僕らの熱き日々 (Part 1-高校編)
高校を卒業してからもう40年以上の月日が流れていますが、まだ自分が十代だったころの思い出、感覚は いまだに鮮明に私の中に残っています。 私自身の青春は音楽とは切っても切り離せないもので、今までの人生の中で自分にとっては大切な宝物です。 そんな宝物の色があせない様に文章にして残しておこうと思い立ちこうして投稿してみることにしました。
僕らの熱き日々- 高校編
44年前の春だった。 僕は3校の大学受験にすべて失敗してかなり
落ち込んだ日々を送っていた。 もう心の中では、半分以上は浪人を
決めていたのだが、やはり全て受験に落ちたショックは相当の
ものであった。 あの時、そのまま浪人生活を送っていたら僕の
人生はかなり違ったものになっていたかもしれない。
浪人を決めていた僕に高校3年の時の担任の安藤先生が、
「後藤、京都S大学が今二次募集をしているぞ。 あの大学は
歴史は浅いが、これから伸びる大学だよ。受けてみたらどうだ。」
その一言で僕のもろい決心(本当にもろいものだった。)もくずれ、もう
その日の内に、S大学の入学願書を取り寄せる手続きをしていたのだった。
今から思えば、1年間暗い、打ちひしがれた浪人生活を送るより、早いとこ
楽になってバラ色の大学生活を送ろうといった安易な気持ちがあった事も
確かである。 それと、親元から離れて一人で下宿生活を送ってみたいと
いった憧れもあった。自分で言うのもおかしいが、僕は元来、人一倍
独立心だけは強くて、中学、高校とよくバイトをして欲しい物は出来る
かぎり自分で買う様にしてきた。
幸か不幸か、S大学の二次試験には合格して暗い浪人生活を送らなくても
よくなった訳である。そして、中学、高校と僕を夢中にさせてきた
音楽との長い付き合いが始まったのである。 と、ここから大学へ
入ってからの話を書こうと思ったのだが、その前に高校時代の事も
どうしても書きたくなったので、いや、書かねばならぬと思い立ったので、
以下、「熱き日々パート1」を綴る事にした。
僕の他にもう一人、全ての受験に失敗して最後の救いの神、S大学の
二次試験に合格した男がいた。 全くの偶然であったのだが、高校時代
一緒にバンドを組んでいた福山だった。僕は新聞の合格発表で彼の名前が
僕の名前のすぐ横にあるのを見つけるまで、彼がS大学を受けた事は全く
知らなかった。 福山は高校2年の時、隣のクラスへ浜松から転校してきた
男で最初は何か変な奴が転校して来たぐらいの印象であった。 背が結構高くて
スタイルも良いのだが、運動神経は鈍そうな奴というのが僕の最初の印象で
あった。
福山と同じクラスに僕と同じクラブの(僕は高校の3年間、
ハンドボール部に所属していた。)三田(彼はゴール・キーパー
だった。)がいて、高校2年の9月のある日彼が僕のところへ来て
「おい、ゴットン、福山が今度バンドを組んで文化祭で何かやる為の
メンバーを探しとるぞ。 お前、ギター弾けるんやろ? 福山に
ゴットンの事 話したら今度話がしたいと言ってたぞ。」
こうして僕は福山とバンドを組む事になってしまった。メンバーは
僕らの他に、ベースに美濃部(通称=みのちゃん)、ドラムに若竹
(通称=わか)の全部で4人のバンドで、レパートリーは主に
ベンチャーズのナンバーがほとんどであった。バンド名は、
「サリドマイズ」。 当時、世間では、問題となったサリドマイド訴訟が
なにかと新聞、テレビ等の話題になっており、全然そちらからの意味は
なかったのだが、ただ何となくゴロがいいというだけの理由でこれを
拝借した。 今から思えばなんて不謹慎なバンド名を付けたのかと
つくづく思う。
さて、我が「サリドマイズ」は、文化祭でも結構受けて、卒業間近まで
バンドは存続した。 当時、70年代前半はポピュラー音楽の歴史の
中でも最もアクティブな時代で特にロックの分野では様々なグループ、
アーティストが出てきた本当に素晴らしい良き時代であったのだ。
僕の中学生時代に、当時の若者の間では、かなりの市民権を得ていた
日本のフォークソングのブームが若者の音楽観を根底から変えようとして
いたし、僕もかなりその波にのめり込んでいった。最初は、いわゆる
「カレッジ・フォーク」という、どちらかと言えば。「愛」とか「恋」とかを
テーマにした「和製ポップス」的な音楽から入った。このあたりの音楽は
それ以前に歴史的なブームを築いた「グループ・サウンズ」系の音楽を
継承した様な曲調のものが多かった。
ここまで遡ったら、そもそも僕がギターや音楽に関わる様になった
きっかけというか、その原点みたいなところまで触れたいと思う。
僕が、まづギターに興味を持ったきっかけになったのは、やはり
当時のギター少年の憧れの的であった、加山雄三と寺内タケシで
ある。 小学校6年の冬休みに見た「エレキの若大将」、この
映画でエレキ・ギターの魅力に完全に取りつかれてしまった。
しかし、当時、まだ、エレキギターなんて買ってもらえる身分で
なかった僕が最初に買ったギターと呼べるものは、お年玉を貯金して
松坂屋のバーゲンで買った1800円のガット・ギターであった。
中学生になると先にも書いた様に、空前のグループサウンズのブームに
日本全国が沸き、僕もそのカッコ良さに憧れて悪友達と集まっては、
タイガースやテンプターズの曲を歌い、弾きまくっていた。
さて、話を元に戻して、中学生の終わり頃から、それまでは、軟弱な
音楽部類に属していた「カレッジ・フォーク」にのめり込んで
いたのが、ビートルズをはじめとする、洋楽に次第に興味が
移行していった。 この頃、高校生であった兄貴がフォークに夢中に
なっていて学校で友人たちと3人でグループを組んで学園祭などで
歌っていた。 兄貴たちのレパートリーは主にPPMやキングストン
トリオ等の曲が多く、また当時、日本に吹き荒れていた新しい
フォークの波、いわゆる「アングラ・フォーク」と呼ばれていた
音楽の中から、高石友也、岡林信康らの曲も取り上げて歌っていた。
僕もその影響で、こういったアングラ・フォークにも徐々にのめり
込んでいった。
高校に入ってからは、もっぱらクラブ(ハンドボール)に明け暮れる
毎日であったが、そんな生活にも慣れてくると、ギターを
弾いたり、レコードを聞いたりする余裕も出てきた。 そんな時、
海外では新しい音楽の波が生まれかけていた。それは今まで
感じた事のない、言葉では言い表せない何か熱いエネルギーを
感じるものであった。 音楽が音楽を超えて単にひとつのムーブ
メントで終わらずに時代を変えてしまうほどのパワーを持った
ものであった。 逆に言えば、時代が何か新しい何かを求めて
いたのかもしれない。 あの伝説的な「ウッド・ストック」
コンサートと前後して、世界各地に、音楽を通して、「愛」、「平和」
「反戦」を唱えるムーブメントが沸き起こった。そんな中から、様々な
ロック・アーティスト達が生まれ出てきたのだった。ジミ・ヘンドリックス
クリーム、シカゴ、ザ・フー、テン・イアーズ・アフター、ジャニス
ジョップリン等など、名前をあげていったら、きりがないほどだ。
勿論、それ以前から存在していた、ビートルズやローリング・ストーンズ
は別格で、若者の音楽感を革命的に根底から変えてしまった
立役者であるし、また、前述したアーティスト達に多大なる
影響を与えた偉大なグループである。
これ以上、当時の事を書き出すと、それだけで終わってしまうほどだ。
僕もあの当時、「ウッド・ストック」の映画を見ていたく感動したり、
色々なアーティストやグループの音楽を聴いたり、今の自分の
音楽主観みたいなものは、あの頃、感受性が一番鋭かった頃培われた
のではないかと思う。それ以後、僕の中にある音楽観は全く変わって
いない様な気がする。あの時代、リアルタイムで前述したムーブメントや
音楽を体験できた事は、本当にラッキーであったし、幸せであったと今でも
思う。
さて、「サリドマイズ」の話に戻そう。先に述べた様に、最初の頃の
レパートリーはベンチャーズの曲がほとんどであったのだが、高校3年に
入ると、ドラムの「わか」や僕が、かなりロックに傾倒していた事もあり
ある時、二人で福山にもちかけた。
「なあ福山、今度の文化祭ではちょっと変わった曲やらへんか?」
「変わった曲って?」 と福山がやや不満そうに言った。
「お前、シカゴやグランド・ファンク聞いた事ないか?」とわかが言った。
「聞いた事あるけど、ちょっと難しすぎるのとちがうか? それにわしらの
バンドにはボーカルがいないぜ。 わしらのメンバーでまともにボーカルを
とれる奴はいないし。」と福山は自信無げに言った。福山としては、今まで通り
ベンチャーズ スタイルを続けたかったのだ。 その言葉に対して、わかが
言った。
「俺にひとつ考えがある。お前ら、サッカー部の今野を知ってるだろう?
奴とこの間話していたら、歌いたがっていたぜ。俺からあいつに頼んでみるよ。」
福山の顔を見ると、この提案に対してもすんなりとは受け入れられないといった
表情をしていた。彼は非常にくせのある性格で、人一倍「仲間意識」が強く、
自分と関わりの無い他人が自分たちのグループに加わる事を非常に嫌った。
それに、サッカー部の今野の性格自体にも福山が受け入れにくい何かがあった
様な気がする。今野はどちらかと言えば表面的には不良ぶった奴で、結構
目立った存在でもあり、そのあたりが福山にとっては気に入らなかったので
あろう。それでも、彼はみんなの考えが何か新しいものに挑戦してみたいとの
方向でかたまっている事を察すると、
「わかったよ。今野との話し合いはわかに任せる。それがOKなら次に
どんな曲をやるのか決めようよ。」
と福山はリーダーの顔に戻って言った。僕は、ちらっと彼の横顔を見たが、
やはりどこか無理をしているなといった感じがした。みのちゃんも僕と同じ
様に感じたらしく、少し心配そうな顔をして福山を見ていた。みのちゃんは、
元々、わかの中学校からの友達でバンド結成の話が出た時に、わかに誘われて
グループに参加したのだった。僕もそれまでは、みのちゃんの事は全然
知らなかった。 しかし、人と人との出会いはふとした事から始まり
それが何十年たった今でも続いている。本当に面白いものだとつくづく
思うし、僕はぞんな出会いを大切にしたい。僕らのバンドのメンバーは
それぞれが個性的なのだが、みのちゃんもなかなかユニークな個性を
持った男だ。性格的には温和でやさしい奴なのだが、これがまた頑固で
自分が思った事はあまり曲げようとしないところがある。僕がみのちゃんを
知って最初尊敬の眼差しで彼を見たのは、彼が非常に電気に強い事が
わかってからである。たとえば、ギターのピックアップの調子が悪くても
彼はいとも簡単に直してしまうし、アンプの音が出なくなっても、ちょちょいの
ちょいと直してしまう。メカには全く駄目な僕など彼が天才に見えてしまった。
彼はベース担当で自分のベースも自分で作ってしまったほどだ。ドラムの
わかはメンバーのうちでは一番のきかんぼうで異端児であった。それに
かなり喧嘩っぱやく、学校でも他の悪連中からも一目おかれていた。
しかし、我々バンドの中では、あくまでもバンドのメンバーの一員として
常に冷静で謙虚であった。 さて、みんなで福山を説得した次の日、わかは
放課後クラブが始まる前にサッカー部の部室にいた今野を呼び出して
バンドのボーカルの話をした。今野が二つ返事で了解をした事は言うまでもない。
さて、いよいよ新生「サリドマイズ」の練習が始まった。練習は学校の帰りに
僕の家に集まって行った。僕の家は学校から歩いて20分くらいの所にあり
家の裏が丁度空き地になっており、まだ当時は、周りにもほとんど家も無く
少しくらい大きな音を出しても大丈夫であった。と思っていたのは僕だけで
きっとさぞかし周りの人はやかましく思っていたに違いない。
「さあ、今日はシカゴをやるか?」 と福山がギターをケースから取り出し
ながら言った。
「「長い夜」かあ、あれやると足がつるからなあ。」 と、わかがドラム・スティックを
手首を使って振りながら、口では不満げであったが、結構乗り気な様子であった。
「長い夜」とは当時「ブラス・ロック」と呼ばれたロック・ジャンルの第一人者で
あった 「シカゴ」の大ヒット曲であった。僕もこの曲が大好きでシングル
レコードの溝が磨り減るほど聞いたものだ。 あの印象的なこれぞロックといった
感じのイントロに、ギターのテリー・カスの独特なディストーション・サウンドを
効かせた間奏のギターソロ。 今聞いても心にグッとくるものがある。 このギターの
テリーカスは、後年ロシアン・ルーレットをふざけてやって運悪く、あっけなく
死んでしまった。好きなギタリストであったのに。
「わか、もう少しリズムを早くして欲しいのだけど。」 と福山が言った。
「これ以上早く出来ないよ。 バスドラムをそんなに早くキックできないよ。」
「レコードでは、十六連打だけど、いっそのこと四連打にしちまったら?」
と僕が言うと、
「その方が、早いリズムをキープ出来ていいよ。」 とみのちゃんが相槌を打った。
「でも、少し迫力に欠けてしまうな。」 と福山が言った。しばらくの間、わかは
何度もドラムペダルを踏みながら、
「練習してみるよ。何回もやれば出来る様な気がする。」
僕らは何回も「長い夜」を練習した。最初のイントロの部分では、わかも頑張って
十六連打をなんとかキープしていたが、やはりボーカルが入ってくるあたりになると、
かなりへたばってリズムが狂ってしまうといったパターンが続いた。結局最後には
わかも諦めて僕やみのちゃんの提言通り四連打にする事になった。福山はやや
不満そうであったが、練習のペースがあがらないので仕方が無いといった感じで
あった。
「おーい! こんな高い声出ないよ。」
と今度は今野が歌の途中で突然歌うのをやめて叫んだ。
「頼むからキーを変えてくれ。 最初のあたりはなんとか出るんだけど、どうもサビの
所が無茶苦茶しんどいわ。」
と今野がいつものおどけた調子で言った。
「それはいかんよ。このA-マイナーから始まるところがこの曲のえーとこなんや。」
と福山が反論した。確かにこの曲のカッコ良さは、福山が言う様にA-マイナーから
下に下りてくるコード進行によるところがかなりあった様に思う。みんなの説得で
今野もしぶしぶキーを変えずに続ける事を飲まざるを得なかった。それでも、やはり
サビの所へくると、それはもう聞くに絶えられないほどしんどそうで、ほぼ絶叫に
近いものがあった。
こんな具合に僕らの「ハードロック」への挑戦は始まったのだった。
福山も今まではベンチャーズばかりやっていた為、ギターのピッキング
ひとつにしても要領がかなり違う為、苦労していた。僕にしても
サイド・ギターなのだが、ベンチャーズ スタイルのカッティングとは
根本的に異なるため、所々リズムについてゆけない事があった。
それでも、練習の回を重ねる毎に段々とリズムも安定して全体的な
バランスもまあまあ聞ける様にはなってきた。文化祭のレパートリーと
してのもう一曲は、グランドファンク・レイルロードの
「アー・ユー・レディ」を演る事になった。 グランドファンクも
当時 「トリオ」のハードロック グループという事で、音楽界を
結構沸かしていたグループである。「アー・ユー・レディ」は、そんな
彼らの代表作でライブのものが圧巻である。 この曲では、僕はなんと
ベースを担当する事になった。 この曲を知っている人はわかると
思うのだが、レコードを聞くとベースがブンブンうなって、やけに
カッコ良いのだ。 ところが、僕はベースが好きなのだが、どうも
リスムには自信が無い為、この「乗り」についてゆくのが大変であった。
それに、レコードからなんとか音を拾おうと何回も聞いて試みたので
あるが、これがまたシンコペーションやら難しい事をやっており、
思う様には、なかなかゆかなかった。 仕方がないので今度は音楽雑誌に
載っているパート別の譜面でたまたま「アー・ユー・レディ」があったので
、しめたとばかりにベースのパートを練習した。しかし、経験のある
人はわかると思うのだが、譜面通りに音を拾っていってもなにか
違うのである。あの独特の「乗りの良さ」みたいなものが伝わって
こないのである。やはり「ロック」は譜面なんか見てやったら駄目だ、
「フィーリング」が大事なのだと、再度レコードを聞いて今度は
できる限り「乗り」をつかもうと何回もコピーを試みた。
そんな、こんなでレコードからと、譜面からとで、なんとか掴んだので
あるが、どうも「乗り」といった面では全く自信がなかった。
「アー・ユー・レディー」を僕らは何度も何度も練習した。
しかし、あのライブの独特な乗りを出す事は至難の技であった。
ドラムのタイトな乗りの良さ、ベースのうなる様なドライブ感、
ボーカルの独特のロック・フィーリング、全てが僕らの能力を
はるかに超えていた。 それでも、なんとか近いフィーリングを
出そうと僕らは必死になった。 その内、レコードの味とは程遠い
のだが、自分たちなりの味を実感として感じられる様になった。
簡単に言えば、自分たちの能力の範囲内でこの曲を自分たちなりに
消化したという事になると思う。
さて、いよいよ文化祭の本番の日を迎えた。それぞれの出演者達が
慌しく校内のあちこちを動き回っていた。午前中は授業があり、
文化祭は午後から始まる事になっていた。僕は4時間目の授業を
終えて教室で弁当を食べてから早足に体育館の上にあるハンド・ボール部
の部室へ向かった。途中、体育館への渡り廊下で当時の憧れの人で
あったハンド・ボール部女子のキャプテンの「万里ちゃん」と
出会った。彼女は僕と目があうと軽く微笑んで反対側の教室の方へ
急ぎ足で歩いて行った。万里ちゃんは髪が長くてスタイルの良い
どちらかと言えば、「和風美人」といった感じの子であった。僕は
一度だけ彼女を映画に誘った事がある。あれは、高校2年の冬だと
思ったが、断られるのを覚悟して僕の方から電話にて彼女を誘った。
予想に反して彼女はすんなりとOKの返事をしてくれた。あの時の
うれしさといったら、とても言葉では語れないほどであった。僕に
とっては女の娘と二人きりで映画に行くなんて事は生まれて初めての
出来事であったのだ。僕と万里ちゃんは地下鉄の千種駅で待ち合わせて
伏見にあった「ミリオン座」へ名作2本立てを見に行った。あの時の
万里ちゃんの上下白っぽい清楚な服装が今でも強く僕の脳裏に残って
いる。僕らは映画が終わっても特に会話が盛り上がるわけでもなく、
何となく過ごし、ただそれだけの事であった。僕はその事を決して
誰にも話しはしなかった。ほんのわずかな時間でも二人だけの時を
過ごせた事を自分の中に大切にしまっておきたかった。なんて書くと
野郎なのに純情な乙女心みたいと馬鹿にされそうだが、本当に僕は
自分で言うのも嫌なくらい純情であったのだ。結局、それ以来万里ちゃん
とは何も無く、僕はひたすらクラブとギターに熱中していた。
勿論、万里ちゃんに対する想いは変わる事はなかった。
そんな万里ちゃんとの「出来事」を思い出しながら僕は着替える為に
体育館の上にある部室へと向かった。
「ゴットン、遅いぞ。」
とハンド・ボール部で別のバンドを組んでいた井上が部室に入るやいなや
声をかけた。
「三田はまだ来ていないの?」
と僕は聞いた。
「あいつ、さっきまでいたんだけど、またどこかへ出ていったみたいだ。」
三田と井上はあと二人の部員と「ハンド・ボーズ」といったバンド名をつけて
同じく文化祭に出ることになっていた。彼らは、僕らが2年の時に演った
「ベンチャーズ」の曲を演る事になっていた。僕はジーパンとT-シャツに
着替えて上にトレーナーを着て井上に言った。
「俺たちのバンドは音楽室に集合する事になっているけど、お前たちは
どうするの?」
「俺たちは2組の教室に集まる事になっているけど、まだ孝夫と池部が
ここに顔を出していないんだよ。」
孝夫も池部も同じハンド・ボールの3年で孝夫はリード・ギターで池部はドラムを
担当していた。
「俺たちは音楽室で少し練習するつもりだけど、お前たちはどうする?」
と僕は井上に聞いた。
「他の連中はもうぶっつけ本番だと言っているけど、俺はどうしても不安
なんだ。 多分俺たちも後から音楽室へ行くから少し練習させてくれよ。」
と井上はずり落ちた黒ぶちの眼鏡を左手の人差し指で上げながら不安そうに
言った。 本番では彼らは僕らの楽器をそのまま使う事になっていた。従って、
練習も僕らが行う時に同時に行う必要があった。
「いいよ。それなら後から来いよ。俺たち先に行っているから。」
と言い残して僕は部室を出て音楽室へと向かった。学校内を普段着で歩き
回るのは、なんかすごく自由な感じになれて僕はすごく好きだった。
音楽室にはもう福山とみのちゃんが来ていた。ふたりとも既に
普段着に着替えてギターを持って一番前の机の上に座って「長い夜」の
アドリブの箇所を練習していた。福山はいわゆる「ベルボトム」のジーンズに
花柄のシャツの上にベストを着込んでいた。みのちゃんは、やはり
ベルボトムのジーンズに薄手のセーターといった服装であった。
「おー、ゴットン遅いじゃん、わかも今野もまだ来ないし、わしら二人で
あせっとるところだ。」
「わるい、わるい、4時間目が終わってから、ハンドの顧問の吉田に
捕まっちまってさあ、そいで昼飯食べるのが遅れちまって。あっ、そうそう
井上たちが後からやらしてくれと言ってたよ。」
「おい、あいつら大丈夫か? 孝夫なんか全然指が動かんと言ってたよ。」
とみのちゃんが言った。そんな話をしていると、わかと今野がやってきた。
「おっ、諸君やっとるね。いよいよ、わしらのデビューの時がきたのう。」
と相変わらず、ふざけた調子で今野が言った。
「おい、今野、いい物をみんなに見せてやれよ。」
とわかが今野に言った。 すると今野は手に隠し持っていた物を
みんなの前に出して見せた。それは、金髪の女物のかつら、いやいや
ヘア・ピースであった。
「今野、それどうするの? お前、女装でもするのか?」
と福山が聞いた。
「違うよ、わしら今日はロックを演るんだろう? だったら雰囲気だけでも
出さなくちゃと思ってこれを持ってきたんじゃないか。」
と言って今野はそれをすっぽりと被ってみせた。今野が結構真剣なので、
みんな笑いをこらえていた。
僕らは音楽室で演奏曲の2曲を一通り通してやってみた。ドラムは
既に体育館に設置してあったので、わかはスティックで机をたたいての
練習であった。ギターとベースは練習用の小型アンプを使って行った。
ひとつの小さなアンプでギターとベースをつないだので、途中で音が
ひずんで大変聞き辛いサウンドとなった。
「まあ、こんなもんじゃないか?」
とわかが言ってみんな納得した様な顔をしていた。
僕たちが2-3回練習した後、三田や井上たちの「ハンド・ボーズ」の
面々がやってきた。彼らも同じ様な形でざっと2-3回練習を行い
最後には三田が、
「もう、どうにでもなれだ。俺、ひょっとして舞台に上がったら、コードを
全部忘れてしまうかもしれんが、もしそうなったら許してくれ。」
とおどけた調子で言った。そうこうしている内に、文化祭開始の時間と
なったので、僕らはぞろぞろと体育館へと向かった。
体育館には既にほとんどの生徒達が集まっており、前の方から順番に
腰をおろして座っていた。やがて開幕のスピーチがあり、最初に生徒会長からの
簡単な挨拶があった。まあ、どこの学校でも同じなのだが、この手の
挨拶はほとんどの生徒が聞いていない。その内、あちこちから野次が
飛ぶようになる。「引っ込め! 早く始めろ!」
そんな野次にもめげずに5分ほどスピーチを続けて生徒会長は舞台を
下りた。最初は1年生の女子のフォーク・グループで「PPM」(ピーター
ポール・アンド・マリー)の名曲「パフ」を演奏した。女の娘にしては
ギターのスリー・フィンガー奏法が上手でコーラスもまあまあで、なかなか
良かった。段々と出番が近づくにつれて、胸がどきどきしてきて緊張感が
高まってきた。僕らの3-4番前に2年生のバンドで同じくロックを
演奏する奴らがいた。彼らの演奏は今まで聞いた事がなかったので、
僕らは興味津々の面持ちで演奏を聞いた。なんと、彼らはLED・
ZEPPELINの確か2枚目のアルバムに入っていたと思うが「モビー・
ディック」ともう1曲は何であったか忘れたが2曲を演奏した。
聞いているうちに、僕らの中に「あせり」が出てきてお互い顔を
見合わせた。実に彼らの演奏は上手かったのである。特に「モビー・
ディック」などは、レコードと同じ様な、あのジミー・ページの
ギターの音を出していたのである。彼らの演奏を食い入る様に見ていた
福山の顔にも明らかに、あせりの色が出ていた。僕らのバンドと
彼らのバンドとの大きな違いは、バンドが持つ言わば「雰囲気」みたいな
ものであった。彼らの持つ雰囲気は、ロックを演奏するにふさわしい
一種独特の雰囲気があった。どこかに「反体制」の色が感じられ、どこかに
「不良性」の色が感じられた。一口に言えば、悔しいが、カッコ良かった
のである。彼らの演奏が終わると福山が、
「たいしたことないじゃん。」
と言ったが、僕はそれが彼のあせりを隠す為のせりふである事は知っていた。
僕らの出番の二バンド前に舞台裏へ回って準備をした。僕らのすぐ前が
丁度「ハンド・ボーズ」の出番であったので、既に三田、井上、池部
それに孝夫の面々が顔を揃えていた。彼らの顔には明らかに
緊張感が漂っていた。リード・ギターの孝夫が、
「おい、やっぱり指が動かないよ」
と言えば、今度は三田が、
「孝夫、パイプラインのサビの所の最初のコードは何だったっけ?」
てな具合にとてもこれから本番を迎えるバンドとは思えなかった。
彼らにしてみれば、こうやって文化祭に参加する事に意義があって
途中で間違えることに対してはあまり気にしていない様であった。
それは、それでなかなか“立派なポリシー”を持って彼らは参加して
いたのだ。それでも、やはり出番前には緊張するというのは面白い。
僕らは「ハンド・ボーズ」の演奏を舞台の袖から見た。孝夫が慎重な
面持ちで「パイプライン」のイントロを弾き始めた。途中でサイドギター
のストロークが入る部分でボリュームが大きすぎたので、三田が
照れ臭そうにベロを出して笑った。その音があまりにも大きかったので
客席からも笑いが聞こえた。そんなイントロ部分での失敗でみんなの
緊張感が解けたのか、彼らはパイプラインを結構リラックスして演奏した。
途中で少しリズムがもたついたが、まあまあの演奏であった。僕は正直言って
あそこまで孝夫が出来るとは孝夫に失礼であるが思わなかった。
なにしろ最初は、Fのコードも押さえられなかったのだ。三田にしても
同じでギターを始めてから、ほんの数ヶ月しか経っていない。
三田と僕と家が近いのでよく家に遊びに来ては僕のギターを
弾いていた。池部にしても、井上にしても僕らがバンドを組んで
演奏しているのに影響されて楽器を始めたのであった。そんな事を
感心しているうちに彼ら「ハンド・ボーズ」の演奏が終わった。
彼らは全員満足そうな顔をして舞台の袖へと下りてきた。
「おい、どうだった? わしらの演奏?」
と三田が大きな声を出して聞いた。
「お前ら結構やるじゃん、俺はてっきり、途中でメロメロになって
投げ出してしまうのじゃないかと思っていたよ。」
とわかが大きな目をさらに大きくして言った。
「最初の三田の音には聞いている方もさすがにあせったけれど、
まとまってたぜ。」
と福山が三田からギターを受け取りながら言った。
「いかん、おい、俺たち行かなきゃ。」
みのちゃんが大きな声を出した。
僕らは小走りで幕が下りている舞台の上に上がった。幕の向こうの
聴衆のざわめきが妙にはっきりと聞こえる。しかし、不思議な事に
さきほどまでの緊張感がいざ舞台に上がって幕の向こうのざわめきを
聞いているうちに、やわらいできた。それぞれが各自のチューニングを
済ませると今野が舞台の袖にいた進行係の2年生の男子に合図を送った。
その後すぐに同じく進行係のアナウンスの女子の声で、
「次は3年生男子 サリドマイズの皆さんの演奏で“長い夜”と
“アー・ユー・レディー”です。」
とのアナウンスが流れると同時に目の前の幕が上がっていった。
幕の向こうの生徒たちの顔が下の方から見えてくるのと同時に大きな
拍手、それに野次にも似た応援の言葉が次から次へと聞こえてきた。
「今野君すてき!」
「福山君、カッコいい!」
「ゴットン、足が短いぞ!」
予想以上の盛り上がりに僕たちの緊張感も、かなり和らいでいた。
今野のヘア・ピースを被った異様な格好も生徒たちの笑いを誘うのには
十分な演出であった。 僕らはお互い目で合図を送りドラムのわかが
カウントを取った。わかは スティックを叩きながら、
「ワン、ツー、スリー、 フォー」
と大きな声でカウントを取ると福山と僕があの「長い夜」のイントロに
入っていった。 レコードではブラス・セクションが入ってくる
パートを福山がギターで弾いた。ブラスの迫力に及ぶ事は難しいが
福山は一生懸命それに近づけようと練習したのであった。
A-マイナーから下りてくる循環コードを刻むサイド・ギターの
僕の手は汗で次第に濡れてきた。 イントロから今野のボーカルへと
入っていった。 今野はヘア・ピースの髪を振り乱しながら、かなり
力を入れて歌っている。サビの部分はさすがに苦しそうだ。それでも
マイクを握り締め、顔を真っ赤にして必死になって歌っている。
そんな今野を見て僕とみのちゃんが顔を見合わせて笑った。間奏では
福山がファズをかなりかけた音でテリー・カスのフレーズを再現した。
わかはリズムを狂わせないようにと一生懸命に頑張っている。額には
大粒の汗が光っていた。みのちゃんは、確実にベースの音を刻みながら
彼の存在そのものの様に、ここでも「縁の下の力持ち」的な役割を
地道にこなしていた。僕は自分でもギターを弾きながら、みんなが
一生懸命に演奏しているのを聞いていて、熱いものがこみあげてきた。
こんなに一生懸命に演奏できる自分たちがとても素敵に思えたし、
こんなにいい奴らと演奏できる事が嬉しかった。演奏の上手い、下手は
もうどうでもよい事であった。
「長い夜」が終わって客席からの拍手で我に帰った。 2曲目の
「アー・ユー・レディ」の前に僕はみのちゃんと楽器を取り替えた。
この曲では僕がベースを担当する事になっていた。 わかの
「ワン、ツー」のカウントと同時に曲が始まった。この曲は前にも
書いたが、ドラムとベースのシンコペーションが入ったリズム取りが
難しく、わかも僕もかなり苦労をした。 特に僕はリズムにはあまり自信が
ない為、かなり手ごわい曲であった。 しかし、どうして僕がこの曲だけ
ベースを弾く事になったのであろうと思い出そうとしたが、どうも
思い出せない。みのちゃんが、やりたくないと言ったのか、それとも
僕がやらせて欲しいと言ったのか、まあどうでもよい事であるが、思い
出せない。 「アー・ユー・レディ」が始まって困ったのは、自分の音が
良く聞こえなかった事だ。福山はギターとアンプのトレブルを一杯に
上げて弾いているし、わかは思いっきり叩いているし、みのちゃんも
かなりトレブルを上げてリズムを刻んでいる。最近ではベースにも色々と
エフェクターを駆使して多種多様の音作りをしているが、当時はベースには
あまりエフェクターは使わなかった。周りが「ギンギン」の音の中で
僕のベースの音だけが、間が抜けた様に「モコモコ」していた。途中で
曲のペースが遅くなってしまったが、なんとか「アー・ユー・レディ」を
演奏し終えた。今まで頭の中でギンギンと響いていた高音が耳元にこびり
ついたまま、客席からの拍手を聞いていた。僕は無意識のうちに客席に
万理ちゃんの顔を探していた。しかし、広い体育館のしかも大勢の顔の中から
一人の顔を探すのは大変な事であり結局万理ちゃんを見つけることは
出来なかった。
舞台の袖に下りた僕らはお互いに握手を交わして緊張の後の心地よい
疲労感を味わっていた。バンドをやっている者にとっては、なんとも言えない
ひと時で、この心地よい疲労感と開放感を味わう為にバンドを続けていると
いっても過言ではない様に思う。
「おい、「長い夜」はのったなあ。」
と今野が ヘア・ピースをつけたままでみんなに向かって言った。
「今野のボーカルは今日が一番良かったんじゃないか?」
わかが額の汗を拭いながら言った。その言葉に僕とみのちゃんが相槌を
うった。確かに今日の今野のボーカルにはいつも以上のパワーがあった。
苦しそうに歌っていたところもあったが、そんな事も全然苦にならないほど
入れ込んで歌っていた。僕は、ふと福山がいない事に気がつき、
「おい、福山は何処に行った?」
とみんなに聞いた。
「トイレにでも行ったんじゃないか」
みのちゃんがベースをタオルで拭きながら言った。 しかし、暫くしても
福山は戻って来ないのでさすがにみんな心配になり、
「おかしいな、ちょっと捜してくるか」
とわかと今野が体育館を出て行った。
僕とみのちゃんも二人で探しに出て行った。最初、三年生の教室を全部
探してみたが、どこにも福山はいなかった。途中でわかと今野に出会ったが
彼らもまだ見つけていなかった。その時、みのちゃんが、
「ひょっとして、あいつ音楽室に行っているんじゃないか?」
と言ったので、みんなで音楽室へ行ってみた。するとそこには福山が本番前に
練習をしていたアンプに自分のギターをつないで「ダイアモンド・ヘッド」を
弾いていた。
「おい、福山、何やっとるんだ? みんなで心配して捜しとったんだぞ。」
今野が僕らを代表するみたいに言った。
「悪い、悪い、何か本番終わったら無性に虚しくなっちまって、急に
ギターが弾きたくなったんだよ。こうやってギターを弾いていると
落ち着くんだ。 みんなさあ、淋しくないか? これで俺たち、もう
こうやってみんなでバンドをやれる事もあまりなくなっちまうんだぜ。
これからは、みんな受験の準備で忙しくなっちまうしなあ。今日の
演奏は本当に良かったと思うもんな。俺、今日演奏していて本当に
ギターやってて良かったと思ったし、バンドやってて良かったとつくづく
思った。」
福山もさっき僕が舞台の上で演奏中に感じていた事と同じ事を感じて
いたのだ。
「俺、正直言って、最初わかやゴットンから今年の文化祭はシカゴや
グランド・ファンクをやらないかと言われた時は、あまり乗り気じゃ
なかったんだ。 俺自身にも全く自信が無かったし、今までと違う事を
やる事に対しても自信がなかったんだ。 だけど、さっき舞台の上で演奏
していた時、自分が間違っていた事に気がついたんだ。俺は、自分の
枠の中だけで考えたり行動したりで、そこから出る事は考えようとしなかったし、
そうするのが怖かったんだ。」
「福山、それは誰でも同じだ。自分のスタイルみたいなものに、こだわり
続ける事も悪くはないと思うよ。ただ、そこから一度抜け出て違う事を
経験してみたり、見てみたりする事が時には必要なんじゃないかな。
と言っている俺もまだそれが出来ないんだけどね。」
と僕が自分の意見を素直に言った。
「おい、おい、そんな難しい話どうでもいいじゃん。とにかく今日の
演奏はやっていて楽しかったし、充実していた。それでいいんじゃないの?」
と今野が彼らしい発言をした。
「福山は、もうこんな風にしてみんなで集まって演奏できる事もこの先
あまり無くなってしまうし、それが淋しいという事が一番言いたいのだと
思う。俺も全く同感だよ。」
と、わかが言った。
「これから受験までは、あまり練習も出来ないかもしれないけど、卒業して
大学は入ったらまた集まってやろうぜ。」
みのちゃんが、みんなに訴える様に言った。 僕を含めて他のみんなも
福山と同じ様に、淋しい気持ちであった事は確かのはずだ。みのちゃんは
卒業してからも続けようと言ったけど、みんなの心のどこかには、もう同じ
様には出来ないだろうな、といった気持ちもあったと思う。事実、僕は
思っていた。だからこそ福山が感じていた様に、みんな淋しい気持ちになって
いたのだ。
こうして高校生活最後の文化祭も終わり、「祭りのあとの寂しさ」を感じる余裕もなく
僕らは受験までの慌ただしい日々に突入していった訳である。クラブの方も秋の試合を
最後に事実上「引退」となった。愛しのレイラではなく「愛しの万理ちゃん」とも あれ以来何もなく、僕の万理ちゃん熱も徐々に冷めていった様だ。バンドは全員が集まって
練習する事はなかったが、たまに僕とかみのちゃんとかがそれぞれの家に遊びに行った
時などにギターを弾いてセッションを楽しむくらいであった。
高校三年間はこうして音楽とクラブと万理ちゃんで明け暮れてあっという間に過ぎてしまった。しかし、中学、高校とで養われていった音楽への情熱は止むことなく、それから先の大学生活においてもエスカレートしていった。
僕らの熱き日々 (Part 1-高校編)