u‐0 其二~学生編~
※この物語はフィクションです。実在する人物・団体とは一切関係ありません。
殺人――それは、奪う行為ではない。
人の状態を、変化させる行為である。
†
……聞こえる。迫ってくる。この、二〇四号室に近づいてくる気配。真っ黒に染まる、不穏な空の下に。
「まだ……ッ、ダメ……!」
グサリ、と、容赦なく鍵穴の埋まる音がする。そしてノブが回り、そのドアが徐々に開いていく。彼が、帰ってきてしまった。
「ん~、ただいまァ」
まだ部屋の飾りつけが終わっていなかったが、そんなことよりも、まずは祝福する気持ちが大切だ。幽霊は色紙で出来た作りかけの鎖を床に置き、玄関口で顔を赤くしてふらふらになっている与式の方へ歩みを進め、こう言った。
「与式くん、誕生日おめでとう!」
本日、七月三〇日は、居上与式の誕生日だった。大学一年生の与式は、今夏二二歳となったのである。帰ってきた様子を見ると、大学の仲間を誘って――否、誘われて祝宴でもしていたのだろう。幽霊は、およそ教え子に対するような温かい眼差しで与式を見ていた。ところで、与式の誕生日を幽霊が知ったのは、数週間ほど前の日曜である。
†
七月一一日の昼下がり。まだ夏本番とは言わずとも、その猛暑は例年通りに日本列島を茹だらせていた。それは決して、幽霊在住のアパート『東雲荘』とて例外ではない。摩れた畳が六枚敷かれ、西向きの窓枠に太陽の近づく二〇四号室の机に向かい、脚を組んで、青インクのボールペンを力なく握っているのは与式だ。そして、本日何度目か分からない溜息を吐いた末、怠惰に染まった言霊を一つ吐き出す。
「はぁ~。働くの、めんどくせーなぁ」
こういうのがいるから、日本の将来は危ぶまれる。そのうえ、昨年開催された東京オリンピックによっても、国民は未だお祭り気分でいる。そろそろ気を引き締めてもらいたいものだ。
「与式くん。三浪してやっと入学したんだから、少しでも働いて稼がなきゃダメだよ。ほら、与式くんは沢山本も読むし、せめて家賃と読書代くらいは……」
今まで部屋の隅で大人しく浮遊していた幽霊も、ちょっと気になって与式に近づいてきた。
「うるせーってば。つか、今履歴書書いてんだけど、これ、読めるかな幽霊さん?」
幽霊は与式の腹を貫通し、机を覗き込んだ。もちろん、今は物理的影響を受けない『霊態』である。
「そうだね、んーっと……」
氏名、生年月日、現住所、学歴……と目を走らせる。なるほど、これは中々芸術的な文字列である。
「もう少し、綺麗な方がいいんじゃないかなっ」
その微笑みには、彼女が纏う純白の布に相対する色が垣間見えた。というよりも、悪意なき鋭利さというか、ちょっとした天然らしさが窺い知れると言った方が適当かも知れない。
「はぁ……。……めんどくせーめんどくせーめんどくせーよッ‼」
「……ほらっ、与式くん。頑張って!」
心底面倒臭がる面倒な与式に対し、幽霊はその細く白い手を胸の前で握り、軽く振って声援を送った――。
――後に与式は無事、都内のピザ屋にて働くこととなった。居上与式の、人生で最初の就職である。
†
「与式くん、誕生日おめでとう!」
二〇四号室の玄関口で、幽霊は与式を祝福した。もっとも、与式は既に泥酔しているため、幽霊の姿こそ視界に映っているものの、彼女の発する言葉を脳で解析するまでの思考能力は残っているはずもなく、ただ唸っているのみである。幽霊は少し心配がって、与式を部屋の中へ入れようとした。すると――
「居上! 大丈夫かッ、すぐ救援に向かう!」
「居上先輩、そんなに急がないで、ください。危ないですよ……ッ」
与式に続いて、男女二人が凄まじい勢いで外階段を駆け上がってきた。油で揚げたような顔をした男の方は、にやにやとした表情を浮かべながら軽快そうに駆けつけ、その後ろから、乳白の美しい髪を胸辺りまで伸ばした女が肩で息をしつつ手摺にしがみついて登ってきた。そこでやっと、与式の意識は覚醒した。
「んぁ。あー紅くん、東雲も。お疲れ様ァ……」
彼らは、今晩の与式の誕生会に出席してくれた二人であった。男の名は紅騨一といって、与式とは別の大学の四年生だ。実は高校時代、与式の同級生であり、当時からの縁で今回の誕生会を催してくれた張本人である。
「とんだ酔っ払いだな。明日風ちゃん、ごめんねこんな奴の誕生会になんか呼んじゃって……あはは」
紅は与式に罵りの言葉を送り、ついてきた女に申し訳なさそうな顔をして詫びた。
「いえ、居上先輩は面白くて、とても興味深いですから。招待していただいて嬉しかったです」
悪趣味――ではないが、少々変わり者のこの女の名は東雲明日風である。本日の与式誕生会には紅から誘われてやってきたのだが、最近の与式については彼女の方が暫し明るい。何故なら、彼女は与式と同じ大学、同じ学部、同じ学科の同じサークルに所属している、現役合格の大学一年生だからだ。それに加え、明日風はこの東雲荘の管理人の娘ということもあって、やっとのこと働き出した与式の給料から家賃を回収する役割も担っているから関わりは深い方である。
「本当かい? 居上め末永く爆発してしまえ……」
就活に追われる紅には、二次元の嫁がいるが三次元の彼女はいない。
「……あァん? 変なこと言うなよな紅くん。東雲が嫌がるだろ」
「いやだがしかしだね君。ここまで運命的な親密さを以てして何もないなんてことは――」
「アニメの見過ぎだよ」
そんな与式の言葉を追い越すように、明日風が口を開いた。恐る恐る、そっと。
「でも……居上先輩も、なかなかの二次元好きでは……?」
「! そッ、そそ、そんなのは昔の話だって! まあ、いいから……ッ、ちょっと上がってけよ。飲み物くらいは、出すからよー」
昔話の復活に恐れをなした与式は、その話題を再封印し、二人を二〇四号室へ招いた――が、
「ッ……!」
玄関から中に入ろうとするや否や、そこには、いつまで待たせるの? と言わんばかりに眉根を寄せた幽霊が立っていた。そして一言、
「誕生日、おめでとう……」
と言った。
「……あ、おう、ありがと、幽霊さん。ちょっと、入るよ」
与式は、他の二人の耳に届かないくらいの声で囁いた。無論、二人には幽霊が見えていないから、である。
「どうした居上? ぶつぶつ何言ってんだ? まだ酔ってんなら、部屋入って水でも飲むこったな」
「居上先輩、気を付けた方がいいですよ……」
否、実は少し聞こえていたらしい。
「い、いや、何でもねぇって。ほら、入れよ、二人とも」
そそくさと、与式は紅と明日風を招き入れた。
もう夜は十分に更けていた。一畳ほどの廊下を過ぎると、独り暮らしの与式の六畳間は色紙やら厚紙などで綺麗に飾り付けられている様子だった。
「い、居上……まさか一人で誕生パーティーしようとでも思ってたのか……?」
恐らく、普通の人間にはそう考えられるのだろう。しかし、真相はやはり彼女の仕業だった。
「……いやっその、えーと……。…………幽霊さんっ、なんでこんなこと――。ていうかこれ、何処で手に入れたんだ?」
与式にも覚えのないことなら、これは間違いなく幽霊の手によって行われた一種の心霊現象であると睨み、与式は問うた。すると、こう返ってきた。
「……生きている人の、生まれた日を、お祝いしたかったんだ……。私みたいな幽霊にとって、積み重なる時間には何の意味も、価値もない。でも、生きている人の時間はすごく大事なものだから。私はその想いを、与式くんに送りたかった……。だから、ちょっとこういうの、したくなっちゃって……ね」
今宵、黒に塗り潰された空に包まれたこの町の、夏の虫の音の静かに鳴る部屋の中で、与式だけがしんみりとした心持になっていた。幽霊の言葉には、やはり、重みというか厚みというか、そういったものが感じ取れた。それが彼女の端麗さを一層に引き立てているのではないかと疑ってしまうほど、時折幽霊の言葉からは、およそ無間地獄のような果てしない深さを感じた。
「そうなのか……。なんか、ごめん。ありがとう、幽霊さん……」
与式は、単純に嬉しかったのかも知れない。それは死者に生誕を祝福されたから、という理由でもなく、ただ単に、自分のことを想ってやってくれたのだというだけで、彼女に底知れぬ感謝と、強い好意を抱かせたのだ。
「ん、気にしないで。私が好きでしたことだから。あと……二人待たせといていいの? また変に思われちゃうよ?」
そういえば、と思って、急いで冷蔵庫に走った。水道でグラスを軽く濯ぎ、氷を詰め込んで珈琲を注いだ。
「んっ……んっ…………、ッ! ふぁ……」
与式御手製の絶妙に冷えたアイス珈琲は、晩夏の喉にとっては至福そのものであった。明日風はその心地良さのあまり、グラスに挿したストローを咥え、勢いよく、一気に飲み干してしまった。
「って、明日風ちゃん。そんなに焦って飲まなくてもいいのに。あんまり一気に飲むと噎せちゃうよ?」
与式、紅、明日風、そして幽霊は、狭い六畳間で小さな卓袱台を囲み寛いでいた。前述の通り、もう夜はすっかり更けて、幽霊の活動が活発になるといわれるくらいの時刻であったが、何とはなしに、与式の部屋には退出せしめぬ和やかな空気が流れていた。会話の中身は、本日の誕生会の振り返りやら、紅の就活のこと、明日風に『先輩』と呼ばれると、浪人したとバレてしまうことなど、実に他愛もない話題を飛び交わせているうちに、グラスの氷も融け、まるで風穴が開いたかのように、次第に暑さも退いていった。
「さてさてさーて、突然で申し訳ないんだが、次の土曜に予定はないかい?」
唐突に、紅が話題を動かした。
「それっていつだ……? えっと…………八月の……七日か」
「多分その日なら、一日空いていたと思います……」
与式の休日に多忙な日は滅多にない。与式も明日風も、その日は自由なようだ。そうと分かると、紅は気分を高揚させて話を続けた。
「良かった! いやぁ実はその日、夏祭りがあるんだがね。折角行くことにしたんだが如何せん連れがいなくてさ! あははははははははは!」
「いやただのアホじゃねーか……」
そんな与式の鋭い指摘も届かず、彼は更に喋り続けた。
「それでさっ、もし良ければなんだけど、明日風ちゃんと……あとッ、えっと居上と三人で一緒に行けたらなぁ……なんて思っているんだけど、どうっすかね?」
「今、俺のこと忘れて……」
与式から更なる指摘が入る。明日風はというと、
「私は、構いませんよ。居上さんと縁日とか花火とか、楽しそうですし」
完全に、好意のヴェクトルが噛み合っていない。
「あ、そ、そう……明日風ちゃん。なら良かったよ」
若干の哀しみを味わったものの、それはそれで楽しめそうだから、紅も難色は示さなかった。まあそもそも、誘った側が途中で断るというのもしにくいだろうが。
「よし。じゃあ、詳しい時間とかは明日にでも居上に連絡しとくから、明日風ちゃんには居上から伝えておいてくれっ」
そう言うと、紅は帰り支度を始めた。
「お、おう。了解」
「承知しました」
こうして、八月七日の予定は埋められた。夏祭り――与式には久しぶりのことだったから、その面持とは裏腹に、内心少年のような期待を胸に膨らませていた。そんなことを考えているうちに、紅はもう玄関の方まで進んでいた。
「んじゃ、俺はこれにてさらば。明日風ちゃんは……もう暗いけど大丈夫? 家まで送っていこうか?」
実はこの心配、少し的が外れていたらしい。
「あ、いえ、私は東雲荘の管理人室もありますから。今夜は、そこで寝ます」
明日風は、東雲荘の管理人も同然なのである。
「そっか、じゃあ俺は帰るね!」
そして、紅は外階段へ向かって歩き出した。
「おやすみ~!」
「おやすみなさい」
「おやすみー」
「――ねぇ、与式くん」
「うわァ‼」
紅を目で見送り終えた直後、不意に背後から、耳元に囁かれた。自分の部屋に人を呼ぶことはあまりないためか、〝見えていない聞こえていない振り〟には慣れていない。幽霊は、この部屋からは出られないのだから。
「ったく……、びっくりするだろ…………。あ、ほら、東雲も。今日はもう遅いから、早く帰って寝ちゃった方がいいと思うぞ」
幸い、明日風は与式の挙動不審を気にしてはいない様子だった。ようやくテンション暴走野郎が失せてくれたから、二人でゆっくり話もしたかったのだが、誕生会からこの時間までずっと年上と同行していたのだ。きっと相当疲れてしまっているだろう。今夜は――もう朝までそんなに時間はないものの、少しでも休ませてあげたいと思った。与式には、これから心霊誕生会も残っていることだろうし。
「……いえ。その……、実はここ、管理人室って言っても、寝るとこないんです……」
回答は、あまりに意外であった。
「え……? じ、じゃあ家まで送った方がいいか」
東雲荘に寝室がないのなら仕方ない。若干の疲労は溜まっているが、この深夜に一九の女性を一人で歩かせる訳にもいかない。だが、明日風は更に与式を驚かせることとなった。
「今日は、泊まっていっても、いいでしょうか……」
「……は……い?」
与式は今、呆然という言葉の神髄を感じ取っている。
「も、勿論、ご迷惑でしたら、構いませんが……」
明日風は眼の光を失わせて呟いた。与式はどうしたら良いのか分からなかった。そもそも、それは夜道を一人歩きさせるのよりも不味いことではないだろうか。
「別に、大丈夫……だけど……」
とはいえ、やはり了承せざるを得なかった。
「あ、でもウチ風呂ないから――」
「知ってますよ」
確かにそうだった。彼女は管理人さんである。
「ま、まあ、ならいいけど……」
結局、泊まらせることになってしまった。このことは、紅には秘密にしておいた方が良さそうである。今、明日風は洗面台にて貌を冷たい水で洗い、与式は六畳間の卓袱台を立てて隅に寄せ、明日風のために自らの布団を敷いている。何でも、管理人室には彼女が昔着ていた寝間着が偶然置いてあったらしく、そこで着替えだけは済ませてきたと言っていた。
「っよし、これでいいか」
いつもより神経質にシーツを敷き終え、一息ついた。
「なんか、今夜はいろいろ準備してくれてたみたいなのにごめん、幽霊さん。後、あんまり話せないし……」
幽霊の見えない第三者の前では、どうしても堂々と話すことができない。
「大丈夫だよ。与式くんが寝るときは、押入れに入ってるから」
「座布団でも使う? ……あ、浮かんでればいっか」
霊態であれば、横になっていても自然と浮遊できるはずである。
「うん。それに、私は普段眠らないんだよ」
と言うならば、与式が睡眠を取っているときにいつも起きていたということになる。どうしてか、与式は思わず目を泳がせた。
「大丈夫だってば。別に覗いたりなんかしてない……から」
その〝間〟に与式は益々心配になった。
「あ、そうだ。そういやさっき訊きそびれちゃったんだけどさ。あの飾りとかって、何処にあったんだよ? 俺の部屋にあんな紙なかったと思うんだけど……」
そこで、先程から気になっていたことをふと思い出し、やっと訊ねることができた。
「えーっと、それは、ちょっとお隣から…………」
どうやら、諸々の装飾品は隣の部屋から掠め取ってきたものだったらしい。そもそも、この間は屋根の上で眠っていたのだから、このアパートの中なら、地縛霊といえど案外自由に動き回れるようだ。
「あんま、派手にやんなよな……。まあにしても、祝ってくれたのは嬉し……かったよ。改めて……その、ありがとう」
「うんっ、どういたしまして。それじゃ、おやすみなさい、与式くん。……ごゆっくり」
そう言って、幽霊は襖を透き通って押入れの中へ浸入していった。
「…………馬鹿野郎」
まもなくして明日風がやってきた。偶然発見された昔の寝間着は、現在の成長した彼女の躰には少しきついようで、与式は少々目のやり場に困った。
「やっぱり、ちょっと小さかったみたいです」
「……そうみたいだね」
本人から言及されると尚更である。
「あ、じゃあ、俺も……いや、俺は押入れの方で寝るから、何かあったら起こして――」
「傍に、いてくれませんか?」
与式の言葉はその途中で遮られ、代わりに明日風が声を発した。
「泊めてもらっている私が丸ごと使うというのも居上さんに申し訳ないですし、どうぞ、この部屋で眠ってください」
「……そ、そうか」
もっとも、暗い押入れよりかは畳の方が幾分かましである。狭い部屋であるため、明日風の寝る布団のすぐ隣に座布団を敷き、それを枕にして眠ることにした。今宵、夏の虫の音の静かに鳴る部屋の中で、明日風の可愛らしい寝息が耳を撫でていた。少し、涼しい夜であった。
それでも、暗闇に見える押入れの襖の隙間が、なかなか与式を寝かせてはくれなかったのだが――。
(其三へ続く)
u‐0 其二~学生編~
初めまして! の方も多いかも知れませんが……其一から読んでいただいている方にはお久しぶりです。君代紅圓であります。
さて少し作品の話をすると、今回は新たに二人の人物が登場しました。紅くんと、東雲さん(作者は明日風ではなく、こう呼んでいます)です。紅くんはまあ、なかなかイイ味出してますよね(笑)。東雲さんの方ですが、其一の幽霊さんと同様、少しでも可愛いなと思っていただけたなら光栄です。
今回は幽霊さんの過去調査など、物語としては大きな進展が書けませんでしたが、みなさん! 次回ですよ、次回。其三は、この作品に革命が起こり……ます。乞うご期待!
そして、今回も最後まで読んでくださり本当にありがとうございました。これからも、是非u‐0をお楽しみください。
それでは、次は……夏くらいですかね。その頃にお会いしましょう。