危機に瀕してしまうとそれは脆弱と化した。
もはや、自制することが難しくなった。
こんなことは初めてだった。
もしかしたら、吉村にも気付かれているかもしれない。
普段通りではない俺に。
いや、吉村だけに限らない。
そういう事情に精通している、慧眼を持つ者や、俺と同じような目で姫野を見ている、野郎共ーー特に、佐久間にも気付かれているかもしれない。


俺の中に芽生えてしまった、小さな下心に。


そして、それ故のほんの些細な気の緩みから、いつもは帰りまでに終えているはずの、日直の業務が丸々残っていた。
忘れ去られていた日誌の存在を横目に、俺は残業を突き付けられたサラリーマンの心境はこんなものなのかと、失礼ながらも想像していた。
尤も、これと現役サラリーマンの残業とでは雲泥の差があることは承知の上だが、面倒屋の俺にとっては日誌さえも面倒この上なかった。
しかも、その担任というのがまた、教科書を絵に描いたような人だけにチェックも甚だ厳しかった。
欠席者、遅刻者から授業内容、掃除当番、更には今日一日の出来事まで。
いったい、誰がそこまで詳細に把握しているというんだ。

というか、俺の記載した内容よりも詳しいことを知っているのなら、あんたが書け。

と心中で悶々としながらも口にしないのは、説教から解放されるには、それが一番早いことを俺は知っているからだ。
とは言っても、己の気の緩みが蒔いた種。
自業自得ではあるが、やはり気分は当然よろしくなかった。



職員室から教室への帰り道。
廊下の窓からふと目に入った空には、まだまだ鬱陶しい梅雨空が蔓延っていた。
気持ちは、更に滅入った。
そして、それに拍車を掛けるようにして完全に飽和した空気が、俺の全身を余すことなく包んだ。
この時、自分の不快指数は百パーセントに達したと確信した。
空の薄暗さからは、正確な時間を推測することは難しかったが、廊下の静けさからは放課後になって、大分経つことは窺えた。
空と同じく気分は憂鬱だったが、せめて早く帰ろうと教室のドアを開けた。
しかし、その決心も次の一秒後には、どこかへと消え去っていた。


「あ、和久井くん。日直のお仕事、お疲れさま」


そして、俺が想像して止まない笑顔で“おかえりなさい”と姫野は言った。
期待していなかった訳じゃなかった。
時期は、もう定期試験間近。
また、一緒に勉強出来やしないかと期待していなかったといえば、真っ赤な嘘になる。
だけど、まさか今日だったとは。
こんなに早く叶ってしまうとは。
早くも、普段の冷静さを保つのが苦しくなった。

「和久井くん、今日って……ヒマ?」

姫野は、俺の目の前で窺うように首を傾げた。
そのせいで、目線も自然と上目遣いになる。
それが計算か否かなどはもはやどうでも良かったし、そもそも俺の頭にはそんなことはもう塵程も占めてはいなかった。
それから、俺は何故か妙に落ち着かないまま、ぎこちない返答をした。
その態度を、姫野も感じ取ったようだった。

「あ、無理ならいいよ。突然、お願いしちゃったし……。和久井くんも予定、あるよね」

声は明るかったものの、姫野の視線はもう俺から離れて床に落ちていた。
恐らく、彼女のこういう仕草が俺の中の雄の部分を刺激するのだろう、と思った。
現に、俺は姫野へと伸びそうになる手を、ぐっと堪えている。
どこか小動物的で、守りたくなるようなそんな感覚だった。
まだまだ落ち着かないまま、俺は答えた。

「本当にないよ。だから、大丈夫」

「ホント? よかった。ありがとう、和久井くん」

この笑顔が見られるのなら、きっとどんな予定だって後回しになるだろう、と思ったことは秘密だ。
つい先程、感じた不快さもその時にはもう忘れ去っていた。
教室には、姫野と俺の二人しかいかなかったし、ましてやその人は俺にとって特別な人なのだから、夢中にならない方が無理な話だった。
だから、仕方がなかった。
これは、不可抗力としか言いようがなかった。
二人で勉強が出来る、と喜んだのも束の間。
俺は早くも、加速する動悸を確かに感じていた。

「和久井くん、どうしたの?」

早速、姫野に気付かれてしまったではないか。
俺は視線を外しながら、何もないよ、と答えることで精一杯だった。
当然、姫野は腑に落ちない表情をしていたが、それ以上何も聞いてはこなかった。


俺は内心、相当焦っていた。
なぜなら、落としたペンを姫野が拾おうと屈んだ時に見えてしまったからだ。
だらんと開かれたブラウスから、彼女の胸元が。
先に襲ってきたのは動揺だったため、目に映ったのはほんの一瞬だったが、脳裏にはしっかりと焼き付いてしまったようだった。
だから、冷静さを取り戻すのに、大分時間を要していた。
意識をそこから遠ざけようとすればするほど、逆効果な気さえしてきた。
だって、目の前にはあの姫野がいるのだ。
暑いからなのか、珍しく今日は髪の毛を一つに束ねていて、普段見ることのないうなじがよく見えた。
それがどことなく、色っぽい。
然程、うなじというものに興味はなかったが、よく耳にする理由が今、何となく分かった気がした。


いかんいかん。


俺は遠ざかる意識を問題文へと引き戻した。
だか、その直後、姫野がまたとんでもないことを仕出かした。
なんと、暑いねと言いながら、胸元のブラウスを掴むとぱたぱたと扇ぎだしたのだ。
途端に目のやり場に困ったが、俺が目をやらなければならないのは姫野ではなく、問題文だ。
だから、本来なら困ることなどないはずなのだ。
俺は、こめかみに汗が流れるのを感じた。

「和久井くん」

不意に名前を呼ばれたため、俺は不自然なほどに驚いた反応で、すぐ目の前の彼女を見た。

「もしかして……」

姫野が妙に間なんて取るものだから、俺の中の動揺はより一層の膨らみを見せた。
そのせいで、声が上擦ってしまった。

「なに?」

「その問題、和久井くんでもわからないのかなって……。いつも私、和久井くんに聞いてばかりだから、先生にも質問してみたんだけど、やっぱりイマイチわからなくてね……。だから、今回もまたお願いしたんだけど」

姫野の言わんとすることが、今一分からなかったから、俺は何も言わずに視線だけを泳がした。
そして、迫り来る沈黙を破るように姫野は言った。

「だから……私も、一緒に考えてみるね!」

多分、何も力になれないけど、と姫野は付け加えた。


そんなの気にすることはないのに。
なかなか解けなかったのは、気を散らしていた俺のせいなのに。


そのことを姫野に伝えようと向けた視線の先には、確実にそして的確に鋼の理性をぶっ飛ばすものがあった。
なんと、問題文を覗き込むようにして、姫野が机に乗り出していたのだ。
机と両腕に圧迫された彼女の豊満な胸が、妖艶と覗いていた。
動揺の頂きに立った俺は、大きな音と共に椅子を引いた。

「和久井くんっ、どうしたの?」

当然の如く、姫野は何事だと驚いた声を上げた。
だけど、俺は何も言えなかった。
ごめん、と謝罪の言葉を一つ吐くとそのまま、廊下へと出ていった。
とりあえず、壁に背を預けると俺は深呼吸を繰り返した。
動揺の波が過ぎ去ると、途端に襲ってきたのは情けなさと不甲斐なさだった。
俺はいったい何をしているんだ、と自己嫌悪の念に駆られた。


“くそっ”


声にならないほど、小さく吐き出した。
そして、何となく教室に戻りづらかった俺は、トイレへと向かった。
向かいながら思った。


さっきのはナシだ。
あれはダメだ。
なんの前触れもなく、あんなものを見たら、誰でも言葉を失う。
寧ろ、理性を保てていたことが奇跡だ。
あんな、もの……。
教室に戻る前に、何とかして気持ちを立て直さないと。


そう思うのに、教室のドアを前にすると、気持ちはどうしようもなく高ぶった。
ドアを引く、その瞬間が最も緊張した。
俺は恐る恐る、視線を上げた。

「姫野……?」

彼女が、机上に俯せになっていた。
呼び掛けても返答がない。
寝ているのもおかしな話だ。


もしかしたら、体調でも悪いのか?


しかし、俺が予測したどれもがハズレだったことに、彼女を前にして分かった。

下敷きになっていたノートが、斑模様に濡れていたのだ。
それは、涙の跡に違いなかった。
姫野の涙に違いなかった。
それは、俺の言葉を詰まらせた。
理由は何であれ、姫野を泣かせてしまったのはこの俺だから。
途方も暮れ、立ち尽くすしか術がなかった。


世間一般の男なら、こんな時どうするんだ?
月並みの常套句など並べ、肩でも抱き寄せるのか?
泣き止むまで傍にいて、あやしたりするのか?


陳腐なドラマの、お決まりの展開ばかりが頭に浮かぶ自分自身に嫌気が差したため、もう考えるのも止めた。


いったい、どうしたら……。


何も出来ない歯痒さから、じりじりと苛立ちを感じ始めた時だった。
不意に、自分の足が椅子の脚にぶつかった。
その音で、姫野の肩がびくついた。
そして、彼女は漸く顔を上げたのだった。

「び、びっくりした!」

「ごめん」

「和久井くん、戻って来てたんだね。全然、気付かなかったや。ちょっとうとうとしてて……。ああ、びっくりした」

立っていた俺の位置からは、姫野の顔はよく窺えなかったが、とても早口で且つ敏捷に彼女はノートを閉じた。
その様子から、本当に寝てしまったのかなとも思ったが、そうするとノートにあった涙の痕跡の説明がつかない。
そして、姫野が顔を上げない理由も。
俯くその姿は、初めて彼女の涙を見た日を、思い起こせた。
だから、俺は尚更口を閉ざせざるを得なかった。
そのことが、姫野を追い詰めているとも知らずに。
震えたため息を吐くと、姫野は口を開いた。



「私……何か悪いこと、したかな」

「え?」

「和久井くんを怒らせるようなこと、したのかな……」

閉じたノートの上に、ぽたぽたと涙が大きな染みを作った。
俺は、慌てて否定した。

「姫野は、何もしていないよ。どうしてそんなこと……」

「だって……今日の和久井くん、全然喋ってくれないから。目も合わせないし、私が知らない間に何か怒らせるようなこと、しちゃったのかなって」

姫野は声を震わせながら、頬の涙を拭った。
じわじわと罪悪感が身体を侵食した。


姫野に、非なんてまったくない。
悪いのはすべて、俺なんだ。


そのことを強く伝えたいのに、どうしても理由が言えなかった。
だから、説得力に欠けるその行為に、俺はなかなか踏み込めないでいた。
無意味にも頭を巡らせてみたが、結局のところ妙案なんて、一つも思い浮かばなかった。
心労の末、俺は諦めて話すことにしたのだった。


「実は、さ」

不愉快な思いをさせたらごめん、と前置きをしてから俺は話した。

「その、見るつもりは全然なかったんだ。だけど、見えてしまったんだ」

「え……見えたって何が?」

「なんて言うか、さっき姫野がペンを取ろうと屈んだときに……さ」

さすがに下着や谷間が見えた、とまでは言えなかった。
また、情けないことに語尾も小さくなっていた。
正直、俺は気が気ではなかった。
下方では忙しなく視線を泳がせ、体の水分が尽きそうなほど、手にはびっしょりと汗をかいていた。
何秒か、何分か、よく分からない時間が経った頃、姫野の声がした。


「や、やだ」


言うなり、姫野は即座に立ち上がった。
その拍子に、椅子が大袈裟な音と共に倒れた。
彼女の顔は、瞬く間に紅潮した。
その速さに匹敵する速度で、俺の血の気も引いた。
そして、軽蔑されたと悟ったのだった。

「ごめんなさい!」

だけど、それは間違っていた。
次に、姫野は謝っていた。
混乱から、俺は顔をしかめた。

「私、全然気付かなくて……ヘンなもの見せちゃってごめんね。それは、気分も悪くなっちゃうよね……」

その後も、姫野は頻りに謝っていた。
俺が見たものは、ヘンなものでもなければ気分を害するものでもない。
だけど、それを姫野本人に言うのは、何だか違う気がした。
だって、俺が言うとただのヘンタイになるからだ。
とにかく、大きな誤解は解けたようだった。

「ああ、よかった……。てっきりもう、和久井くんに嫌われちゃったのかなって思ったよ」

「ごめん。でも、さすがに嫌うことはないよ」

「そう? わかんないよ、そんなこと。
だって、さっきは絶対に嫌われたって思ったもん……。話しかけても素っ気なかったし、急に教室から出ていっちゃうし」

思い出す仕草をすると、姫野は悲しげに目を伏せた。
不謹慎ながらも、かわいいと感じてしまったことに自己嫌悪した。

「姫野に言われてみれば、確かにそうかも」

「でしょ? 嫌われたって思わない方がヘンだよ」

「でも、やっぱり嫌うことはないな」

「ええ。和久井くん、言ってることが矛盾してますよ」

「だね」

だけど、姫野は特別だから。
恐らく、何があっても俺は嫌いにはならないし、きっと嫌いになんてなれない。
やはり、俺にとって姫野は特別だから。

いつしか、なおざりな高校生活に楽しささえ、感じるようになっていた。
翳っていた気持ちも晴れ、時には浮わついたりもした。
そういう風になれたのはすべて、姫野のお陰だった。
しかし、漸く訪れた俺の青春に、早くも終止符が打たれようとしていた。
その悲劇は、翌日から始まった。


教室へと向かうまでの間に、俺は早速、違和感を覚えていた。
普段なら、俺に目もくれないような人間が、ひそひそ話とともに忌まわしい視線を投げてくるのだ。
不快で、且つ不吉な感覚が俺を包んだ。
お陰で、朝から気分は悪かった。
教室には、普段いるはずの姫野の姿もなく、俺は更に落胆した。

「和久井、どうなってんだよ」

席に着くなり、吉村は慌てた様子で言った。

「なにが?」

「なにが、じゃないだろ。姫野さんのことだよ。
付き合ってるって、本当なのか?」

俺は絶句した。
吉村の言葉を理解するのに、数秒を要した。

「意味がわからん。なんだよ、それ」

「俺が聞きたいよ。朝から、すげー噂になってるぞ」

よく分からないが、その意味不明な噂のせいで、俺は朝から不愉快な思いをした訳だ。
廊下ですれ違い様にひそひそ話をしていたのは、そのせいに違いなかった。

「て言うか、俺の方こそ聞きたいよ。どうして、そんな根も葉もない噂が流れているのか」

「それがさ、昨日おまえと姫野さんが二人で仲良さげにしてるのを、他のクラスの奴が見たって噂だ」

「ああ。確かに放課後、残っていたけど、勉強してただけだよ」

「そうなのか。でも、火のないところに煙は立たないって、諺もあるくらいだろ?」

意味深な吉村の言い方に、俺は引っ掛かった。

「他にも、何か聞いた口振りだな」

「俺に噛み付いても仕方がないだろ。
ただ、俺は噂を聞いただけだ。
それを、鵜呑みにするつもりは毛頭ないよ。だから、現に今、和久井にこうしてーー」

「わかったよ。で、他になにを聞いたんだよ」

焦れったくなった俺は、先を促した。

「他にって……まあ、あれだよ。
なんていうか、おまえがさ、姫野さんを抱き締めてたとか、キスしただとか――」

「もういい。吉村」

「ちょっと待てよ。でたらめを言ってるわけじゃないぜ。
俺はただ、聞いたままを話しただけだからさ」

「わかってる。ありがとう」

俺は力なく、着席した。
そして思った。
寧ろ、でたらめであってほしかったと。
キスの噂はさすがに驚いたが、抱き締めてしまったのは事実で、そのことは記憶にも鮮明に焼き付いていた。
その状況にいっぱいいっぱいで、あの時誰かに見られていたとしても、到底気付けるはずもなかった。

それにしても、どうして今日なんだ?
昨日のことならともかく、もう一ヶ月以上も前の話なのに。

俺は太息をついた。
そして、姫野は始業ベルが鳴ると同時に教室に姿を現した。
どことなく元気がないように思われたが、その勘が正しかったと気付くのに、時間はかからなかった。
いつもは熱心に板書をするか、ノートに向かってしかめっ面をするかのどちらかのはずなのに、今日の姫野はそのどちらでもなく、ほとんどが上の空だった。
たまに、小さなため息を吐いている時すらあった。
体調でも崩したのかと思ったが、その案はすぐに却下された。
理由は簡単だった。
休み時間毎に、姫野は佐久間に会いに行っていたからだ。
しかも小走りで、だ。
少しの時間さえも惜しい、そんな風にさえ感じてしまうほど、姫野は急いていた。
二人の仲がいいことは前々から知っていたが、よく訪れたのは佐久間の方だった。
そういえば、姫野から佐久間に会いに行っているところを、俺は見たことがなかった。
理由は、休み時間になると佐久間が迎えに来るからだ。
そうなると、必然的に一つの疑問が浮かんでくる。


どうして、姫野が走ってまで佐久間に会いに行くのか。


その訳もすぐに分かることになる。

放課後。
姫野に頼まれていた参考書を渡そうと、彼女の座席へと向かった。
瞬時に俺の気配を感じ取った姫野は、忙しなく帰り支度をした。
それはあからさまだった。
俺は一瞬たじろいだ。
しかし、貸すと約束をしていたので思い切って声を掛けた。

「姫野、これ。言っていた参考書」

「あ、ごめん。もういいや」

目も合わさず、顔も上げず、姫野はそのまま教室をあとにしたのだった。
そして、俺は漸く気が付いた。
姫野が急いで佐久間に会いに行っていたのは、時間が惜しかった訳ではなく、俺を避けるためだったのだと。

それから、姫野と言葉を交わすことはなくなった。
正直、俺は戸惑っていた。
避けられる訳も、冷たくあしらわれる訳も分からなかったからだ。
姫野に直接、尋ねようかとも考えたが、逡巡しているうちに時間は経ちすぎた。
明確な理由こそ分からなかったが、きっかけは間違いなくあの噂だった。
あの日から、何もかもが狂い始めた。
他に上がる噂がないせいか、不愉快極まりないあの噂はまだ生き延びていた。
尾びれ背鰭を付けながら、噂は独り歩きをしているようだった。
もはや、情報源を突き止めることなど不可能な状況だった。

「みんなよくもまあ、飽きないよな」

吉村は言った。
噂が流れた当初は、さすがに興味を示していたが、こいつの中ではもう過去のものになっていた。
当然、俺もそのうちの一人だ。

「まったく、迷惑だよ。本当。毎日毎日」

「ちょっとした有名人だな」

揶揄を含めた言い方に、俺は少し頭にきた。

「所詮は他人事だろ。吉村、俺がどうにかなったら止めてくれよな」

「それ、どういう意味だよ……」

「どうもこうも、我慢にも限界があるってことだよ」

例え根も葉もなくてもただの噂だけなら、俺も気にも止めなかったはずだ。
こんなにイライラすることもなかった。
あの噂に付加してきたのは、俺への罵倒だった。
それも聞こえるように、わざとらしいパフォーマンスとともに。
内容は、ざっとこんなものだ。


俺が姫野と付き合うのはありえないだとか、不釣り合いにも程があるとか、身の程を知れだとか。
更には、姫野が迷惑していたことにも気付かないのか、と経験値の乏しい事実を責め立てることさえも、言われたりした。


どれもみな、妥当なものばかりだった。
中でも特にぐさりときたのは、不釣り合いという言葉だった。
以前、姫野と佐久間が二人でいる時に覚えた違和感は、まさにこれだと思った。
二人は、釣り合っていたのだ。
つまり、お似合いということだ。
そのことに今更ながら気付き、恥を知った。
しかし、同時に怒りも沸き起こった。


なぜ、何も知らない奴等に、ここまで罵倒されなければならないのか。
いったい、俺がいつ迷惑をかけたというのか。
身に覚えのないことまで言われて、迷惑しているのは寧ろこっちの方だというのに。


やり場のない、思いばかりが募っていった。
そんなつらい日々の中でも、俺は姫野を気に掛けていた。
もしかしたら、姫野も迷惑を被っているかもしれない、と。
けれど、その心配も日を追う毎に薄れていった。
というのも、相変わらず佐久間とよろしくしていたからだ。
俺の心配なんて、何の意味も持たなかった。
いや寧ろ、姫野は俺との接点を断ちたがっているのだから、心配される方が迷惑かもしれない。
しかし、姫野に対しては怒りよりも、漠然としたショックの方が大きかった。
恐らくそれは、裏切られたという思いからだろう。
それでも、姫野のことをまだ嫌いにはなれなかった。
いっそのこと、嫌いになった方が楽なのに、と思うことさえあった。
そうすれば、避けられることに傷付くこともないし、佐久間と楽しそうに話す姫野を見て、ショックを受けることもなくなるからだ。
嫌いになれないのはきっと、姫野の口からまだ、決定的な言葉を聞いていないからだった。
そのせいで、俺はまだ希望を捨てられないでいた。



今日は、朝からついていなかった。
忘れ物をするわ、遅刻をするわ、教師に激怒されるわ等々。
思い出すだけでも、うんざりする。
けれど、そのお陰で学校に置き去りにされた携帯の存在を、思い出すことが出来た。
他の物ならともかく、携帯は置いて帰る訳にはいかない。
俺は、定期券を通す手前で踵を返した。
久々に放課後の静けさを目の当たりにし、俺は姫野と勉強した日を思い出した。
懐かしさと切なさが、胸いっぱいに広がった。
そして、教室を前にして俺はとことんついてないことを思い知った。
そこには姫野と佐久間、二人がいた。
誰もいない教室に、静かな空間。
いつぞやの、姫野と放課後、残って勉強した日を思い起こさせた。
それは、嫌な予感とともに聞こえてきた。



「だ、だめだよ……佐久間くん」



何かを、控え目に拒む姫野の声がした。
思わず背筋がぞくっとするような艶かしい声は、良からぬ想像を掻き立てた。
知らない間に、俺の手には拳が出来上がっていた。

「どうしてダメなんだよ」

「だって、誰か来ちゃうかもしれないし……」

「来たら、まずいのか?」

「ほら、見つかったりでもしたら」

姫野がそこまで言うと、佐久間は覆い被せるようにして言った。

「あいつは……和久井には抱き締められてもよくて、俺はダメなのかよ」

「そんな、ことは……」

「見た奴の話によると、美羽は拒まなかったそうじゃないか。少なくとも、今みたいにな」

その後の話の展開を想像すると、俺は今すぐにでもここを立ち去るべきだった。
だけど、情けないことに足はすくみ始めていて、それは叶わなかった。
少しの沈黙のあと、姫野は口を開いた。

「あれは、違うの。抱き締められたわけじゃないから」

言われてみれば、確かにそうかもしれない。
正確には手を引いてしまっただけで、抱き締めたわけではなかった。
だけど、それは佐久間が信じるだけの理由には、事足りなかった。
先程の勢いが消えた声で、佐久間は言った。

「美羽は……和久井のことが好きなのか」

その質問に、俺は度胆を抜かれた。
なぜ今、そんなことを聞く必要があるのか。
俺には到底、理解出来なかった。
ただ、質問が質問だけに、脈拍は急ピッチで増していた。
答えは初めから、一つしかないというのに。



「好きだなんて……そんなの、あるわけないよ。
その証拠に、今はもう全然話していないし、接点も何もないから。お願い、信じて――」



たった今、俺は絶望という闇に葬られた。
もはや、身体に力が入らなかった。
立っているのも、やっとだった。
姫野に対する怒りも疑問も悲しみも、すべてを覆い尽くすほどの絶望感が俺を呑み込んだ。
それから、俺は心に強く誓ったのだった。



もう……もう二度と、姫野には関わらない。
こんなに惨めで苦しい思いをするのは、もう御免だ。
やはり、俺には必要なかったんだ。
青春なんて戯事、必要なかった。
もう、しない。
絶対に。



その夜、俺は強く誓った。
次の日から俺は、姫野が視界に入らないように徹底した。
趣味である、プログラミングにも没頭した。
少しさぼっていたせいもあって、勘を取り戻すのに手こずったが、時間はそう取らなかった。
吉村もあれから、不吉な噂に触れることはなくなった。
もう完全に忘れたのかとも思ったが、それが吉村の気遣いだということに、俺はすぐに気が付いた。
理由は、今まで一日一回は耳にしていた、姫野の名前を聞かなくなったからだ。
尤も、姫野の二面性を知り、もはや興味を示さなくなったのなら、また別の話だが。

「俺、図書館寄ってくから。またな、和久井」

そろそろ、受験を意識せざるを得ない時期に突入していた。
昼夜の寒暖差も開き、日陰では身震いをするようになった。
元々、厚着が苦手な俺は、マフラー一つで冬を乗り切るしかなかった。
手袋が選択肢に含まれていないのは、俺の中では厚着にカテゴリーされているからだ。
今日は、そのマフラーの毛玉が妙に気になった。
目に余るほどでかいものもあれば、明らかにむしられたようなような痕さえあった。
俺は、すぐにぴんときた。
こんな幼稚なことをする奴は、一人しかいない。
犯人は妹だ。
しかし残念ながら、俺に怒鳴るほどの時間は残されておらず、悶々としながら駅へ向かう羽目となった。
そして、マフラーのない朝はこんなにもつらいものなのか、と更に妹を恨んだ。
おまけに何故か改札は、人の山だった。


そういえば、今朝のニュースで電車が遅れているって言っていたっけ。
確か、線路が凍結して曲がったとかなんとか。


俺は、遅刻を覚悟のため息を吐いた。
そして、遅刻に付随してくるのが喧しい担任の説教だ。
特に今は受験シーズン真っ盛りだから、先公達はいつもに増してぴりぴりしている。
ついていないな、と思った。
そういうこともあり、今日の俺は虫の居所が悪かった。
気も立っていた。
だから、安く売られた喧嘩を買う、という馬鹿げたことをしてしまったのだろう。
放課後を迎え、帰宅しようと教室を出た時だった。
ドア付近に佐久間がいることを知りながらも、俺は無視を決め込んで奴の横を通りすぎた。
ちょうどその時だった。

「おい」

凄みを利かせた声で、佐久間は俺を引き止めた。
ついでに、腕も掴まれていた。
その乱暴な力加減は、容赦なく俺の怒りに火を点けた。

「なんだよ」

「ぶつかっといてシカトか?」

更には、俺の肩を荒々しく突き飛ばした。
その拍子に、肩に下げていた鞄がどさっと廊下に落ちた。
その鞄から佐久間に視線を移すと、俺は言ってやった。

「えらく、安っぽい言いがかりをつけるんだな」

不思議と、口角がつり上がるのを感じた。
それを見た、佐久間の顔色は一変した。

「湿気た面したおまえには、これくらいがちょうどいいだろうが、よ」

最後の言葉を聞き終えるのとほぼ同時に、とてつもなく強い衝撃が俺を襲った。
思いの外、背後には壁が迫っていたため、俺は倒れずに済んだ。
だが、壁に背中を強打し、ずきずきと鋭い痛みと鉄の匂いが、口全体に広がった。

「なに、すんだよ」

予想外の激痛に、口が上手く回らなかった。
そのたどたどしい言い方には、まるで迫力がなかった。
せめて睨み付けてやろうと目を向けたが、視界はひどくぼんやりとしていた。
どうやら、殴られたはずみに、眼鏡がふっ飛んでしまったようだった。

「はっ。おまえ、眼鏡ない方がまだ見れたもんじゃねえか。俺に感謝しろよな」

鼻で笑いながら俺を侮辱する言葉を吐き捨てると、佐久間は眼鏡を無惨にも踏みつけた。
分厚かったレンズは、跡形もなく砕けた。
頭に血が上ぼるに伴い、傷口からも血が溢れ出した。
俺はそれを吐き出すと、口元を拭った。

「はあ……ダサいな」

俺は小さく溢した。

「漸く気が付いたか。和久井はもとからだせえんだよ」

「なに、言ってんだ? おまえのことだよ。佐久間」

佐久間が、屈辱に顔を歪めるのを俺は辛うじて捉えた。

「もう一遍、言ってみろよ。今すぐ、ぼこぼこにしてやるからよ!」

更にどすの利いた声で、佐久間は俺の胸ぐらを掴み上げると、壁へと押し付けた。
ぎりぎりと歯軋りが聞こえてきそうな形相だった。

「和久井の分際で、なめたこと言ってんなよ! てめえの立場がまだわかんねえのか!
金輪際、美羽に関わるな。次、あんな噂が流れたらおまえの最期だと思え」

朦朧とし始めた意識の中で、俺はやはりと思った。
佐久間がおかしな言いがかりをつけてきた理由は、やはり姫野とのあの噂のせいだった。
いつか因縁をつけてくるだろうとは予想していたが、まさか今日だったとは。
心底、ついていなかった。
俺は何だかおかしくなって、吹き出した。

「なんだ、おまえ。殴られて気でも触れたか」

「いいや。滑稽だなあと思って」

佐久間の頰が、ぴくりと反応した。

「聞こえなかったか? おまえみたいな奴が、俺と姫野の根も葉もない噂で、手玉に取られている姿が滑稽だって言ってんだよ」

次こそは、ばか正直なストレートを避け切れると思ったが、少し遅かった。
距離が思いの外、近かったからだ。
俺は先程殴られた側の頬骨に、佐久間の拳を食らった。
避けなかったことを思うと、少しぞっとした。
佐久間は明らかに、顔面のど真ん中を狙ってきたからだった。
気を抜いたのも束の間で、次に俺は鳩尾に衝撃を食らっていた。
俺が避けたことによって、佐久間の怒りを更に増幅させたようだった。
腹を抱え、踞るのを何とかして堪えると、俺は渾身の力を振り絞って、佐久間の胸ぐらを掴んだ。
そして、壁へと押し返した。
一見、形勢は逆転したかのように思われた。
しかし、俺の狙いはそれではなかった。


「見えるか」


今にも飛びかかりそうだった佐久間が、たちどころに目を見張った。
先程までいた俺の位置、つまり今いる佐久間の位置からは、教室にいる姫野の姿がよく見えた。
だから、彼女が悲痛に顔を崩し、恐らく涙していることも分かるはずだった。

「さっきも言っただろ。あれは根も葉もない噂だって。こんな俺に因縁つけたくなるほど惚れてるなら、下らない噂より姫野を信じろよ!
こんなこと……俺はもう二度と御免だ」

佐久間を掴む腕も疲れてきたため、俺は砕かれた眼鏡の欠片を拾うとそこを立ち去った。
いつしか、周りにはギャラリーが出来上がっていた。
ちょっとした有名人だな、という吉村の言葉を思い出した。



翌日から、俺のことをとやかくいう人間は消えていた。
昨日の今日だから、さすがにちらほらと視線を感じることはあったが、以前のものとは大分違って感じた。

「おい、和久井! ケガは大丈夫か? 昨日はとんだ災難だったな」

席に着くなり、吉村は身を乗り出す勢いで言った。

「ああ」

俺は、くぐもった声でそう答えるのが精一杯だった。
口内の切り傷が案外、重症だったからだ。
しかし、病院に行くには大層な気がしたし、家にあるもので手当てをしたが、絆創膏しかなかったため、傷口は丸見えで手当ての意味はまるでなかった。
滅多にないことだからかして、いやに張り切った妹が飯事感覚で湿布を貼ろうとしたが、それはさすがに俺も拒んだ。
確かに被覆面積は絆創膏よりも遥かに優れているが、そもそも顔に湿布を貼っている奴なんて、少なくとも俺は見たことがなかった。
そんな手当ての雑具合を見兼ねた吉村は言った。

「絆創膏以外に、なにもなかったのかよ。それはさすがにお粗末だぜ」

「尤もだよ」

「保健室に行けば、ガーゼくらいはあるんじゃないか?」

「いい」

「なんで?」

「絆創膏、剥がすの痛いから」

「……」

何故か、吉村は絶句していた。

「男の勲章をつけたヒーローが、情けないこと言ってんなよ」

又々、皮肉混じりのその言い方に、俺は顔をしかめた。

「冗談で言ってるんじゃないよ。昨日の和久井、まじでかっこよかった」


殴られた時はさすがにひびったけど、それでも怯まず暴力でやり返さないで、解決したのが良かったよ。
最終的には、佐久間の完敗だったしな。


と吉村は熱弁した。
何だか照れ臭かったが、気分は不思議と悪くはなかった。
寧ろ、心はすかっとしていた。
俺は喧嘩を好む質ではないが、胸の内をぶちまけたことで募りに募ったイライラを発散できた気がした。

「正直さ、佐久間がまたなにかやらかしてくるんじゃないかってひやひやしてたけど、随分と大人しくなったもんだよな」

ある時、吉村は唐突に言った。

「まあ、確かに。あの気性の荒さにしてみればそうかもな。でも、あれだけ顰蹙と悪評を買ったんだ。そう易々と仕返しもできないんじゃないかな」

「それに比べて、和久井は一気にヒーローだもんなあ。女の子ってもんは怖いよ、まったく」

オーバーに手をひらひらとさせ、苦笑いをした。
確かに、吉村の言うことも一理あった。
あの一件以来、女子達の態度は打って変わったのだ。
それはまるで、掌を返したかのように。
例えばまあ、こんな具合にだ。


「和久井くんさあ、この前のケンカ、ちょースゴかったよね!」

「うんうん。なんていうか、まさに男の中の男って感じだったよ!」

「意外な一面を見れたよねえ。普段とギャップ、ありすぎだし!」

「わかるわかるー! 特に、佐久間を睨み付けるあの鋭い目と乱れた髪がたまんなかったよ!」

「あんたそれ、マニアックすぎ。さすがに和久井くんも引くでしょ! ねえ?」

と聞かれましても。
俺はもう、既に彼女達に気圧されていた。
何という豹変振りなんだ、というのが第一の感想だった。
少し前までは、俺に見向きもしなかったというのに。
俺は気付かれないよう、ため息を吐き出した。

「ヒーローはヒーローで、色々と大変だな」

吉村は言った。

「その言い方はやめてくれよ。柄じゃない」

「和久井はそうでも、周りがそうは思ってないんじゃないか」

「どういう意味だよ」

「ほうら、来た」

吉村は気味の悪い薄ら笑いを浮かべながら、視線を左へと投げた。

「じゃーん! 和久井くんに、プレゼントだよ」

そう言って、何の前触れもなく現れたのは、あの一件以来話すようになった女子の一人である、クラスメイトだった。

確か名前は、百瀬(ももせ)と言ったっけ。
名字は気に入っているらしいが、百という漢字が気に入らないとか何とか。
桃の方がかわいいのに、と嘆いていた記憶がうっすらとある程度だ。
とにかく、あれから話す女子も格段と増えたものだから、名前と顔を覚えるのに一苦労だった。
なんせ、なかなか一致しないのだから。
俺は突如、百瀬から突き付けられた物を反射的に抱えながら尋ねた。

「これなに?」

「もう、なにって見ればわかるでしょ? 手作りクッキーだよ。もしかして、自分の誕生日も忘れたの?」

「あ」

言われてから、今日が自分の誕生日だったことに気が付いた。
まさか、成人しないうちに自分の誕生日を忘れてしまうとは。
俺は、自分が少し情けなくなった。

「そのまさか、みたいだね。和久井くん」

「でも、どうして百瀬が俺の誕生日を知っているの?」

「それはねえ」

そこまで言うと、百瀬は吉村と何やらアイコンタクトを取った。
そして、にたにたしながらこう言った。

「ひ、み、つ」

「……」

「あたしにはねえ、和久井くんのことがなんでもわかっちゃうんだあ。なあんてね!
あ、それ、頑張って作ったんだから、ちゃんと食べてよね」

念を押すようにして指を差すと、彼女は軽快な足取りで去っていったのだった。
俺はプレゼントだというそのクッキーを机に置くと、吉村に向き直った。

「なあ、吉村」

「なんだよ……」

「姫野の次は、あの子か。随分とたらしになったもんだな」

「そないに怒るなって。あんなにかわいい百瀬さんに、懇願されてみろよ。簡単には断れないぜ?
しかも、誕生日くらい教えても減るもんじゃあるまいし」

やれやれ、と俺はため息を吐き出した。

「それに、こうして誕生日も祝えてもらえたわけだし。女の子の手作りクッキーなんて、羨ましい限りだよ」

「それは、個人情報を勝手に口外した吉村が言えたことじゃないけどな。でもまあ、その通りかも」

「な? 和久井もさ、満更でもないんだろ。あ、さては惚れたか?」

次元の低い吉村の冷やかしもそこそこに、俺はクッキーを鞄へと仕舞った。
正直、豹変したからといって、女子と関わるのは嫌な気分ではなかった。
寧ろ、気分転換になり、程よく俺の心を癒してくれた。
彼女達と話している間は、姫野のことを気にせずに、考えずに済んだ。
あの日、最後に見た姫野の泣き顔も、きれいさっぱり忘れられるはずだった。
あとは時間が、すべてを解決してくれるはずだった。

今日は、二学期の終業式だった。
平凡よりはごく冴えない人生を送っていた俺にとっては、二学期は波瀾万丈な時期となった。
そして、それも漸く締め括られようとしていた。
目まぐるしく変化した数ヶ月の間に、俺の中での姫野の存在も徐々に薄くなっていた。
だが、完全に消えた訳ではなかった。
そのことに今日、気付かされることになるとは、俺は思いもしなかった。


普段通り、校門をくぐり下駄箱に着いた。
そして、靴を履き替えようとした手を、俺は止めた。
一瞬、下駄箱を間違えたかと思ったが、そこには間違いなく俺の名前である“和久井慎一”の文字が記されてあった。
不信感を滲ませながらも、俺は恐る恐る下駄箱に挟まった紙切れを手にした。
それは紙切れと呼ぶには相応しくないほど、かわいらしいデザインが施されていた。
いや、もしかしたら女子にしてみればごくごく普通の便箋なのかもしれないが、少なくとも初めて見る俺にとっては凝ったデザインに見えた。
そして、宛名は間違いなく俺であったが、差出人を見た瞬間、思わず自分の目を疑ってしまった。
そこには姫野の文字があった。
いや、差出人の名前がなくともきっと、俺はその人物を見抜いていただろう。
何故なら、それは姫野の筆跡に他ならないからだ。
俺は、その場で封を切った。
紙に触れた指先は瞬く間に体温を奪われ、途端に加速した鼓動のせいで視界は揺れた。
冷静さこそ失われていたが、それでも俺はそこに書かれていた内容を何とか理解することが出来た。

それから俺は、何とも落ち着かない状態で、教室へと向かった。
どんな顔をして姫野に会えばよいか、分からなかったからだ。
しかし、終業式が始まる前も終わった後も、俺が姫野の姿を見掛けることはなかった。
何故なら、彼女は教室にはいなかったからだ。
鞄が掛けてあることから、学校に来ているのは確かなようだが、それにしてもいったい何処にいるのか。
俺は、鞄の内ポケットに仕舞った手紙に視線を向けた。
さすがにここで開く訳にはいかなかったので、内容をもう一度反芻した。
けれど、反芻すればするほどに、疑問と迷いが生じてきた。
その手紙の内容とは、以下のものだった。



“和久井くんへ
突然のお手紙、ごめんなさい。
本当に自分勝手なお願いなのですが、今回こうして手紙を書いたのは、どうしても伝えたいことがあったからです。
もし、和久井くんがよければ、今日学校が終わったあと屋上に来てください。
待っています。
姫野”



この内容からすると姫野は今日、学校に来ているはずなのだ。
しかし、一向に姿を現さないとは、どういうことなんだろうか。
もう既に、屋上にいるとでもいうのだろうか。
卒業式を放ったらかしにしてまでも、そんなに伝えなければならないことなのか。
いやしかし、手紙には学校が終わったあとに、という文言が書かれてあった。

ではいったい、何処にいたというのだろう。
そもそも、金輪際、姫野に関わるなと佐久間からは釘を打たれているし、俺自身もそう誓ったのだ。
ましてや、姫野も佐久間に明言していたではないか。
俺とは一切接点を持たない、と。
ああ、ますます混乱してきた。
気分を変えるため、俺は窓の外に目を向けた。
晴天だったはずの空も曇天へと変わり、今にも雨が降りだしそうだった。
それは今朝の天気予報通りで、珍しいこともあるもんだな、と俺は思った。
そして、持参した傘を片手に教室を後にしたのだった。
向かった先は当然、屋上だった。
俺は出来るだけ何も考えないよう無心を努め、ドアノブに手を掛けた。
それは、予想外に冷えていた。
何となく、嫌な予感がした。
屋上へ続くドアは重く、この先へ行くことを躊躇わせた。
俺は深呼吸一つすると、力強くドアを押し開けた。
そこは、まるで俺を歓迎しないかのような、冷えきった冬の雨と風が吹き付けていた。

「寒いな……」

思わず、声に出るほどだった。
見通しも悪く、用がなければ来たくもない場所だと思った。
唯一、言えることは人気がなく、彼女と会うにはもってこいの場所だということだ。
佐久間に、つつかれる心配もないだろう。
俺は傘の準備をしてから、周囲を見回した。
ちょうど俺の立ち位置の左手に、姫野らしき姿を捉えることが出来た。
そして、思わず目を見張った。
何とこの寒空の下、彼女は傘も差さずにいたのだ。
俺は、小走りで背後から駆け寄った。

「風邪、引くよ」

俺も、姫野が視線を向けていた校庭に向かいながら、第一声を掛けた。
こちらを振り向くのが分かった。
その際、恐らく彼女の髪の毛に付いていたであろう雨滴が、首元に飛んできた。

「わ、和久井くん……来て、くれたんだね。突然、こんな所に呼び出したりしてごめんね」

そう言ってから、姫野は俯いた。
何となく、視線を合わせずらかったため、俺は校庭に向いたまま早速用件を尋ねた。
こんな所からは、一秒でも早く立ち去った方が、お互いのためだと思ったからだ。
寒いのは然ることながら、万が一誰かに見つかったりでもしたら、それこそ一貫の終わりだ。
姫野は、大きく息をしていた。
その息は、白くなり始めていた。

「何から、話したらいいかな……」

「姫野?」

「ごめんね……いろいろ、考えていたんだけど、なんか言葉がうまくでてこなくて……」

明らかに呂律が回っていない姫野を不審に思った俺は、漸く彼女の方を振り向いた。
肩で大きく呼吸を繰り返す姫野は、とてもしんどそうな様子だった。
立っているのもつらいのかして、寒さで真っ赤になった手をフェンスに絡めていた。
その手は、痛々しかった。
大丈夫、と声を掛けようとしたが、姫野が先に口を開いていた。

「私ね……ずっと、ずっと後悔していたの……和久井くんに謝りたくて、もう今さらって言われるかもしれないけど、やっぱり謝りたくて……」

「姫野」

俺の呼び掛けに、姫野が振り向こうとしたその時だった。
彼女は、力無くその場に崩れ落ちそうになった。
崩れ落ちなかったのは、一歩手前で俺が何とか支えたからだ。
雨に濡れて冷えているはずの体は熱く、頬は熱に浮かされたかのように逆上せていた。

「姫野、大丈夫?」

しかし、反応はなかった。
俺はぞっとした。
こんな状態なら、先程まで立っていたことさえ奇跡の気がした。
傘を放り出すと俺は姫野を抱え上げ、そのまま保健室へと直行した。



「あらまあ、どうしたの?」

ある意味、癒しの場である保健室には適当かもしれないが、そのおっとりとした口調は急を要する俺を苛立たせた。

「ひどい高熱なんです」

「彼女、姫野さんね」

先生の声色は、途端に怒気を帯びた。
理由は分からなかったが、俺は姫野をベッドに運びながらはい、と答えた。

「今朝から体調が優れなかったのよ、姫野さん」

「そうだったんですか」

「ええ。学校に来るなりここへ来てね、休んでいたの」


そうか。
だから、教室にはいなかったんだ。


小さな蟠りが一つ解けた。

「それで、今日はもう卒業式だけだから、帰った方がいいんじゃないって言ったんだけど……」

そこで一旦、言葉を区切るとため息ともにつかない息を吐いた。

「どうしても今日は帰れないって、大事な用があるからってすごい剣幕だったわ。
だから、私も折れちゃって。
念のために薬は飲ませたんだけど、あまり効いていないみたいね」

心配の色を濃く滲ませながら、先生は濡れたタオルで姫野の額を拭った。

「ところで、姫野さんはどこにいたのかしら。雨に濡れているみたいだけど」

隣から、鋭い視線を感じるのは、きっと気のせいではない。
俺は内心、どぎまぎしつつも落ち着いて答えるよう努めた。

「屋上にいました」

「この、雨風の中?」

「はい」

「傘も差さずに?」

「……はい」

「あなたも一緒に?」

「え……っと、まあそうなります」

「そうよねえ。だって、あなたが姫野さんを連れてきたんだものねえ」

だったら、聞かないでくれ。
と思ったことは口にしないでいた。
先生の口調は恐らく、俺を咎めていた。
一緒にいたのなら、どうしてもっと早く気付かなかったんだ、と言わんばかりに。
確かに、その通りだった。
だから、俺は何も言えなかった。
そして、姫野の苦しそうな息遣いがより胸を締め付けた。

「でもまあ、一人じゃなくて良かった。
今頃、どこかで倒れていたりでもしたら……ねえ。ぞっとするわ」

罪悪感から、俺は黙っていた。
おっとりとした口調とは裏腹に、先生は鋭く俺の心中を見抜いた。

「あら、なにも自分を責めることはないのよ。
あなたがいてくれて、良かったんだから」

「俺は……その時、近くにいただけです」

「でも、用もなく屋上に行ったりはしないわよね、普通。それとも――」

体温計を手にすると、先生は姫野の方へと少し屈んだ。
そして、ブラウスのボタンに手をかけると、そっと目配せした。俺は慌てて回れ右をした。

「それとも、あなたは屋上で授業をさぼったり、タバコを吸ったりするような良くない生徒なのかしら?」

何とも回りくどい言い回しに、探りを入れられているような不快感を覚えた。
どう答えたものかと悩んだ末、同じく疑問系で返すことにした。

「そう、見えますか」

俺の質問に顔を綻ばせると、どう答えたらいいかしらねえ、と先生ははぐらかした。
質問に対し、質問で返したものには答えない、という何とも魔性な一面を見た気がした。
その時、もう俺の中では、おっとりしたという第一印象はすっかりと消え去っていた。

「そこの彼」

不意に慣れない他人行儀な呼ばれ方をしたため、俺は恥ずかしいほど素直に振り返っていた。
先生は満足げに微笑みながら尋ねた。

「お名前は?」

「和久井です」

「そう。
和久井くん、そこに座ってもいいのよ。
さっきから、ずっと立っているけれど」

そう指定された場所は、姫野が横たわっているベッドの、真横の椅子だった。
俺は固まっていた。
魔性先生とのこの空気も苦手な上に、つい昨日まで関わりを絶っていた姫野の前に座るのも、何だか気まずかった。
第一、俺がここにいる意味はもうないはずだ。
そんな心の葛藤を見抜いたのか、先生が口を開いた。

「姫野さん、多分まだ目を覚まさないだろうから、荷物とか持ってきてあげてくれる?」

「はい」

「温かいから、ここで待っていればいいから」

「はい?」

俺は耳を疑った。

「だから、荷物を持ってきたらここで待っていればいいわ」

やはり、聞き間違いではなかった。

「まさか、先に帰るつもりなんかじゃないわよねえ。こんなにも弱ってる姫野さん、一人置いて」

更には、姫野さんの大事な用もまだ済んでないんだから、と付け加えた。
俺は悪寒がした。
何もかもを見透かされそうな、不吉な感覚に襲われた。

「荷物、取ってきます」

俺は直ちに保健室から立ち去った。
廊下はしんと冷え渡っていた。
環境は、空調整備が抜群である保健室の方が、確かに良かった。
しかし、精神的には廊下で待っている方が、ずっと良い気がした。
あそこは休める場所ではない。
ああいう女性は苦手だ、と思った。
幸い、教室にも廊下にも人はほとんどいなかった。
悪の元凶もとい佐久間の姿もないようだった。
内心、安堵しながら自分の席に向かって歩いていた時だった。
背後から、ドアを全開する音が聞こえた。
俺は凄まじい勢いで振り返った。

「和久井慎一!」

そこに居たのは、喧しいことで有名な俺の担任だった。
びびって損をした、とため息を吐き出した。
というか、普通に登場しろ、と毒づく俺に担任は一喝した。

「あなたが戻って来ないから、教室を閉められなかったでしょうに!
どれだけ迷惑をかけているか、わかっているの?
せっかく今日は早く帰れる日だっていうのに!」

「すみませんでした」

「というわけで、戸締まり宜しくね」

そして、鍵を置くなりすたこらさっさと姿を消したのだった。
面倒が増えてしまった。
お陰で、終業式だというのに、まったく気分は晴れなかった。
とりあえず、気を取り直すと姫野の机上を片した。
配布物と、いつ出したのか筆箱も仕舞おうとすると、欲張ったせいで筆箱が落下した。
チャックが開いていたせいで、中身は散らばった。
本当にとんだ災難だった。
拾うペンも、仕舞う筆箱もみな懐かしさを煽り、途端に胸が苦しくなった。
誰もいない教室に、俺と姫野の鞄が二つ。
否応なしに、あの束の間の楽しかった日々が思い起こされた。
もはや、嫌な記憶でしかないはずなのに、締め付けられた胸からは温もりが漏れた。
過ぎた時間のように、もうあの日の二人には戻ることが出来ないというのに。
行き場を失った焦がれる思いに、俺は強く、強く蓋をした。
もう思い出すことのないよう、胸の奥深くに閉じ込めた。
俺は二人分の鞄を手にすると、ドアを閉めた。
教室には目もくれずに。


まだ当分目を覚まさない、という魔性先生の言葉もあり、俺はゆっくりめに保健室へと向かった。
まあ、あの人と二人だけという空間にいることを、避けるためでもあるのだが。
わざわざ遠回りをし、人気の少ない階段を使用したが、俺はもう保健室へと続く廊下へと差し掛かっていた。
その保健室からは、暖かそうな光が漏れていた。
その直後だった。
勢いよくドアが開かれたかと思いきや、生徒らしき人が飛び出てきた。
俺がいる方向とは、反対側に走っていくその人物を目凝らしてみた。
俺は驚愕した。
そして、思わず追いかけていた。

「姫野!」

予想外に早く追い付いた。
姫野は何故だか素足だった。

「わ、わくい、くん? あれ? なんで……」

振り向くなり、姫野はぼろぼろと涙を溢しはじめた。
俺は訳が分からなくなって、狼狽えた。
彼女は泣きじゃくりながら何かを言っていたが、俺が唯一聞き取れたのはよかった、の一言だけだった。
それから、少し遅れて魔性先生がブランケットを持って走ってきた。

「もう、そんな格好じゃ寒いでしょう。風邪、ひどくなっても知らないわよ」

とか何とか、小言を溢しつつブランケットを姫野の肩に羽織らせた。
そして、固まっている俺に先生は言った。

「彼女、目を覚ますなり、あなたの姿がなかったからパニックになっちゃって。
私の言葉も聞かずにこの有り様よ。
和久井くんなら、教室に鞄を取りにいってるわよって、言おうとしていたのに」

「ごめんなさい……」

頬を赤くして、姫野は俯いていた。
睡眠をとったことにより、少しだけ元気を取り戻していた。
俺も安堵したが、これから二人だけで帰るのは、気まずいことこの上なかった。

「しっかり、送り届けるのよ。姫野さん、まだ本調子じゃないから、送り狼にはならないようにね」

先生は、まったく矛盾したことを言っているのにも気付かず、にこやかに見送った。
そして、嫌な沈黙はすぐに訪れた。
姫野が今日、伝えようとしていたこと、それも気になったが、切り出すタイミングが分からなかった。
まさか、謝りたかったというのがそうなのか。
しかし、それ以外に何も思い浮かばないのもまた事実だ。
特に何も言葉を交わすことのないまま、最寄り駅が見えてきた。
俺は複雑な思いでいた。

「あれ」

先程まで、すぐ後ろを歩いていた姫野の姿がなかった。
具合が悪化したのかと俺は慌てて、姫野の元へと駆け寄った。

「しんどい? 大丈夫?」

「あ、うん……。大丈夫」

俺はほっと息を吐いた。
しかし、姫野が歩き出す気配はなかった。
肩をすぼめ何かに堪えている、そんな印象を受けた。

「どうしたの?」

「あのね……」

姫野は絞り出すように言った。

「今日、忙しいかな……ちょっとだけ、時間ないかな?」

「でも、体調良くないなら早く帰った方がいいと思うよ。先生もそう言っていたし」

「忙しいなら、時間とらせないから……少しだけでいいから……お願い」

「姫野……」

「どうしても今日じゃなきゃだめなの……今日じゃなきゃ」

あまりの切な懇願に、俺は折れるしかなかった。
高熱で倒れただけに、体調が悪化しやしないかと心配する気持ちもあったが、とりあえず風通しの少ない場所へと移動した。
ちょうど、近くに草木がよく植わった公園があった。
少し狭い気もしたが、俺達はそこのベンチに腰掛けた。
案の定、落ち着けなかった。
とりあえず寒い手をポケットに入れたら、姫野が突如立ち上がった。
そして、俺に頭を下げたのだった。

「ごめんなさい!」

更に矢継ぎ早に続けた。

「私……ひどいこと、たくさんした。
貸してくれた参考書のことも、佐久間くんの暴力のことも。突然、和久井くんと関わるのをやめたことも……。
ずっと、ずっと後悔していたの」

足元には、涙の跡と思われる影があった。
顔も上げずに姫野は続けた。

「本当に今さらだし、許してもらうつもりもないの。
だけど、このままはどうしても、嫌で……」

頬を乱暴に拭うと、漸く顔を上げた。
俺は目が合わせられなかった。
発すべき言葉も見つからず、視線は宙をさ迷った。
そして、気付けば開いた口からこんなことを言っていた。

「いいよ、もう。俺も忘れるし、今までのことはなかったことにしよう」

言い終わると、俺は立ち上がった。
その時、姫野の肩が微かに揺れた。

「今までって……全部、みんな、なかったことにするってこと?」

「え?」

「残って……一緒に勉強したり、たくさん話したことも全部……みんな、忘れるの?」

涙ぐんだ声に、すがるような問い掛けに俺は返答に窮した。
しかし、頷いていた。
だってきっと、その方がお互いのためだから。
そこには、重たい空気が流れた。
それを打ち砕くように、姫野は言った。

「できない……私にはできないよ」

あまりの強い声に俺は重たくなった体ごと、姫野の方に振り向いていた。

「ごめんね……。勝手なこと言ってるってわかってる。
でもね、忘れるなんて、なかったことにするなんて、私には多分できない」

「どうして……」

「だって……何度も忘れようとしたけど、できなかったから!
頑張って忘れようとしたのに、どうしてもむりだったから」

姫野の頬は、とめどなく溢れてくる涙で濡れていた。
俺は、何だかとても胸が痛かった。
多分それは、彼女を抱き締める資格も権利も今の俺にはないからだった。
しゃくりあげながら、姫野は続けた。


「忘れられなかったのは、本当に楽しくて……私、しあわせだったから。
そう思えるのは、和久井くん、だけだったから」


呼吸もあまり整わないまま頬を拭うと、姫野はまだ涙が滲む目に無理やり笑顔を作った。



「だってね……和久井くんは、私の好きな人だから」



自嘲を溢すと、姫野の目からはまた涙が溢れた。だけど、彼女は笑顔を崩さなかった。

「へへっ……ごめんね。最後まで迷惑かけて。
ごめんね……好きになんか、なって」

本当にごめんなさい、と姫野は残し走り去った。
俺は慌てて跡を追ったが、姫野はこれ以上迷惑かけたくないから、と強く拒んだ。
だから、つらそうに遠ざかる背中を、ただ見つめるしかなかった。
放心した状態では何も考えることは出来なかった。
姫野が残した言葉の意味も、執拗に謝る訳も俺には分からなかった。
尤も、翌日からは冬休みに入ったため、確かめる術も俺にはなかった。
それ以前に、こんなことに現を抜かしている暇も俺にはないはずだった。
何たって、今は受験生なのだから。
至極、大切な時期なのだから。
気が緩むと、ふと姫野の涙を思い出してしまうから、出来る限り無我の境地へと己を追いやった。
そうすることでしか、自分の理性を保つことが出来なかった。
しかし、その努力も三学期が始まってまもなく、水の泡となってしまう。

俺は普段以上に、制服のネクタイをきつく締めた。
決して気が緩まないよう、その決意とともに。
不思議と、制服をぴしっと着こなすだけで、何だか気も引き締まった気がした。
今日は三学期と、そして高校生最後の始業式の日だ。
気持ちも新たに何にも邪魔されず、順調なスタートを切る予定だった。
なのに、天気は生憎の雨模様だった。
良い感じに上がっていた俺のテンションは、みるみる下がっていった。
いつも外れる天気予報も今日だけは当たるものだから、皮肉以外の何物でもなかった。
よりによって、なんで今日なんだろう。
僅かにいつかの不吉さを心に抱きながらも、俺は何とか無事に始業式を終えようとしていた。
その矢先だった。
トイレから教室への戻り道、俺は背後から声を掛けられた。
あまり聞き慣れない声に、不審に思いながらも振り返った。
そこには見覚えのあるような、ないような三年の女子、数人がいた。
彼女達は、見るからに負のオーラを発していた。
まさに不吉そのものだった。

「ちょっと、顔かしてくれない?」

その、有無を言わさぬ物言いに雰囲気に、俺は頷くしか術がなかった。
まずい無言の中、行き先も告げられぬまま、俺は彼女達に連行された。
着いた場所は、これまた体育館の裏というリンチ(死語)にはもってこいの定番で、俺の中の恐怖は指数関数的増加を見せた。
ただ、彼女達にしめられる身に覚えはまったくなかった。
クラスも違えば、話したこともない。
こんなに顰蹙を買うことは、不可能なはず。
単に寒いということもあったが、距離を取りたいという無意識の自己防衛から、俺は腕を組んだ。
第一声を聞いたのは、そのあとすぐのことだった。
俺の、向かい側にいた女子が口を開いた。

「なんで呼ばれたのか、わからないって顔してるけど――美羽のことだよ」

その時、俺は漸く思い出した。
何となく見たことがあった気がしたのは、姫野の友達だからだった、と。
それから、第一声を発した右隣の女子が付け加えた。

「ホントは、美羽には言わないでってお願いされていたんだけど……もう、あたしら我慢できなくて」

その発言に対しての疑問が顔に出たのか“美羽がかわいそうで”と補足した。
けれど、俺は混乱し始めていた。
不明瞭なことが、突如浮上してきたからだ。
俺が発言する間もなく、彼女達は続けた。

「まずはね、単刀直入に聞くけど。
和久井くんは美羽のこと、どう思ってるの?」

何の脈絡もない質問に、俺は返答に窮した。
かといって、すぐに答えも出なかった。
だって、そんなことは今まで考えたことがなかったからだ。
言葉に行き詰まる俺に焦れったくなったのか、もうはっきりしなさいよ、と一番左端にいた女子が吐き捨てた。

「知ってると思うけど、美羽は和久井くんのことが好きなの。今もまだ思ってるの!
あたしらには大丈夫だよって、元気に笑って言うけど……いつも目赤く腫らしてるの知ってる。
あんなの、平気なわけないよ……」

沈痛な面持ちで、その女子は顔を伏せた。
俺はまだ、状況を把握出来ずにいた。
しかし、ただならぬ重い空気が漂っていることだけは理解出来た。
何かがあったんだ、と予想せずにはいられなかった。

「今から話すこと、美羽には言わないでね。絶対」

背筋がぞくりとしたのはきっと、寒さのせいだけではないだろう。
俺の鼓動も高鳴り始めていた。
手には汗が滲んだ。
異様な雰囲気のせいで、聞くことを躊躇われた。
しかし、今の俺にこれを拒む権利はないはずだった。


聞きたい。だが、聞きたくない。


相反する思いに、葛藤が生じた。
俺は腹を括ると、わかった、と返事をした。
その内容は、俺の想像を絶するものだった。
悪天候故、凍り付きそうだったはずの俺の体は、徐々に熱を帯びていった。
気が付けば手には拳が出来ていて、怒りからこめかみが痛むほど歯を食い縛った。
眉間にも何度も深い皺ができ、頬がひきつるのが分かった。
行き場のない憤りから、彼女達を問い詰めたりもした。
俺の豹変ぶりに、驚きと恐怖を露にしていた。
それで俺は辛うじて、我に返ったのだった。
彼女達の話を要約すると、つまりはこういうことだった。



姫野が俺との関わりをまったく絶ったのは、姫野自身の意思ではなく佐久間によるものだった。
寧ろ、姫野の意思はそれとは反対で、幾度とない苦渋の葛藤の末、佐久間に従わざるを得なかった。
それがどういうことなのか、遡るは中学時代だった。
姫野と佐久間は同じ中学校出身で、その時から佐久間は姫野に強く惹かれていた。
しかし、その懸命なアプローチも熱烈な思いも虚しく、佐久間と姫野が結ばれることはなかった。
何故なら、姫野には他に思いを寄せる人がいたからだった。
そのことを知った佐久間は、激しい嫉妬を覚えた。
姫野への強い思いも然ることながら、それが叶わなかったことでより一層思いが膨れ上がったようだった。
自分のものにならない歯痒さもあり、佐久間は俺が想像するよりも遥かに苦しんだとみる。
猛烈な嫉妬から、佐久間は姫野が思いを寄せる、その男にやり場のない怒りの矛先を向けた。
そこでいったい何が起こったのか、それは俺が二学期に経験した騒動とほぼ同じ類いのことだった。
しかし、中学生という若さと純粋さ故、爆発した激情は、もはや抑止することが不可能だった。
結果、佐久間はその男子生徒を病院送りにした。
命に別状はなかったが、全治三ヶ月という大怪我を負った。
それから、姫野は自分自身を責めた。


好きになんかならなければ、こんなことにはならなかったのに。
私のせいだ。私のせいで彼は――


そんな風に毎日毎日、自分を責め続けた。
そして心に誓った。
もう決して誰も好きにならない、と。
佐久間をどうすることも出来なかった姫野は、そうするしか術がなかった。
恐怖と絶望とトラウマを、一人抱えながら。



「でもね……やっぱり思いって、思い通りにはいかないものなのよね」

第一声を発した彼女は言った。

「美羽は自分の気持ちに知らないふりして頑張ってた。
だけど……ムリだったの」

「和久井くんと話すうちに好きって気持ち、どんどん大きくなって、とめられなくなったんだと思う」

「ほら、よく残って勉強してたんでしょ? 二人で」

「あの美羽が、自分から誘うなんてよっぽどだよ。
すごく勇気いったはずだよ」

「だから美羽の気持ち、信じてあげてほしいの。
ちゃんと、本気だったから」

「本気だから……和久井くんから離れたんだよ。
佐久間から、守るために。
中学の二の舞にならないように。
自分の心、偽ってまで、和久井くんを守ったんだよ」

「だけど……結局、誰かが流した噂のせいでばれちゃって、美羽の努力もみんな水の泡」

言葉に詰まったその友達は、つらい情景を思い出したのかして堪らず涙した。

「美羽ね、あのあともまた自分責めてたの……。私の、せいって……違うのに、何も悪くないのに……」

その子は泣き崩れた。
何かが際限なく溢れ、俺の全身は俄に震えた。
もう立ってるのも、話を聞いているのさえも限界だった。
そして、その場をあとにした。

向かった場所は、言うまでもなく姫野の元だった。
けれど、居場所が分からなかった俺は、とりあえず教室へと足を向けていた。
久々に全力疾走したものだから、息は忽ち上がった。
教室のドアを全開にし、姫野の姿を探したが、そこに求めていたものはなかった。
それ以前に人気がなかった。
だが、俺は諦めないと思った。
探し出すまでは、見つけ出すまでは、止められないと思った。
俺の内側からとめどなく溢れ出す思いが、漸く気付いたその思いが、俺を激しく突き動かした。
次の行き先なんて考えていなかった。
考えるよりも先に体が動いた。
こんなことは初めてだった。
教室をあとにしようと振り返った時、俺は何かにぶつかった。

「あ、ごめん!」

瞑った目を開け、尻餅をついてこけたその人に手を差し出した。

「わ、和久井くん!」

目の前には、探し求めていた姫野がいた。
今、まさに俺の手を掴もうとしていたその手を、慌てて引っ込めた。
スカートを軽く払うと立ち上がった。

「び、びっくりした。まだ、残っていたんだね」

やや早口で、髪の毛を触りながら言った。
長めだったその髪は、肩よりも短くなっていた。
俺は思わず、口にしていた。

「髪」

「あ、うん……。短く切ったんだ。
ちょっと切りすぎちゃったかなって思ったんだけど、なんていうかイメチェンしてみたの」

姫野は小さくはにかむと、そのまま教室へと入っていった。
その後ろ姿を見ながら、俺は先程聞いた友達の話を思い出した。
失恋をしたから、髪を短く切ったのだ、と。
俺は上がった息を整えた。
けれど、頭は真っ白になるばかりだった。

「息……大丈夫? すごく、急いでいたみたいだけど」

姫野はハンカチをポケットに仕舞いながら、遠慮がちに尋ねた。
どう答えるのか、何を言うべきなのか、情けないほど言葉がうまく出なかった。

「人を、探していて」

「人? そう、なんだ」

姫野は少し目を伏せると、こう言った。

「もしかして……百瀬さん?
そうなら、多分もう帰ってると思うよ。
さっき、友達と鞄持って出ていくところを見かけたから」

「百瀬? 違うよ」

姫野の口から、百瀬の名前が出てきたのは意外だった。

「そうなの?
てっきりそうかなって思ったんだけど……外れちゃったね」

片付けをしながら、姫野は言った。
俺はゆっくりと歩み寄った。
そして、机一つ分ほどの距離で足を止めた。



「俺が探していたのは――姫野、だよ」



手が止まった。
いや、手だけではない、時間そのものが制止したようだった。

「私……?」

俺はぎこちなく頷いた。
落ち着きを見せていた鼓動も再び加速した。

「な、に?」

不安で、だけど窺うような瞳を姫野は向けた。

「その、さっき姫野の友達に――」

決して姫野には言わないで、と釘を刺されていたのにも関わらず、俺は側から約束を破っていた。
真っ白になった頭では、もはや正常な判断を下すことは不可能だった。
だけど、俺が言い終える前に姫野は駆け出していた。
恐らく、友達という一言で、俺が何を言わんとしていたのか察したからだった。

「待って!」

それは反射だった。
姫野が俺の横を通り過ぎたその時、彼女のその腕を咄嗟に掴んでいた。
その瞳には、驚きと戸惑いと不安と、様々な感情が入り混じっていた。
それをすべて振り払うように俺は、姫野を強く、強く抱き締めた。

「和久井、くん……!」

苦しそうなその声に、俺は腕を少しばかり緩めた。
あとで卑怯だって言われるかもしれないが、胸に姫野を感じたまま、俺は心の思いを打ち明けた。

「俺……姫野に惚れてるみたい」

今思うとなんともまあ、格好のつかない告白だったと思う。
初めての経験だったからなんて言い訳を抜きにしても、反省点が多すぎて参るが、姫野は全身を震えさせながら泣きじゃくった。
発する言葉も聞き取れないほど、咽び泣いた。
姫野が一人、抱えていた思いの大きさを知った。
胸が軋むほど痛んだ。
姫野の涙が体の奥深くまで滲みた。
もう十分すぎるほど泣いたから、これからはもう絶対に泣かせないと誓った。



今度は、俺が姫野を守るから。
たくさん笑顔にしたいから。
だから――



「俺の彼女になってください」

「……はい」

涙を拭いてから、姫野は俺の好きな笑顔でそう答えた。



(おしまい)

番外編
※遅すぎた春、散る
※崩壊の危殆、迫る

俺に、青春なんて必要なかった。

俺に、青春なんて必要なかった。

色恋事? そんなもの、人生において陳腐なオプションに過ぎない。

  • 小説
  • 中編
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-02-28

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

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